1998年7月24日、自民党総裁選挙の結果が出た。小渕恵三225票、梶山静六102票、小泉純一郎84票。投票総数411票のうち小渕が54.7%を獲得し、他の二人を引き離して第18代自民党総裁に選ばれた。三人のなかで最も強烈な印象を与える人物が勝ったわけではなかった。この総裁選をめぐって、田中眞紀子は三人を「凡人・軍人・変人」と評した。軍人は旧陸軍航空士官学校出身で政策への強いこだわりを持つ梶山、変人は党内の慣例にとらわれず持論を唱える小泉、そして凡人が小渕だった。
この言葉はあまりに分かりやすかったため、三人の政策や党内での立場以上に後世へ残った。しかし、考えてみれば「凡人」という呼び名には奇妙なところがある。本当に平凡なだけの政治家が、日本最大の政党の総裁となり、内閣総理大臣にまで到達できるものだろうか。しかも小渕が勝利したのは、単なる人気投票ではなく、長い歴史を持つ自民党の権力構造のなかで行われた選挙だった。
小渕は総裁選に突然現れた無名の政治家ではない。1963年に26歳で衆議院議員に初当選して以来、35年間にわたって国会に議席を持ち続け、竹下内閣では官房長官として新元号「平成」を発表した。その後も自民党幹事長、党副総裁、有力派閥の会長、橋本内閣の外務大臣などを経験していた。国民から見れば柔和な「平成おじさん」であっても、永田町の内部から見れば、自民党政治の中心部を長く歩いてきた人物だったのである。
だから小渕を理解するには、「凡人なのに総理になった」という物語から離れた方がよい。むしろ興味深いのは、これほど長く権力の中心にいた政治家が、なぜ最後まで「凡人」に見え続けたのかということである。その問いを考えるには、個人の性格だけでなく、選挙制度、世襲地盤、派閥の力関係、党内での人間関係、そして1998年という時代の条件を重ね合わせる必要がある。
巨人二人のいる選挙区から始まった
小渕恵三の政治家人生には、最初から有利な条件があった。父の小渕光平は衆議院議員であり、その政治地盤を引き継ぐ形で1963年の衆議院議員総選挙に出馬したからである。したがって、小渕は明らかな世襲政治家であり、「何も持たない普通の青年が努力だけで総理へ上り詰めた」という成功物語にしてしまうのは正確ではない。
しかし、受け継いだ地盤がそのまま安泰を意味したわけでもなかった。小渕が初当選した旧群馬3区には、すでに福田赳夫と中曽根康弘がいた。後に二人とも総理大臣となる政治家である。1963年の選挙で福田は9万5378票、中曽根は8万4504票を獲得したのに対し、新人の小渕は4万7350票だった。それでも小渕は定数4の選挙区で3位に入り、26歳で初当選を果たしている。
ここで重要なのは、当時の選挙制度である。旧群馬3区は、一つの選挙区から複数の議員を選ぶ中選挙区だった。現在の衆議院小選挙区のように、福田、中曽根、小渕のうち一人だけが当選する仕組みではない。同じ自民党の候補者同士が競争しながら、それぞれ異なる後援会や支持組織によって議席を確保することが可能だった。小渕の初当選は、福田や中曽根を打ち負かしたことを意味するものではなく、有力な先輩議員が存在する選挙区のなかで、自分の当選に必要な支持基盤を維持できたことを示している。
これは、その後の小渕の政治人生を考えるうえで示唆的である。自分より目立つ人物が周囲にいても、必ずしもその人物を倒す必要はない。自分の支持者を確保し、選挙区で議席を守り、党内での立場を少しずつ高めていく方法もある。ただし、1963年の当選という事実だけから、当時の小渕がすでに優れた調整能力を持っていたと断定することはできない。父から継承した後援会や地域の政治的関係も、当選を支えた重要な条件だったと考えるべきだろう。
政治では、目立つことと生き残ることは同じではない。演説がうまい政治家が必ず選挙に強いわけではなく、政策に詳しい政治家が必ず党内で多数派を形成できるわけでもない。とりわけ当時の自民党では、選挙区で支持を積み、派閥のなかで信用を得て、他派閥との関係を維持し、人事や選挙をめぐる長い交渉のなかで自らの位置を高めていくことが、権力への重要な経路だった。小渕が政治人生を通じて蓄積したものは、まさにそうしたテレビには映りにくい政治的な資源だった。
小渕は「突然出世した」のではない
小渕の経歴を時系列で眺めると、総理就任までの道筋が長い時間をかけて形成されていたことが分かる。若くして一気に党内中枢へ駆け上がった小沢一郎とも違い、後に世論の支持を背景に党内秩序を揺さぶった小泉純一郎とも違う。小渕の政治人生には、選挙で当選回数を重ね、党内の役職を経験し、その時間そのものを政治的な資産へ変えていく過程があった。
田中角栄の流れをくむ派閥で経験を積み、1979年には第2次大平内閣で総理府総務長官兼沖縄開発庁長官として初入閣した。1987年には竹下派の結成に参加して事務総長となり、同年11月の竹下内閣発足に伴って官房長官に就任する。国民にとって最も鮮烈だったのは、1989年1月7日に「平成」と書かれた額を掲げた場面だったが、それは小渕にとって政治人生の頂点ではなく、すでに党内中枢に入っていたことを示す一つの出来事だった。
その後も1991年に自民党幹事長、1994年に党副総裁、1997年には橋本内閣の外務大臣となった。党の選挙や組織運営に関わる幹事長、党内の重鎮として位置づけられる副総裁、政府の外交政策を担当する外務大臣では、それぞれ求められる役割が異なる。小渕はそうした役職を経験することによって、単に当選回数の多いベテラン議員というだけではない立場を築いていた。
そして1992年、小渕の政治人生を大きく変える出来事が起きる。巨大な竹下派では、金丸信の失脚後、派閥の主導権をめぐって激しい対立が生じていた。小沢一郎らは羽田孜を推し、それに対抗する勢力は小渕を推した。この後継争いの背景には、竹下登を中心とする勢力、参議院側を含む派閥内の力関係、小沢の政治手法への警戒など、複数の要因があった。
ここで重要なのは、小渕が派閥会長になったことを「温厚な人柄が評価されたから」とだけ説明しないことである。小渕自身の信用や交渉能力が意味を持ったとしても、その地位は派閥内の組織的な支持と権力関係のなかで形成された。派閥の指導者は、人柄がよいという理由だけで選ばれるものではない。誰を会長にすれば組織を維持できるか、どの政治勢力が主導権を握るかという判断が、そこには存在していた。
結果として竹下派は分裂し、羽田・小沢系の議員たちは別の政治集団を形成した。一方、小渕は竹下派の主要部分を引き継ぎ、自民党内の有力派閥を率いる政治家となった。これは小渕にとって大きな政治的資産となったが、同時に「敵をつくらない政治家」という評価を考え直す材料でもある。小渕は対立のない世界で出世したのではなく、激しい権力闘争の当事者として、組織の分裂と再編を経験していたのである。
「凡人」の背後には巨大派閥があった
小渕が1998年の総裁選で勝利した理由を考えるとき、最も重要な条件の一つが派閥の組織力である。当時の小渕派は90人前後の国会議員を抱える自民党最大級の派閥であり、小渕はその会長だった。この事実を抜きにして「人柄がよかったから225票を取った」と説明すれば、小渕政治の核心を見誤ることになる。
自民党総裁選挙は国民による直接選挙ではない。しかも1998年の選挙は、現在の党員参加型の総裁選挙とも仕組みが異なり、党大会に代わる両院議員総会で実施された。投票したのは自民党所属の衆参両院議員と都道府県代表であり、国会議員票が圧倒的な比重を持っていた。そのため、国民的な知名度やテレビでの人気よりも、党内でどれだけの支持を組織できるかが選挙結果に強く影響する制度だった。
実際の得票数を計算すると、小渕は411票中225票で54.7%、梶山は102票で24.8%、小泉は84票で20.4%だった。小渕は過半数を確保して明確に勝利したものの、残る二人の合計も186票に達していた。つまり、党内の支持が小渕に圧倒的に集中していたわけではなく、かなりの議員が別の候補者を支持していたことになる。
また、小渕派が大きかったからといって、その所属議員全員が小渕に投票したと考えることもできない。対立候補の梶山静六自身が小渕派に属していた有力政治家であり、総裁選への出馬に際して派閥を離れていたからである。そこには政策判断や党内での立場をめぐる対立があり、派閥が一枚岩だったわけではない。派閥の所属人数と、実際に候補者が獲得できる票数は区別して考えなければならない。
仮に小渕派の勢力を94人と置き、全員が小渕に投票したと想定しても、225票を獲得するには派閥外から少なくとも131票が必要になる。これは実際の投票内訳を示す数字ではなく、派閥の規模から考えた単純な計算にすぎない。それでも、小渕の勝利が自派閥の人数だけでは説明できず、宮澤派など他の政治勢力からも支持を獲得する必要があったことは理解できる。
したがって、小渕の勝利を説明するには二つの条件を区別する必要がある。一つは、長い政治生活の末に自民党最大級の派閥を率いる位置まで到達したという組織的な条件である。もう一つは、その基盤の上で他派閥の支持を取り込み、総裁選の過半数を形成したという党内政治の条件だった。大派閥を持つことは有利だが、それだけで総裁選に勝てるわけではない。小渕は自らの組織基盤を持ちながら、党内の支持を過半数へ広げる位置にいたのである。
「敵をつくらない」は弱さだったのか
強い政治家という言葉を聞くと、私たちはしばしば決断力のある人物を想像する。反対を押し切り、大胆な改革を打ち出し、敵と味方を鮮明にし、自らの理念に政治を引き寄せていくタイプである。しかし、その強さには代償もある。熱烈な支持者をつくる政治家は、同時に強い反対者を生みやすいからである。
小渕は一般に、こうした対決型の政治家とは異なる人物として評価されてきた。相手を論破して自分を大きく見せるよりも、話を聞き、電話をかけ、関係を切らない。総理になった後には、本人がさまざまな人へ直接電話することから「ブッチホン」という言葉まで生まれた。これは庶民派の印象を与える政治的な演出でもあったが、小渕が対話や人間関係を重視する政治家として知られていたことも表していた。
中曽根康弘が小渕を「真空総理」と評したことも、こうした人物像と関係している。この表現には、何を目指す政治家なのか輪郭が見えにくいという批判的な意味がある一方、真空であるからこそ多くのものを吸収できるという肯定的な意味も含まれていた。政治において自己主張の輪郭が薄いことは、常に弱点とは限らない。異なる立場の政治家が近づく余地を残し、自分が排除されるのではないかという警戒心を相手に抱かせにくくする場合があるからである。
ただし、ここで「小渕は敵をつくらなかったから総理になれた」と断定することはできない。1992年の竹下派分裂は深刻な権力闘争だったし、1998年の総裁選でも梶山との対立が表面化している。小渕の政治人生が対立と無縁だったわけではない。より正確には、対立を経験しながらも、他の勢力との交渉や協力の可能性を維持しようとする政治手法を重視した人物と捉えるべきだろう。
そして、因果関係を逆転させないことも重要である。小渕はもともと凡人だったから調整型になったのではなく、自民党という巨大な組織のなかで何十年も生き残る過程で、相手を不用意に刺激せず、対立を必要以上に広げず、関係をつなぎ続ける政治手法を発達させた可能性がある。その結果として、外からは「凡人」に見える政治家になったのかもしれない。
もちろん、これは小渕の行動や経歴から考えられる解釈であって、性格が形成された過程を直接証明するものではない。しかし、政治家の能力を演説の巧みさや政策の独創性だけで測ることができないという点では、重要な見方を示している。大きな組織では、他人を従わせる力だけでなく、立場の違う人間を同じ方向へ動かす力も政治的な能力となるからである。
1998年という時代が小渕を押し上げた
1998年、小渕に総理への機会が訪れた背景には、日本政治そのものの危機があった。日本経済はバブル崩壊後の長い停滞から抜け出せず、1997年には北海道拓殖銀行が経営破綻し、山一證券が自主廃業するなど、金融システムへの不安が深刻化していた。景気後退によって企業活動や雇用環境にも厳しさが増し、橋本龍太郎政権の経済運営への批判が高まっていた。
1998年7月12日の参議院議員通常選挙で、自民党は改選議席を大きく減らして敗北した。橋本はその責任を取って退陣を表明し、後継総裁を決める選挙が行われることになった。そこで立候補したのが小渕、梶山、小泉の三人である。小渕の総裁選勝利は、本人の長い政治経験だけでなく、橋本退陣によって総裁の地位が空いたという政治的な機会があって初めて実現した。
後の歴史を知る私たちから見ると、小泉純一郎の方がはるかに強い政治的な個性を持つ人物に見えるかもしれない。実際、わずか3年後の2001年、小泉は国民的な人気と地方からの支持を背景に総理大臣となる。しかし、1998年と2001年では総裁選の制度や党内の政治状況が異なっていた。2001年には都道府県連の票の比重が拡大され、地方の支持を集めることの意味が大きくなっていたのに対し、1998年には国会議員を中心とする党内支持の形成が、より直接的に勝敗を左右する仕組みだった。
この制度のなかで見ると、小渕の35年間は単なる長い経歴ではなくなる。選挙を繰り返して議席を守り、派閥内で地位を高め、官房長官、幹事長、副総裁、外務大臣を経験し、巨大派閥の会長となり、他派閥との関係も築いてきた。それらの経験や組織的な立場が、総裁選で支持を集めるための政治的資産となったのである。
ただし、ここでも結果から原因を単純に決めつけることはできない。小渕が最も優れた政策を掲げていたから勝ったと証明することも、調整型の性格だけで勝ったと証明することもできない。確認できるのは、小渕が大きな派閥基盤を持ち、他派閥の支持も獲得し、当時の選挙制度の下で過半数の票を集めたという事実である。その事実と、人物の性格や能力についての解釈は区別する必要がある。
自民党総裁になっても、参議院は小渕を選ばなかった
小渕の首相就任を考えるうえで、もう一つ見落としてはならないのが日本の憲法制度である。日本の総理大臣は、国民が直接選ぶ大統領とは異なり、国会の議決によって指名される。自民党総裁になれば自動的に総理大臣になるわけではない。
1998年7月30日の首相指名選挙では、この制度の特徴が明瞭に表れた。衆議院では小渕が497票中268票を獲得し、首相に指名された。しかし、参議院では最初の投票で過半数を得た候補者がなく、小渕と民主党の菅直人による決選投票となった。その結果、菅が142票、小渕が103票となり、参議院は菅を首相に指名したのである。
衆議院は小渕、参議院は菅という異なる人物を指名したため、両院協議会が開かれたが、意見は一致しなかった。最終的には、日本国憲法第67条第2項に定められた衆議院の優越によって、衆議院が指名した小渕が第84代内閣総理大臣となった。
この事実は、小渕の首相就任を個人の人柄や党内の支持関係だけで説明できないことを示している。小渕が自民党総裁選に勝ったことは首相就任の重要な条件だったが、最終的に首相となることを可能にしたのは、衆議院の議席構成と憲法上の制度でもあった。政治家の権力は個人の能力だけによって生まれるものではなく、所属する政党、議会の多数派、憲法や選挙制度といった条件によって形づくられるのである。
また、参議院が小渕とは別の人物を首相に指名したという事実は、政権発足後の困難を予告していた。小渕は総理の座を手に入れたものの、国会の両院を自民党単独で安定的に支配していたわけではなかった。総理就任後には、総裁選で勝つための党内政治とは異なる、国会全体で合意を形成する能力が問われることになった。
「凡人」の政治は総理になってから試された
総理大臣になれば、派閥の力だけで政治を動かせるわけではない。むしろ小渕にとって本当の試験はそこから始まった。自民党は参議院で単独過半数を持っていなかったため、政府提出法案を成立させるには、野党の協力や連立による議席の確保が必要だった。
とりわけ金融危機への対応では、与野党の激しい対立が続いた。金融機関の破綻処理や不良債権問題への対応を急がなければならなかった一方、政府・与党の当初案だけでは国会で十分な支持を得られなかった。1998年の金融再生法をめぐる協議では、政府・与党側が民主党など野党側の案を大幅に受け入れる形で合意が形成された。
これは、危機対応のために政治的な妥協が必要だったことを示す出来事である。ただし、その合意をすべて小渕個人の調整能力による成果とみなすことはできない。野中広務官房長官をはじめ、与野党の交渉担当者や金融政策に関わる議員たちが重要な役割を果たしていた。政治的な成果は総理個人の意思だけで生み出されるのではなく、政党組織や政府内部の交渉によって形成される場合も多い。
その後、小渕政権は政権基盤を安定させるため、連立へ向かっていく。1999年1月には小沢一郎率いる自由党との連立を成立させ、同年10月には公明党を加えた自民党・自由党・公明党の三党連立政権を発足させた。これは単に小渕の人柄が評価されたから実現したものではなく、参議院の議席構成、政策上の妥協、各党の政治的な利益が重なった結果だった。
興味深いのは、1992年の竹下派分裂で小渕と対立する側にいた小沢一郎が、後に小渕政権の連立相手となったことである。政治の世界では、一度対立した相手と将来も協力できないとは限らない。異なる時期に異なる政策課題や議席上の条件が生じれば、かつての対立相手との協力にも合理性が生まれる。小渕の政治を考える際には、こうした関係の変化を理解する必要がある。
もっとも、「1998年には小渕のような政治家でなければならなかった」とまで言うことはできない。仮に梶山や小泉が総理となっていた場合、どのような政策や連立が実現したかを確定することは不可能である。歴史上の出来事は、比較政治史や反実仮想によって別の可能性を分析することはできても、同じ条件で再実験することはできない。ただ、参議院で単独過半数を持たず、金融危機への対応を迫られていた当時の状況は、小渕が長年培ってきたとされる調整型の政治手法が機能しやすい条件を備えていたと考えることはできるだろう。
調整型政治には、当然ながら代償もある
ここまで書くと、小渕が実は優れた名宰相だったという話に聞こえるかもしれない。しかし、それもまた単純化である。政権を獲得する能力、与野党の合意を形成する能力、そして国民生活にとって望ましい政策成果を実現する能力は、同じものではないからである。
小渕政権は景気悪化と金融危機に対応するため、大規模な公共事業や減税を含む積極的な財政政策を進めた。金融システムの安定化と景気の下支えが重要な課題だったことは確かだが、財政支出の拡大と減税には国債発行の増加という負担も伴った。国の一般会計における公債発行額は、1997年度の約18.5兆円から1998年度には約34.0兆円、1999年度には約37.5兆円に増加している。1997年度と1999年度を比較すると約2倍の水準であり、公債残高も同じ期間に約258兆円から約332兆円へ増えた。
ただし、こうした財政悪化のすべてを小渕政権固有の政策判断に帰属させることは正確ではない。1998年度の途中までは橋本政権であり、景気後退による税収減少や、それ以前から継続していた財政政策も影響している。また、国債発行額が増加したという事実だけで、当時の財政出動が不必要だったと結論することもできない。深刻な不況のなかで政府支出を増やすことには、経済活動の急激な落ち込みを抑えるという目的があったからである。
実際、1998年度に大きく落ち込んだ日本経済は、その後、緩やかな回復局面へ移っていった。もっとも、その変化には財政政策だけでなく、金融危機への対応、海外経済の回復に伴う輸出の増加、民間企業の活動など、複数の要因が関係していた。景気が回復したという事実だけから、小渕政権の財政政策の効果を単独で測定することはできない。さらに、経済成長率の改善が直ちに雇用情勢の改善につながったわけでもなく、1998年の完全失業率4.1%は1999年には4.7%へ上昇していた。
したがって、小渕政権の経済政策は、金融危機への対応、景気の下支え、雇用への影響、財政負担という複数の観点から評価する必要がある。財政赤字が増えたから失敗だったという評価も、景気が持ち直したから成功だったという評価も、それだけでは十分ではない。政策がなかった場合と比較してどの程度の効果があったのか、短期的な経済安定と長期的な財政負担をどう評価するのかという問題が残るからである。
調整型政治には、経済政策とは別の弱点もある。多くの勢力との妥協を重ねれば政策の輪郭は薄くなり、何を実現する政権なのかが分かりにくくなる場合がある。対立を避ける政治は合意を生みやすい一方、問題の根本的な解決を先送りする危険もある。特に、利害関係の強い集団が多数存在する場合には、それらの要求を調整すること自体が政策の目的になり、本来必要な制度改革が遅れる可能性も否定できない。
だから小渕政治を評価するときには、「強い指導力が見えにくかった」という批判も、「合意形成に適した政治家だった」という評価も、どちらか一方だけを採用する必要はない。両方が同時に成り立つ可能性がある。ただし、そのどちらが実際にどの程度の政策成果につながったかを判断するには、具体的な政策ごとの検証が必要となる。
「凡人」と呼ばれた政治家の能力は何だったのか
小渕恵三の政治人生を振り返ると、私たちが一般に思い浮かべる政治家の能力と、実際に組織のなかで権力を形成する能力との違いが見えてくる。
私たちは政治家を評価するとき、演説の鋭さ、政策の大胆さ、知名度、カリスマ性、討論の強さといった目につきやすい能力に注目する。しかし、大きな政党の内部では、それだけで指導者が決まるわけではない。選挙区で議席を守れるか、党内で信頼を得られるか、他派閥との交渉ができるか、対立する集団の間で妥協点を見つけられるか、長い時間をかけて自分を支える組織を形成できるかという能力も、政治的な地位を左右する。
小渕が持っていた重要な資産は、長年の選挙経験、党内要職の経験、派閥の組織基盤、他の政治家との関係、交渉の経験などが重なったものだったと考えられる。これらは一つの数字で測定できるものではないが、総裁選の得票や党内での地位という形で、その一部が観察できる。小渕の政治人生で蓄積されたものを一言で表すなら、「見えない政治資本」と呼ぶことができるだろう。
ただし、この政治資本を小渕個人の能力だけで説明することも適切ではない。父から受け継いだ選挙地盤があり、田中角栄や竹下登の流れをくむ派閥の組織があり、党内実力者の支持もあった。小渕自身の努力や政治手法が意味を持ったとしても、それらが機能したのは、当時の自民党が持っていた組織構造や制度のなかだった。小渕の成功は、個人の能力と、本人が利用できた政治的資源との相互作用によって生まれたものと考える方が合理的である。
ここでも注意すべきなのは、首相になったという結果から、逆向きに能力を証明してしまうことである。総理大臣になった人物だから優れていたと考えるのも、総理大臣になれなかった人物だから能力が劣っていたと考えるのも、論理としては成り立たない。政治家の出世には本人の能力だけでなく、選挙制度、政党内の競争、経済情勢、政治的な機会、偶然の出来事などが影響する。小渕が225票を獲得したという事実は確認できても、そのうち何票が本人の人柄や調整能力によるものだったのかを正確に算出することはできない。
したがって、「凡人に見えたことが最大の政治的武器だった」という見方は、興味深い解釈ではあっても、直接証明された事実ではない。それでも、小渕の経歴と1998年の総裁選の構造を見れば、派手な政治的個性を持たないことが、必ずしも権力形成に不利とは限らないことは理解できる。政治組織のなかでは、他人より目立つ能力と、他人から支持を得る能力が必ずしも一致しないからである。
総理になった理由は「凡人だったから」ではない
では、小渕恵三はなぜ総理大臣まで上り詰めたのか。その答えを一つの性格に求めることはできない。父から受け継いだ選挙地盤があり、26歳という若さで国会へ入り、35年間にわたって議席を守り続け、田中・竹下系の巨大派閥のなかで地位を高め、竹下登ら党内実力者の支持を背景に派閥会長となり、最終的には自民党最大級の派閥を率いた。その組織力を基盤に他派閥からも支持を集め、そこへ人間関係を重視する調整型の政治手法が重なり、さらに橋本退陣という政治的機会が訪れた。
そして、1998年の自民党総裁選が国会議員を中心とした選挙制度で行われたことも、小渕の持つ組織的資源を生かす条件となった。小渕は411票中225票を獲得して自民党総裁となり、衆議院の多数派による首相指名と憲法上の制度を通じて、内閣総理大臣に就任したのである。そこには個人の政治的能力だけでなく、選挙制度、政党組織、議会の議席構成という制度的な条件も関係していた。
世襲、選挙、派閥、組織、人脈、経験、性格、制度、そして時代。小渕恵三を総理にしたのは、そのどれか一つではなく、それらが長い時間をかけて重なった結果だった。
だから小渕の人生を、「普通の人でも努力すれば総理になれる」という美談として読むのは適切ではない。むしろこの人物が示しているのは、政治における能力という言葉の意味が、私たちがテレビ越しに見る能力とはかなり違うということである。
梶山には「軍人」という輪郭があり、小泉には「変人」という輪郭があった。それに比べて小渕には、一言で説明できるほど鮮烈な政治的個性が見えにくかった。だから「凡人」と呼ばれた。しかし、巨大な組織のなかでは、輪郭が鋭くないことが、かえって異なる立場の人々を自分の周囲に残す条件となる場合もある。自分の主張を強く打ち出す能力と、多くの人間の協力を引き出す能力は、必ずしも同じではない。
そして、もう一つ考えておくべきことがある。小渕は凡人だったから調整型政治家になったのではなく、何十年にもわたって組織のなかで経験を積み、調整型の政治手法を身につけた結果、凡人に見えるようになったのではないかということである。もしそうなら、「凡人」という評価は小渕恵三という政治家の弱点を言い当てた言葉であると同時に、彼が長年培ってきた政治的な技術を見落とした言葉でもあったことになる。
1998年、自民党が総裁に選んだのは、最も強烈な政治的個性を持つ人物ではなかった。しかし、目立たなかった人物が偶然最後に残ったわけでもない。長い歳月をかけて巨大な組織の中心へ近づき、選挙地盤と派閥の支持基盤を維持し、他の政治勢力との関係を築き、その時が来たときには党内の過半数を形成できる位置にいた人物が、最後に225票を集めたのである。
「凡人が総理になった」という言葉だけでは、この歴史の本質を十分に説明できない。
小渕恵三は、首相になるための政治的資源を長年にわたって蓄積し、組織と制度の条件が重なったとき、その資源を権力へ結びつけることができた政治家だった。
そして、その複雑な政治過程を歩んできた人物が、最後まで「凡人」に見えていたのである。

