1993年8月、日本の政治には、それまで当然と思われていた風景が突然崩れるような出来事が起きた。内閣総理大臣になったのは自由民主党総裁ではなく、日本新党代表の細川護熙だった。1955年の自民党結成以来、38年間ほぼ途切れることなく続いてきた自民党政権が終わり、日本にも「政権は交代する」という現実が姿を現したのである。
ところが、その細川が首相であった期間はわずか263日だった。1993年8月9日に発足した細川内閣は、翌1994年4月28日に総辞職している。政権交代の象徴として華々しく登場した人物が、一年にも満たないうちに首相官邸を去ったことだけを見れば、細川政権は一瞬の政治的熱狂に終わったようにも見える。しかし、その短さを東京佐川急便からの一億円借入問題だけで説明してしまうと、この政権がなぜ生まれ、なぜ急速に力を失ったのかという本当の構造が見えなくなる。
細川政権の短命さを理解するには、まず1993年の「政権交代」がどのような政権交代だったのかを見なければならない。それは、一つの野党が選挙で圧勝し、自民党を打ち破った政権交代ではなかった。
自民党は敗れたのではなく、過半数を失った
1993年7月の衆議院議員総選挙で、自民党は223議席を獲得していた。依然として国会第一党である。これに対して日本社会党は70議席、新生党55議席、公明党51議席、日本新党35議席、新党さきがけ13議席などに分かれており、自民党に代わる巨大政党が出現したわけではなかった。
それでも自民党は政権を失った。自民党自身の分裂によって新生党や新党さきがけが生まれ、そこへ日本社会党、公明党、日本新党、民社党、社会民主連合などが加わったことで、自民党を上回る国会多数派が形成されたからである。正確には、日本社会党、新生党、公明党、日本新党、民社党、新党さきがけ、社会民主連合の7党と、民主改革連合という1会派が連立に参加した。一般には「8党派連立」と呼ばれる政権である。
ここで興味深いのは、その中で35議席しか持たない日本新党の細川護熙が首相になったことである。議席数だけを考えれば、細川は連立政権の最大勢力の代表ではない。それでも彼が選ばれたのは、むしろ最大勢力ではなかったからだった。
旧来の自民党政治から一定の距離を置き、熊本県知事を経験し、新党を立ち上げた細川には、「古い政治を終わらせる新しい顔」という象徴性があった。社会党の代表を首相にすれば保守系の新党がまとまりにくく、新生党の中心人物を前面に出せば自民党分裂の延長に見えてしまう。その間に立つ細川は、異質な勢力を一つにまとめるための政治的な接着剤として適した人物だったのである。
しかし、この構造には最初から矛盾が含まれていた。細川は国民的には政権の顔であっても、自らの党が35議席しかない以上、国会の多数を自分の判断だけで動かす力を持っていなかった。細川政権は「強い首相が率いる多数党政権」ではなく、「異なる政党が細川という象徴の下で一時的に結びついた連立政権」だったのである。
八党派を結びつけた政治改革
その異質な勢力を結びつける最大の共通課題が政治改革だった。当時の日本政治では、リクルート事件や東京佐川急便事件などを通じて政治と金への不信が高まり、中選挙区制の下で同じ自民党候補同士が競争し、多額の政治資金を必要とする仕組みそのものが問題視されていた。
細川政権は、選挙制度と政治資金制度を変えることを最優先課題に据えた。しかし、ここで注意しなければならないのは、八党派が政治改革について完全に同じ考えだったわけではないことである。とりわけ社会党内部には小選挙区制への警戒があり、新生党の小沢一郎と新党さきがけの武村正義との間にも、選挙制度だけでなく、その先の政界再編をどう描くかという点で違いがあった。
つまり、政治改革によって連立内部の対立が消えていたのではない。対立は初めから存在していたが、「まず自民党長期政権の下で実現できなかった政治改革を成し遂げる」という大きな目標が、その亀裂を覆っていたのである。
政治改革関連法案の成立過程も平坦ではなかった。1994年1月21日、法案はいったん参議院で否決される。それでも細川首相と自民党の河野洋平総裁が協議し、制度内容を調整したうえで、1月29日に政治改革四法が成立した。さらに、その細川~河野合意を具体化するための改正法が3月に成立し、現在につながる衆議院の小選挙区比例代表並立制や政党助成制度など、新しい政治制度の基本的な枠組みが固まっていった。
長年議論されながら実現できなかった政治改革を実際に成立させたことは、細川政権の歴史的成果として軽視できない。しかし皮肉なことに、その成功によって、それまで連立政権を一つに束ねていた最大の目標が一段落することになった。
政治改革が成立したから連立内部の対立が突然生まれたのではない。もともと存在していた考え方の違いや権力関係の緊張を、政治改革という共通目標が覆い隠しにくくなったのである。
小沢一郎と武村正義の間にあった二つの政治構想
細川政権内部の複雑さを理解するうえで見落とせないのが、新生党の小沢一郎と、新党さきがけ代表で官房長官を務めた武村正義との関係である。
両者の対立を単なる個人的な確執として見るだけでは十分ではない。そこには、日本の政党政治を今後どの方向へ組み替えていくのかという構想の違いがあった。小沢は政治改革を通じて政党再編を進め、より明確な二大政治勢力の競争へ日本政治を変えていくことを志向していた。一方、武村はそのような急速な政界再編や権力集中に警戒を示していた。
しかも武村は官房長官であり、首相を日常的に支える政権中枢の人物だった。その武村と、連立与党の強力な実力者である小沢との間に政治的緊張が存在する以上、細川は両者の間で政権を運営しなければならない。細川政権の不安定さは、単純に「政党が八つあったから」という数の問題ではなく、連立内部に将来の政治そのものについて異なる設計図が存在していたことから生まれていた。
政権交代を実現するまでは、「自民党政権を終わらせる」という目標がそれらの違いを超えることができた。しかし政権を取った後には、増税をするのか、社会保障をどう設計するのか、経済政策をどこへ向けるのか、そして政界をどのように再編するのかという問題に一つずつ答えなければならない。政権を倒すための連合と、国家を運営するための連合は、似ているようでまったく別のものだった。
国民福祉税という「34時間」が露出させたもの
その違いを国民の前に最も鮮明に示したのが、1994年2月の国民福祉税構想だった。
細川は2月3日未明、消費税を廃止し、将来的に税率7%の「国民福祉税」を導入する構想を記者会見で発表した。ところが、この政策について連立与党内部では十分な合意が形成されておらず、とりわけ社会党などから強い反発が起こった結果、構想は約34時間後に白紙撤回される。
問題は、7%という税率が高かったか低かったかということだけではなかった。国民生活に直接かかわる重要な税制改革が突然発表され、その直後に同じ与党内部の反対で撤回されたことにより、「この政権では誰が政策を決めているのか」という疑問が一気に表面化したのである。
ただし、これを単純に「細川首相が決めた政策を連立与党が潰した」と理解するのも正確ではない。国民福祉税構想には、小沢一郎をはじめ政権中枢の一部が深く関与していた一方、社会党や武村官房長官を含め、連立全体の意思決定機構には十分に共有されていなかった。
つまり露呈したのは、首相が弱かったという一言では片づけられない問題だった。政権中枢の一部で形成された政策を、複数の政党からなる連立与党全体の合意へどのようにつなげるのかという仕組みそのものが未成熟だったのである。
政治改革までは「制度を変える」という目標でまとまることができた。しかし、税制のように誰かの負担を増やさなければならない政策になると、各党はそれぞれの支持者や理念を背負って判断する。そこで必要になるのは新鮮なイメージではなく、地道で複雑な利害調整だった。国民福祉税の34時間は、細川政権が「新しい政治」を象徴する力には優れていても、「新しい政治を運営する仕組み」を十分につくれていなかったことを映し出した。
政治と金を変える政権に返ってきた一億円問題
そうした政権内部の緊張が続く中で、細川自身にも政治資金をめぐる問題が重くのしかかることになる。東京佐川急便からの一億円借入問題である。
細川は、1982年に東京佐川急便から一億円を借りたこと自体は認め、それについては完済したと説明した。しかし国会では、借入目的、返済の経過、関連資料などについて追及が続いた。
この問題を扱う際には慎重さが必要である。一億円を借りた事実があるからといって、それだけで違法な金銭授受だったと断定することはできない。政治的な疑惑と、法的に確認された違法行為とは区別しなければならないからである。
それでも、この問題が細川に与えた政治的打撃は大きかった。なぜなら細川政権そのものが、政治と金をめぐる旧来の政治への不信を背景に誕生した政権だったからである。古い政治を変えると登場した首相自身が巨額の資金問題について国会で説明を求められることになれば、たとえ法的な問題とは別であっても、「新しい政治」という政権の物語そのものが傷つく。
政治家にとって、疑惑の重さは金額や法律論だけでは決まらない。その政治家が何を掲げて登場した人物なのかによっても意味が変わる。政治倫理を掲げる政権にとって、自らの資金問題は通常以上に大きな政治的負担にならざるを得なかった。
細川は一億円問題だけで辞めたわけではない
1994年4月8日、細川は辞意を表明する。ここを「佐川急便から一億円を借りたことが発覚し、責任を取って辞めた」とだけ説明すると、実際の辞任理由を単純化しすぎる。
細川自身の辞意表明では、一億円借入問題などをめぐって国会審議が停滞し、自らの問題が予算審議の妨げになっていることへの政治的責任が語られている。さらに、過去に自分の資金を知人に運用させていた問題について、新たに法的な問題がある可能性が明らかになったとして、政治の最高責任者として道義的責任を負う必要があるとも説明した。
したがって、辞任は一つの疑惑だけによって突然引き起こされた出来事ではない。政治改革という最大の共通目標が一段落し、もともと存在した連立内部の対立が見えやすくなり、国民福祉税問題によって意思決定の弱さが露呈し、その上に細川自身の資金問題と国会審議の停滞が重なった結果だったと見る方が実態に近い。
政治学的にいえば、細川政権の崩壊は単一の原因によるものではない。いくつもの条件が時間をかけて重なり、その最後に首相自身の資金問題が加わった「累積的な政権崩壊」だったのである。
263日しか続かなかった政権は失敗だったのか
では、263日で終わった細川政権は失敗だったのだろうか。
政権の安定性だけを基準にすれば、成功した政権とは言いにくい。国民福祉税構想は短時間で撤回され、連立内部の意思決定は安定せず、最終的には首相自身の問題によって国会審議まで停滞した。長期的な政策体系を構築し、それを継続的に実行するところまでは到達できなかった。
しかし、日本政治に与えた影響まで含めると評価は変わってくる。細川政権は、自民党が国会第一党であっても、過半数を確保できず、他党が多数派を形成すれば政権を失うという議院内閣制の原理を現実の政治として示した。それまで制度上は可能であっても、実際にはほとんど想像されていなかった政権交代を経験したことで、「自民党政権は永続するものではない」という感覚が社会に広がった。
さらに、長年議論されながら実現できなかった政治改革を成立させたことも残った。後にその制度がどのような結果をもたらしたかについては別の評価が必要だが、日本の選挙制度と政党政治の枠組みを大きく変えたこと自体は否定できない。
細川政権は、長く統治した政権ではなかったが、日本政治が別の形へ移るための橋のような政権だったともいえる。橋は人が住み続ける場所ではない。それでも、向こう岸へ移るには必要になる。
政権交代の扉を開けることと、その先を統治すること
細川護熙という政治家の歴史的な意味は、長期政権を築いたことにはない。それまでほとんど開かないと思われていた政権交代という扉を、実際に開いてみせたことにある。
しかし、扉を開けることと、その向こう側で国家を運営することは別の仕事だった。自民党政権を終わらせるためなら、社会党から保守系新党まで異なる勢力が同じ方向を向くことができる。しかし政権を取った翌日からは、税金を誰が負担するのか、社会保障をどう支えるのか、外交や安全保障をどう考えるのか、将来どのような政党政治をつくるのかという問いに答えなければならない。
その段階になると、「何に反対するか」ではなく「何を選ぶか」が問われる。しかも一つの政策を選べば、別の選択肢を捨てなければならない。政権交代には異なる勢力を集める力が必要だが、政権運営にはその異なる勢力の間で優先順位を決め、時には不人気な決断まで引き受ける力が必要になる。
細川政権は、その二つが同じ能力ではないことを日本政治に示した最初の大きな事例だった。
だから細川護熙は、政権交代の象徴になったにもかかわらず短期間で辞めた、というよりも、政権交代の象徴として成立した政権だったからこそ短命になりやすい条件を抱えていた、と考えた方がよい。細川という人物の新鮮さは異質な八党派を結びつける力になったが、その象徴性を支える巨大な政党組織はなく、連立の内部には政治改革の先にある日本政治について異なる設計図が存在していた。そして政治改革という共通目標が一段落した後、それまで覆われていた亀裂が次第に見えるようになったところへ、国民福祉税問題と細川自身の資金問題が重なった。
1993年の政権交代が残した最大の教訓は、おそらく「政権を取ること」と「政権を運営すること」はまったく別だということだろう。長く続いた政権を終わらせるとき、人々は一つの旗の下に集まりやすい。しかし、その旗を降ろした後に必要なのは、誰が何を負担し、どの政策を諦め、どの未来を選ぶのかを決めることである。
細川護熙の263日間は短かった。しかし、その短さの中には、その後の日本政治が何度も直面することになる問題がすでに凝縮されていた。政権交代を可能にすることと、政権交代を安定した統治へ変えることとの間には大きな距離がある。細川政権は、その距離を日本政治が初めて実際に歩き、そして途中で立ち止まった政権だったのである。

