いつの間にか、街で時計を探さなくなった
駅へ急いで入り、改札を抜けたところで顔を上げ、ホームの時計を見て「あと3分ある」と確認するという行動は、かつてはごく普通のものだった。腕時計をしている人でさえ駅では駅の時計を見たし、商店街や銀行、公園、学校、役所などにも大きな時計があり、人は自分の時計を持っているかどうかにかかわらず、街の中に置かれた時計を使いながら1日を過ごしていたが、現在では時間を知りたいと思った瞬間に、多くの人が頭上の時計を探すのではなく、無意識のうちにポケットや鞄からスマートフォンを取り出すようになっている。
もっとも、日本中の街から時計が一斉に減っていることを示す全国的な統計があるわけではないため、「街から時計が消えている」という言葉を、そのまま数量的な事実として受け取ることはできない。しかし、少なくとも鉄道駅では象徴的な変化が現れており、東日本旅客鉄道は2021年11月から、一部の駅で利用者向け時計の撤去を始め、約500駅を対象として長期的に時計の数を見直す方針を示しているが、その理由として挙げられているのは、老朽化、保守や更新にかかる費用、利用状況の変化などであり、その背景の1つとして携帯電話やスマートフォンの普及も位置づけられている。
鉄道は時刻によって動くものなのだから、駅から時計を減らすという話には一見すると矛盾があるようにも思えるが、制度面から見ると、駅に掲示すべき運賃表や列車時刻表については法令上の位置づけがある一方、利用者が見る壁掛け時計そのものをすべての駅に設置しなければならないという義務はなく、つまり駅時計は、鉄道運行そのものを成立させる設備というより、利用者が時間を確認するための補助的な設備であり、利用者の多くが自分の端末で正確な時刻を知ることができるようになれば、維持費をかけて多数設置する必要性は相対的に低下する。
この変化を見ていると、私たちは、いったいいつから腕時計や街の時計ではなく、携帯電話やスマートフォンで時間を見るようになったのだろうかという1つの疑問が浮かんでくる。
腕時計を最初に追いやったのはスマートフォンではなかった
現在の感覚から考えると、腕時計を見なくなったのはスマートフォンが急速に普及した2010年代からだと思いたくなるが、実際には変化はそれよりかなり前から始まっており、腕時計に最初の大きな影響を与えたのはスマートフォンではなく、折り畳み式を中心とした従来型の携帯電話だった。
2004年に携帯電話利用者を対象として行われた大規模な調査では、普段時間を確認する方法として携帯電話を挙げた人が85.8%に達した一方、腕時計を挙げた人は33%で、さらに2005年に行われた別の調査でも、携帯電話を挙げた人は87.1%、腕時計を挙げた人は33.8%となっており、2つの調査はほぼ同じ傾向を示している。
ただし、これらの数字を「2004年には日本人の85.8%が携帯電話で時間を見ていた」と解釈するのは正しくなく、調査対象は日本人全体から無作為に選ばれた人々ではなく、携帯電話向けサービスを利用していた人たちであり、携帯電話の利用に慣れた人が多く含まれている可能性が高いため、統計学的には選択の偏りを考慮する必要がある。それでも、2004年と2005年という近接した2つの時点で、1万人を超える規模の調査がほぼ同じ結果を示していることから、少なくとも当時の携帯電話利用者の間では「時間を確認するときには携帯電話を見る」という行動がすでに広く定着していたと考えるのは妥当である。
したがって、歴史の流れを単純に「腕時計からスマートフォンへ」と考えると、重要な中間段階を飛ばしてしまうことになり、実際には、2000年代前半に「腕時計から携帯電話へ」という最初の変化が起こり、その後2010年代に「携帯電話からスマートフォンへ」という2つ目の変化が重なったと考えたほうが、実際の統計とよく一致する。
2000年代、時間は腕からポケットへ移った
20世紀の後半まで、外出中に好きな瞬間に時間を知るためには、腕時計には明確な意味があった。駅や学校、役所、公園などには時計があったものの、それはその場所まで行かなければ見ることができず、どこにいても手首を見るだけで時刻を確認できる腕時計は、文字どおり「時間を持ち歩くための道具」だった。
しかし携帯電話が生活必需品になると、この前提が崩れ始め、人は電話をするために携帯電話を持ち歩くようになったが、その端末には時計も付いており、目覚まし、予定表、カレンダーなどの機能まで備わっていたため、それまで腕時計、目覚まし時計、手帳などに分かれていた時間管理の役割が、少しずつ1台の機械に集まり始めたのである。
経済的に考えても、この変化には合理性があり、腕時計の主要な役割を「外出先で現在時刻を知ること」と考えれば、すでに毎日持ち歩いている携帯電話が同じ機能を果たすようになった時点で、時間を知るだけのためにもう1つ道具を持つ必要性は低下するため、携帯電話は腕時計の機能を部分的に代替する存在になった。
ただし、人々が腕時計そのものを嫌うようになったわけではなく、必要性が変わったのであり、時刻確認のための必需品だった腕時計は、徐々に服装の一部、仕事上の身だしなみ、趣味や収集の対象、高級品としての価値を持つものへと役割を広げていったのであって、技術の変化とは、古い道具を完全に消し去るだけではなく、その道具が持つ意味を変えることでもある。
2010年代、スマートフォンが時間の意味を変えた
2000年代には携帯電話が腕時計の役割を部分的に代替したが、2010年代にスマートフォンが急速に普及すると、その変化はさらに大きくなった。全国の15歳から79歳を対象として人口構成を考慮して行われた継続調査では、携帯電話所有者のうちスマートフォンを使用する割合は2010年には約4%だったものの、2015年には5割を超え、2019年には8割を超え、2021年には9割を超えるまでになった。
この数字の推移を見ると、スマートフォンが特殊な機器から社会の標準的な携帯端末へ変わったのは、おおむね2010年代だったことが分かるが、重要なのは、スマートフォンが単に従来型携帯電話を高性能化しただけの道具ではなかったということであり、画面を見ると現在時刻だけでなく、電車の発車時刻、乗換方法、目的地までの所要時間、予定、天気、地図、店の営業時間、家族や友人からの連絡まで同時に確認できるようになり、「今何時なのか」という情報が、それだけでは独立して完結しなくなった。
たとえば午前10時25分に駅へ向かっている人がいるとすると、以前なら時計を見て10時25分だと確認し、乗る予定の電車が10時30分発なら「あと5分ある」と頭の中で計算したが、現在では乗換案内を開けば、どの電車に乗ればよいのか、何分後に発車するのか、何番線なのか、目的地には何時に着くのかまで一度に表示され、遅延が起きていればその情報まで更新されることがある。
この変化によって、人は単に時計を見る回数を減らしたのではなく、「現在時刻を確認したあと、自分で予定と照合し、残り時間を計算する」という作業の一部まで機械に任せるようになり、腕時計が主として「現在」を示す道具だったのに対し、スマートフォンは「現在」と「次の行動」を結びつけて示す道具になったのである。
「今、何時?」という質問はなぜ聞かれなくなったのか
以前は街中で知らない人に「すみません、今何時ですか」と尋ねることも珍しくなかったが、現在ではそうした場面を見かける機会はかなり少なくなったと感じる人が多いだろう。ただし、「人々が時間を尋ねる回数が何年間で何%減少した」という全国的な長期統計があるわけではないため、この変化を数量的な事実として断定することはできない。
それでも、ほとんどの人が時刻を確認できる端末を持ち歩く社会では、他人に時間を尋ねる必要が減ること自体は合理的に説明でき、これは、時間を知る行為が公共空間や他人に依存するものから、個人が自分の端末で完結できるものへ移ったという変化でもあり、かつて街の時計や他人の腕時計から得ていた情報が、個人の手の中に移ったとも言える。
待ち合わせの方法も同じように変わり、以前なら「午後3時に駅前の時計台の下で」と決め、午後3時になっても相手が現れなければ、時計を見ながら5分、10分と待つしかなかったが、現在では「今着いた」「あと5分」「反対側の改札にいる」と互いに連絡できるため、待ち合わせ時刻を1分単位で厳密に決めなくても成立する場面が増えている。
ここで興味深いのは、私たちが「午後3時」という絶対的な時刻だけを見るのではなく、「あと5分」「到着まで12分」「次の電車まで3分」という相対的な時間を直接知らされる機会が増えたことであり、これを人間の時間感覚そのものが完全に変化したとまで言うには心理学的な検証が必要だが、少なくともスマートフォンによって、現在時刻から残り時間を自分で計算する必要のある場面が減ったことは確かである。
それでも腕時計は消えていない
携帯電話とスマートフォンがこれほど普及しても、腕時計は消滅しなかった。2026年に全国の20歳から69歳、1,100人を対象として行われたインターネット調査では、腕時計またはスマートウォッチを所有している人は64.5%、普段使用している人は45.5%となっており、時刻確認のために腕時計が絶対に必要ではなくなった現在でも、およそ半数近くが日常的に使用している。
ただし、この数字も日本人全体を完全に代表する数字として扱うべきではなく、調査対象に20歳未満と70歳以上は含まれておらず、インターネット調査でもあるため、統計学的には一定の偏りが存在する可能性があるが、それでも「スマートフォンが普及したから腕時計はほとんど使われなくなった」という単純な説明が成り立たないことは分かる。
さらに年代による違いも大きく、60歳代では腕時計を使う人の割合が比較的高い一方、20歳代や30歳代では腕時計を持っていない人も少なくなく、この差には、現在の年齢だけでなく、外出時には腕時計を着けるという習慣をどの時代に身につけたのかという世代経験の違いも影響している可能性がある。
そして現在では、腕時計をめぐって興味深い逆転も起きており、かつて携帯電話によって腕から追い出された情報端末が、スマートウォッチという形で再び手首へ戻り、時刻だけでなく歩数、心拍数、運動量、睡眠、電子決済、メッセージ通知などを表示するようになったため、腕時計が携帯電話に負けたというより、時計そのものが情報端末へ変化しながら生き残ったと考えたほうがよい。
駅の時計は、なぜ減らすことができるのか
駅時計の変化を考えるとき、制度面から見た位置づけも興味深く、鉄道では列車時刻表など利用者に必要な情報を掲示することが求められているが、利用者向けの時計をすべての駅に設置することまでは法令で義務づけられていないため、駅時計は運行上絶対に必要な設備というより、利用者が時刻を確認するための補助的な役割を持つ設備と考えることができる。
そうであれば、ほぼすべての利用者が自分で時刻を確認できる端末を持つようになった社会では、利用頻度の低い時計を修理し、更新し、電源設備を維持し続けるよりも、その数を減らすという経営判断が生まれることは不自然ではなく、つまり駅時計の減少は、単なる技術変化だけではなく、利用者行動の変化と維持管理費の問題が重なった結果でもあり、「スマートフォンが普及したから時計が不要になった」という単純な1対1の因果関係では説明できない。
ここは重要であり、古くなった設備を更新するには費用がかかり、その設備を利用する人が以前より少なくなれば、同じ数を維持する経済的な合理性は下がっていくため、技術の普及は時計撤去の直接的な唯一の原因ではなく、「撤去しても利用者への影響が以前ほど大きくない」という環境を作った要因の1つと見るのが最も客観的である。
街から消えているのは「共有された時間」なのかもしれない
ここまでの話は統計や制度によってある程度確認できる事実だが、そこから先にはもう1つ別の見方があり、それは、街から失われつつあるのは時計そのものではなく、多くの人が同じ時計を見るという経験なのではないか、という見方である。
かつて駅のホームでは何十人、何百人という人が同じ時計を見て電車を待ち、学校の教室では先生も生徒も壁に掛かった1つの時計を見ながら授業の終わりを待ち、商店街や公園でも、その場所にいる人々が同じ針の位置から時刻を知っていたのであり、そこでは時計は単なる機械ではなく、その場にいる人全員に共通する時間を示す存在でもあった。
これに対してスマートフォンの時刻は完全に個人的なものであり、同じ駅に立っていても、人々は同じ時計を見るのではなく、それぞれの画面を見ており、しかも画面に表示されるのは時刻だけではなく、ある人には乗換案内、ある人には仕事の予定、ある人には家族からの連絡というように、同じ場所、同じ時刻にいながら、別々の情報の世界を見ている。
この意味で、公共時計が減るという現象は、社会全体の情報の受け取り方が変化したことを象徴しているようにも見え、以前は駅や街が人に情報を与えていたが、現在では人が自分の端末を通じて必要な情報を取得するようになり、時間もまた公共空間に掲げられたものから、個人が持ち歩く情報へ変わったのである。
人はいつからスマートフォンで時間を見るようになったのか
最初の問いに戻ると、「何年から日本人は腕時計ではなくスマートフォンを見るようになった」と1つの年を特定することはできないが、それでも複数の調査と普及の推移を重ねると、大きな流れはかなり明確に見えてくる。
2000年代前半には、携帯電話利用者の間で携帯電話を時計代わりに使う行動がすでに広く定着しており、2010年代にスマートフォンが急速に普及すると、その行動はさらに一般化し、さらに2020年代には、東日本旅客鉄道が利用状況や保守負担などとともにスマートフォンの普及を時計見直しの背景として挙げるほど、携帯端末による時刻確認は日常的な行動になっている。
したがって、この約20年間に起きたことを「腕時計がスマートフォンに負けた」と表現するだけでは、変化の本質を捉えきれず、時間は腕からポケットへ移っただけではなく、「今何時なのかを知るための情報」から、「次に何をすればよいのかを判断するための情報」へと役割を広げ、私たちは時計そのものを見る機会を減らしながら、以前より細かく時間に導かれる生活を送るようになった。
いつの日か、昔の駅の写真を見た子どもが、ホームの中央に掛けられた大きな丸時計を指さして、「どうしてこんなに目立つ場所に時計があるの」と不思議そうに尋ねる時代が来るかもしれず、そのとき初めて、私たちは街の時計が持っていた意味に気づくのだろうが、それは単に何時何分かを知らせる機械ではなく、その場所にいる人々が同じ方向へ顔を上げ、同じ時刻を見ながら動くための、静かな共通点でもあったのである。

