リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

 映画が終わり、スクリーンにエンドロールが流れ始めたとき、映画館ではすぐに席を立たず、暗闇の中で次々と現れる名前を眺めながら、つい数分前まで目の前に広がっていた物語の世界から現実へゆっくり戻っていく人が少なくないが、自宅で配信作品を見ている場合には、エンドロールが始まった途端に画面の隅へ次の作品が表示され、リモコンを手に取れば数秒後には別の映画へ移ることができるため、映像も物語も同じ作品を見終えたはずなのに、その後に残る感覚にはかなりの違いが生まれることがある。

 では、映画館で見る映画と、自宅の配信で見る映画は、作品そのものが同じである以上、本当に同じ作品体験だと言えるのだろうかという問いを考えるとき、映画を単なる映像情報として捉えるのではなく、人間が視覚、聴覚、身体、注意、記憶、そして周囲の環境を通して受け取る体験として考える必要がある。

同じ映画でも、同じ体験になるとは限らない

 作品そのものだけを見れば、映画館で鑑賞しても、自宅のテレビや配信サービスで見ても、主人公が別の人物になるわけでも、結末が変更されるわけでもなく、台詞、映像、音楽、物語の構造は基本的には同じであるから、私たちは確かに「同じ映画」を見ていると言える。

 しかし、人間が映画から受け取っているものは、スクリーンに映る映像や耳に届く台詞だけではなく、どこで見たのか、どの程度集中していたのか、途中で何度注意がそれたのか、周囲に誰がいたのか、その作品を見るためにどれほど時間を使ったのかといった条件までが、作品の印象に静かに入り込んでくる。

 認知心理学やメディア研究では、画面の大きさ、視聴環境、外部からの妨害、音響条件などによって、作品への関与や注意の向け方、内容の理解が変化することが示されており、映画体験とは完成された映像作品だけではなく、それを見る人を取り囲む環境と結びついて成立していると考えたほうが自然である。

 同じコーヒーでも、仕事の途中に紙コップで急いで飲む一杯と、旅先の古い喫茶店で雨の窓を眺めながら飲む一杯では記憶への残り方が異なるように、映画もまた、内容が同じだからといって体験まで完全に同じになるとは限らないのである。

映画館では、映画の時間に自分を預ける

 映画館へ行くためには上映時間を調べ、家を出て、映画館まで移動し、席に座って上映開始を待つ必要があり、照明が落ちて作品が始まれば、通常は電話に出ることも、台所へ行くことも、洗濯物を取り込むこともせず、その時間だけは映画を見るという行為に自分を預けることになる。

 この「途中で他の行為へ移りにくい」という性質は重要であり、冒頭の展開が遅く感じられたり、人物関係がすぐに理解できなかったりしても、多くの場合はそのまま作品を見続けるため、開始から30分、あるいは1時間が過ぎたころになって、それまで意味の分からなかった場面がつながり、最初には見えなかった作品の構造が突然現れてくることがある。

 映画の中には、観客の側が作品の速度や世界観に慣れるまで一定の時間を必要とするものがあり、映画館という環境は、その時間を確保しやすくする装置として働いているのに対して、自宅の配信には停止ボタンがあり、分からなければ巻き戻すことができ、電話が鳴れば中断し、眠くなれば翌日に続きを見ることができるため、映画の時間に観客が合わせるのではなく、映画のほうが観客の生活時間に合わせる関係へと変わっている。

 もちろん、自宅で非常に集中して映画を見る人もいれば、映画館でも途中で注意がそれる人はいるため、映画館なら必ず集中できるとまでは言えないものの、研究上、通知や別の作業による中断が注意や理解、記憶に影響を与えることは繰り返し確認されており、外部刺激を減らしやすい映画館の環境には一定の意味がある。

巨大な画面だけが映画館の力ではない

 映画館で人物の顔がスクリーンいっぱいに映し出されたとき、その視線や表情から逃れることは難しく、まぶたの動きや口元のわずかな変化までが視界の大部分を占めるのに対し、自宅のテレビでは同じ映像が表示されていても、その周囲には壁や時計や棚や机があり、映画の外側に自分の日常生活がそのまま残っている。

 こうした違いは、単なる画面サイズの差ではなく、映像が視野のどれほどを占めるのか、周囲にどの程度別の刺激が存在するのか、画面の外側に何が見えているのかといった複数の条件によって生まれており、大きなスクリーンほど作品世界への存在感や没入感が高まりやすいことを示す研究がある一方、単純にスクリーンが大きければ大きいほど体験が強くなるわけではなく、暗さ、スクリーンを取り囲む環境、周辺視野、音響などが組み合わさることで映画への没入感が形成されることも示されている。

 そのため、映画館で砂漠や海、宇宙や戦場、巨大都市が映し出されたときに感じる圧倒感は、単に巨大なスクリーンを見ているからではなく、自分の周囲にある日常的な視覚情報が消え、作品の映像が視界の大部分を支配することで生まれていると考えるほうが正確である。

映画の音は、耳だけではなく身体にも届く

 映画館と自宅との違いは、映像以上に音によって強く感じられることがあり、とくに十分な音圧を持つ低音が再生される場面では、音は耳だけに届くのではなく、床や座席を通して胸や腹へ微かな振動として伝わることがある。

 人間は音を単なる聴覚情報として受け取っているわけではなく、低周波音が一定の強さを超えると身体表面に振動として感じられることが実験でも確認されているため、爆発や雷鳴、エンジン音のような場面では音響そのものが身体感覚の一部になり得るうえ、サラウンド音響のように音が複数方向から届く環境では、単なる左右の音の広がりよりも、その空間にいるような感覚が高まりやすく、映画館の音響体験は「音が大きい」という一言だけでは説明できない。

 ただし、すべての映画館、すべての作品、すべての場面で身体振動が強く生じるわけではないため、「映画館では身体で音を聞く」と断定するよりも、低音が十分な強さで再生される場面では、耳だけではなく身体に伝わる振動も映画体験の一部になり得ると考えるのが適切である。

静けさもまた、映画館の音響である

 映画館の特徴が最もよく表れるのは、必ずしも爆発音や大音量の音楽が鳴る場面ではなく、むしろ何も起こらない静かな場面かもしれず、何十人、あるいは何百人もの観客が同じ空間にいるにもかかわらず誰も声を出さず、スクリーンから聞こえてくる呼吸音、衣擦れ、遠くの足音だけに注意を向けている瞬間には、静けさそのものが作品の演出の一部として感じられる。

 自宅では同じ場面を見ていても、冷蔵庫の動く音が聞こえ、道路を車が通り、別の部屋から生活音が届き、スマートフォンに通知が入ることがあるため、それらを強く意識していなくても映画の世界と日常生活の世界は完全には切り離されず、映画館の価値は単に高性能な音響装置にあるのではなく、作品以外の音を減らし、聞くべき音へ注意を向けやすくする環境にもある。

見知らぬ人と同じ瞬間を共有する

 映画館には、自宅で1人で映画を見る場合には生まれにくい独特の共同性があり、そこではほとんど言葉を交わさない見知らぬ人たちが、同じ時間に同じ場面を見つめている。

 コメディー映画で誰かが笑い始めれば別の場所から笑い声が重なり、怖い場面では小さな悲鳴が聞こえ、悲しい場面になると静かな客席から鼻をすする音が聞こえてくることがあるが、こうした周囲の反応は物語の内容そのものを変えていないにもかかわらず、観客が作品をどのように受け取るかに影響を与える可能性がある。

 実際の映画館を使った研究でも、1人で見る場合と他者と一緒に見る場合では、生理反応や登場人物への共感の現れ方が変化することが報告されているほか、同じ物語を見る人々の心拍などが時間的に似た変化を示す現象も確認されているが、他人と一緒に見れば必ず感動が大きくなる、あるいは必ず笑いが増えると単純化することはできず、周囲の人々が体験を一方向へ増幅するというより、他者の存在そのものが映画の受け取り方に影響を与えると考えるのが妥当である。

 自宅で見る配信作品にはこの共同性が少ない一方、他人の反応に影響されず、自分だけの速度で作品と向き合えるという利点があり、映画館が「他者と同じ時間を共有する場所」だとすれば、配信は「自分の生活の中へ作品を招き入れる方法」と言えるだろう。

配信には、映画館にはない親密さがある

 ここまで読むと、映画館のほうが映画体験として優れているように見えるかもしれないが、自宅で見る映画には、映画館では得にくい別の価値が存在しており、配信であれば、気になった場面をもう一度見ることができ、聞き取れなかった台詞を確認でき、考えたくなれば一度停止することもできるうえ、気に入った作品なら数年後でも再び見ることができるため、映画館での鑑賞が一度きりの出来事になりやすいのに対し、配信では作品と長く付き合うことが可能になる。

 若いころに見た映画を何十年か後に見直したとき、以前とはまったく違う人物に感情移入することがあるのもそのためであり、20歳のころには気にも留めなかった親の台詞が、60歳になったときには突然胸に残ることもあるだろうが、これは映画そのものが変わったというより、見る側が積み重ねてきた経験、記憶、家族関係、仕事、年齢による価値観の変化によって、同じ場面から受け取る意味が変わったと考えるほうが自然である。

 配信によって作品を繰り返し見ることが容易になった結果、映画は一度鑑賞して終わるものだけではなく、人生の途中で何度も再会し、そのたびに異なる意味を示す作品にもなっている。

映画館では、映画以外の記憶も作品に結びつく

 何年も前に映画館で見た作品を思い出すとき、映画の場面だけではなく、その日に誰と出かけたのか、どの道を通ったのか、上映が終わったとき外が暗かったのか、帰りに何を食べたのかといった出来事まで一緒に蘇ることがある。

 心理学では、記憶は情報そのものだけではなく、それを経験した場所や状況と結びついて保存され、後になって似た環境や手掛かりに触れたときに思い出しやすくなることが知られており、場所や環境が記憶の手掛かりになる現象は多くの研究で確認されている。

 その意味で、映画館へ行くという行為には、家を出ること、移動すること、上映時間に合わせて予定を組むこと、特定の座席に座ること、誰かと一緒に行くことなど多くの文脈情報が伴うため、それらが後になって映画の記憶を呼び戻す手掛かりになる可能性があるものの、「映画館で見た映画は自宅で見た映画より必ず強く記憶される」とまで言える直接的な証拠が十分にあるわけではない。

 したがって、科学的に言えるのは、映画館での鑑賞には作品以外の文脈情報が多く伴うため、それらが後の想起を助ける可能性があるという程度であるが、それでも、映画館で見た映画には、その日の天気や帰り道まで含めて一つの記憶として残ることがあるという経験は、記憶が環境や状況と結びつくという心理学的な考え方とよく整合している。

集中できる時間そのものが、価値になっている

 現代の映画館における大きな価値は、巨大なスクリーンや高性能な音響だけではなく、約2時間にわたって一つの作品だけを見る環境を確保しやすいことにあるのかもしれない。

 自宅で映画を見ていると、少し気になった俳優の名前を検索し、届いたメッセージを確認し、飲み物を取りに立ち、時計を見てしまうことがあるが、そのたびに注意は作品から別の対象へ移り、物語との連続性は一時的に失われるうえ、認知科学では、こうした中断や同時作業が理解や記憶を弱める場合があることも確認されているため、他の行為をしにくい映画館の環境には、作品へ注意を向け続けやすくするという意味がある。

 常に通知や情報に囲まれている現代では、暗い空間に座り、一定時間ほかのことをせず、一つの物語だけを見るという単純な状態そのものが、かつてより貴重な体験になっているとも考えられ、そう考えると、映画館の料金は映画を見る権利だけに支払っているのではなく、外部から届く情報を一時的に遠ざけ、一つの作品に注意を向け続ける環境に対して支払っているとも言えるだろう。

映画館と配信は、同じ作品の異なる入口である

 映画館で見る映画と自宅の配信で見る映画は、物語や映像作品としては同じであっても、それを受け取る人間の体験として考えれば完全に同一のものとは言いにくく、映画館では観客のほうが映画の世界へ入りに行き、暗闇の中で視覚と聴覚を作品へ向け、途中で止めにくい時間を過ごし、見知らぬ人々と同じ瞬間に笑い、驚き、沈黙するのに対し、自宅の配信では映画のほうが生活の中へ入り込み、好きな時間に始め、好きなところで止め、気に入った作品なら何年後でも再び呼び戻すことができる。

 科学的に見ても、画面の大きさ、周辺環境、音響、注意の中断、他者の存在、記憶の文脈といった条件が人間の認知や感情に影響することは確かであり、その意味では、「同じ映画であれば体験も同じである」という考え方よりも、「同じ映画でも、見る環境によって体験は変わり得る」と考えるほうが現実に近い。

 ただし、その違いを単純に映画館の優越として説明することはできず、映画館には集中しやすさや共同性、身体的な音響体験がある一方、配信には停止、反復、再鑑賞、自分の速度で考える自由があり、それぞれが異なる形で作品との関係を深めているため、映画館は映画を一つの「出来事」にしやすく、配信は映画を生活の中に長く存在する「身近な作品」に変えやすい、と捉えるのが自然だろう。

 同じ映画であっても、映画館で見れば、その日の場所や同行者や帰り道まで含めた一つの経験になり、自宅で何度も見れば、人生の異なる時期にそれぞれ別の意味を与えてくれる作品になるため、どちらが本物なのかを決める必要はない。

 だから、昔映画館で見た作品を何年も経ってから配信で見直し、「こんな映画だっただろうか」と感じたとしても不思議ではなく、そのとき変わったのは映画そのものではなく、見る場所と環境、そしてそこから長い時間を生きてきた自分自身なのである。

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