リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

写真が少なかった時代には、見る時間があった

 昔の家には、たいてい何冊かの重たいアルバムがあり、布張りの表紙を開くと、少し黄ばんだ台紙の上に写真が並び、その上を透明なフィルムが覆っていて、長い年月のうちに写真の角が浮いていたり、日付を書いた文字が薄くなっていたりしたが、押し入れや本棚から久しぶりに取り出してページをめくり始めると、家族の誰かが隣に座り、「これはどこへ行ったときだっただろう」「この服はよく着ていたね」と話し始め、やがて1枚の写真から、その日の天気や食べたもの、帰り道で起きた出来事までが次々によみがえってくることがあった。

 当時の写真を見るという行為は、画像を確認するだけの作業ではなく、家族が同じ過去をもう一度たどる時間でもあり、写真に写っているものだけではなく、そこには写らなかった声や匂い、その場にいた人の性格、その頃の暮らしぶりまでが会話の中から引き出されることで、1枚の写真が単なる記録を超えて、家族の記憶を呼び戻す入口として働いていた。

 現在では、旅行や誕生日のような特別な日だけでなく、夕食、散歩、買い物、子どもの寝顔、ペットの何気ない仕草まで、スマートフォンを取り出せばほとんど費用を意識せずに撮影できるようになり、個人が保存する写真や動画の量も以前とは比べものにならないほど増えているが、それだけ多くの写真を持っているにもかかわらず、家族全員でまとまった時間を使って写真を眺めるという習慣については、同じように増えたとは考えにくい。

 もっとも、「昔よりアルバムを開く回数が何%減った」と示す全国的な長期統計が十分に存在するわけではないため、これは厳密な統計的事実として断定できる話ではなく、写真を取り巻く生活様式の変化から見えてくる1つの傾向として考えるほうが適切であり、それでも、写真が少なかった時代と大量に保存できる現在とでは、写真との付き合い方そのものが大きく変わったことは確かだろう。

写真には、撮る前の「選択」があった

 フィルムカメラの時代には、写真を1枚撮ることにも小さな決断が必要で、フィルムには撮影できる枚数の上限があり、撮り終えれば現像し、さらにプリントにも費用がかかったため、シャッターを押す前には無意識のうちに「この瞬間を残すか」という選択が働き、その選択が写真1枚ごとの意味を自然に大きくしていた。

 現像してみれば、ピントが少し甘かったり、誰かが目を閉じていたり、構図がずれていたりすることもあったが、現在のように撮影直後に確認して簡単に削除することはできなかったため、そのような失敗写真までアルバムに残り、何年もたってから見返すと、整った写真よりもむしろ失敗写真のほうが、その場の慌ただしさや笑い声を鮮明に思い出させることさえあった。

 さらに、現像された写真を受け取ったあとには、どの写真を残すかを決め、順番を考え、台紙に貼り、ときには余白へ日付や場所を書き込む作業があり、この過程で家族は知らず知らずのうちに、何が重要だったのかを選び直し、ばらばらの出来事を1つの時間の流れとして並べ替えていたのである。

 つまり、昔のアルバムには、写真を保存する機能だけでなく、家族の過去を編集する機能があり、写真そのものが少なかったから価値が高かったというより、限られた写真の中から何を残すかを決める作業が、家族の記憶に輪郭を与えていたと考えるほうが近い。

大量に撮れる時代には、選ぶ仕事が後回しになる

 スマートフォンによって撮影の費用と手間がほとんど意識されなくなると、この関係は大きく変わり、失敗すれば撮り直し、気になる場面では同じ構図を10枚でも20枚でも残せるため、かつて撮影前に行われていた「何を残すか」という判断が薄れ、とりあえず大量に撮影して、必要ならあとから選べばよいという行動が自然になった。

 ところが実際には、その「あとで選ぶ」という作業が行われないことも多く、誕生日の写真が数十枚、旅行の写真が数百枚、1年間では数千枚という規模になると、保存すること自体は簡単でも、その中から本当に残したい写真を選び出す作業には時間がかかり、結果として、何も選ばないまま全てが端末やクラウドの中に積み重なっていく。

 写真の整理に負担を感じる人や、大量の写真の中から目的の1枚を見つけにくいと感じる人が少なくないことは各種の利用調査でも確認されており、これは単純に「写真が多いから悪い」という話ではなく、人間が写真を見るために使える時間や注意力には限界がある一方、保存できる写真の量だけが急速に増えているため、その両者の差が大きくなっていると考えれば理解しやすい。

 仮に、家族が1年間にじっくり見返すことのできる写真の枚数がそれほど変わらないとすれば、500枚の中から見る場合と5000枚の中から見る場合では、1枚の写真が再び選ばれる機会は当然違ってくるため、写真が増えるほど思い出まで比例して豊かになるとは限らず、むしろ「何を見返すかを決める」という新しい負担が生まれることになる。

写真が多いほど記憶が薄くなる、とは単純には言えない

 ここで注意したいのは、大量に写真を撮ること自体が人間の記憶を弱くすると単純に考えることはできないという点であり、心理学の実験では、撮影した対象について細部の記憶が弱くなる場合が確認されている一方、自分で撮影する対象を選ぶことで注意が強く向けられ、特定の視覚情報をよく覚えている場合も報告されているため、「写真を撮ると記憶力が落ちる」という一方向の関係では説明できない。

 写真撮影によって、その瞬間を自分の目で十分に観察する前に「記録したから大丈夫」と感じる場合もあれば、反対に、どこを撮るか考えることで対象へ深く注意を向ける場合もあり、さらに、撮った写真をあとから見返すことによって元の出来事を思い出しやすくなることもあるため、大切なのは撮影枚数そのものより、どのように撮影し、その後どのように写真と付き合うかという点にある。

 このことを考えると、昔のアルバムが記憶に残りやすかった理由も、紙だったからという単純な説明では足りず、限られた写真を選び、それを繰り返し見返し、さらに家族との会話の中でその写真について語るという複数の行為が重なっていたことのほうが重要だったのだろう。

デジタル写真は、本当に「見えない写真」なのか

 紙のアルバムには物としての存在感があり、本棚の端に置かれていれば自然に目に入り、大掃除や引っ越しの途中で偶然手に取ることもあれば、子どもが見つけて「この赤ちゃんは誰」と尋ねることもあるため、自分から探しにいかなくても過去の写真と再会する機会が生まれやすかった。

 デジタル写真の場合、何千枚、何万枚保存されていても、端末の中に収まっている限り、その存在は紙のアルバムほど目に見えず、自分から写真を開かなければ長期間見ないままになることもあるが、現在ではこの点も大きく変化しており、スマートフォンや写真管理サービスには、数年前の同じ日の写真や、旅行、人物、場所などを自動的にまとめ、「思い出」として表示する機能が備わっているため、「デジタル写真は自分から探さなければ二度と現れない」とまで言うことはできない。

 むしろ現在では、機械の側が過去の写真を選び出し、私たちに再提示する時代になっており、これは昔のアルバムにはなかった便利さである一方、そのとき表示される写真が、家族にとって本当に重要な写真なのかという別の問題も生まれ、人物認識、撮影日時、位置情報、画像の鮮明さといった機械が判断しやすい条件と、家族自身が「この1枚には意味がある」と感じる理由が一致するとは限らない。

 その意味では、デジタル化によって写真との偶然の再会そのものが失われたのではなく、「何を大切な写真として選ぶのか」という判断の一部を、私たちが機械に委ねるようになったと考えたほうが現在の状況に近いのかもしれない。

家族写真の価値は、画質より会話の中で生まれる

 昔のアルバムを何人かで囲むと、同じ写真を見ながら、それぞれが違う記憶を話し始めることがあり、一人が「これは海へ行ったときだ」と言えば、別の人が「帰りに雨が降った」と付け加え、さらに別の人が「途中で寄った店があった」と思い出すことで、1枚の写真に複数の記憶が重なり、写真には写っていない出来事まで家族の中で共有されていった。

 祖父母の若い頃の写真を孫が見れば、それまで「祖父」「祖母」という現在の役割でしか知らなかった人にも、学生だった時代があり、働き始めた頃があり、友人と遊びに行った時間があったことを知り、父親や母親の子ども時代の写真を見れば、自分が生まれるずっと以前から家族には長い物語が続いていたことに気づくため、写真を見返すという行為には、過去を思い出すだけでなく、世代の異なる人々の記憶をつなぐ役割もあった。

 写真を用いた回想が、人の自伝的な記憶を呼び出したり、会話を促したりする手掛かりになることは心理学や高齢者を対象とした研究でも知られているが、ここでも重要なのは紙かデジタルかではなく、写真が他者との会話の中で使われることであり、タブレットやテレビ画面に映した写真を家族で眺めても、同じような働きは十分に起こり得る。

 したがって、昔の紙のアルバムを理想化して、デジタル写真を劣ったものとして扱う必要はなく、本質的な違いは保存媒体ではなく、写真を見る行為が1人だけで完結するのか、それとも誰かと一緒に過去を語り直す時間になるのかというところにある。

保存できることと、将来見られることは同じではない

 デジタル写真には、紙焼き写真にはない大きな利点があり、複製が簡単で、複数の場所へ保存でき、遠く離れた家族とも瞬時に共有できる一方、保存場所の変更、端末の故障、アカウントの管理、サービスの終了、ファイル形式や機器の変化といった問題があるため、「クラウドにあるから永久に安全」と考えることもできない。

 デジタル資料の長期保存では、重要なものを選び、複数の場所へコピーし、将来も読み出せる状態を確認することが基本的な考え方とされており、これは家族写真にもそのまま当てはまるため、何万枚もの写真をただ保存し続けることと、50年後にも本当に見たい写真を見られるように残すことは、実は別の問題なのである。

 紙の写真にも退色や湿気、火災、紛失といった危険があるため、紙なら安全、デジタルなら危険という単純な比較は成り立たず、むしろ現在は、紙とデジタルの双方に異なる強みと弱みがあり、重要な写真については複数の形で残すことが現実的な方法になっている。

失われたのはアルバムではなく、「編集する時間」なのかもしれない

 こうして考えてみると、現在の家族写真をめぐる変化の中心にあるのは、紙のアルバムが減ったことでも、スマートフォンが普及したことでもなく、写真を選び、順番を決め、誰かと一緒に見ながら過去を1つの物語としてまとめる時間が、以前より生活の中に組み込まれにくくなったことではないだろうか。

 スマートフォンやクラウドのおかげで、私たちはかつてよりはるかに多くの瞬間を残せるようになったが、その便利さによって写真を整理しなくても困らなくなり、結果として、家族にとって何が重要な1枚なのかを考える機会まで減ってしまったとすれば、問題は技術そのものにあるのではなく、記録を作ることと、その記録に意味を与えることを別々の作業として考えなくなったところにある。

 もちろん、数千枚の写真をすべて印刷して昔と同じ分厚いアルバムを作る必要はなく、1年間に撮った写真の中から20枚でも30枚でも選び、「今年の家族」として見返すだけでも、写真は単なる大量のデータから、1年間を代表する記憶へと変わり始めるだろう。

 選ぶという行為は、残さない写真を決めることでもあるため少し惜しい気持ちが生まれるが、その一方で、「この1枚は残したい」と家族が考えた瞬間に、その写真には他の数千枚とは違う位置が与えられ、それまで端末の中で同じ重さで並んでいた画像の一部が、家族の歴史を語る写真へと変わっていく。

写真を保存することと、思い出を残すことは同じではない

 現在ほど家族の日常が細かく記録されている時代は、おそらくこれまでなかったはずであり、朝食から旅行まで、子どもの成長からペットの仕草まで、私たちは過去の世代とは比較にならないほど多くの写真を残しているが、それでも50年後に現在の家族生活が昔より鮮明に思い出されるとは限らず、その違いを決めるのは保存枚数だけではなく、その写真が何度見返され、誰かに語られ、どのような意味を与えられてきたかという時間なのだろう。

 写真を撮ることが簡単になったのは、確かに大きな進歩であり、昔なら残らなかった何気ない日常まで記録できるようになった価値は小さくないが、その一方で、撮影と保存がほとんど自動的になったからこそ、何を残し、何を見返し、何を家族の記憶として次の世代へ渡すのかという作業は、以前より意識的に行わなければならなくなった。

 家族写真は増えたのに、アルバムを開く機会が減ったように感じられるのだとすれば、その理由は私たちが写真に興味を失ったからではなく、写真を大量に保存できるようになった結果、かつてアルバムを作る過程に自然に含まれていた「選ぶ時間」「並べる時間」「一緒に見る時間」が、日常生活の中から切り離されていったことにあるのかもしれない。

 何千枚もの写真を保存することと、1枚の写真について家族で10分間話すことは、どちらも過去を残す行為ではあるが、記憶という面から見れば同じものではなく、アルバムとは本来、写真をしまっておく容器ではなく、家族が自分たちの過去を選び直し、語り直し、ときには忘れていた出来事にもう一度出会うための場所だったと考えれば、デジタル写真の時代になった現在でも、その役割まで失う必要はないのである。

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