地域政経

九条レオンの地域から社会と政治・経済のこれからを考える

 政治家を見て、「この人は強い」と感じることがある。しかし、そのとき私たちは何を見ているのだろうか。選挙に勝つ力なのか、党内を掌握する力なのか、迷わず決断しているように見えることなのか、それとも反対意見に動じない態度なのか。「強い政治家」という言葉は便利だが、その内側には性質の異なるいくつもの評価が折り重なっている。

 高市早苗という政治家を考えると、この問題がよく見える。2026年2月の衆議院議員総選挙で自由民主党は316議席を獲得した。465議席の約68%であり、単独で3分の2を超える規模である。この結果だけを見ても、現在の高市には単なるイメージでは説明できない実際の政治的力量がある。しかし、それとは別に、高市は選挙以前から「強そうな政治家」として認識されやすい人物でもあった。

 ここで注意したいのは、選挙に強いことと、強く見えることを同じものにしないことである。選挙結果は観測できるが、「強く見える」という感覚は有権者の心理の中にある。高市がなぜ強く見えるのかを考えるなら、政策そのもの、話し方、政治家としての経歴、支持する人々の構成、さらには現在の社会状況を分けて考えなければならない。

 そして、もう一つ慎重でなければならない点がある。以下で考える「なぜ強く見えるのか」という説明のすべてが、高市本人を対象とした実験や統計分析によって証明されているわけではない。確認できる政治的事実と、政治心理学やコミュニケーション研究から導かれる仮説を組み合わせながら考える。その線を越えないことが、この人物を冷静に見るためには重要なのである。

政策が正しいことと、政策の輪郭が見えることは違う

 高市政治を見たとき、まず目につくのは政策の方向性が比較的見えやすいことである。積極的な財政政策、経済安全保障、防衛力の強化、国内投資、エネルギー安全保障、情報機能の強化といった政策が、個別に並んでいるだけではなく、「国力を強化する」という一つの物語の中に配置されている。

 2026年2月の施政方針演説でも、「日本列島を、強く豊かに」という表現のもと、外交力、防衛力、経済力、技術力、情報力、人材力を総合的に強める方向が示された。半導体、造船、エネルギー、医療、サイバーセキュリティーといった分野も、その延長上に置かれている。政策の一つ一つに賛成するかどうかとは別に、「この政権が何を優先しようとしているのか」は比較的理解しやすい。

 ただし、ここで「高市は他の政治家より政策が明確である」とまで断定することはできない。本当に比較するなら、歴代首相の施政方針演説や記者会見を同じ基準で分析し、「実現する」「進める」「守る」といった断定的な動詞と、「検討する」「考える」「状況を見ながら」といった留保表現の頻度を計測する必要があるからだ。

 それでも、政策の輪郭が有権者に認識されやすいことは、政治家を強く見せる条件の一つになり得る。人は必ずしも、最も慎重で複雑な説明をする人物を強いと感じるわけではない。複雑な問題について多数の条件を付けながら説明する政治家は、政策的には誠実であっても、見る側には迷っているように映ることがある。その一方で、まず進む方向を示し、その後から細部を説明する政治家には、決断力があるという印象が生まれやすい。

 ここで重要なのは、その印象と政策の正しさを混同しないことである。方向が明確だから、その方向が正しいとは限らない。積極的な財政政策にも、成長投資によって生産能力や産業競争力を高められる可能性がある一方で、財政赤字、国債金利、物価、為替への影響という問題がある。政策評価とは、本来こうした利益と費用の双方を時間をかけて検証する作業であり、話し方の明快さとは別の問題なのである。

「強く聞こえる」理由を、言葉だけで説明してよいのか

 高市の話し方について、「断定的だから強く見える」と説明したくなる。しかし、この説明にも慎重さが必要である。高市本人について、断定的な言葉がどれほど多いのか、他の政治家と比較して本当に有意な差があるのかを数量的に分析した研究がなければ、「高市は断定表現が多い」と事実として言い切ることはできない。

 それでも、人間が政治家の話し方から能力や指導者らしさを判断するという一般的な現象には、心理学や政治コミュニケーション研究から一定の根拠がある。話す内容だけではなく、声の高さ、話す速度、言葉の確信度、姿勢、表情などが、能力や支配性、信頼性の判断に影響することが知られている。つまり有権者は政策資料だけを読み、その結果として政治家を選んでいるのではなく、人物から発せられる多くの情報を一瞬のうちに統合して評価している。

 高市について言えるのは、「結論を先に置きやすい話法に見える」というところまでだろう。たとえば衆議院解散の意味を説明するとき、制度上の複雑な事情を前面に出すよりも、「高市早苗が内閣総理大臣でよいのか、国民に決めてもらう」という形で問いを単純化すれば、政治的な選択肢は分かりやすくなる。問題を単純化することには、複雑な事情を隠してしまう危険がある一方、政治家の立ち位置を明確にする効果もある。

 ここで「高市はこの効果をよく理解して意図的に使っている」と書いてしまえば、本人の内面を推測することになる。確認できるのは、あくまで結果としてそのような構造の発言が存在するというところまでである。政治家の演説や記者会見には本人だけでなく、秘書官、官僚、政党スタッフなど多くの人が関わる可能性があるため、「自分の言葉で話している」と見えることと、本当にすべて本人が作った言葉であることも区別しなければならない。

 しかし有権者にとっては、この「見える」という部分こそ重要である。政治家の頭の中を直接見ることはできない以上、人は話している姿から「自分で理解しているようだ」「迷いが少ないようだ」「この人なら決断しそうだ」という印象を作る。高市の強さを考えるなら、その印象形成こそ分析の対象になる。

選挙で勝ったから強く見えるのか、強く見えたから勝ったのか

 2026年2月の衆議院議員総選挙における自由民主党の316議席は、高市政権の政治的な強さを示す明確な数字である。しかし、この選挙結果から「高市が強く見えたから勝った」と結論することはできない。選挙結果は一つの原因だけで決まらず、野党の状況、候補者配置、経済環境、選挙制度、政党組織、争点設定など多くの要因が同時に働くからである。

 逆方向の因果関係も考えなければならない。つまり、「強そうだから選挙で勝った」のではなく、「大勝したことによって、さらに強い政治家として見られるようになった」という可能性である。実際には、この二つが循環している可能性もある。選挙前に高い人気や存在感があり、それが選挙結果に多少なりとも影響し、その大勝が今度は本人の強さの印象をさらに強める。政治では、こうしたフィードバックがしばしば起きる。

 したがって、高市の現在の「強さ」には二つの層がある。一つは以前から形成されていた人物イメージであり、もう一つは316議席という選挙結果によって後から加わった制度的な強さである。この二つを分けて考えると、高市が以前より一段大きな政治家に見える理由が理解しやすくなる。

若者支持は存在するが、それだけで支持者像を描いてはいけない

 高市支持について特に興味深いのは、「保守政治家は高齢男性に支持される」という従来型の固定観念だけでは説明しにくい点である。2026年の選挙前後には、若年層における高市支持の強さが複数の調査や報道で確認された。

 一例として長野県内で行われた選挙後調査では、18歳から30代の高市政権支持が7割を超え、年齢が上がるほど支持率が下がる傾向が示された。ただし、この数字には重要な注意点がある。この調査は選挙人名簿などから無作為に抽出した住民を対象にしたものではなく、あらかじめ登録されたモニターを対象としているため、その割合をそのまま長野県全体や日本全国へ一般化することはできない。

 ここは統計を見るうえで非常に重要である。仮に100人程度の完全な無作為標本で支持率が74%だったとしても、標本誤差によって真の割合にはかなりの幅が生じる。さらに登録モニター調査では、「調査に参加する人」と「参加しない人」の性質そのものが違う可能性があるため、単純な誤差計算だけでは捉えられない選択バイアスも存在する。

 それでも、若年層における支持の強さが一つの調査だけで観測された特殊現象とは言い切れず、全国的な調査や報道でも同様の傾向が指摘されてきたことを考えれば、「高市支持は高齢の保守層だけで構成されている」という理解も適切ではない。

 難しいのは、その理由である。若者が高市を支持しているからといって、若者全体が保守化したと結論することはできない。経済政策への期待かもしれず、既存政治への不満かもしれず、政治家としての分かりやすさや人物像への評価かもしれない。原因を特定するには、年齢だけでなく所得、職業、性別、居住地域、政治的立場、利用する情報媒体などを同時に分析する必要がある。

 したがって現在分かっているのは、「若い層でも高市支持が比較的強い可能性が高い」というところまでであり、「なぜ若者が支持しているか」はなお仮説の領域にある。

短い動画との相性という仮説

 高市の発言は短い動画や切り抜き映像と相性がよい、と評されることがある。確かに結論が明確で、一つの発言の中に主張が収まりやすければ、短時間の映像でも人物像が伝わりやすい。しかし、これも現時点では魅力的な仮説ではあっても、厳密に実証された事実ではない。

 この仮説を本当に確かめようとすれば、高市だけではなく他の政治家についても大量の動画を集め、再生回数、視聴完了率、共有率、コメント率などを比較し、さらに投稿時刻、フォロワー数、動画の長さ、扱ったテーマといった条件を統計的に調整する必要がある。単に高市の切り抜き動画が多く見られるという事実だけでは、話法が動画向きだから人気なのか、もともと人気だから動画が多く作られているのかを区別できない。

 これは政治分析で頻繁に起きる逆因果の問題である。見えている現象から、原因の向きを早急に決めないことが重要になる。それでも、政治情報がテレビや新聞の長い記事だけでなく、数十秒の動画を通して流通する時代において、「短時間でも立場が伝わる政治家」が一定の優位性を持つという仮説自体は十分に検討する価値がある。

支持されているのは人物なのか、政策なのか、それとも比較の結果なのか

 高市政権の支持理由を考えるうえで興味深いのが世論調査の変化である。2026年8月の全国調査では、内閣を支持する理由として「他の内閣よりよさそうだから」が32.4%で最も多く、「政策に期待が持てるから」が24.1%、「高市総理の人柄が信頼できるから」が19.7%だった。

 この数字だけを見ると、高市支持には人物や政策への積極的な支持だけでなく、「他と比較した結果としてよい」という相対評価がかなり含まれているように見える。しかし、ここにも注意が必要である。この質問は複数の理由を自由に選ぶ形式ではなく、いくつかの候補から一つを選ぶ形式である。実際の人間は「政策にも期待しているし、人物も信頼しており、他の政権よりよいとも思っている」という複数の理由を同時に持ち得るため、この数字をそのまま支持者の心理構造と考えることはできない。

 さらに面白いのは、同じ調査でも2026年2月には支持理由の順位が異なり、「政策に期待が持てるから」が31.1%、「人柄が信頼できるから」が24.2%、「他の内閣よりよさそうだから」が21.1%だったことである。半年ほどの間に、「政策への期待」から「他よりよい」という相対評価へ重心が移ったことになる。

 この変化は、高市支持を固定された一つの感情として考えてはいけないことを示している。政権発足直後には期待によって支持され、その後は実績や他の政治勢力との比較によって支持されるというように、同じ支持率の背後にある理由は時間とともに変化する。

 したがって、「高市支持者は高市という人物よりも『決める政治』を支持している」とまで断定することはできない。しかし、人物への無条件の支持だけではなく、他の選択肢との比較によって支持が成立している人が相当数いる可能性は高い。これは、高市人気を一種の個人崇拝として説明する見方にも、単純な思想的支持として説明する見方にも修正を迫る。

企業の評価と国民の評価は別のものである

 高市政権の経済政策については、2026年9月の企業調査で約3分の2が肯定的に評価した。しかし、この数字についても母集団を明確にしなければならない。

 企業経営者が経済政策を評価する基準と、一般家庭が政権を評価する基準は同じではない。企業にとっては設備投資、法人税、規制、金利、エネルギー価格、為替、輸出環境などが大きな問題になる一方、家計にとっては物価、賃金、社会保障、住宅費、教育費などの重みが大きい。

 さらに企業調査では、調査対象企業すべてが回答しているわけではないため、回答した企業と回答しなかった企業の間に違いが存在する可能性もある。したがって「企業の多数が高市政権の経済政策を評価している」という事実から、「国民全体が経済政策を評価している」と結論してはいけない。

 この違いは細かな統計上の注意に見えるが、政治記事の信頼性を大きく左右する。数字には必ず「誰を測った数字なのか」という母集団があり、その母集団を越えて一般化した瞬間に、数字は正確でも説明は誤り得るからである。

不安な時代は本当に「強い指導者」を求めるのか

 高市が強く見える背景として、日本社会の不安を挙げる説明には一定の説得力がある。人口減少、物価、実質賃金、社会保障、安全保障、産業競争力といった問題が同時進行する社会では、政治に対して「慎重に調整してほしい」という要求だけでなく、「早く方向を決めてほしい」という要求が生まれやすいと考えられる。

 政治心理学にも、不確実性や脅威の知覚が高まったとき、支配的あるいは決断力のある指導者への選好が強まる可能性を示した研究がある。ただし、この関係は単純ではない。別の研究では、不確実な状況でも、人々は単純に強権的な指導者だけを好むわけではなく、能力や尊敬によって支持される指導者を求める場合があることも示されている。

 したがって、「社会が不安だから高市が支持された」という一本の因果関係で説明することはできない。そもそも高市を支持する人と支持しない人では、同じ社会状況を見ても脅威の感じ方や望ましい政策が違う可能性がある。また政治的立場が先に存在し、それに合う政治家を「決断力がある」と評価している可能性も考えなければならない。

 因果関係を逆に考える必要もある。高市を支持しているから、その言葉を力強く感じるのかもしれない。支持していない人には、同じ発言が「決断力」ではなく「強引さ」に見える可能性がある。政治家の「強さ」は発信する本人だけで作られるものではなく、受け取る側の価値観との相互作用によって生まれるのである。

「強さ」という一語の中に、別々の評価が潜んでいる

 高市を論じるとき、「強い」という言葉を一つの尺度として使うことには危険がある。2026年の選挙結果が示す「選挙上の強さ」、国会で大きな議席を持つ「制度的な強さ」、迷わず判断しそうだと感じさせる「決断力の知覚」、政治課題を理解していそうに見える「能力の知覚」、対立を恐れないように見える「支配性の知覚」は、本来まったく別の性質だからである。

 科学的に調査するのであれば、高市を見た有権者に対し、「決断力がある」「能力が高い」「信頼できる」「支配的である」「政策を実行できそうだ」などを別々に評価してもらい、さらに支持政党、政治的立場、年齢、所得、情報源などを加えて統計的に分析する必要がある。そこで初めて、何が「強い」という印象を形成しているのかが少しずつ見えてくる。

 現在利用できる情報だけから言えるのは、高市にはこの複数の「強さ」が重なって見える条件がそろっているということである。政策の方向が比較的認識しやすく、言葉の結論が明確に見え、支持率が高く、選挙でも大勝し、議会でも強い基盤を持つ。これらが重なるほど、人間は個々の要素を分けず、「この政治家は強い」という一つの印象にまとめやすくなる。

強そうに見えることと、実際に優れた政治をすることの距離

 ここまで高市がなぜ強く見えるのかを考えてきたが、最後に最も重要な区別が残る。「強く見える政治家」と「優れた政治を行う政治家」は同義ではない。

 選挙で圧勝することは政治力を示すが、その政策が長期的に国民の利益になることを保証しない。迷わず決断することはリーダーシップに見えるが、誤った判断を素早く実行すれば損害も大きくなる。反対意見に動じないことは強さにも見えるが、必要な修正を拒む頑固さにもなり得る。

 本当に政治家の能力が問われるのは、むしろ状況が悪化したときかもしれない。経済予測が外れたとき、外交で譲歩を迫られたとき、支持率が下がったとき、自ら進めた政策に予想外の副作用が現れたとき、当初の方針を修正できるかどうかである。誤りを認めて政策を変更する行為は、表面的には「ぶれた」と見えるかもしれないが、科学や経営では新しい情報に応じて仮説を修正することこそ合理的な行動である。

 政治家の本当の強さも、おそらくこれに近い。断言する力だけでなく、必要なときに修正する力を含んでいる。

高市早苗が映し出しているもの

 高市早苗が「強い政治家」に見える理由を一つに絞ることはできない。2026年の衆議院議員総選挙における大勝という客観的な政治力があり、政策の方向が比較的認識しやすく、決断を感じさせる人物像が形成されている。若い世代にも一定の支持が広がり、現在の社会が抱える不確実性と、方向を示す政治家への期待が重なっている可能性もある。

 しかし、その一つ一つについて因果関係が完全に証明されているわけではない。短い動画との相性も、若者が支持する理由も、社会的不安と高市支持の関係も、現段階では有力な仮説ではあっても確定した答えではない。

 それでも、高市早苗という政治家を分析することには意味がある。なぜなら、彼女を観察していると、私たち自身が政治家の何を見て「強い」と判断しているのかが浮かび上がってくるからだ。

 私たちは政策の中身だけを見て政治家を評価しているわけではない。言葉の断定性、選挙結果、支持率、表情、語る速度、政治家としての物語、さらには自分自身が社会に感じている不安までを無意識に混ぜ合わせ、一人の人物像を作っている。その意味で「高市早苗はなぜ強い政治家に見えるのか」という問いは、高市本人についての問いであると同時に、政治家を見る私たち自身についての問いでもある。

 そして、ここにこのテーマの最も興味深いところがある。高市早苗が本当に強い政治家なのかどうかは、選挙で大勝した瞬間だけではまだ決まらない。政策が期待通りに進まなかったとき、支持率が低下したとき、反対意見が増えたとき、それでも合理的に判断し、必要なら自らの政策を修正し、その理由を説明できるか。その場面まで見なければ、政治家としての本当の強さは測れない。

 強そうに見えることは、一瞬で分かる。しかし、本当に強いかどうかを判断するには時間がかかる。高市早苗という政治家を評価するうえで、おそらく最も重要なのは、その二つを最後まで混同しないことである。

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 政治家について誰かと話していると、不思議なことに気づくことがある。その政治家が具体的に何を実現しようとしているのかを尋ねると、税制や社会保障、産業政策、安全保障といった話はなかなか出てこないのに、「強い」「頼もしい」「怖い」「保守的だ」「はっきりしている」といった人物の印象については、驚くほどすぐ言葉が返ってくるのである。政治というものが本来、制度や予算や法律を扱う営みであることを考えると、これは少し奇妙な現象に見える。

 高市早苗という政治家は、その奇妙さを考えるうえで興味深い存在である。2025年10月に自由民主党総裁となり、同月に内閣総理大臣に就任、その後2026年2月の総選挙を経て第2次高市内閣を発足させた現在、高市氏は「将来の首相候補」として論じられる人物ではなく、実際に日本の政策決定の中心にいる。それにもかかわらず、高市氏について語られるとき、財政政策や産業政策の細部より先に、彼女の話し方や言葉の強さが話題になる場面は少なくない。

 象徴的だったのが、2025年10月、自民党総裁に選出された直後の演説である。高市氏は党の立て直しに向けて自らのワークライフバランスにも触れながら、「働いて」という言葉を五回繰り返した。この発言は広く報じられ、ある人には党を立て直す覚悟の表現として受け取られた一方、別の人には長時間労働を美徳とするような危うさを感じさせる言葉として受け止められた。

 興味深いのは、同じ発言を聞いた人々が、まったく同じ人物像を思い浮かべたわけではないことである。ある人には「覚悟のある政治家」に見え、別の人には「強引な政治家」に見える。言葉そのものは一つでも、その言葉が入っていく先には、すでにそれぞれの高市早苗像が存在している。

 ここに、高市氏個人を越えた現代政治の問題が見えてくる。私たちは政治家の政策を理解し、その結果として人物イメージを作っているのだろうか。それとも、先に作られた人物イメージを通して、その後の政策や発言を読み直しているのだろうか。

「政策の高市」と「言葉の高市」

 高市氏を単純に「強い言葉を使う政治家」とだけ捉えると、実際の政治家像のかなり大きな部分を取り落とすことになる。本人は2026年1月の記者会見で「政策の高市」を自認してきたと述べており、実際、高市政権にはかなり明確な政策体系がある。

 中心に置かれているのが「責任ある積極財政」である。政府が成長分野や安全保障上重要な分野への投資を行い、それを民間投資や所得の増加へつなげ、経済規模を拡大させながら財政の持続可能性も確保しようという考え方で、その周囲には半導体をはじめとする先端産業、経済安全保障、食料安全保障、エネルギー・資源安全保障、防災、国土強靱化、サイバーセキュリティ、医療、研究開発などが配置されている。

 もちろん、それらの政策が期待通りの結果を生むかどうかは別問題である。積極的な政府支出によって成長力を高められるという考えには一定の理屈がある一方、財政負担や金利、市場の信認をどのように管理するのかという論点は消えない。外交・安全保障についても、日本を取り巻く安全保障環境に対応するため抑止力を高める必要があるという見方がある一方、政策や発言の出し方次第では周辺国との緊張を高める可能性を懸念する見方も成り立つ。

 つまり、高市氏の政策を本気で評価しようとすれば、本来かなり長い文章が必要になる。

 ところが、人間の記憶は政策文書をそのまま保存してはくれない。

 何十ページもの政策集より一つの言葉の方が覚えやすく、数年間にわたる財政戦略より「強く豊かに」という表現の方が頭に残りやすい。2026年の施政方針演説でも、高市氏は成長政策を説明するなかで、「成長のスイッチを押す」という表現を印象的に繰り返している。

 もっとも、ここで注意しなければならないのは、高市氏の演説が常に強い言葉だけで作られているわけではないということである。同じ施政方針演説の中では「様々なお声に耳を傾け、謙虚に、しかし、大胆に」といった表現も使われており、協調や慎重さを意識した言葉も存在する。「働いて」「強く」「押す」といった言葉だけを拾い集めれば、当然ながら「高市氏は強い言葉ばかり使う」という結論が生まれやすくなるが、それ自体が、分析する側の選び方によって人物像が作られてしまう一例でもある。

 それでも、高市氏の政治言語に、行動を感じさせる動詞が目立つことは確かである。働く、守る、強くする、押す、前へ進む。政策文書の高市早苗が制度を説明する政治家だとすれば、演説の高市早苗は、複雑な政策を動詞へと圧縮して提示する政治家だと言えるのかもしれない。

有権者は政策を全部読んでから投票するわけではない

 しかし、この現象を「有権者は政策を読まない」と批判するだけでは、政治の現実を十分に説明できない。

 そもそも一人の有権者が、税制、社会保障、外交、防衛、エネルギー、農業、教育、医療、産業政策、憲法といった多数の政策について各党の主張を詳細に比較し、それぞれの財源や副作用まで調べたうえで投票することは、現実にはかなり難しい。仕事をし、家庭生活を送りながら、選挙のたびに数百ページの政策資料を読むことのできる人は多くない。

 そこで人は、限られた情報から判断するための手掛かりを使う。政党名、政治家の経歴、話し方、表情、過去の実績、報道で繰り返される言葉などから、「この人物はおそらくこういう政治家だろう」と推測するのである。政治学や政治心理学では、こうした判断の近道はヒューリスティクス(heuristics・限られた情報をもとに効率的な判断を行うための認知的手掛かり)として研究されてきた。

 これは必ずしも愚かな判断方法ではない。政治家が長年にわたって一貫して安全保障政策を重視してきたなら、その経歴を見て「安全保障を重視する政治家だ」と判断することには合理性がある。所属政党から大まかな政策方向を推測することにも一定の情報価値がある。私たちは日常生活でも、すべての情報を一から検証して判断しているわけではなく、過去の経験や信用、評判を使いながら意思決定している。

 問題は、その便利な近道が、いつの間にか判断そのものを支配する可能性があることだ。

 いったん「高市早苗は強い政治家だ」という人物像を持てば、安全保障政策が「決断力」の証拠として見えやすくなるかもしれない。逆に「高市早苗は強硬な政治家だ」という印象を持っていれば、同じ政策が「危うさ」の証拠に見えることもあり得る。人物イメージが必ず政策評価を決定するわけではないが、いったん形成された人物像が、その後の発言や政策の受け止め方に影響する可能性は十分に考えられる。

 同時に、その逆方向もある。新しい政策を知ることで人物イメージが変わることもあり、予想外に穏当な発言を聞けば、それまでの印象が修正されることもある。政治家のイメージと政策評価は、どちらか一方が原因で、もう一方が結果になるほど単純ではなく、互いに影響し合いながら作られていくと考えた方が現実に近いだろう。

「働いて、働いて」は何を意味したのか

 先ほどの「働いて」という発言を、この視点からもう一度見てみると面白い。

 発言の文脈は、自民党を立て直すため、自分自身も党所属議員も徹底的に働くという決意を述べたものだった。その意味では、「日本国民全体に長時間労働を要求した発言」と理解するなら、実際の文脈より広く解釈していることになる。

 しかし一方で、将来の首相就任が現実味を帯びていた政党総裁が、ワークライフバランスを捨てると語れば、それを単なる党内向けの掛け声ではなく、日本社会の働き方に対する象徴的メッセージとして受け止める人が現れることも不自然ではない。政府自身が長時間労働の是正や仕事と生活の両立を政策課題としてきただけに、その発言と従来政策との整合性を問う批判にも理由がある。

 だから、この発言について「何の問題もない」と片づけることも、「長時間労働を国民に強制した発言だ」と断定することも、どちらも言葉を少し単純化してしまう。

 ところが政治の世界では、この「少し単純化された説明」の方が圧倒的に流通しやすい。

 数十分の演説はニュースになると数十秒になり、交流型ソーシャルメディアではさらに短い映像へ切り取られ、最後には一つの言葉だけが記憶に残る。政治家の人格は本来、何年、何十年という政治活動の積み重ねによって判断されるべきものなのに、私たちのスマートフォンの画面の中では、ときに十秒ほどで完成してしまうのである。

高市早苗のイメージを作っているのは誰か

 では、「強い政治家」という高市氏のイメージを作ったのは誰なのだろう。

 最初の作者が高市氏本人であることは間違いない。政治家は自分の言葉を選び、「強い経済」「強い外交・安全保障」「日本列島を、強く豊かに」といった表現を自ら発している以上、高市氏自身が「強さ」という概念を政治的メッセージとして意識的に利用していると見ることには一定の根拠がある。

 しかし、その言葉が社会に届くまでには、何人もの編集者が存在する。新聞やテレビは長い演説の中からニュース価値があると判断した一部分を選び、見出しを付ける。交流型ソーシャルメディアでは利用者がさらに短い場面を切り抜き、そこへ賛成や批判の文章を添える。そして、それを見た別の利用者が再び共有する。

 この過程では、支持者と批判者が正反対の評価をしながら、結果的に同じイメージを強めることもあり得る。支持者が「ここまで言い切れる政治家はいない」と高市氏の映像を繰り返し共有し、批判者が「この言葉こそ危険性の証拠だ」と同じ映像を広めれば、評価そのものは正反対でも、「高市早苗は強い言葉を使う政治家だ」という共通イメージだけは社会に残りやすくなる。

 ただし、これは高市氏について直接実証された結論ではない。実際に確認するためには、交流型ソーシャルメディア上の投稿を大量に収集し、肯定的投稿と否定的投稿の双方でどの発言が共有され、どのような語句とともに拡散されたのかを時系列で調べる必要がある。現段階では、「そのような作用が起こり得る」という仮説として扱うのが妥当だろう。

世論調査は「政策か人柄か」に答えてくれるのか

 2026年8月のテレビ朝日の世論調査には、この問題を考えるうえで興味深い数字がある。

 高市内閣を支持する理由として「政策に期待が持てる」と答えた人は24.1%、「高市総理の人柄が信頼できる」は19.7%、「他の内閣よりよさそう」は32.4%だった。不支持理由では、「政策に期待が持てない」が43.9%、「人柄が信頼できない」が23.0%となっている。

 この数字を見ると、「高市氏は政策よりイメージだけで支持されている」という単純な説明は成り立たない。支持する側にも政策を理由にする人がかなり存在し、むしろ「人柄」より「政策」を選んだ人の方が多い。一方、不支持側でも政策への評価が大きな比重を占めている。

 もっとも、この調査から「高市氏は政策で評価されている」と逆方向に断定することもできない。回答者は複数ある理由の中から一つを選ぶ形式になっているため、実際には「人柄も政策も評価している」という人でも、どちらか一方しか回答できないからである。

 さらに重要なのは、このような世論調査から因果関係までは分からないことである。高市氏の人柄を信頼したから内閣を支持するようになったのか、それとも先に内閣を支持しているため「人柄も信頼できる」と感じるようになったのかは、この数字だけでは判定できない。同じように、政策への評価と人物への評価のどちらが時間的に先に形成されたのかも分からない。

 それでも、この調査から一つ確かなことがあるとすれば、政治的支持が政策だけ、あるいは人物だけで説明できるほど単純ではないということである。私たちは政策を見ながら人物を考え、人物を見ながら政策を読む。その二つは頭の中で切り離されているわけではないらしい。

名前を消したら、高市早苗の政策はどう見えるのか

 ここで、小さな思考実験をしてみたい。

 紙の上から「高市早苗」という名前を消し、「国内投資を増やして先端産業への政府支援を拡大する」「経済安全保障を強化する」「政府支出によって成長力を高めながら、経済規模に対する債務の比率を改善していく」とだけ書いてあったとする。

 それを読んだときと、同じ紙の一番上に大きく「高市早苗」と書かれているときで、政策に対する印象は本当に変わらないだろうか。

 高市氏を支持する人なら、名前を見ることで政策をより好意的に評価するかもしれないし、高市氏に強い不信感を持つ人なら、同じ政策でも警戒するかもしれない。しかし実際には名前の有無で評価がほとんど変わらない人もいるだろう。だから、この思考実験だけで「人は政策ではなく政治家の名前を選んでいる」と結論づけることはできない。

 それでも、この問いを自分に向けることには意味がある。

 もし政治家の名前を隠した瞬間に、自分の政策評価が大きく揺れるのであれば、それまで政策だけを判断していたわけではなかった可能性があるからである。

 そして、この現象は高市氏に限らない。石破茂でも、小泉進次郎でも、野田佳彦でも、麻生太郎でも同じ問いを立てることができる。

 政治家の名前には、その人物の過去、所属政党、報道、支持者、批判者、発言、成功、失敗といった膨大な情報が圧縮されている。「名前を知っている」というだけで、私たちはすでに多くの情報を政策の上に重ねて見ているのである。

「強い言葉」は悪いことなのか

 ここまで考えると、「強い言葉を使う政治家は危険だ」という結論にも慎重になる必要がある。

 民主政治では、複雑な政策を社会へ伝えるために、ある程度の単純化は避けられない。「責任ある積極財政」という表現も、「強い経済」という表現も、本来は何十もの政策を短い言葉にまとめた入口である。政治家が有権者に方向性を示そうとする以上、記憶に残る言葉を使うこと自体は政治コミュニケーションの一部であり、それだけで良いとも悪いとも言えない。

 むしろ問題になるのは、入口だったはずの言葉が、そのまま出口になってしまうときである。

 「強い日本」という言葉を聞いて安心して終わるのではなく、何を強くするのか、そのためにいくら費用が必要なのか、誰が利益を得て誰が負担するのか、別の選択肢と比べて何が優れているのかを見る必要がある。「積極財政」という言葉を聞いて期待するだけでなく、どの支出が成長を生み、どの支出が将来負担として残る可能性があるのかまで考えなければならない。

 これは高市氏を批判する側にも同じように当てはまる。強い言葉を聞いた瞬間に「危険な政治家」と結論づけてしまえば、それもまた政策を検討する手続きを省略していることになる。政策を批判するのであれば、どの部分に問題があり、どのような代替案があり、その結果がどう違うのかまで問わなければ、支持者とは逆方向の近道を走っているだけかもしれない。

最後の編集者は私たち自身である

 高市早苗という政治家のイメージを作っているのは誰なのか。

 高市氏本人が言葉を発し、政党がそれを政治メッセージに整え、報道機関が一部分を選び、交流型ソーシャルメディアがさらに切り取り、支持者と批判者がそれぞれ意味を与える。

 しかし、その長い工程の最後にいる人物を忘れてはいけない。

 それは、私たち自身である。

 画面に流れてきた十秒の映像を見て「やはりこの人は頼りになる」と感じたときにも、「やはりこの人は危険だ」と感じたときにも、私たちの頭の中では一人の政治家像が少しずつ出来上がっている。そして一度形成されたその像は、次に入ってくる政策や発言を解釈するときのレンズになり得る。

 だから高市早苗について考えるとき、本当に興味深い問いは、「高市氏は強い政治家なのか」ではないのかもしれない。

 むしろ、「私はなぜ高市氏を強い政治家だと思うようになったのか」と自分自身に問い返すことである。

 高市氏自身の言葉なのか。テレビの見出しなのか。交流型ソーシャルメディアで繰り返し見た映像なのか。支持する人から聞いた評価なのか。批判する人から聞いた評価なのか。それとも、実際に政策を読み、自分なりに考えた結果なのか。

 おそらく、そのすべてが少しずつ混ざっている。

 高市早苗が「政策」より「強い言葉」で先に理解されているということを、現在の資料だけから科学的事実として断定することはできない。政治家イメージが政治評価と関係すること、有権者が政党名や人物像のような手掛かりを利用して判断することについては研究の蓄積がある一方、高市氏について「強い言葉が先に認知され、その結果として政策評価が変化した」という一連の因果関係が直接測定されたわけではないからである。

 しかし、だからこそ、この問いは面白い。

 高市氏には実際にかなり具体的な政策体系があり、それを短く記憶に残る言葉へ圧縮する政治的な話法もある。そして私たち有権者の側には、複雑な政策をすべて処理する代わりに、人物像や政党、印象的な言葉を判断の手掛かりとして利用する性質がある。

 政治家が言葉を作り、メディアがその言葉を選び、交流型ソーシャルメディアがそれを増幅し、最後に私たちが意味を与える。その共同作業の中で、「高市早苗」という政治家像が出来上がっていく。

 政治家を見るという行為は、政治家だけを見ることではない。

 その人を見ている自分が、何を選んで見て、何を忘れ、どの言葉だけを記憶しているのかまで含めて初めて、政治家を見ていることになるのかもしれない。

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政治家について、「あの人は政局が読める」「政局がまったく読めていない」という言い方をすることがある。

しかし、この「政局を読む」という言葉は、考えてみるとかなり曖昧である。

世論を読むことなのか。選挙で勝てる時期を判断することなのか。党内の議員が誰につくかを見抜くことなのか。それとも、連立相手がどこまで譲歩するかを判断することなのか。

おそらく、そのすべてである。

だからこそ、「政局を読める政治家」とは、単に勘の鋭い政治家ではない。複数の人間がそれぞれ異なる利害を持って動く政治空間を観察し、その結果として「誰が、いつ、どちらに動くのか」を相対的に高い確率で予測できる政治家なのである。

そして、ここから政治家は少なくとも三つに分けることができる。

政局を読める政治家。

政局を読めない政治家。

そして、政局は読めているが、あえて政局に従わない政治家である。

この三つは似ているようで、かなり違う。

「政局が読める」とは何を読むことなのか

優れた将棋棋士は、次の一手だけを考えているわけではない。

自分が一手指せば相手がどう応じ、その結果として数手後にどのような局面になるかを考える。政治にもこれとよく似たところがある。

例えば首相が衆議院を解散するとする。

その瞬間の内閣支持率だけを見ても十分ではない。野党の準備状況、候補者調整、争点の形成状況、自党の地方組織、連立相手との関係、投票率、無党派層の動向まで考えなければならない。

自民党総裁選でも同じである。

世論調査で最も人気のある候補が必ず総裁になるわけではない。党員票、国会議員票、派閥や旧派閥の人間関係、決選投票になった場合の二位・三位候補の票の移動まで読まなければならない。

したがって、政局を読む能力を単純化すれば、

「現在の支持率を知る能力」ではなく、「自分が動いた後に他者がどう動くかを推測する能力」

と定義した方がよいだろう。

ここには少なくとも、世論を読む力、党内力学を読む力、選挙の時機を読む力、連立相手を読む力、そして制度上の制約を読む力が含まれる。

すべてに優れた政治家はそれほど多くない。

国民的人気のある政治家が党内抗争には弱いこともあるし、党内人事には抜群に強い政治家が国政選挙では国民の気持ちを読み違えることもあるからである。

政局を読めない政治家とは

では、「政局を読めない政治家」とはどのような人なのだろうか。

典型的なのは、自分の希望と現実の区別ができなくなる政治家である。

「この政策は正しい。だから国民も支持するはずだ」

「私はこれだけ党に貢献してきた。だから議員は私を支持するはずだ」

「これまで連立してきたのだから、今回も相手は離脱しないはずだ」

この「はずだ」が積み重なっていく。

政治では、自分が正しいと思っていることと、相手がどう行動するかは別問題である。

ゲーム理論的にいえば、政治家が考えなければならないのは自分の効用だけではない。他の政治家、政党、有権者が何を利益と考え、どの選択肢を取る可能性が高いのかを推測しなければならない。

政局を読めない政治家は、ここで自分自身の価値観を他人にも当てはめてしまう。

その結果、「こんなはずではなかった」という事態が起きる。

重要なのは、失敗した政治家がすべて「政局を読めなかった」とは限らないことである。

確率70%で成功すると考えて行動しても、30%の失敗は起こる。政治は確率的な世界であり、結果だけから能力を判定すると、典型的な結果論になってしまう。

したがって評価すべきなのは、「負けたか勝ったか」だけではなく、判断した時点で利用可能だった情報から、その選択に合理性があったかどうかである。

「政局を読まない政治家」はまったく別の存在である

もっと興味深いのが、「政局を読まない政治家」である。

このタイプは政局を理解していないとは限らない。

むしろ、

「こちらの方が政治的には得だ」

「ここで妥協すれば政権は安定する」

「この発言をしなければ支持層を広げられる」

と分かっていて、それでも別の選択をする。

理由は政策や理念である。

政治家の目的を単純に「権力の最大化」と考えるなら、この行動は非合理に見える。

しかし政治家の目的関数に、

政策実現、理念、歴史的評価、支持者との約束、個人的信念

まで入れれば話は変わってくる。

例えば、政権維持を最優先する政治家なら、支持を失う可能性のある政策を避けるだろう。

しかし「首相になった目的は、この政策を実現することだ」と考える政治家なら、一定の支持低下を覚悟して政策を進めることがある。

これは「政局が読めない」のではない。

政局より政策を上位に置いているのである。

もちろん、その姿勢を良い政治だと評価するかどうかは別問題である。

民主政治では理念だけで政治はできない。議会で多数を形成しなければ法案は成立しないし、選挙に負ければ政策そのものを実現できなくなる。

したがって「政局を読まない政治家」は、信念の人にもなり得る一方、独善的な政治家にもなり得る。

両者を分ける境界線は非常に細い。

では、高市早苗は「政局を読めない政治家」なのか

ここで高市早苗という政治家を考えてみたい。

高市氏については、思想や政策への評価が先行しやすい。支持者からは「信念を曲げない政治家」と評価され、批判者からは「周囲との調整が不得手な政治家」と見られることがある。

しかし今回は政策の是非から離れ、政局判断という一点だけを見てみる。

すると、かなり複雑な人物像が浮かんでくる。

まず「高市氏は政局が読めない」という仮説を立ててみよう。

この仮説を支持する材料として注目すべきなのが、自民党と公明党の関係である。

2025年10月4日、高市氏は自民党総裁選の決選投票で185票を獲得して小泉進次郎氏を破り、自民党総裁になった。

ところが、そのわずか6日後の10月10日、公明党は長年続いた自民党との連立から離脱する方針を表明した。企業・団体献金規制などを巡る隔たりが埋まらなかったことが直接的な理由とされた。

政治学者の中北浩爾氏は、この過程について、高市氏が国民民主党との連立拡大を優先して公明党を軽視したことなどが、連立離脱に至る背景の一つになったと分析している。

ここだけを切り取れば、

「26年間続いた連立相手が、本当に離脱するところまで追い込まれるとは読めなかったのではないか」

という仮説は成立する。

公明党は単なる国会内の協力政党ではなかった。長年にわたり小選挙区で自民党候補を支援してきた選挙協力の相手でもあった。

それを失うことは、本来なら自民党にとって極めて大きなリスクである。

この点では、高市氏の政局判断にはかなり大きな賭けが含まれていた。

ところが、その後を見ると評価が逆転する

もしここで高市政権が行き詰まっていたなら、「やはり政局を読めなかった」という評価はかなり説得力を持っただろう。

しかし実際の政治はそうならなかった。

公明党との連立が崩れると、高市氏は日本維新の会との協力関係を形成した。

そして2026年1月、衆議院解散というさらに大きな賭けに出る。

興味深いのは、この解散が必ずしも世論に歓迎されていたわけではないことである。

朝日新聞社が2026年1月17、18日に実施した世論調査では、その時点での衆議院解散・総選挙について「賛成」は36%、「反対」は50%だった。

普通に数字だけを読めば、かなり危険な解散に見える。

ところが2月8日の総選挙では、自民党は316議席を獲得した。

衆議院の定数465に対して単独で3分の2を上回る議席であり、選挙前の198議席から118議席を増やす歴史的な大勝となった。

ここには重要な意味がある。

解散そのものへの賛否と、実際の投票行動は同じではなかったのである。

「今、選挙をする必要はない」と考えていた有権者であっても、選挙になれば自民党に投票することはあり得る。

高市氏あるいはその周辺がこの違いを認識していたのなら、表面的な世論調査以上に、野党の状況、自民党への投票意向、政権支持、候補者事情などを読んで解散したことになる。

結果論だけではあるが、少なくともこのケースを前にして、

「高市早苗は選挙の政局をまったく読めない」

と評価するのは難しい。

むしろ2026年総選挙についてだけ見れば、タイミングを読む能力は極めて高かったと評価する方がデータには整合的である。

2024年の敗北と2025年の勝利も興味深い

さらに時間を遡ると、もう一つ興味深い変化が見える。

2024年の自民党総裁選で、高市氏は第1回投票では首位になった。

それにもかかわらず、決選投票では石破茂氏に敗れた。

これは高市氏の「一般党員への訴求力」と「国会議員をまとめる力」の間に差があったことを示していたと考えることができる。

つまり党内政局という観点では、当時の高市氏には弱点があった可能性がある。

ところが翌2025年の総裁選では、再び決選投票に進み、今度は小泉進次郎氏を破った。決選投票で185票を獲得している。

一年前の敗北から同じところで再び敗れたわけではない。

これは少なくとも、

一度失敗した党内多数形成について、修正する能力があった

ことを意味する。

「政局を読めない政治家」という仮説にとっては、かなり大きな反証である。

高市氏の弱点は「政局全体」ではなく「読む対象」にあるのではないか

ここまでの出来事を並べると、一見矛盾した結果になる。

自公関係では大きな亀裂を生んだ。

しかし総裁選では勝った。

衆議院解散では大勝した。

では、どれが本当の高市早苗なのだろうか。

私は、ここで「政局が読める・読めない」という二分法そのものを疑った方がよいと考える。

高市氏は、

選挙という競争を読む能力は比較的高いが、異質な相手と長期間妥協しながら関係を維持する政治については、同じ強さを持っていない可能性がある。

こう考えると、一連の現象をかなり矛盾なく説明できる。

総裁選は勝敗が明確な競争である。

衆議院選挙も同じである。

どの支持層を固め、どこで争点を作り、いつ勝負に出るかという問題になる。

一方、連立政治は違う。

自分とは政策思想の異なる相手に譲り、相手にも成果を持ち帰らせ、時には自分の支持者が望まない妥協までしなければならない。

必要なのは勝負勘より、関係管理能力である。

両者は同じ「政治力」と呼ばれていても、かなり違う能力なのではないか。

そしてもう一つの可能性~「読めなかった」のではなく「読んだうえで選んだ」

ただし、自公連立の崩壊についても注意が必要である。

高市氏が公明党の離脱可能性をまったく予測していなかった、と証明する資料はない。

ここは事実と推論を分ける必要がある。

別の説明も成立する。

つまり、

「公明党との関係を維持するために政策や人事を変更するコスト」

と、

「公明党を失うコスト」

を比較し、前者の方が大きいと判断した可能性である。

もしそうなら、これは「政局を読めなかった」のではない。

読んだうえでリスクを取った

ことになる。

実際、その後に日本維新の会との協力へ転換し、さらに衆議院選挙で316議席を獲得したという結果まで含めれば、少なくとも短期的には、その賭けは政治的に成功した。

ただし、ここにも留保が必要である。

衆議院で圧倒的な議席を得ても、参議院では政治状況が異なる。

2026年2月18日の首相指名では、衆議院では高市氏が354票を得た一方、参議院の第1回投票では123票で過半数に届かなかった。決選投票で125票を得て首相に指名されている。

さらに2026年7月には、参議院で与党が少数のため、重要法案の成立を巡って綱渡りの国会運営が続いていると報じられた。

衆議院選挙の一度の大勝で、すべての政局問題が消えたわけではない。

支持率の低下は、次のテストになる

もう一つ注目すべき数字がある。

2026年7月の主要報道機関の世論調査では、高市内閣の支持率が全社で前月より低下した。調査によって41.0%から61.6%までかなり幅があるものの、8社すべてで政権発足後最低となったと整理されている。

日本経済新聞・テレビ東京系の調査でも、7月の内閣支持率は58%で、6月から10ポイント低下した。

ここから先こそ、高市氏の政局観を見るうえで重要になる。

支持率が高いときに選挙をすることと、支持率が低下し始めたときに政策や党内関係を調整することは別の能力だからである。

人気がある政治家は強い。

しかし、本当に政局に強い政治家かどうかが分かるのは、人気が落ち始めた後なのかもしれない。

結局、高市早苗はどのタイプなのか

以上を総合すると、私は高市早苗氏を単純な「政局を読めない政治家」に分類することには慎重である。

データがそれを許さないからだ。

2024年の総裁選では決選投票で敗れた。

しかし2025年には総裁選を制した。

自公連立は崩壊した。

しかし新しい政治的組み合わせを作った。

2026年1月の解散には世論の反対が多かった。

しかし総選挙では自民党を316議席まで伸ばした。

これだけを見るなら、むしろ重要な勝負所を察知する能力はかなり高い政治家と考える方が自然である。

一方、長期的な連立関係の維持や、思想的に距離のある相手との調整という面には不安材料がある。

したがって、高市氏を分類するなら、

「政局を読めない政治家」でも、「政局を完全に無視する政治家」でもない。

もっと正確には、

「政局は読む。しかし、読む対象と、従う政局をかなり選ぶ政治家」

ではないだろうか。

選挙で勝つための政局は読む。

党内で多数を作るための政局も読む。

しかし、自分の政策や政治理念を修正してまで既存の関係を維持すべきかという局面では、必ずしも政局を最優先しない。

もしこの仮説が正しいなら、高市氏の政治を理解するうえで「政局音痴」という言葉はあまり役に立たない。

むしろ問題は、

「読めているか」ではなく、「何を読んで、何を読まないことにしているのか」

なのである。

政治家には、すべての方向を見ることはできない。

選挙を見れば党内が見えなくなり、党内を見れば世論が見えなくなることがある。政策を守れば連立相手との距離が広がり、連立を守れば支持者との距離が広がることもある。

政局を読むとは、おそらく未来を当てる特殊能力ではない。

複数の不完全な情報の中から、どのリスクを取るかを決める仕事である。

そう考えると、高市早苗という政治家への評価も少し変わって見える。

彼女は政局が読めないのか。

それとも、政局を読みながら、それでも自分が取るべきだと考えたリスクを取っているのか。

2026年2月の総選挙までは、後者を支持する証拠の方が少なくとも強かった。

しかし政治家の政局観は、一度の選挙では確定しない。

圧倒的な衆議院議席を持つ一方で、参議院では多数形成を必要とし、内閣支持率にも下落が見え始めた現在こそ、高市早苗が本当に「政局を読める政治家」なのかを判定する、次の局面に入っているのである。

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令和8年7月28日現在、高市早苗首相は強い政治基盤を持つ首相である。

令和8年2月8日の衆議院議員総選挙では、自由民主党と日本維新の会を合わせた与党が352議席を獲得した。高市首相自身も、この結果を重要政策の転換について国民から信任を受けたものと位置づけている。一方で、高市首相は選挙直後の会見において、参議院では与党が過半数を有していないことを認め、野党に協力を求めながら「様々な声に耳を傾け、謙虚に」政権を運営すると述べていた。

問題は、その言葉と実際の国会運営との間に、看過できない距離が生じていることである。

衆議院で圧倒的多数を得たからといって、内閣が国会より上位に立つわけではない。まして、参議院の異論を障害物のように扱い、首相自身が国会審議への出席を抑え、与党内の決定を国会に追認させようとするならば、それは「強い政治」ではない。

むしろ、日本の統治制度に対する理解が十分でない、稚拙な国会運営と評価されても仕方がない。

高市首相への批判は、保守かリベラルかという問題ではない

高市首相を支持する人の中には、野党の質問を「揚げ足取り」と考え、長時間の国会審議を政策実行の妨げだと感じる人もいるだろう。

国際情勢が緊迫し、物価高や人口減少への対応も急がれる中、迅速な意思決定を求めること自体は理解できる。政府が何も決められず、先送りを繰り返す政治が望ましくないことも事実である。

しかし、迅速な決定と、異論を排除した決定は同じではない。

本来の保守政治とは、制度を壊してでも指導者の意思を通す政治ではないはずである。長い時間をかけて形成されてきた議会制度、権力分立、慎重な審議、少数意見の尊重を守ることこそ、制度を重視する保守主義の基本ではないか。

自分が支持する政治家が権力を握っているときだけ、議会の歯止めを邪魔だと考えるのは危険である。

今日、高市首相のために弱めた国会の統制は、将来、自分が強く反対する首相によって利用される可能性がある。制度とは、信頼できる指導者だけを想定して設計するものではない。信頼できない指導者が現れても権力の暴走を防げるように設計するものである。

したがって、高市内閣の国会運営を批判することは、高市氏の政治思想が好きか嫌いかという問題ではない。

日本の立憲政治を長期的に維持できるかという問題なのである。

議院内閣制は、内閣が国会を支配する制度ではない

日本は議院内閣制を採用している。

議院内閣制では、内閣総理大臣は国会議員の中から国会の議決によって指名され、内閣は国会に対して連帯して責任を負う。

ここで重要なのは、首相が国民から直接選ばれる大統領ではないという点である。

衆議院選挙で自由民主党を中心とする与党が勝利したとしても、それによって高市首相個人が国会を超越する権限を得たわけではない。首相は国会から独立した直接公選の統治者ではなく、国会によって指名され、国会に説明し、国会の審議を通じて統制を受ける立場にある。

高市首相は、令和8年1月の衆議院解散に際し、「高市早苗が内閣総理大臣で良いのかどうか」を国民に決めてもらうという趣旨の説明を行った。さらに、前回の衆議院選挙では掲げられていなかった重要政策について信を問うと述べている。

選挙によって政策の信任を問うこと自体には合理性がある。

しかし、この説明には注意が必要である。

日本の衆議院選挙は、首相個人を選ぶ選挙ではない。全国の小選挙区と比例代表で、それぞれの候補者と政党を選ぶ選挙である。有権者が自由民主党候補に投票した理由も、高市首相への支持だけとは限らない。地元候補への評価、野党への不信、経済政策、安全保障政策、政党組織、消去法による選択など、複数の理由が考えられる。

したがって、与党の大勝を「高市首相のあらゆる政策と国会運営が全面的に承認された」と読み替えることはできない。

選挙で得られるのは、一定期間政権を担当するための政治的基盤であって、国会審議を省略する権利ではない。

衆議院の圧勝だけで国民全体の意思を代表したことにはならない

高市内閣の国会運営を考えるうえで、衆参二院制の意味を改めて確認する必要がある。

国会には衆議院と参議院がある。

衆議院には解散があり、任期も参議院より短い。このため、直近の民意を反映しやすい。一方、参議院には解散がなく、議員の任期は6年で、3年ごとに半数が改選される。

この違いは偶然ではない。

一時的な政治状況や選挙の熱気だけで国の重要政策が決められないように、異なる選出時期と任期を持つ二つの議院が、相互に審議を重ねる仕組みとなっている。

衆議院で大勝した政権にとって、参議院の異論は確かに煩わしく感じられるかもしれない。しかし、その「煩わしさ」こそが二院制の機能である。

参議院が衆議院と常に同じ結論を出すのであれば、二つの議院を置く意味は薄い。衆議院の多数派が見落とした問題を指摘し、法案を修正し、政府に再考を迫ることが、参議院の重要な役割である。

令和8年2月の選挙後、与党は衆議院で352議席という圧倒的多数を得たが、参議院では過半数を有していない。高市首相自身も、この事実を認めている。

これは政治的な矛盾ではない。

異なる時期の選挙で示された、異なる民意が同時に存在しているのである。

高市内閣は、直近の衆議院選挙だけを本物の民意とみなし、参議院の構成を過去の民意として軽視してはならない。参議院議員もまた、正当な選挙によって選ばれた国民の代表である。

参議院で与党が過半数に達していないという事実は、「政策を邪魔する野党が多い」という意味ではない。

政府に対し、より丁寧な説明、合意形成、修正、譲歩を求める制度上の条件なのである。

予算の年度内成立を逃した責任を、参議院だけに転嫁できない

令和8年度予算を巡る国会運営は、高市内閣の制度理解と調整能力を考えるうえで象徴的であった。

高市首相は令和8年1月23日に衆議院を解散し、2月8日に総選挙を行った。その後、第2次高市内閣が2月18日に発足し、施政方針演説は2月20日に行われた。

当然ながら、年度開始までに残された予算審議の日程は厳しくなった。

政府は予算案の年度内成立を目指したが、最終的には年度内成立を断念し、11年ぶりとなる暫定予算が編成された。参議院は令和8年3月30日に暫定予算を議決し、本予算は4月7日に成立した。

もちろん、予算審議が長引いた責任のすべてが内閣にあるわけではない。

野党側の審議戦術、質問の重複、政党間対立なども検証されるべきである。国会審議を引き延ばすことだけを目的とした対応があったなら、野党も批判を免れない。

しかし、高市内閣が自ら衆議院を解散し、選挙日程によって予算審議期間を圧縮したことも動かせない事実である。

高市首相は予算委員会で、国会の運営は国会が決めるものだと答弁し、野党に協力を求めた。

形式的には正しい。

だが、内閣が自ら作り出した厳しい日程の中で、野党や参議院に「国民生活のために協力してほしい」と迫るだけでは、責任ある調整とはいえない。

政府には、十分な審議時間を確保できる日程を組む責任がある。与党には、野党が納得できる資料を早期に提出し、修正協議に応じる責任がある。首相には、国会に出席し、政策の根拠と解散の判断について自ら説明する責任がある。

圧倒的な衆議院議席を獲得するために解散を行い、その結果として予算審議が窮屈になったのであれば、まず内閣自身がその政治的費用を引き受けなければならない。

参議院に審議短縮を求めることで帳尻を合わせようとするなら、それは二院制を尊重した運営ではない。

「国会運営は国会が決める」という答弁だけでは責任を果たせない

高市首相は国会で、予算の審議方針を含む国会運営は国会が決めるものだと繰り返し述べている。

この説明は、国会と内閣の形式的な関係としては間違いではない。

しかし、現実の国会運営において、政府・与党と首相官邸が大きな影響力を持っていることは否定できない。政府提出法案の優先順位、法案提出の時期、首相や閣僚の出席、与党の審議方針などは、内閣と与党の判断に大きく左右される。

都合のよいときには「選挙で信任を得た」と強い指導力を強調し、審議が停滞すると「国会の運営は国会が決める」と距離を置くのでは、一貫性を欠く。

権限を行使するときには首相主導を掲げ、説明責任を問われたときだけ国会の自主性を持ち出すなら、それは責任ある議院内閣制の運用ではない。

議院内閣制における首相の指導力とは、国会を避ける能力ではない。

国会に出て批判を受け、異なる立場の議員を説得し、必要な修正を受け入れながら、最終的な合意を形成する能力である。

首相の国会出席を抑えることは「効率化」ではない

令和8年の終盤国会では、高市首相の国会出席の少なさが争点となった。

報道によれば、野党は高市首相の予算委員会などへの出席を求め、これに政府・与党が応じない状態が続いたため、国会審議が一時停滞した。与党側は定数削減法案や副首都法案などの成立を目指していたが、野党側は首相出席を求めて反発した。

7月15日には高市首相と野党6党首による党首討論が行われ、7月17日には参議院予算委員会で集中審議が実施された。

首相がすべての委員会に常時出席する必要はない。

外交、危機管理、行政全般の統括など、首相の職務は広範である。各省の専門的問題には、担当大臣が答えることが合理的な場合も多い。首相出席を過度に要求し、同じ質問を何度も繰り返すことが、国会審議の質を高めるとは限らない。

この点は野党側も自制すべきである。

しかし、予算、国家の基本政策、内閣の統治姿勢、衆議院解散の判断、重要な制度改革などは、担当大臣だけでは完結しない。内閣全体の方針と首相自身の政治判断が問われる問題である。

そうした場面で首相が出席を避け、閣僚による答弁で済ませようとすれば、議院内閣制における内閣の国会責任が形骸化する。

高市首相の支持者は、「首相を国会に縛りつけるより、外交や政策実行に専念させるべきだ」と考えるかもしれない。

だが、国会で説明することは、政策実行とは別の雑務ではない。

国会答弁そのものが首相の本務である。

国会への説明を負担としか考えないのであれば、それは議院内閣制の首相ではなく、議会の統制を受けない執行権力を求める発想に近づいてしまう。

法案を多く成立させることだけが、国会運営の能力ではない

政府・与党は、法案を成立させることを国会の成果として強調しがちである。

確かに、内閣には政策を実行する責任がある。審議だけを続け、何も決められない国会が望ましいわけではない。

しかし、成立した法案の数や処理の速さだけで国会運営を評価することはできない。

重要なのは、なぜその制度が必要なのか、既存制度では対応できないのか、どのような副作用があるのか、誰が利益を得て誰が負担するのか、修正可能性はあるのかという検討である。

高市首相は6月22日の与党党首会談後、皇室典範改正、議員定数削減、副首都法案などを今国会で成立させたいとの考えを示した。副首都構想については「我が国初の統治機構改革」であり、極めて大きな意義を持つと評価している。

それほど重要な統治機構改革であるなら、なおさら短期間で成立を急ぐべきではない。

副首都の権限、財源、対象地域、国と地方の関係、災害時の指揮命令系統、既存自治体への影響など、検討すべき論点は多い。議員定数削減も、単なる「身を切る改革」という印象だけで決められる問題ではない。議員数を減らせば、少数地域や少数意見の代表が国会に届きにくくなる可能性がある。

自ら「大改革」と位置づける法案を、会期末までに成立させること自体を目的化するならば、政治日程が制度設計より優先される。

これは大胆な改革ではない。

拙速な改革である。

多数派は、少数派の発言権を消すために存在するのではない

民主主義では、最終的に多数決が必要となる。

すべての政党が完全に合意するまで何も決められないとすれば、統治は機能しない。選挙で多数を得た政党が政策を実行することには、明確な民主的正当性がある。

しかし、多数決は民主主義の出発点ではなく、議論を尽くした後の最終手段である。

少数意見に耳を傾けるとは、野党に発言時間を与えれば済むという意味ではない。反対意見の中に合理的な指摘があれば、法案を修正し、場合によっては撤回することである。

政府が最初に決めた結論を一切変えず、質問に答え、採決まで待つだけなら、それは「聞いた」という形式を整えただけである。

本当に耳を傾けたかどうかは、結論や制度設計が変わったかによって判断される。

高市首相は選挙後、「様々な声に耳を傾け、謙虚に」政権運営を行うと明言した。

この言葉を空文にしないためには、野党との協議内容、政府案を修正した理由、修正を拒否した理由を公開しなければならない。

反対意見を「抵抗勢力」「既得権益」「反日」「左翼」などの言葉で一括して排除する態度は、政策の中身を検討することを放棄している。

同様に、高市首相を支持する人々を一括して無知、極右、低水準などと決めつけることも適切ではない。支持者の中には、安全保障、経済政策、エネルギー政策、国家観などについて、具体的な理由から高市氏を評価する人もいる。

必要なのは、支持者を侮辱することではない。

高市首相を本当に支持するのであれば、耳に心地よい言葉だけを求めるのではなく、その国会運営が日本の制度を強くしているのか、それとも首相個人への権力集中を進めているのかを問い直すことである。

参議院の抵抗は「民意への反逆」ではない

高市内閣に批判的な参議院議員の行動を、衆議院選挙の結果に逆らうものと見る意見もある。

しかし、参議院は衆議院の補助機関ではない。

参議院は独自の選挙によって構成される国会の一院であり、予算、法案、条約、決算、行政監視などに関する固有の役割を持つ。

令和8年7月には、参議院が令和6年度決算について内閣への警告を議決した。参議院の説明によれば、この警告は政府による不当・不適正な事象や非効率な予算執行などに対し、国会の立場から遺憾の意を示す制度である。

決算審査は、すでに使われた税金が適正だったかを検証するものである。

予算を成立させて終わりではなく、実際の支出を検証し、問題があれば政府に警告する。これは、行政権を監視する国会の基本的な役割である。

参議院が政府に異論を述べることは、政治の停滞ではない。

権力の監視が機能している証拠である。

もちろん、参議院の判断が常に正しいわけではない。野党が多数を利用して党利党略に走る可能性もある。参議院側の主張も、財源、制度設計、実現可能性によって検証されなければならない。

それでも、衆議院の多数と異なるという理由だけで参議院の意見を否定することは、二院制そのものを否定することになる。

高市内閣の問題は「強すぎること」ではなく、強さの使い方にある

高市首相が強い政治的指導力を持つこと自体を否定する必要はない。

政権の目標を明確に示し、行政組織を動かし、政策を実行する能力は、首相に必要である。高市内閣の支持者が、従来の曖昧な政治よりも明確な意思決定を評価することにも理由がある。

問題は、その強さがどこに向けられているかである。

官僚機構の縦割りを打破するために使われるのか。

既得権益を検証するために使われるのか。

国民に説明しにくい政策についても正面から語るために使われるのか。

それとも、国会審議を短縮し、反対意見を退け、首相への質問を避けるために使われるのか。

本当に強い首相は、批判から逃げない。

自分に不利な資料も公開し、反対党の議員から厳しい質問を受け、誤りがあれば認め、必要なら政策を修正する。

一方、議席数を盾にして説明を避ける政治は、外見ほど強くない。反論に耐えられないから、審議を避けるのではないかという疑念を生む。

高市内閣の国会運営に見られる稚拙さとは、単に言葉遣いや政局対応が未熟だという意味ではない。

衆議院の多数を政策実現の道具としては重視する一方、参議院の異論、野党の質問、首相自身の説明責任を、政策実行を遅らせる負担として扱っているように見える点にある。

これは議院内閣制への理解として不十分である。

野党にも問われる責任

高市内閣を批判するだけでは、公正な議論にはならない。

野党にも責任がある。

首相出席を求めるのであれば、首相にしか答えられない論点を明確にしなければならない。担当大臣で回答可能な細部まで首相に答弁させることは、国会審議の効率を下げる。

政府案に反対するなら、単に成立を阻止するだけでなく、具体的な修正案、財源、実施方法を示す必要がある。審議拒否や採決引き延ばしを目的化すれば、野党もまた国会を政局の道具にしていることになる。

高市首相への人格攻撃や、支持者への侮辱も慎むべきである。

野党が高市氏を批判する際には、発言の切り取りではなく、政策、予算、答弁、法案提出時期、国会出席、修正協議への対応といった検証可能な事実に基づくべきである。

高市内閣の国会運営を改善するには、政府だけでなく、野党側にも議論の質を高める努力が求められる。

高市首相に求められる五つの改善

今後、高市首相が国会運営への懸念を払拭するためには、少なくとも次の対応が必要である。

第一に、首相出席の基準を明確にすることである。

予算の基本方針、外交・安全保障、統治機構改革、解散権の行使、内閣全体の不祥事など、首相自身が答えるべき論点をあらかじめ整理し、合理的な範囲で国会出席を確保する必要がある。

第二に、参議院を「法案を通すための最後の関門」と考えないことである。

法案提出前から参議院各会派と協議し、修正可能な部分を明示する。衆議院通過後に形式的な説明をするだけでは、二院制を尊重したことにはならない。

第三に、政府案を変更した経緯を公開することである。

野党や専門家の意見を受けて、どの条文を、なぜ修正したのかを国民に示す。これによって「耳を傾ける」という言葉が実質を持つ。

第四に、重要法案を会期末に集中させないことである。

統治機構、皇室制度、議員定数などに関する法案は、成立日程から逆算するのではなく、必要な審議時間から逆算して提出すべきである。

第五に、選挙の勝利を無限定な白紙委任と解釈しないことである。

与党に投票しなかった有権者、参議院選挙で異なる政党を選んだ有権者、選挙後に政策への疑問を持った有権者も、等しく主権者である。

高市首相を支持する人にこそ考えてほしい

高市首相を支持しているからこそ、国会での説明を求めるべきである。

支持する政治家に厳しい説明責任を求めることは、裏切りではない。

無条件に擁護し、批判をすべて敵意として排除することの方が、長期的にはその政治家を弱くする。間違いを指摘する人が周囲からいなくなれば、政策判断は修正されず、失敗したときの損害が大きくなる。

高市首相の政策が本当に優れているのであれば、参議院の審議にも、野党の追及にも、専門家の批判にも耐えられるはずである。

反対意見を聞くことは、政策を弱めることではない。

政策の欠陥を事前に発見し、実施後の失敗を減らすための作業である。

企業経営でも、医療でも、工学でも、重大な判断ほど複数の立場から検証する。異論を排除し、一人の指導者の直感だけで決める組織は、短期的には速く見えても、大きな誤りを起こしやすい。

国家運営だけが例外であるはずはない。

結論~強い国会なくして、強い国家はない

高市早苗首相は、令和8年2月の衆議院選挙で大きな政治的基盤を得た。

その勝利には正当な重みがある。高市内閣が公約に掲げた政策を実行しようとすることも、議会制民主主義の一部である。

しかし、衆議院の圧倒的多数は、参議院を軽視する権利でも、少数意見を無視する権利でも、首相が国会への説明を避ける権利でもない。

日本の国会は、政府の政策を効率よく通過させるための機関ではない。

国民を代表する議員が、政府の判断を検証し、修正し、必要なら拒否するための機関である。

高市内閣の国会運営に対する最大の懸念は、政策内容が保守的であることそのものではない。

選挙で得た多数を、熟議を省略する根拠として用い、参議院や少数意見を政策実行の障害として扱いかねない姿勢である。

それは本当の保守政治ではない。

制度より指導者を優先し、議会より官邸を優先する政治である。

高市首相が「様々な声に耳を傾け、謙虚に」政権を運営するという自身の言葉を本気で守るのであれば、まず国会に向き合わなければならない。

反対意見を聞き、質問に答え、法案を修正し、参議院との合意形成に時間を使うべきである。

それは政治の弱さではない。

異なる民意を一つの国家意思へまとめる、議会政治の最も困難で、最も重要な仕事である。

強い首相だけでは、強い国家はつくれない。

強い国会、独立した参議院、政府に遠慮なく質問できる野党、そして支持する政治家にも批判的な目を向けられる国民がそろって、初めて民主国家は強くなるのである。

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