小説は同じなのに、読んでいる物語が違ってくる
20歳のころに読んだ小説を、60歳になってもう一度開く。ページに並んでいる文章は40年前と変わらず、登場人物の年齢も性格も、彼らが選んだ仕事も恋愛も失敗も変わっていない。それなのに読み進めていると、ときどき「こんな話だっただろうか」と思う瞬間が訪れ、以前は魅力的に見えた主人公がひどく身勝手に思えたり、ほとんど記憶に残っていなかった脇役の一言が妙に心に残ったりする。
変わったのは小説ではなく読者である。しかし、ここで「人は年を取るほど人間を見る目が深くなる」と簡単に片づけてしまうと、おそらく本当の面白さを取り逃がす。心理学の研究を見ても、加齢によって他人の気持ちを読み取る能力が一方向に向上していくわけではなく、むしろ年齢とともに低下しやすい認知能力がある一方で、対人関係の葛藤について複数の立場を考えたり、簡単には答えが出ないことを受け入れたりする傾向が強くなる場合もあることが報告されている。
したがって、20歳の読者より60歳の読者のほうが優れているという話ではない。同じ文章を前にしても、どこに視線を向けるか、どの人物の事情を想像するか、何を重大な問題だと感じるかが変わっていくのである。
20歳の読者は、主人公のすぐ近くにいる
20歳前後で小説を読むとき、物語の中心にいる人物と自分との距離は近い。主人公が家を出れば、その先にある自由を感じ、会社や学校に反発すれば、その息苦しさに共感し、恋のために仕事を捨てようとする人物が登場すれば、その選択の危険よりも、そこにある情熱のほうが鮮やかに見える場合もある。
これは若い人が単純だからではない。20歳前後という年代では、自分自身の人生もまだ大きく開かれており、「これから何になるのか」「どこで生きるのか」「誰を選ぶのか」という問いが現実の問題として目の前にあるため、物語の中でも未来へ向かって走る人物が自然に中心になるのである。
ところが60歳で同じ場面を読むと、主人公の後ろに別の人々が見えてくることがある。主人公が仕事を辞めれば、その収入を前提として暮らしている家族はいないのかと思い、恋のために家庭を離れれば、残された配偶者や子どもの翌朝まで想像してしまうので、若いころには主人公と一緒に走っていた読者が、いつの間にか少し離れた場所から物語全体を見るようになる。
ただし、これは年齢だけで起こる変化とは限らない。仕事を続けた経験、結婚、子育て、親の老い、介護、病気、死別、金銭的な責任など、その人が40年間に経験した出来事が読書の中へ入り込んでいる可能性が大きく、60歳という数字そのものより、そこへ至るまでに積み重なった生活のほうが重要なのかもしれない。
昔は邪魔に見えた人物が、急に理解できることがある
再読で最も不思議なのは、以前は物語の邪魔をしているようにしか思えなかった人物が、突然、存在感を持ちはじめることである。主人公を止めようとする父親、現実的なことばかり言う母親、夢より生活を選ぶ友人、家族を守るために慎重になる配偶者などは、若い読者から見ると臆病で保守的な人間に見えることがある。
ところが長い時間を生きたあとで読むと、「そんな無茶はやめなさい」という言葉にも別の響きが生まれ、その人物は単に変化を嫌っているのではなく、失敗したあとの生活まで想像していたのではないか、自分自身も若いころには似た夢を持っていたのではないかと考えはじめることで、物語には書かれていない時間まで見えてくる。
社会心理学の研究では、対人関係の葛藤について考える場合、高齢者のほうが複数の視点、不確実性、妥協といった要素を考慮することがあると報告されているが、これはすべての人に当てはまるわけではなく、文化によっても違いがある。日本の若者と米国の若者を比較した研究では、日本側では若い段階から複数の立場を考慮する傾向が比較的強く、年齢による変化が米国ほど明瞭ではないという結果もある。
つまり、20歳では単純で60歳では複雑になるという一本道ではない。それでも、長い人生経験が小説の中にある空白を埋める材料になることはあり得るし、読者は書かれている言葉だけではなく、その言葉を言わせた人生まで想像するようになるのである。
悪人が悪人だけではなくなり、善人も善人だけではなくなる
若いころの読書では、人物の輪郭をはっきりさせることで物語を理解することがある。勇敢な人と臆病な人、誠実な人と卑怯な人、自由な人と古い価値観に縛られた人というように分ければ、物語は分かりやすい。
しかし現実の人間関係を何十年も経験すると、その分類が少しずつ不安定になる。誠実な人が誰かを傷つけることもあれば、身勝手に見えた選択が長い時間のあとでは別の意味を持つこともあり、愛情から相手を束縛する人もいれば、責任感が強すぎるために冷酷になる人もいるので、現実の人間がそんなに整然とは分類できないことを知ると、小説の登場人物もまた単純な善人や悪人ではなくなる。
だからといって、年を取れば何でも許せるようになるわけではない。むしろ逆に、若いころには大胆で格好よく見えた行動を、60歳になってから読むと無責任だと感じる場合もあるが、それでも「この人物は間違っている」で思考を止めず、「なぜ、この人物はこういう選択をしたのだろう」と考える余地が生まれる。
年齢とともに他者の感情や意図を正確に読み取る能力が必ず高くなるわけではないことも、心理学研究では示されている。それでも、正解を当てる能力と、複数の可能性を考える姿勢とは同じものではなく、60歳の読者が20歳の読者より人間を正確に理解できるとは限らないものの、人間を簡単には決めつけなくなる場合はあるのである。
恋愛小説では、物語の「その後」が見えてくる
恋愛を扱った小説は、再読による変化が特に分かりやすい。20歳で読むとき、「2人は結ばれるのか」という問いが物語の中心に見えることがあり、告白するのか、別れるのか、再会するのかという出来事が大きく見え、恋愛の成否が人生そのものを決めるように感じられる。
ところが60歳になって同じ物語を読むと、物語が終わった場所の先に、30年、40年の時間を想像してしまうことがある。激しく愛し合った2人が結婚したとして、同じ気持ちのまま何十年も暮らせるのか、病気になったらどうするのか、収入が減ったらどうするのか、親の介護が始まったらどうするのか、どちらかが先に老いたらどうするのかと考えているうちに、20歳では「結ばれた」という場所に結末を感じていたのに、60歳ではそこが人生の入口に見えてくる。
もちろん、60歳の読者が必ずこう考えるという科学的証拠があるわけではなく、これは人生経験と時間感覚の変化から考えられる、十分あり得る読み方の1つである。しかし、人は年齢とともに将来の時間を無限に感じにくくなり、現在の感情的な意味や重要な人間関係を重視するようになるという心理学の理論は、この変化を考えるうえで示唆的である。
若い読者が「この恋は始まるのか」を読み、年齢を重ねた読者が「この関係は続くのか」を読むことがあるとすれば、同じ恋愛小説の中で見ている時間の長さそのものが変わったということなのだろう。
親を描いた人物は、自分の立っている場所によって変わる
親子関係を描いた場面では、読者自身の立場が人物評価に強く影響する。20歳で小説を読んでいるとき、多くの読者は子どもの側から親を見るため、親が進学や就職、結婚に口を出せば、それは干渉に見え、主人公が家を出れば解放に感じられる。
しかし、その後に自分が親になったり、親の老いを見たり、介護を経験したり、親を失ったりすると、同じ小説の父親や母親に別の表情が見えることがある。かつてはただ口うるさいと思っていた言葉の中に、不器用な心配を感じるようになり、子どもを束縛しているように見えた親にも、自分の手から子どもが離れていく寂しさがあったのではないかと想像する。
ここでも重要なのは、60歳だから理解できるのではないということである。20代で親の介護を経験する人もいれば、60代でも子どもを持たない人もいるため、登場人物の評価を変えるのは年齢だけではなく、その読者が何を経験したかである。
年齢は時計で測れるが、人生経験は時計だけでは測れない。同じ60歳でも40年間に経験した出来事はまったく違い、その違いがあるからこそ、同じ小説を60歳の10人が読んでも、10通りの再読になる。
60歳だから変わったのか、それとも2回目だから変わったのか
再読について考えると、さらに厄介な問題が出てくる。20歳のときが初読で、60歳のときが2回目なら、評価が変わった原因は年齢だけではないからである。
初めて読む小説では、「次に何が起こるのか」が大きな関心になり、誰が裏切るのか、恋は成就するのか、事件はどう解決するのかを知らないため、物語の展開そのものに注意が向く。しかし2回目には結末をある程度知っているため、細かな会話や脇役の反応、最初の読書では気づかなかった伏線に目を向ける余裕ができる。
文学作品の再読についての研究でも、2回目の読書では理解の仕方や注意の向け方が変化することが示されているため、60歳になって脇役が気になるようになったとしても、それがすべて40年間の人生経験によるものとは限らず、単純に2回目だから見えるようになった部分もある。
20歳から60歳までの変化を本当に確かめるなら、同じ人物に同じ小説を何十年も隔てて読んでもらい、そのたびに登場人物への好感度、共感、責任の評価などを記録しなければならないだろう。それほど長い研究は容易ではないため、「20歳と60歳では必ずこう変わる」と科学的に断定できるほど直接的な証拠はまだ十分ではないが、それでも再読という行為に年齢、経験、記憶が同時に入り込むからこそ、昔の本を読むことは興味深いのである。
同じ作品を読むことは、昔の自分を測ることでもある
40年前に読んだ小説を読み直したとき、昔嫌いだった人物を好きになっていたなら、それは作品が変化したからではないし、かつて憧れていた主人公に違和感を覚えたなら、それもまた、現在の自分と過去の自分との間に何かが起きたということである。
ただし、その変化を「成長」という一語で片づける必要はない。若いころには見えていたものを、年齢を重ねることで失う場合もあり、20歳だからこそ主人公の衝動を理解でき、60歳になると現実を知りすぎたために、その無謀さの中にあった美しさを感じにくくなることもあるだろう。
反対に、若いころには退屈だと思った慎重な人物の苦しみが、後になって理解できることもある。つまり読書の変化は、若い自分から成熟した自分へ一直線に進む物語ではなく、何かが見えるようになる一方で別の何かが見えにくくなるという交換を繰り返していくものであり、その交換こそが、年齢を重ねることなのかもしれない。
20歳の読みと60歳の読みは、どちらが正しいのか
ここまで考えると、最後に奇妙な問題が残る。20歳で「この主人公は正しい」と思い、60歳で「いや、この主人公は身勝手だ」と思った場合、本当に正しいのはどちらなのだろうかという問題であるが、おそらくこの問いには簡単な答えがない。
20歳の読者には、60歳の読者には戻れない感覚がある。人生がまだ大きく開かれていて、失敗しても先があると思える時期だからこそ、無謀な人物の決断に込められた希望を強く感じることができる一方で、60歳の読者は、選択には代償があり、その代償を本人以外の誰かが引き受けることもあると知っているため、どちらかが物語を誤読しているのではなく、人生の異なる場所から同じ人物を見ているのである。
だから名作と呼ばれる小説は、一度読んで理解して終わる作品ではないのかもしれない。20歳には20歳の読書があり、40歳には40歳の読書があり、60歳には60歳の読書があって、さらに70歳や80歳になれば、また別の人物が気になり始める可能性さえある。
再読とは、昔の自分に会いに行くことである
昔読んだ本を本棚から取り出すとき、そこに待っているのは登場人物だけではなく、その本を読んでいた過去の自分もページのどこかに残っている。20歳の自分は、この主人公に憧れ、あの人物を嫌い、ある場面で胸を熱くし、別の場面をほとんど覚えていなかったかもしれないが、60歳になった自分は、その若い読者の隣にもう一度座り、同じ文章を読みながら、少し違う場所で立ち止まる。
20歳の自分が「この主人公は勇敢だ」と言えば、60歳の自分は「その勇気の代償を誰が払ったのだろう」と考えるかもしれず、60歳の自分が「この父親の気持ちは分かる」と言えば、20歳の自分は「それでも主人公には自分の人生を選ぶ権利がある」と反論するかもしれないが、その2人のうち、どちらか一方だけが正しいわけではない。
心理学の研究からも、人間の考え方は年齢とともに単純に向上するのではなく変化していくと考えたほうが現実に近く、情報処理の速さや他者の意図を素早く読み取る力が変化する一方で、人生経験や時間に対する感覚が判断に別の奥行きを与えることもあり、読書の場合にはさらに再読そのものの効果が加わる。
そう考えると、20歳で読んだ小説を60歳でもう一度読むという行為は、「同じ本をもう一度読む」ことではないのだろう。同じ文章を使って、異なる人生を生きた2人の自分が、それぞれの物語を読んでいるのであり、小説は40年間ほとんど同じ場所にいたとしても、読者はその間ずっと生きていた。
だからページをめくったときに物語が違って見えるのは当然なのかもしれない。本が変わったのでも、登場人物が変わったのでもなく、40年という時間を歩いてきた自分が、かつてとは違う場所から同じ人々を見ているのである。
再読とは、懐かしい物語を訪ねることではなく、昔の自分と現在の自分を同じページの上で出会わせる、静かな実験なのかもしれない。

