「春はあけぼの」だけではない『枕草子』
『枕草子』と聞いて、多くの人が最初に思い浮かべるのは「春はあけぼの」ではないだろうか。春の夜明け、夏の夜、秋の夕暮れ、冬の早朝という季節の美しさを描いた文章は、1000年以上を経た現在でも古びることがなく、むしろ現代人の感覚にも驚くほど自然に入り込んでくる。
ところが、『枕草子』を少し広く読んでみると、この作品が単なる四季の美しさを記した随筆ではないことが見えてくる。清少納言は、美しいものや心を動かされるものを書く一方で、嫌なもの、腹立たしいもの、興ざめするもの、珍しいもの、かわいらしいものについても細かく書いており、「うつくしきもの」があれば「にくきもの」があり、「ありがたきもの」があれば「すさまじきもの」があるように、身の回りの世界を自分の感覚によって分類しながら文章にしている。
そう考えると、『枕草子』は急に私たちの時代へ近づいてくる。現代のインターネットにも、店、商品、映画、本、ホテル、観光地などについて、「良かった」「期待外れだった」「ここが気に入った」「ここは残念だった」と評価する文化が広がっているからであり、もちろん清少納言が現代のような星評価をしていたわけではなく、『枕草子』とレビューサイトを同じものだと考えることもできないが、人間が身の回りの出来事を観察し、それを自分の感覚で評価し、その感覚を他者に伝えようとするという点では、両者の間に興味深い共通構造が見えてくる。
清少納言は世界を「評価」しながら見ていた
『枕草子』のおもしろさは、対象を単なる事実として説明するのではなく、それに対して自分がどう感じたのかを文章の中心に置いているところにある。何かの風景について書くときも、それが何色で、どこにあり、どの程度の大きさなのかという客観的な情報だけではなく、美しいのか、興ざめなのか、気が利いているのか、無粋なのかという評価が加わるため、読み手は単に平安時代の風景を見るのではなく、作品の中につくり上げられた清少納言の視点を通して世界を見ることになる。
これは現代のレビューにも通じる。レストランのレビューを読むとき、私たちが知りたいのは営業時間や住所だけではなく、「店員の対応が気持ちよかった」「料理はおいしかったが待ち時間が長かった」「写真で見るより店内が狭かった」といった、実際に体験した人がその場所をどう感じたのかという情報であり、客観的な事実だけなら公式情報でも確認できるが、それでもレビューを読む人が多いのは、他人の経験を通して、その場所や商品を疑似的に体験したいからだろう。
清少納言の文章にも、これとよく似た力がある。何が美しいのか、何が野暮なのかという判断を示しながら、その判断そのものを読み手に追体験させるため、読者は「分かる」と共感することもあれば、「そこまで嫌うのか」と驚くこともあり、その一致やずれを含めて読むこと自体が、『枕草子』のおもしろさになっている。
「嫌いなもの」は、なぜ読んでいて印象に残るのか
現代のレビューでも、単純に「良かったです」とだけ書かれた評価より、不満の理由や状況が具体的に語られている文章のほうが、読み手の注意を引くことがある。何時に店へ行き、どれくらい待たされ、何を注文し、どのような対応を受け、それによってどのように感じたのかまで書かれると、そこには単なる評価ではなく小さな物語が生まれるからである。
『枕草子』の「にくきもの」や「すさまじきもの」がおもしろく感じられるのも、同じような事情があるのかもしれない。清少納言が何を嫌い、何に興ざめしたのかを読むと、その対象について知るだけでなく、作品の中の語り手が何を大切にし、どのような振る舞いや状況を好ましくないと感じていたのかが浮かび上がってくる。
しかも、その対象は大きな悪や悲劇に限られているわけではなく、日常のささいな不快感、間の悪さ、人の気の利かなさ、期待したものが期待どおりに現れなかったときの落胆などが細かく取り上げられており、そこには時代を越えて理解しやすい感情がある。
現代人が、操作している最中に突然表示された広告に苛立つことと、平安時代の宮廷で清少納言が感じた苛立ちは、もちろん具体的な原因も社会的背景もまったく異なるが、「今それをするのか」「もう少し気を利かせてほしい」「期待していたのに肩透かしだった」という感情そのものには、時代を越えて重なる部分がある。
評価することは、自分の価値観を見せることでもある
レビューを書くという行為には、対象を評価するだけでなく、書き手自身の価値観を示す働きも含まれている。「静かな店が好き」「接客は丁寧であってほしい」「映画には現実味を求めたい」と書けば、その人がどのような基準で物事を見ているのかが自然に伝わってくる。
『枕草子』も同じように読むことができる。清少納言が美しいと思うものを追っていけば、その作品の中に表れた美意識が見えてきて、嫌いなものや興ざめするものをたどれば、人間関係や振る舞いに何を求めていたのかも見えてくるため、対象を評価する文章は、その対象だけでなく、評価している側の価値基準も映し出すのである。
ここには、現代のSNS(インターネット上で人と交流し情報を共有するサービス)にも通じる部分がある。好きな映画、好きな本、好きな店を紹介することは、対象について語るだけでなく、「私はこういうものに価値を感じる」という自己表現にもなり、反対に「これは嫌いだ」という表明も同じで、何を批判するのかによって、その文章の書き手が何を大切にしているように見えるのかが浮かび上がるため、『枕草子』のおもしろさは、そのような価値判断を隠さず、むしろ文章の魅力として前面に押し出しているところにある。
「みんながそう思う」ではなく、「私はそう思う」
現代のレビュー文化では、評価が数字に置き換えられることが多い。星4.3、満足度87%、高評価率92%といった数字を見ると、そこに客観的な答えがあるように感じられるが、その数字をつくっているのは、結局のところ1人ずつの主観である。
『枕草子』には、そのような平均点はない。その代わりに、清少納言の視点が強く残っており、統計や世論調査を示すのではなく、「私はこう感じる」という個別の感覚が文章として残されているため、その鮮明さが『枕草子』の個性をつくっている。
現代のレビューでは、多数の個人評価が集まり、平均点やランキングなどの形で集団的な評判に変わっていく。ある店の低評価が続けば、新しい客の行動に影響することがあり、反対に高い評価が続けば、それを見て商品やサービスを選ぶ人も現れるため、個人的な好き嫌いが集積されることで社会的な影響力を持つようになる。
しかし、平均値だけを見ると、個々の評価の違いは見えにくくなる。たとえば「5、5、1、1」という4人の評価と、「3、3、3、3」という4人の評価は、どちらも平均値は3になるが、その分布はまったく異なり、この違いを考えると、『枕草子』の魅力の一つは、平均化される前の1人の感覚が、そのまま濃く残されているところにあると言えるだろう。
清少納言がある瞬間に感じた不快感や喜びは、多数の評価に埋もれて平均化されたのではなく、個別の文章として残されたため、現代の読者は、平安時代の平均的な感覚を知るというより、ある1人の書き手が世界をどう見たのかを、非常に近い距離から読むことができるのである。
レビューがおもしろいのは「正しいから」ではない
良いレビューとは、必ずしも誰にとっても正しいレビューではなく、むしろ、自分とは違う評価であっても、その人がなぜそう感じたのかが具体的に書かれていれば、対象の別の面が見えてくることがある。
『枕草子』にも同じことが言える。清少納言の好き嫌いに、現在の読者がすべて賛成する必要はなく、その美意識を正解として覚える必要もないため、むしろ「自分はそこまで嫌いではない」「自分なら別のものを美しいと思う」と感じた瞬間に、1000年以上前の文章と現在の自分との間に、一種の対話が始まる。
文学のおもしろさは、正解を受け取ることだけにあるのではなく、1人の書き手が具体的に感じたことを読むことで、自分自身の感覚もまた意識させられるところにあり、好き嫌いという極めて個人的な感情が、逆に時代を越えて読者を参加させる力になるのである。
『枕草子』は「1000年前の口コミ」なのか
『枕草子』を「1000年前の口コミ」と呼びたくなる瞬間はあるが、両者をそのまま同一視するのは正確ではない。現代のレビューサイトは、多数の利用者が同じ商品や店について評価し、それが公開され、検索され、平均点や順位にまとめられる仕組みを持っているが、『枕草子』は、そのような多数者参加型の評価システムではなく、宮廷社会の中で生きた清少納言による文学作品である。
書き手と読み手の関係も大きく異なり、現代の口コミは不特定多数へ向けて短時間で拡散することがある一方、『枕草子』は写本によって伝えられ、後世の読者や研究者によって読み継がれてきたため、その意味では、社会的な機能も情報の広がり方も、現代のレビューとはまったく異なっている。
それでも両者を比べる意味があるとすれば、それは制度が似ているからではなく、人間の行動に共通する部分が見えるからである。私たちは何かを経験すると、ただ事実として受け止めるだけではなく、「好きだ」「嫌いだ」「美しい」「野暮だ」「気が利いている」「残念だ」と評価し、その感覚を誰かに伝えたくなり、さらに他人が何を好きだと言い、何を嫌ったのかを読むことにも興味を持つ。
そう考えると、『枕草子』は、教科書の中に閉じ込められた遠い古典ではなくなり、そこにいるのは、季節を眺め、人を観察し、気の利いた振る舞いに感心し、間の悪い出来事に苛立ち、その感覚を言葉にしようとした書き手である。
星の数ではなく、文章が残った
現代のレビューは数字に集約されやすい。星5つ、星3つ、平均4.2という形にまとめられると、比較するには便利だが、なぜその評価になったのかという個別の感情や背景までは数字だけでは分からない。
『枕草子』には星の数がなく、その代わりに文章があり、美しいと感じた瞬間も、腹立たしいと感じた瞬間も、その理由や場面とともに言葉として残されているため、現代の読者は、単に「清少納言はこれが好きだった」と知るだけではなく、その好き嫌いが生まれた感覚そのものに近づくことができる。
そして、その文章は写本による継承、後世の読書、出版、教育、研究など長い歴史を経ながら、1000年以上たった現在まで読み継がれてきた。作品が残った理由を文章の魅力だけに求めることはできないが、少なくとも、今なお読み手がその言葉に反応し、自分の感覚と比べたくなるという事実は、『枕草子』が単なる歴史資料以上のものとして読まれ続けている理由の一つだろう。
もし『枕草子』を「昔の人が書いた難しい古典」と感じているなら、「1000年前の人が何を好きだと感じ、何を嫌だと感じたのかを読んでいる」と考えてみるとよいかもしれない。すると「うつくしきもの」も「にくきもの」も急に身近になり、清少納言は歴史上の遠い人物というより、鋭い観察眼と強い美意識を持った書き手として見えてくる。
道具も服装も社会の仕組みもまったく異なる1000年以上前の文章を読んでいるのに、ときどき「それは分かる」と感じる瞬間があり、その一致とずれを味わうことこそが、『枕草子』を現代から読むおもしろさであり、現代のレビュー文化と重ねてみることで、好き嫌いを言葉にするという人間の営みが、思いのほか長い時間を越えて続いていることにも気づかされるのである。

