地域政経

九条レオンの地域から社会と政治・経済のこれからを考える

 1972年5月9日の夜、東京・柳橋の料亭で、田中角栄を次期自民党総裁に推そうとする国会議員たちの集会が開かれた。衆議院40人、参議院41人、合わせて81人が参加者として数えられたという。ところが、肝心の田中本人は姿を見せず、田中支持の有力政治家だった愛知揆一、橋本登美三郎、竹下登も出席していなかった。それでも、集会の規模は当時の自民党にとって無視できないものだった。現職首相の佐藤栄作が長年率いてきた政治勢力の内部から、別の指導者を推す議員集団が公然と姿を現したのである。

 当時の佐藤派は、自民党内でも大きな勢力を持つ派閥だった。佐藤は福田赳夫を後継者として重視していたが、福田への政権継承は容易に実現しなかった。佐藤政権を支えてきた議員たちが、次期総裁については必ずしも佐藤と同じ考えを持っていなかったからである。長期政権を維持することができた首相が、なぜ自らの後継者を思いどおりに選ぶことは難しかったのか。この問題を考えるには、田中が福田を破った1972年7月の自民党総裁選だけでなく、その前年から約10か月間にわたって進んだ佐藤派内部の変化を調べる必要がある。

 もっとも、1971年夏の時点ですでに田中派という独立した組織が完成していたわけではない。また、後年の田中派に所属した議員が、その時期から田中を支持していたとも限らない。政治史を振り返るときには、最後に誰が勝利したかを知っているため、そこへ向かうすべての出来事が最初から計画されていたように見えてしまう。しかし、当時の議員たちはまだ総裁選の結果を知らず、田中自身が次の総裁選に出馬するかどうかさえ、1972年春には複数の見方が存在していた。そうした不確実な状況のなかで、誰が、いつ、どのような行動を取ったのかを追うことが、佐藤派の後継者争いを理解する出発点となる。

佐藤栄作は、なぜ1970年に政権を譲らなかったのか

 1971年7月の内閣改造を理解するためには、さらに9か月ほど前の1970年10月29日にさかのぼらなければならない。この日の自民党総裁選で、佐藤栄作は353票を獲得し、111票だった三木武夫らを破って総裁四選を果たした。1964年11月に首相へ就任して以来、すでに約6年間も政権を維持していた佐藤が、なお続投を選んだのである。

 佐藤は福田赳夫を後継者として重視しており、その背景には岸信介と福田の政治的な関係もあった。しかし、佐藤自身が福田を後継者と考えていたとしても、福田を支持する党内勢力が総裁選で多数を獲得できるとは限らなかった。佐藤の長期政権を支えてきた議員の中には、田中を将来の指導者として期待する者も存在しており、政権の継承には佐藤派内部の支持関係だけでなく、他派閥の協力も必要だった。

 佐藤政権の内部資料を研究した解題では、福田への後継態勢が十分に整わなかったことが、佐藤続投の背景として指摘されている。一方、田中は1970年の総裁選では自ら立候補せず、佐藤の四選を支える立場にあった。結果として佐藤の続投は、田中が独自の支持基盤を形成するための時間を延ばすことにもなった。ただし、田中が最初からその効果を狙って佐藤の四選を支持したのかどうかは、当時の本人の発言や政治的な交渉記録によって、別に検証すべき問題である。

 そもそも、政権を支える議員の結束と、その政権が終わった後の後継者を選ぶ際の結束は、同じではない。佐藤が総裁である間は、政府や党の運営、選挙協力、政治的な人脈によって一つの派閥として活動できても、佐藤退陣後に誰を推すかとなれば、議員それぞれの考え方や将来の政治的な立場が問題になる。1970年の佐藤四選は、この後継問題を解決したというより、解決を先へ延ばした出来事として位置付けることができる。

1971年7月、最後の内閣改造に隠れていた後継問題

 1971年7月5日、佐藤は第3次佐藤内閣を改造し、それまで大蔵大臣だった福田赳夫を外務大臣に、自民党幹事長だった田中角栄を通商産業大臣に起用した。内閣官房長官には竹下登が就任し、田中の後任の党幹事長には、佐藤との関係が深い保利茂が就いた。後継者問題を研究した市川周佑の研究では、この人事は福田への政権継承構想と関係するものとして分析されている。ただし、人事の意図を考える際には、佐藤自身の構想と、実際に配置された政治家の支持関係を区別する必要がある。

 福田は外務大臣として日本外交の中心に位置し、田中は通商産業大臣として経済外交や産業政策を担当することになった。福田が外交、田中が通商を担当したことだけから、佐藤がどちらを有利に扱おうとしたのかを断定することはできないが、両者が佐藤内閣の重要閣僚として、それぞれ異なる政策課題に向き合う立場になったことは確かである。一方、田中が1968年以来務めていた党幹事長を離れたことは、党内の人事や選挙対策への直接的な関与のあり方を変える出来事でもあった。

 ところが、この改造からわずか10日後の7月15日、ニクソン米大統領が中国訪問計画を発表し、日本政府は対中外交の再検討を迫られた。さらに8月15日には、米国がドルと金の交換停止を含む新経済政策を発表し、戦後の国際通貨制度が大きく揺らいだ。福田外相は日米関係や中国政策への対応を担当し、田中通産相は輸出産業への影響や日米間の通商問題に向き合わなければならなかった。後継者争いの当事者となる二人は、同時に佐藤政権が直面した国際的な課題を処理する責任を負っていたのである。

 1971年10月15日には、田中と米国のケネディ特使との間で、長く難航していた日米繊維問題について基本的な了解が成立した。政府間取極は翌1972年1月に正式に署名され、日米間の懸案が一つ解決した。しかし、この合意は日本の繊維製品の対米輸出を制限する内容でもあり、政府は関連産業の過剰設備の買い上げなどの対策を講じる必要があった。したがって、交渉がまとまったことを田中の政治的な実績として評価する場合にも、関連業界が負担を受けた側面を無視することはできない。

 福田が担当した中国問題にも、後年の評価からは見落とされやすい事実がある。1971年10月19日の外交演説で、福田は中華人民共和国との国交正常化を歴史的な流れと捉え、その実現に取り組む意思を明確にしていた。福田は国交正常化そのものに反対していたのではなく、台湾との関係や国際的な信義への配慮を重視していたのである。したがって、後に田中内閣が日中国交正常化を実現したという結果から、田中を推進派、福田を反対派と単純に対比することは、1971年当時の政策論争を正確に表現したことにならない。

 このように佐藤政権の最終段階では、後継者争いが国際政治の大きな変化と重なっていた。ただし、ニクソン・ショックや繊維交渉の結果によって、具体的に何人の議員が田中支持へ移ったのかを示す資料は確認できていない。外交や経済政策の変化が党内政治に影響する可能性はあっても、出来事の発生時期が重なっているだけで因果関係を確定することはできないのである。

1971年末、沖縄返還を審議する国会の陰で始まった接触

 1971年秋、日本の国会では沖縄返還協定の審議が進んでいた。沖縄返還は佐藤が政権の重要な目標として掲げてきた政策であり、同年6月17日に協定へ署名した後、11月24日に衆議院、12月22日には参議院で承認され、翌年5月15日の返還実現に向けて手続きが進められた。佐藤政権が長年の政策目標を実現しようとしていたこの時期、自民党内部では佐藤退陣後の後継総裁をめぐる議員間の接触も始まっていたとされる。

 1972年3月10日付の共同通信は、佐藤派の田中系、大平派、中曽根派の議員たちが、前年の沖縄問題を審議した国会の後半から接近していたと報じている。この記述は、1971年末に作成された会合記録そのものではなく、翌年3月の報道がそれ以前の経過を振り返ったものである。そのため、最初の接触が具体的に何月何日に行われ、誰が参加したのかまでは確定できない。それでも、田中を推す勢力と他派閥の関係を、1972年5月の擁立集会より前にさかのぼって考える手掛かりにはなる。

 ここで重要なのは、佐藤派内部の田中系議員と、他派閥の議員が、なぜ接触する必要を感じていたのかという問題である。自民党総裁選で勝利するためには、佐藤派だけでなく、党全体で多数の支持を獲得しなければならない。しかも、佐藤が後継候補として福田を重視している以上、福田以外の総裁選出を目指す議員たちにとっては、佐藤の意向による後継者調整ではなく、公選によって総裁を決めることが重要な政治的課題になっていた。

 当時の自民党総裁選における公選とは、現在のような全国的な党員・党友投票を含む制度とは異なり、党所属国会議員と都道府県連の代表によって総裁を選出する方式だった。一般党員が参加する予備選挙の導入は1978年であり、1972年当時の公選を、今日の党員投票と同じものとして理解することはできない。また、現職総裁の意向や有力政治家の話し合いによる後継者選びを「禅譲」と呼んでいたが、これは党則上の正式な選出手続きの名称ではなく、当時の政治的な調整方法を表す言葉だった。

 したがって、田中系、大平派、中曽根派の議員が総裁公選を求めることは、必ずしも全員が田中の総裁就任を支持したことを意味しない。佐藤から福田への継承を既定のものとしないことと、誰を新総裁に選ぶかという問題は、別々に考える必要があった。1971年末から始まったと報じられる接触は、後の田中支持連合が完成していた証拠というより、次期総裁の選出方法をめぐって、異なる派閥の議員が協議を始めた過程として理解するのが適切である。

1972年1月から3月、政治家の実名が連携を物語り始める

 1972年に入ると、前年末からの接触について、日付を伴う具体的な記録が現れる。3月10日付の共同通信によれば、佐藤派田中系、大平派、中曽根派の間では、1月9日と2月23日に幹部級の接触が行われ、その後3月9日に東京都内で中堅議員17人が参加する会合が開かれた。これまで確認できているのは、共同通信の報道を中国側が翻訳・抄録した資料であり、日本語原文との照合は終わっていないものの、当時すでに会合の存在と参加者が報じられていたことは確認できる。

 3月9日の会合で実名が挙げられているのは、佐藤派田中系の亀岡高夫と仮谷忠男、大平派の斉藤邦吉と浦野幸男、中曽根派の蔵内修治と田川誠一である。17人全員の名前を確認できたわけではないが、この6人については、それぞれの所属勢力と会合への参加が報じられている。とりわけ亀岡と仮谷が、当時すでに佐藤派田中系として活動していたことは、田中支持勢力の形成を議員単位で追うための重要な手掛かりになる。

 共同通信の報道によれば、会合では次期総裁を一部の有力者による調整で決めることに反対し、公選を通じて選出することや、党の政策を刷新する必要性について、基本的な意見の一致があったとされる。この点を重視すれば、3月9日の会合は、単なる政治家同士の懇談ではなく、佐藤退陣後の党運営に関する共通の立場を確認する機会だったと考えられる。

 ただし、亀岡と仮谷について確認できるのは、少なくとも3月9日には田中系として活動していたということであって、その日に初めて田中支持を決めたということではない。また、大平派や中曽根派の議員たちについても、会合への参加をもって田中への投票を約束したと解釈することはできない。政治的な協議への参加、後継者の選出方法に関する合意、特定候補への支持表明は、いずれも異なる行為だからである。

 むしろ、この時期の特徴は、誰を次期総裁にするかという最終的な合意に至る前に、佐藤の後継者調整に対する考え方を共有する議員たちの接触が拡大していたことにある。田中系の支持勢力が他派閥へ働きかけるだけでなく、大平派や中曽根派の側にも、佐藤政権の後継問題について独自の判断が存在していた。こうした関係が、後に総裁選をめぐる派閥間協力につながることになるが、1972年3月の段階ですべての協力関係が確定していたわけではなかった。

4月、田中支持の政治家たちは公然と名前を挙げられるようになった

 1972年4月になると、田中を支持する議員たちの存在は、より具体的な形で新聞に登場するようになる。4月28日付『日刊工業新聞』は、田中がすでに45人の議員を自らの側に引き寄せたとする情報を紹介し、その支持勢力には長老格の木村武雄、中堅の坪川信三や二階堂進、比較的若い世代の竹下登らが含まれると報じた。ただし、この45人は当時の報道による人数であり、全員の氏名と支持確認方法が明らかになった確定名簿ではない。

 興味深いのは、同じ記事が田中の次期総裁選への出馬について、なお複数の見方が存在すると伝えていたことである。岸信介は田中が次の総裁選への出馬を見送り、その次の機会を目指すという見通しを示していたとされる一方、木村武雄は田中を次期首相に推すべきだという考えを明確にしていた。後年の歴史を知る立場からは、田中と福田の対決が既定の路線だったように見えがちだが、1972年4月の時点では、田中が実際に出馬するかどうかも政治的な関心事だったのである。

 この時期の田中支持勢力を考える際、木村武雄と二階堂進の役割には特に注目する必要がある。木村は長老格の政治家として田中擁立を訴え、二階堂は田中側の調整役として活動していた。田中支持が特定の世代の議員だけに限られず、長老から中堅、若手にまで広がっていたことは当時の報道から読み取れるが、木村や二階堂がそれぞれ何人の議員を説得したのか、資金や選挙支援がどの程度関係したのかを示す直接的な記録は、現段階では確認できていない。

 さらに複雑だったのは、佐藤政権の内部における支持関係である。竹下登は内閣官房長官として佐藤を補佐していたが、佐藤政権の内部資料に関する研究では、竹下が田中支持に回っていたことが指摘されている。一方、党幹事長の保利茂は佐藤による後継者調整に関わっていた。現職首相を補佐する官房長官と、同じ首相のもとで党運営を担う幹事長の政治的な立場が、次期総裁問題では一致していなかったのである。

 ただし、竹下が田中支持を決めた正確な日付や、佐藤がその動きをいつ認識したのかについては、官邸内部の原記録をさらに調べる必要がある。また、田中支持者として報じられた議員を、すべて一律に佐藤への反対者と分類することもできない。佐藤を現職首相として支えることと、次期総裁には田中を推すことは、政治的に両立し得たからである。

 こうして1972年4月には、佐藤派内部の田中支持者が実名を伴って報じられる一方、他派閥との協力関係や田中自身の出馬判断については、なお流動的な状況が続いていた。田中支持の議員が増加していたという当時の認識は確認できるものの、1971年7月から毎月何人ずつ支持者が増えたかを示す継続的な名簿は見つかっていない。支持勢力の形成を数量的に考えるためには、ここで数字の持つ意味を慎重に区別しなければならない。

45人から81人へ、支持者は本当に36人増えたのか

 1972年4月28日付の新聞報道に現れる45人と、5月9日の田中擁立集会で報じられた81人を比べると、わずか11日間で36人が新たに田中支持に加わったように見える。しかし、この計算をそのまま支持者の増加数とすることはできない。4月の45人は、田中が自らの側に集めたと報道された議員数であるのに対し、5月の81人は集会への参加を計上した人数であり、集計の対象も方法も同一とは確認されていないためである。

 5月9日の集会について、5月11日付『サンケイ』の記事を翻訳・抄録した資料では、衆議院40人、参議院41人の計81人のうち、12人が代理出席だったとされている。これに従えば、本人が出席した議員は69人となる。しかし、集会に欠席した田中支持者も存在していたため、本人出席69人という数字も、田中を支持する議員全体の人数を示すものではない。

 さらに、渡部恒三の後年の回想によれば、衆議院側の参加者40人には、当時無派閥だった渡部本人と小沢辰男が含まれていたという。この証言が正しければ、少なくとも衆議院側の40人全員が佐藤派所属だったわけではない。田中支持81人をすべて佐藤派所属議員として扱うと、派閥内部の支持関係を実際より単純化してしまうことになる。

 当時の新聞は、佐藤派の勢力を衆議院60人、参議院65人の計125人と報じていた。この125人に対して81人は64.8%に相当するが、その数値を厳密な田中支持率として使用することには問題がある。分母は佐藤派全体の報道上の人数であるのに対し、分子の81人には代理出席や無派閥議員が含まれている可能性があり、集計対象が一致していないからである。仮に無派閥の2人を除けば79人となるが、参議院側にも佐藤派以外の議員がいたかどうかは確認できておらず、79人を確定した佐藤派所属の支持者数とすることもできない。

 こうした数字の違いは、細かな計算上の問題にとどまらない。集会の規模が大きかったことは政治的に重要でも、それが佐藤派の何%に相当し、何人がいつ支持を転換したかという問題は、議員の所属と行動を一人ずつ確認しなければ正確に答えられない。4月の45人と5月の81人は、田中支持の動きが大きな政治的関心事になっていたことを示す資料ではあるが、同一の定義で継続的に観測された統計ではないのである。

 また、5月9日の集会に本人が出席した69人と、代理出席を含めて81人が参加を表明したという関係から、政治的な意思表示の方法にも注意が必要になる。本人出席と代理出席では会合への関与の形式が異なり、本人出席した議員についても、総裁選で必ず田中に投票すると正式に約束していたかどうかまでは、参加の事実だけで判断できない。集会への参加、田中支持の表明、実際の総裁選での投票行動は、区別して考えなければならない。

5月9日の柳橋で、佐藤派内部の対立が表面化した

 1972年5月9日の柳橋の集会では、木村武雄が中心的な役割を担った。5月11日付『サンケイ』の報道を紹介した資料によれば、木村は隅田川の花火に触れながら、集会を歴史的なものにしたいという趣旨の演説を行ったとされる。日本語の原紙を直接確認できていないため発言の逐語的な再現は避けるべきだが、田中支持勢力の存在を明確に示そうとする意図を持った集会だったことは、当時の報道内容からうかがえる。

 集会には二階堂進も出席した一方、田中本人のほか、愛知揆一、橋本登美三郎、竹下登ら主要人物が姿を見せなかったと報じられた。こうした欠席者がいたことは、集会の参加者数だけでは田中支持勢力の全体を把握できないことを示している。他方で、欠席の理由が確認できない以上、主要人物が意図的に距離を置いたのか、それとも別の事情で出席しなかったのかについても、推測を事実として書くことはできない。

 後年の回想には、渡部恒三が高鳥修、小沢一郎、羽田孜らとともに柳橋へ向かったという記述もあり、亀岡高夫や小沢辰男の名前も登場する。しかし、参加者81人全員の氏名と、12人の代理出席者の内訳については、確認できる公開資料だけでは確定できていない。また、1972年9月に正式に組織された田中派「七日会」の所属議員を、そのまま5月9日の集会出席者として扱うことも適切ではない。後年の所属から過去の支持関係を逆算すれば、実際には存在したかもしれない支持の変化や態度未定の期間を見落としてしまうからである。

 それでも、集会が持った意味は小さくなかった。佐藤が福田への政権継承を志向するなかで、佐藤派内部の田中支持勢力が大きな集会を開き、その人数と存在を党内外に示したのである。楠田實が残した佐藤官邸関係資料の研究解題でも、1972年5月の81人規模の動きは、田中による派内派形成の重要な出来事として位置付けられている。

 ただし、この段階で佐藤派全体が田中派へ変わったと理解するのは正確ではない。佐藤派にはなお福田への政権継承を支持する政治家たちが存在し、佐藤本人も現職の首相・党総裁として政権と党を率いていた。集会が示したのは、佐藤派の結束が完全に消滅したということではなく、後継者問題について異なる支持関係を持つ議員たちが、もはや一つの政治的な意向にまとめられていなかったという事実である。

 このような集会が佐藤の後継者調整にどの程度の影響を及ぼしたのかについては、さらに検証が必要である。しかし、少なくとも佐藤が福田を後継者として推そうとするとき、田中側の議員たちが大規模に結集しているという事実を無視することは難しくなった。現職総裁の意向によって次期総裁を決める余地と、党内の実際の支持勢力を反映した総裁選によって後継者を決めるべきだという考えが、佐藤派の内部でも鋭く交差する状況になっていたのである。

田中角栄の支持は、何によって広がったのか

 1971年7月から1972年5月までの経過を振り返ると、田中支持勢力の形成を一つの理由だけで説明することは難しい。田中は通産相として日米繊維交渉に関与し、佐藤派内部の政治家たちとの関係を維持する一方、田中系の議員たちは大平派や中曽根派との接触を重ねていた。また、木村武雄のような長老格、二階堂進のような調整役、竹下登のような現職官房長官が田中側に位置付けられていたことから、支持関係が単純な世代別の対立でもなかったことが分かる。

 もっとも、それぞれの議員がなぜ田中を支持したのかについて、同じ理由を当てはめることはできない。佐藤による福田への政権継承に反対した議員もいれば、公選による総裁選出を重視した議員、田中の政治的な活動や人脈に期待した議員もいた可能性がある。しかし、各議員の支持表明や行動を裏付ける記録が不足している以上、そのような理由を個人に割り当てて断定することはできない。

 政治資金や選挙支援についても同じ問題がある。1972年の総裁選では資金の影響が当時から報道されていたが、1971年7月から翌年5月までに田中側がいくら支出し、その資金が具体的に何人の支持獲得に結び付いたのかを示す確定的な会計資料は確認できていない。資金力が政治活動に影響した可能性と、特定議員の支持転換を資金によって説明できることは別問題であり、後年の逸話や金額の推計だけを根拠に因果関係を決め付けることは避けるべきである。

 また、参議院から41人が参加計上されたことを、参議院議員が衆議院議員より田中支持に積極的だった証拠とみなすことにも注意が必要になる。佐藤派の規模について当時報じられた衆議院60人、参議院65人を基準にすると、参加計上数の比率は衆議院が約66.7%、参議院が約63.1%となり、単純な比率では衆議院側の方がやや高い。ただし、衆議院側には無派閥議員が含まれたとの証言があり、厳密な支持割合として比較できる数字ではない。

 参議院自民党では、1971年7月に重宗雄三から河野謙三へ議長が交代しており、その背景には参議院内の人事や政治的な勢力関係をめぐる対立があった。この変化と翌年の田中支持勢力との関係は検討する価値があるが、1971年の議長交代が1972年5月の参議院議員41人の参加を直接引き起こしたとする証拠は、現段階では十分ではない。参議院側の個々の参加者名簿を確認し、以前の政治的な所属や人事上の利害と照合して初めて、その関係を具体的に説明できるようになる。

 結局のところ、田中支持勢力の拡大を理解するには、田中個人の政治的な働きかけだけでなく、佐藤政権の後継問題、党内の人事と選挙制度、他派閥との協議、外交・経済政策をめぐる判断を、相互に関係する問題として考える必要がある。ただし、これらの要因が存在したことと、それぞれが支持拡大へ何%ずつ寄与したかを計算できることは同じではない。個々の議員について継続的な支持動向が観測されていない以上、支持転換率や要因別の影響を数量的に推定することには限界がある。

長期政権を支えた派閥は、なぜ後継者を一人に絞れなかったのか

 佐藤栄作は1964年11月から長期にわたり首相を務め、沖縄返還という重要な政策目標の実現に近づいていた。1972年5月15日の沖縄返還を目前にした5月9日、その佐藤を長年支えてきた派閥内部では、田中角栄を推す議員たちが大規模な集会を開いていた。政権の政策目標が実現しようとする時期に、政権を支える政治勢力の次期指導者をめぐる関係が分かれていたという事実は、長期政権の終幕を理解するうえで重要である。

 この問題の背景には、派閥という組織の性格がある。自民党の派閥は、党の公的な機関として構成員の政治的な意思を一律に拘束する仕組みではなく、領袖との関係、議員間の協力、選挙支援、人事上の期待などによって維持されてきた政治的な集団だった。そのため、現職総裁を支える目的では一致していた議員たちも、次期総裁を選ぶ段階では、それぞれ異なる判断をすることがあり得る。佐藤が福田を後継候補として重視していたとしても、その意向が佐藤派全体の支持決定を意味するわけではなかったのである。

 しかも、1972年の後継問題は佐藤派だけでは完結しなかった。3月9日の三派合同会合に見られるように、田中系の議員たちは大平派や中曽根派の議員と接触し、後継総裁を公選で選ぶことや党の政策を刷新することについて協議していた。これによって佐藤派内部の後継争いは、党全体の総裁選出のあり方と結び付く問題になっていった。佐藤が福田への継承を望んだとしても、その実現には佐藤派の支持だけでなく、他派閥を含む党内の政治的な合意が必要だったのである。

 もっとも、佐藤が福田への政権継承を実現できなかった理由について、5月9日の集会だけで結論を出すことはできない。この段階ではまだ総裁選は実施されておらず、田中を推す議員たちの支持関係にも未確認の部分が残っていた。総裁選における最終的な協力関係が固まるのは、この集会より後のことであり、5月9日の時点で7月の結果が必然的に決まっていたわけではない。

 それでも、1971年末から1972年春までの記録を時系列で重ねると、佐藤派内部の支持関係がどのように可視化されたかを追うことはできる。前年末からの接触が1972年3月の共同通信で報じられ、1月と2月には幹部級の接触があったとされ、3月9日には亀岡高夫や仮谷忠男らの実名を伴う会合が開かれた。そして4月には木村武雄、二階堂進、竹下登らを含む田中支持勢力が報道され、5月9日には衆参両院から81人の参加を計上する擁立集会が開かれた。この経過は、当初から完成していた田中派の活動というより、佐藤派内部の田中支持勢力が、他派閥との接触を重ねながら公然とした政治集団として姿を現していく過程だった。

 1972年5月9日、田中角栄はまだ通商産業大臣であり、福田赳夫は外務大臣、竹下登は内閣官房長官として、ともに佐藤内閣を構成していた。佐藤も現職の首相として沖縄返還を目前に控えていた。しかし、その政権を支えてきた議員たちの間では、すでに次の総裁をめぐる異なる支持関係が表面化していたのである。

 歴史の結末を知る現在の立場から見れば、田中が1972年7月5日の総裁選で福田を破り、7月7日に首相へ就任したことは確定した事実である。しかし、前年の1971年7月から1972年5月9日までを生きた政治家たちにとって、次期総裁の地位はまだ決まっていなかった。田中が出馬するかどうか、佐藤が後継者を調整できるのか、大平や三木、中曽根らの勢力がどのように行動するのかという問題は、いずれも未確定だったのである。

 だからこそ、柳橋の81人集会は、後の総裁選勝利を祝うような場面としてではなく、まだ結果の分からない後継者争いのなかで、田中を推す議員たちが自らの存在を明確に示した出来事として理解すべきだろう。佐藤栄作が長期政権を維持できたことと、その政権を支えた議員たちの支持を福田赳夫へ引き継げることは、別の問題だった。その違いが次第に表面化していった約10か月間にこそ、1972年の自民党総裁選を理解するための重要な政治過程が存在していたのである。

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同じ自民党でも、首相が変われば政治の「見え方」は変わる

 大平正芳が首相に就任したのは1978年12月、中曽根康弘が首相になったのは1982年11月であり、わずか4年ほどしか離れておらず、どちらも自民党を率いた首相だったが、2人の政治を振り返ると、政策の中身だけでなく、それを国民の前にどのように置くかという点にも興味深い違いが見えてくる。

 大平を象徴するのは「文化の時代」「田園都市国家」「環太平洋連帯」「総合安全保障」といった言葉であり、中曽根の場合には「戦後政治の総決算」、行政改革、教育改革、国鉄改革といった言葉が強く記憶されているが、この違いを「大平は理念だけを語り、中曽根は実行だけを重視した」と単純に分けることはできず、大平も具体的な政策を語り、中曽根も長期的な国家像を語っていた。

 それでも2人の言葉を読み比べると、政策を国民に理解してもらうために、どこから話を始めるのかには違いがあり、大平には時代そのものをどう理解するかという大きな視点から政策へ降りていく傾向がある一方、中曽根には複数の改革を一つの政治的な方向として束ね、政権が何を変えようとしているのかを前面に出す傾向があった。その違いを追っていくと、政治とは政策を決定する仕事であると同時に、その政策にどのような意味を与えて国民へ届けるかという仕事でもあることが見えてくる。

大平正芳は、まず「今はどんな時代なのか」から語った

 1979年1月25日の施政方針演説で、大平は個々の政策を並べる前に、まず自分の「時代認識」を語り、戦後30年以上にわたって日本は経済的な豊かさを求め、大きな成果を上げてきたものの、その一方で自然と人間との調和、自由と責任の均衡、生きがいといったものに十分な注意を払ってこなかったのではないかと問いかけ、経済中心の時代から文化を重視する時代へ移りつつあるという認識を示した。

 ここで注目したいのは、大平が政策を説明する際、最初から「これを実施する」と個別政策へ入るのではなく、「日本社会はいま歴史のどの位置にいるのか」という大きな地図を先に描いていることであり、高度経済成長を終えた日本は、欧米へ追いつくという明治以来の明確な目標を失いつつあり、その先で何を豊かさと考えるのかを改めて考えなければならないという時代認識から、「文化の時代」や「田園都市国家」という構想が導かれていった。

 だからといって、大平の政治が抽象的な理念だけで終わっていたわけではなく、1980年の施政方針演説では、田園都市国家の具体化として、都市の緑化、地域の文化施設、指導的人材の育成、地域産業の振興、就業機会の確保などにも踏み込んでいた。つまり、理念を語ってから具体策へ進むのであって、具体策が存在しなかったわけではなく、この順序こそ大平の政策の伝え方を考えるうえで重要なのである。

9つの政策研究グループは「広報組織」ではなかった

 大平政権を特徴づけるものとして、首相就任後につくられた9つの政策研究グループがあり、「文化の時代」「田園都市構想」「家庭基盤充実」「総合安全保障」「環太平洋連帯」などを研究するグループが設けられ、学者、有識者、各省庁の中堅官僚など延べ約200人の専門家が参加した。

 ただし、ここは注意して理解する必要があり、これらの研究グループは、大平の政策を国民へ宣伝するための広報組織ではなく、制度的には大平首相の私的な政策諮問機関だったため、研究会の存在そのものを「大平は専門家を通して国民へ政策を伝えた証拠」と考えるのは正確ではない。むしろ重要なのは、大平がまず「文化の時代」「田園都市国家」「総合安全保障」といった大きな理念を提示し、その理念を専門家による研究によって深化させ、政策へ具体化しようとした点にある。

 しかも各研究グループには相当程度の自主性が認められ、一内閣の期間を超えて21世紀の日本を考えるよう求められていたことから、首相が完成した答えを専門家に追認させるというより、政治が解かなければならない大きな問題を設定し、その答えを複数の知見から探ろうとする姿勢が見える。

 この意味で大平の政治的な言葉は、「答え」というより「思考の入口」として働く場合が多く、「田園都市国家」と聞いただけでは、それが具体的にどのような社会なのかは完全には分からないものの、その言葉の奥へ進むと、都市と農村、経済と文化、中央と地方、個人と家庭といった複数の問題がつながってくる。大平の言葉には、政策を短く単純化してしまうよりも、複雑な問題を複雑なまま考えようとする性格があった。

中曽根康弘は、多くの改革を一つの物語に束ねた

 中曽根康弘の政治を見ると別の特徴が浮かび上がり、中曽根も行政、財政、教育、安全保障など幅広い問題を扱った政治家で、単純なスローガンだけで政策を動かしたわけではないが、それらを国民の目から見える一つの政治的方向へまとめる能力は非常に目立っていた。

 その代表が「戦後政治の総決算」という言葉であり、この表現だけを切り取れば、戦後日本そのものを否定する意味にも聞こえるが、中曽根自身は1984年の国会答弁で、戦後の平和、民主主義、平等、経済的繁栄などの成果を否定するものではないと説明している。そのうえで、長い年月の中で制度に生じた問題を見直していくという考え方を示し、後には行政改革、財政改革、教育改革、税制改革などを「戦後政治の総決算」という共通した枠の中に置いて語っている。

 ここに中曽根の特徴があり、行政改革、財政改革、教育改革は、本来それぞれ異なる制度、異なる利害関係者、異なる専門知識を必要とする政策で、細部まで説明すれば国民にとって極めて複雑な話になるものの、「戦後政治の総決算」という大きな物語を置くと、それぞれの改革が「戦後につくられた仕組みを、この時代に合わせて見直す」という一つの方向を持っているように見えてくる。

 つまり中曽根は、複雑な政策を単純化したというより、ばらばらに見える政策に共通する政治的意味を与えたのであり、その方法によって、国民は個々の制度改正の細部を知らなくても、「この政権は何を変えようとしているのか」という輪郭をつかみやすくなった。

国鉄改革では「改革する対象」が国民から見えやすかった

 その違いが具体的に現れたものの一つが国鉄改革であり、国鉄問題には巨額の債務、経営効率、労使関係、地域交通、地方路線など多くの論点が絡んでいたため、本来なら極めて専門的で複雑な政策課題だった。

 しかし中曽根政権では、その複雑な問題が「国鉄をどう改革するか」という明確な政治課題として国民の前に現れ、最終的には分割・民営化という具体的な制度変更につながり、中曽根自身も1986年の国会で、全国一元的な公社制度による問題を挙げ、民間的な経営手法を導入することなどを民営・分割化の理由として説明している。

 この政策についてどのように評価するかは別問題であり、ここで重要なのは政策の賛否ではなく伝達構造で、非常に複雑な制度問題であっても、「何を変えるのか」「どの方向へ変えるのか」が見える形に整理され、首相自身がその意味を説明するという点に、大きな理念を提示してそこから政策を具体化していく大平とは、重心の置き場所の違いが見えてくる。

中曽根が強く意識した「テレビという政治空間」

 この違いを考えるとき、テレビも無視できないが、「大平の時代にはテレビがなく、中曽根の時代になって突然テレビ政治が始まった」ということではなく、大平の時代にもテレビはすでに日本社会に広く普及しており、政治家もテレビを利用していたため、テレビという媒体の存在だけで2人の違いを説明することはできない。

 違いを見るとすれば、中曽根がテレビを首相自身の政治的メッセージを国民へ直接届ける空間としてかなり積極的に利用した点であり、その象徴的な例が1985年4月9日のテレビ出演だった。当時、日本とアメリカの貿易摩擦が深刻になるなか、中曽根は全国放送のテレビに出演して外国製品をもっと購入するよう国民へ直接呼びかけ、当時の海外報道によれば説明には図表まで使われており、首相自身が政策の必要性を家庭のテレビ画面から説明する姿は注目を集めた。

 ここには、政策広報の担い手として首相本人が前面に出る政治の姿が見え、官僚が制度を説明し、与党が国会で政策を審議し、新聞がそれを報道するだけではなく、首相自身が国民へ語りかけることで、政策と首相個人の姿が結びついていく。後の日本政治では珍しくない光景だが、中曽根時代には、こうした首相中心の政治コミュニケーションが目立つようになった。

 したがって、「テレビが大平と中曽根を分けた」とまで断定するのは正確ではなく、より慎重に言えば、中曽根は既に存在していたテレビという政治空間を、大平以上に首相自身のメッセージを運ぶための政治的資源として活用した、と考えるのが妥当である。

「考える大平」と「動かす中曽根」だけでは単純すぎる

 ここまで比較すると、大平を「考えるための言葉」、中曽根を「動かすための言葉」と表現したくなるが、この対比も完全な二分法にしてしまうと実像をゆがめる。

 大平は哲学的な構想を語るだけではなく、田園都市国家について地域産業や住宅、文化施設など具体的な政策まで示していた一方、中曽根も改革を叫ぶだけではなく、「戦後政治の総決算」が何を意味するのかを国会で繰り返し説明していたため、2人の違いは「理念か実行か」「抽象か具体か」という単純な対立ではない。

 より正確に表現するなら、大平にはまず時代認識や国家像を示し、そこから政策を導いていく傾向があり、中曽根には複数の政策を一つの改革物語として束ね、その方向を首相自身の言葉と姿によって国民に見せる傾向があった、と考えるのがよいだろう。

 前者では、国民は「これから日本社会をどのようなものにするのか」という大きな問いから政策を見ることになり、後者では「この政権は何を変えようとしているのか」という方向から個々の政策を見ることになるため、同じ自民党政権でも、政策を見るために国民へ渡された地図の描き方が違っていたのである。

ただし、2人だけで日本政治全体を説明することはできない

 ここでもう一つ注意しておかなければならないのは、大平と中曽根を比較すると確かに興味深い違いが現れるものの、わずか2人の首相を比べただけで、「日本政治は大平型から中曽根型へ変化した」と統計的に証明することはできないという点である。

 そもそも2人は首相在任期間も違えば、直面した政策課題も異なり、大平政権の時代には第2次石油危機や財政問題などがあり、中曽根政権では行政改革、国鉄改革、日米貿易摩擦などが大きな政治課題となった。扱う問題が異なれば、それを説明する方法も変化する可能性があるため、2人の伝え方の違いをすべて個人の性格だけに帰すことはできない。

 厳密に差を検証するなら、2人の施政方針演説、所信表明演説、国会答弁、記者会見、テレビ出演などを大量に集め、「文化」「社会」「調和」「改革」「実行」といった語彙の頻度、文章の長さ、国民への直接的な呼びかけ、政策固有名詞の割合などを数値化する必要があり、それを行って初めて、「大平の言葉は中曽根より理念的だった」「中曽根の言葉はより改革志向だった」という仮説を統計的に検証できる。

 したがって、本稿で論じているのは統計的に証明された法則ではなく、本人の演説や国会答弁、政策形成の仕組み、当時のメディア利用などから読み取ることのできる歴史的な傾向であり、その限界を認めたうえで比較する方が、かえって2人の違いは鮮明になる。

同じ自民党首相でも、国民に渡した「政治の地図」が違った

 大平正芳と中曽根康弘の違いを、単に「静かな大平、派手な中曽根」という人物評だけで片づけてしまうと、政治史として最も興味深い部分を見落としてしまう。

 大平が国民に示したのは、「経済成長を遂げた日本は、この先どのような社会をつくるのか」という大きな地図であり、その地図には文化、地域、家庭、国際社会、安全保障といった複数の道が描かれ、それぞれを専門家による政策研究によって掘り下げようとしたため、国民に渡されたのは目的地だけを書いた案内板ではなく、これから進む土地そのものを考えるための地図だったと言える。

 一方、中曽根が強く示したのは、「この国のどこを変えようとしているのか」という改革の方向であり、行政、財政、教育、国鉄といった異なる問題を一つの政治的物語へまとめ、さらにテレビという媒体も活用しながら首相本人がその方向を説明することで、政策と首相の姿が結びつき、国民から見た政権の輪郭がより明確になる。

 どちらの方法が優れているかという問題ではなく、政治には簡単な言葉に還元してしまえば本質を失う問題がある一方で、複雑な制度をそのまま説明していては国民に方向が伝わらないという問題もあるため、大平の政治には社会の複雑さを抱えたまま長い時間軸で考えようとする側面があり、中曽根の政治にはその複雑さを政治的な方向へまとめ、国民から見える形にしようとする側面があった。

政治家を知るには「何をしたか」だけでなく「どう意味づけたか」を見る

 首相の歴史を調べるとき、成立した法律、予算、外交成果、選挙結果を追うことはもちろん重要だが、それだけでは政治の一部しか見えてこない。同じ政策でも、それを「日本の未来を考える問題」として国民に示すのか、「いま変えなければならない改革」として示すのかによって、人々が受け取る政治の姿は変わるからである。

 大平正芳は、高度経済成長を終えた日本が次に何を目指すのかという時代認識を語り、その先に「文化の時代」や「田園都市国家」を置いた一方、中曽根康弘は、戦後につくられてきた制度をどのように見直すのかという方向を「戦後政治の総決算」という大きな政治的物語へまとめ、行政改革や国鉄改革などへ結びつけた。

 わずか数年を隔てた同じ自民党の2人の首相を並べると、違って見えるのは政策だけではなく、政治家が国民の前に政策を置くとき、何を最初に語り、何を一つの言葉にまとめ、誰の姿を通してその意味を伝えるのかという方法も違っていたのである。

 政治とは、制度をつくることだけではなく、複雑な現実の中から何を問題として取り出し、その問題にどのような名前をつけ、国民にどのような物語として示すのかという仕事でもある。大平正芳と中曽根康弘を比較すると、政策の歴史の背後に、もう一つの戦後政治史~「首相は政策をどのような言葉に変えて国民へ届けてきたのか」という歴史が見えてくる。

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55年体制は、永田町だけにあった政治体制ではない

 1955年10月に左右の日本社会党が再統一し、同年11月には日本民主党と自由党の保守合同によって自由民主党が結成された。ここから、自民党が長く政権を担い、日本社会党が最大野党として対峙する、いわゆる55年体制が形成された。しかし、この時代を国会の議席数や自民党と社会党の対立だけで眺めていると、戦後政治を動かしていたもう1つの世界を見落としてしまう。55年体制は東京の国会議事堂の中だけに存在したのではなく、県庁、市役所、町村役場、地方議会、農村、商店街、企業、労働組合、そして政治家の後援会を結ぶ網の目のような関係を通じ、地方社会の隅々にまで伸びていたからである。

 ただし、ここで注意したいのは、後援会をはじめとする個人政治家中心の組織が1955年になって突然生まれたわけではないという点である。1927年の内務省資料を用いた研究では、すでに戦前の全選挙区の約4割に個人後援会が存在していたことが確認されており、後援会には明確な戦前からの系譜がある。55年体制が生み出したのは完全に新しい政治文化というより、それ以前から存在していた地縁、人脈、個人後援、職業団体などを、長期政権、選挙制度、高度経済成長期の利益配分と結び付け、地方政治の中に安定した仕組みとして定着させた構造だったと見るほうが正確である。

政党名よりも「誰の票か」が重要だった時代

 55年体制期の自民党政治を特徴づけたものの1つが、候補者個人を支える後援会である。当時の衆議院では中選挙区制が採用され、1つの選挙区から複数の議員が選ばれていたため、自民党が強い地域では同じ自民党の候補者同士が競争することも珍しくなかった。その場合、「自民党を支持する」というだけでは候補者を選び分ける理由にならず、「この地域はこちらの先生」「この業界はこちらの先生」という個人的な支持基盤を築く必要が生じる。こうして政治家は地域の支持者を組織し、地方議員や有力者、各種団体との関係を積み重ねながら、自分自身の票を確保する政治を発達させていった。

 もっとも、中選挙区制だけを後援会発達の原因と考えるのは単純すぎる。近年の研究では、日本の厳格な選挙運動規制や1954年の公職選挙法改正も重要な役割を果たしたとされており、1952年の総選挙では個人票を獲得する手法の1つにすぎなかった後援会活動が、1958年頃には事前の政治活動を担う主要な仕組みへと広がっていったことが指摘されている。つまり後援会は、中選挙区制による党内競争、選挙運動規制、既存の地縁や人間関係といった複数の条件が重なることで発達したのであり、1つの制度だけから生まれたものではなかった。

政治家は東京と地方を往復する「回路」になった

 こうして形成された後援会は、選挙の直前だけ開く臨時の応援組織ではなかった。政治家と地域住民の間には日常的な関係が作られ、地方議員、地域団体、企業、農業関係者、商工業者などがその間を結んだ。国会議員にとって地元とは、数年に1度票をもらいに帰る場所ではなく、自らの政治的基盤そのものであり、地域側から見れば国会議員は東京の中央政府へ要望を届けるための窓口でもあった。

 道路、河川、港湾、農業基盤、学校、公共施設などが急速に整備されていた高度経済成長期には、この関係はとりわけ大きな意味を持った。自治体や地域団体が国の予算や事業を求め、国会議員が中央省庁や与党との間をつなぎ、地元ではその働きが政治家の実績として評価されるという循環が成立しやすかった。ただし、すべての公共事業を選挙目的の利益誘導とみなすのも適切ではなく、実際にはインフラ整備そのものに強い社会的必要性があった。重要なのは、政策上必要な公共投資の配分過程と、政治家の人的ネットワークが重なる場面が多かったことであり、その重なりが「中央とのパイプを持つ政治家」という評価を生んだことである。

組織政治は自民党だけのものではなかった

 55年体制を地方から眺めると、自民党の後援会だけが地域を支配していたわけではないことも見えてくる。日本社会党には労働組合を中心とする組織的な支持基盤があり、公明党や日本共産党などにも、それぞれ異なる形の支持組織があった。会社員、労働者、農家、商店主など、人々が所属している職場や地域団体と政治との距離が現在より近い社会では、個人の政治参加も所属組織を経由しやすかった。

 この意味で55年体制とは、単に自民党と社会党が国会で対立した制度ではなく、社会の中に存在するさまざまな集団が、それぞれ異なる形で政治と接続されていた時代でもあった。ただ、その社会的基盤は現在まで同じ強さで残っているわけではない。例えば労働組合の推定組織率は1955年には35.6%だったのに対し、2024年には16.1%まで低下している。労働組合だけをもって地域政治全体の組織力を測ることはできないが、55年体制期を支えた代表的な中間組織の1つが長期的に縮小してきたことは、数字からも確認できる。

1993年に体制が崩れても、人間関係まで消えたわけではない

 1993年の衆議院総選挙後、自民党は結党以来続けてきた政権の座を離れ、一般に55年体制の終焉を象徴する政権交代が起きた。さらに1994年の政治改革によって衆議院には小選挙区比例代表並立制が導入され、同じ選挙区で自民党候補同士が競争することを前提としていた中選挙区時代の政治環境は大きく変わった。制度だけを見れば、政治家が独自の個人後援会を抱えて党内候補と争う必要性は以前より小さくなった。

 しかし、法律には施行日があっても、人間関係には施行日がない。長崎県を対象とした研究では、新しい選挙制度が導入された後も、多くの国会議員が中選挙区時代の後援会組織を基本的に維持し、新しい選挙区から外れた地域でも政治活動を続けていたことが確認されている。ただし、これは長崎県を対象とした2000年代初頭までの事例研究であるため、そのまま2026年の全国すべての地域へ一般化することはできない。それでも、選挙制度が変更されても、それ以前に形成された政治組織や支持者との関係が直ちに消滅するわけではないことを示す重要な実証例である。

現在の地方政治にも「個人」が強く残っている

 それでは現在の地方政治を見るとどうだろうか。総務省が2024年12月31日時点で在職していた地方政治家について、立候補届出時の所属党派を調べた統計では、都道府県知事47人のうち45人、95.7%が無所属であり、市区町村長では1,740人のうち1,719人、98.8%が無所属だった。また、市区町村議会議員28,941人のうち19,885人、68.7%が無所属である。一方で都道府県議会議員では無所属は2,614人中551人、21.1%にとどまっており、地方政治をひとまとめにして「無所属中心」と表現するのも正確ではない。自治体の段階や選挙の種類によって、政党の存在感には大きな差がある。

 さらに、この統計には重要な注意点がある。ここでいう所属党派とは2024年12月31日時点の政治的な立場ではなく、各政治家が立候補を届け出た時点の所属党派である。また、無所属の候補者であっても政党から推薦や支援を受けることはあり、「無所属であること」と「政党と関係がないこと」は同じではない。したがって、この数字は55年体制の組織が現在まで残っていることを直接証明するものではなく、現在の基礎自治体政治では国政ほど政党名だけで候補者を分類できないことを示す数字として読むべきである。

無所属の多さを、55年体制の名残だけで説明してはいけない

 ここで、55年体制との連続性を考える際に重要な区別が生まれる。現在の地方政治で候補者個人の名前や地域での活動が重要なのは、昔の後援会文化が残っているからだけではない。地方議会や首長の選挙制度そのものが、国政とは異なる条件を持っているからである。市町村議会では自治体全体を選挙区として複数の議員を選ぶ場合も多く、有権者は政党ではなく候補者個人に投票するため、同じ政党の候補同士で票を競う状況も生じる。首長選挙では自治体全体から1人を選ぶため、政党公認ではなく無所属として立候補し、複数の政党や団体から支援を受ける形も成立しやすい。

 つまり現在の地方政治に個人中心の性格が残っている理由を因果関係として考えるなら、「55年体制の組織が残ったから現在も個人政治が強い」という1本の線では足りない。過去から受け継がれた後援会や人的ネットワークという歴史的要因と、現在の地方選挙制度が候補者個人を前面に出しやすいという制度的要因が同時に作用していると考えるほうが妥当である。ここを区別しなければ、現在観察される無所属の多さという結果から、その原因まで55年体制に求めることになり、相関関係と因果関係を混同してしまう。

古い組織は弱くなったが、政治から「人間関係」が消えたわけではない

 それでも、55年体制期の地方政治と現在の地方政治がまったく別世界になったわけでもない。政治家の後援会、地域団体との関係、国会議員と地方議員の協力、自治体から国への要望活動などは現在も存在している。一方で、人口移動、高齢化、過疎化、都市化、職業構造の変化、地域団体や労働組合の組織率低下などによって、それらを支える社会の側は大きく変化した。かつて同じ町内、職場、農村、商店街の人間関係を通じて政治的支持が伝わった地域でも、転入者が増え、勤務先と居住地が離れ、インターネットやソーシャルメディアから直接政治情報を得る人が増えれば、従来型組織だけで有権者をまとめることは難しくなる。

 その変化は、55年体制の政治組織が一斉に消滅したというより、古い組織の外側に新しい有権者が広がっていった過程と考えると分かりやすい。長く地域に住み、政治家や地方議員との接触を持つ層には従来型の人的ネットワークが残る一方、転入者や若い世代ではそれとは異なる情報経路が形成される。そのため現在の地方政治には、昔ながらの後援会政治と、政党を重視する政治と、インターネットを通じて候補者を直接評価する政治が、同じ地域の中で重なって存在している。

利益誘導政治も、同じ姿で残っているわけではない

 55年体制期の地方政治については、「地元へ道路や公共施設を持ってくる政治家」というイメージが強く残っている。しかし、現在の地方政治をそのまま同じ図式で説明することはできない。国と地方の財政関係、行政手続、公共事業の評価方法、情報公開、地方分権などが進み、政治家個人の働きかけだけで公共投資が決まると考えるのは現実的ではない。

 それでも自治体が国や都道府県に予算、制度改正、道路、鉄道、防災、医療、産業振興などを要望する必要はなくなっていない。政治家が中央省庁や政党と接点を持ち、地域の要望を政策過程へ伝える機能も残っている。昔の「利益誘導」という言葉でひとまとめにするより、現在では政策要望、予算確保、国と地方の調整という制度的な活動の中に、人的ネットワークの効果も重なっていると考えたほうが実態に近い。

では、55年体制は地方にどれほど残っているのか

 ここまでを見ると、「55年体制の地方政治は現在も残っているのか」という問いに、単純に「残っている」あるいは「消えた」と答えることが難しい理由が見えてくる。個人後援会には戦前からの歴史があり、55年体制期にそれが広く定着したが、1994年の制度改革後には国政レベルで個人後援会を必要とする条件の一部が弱まった。それでも旧来の後援会が制度改革後も残った地域は確認されており、現在も地方では候補者個人を中心とする政治が強く表れる。ただし、それをすべて55年体制の遺産とみなすことはできず、地方選挙制度そのものが個人中心の政治を生み出している部分もある。

 さらに科学的に考えるなら、1955年から2026年まで同じ後援会や系列関係がどの程度連続して残っているのかを全国規模で測定した完全な時系列データが存在するわけではない。そのため、「55年体制期の政治組織がそのまま現在まで保存されている」と断定することは難しい。一方、戦前の後援会、1950年代の後援会拡大、1994年以降も組織が維持された事例、現在の地方政治における個人中心性という複数の証拠をつなげれば、制度や社会環境が変わりながらも、人的ネットワークを重視する政治文化の一部に歴史的連続性があると考えることには十分な根拠がある。

55年体制は消えた。しかし、その時代に太くなった根は残っている

 地方政治を古い家にたとえるなら、55年体制が終わった1993年に建物そのものが取り壊されたわけではない。選挙制度という間取りが変わり、人口移動や高齢化によって住人が入れ替わり、インターネットという新しい窓が取り付けられた。それでも、昔から使われてきた柱や基礎の一部は残り、その上に新しい政治が増改築されている。

 だから現在の地方政治で、国政とは違って政党名より候補者本人の評判が重視されたり、「誰と誰がつながっているのか」が意味を持ったり、地域と中央を結ぶ人間関係が注目されたりする場面があっても、それをただ「古い政治が残っている」と切り捨てるだけでは実態を捉えられない。その一部は55年体制期から受け継がれた歴史的遺産であり、別の一部は現在の地方自治と選挙制度が新たに生み続けている政治の性質だからである。

 55年体制そのものは、すでに過去の政治体制である。しかし、その時代に発達し定着した人的ネットワークの一部と、候補者個人を重視しやすい現在の地方政治制度とが重なり合うことで、当時とよく似た政治の風景が今も現れることがある。昔の組織がそのまま生き残ったというより、古い根から新しい枝が伸び続けていると考えたほうが、現在の地方政治をより正確に理解できるだろう。

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 政治の世界には、若いころには同じ方向を見ていたはずなのに、権力が近づくにつれて、まるで別の政治家になったように見える人々がいる。山崎拓、加藤紘一、小泉純一郎の三人も、まさにそうだった。三人の姓の頭文字を取ったYKK(山崎拓・加藤紘一・小泉純一郎の頭文字を組み合わせた通称)は、一時期の自由民主党で、単なる仲良し三人組以上の意味を持っていた。同じ派閥に属していたわけでもなく、政策思想が完全に一致していたわけでもない。それでも一つの名前で呼ばれたのは、古い自民党政治の内部にいながら、そのままでは自民党も日本政治も立ち行かなくなるという問題意識を共有していたからである。

 山崎、加藤、小泉はいずれも1972年の衆議院議員総選挙で初当選した。三人は同じ政治世代に属し、高度経済成長が終わり、自民党の長期政権がなお強固である一方、派閥政治や政治資金、利益誘導型政治への批判が次第に強まっていく時代を歩いた。若手議員だったころには、派閥の中で経験を積み、党内調整を重ね、その延長線上で大臣や首相を目指すという戦後自民党の出世構造がまだ機能していたが、三人が中堅から実力者へ成長した1990年代には、その仕組みそのものが揺らぎ始めていた。

 その意味でYKKは、同じ目的地へ向かって同じ道を歩く三人というより、同じ古い建物の中にいて、「このままでは建物が時代に耐えられない」と感じていた三人だったと考えた方が分かりやすい。ただし、どう直すかについては最初から違いがあった。加藤は内部の設計を合理的に改めようとし、山崎は建物全体の力学を見ながら現実的に補強し、小泉は古い構造そのものを政治的争点にする方向へ進んだ。この違いは若いころには大きく見えなかったが、首相という権力が現実のものとして近づくにつれ、三人を別々の政治家へ分けていった。

加藤紘一という「自民党改革派の優等生」

 YKKの三人の中で、従来の自民党政治が持っていた合意形成の論理を最も強く体現していたのが加藤紘一だったと見ることができる。宏池会という自民党有数の名門派閥で育ち、政策や行政機構に詳しく、党内の議論と調整を重視した加藤は、自民党政治の内部からその質を高めることで改革を実現しようとする政治家だった。

 加藤にとって改革とは、敵を作り、その敵を打ち破ることではなかった。複雑な利害を整理し、政策を磨き、党内の合意を積み重ねながら、時代に合わなくなった制度や慣行を修正していくことだった。政治とは単純な勝敗ではなく、多数の異なる利害を一つの方向へ収束させていく知的な作業であるという発想が、加藤の政治手法の根底にあった。

 しかし、その政治手法は、政治環境が変わるにつれて弱点を露呈していった。1990年代、日本政治はバブル崩壊後の長期停滞、政治改革、政界再編、55年体制の終焉を経験し、「誰と誰が合意したか」以上に、「誰が何を変えるのか」が問われるようになった。加藤自身も変化を理解していたと考えられるが、問題は、改革を実行するための政治技術まで従来の党内調整型から完全に切り替えることができなかったことである。

 その矛盾が最も劇的に現れたのが、2000年のいわゆる「加藤の乱」だった。森喜朗政権への不満が高まる中、加藤は山崎とともに倒閣へ動き、野党提出の内閣不信任決議案に同調する構えを見せた。しかし党執行部による激しい切り崩しによって派閥内部が割れ、最終的に加藤の構想は頓挫した。ここで重要なのは、単に倒閣に失敗したことではなく、自民党の内部を知り尽くしていた政治家が、その自民党内部の統制力によって動きを封じられたことである。

 加藤は党内政治を熟知していたからこそ、その論理の中で首相を目指した。しかし最後の勝負では、その論理そのものが彼を拘束した。政策能力、知性、人脈、派閥という従来型自民党政治で重要とされた資源を豊富に持ちながら、それを首相への権力へ転換することができなかったところに、加藤紘一という政治家の悲劇性がある。

「加藤の乱」で、YKKはすでに二対一に分かれていた

 この加藤の乱は、YKKの歴史を考えるうえでも決定的な場面だった。山崎は加藤と行動をともにしたが、小泉は二人に同調しなかった。YKKという呼び名からは三人が政治行動まで常に一致していたような印象を受けるが、実際には最も重要な政局の一つで、加藤と山崎、小泉は二対一に分かれたのである。

 しかも小泉が加藤らの倒閣に加わらなかったことは、その後の政治人生を考えると極めて象徴的である。加藤と山崎は党内の議員を動かすことによって首相を交代させようとしたが、小泉はその方法を選ばなかった。これは小泉が当時から完成された「反派閥政治家」だったという意味ではない。小泉自身も派閥政治の中で育ち、自民党組織の力学を利用してきた政治家だったが、少なくとも加藤の乱の時点で、YKK三人の権力への接近方法はすでに同じではなくなっていた。

 この出来事を境に、YKKは友情や人的関係として残りながらも、政治戦略としては別々の道へ向かい始めたと見ることができる。三人の違いは、後から生まれたものではなく、権力の取り方が具体的な選択として突きつけられた瞬間に、初めてはっきりと姿を現したのである。

山崎拓はなぜ加藤と同じ運命をたどらなかったのか

 山崎拓は、加藤とはまた違った種類の政治家だった。政策に詳しい一方で、その政治感覚はより実戦的であり、自民党という巨大組織の内部で誰が力を持ち、どの局面で対立し、どの局面で妥協するべきかを読むことに長けていた。理念から組織を作り替えることよりも、現実の力関係を読み、その中で自らの影響力を維持することに強みを持つ政治家だったと捉えると理解しやすい。

 その意味では、山崎はYKKの中で最も自民党の伝統的な政治技術を体現していたとも言える。これは「古い政治家」という意味ではない。対立しても関係を完全には切らず、昨日の敵とも次の局面では交渉し、政策、人間関係、派閥、選挙を同時に計算するという自民党政治特有の柔軟性を持っていたということである。

 加藤の乱で山崎は加藤と運命を共にしたように見えたが、その後の二人の軌跡は大きく分かれた。加藤にとって失敗は首相候補としての上昇軌道を決定的に損なう出来事となったのに対し、山崎は党内で再び足場を築き、2001年に小泉が自民党総裁となると幹事長に起用された。ここには、政治的失敗をどのように処理するかという二人の違いが現れている。

 加藤は政治理念と組織論理が衝突したとき、理念の側から組織を動かそうとした。山崎は同じ衝突を経験しても、なお組織の内部へ戻り、次の力関係の中で自らの役割を探すことができた。加藤にとって加藤の乱は自らの政治構想そのものを揺さぶる敗北だったが、山崎にとっては重大な失敗でありながら、それで政治が終わるわけではなかった。この違いが、二人のその後を分けた。

小泉純一郎は、党組織を捨てたのではなく使い方を変えた

 そしてYKKの中で、最終的に首相へ到達したのが小泉純一郎だった。ただし、小泉の成功を「派閥政治を捨てて国民だけを頼ったから」と説明すると、実際の政治構造を単純化しすぎる。小泉もまた自民党という組織の内部で活動し、党の総裁選挙制度、地方組織、党員票、党内人脈を利用した政治家だった。

 小泉が従来の自民党政治と異なっていたのは、党組織を迂回したことではなく、派閥領袖や国会議員の支持だけに依存せず、地方党員票と世論を党内権力へ転換したことである。2001年の自民党総裁選で小泉は地方票を背景に圧倒的な支持を集め、最終的に298票を獲得して橋本龍太郎を大きく引き離した。形式的には自民党内部の総裁選挙でありながら、その背後では世論の動きが国会議員や地方組織の判断に強く作用していた。

 ここに加藤との重要な違いがある。加藤は自民党の中の政治家を動かすことで自民党を変えようとしたのに対し、小泉は地方党員と一般有権者の支持を党内部へ流し込み、その圧力によって国会議員の行動を変えようとした。つまり、小泉は組織を捨てたのではなく、組織に作用する力の入口を変えたのである。

 2001年に小泉が掲げた「自民党をぶっ壊す」という言葉が強い意味を持ったのも、そのためだった。自民党総裁になろうとする政治家が自民党を壊すと語るのは論理的には矛盾している。しかし小泉は、自民党に対する国民の不満を自民党そのものを改革する力へ変換し、その改革者として自分を位置付けた。党への批判を党外へ逃がすのではなく、党内の権力獲得に利用したところに、小泉政治の特徴があった。

三人を分けたのは思想だけではなく「権力への接近方法」だった

 YKKが同じ道を歩まなかった理由を、政策思想の違いだけで説明することはできない。もちろん外交、安全保障、経済政策などについて三人の考え方には違いがあったが、それ以上に重要なのは、政治的権力をどこから獲得し、どのように動かそうとしたかという違いである。

 加藤は党内で信頼と合意を積み重ね、その延長線上で首相になるという戦後自民党型の政治を基礎にしていた。山崎は党内の勢力均衡を読みながら影響力を保ち、その中で機会を作る政治を得意とした。小泉は従来の派閥力学だけでは自分が圧倒的に有利ではないことを理解し、地方党員票と世論を利用して党内の勢力均衡そのものを変えようとした。

 したがって三人の違いを単純化して表現するなら、加藤は組織内の合意形成を重視し、山崎は組織内の力学を利用し、小泉は組織の内外を結びつけることで権力構造を組み替えた、と考えるのが最も実態に近い。

 この違いは政治家としての性格とも関係していたと考えられる。加藤は複雑な問題を複雑なまま理解しようとする傾向が強かったのに対し、小泉は複雑な問題を有権者が理解しやすい一つの争点へ集約することに長けていた。郵政民営化はその典型であり、実際には郵便、郵便貯金、簡易保険、財政投融資、地域金融など多数の論点が絡む政策だったが、小泉はそれを「改革を進めるのか、それとも止めるのか」という政治的対立軸へ変換した。

小泉を可能にしたのは、人物だけではなく制度だった

 ただし、小泉が成功し、加藤が失敗した理由を、二人の性格や政治能力だけに求めることも適切ではない。二人が活動した時代には、日本政治の制度そのものが変化していた。

 1990年代の政治改革によって衆議院選挙には小選挙区比例代表並立制が導入され、候補者個人だけでなく政党の看板や党首の人気が選挙結果を左右する度合いが高まった。さらに政党による候補者公認の重要性が増し、中央省庁再編などを通じて首相官邸の政策調整能力も強化されていった。こうした制度変化は、派閥間調整を中心とした従来型の首相とは異なる、党首の人気と選挙を直接結びつける政治を可能にする条件となった。

 政治的な成功を単一の原因で説明することはできない。小泉の成功は、本人の政治的個性だけでなく、世論の支持、地方党員票、選挙制度、党執行部の公認権、首相としての制度的権限、そしてそれらを使いこなす戦略が組み合わさった結果と見る方が妥当である。

 逆に考えれば、加藤の乱の失敗も、加藤個人の弱さだけで説明することはできない。党内議員の造反によって政権を倒そうとした加藤の戦略は、当時の自民党執行部が持つ統制力と正面から衝突した。政治家の能力だけでなく、その能力がどのような制度環境で使われたのかを見る必要がある。

「加藤の乱」と「郵政解散」は、二つの改革手法の対照だった

 2000年の加藤の乱と2005年の郵政解散を並べると、YKK三人の違いと自民党政治の変化が鮮明になる。どちらも自民党内部の現状を変えようとした政治行動だったが、その方法は正反対だった。

 加藤は国会議員を動かすことによって政権を変えようとした。それに対し、小泉は郵政民営化関連法案が参議院で否決されると、衆議院を解散し、有権者に判断を求めた。さらに衆議院で郵政民営化法案に反対した自民党議員を原則として公認せず、その選挙区の多くに別の候補者を擁立した。党内対立を閉じた党内交渉で処理するのではなく、選挙という公開された場へ持ち出したのである。

 この2005年の衆議院選挙で自民党は296議席を獲得し、単独で衆議院全体の六割を超える議席を占める大勝となった。加藤の乱では党内執行部による議員の切り崩しが倒閣運動を止めたのに対し、郵政解散では首相自身が公認権と選挙を使って党内反対派へ圧力を加えた。わずか五年間の違いだが、そこには自民党政治における権力の使い方の大きな変化が表れていた。

小泉政治と「テレビ政治」をどう見るか

 小泉政治を語るとき、テレビの存在を無視することはできない。小泉は短く分かりやすい言葉を使い、複雑な政策を明確な対立構図へ変え、ニュース番組が扱いやすい政治的場面を作ることに長けていた。2005年の郵政選挙でも、郵政民営化への賛否や、いわゆる「刺客候補」などが大量に報道され、選挙に対する有権者の関心を高めた。

 しかし、「テレビが小泉を勝たせた」とまで言うのは正確ではない。小泉への支持と自民党への支持が相互に結びついた「小泉効果」は統計的研究でも確認されているが、メディア報道だけが支持を直接生み出したと単純に証明されているわけではない。より慎重に言えば、小泉の政治手法と、テレビを中心とした当時の政治報道環境との親和性が非常に高かったのである。

 加藤の政治は、長い説明と交渉によって合理的な結論へ到達する政治だった。それに対して小泉の政治は、対立軸をはっきりさせ、その選択を有権者に示す政治だった。どちらが政治として優れているかは一概には言えないが、テレビを通じて政治が大量の有権者へ直接伝わる時代には、小泉型の政治の方が大きな動員力を持ちやすかった。

YKKという名前が隠していたもの

 YKKという呼び名は、三人を一つの政治グループのように見せる。しかし振り返ってみると、この名前の最も興味深いところは三人の共通点ではなく、その内部に最初から存在していた違いである。

 加藤には、政策と理性、そして党内合意によって自民党を改善できるという信頼があった。山崎には、政治とは理念だけでは動かず、力関係を読み続けなければならないという現実主義があった。そして小泉には、自分を阻む既存の仕組みがあるなら、その仕組みそのものを国民の前で争点化し、世論を党内権力へ変えてしまうという政治技術があった。

 若いころには、これらの違いは互いを補う個性に見えた。しかし三人が首相候補として権力の近くへ進むほど、その違いは拡大した。権力が遠くにあるうちは、三人とも「改革」という言葉で結ばれることができる。ところが首相という椅子が現実のものになると、誰を説得し、誰と戦い、誰を味方にし、どこまで組織と対立するのかという具体的な選択を迫られる。

 権力とは、人間の性格を突然変えるものというより、その人がもともと持っていた政治観を拡大して見せる装置なのかもしれない。加藤の乱で、山崎は加藤と行動をともにし、小泉はそこから離れた。そのわずか一年後、小泉が首相となり、敗れた山崎を幹事長として自らの政権を支える側へ迎え入れたという事実は、政治における人間関係と権力関係の複雑さを象徴している。

同じ道を歩まなかったからこそ、YKKは面白い

 もし山崎、加藤、小泉の三人が最後まで同じ政治行動を取り続けていたなら、YKKはこれほど興味深い存在として残らなかったかもしれない。三人が別々の道を歩いたからこそ、1990年代から2000年代にかけて、自民党政治がどのように変質したのかが、その政治人生を通して見えてくる。

 加藤の政治には、戦後自民党が長く培ってきた合意形成型政治の成熟と、その限界が現れていた。山崎の政治には、状況が変わっても組織の中に戻り、次の局面で影響力を取り戻す自民党政治の柔軟さが現れていた。そして小泉の政治には、地方党員票、世論、選挙、党執行部の権限を組み合わせ、党内権力の構造そのものを動かす新しい政治手法が現れていた。

 三人は同じ1972年に国会へ入り、同じ自民党という巨大な船に乗り、長いあいだ同じ海を航海した。しかし船が古くなり、外から大きな波が押し寄せたとき、加藤は船内の秩序を組み替えようとし、山崎は船の中の力学を読みながら生き残る場所を探し、小泉は乗客の声まで利用して船の進路そのものを変えようとした。

 YKKがなぜ三人とも同じ道を歩まなかったのかという問いに、一つだけの答えはない。性格の違いもあれば、政策思想の違いもあり、政治制度や時代環境の違いもあった。しかし最も重要なのは、三人が共有していたのが「このままではいけない」という問題意識までであり、「では、どこから力を得て、どう変えるのか」という問いへの答えは最初から同じではなかったということである。

 首相になれなかった加藤、首相を支える側へ戻った山崎、そして首相となり自民党内部の対立そのものを国民に問いかけた小泉。同じ時代、同じ年に政治家として出発した三人の軌跡を重ねると、政治家の運命を決めるのは政策の正しさや能力だけではなく、制度と世論が変化する瞬間に、自分の政治手法をその変化へ適応させられるかどうかであることが見えてくる。

 YKKとは、三人が同じだったことを示す名前ではない。むしろ、同じ場所から出発し、同じ時代の自民党に違和感を抱いた三人が、権力という分岐点を前にしたとき、まったく異なる方法を選んだことを後世に残した名前なのである。

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~市川房枝との微妙な距離から見えてくる「市民派政治家」の実像~

 日本の総理大臣には、ある程度決まった政治的な出発点がある。政治家の家に生まれて地盤を引き継ぐ者、中央官庁で経験を積んで政界へ転じる者、大政党に入り党内組織の階段を上っていく者である。しかし、菅直人はそのいずれにも典型的には当てはまらなかった。東京工業大学を卒業し、弁理士資格を取得した後、市民運動や選挙運動に参加し、自ら国政選挙に挑戦して三度敗れ、それでも政治活動を続けて1980年に衆議院議員となった。その後、厚生大臣、民主党代表、副総理、財務大臣などを経て、2010年には第94代内閣総理大臣に就任した。

 この経歴だけを見れば、一人の市民運動家が既成政治に挑戦し、ついには国家権力の頂点へ到達した立身出世物語のように映る。しかし、実際の政治人生はそれほど単純ではない。菅は選挙での敗北だけでなく、政党再編、党内対立、代表辞任などを経験し、そのたびに政治的な立場を変えながら活動を続けてきた。1996年の薬害エイズ問題への対応で全国的な注目を集めた一方、2004年には年金問題をめぐって民主党代表を辞任し、政治的影響力を大きく損なった時期もあった。

 菅が首相まで到達できた理由を考えるには、市民運動家としての理念や個人の努力だけでは不十分である。選挙実務を身につけたこと、少数政党から大政党へ活動の場を広げたこと、行政制度の問題を政治的争点にする能力を持っていたこと、そして所属する民主党が政権を獲得したことなど、複数の条件を考慮する必要がある。さらに、2010年の鳩山由紀夫首相の退陣という政治的な機会が、菅の首相就任にどのように結びついたのかも検討しなければならない。

 その出発点をたどると、女性参政権運動の指導者として知られる市川房枝との関係に行き着く。しかし、そこには一般に語られる単純な師弟関係とは異なる、政治理念と政治手法をめぐる微妙な距離が存在していた。

市川房枝との出会いは政治的原点だった

 菅直人の政治人生を語るうえで、市川房枝の存在を避けることはできない。1974年の参議院全国区選挙で、当時27歳だった菅は、引退を考えていた市川に再出馬を求める市民の運動に参加し、選挙事務長を務めた。単に街頭で応援した若者の一人ではなく、選挙活動を組織する中心的な役割を担っていたのである。菅自身も後年、この選挙を政治活動の原点として繰り返し振り返っている。

 市川は戦前から女性参政権の実現に取り組み、戦後は参議院議員として政治腐敗の防止や選挙の浄化を訴えた人物だった。企業や業界団体からの多額の政治資金に依存せず、市民の寄付やボランティアを基礎とする「理想選挙」を主張し、自らも実践していた。1974年の選挙で市川は約193万票を獲得して当選し、金権政治への批判が強まっていた時代に、市民参加型の選挙が大きな注目を集めた。

 若い菅にとって、この経験が重要だったことは理解しやすい。政治家の家系や大きな後援組織を持たなくても、市民を集め、活動を組織し、選挙によって国会議員を誕生させることができる。その過程を実際に経験したことは、政治への参加可能性を考えるうえで大きな意味を持ったと考えられる。後に菅が「政治に市民常識を!」と訴えて自ら選挙に挑戦した背景にも、この経験があった。

 ただし、1974年の選挙事務長という重要な役割を担ったことと、市川から政治的後継者として全面的な信頼を得ていたことは同じではない。選挙運動の実務能力に対する評価と、本人が政治家になったときの判断や行動に対する評価は分けて考える必要がある。実際、市川が後に残した記録からは、菅の政治活動について必ずしも全面的に賛同していなかった姿が見えてくる。

市川房枝は菅直人の立候補を無条件には支持しなかった

 1976年12月、菅は旧東京7区から無所属で衆議院選挙に立候補した。市川が1977年に公表した記録によれば、菅は立候補を決めた後、市川に選挙応援を求めた。しかし、市川は衆議院に無所属で立候補すること自体に賛成できず、正式な推薦や選挙応援を行わなかった。その一方で、50万円をカンパし、自分の秘書や関係職員が選挙を手伝えるよう配慮したうえで、「自力で闘いなさい」という趣旨の言葉を伝えたと記している。

 この対応は、市川が菅を完全に突き放していたわけではないことを示している。金銭面と人的な協力を一定程度認めながらも、自らの政治的判断に基づいて正式な推薦は控えたのである。しかも、市川が推薦を拒んだ理由には、菅個人への評価だけでなく、衆議院における無所属立候補への考え方が含まれていた。そのため、推薦しなかった事実だけを根拠に、菅への不信感が強かったと断定することはできない。

 しかし、選挙が始まってからの菅の活動について、市川はさらに批判的な記述を残している。1977年6月の『婦人展望』に掲載された市川の文章では、菅が選挙運動の中で市川の名前を使い、かつて市川を支援した人々に寄付や協力を求めたことについて、自分が主張してきた理想選挙とはかなり異なるという趣旨の批判が示されている。この文章の内容は、同年の『私の国会報告』にも収録されている。

 もっとも、市川の記述には、菅が支援者の名簿を持っていた「らしい」という趣旨の表現など、伝聞や推測に基づく部分も含まれている。したがって、市川が菅の選挙手法に違和感を抱いていたことは確認できても、実際にどのような依頼が行われたのか、支援者がそれをどう受け止めたのかについては、別の資料も必要になる。市川の批判をそのまま菅の行為に関する確定的な事実認定とするのは適切ではない。

 重要なのは、師弟関係という言葉だけでは説明できない政治観の違いが、この段階ですでに表れていたことである。市川は自らの理想選挙の原則を重視し、菅は国政選挙に挑戦するために、市民運動で築いた人脈や経験を活用しようとしていたと考えられる。ただし、その違いを直ちに一方の正しさや他方の不誠実さの証拠と見るべきではない。

1977年にも続いた市川の懸念

 市川の異論は、1976年の衆議院選挙だけにとどまらなかった。1977年、菅は江田三郎らが結成した社会市民連合に参加し、同年の参議院選挙に東京都選挙区から立候補した。市川は当時の文章で、菅が社会市民連合に参加することや参議院選挙に立候補することについて、事前の相談を受けていなかったと記している。また、他の候補者と同様に推薦や応援はしないという立場を示し、市民団体を代表する立場と政党政治の関係についても懸念を述べていた。

 この記録からは、市川が自らの選挙を支えた青年の政治活動を、無条件に支持していたわけではないことが分かる。市川が重視していたのは、組織を着実に育てながら社会に貢献する活動を積み重ねることであり、国政選挙への進出や政党への参加については慎重な姿勢を持っていたと読み取れる。一方、菅は自らの政治理念を実現するために、選挙と政党を通じて国会に進出する道を選んだ。

 ここには、市民運動と政党政治の関係をめぐる重要な論点がある。市民運動は、政策や行政に対して外部から意見を示し、社会的な支持を広げることができる。しかし、法律の制定や予算の決定に直接関与するには、議会内に議席を確保することが必要になる。市民運動の理念を議会政治へつなげる過程では、候補者の擁立、政党との協力、選挙資金の確保、支持組織の拡大といった現実的な課題に直面する。

 市川と菅の違いも、こうした政治活動の方法をめぐる違いとして理解できる。ただし、1976年から1977年にかけて市川が菅の政治手法を批判していたことから、1981年に市川が亡くなるまで両者の関係が一貫して悪化していたと結論づけることはできない。確認できるのは、少なくともこの時期、市川が菅を全面的な政治的後継者として扱っていたわけではなかったということである。

三度の落選から1980年の初当選へ

 菅は1976年の衆議院選挙で落選し、1977年の参議院選挙でも議席を得られず、1979年の衆議院選挙でも敗れた。現在の知名度から振り返ると見過ごされやすいが、政治家の家系でも中央官庁の出身者でもない人物が、国政選挙で三度続けて落選したのである。政治活動を継続するには、本人の意欲だけでなく、支持者との関係や選挙に必要な資金、人員、組織を維持することが求められた。

 得票数を見ると、1976年の衆議院選挙で菅は7万1368票を獲得し、旧東京7区で7人中5位となった。当時の同選挙区は定数4人の中選挙区であり、菅の得票率は11.7%だった。1979年の衆議院選挙では6万7480票、得票率11.9%で7人中6位にとどまったが、1980年6月の衆議院選挙では15万7921票、得票率22.8%を獲得し、6人の候補者の中で第1位当選を果たした。

 1979年と1980年を比較すると、菅の得票数は約2.34倍となり、得票率も11.9%から22.8%へと10.9ポイント上昇している。この数字は、単に三度の落選を経て当選したという事実だけでなく、短期間に選挙結果が大きく変化したことを示している。ただし、その原因を菅個人の努力や選挙技術の向上だけに求めることはできない。候補者構成の変化、投票率、政党支持、当時の政治情勢なども結果に影響するため、得票率の上昇を一つの要因によって説明するのは適切ではない。

 ここで注目したいのは、菅が選挙への挑戦を続ける一方で、政党政治にも参加していたことである。1977年には社会市民連合の結成に加わり、1978年には社会民主連合の結成に参加して副代表となった。市民運動を出発点としながらも、政党という組織の必要性を認識し、議会政治の内部で活動する道を選んだのである。

 もっとも、粘り強く活動を続けたこと自体を、政治的成功の十分な説明とすることには注意が必要である。落選後も政治活動を続けながら、最終的に国政で議席を得られなかった人々も存在する。菅という成功者だけを取り上げれば、政治活動の継続が成功をもたらす重要な性格的特徴だったように見えやすい。しかし実際には、政治活動の継続、支持基盤の形成、選挙情勢の変化などが重なって初めて当選に至ったと考えるべきである。

菅直人には行政制度を調べて問題を掘り出す政治手法があった

 菅を単なる運動型の政治家として理解すると、その活動のもう一つの特徴を見落とすことになる。1980年に衆議院議員となった後、菅は薬事行政や審議会の運営などについて、行政資料や制度の仕組みを調べ、国会質問で具体的な問題を追及していた。

 1981年3月19日の衆議院社会労働委員会では、丸山ワクチンの問題に関連して、中央薬事審議会の審査過程に疑問を示している。その際、抗悪性腫瘍剤として承認されていたクレスチンやピシバニールを取り上げ、医薬品の承認手続、審議会の審査過程、委員の研究上の関係などについて具体的に質問した。製薬企業と審議会委員の関係を確認し、医薬品の承認判断がどのような手続によって行われたのかを明らかにしようとする内容だった。

 このような国会質問から、菅が早い時期から行政制度の内部構造を調べ、不透明な部分を問題にする政治手法を取っていたことは確認できる。ただし、それによって菅が生来、官僚を信用しない人物だったとか、権力への反抗心が強かったなどと心理的な性格まで断定することはできない。人物の内面的な動機と、実際の政治行動は区別して評価する必要がある。

 行政制度を具体的に調査し、問題点を公の場で明らかにすることは、議会による行政監視の基本的な機能の一つである。特に医薬品行政のように専門知識が必要な分野では、行政機関の説明をそのまま受け入れるのではなく、審査過程や利益関係、判断の根拠を確認することに意味がある。菅の国会活動には、そうした制度的な監視機能を重視する姿勢が見られた。

 もっとも、国会で鋭い質問ができることと、行政機関を実際に統率して政策を実行できることは別の能力である。菅がその二つの立場を経験することになったのが、1996年の厚生大臣就任だった。

薬害エイズ問題は菅一人が解決したわけではない

 1996年、菅は橋本龍太郎内閣の厚生大臣に就任し、薬害エイズ問題への対応によって全国的な注目を集めた。血友病患者らが非加熱血液凝固因子製剤を通じてヒト免疫不全ウイルスに感染したこの問題では、国や製薬企業の対応について長年にわたって責任が追及されていた。患者や家族、弁護団、支援者、報道機関、国会議員らによる活動が続いており、菅の大臣就任以前から司法手続を通じた解決も進められていた。

 1989年には東京と大阪で国や製薬企業を相手とする訴訟が提起され、1995年10月6日には東京・大阪両地方裁判所が和解勧告を出していた。同月には、前任の森井忠良厚生大臣も和解交渉に応じる意向を示している。したがって、菅の就任によって初めて問題解決の動きが始まったと説明するのは正確ではない。司法手続や被害者の活動によって、既に政府側が対応を迫られる状況が形成されていたのである。

 その一方で、菅の厚生大臣としての役割も重要だった。それまで存在が確認できないとされていた資料について省内調査が進められ、1996年2月には、いわゆる「郡司ファイル」を含む関係資料の発見が公表された。同月16日には菅が被害者に国の責任を認めて謝罪し、同年3月29日には和解が成立した。行政内部に存在する資料を調査させ、その結果を公表し、国の責任を明確にすることは、行政機関を所管する大臣としての権限と政治判断を伴う行為だった。

 ここで重要なのは、問題を長年追及してきた人々の活動と、大臣が行政組織を動かしたことの双方を評価することである。被害者や弁護団の活動、裁判所の和解勧告がなければ、菅の対応が同じ形で実現したとは限らない。一方で、行政組織の内部資料を調査し、国の責任を認めるという対応が進んだことにも、当時の厚生大臣としての政治的判断が関係していた。

 この経験によって、菅は単に市民運動の立場から行政を批判する政治家ではなく、行政機関を所管し、その対応を変える立場に立った人物として認識されるようになった。全国的な知名度や政治的評価を高める重要な契機になったと考えられるが、これだけで後の首相就任を説明することはできない。行政問題への対応能力、政党運営能力、首相としての政治指導力は、それぞれ異なる観点から評価しなければならないからである。

「市民派政治家」が権力を求めることは矛盾なのか

 菅の政治人生には、市民運動の理念と政治権力の行使との間に、一見すると矛盾した関係がある。既成政治や行政の問題を外部から批判する立場で活動を始めながら、やがて連立政権に参加して閣僚となり、政党の代表を務め、最終的には国家権力の中枢に到達したからである。

 しかし、市民運動と政治権力の獲得は必ずしも論理的に対立するものではない。市民の意見を政策へ反映するには、社会的な要求を広げるだけでなく、議会内で法律や予算の決定に関与する必要がある。そのためには選挙で議席を得て、政党を通じて政策をまとめ、他の政治勢力と協力し、行政機関を動かす立場に就くことが求められる。外部からの批判と内部からの政策実現は、政治活動の異なる段階として理解することもできる。

 もっとも、権力を獲得する過程では、当初の理念と組織運営上の必要性が衝突する可能性がある。政党を大きくするには、自分と考え方の異なる政治家とも協力しなければならず、連立政権に参加すれば政策上の妥協も必要になる。政党代表になれば、個々の政策に関する信念だけでなく、選挙結果、党内の人間関係、資金、候補者の調整などにも責任を負うことになる。

 菅が1994年に新党さきがけへ参加し、自民党、社会党、新党さきがけによる連立政権の中で活動したことや、1996年に鳩山由紀夫らと民主党を結成したことも、こうした現実政治への適応として位置づけられる。ただし、その行動を単純に理念からの変節と評価することも、逆に理念の実現に向けた一貫した行動だったと評価することも、十分な検証なしにはできない。政党再編の背景には、政策上の対立や選挙制度の変化、既存政党の存続可能性、政治家同士の関係など、複数の要因が存在していた。

 確認できるのは、菅が市民運動出身者として少数政党にとどまり続けるのではなく、より大きな政治的影響力を持つ組織へ活動の場を広げていったことである。そして、その選択が後に首相候補となるための重要な条件の一つになった。

民主党という大きな政治組織を得たことが決定的だった

 菅が総理大臣になるためには、本人の知名度や政策能力だけでは不十分だった。日本国憲法第67条では、内閣総理大臣は国会議員の中から国会の議決によって指名されると定められている。大政党の党首であることは法律上の必須条件ではなく、複数政党の連立などによって首相に指名されることも可能である。しかし、現実には国会、特に衆議院で多数の支持を確保できる政治勢力の中心に位置することが、首相就任の重要な条件となる。

 菅が所属していた社会民主連合は、少数の国会議員によって構成される小政党だった。小政党の政治家として高い知名度を得ることは可能でも、その政党だけで政権を担当することは極めて難しい。菅にとって重要だったのは、1990年代の政界再編を通じて活動の場を広げ、1996年に民主党の結成に参加したことである。その後、民主党は他の政党や政治勢力との合流を重ね、自由民主党に対抗し得る規模の政党へと成長した。

 菅自身も民主党の共同代表や代表を務め、政策面だけでなく、選挙、党内調整、他党との関係など、大政党の運営に関わる経験を積んだ。社会民主連合の政治家だった時代と比較すると、政治的に担う役割は大きく変化していた。政党の規模が拡大することで、菅個人の政治的可能性も広がったのである。

 2009年8月の衆議院総選挙では、民主党が当時の480議席のうち308議席を獲得し、政権交代を実現した。議席占有率は約64.2%であり、民主党は衆議院で単独過半数を大きく上回る勢力となった。この結果は、菅個人の政治的成功を説明するうえで極めて重要である。所属政党が政権を獲得したことによって、菅にも副総理や閣僚として政権の中心に入る道が開かれたからである。

 その意味で、菅が首相になった理由を個人の資質だけで説明することはできない。約30年にわたる議員経験や閣僚経験を積み重ねていても、所属する政治勢力が政権を獲得しなければ、首相就任の機会は大きく制約される。民主党という政権獲得可能な大政党の形成と、2009年の政権交代は、菅の首相就任を可能にした重要な構造的条件だった。

2004年の民主党代表辞任という挫折

 菅の政治人生を「何度も政治の中心へ戻ってきた人物」と評価するなら、2004年の民主党代表辞任も欠かすことはできない。当時、政治家の国民年金保険料の未納問題が大きく報道され、菅自身も年金加入をめぐる問題で批判を受けた。菅は同年5月10日、民主党代表の辞任を表明した。

 この問題については、後に加入記録や行政上の手続をめぐる問題も指摘されており、当初の未納報道だけで経緯を単純に説明することはできない。ただし、当時の政治状況において、年金制度の問題を追及していた野党第一党の代表が、自らの年金加入をめぐる問題によって辞任に追い込まれたことは、政治的に大きな打撃だった。

 その後、菅は直ちに党内の中心的な地位へ復帰したわけではない。民主党では岡田克也や小沢一郎らが指導的な役割を担い、菅の政治的な立場も変化した。それでも国会議員として活動を続け、2009年の政権交代後には副総理兼国家戦略担当大臣として政権中枢に復帰した。2010年1月には財務大臣にも就任し、首相後継候補としての立場を強めていった。

 この経過からは、一度政治的な影響力を失った後でも、党内の役割や政治状況の変化によって再び重要な地位を得ることがあるという、政党政治の特徴が見えてくる。ただし、菅が復帰できた理由を本人の精神的な強さだけで説明することはできない。民主党内の人事、他の有力政治家との関係、政権交代による役職の増加なども影響していたと考える必要がある。

 それでも、菅が代表辞任によって政界を退くことなく、国会活動を継続したことは、その後の首相就任に至るための必要条件だった。1970年代の三度の落選と2004年の代表辞任は性質の異なる挫折だが、政治活動を継続することによって、その後の政治的機会を利用できる立場を維持したという点では共通している。

2010年、首相の椅子は突然転がり込んできたのか

 2010年6月、鳩山由紀夫首相が退陣すると、民主党は新しい代表を選出することになった。菅は代表選挙に立候補し、樽床伸二を291票対129票で破って新代表となった。有効投票420票に占める菅の得票率は約69.3%だった。同年6月4日には衆議院本会議で477票のうち313票を獲得し、内閣総理大臣に指名された。その後、6月8日に正式に内閣総理大臣に任命され、菅内閣が発足した。

 鳩山首相の退陣によって菅に機会が生じたという意味では、首相就任に偶然的な要素が存在していたことは否定できない。しかし、その機会を利用できる立場に誰もがいたわけではない。当時の菅は、厚生大臣経験者であり、民主党代表経験者であり、副総理と財務大臣を兼ねる政権中枢の政治家だった。岡田克也や前原誠司らの有力政治家が自ら立候補せず菅を支持したことも、代表選挙を優位に進める要因となった。

 したがって、菅の首相就任を単なる偶然や「棚ぼた」と評価するのは適切ではない。一方で、本人の能力と実績が必然的に首相就任をもたらしたと説明することもできない。民主党が2009年に政権を獲得していなければ、鳩山首相が2010年6月に退陣していなければ、あるいは他の有力政治家が異なる行動を取っていれば、首相選出の結果も変わっていた可能性がある。

 このように考えると、菅の首相就任は、個人の経歴、所属政党の政権獲得、党内の人間関係、そして特定の時点に生じた政治的機会が重なった結果だったと理解できる。長年の政治経験は首相就任の可能性を高める条件の一つだったが、それだけで結果を決定したわけではなかった。

 政治家の成功を考える際には、個人が積み上げた能力と、その人物が置かれた政治的な環境を分けて評価する必要がある。政治的な機会は、本人の努力とは独立に生じる場合があるが、それを利用できるかどうかは、それ以前に獲得していた地位や人間関係にも左右される。菅の2010年の首相就任は、そうした複数の条件が同時に成立した事例だった。

菅直人の政治的成功を統計的にどう考えるか

 菅の政治人生を振り返ると、三度の落選から初当選し、小政党から大政党へ移り、代表辞任を経験しながら、最終的に首相になったという特徴的な経路が見えてくる。しかし、こうした一人の成功例から、政治家が首相になるための一般的な法則を導き出すことはできない。

 例えば、政治活動を長く継続した人ほど首相になりやすいという仮説を検証するなら、菅だけでなく、同じ時代に国政選挙へ挑戦した人々、少数政党に所属した国会議員、非世襲の政治家、大臣や党代表を経験した人物などを比較する必要がある。政治活動を続けても議席を得られなかった人、長年国会議員を務めても首相にならなかった人を含めて分析しなければ、成功した人物に共通する特徴を過大評価してしまう可能性がある。

 また、菅の首相就任に影響した要因を、単純に数値化することも難しい。市川房枝の選挙で得た経験、薬害エイズ問題への対応、民主党の結成、2009年の政権交代、鳩山首相の退陣などは、それぞれ性質が異なるうえに、互いに関連しているからである。例えば、厚生大臣としての経験が菅の党内評価に影響した可能性はあるが、それが2010年の代表選挙で何票の増加に結びついたかを、既存の経歴だけから推定することはできない。

 むしろ重要なのは、政治的成功の条件を、必要条件と十分条件に分けて考えることである。菅が1980年の衆議院選挙で当選し、その後も政治活動を続けたことは、実際にたどった経路で首相になるために必要だった。しかし、衆議院議員として活動を続ければ誰でも首相になれるわけではない。同様に、民主党が2009年に政権を獲得したことは菅に首相就任の現実的な機会を与えたが、民主党に所属する政治家全員に同じ機会が与えられたわけではなかった。

 菅の政治人生を最も妥当に説明するのは、特定の個人的資質による必然的な成功ではなく、本人の政治行動と政治制度、政党の成長、偶然的な政治状況が長期間にわたって組み合わさった結果という見方だろう。この説明は華々しい英雄物語にはなりにくいが、政治家の成功をより現実的に理解するうえでは重要である。

「政治の中心へ戻ってきたこと」は何を意味するのか

 菅直人を優れた思想家と評価するか、卓越した行政指導者と評価するかについては意見が分かれる。2010年から2011年の首相在任中には、党内対立や政権運営の困難に直面し、2011年3月の東日本大震災と福島第一原子力発電所事故への対応でも評価が分かれた。緊急時の意思決定、行政機関との関係、情報の共有、政治的指導力などについては、首相就任に至る経歴とは別に検証する必要がある。

 しかし、首相へ到達するまでの過程に限定すれば、菅が何度も政治的な不利な状況に置かれながら、国政での活動を継続したことは確認できる。1976年から1979年にかけて三度の落選を経験し、1980年に初当選した後は小政党の議員として活動し、1990年代には政界再編の中で大政党の指導者となった。2004年には民主党代表を辞任したが、政界を退かず、2009年の政権交代後に再び政権の中心へ戻ってきた。

 こうした行動を、非常に強い上昇志向や政治的な生存能力の表れと評価することは可能である。ただし、その評価を本人の心理的な動機と同一視する必要はない。権力を求める意欲、市民運動の理念、政策実現への関心、組織を維持する必要性などは、相互に排他的なものではなく、一人の政治家の中に同時に存在することもある。外部から確認できる政治行動と、本人の内面的な動機を区別することが、人物を評価する際には重要である。

 また、政治活動を継続できた背景には、菅個人だけでなく、支持者や協力者の存在もあったと考えるべきである。選挙には資金、人員、情報、組織が必要であり、政治家一人の意思だけでは長期間の活動を維持できない。菅の政治的な持続性を評価するなら、本人の努力だけでなく、支持者との関係や政党組織の変化にも目を向ける必要がある。

市川房枝から受け継いだものと、受け継がなかったもの

 ここまでの経歴を市川房枝との関係に重ねると、菅直人という政治家の特徴がより明確になる。市川は若い菅に選挙活動の重要な経験を与え、市民参加型の選挙が持つ可能性を実地で示した。その一方で、菅が自ら国政選挙に立候補し、政党政治へ参加するようになると、その政治手法について異論や懸念を記している。

 菅は市川から、市民が政治に参加することの意義や、既存の政治組織に全面的に依存しない選挙の経験を得たと考えられる。しかし、その後の菅は、市川の政治活動をそのまま再現する道を選んだわけではなかった。少数政党に参加し、政界再編を通じて大政党へ移り、党代表として政治組織を率い、連立政権の閣僚として行政権を行使した。市川から影響を受けたことと、市川の政治手法を全面的に継承したことは、区別しなければならない。

 ただし、両者の政治的な違いを、師への反逆や理念からの離反といった単純な関係として描くことも適切ではない。市川が1976年から1977年にかけて菅の活動を批判していたことは確認できるが、そのことだけから両者の人間関係全体や、菅の生涯にわたる政治理念の変化を断定することはできない。政治家同士の関係には、個人的な信頼、政治理念への共感、選挙手法への評価、組織との距離など、異なる側面が存在する。

 むしろ市川と菅の関係から読み取れるのは、市民運動の理念を政党政治の中で実現しようとするときに生じる問題である。政治の浄化や市民参加を重視する理念と、選挙に勝ち、議席を増やし、政権を獲得するための活動は、必ずしも同じ方法によって実現できるわけではない。菅は市川の選挙を通じて政治参加の可能性を学びながら、後には市川が批判した面もある政党組織や選挙戦略を通じて、自らの政治的影響力を拡大していったと理解できる。

「市川房枝の弟子だから総理になった」のではない

 菅直人が総理大臣まで上り詰めた理由を、市川房枝の信頼や後援だけによって説明することはできない。市川との関係が政治的出発点として重要だったことは確かだが、市川自身が菅を無条件に政治的後継者として支持していたわけではないことも、当時の記録からうかがえる。菅の政治人生は、市川の理念をそのまま受け継いだ人物の成功というより、市民運動を出発点としながら、選挙と政党政治の中で独自の経路を歩んだ人物の事例として理解する方が適切である。

 菅が首相に到達できた要因を整理するなら、若い時期に市民参加型の選挙実務を経験したこと、三度の落選後も国政への挑戦を続けたこと、少数政党に参加して組織政治の経験を積んだこと、国会で行政制度の具体的な問題を追及したこと、厚生大臣として薬害エイズ問題への対応に関与したこと、政界再編を通じて民主党の指導者となったこと、そして2009年の政権交代後に副総理・財務大臣として首相後継候補になり得る地位を占めていたことが挙げられる。

 これらの条件は、いずれも単独で首相就任を保証するものではなかった。菅と同様に長く国会議員を務めた人々や、閣僚経験、党代表経験を持つ人々の中にも、首相にならなかった政治家は数多く存在する。菅の場合は、長年の政治活動によって形成された地位と、民主党の政権獲得、さらに鳩山首相の退陣という特定の政治状況が結びついたことで、2010年の首相就任が実現したのである。

 1974年、市川房枝を国会へ戻すための選挙活動に取り組んでいた27歳の青年が、36年後には自ら国会から内閣総理大臣に指名される立場になった。この事実だけを取り出せば、市民運動の可能性を象徴する成功物語にも見える。しかし、その36年間を丁寧にたどれば、そこには三度の落選、選挙基盤の形成、政党再編、行政問題への対応、党代表辞任、政権交代、党内政治という、複雑な過程が存在していた。

 菅直人の政治人生から読み取れるのは、市民運動家であっても政治権力の中心へ進むことができるという事実だけではない。政治理念を実際の政策へ結びつけようとすれば、選挙で支持を得ること、政党を組織すること、行政機関を動かすこと、そして政治的な妥協や対立に対応することが避けられないという現実である。

 市川房枝から受け継いだものと、市川房枝とは異なる道を選んだこと。その両方が菅の政治人生を形づくる一部となった。ただし、どの要因が首相就任にどの程度寄与したのかを厳密に確定することはできず、市川が若い菅に感じた違和感が、その後の政治的成功を予見していたと解釈することもできない。

 菅直人が総理大臣になれたのは、清廉な市民運動家だったからでも、市川房枝の弟子だったからでも、単に野心と粘り強さを持っていたからでもない。市民運動、国政選挙、議会活動、行政、政党再編という異なる政治の仕組みの中で活動を続け、政権獲得可能な政治組織の中心に位置するまでに至ったこと、そして首相を選出する政治的な機会が生じたことが重なった結果だった。

 その意味で、菅の政治人生は、一人の人物の立身出世物語にとどまらない。市民が政治へ参加することと、現実に政治権力を獲得して行使することの間に、どのような条件と困難が存在するのかを考えるための、一つの具体的な歴史事例なのである。

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当確師とは、何をする人なのか

 選挙になると、表舞台には候補者が立つ。駅前でマイクを握り、街角で頭を下げ、集会では政策を語り、選挙カーから名前を繰り返す。しかし、その少し後ろには、候補者とはまったく違う景色を見ている人物がいる。「この地区では票が足りない」「この訴え方では高齢層には届いても、若い世代には響かない」「支持を表明している人は多いが、実際に投票してくれるかどうかは分からない」と考えながら、目の前の一人ではなく、選挙区全体を眺めている人である。

 こうした人物は、時代によって選挙参謀、選挙プランナー、選挙コンサルタントなど、さまざまな名前で呼ばれてきた。その姿を象徴する言葉の一つに「当確師」がある。作家・真山仁が2015年に発表した同名の小説でも、候補者を当選へ導く選挙コンサルタントが描かれている。ただし、「当確師」という公的な資格や正式な職業が存在するわけではない。本稿では、候補者の当選を目指して選挙情勢を読み、戦略を組み立てる人々を象徴する呼び名として使用する。

 そもそも「当確」とは、報道機関が世論調査や出口調査、開票状況などをもとに当選が確実と判断することであり、候補者を当選させるための仕事とは本来異なる。選挙参謀は、まだ確定していない有権者の行動を予測するだけでなく、限られた時間、人員、資金をどのように使うかについても考える。つまり、結果を予測する人と、その結果に影響を与えようとする人という二つの役割を持つのである。

 もっとも、昭和、平成、令和の当確師を、まったく別の種類の人間として考えるのは正確ではない。昭和の技術が平成になって消え、平成の技術が令和になって使われなくなったわけではなく、地域の人間関係や組織を読む技術の上に、世論調査や候補者イメージの設計が加わり、さらにインターネット上の情報や統計的な分析が積み重なってきたと考える方が実態に近い。ただし、この三つの時代区分は選挙参謀の仕事を理解するための概念的な整理であり、各時代にどの業務が何割を占めていたかを実測した分類ではないことにも注意が必要である。

昭和の当確師は「人間関係の地図」を持っていた

 昭和の選挙を考えるとき、現代のような巨大なデータベースやスマートフォンを思い浮かべる必要はない。当時の選挙参謀にとって重要な情報資産の多くは、コンピューターの中ではなく、人間の頭と足によって蓄積されていたからである。どの集落では誰に話を通せば人が集まるのか、商店街では誰の発言が信頼されているのか、農家同士の関係はどうなっているのか、前回は積極的に応援していた人物が今回はなぜ静かなのか。そうした細かな情報が積み重なり、選挙区全体の人間関係を示す一枚の地図になっていた。

 戦後の衆議院選挙では、長く中選挙区制が用いられていた。一つの選挙区から複数の議員が当選するため、同じ政党から複数の候補者が立候補することもあり、候補者は他党の候補者だけでなく、同じ党の候補者とも個人票を争う必要があった。この仕組みでは、政党への支持だけでは十分に差別化できない場合があり、「どの政党を支持するか」に加えて「その政党の誰を支持するか」という個人的な結びつきが重要になる。そこで大きな意味を持ったのが、候補者と地域社会を長期的につなぐ後援会だった。

 ただし、後援会の発達を中選挙区制だけで説明することはできない。個人を中心とする支援組織は戦前から存在しており、戦後に後援会活動が広がった背景には、選挙制度だけでなく、公職選挙法による選挙運動の規制も関係していた。1950年代の後援会についての政治学研究では、同一政党内の競争に加え、1954年の公職選挙法改正などが後援会活動の広がりに影響したことが指摘されている。選挙期間だけの運動には法的な制約があるため、候補者と有権者の関係を日常的に維持する活動が重要になったのである。

 その結果、地域行事への参加、業界団体との関係、後援会の集まり、冠婚葬祭などを通じた日常的な接点が、政治家の支持基盤を形づくるようになった。ただし、こうした歴史的な活動のすべてが、現在の法律でそのまま認められるという意味ではない。今日の公職選挙法では、日常の政治活動と特定の選挙で投票を勧める選挙運動は区別され、選挙運動の期間や方法にも制限がある。昭和の政治家と地域社会との関係を理解することと、その活動を現代の選挙で再現してよいかという判断は、分けて考えなければならない。

 こうした環境において、選挙参謀が見るべきものは数字そのものというより、数字になる前の人間関係の変化だった。「この地区は前回より集まりが悪い」「いつも顔を出す人が今回は来ない」「こちらを支持すると言っていた人物の返事が曖昧になった」といった小さな変化から、まだ集計表には表れていない選挙情勢を読み取ろうとしたのである。その判断は経験に支えられていたが、経験が豊富だからといって必ず正しいわけではなく、地域の有力者から聞いた話が、その地域の住民全体の意見を代表しているとも限らなかった。

昭和の票読みは、数字を使わなかったわけではない

 昭和の選挙参謀も、票数を計算していなかったわけではない。「この地区からは千票程度を期待できる」「この団体の支持は前回より弱くなっている」「前回の得票に上積みが必要だ」といった票読みは、現代と同じように行われていた。しかし、その数値の根拠には、過去の選挙結果、組織の人数、地域の事情、後援会幹部の感触などが入り交じっており、統計的な標本抽出や推定誤差が明示されているとは限らなかった。

 例えば、ある業界団体に千人の会員がいたとしても、その千人が同じ候補者に投票するとは限らない。そもそも全員がその選挙区の有権者とは限らず、別の政党を支持する人もいれば、投票しない人もいる。それにもかかわらず、団体の代表者が候補者への支持を表明したという理由だけで、会員数に近い票が得られると見積もれば、票読みは大きく外れる可能性がある。

 さらに、日本の選挙は秘密投票であるため、本人が誰に投票したかを候補者側が確認することはできない。昭和の選挙で「見える票」が多かったという表現は、実際の投票先が見えていたという意味ではなく、支持表明や組織的な結びつきを通じて、支持の所在を推測しやすい部分が比較的大きかったという意味で理解する必要がある。

 つまり、昭和の当確師とは、数字を使わなかった人ではなく、人間関係の中から数字を掘り出そうとしていた人である。その強みは地域事情の深い理解にあったが、弱点は、限られた人間関係から得た情報を選挙区全体へ広げて解釈してしまう危険にあった。今日の統計学でいう標本の偏りや選択バイアスの問題は、当時から存在していたのである。

平成の政治改革が変えたもの

 平成に入ると、日本の国政選挙では大きな制度変更が起きた。1994年の政治改革によって衆議院に小選挙区比例代表並立制が導入され、1996年10月の総選挙から新しい制度による選挙が始まった。小選挙区では一つの選挙区から一人しか当選しないため、同じ政党の候補者が一つの選挙区で議席を争う旧来の構図は大きく後退し、政党間の競争が選挙の中心的な要素になった。

 ただし、この改革によって地方選挙の制度が一斉に変わったわけではない。知事や市町村長を選ぶ選挙と、都道府県議会や市町村議会の議員を選ぶ選挙では、それぞれ制度の仕組みが異なる。地方議会には複数の候補者が同じ選挙区で競う仕組みが現在も広く残っており、衆議院の制度改革をそのまま地方選挙全体に当てはめることはできない。

 それでも、国政における政党間競争の構造が変化し、テレビ報道や世論調査、政治家の知名度や印象が選挙で注目されるようになることは、地方政治にも影響を及ぼしたと考えられる。ただし、こうした変化が1994年を境に突然始まったわけではなく、テレビを活用した選挙や世論調査、候補者のイメージ形成は昭和の時代から存在していた。平成の特徴は、それまでの政治的な情報伝達の手法が、選挙制度の改革やメディア環境の変化と結びつき、新たな重要性を持つようになったことにある。

 従来型の選挙では、後援会や組織の支持を固め、長期的に維持することが大きな武器だった。しかし、政党間の競争が前面に出る選挙では、候補者本人を強く支持する人だけでなく、支持政党を決めていない人、選挙ごとに投票先を変える人、政策や候補者の印象によって判断する人にも、情報を届ける必要がある。この変化によって選挙参謀の仕事には、「どこを回ればよいか」という問いに加えて、「何を伝えれば候補者を理解してもらえるか」という問いが重みを増していったのである。

平成の当確師は、候補者を「編集」するようになった

 平成の選挙で重要性を増したと考えられるのは、候補者が自分自身をどのように評価しているかではなく、有権者からどのように見えているかという視点だった。本人は自分を慎重で誠実な政治家だと思っていても、有権者からは決断力が弱いと受け取られるかもしれない。改革派を自称していても、長年議員を続けていれば既存政治の一部と見られることがあり、本人の意図と有権者の評価が一致するとは限らない。

 そこで、選挙参謀や選挙コンサルタントには、候補者の経歴、専門性、政策、実績、人柄、話し方、写真、服装、キャッチフレーズなどを組み合わせ、有権者に伝わりやすい人物像を整理する仕事が加わった。候補者の人格を別のものに作り変えるというより、もともと持っている複数の特徴の中から、どの部分を中心に伝えれば候補者の考えや能力を理解してもらえるかを考える。いわば、候補者を一人の人物として「編集」する役割である。

 しかし、候補者のイメージ形成は、商品の広告と完全に同じではない。政治家は選挙が終われば消える商品ではなく、当選すれば議会や行政の中で実際の判断を求められるため、選挙期間中に示した人物像と本人の実像が大きく離れていれば、やがて矛盾が表面化する。選挙で成功した印象づくりが、政治家としての長期的な信頼につながるとは限らず、場合によっては当選後の評価を損なう原因にもなる。

 この意味で、平成型の当確師は「候補者を商品化する人」というより、「候補者を翻訳する人」と考える方が適切かもしれない。候補者が持つ専門的な政策や政治的理念を、有権者が日常生活の問題として理解できる言葉へ置き換え、複雑な人物像を伝わりやすい形に整理するのである。ただし、このような編集が平成になって初めて現れたわけではなく、昭和から続く選挙技術が新しいメディア環境の中で発展したものと考える必要がある。

インターネット選挙は平成に始まり、令和に広がった

 選挙の情報環境に新たな変化をもたらしたのが、インターネットの普及である。2013年、平成25年の公職選挙法改正によって、ウェブサイトやブログ、SNS(Social Networking Service・インターネット上で利用者同士が交流し、情報を発信するサービス)などを利用した選挙運動が解禁された。つまり、ネット選挙は令和になって突然始まったものではなく、平成の後半に制度上の転換点を迎え、令和に入って情報流通の規模と影響がさらに注目されるようになったのである。

 それまで街頭演説は、基本的にその場に集まった人々へ候補者の考えを伝える活動だった。しかし、演説の動画がインターネットで配信されれば、その場にいなかった人も後から内容を確認でき、演説の一部分だけが切り取られて広まることもある。一度の街頭演説が、現実の会場とインターネット上という二つの空間で評価されるようになり、候補者の発言や振る舞いには従来とは異なる広がり方が生まれた。

 もっとも、インターネット選挙運動が解禁されたからといって、すべての電子的な選挙活動が自由になったわけではない。選挙運動用の電子メールを送信できる主体には制限があり、有権者による電子メールでの選挙運動は認められていない。また、18歳未満の者による選挙運動は禁止されており、インターネット上であっても公職選挙法の規制から自由になるわけではない。

 ネット選挙の効果についても、慎重に考える必要がある。日本の選挙研究では、2013年の解禁によって有権者の情報接触が一挙に大きく変化したとは確認できないとする分析がある一方、政治的な交流を目的としたソーシャルメディアの利用が、政治への関心や参加に影響する可能性を示した研究も存在する。両者は必ずしも矛盾しておらず、制度の解禁そのものの効果と、個々の有権者が実際にインターネットを利用することの効果は区別しなければならない。

 さらに、2013年当時と現在ではスマートフォンの利用状況、動画配信の仕組み、情報の推薦方法なども変化している。ある時期の研究結果を、そのまま別の時期の選挙へ当てはめることはできないため、令和の当確師に必要なのは、「ネット選挙は効果がある」「ネット選挙は効果がない」という二者択一ではなく、どのような情報接触が、どのような有権者の認識や行動に関係しているのかを見極める姿勢なのである。

令和には、画面の中にも選挙区ができた

 令和の選挙では、道路や住宅地によって区切られた現実の選挙区とは別に、スマートフォンの画面の中にも、候補者が知られ、評価され、議論される空間が広がっている。かつては候補者の名前を地域で何度も聞くことによって知名度が高まる場合が多かったが、現在では一本の動画や一つの投稿が、短期間で多くの人に届く可能性がある。そのため、現実の地域では無名だった候補者が、インターネット上では広く知られるという状況も考えられる。

 ただし、ここで重要なのは、画面の中に広がる情報空間と、法律上の選挙区が一致していないことである。町議会議員選挙の候補者が全国的に注目されたとしても、その候補者に投票できるのは当該選挙の有権者に限られる。全国から集まった投稿への反応には、選挙区外の住民、選挙権を持たない人、批判的な立場の人も含まれるため、インターネット上で有名になることと、実際の得票が増えることは同じではない。

 また、インターネット上の情報は、利用者全員に均等に表示されるわけではない。閲覧履歴や利用者の関心、投稿への反応などに応じて、表示される情報が異なる仕組みもあり、特定の候補者に関心を持つ人の画面には、その候補者に関係する情報が繰り返し表示される場合がある。その結果、候補者や支持者は、自分たちの周囲では大きな支持が広がっているように感じても、実際には情報を見ている人々が偏っている可能性がある。

 これは従来の後援会にも存在していた問題と、構造的には似ている。昭和の後援会幹部が周囲の支持者の熱意から選挙区全体の支持を過大評価したように、令和の選挙関係者も、画面上に集まった好意的な反応から有権者全体の支持を過大評価する危険がある。情報を集める技術が変わっても、観測できる人々が必ずしも全体を代表しないという問題は残り続けているのである。

一万の「いいね」が、一万票にならない理由

 令和の選挙では、昭和とは比較にならないほど多くの数字を集めることができる。投稿への反応数、動画の再生回数、検索回数、フォロワー数、世論調査、年代別人口、地区別投票率など、多様な情報が選挙情勢の判断材料になる。しかし、数字が増えれば現実を正確に理解できるとは限らず、何を測定している数字なのかを取り違えれば、情報量の増加がかえって判断を誤らせることになる。

 例えば、ある候補者の投稿に一万件の「いいね」が付いたとしても、それは一万人の有権者が支持していることを意味しない。反応した人の中には選挙区外の住民もいれば、投票資格のない人もおり、複数のアカウントを利用している人が含まれている可能性もある。さらに、好意的な反応をした人であっても、投票日まで同じ候補者を支持し続けるとは限らず、実際に投票へ行くとも限らない。

 数字の単位が異なることにも注意が必要である。動画の再生回数は再生という出来事の数であり、閲覧した人数そのものではない。フォロワー数はアカウントの数であって、選挙区内の有権者数ではない。投稿への反応件数と、候補者を支持する人数、実際に投票された票数は、それぞれ異なるものを測定しているのである。

 仮に、反応が一万件あり、そのうち選挙区内の投票資格者による重複のない反応が二割、候補者を実際に支持している割合が七割、支持者の投票参加率が六割だったとすれば、単純計算では一万に0.2、0.7、0.6を順に掛けた840人という数字になる。しかし、これは現実の得票予測ではない。割合は仮定にすぎず、さらに、支持を表明した人が実際に同じ候補者へ投票するかどうかも分からないためである。

 結局、インターネット上の反応を得票数に換算するための普遍的な係数は存在しない。選挙の種類、候補者の知名度、地域の人口構成、情報の拡散経路などが異なれば、同じ一万件の反応でも意味は変わってくる。令和の当確師が数字を読むときには、その大きさより先に、誰のどのような行動を測定した数字なのかを確認する必要がある。

人気が票を生むのか、支持が人気を生むのか

 さらに難しいのは、インターネット上の人気と選挙での支持との因果関係である。ある候補者の動画が多く再生され、その後の選挙で得票が増えたとしても、動画の再生によって支持が増えたとは直ちに結論できない。もともと支持の強い候補者だったから動画が多く見られたのかもしれず、新聞やテレビでの報道が知名度と再生回数の両方を増やした可能性もある。

 統計学では、このように複数の現象の間に関係が見られても、一方が他方の原因とは限らないことを重視する。候補者の知名度、政党、地域での活動歴、報道量などが、インターネット上の人気と実際の得票の両方に影響しているなら、それらは因果関係を推定する際の交絡要因になり得る。単純な相関だけで政策や広報活動の効果を判断すれば、もともとの支持の強さを、インターネット上での活動の成果だと誤認する危険がある。

 さらに、政治的関心が強い人ほど候補者の投稿を閲覧しやすく、投票にも参加しやすいとすれば、インターネットをよく利用する人と、利用しない人を比較しただけでは、情報接触の効果を正確に測定できない。このような選択バイアスを減らすには、年齢、政治関心、過去の投票行動など、観測可能な条件の違いを考慮する必要があるが、条件を調整しても観測されていない要因の影響が残る可能性はある。

 昭和の当確師は、限られた人間関係から選挙区全体を推測することに苦労した。令和の当確師は、膨大な情報を手にしても、その中のどの数字が実際の投票行動と関係し、何が単なる見かけ上の関係なのかを見極めなければならない。情報が不足していた時代と、情報が過剰になった時代では問題の形は異なるが、不完全な観測から現実を推定するという課題は共通している。

支持率だけでは選挙は読めない

 選挙を数理的に考えると、支持者の人数を数えるだけでは十分ではない。重要なのは、その人が現在どの候補者を支持しているかだけでなく、実際に投票へ行く可能性と、投票した場合に最終的に誰を選ぶ可能性があるかという点である。選挙戦の途中で支持を表明した人が、投票日まで考えを変えないとは限らず、投票へ行くつもりだった人が何らかの事情で棄権することもある。

 仮に候補者Aを支持する人が一万人いて、その六割が投票するとすれば、六千人が投票に参加する計算になる。一方、候補者Bの支持者が八千人で、その九割が投票するとすれば、投票に参加する支持者は七千二百人になる。この例では、支持者の総数は候補者Aの方が多いにもかかわらず、支持者の投票参加人数は候補者Bの方が多くなる。

 ただし、この計算で得られる六千人や七千二百人は、そのまま候補者の確定得票数になるわけではない。実際に投票した人が支持していた候補者を最後まで選ぶという仮定が必要であり、支持者以外から新たに得る票も含まれていない。例えば、候補者Aの支持者一万人の投票参加率が六割で、投票した人の九割が最終的に候補者Aを選ぶと仮定すれば、この支持者集団から期待される得票は五千四百票になる。

 より一般的には、有権者ごとに投票参加の確率と、投票した場合に特定の候補者を選ぶ確率を考え、それらを掛け合わせた値を全有権者について合計することで、期待得票数を表現できる。ただし、個々の有権者の確率を正確に知ることは現実には難しく、候補者間の競争や選挙戦中の出来事によっても変化するため、計算結果は条件付きの推定値であって、確実に得られる票数ではない。

 ここで大切なのは、支持していることと、実際に投票すること、そして最後にその候補者を選ぶことを、別々の現象として考える姿勢である。昭和の選挙参謀が「固い票」と呼んでいた支持であっても、数学的に見れば投票が保証された票ではなく、実際には一定の不確実性を伴っていたのである。

世論調査にも、見えない誤差がある

 現代の選挙では、世論調査が重要な判断材料になっている。しかし、世論調査の支持率は、有権者全員に質問して得られた数字ではなく、通常は一部の人々の回答から全体の傾向を推定したものである。したがって、得られた数値には標本抽出による誤差があり、たとえ調査方法が適切でも、調査対象者を変えれば結果は一定の範囲で変動する。

 例えば、千人を単純無作為抽出して、ある候補者の支持率が五割だったとする。回答が独立しているなどの標準的な仮定のもとでは、支持率の95%信頼区間の誤差幅は、おおよそプラスマイナス3.1ポイントとなる。したがって、調査結果が50%と47%だったというだけで、必ずしも両者に明確な支持率の差があるとは判断できない。ただし、実際の誤差は調査設計によって異なるため、この数値をすべての世論調査に当てはめることもできない。

 さらに注意が必要なのは、標本誤差だけでなく、回答拒否や調査方法による偏りなどの非標本誤差が存在することである。政治に強い関心を持つ人ほど回答しやすい場合や、特定の属性の人が調査に参加しにくい場合には、回答者の割合と有権者全体の割合が一致しない可能性がある。また、調査時点で候補者を支持すると答えた人が、実際に投票するとは限らない。

 世論調査の数値が小数点以下まで細かく表示されていても、その結果を同じ精度で予測できるという意味ではない。調査対象者の人数、抽出方法、回答率、調査時期、質問文、補正方法などを確認しなければ、数字の信頼性は評価できない。令和の当確師に求められるのは、数字を速く読む能力だけではなく、その数字がどの程度不確かであるかを理解する能力でもある。

投票率は、天候だけでは決まらない

 投票参加には、候補者への支持や政治的関心だけでなく、投票制度や生活上の条件も関係している。仕事や家庭の事情、投票所までの距離、交通手段、健康状態などによって、投票のしやすさは異なる。とりわけ高齢化が進む地域では、投票所までの移動が負担となる場合もあるが、その影響を考えるには、年齢だけでなく、交通環境や期日前投票の利用状況なども併せて確認する必要がある。

 天候についても、単純に「雨が降れば投票率が下がる」と決めつけることはできない。日本の衆議院議員選挙を対象に、1963年以降の気象条件と投票率の関係を調べた研究では、風速には投票率を低下させる関係が認められた一方、降雨量については安定した効果が確認されなかった。この結果は、悪天候の影響が雨だけで決まるものではなく、風やその他の条件も考慮する必要があることを示している。

 ただし、こうした研究結果を、すべての地方選挙にそのまま当てはめることはできない。投票所までの交通事情や地域の人口構成、選挙の規模によって、同じ気象条件でも影響が異なる可能性がある。また、期日前投票を利用する人が増えれば、投票日当日の天候だけで投票参加を説明することはいっそう難しくなる。

 選挙の投票率を予測する際には、個人の政治的関心、社会的な条件、制度上の仕組み、投票日までに起きた出来事を総合的に考える必要がある。一つの要因を取り出して投票率の変化を説明しようとすると、見かけ上の関係を本当の原因だと取り違える可能性があるのである。

地区別の票読みが抱える統計上の落とし穴

 選挙参謀にとって、地域ごとの人口構成や過去の選挙結果は重要な情報である。地区別の有権者数、年齢構成、投票率などを整理すれば、地域によって選挙への参加状況が異なることは分かる。しかし、地区全体の数字から、その地区に住む一人ひとりの投票行動を直接推定することには限界がある。

 例えば、高齢者の割合が高い地区で候補者Aの得票率も高かったとしても、それだけで高齢者の多くが候補者Aに投票したとは結論できない。実際には、その地区の比較的若い人々が候補者Aを支持していた可能性もある。このように、集団全体で観測された傾向を、その集団に属する個人にも当てはめてしまう誤りを、統計学では生態学的誤謬と呼ぶ。

 さらに、一般に公表される選挙結果は、投票区や自治体など一定の単位で集計されたものであり、個々の有権者の投票先を示しているわけではない。候補者側が地域の支持を推測する際には、どの範囲の集計結果が利用できるのか、人口統計と選挙結果の地域区分が一致しているのかについても確認しなければならない。

 また、支持が弱い地区だからといって、そこに活動を集中させることが必ず合理的とは限らない。もともとの支持が低くても、住民の意見が変わりやすい地区もあれば、支持が安定していて大きな変化を期待しにくい地区もある。逆に、現在の支持率が高い地区であっても、投票参加の変動によって結果が変わる可能性があるため、支持の高低と、追加的な活動によってどれほど変化するかという問題は分けて考える必要がある。

 選挙区全体を理解するために地区別の数字を利用することには意味があるが、地域を細かく分ければ自動的に正確な判断ができるわけではない。むしろ、観測できる人数が少なくなるほど割合が大きく変動する場合もあるため、集計単位、標本の大きさ、過去の傾向、地域の事情を慎重に見なければならないのである。

選挙参謀にも、法律の境界線がある

 ここまで選挙参謀の技術について見てきたが、現代の当確師を考えるうえでは、もう一つ重要な問題がある。それは、選挙を支援する活動のすべてが、自由に行えるわけではないということである。日本では、公職選挙法が選挙運動の期間や方法を規制しており、選挙の公平性を守るため、買収や戸別訪問などの行為が禁止されている。

 一般に、政治上の主義や政策を訴える日常的な政治活動と、特定の選挙で特定の候補者への投票を勧める選挙運動は、法律上区別される。選挙運動が認められるのは原則として立候補の届出後から投票日前日までであり、それ以前に特定の選挙での当選を目的として投票を働きかければ、禁止されている事前運動に該当する可能性がある。したがって、後援会活動や地域での交流が認められることと、いつでも選挙運動を行えることは同じではない。

 さらに、選挙コンサルタントが報酬を受け取る場合にも注意が必要である。2025年4月の国会審議では、業者が主体的、裁量的に選挙運動の企画立案を行い、選挙運動の主体と認められる場合、その対価として報酬を支払うことは公職選挙法上の買収罪に該当するおそれがあるとの政府答弁が示されている。実際に違法となるかどうかは個別の事実関係によって判断されるが、専門業者であれば選挙戦略の立案から実行まで、どのような業務でも自由に請け負えるというわけではない。

 これは、候補者の広報活動を支援すること自体が違法だという意味ではない。問題となるのは、具体的にどのような仕事を行い、誰が選挙運動を主体的に企画・実行し、何に対する報酬が支払われたのかという点である。令和の選挙では動画制作やインターネット上の広報を専門業者へ依頼する場面もあるが、その場合にも、通常の制作業務と選挙運動そのものへの対価を区別する必要がある。

 同時に、データ分析にも個人情報の問題がある。人口統計や地区別投票率のような集計情報を利用することと、個人を識別できる政治的支持情報を収集し、他の情報と結びつけて分析することは同じではない。政治団体の政治活動については個人情報保護法の一部規定に適用除外が設けられているものの、個人情報を無制限に利用してよいという意味ではなく、適正な取扱いや安全管理、プライバシーへの配慮が重要となる。

 昭和の当確師が地域社会の慣習や人間関係を理解する必要があったように、令和の当確師には、公職選挙法や個人情報の取扱い、インターネット上の情報発信に関する制度を理解する能力も求められる。分析技術に優れていても、その使い方が法律に反していれば、候補者を支えるどころか、選挙そのものの信頼を損なうことになるのである。

令和の当確師は、何を見なければならないのか

 現代の選挙参謀が見なければならないものは、候補者の人気だけではない。有権者がどのような情報に接しているか、何を評価し、何に不満を持っているか、投票へ参加するうえでどのような条件があるか、そして現在得られている数字にどの程度の不確実性があるかといった複数の問題を、同時に考える必要がある。

 選挙活動に使える時間、人員、資金には限界があるため、すべての地区ですべての活動を同じ規模で行うことは難しい。しかし、どこに活動を集中させればよいかという問題にも、単純な正解は存在しない。支持率が低い地区、人口の多い地区、投票率の高い地区のどこを重視するかは、それぞれの地域事情や選挙の構造によって意味が異なり、過去の数値だけから最適な判断が導かれるわけではない。

 また、候補者の認知度が上がったことと、政策が理解されたことも区別しなければならない。名前を知っている人が増えても、政策に共感しているとは限らず、逆にインターネット上では目立たなくても、長年の活動を通じて地域社会から信頼されている候補者もいる。候補者の評価には、知名度、政策への共感、人物への信頼、政党への支持、現職に対する評価など、複数の要素が重なっているのである。

 この意味で、令和の当確師は、世論を自在に操る魔術師ではなく、不完全な情報から複雑な人間の行動を推定する戦略家に近い。統計やデータ分析は、思い込みや経験則を検証し、判断の根拠を整理するために役立つが、分析結果だけで候補者の信頼や政策の価値まで決められるわけではない。選挙は数字だけの競争ではなく、公共の課題について誰に判断を委ねるかを有権者が選ぶ政治的な過程だからである。

それでも、昭和の選挙は消えていない

 令和の地方選挙でも、地域での活動歴、後援会、業界団体、日常的な人間関係は依然として意味を持っている。候補者が地域でどれほど知られているか、住民の話を聞いてきたか、地域の問題に継続して取り組んできたかといった評価は、スマートフォンが普及しても簡単には消えない。むしろ、インターネット上の情報が増えたことで、実際に接したことのある人物への信頼が、別の意味を持つ場合も考えられる。

 ただし、自治会や町内会のような地域組織を、当然に特定候補者の支援組織と考えることは適切ではない。地域の共同活動を目的とする組織と、特定の政治家を支援する後援会は、その目的や立場が異なる。地域の人間関係が政治に影響することと、地域組織が一体となって特定候補者を支持することは、区別しなければならない。

 一方で、昭和型の地縁や組織だけでは、有権者全体の行動を把握できないことも確かである。地域の集まりには参加しない人、後援会に所属していない人、職場や団体との関係から投票先を決めない人、インターネットで情報を集める人など、有権者が候補者を評価する経路は多様である。従来の組織を通じて得られる情報は、選挙区の一部分を理解するうえで有用であっても、それだけで全体を代表するものではない。

 現代の当確師は、昭和の地域社会を読む技術を捨てた人ではなく、地域の人間関係を理解しながら、平成に発展した世論調査や候補者イメージの形成、令和に存在感を増したデジタル情報の分析まで扱うようになった人と考えられる。道具の増加によって選挙が単純になったのではなく、異なる性質の情報を照合し、その矛盾を判断しなければならなくなったのである。

「見える票」から「見えにくい票」へ

 昭和の選挙では、現在と比べて地域組織や職場、業界団体、後援会などとの結びつきが強く、候補者側が支持の所在を推測する手掛かりを得やすい部分があったと考えられる。ところが、現在では後援会に入らず、政治集会にも参加せず、インターネット上でも政治的な意見を表明しないまま、投票日だけ静かに投票所へ向かう有権者もいる。そのような人々の政治的な判断は、候補者側から観測しにくい。

 もっとも、「昭和は票が見え、令和になって見えなくなった」という単純な理解は正確ではない。昭和にも組織に所属しない有権者は存在しており、平成には無党派層がすでに重要な政治学上の研究対象となっていた。また、組織との関係があっても、実際に誰へ投票したかは秘密投票によって守られているため、過去の選挙で候補者側が個々の票を確実に把握できたわけでもない。

 重要なのは、従来の組織的な結びつきだけでは説明できない投票行動が、選挙を理解するうえで無視できないということである。有権者は新聞、テレビ、インターネット、家族や知人との会話、候補者との直接の接触など、さまざまな情報を通じて判断する。しかも、同じ情報に接した人々が同じ結論に達するとは限らず、政策を評価する人もいれば、人物の印象を重視する人もいる。

 この複雑さを考えると、当確師が求めるべきものは、すべての有権者の行動を見通すことではなく、観測できる情報と観測できない情報を区別し、推定の限界を理解することだろう。数字が示している範囲を超えて断定しないこと、地域の有力者の発言を住民全体の意見と取り違えないこと、インターネット上の盛り上がりをそのまま得票に換算しないことが、時代を超えて重要なのである。

当確師が進化したのではなく、見るべき世界が増えた

 昭和の当確師は地域の人間関係を読み、平成の当確師はそれに世論調査や候補者イメージの形成を重ね、令和の当確師はさらにインターネット上の情報や多様な統計データを扱うようになった。しかし、この三つは互いに排他的な技術ではなく、現在の選挙では同時に存在している。昭和にも数量的な票読みやメディアの活用があり、平成にも地域組織の重要性が残り、令和になっても候補者と住民の直接的な関係は選挙の一部であり続けている。

 ただし、このような変遷を、そのまま歴史的に証明された発展段階と考えるべきではない。選挙参謀の業務が各時代にどのような割合で変化したのか、地域との関係構築、世論調査、デジタル情報の分析がそれぞれどの程度選挙結果に影響したのかについては、選挙の種類や時期をそろえた実証的な検証が必要である。本稿の時代区分は、選挙を取り巻く情報環境の変化を理解するための整理であり、すべての候補者や地域に同じ変化が起きたと主張するものではない。

 それでも、情報源が増え、異なる技術を組み合わせて判断する必要が高まったという見方には、十分な合理性がある。地域の声を聞くときには、その声がどの範囲の住民を代表しているのかを考え、世論調査を見るときには誤差や回答者の偏りを確認し、インターネット上の数字を見るときには、それが何を測定したものなのかを理解しなければならない。

 選挙参謀の優劣を、最新の分析技術を使えるかどうかだけで判断することはできない。地域の人間関係に詳しいことも、データの分析に優れていることも、それぞれ重要な能力ではあるが、どちらか一方だけで複雑な選挙を完全に説明することはできない。異なる情報の性質を理解し、自分の予測が外れる可能性まで考慮できることが、現代の選挙参謀に求められる能力だろう。

最後に残るのは、やはり人間である

 昭和の当確師は手帳を開き、平成の当確師は世論調査を読み、令和の当確師は画面いっぱいに並んだ数字を見る。しかし、どの時代の選挙参謀も、最後には同じ問いに向き合っている。それは、有権者がなぜ特定の候補者に一票を投じるのか、あるいは、なぜ投票しないのかという問いである。

 その理由は、政策への共感かもしれないし、候補者の人柄への信頼かもしれない。政党への支持によって選ぶ人もいれば、現職への不満から別の候補者を選ぶ人もいる。地域で長く活動してきた姿を評価する人もいれば、選挙期間中に初めて接した情報によって考えを変える人もいる。投票用紙に書かれる候補者の名前は一つでも、そこへ至る理由は一つではなく、同じ候補者に投票した有権者同士でも、判断の過程が大きく異なることがある。

 選挙という現象は、政治学だけでなく、社会学、心理学、統計学、制度研究など、複数の学問領域から説明することができる。しかし、どの学問も単独では有権者の行動を完全に予測することはできない。人間の判断には観測できない要因があり、同じ人でも時間の経過や新しい情報によって考えを変えることがあるため、過去のデータから将来の行動を確実に言い当てることには原理的な限界がある。

 仮に、すべての有権者の投票行動を正確に予測できる仕組みが存在すれば、選挙の不確実性は大きく減るだろう。しかし、現実には有権者の判断も候補者の行動も固定されたものではなく、選挙戦の途中で新しい出来事が起こり、その情報に対する受け止め方も人によって異なる。統計モデルによって予測の精度を高めることはできても、選挙を完全に決定された計算問題に変えることはできないのである。

 だからこそ当確師には、いつの時代にも経験と判断が求められる。ただし、その経験は検証されなければならず、直感は事実と区別されなければならない。数字を読むことと、その数字から何を言えるのかを理解することは同じではなく、地域の人々をよく知っていることと、有権者全体の意思を把握していることも同じではない。

 昭和から平成、そして令和へと変わったのは、候補者を必ず当選させるための魔法ではない。人間の行動を理解するために利用できる情報が増え、情報の種類が多様になり、それらを判断するために必要な知識も広がったのである。選挙参謀の仕事が複雑になったのは、道具が不足しているからだけでも、情報が多すぎるからだけでもなく、もともと人間の政治的な判断が、単純な数字では表現しきれない性質を持っているからなのだろう。

 そして、その複雑な世界の中心には、今も変わらず一人の有権者がいる。政党を支持する人も、候補者の人格を評価する人も、政策を比較する人も、最後には自分自身の判断によって一票を投じる。候補者を勝たせようとする人々が昭和から令和まで見つめ続けてきたのは、結局のところ、数字の向こう側にいる、その一人ひとりの人間なのである。

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