リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

テレビドラマの脚本家は、何を失い、何を手に入れたのか~テレビ黎明期から昭和、平成、令和へ

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 テレビドラマの歴史を脚本家という職業から眺めてみると、少し不思議なことに気づく。テレビそのものは、白黒からカラーになり、ブラウン管から薄型画面になり、家庭に1台置かれていた受像機は、スマートフォンやタブレットという個人の画面へと広がった。番組を見る時間も、家族が同じ時刻に茶の間へ集まるものから、通勤電車の中でも深夜の寝室でも、自分の都合に合わせて選べるものへ変わっている。それほど環境が変わったにもかかわらず、脚本家の仕事の中心には、70年以上前からほとんど変わらないものがある。人間を観察し、その人物なら何を言い、何を言わず、誰かと出会ったときにどんな摩擦が生まれるのかを考え、それを物語に変える仕事である。

 しかし、その変わらない仕事を取り囲む条件は大きく変化した。テレビ黎明期の脚本家は、生放送のスタジオで物語が実際に成立するように書かなければならなかった。その後、録画技術が普及し、テレビドラマそのものが成熟すると、脚本家の名前が作品の価値を担う時代が現れた。さらに平成になると、プロデューサー、スター俳優、放送枠、原作、視聴率といった要素との関係が一層複雑になり、令和では地上波放送だけでなく、見逃し配信や定額制動画配信、インターネット接続テレビでの視聴まで考えなければならなくなった。テレビ脚本家の歴史とは、単なる文章表現の変化ではなく、「誰に、どこで、どのように見てもらうために書くのか」が変わり続けた歴史でもある。

テレビ黎明期~脚本は放送を成立させる設計図だった

 日本でテレビの本放送が始まったのは1953年である。当時のテレビドラマには、現在のように何日もかけて撮影し、編集した完成作品を放送するという制作方法がまだ十分には確立していなかった。初期には生放送のドラマが多く、俳優が台詞を間違えても、セット転換に手間取っても、放送時間そのものを止めることはできなかった。1958年の『私は貝になりたい』では、前半に当時導入されたばかりのVTR(磁気テープ式映像記録装置)による収録映像を使い、後半を生放送で行っており、この事実だけでもテレビドラマが映画とも現在の連続ドラマとも異なる制作文化から出発したことが分かる。

 その時代の脚本家に必要だったのは、美しい文章を書く能力だけではない。スタジオの広さ、カメラの位置、俳優の移動、衣装替え、セット転換、放送時間といった物理的条件まで頭の中に入れながら、物語を実際に放送可能な形へ変換しなければならなかった。初期テレビにはラジオ、映画、演劇などから多くの人材が集まり、既存の表現方法をそのまま持ち込むだけでは成立しない新しいメディアに対して、演出家も脚本家も試行錯誤を続けたのである。

 もっとも、この時代に脚本家の作家性が存在しなかったわけではない。『私は貝になりたい』を手掛けた橋本忍のように、すでに映画界で高い評価を受けていた脚本家もテレビへ関わっていた。そのため、「初期には脚本家が作者ではなかった」と単純に考えるのは正確ではない。ただし、後の時代ほど脚本家個人の名前そのものが視聴者にとって作品選択の基準になることは少なく、テレビという新しい装置をどう使えば物語が成立するのかという技術的な課題が、制作現場の大きな関心だったと考える方が実態に近い。

 それでも、この時代にテレビドラマの重要な性格はすでに生まれていた。映画館ではなく家庭の居間へ入っていくテレビでは、壮大な事件だけでなく、食卓での会話、夫婦の沈黙、親子の行き違いといった日常そのものを物語にできる。巨大な映像表現では映画に及ばなくても、人間の生活に極めて近いところまで入り込めるというテレビ独自の強みが、ここから育っていった。

昭和後半~脚本家の作家性が前面に出た

 1970年代から1980年代前半にかけて、テレビドラマは大きく成熟し、脚本家個人の作家性が以前よりはっきり作品評価の前面に出るようになった。山田太一、倉本聰、向田邦子、早坂暁、市川森一、橋田壽賀子、鎌田敏夫らの名前は、単なる番組スタッフの一人ではなく、「この人が書く作品だから見る」という視聴者を生み出す存在になっていった。ただし、これは1970年代に突然脚本家が作者になったという意味ではなく、録画制作の定着、テレビドラマの文化的地位の上昇、連続ドラマという形式の成熟などが重なった結果として、脚本家の個性がそれまで以上に見えやすくなったと考えるのが適切だろう。

 彼らがテレビドラマの中で深く掘り下げたものの一つが、家庭の内部である。山田太一の『岸辺のアルバム』では、一見平穏に見える家庭の中にある孤独や亀裂が描かれ、向田邦子の『阿修羅のごとく』では、何気ない会話の底に家族の嫉妬や秘密が流れている。倉本聰の作品では、劇的な事件だけでなく、人間が土地に住み、働き、家族と時間を過ごすこと自体が物語になった。家族は単純に温かい場所ではなく、愛情があっても分かり合えず、近いからこそ傷つけ合う人間の集合として描かれるようになったのである。

 脚本そのものの社会的な位置も変わった。人気作品のシナリオが書籍化され、放送後に脚本を読むという文化も育っていった。現在のように好きな場面をすぐ再生できない時代には、シナリオ本を読むことが作品を再体験する一つの方法でもあった。ここで脚本家は、映像制作の裏方であるだけでなく、小説家や劇作家に近い「作家」として視聴者から意識されるようになっていった。

 同時に、この時代には1つのドラマが社会の共通体験になりやすかった。現在より放送局も視聴手段も少なく、多くの人が同じ時間に同じ番組を見るため、前日のドラマの台詞や展開が翌日の学校や職場で共有された。脚本家は、極端に言えば日本中の茶の間で同時に交わされる話題を作ることができたが、その影響力の大きさは、視聴率という厳しい数字によって評価されることとも表裏一体だった。

昭和の終わり~家族以外の生活が大きく映り始めた

 1980年代後半になると、テレビドラマの中心に都市で働き、恋をし、友人と夜を過ごす若い男女の生活が強く現れるようになる。1986年の『男女7人夏物語』、その後の『抱きしめたい!』などに代表される流れの中で、都会のマンション、レストラン、仕事、衣服、音楽といった生活環境そのものが物語の一部になった。もちろん、この時代に家族ドラマや刑事ドラマ、時代劇が消えたわけではなく、実際にはさまざまなジャンルが並存していたが、都市生活を送る若者を中心に置いた作品が、それまで以上に大きな存在感を持つようになったことは確かである。

 この変化は、単に恋愛ドラマが流行したというだけでは説明できない。テレビ局側が想定する視聴者像が細かくなり、「家族みんなが見る番組」という発想から、「ある年代、ある生活感覚を持つ人に強く響く番組」という考え方が強まったのである。登場人物が何を着て、どこで食事をし、どのような部屋に住み、どんな仕事をしているのかが、人物の性格や価値観と結びつき、ドラマは物語であると同時に、その時代の生活文化を映す鏡にもなった。

 その結果、脚本家1人の作家性だけでは作品の成立過程を説明しにくくなっていく。もちろんテレビドラマは当初から共同制作だったが、放送枠ごとの視聴者層を考え、プロデューサーが企画を立て、出演者を決め、その条件の中で脚本家が物語を作るという構造が、次第に強く意識されるようになった。昭和後半のテレビドラマは、脚本家の作家性が花開いた時代であると同時に、テレビドラマが巨大な産業商品として精密に設計され始めた時代でもあったのである。

平成~脚本家で見るドラマと企画で見るドラマの間で

 平成初期は、若い脚本家が時代の中心へ急速に現れた時期だった。1991年には坂元裕二の『東京ラブストーリー』と野島伸司の『101回目のプロポーズ』が放送され、ともに大きな反響を呼んだ。坂元裕二と野島伸司は、フジテレビが1987年に創設した若手脚本家発掘制度から頭角を現した作家であり、後には野木亜紀子や安達奈緒子らも同じ流れから登場している。脚本家になる道が、大御所の下で長期間修業するだけではなく、脚本賞を通じて突然テレビの中心へ入る可能性を持つようになったことも、平成期の特徴だった。

 1990年代の脚本家たちが描いたものは恋愛だけではない。野島伸司は家族、教育、暴力、若者の孤独などを扱い、三谷幸喜は舞台で培った会話と構成の感覚をテレビへ持ち込んだ。北川悦吏子は男女間の微妙な距離を会話によって描き、大石静や井上由美子らは、仕事や結婚をめぐる女性の生き方を物語の中心へ置いていった。社会の側で「就職し、結婚し、家庭を持つ」という標準的な人生像が次第に揺らぐにつれて、テレビドラマも大きな価値観を示すのではなく、一人ひとりがどのように生きるのかを描く方向へ広がっていった。

 2000年代になると、宮藤官九郎や木皿泉らの作品に象徴されるように、テレビドラマの言葉や時間の使い方はさらに自由になる。重大な出来事とくだらない会話が同じ物語の中で同じ重さを持ち、時間を前後させたり、登場人物自身が物語の構造を意識しているような作品も珍しくなくなった。一方で、放送を録画して繰り返し見る文化が一般化し、DVD(映像などを記録する光ディスク)販売も広がったため、ドラマは放送された瞬間だけに存在する作品ではなくなっていった。

 この時期について、「テレビドラマはオリジナル作品から漫画や小説などの原作作品へ一方向に移行した」と考えるのは正確ではない。確かに漫画や小説の映像化は目立つようになり、すでに読者を持つ作品は企画段階で市場規模を判断しやすいため、制作側にとって重要な選択肢となった。しかし、2016年から2023年までの関東地区プライムタイムの連続ドラマを集計した資料では、オリジナル作品はおおむね半数以上を占めており、直近の別の集計でもゴールデン・プライム帯63作品のうち40作品がオリジナルだった。つまり、テレビドラマが一方向に原作依存へ進んだとみるより、原作作品とオリジナル作品が異なる長所とリスクを持ちながら共存していると捉える方が実態に近い。

 そのため平成以降の脚本家には、ゼロから登場人物と世界を作り出す能力と同時に、すでに存在する作品を別の媒体へ移し替える能力も必要になった。小説で数ページ使える心理描写を数秒の映像へ変え、漫画の吹き出しでは自然だった言葉を、生身の俳優が口にして違和感のない台詞へ変える。この仕事は単なる原作の再現ではなく、異なる表現形式の間を翻訳する作業でもある。

令和~テレビドラマなのに、テレビだけを考えられなくなった

 令和に入って最も大きく変わったのは、ドラマを見る場所と時間である。視聴者は地上波の放送時刻に必ずテレビの前へ座るわけではなく、録画、見逃し配信、定額制動画配信、インターネット接続テレビ、スマートフォンなど複数の方法を使うようになった。その変化は印象だけではなく数字にも表れており、TVer(ティーバー・民放公式テレビ配信サービス)は2025年12月に月間ユーザー数約4,460万人、月間動画再生数約6.5億回を記録し、2026年8月にはインターネット接続テレビだけで月間2.3億回を超える再生が行われている。テレビドラマを見るという行為は、すでに「放送時間にテレビ受像機を見ること」と同義ではない。

 成功を測る方法も複線化している。かつて視聴率といえば放送時刻にどれだけの家庭が番組を見ていたかが大きな基準だったが、現在ではリアルタイム視聴に加え、放送後一定期間のタイムシフト視聴を含めた総合的な指標が使われ、さらに見逃し配信の再生数なども作品の反響を判断する材料となる。したがって、「令和では視聴率が意味を失った」のではなく、「視聴率だけでは作品の到達範囲を十分に説明できなくなった」と考える方が正確である。

 視聴方法の変化は、脚本の作り方にも影響を与える可能性がある。かつては1話の最後で視聴者に強い疑問を残し、7日後の次回まで興味を維持させることが重要だったが、現在では次の話を続けて見る視聴者も珍しくない。その一方で、スマートフォンなどでは少し興味を失えば視聴を中断することも容易である。ただし、「一気見が増えたから脚本の引きが弱くなった」とまで断定できる十分な定量データはなく、むしろ短時間で視聴者を引きつけ続ける必要性が強くなった可能性もある。確実に言えるのは、一週間単位の放送を前提としていた時代とは異なり、脚本家が想定しなければならない視聴行動が複数存在するようになったということである。

描かれる人間も変わった

 令和のドラマでは、家族、性別、働き方、障害、性的少数者、外国人など、以前なら物語の中心に置かれにくかった立場の人々が登場人物として描かれる機会も増えている。ただし、これを単純に「昔より脚本家が自由に書けなくなった」と考えるのは適切ではない。社会そのものが変化し、それまでドラマの標準的な登場人物として十分に扱われてこなかった人々も、視聴者として存在し、物語の主人公にもなっているからである。

 実際、長期間にわたるテレビドラマの人物像を調べた研究では、男性や女性に期待される役割の描き方が年代によって変化していることが示されている。ドラマが社会を一方的に変えるのか、社会の変化をドラマが反映するのかを完全に切り分けることは難しいが、少なくとも登場人物の職業、家族関係、性別役割、人生選択が時代によって変わってきたことは確認できる。令和の脚本家に求められているのは、単に「炎上しないよう注意すること」ではなく、以前より多様な人間を物語の主体として成立させることである。

原作と脚本家~令和になって見直された制作の境界線

 原作付きドラマそのものは昔から存在しており、令和になって突然生まれたものではない。しかし、漫画や小説の映像化がテレビ制作の重要な企画源となる中で、原作者、出版社、テレビ局、制作会社、脚本家、出演者という複数の関係者がどこまで作品内容に関わるのかという問題が、以前より社会的に注目されるようになった。

 映像化では、原作を一字一句そのまま再現することはほとんど不可能である。小説で説明される心理を表情や行動へ変換し、漫画では自然に成立する台詞を生身の人間が話せる言葉へ直し、数巻にわたる物語を限られた放送回数へ再構成しなければならない。したがって映像化には必ず変換が発生し、その変換をどこまで許容するのかについて、原作者と制作側で理解を共有することが重要になる。

 近年、この制作過程自体を制度として見直す動きも現れている。少なくとも日本テレビは2024年にドラマ制作の新たな指針を公表し、原作者との早期の意思疎通、制作開始前の基本合意、原作許諾契約や脚本契約の早期締結などを打ち出した。ただし、これは現時点では特定の放送局による取り組みであり、日本のテレビ業界全体が完全に同じ制度へ移行したと一般化することはできない。それでも、作品の出来栄えだけではなく、作品が作られる過程の透明性や合意形成そのものが社会から問われる時代になったことは、令和のテレビ制作を考える上で重要な変化である。

脚本家は昔より弱くなったのか

 ここまでの歴史を振り返ると、山田太一、倉本聰、向田邦子らの名前が作品そのものの象徴となった昭和と比べ、現在の脚本家は、原作、俳優、プロデューサー、スポンサー、放送局、配信サービス、視聴データ、SNS(インターネット上で人々が情報を共有し交流するサービス)など、多くの条件に囲まれているように見える。その意味では、一人の作家が自分の名前だけで数千万人の視聴者を同時に引きつけるという昭和型の強さは、再現しにくくなっている。

 しかし、それをそのまま脚本家の弱体化と考えることもできない。昭和のテレビドラマは圧倒的な同時性を持っていた一方で、放送が終われば作品を見る機会そのものが限られていた。現在では地上波で大きな数字を取れなかった作品が配信によって長期間見られることもあり、国内放送だけを前提とせず海外の視聴者へ届く可能性もある。テレビ、映画、動画配信作品を行き来する脚本家も珍しくなくなり、作品の寿命そのものは以前より長くなる場合がある。

 したがって、脚本家の力が単純に弱くなったのではなく、その力の現れ方が変わったと考える方が適切である。昭和には1つの放送枠で大きな社会的影響力を持つことが強さだったが、令和では複数の媒体を横断し、異なる視聴者へ長期間届く作品を作ることが、新しい強さになりつつある。

70年たっても、台詞の仕事だけは変わらない

 テレビの歴史を技術だけで眺めれば、ほとんどすべてが変わった。生放送中心だった制作は録画と編集を前提とするようになり、白黒はカラーになり、フィルムや磁気テープはデジタルへ移り、1つの茶の間に置かれたテレビは、1人ひとりが持つ複数の画面へ分裂した。視聴率だけで作品の成功を語ることも難しくなり、脚本家が想定する視聴者も「日本の家庭」という大きな集団から、さまざまな生活時間と価値観を持つ無数の個人へ変わっている。

 それでも、向田邦子が食卓で交わされる何気ない一言の裏に家族の秘密を忍ばせたことと、現代の脚本家が日常会話の中に孤独や違和感を潜ませることの間には、驚くほどまっすぐな線を引くことができる。人間は本当に言いたいことを、そのまま口にするとは限らない。「大丈夫」と言いながら大丈夫ではなく、「どうでもいい」と言いながら忘れられず、「帰っていいよ」と言いながら、本当はそばにいてほしいことがある。その言葉と感情のわずかなずれを見つけ出し、俳優が口にできる台詞へ変える仕事は、テレビが始まった頃からほとんど変わっていない。

 むしろ大きく変わったのは、人間よりテレビの方だったのかもしれない。昭和の脚本家は、その夜、日本中の茶の間へ同時に届く物語を書いた。平成の脚本家は、若者、働く女性、都市生活者など、以前より細かく分かれた視聴者へ物語を届けた。そして令和の脚本家は、いつ、どこで、どの画面から見ているのかさえ分からない1人の人間へ向かって書いている。

 昭和の茶の間に置かれたテレビと、令和の掌に収まるスマートフォン。その2つの画面の間には、途方もない技術的な距離がある。しかし、画面の中で誰かがふと漏らした一言によって、見ている人の胸が痛んだり、昔の記憶を思い出したり、もう会わなくなった誰かの顔が浮かんだりする。その瞬間を生み出す仕事だけは、テレビが生まれた時代から、まだ古くなっていない。

 テレビドラマの脚本家が失ったものがあるとすれば、それは日本中が同じ時間に同じ物語を見るという巨大な共有空間なのだろう。その代わりに手に入れたものは、放送時間や国境を越え、作品が何年も後に誰かへ発見される可能性である。テレビドラマの形は変わった。しかし、人間が誰かの物語を必要とし、その物語を台詞に変える人間が必要である限り、脚本家という仕事の核心まで変わることはないのである。

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