リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

坊っちゃんを「正義の人」と呼んでよいのだろうか

 夏目漱石の『坊っちゃん』を読み終えたとき、この小説の結末に痛快さを感じる人は少なくないだろう。陰で人間関係を動かしているように見える赤シャツと、その周囲で調子よく振る舞う野だいこ、作中で「野だ」と呼ばれる人物に対して、坊っちゃんと山嵐が最後に直接行動へ出るため、それまで物語の中に積み重ねられてきた鬱屈が一気に解消されるような構造になっており、その意味では『坊っちゃん』を、不正を嫌う青年が卑怯な大人たちに立ち向かう「正義の物語」として読むことは十分に可能である。

 しかし、物語を冒頭から丁寧に読み返してみると、坊っちゃんは決して冷静沈着な正義の味方ではなく、彼自身が「親譲りの無鉄砲」と語るように、子どものころから後先を十分に考えず行動し、教師になってからも生徒の悪戯に本気で腹を立て、同僚についても事情がすべて分かる前に判断を下すことがあるため、彼の行動をすべて「正義」という一語で説明してしまうと、坊っちゃんという人物が持つ危うさや未熟さが見えなくなってしまう。

 では、『坊っちゃん』は正義を貫く青年の物語なのか、それとも短気な青年が周囲と衝突し続ける物語なのかと考えると、実はこの2つを完全に切り離そうとすること自体が適切ではなく、むしろ坊っちゃんという人物の面白さは、正義感と短気さが別々に存在しているのではなく、目の前の出来事に対して理屈より先に「これはおかしい」と反応してしまう同じ気質から生まれているところにある。

考える前に反応してしまう青年

 坊っちゃんの大きな特徴は、何かがおかしいと感じたときの反応が非常に速いことであり、事情を整理し、証拠を集め、相手の立場まで理解したうえで判断するよりも、まず自分の中に生じた不快感や不信感に従って動くため、生徒にからかわれれば腹を立て、宿屋で不愉快な思いをすれば反発し、同僚の言動に裏があると感じれば、十分な確認をする前から警戒心を強めてしまう。

 そのため坊っちゃんの判断は常に正しいわけではなく、後になって考えを改めることもあり、とりわけ山嵐については、他人の言葉から一度疑いを持ちながら、その後の経験によって判断を修正していることからも分かるように、坊っちゃんは真実を最初から正確に見抜く英雄ではなく、思い違いもすれば、誤った相手を疑うこともある普通の青年として描かれている。

 もっとも、だからといって坊っちゃんを「社会に適応できない人物」とまで考えるのも正確ではなく、彼は学生時代に下宿生活を送り、東京へ戻った後には仕事にも就いているので、社会生活そのものができないわけではない。むしろ彼が苦手なのは、組織の中で曖昧な言葉を使い分け、相手によって本音と建前を切り替え、多少納得できないことがあっても人間関係を優先して受け流すような処世術であり、坊っちゃんは社会不適応者というより、損得のために自分の態度を器用に変える生き方になじめない人物と考えた方が、原作の姿に近い。

 そして、その不器用さこそが『坊っちゃん』という小説を動かす力になっており、もし坊っちゃんが何事にも慎重で、周囲の意向を読みながら円満な着地点を探す人物だったなら、赤シャツたちとの対立もここまで鮮明にはならなかっただろう。坊っちゃんは精密な測定器のように社会を正確に分析する人物ではないものの、少し感度が高すぎる警報装置のように、周囲が受け流してしまう違和感にすぐ反応し、その反応が間違うこともある一方で、本当に存在する不誠実さまで表面へ引きずり出してしまうのである。

赤シャツはなぜ坊っちゃんより「大人」に見えるのか

 坊っちゃんと最も鮮やかな対照をなしているのが赤シャツであり、赤シャツは感情をむき出しにせず、言葉遣いも柔らかく、立ち居振る舞いも坊っちゃんより洗練されているため、外から見れば、怒りをすぐ態度に出す坊っちゃんよりもはるかに社会的に成熟した人物に見える。

 ただし、この作品は坊っちゃんの一人称によって語られているため、赤シャツの内面を客観的にすべて知ることはできず、その人物像については坊っちゃんの視点を通した評価であることに注意しなければならない。それでも作中では、少なくとも坊っちゃんの目に、赤シャツは直接敵意を表すのではなく、言葉や立場を使いながら人間関係を動かす人物として映っており、実際に赤シャツの発言を受けた坊っちゃんが山嵐を疑うようになる場面を見ると、その言葉が周囲の関係に影響を与えていることは確かである。

 ここに描かれているのは、単純な善人と悪人の対立というより、率直すぎる人間と、社会的な言葉を巧みに使う人間との対立であり、坊っちゃんが世渡りを苦手とする一方で、赤シャツは世渡りがうまく見えるものの、作品はその「うまさ」が必ずしも人間的な誠実さと一致するわけではないことを、両者の対比を通して次第に浮かび上がらせていく。

 だから坊っちゃんの魅力は、彼がいつも正しいところにあるのではなく、思い違いをすることがあっても、自分が不自然だと感じたことを簡単には飲み込まず、利益のために昨日までの態度を都合よく変えることも少ないという、その不器用な一貫性にある。

坊っちゃんの正義は思想より感覚に近い

 坊っちゃんが持っている正義感は、高度な倫理思想や社会哲学から生まれたものではなく、彼は正義とは何かを体系的に論じる人物でもなければ、社会制度の中で正しさを実現する方法を慎重に考える人物でもない。それよりも、正直であること、単純であること、真率であることを重んじ、それに反するものを直感的に嫌う人物として描かれており、彼の倫理観は頭で組み立てられた思想というより、腹の中で感じる好き嫌いに近いところから始まっている。

 その感覚は未熟に見える一方で、かなり強固でもあり、自分に利益があるから態度を変える、上の立場の人間だから黙って従う、周囲も同じことをしているから受け入れるといった発想が彼には乏しいため、社会の中では損をすることも多いが、逆にいえば、その損得への鈍感さこそが彼の倫理感を支えている。

 普通の人間は、不正や不誠実さを感じたからといって、そのたびに正面から衝突するわけではなく、職場であれば人間関係を考え、将来への影響を考え、ときには黙ることもあるが、それは必ずしも卑怯なのではなく、社会生活を続けるために必要な判断でもある。ところが坊っちゃんには、そのような調整能力が十分ではないため、自分の感覚をほとんど加工しないまま行動へ移してしまい、その結果、相手を十分理解する前に疑ったり、言葉で解決できたかもしれない問題を感情によって大きくしたりする一方で、同じ性格が、周囲が見て見ぬふりをしていることに対して「おかしい」と反応する力にもなっている。

山嵐との関係が示す判断の修正

 坊っちゃんと山嵐の関係を見ると、主人公が最初から正しい人物判断をしているわけではないことがよく分かり、坊っちゃんは周囲の言葉に影響されて一度は山嵐を疑ってしまうものの、その後、実際の言動を見ながら自分の判断を変えていくため、この変化を大きな人格的成長と呼ぶのは少し言い過ぎであるにしても、少なくとも坊っちゃんが、一度下した判断を経験によって修正できる人物であることは確かである。

 物語の後半になると、坊っちゃんは山嵐の考えを認め、その判断に従う場面も見せるようになるが、それでも最後まで世間巧者になるわけではなく、人間関係を器用に調整する術を身につけるわけでもない。しかし、自分の最初の印象だけで人間を決めつけ続けるのでもなく、経験を通して相手を見直すことはできるという点で、山嵐との関係は、坊っちゃんの正義が完全な独善だけでできているわけではないことを示している。

赤シャツたちは本当に「現場」を押さえられたのか

 物語の終盤では、坊っちゃんと山嵐が赤シャツと野だいこの行動を確かめるために張り込みを行い、そこで実際に確認したのは、芸者が角屋へ入った後に赤シャツと野だいこもそこへ入り、翌朝になって2人が外へ出てくるところまでである。

 ここは物語を考えるうえで非常に重要であり、坊っちゃんたちは赤シャツが芸者と同席している現場そのものを直接見たわけではないため、現代的な意味で不正行為を完全に立証したとはいえず、赤シャツ自身も、自分がそこへ入ったことと芸者がいたことは別の問題だという趣旨の反論をしている。それにもかかわらず、坊っちゃんと山嵐はその反論を受け入れず、最後には赤シャツと野だいこへ直接的な制裁を加えるのであり、この点を正確に見れば、『坊っちゃん』の結末は単純な「悪事を確認して悪人を懲らしめた」という話ではなく、かなり強い状況証拠を前にした2人が、自分たちの確信によって正義を実行してしまう場面だと分かる。

 だからこそ、この結末には独特の面白さがあり、坊っちゃんたちの行為には痛快さを感じやすい物語的構造がある一方で、その正義の手続きは決して厳密ではなく、しかも暴力による私的制裁であるため、「正しいから爽快なのだ」と単純に理解することはできない。むしろ坊っちゃんの正義とは、正しいと思った瞬間に身体まで動いてしまう危うさを含んだ正義であり、その危うさが最も鮮明に表れるのが、この終盤の場面なのである。

坊っちゃんは制度をまったく使わなかったわけではない

 坊っちゃんという人物を、制度を嫌って何でも腕力で解決する青年と考えるのも正確ではなく、山嵐だけが辞職することになった際には、それを不公平だと考えて校長室へ行き、自分も辞職すると申し出ているので、少なくとも学校という組織の中で正式に意思を伝えようとする行動は取っている。

 ところが赤シャツの件になると、学校内部で正式に告発し、組織的な手続きを通じて責任を問う方法を選ぶのではなく、最終的には山嵐とともに私的な制裁へ向かうため、ここには坊っちゃんという人物の限界がはっきりと見えてくる。彼は制度というものを全面的に拒んでいるわけではないものの、制度が自分の期待どおりに正義を実現してくれると信じているわけでもなく、最後には自分自身の確信を優先するため、『坊っちゃん』の正義は現代的な法や手続きに基づく正義とは異なり、きわめて個人的で感情的な性質を持っているのである。

清は坊っちゃんの何を信じていたのか

 坊っちゃんを理解するうえで、赤シャツや山嵐と同じくらい重要なのが清であり、清は坊っちゃんを子どものころから特別にかわいがり、将来は立身出世して立派な人物になると信じているため、彼の社会的な成功に期待していなかったわけではないが、その期待の根底には、坊っちゃんの才能や能力だけではなく、彼の性格そのものへの強い信頼がある。

 家族から問題児のように扱われる坊っちゃんに対して、清はその真っすぐさを認め、欲の少なささえ好意的に受け止めており、この価値観は赤シャツたちが生きている世界とは鮮やかな対照をなしている。赤シャツの周囲では、言葉を使い分け、相手との関係を読み、立場を計算する能力が力を持つのに対して、清が価値を認めるのは、そのような器用さとはほとんど反対の性質だからである。

 もちろん坊っちゃんは、清が期待するほど完成された人物ではなく、短気で、乱暴で、思い込みによって人を疑うこともあるが、それでも清は、その欠点の奥にある真っすぐさを信じ続けるため、清という存在は、坊っちゃんの性格を単なる無鉄砲として終わらせず、その無鉄砲の中にある誠実さを照らし出す役割を果たしている。

「正義の物語」と「短気な青年の物語」は矛盾しない

 『坊っちゃん』を「正義の物語」とだけ読めば、主人公の思い込みや乱暴さを説明しにくくなる一方で、「短気な青年の物語」とだけ読めば、なぜ作品の中心に正直、真率、卑怯への反発といった倫理的な問題が繰り返し現れるのかを十分に説明できないため、実際にはこの2つを対立させるより、同じ人物の異なる側面として考えた方が自然である。

 坊っちゃんは完成された倫理観を持っているから正義を行うのではなく、考えるより先に「これはおかしい」と感じてしまう性格を持っているため、その感覚が不正への反発となることもあれば、単なる早合点や感情的な衝突へ転ぶこともあり、その意味で彼は英雄というより、正義感と未熟さがまだ分離していない青年といえる。正しいことだけをするわけではなく、間違えることもあるが、間違う可能性があるからといって目の前の違和感を黙って受け入れることもできないという、その不安定さこそが、坊っちゃんという人物を単純な勧善懲悪の主人公とは違う存在にしている。

坊っちゃんが今も面白い理由

 もし坊っちゃんが何事にも正しい完全無欠の人物であったなら、『坊っちゃん』はこれほど面白い小説にはならなかっただろうし、反対に、単に怒りっぽく乱暴なだけの青年だったなら、これほど長く読み継がれる人物にもならなかっただろう。坊っちゃんの中には、社会の中で生きていくための知恵が十分に備わっていない一方で、その知恵を身につける過程で失われがちな感覚が残っており、世間では事情を理解し、相手の立場を考え、簡単に人を裁かないことが成熟とされるものの、その成熟が進みすぎれば、筋の通らないことまで「仕方がない」と受け入れてしまう危険もある。

 『坊っちゃん』という作品が浮かび上がらせているのは、まさにその境界であり、世間とうまく付き合うことと誠実であることは同じではなく、反対に、誠実であることと常に正しいことも同じではないという、単純には割り切れない問題である。坊っちゃんはそのどちらにも完全には収まらない人物だからこそ面白く、世渡りのうまさを持たないから不誠実さに敏感である一方、その敏感さゆえに早合点し、自分の正義を他人に押しつけてしまう危うさまで抱えている。

 『坊っちゃん』は正義の物語なのか、それとも短気な青年の物語なのかという問いに対しては、単純に「どちらでもある」と答えるよりも、短気だからこそ正義がむき出しの形で表れてしまう青年の物語、と考えた方が作品の姿に近いだろう。

 坊っちゃんの正義は洗練されておらず、手続き的でもなく、ときには判断を誤り、最後には暴力にまで向かう危うさを持っているが、その奥には、世間に合わせることだけを覚えてしまえば失われかねない真っすぐさが残っている。『坊っちゃん』は、その真っすぐさを無条件に称賛するのでも、その未熟さを単純に笑うのでもなく、魅力と危険性を同じ人物の中に置くことによって、正義とは何か、成熟とは何か、そして社会とうまく付き合いながら自分の誠実さを失わずに生きるとはどういうことなのかを、今なお読者に問いかけているのである。

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