リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

入ったことのない店なのに、なくなると気になる

 いつもの道を歩いていて、昨日まで何となく視界の端にあった店の看板が外され、窓の内側から商品棚や椅子が消え、入口に「閉店しました」と書かれた紙だけが残されているのを見ると、それほど思い入れのある店でもないのに、街の一部が急に冷たくなったような感覚を覚えることがある。何度も利用した店なら、その寂しさは昔の記憶や店員との会話、そこで買った物や食べた料理と結びつけて説明できるが、不思議なのは、一度も中へ入ったことがなく、店主の顔さえ知らない店が閉じた場合にも、「なくなってしまったのか」と少し残念な気持ちになることである。

 さらに奇妙なのは、閉店を知った瞬間になって初めて「あの店、一度くらい入ってみればよかった」と思うことであり、本当に強い関心があったのなら営業している間に入っていたはずなのだから、この感情を単純な後悔と呼ぶには少し無理がある。では、私たちは店そのものを惜しんでいるのか、それとも、その店が存在していた風景や、そこへ行くこともできた可能性や、その店の前を通っていた自分自身の時間まで含めて惜しんでいるのだろうか。

 最初に区別しておきたいのは、「一度も利用したことのない店が閉店すると人は寂しく感じる」という単独の心理法則が科学的に確立しているわけではないという点である。しかし、その感情を構成している可能性のある現象については、心理学、環境心理学、意思決定研究、都市研究などに相当な研究蓄積があり、見慣れた対象への親近感、場所への愛着、環境変化の認識、選択肢を失ったときの心理、場所と自己の記憶との関係などは個別に研究されている。そこで、どこまでが研究によって確認されていることで、どこからがそれらを組み合わせた推論なのかを区別しながら、この小さな寂しさの正体を考えてみたい。

見慣れた店は、利用しなくても日常へ入り込む

 研究で確認されているのは、同じ対象に繰り返し接することによって、その対象への親近感や好意が生じやすくなるMere-Exposure Effect(単純接触効果・繰り返し接触した対象を好意的に評価しやすくなる現象)であり、この効果については多数の実験研究や統合的な分析が行われている。ただし、接触回数が増えれば好意が際限なく高まるという単純な関係ではなく、刺激の種類や接触回数によって効果の大きさが変わることも知られているため、「何度も見れば必ず好きになる」という意味ではない。

 それでも、ここから確実に言えるのは、「店を利用したことがあるか」と「その店を見慣れているか」は別の問題だということである。一度も入ったことのない喫茶店でも、通勤や買い物の途中に5年、10年と前を通り続ければ、その看板や入口、窓の位置、夜につく照明などは視覚的に見慣れたものとなり、本人が意識していなくても「いつもの道」を構成する要素になり得る。

 ここからは推論になるが、そのように長期間見慣れた店が突然なくなれば、「知らない店が1軒消えた」という情報以上に、「いつも存在していたものがなくなった」という違和感が生じ、その違和感の一部が寂しさとして経験される可能性はある。つまり、客としての関係がなかったとしても、風景としての関係までなかったとは限らず、閉店によって失われるのは店舗との利用関係ではなく、長い時間をかけて形成された「見慣れた状態」なのかもしれない。

人は店だけでなく、その店がある場所にも愛着を持つ

 研究で確認されているのは、人間が住宅や故郷だけでなく、地域、道路、広場、店舗などの「場所」にも心理的な結びつきを形成することがあり、環境心理学ではこれをPlace Attachment(場所愛着・特定の場所に対して形成される情緒的、認知的な結びつき)として研究してきたことである。また、ある場所が自分の記憶や自己認識と結びつく現象はPlace Identity(場所アイデンティティ・場所が自己認識の一部になること)という概念からも研究されており、人と場所との関係が単純な利便性や利用頻度だけでは説明できないことについては、多くの研究が蓄積されている。

 店舗についても、利用する店への愛着が形成され得ることや、その店への愛着と地域そのものへの愛着が関連することは研究されているが、ここで注意しなければならないのは、こうした研究の多くが実際の利用者を対象としていることである。したがって、「一度も入ったことのない店にも、利用していた店と同じような場所愛着が必ず生じる」と言うことはできない。

 ここからは慎重な推論になるが、一度も利用していない店そのものへの愛着というより、その店を含む街路や地域全体への愛着の一部として、店の存在が心理的な意味を持つことは十分考えられる。毎日眺めていた店があることで、その通りが「いつもの通り」に見えていたのであれば、閉店によって失われたのは好きだった店ではなく、その店まで含めて成立していた見慣れた風景であり、「あの店が好きだった」というより「あの店がある景色に慣れ親しんでいた」と表現する方が、科学的にはより慎重である。

変化には、気づくものと気づかないものがある

 研究で確認されているのは、人間が環境の変化を正確に認識するためには注意や、変化前と変化後の情報を比較する過程が重要であり、実際にはかなり大きな変化であっても、それに適切な注意が向けられなければ見落とすことがあるということである。この現象はChange Blindness(変化盲・視覚的な変化が起きても、それに注意が向けられていないと気づかないことがある現象)として研究されており、「環境の変化は常に自動的に強く意識される」と考えるのは正確ではない。

 その一方で、いったん「以前と違う」と気づけば、それまで背景として処理していたものを改めて意識することがある。毎日前を通っていた店が営業しているうちは特に気に留めていなかったとしても、看板がなくなり、店内が空になったことに気づいた瞬間、「そういえば、ここにはあの店があった」と以前の状態を思い出し、現在との違いを比較することになる。

 ここからは推論になるが、この「以前」と「現在」の比較が、閉店後の寂しさを生む一つの契機になっている可能性がある。つまり、店がなくなったことで突然その店自体の価値が高くなったのではなく、消失によって過去の状態が意識され、その結果として「昨日まであったものが、今日はもうない」という時間的な差が感情を伴って認識されるのかもしれない。

「いつか入れる」という未来は、営業している間だけ存在する

 研究で確認されているのは、人間の意思決定では、利用できなくなった選択肢がその後の評価や選択に影響したり、選ばなかった選択肢を後から魅力的に感じたりする場合があるということである。また、選択肢が制限されることによって意思決定への満足感が変化することも研究されており、人間は実際に選んだものだけではなく、「選ぶこともできたもの」に対しても心理的な反応を示す。

 ここからは推論になるが、一度も入らなかった洋食店でも、営業している限り、「今度時間があったら入ってみよう」「誰かと一緒なら行ってもいい」という未来は残されているため、実際にはその予定を立てていなくても、行こうと思えば行けるという選択肢そのものは存在している。しかし閉店した瞬間、昨日までなら選べた行動が永久に選べないものへ変わり、「一度くらい入ってみればよかった」という感情が初めて生まれることがある。

 これは必ずしも、本当はその店へ行きたかったという意味ではない。むしろ「行かなかった」という状態から「もう行けない」という状態へ変化したことによって、初めてその選択肢を意識したと考えることもできる。ただし、「選択可能性の消失が閉店時の寂しさを直接引き起こす」という因果関係そのものが実験的に確立しているわけではないため、この説明は意思決定研究から導いた合理的な仮説として扱う必要がある。

知らない店にも、知らない誰かの時間があった

 研究で確認されているのは、人間が他者の行動や意図を推測し、断片的な情報から他人の生活や背景を想像する社会認知能力を持っていることである。しかし、「長年続いた個人商店が閉店すると、店主の人生を想像するため寂しくなる」という特定の因果関係が直接検証されているわけではないため、この部分については科学的知見と文学的な解釈を明確に分ける必要がある。

 ここからは推論になるが、30年、40年と続いてきた店のシャッターが下りているのを見れば、店主の名前を知らなくても、そこには毎朝店を開け、商品を並べ、客を迎え、夕方になると片付けをして店を閉める生活が何十年も続いていたのだろうと想像することができる。開店したころには若かった店主も年齢を重ね、その間に常連客が変わり、周囲の建物も建て替わり、街を走る車や人々の服装まで変化してきたはずであり、その具体的な歴史を知らなくても、「ここで続いていた誰かの日常が終わった」と感じることはあり得る。

 この想像が閉店への寂しさをどの程度強めるのかは統計的に明らかになっていないが、個人商店の閉店が単なる店舗の入れ替わりではなく、そこで長く続いてきた人の生活の終わりとしても見えることがあるという解釈は、人間の社会認知の性質とは矛盾しない。

店が消えると、自分が過ごした年月まで見えてくる

 研究で確認されているのは、場所が過去の自分と現在の自分を結びつける手掛かりとなり、Self-Continuity(自己連続性・過去の自分と現在の自分を連続した存在として感じること)を支える場合があるということである。昔住んでいた家、通学路、古くからある街並みなどを見ると、その場所に結びついた記憶が呼び起こされ、「昔の自分」と「今の自分」が同じ場所を通してつながることがあり、Place-Referent Continuity(場所参照的連続性・場所を手掛かりとして自己の時間的な連続性を感じること)という考え方からも研究されている。

 ただし、「近所の店が閉店すると自分が年を取ったことを実感する」という現象が、閉店店舗を対象とした直接的な実験によって確立しているわけではない。ここからは推論になるが、「この店は自分が若いころからあった」という記憶を持つ人にとって、その店がなくなることは年月の経過を急に意識するきっかけになる可能性があり、「この店もなくなったのか」という感覚の奥に、「あれからそんなに時間がたったのか」という驚きが混ざることは十分考えられる。

 長年変わらなかった店は、本人が意識していなくても街の中に置かれた時間の目盛りのような役割を果たしており、その目盛りが一つ消えたとき、私たちは店の歴史だけでなく、その横を通り続けてきた自分自身の年月まで振り返ることがある。閉店した店がときに自分の過去を映す小さな鏡のように感じられるとすれば、その背景にはこうした場所と自己の記憶との結びつきがあるのかもしれない。

街には、現在だけではなく過去の風景も残っている

 研究で確認されているのは、場所と記憶が強く結びつき、特定の場所を見ることが過去の経験を呼び起こす手掛かりになり得るということである。ただし、「店がなくなれば以前より記憶が鮮明になる」という単純な法則が確立しているわけではなく、何を記憶し、何を忘れるかには個人差があり、時間の経過によって記憶が薄れる場合も当然ある。

 ここからは推論になるが、新しい店になった場所を見ることで、「ここは昔、本屋だった」「その前は喫茶店だった」と過去の風景を思い出す機会が生まれれば、現在と過去の違いそのものが記憶を呼び起こす手掛かりになることは考えられる。新しい店が何年も営業すれば、やがてその新しい風景も日常になるだろうが、以前の店を知る人の記憶から古い風景が完全に消えるとは限らず、同じ場所に複数の時代の街並みが重なって残ることになる。

 街を長く知っている人ほど、「いま目の前にある街」だけを見ているのではなく、その場所に以前あった店や建物を重ねながら歩いているのかもしれない。若い人には新しい店しか見えていない場所でも、長く暮らした人には2つ、3つ前の風景まで重なって見えることがあり、街とは建物の集合であると同時に、それを見る人の記憶の中に積み重なった時間の集合でもある。

制度面でも、商店街は「売買するだけの場所」ではない

 制度面で確認できるのは、日本の商店街政策において、商店街が商品を販売するだけの場所ではなく、地域の賑わい、住民の交流、生活支援、情報発信などを担う「地域の顔」やコミュニティの拠点として位置づけられていることである。また、行政は商店街について空き店舗、来街者、景況などを継続的に調査しており、店舗の減少や空洞化を個々の商店だけの経営問題ではなく、地域環境にも関わる課題として扱っている。

 ただし、制度上のこの評価は主として「商店街」という面的な単位に対するものであり、個々の商店すべてが、それぞれ単独で地域コミュニティの拠点として認定されているという意味ではない。また、1軒の店が閉店したからといって、それだけで地域社会が弱体化すると結論づけることもできず、人口構成、交通、商業集積、代替店舗の有無などによって影響は大きく異なる。

 ここからは記事としての推論になるが、人が街を感じるとき、自分が実際に利用するスーパーや病院や飲食店だけを見ているわけではなく、一度も入らない商店、夕方になると明かりがつく事務所、知らない人が集まる居酒屋、季節によって商品が変わる店先などを含めた全体の風景から「この町らしさ」を感じているのではないだろうか。その意味では、自分が利用しない店であっても、その存在が街の雰囲気の一部を構成していた可能性があり、閉店による寂しさの中には、客としての不便とは別の、景観や地域環境の変化への反応が含まれているのかもしれない。

数理的に考えると、寂しさは一つの原因では説明しにくい

 研究で確認されている各要素を数理的に考えるなら、閉店時の寂しさを一つの原因だけに結びつけるよりも、複数の要因が重なって生じる現象として考える方が自然である。仮に閉店した店に対する寂しさを目的変数とすれば、店の前を通る頻度、店を利用した回数、その地域に暮らしてきた年数、店舗の営業年数、個人店かチェーン店か、その場所への愛着、閉店によって失われる選択肢の大きさなどを説明変数として考えることができる。

 ただし、ここで重要なのは、それぞれの要因が寂しさにどの程度影響するのかという係数が分かっているわけではないことである。店の前を通る頻度が高いほど寂しさが強くなるのか、長く営業していた店ほど影響が大きいのか、利用経験がゼロでも通過頻度が高ければ利用経験のある店と同程度の感情が生じることがあるのかといった点は、実際にデータを集めなければ判断できない。

 したがって、現在の研究状況を数理的に表現するなら、「閉店への寂しさを説明できそうな変数の候補はかなり見えているが、それぞれの変数の重みはまだ推定されていない」という段階に近い。これは理論が間違っているという意味ではなく、理論的なモデルと、そのモデルを検証する実証研究とを分けて考える必要があるということである。

統計的には、まだ分からないことが多い

 統計的に確認されているのは、単純接触効果、場所愛着、場所アイデンティティ、利用不能になった選択肢への反応などについて、それぞれ多数の研究や実験が存在するということである。一方で、「一度も利用したことのない店が閉店したとき、何%の人が寂しさを感じるのか」「その寂しさのうち、見慣れた風景の消失が何%を説明し、選択肢の消失が何%を説明するのか」といった直接的な統計値は、現時点では十分に確立していない。

 もしこの現象を本格的に検証するなら、閉店した店舗について、利用回数、前を通る頻度、店舗の営業年数、その土地への居住年数、個人店かチェーン店か、閉店後に空き店舗になったのか別の店が入ったのかなどを測定し、閉店時の寂しさを5段階や7段階で評価してもらう方法が考えられる。そうしたデータを用いれば、順序ロジスティック回帰などで各要因の影響を推定したり、Structural Equation Modeling(構造方程式モデリング・直接観測できない心理概念を含め、複数の要因の関係を同時に分析する統計手法)によって、見慣れ、場所愛着、自己連続性などが寂しさに至る経路を検証したりすることも可能になる。

 したがって、現在科学的に言えるのは、人が反復接触した対象に親近感を形成し得ること、場所にも心理的な結びつきを持つこと、環境変化の認識には注意と比較が関係すること、場所が自己の記憶や連続性と結びつくこと、利用できなくなった選択肢への評価が変化する場合があることまでである。それらが組み合わさって「一度も入ったことのない店の閉店まで寂しく感じる」という現象が生じるという説明は、科学的知見と整合する有力な推論ではあるが、その現象全体が一つの法則として直接証明されているわけではない。

「一度くらい入ればよかった」という言葉の正体

 ここまで研究で確認されていることと、そこから合理的に導ける推論とを分けて考えてみると、閉店した店を前にして「あの店、一度くらい入ってみればよかった」と感じる心理を、一つの理由だけで説明することが難しいことが分かる。そこには、何年も見てきた対象がなくなったこと、店を含めた場所への愛着、行こうと思えば行けた可能性が失われたこと、その場所が自分の過去を呼び起こすこと、そして長く続いていた他人の日常を想像することなどが、程度の差はあっても重なっている可能性がある。

 ここから先は、この現象全体についての推論になる。閉店した店を惜しんでいるように見えても、実際には私たちは店だけを惜しんでいるのではなく、その店が存在していた状態そのものを惜しんでいるのかもしれない。昨日までは店があり、その前をいつものように通り、行こうと思えば入ることもできたが、今日はシャッターが下り、その未来はもう選べず、昨日まで当たり前だった風景にも戻ることはできないため、そこでは店舗の消失と同時に、小さな時間の断絶が起きている。

 だから、一度も入ったことのない店が閉店したと知ったときにも、私たちはほんの少し足を緩めることがある。その寂しさは、「好きだった店を失った」という単純な感情ではなく、何度も見てきた風景が変わったこと、選べたはずの未来が閉じたこと、その場所に積み重なっていた時間が途切れたこと、そして昨日までその風景の中を歩いていた自分自身も、同じ時間だけ前へ進んでいたことを一度に感じるために生まれるのかもしれない。

 一度も入らなかった店なのに、なくなると寂しいという感覚は、一見すると矛盾しているように見える。しかし、人間が利用したものだけで自分の世界をつくっているのではなく、見慣れたもの、選ばなかったもの、知らない誰かが暮らしている場所、そして自分の記憶と結びついた風景まで含めて日常をつくっていると考えれば、その寂しさはそれほど不思議なものではなくなる。閉店した店の前で失われたように感じるのは、一軒の店だけではなく、その店が何気なく存在していた「昨日までの世界」なのである。

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