リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

 愛する人の美しい顔が傷つけられたとき、その人の昔の姿を守るために、自分の目を失うことを選ぶ人間がいるだろうか。谷崎潤一郎の『春琴抄』には、まさにそのような出来事が描かれている。盲目の琴三味線の師匠、春琴に長年仕えてきた佐助は、何者かに熱湯を浴びせられた春琴の顔が大きく傷ついた後、自ら縫い針で両眼を突き、視力を失う。それは春琴と同じ盲目の世界に入ろうとする行為であると同時に、傷つく以前の美しい春琴の姿を、自分の記憶の中にとどめようとする選択でもあった。

 普通なら、記憶とは過ぎ去った出来事を保存するものであり、欲望とはまだ手に入れていないものを求める働きだと考えるだろう。しかし、谷崎の小説では、この2つを明確に分けることが難しい。人はかつて愛したものを思い出すだけでは満足せず、その面影を現在の現実よりも美しいものとして育て、時には現実そのものを記憶に従わせようとする。さらに不思議なのは、実際にはほとんど知らない相手や、まだ経験していない未来の生活にまで、どこか懐かしいものを感じ取ることである。

 なぜ谷崎の登場人物たちは、目の前にある現実よりも、心の奥に残された面影に強く引き寄せられるのだろうか。その疑問を追っていくと、谷崎文学に描かれる欲望とは、単に異性の肉体や美貌を求めることではなく、失われた時間を取り戻し、自分が望む形に作り替えようとする、人間のもっと根深い営みであることが見えてくる。

夢の中の母親は、なぜ2つの顔を持っていたのか

 1919年に発表された『母を恋うる記』は、記憶と欲望の関係を考えるうえで重要な作品である。物語は、幼い少年となった語り手が、不思議な明るさに包まれた松並木の道を歩いていく幻想的な場面から始まる。湿った潮風が吹き、遠くから海鳴りが重く響き、道の周囲には暗い沼や枯れかかった蓮が広がっている。少年は日本橋での豊かな生活を失い、家族とともに貧しい暮らしへ移ったと思い込んでいるが、その道をどこまで歩いても、安心して帰れる場所にはたどり着かない。

 やがて少年は、明かりのともる農家を見つける。そこには、かまどの前で火を吹く年老いた女性がいた。少年はその後ろ姿を自分の母親だと思い、喜んで声をかける。しかし、女性は少年を自分の息子とは認めない。長い間、帰ってくる息子を待っているものの、目の前の少年は自分の息子ではないと言うのである。少年は戸惑いながらも、こんなに年を取った女性が自分の母親であるはずはないと考え、再び道を歩き始める。

 この場面は、単に人違いをしたという出来事では片づけられない。少年は温かな食事と母親のいたわりを期待して農家へ近づいたが、そこにいた女性は老いと貧しさを身にまとい、少年が思い描く母親の姿とは一致しなかった。さらに、女性の側からも息子であることを否定されるため、母を求める願いは、満たされるどころか、いっそう切実なものになっていく。自分を受け入れてくれるはずの母親が、自分を知らないと言うのである。

 その後、少年は月明かりの浜辺に近い道で、三味線を弾きながら歩く若い女性を見つける。どこからともなく聞こえてくる三味線の音は、かつて日本橋で暮らしていた頃、乳母に抱かれて耳にした新内節の記憶を呼び起こす。少年は若い女性の美しい後ろ姿に引き寄せられ、やがてその女性が自分の母親であることを知る。そして物語の最後で目を覚ました語り手は、すでに34歳になっており、母親が一昨年の夏に亡くなっていることを明らかにする。

 ここで重要なのは、夢の中に老いた母親のような女性と、若く美しい母親という、対照的な2つの姿が現れることである。年老いた女性は少年を拒み、若い母親との再会は失われた親密さへの憧れを満たす方向へ物語を導く。もっとも、この2人を単純に現実の母親と理想の母親に対応させることはできない。どちらも夢の内部に現れる存在であり、語り手の喪失感や不安が、異なる姿によって表現されていると考える方が自然である。

 この夢では、年齢や時間の順序も通常の現実とは異なっている。少年自身は幼い姿に戻っているのに、母親らしい女性は年老いており、さらにその後には若い母親が現れる。時間が一方向に流れていく現実の世界とは違い、夢の中では老いと若さ、喪失と再会が、語り手の感情に従うかのように配置されている。母親がすでに亡くなっているという現在の事実が、夢の中では、母親を探し続けるという行動に変わっているのである。

 ただし、この物語を、母親への思慕がそのまま性的欲望へ変わった作品と説明するのは適切ではない。少年が求めているものには、親から受け入れられる安心感、失われた生活への郷愁、美しいものへの憧れなど、異なる感情が重なっている。それらを明確に切り分けられないところに、むしろ作品の独自性がある。語り手は過去を正確に再現するために母親を探しているのではなく、現在では取り戻せない何かを、夢の中でもう一度経験しようとしているように見える。

吉野の山奥で、亡き母の面影が未来の妻へと変わる

 『母を恋うる記』で夢として描かれた母親への憧れは、1931年発表の『吉野葛』では、古い手紙や写真、土地の伝承を通じて、現実の人間関係へと入り込んでいく。物語の語り手は、もともと南朝の歴史に関心を持ち、吉野の山奥を訪れる。しかし、歴史上の人物を題材とする小説の構想は次第に後景へ退き、同行する友人の津村が抱いてきた、亡き母への思慕が物語の中心になっていく。

 津村は幼い頃に母を失い、成長するにつれて母の故郷を知りたいという思いを強めていった。彼にとって母親とは、日常生活の中で長年接してきた人というより、わずかな記憶と残された品々を通じて、その姿を想像し続ける存在だった。写真に写る顔、若い頃に書いた琴唄の稽古本、父親との間で交わした手紙などが、すでにこの世にいない母親の人生を知る手掛かりとなっている。

 とりわけ印象的なのは、津村が祖母の遺品の中から、母の故郷である大和の国栖から送られた手紙を見つける場面である。その手紙には、寒さの中で紙をすく家族の暮らしや、遠く離れた娘を気遣う言葉が記されていた。津村は古びた紙の文字を読み、手紙そのものの感触を確かめながら、母が生まれ育った土地と、そこに暮らした人々の姿を思い描く。さらに、母が使っていたと思われる琴爪を自分の指に当てる場面では、物に触れるという行為によって、失われた母親との距離を縮めようとする心情がうかがえる。

 しかし、これらの品々は、母親の人生を完全に再現してくれるわけではない。手紙には書き手の意図があり、写真には撮影された瞬間しか残らず、琴爪から母の演奏する姿が直接見えてくることもない。津村は資料に記されている事実を知ると同時に、その資料が語っていない部分を想像によって補っている。つまり、彼の母の記憶には、実際に経験した過去と、後から知った事実と、それらを結びつける想像とが混ざり合っているのである。

 その津村が吉野で出会うのが、母方の親戚にあたる若い女性、お和佐である。彼女は紙すきの仕事を手伝っており、その手は冷たい水を使う労働によって赤く荒れている。津村は彼女の手を見て、母の故郷から届いた手紙に記されていた人々の苦労を思い出し、さらに彼女の顔立ちには写真で見た母親と共通するところがあると感じる。やがて津村は、この女性を妻に迎えたいと語り手に打ち明ける。

 この展開には、記憶と欲望の結びつきがはっきりと表れている。津村はお和佐と幼い頃から親しかったわけではなく、彼女の手を以前から知っていたわけでもない。それにもかかわらず、初めて接した女性の姿に、すでに失われた母親の面影を見いだす。母について知りたいという長年の願いが、目の前の女性の容姿や暮らしを特別なものとして感じさせ、やがて結婚という未来の選択へとつながっていくのである。

 しかも津村は、母と妻の関係について、作品の中で自ら考えを述べている。彼にとって母親も、まだ出会っていない将来の妻も、ともに十分には知らない女性であり、想像の中で母の姿と妻の姿が重なっていたことが語られる。したがって、津村がお和佐に惹かれる理由を、母の面影への思慕と結びつけることは、単に後世の読者が持ち込んだ心理学的な推測ではない。物語の内部に、そう読むための明確な根拠が置かれているのである。

 しかし、ここで考えなければならない問題がある。津村はお和佐の顔に母親との共通点を見いだすだけでなく、工夫によってもっと母親らしくなるかもしれないとも考えている。これは、現実の女性をあるがままに愛することと、自分の記憶にある理想像へ近づけようとすることが、必ずしも一致しないことを示している。相手の中に自分が大切にしてきた面影を見つけることは、親密さの始まりにもなりうるが、その面影だけを求め続ければ、相手自身の個性を十分に見なくなる危険も生じる。

 さらに『吉野葛』では、語り手自身が歴史資料を集め、過去の人物を小説の中によみがえらせようとしている点も見逃せない。語り手は南朝の歴史を物語へと再構成しようとし、津村は母の残した断片的な資料から、失われた母の姿を組み立てようとする。対象は異なっていても、残された手掛かりによって不在のものを想像し、自分にとって意味のある物語へと変えていく点では、2人の営みはよく似ている。

 物語の最後、語り手は吉野の川に架かる吊り橋を渡ってくる津村とお和佐の姿を目にする。歴史小説を書こうとした語り手の計画は実現しなかったが、津村の方は母の故郷を訪ねる旅を通じて結婚相手を見つけることになる。過去を求めて山奥へ向かった旅が、1人の男にとっては未来の生活を決める旅になったのである。

ナオミを愛した男は、最初から彼女を正しく見ていたのか

 母の面影から未来の妻を求める『吉野葛』に対して、『痴人の愛』では、欲望が現在の相手の見え方を変え、その経験が後から過去の物語として語り直される。1924年から1925年にかけて発表されたこの作品は、河合譲治が自分とナオミとの関係を振り返り、その始まりから現在に至るまでを説明する形式を取っている。

 譲治がナオミに関心を持った理由の1つは、彼女の名前だった。浅草のカフェーで働いていた少女の本名が奈緒美であると知った譲治は、その名前を西洋風に感じ、さらに名前の印象に引きずられるように、彼女の顔立ちまで西洋人らしく見えるようになる。ナオミという響きは、譲治にとって単なる名前ではなく、自分が憧れていた西洋的な美しさを連想させる手掛かりになっていた。

 ここで起きているのは、まず記憶の変化ではなく、期待や欲望による知覚と評価の変化である。人は同じ対象を見ていても、先に与えられた情報や抱いている期待によって、その対象のどこに注意を向けるかが変わることがある。譲治の場合、ナオミという名前が西洋的な美への憧れを呼び起こし、その憧れに合う特徴を少女の中に見つけるようになったと考えられる。彼がナオミを知ったから好きになったというだけでなく、最初から求めていた美しさが、ナオミを特別な存在に見せたという側面があるのである。

 その後、譲治はナオミを引き取って教育し、自分が理想とする女性に育てようとする。ところが、成長したナオミは譲治の思いどおりにはならず、自分自身の欲望や意思に従って行動するようになる。譲治は嫉妬や苦悩を経験しながらも、彼女から離れられない。ここにあるのは、自分の理想を現実の女性に重ねようとした男が、その女性の現実の姿に振り回されるという逆転である。

 さらに『痴人の愛』が興味深いのは、これらの出来事が、譲治自身の回想として読者に語られていることである。譲治は自分の経験を正直に伝えようとする姿勢を示しているが、現在の立場から過去を振り返る以上、どの出来事を重要なものとして取り上げ、どのような理由を与えるかは、現在の感情と無関係ではない。最初にナオミの名前が気に入ったという説明にも、その後の関係を知っている語り手が、過去に意味のある始まりを見つけ出しているという側面が考えられる。

 もっとも、過去を現在の立場から語り直すことと、記憶そのものが書き換わったことは同一ではない。譲治が事実を誤って記憶しているのか、それとも事実を覚えていながら解釈を変えているのかは、物語の記述だけから完全には区別できない。重要なのは、彼の回想が客観的な記録として保証されているわけではなく、愛した女性を理解しようとする現在の欲望を含んだ語りになっているということである。

 この点で、津村と譲治は似ているようで異なっている。津村は十分には知らない母親の姿を想像し、その面影を将来の妻に求めた。一方の譲治は、自分が理想とした女性を現実の中で育てようとし、思いどおりにならなかった経験を後から語り直している。前者では記憶と想像が未来の選択に影響し、後者では欲望によって形作られた経験が回想の中で意味づけられる。どちらにも欲望と過去の結びつきはあるが、その働き方まで同じではないのである。

日記は過去を保存するのか、それとも未来を操るのか

 1956年に発表された『鍵』では、過去を記録するという行為そのものが、人間の欲望によって複雑なものになる。作品は夫と妻がそれぞれ書いた日記を交互に示す形式を取り、互いに相手がその内容を読む可能性を意識している。日記といえば、普通はその日に起きた出来事や心情を記しておく私的な文章を思い浮かべるが、この作品では、その前提が最初から揺らいでいる。

 夫は、自分の日記が妻に読まれることを期待しており、その期待を利用して妻の感情や行動に影響を与えようとする。妻もまた、自分の書く内容が夫に読まれる可能性を意識している。こうして日記は、誰にも知られない心の内側を記録する場所ではなく、直接には言えない願望を相手に伝えたり、相手の反応を探ったりするための手段となる。

 この構造を考えると、過去の記録とは何かという問題が浮かび上がる。人が日記を書くとき、1日の出来事をすべて同じ重さで記録することはできない。何を書き、何を省き、何に詳しい説明を加えるかという選択が必要になる。まして、その文章を特定の相手が読むと分かっていれば、記録する内容には相手の感情を動かそうとする意図が入り込む可能性がある。出来事を保存するはずの文章が、次の出来事を引き起こす働きを持つのである。

 ただし、ここで扱われる日記を、人間の頭の中にある記憶とそのまま同一視することはできない。記憶とは経験を保持し、後から想起する心の働きであるのに対して、日記は経験を言葉にして外部へ残した記録である。書き手が覚えていることと、日記に書いたことが一致するとは限らず、そもそも記憶している事実を意図的に伏せたり、異なる印象を与える順序で書いたりすることもできる。『鍵』の面白さは、記憶の誤りを描くことだけにあるのではなく、過去を伝える文章が、人間関係の駆け引きに利用される点にある。

 この作品を『痴人の愛』と比較すると、谷崎が扱う過去の語り方の違いがよく分かる。『痴人の愛』では、譲治がすでに経験した出来事を現在の立場から振り返り、その意味を説明する。一方、『鍵』では、日記が書かれる時点から、将来それを読む相手の反応が意識されている。前者では過去の回想に現在の欲望が入り込み、後者では現在の記録が未来の出来事を動かす。文章にされた過去は、ただ保存されるだけでなく、その後の現実と関係を結び続けるのである。

 さらに、互いの日記を読んで相手の内面を理解しようとする夫婦の姿には、別の皮肉もある。人は親しい相手の本当の気持ちを知りたいと願うが、相手が自分に読ませることを意識して文章を書いている場合、その内容がどこまで率直な告白であるかを判断することは難しい。しかも、読み手自身も、信じたい内容を信じ、疑いたい部分を疑う可能性がある。こうして『鍵』では、書き手の欲望だけでなく、読み手の欲望までもが、記録の意味を左右することになる。

 人間は過去を正確に知れば、相手を理解できると考えがちである。しかし谷崎の描く日記の世界では、過去について多くの言葉が与えられるほど、かえって相手の真意が分からなくなっていく。そこにあるのは、記録の量が増えれば真実に近づけるとは限らないという、今日の私たちにも通じる問題である。

春琴の顔を見なくなった佐助は、何を見続けていたのか

 ここでもう一度、1933年に発表された『春琴抄』に戻ると、佐助の行動が持つ意味は、単なる献身という言葉では捉えきれないものになる。春琴は幼い頃に視力を失い、その後、琴と三味線の技芸を身につけた女性である。佐助は長年にわたって彼女に仕え、弟子として教えを受けながら、生活の細部に至るまで世話を続ける。2人の関係には愛情だけでなく、師弟の上下関係や支配と服従の要素も深く入り込んでいる。

 春琴が何者かに襲われ、顔に大きな火傷を負うと、それまでの関係は重大な危機を迎える。春琴は自分の変わってしまった顔を佐助に見られることを恐れ、佐助自身も、その顔を見ることに苦しみを感じていたと語られる。やがて佐助は自ら両眼を傷つけて視力を失い、春琴に対して、これからは彼女の顔を見ることがないと告げる。

 佐助の行為には、いくつかの異なる意味を読み取ることができる。春琴と同じ盲目の世界に入ることで彼女の苦しみに近づこうとしたとも考えられるし、災難を防げなかったことへの負い目が働いたとも考えられる。また、自分だけが春琴の変化を見てしまうという状況を終わらせ、傷つく以前の美しい姿を記憶の中に保とうとしたという解釈も成立する。これらは互いに排他的な理由ではなく、佐助の行動には複数の感情や欲望が重なっていたと考える方が、作品の複雑さにふさわしい。

 その中でも、記憶の問題は特に重要である。人間の外見は時間とともに変化し、若い頃の美しさも同じ形では続かない。しかし、記憶の中では、ある年齢の顔や特定の表情が、強い印象として残り続けることがある。佐助が視力を失った後、彼にとっての春琴は、現実の身体としてそこにいる女性であると同時に、自分の内側に保存された美しい姿を持つ存在となった。彼は春琴を見ることができなくなったが、かつて見た春琴の姿を思い浮かべることはできるのである。

 もっとも、記憶に残った美しさを守るという行為は、必ずしも相手をそのまま愛することと一致しない。春琴自身もまた、年齢を重ね、周囲の人間との関係を変えながら生きていく存在である。もし佐助が過去の春琴像に強く結びついているならば、彼が守ろうとしているのは、現実の春琴だけでなく、自分が長い時間をかけて作り上げてきた理想の春琴でもあるということになる。

 さらに佐助は、失明した後も春琴を師匠として敬い、それまでの上下関係を保とうとする。これは、春琴の美貌だけでなく、気位の高さや厳格さまで含めた、長年の関係そのものを維持するためだったとも読める。相手の姿が変わってしまったとき、人は新しい関係を作ろうとすることもあれば、以前の関係をできるだけ変えずに守ろうとすることもある。佐助は後者を極端な形で選んだ人物として捉えられるのである。

 ただし、佐助の行動を、視力を失うことで愛情が深まるという一般的な教訓へ置き換えるべきではない。自ら視力を失うという行為は、現実において肯定されるべき愛情表現ではなく、作品内に置かれた極端な出来事である。また、視覚障害のある人の経験を、記憶や想像だけで生きる世界として単純化することも適切ではない。ここで問題となっているのは障害そのものではなく、佐助という特定の人物が、愛する対象の変化とどう向き合おうとしたかということである。

 もう1つ見逃せないのは、『春琴抄』の物語自体が、確実な事実の記録として書かれているわけではないという点である。作品は、春琴と佐助の墓や、春琴について記された伝記、関係者の証言などを手掛かりに、2人の人生を再構成する形式を取っている。春琴を襲った人物についても複数の可能性が示され、その動機や事件の経緯がすべて明らかになるわけではない。作中に登場する伝記や証言は、物語を現実の記録のように見せる文学的な仕組みであり、実在の人物について確認された歴史資料ではない。

 そう考えると、佐助が春琴の美しい姿を記憶にとどめようとすることと、語り手が残された資料によって2人の人生を描き直すことは、どこか似ている。佐助は過去の春琴の姿を保存し、語り手は過去の佐助と春琴の関係を物語として再構成する。そして読者もまた、その物語を通じて2人の愛情を理解しようとするが、そこには語り手の推測が含まれている。記憶や記録によって過去をよみがえらせることの魅力と、その不確かさが、作品の内側と外側の両方に置かれているのである。

記憶は保存されるだけではなく、思い出すたびに意味が変わる

 谷崎の作品を読んでいると、人間の記憶は、過去の出来事を正確に保存しておく倉庫のようなものではないのではないかという疑問が生まれる。『母を恋うる記』では亡き母への思慕が夢の中の人物像となり、『吉野葛』では断片的な手掛かりが母親の姿を想像する材料となる。『痴人の愛』では現在の欲望を抱えた譲治が過去の経験を語り直し、『春琴抄』では過去の美しさを守ろうとする欲望が、佐助の極端な行動と結びつく。さらに『鍵』では、過去について書かれた記録そのものが、他人の欲望を動かす働きを持つ。

 これらの作品を現代の認知心理学と照らして考えることには、一定の意味がある。記憶の研究では、過去の経験を思い出す際に、現在の感情や目的、周囲の手掛かりなどが影響することが知られている。特に、自分自身の人生についての記憶は、出来事の事実関係だけでなく、その出来事が現在の自分にとってどのような意味を持つかという理解とも結びついている。人は過去の経験を思い出すとき、単に出来事を再生しているのではなく、現在の立場からその経験を解釈し直す場合があるのである。

 また、過去の経験を想起する働きと、まだ起きていない未来の出来事を想像する働きには、共通する認知過程があることも研究されている。人は未来を思い描くとき、過去の経験から得たさまざまな要素を組み合わせることがある。このことは、『吉野葛』の津村が母の面影を将来の妻へと重ねていく場面を考えるうえで、興味深い視点を与えてくれる。彼は過去に実際に見た母の姿だけを思い出しているのではなく、写真や手紙から形成した母のイメージを、まだ始まっていない結婚生活への期待と結びつけているからである。

 ただし、こうした心理学の知見によって、谷崎の登場人物の行動が科学的に証明されたと考えることはできない。心理学の研究が扱うのは、現実の人間について観察や実験によって検討される認知過程であり、小説の登場人物は作者が構成した存在である。津村が母の記憶をどの程度正確に保持していたのか、譲治が実際に過去の記憶を変化させたのか、佐助の行動をどの心理的要因が決定したのかについて、作品だけから実証的な結論を出すことはできない。

 加えて、人間の記憶が現在の感情によって影響されるとしても、その変化が常に美化の方向へ進むわけではない。幸福だった経験が以前より美しく感じられることもあれば、不快な出来事の印象が強まり、過去をより苦しいものとして思い出す場合もある。谷崎の作品で注目すべきなのは、人間の記憶一般が必ず理想化されるということではなく、美を求める登場人物たちが、記憶や想像を通じて自分の欲望を形作っているという、文学上の特徴である。

 その意味で、これらの作品を、記憶が欲望を生み出すという1つの因果関係だけで説明するのは不十分である。過去の記憶によって欲望が生まれる場合もあれば、すでに存在している欲望が、過去のどの部分を思い出すかに影響する場合もある。さらに、欲望によって作られた理想像が、後の現実の経験を変え、その経験が新しい記憶となって残ることも考えられる。ここには、単純な一方向の関係ではなく、現在と過去が互いに意味を与え合う循環が認められるのである。

懐かしさは、まだ経験していない未来にも向けられる

 ここまで見てきた作品に共通するのは、過去を思い出すことが、必ずしも過去へ戻りたいという願いだけでは終わらないという点である。津村は母の故郷を求めて吉野へ向かい、その旅を通じて将来の妻を見つける。譲治は自分の憧れる西洋的な女性像をナオミに重ね、その理想に近い女性へ育てようとする。佐助は過去の春琴の美貌を守ろうとすることで、その後の春琴との生き方まで変えてしまう。過去の面影は、現在の感じ方を左右するだけでなく、未来を選び取るための基準にもなっているのである。

 特に『吉野葛』の津村にとって、母の面影とは、すでに経験した出来事の記録だけではなかった。幼い頃に亡くした母親のことを、津村は限られた資料から想像し続けていたため、彼が懐かしんでいる母の姿には、最初から知らなかった部分が数多く含まれている。それでも彼は、その面影を自分にとって最も親しい女性の理想像として抱き続ける。ここでは、懐かしさが必ずしも十分な経験の蓄積から生まれるわけではなく、経験できなかったことへの思いによっても強められる可能性が示されている。

 もっとも、知らないものを懐かしむという現象を、過去の記憶が存在しないところから突然生まれると考える必要はない。津村の場合、母の写真や遺品、周囲の人々から聞いた話、芝居の中で描かれる母子の物語など、想像を支える手掛かりが存在している。彼はそれらを組み合わせることによって、実際に接した時間よりもはるかに豊かな母の姿を心の中に育ててきたのである。知らなかった部分が多いからこそ、そこには想像の入り込む余地も大きかったと考えられる。

 この仕組みは、文学作品を読む私たちの経験とも無縁ではない。実際には訪れたことのない土地を、古い写真や家族の話によって懐かしく感じることがある。自分が生まれる前の町並みや、会ったことのない先祖の暮らしに、なぜか親しみを覚えることもある。その感情は、本人が直接経験した過去の記憶とは異なるが、断片的な知識と想像によって、過去とのつながりを感じている点では、津村の経験と通じるところがある。

 ただし、谷崎が描く懐かしさには、美しさだけでなく危うさも潜んでいる。自分が思い描く過去を理想化すればするほど、現実がその理想に従わないことを受け入れにくくなる可能性があるからである。津村がお和佐の中に母の面影を見つけることは、彼女への親しみを深めるきっかけになるかもしれない。しかし、お和佐が年齢を重ね、母とは異なる考えや望みを示すようになったとき、津村がその変化をどのように受け入れるかは、作品から確実に判断できる問題ではない。

 同じことは『春琴抄』にも当てはまる。佐助が記憶の中の春琴を美しいまま保存し続けたとしても、現実の春琴がそれによって時間の流れから自由になるわけではない。彼女は生きている人間として変化し続けるのであり、佐助の内側にある春琴の姿と、現実の春琴との間には、完全には埋められない距離が残る。谷崎は、その距離を埋めようとする人間の願いが、どれほど強い行動へつながりうるのかを描いているのである。

愛することと、相手を記憶の中に閉じ込めることの境界

 谷崎文学の記憶と欲望を考えると、最後に避けて通れない問いが残る。それは、愛する人の昔の姿を大切にすることと、現在の相手をそのまま受け入れることは、どこまで両立するのかという問題である。

 誰でも、親しい人との幸福だった時間を忘れたくないと思うだろう。長く暮らした町の風景、若い頃に出会った人の笑顔、もう聞くことのできない声が、ある日の光や音によって突然よみがえることもある。そうした記憶は、現在を生きる人間にとって慰めとなり、失われたものとのつながりを保つ力にもなる。『母を恋うる記』の語り手が夢の中で母親を求める姿には、そのような喪失の悲しみと、もう一度親しい人に会いたいという切実な願いが認められる。

 しかし、過去の姿を大切にする気持ちが強くなるほど、目の前の現実との間に距離が生まれることもある。長い年月を経て再会した相手が、自分の覚えている姿とは違っていたとしても、それは相手が間違っているからではない。人間は経験を重ねることで変化し、その変化によって以前とは異なる人格や価値観を持つようになる。にもかかわらず、自分の記憶の中にある相手こそが本当の姿だと考え続ければ、現実の相手の変化を十分に理解できなくなる可能性がある。

 『春琴抄』の佐助は、その問題が極端な形で表れた人物である。彼は春琴の顔が変わったという現実を、自らの視覚を失うことによって見なくなる道を選んだ。その選択は、春琴の苦しみを思いやる献身としても、記憶の中の美を失うことへの恐れとしても読むことができる。さらに、春琴との関係を以前の形のまま保とうとする強い執着があったと考えることもできる。こうした複数の意味が重なっているからこそ、佐助の行動は感動的であると同時に、容易には理解しきれないものとなっている。

 『吉野葛』の津村もまた、失われた母の姿を求め続け、その面影を新しい女性との関係に結びつける。しかし、津村と佐助をまったく同じ欲望の持ち主として扱うことはできない。津村は母を求める旅を通じて現実の女性と出会い、新しい生活へ向かっていくのに対し、佐助は現実の変化を見ることを拒むことで、過去の美しさを保とうとしたと解釈できる。前者では記憶が未来への出発点となり、後者では記憶が変化を受け入れないための拠り所となるのである。

 ここに、谷崎文学の記憶と欲望を一括して論じる際の難しさがある。登場人物たちはいずれも過去の面影と深く関わっているが、その面影に導かれて新しい現実へ踏み出す者もいれば、反対に、現実の変化を避けようとする者もいる。したがって、谷崎が描く記憶を、単なる現実逃避として片づけることはできない。記憶は人を過去へ引き戻すこともあれば、まだ経験していない未来へ向かわせることもあるからである。

 そして、こうした違いを認めたうえで考えると、谷崎の作品に記憶と欲望が繰り返し現れる理由も、より明確になる。人間は現在の現実だけを材料にして、自分の望みを作るわけではない。幼い頃に見たもの、失った人の面影、他人から聞いた話、写真に残された姿、物語を通じて知った美しさなどが、現在の好みや憧れの一部となっている。人が何かを美しいと感じるとき、その判断には、すでに積み重ねられた経験や想像が関わっている場合がある。

 ただし、記憶が欲望を形成するという説明だけでは、まだ半分しか捉えていない。現在の欲望もまた、過去のどの場面に心を向け、そこへどのような意味を与えるかに影響する。津村が母の写真の中に将来の妻の理想を見いだし、譲治がナオミとの出会いを自分の人生の特別な始まりとして語り、佐助が春琴の美しい姿を記憶の中で守ろうとするのは、その異なる表れである。彼らの記憶は過去の事実だけで構成されているのではなく、現在の願望と結びつくことで、それぞれに特別な意味を持つようになっている。

 もちろん、これらは作品の描写から導かれる文学的な解釈であり、谷崎本人の心理を直接証明するものではない。また、取り上げた5作品には明確な共通点があるものの、谷崎の全作品が同じ仕組みで書かれていると結論づけることもできない。それでも、1919年の『母を恋うる記』から1956年の『鍵』に至るまで、長い創作活動の異なる時期に、過去の面影や記録と、人間の現在の欲望との関係が、さまざまな形で描かれていることは注目に値する。

 結局、谷崎潤一郎の作品で記憶と欲望が強く結びつくのは、人間が欲するものの中に、現在の現実だけでは満たせない、失われた時間や理想の姿が含まれているからではないだろうか。記憶はその理想に形を与え、欲望は記憶を呼び起こして、そこに新しい意味を加えていく。しかも、過去を取り戻そうとする願いが強いほど、人は現実の相手に過去の面影を求め、現実と記憶の境界を曖昧にしてしまうことがある。

 『春琴抄』の佐助が視力を失った後も見続けようとしたものは、単に傷つく以前の春琴の顔だけではなかったのかもしれない。長年にわたる師弟関係の中で育てられ、憧れと畏れを含みながら形作られてきた、佐助にとってかけがえのない春琴の姿だったとも考えられる。現実の春琴は変化しても、佐助が心の中で見つめ続ける春琴は、ある美しい姿のままとどまることができるのである。

 谷崎文学の美しさと恐ろしさは、まさにそこにある。人は愛するから思い出す。しかし、思い出の中にある美しい姿を失いたくないからこそ、さらに深く愛してしまうこともある。そして、その愛情が現実の相手を理解する力になる場合もあれば、相手を自分の理想像の中に閉じ込める力になってしまう場合もある。

 記憶は過去を保存し、欲望は未来へ向かう。そう考えれば、2つは反対方向に働くように見える。しかし谷崎の小説では、過去を求めることが未来の選択となり、未来を望むことが過去の面影を呼び起こす。人間は失われた時間をそのまま取り戻すことはできない。それでも、その時間に新たな意味を与えながら、現在を生きていくことはできる。谷崎潤一郎が描いた記憶と欲望の結びつきは、過ぎ去ったものを忘れられず、同時に、まだ手に入れていないものを求め続ける人間の、矛盾に満ちた心のあり方を浮かび上がらせているのである。

著者の関連ブログ

地域分析や暮らし、経済に関する情報をまとめています。

九条レオンの地域分析ブログ