地域政経

九条レオンの地域から社会と政治・経済のこれからを考える

 政治家の失敗には、少なくとも二つの種類がある。判断そのものを誤った失敗と、問題の所在はかなり正確に見抜いていたのに、それを現実に変える方法を誤った失敗である。前者は比較的分かりやすく、結果が出れば、どこで情勢を読み違えたのかを検証できる。しかし後者は厄介である。時間がたつほど「あの人の言っていたことにも一理あった」という再評価が生まれる一方で、それならなぜ、その人物は政治的な勝者になれなかったのかという疑問が残るからだ。

 加藤紘一という政治家を振り返るとき、この疑問から逃れることは難しい。とりわけ2000年11月に起きた、いわゆる「加藤の乱」は、一人の政治家の失敗談としてだけ読むには惜しい事件である。そこには、世論と議員行動のずれ、正論と組織の力の違い、選挙制度と党公認権、集団行動が崩れる仕組み、そして政治において「正しいこと」と「正しいことを実現すること」がなぜ別の能力なのかという問題が、ほとんど標本のように詰まっている。

 2000年11月20日、野党が森喜朗内閣に対する不信任決議案を提出すると、自民党の有力政治家だった加藤紘一は、山崎拓とともにこれに同調する姿勢を示した。ところが、決定的な局面に近づくにつれて党執行部による猛烈な切り崩しが進み、加藤を支持するとみられていた議員たちは次々に造反から離れていった。加藤は最後には自ら国会へ向かおうとしたものの、側近たちに止められ、本会議を欠席する。不信任案の採決そのものは日付をまたいだ11月21日未明に行われ、賛成190票、反対237票で否決された。

 その直前、加藤を制止した谷垣禎一が「あんたは大将なんだから」と語った場面は、平成政治を象徴する映像として長く記憶されることになった。敗北したのは不信任案だけではなかった。加藤自身が党内で築いてきた政治的影響力も、この一件によって大きく傷ついたのである。

 この光景だけを切り取れば、政局を読み違えた政治家が無謀な倒閣運動を起こし、最後には自ら投票することさえできずに敗れた話に見える。しかし四半世紀ほどの距離を置いて眺めると、それほど単純でもない。加藤が見ていた森政権の脆弱さそのものは、少なくとも現実から大きく外れた認識ではなかったからである。

森政権を危ういと見た判断は間違っていたのか

 森喜朗内閣は、小渕恵三首相の急病という異例の状況のなかで発足した。その政権継承をめぐっては、党幹部らによる協議のあり方が「五人組」「密室政治」と厳しく批判された。森自身は、次の首相を密室で決めたわけではないと国会でも反論しており、したがって歴史的事実として「密室で森首相が決められた」と断定するのは適切ではない。それでも、そのような批判が強く存在し、政権発足時から正統性に疑問を持つ世論があったことは確かである。

 その後も失言や政権運営をめぐる問題が重なり、森内閣の支持率は低下した。加藤が動いた2000年秋には、森政権をこのまま続けてよいのかという疑問は、加藤一人の思いつきではなく、自民党内部にも社会にも存在していた。

 重要なのは、この後の歴史を見て「だから加藤は正しかった」と単純に結論づけないことである。森政権は加藤の乱から約5か月後の2001年4月に終わるが、そこに至るまでには森内閣の低支持率だけでなく、複数の政治問題や党内事情が重なっている。後から政権が崩れたという結果だけを見て、加藤が将来を完全に予見していたと考えるのは、典型的な後知恵になりかねない。

 それでも、加藤が感じ取っていた政権基盤の弱さそのものを、単なる妄想と片づけることもできない。森政権は実際に短期間で求心力を失い、翌春には新しい総裁を選ばざるを得なくなった。したがって加藤の問題認識については、「正解だった」と言うよりも、「少なくとも重大な問題の存在を捉えていた」と評価する方が正確だろう。

 ところが、政治では問題を正確に発見することと、その問題を解決できることは同じではない。

世論が動いても、国会議員が動くとは限らない

 加藤の乱が起きた2000年は、日本の政治にインターネットが影響を与え始めていた時期でもあった。加藤のホームページには大量のアクセスが集まり、激励の電子メールが多数送られた。加藤自身も、そこに社会からの期待を感じ取っていた。

 しかし、ここに大きな落とし穴があった。インターネット上で強く観察される支持と、国民全体の支持は同じではなく、さらに国民の支持と国会議員の投票行動も同じではないからである。

 有権者がテレビを見ながら「森政権を代えた方がいい」「加藤にやらせてみてもいい」と考えることには、大きな個人的代償はない。しかし、自民党所属の国会議員が野党提出の内閣不信任案に賛成するとなれば事情はまったく違う。そこでは自分の信念だけではなく、次回の選挙で党公認を受けられるのか、後援会や地方組織はどう動くのか、党内の役職や政治的将来を失わないか、自分だけが敗者側に取り残されないかという問題まで、一度に判断しなければならない。

 しかも1990年代の選挙制度改革によって衆議院に小選挙区制が導入されると、自民党公認の意味は以前より重くなった。中選挙区制では同じ自民党から複数候補が競うことも普通だったが、小選挙区では原則として一つの政党から一人の公認候補が出る。そのため、党執行部が持つ公認権は議員の政治生命により直接的な影響を与えるようになった。

 野中広務ら党執行部が強かったのは、森喜朗の政治的主張の方が加藤紘一より論理的に優れていることを証明したからではない。造反しようとしている議員一人一人が何を恐れ、何を失いたくないのかを理解し、その条件に働きかけることができたからである。

 ここに、正論と権力が一致しない最初の理由がある。正論は人間の考えを変えようとするが、権力は人間が行動を選ぶ条件そのものを変える。

「森首相を辞めさせたい」と「加藤についていく」は同じではなかった

 政治では、多くの人間が同じ不満を持っていても、それだけで集団行動が成立するとは限らない。

 当時の自民党議員の中に森政権への不満を持つ者がいたとしても、「森首相は交代した方がよい」と考えることと、「野党の内閣不信任案に賛成し、自分の政治生命まで賭けて加藤と行動を共にする」ことの間には大きな距離がある。

 しかも一人一人の判断は、他の議員がどう行動するかによって変わる。例えば五十人が確実に造反すると分かっていれば、自分も加わろうと考える議員がいるかもしれない。しかし、途中で三十五人しか集まらないと分かった瞬間、その議員にとって造反の期待値は変わる。そこで一人が離れれば三十四人になり、その情報を見た別の議員も離れる。このように、ある人数を下回った瞬間から集団行動が連鎖的に崩れていく現象は、政治だけでなく、企業組織や社会運動にも起こり得る。

 加藤の乱は、この協調問題が政治の現場で可視化された事件だったとも考えられる。

 加藤の大きな誤算の一つは、森政権に対する不満の大きさそのものよりも、その不満が自分への政治的支持として結晶化すると期待したことだったのではないか。森政権への不満が六十あっても、加藤への支持が六十あるとは限らない。加藤への好感が六十あったとしても、加藤のために党執行部と戦う覚悟を持つ者が六十いるとは限らないのである。

 政治における本当の支持とは、拍手の数ではない。最後の一票を投じるところまで同じ方向に歩いてくれる人数である。

なぜ「最後に投票しなかったこと」が重かったのか

 加藤の乱では、最後に加藤自身が不信任案へ賛成票を投じなかったことが、しばしば決定的な場面として語られる。

 もっとも、これを単純に「臆病だった」と説明するのは公平ではない。加藤一人が本会議へ向かえば、それまで行動を共にしてきた議員たちにも厳しい処分や政治的損失をもたらす可能性があった。派閥の長として仲間を守ろうとした判断だったと考える余地はあるし、もはや勝算のなくなった戦いを続けることに意味はないと判断した可能性もある。

 しかし権力という観点から見れば、撤退には別の代償が生じる。

 政治における発言の力は、その内容だけで決まるわけではない。「この人物は、最後には本当に実行する」と周囲が予測することによって、初めて交渉力になる。反対者が「強いことを言っていても、最後には撤退するだろう」と考えるようになれば、その人物が次に行う政治的な威嚇や交渉の効果は低下する。

 もちろん、もし加藤が一人でも本会議に出席して不信任案へ賛成していたなら、その後の評価が上がったと断定することはできない。逆に「勝算もないのに党を混乱させた政治家」として、さらに厳しく批判された可能性もある。しかし少なくとも、言葉どおり最後まで投票した政治家として、現在とは異なる記憶が残った可能性はある。

 加藤の乱が単なる敗北ではなく、「挫折」という印象を伴って記憶された理由もそこにある。負けたことだけでなく、勝負を宣言した人物が最後の決定的な場面で勝負そのものから降りたように見えたのである。

小泉純一郎は、なぜ加藤と同じ道を選ばなかったのか

 加藤紘一の敗北を考えるうえで、もっとも興味深い比較対象は小泉純一郎である。

 ここで一つ、重要な事実を確認しておかなければならない。後に「自民党をぶっ壊す」と訴え、旧来の自民党政治に挑戦する象徴となった小泉は、加藤の乱では加藤側に立っていない。それどころか森派の有力政治家として、野中広務らとともに加藤・山崎両派の造反を阻止する側に回っていた。

 この事実は、小泉を単純な改革者、加藤をその先駆者として並べる見方を難しくする。しかし同時に、二人の違いをより鮮明にもする。

 加藤は、自民党執行部に正面から反旗を翻し、野党提出の内閣不信任案という制度を利用して、一気に森政権を倒そうとした。成功すれば劇的だったが、失敗した場合の政治的損失も極めて大きかった。

 一方の小泉は、その時点では党を割る側には回らず、加藤の反乱を止める側に立った。それにもかかわらず、わずか約5か月後の2001年4月には、自民党総裁選という党内の正規手続きに立候補し、橋本龍太郎らを破って総裁になる。そこで小泉は、従来の自民党政治への国民的不満を自らの政治資源へ変え、「自民党を変える」という物語の中心人物になった。

 加藤と小泉の違いは、単純に改革派と保守派の違いではない。同じ党内に存在する不満や社会の閉塞感を、どの制度的な回路を通して権力に変換するかという違いだった。

 加藤は堤防を壊して川の流れを変えようとした。小泉は堤防を壊す戦いには加わらず、その後に開いた水門を使って自分が流れの中心に入った。

 この比喩で見るならば、加藤が完全に時代を読み違えていたとは言いにくい。むしろ、時代の変化を感じ取りながら、それを自分の権力へ変換する装置を最後まで作れなかった政治家だったと考えた方が、二人の違いを説明しやすい。

加藤紘一は、本当に「正しい政治家」だったのか

 しかし、ここまで読んで加藤を「正しかったのに権力政治に敗れた人物」と美化してしまえば、今度は別の誤りに陥る。

 政治家の主張は数学の答案ではない。二十年後に答え合わせをして、丸かバツかを付けられるものばかりではないからである。森政権をいつ倒すべきだったのか、景気対策と財政再建をどう両立するべきだったのか、中国とどの程度協調するべきだったのか、安全保障政策をどこまで拡張するべきだったのかには、それぞれ複数の合理的立場が存在する。

 加藤はその後、自民党内では比較的穏健な保守政治家として、日中関係を重視し、小泉首相の靖国神社参拝を批判した。イラク戦争にも反対・慎重な立場をとり、自衛隊派遣にも慎重だった。イラク戦争については、開戦前に想定されていた大量破壊兵器の大規模な備蓄が戦後の調査で確認されなかったため、開戦に慎重だった政治家たちの議論を後から再検討する材料は増えた。

 しかし、それによって加藤が常に正しく、反対した政治家が常に間違っていたことにはならない。

 むしろ加藤紘一という政治家を考えるうえで興味深いのは、後から振り返ったときに無視できない論点をたびたび提示しながら、それを持続的な政治的多数派へ変えることができなかったという事実である。

 正しさと権力の距離を考えるなら、その方が重要だ。

正論は、それだけでは政治にならない

 私たちは政治を語るとき、ときに「正しいことを言えば人は動く」という考えに引き寄せられる。その反動として政治の現実を知ると、「結局は数だ」「結局は権力だ」と冷笑したくもなる。

 しかし、どちらも政治の半分しか見ていない。

 正しさだけがあって権力がなければ、政策は実行されない。一方、権力だけがあって正しさを問わなくなれば、その権力を何のために使うのか分からなくなる。民主政治が難しいのは、この二つを同時に必要とするからである。

 正しいと考える政策を現実に変えるには賛同者が必要であり、その賛同者が決定的な瞬間まで離れない仕組みが必要になる。反対者が何を恐れ、何を守ろうとしているのかを理解し、ときには妥協し、ときには待ち、ときには退路を断つ必要もある。それは思想だけではできず、組織だけでもできない。政治とは、利害も恐怖も野心も異なる人間を、ある時点で同じ方向へ動かす仕事だからである。

 加藤紘一には言葉があった。政策を考える能力があり、外務官僚出身の国際感覚を持ち、自民党幹事長まで務めた経験もあった。それでも総理大臣にはなれなかった。

 その理由を「いい人だったから」「正論を言ったから」と説明してしまえば、政治という営みのもっとも重要な部分を取り逃がすことになる。問題を発見する能力と、その問題を解決できる多数派を作る能力は別だからである。

「正しかったのに負けた」という物語の危うさ

 敗れた政治家を後世から眺めると、私たちはしばしばそこに物語を付け加える。勝者は権力に汚れ、敗者は信念を守ったという物語である。

 しかし、加藤紘一の政治人生はそれほどきれいには整理できない。

 加藤自身も権力を望んでいた。自民党総裁となり、総理大臣になることを目指していた政治家である。森政権を倒した後に、自らが政治の中心に立つことも当然、視野に入れていた。つまり加藤は、権力から距離を置いた孤高の思想家ではなく、権力を獲得しようとして失敗した政治家だった。

 だからこそ、この人物は興味深い。

 加藤の乱から見えてくるのは、善と悪の対決でも、正論と悪辣な権力者の対立でもない。政治における「問題認識の正しさ」と「実行能力」のずれである。森政権が弱体化しているという認識に相当な根拠があったとしても、不信任案を利用して倒閣するという方法まで適切だったとは限らない。国民の不満を感じ取ることができても、それが自分への支持に変わるとは限らず、自分への支持があったとしても、それが造反票になるとは限らない。

 さらに、時代の方向をある程度見抜いていたとしても、いつ動くのか、どの制度を利用するのか、誰と組むのか、誰を敵に回すのか、どの時点で退路を断つのかという判断を誤れば、政治的には敗北する。

 したがって、「加藤紘一は正しかったのに負けたのか」という問いに対する答えは、単純な「はい」でも「いいえ」でもない。

 少なくとも加藤の乱についていえば、加藤は森政権の弱さという問題の存在をかなり正確に捉えていた。しかし、その問題認識を実際の権力へ変換する設計には失敗した。正しかったから負けたのではない。自分が正しいと考えた方向へ政治を動かすために必要な人数、制度、タイミング、組織、覚悟を、一つの力として束ねることができなかったから負けたのである。

 そして、その事実を最も鮮烈に示しているのが小泉純一郎なのかもしれない。加藤の乱では反乱を阻止する側にいた小泉が、そのわずか数か月後には党内の正規の総裁選を利用して権力を獲得し、今度は自らが自民党改革の象徴となった。この逆転には、政治というものの奇妙さが凝縮されている。

 政治とは、正しい人を選び出す試験ではない。自分が正しいと考える方向へ、異なる利益、恐怖、計算を持つ人間たちを動かし、制度を通して現実を変えていく技術である。

 加藤紘一の敗北が今なお考える材料になるとすれば、それは一人の政治家の悲劇だからではない。私たち自身もまた、「正しいこと」と「正しいことを実現できること」を、つい同じものだと思ってしまうからである。

 正論は、それだけでは権力を生まない。しかし、権力が正論をまったく必要としなくなった社会も危うい。その二つの間に橋を架けることこそ政治家の仕事なのだとすれば、加藤紘一は橋の向こう岸を比較的早く見つけながら、そこへ至る橋そのものを最後まで完成させることができなかった政治家だったのかもしれない。

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「正しい政治」ができる日本を夢見て

 後藤田正晴という政治家を振り返るとき、しばしば「権力に慎重だった保守政治家」という言葉が使われる。しかし、その説明だけでは、彼の本質には届かない。後藤田は権力から遠い場所にいて、それを理念的に批判した人ではなかった。旧内務省に入り、戦後は警察行政の中枢を歩み、警察庁長官となり、さらに内閣官房副長官、自治大臣、国家公安委員長、内閣官房長官、副総理、法務大臣まで務めた。国家が情報を集め、人を動かし、命令を下し、ときには強制力を行使する、その仕組みの中心を長く歩いてきた人物である。

 だからこそ、彼が晩年になるほど権力の扱いに慎重になったことには重みがある。権力を知らなかったから恐れたのではない。権力が実際にはどのように動き、どのように人を変え、どのように組織を自己正当化させるのかを知ったからこそ、その危険を警戒するようになったのではないか。後藤田正晴という人物のおもしろさは、まさにその逆説の中にある。

権力は「正しさ」の中から膨張する

 国家権力は、悪意だけによって暴走するわけではない。むしろ現実には、「正しいことをしよう」という意志の中から膨張していく場合の方が多い。治安を守るため、国民を守るため、国家の安全を確保するため、災害に迅速に対応するため、行政を効率化するため。どれも必要な目的であり、それ自体を否定することはできない。国家が何もできなければ社会は成り立たないし、警察も防衛も外交も危機管理も必要である。後藤田は、その必要性を誰よりも現場に近い場所で知っていた。

 それでも彼は、国家が強くなればなるほど、その力をどう制御するかを考え続けた。彼が求めたのは、弱い国家ではなかった。必要なときには動ける国家でありながら、その強さが自分自身を正当化し、際限なく広がっていかない国家だった。民主主義の難しさはここにある。権力を弱めることだけなら、それほど難しくない。しかし、国民を守るために十分な権限を持たせながら、その権限を法と手続きと政治的責任の中に閉じ込めることは、はるかに難しい。

戦争が教えた「国家も間違える」という現実

 その感覚を考えるうえで、後藤田の戦争体験は外せない。1914年に徳島県で生まれ、東京帝国大学を卒業して1939年に内務省へ入った後藤田は、翌年には徴兵され、台湾歩兵第二連隊に入営した。その後、陸軍経理学校を経て台湾軍司令部に勤務し、終戦を迎えている。官僚として国家を支えるはずだった青年は、国家そのものが戦争へ総動員されていく過程を、自分の人生として経験した。

 戦争中の日本は、自らを破滅させようとしていたわけではない。むしろ、多くの政策は「国を守るため」「国益を守るため」という名のもとに進められた。一つ一つの判断には、その時点なりの理由があり、合理性があり、責任感があった。それでも、その判断が積み重なった先に破局があった。ここに、権力を考えるうえで見落としてはならない現実がある。国家は悪意がなくても間違える。使命感でも間違えるし、愛国心でも間違える。そして、自分たちは正しいという確信を強く持つほど、途中で軌道修正することが難しくなる。

 後藤田の戦後の言動を戦争体験だけで説明することはできない。しかし、彼が軍事に対する政治統制を繰り返し重視し、軍事組織の論理が政治判断を越えてはならないと考えていた背景には、この経験が一つの重要な土台として存在していたと見るのが自然である。

軍事を統制するのは政治である

 後藤田が重視したシビリアン・コントロール(Civilian Control・軍事を文民による政治的統制の下に置く原則)も、その文脈で見ると理解しやすい。これは単に背広を着た官僚が制服組より偉い、という意味ではない。彼が繰り返し強調したのは、軍事は政治に従属しなければならないという原則だった。つまり、軍事組織が自らの論理だけで国家の進路を決めることを許してはならないということである。

 ここで重要なのは、後藤田が軍人を特別に危険視していたわけではないという点だろう。彼が警戒したのは、組織というものが、自分に与えられた使命を中心に世界を見るようになることだった。警察は社会問題を治安問題として見る。軍事組織は外交問題を安全保障の問題として見る。財政当局は政策を財源の問題として見る。どの見方も必要であり、どの見方も一定の正しさを持つ。しかし、その一つだけが国家全体の判断になったとき、政治は危うくなる。政治の役割とは、それぞれの専門的な正しさを比較し、全体の中で統合し、どれか一つの論理が国家そのものを乗っ取らないようにすることにある。

「悪い本当の事実を報告せよ」という権力論

 その意味で、後藤田の有名な「五訓」は、単なる役人の心得ではなく、一つの権力論として読むことができる。なかでも「悪い本当の事実を報告せよ」という言葉は象徴的である。

 組織の上に行けば行くほど、権限は大きくなる。だが同時に、現場の事実からは遠ざかっていく。課長より部長、部長より局長、大臣、そして総理大臣へと権限が集中していく一方で、トップ自身が直接見られる現実はむしろ少なくなっていく。だから、権力者は情報を部下から受け取るしかない。

 そこで、権力特有の歪みが生まれる。部下は上司の表情を読み、上司が何を望んでいるのかを察する。政策がうまくいっているなら、それを補強する資料が集められ、失敗が起きれば、その失敗をどう説明するかが考えられる。最初から誰かが嘘をつこうとしているわけではない。数字の悪い部分より良い部分を先に説明し、危険な兆候には慎重な表現を添え、政策に不都合な事実には別の解釈を与える。その小さな加工が積み重なるうちに、権力者だけが現実から遠ざかっていく。

 だから後藤田は、単に「本当の事実を報告せよ」とは言わなかった。「悪い本当の事実を報告せよ」と言ったのである。権力者が最も必要としている情報とは、自分を安心させる情報ではない。自分の政策が間違っているかもしれないと教えてくれる情報だからである。

 「勇気を以て意見具申せよ」という言葉も、同じ思想につながる。日本の組織では、ときに上司に逆らわないことが忠誠とみなされる。しかし、後藤田の考え方は逆だった。決定されるまでは意見を言い、決定された後は組織として実行する。強い組織とは、反対意見が存在しない組織ではない。反対意見を言っても排除されず、そのうえで最終的な決定には従える組織である。

 逆に、指導者の意向を察する能力ばかりが評価される組織は、一見するとよく統率されているように見えるが、実際には脆い。指導者が正しい間は強いが、指導者が間違った瞬間に、全員で同じ方向へ間違ってしまうからである。後藤田が警戒していたものを一つの言葉で表すなら、権力者の周囲から異論が消えていくことだった、と読むこともできる。

反権力ではなく、権力を統制する思想

 もっとも、後藤田を「反権力の人」として美化するのは正しくない。彼は警察庁長官として、よど号ハイジャック事件、あさま山荘事件、成田空港をめぐる激しい対立など、国家が実力行使を迫られる局面を経験している。警察力そのものを否定していたわけではないし、自衛隊の存在を否定していたわけでもなく、日米安全保障体制そのものを拒絶していたわけでもない。

 だからこそ、彼の権力への警戒は重い。権力が必要であることを知ったうえで、その権力をどう縛るかを考えたからである。後藤田の思想を「反権力」と呼ぶより、「権力統制の思想」と呼んだ方が近いのだろう。

中曽根政権を支えながら、中曽根を止める

 その姿勢がもっとも鮮明に表れたのが、中曽根康弘政権である。中曽根は「戦後政治の総決算」を掲げ、日本の国家としての輪郭をより明確にしようとした政治家だった。構想を描き、決断し、前へ進もうとする政治家であり、政治的にはアクセルを踏むタイプだった。

 その中曽根の官房長官を長く務めた後藤田は、単なる抵抗勢力ではなかった。政権を支え、官邸機能を強化し、危機管理体制を整えながら、それでも越えてはならないと考えた線では止めた。象徴的なのが、1987年のペルシャ湾への海上自衛隊掃海艇派遣構想である。

 掃海という行為だけを見れば、防御的で人道的な作業にも見える。しかし、交戦海域に自衛隊の艦艇を送れば、日本側がどう説明しようとも、相手国からは戦争への参加と見なされる可能性がある。国家が何を意図したかだけでなく、相手からどう見えるかまで考えなければならない。後藤田はそこに強い懸念を示し、結果として派遣は実現しなかった。

 この出来事は、政治における「側近」の意味を考えさせる。総理大臣に何でも賛成する人間が有能な側近なのではない。総理が越えてはならない線に近づいたとき、「そこから先は危険です」と言える人間こそ、最も価値のある側近なのかもしれない。政権を倒すために反対するのではなく、政権を間違わせないために反対する。その役割を後藤田は担っていた。

安全保障の論理が国家すべてを覆うとき

 彼の慎重さは軍事行動に限らなかった。「国家安全保障会議」という名称についても、後藤田はかつて慎重な姿勢を示していた。国の安全という問題が、軍事や外交だけに狭く理解されることを警戒していたからである。国家の安全とは、軍事力だけで決まるものではない。経済が崩れ、災害への備えがなく、政治そのものへの信頼が失われれば、どれほど防衛力を持っていても国家は安定しない。

 安全保障が必要であることと、「安全保障」という言葉がすべての政策を正当化することは別の問題である。政治には、国家安全保障を考える能力と同時に、その言葉の強さに飲み込まれない慎重さも必要になる。

憲法とは政治家の善意を信じないためにある

 晩年の後藤田は憲法改正にも慎重な発言をしているが、彼を単純な護憲論者として理解するのも正確ではない。日本国憲法を一字一句変えてはならないと考えていたわけではなく、国民主権、民主主義、基本的人権、平和主義といった基本原理を重視しながら、もし現行憲法と整合しない政策を本当に行う必要があるなら、政治の都合で解釈を広げ続けるのではなく、国民に説明し、正式な改正手続きを踏むべきだという立場に近かった。

 ここにも、後藤田の権力観が現れている。憲法とは、善良な政治家を前提にする制度ではない。将来、どのような政治家が権力を握るか分からないからこそ存在する。現在の政権が「自分たちは正しく使う」と言って権限を拡大すれば、その権限は次の政権にも残る。制度は、その時々の政治家の善意ではなく、未来の政治家の危険性まで想定して作らなければならない。

権力は人を変えるより、世界の見え方を変える

 権力について語るとき、「権力を持つと人は悪くなる」という言い方がある。しかし現実は、それほど単純ではない。権力者が悪人になる必要はない。権力は、世界の見え方を変えるだけで十分に危険なのである。

 人が自分の話をよく聞くようになる。会議で反論されなくなる。自分の判断で予算が動き、人事が動き、行政が動く。その状態が続けば、自分の判断が正しいから人が従っているのか、権力を持っているから従っているのか、その区別は次第につきにくくなる。

 だから民主主義に必要なのは、立派な政治家を探すことだけではない。立派でない政治家が権力を握っても、国家が壊れない仕組みを作ることである。

問うべきは「強い首相か」ではなく「誰が止められるか」

 現在の政治でも、私たちはしばしば「強いリーダー」を求める。決断が早く、反対を押し切り、官僚を動かし、党内をまとめる政治家は、確かに強く見える。しかし、強いリーダーと、権力が集中したリーダーは同じではない。反対意見を排除すれば意思決定は速くなり、官邸に権限を集中すれば行政は動かしやすくなる。しかし政治の目的は、速く決めることではなく、できる限り正しい判断に到達することである。

 そして人間は間違える。

 ここを忘れた瞬間、「強い政治」は「訂正できない政治」に変わる。

 後藤田の思想から現在への問いを一つだけ引き出すなら、「この首相は強いか」ではなく、「この首相が間違ったとき、誰が止められるのか」と問うべきなのだろう。

 権力を外から見ると、どうしても美しく見える。総理大臣が決断すれば国が動き、大臣が指示すれば役所が動く。だから、もっと強い政治家がいれば改革が進むのではないかと考えたくなる。しかし実際に権力を使う側に立てば、一つの命令がどれほど多くの人を動かし、一つの判断がどれほど多くの人生に影響するかが見えてくる。

 治安政策なら人を拘束することがある。外交政策なら国家間の関係を変える。安全保障政策なら人命にかかわる。だから民主主義における権力は、政治家が所有するものではない。国民から一時的に預けられているものにすぎない。

 この感覚を失ったとき、政治家は代表者から支配者へ近づいていく。

正しい政治家より、間違いを止められる政治を

 私たちは政治に失望すると、「もっと正しい政治家はいないのか」と考える。しかし、正しい政治家だけを探しても政治は良くならない。必要なのは、間違った政治家が現れても、間違いが国家全体を支配しない制度である。

 権力者に不都合な数字が消えないこと。官僚が政治家に耳の痛い事実を言えること。専門家が政権に反対しても排除されないこと。報道機関が権力を批判できること。野党が政府を問いただせること。司法が政治から独立していること。そして選挙によって権力を入れ替えることができること。

 これらは政治を邪魔する仕組みではない。

 政治を間違わせないための仕組みである。

 民主主義とは、政府を全面的に信頼する制度ではない。人間は間違えるという前提に立ちながら、それでも政府に必要な権力を預ける制度である。その慎重さこそが、民主主義の強さなのだろう。

「カミソリ後藤田」と権力を納める鞘

 後藤田正晴は「カミソリ後藤田」と呼ばれた。頭の回転が速く、行政実務に通じ、危機管理にも強かった。しかし、この「カミソリ」という呼び名は、彼の権力観そのものにも重ねることができる。

 切れない刃物は役に立たない。しかし、よく切れる刃物ほど危険である。だから鞘が必要になる。

 国家権力も同じである。弱すぎれば国民を守れない。しかし、強ければ強いほど、それを納める鞘が必要になる。警察、自衛隊、情報機関、行政権、そして政治権力。後藤田は、それらを鈍らせようとしたのではない。必要なときには切れるようにしながら、それでも勝手に振り回されない仕組みを求めた。

 その鞘が、法であり、制度であり、政治統制であり、異論であり、「悪い本当の事実」を報告できる組織文化だったのではないか。

「正しい政治」ができる日本を夢見て

 後藤田正晴の人生から見えてくるのは、少し寂しく、それでも希望のある政治観である。

 政治家は間違える。

 官僚も間違える。

 専門家も間違える。

 そして国民も間違える。

 だから民主主義は面倒である。議論し、反対し、説明し、国会で問いただし、選挙を行い、報道が批判し、司法が判断する。その過程は遅く、騒がしく、効率が悪いように見える。

 しかし、その面倒さこそが、国家を取り返しのつかない間違いから救う最後の余地なのだろう。

 正しい政治とは、決して間違えない政治ではない。

 間違ったときに事実を隠さず、批判する者を敵とみなさず、自分たちの誤りを認め、政策を修正できる政治である。

 もし後藤田正晴が現在の日本政治を見たなら、特定の政党を支持せよとも、特定の思想に従えとも言わないかもしれない。

 むしろ、もっと地味で厳しい問いを投げかけるのではないか。

 総理大臣のもとに、悪い本当の事実は届いているのか。大臣に反対意見を言える官僚は残っているのか。専門家は、政治家が聞きたい答えではなく、自分が正しいと思う答えを言えているのか。選挙で勝った多数派は、自分たちが多数派だから正しいのだと思い込んでいないか。そして、権力を持つ者自身が、その権力の大きさを少しでも怖いと思っているか。

 後藤田が権力を知るほど権力を警戒した理由を、歴史資料だけから完全に証明することはできない。人間の内面を断定することはできないからである。それでも、戦争を経験し、警察を率い、官邸を動かし、総理大臣の傍らで国家意思の形成を見続けた人物が、最後まで権力の抑制を語り続けたという事実には意味がある。

 権力を知った者が、権力を礼賛しなかった。

 国家は必要である。強い政府も、ときには必要である。しかし、必要であることと、無条件に信じてよいことは同じではない。むしろ社会にとって重要な権力ほど、注意深く監視されなければならない。

 国を愛することと、政府を無条件に信じることも同じではない。政府を批判することと、国を否定することも同じではない。正しい政治を願うからこそ、政治家に事実を求める。国家を大切に思うからこそ、国家権力に限界を設ける。民主主義を信じるからこそ、異論を認める。

 いつか日本が、誰か一人の「強い政治家」に期待しなくても政治が機能する国になればよい。

 政治家が間違いを認めても弱いと笑われず、反対意見を聞いても優柔不断と呼ばれず、官僚が大臣に耳の痛い報告をしても不利益を受けず、選挙で勝った側も自らの権力には期限があることを忘れない。

 そんな政治は、派手ではない。

 英雄も生まれにくい。

 けれど、それこそが成熟した国家なのかもしれない。

 後藤田正晴という政治家を振り返る意味は、過去の「名政治家」を懐かしむことではない。権力とは何かを、私たち自身がもう一度考えることにある。

 権力を持つ者が、自分の強さよりも、その強さの危険を知っている政治。異論を排除するのではなく、異論によって自分を修正できる政治。都合のよい説明ではなく、「悪い本当の事実」から判断を始める政治。

 そのような政治が当たり前にできる日本を、まだ夢見ることはできる。

 おそらく民主主義とは、その夢を諦めないために存在しているのである。

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