地域政経

九条レオンの地域から社会と政治・経済のこれからを考える

 1998年7月24日、自民党総裁選の結果が出た。小渕恵三225票、梶山静六102票、小泉純一郎84票。最も多くの票を集めたのは、三人のなかで最も強烈な印象を与えない男だった。この総裁選を前に、田中眞紀子は三人を「凡人・軍人・変人」と評したとされる。軍人は旧陸軍航空士官学校出身で剛腕の印象を持つ梶山、変人は党内の常識に逆らって持論を唱える小泉、そして凡人が小渕だった。

 この言葉はあまりに分かりやすかったため、三人の政策以上に後世へ残った。しかし考えてみれば、「凡人」という呼び名には奇妙なところがある。本当に平凡なだけの政治家が、日本最大の政党の総裁となり、内閣総理大臣にまで到達できるものだろうか。

 小渕は総裁選に突然現れた無名の政治家ではなかった。1963年、26歳で衆議院議員に初当選して以来、すでに35年間も国会におり、竹下内閣では官房長官として新元号「平成」を発表し、自民党幹事長、党副総裁、有力派閥の会長、橋本内閣の外務大臣まで経験していた。国民から見れば柔和な「平成おじさん」であっても、永田町の内部から見れば、すでに自民党政治の中心部を長く歩いてきた人物だったのである。

 だから小渕を理解するには、「凡人なのに総理になった」という物語からいったん離れた方がよい。むしろ興味深いのは、これほど長く権力の中心にいた政治家が、なぜ最後まで「凡人」に見え続けたのかということである。

巨人二人のいる選挙区から始まった

 小渕恵三の政治家人生には、最初から有利な条件があった。父の小渕光平は衆議院議員であり、その政治地盤を引き継いでの出馬だったから、小渕は明らかな世襲政治家である。したがって、「何も持たない普通の青年が努力だけで総理へ上り詰めた」という成功物語にしてしまうのは正確ではない。

 しかし、受け継いだ地盤がそのまま安泰を意味したわけでもなかった。小渕が初当選した旧群馬3区には、すでに福田赳夫と中曽根康弘がいた。後に二人とも総理大臣となる。26歳の新人小渕は、やがて戦後政治を代表する二人の大物と同じ選挙区で議席を争い、その環境のなかで初当選し、その後も連続して議席を守り続けた。

 この出発点は、小渕という政治家の生き方を象徴しているように見える。福田のような政策家として圧倒するのでも、中曽根のように国家像を雄弁に語って存在感を示すのでもない。自分より目立つ人物が周囲にいる環境のなかで、それでも消えずに残り続ける方法を身につける必要があった。

 政治では、目立つことと生き残ることは同じではない。演説がうまい政治家が必ず選挙に強いわけではなく、政策に詳しい政治家が党内で多数を形成できるとも限らない。とりわけ当時の自民党では、選挙区で票を積み、派閥のなかで信用を積み、他派閥との関係を保ち、人事や選挙や資金をめぐる長い貸し借りのなかで自らの位置を高めていくことが、権力への重要な経路だった。

 小渕が得意としたのは、まさにそうしたテレビには映りにくい政治だった。

小渕は「突然出世した」のではない

 小渕の経歴を時系列で眺めると、劇的な跳躍は意外なほど少ない。若くして一気に党内を駆け上がった小沢一郎とも違い、後に世論を味方につけて党内秩序そのものを揺さぶった小泉純一郎とも違う。小渕の政治人生には長い時間が流れており、その時間そのものが政治的資産になっていった。

 田中角栄の流れをくむ派閥に入り、やがて竹下登に近い政治家として地歩を固め、1987年の竹下内閣で官房長官となった。国民にとって最も鮮烈だった場面は、1989年1月に「平成」と書かれた額を掲げた瞬間だったが、それは小渕にとって政治人生の頂点ではなく、むしろ党内中枢へ入ったことを示す一つの通過点だった。その後も党幹事長、副総裁、外相といった要職を重ねていく。

 そして1992年、小渕の政治人生を決定的に変える出来事が起こる。巨大な竹下派では、金丸信の失脚後、後継会長をめぐって激しい対立が起きていた。小沢一郎らは羽田孜を推し、それに対抗する側は小渕を推した。ここで重要なのは、小渕が派閥会長になった事実を「温厚な人柄が評価されたから」とだけ説明しないことである。

 小渕の背後には竹下登を中心とする党内勢力があり、参議院側を含む派閥内の力関係があり、さらに小沢への警戒を強める議員たちの結集があった。小渕自身の信用や調整能力はもちろん重要だったとしても、巨大派閥の後継争いという組織政治のなかで選ばれたのであって、一人の人間的魅力だけで頂点へ押し上げられたわけではない。

 結果として竹下派は分裂し、羽田・小沢系の議員たちは別の道へ進む一方、小渕は旧竹下派の主要部分を率いることになった。この出来事によって、小渕は単なるベテラン議員から、自民党内の巨大な票の集団を背負う政治家へ変わった。

「凡人」の背後に巨大派閥があった

 小渕が1998年の総裁選で勝った理由を考えるとき、最も重要なのはここである。総裁選当時、小渕派はおよそ90人規模を抱える自民党最大級の派閥であり、小渕はその会長だった。

 この事実を抜きにして、「人柄がよかったから225票を取った」と説明すれば、小渕政治の核心を見誤る。自民党総裁選は国民による直接選挙ではない。当時の制度では国会議員票の比重が極めて大きく、派閥の所属議員がどこへ投票するかは決定的な意味を持っていた。

 小渕にはまず、自らが率いる大きな派閥という組織的基盤があった。そのうえで宮澤派など他派閥からも支持を広げ、最終的に225票を獲得した。つまり、1998年の勝利を説明する第一の要因は、35年間にわたる人間関係を漠然と「信用」と呼ぶことではなく、長い政治生活の末に自民党最大級の派閥を率いる位置まで到達していたという、目に見える組織的条件である。

 しかし、それだけなら話はまだ終わらない。派閥の力が大きかったとしても、すべての派閥会長が総理になれるわけではないからである。小渕が持っていたもう一つの特徴が、ここで効いてくる。

「敵をつくらない」は弱さだったのか

 強い政治家という言葉を聞くと、私たちはしばしば決断力のある人物を想像する。反対を押し切り、大胆な改革を打ち出し、敵と味方を鮮明にし、自らの理念に政治を引き寄せていくタイプである。しかし、その強さには必ず代償がある。熱烈な支持者をつくる政治家は、同時に強烈な反対者もつくりやすい。

 小渕は、その対極にいた。

 相手を論破して自分を大きく見せるより、話を聞き、電話をかけ、関係を切らない。総理になった後には、本人が直接さまざまな人へ電話することから「ブッチホン」という言葉まで生まれたが、これは単なる庶民派の演出というより、小渕が長く続けてきた政治の作法を象徴していた。

 中曽根康弘から「真空総理」と評されたように、小渕は何をしたい政治家なのか輪郭が見えにくいとも批判された。しかし、政治において輪郭が薄いことは、常に弱点とは限らない。自分の主張を鋭く打ち出さない分だけ、異なる立場の人間が近づく余地が残り、「この人物が権力を握れば自分は排除される」という恐怖を相手に抱かせにくくなるからである。

 ただし、ここで因果関係を逆転させない方がよい。小渕が敵をつくらなかったから総理になれたと証明することはできないし、「凡人だったから敵が少なかった」と断定することもできない。むしろ逆に考えることもできる。

 小渕はもともと凡人だったから調整型になったのではなく、巨大な自民党という組織のなかで何十年も生き残るために、相手を不用意に刺激せず、対立を決定的にせず、関係をつなぎ続ける政治を身につけ、その結果として外からは「凡人」に見える政治家になったのかもしれない。

 そう考えると、「凡人」という言葉の意味はかなり変わってくる。

1998年という時代が小渕を押し上げた

 1998年、小渕に総理への機会が訪れた背景には、日本政治そのものの危機があった。

 日本経済はバブル崩壊後の長い停滞から抜け出せず、1997年には北海道拓殖銀行が経営破綻し、山一證券が自主廃業するなど金融不安が深刻化していた。橋本龍太郎政権の下では景気悪化への批判が強まり、1998年7月の参議院選挙で自民党は大きく議席を減らした。橋本は責任を取って退陣し、後継総裁を決める選挙が行われることになる。

 そこで立候補したのが小渕、梶山、小泉の三人だった。

 後の歴史を知る私たちから見ると、小泉の方がはるかに「総理らしい」人物に見えるかもしれない。実際、わずか3年後、小泉は国民的人気を背景に総理へ上り詰める。しかし1998年の自民党総裁選で問われていたものは、2001年とは違っていた。

 日本の首相は大統領のように国民が直接選ぶわけではなく、国会で指名される。当時は自民党が衆議院で最大勢力だったため、自民党総裁になることが事実上、総理になるための最大の関門だった。しかも総裁選では党内の国会議員票が決定的な重みを持っていたため、テレビで最も人気のある人物ではなく、党内で最も多くの支持をまとめられる人物が有利になる。

 この制度のなかで見ると、小渕の35年間は単なる長い経歴ではなくなる。選挙を繰り返し、派閥のなかで地位を高め、官房長官、幹事長、副総裁、外相を経験し、巨大派閥の会長となり、他派閥とも関係を維持してきた時間のすべてが、総裁選で票を集めるための資産へ変わったのである。

 小渕225票という数字は、数週間の選挙運動で突然生まれた人気ではない。それ以前の数十年間に形成されていた党内権力の構造が、最後に数字として現れたものだった。

「凡人」の政治は総理になってから試された

 総理になれば、派閥の力だけで政治を動かせるわけではない。むしろ小渕にとって本当の試験はそこから始まった。

 参議院では自民党が過半数を失っていたため、政府提出法案を自民党だけで成立させることは難しかった。とりわけ金融危機への対応では、与野党の激しい対立が続き、最終的に政府・与党側は野党側の考えを大幅に取り入れながら金融再生法を成立させた。

 ここでも小渕政治の特徴が現れている。自分の案を守ることそのものを目的とするのではなく、成立させるために修正し、異なる勢力との合意点を探す。その後、小渕政権は自由党との連立へ進み、さらに公明党を加えた自自公連立を形成する。

 だからといって、「1998年には小渕のような政治家でなければならなかった」とまで言うことはできない。梶山や小泉が総理になっていれば何が起こったかを検証することはできず、歴史に比較実験は存在しないからである。

 ただ、結果として見るならば、参議院で単独過半数を持たず、金融危機への迅速な対応が必要で、さらに連立相手を求めなければならなかった当時の政治状況と、小渕が長年培ってきた調整型の政治手法との相性がよかったことは確かだろう。

 その意味で、小渕は時代を自分の思想によって作り替えた政治家というより、時代が要求する複雑な条件のなかで、利用できる選択肢をつなぎ合わせながら前へ進んだ政治家だった。

調整型政治には、当然ながら代償もある

 ここまで書くと、小渕が実は優れた名宰相だったという話に聞こえるかもしれない。しかし、それもまた単純化である。

 小渕政権は景気悪化と金融危機に対応するため、大規模な公共事業や減税を含む積極的な財政政策を進めた。景気を下支えする必要があったことは確かだが、その結果として国債発行は大幅に増え、財政悪化を加速させたという批判も残った。

 また、調整型政治には別の弱点もある。多くの勢力との妥協を重ねれば政策の輪郭は薄くなり、何を実現する政権なのかが分かりにくくなる。対立を避ける政治は合意を生みやすい一方で、問題を根本から変える決断を遅らせることもある。

 だから小渕政治を評価するときには、「強いリーダーではなかった」という批判も、「合意形成に優れた政治家だった」という評価も、どちらか一方だけを採用する必要はない。両方が同時に成り立つからである。

総理になった理由は「凡人だったから」ではない

 では、小渕恵三はなぜ総理大臣まで上り詰めたのか。

 その答えを一つの性格に求めることはできない。父から受け継いだ選挙地盤があり、26歳という若さで国会へ入り、35年間にわたって議席を守り続け、田中・竹下系の巨大派閥のなかで地位を高め、竹下登ら党内実力者の支持を背景に派閥会長となり、最終的には自民党最大級の派閥を率いた。その組織力を基盤に他派閥からも支持を集め、そこへ敵を不用意につくらず関係を維持する調整型の政治手法が重なり、さらに橋本退陣という政治的機会が訪れた。

 世襲、選挙、派閥、組織、人脈、経験、性格、そして時代。小渕恵三を総理にしたのは、そのどれか一つではなく、それらが長い時間をかけて重なった結果だった。

 だから小渕の人生を、「普通の人でも努力すれば総理になれる」という美談として読むのは適切ではない。むしろこの人物が教えてくれるのは、政治における「能力」という言葉の意味が、私たちがテレビ越しに見る能力とはかなり違うということである。

 私たちは政治家を見れば、演説の鋭さ、政策の大胆さ、知名度、カリスマ性、討論の強さといった目につきやすい能力を評価する。しかし、組織のなかで権力を形成する能力は、それほど分かりやすくない。誰と話せるのか、誰から完全には嫌われないのか、誰なら別の勢力との間に置くことができるのか、誰が何十年も関係を切らずにいられるのかという、数字にもテレビにも映りにくい能力によって組織は動いている。

 小渕が長い政治生活のなかで蓄積したものを一言で表すなら、それはおそらく「見えない政治資本」だった。

 梶山には「軍人」という輪郭があり、小泉には「変人」という輪郭があった。それに比べて小渕には、一言で説明できるほど鮮烈な輪郭がなかった。だから「凡人」と呼ばれた。しかし、巨大な組織のなかでは、輪郭が鋭くないことが、かえって多くの人を自分の周囲に残すこともある。

 そして、もう一つ考えておくべきことがある。小渕は凡人だったから調整型政治家になったのではなく、何十年にもわたって調整型政治家として生きた結果、凡人に見えるようになったのではないかということである。

 もしそうなら、「凡人」という評価は小渕恵三という政治家の弱点を言い当てた言葉であると同時に、彼の最大の政治技術を見落とした言葉でもあったことになる。

 1998年、自民党が総裁に選んだのは、最も強烈な男ではなかった。

 しかし、最も目立たなかった男が偶然最後に残ったわけでもない。長い歳月をかけて巨大な組織の中心へ近づき、多くの人間との糸を切らず、その時が来たときには最大級の派閥と他派閥の支持を動かせる位置にいた男が、最後に225票を集めたのである。

 「凡人が総理になった」のではない。

 総理になれるほど複雑な政治技術を身につけた人物が、最後まで凡人に見えていたのである。

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 政治家には専門知識が必要だ、と言われることがある。経済政策を論じるなら経済学を理解している方がよく、医療制度を改革するなら医療や社会保障制度に詳しい方がよい。財政、外交、安全保障、教育、エネルギー、科学技術と、現代国家が扱う問題が複雑になるほど、十分な知識を持たない政治家に重大な判断を委ねてよいのかという疑問が生じるのは自然である。

 しかし、ここから「それなら専門家を政治家にすればよい」と考えると、政治という仕事の少し不思議な性質が見えてくる。医療政策について最も詳しいのは医療の専門家であり、財政について最も詳しいのは財政学や経済学の専門家であり、エネルギー政策について最も詳しいのは工学やエネルギー政策の専門家だろう。それぞれの問題について最も知識のある人物に決定を任せればよいのなら、そもそも選挙によって政治家を選ぶ必要はなく、専門家委員会によって国家を運営した方が合理的だということになりかねない。

 それでも民主政治が専門家による統治そのものにはならないのは、政治が単に「正しい知識を見つける仕事」ではないからである。現実の政策には、知識だけでは決められない価値の衝突が必ず入り込む。

一つの問題の中に、いくつもの「正しさ」が存在する

 人口の少ない地域にある病院を残すべきかどうかを考えてみよう。医療の立場から見れば、住民が必要な医療へ到達できる環境を維持することには大きな意味がある。一方、財政の立場から見れば、利用者の少ない病院を巨額の公費によって維持し続けることには限界があり、交通政策の立場から考えれば、病院そのものを残す代わりに救急搬送や通院交通を充実させるという選択肢も生まれる。さらに地域政策まで視野を広げれば、病院の撤退によって高齢者や子育て世帯の転出が進み、人口減少がさらに加速する可能性まで考えなければならない。

 ここで重要なのは、どの専門家も必ずしも間違っているわけではないことである。それぞれが自分の専門領域について合理的に考えているにもかかわらず、導かれる政策判断は一致しないことがある。政治家が扱うのは、間違った意見と正しい意見を見分ける問題だけではなく、異なる種類の「正しさ」が衝突する問題なのである。

 財政を健全化することも重要であり、医療へのアクセスを保障することも重要である。環境負荷を小さくすることにも価値があるが、産業活動や生活の利便性を維持することにも価値がある。社会保障を充実させれば安心は増える一方、その費用を誰かが負担しなければならず、税負担を軽くすれば家計の自由になるお金は増えるものの、その分だけ公共サービスに使える財源は小さくなるかもしれない。

 科学や専門知識は、それぞれの政策を採用した場合に何が起こりそうなのかを分析することはできる。しかし、「その結果のうち何を最も重く評価するべきか」という最後の判断まで科学だけで決めることはできない。この境界に政治が存在している。

専門家の政治家には、はっきりした強みがある

 だからといって、専門知識は政治家にとってそれほど重要ではない、と考えるのも正しくない。むしろ現代政治では、高度な専門性を持った政治家が持つ利点について実証的な研究が存在する。

 議員が過去の職業経験などを通じて特定分野の専門知識を持っている場合、その分野に関する政策形成や立法活動で有利になることを示した研究がある。専門知識があれば、官僚や業界団体から提出された数字や制度説明を理解しやすく、前提の妥当性を問い直すこともできる。単に「専門家がそう言っているから」という理由だけで説明を受け入れるのではなく、どの条件なら政策が機能し、どの条件では機能しないのかを議論できる点は、政治家として明らかな強みになる。

 さらに、関連する職業経験を持つ政治家は、その政策領域について周囲から知識がある人物と評価されやすく、政策への支持や他の議員との協力を得やすくなることを示す研究もある。したがって専門性は、単なる肩書ではなく、政策形成能力や政治的信頼を支える資源になり得る。

 この意味では、「専門家は視野が狭いから政治家に向かない」と単純化するのは適切ではない。専門知識のない政治家が、専門家や官僚の説明を理解できないまま最終判断だけを下す状況もまた、民主政治にとって好ましいとは言えないからである。

それでも専門性には、別の危険が潜んでいる

 ところが専門性には、能力を高める作用と同時に、それとは反対方向の作用が生まれる可能性もある。政策分野について詳しい政治家ほど自分の判断に強い確信を持ち、その結果として、自分とは異なる意見を持つ有権者への応答性が低下する可能性を示した政治学研究がある。専門知識そのものが悪いのではなく、専門知識によって生まれた自信が強すぎる場合に、「自分はこの問題を理解しているのだから、詳しくない人々の意見を重く見る必要はない」という方向へ傾く危険があるのである。

 これは政治にとって重要な問題である。専門家が専門領域の内部で最適解を追求することと、政治家が社会全体としてどの選択を採るかを決めることは同じではない。医療として望ましい政策が財政としても望ましいとは限らず、経済合理性の高い政策が地域共同体にとって最善とも限らない。一つの専門領域における合理性が、そのまま社会全体の合理性になるわけではないからである。

 専門性が高いほど必ず視野が狭くなるという証拠があるわけではない。しかし、人は自分がよく知っている枠組みによって問題を理解しやすくなる以上、自らの専門知識が世界を見る唯一の窓になっていないかを点検する態度は必要になる。

では、幅広い教養を持つ人物なら安心なのか

 ここで、歴史、哲学、文学、科学、経済、法律などを広く学んだ、いわゆるリベラルアーツ的な教養を持つ人物の方が政治家に適しているのではないか、という考えが出てくる。

 この考えには一定の合理性がある。政治では一つの政策だけを見るのではなく、その政策が社会の別の場所にどのような影響を与えるのかを考えなければならない。経済効率が改善しても公平性が大きく損なわれる場合があり、安全性を最大限に高めれば個人の自由が狭くなる場合もある。そのような価値の衝突を考えるためには、単一の専門理論だけではなく、歴史的な経験や法制度、人間の行動、倫理、文化について複数の視点を持つことが役に立つ。

 歴史を知ることは、現在の制度がどのような失敗や試行錯誤を経て成立したのかを考える材料になり、哲学は自由、公平、責任、正義といった価値が互いに衝突したとき、それらを単純な善悪に還元しないための知的資源になり得る。文学についても、読むだけで優れた政治判断ができるようになると科学的に断言することはできないものの、統計の中では一人の数字としてしか現れない人間にもそれぞれ異なる生活や事情があることを想像する契機にはなり得る。

 しかし、ここでも注意が必要である。幅広い教養を持つ人物の方が、専門家より政治家として優秀であることを一般的に証明した研究が存在するわけではない。広く知っていることと正確に理解していることは同じではなく、医療、金融、原子力、情報通信などの高度な専門領域では、一般教養だけで専門家の議論の妥当性を判断することは難しい。

 専門家型には「一つの視点を強く信じすぎる危険」がある一方、教養人型には「広く知っていることで理解したつもりになる危険」があるのである。

「キツネ型」の知性が示唆するもの

 政治的判断について考える際、心理学者・政治学者のフィリップ・テトロックが行った長期的な予測研究は興味深い示唆を与えている。テトロックは専門家による政治や国際情勢の予測を調べる中で、一つの大きな理論によって多くの出来事を説明しようとする「ハリネズミ型」と、複数の説明を組み合わせ、新しい情報によって自分の見方を修正する「キツネ型」という思考様式を比較した。

 その結果、複雑な政治的予測では、複数の視点を組み合わせるキツネ型の方が良い成績を示す傾向が見られた。この研究から直ちに「リベラルアーツを学んだ人の方が政治家に向いている」と結論づけることはできない。テトロックが調べたのは主として思考方法と予測能力であって、専門家と教養人を直接比較したわけではないからである。

 それでも、この研究には政治家の知性を考えるうえで重要な含意がある。一つの理論や専門領域だけに依存するのではなく、複数の説明を比較し、自分の判断が間違っている可能性を残し、新しい情報によって考えを変更できる人物の方が、複雑で不確実な問題を扱う仕事には適している可能性があるということである。

「知らないことを知っている」という能力

 ここまで考えると、政治家の能力を単純な知識量で測ること自体が間違っているのかもしれない。

 一人の政治家が財政、医療、外交、安全保障、教育、農業、エネルギー、情報通信、社会保障、地方行政のすべてについて第一級の専門家になることは現実的ではない。それにもかかわらず、政治家にはそれらすべてについて判断を下す場面が訪れる。

 この矛盾を埋めるために必要なのは、すべてを知っていることではなく、自分が何を知り、何を知らないのかを認識する能力である。このような態度は「知的謙虚さ」と呼ばれることがあり、自分の判断や知識には限界があり、誤っている可能性もあると認める姿勢を意味する。近年の研究では、こうした知的謙虚さを示す政治家が、有権者から能力や好感度を高く評価される可能性も報告されている。

 ただし、知的謙虚な政治家ほど実際に優れた政策成果を残すことまで証明されているわけではない。それでも政治の構造を考えれば、自分の知識の限界を認識できることには実務上の意味がある。自分では判断できない問題だと分かれば適切な専門家を探すことができ、異なる意見を持つ専門家を比較することもできるからである。

 重要なのは専門家に従うことではなく、なぜ専門家同士の意見が異なるのかを理解することである。どこまでが比較的確かな事実で、どこから先が将来予測なのか、さらにどの部分から価値判断が入り込んでいるのかを区別できれば、政治家は専門知識を利用しながら、それに支配されることを避けられる。

政治には最後まで「選択」が残る

 科学技術が進歩し、膨大なデータを利用できるようになっても、政治から選択そのものが消えることはないだろう。政策の結果を以前より高い精度で予測できるようになったとしても、その結果のうち何を優先するべきかという問題は残る。

 税負担を軽くするのか公共サービスを維持するのか、過疎地の公共施設を残すのか集約するのか、経済成長を重視するのか環境負荷の削減を優先するのかという問題には、それぞれ利点と犠牲がある。専門家は選択によって生じる結果を分析できても、「どの犠牲なら社会として受け入れるべきか」を科学的事実だけによって決めることはできない。

 民主政治において政治家が選挙で選ばれる意味の一つは、まさにここにある。政治家は社会で最も賢い人物だから権限を与えられるのではなく、価値の衝突を伴う判断を誰に委ねるかについて、有権者が選択する仕組みの中で権限を与えられている。

 したがって政治家には、専門家から知識を集める能力だけではなく、その知識だけでは決められない問題について決断し、その結果について政治的責任を負う役割が残る。

結局、専門家と教養人のどちらが政治家に向いているのか

 最初の問いに戻ると、科学的には「専門家型より教養人型の方が一般的に政治家に向いている」とまでは言えない。逆に、専門知識を持つ人物の方が政治家として優れているとも一般化できない。政治家の専門性が政策形成に役立つことを示す研究がある一方、専門性から生じる強い確信が他者の意見への応答性を低下させる可能性を示す研究もあり、幅広い視点を持つことの価値を示唆する研究は存在するものの、それがリベラルアーツ教育そのものの優位を証明しているわけではない。

 ここから導けるのは、専門家か教養人かという二者択一よりも、政治家という職業には専門家とは異なる種類の知性が必要だということである。

 理想的なのは、少なくともいくつかの領域について十分な知識を持ちながら、自分の専門だけで社会全体を説明しようとせず、異なる専門家の議論を理解し、それぞれの前提と限界を比較できる人物だろう。さらに新しい証拠によって自分の考えを変更でき、自分では答えられない問題について「分からない」と認め、そのうえで必要な知識を持つ人間を探せることが重要になる。

 政治家に必要なのは、専門家ではないことではない。むしろ専門知を理解できるだけの知性を持ちながら、専門知を絶対視しないことである。

 政治家を選ぶとき、私たちはしばしば「この人は何に詳しいのか」と考える。しかし、それだけでは十分ではない。その人物は、自分とは異なる専門家の意見を聞けるのか、自分の考えに反する証拠が出たとき判断を変更できるのか、自分の知らないことを認識できるのかという問いも、同じくらい重要になる。

 人工知能が膨大な資料を読み、政策の効果まで予測する時代になれば、知識を大量に記憶していることだけでは政治家の優位性にならなくなるかもしれない。むしろ異なる専門知識を結びつけ、数字には完全には表れない価値の衝突を理解し、最後には社会としてどの道を選ぶのかを決断する能力の方が重要になるだろう。

 そう考えるなら、未来の政治家に必要なのは「専門家か、教養人か」という単純な答えではない。

 専門家と議論できるだけの深さを持ち、専門領域の境界を越えられるだけの広さを持ち、それでも自分の知識には限界があると理解している人。その三つを同時に備えた人物こそ、複雑な社会の政治を担ううえで最も望ましい政治家像に近いのではないだろうか。

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 1993年8月、日本の政治には、それまで当然と思われていた風景が突然崩れるような出来事が起きた。内閣総理大臣になったのは自由民主党総裁ではなく、日本新党代表の細川護熙だった。1955年の自民党結成以来、38年間ほぼ途切れることなく続いてきた自民党政権が終わり、日本にも「政権は交代する」という現実が姿を現したのである。

 ところが、その細川が首相であった期間はわずか263日だった。1993年8月9日に発足した細川内閣は、翌1994年4月28日に総辞職している。政権交代の象徴として華々しく登場した人物が、一年にも満たないうちに首相官邸を去ったことだけを見れば、細川政権は一瞬の政治的熱狂に終わったようにも見える。しかし、その短さを東京佐川急便からの一億円借入問題だけで説明してしまうと、この政権がなぜ生まれ、なぜ急速に力を失ったのかという本当の構造が見えなくなる。

 細川政権の短命さを理解するには、まず1993年の「政権交代」がどのような政権交代だったのかを見なければならない。それは、一つの野党が選挙で圧勝し、自民党を打ち破った政権交代ではなかった。

自民党は敗れたのではなく、過半数を失った

 1993年7月の衆議院議員総選挙で、自民党は223議席を獲得していた。依然として国会第一党である。これに対して日本社会党は70議席、新生党55議席、公明党51議席、日本新党35議席、新党さきがけ13議席などに分かれており、自民党に代わる巨大政党が出現したわけではなかった。

 それでも自民党は政権を失った。自民党自身の分裂によって新生党や新党さきがけが生まれ、そこへ日本社会党、公明党、日本新党、民社党、社会民主連合などが加わったことで、自民党を上回る国会多数派が形成されたからである。正確には、日本社会党、新生党、公明党、日本新党、民社党、新党さきがけ、社会民主連合の7党と、民主改革連合という1会派が連立に参加した。一般には「8党派連立」と呼ばれる政権である。

 ここで興味深いのは、その中で35議席しか持たない日本新党の細川護熙が首相になったことである。議席数だけを考えれば、細川は連立政権の最大勢力の代表ではない。それでも彼が選ばれたのは、むしろ最大勢力ではなかったからだった。

 旧来の自民党政治から一定の距離を置き、熊本県知事を経験し、新党を立ち上げた細川には、「古い政治を終わらせる新しい顔」という象徴性があった。社会党の代表を首相にすれば保守系の新党がまとまりにくく、新生党の中心人物を前面に出せば自民党分裂の延長に見えてしまう。その間に立つ細川は、異質な勢力を一つにまとめるための政治的な接着剤として適した人物だったのである。

 しかし、この構造には最初から矛盾が含まれていた。細川は国民的には政権の顔であっても、自らの党が35議席しかない以上、国会の多数を自分の判断だけで動かす力を持っていなかった。細川政権は「強い首相が率いる多数党政権」ではなく、「異なる政党が細川という象徴の下で一時的に結びついた連立政権」だったのである。

八党派を結びつけた政治改革

 その異質な勢力を結びつける最大の共通課題が政治改革だった。当時の日本政治では、リクルート事件や東京佐川急便事件などを通じて政治と金への不信が高まり、中選挙区制の下で同じ自民党候補同士が競争し、多額の政治資金を必要とする仕組みそのものが問題視されていた。

 細川政権は、選挙制度と政治資金制度を変えることを最優先課題に据えた。しかし、ここで注意しなければならないのは、八党派が政治改革について完全に同じ考えだったわけではないことである。とりわけ社会党内部には小選挙区制への警戒があり、新生党の小沢一郎と新党さきがけの武村正義との間にも、選挙制度だけでなく、その先の政界再編をどう描くかという点で違いがあった。

 つまり、政治改革によって連立内部の対立が消えていたのではない。対立は初めから存在していたが、「まず自民党長期政権の下で実現できなかった政治改革を成し遂げる」という大きな目標が、その亀裂を覆っていたのである。

 政治改革関連法案の成立過程も平坦ではなかった。1994年1月21日、法案はいったん参議院で否決される。それでも細川首相と自民党の河野洋平総裁が協議し、制度内容を調整したうえで、1月29日に政治改革四法が成立した。さらに、その細川~河野合意を具体化するための改正法が3月に成立し、現在につながる衆議院の小選挙区比例代表並立制や政党助成制度など、新しい政治制度の基本的な枠組みが固まっていった。

 長年議論されながら実現できなかった政治改革を実際に成立させたことは、細川政権の歴史的成果として軽視できない。しかし皮肉なことに、その成功によって、それまで連立政権を一つに束ねていた最大の目標が一段落することになった。

 政治改革が成立したから連立内部の対立が突然生まれたのではない。もともと存在していた考え方の違いや権力関係の緊張を、政治改革という共通目標が覆い隠しにくくなったのである。

小沢一郎と武村正義の間にあった二つの政治構想

 細川政権内部の複雑さを理解するうえで見落とせないのが、新生党の小沢一郎と、新党さきがけ代表で官房長官を務めた武村正義との関係である。

 両者の対立を単なる個人的な確執として見るだけでは十分ではない。そこには、日本の政党政治を今後どの方向へ組み替えていくのかという構想の違いがあった。小沢は政治改革を通じて政党再編を進め、より明確な二大政治勢力の競争へ日本政治を変えていくことを志向していた。一方、武村はそのような急速な政界再編や権力集中に警戒を示していた。

 しかも武村は官房長官であり、首相を日常的に支える政権中枢の人物だった。その武村と、連立与党の強力な実力者である小沢との間に政治的緊張が存在する以上、細川は両者の間で政権を運営しなければならない。細川政権の不安定さは、単純に「政党が八つあったから」という数の問題ではなく、連立内部に将来の政治そのものについて異なる設計図が存在していたことから生まれていた。

 政権交代を実現するまでは、「自民党政権を終わらせる」という目標がそれらの違いを超えることができた。しかし政権を取った後には、増税をするのか、社会保障をどう設計するのか、経済政策をどこへ向けるのか、そして政界をどのように再編するのかという問題に一つずつ答えなければならない。政権を倒すための連合と、国家を運営するための連合は、似ているようでまったく別のものだった。

国民福祉税という「34時間」が露出させたもの

 その違いを国民の前に最も鮮明に示したのが、1994年2月の国民福祉税構想だった。

 細川は2月3日未明、消費税を廃止し、将来的に税率7%の「国民福祉税」を導入する構想を記者会見で発表した。ところが、この政策について連立与党内部では十分な合意が形成されておらず、とりわけ社会党などから強い反発が起こった結果、構想は約34時間後に白紙撤回される。

 問題は、7%という税率が高かったか低かったかということだけではなかった。国民生活に直接かかわる重要な税制改革が突然発表され、その直後に同じ与党内部の反対で撤回されたことにより、「この政権では誰が政策を決めているのか」という疑問が一気に表面化したのである。

 ただし、これを単純に「細川首相が決めた政策を連立与党が潰した」と理解するのも正確ではない。国民福祉税構想には、小沢一郎をはじめ政権中枢の一部が深く関与していた一方、社会党や武村官房長官を含め、連立全体の意思決定機構には十分に共有されていなかった。

 つまり露呈したのは、首相が弱かったという一言では片づけられない問題だった。政権中枢の一部で形成された政策を、複数の政党からなる連立与党全体の合意へどのようにつなげるのかという仕組みそのものが未成熟だったのである。

 政治改革までは「制度を変える」という目標でまとまることができた。しかし、税制のように誰かの負担を増やさなければならない政策になると、各党はそれぞれの支持者や理念を背負って判断する。そこで必要になるのは新鮮なイメージではなく、地道で複雑な利害調整だった。国民福祉税の34時間は、細川政権が「新しい政治」を象徴する力には優れていても、「新しい政治を運営する仕組み」を十分につくれていなかったことを映し出した。

政治と金を変える政権に返ってきた一億円問題

 そうした政権内部の緊張が続く中で、細川自身にも政治資金をめぐる問題が重くのしかかることになる。東京佐川急便からの一億円借入問題である。

 細川は、1982年に東京佐川急便から一億円を借りたこと自体は認め、それについては完済したと説明した。しかし国会では、借入目的、返済の経過、関連資料などについて追及が続いた。

 この問題を扱う際には慎重さが必要である。一億円を借りた事実があるからといって、それだけで違法な金銭授受だったと断定することはできない。政治的な疑惑と、法的に確認された違法行為とは区別しなければならないからである。

 それでも、この問題が細川に与えた政治的打撃は大きかった。なぜなら細川政権そのものが、政治と金をめぐる旧来の政治への不信を背景に誕生した政権だったからである。古い政治を変えると登場した首相自身が巨額の資金問題について国会で説明を求められることになれば、たとえ法的な問題とは別であっても、「新しい政治」という政権の物語そのものが傷つく。

 政治家にとって、疑惑の重さは金額や法律論だけでは決まらない。その政治家が何を掲げて登場した人物なのかによっても意味が変わる。政治倫理を掲げる政権にとって、自らの資金問題は通常以上に大きな政治的負担にならざるを得なかった。

細川は一億円問題だけで辞めたわけではない

 1994年4月8日、細川は辞意を表明する。ここを「佐川急便から一億円を借りたことが発覚し、責任を取って辞めた」とだけ説明すると、実際の辞任理由を単純化しすぎる。

 細川自身の辞意表明では、一億円借入問題などをめぐって国会審議が停滞し、自らの問題が予算審議の妨げになっていることへの政治的責任が語られている。さらに、過去に自分の資金を知人に運用させていた問題について、新たに法的な問題がある可能性が明らかになったとして、政治の最高責任者として道義的責任を負う必要があるとも説明した。

 したがって、辞任は一つの疑惑だけによって突然引き起こされた出来事ではない。政治改革という最大の共通目標が一段落し、もともと存在した連立内部の対立が見えやすくなり、国民福祉税問題によって意思決定の弱さが露呈し、その上に細川自身の資金問題と国会審議の停滞が重なった結果だったと見る方が実態に近い。

 政治学的にいえば、細川政権の崩壊は単一の原因によるものではない。いくつもの条件が時間をかけて重なり、その最後に首相自身の資金問題が加わった「累積的な政権崩壊」だったのである。

263日しか続かなかった政権は失敗だったのか

 では、263日で終わった細川政権は失敗だったのだろうか。

 政権の安定性だけを基準にすれば、成功した政権とは言いにくい。国民福祉税構想は短時間で撤回され、連立内部の意思決定は安定せず、最終的には首相自身の問題によって国会審議まで停滞した。長期的な政策体系を構築し、それを継続的に実行するところまでは到達できなかった。

 しかし、日本政治に与えた影響まで含めると評価は変わってくる。細川政権は、自民党が国会第一党であっても、過半数を確保できず、他党が多数派を形成すれば政権を失うという議院内閣制の原理を現実の政治として示した。それまで制度上は可能であっても、実際にはほとんど想像されていなかった政権交代を経験したことで、「自民党政権は永続するものではない」という感覚が社会に広がった。

 さらに、長年議論されながら実現できなかった政治改革を成立させたことも残った。後にその制度がどのような結果をもたらしたかについては別の評価が必要だが、日本の選挙制度と政党政治の枠組みを大きく変えたこと自体は否定できない。

 細川政権は、長く統治した政権ではなかったが、日本政治が別の形へ移るための橋のような政権だったともいえる。橋は人が住み続ける場所ではない。それでも、向こう岸へ移るには必要になる。

政権交代の扉を開けることと、その先を統治すること

 細川護熙という政治家の歴史的な意味は、長期政権を築いたことにはない。それまでほとんど開かないと思われていた政権交代という扉を、実際に開いてみせたことにある。

 しかし、扉を開けることと、その向こう側で国家を運営することは別の仕事だった。自民党政権を終わらせるためなら、社会党から保守系新党まで異なる勢力が同じ方向を向くことができる。しかし政権を取った翌日からは、税金を誰が負担するのか、社会保障をどう支えるのか、外交や安全保障をどう考えるのか、将来どのような政党政治をつくるのかという問いに答えなければならない。

 その段階になると、「何に反対するか」ではなく「何を選ぶか」が問われる。しかも一つの政策を選べば、別の選択肢を捨てなければならない。政権交代には異なる勢力を集める力が必要だが、政権運営にはその異なる勢力の間で優先順位を決め、時には不人気な決断まで引き受ける力が必要になる。

 細川政権は、その二つが同じ能力ではないことを日本政治に示した最初の大きな事例だった。

 だから細川護熙は、政権交代の象徴になったにもかかわらず短期間で辞めた、というよりも、政権交代の象徴として成立した政権だったからこそ短命になりやすい条件を抱えていた、と考えた方がよい。細川という人物の新鮮さは異質な八党派を結びつける力になったが、その象徴性を支える巨大な政党組織はなく、連立の内部には政治改革の先にある日本政治について異なる設計図が存在していた。そして政治改革という共通目標が一段落した後、それまで覆われていた亀裂が次第に見えるようになったところへ、国民福祉税問題と細川自身の資金問題が重なった。

 1993年の政権交代が残した最大の教訓は、おそらく「政権を取ること」と「政権を運営すること」はまったく別だということだろう。長く続いた政権を終わらせるとき、人々は一つの旗の下に集まりやすい。しかし、その旗を降ろした後に必要なのは、誰が何を負担し、どの政策を諦め、どの未来を選ぶのかを決めることである。

 細川護熙の263日間は短かった。しかし、その短さの中には、その後の日本政治が何度も直面することになる問題がすでに凝縮されていた。政権交代を可能にすることと、政権交代を安定した統治へ変えることとの間には大きな距離がある。細川政権は、その距離を日本政治が初めて実際に歩き、そして途中で立ち止まった政権だったのである。

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「決められない政治」を終わらせたあと、日本は何を手に入れ、何を失ったのか

 日本政治を長く見ていると、その時代を象徴する言葉がある。「官僚主導」「政治主導」、そして「官邸主導」もその一つだろう。しかも、これらの言葉には、いつの間にか善悪の色まで塗られていた。官僚主導は古い政治であり、政治主導は民主的であり、官邸主導は決断のできる強い政治であるという物語が、1990年代から2000年代にかけて広く共有されるようになった。

 もちろん、この物語には理由があった。かつての日本政治では、農業には農林水産省、産業には通商産業省、社会保障には厚生省、財政には大蔵省というように、それぞれの省庁が大きな専門領域を抱え、その周囲には与党の政策部会、業界団体、審議会、いわゆる族議員などが存在していた。一つの政策について見れば、専門知識と利害調整を積み上げていく精巧な仕組みだったともいえるが、国全体を一つの方向へ動かそうとすると、途端に政治は重くなった。それぞれの組織が、それぞれの合理性を持っていたからである。

 この仕組みは慎重だったが、遅かった。そして国民から見ると、誰が政策を決めているのかも分かりにくかった。選挙で政権を選んでも、その後の政策形成が霞が関や与党内部の複雑な調整に入れば、最初に掲げられた政治的意思が薄められてしまうこともある。そのため1990年代になると、「選挙で選ばれた政治家がもっと行政を動かすべきではないか」という考え方が勢いを増していった。

 そこで始まったのが、首相と内閣の機能を強める一連の改革である。橋本龍太郎政権による行政改革を経て、2001年には中央省庁再編が実施され、内閣官房の企画・調整機能が強化されるとともに、内閣府も設置された。改革の目的そのものに「内閣機能の強化」と、それを通じた「政治主導の強化」が掲げられていた以上、後に生まれた官邸主導は、偶然強い首相が登場した結果ではない。日本政治は制度そのものを組み替えることによって、意識的に首相が政策を動かしやすい仕組みを作ったのである。

 その変化をさらに後押ししたのが選挙制度改革だった。衆議院で小選挙区を中心とした制度が導入されると、候補者の公認や選挙戦略を握る政党執行部の力が相対的に強くなる。以前の自民党では派閥や個々の議員がかなりの自律性を持っていたが、選挙制度の変化と内閣機能の強化が重なったことによって、首相と党執行部が政策を動かす条件が整っていった。官邸主導とは首相個人の性格ではなく、政治制度の変化によって生まれた構造なのである。

小泉純一郎は「強くなった官邸」の使い方を示した

 制度が変わっても、それを使う政治家がいなければ政治は変わらない。その意味で象徴的だったのが小泉純一郎政権である。経済財政諮問会議を利用して、従来なら各省庁や自民党内部で長い時間をかけて調整されていた政策を首相周辺から動かし、郵政民営化をめぐって党内から強い抵抗を受ければ、衆議院を解散してその争点そのものを国民に問うた。

 2005年の総選挙で自民党が大勝した後、小泉首相の党内での影響力はさらに強まり、それまで与党や省庁との調整で停滞していた政策についても首相が主導的に方向を示す場面が増えたことは、政治学の研究でも確認されている。ただし、この研究から読み取るべきなのは、「首相主導なら政策が必ず成功する」ということではない。首相が政策を動かせるようになったことと、その政策が正しかったことは別の問題だからである。

 それでも当時の政治が多くの国民に新鮮に映った理由は理解できる。郵政民営化に賛成なのか反対なのか、改革を進めるのか止めるのかという争点を首相が提示し、その是非を選挙で問い、勝った政権が政策を実行する。この流れは、それ以前の複雑な政策決定過程と比べれば圧倒的に分かりやすかった。「選挙で選ばれた政治家が行政を動かす」という議院内閣制の原則が、ようやく現実の政策形成に近づいてきたようにも見えたのである。

 だからこそ、官邸主導を単純に「権力集中」と呼んで否定してしまうと、この改革が何を解決しようとしたのかが見えなくなる。かつての日本政治には、確かに「決められない」という問題が存在していた。

安倍政権で官邸主導は人事の領域へ広がった

 官邸主導を考えるうえでもう一つ重要なのが、第2次安倍晋三政権である。2014年には内閣人事局が設置され、各府省の幹部職員について政府中枢が横断的に人事を管理する仕組みが本格的に導入された。これによって官邸が持つ制度的な力は、政策の調整だけでなく、政策を実施する行政組織の幹部人事にまで広がった。

 ここには明確な合理性がある。もし各省庁が自分たちの幹部を事実上自分たちだけで選び、その人事に政治がほとんど関与できないとすれば、選挙で選ばれていない官僚組織が政府の方向性を左右する可能性が生まれる。選挙で選ばれた政権が自らの政策を実行できるよう、人事を含めて行政組織を統制することには民主主義的な根拠がある。

 しかし、この改革をめぐっては別の懸念も現れた。官邸が人事に強い影響力を持てば、官僚が政権の意向に反する意見を述べにくくなるのではないか、という問題である。参議院事務局の調査論文にも、内閣人事局について「官僚の萎縮を招き、意見を言いにくくする」との批判が存在することが紹介されている。ただし、ここは慎重に読む必要がある。それは官僚の萎縮が統計的、因果的に証明されたことを意味するものではなく、制度改革をめぐってそのような批判や懸念が提起されてきたということである。

 さらに近年の研究を加えると、状況はもっと複雑に見えてくる。2019年と2023年の主要省庁の官僚を対象とした意識調査を分析した2025年の研究では、首相官邸、内閣官房、内閣府が制度上強化されている一方、官僚から見た日常的な政策形成では、それらが常に圧倒的な存在として認識されているわけではないことが示されている。安倍政権期についても、官邸があらゆる政策分野で官僚を一方的に統制していたと単純化することは難しい。

 ここには官邸主導を理解するうえで重要な区別がある。「官邸が強い制度を持っていること」と、「すべての政策について官邸が実際に支配していること」は同じではないのである。

「決められる政治」と「良い政治」は同じなのか

 官邸主導を評価するとき、最も注意しなければならないのは、政策を決定できることと政治が良くなることを無意識に同じものとして扱わないことである。意思決定の速さは政治の能力の一つではあるが、それだけで政策の質を測ることはできない。

 会社を例にすれば分かりやすい。社長がほとんどすべての案件を即断できる会社は意思決定が速い。しかし、その社長が正しい判断をしているとは限らない。判断が正しければ会社は素早く前進するが、判断が誤っていれば同じ速度で間違った方向へ走ることもできる。

 政治も同じである。官邸主導によって直接強くなるのは、「正しい政策を選ぶ能力」というより、「政府として一つの方針を決定し、それを行政組織に実行させる能力」である。この違いを曖昧にすると、官邸主導の評価そのものを間違える。

 従来の省庁中心型政治には確かに欠点があった。各省庁が自らの所管や既存制度を守ろうとすれば、省庁間調整には時間がかかり、改革案が弱められることもある。しかし、その煩雑さの中には、別の機能も埋め込まれていた。財政を担当する官僚が「その財源はどうするのか」と問い、法制度を担当する官僚が「現行法との整合性はどうなるのか」と問い、政策を実施する現場の官僚が「自治体や事業者が本当に実行できるのか」と問い返す。政治家にとっては面倒な反論であっても、政策にとっては一種の品質検査なのである。

官僚が反対できる政府は弱いのか

 ここで問題になるのが、政治主導と官僚の専門性をどのように両立させるかという古くて新しい問題である。官僚が政治家の方針を無視して独自に政策を進めれば、民主主義的統制が失われる。しかし政治家の方針に対して官僚が何も反論できなくなれば、今度は政策判断に必要な専門的なチェック機能が弱まる可能性がある。

 政治と行政の理想的な関係は、政治家が目的と方向を決め、官僚が専門知識に基づいて実現可能性や副作用を検討し、それでも意見が分かれる場合には、最終的に選挙で選ばれた政治家が責任を持って決断する形に近いだろう。英国の政官関係を扱った研究でも、政治主導は大臣が官僚に一方的に命令することではなく、大臣が方針を示し、官僚が必要な質問や問題点を提示し、その対話を経て政治家が最終判断する関係として捉える必要があると論じられている。

 つまり、「政治家が決めること」と「官僚が黙ること」は同じではない。

 官邸主導によって官僚が実際にどの程度萎縮したのかについては、今なお研究上の議論が残る。それでも制度設計として考えれば、政権が官僚を統制する力と、官僚が専門家として異論を提出できる環境の双方を確保する必要があるという問題は消えない。政治主導と専門性は本来、どちらかを選ぶものではなく、互いを利用して政策の質を高めるべき関係だからである。

縦割りを壊すための官邸が、巨大組織になっていく

 官邸主導が求められた大きな理由の一つは、省庁の縦割り行政だった。人口減少、感染症、エネルギー、安全保障、少子化、デジタル化のような問題は、一つの省庁だけでは解決できない。そうであれば、各省を越えて調整する政府全体の司令塔が必要になるという発想には十分な合理性がある。

 ところが、ここには中央集権的な組織が持つ一つの逆説が潜んでいる。新しい政策課題が生まれるたびに「官邸で調整しよう」と考えれば、本部、会議、事務局、担当室が次々と政府中枢に設けられる。実際、内閣官房や内閣府には多数の政策課題別組織が設けられ、その業務量の膨張や役割の重複は以前から指摘されてきた。

 もちろん、これだけで「官邸と各省の新しい縦割りが生まれた」と断定することはできない。しかし、各省庁の縦割りを克服するために設けた調整組織が巨大化すれば、今度は官邸と各省庁との間に新しい調整コストが発生する可能性がある。中央に権限を集めれば、それだけで組織全体が単純になるわけではないのである。

 交通事故が起こるたびに運転席だけを大きくしても、自動車が安全になるとは限らない。必要なのは運転席だけではなく、計器、ブレーキ、ミラー、整備、道路標識まで含めた仕組みであり、政治についても同じことがいえる。

「誰が決めたか」が見える政治と、「なぜ決めたか」が見える政治

 官邸主導には民主主義にとって明確な利点がある。それは責任の所在を分かりやすくできることである。省庁、審議会、与党部会、業界団体の調整を積み重ねた末に政策が決まる仕組みでは、失敗したときにも「役所が決めた」「党で調整した」「関係者の合意だった」と責任が分散しやすい。それに対して首相が政策を掲げ、政府として実行するのであれば、その結果を選挙で評価しやすくなる。

 ただし、ここにも別の問題がある。意思決定が政府中枢に集まれば、「誰が決めたか」は分かりやすくなる一方、少人数での調整が増えた場合には「なぜその判断になったのか」が外部から見えにくくなる危険がある。

 もっとも、官邸主導そのものが不透明さを生むわけではない。小泉政権期の経済財政諮問会議では議事要旨や議事録が公開され、むしろ従来の政策形成より透明性が高かったと評価されることもある。重要なのは、誰が政策を決めたかではなく、その判断に使われた資料や異論、選択肢、議論の経過がどこまで記録され、後から検証できるかなのである。

 公文書が重要なのも、そのためだ。民主主義では、決定した政策だけではなく、なぜ別の政策を選ばなかったのかまで後世の国民が検証できなければならない。「誰が決めたか」が見える政治と、「なぜ決めたか」が見える政治は、似ているようで別のものである。

官邸主導によって政策の質は落ちたのか

 ここについては、簡単な答えを出すべきではない。

 官邸主導が強まることで政策論争が政府内部に閉じられ、異論が表面化しにくくなれば、政策の質が低下する可能性があるという指摘は政治学や行政学に存在する。しかし、日本政府全体について「官邸主導になったから政策の質が落ちた」という因果関係が統計的に確立しているわけではない。

 そもそも政策の質というものを一つの数字で測ること自体が難しい。外交政策と社会保障政策では成功の尺度が違い、感染症対策と経済政策でも評価基準は異なる。政策を早く決めることが重要な場面もあれば、時間をかけて異論を検討することが重要な場面もある。したがって、官邸主導について科学的にいえるのは、「政策の質を必ず低下させる」ということではなく、権力が集中するほど異論や代替案を検討する仕組みを意識的に設ける必要が高まる、という程度までである。

 逆に、「官邸主導なら必ず良い政策になる」ともいえない。官邸主導が比較的強く実証されているのは、首相の政策主導力や政府中枢の調整能力が以前より高まったという点であって、それが経済成長、行政効率、政策の公平性、透明性、民主的正統性のすべてを同時に高めたことが証明されているわけではない。

では「日本政治が良くなった」とは何を意味するのか

 ここまで考えると、実はこの記事の題名に含まれる「良くした」という言葉そのものが問題であることが分かる。

 政治が良くなったかどうかを、政策決定の速さで測るのか、選挙公約の実現率で測るのか、経済成長で測るのか、行政コストで測るのか、透明性で測るのか、少数意見が尊重されたかどうかで測るのかによって、官邸主導への評価は変わる。

 もし政治の目的を「政府が意思決定できること」に置くのであれば、官邸主導改革はかなり成功したと評価できるだろう。首相が政策課題を設定し、省庁を越えて政府全体を動かす制度的能力は、1990年代以前より明らかに強くなったと考えられる。

 しかし政治の目的を「できるだけ正しい政策を選び、間違えた場合には修正できること」に置くなら、評価はもっと複雑になる。決断能力だけでなく、情報収集、異論、専門性、記録、議会による監視、政策評価まで含めて制度を見なければならないからである。

強い指導者より、間違いを直せる制度の方が強い

 官邸主導について考えるとき、最も重要なのは首相を強くするべきか弱くするべきかという二択から離れることだろう。人口減少、安全保障、エネルギー、感染症、人工知能のように複数の省庁にまたがる問題が増える現代社会で、再び各省庁が個別に政策を積み上げ、最後に首相が承認するだけの政治へ完全に戻ることは現実的ではない。

 必要なのは弱い官邸ではなく、強い官邸の周囲に強い検証装置を置くことである。

 官僚が昇進だけを気にせず専門的な異論を提示でき、それが記録として残され、有識者会議では政府に近い意見だけでなく反対意見も検討され、最終的には選挙で選ばれた政治家が責任を持って決断する。そして国会と国民が、数年後に「なぜこの政策を選んだのか」「予想した効果は得られたのか」を資料に基づいて検証できる。その仕組みがあるなら、政治主導と官僚の専門性は対立するものではなく、むしろ互いを補完する。

 強い政治とは、指導者が何でも決められる政治ではない。間違ったときに、それを発見して修正できる政治である。

官邸主導が日本政治に残した本当の宿題

 「官邸主導は日本政治を良くしたのか」という問いに、単純な答えはない。しかし、かなり確かなことはある。日本政治はこの三十年ほどの改革によって、「誰も決められない政治」から「誰が決めるのかが比較的分かる政治」へと大きく変わった。

 それは小さな変化ではない。

 一方で、政治の目的は決めることそのものではない。よりよい選択肢を見つけ、間違った場合には修正し、その理由を国民に説明できることである。官邸主導によって日本政治は確かに強力なアクセルを手に入れたが、アクセルが強くなればなるほど、ブレーキ、計器、ミラーまで同じ性能にしておかなければならない。

 かつて日本政治が抱えていた問いは、「なぜ誰も決められないのか」だった。官邸主導の時代になって現れた問いは、それとは少し違っている。

 首相が政策を決める。それ自体は民主主義に反することではなく、むしろ議院内閣制では当然のことでもある。しかし、その決定に対して専門家が「この前提は間違っています」と言えるのか、官僚が「この政策にはこうした危険があります」と書けるのか、国会が「なぜそう決めたのか」と資料をたどれるのか、そして数年後の国民がその政策の成否を検証できるのかという問題は、首相が強くなっただけでは解決しない。

 日本政治は官邸主導という改革によって、「誰が決めるのか」という問いにはかなり明確な答えを与えた。

 しかし、その先にある問いには、まだ十分な答えを出していない。

 「決めた人が間違えたとき、それをどう発見し、誰が止め、どう直すのか」。

 おそらく官邸主導の成否を本当に判断できるのは、この問いに日本政治が答えられるようになったときなのだろう。

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 「派閥政治をなくせば、日本の政治はもっと良くなる」。そう言われると、ほとんど反論の余地がないようにも聞こえる。派閥という言葉には、政策を競い合う議員集団というより、料亭での密談、総裁選の票読み、派閥順送りの人事、そして政治資金をめぐる不透明な関係といった、いささか古びた永田町の風景が重なっているからだ。自民党派閥の政治資金をめぐる問題が大きく表面化した後では、なおさら「派閥をなくす」という言葉そのものが政治改革を意味するようになった。

 実際、自民党は2024年以降、従来型の派閥から資金と人事の機能を切り離す改革を進めてきた。政治資金制度についても、政党などが議員個人に資金を渡し、その最終的な使途を明らかにしない、いわゆる政策活動費を禁止する改正政治資金規正法が2026年1月1日に施行された。少なくとも制度の表面だけを見れば、日本政治は長く続いた「派閥ありき」の政治から一歩離れようとしているように見える。

 ところが、政治というものは看板を外しただけでは終わらない。2026年に入ると、解散した旧派閥の議員たちが再び会合を重ねる動きが目立つようになった。旧二階派の議員を中心に「総合安全保障研究会」という政策グループがつくられ、旧安倍派や旧岸田派の人脈にも会合の動きが見られる一方、解散しなかった麻生派は衆議院選挙後に新人らを加えて60人となった。ただし、ここで「派閥が完全復活した」とまで断定するのは早い。現在確認できるのは、旧派閥を基礎とする人脈や政策集団が再び動き始めているという事実であり、それがかつてと同じ資金・人事機能を持つ派閥へ戻るかどうかは、まだ観察の途中にある。

 しかし、この動きは一つの重要な問いを突きつけている。そもそも派閥とは、誰かが意図的に発明した日本政治の悪習だったのだろうか。それとも、日本の選挙制度や政党組織、人事制度が長い時間をかけて生み出した一つの合理的な帰結だったのだろうか。この違いを考えないまま派閥の善悪だけを論じても、派閥が消えた後に何が現れるのかまでは見えてこない。

派閥を育てたのは「同じ党の候補との競争」だった

 自民党の派閥を理解するには、1994年の政治改革以前まで時計を戻す必要がある。当時の衆議院選挙では中選挙区制が採用され、一つの選挙区から複数の議員が選ばれていたため、自民党は同じ選挙区に複数の候補者を立てることが珍しくなかった。その結果、自民党候補にとって最も手ごわい競争相手が野党候補ではなく、同じ自民党の別の候補になるという、現在から見ると不思議な政治状況が生まれていた。

 同じ党なのだから、政党名も大まかな政策も同じである。それでも有権者には自分の名前を書いてもらわなければならない。そこで候補者は個人後援会をつくり、地域との結びつきを強め、自ら選挙資金を集めると同時に、中央政界では選挙や資金、人事で支えてくれる有力政治家を必要とした。こうした環境の中で派閥は強くなり、領袖は所属議員を支え、所属議員は総裁選などで領袖を支えるという交換関係が発達していった。

 もちろん、派閥そのものを中選挙区制が一から生み出したと考えるのは正確ではない。自民党は1955年、自由党と日本民主党が合同して誕生した政党であり、結党以前から政治家同士の人脈や系列は存在していた。ただ、中選挙区制が党内競争を強め、それらの人脈を資金・選挙・人事を伴う強固な組織へ発達させる重要な条件になったと考えるのが、より実態に近い。

 その構造を大きく変えたのが1994年の選挙制度改革だった。小選挙区比例代表並立制の導入によって、一つの小選挙区から一人しか当選しない仕組みが中心となれば、同じ政党から複数候補が競争する場面は大幅に減る。政治学の研究でも、制度改革後には派閥が候補者公認に及ぼす影響力が弱まり、党執行部の公認権が相対的に重要になったことが指摘されている。一方で、派閥による人事や党内ポストをめぐる機能は完全には消えず、派閥は役割を変えながら残った。つまり派閥は、制度が一つ変われば消えてしまうほど単純な組織ではなかったのである。

派閥をなくすことと、派閥の仕事をなくすことは違う

 会社から営業部という名称を消しても、商品を売る仕事までなくなるわけではない。誰かが営業をしなければ会社が回らないように、政治組織でも名前をなくしただけでは消えない機能がある。数百人の国会議員を抱える巨大政党で、すべての議員が党首と直接相談し、すべての政策について全員で同時に議論することなど現実にはできないため、情報を集める人、意見をまとめる人、新人を育てる人、政策分野ごとの専門家を結びつける人がどうしても必要になる。

 興味深いことに、この問題を認識しているのは派閥を擁護する政治学者だけではない。自民党自身が公表したガバナンス体制に関する報告書でも、従来の派閥が情報共有、人材育成、意見集約、意思疎通の一部を担ってきたことを認め、その機能をこれから党組織としてどのように代替するかを課題として挙げている。さらに同報告書は、単純に権限を中央へ集めればよいのではなく、「集権」と「分権」の均衡が必要だとしている。これは、自民党自身が「派閥を消した後にも組織として残る問題」があることを認めているに等しい。

 したがって、派閥改革の本当の問題は派閥という部屋を閉鎖することではなく、その部屋で行われていた仕事をこれから誰が引き受けるのかという点にある。人材育成を党本部が担うのか、政策研究会が担うのか、地方組織が担うのかによって、同じ「派閥廃止」でも出来上がる政党の姿はまるで違ってくる。

派閥が弱くなると、党執行部は相対的に強くなりやすい

 派閥政治には明らかな弊害があった。能力や専門性より派閥の順番が優先される人事、総裁選をめぐる数合わせ、資金を通じた上下関係が政治への不信を招いてきたことは否定しにくい。それなら派閥が弱くなれば、政治家は派閥領袖の束縛から解放され、能力だけで評価されるようになるのではないかと考えたくなる。

 ところが、権力というものは消えるより移動することの方が多い。小選挙区では主要政党から原則一人の候補者が公認されるため、現職議員にとって党の公認を得られるかどうかは政治生命に直結する。候補者公認、選挙支援、党内ポスト、人事といった政治的資源を党執行部が握り、その一方で派閥の力が弱まれば、議員一人一人が自由になるとは限らず、むしろ党執行部への依存が高まる可能性がある。

 ただし、ここで「派閥をなくせば総裁独裁になる」と短絡するのも正しくない。1994年以降の変化は、小選挙区制だけではなく、政党交付金、公認制度、政治資金制度、選挙運動の変化など複数の要因が重なって生じたものであり、党総裁と党執行部も完全に同じ存在ではない。政治学研究から言えるのは、選挙制度改革などによって候補者選定にかかわる政治的資源が中央へ集まりやすくなり、党執行部の影響力を行使しやすい環境が生まれたというところまでである。

 それでも、ここには派閥改革の一つの逆説がある。かつての「派閥の領袖に逆らいにくい政治」がなくなったとしても、その代わりに「党執行部に逆らいにくい政治」が生まれるのであれば、権力の総量が減ったわけではない。権力の住所が変わっただけである。

派閥は権力の源泉であると同時に、権力を割る装置でもあった

 派閥を考えるうえで難しいのは、派閥が一方では権力を生み出しながら、別の面では権力の集中を防いでいたことである。複数の派閥が競争する自民党では、総裁や首相であっても党内のすべてを自由に決められるわけではなく、他派閥との調整を必要とした。これは政策決定を遅らせ、人事を複雑にする原因になった一方で、党執行部への権力集中を抑える一種の内部的な牽制として作用する場面もあった。

 もちろん、これをそのまま「派閥は民主主義を守っていた」と美化することはできない。有権者から見えないところで数人の派閥幹部が大臣ポストや党役職を調整するのであれば、それは民主的な権力分散とは別のものである。しかし、「派閥を弱めること」と「権力を分散させること」が同じではないという点は重要である。派閥を解体した結果、一か所に権力が集中するのであれば、政治の透明性や意思決定の質が自動的に向上するわけではない。

 政治に必要なのは速度だけでもない。強い執行部は政策決定を速め、選挙で掲げた政策を実行しやすくする一方、内部から異論が出にくくなれば、間違った政策へ進んだときにブレーキを踏む仕組みまで弱くなる可能性がある。政治制度を考えるときには、「誰が決めるか」と同時に「誰が止められるか」を見なければならないのである。

本当に注意すべきなのは、表札のない政治集団かもしれない

 さらに厄介なのは、人間関係には解散届がないことである。何十年も同じ派閥に所属してきた政治家同士には、先輩と後輩、師弟、同期、選挙支援、政策分野などを通じた関係が残っているため、「今日で派閥を解散します」と宣言した翌日から互いが無関係な政治家になるわけではない。

 2026年に旧派閥を基盤とした政策研究会や会合が再び目立つようになっていることは、その意味で興味深い。現在のところ、それらが旧来の派閥と同じように政治資金を集め、人事を要求し、総裁選の票を一括して動かす組織になっていると証明されたわけではない。しかし、人間関係に基づく政治集団そのものが、派閥解散によって消滅したわけでもないことは見えてきている。

 ここには別の危険もある。以前の派閥政治では、「この議員は何派に所属し、領袖は誰で、所属議員は何人なのか」という粗いながらも権力地図を見ることができた。ところが政治団体としての派閥が消え、実際の政治的連携が食事会、勉強会、政策研究会、同期会などの緩やかなネットワークへ移れば、誰と誰が継続的に協力し、誰が人事や政策に影響を及ぼしているのかを外部から把握しにくくなる可能性がある。

 だからといって、非公式な議員グループの方が旧派閥より危険だと現時点で断定することはできない。そこにはまだ十分な実証データがない。しかし、「組織をなくせば透明になる」とも限らないという仮説は、今後の自民党政治を見るうえで重要である。表札を外したことで建物まで消えたと思っていたら、実際には入口だけが分かりにくくなっていたということも、政治の世界では起こり得るからだ。

悪かったのは「集まること」なのか、それとも集団に与えられた権力なのか

 ここまで考えると、改革の対象そのものが少し違って見えてくる。政治家が集まること自体を問題にする必要はない。同じ政策に関心を持つ議員が研究会をつくり、新人議員が経験者から国会運営を学び、ある総裁候補を支持する政治家同士が連携することは、議会政治ではむしろ自然な行為である。

 問うべきなのは、その集団が何を握っているのかである。政治資金を不透明に動かせるのか、人数を背景に大臣や党役職を要求できるのか、候補者公認に影響を与えられるのか、若手議員の昇進や選挙支援を事実上左右できるのか、そして誰がどの意思決定にどれだけ関与したのかを外部から確認できるのかという問題こそが重要になる。

 こう考えれば、派閥改革の核心は「政治家を集団から解放すること」ではなく、「集団形成そのものと、資金・人事・公認という権力資源を切り分けること」にある。政策を研究する集団は存在してもよいが、その集団への所属と大臣就任が交換条件になってはならず、若手を育成する仕組みも特定の領袖への忠誠ではなく、党全体の制度として用意される方が望ましい。資金についても、誰から入り、何に使われたのかを追跡できる仕組みを強くする方が、集団そのものを禁止するより制度として筋が通っている。

派閥は日本政治の原因であると同時に、制度の結果でもあった

 政治改革では、目に見えるものを原因だと思い込みやすい。政治とカネの問題が起これば派閥をなくそうと考え、世襲議員が多ければ世襲そのものを禁止したくなり、政治家が長く在職すれば多選を制限すればよいと思ってしまう。しかし制度を変えるときには、その現象を生み出している一段奥の構造まで見なければ、形を変えた同じ問題が再び現れる。

 政治家には選挙があり、公認があり、政治資金が必要で、党内人事があり、大臣や委員長への昇進があり、総裁選もある。しかも数百人の議員が一つの政党に所属しながら、限られた役職と政治的影響力を競っている。この条件が続くかぎり、政治家には他の政治家と連携し、ある程度まとまった集団をつくる強い誘因が残る。

 三人が情報交換を始め、五人で定期的に会い、十人で特定の政策を共同提案するようになれば、そこにはすでに政治的なネットワークがある。それを派閥と呼ぶのか、政策研究会と呼ぶのか、議員グループと呼ぶのかによって法的・組織的な違いはあるが、人間が集団をつくって政治力を形成するという現象まで消えるわけではない。

 だから本当に問うべきなのは、「派閥を完全になくせるか」ではなく、「政治家が集団をつくることを前提に、その力をどのような透明で公正な制度の中へ置くか」である。

派閥のない政治が、きれいな政治とは限らない

 派閥を弱めることで改善できる問題は確かにある。派閥単位での不透明な資金集めを防ぎ、所属派閥の順番だけで大臣や党役職が回ってくる慣行を弱められれば、政治家の専門性や能力を重視する余地は広がる。それだけでも改革には意味がある。

 しかし、派閥がなくなった空間を党執行部だけが埋めれば権力は中央へ集中し、旧派閥の人脈が非公式な集団として残れば権力関係がかえって見えにくくなる可能性があり、さらに人材育成や意見集約まで一緒に失われれば巨大政党を動かす組織能力そのものが落ちるかもしれない。派閥をなくしたという一つの事実だけから、政治が良くなったか悪くなったかを判断することはできないのである。

 それなら、派閥改革の成否を何で測ればよいのだろう。見るべきなのは派閥の数ではなく、政治資金を以前より追跡できるようになったのか、人事の理由を以前より説明できるようになったのか、若手議員が特定の有力者に従属しなくても育つ仕組みができたのか、党内で異論を唱えた議員が直ちに政治生命を失わない制度があるのか、そして誰が誰と結びつき、どのような過程で意思決定が行われたのかを有権者が以前より理解できるようになったのか、という変化である。

 派閥という名前を永田町から消すことはできるかもしれない。しかし、政治家から人間関係を消すことはできない。人が集まれば関係が生まれ、関係が続けば集団が生まれ、集団が形成されればそこには何らかの力が生まれる。その力そのものを消そうとするより、どこに力があり、誰が使い、誰が利益を得て、間違ったときに誰が責任を負うのかを見えるようにする方が、民主政治の制度設計としては現実的である。

 そう考えると、「派閥をなくせば日本政治は良くなるのか」という問いへの答えは、単純な「はい」でも「いいえ」でもない。派閥をなくすことで改善する問題はあるが、改革の本当の成否は、その後に資金、人事、公認、情報、人材育成という政治的資源がどこへ移り、それを誰が監視できるようになるかによって決まる。

 古い派閥の看板が永田町から消えたところで、政治改革は完成しない。むしろ興味深いのはその後であり、空席になったはずの椅子に誰が座るのか、あるいは椅子そのものが別の部屋へ移されるのかを見なければならない。派閥政治の終わりを論じるなら、派閥が消えた瞬間ではなく、その後にどのような権力地図が描かれ始めるのかを見るべきなのである。

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 町の将来を左右する大きな公共事業が持ち上がったとする。議会では賛成派と反対派が議論を続けているが、なかなか結論が出ない。住民説明会では厳しい意見が飛び交い、新聞や地域の情報サイトには「最後は住民に決めさせるべきだ」という声が並び始める。そこで登場するのが住民投票であり、賛成か反対かを一人一票で決めるという方法は、複雑な政治の世界を一瞬で透明にしてくれるように見える。

 政治家でも役所でもなく、住民自身が決める。これほど民主主義らしい制度はないようにも思える。それなら町長や議会が決めている政策をもっと住民投票に移し、重要事項のたびに住民の意思を尋ねれば、地方政治は今より民主的になるのだろうか。

 ところが、住民投票についての研究をたどっていくと、この直感は半分正しく、半分危ういことが分かってくる。住民投票には代表民主制にはない強みがある一方、投票する回数を増やすだけでは民主主義の質は高まらず、場合によっては、有権者が処理しなければならない情報を増やし、少数者を不利にし、政治責任の所在を曖昧にすることさえあるからである。

民主主義は、多数決と同じ言葉ではない

 住民投票を考える前に確かめておかなければならないのは、民主主義と多数決は同じものではないということである。多数決は、多くの人が異なる意見を持つ社会で結論を出すための極めて重要な方法だが、「過半数が賛成した」という事実だけで、その決定が民主主義的に正当化されるわけではない。

 人口一万人の町で、九千人にはほとんど負担がなく、残る千人だけの生活環境を大きく悪化させる政策があったとする。単純な多数決なら九千対千で圧倒的に可決される。しかし、この結果だけを見て「九割の民意なのだから民主的だ」と言い切るなら、民主主義は多数者が少数者を自由に支配する仕組みに変わってしまう。

 近代民主主義が多数決だけでできていないのは、そのためである。表現の自由、基本的人権、少数者の保護、司法による統制、権力分立などは、多数者であっても簡単には越えてはならない線を設ける仕組みである。住民投票を考えるときにも、「何人が賛成したのか」だけでなく、「そもそも多数決に委ねてよい問題なのか」という問いを避けることはできない。

スイスを見ても、「何でも住民が決める」わけではない

 直接民主制の代表例としてしばしば挙げられるのがスイスである。スイスでは2026年にも年四回の投票日が設定され、憲法改正には国民投票が必要であるほか、一定数の署名によって国民側から憲法改正を提案する国民発議や、議会が成立させた法律などを国民投票に持ち込む任意的レファレンダムも存在している。国民発議には18か月以内に10万筆、任意的レファレンダムには100日以内に5万筆の署名が必要であり、直接民主制はスイスの統治制度の中に深く組み込まれている。

 しかし、ここで重要なのは、「住民投票」という一つの言葉の中に性質の違う制度が入っていることである。政府が自ら設定した問題について住民の判断を求める場合と、住民自身が署名を集めて政治課題を持ち込む場合、さらに議会の決定に対して住民が拒否権を行使する場合とでは、同じ投票でも政治的な意味はかなり違う。

 この違いを無視して「直接民主制は良いか悪いか」と問うと、議論は粗くなる。住民が答える権利を持っていても、質問を作る権利を行政だけが持っている制度と、住民自身が質問を政治の場に持ち込める制度とでは、民主主義の構造そのものが違うからである。

本当に大きな権力は、「答える人」より「問いを作る人」が持っている

 例えば老朽化した町役場を50億円かけて建て替える計画があったとしよう。「新庁舎建設に賛成ですか」と尋ねることもできれば、「老朽化し耐震性に問題のある庁舎を建て替えることに賛成ですか」と尋ねることもできる。反対に、「50億円を投じる新庁舎建設に賛成ですか」と問えば、財政負担の印象が前面に出る。

 扱っている政策は同じでも、住民が最初に見る風景は同じではない。投票用紙に書かれた言葉そのものが投票行動へ影響し得ることは実験研究でも示されており、基本的な選挙運動情報が与えられるとその効果が弱まるとの結果もある。つまり質問文の影響は絶対的ではないが、無視してよいほど小さな問題でもない。

 欧州評議会のヴェネツィア委員会が住民投票・国民投票について、質問は明確で理解可能であり、誤解を招かず、特定の答えへ誘導しない中立的なものでなければならないと繰り返し求めているのも、この問題が民主主義の周辺的な技術論ではないからだ。2026年の意見書でも、質問の明確性や中立性を事前に審査する重要性が改めて示されている。

 私たちは住民投票というと、投票箱の前に立つ住民の姿を思い浮かべる。しかし、その人が「賛成」と「反対」のどちらかを選ぶはるか前に、誰かが問題を切り取り、質問を作り、選択肢を並べている。民主主義の公平さは投票箱を置いた日に始まるのではなく、その問いを作り始めた日からすでに試されているのである。

現実の政策は、本当は二つの箱には入らない

 住民投票にはもう一つ避けにくい問題がある。現実の政策の多くは、賛成と反対という二つの箱に収まらない。

 町立病院が毎年3億円の赤字を出しているとして、「病院を存続させることに賛成ですか」と住民へ尋ねれば、投票用紙には賛成と反対しか並ばない。しかし行政が本当に考えなければならないのは、全面存続か廃止かだけではない。病床を減らす、診療科を再編する、近隣自治体と共同運営する、入院機能を縮小して外来中心にする、民間医療機関への支援に切り替えるといった複数の選択肢があり、それぞれ費用と医療アクセスと将来リスクが違う。

 ところが住民投票を成立させるには、その複雑な政策空間を一定の選択肢へ圧縮しなければならない。住民に決定権を渡すという民主的な行為は、同時に、誰かが現実から選択肢を切り出す行為でもある。この意味では、住民投票が直接民主制だからといって、すべての政治権力が住民へ移るわけではない。

「普通の住民には難しい政策を判断できない」のか

 直接民主制への古典的な批判として、「専門知識を持たない住民に複雑な政策を判断できるのか」というものがある。水道事業、病院経営、都市計画、廃棄物処理、公共交通、自治体財政などを考えれば、この疑問は簡単には退けられない。議員や行政職員でさえ専門家の説明を聞き、膨大な資料を読んで判断する問題を、普段は別の仕事をしている住民が数週間で理解できるのかという問いには現実味がある。

 しかし、「一般の住民には分からないから専門家へ任せればよい」と結論づけるのも、研究結果とは合わない。2026年に公表されたデンマークの欧州連合関連国民投票の研究では、4回の国民投票を通じて、争点についての有権者の知識が投票運動期間中に平均約10~19パーセントポイント上昇していた。しかも知識の増加には、学歴や政治への関心以上に、ニュースでその問題がどれだけ扱われたかという情報環境が関連していた。研究者自身は因果関係を過度に断定せず記述的知見としているが、「普通の有権者は政策について学習しない」という単純な見方には明確な反証を与えている。

 だからといって、どんな政策でも住民が十分理解できると考えるのも危険である。2021年に、住宅ローンや航空機部品など非常に専門的な投票案件を使って行われた実験では、有権者が問題の意味を十分理解できず、文章を分かりやすくしたり追加説明を与えたりしても理解が大きく改善せず、初期設定的な回答に依存する傾向が確認された。

 この二つの研究は矛盾しているように見えるが、むしろ住民投票の本質をよく表している。住民には学習する能力があるが、無限の情報処理能力があるわけではないのである。したがって問題は「住民を信用するか、専門家を信用するか」ではなく、住民が意味のある判断をできる程度まで問題を理解できるのか、そのための情報環境を社会が用意できるのかという制度設計へ移る。

住民投票は、多ければ多いほど良いのか

 この記事の題名に最も直接答える研究の一つが、スイスで3,500件を超える投票案件を分析した2019年の研究である。そこで確認されたのは、同時に処理しなければならない投票案件が増えると、有権者が個々の案件について持っている知識が低くなる傾向だった。

 ただし、この研究は「住民投票を増やすと民主主義が崩壊する」と結論づけてはいない。投票行動や民主主義への態度など他の指標については、観察された範囲では案件数の増加による一貫した悪化は確認されなかったからである。

 ここには重要な示唆がある。住民投票を増やした途端に有権者が政治に嫌気を差し、民主主義が機能しなくなると考える根拠は乏しい一方、住民にも時間という希少資源があり、一度に考えさせる案件を増やせば、一件当たりに割ける注意力が薄くなる可能性がある。民主主義もまた、人間の認知能力という制約から自由ではないのである。

 自治体が十の案件について住民の意思を知りたいからといって、10件を一度に投票へかけることが最善とは限らない。民主主義への参加機会を増やすことと、有権者の判断負担を増やすことは、しばしば同じ政策によって同時に起こる。

一人一票でも、一票ができるまでの条件は平等ではない

 投票所に入れば、大企業の経営者も年金生活者も一票である。しかし、その一票が作られるまでの情報環境まで平等になるわけではない。

 政策広告を出すには資金が必要であり、専門家を雇って資料を作るにも、新聞広告を出すにも、インターネットで大量の情報を発信するにも費用がかかる。アメリカ・カリフォルニア州の住民発議を分析した研究では、賛成側と反対側双方の選挙運動支出が投票結果へ統計的に有意な影響を持つことが報告され、スイスの三百二十三件の連邦レベルの投票を分析した研究でも、政党連合の構成とともに選挙運動支出が結果へ影響することが確認されている。

 もちろん、資金や組織力が政治へ影響するのは住民投票だけではない。議員選挙でもロビー活動でも同じ問題は存在する。それでも、「政治家を通さず住民が直接決めれば、権力関係から解放された純粋な民意が現れる」と考えるのは無理がある。

 投票権について一人一票を保障することと、一票を形成するための情報へ同じように接近できることは別問題だからである。民主主義を投票日の平等だけで測れば、その前に存在する情報格差を見落としてしまう。

多数者に決めさせない方がよい問題もある

 住民投票と少数者の関係についても、結論は単純ではない。直接民主制だから必ず少数者が迫害されるわけではなく、多数の有権者自身が少数者の権利保護を支持していれば、直接投票によってその方向へ政策が動くこともあり得る。

 しかし、少数者自身の権利を多数者が直接判断する場合には、無視できない実証研究も存在する。スイス約1,400自治体の1991年から2009年までを分析した研究では、移民の帰化申請を住民による直接的な判断から選挙で選ばれた地方議員による判断へ移した自治体で、帰化率が約60%上昇した。制度変更がスイス連邦裁判所の判断によって生じたことを利用した研究であるため、単なる地域差の比較よりも因果関係を推定しやすい設計になっている。

 もちろん、この結果だけから「代表民主制は常に少数者を守り、直接民主制は常に少数者を傷つける」と一般化することはできない。帰化審査という特殊な制度についてのスイスの研究だからである。それでも、当事者が人口上の少数者である以上、自分たちの権利を多数票によって守ることが構造的に難しい問題が存在することは分かる。

 多数決は意見を集計する優れた方法だが、多数決によって決める対象の選択まで多数決に任せてよいとは限らないのである。

住民投票を増やすと、政治家は責任から逃げられるのか

 代表民主制には、しばしば忘れられる一つの機能がある。選ばれた政治家に決定させることで、誰がその判断をしたのかを明確にし、次の選挙で評価できることである。

 この観点からは、難しい政策を次々と住民投票へ委ねると、政治家が「住民が決めたことです」と説明して、自らの政治的責任を薄めるのではないかという批判が生まれる。政治学者マイヤ・セタラは、特に政府側が住民投票の実施をコントロールする制度では、政府が難しい争点について自ら立場を取ることを避けるために投票を利用する場合があり、代表者のアカウンタビリティ(accountability・説明責任と責任追及可能性)を弱める可能性を論じている。

 ただし、この問題についても結論は決着していない。政治学者アリス・エル=ワキルは、有権者自身には政治家と同じ意味で責任を取らせることができないという理由だけで、拘束力のある住民投票や住民発議を非民主的とみなすことはできないと反論している。

 したがって正確に言えば、住民投票を増やせば必ず政治責任が消えるのではない。問題は、誰が住民投票を発議したのか、結果に拘束力があるのか、議会でどこまで審議したのか、そして実施後の政策について誰が説明責任を負うのかである。政府自身が都合の悪い問題だけを住民へ投げ返す制度と、住民側が署名によって政治家へ問いを突きつける制度を、同じ「住民投票」として扱うべきではない理由もここにある。

日本の住民投票には「重いのに拘束しない」というねじれがある

 日本について考える場合には、さらに注意が必要である。2026年4月16日の衆議院総務委員会で、林総務大臣は、日本の地方自治では住民の直接選挙によって選ばれた首長と議会が中心的な役割を果たすことが基本であり、自治体が条例によって設ける拘束力を持たない住民投票は、議会制民主主義を補完して住民意思を把握する一つの手法として活用されているとの認識を示している。

 ただし、日本に存在するすべての住民投票が法的拘束力を持たないわけではない。法律に根拠を持つ法定型の投票と、自治体が条例によって実施する諮問型の住民投票は区別しなければならない。一般に地方政治で議論になることが多いのは後者であり、条例型では投票結果が首長や議会を法的に直接拘束しない場合が多い。

 ここに日本独特のねじれが生まれる。法的には拘束しないと言っても、例えば70%の住民が反対した大型事業を首長がそのまま進めれば、「住民投票を無視した」という強烈な政治的批判を受けるだろう。法律上は諮問でも、政治的には無視しにくい。

 それなら住民投票は決定なのか、それとも意見聴取なのか。結果に従わない可能性があるなら、住民は何のために投票するのか。必ず従うのであれば、なぜ最初からその法的効果を制度として整理しないのか。住民投票を増やそうとする議論では、投票の実施回数ばかりに目を向けるのではなく、「投票した後に何が起きるのか」まで決めておかなければならない。

それでも住民投票には、選挙ではできないことがある

 ここまで読めば、住民投票とは随分危険な制度のように感じるかもしれない。しかし、代表民主制にも同じくらい明確な限界がある。

 選挙では、一人の候補者が持つ無数の政策を一括して選ばなければならない。福祉政策には賛成だが公共事業には反対、教育政策には賛成だが増税には反対という有権者でも、投票用紙では候補者を一人選ぶしかない。しかも地方では候補者不足によって無投票選挙になることもあり、選挙結果をそのまま個々の政策への賛成と解釈することには限界がある。

 住民投票には、この束になった民意を一度ほどく働きがある。「この町長を支持しますか」ではなく、「この病院建設を支持しますか」と、一つの政策だけについて住民の意思を確認できるからである。

 直接民主制が財政政策そのものを変える可能性も研究されている。例えばスイスの州を分析した研究では、一定の財政支出について住民投票を義務づける制度が政府支出を抑制する方向に関連していた。ただし、その後の研究では、住民のもともとの政策選好を十分考慮すると制度そのものの効果は従来推計より小さくなることも示されており、「住民投票さえ導入すれば行政が効率化する」と単純化することもできない。

 それでも、住民投票という制度が政治家へ圧力を与え、政策を変える可能性があること自体は無視できない。住民投票は代表民主制と競争する別の民主主義というより、代表者だけに判断を独占させないための補助装置として考えた方が現実に近い。

投票する前の「考える時間」を制度にできないか

 ここまでの問題の多くは、住民へ判断させることそのものより、住民へいきなり賛成と反対の二択を突きつけることから生まれている。

 そこで考えられるのが、投票と熟議を組み合わせる方法である。無作為抽出などで選ばれた市民が、行政だけでなく賛成派、反対派、専門家などから説明を受け、一定期間議論し、争点を整理する。その成果を全住民へ提供した上で最終的な投票を行うのであれば、「詳しい人だけが情報を持ったまま投票日を迎える」という問題をいくらか緩和できる。

 重要なのは、民主主義を「すでに出来上がった民意を数える制度」と考えないことである。人の意見は、投票日の朝に突然完成するものではない。新しい事実を知り、自分とは違う事情を抱える人の話を聞き、予算額や代替案を知れば考えが変わることもある。

 デンマークの研究で、投票運動中に政策知識が増え、その増加が情報環境と関連していたことは、この意味で示唆的である。良い民主主義に必要なのは、住民にたくさん投票させることだけではなく、判断するための材料と時間を渡すことなのかもしれない。

民主主義の質は、投票箱の数では測れない

 結局のところ、「住民投票を増やせば民主主義は良くなるのか」という問いに、単純なイエスもノーもない。

 住民投票には、議会と住民の意思のずれを修正し、一つの政策について明確な意思を示し、政治家だけに決定権を独占させない力がある。投票運動を通じて住民が政策について学習する場合もあり、直接民主制そのものが議会や政府の行動を変える可能性もある。

 しかし投票案件を増やせば、有権者が一件ごとに持てる知識が薄くなる可能性がある。複雑すぎる問題では十分理解できない場合もあり、質問文の作り方によって結果が動くこともある。多額の選挙運動資金を投入できる組織と個人住民では情報発信力が違い、少数者自身の権利を多数決に委ねることにも危険がある。さらに、政府が都合の悪い問題を住民投票へ送る制度であれば、代表者が負うべき責任まで曖昧になる可能性がある。

 だから民主主義の程度を、「年間何回住民投票を行ったか」で測ることにはほとんど意味がない。見るべきなのは、その問題を住民投票で決めることが適切なのか、誰が議題を設定したのか、質問は中立なのか、代替案は示されているのか、住民が判断できる情報は届いているのか、少数者の基本的権利を多数決に委ねていないか、そして決定後に誰が政策を実行し、その結果について誰が説明するのかという一連の仕組みである。

 議会で決める方がよい政策もあれば、住民が直接決める方がよい政策もある。その中間には、住民参加型の審議会、市民会議、住民発議、諮問型投票など様々な仕組みを置くこともできる。民主主義とは、代表民主制か直接民主制かという二者択一ではなく、問題の性質に応じて「誰に、どの段階で、どこまで決めさせるか」を設計する仕事だと考えた方がよい。

 投票箱は民主主義の象徴であり、その価値は今後も変わらないだろう。しかし投票箱を増やすだけで民主主義が豊かになるわけではない。誰が問いを作り、どのような情報を受け取り、どれだけ考える時間を持ち、誰が決定し、その後に誰が責任を引き受けるのか。その長い過程全体を公正にすることこそ、民主主義を良くする仕事なのである。

 私たちが投票用紙に丸をつけるとき、民主主義が始まるのではない。その頃には、民主主義の質を決める仕事のかなりの部分が、すでに終わっている。

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