大雨が降ったとき、川からあふれる水をどう防ぐか。そう問われれば、堤防を高くする、川幅を広げる、調節池を造るといった対策が思い浮かぶ。しかし、近年の治水政策では、川に水が集まってから対処するだけでなく、そもそも川に水が集まる速度を遅くするという発想が重視されている。その役割を、私たちが普段見慣れている水田に担わせようというのが「田んぼダム」である。特別な巨大施設を造るのではなく、水田の排水口に小さな器具を取り付けることで、下流の浸水リスクを軽減しようという試みだが、本当にそれほどの効果が期待できるのだろうか。
千葉県でも田んぼダムへの取組が進められており、農林水産省の2024年度実績によれば、県内6市町村の893ヘクタールで実施されている。ただし、この数字を前年と比較すると、少し気になる事実が見えてくる。2023年度は5市町村で894ヘクタールだったため、国が把握した市町村数は増えているのに、面積はほぼ変わっていないのである。一方、全国では同じ期間に取組面積が約14.5%増加している。もちろん、この違いだけで千葉県の普及が遅れていると断定することはできないが、全国で広がる田んぼダムが千葉県ではどのような形で実施されているのか、詳しく調べる価値はありそうだ。
さらに千葉県は、2024年度から2026年度までの3年間を対象として、独自の導入支援事業を設けた。2024年度と2025年度には、それぞれ1,000万円の予算が計上されている。しかし、その補助制度が対象としているのは、一宮川、作田川、南白亀川の3水系であり、県内のすべての水田が利用できるわけではない。なぜ特定の流域に限定されているのか、農業者にはどのような負担が生じるのか、そして夷隅川が流れる房総半島南東部にも田んぼダムを活用できる余地はあるのか。農林水産省、千葉県、市町村の公表資料をたどっていくと、この取組が単なる排水技術ではなく、農業と防災、さらに地域社会における利益と負担の分配という問題につながっていることが分かってくる。
川を大きくするのではなく、川へ流れる水を遅くする
田んぼダムという名前から、新たに貯水池を造ったり、川の水を水田へ引き込んだりする仕組みを想像するかもしれない。しかし、実際には、水田に降った雨を一時的にとどめ、下流へ流れ出す速度を抑える取組である。水田の周囲には畦があり、通常でも一定量の雨水をためる機能を持っている。田んぼダムは、その排水口に堰板や穴の開いた調整板などを取り付けることで、雨水が一度に排水路へ流れ込むことを防ぎ、水田本来の貯留機能を強化しようとするものである。したがって、河川の洪水を水田へ引き込む遊水地とは仕組みが異なり、農作物の生産に支障を与えない範囲で運用することが前提となる。
この仕組みを理解するうえで重要なのは、雨水の総量だけでなく、その水が下流へ到達する時間である。例えば、同じ時間帯に広い地域で激しい雨が降り、複数の排水路から一斉に水が流れ込めば、川の水位は短時間で上昇しやすくなる。一方、水田からの排水を遅らせることができれば、水が川へ集まる時刻が分散され、最大流量を小さくできる可能性がある。雨そのものを減らすことはできなくても、雨水の移動速度を変えることで、河川や排水路に集中する負荷を緩和しようという考え方である。
ただし、排水を遅らせれば必ず川の最高水位が下がるというわけではない。水田から遅れて流れ出した水が、別の支流からの増水と同じ時間帯に到達する場合も考えられるため、実際の効果は降雨の時間的な変化、水田の配置、排水路の構造、河川の流下能力などによって異なる。農林水産省が2026年3月に公表した「田んぼダムの手引き」でも、水田単位の流出抑制から排水路、小河川、流域全体の浸水軽減までを区別して説明しており、田んぼダムの効果を理解するには、どの段階の水の流れを評価しているのかを明確にする必要がある。
排水のピークを80%抑えても、洪水被害が80%減るわけではない
田んぼダムの科学的な効果については、各地で観測や数値シミュレーションが行われている。農林水産省の2026年版手引きには、熊本県球磨川流域の水田を対象とした2022年の実証結果が紹介されており、田んぼダムを実施していない水田と比較した最大排水流量の削減率は、観測できた複数の降雨イベントで約46~80%に達している。さらに、総雨量641.5ミリメートルとなった降雨については、計測上の不調により流出量を直接観測できなかったため、水田の湛水深や降雨量から数値モデルで再現した結果、約82%の抑制効果が推定されている。ここでは観測値と計算値を区別する必要があるものの、田んぼダムが水田からの排水ピークを大きく抑える場合があることは、実証的に示されている。
もっとも、この結果を「洪水被害が約46~80%減る」と解釈することはできない。測定されているのは、あくまで調査水田から流れ出す水の最大流量であり、下流河川の最高水位でも、住宅の浸水件数でもない。水田からの排水ピークを大幅に抑制できたとしても、流域全体で見れば山林、道路、市街地などからも雨水が流出しているため、水田の占める割合が小さければ河川全体への影響は限定的となる。また、実証地区の排水器具や畦の高さ、降雨条件が異なれば、同じ削減率が得られるとは限らない。水田で観測された効果を地域全体の防災効果として説明するには、流域全体の水の動きを調べる必要がある。
一方、流域を対象とした数値シミュレーションでは、浸水面積そのものが減少する可能性も示されている。農林水産省の手引きに掲載された新潟県白根流域の解析では、2011年7月27~30日に発生した、3日間の雨量が300ミリメートルを超える豪雨について、当時の浸水状況を再現したうえで、田んぼダムを実施していなかった場合の状況を計算している。その結果、田んぼダムを実施しない場合の推計浸水面積1,566ヘクタールに対し、実施した場合は1,137ヘクタールとなった。差は429ヘクタールであり、未実施の場合を基準とした減少率は約27.4%となる。
この解析では、流域面積7,500ヘクタール、水田面積率61%、田んぼダム実施率39%などの条件が設定されている。実際の豪雨時の浸水状況を再現したうえで、田んぼダムがなかった場合と比較している点に意義があるが、429ヘクタールの浸水が現地で直接観測によって防がれたという意味ではない。また、流域の地形や水田の割合が異なる千葉県でも同じ27.4%の効果が得られると考えることはできない。田んぼダムの治水効果は科学的に裏付けられているものの、その大きさを地域ごとに確かめる作業が不可欠なのである。
全国で14.5%増加したのに、千葉県の取組面積はほぼ変わらなかった
農林水産省農村振興局の集計によれば、全国で田んぼダムに取り組む水田の面積は、2023年度の86,846ヘクタールから2024年度には99,416ヘクタールとなり、12,570ヘクタール増加した。増加率は約14.5%であり、回答市町村数も279から348へ増えている。全国的には田んぼダムの取組が広がっていることを示す数字だが、この統計には重要な注意点がある。それは、取組面積が「自治体が面積を把握しているものに限る」とされており、すべての水田を網羅的に調査した結果ではないことである。
千葉県についても同じ注意が必要である。公表値では2023年度が894ヘクタール、2024年度が893ヘクタールであり、差は1ヘクタール、減少率は約0.11%となる。しかし、面積は四捨五入された数値であり、自治体側の把握状況や集計対象が変わる可能性もあるため、この1ヘクタールの差を実際の導入面積の減少と断定することはできない。また、回答市町村数が5から6へ増えたことについても、実際に新たな市町村が取組を開始したことまで、この集計表だけで確認できるわけではない。少なくとも、2023年度と2024年度の国が把握した面積はほぼ同規模であったと理解するのが適切だろう。
それでも、県内で田んぼダムがどの程度普及しているかを知るためには、893ヘクタールという数字をほかの指標と比較する必要がある。農林水産省の2023年耕地面積調査によれば、全国の田の耕地面積は233万5,000ヘクタール、千葉県は7万1,500ヘクタールである。同じ2023年の田んぼダム取組面積をそれぞれの田の耕地面積で割ると、全国は約3.72%、千葉県は約1.25%となり、千葉県の比率は全国の約3分の1に相当する。
この比率は、田の耕地面積に対して田んぼダムの取組面積がどの程度あるかを示す参考指標であり、正確な導入可能面積に対する普及率ではない。分母には田んぼダムに適さない水田も含まれ、分子についても自治体が把握した面積に限られるため、数字の低さだけで政策の取組が不十分だと評価することはできない。それでも、県内の水田資源全体に対して、国が把握している田んぼダムの規模が比較的小さいことは読み取れる。今後、千葉県で田んぼダムの活用を検討するなら、単純に面積を増やすことよりも、どの水田で導入が可能で、どの流域で効果を期待できるのかを調べることが重要になる。
なお、2026年9月16日の千葉県議会一般質問について公開された非公式の答弁書き起こしには、2025年度末時点で県内6市町、約935ヘクタールの取組があるとする内容が記載されている。2024年度の893ヘクタールとの差は単純計算で約42ヘクタール、約4.7%に相当するが、この935ヘクタールは概数であり、農林水産省の確定した年度別集計表との照合はできていない。したがって、県内の取組が2025年度に拡大した可能性を示す参考情報として扱うべきであり、確定値に基づく増加率として断定することは避けたい。
白子町の767ヘクタールと、茂原市の39個の排水器具
千葉県内の実施状況をもう少し詳しく見ると、地域によって取組規模に大きな違いがあることが分かる。関東地方の流域治水に関する資料では、2023年度の主な実施市町村として、白子町767ヘクタール、茂原市47ヘクタールが挙げられている。両市町を合わせると814ヘクタールとなり、同年度の千葉県全体894ヘクタールの約91.1%に相当する。つまり、少なくとも2023年度においては、県内で把握されている田んぼダムの大部分が、長生地域の特定の市町に集中していたことになる。
白子町の767ヘクタールは県内の主要な取組地域であることを示す数字だが、2024年度以降も同じ面積が維持されているかどうかについては、今回確認した市町村別資料だけでは確定できない。また、千葉県全体の2024年度実績893ヘクタールについても、6市町村それぞれの内訳は国の公表集計表に示されていない。そのため、過年度の白子町や茂原市の数値を使って2024年度の893ヘクタールを分解することはできず、地域別の推移を正確に判断するには、県または各市町村が保有する実績報告書との照合が必要になる。
一方、茂原市の2024年度事務事業評価資料には、より具体的な活動内容が記載されている。市は早野地区に37個、立木地区に2個の田んぼダム用枠を支給し、取組面積を約7ヘクタール拡大したとしている。器具の数は合計39個だが、水田の区画や排水口の数が異なるため、この数字を単純に面積で割って、器具1個当たりの平均的な性能や受け持ち面積を評価することはできない。むしろ注目すべきなのは、同じ資料のなかに、事業をさらに進めるうえでの課題として、農業者の労務費の確保が記されていることである。
茂原市は、資材を支給する方式では耕作者の労務費を十分に確保できないことや、田んぼダムの必要性について周知が不足していることを課題として挙げている。これは、田んぼダムを増やすには排水器具を購入するだけでは不十分であり、取り付けや維持管理を担う人の時間と労力を考えなければならないことを示している。防災対策としての有効性が期待される一方、その実施を農業者の日常的な管理作業に依存しているところに、田んぼダムの特徴と難しさがある。
年間1,000万円の支援で、農家の負担はどこまで軽くなるのか
千葉県は2024年度から「地域が協働して取り組む田んぼダム導入支援事業」を開始した。県の2025年度予算説明では、2023年9月の大雨による甚大な被害を踏まえ、一宮川水系など近年浸水被害が多く発生している地域を対象に、2024年度から2026年度までの3年間で緊急的に導入を支援するとしている。2024年度と2025年度には、それぞれ1,000万円の予算が計上されているが、2026年度については、今回確認できた予算資料から同じ事業名による計上額を特定できなかったため、3年間の計画期間と各年度の予算額は分けて理解する必要がある。
県の実施要領では、補助対象となるのは一宮川、作田川、南白亀川の3水系の市町村であり、田んぼダムを始める際に必要な堰板や調整管、排水桝などの材料費や購入費を、原則として2分の1以内で補助する。さらに、同じ水田に対する支援は1回限りとされているため、設備の導入時には支援を受けられても、その後の管理に伴う費用まで継続的に補助する仕組みではない。したがって、予算額が1,000万円であることだけを見て、農業者の負担が十分に軽減されると判断することはできない。
また、予算額は支出予定の枠であり、実際の支出額とは異なる。仮に年度内に1,000万円の予算が計上されていても、交付申請が少なければ執行額は小さくなる可能性があり、逆に需要が大きければ予算によって支援できる範囲が制約される。補助制度の実効性を評価するには、採択された地区数、購入した器具の数量、実際に支出された金額、新たに導入された水田面積を確認する必要がある。県全体の田んぼダム取組面積と補助予算だけでは、補助金によって何ヘクタール増えたのかを正確に算出することはできないのである。
さらに、田んぼダムへの支援制度は千葉県独自の事業だけではない。国の多面的機能支払交付金には、水田の雨水貯留機能を強化する活動への加算措置があり、2026年度の制度案内では、都府県について10アール当たり400円という単価が示されている。ただし、対象となる活動組織には事業計画や取組面積などの要件があり、加算の適用には、原則として対象となる田の面積の5割以上で田んぼダムに取り組むなどの条件が設定されている。また、活動年数などによって加算単価に調整が適用される場合もあり、すべての農家が同じ金額を無条件に受け取れる制度ではない。
仮に100ヘクタールが加算対象となり、全体に10アール当たり400円の単価が適用されるとすれば、加算額は年間40万円となる。この数字は一定の管理活動を支える資金にはなり得るが、100ヘクタールの水田を管理する組織の作業量や人件費が明らかでない以上、十分な金額かどうかを評価することはできない。県の器具購入費補助と国の活動支援では目的も交付条件も異なっており、田んぼダムを継続的な地域の治水対策として位置付けるためには、導入時の費用と、その後に必要となる管理費用を分けて考えることが重要になる。
水をためることが、農家の仕事を妨げる場合もある
田んぼダムは水田に雨水を一時的にためる取組である以上、農業者が日常的に行っている水管理との関係を避けて通ることはできない。水稲栽培では、生育時期によって必要な水深が異なり、田面を乾かすために排水が必要になることもある。特に収穫前など、農業機械を水田に入れるために地面を乾燥させたい時期には、雨水の排水が遅れることで作業に影響が出る可能性がある。排水を遅らせることは治水上の利益につながり得るが、営農にとっては必ずしも利益となるわけではない。
農林水産省の2026年版手引きには、田んぼダムを継続的に実施している地区の農業者を対象としたアンケート結果が紹介されており、排水の遅れによって農作業への影響を経験した回答者が約20%いたとされている。この数字は、すべての農業者の約20%に同様の問題が生じるという意味ではなく、調査対象となった地区や回答者の条件を踏まえて読む必要がある。それでも、一定の農業者が実際に不都合を経験していることは無視できない。作業への影響が発生する時期やその程度によっては、参加の継続をためらう理由になる可能性がある。
もちろん、田んぼダムによって必ず収量が減少するわけでもない。農林水産省が整理した実証研究では、適切な器具を使用した水田で、水稲の収量や品質に明らかな悪影響が確認されなかった例も示されている。ただし、これはどのような水田でも影響が発生しないことを保証するものではなく、畦の強度、排水設備、栽培時期などの条件が適切であることが前提となる。手引きで畦の高さを30センチメートル程度とする目安が示されているのも、畦を越えて水が流出しないようにするためであり、常に30センチメートルの深さまで水をためてよいという意味ではない。
こうした事情を考えると、農業者が田んぼダムへ協力するには、効果を説明するだけでは十分ではない。必要な排水設備を整え、農作業への影響をできるだけ抑えるとともに、設置や補修に要する負担を誰が引き受けるのかを明らかにする必要がある。下流の住宅地が浸水被害の軽減という利益を受ける一方、上流の農家が管理負担を負うのであれば、その利益と負担を地域全体でどのように分かち合うかという問題が生じる。茂原市の事務事業評価に労務費の課題が記されていることは、こうした制度上の問題が抽象的な議論にとどまらず、現実の事業運営でも重要になっていることを示している。
佐倉市の30ヘクタールから見える、目標面積と治水効果の違い
千葉県内では、茂原市や白子町とは異なる地域でも田んぼダムの取組が行われている。佐倉市の飯田地区では、飯田環境保全会が2022年から約30ヘクタールの水田で田んぼダムに取り組んでおり、国土交通省の「流域治水オフィシャルサポーター」に認定されている。佐倉市の公表資料には、想定貯留量を約30,000トンとする記述もあるが、これは約30ヘクタールの水田に10センチメートルの水をためるという条件に基づく計算であり、実際の豪雨時に常に30,000トンの追加貯留が確保されるという意味ではない。
佐倉市が公表した国土強靱化地域計画の変更案では、2024年度の取組面積30ヘクタールに対し、2028年度の目標値として100ヘクタールが示されている。これを単純に比較すると、70ヘクタールの増加、現状値の約3.3倍となるが、目標が達成された場合に河川の最高水位や浸水面積がどの程度変化するかは、別に検証する必要がある。取組面積は行政が把握しやすい指標である一方、水害をどれだけ減らせたかという最終的な成果を直接示すものではないからである。
ここで重要なのは、田んぼダムの政策評価において、設備の導入規模と治水上の成果を混同しないことである。例えば、同じ100ヘクタールの水田でも、浸水しやすい住宅地に接続する排水路の上流に配置されている場合と、下流に住宅などの被害対象が少ない場合とでは、社会的な効果は異なる可能性がある。田んぼダムを広く導入すること自体には意義があるとしても、面積を増やすことが最終目的になれば、どの地域のどのような水害リスクを減らそうとしているのかという本来の課題が見えにくくなる。
100ヘクタールに5センチの水をためれば、何が分かるのか
田んぼダムの規模を理解するために、単純な数量計算をしてみたい。仮に100ヘクタールの水田で、通常より平均5センチメートル多く雨水をとどめられるとする。1ヘクタールは10,000平方メートルなので、100ヘクタールは100万平方メートルであり、これに追加水深0.05メートルを掛けると、追加的な水の体積は50,000立方メートルとなる。水1立方メートルの質量をおよそ1トンとすれば、約50,000トンに相当する計算である。
ただし、この数字は水田全体に平均5センチメートルの追加水深が生じると仮定した幾何学的な計算結果であり、実際の田んぼダムの治水効果を直接表すものではない。豪雨が始まる前に水田へどの程度の水がたまっているか、畦の高さや強度がどの程度あるか、降雨中に排水口からどれだけ水が流れ出すかなどによって、実際に確保できる貯留量は変化する。また、田んぼダムは完全に排水を止める仕組みではないため、一時的に水田にとどまっている水の量と、下流へ流れる水のピークをどれだけ小さくできるかという指標も一致しない。
この違いは、田んぼダムの費用対効果を考えるときにも重要になる。仮に50,000立方メートルの水を一時的にとどめることができても、それによって下流の浸水面積が何ヘクタール減り、住宅や道路の被害が何円軽減されるのかは、排水路や河川の流れを再現した水文・水理モデルがなければ判断できない。費用についても、器具の購入費だけでなく、設置作業、補修、維持管理、農作業への影響などを含める必要があるため、県全体の補助予算と取組面積を割り算するだけで、田んぼダムの経済的な効率性を評価することはできないのである。
夷隅川流域の水田約7,780ヘクタールという数字をどう読むか
千葉県の公表資料によれば、夷隅川は勝浦市の清澄山を源流とし、大多喜町などを経て、いすみ市で太平洋に注ぐ二級河川である。流路延長は67.5キロメートル、流域面積は299.4平方キロメートルに及び、流域は勝浦市、大多喜町、御宿町、いすみ市の4市町にまたがっている。土地利用では山地が約57%、水田が約26%を占めるとされており、山地と水田が流域の大部分を構成している点に特徴がある。
この水田割合26%を流域面積299.4平方キロメートルに掛けると、約77.8平方キロメートル、すなわち約7,780ヘクタールという面積が得られる。数字だけを見れば、2024年度に千葉県全体で把握された田んぼダムの取組面積893ヘクタールと比較して、相当な規模の水田が夷隅川流域に存在するように見える。しかし、ここで注意しなければならないのは、約7,780ヘクタールという数字が県の示した土地利用割合に基づく概算であり、現在の耕作水田面積でも、田んぼダムを導入できる面積でもないことである。
県の流域紹介資料では、水田割合約26%の基礎となった土地利用調査の対象年が明示されていない。また、土地利用上の水田には、実際の耕作状況や排水設備の状態が異なる場所も含まれている可能性があり、畦の強度や区画形状、排水路の位置なども確認されていない。そのため、約7,780ヘクタールという面積をそのまま利用して追加的な貯留量を計算することは適切ではなく、導入可能面積を推計するには、現在の農地利用状況と現地の排水条件を把握する必要がある。
さらに夷隅川流域では、山地が約57%を占めるという地形的な特徴も重要になる。山間部から流れ出す雨水が河川の増水に大きく影響する場合、水田に降る雨だけを調整しても、本川全体の最高水位を大幅に下げることは難しいかもしれない。一方、住宅地や道路に接する小河川、農業用排水路などでは、上流の水田からの流出を遅らせることが、局所的な浸水リスクの軽減につながる可能性がある。したがって、夷隅川流域に田んぼダムを導入する合理性を検討する際には、流域全体の水田面積だけでなく、どの支流や排水路で浸水が起こりやすく、どの水田がその上流に位置しているのかを具体的に調べることが重要になる。
千葉県独自の田んぼダム導入支援事業では、夷隅川水系は対象水系に含まれていない。しかし、県独自制度の対象外であることと、田んぼダムを導入する技術的な可能性がないことは別の問題であり、国の多面的機能支払交付金などを利用できる場合もある。また、県が特定の水系を補助対象としていることについても、2023年9月の大雨による被害や、各地域での治水対策の緊急性を踏まえた制度設計として説明されているため、対象外であることだけをもって夷隅地域の治水対策が軽視されていると判断することはできない。
むしろ、夷隅川流域で田んぼダムの可能性を検討するのであれば、過去の浸水実績、河川整備の進捗、排水機場や水路の能力、農家の参加意向などを総合的に分析する必要がある。地域の水田が持つ雨水貯留機能を活用する余地は考えられるものの、実際にどの程度の被害軽減効果が得られるかについては、現時点で確認できる資料だけでは定量的に判断できない。田んぼダムを推進すべきかどうかという結論よりも前に、まず地域ごとの水の流れを明らかにすることが求められるのである。
田んぼを守る人が減れば、治水機能も維持できなくなる
田んぼダムは比較的小規模な設備で導入できることが特徴だが、その効果を維持するには、水田そのものが適切に管理されている必要がある。畦が壊れていたり、排水口が詰まっていたりすれば、想定した排水調整機能は十分に発揮されない。また、耕作が行われなくなった水田では、畦や水路の管理が継続されるとは限らず、田んぼダムとして利用できる状態を維持するために追加的な作業が必要になることも考えられる。
千葉県を含む各地の農村では、農業従事者の高齢化や担い手不足が課題となっており、水田の管理を誰が続けるのかという問題は、洪水対策とは別の場面でも重要になっている。田んぼダムについても、設備を設置した年度だけでなく、その後何年にわたって適切な管理が行われるかによって、長期的な治水効果は変わる可能性がある。設置面積を毎年集計することは必要だが、継続的に機能している水田の面積や、維持管理に必要な労力まで把握しなければ、取組の持続可能性を評価することは難しい。
ここで考えなければならないのは、田んぼダムによる利益を受ける地域と、その管理を担う地域が必ずしも一致しないことである。上流の農家が排水器具を管理し、畦を補修することで、下流の住宅地や道路の浸水リスクが軽減されるなら、その管理活動には農業生産以外の公共的な価値が生じることになる。しかし、その価値を社会が認めているとしても、農家が無償で負担を続けられるとは限らない。地域全体が利益を受ける活動について、必要な管理費用をどのように分担するかという問題は、田んぼダムを一時的な事業で終わらせないための重要な条件になるだろう。
田んぼダムの成果は、設置面積だけでは測れない
行政が事業を進める際、取組面積や器具の設置個数が成果指標として使われるのは自然なことである。これらは年度ごとの変化を確認しやすく、予算の執行状況とも結び付けやすい。しかし、田んぼダムの本来の目的が浸水被害の軽減である以上、面積が増えたことだけで政策の成果を評価することには限界がある。同じ100ヘクタールであっても、浸水しやすい地区の上流に集中的に導入された場合と、浸水被害が生じにくい場所に分散して導入された場合では、地域への効果が異なる可能性があるからである。
より合理的な評価を行うには、流域内の田の耕地面積に対する取組面積の割合だけでなく、個々の排水系統における取組率、最大流出量の変化、河川や排水路の水位変化などを組み合わせて検証する必要がある。また、浸水面積や被害額を比較する場合にも、年によって降雨量や降雨の集中する時間帯が異なるため、単純な導入前後の比較だけで因果関係を判断することはできない。田んぼダムの有無以外の条件をできるだけそろえた数値シミュレーションや、実際の降雨時の観測データが重要になる。
経済的な評価についても、器具の購入費、設置費、維持管理費、農作業への影響などを含めた費用と、期待される浸水被害の軽減額を比較する必要がある。例えば、浸水による住宅の修繕費、事業所の営業停止に伴う損失、道路の復旧費用などが軽減されるなら、その便益を一定期間にわたって評価することが考えられる。ただし、これらの被害額や発生確率が明らかになっていない段階で、補助金の予算額だけから費用対効果を算出することはできない。数字を用いて政策を評価することは大切だが、根拠のない仮定を重ねて精密な結果に見せかけることは、かえって判断を誤らせる可能性がある。
千葉県の田んぼダムについて、今後必要になるのは、県全体の取組面積に加えて、地区別の導入状況、維持管理の実態、洪水時の流出抑制効果、補助金の実際の支出額などを把握できる資料である。特に、2024年度の893ヘクタールがどの6市町村に分布しているのかという基本的な情報は、地域別の政策評価を行ううえで重要である。国の集計表で県全体の規模が確認できても、地域ごとの取組の変化や政策の効果まで十分に分かるわけではないため、行政が保有する詳細な実績資料の活用が望まれる。
川の治水と田んぼの治水は、どちらかを選ぶものではない
田んぼダムの効果が期待できるからといって、河川改修や調節池、排水機場などが不要になるわけではない。大規模な豪雨によって川の水位が上昇すれば、水田からの排水を遅らせるだけでは浸水を防げない場合もあり、そもそも流域に占める水田の割合が小さければ、田んぼダムが本川全体に与える影響も限定的となる。そのため、田んぼダムは既存の河川整備に代わるものではなく、複数の対策を組み合わせて水害リスクを軽減する流域治水の一つとして位置付けることが適切である。
国土交通省が進める流域治水では、河川の中だけで対策を完結させるのではなく、流域全体で雨水の流出を抑え、浸水被害を軽減することが重視されている。そこには、堤防や河川改修などの従来型の整備に加え、ため池の活用、雨水貯留浸透施設の整備、農地による雨水流出の抑制などが含まれる。田んぼダムは、そのなかでも農業者の協力を必要とする点に特徴があり、河川管理者だけでは完結しない治水対策の代表例といえる。
ただし、流域全体で協力するという理念と、実際に負担を分担する仕組みは同じではない。治水の利益を受ける住民と、日常的に排水口を管理する農業者の間では、田んぼダムに期待する役割が異なる場合があるため、導入に当たっては農業者の理解と参加を前提に、地域に応じた合意形成が必要になる。千葉県が補助事業の名称に「地域が協働して取り組む」という言葉を用いていることも、田んぼダムの普及が個々の農家だけの問題ではなく、地域全体の協力を必要とする性質を持っていることと関係している。
小さな排水口から、地域の治水を考える
大雨のとき、水田から流れ出した水は農業用排水路を通り、小さな川へ入り、やがて大きな川へと集まっていく。その流れは普段の暮らしのなかではほとんど意識されないが、強い雨が続くと、いつもは静かな排水路の水位が上がり、川沿いの道路や住宅へ水が迫ることがある。田んぼダムは、その雨水の流れを水田の出口で少しだけ遅らせることによって、下流へ集中する水の量を緩和しようとする取組である。
科学的な実証研究では、水田からの最大排水流量を抑える効果が確認され、流域の条件によっては浸水面積の軽減につながる可能性も示されている。一方、千葉県内の取組面積や補助制度を調べると、導入の実態を地域別に十分把握することの難しさや、農業者の管理負担、補助対象地域の限定といった制度上の課題も見えてくる。田んぼダムは比較的簡単な設備を利用する対策だが、それを地域全体の防災機能として長く維持するためには、設備の性能だけでなく、農地を管理する人々の暮らしや作業の実情を考える必要があるのである。
夷隅川流域でも、水田が持つ雨水貯留機能を治水に活用する可能性は考えられる。ただし、山地が広い割合を占める流域であることや、排水系統によって効果が異なることを踏まえれば、流域に水田が多いという理由だけで導入の有効性を断定することはできない。まず必要なのは、浸水しやすい地区と水田の位置関係を調べ、田んぼダムによってどの程度の流出抑制が期待できるのかを検証することであり、その結果を踏まえて農業者の負担と地域全体の利益を比較することだろう。
田んぼダムの本当の成果は、何ヘクタールの水田に器具を設置したかという数字だけでは測れない。大雨のときにどれだけ水の集中を抑えられたのか、農作業への影響をどこまで減らせたのか、設備を設置した後も管理を続けられるのかという点を、時間をかけて検証する必要がある。補助金によって導入面積を増やすことは政策の出発点にはなっても、地域の水害リスクを実際に軽減し、農業者が無理なく参加できる状態を維持してこそ、その取組には持続的な意味が生まれる。
川を流れる水は、市町村の境界を知らない。上流の水田で行われる小さな排水調整が、下流の地域に利益をもたらす可能性がある一方、そのために必要な作業や費用は、必ずしも同じ地域で負担されるわけではない。だからこそ田んぼダムを考えることは、自然の力をどのように調整するかという技術的な問題であると同時に、流域に暮らす人々が互いの土地と生活をどのように支え合うかを考えることでもある。水田の小さな排水口から始まる治水の試みは、地域の水害を減らす可能性とともに、その利益と負担を公平に分かち合える社会をつくれるのかという問いを、私たちに投げかけている。

