地域政経

九条レオンの地域から社会と政治・経済のこれからを考える

 政治家の失敗には、少なくとも二つの種類がある。判断そのものを誤った失敗と、問題の所在はかなり正確に見抜いていたのに、それを現実に変える方法を誤った失敗である。前者は比較的分かりやすく、結果が出れば、どこで情勢を読み違えたのかを検証できる。しかし後者は厄介である。時間がたつほど「あの人の言っていたことにも一理あった」という再評価が生まれる一方で、それならなぜ、その人物は政治的な勝者になれなかったのかという疑問が残るからだ。

 加藤紘一という政治家を振り返るとき、この疑問から逃れることは難しい。とりわけ2000年11月に起きた、いわゆる「加藤の乱」は、一人の政治家の失敗談としてだけ読むには惜しい事件である。そこには、世論と議員行動のずれ、正論と組織の力の違い、選挙制度と党公認権、集団行動が崩れる仕組み、そして政治において「正しいこと」と「正しいことを実現すること」がなぜ別の能力なのかという問題が、ほとんど標本のように詰まっている。

 2000年11月20日、野党が森喜朗内閣に対する不信任決議案を提出すると、自民党の有力政治家だった加藤紘一は、山崎拓とともにこれに同調する姿勢を示した。ところが、決定的な局面に近づくにつれて党執行部による猛烈な切り崩しが進み、加藤を支持するとみられていた議員たちは次々に造反から離れていった。加藤は最後には自ら国会へ向かおうとしたものの、側近たちに止められ、本会議を欠席する。不信任案の採決そのものは日付をまたいだ11月21日未明に行われ、賛成190票、反対237票で否決された。

 その直前、加藤を制止した谷垣禎一が「あんたは大将なんだから」と語った場面は、平成政治を象徴する映像として長く記憶されることになった。敗北したのは不信任案だけではなかった。加藤自身が党内で築いてきた政治的影響力も、この一件によって大きく傷ついたのである。

 この光景だけを切り取れば、政局を読み違えた政治家が無謀な倒閣運動を起こし、最後には自ら投票することさえできずに敗れた話に見える。しかし四半世紀ほどの距離を置いて眺めると、それほど単純でもない。加藤が見ていた森政権の脆弱さそのものは、少なくとも現実から大きく外れた認識ではなかったからである。

森政権を危ういと見た判断は間違っていたのか

 森喜朗内閣は、小渕恵三首相の急病という異例の状況のなかで発足した。その政権継承をめぐっては、党幹部らによる協議のあり方が「五人組」「密室政治」と厳しく批判された。森自身は、次の首相を密室で決めたわけではないと国会でも反論しており、したがって歴史的事実として「密室で森首相が決められた」と断定するのは適切ではない。それでも、そのような批判が強く存在し、政権発足時から正統性に疑問を持つ世論があったことは確かである。

 その後も失言や政権運営をめぐる問題が重なり、森内閣の支持率は低下した。加藤が動いた2000年秋には、森政権をこのまま続けてよいのかという疑問は、加藤一人の思いつきではなく、自民党内部にも社会にも存在していた。

 重要なのは、この後の歴史を見て「だから加藤は正しかった」と単純に結論づけないことである。森政権は加藤の乱から約5か月後の2001年4月に終わるが、そこに至るまでには森内閣の低支持率だけでなく、複数の政治問題や党内事情が重なっている。後から政権が崩れたという結果だけを見て、加藤が将来を完全に予見していたと考えるのは、典型的な後知恵になりかねない。

 それでも、加藤が感じ取っていた政権基盤の弱さそのものを、単なる妄想と片づけることもできない。森政権は実際に短期間で求心力を失い、翌春には新しい総裁を選ばざるを得なくなった。したがって加藤の問題認識については、「正解だった」と言うよりも、「少なくとも重大な問題の存在を捉えていた」と評価する方が正確だろう。

 ところが、政治では問題を正確に発見することと、その問題を解決できることは同じではない。

世論が動いても、国会議員が動くとは限らない

 加藤の乱が起きた2000年は、日本の政治にインターネットが影響を与え始めていた時期でもあった。加藤のホームページには大量のアクセスが集まり、激励の電子メールが多数送られた。加藤自身も、そこに社会からの期待を感じ取っていた。

 しかし、ここに大きな落とし穴があった。インターネット上で強く観察される支持と、国民全体の支持は同じではなく、さらに国民の支持と国会議員の投票行動も同じではないからである。

 有権者がテレビを見ながら「森政権を代えた方がいい」「加藤にやらせてみてもいい」と考えることには、大きな個人的代償はない。しかし、自民党所属の国会議員が野党提出の内閣不信任案に賛成するとなれば事情はまったく違う。そこでは自分の信念だけではなく、次回の選挙で党公認を受けられるのか、後援会や地方組織はどう動くのか、党内の役職や政治的将来を失わないか、自分だけが敗者側に取り残されないかという問題まで、一度に判断しなければならない。

 しかも1990年代の選挙制度改革によって衆議院に小選挙区制が導入されると、自民党公認の意味は以前より重くなった。中選挙区制では同じ自民党から複数候補が競うことも普通だったが、小選挙区では原則として一つの政党から一人の公認候補が出る。そのため、党執行部が持つ公認権は議員の政治生命により直接的な影響を与えるようになった。

 野中広務ら党執行部が強かったのは、森喜朗の政治的主張の方が加藤紘一より論理的に優れていることを証明したからではない。造反しようとしている議員一人一人が何を恐れ、何を失いたくないのかを理解し、その条件に働きかけることができたからである。

 ここに、正論と権力が一致しない最初の理由がある。正論は人間の考えを変えようとするが、権力は人間が行動を選ぶ条件そのものを変える。

「森首相を辞めさせたい」と「加藤についていく」は同じではなかった

 政治では、多くの人間が同じ不満を持っていても、それだけで集団行動が成立するとは限らない。

 当時の自民党議員の中に森政権への不満を持つ者がいたとしても、「森首相は交代した方がよい」と考えることと、「野党の内閣不信任案に賛成し、自分の政治生命まで賭けて加藤と行動を共にする」ことの間には大きな距離がある。

 しかも一人一人の判断は、他の議員がどう行動するかによって変わる。例えば五十人が確実に造反すると分かっていれば、自分も加わろうと考える議員がいるかもしれない。しかし、途中で三十五人しか集まらないと分かった瞬間、その議員にとって造反の期待値は変わる。そこで一人が離れれば三十四人になり、その情報を見た別の議員も離れる。このように、ある人数を下回った瞬間から集団行動が連鎖的に崩れていく現象は、政治だけでなく、企業組織や社会運動にも起こり得る。

 加藤の乱は、この協調問題が政治の現場で可視化された事件だったとも考えられる。

 加藤の大きな誤算の一つは、森政権に対する不満の大きさそのものよりも、その不満が自分への政治的支持として結晶化すると期待したことだったのではないか。森政権への不満が六十あっても、加藤への支持が六十あるとは限らない。加藤への好感が六十あったとしても、加藤のために党執行部と戦う覚悟を持つ者が六十いるとは限らないのである。

 政治における本当の支持とは、拍手の数ではない。最後の一票を投じるところまで同じ方向に歩いてくれる人数である。

なぜ「最後に投票しなかったこと」が重かったのか

 加藤の乱では、最後に加藤自身が不信任案へ賛成票を投じなかったことが、しばしば決定的な場面として語られる。

 もっとも、これを単純に「臆病だった」と説明するのは公平ではない。加藤一人が本会議へ向かえば、それまで行動を共にしてきた議員たちにも厳しい処分や政治的損失をもたらす可能性があった。派閥の長として仲間を守ろうとした判断だったと考える余地はあるし、もはや勝算のなくなった戦いを続けることに意味はないと判断した可能性もある。

 しかし権力という観点から見れば、撤退には別の代償が生じる。

 政治における発言の力は、その内容だけで決まるわけではない。「この人物は、最後には本当に実行する」と周囲が予測することによって、初めて交渉力になる。反対者が「強いことを言っていても、最後には撤退するだろう」と考えるようになれば、その人物が次に行う政治的な威嚇や交渉の効果は低下する。

 もちろん、もし加藤が一人でも本会議に出席して不信任案へ賛成していたなら、その後の評価が上がったと断定することはできない。逆に「勝算もないのに党を混乱させた政治家」として、さらに厳しく批判された可能性もある。しかし少なくとも、言葉どおり最後まで投票した政治家として、現在とは異なる記憶が残った可能性はある。

 加藤の乱が単なる敗北ではなく、「挫折」という印象を伴って記憶された理由もそこにある。負けたことだけでなく、勝負を宣言した人物が最後の決定的な場面で勝負そのものから降りたように見えたのである。

小泉純一郎は、なぜ加藤と同じ道を選ばなかったのか

 加藤紘一の敗北を考えるうえで、もっとも興味深い比較対象は小泉純一郎である。

 ここで一つ、重要な事実を確認しておかなければならない。後に「自民党をぶっ壊す」と訴え、旧来の自民党政治に挑戦する象徴となった小泉は、加藤の乱では加藤側に立っていない。それどころか森派の有力政治家として、野中広務らとともに加藤・山崎両派の造反を阻止する側に回っていた。

 この事実は、小泉を単純な改革者、加藤をその先駆者として並べる見方を難しくする。しかし同時に、二人の違いをより鮮明にもする。

 加藤は、自民党執行部に正面から反旗を翻し、野党提出の内閣不信任案という制度を利用して、一気に森政権を倒そうとした。成功すれば劇的だったが、失敗した場合の政治的損失も極めて大きかった。

 一方の小泉は、その時点では党を割る側には回らず、加藤の反乱を止める側に立った。それにもかかわらず、わずか約5か月後の2001年4月には、自民党総裁選という党内の正規手続きに立候補し、橋本龍太郎らを破って総裁になる。そこで小泉は、従来の自民党政治への国民的不満を自らの政治資源へ変え、「自民党を変える」という物語の中心人物になった。

 加藤と小泉の違いは、単純に改革派と保守派の違いではない。同じ党内に存在する不満や社会の閉塞感を、どの制度的な回路を通して権力に変換するかという違いだった。

 加藤は堤防を壊して川の流れを変えようとした。小泉は堤防を壊す戦いには加わらず、その後に開いた水門を使って自分が流れの中心に入った。

 この比喩で見るならば、加藤が完全に時代を読み違えていたとは言いにくい。むしろ、時代の変化を感じ取りながら、それを自分の権力へ変換する装置を最後まで作れなかった政治家だったと考えた方が、二人の違いを説明しやすい。

加藤紘一は、本当に「正しい政治家」だったのか

 しかし、ここまで読んで加藤を「正しかったのに権力政治に敗れた人物」と美化してしまえば、今度は別の誤りに陥る。

 政治家の主張は数学の答案ではない。二十年後に答え合わせをして、丸かバツかを付けられるものばかりではないからである。森政権をいつ倒すべきだったのか、景気対策と財政再建をどう両立するべきだったのか、中国とどの程度協調するべきだったのか、安全保障政策をどこまで拡張するべきだったのかには、それぞれ複数の合理的立場が存在する。

 加藤はその後、自民党内では比較的穏健な保守政治家として、日中関係を重視し、小泉首相の靖国神社参拝を批判した。イラク戦争にも反対・慎重な立場をとり、自衛隊派遣にも慎重だった。イラク戦争については、開戦前に想定されていた大量破壊兵器の大規模な備蓄が戦後の調査で確認されなかったため、開戦に慎重だった政治家たちの議論を後から再検討する材料は増えた。

 しかし、それによって加藤が常に正しく、反対した政治家が常に間違っていたことにはならない。

 むしろ加藤紘一という政治家を考えるうえで興味深いのは、後から振り返ったときに無視できない論点をたびたび提示しながら、それを持続的な政治的多数派へ変えることができなかったという事実である。

 正しさと権力の距離を考えるなら、その方が重要だ。

正論は、それだけでは政治にならない

 私たちは政治を語るとき、ときに「正しいことを言えば人は動く」という考えに引き寄せられる。その反動として政治の現実を知ると、「結局は数だ」「結局は権力だ」と冷笑したくもなる。

 しかし、どちらも政治の半分しか見ていない。

 正しさだけがあって権力がなければ、政策は実行されない。一方、権力だけがあって正しさを問わなくなれば、その権力を何のために使うのか分からなくなる。民主政治が難しいのは、この二つを同時に必要とするからである。

 正しいと考える政策を現実に変えるには賛同者が必要であり、その賛同者が決定的な瞬間まで離れない仕組みが必要になる。反対者が何を恐れ、何を守ろうとしているのかを理解し、ときには妥協し、ときには待ち、ときには退路を断つ必要もある。それは思想だけではできず、組織だけでもできない。政治とは、利害も恐怖も野心も異なる人間を、ある時点で同じ方向へ動かす仕事だからである。

 加藤紘一には言葉があった。政策を考える能力があり、外務官僚出身の国際感覚を持ち、自民党幹事長まで務めた経験もあった。それでも総理大臣にはなれなかった。

 その理由を「いい人だったから」「正論を言ったから」と説明してしまえば、政治という営みのもっとも重要な部分を取り逃がすことになる。問題を発見する能力と、その問題を解決できる多数派を作る能力は別だからである。

「正しかったのに負けた」という物語の危うさ

 敗れた政治家を後世から眺めると、私たちはしばしばそこに物語を付け加える。勝者は権力に汚れ、敗者は信念を守ったという物語である。

 しかし、加藤紘一の政治人生はそれほどきれいには整理できない。

 加藤自身も権力を望んでいた。自民党総裁となり、総理大臣になることを目指していた政治家である。森政権を倒した後に、自らが政治の中心に立つことも当然、視野に入れていた。つまり加藤は、権力から距離を置いた孤高の思想家ではなく、権力を獲得しようとして失敗した政治家だった。

 だからこそ、この人物は興味深い。

 加藤の乱から見えてくるのは、善と悪の対決でも、正論と悪辣な権力者の対立でもない。政治における「問題認識の正しさ」と「実行能力」のずれである。森政権が弱体化しているという認識に相当な根拠があったとしても、不信任案を利用して倒閣するという方法まで適切だったとは限らない。国民の不満を感じ取ることができても、それが自分への支持に変わるとは限らず、自分への支持があったとしても、それが造反票になるとは限らない。

 さらに、時代の方向をある程度見抜いていたとしても、いつ動くのか、どの制度を利用するのか、誰と組むのか、誰を敵に回すのか、どの時点で退路を断つのかという判断を誤れば、政治的には敗北する。

 したがって、「加藤紘一は正しかったのに負けたのか」という問いに対する答えは、単純な「はい」でも「いいえ」でもない。

 少なくとも加藤の乱についていえば、加藤は森政権の弱さという問題の存在をかなり正確に捉えていた。しかし、その問題認識を実際の権力へ変換する設計には失敗した。正しかったから負けたのではない。自分が正しいと考えた方向へ政治を動かすために必要な人数、制度、タイミング、組織、覚悟を、一つの力として束ねることができなかったから負けたのである。

 そして、その事実を最も鮮烈に示しているのが小泉純一郎なのかもしれない。加藤の乱では反乱を阻止する側にいた小泉が、そのわずか数か月後には党内の正規の総裁選を利用して権力を獲得し、今度は自らが自民党改革の象徴となった。この逆転には、政治というものの奇妙さが凝縮されている。

 政治とは、正しい人を選び出す試験ではない。自分が正しいと考える方向へ、異なる利益、恐怖、計算を持つ人間たちを動かし、制度を通して現実を変えていく技術である。

 加藤紘一の敗北が今なお考える材料になるとすれば、それは一人の政治家の悲劇だからではない。私たち自身もまた、「正しいこと」と「正しいことを実現できること」を、つい同じものだと思ってしまうからである。

 正論は、それだけでは権力を生まない。しかし、権力が正論をまったく必要としなくなった社会も危うい。その二つの間に橋を架けることこそ政治家の仕事なのだとすれば、加藤紘一は橋の向こう岸を比較的早く見つけながら、そこへ至る橋そのものを最後まで完成させることができなかった政治家だったのかもしれない。

九条レオンのリベラル文庫

九条レオンの作品やエッセイをまとめています。

リベラル文庫を見る

 「自民党をぶっ壊す」。小泉純一郎という政治家を語るとき、今もこの強烈な言葉が思い出される。ただし、正確に言えば、小泉が訴えた論理は「自民党を変える。変わらなければぶっ壊す」というものだった。自民党という政党そのものを消滅させると言ったわけではなく、変化を拒む古い自民党ならば壊してでも改革するという意味であり、この違いを押さえておかなければ、その後に起きた政治の逆説も見えにくくなる。

 2001年、小泉は自民党総裁となり、内閣総理大臣に就任した。それから4年後の2005年、郵政解散によって行われた衆議院総選挙で、自民党は296議席を獲得する歴史的な大勝を収めた。2003年の237議席から59議席も増え、公明党と合わせた与党は327議席に達したのである。「自民党を変える。変わらなければぶっ壊す」と訴えて登場した政治家が、結果として自民党に巨大な議席をもたらしたのだから、表面だけを見れば奇妙な話に見える。

 では、小泉純一郎は結局、自民党を壊したのではなく、むしろ強くした総理だったのだろうか。この問いは、2005年の296議席だけを見れば簡単に答えられそうだが、実際にはそれほど単純ではない。なぜなら、小泉が弱めようとした自民党の「強さ」と、小泉時代に新たに生まれた自民党の「強さ」は、同じものではなかったからである。

小泉が壊そうとしたのは自民党そのものではなかった

 戦後長く政権を担ってきた自民党は、単純な一枚岩の政党ではなかった。党内には複数の派閥が存在し、その周囲には農業団体、建設業界、医療関係団体、商工団体をはじめとするさまざまな組織が結びついていた。政治家は選挙区へ予算や政策を持ち帰り、支持者や業界団体は選挙で政治家を支え、派閥は所属議員を支援しながら総裁、大臣、党役員などのポストを競う。現在の感覚では古い政治に見えるが、こうした複雑な利害調整の仕組みそのものが、自民党の長期政権を支えていた。

 この仕組みには欠点もあった。政策決定が遅れ、改革が必要だと分かっていても、影響を受ける業界や議員への配慮によって抜本的な変更が難しくなる場合がある。しかし、その反面、自民党内部に異なる価値観や利害を抱え込み、対立を党内で調整できるという利点もあった。財政支出を増やしたい政治家も、財政規律を重視する政治家も、農村を重視する政治家も、都市部を重視する政治家も、一つの政党の中に存在することができたのである。

 小泉が強く批判したのは、まさにこの仕組みだった。政策を実行する前に派閥や業界団体へ配慮し、党内調整を重ねなければならない政治では、大きな改革は進まないと考えたからである。したがって、小泉の「自民党を変える」という主張は、自民党という政党の看板を消すことではなく、長年続いてきた党内調整型、利益配分型の政治を変えることに向けられていたと考える方が実態に近い。

小泉以前から始まっていた自民党の変化

 ただし、ここで注意しなければならないのは、自民党の構造変化をすべて小泉一人の功績、あるいは責任と考えてはいけないということである。日本政治では1990年代から大きな制度改革が進められており、その段階ですでに自民党の権力構造は変化し始めていた。

 特に重要だったのが、1994年の政治改革によって導入された小選挙区比例代表並立制である。それ以前の中選挙区制では、一つの選挙区から複数の議員が選ばれるため、自民党の候補者同士が同じ選挙区で競争することも珍しくなかった。そのため、候補者は党の看板だけではなく、派閥や後援会、業界団体など自前の支持組織を必要としていた。

 ところが小選挙区制では、基本的に一つの選挙区から一人しか当選できない。そのため、どの人物を党の候補者として公認するかという党執行部の権限が以前より重くなる。政治資金制度の改革や政党交付金の導入も、派閥や個々の政治家より政党本部の重要性を高める方向に作用した。

 つまり、小泉が登場する以前から、日本政治には「派閥や個人中心の政治」から「党執行部や党首中心の政治」へ移る制度的な流れが存在していたのである。小泉はこの流れを一人で作った人物ではない。しかし、その新しい制度を誰より大胆に利用し、政治の表舞台で目に見える形にした人物ではあった。

2001年、自民党内部から自民党改革を訴える

 小泉の政治手法は、総裁になる過程からすでに従来型とは異なっていた。2001年の自民党総裁選では、地方の党員票で小泉への強い支持が示され、それが国会議員の投票行動にも大きな影響を与えた。

 ここには、小泉政治を理解する重要な特徴がある。小泉は自民党内部の派閥だけを相手に総裁の座を争ったのではなく、自民党に不満を持つ党員や一般の有権者へ直接訴えかけ、その世論を党内政治へ持ち込んだのである。制度上、日本の総理大臣を国民が直接選ぶわけではないが、政治的には、党首が世論を背景に党内を統率する性格が以前より強く表れるようになった。

 従来型の自民党では、総理大臣であっても党内の派閥や有力者を無視することは難しかった。これに対して小泉は、「国民が改革を支持している」という世論を一つの政治資源として利用し、党内の反対勢力を押し切ろうとした。党内の力関係だけではなく、党の外にある世論を使って党内政治を動かす。この手法が、後の郵政解散で最も劇的な形を取ることになる。

郵政民営化は政策であると同時に政治の物語になった

 2005年、小泉政権最大の争点となったのが郵政民営化だった。郵政事業を民営化するという政策の是非については、当時もさまざまな議論があり、現在から振り返っても評価は一つに決められない。しかし、政治史として重要なのは、その制度設計以上に、小泉がこの問題をどのような政治的構図へ変えたかである。

 郵政民営化法案に自民党内部から反対者が出ると、小泉は彼らを単なる政策上の異論を持つ仲間として処理しなかった。参議院で法案が否決されると衆議院を解散し、郵政民営化に反対した自民党議員の一部を公認せず、その選挙区へ別の候補者を擁立した。後に「刺客候補」と呼ばれた人々である。

 この瞬間、本来ならば「与党対野党」となるはずの総選挙に、別の対立軸が生まれた。「小泉対抵抗勢力」である。

 この構図は極めて強力だった。政権与党である自民党は、本来なら長期政権に対する不満を受ける側にいる。しかし小泉は、自民党総裁でありながら自民党内部の古い勢力と戦う改革者として振る舞ったため、政治を変えたいという有権者が必ずしも野党へ向かわなくてもよくなった。政権交代をしなくても、小泉を支持すれば自民党内部から政治を変えられるという選択肢が提示されたのである。

 これは、自民党が政権与党でありながら、同時に改革勢力として振る舞えるという不思議な政治構図だった。長期政権の責任を負う側でありながら、既存政治と戦う側にも立つことができる。この二重性によって、小泉は政権への不満の一部まで自民党自身の票へ取り込むことに成功したと考えられる。

テレビ政治が作ったのか、それともテレビが映しやすかったのか

 2005年の選挙は「劇場型政治」と呼ばれることが多い。郵政民営化という政策を中心に、「改革する小泉」と「改革に抵抗する勢力」という分かりやすい物語が形成され、テレビでも連日のように報道された。

 ただし、ここで「テレビが小泉を勝たせた」と断定するのは慎重でなければならない。政治学的には、メディア接触と政治意識の間に一定の関連が確認される研究がある一方で、テレビ報道そのものが投票行動を直接変えたという因果関係を完全に証明することは難しい。

 それでも、小泉政治がテレビという媒体と非常に相性がよかったことは確かだろう。郵政制度の詳細な設計を長時間説明するより、「改革か抵抗か」という構図の方が映像として伝えやすく、新しい候補者が登場し、旧来の自民党議員と対決する構図はニュースにもなりやすかった。小泉自身も長い政策説明より、短く印象に残る言葉を使うことに長けていたため、政治が制度の議論であるだけでなく、一つの物語として国民へ届くようになったのである。

296議席は何を意味していたのか

 2005年総選挙で、自民党は296議席を獲得した。2003年の237議席から59議席増えたのであるから、選挙結果だけを見れば圧倒的な勝利だった。

 しかし、この数字をそのまま「自民党への支持が59議席分増えた」と考えることはできない。2005年の自民党の小選挙区得票率は半数を超えていなかったにもかかわらず、小選挙区では全議席の7割を超える議席を獲得した。小選挙区制では、わずかな得票率の差が大きな議席差へ拡大されることがあり、2005年選挙ではこの制度的な増幅効果も強く働いたからである。

 したがって、小泉が自民党を強くしたかどうかを議席数だけで測るのは危険である。より正確に言えば、小泉は自民党への支持を広げると同時に、小選挙区制の特徴を最大限に生かして、その支持を巨大な議席へ変換することに成功した。

 それでも296議席という結果が持つ政治的意味は大きかった。選挙に勝ったことで、小泉は党内で圧倒的な正統性を得たからである。郵政民営化に反対していた勢力は政治的に弱まり、総理と党執行部の政策決定力は強くなった。選挙で得た国民の支持が、そのまま党内統率の力へ変換されたのである。

小泉が強くしたのは「どの自民党」だったのか

 ここで初めて、「小泉は自民党を強くしたのか」という問いをより正確に考えることができる。

 自民党の「強さ」にはいくつもの種類がある。選挙で票を集める力、議席を獲得する力、総裁が党を統率する力、政策を実行する力、地方組織を維持する力、業界団体との関係を保つ力、さらに党内の異なる意見を調整する力まで含めれば、「強い政党」という言葉は一つの数字では測れない。

 小泉時代に明らかに強まったのは、総裁の指導力、選挙で争点を設定する力、公認権を使って候補者を統制する力、そして党首人気を全国的な議席へ変える力だった。それまでの自民党が地域組織、後援会、業界団体、派閥など無数の小さな力を積み重ねて強さを作っていたとすれば、小泉時代には総裁を中心として全国の支持を一気に集約する能力が大きくなった。

 一方で、従来型の自民党が持っていた別の強さまで同時に増したとは言えない。地方組織や業界団体との長期的な関係、党内に異論を抱え込みながら調整する能力、複数の派閥が相互に牽制することで権力を分散させる仕組みなどは、むしろ相対的に弱くなった面がある。

 つまり、小泉時代に起きたのは自民党の単純な強化ではなく、強さの種類そのものの変化だったのである。

「抵抗勢力」を切る政治には強さと弱さが同居する

 小泉政治の特徴の一つは、複雑な党内対立を「改革する側」と「抵抗する側」に分けたことだった。この方法は有権者にとって非常に分かりやすく、政治決定を加速させる効果もあったが、その一方で、現実の政策には単純な賛成と反対だけでは整理できない問題も多い。

 郵政民営化そのものには賛成でも制度設計には反対する人がいるかもしれないし、改革の必要性を認めながら地域経済への影響を心配する政治家もいる。そのような中間的な立場まで「抵抗勢力」という一つの言葉にまとめれば、政治は分かりやすくなる反面、異なる意見を調整する余地は狭くなる。

 古い自民党の派閥政治には多くの問題があったが、それでも異なる利益を党内に抱え込み、時間をかけて妥協点を探す機能を持っていた。小泉政治はその調整過程を短縮し、総裁の判断によって政策を前へ進める力を強めたが、それは同時に、党内で意見を調整する能力を弱くする可能性も持っていたのである。

 会社に例えれば、会議ばかりで決定が遅い企業に強力な社長が現れ、「改革に反対する者には構わず進める」と宣言すれば、意思決定は劇的に速くなるだろう。しかし、その会社が長期的にも強くなったかどうかは別問題である。社長がいる間は動いても、組織内部で異なる意見を調整する仕組みが失われていれば、その人物が去った後に不安定になる可能性があるからである。

2009年の敗北を小泉改革だけで説明することはできない

 小泉は2006年に総理を退任した。そのわずか3年後の2009年衆議院総選挙で、自民党は119議席まで減少し、民主党に政権を明け渡した。2005年に296議席を獲得した政党が、4年後には119議席まで落ち込んだのである。

 この落差だけを見れば、小泉時代に作られた自民党の強さは一時的なものだったと考えたくなる。しかし、2009年の敗北を小泉改革だけの結果として説明することはできない。小泉退任後には安倍晋三、福田康夫、麻生太郎と短期間で総理大臣が交代し、政権運営に対する不信が強まった。世界金融危機による経済環境の悪化もあり、民主党に対して「一度政権を担当させてみよう」という期待も広がっていた。

 さらに、自民党の伝統的な支持構造の揺らぎ自体は、小泉政権以前の1990年代から始まっていた。したがって、2009年の政権交代を「小泉が自民党を壊した結果」と一直線に結びつけるのは、因果関係を単純化しすぎている。

 それでも2005年と2009年を並べると、重要なことが見えてくる。小選挙区制の下では、比較的小さな得票率の変化が巨大な議席変動へ拡大される。さらに、固定的な支持組織より党首や政党イメージに左右される有権者が増えれば、支持が集まったときには大勝できる反面、支持を失ったときには大敗する危険も大きくなる。2005年の296議席と2009年の119議席は、その振幅の大きさを象徴していたとも考えられる。

小泉は「自民党の勝ち方」を作り替えた

 ここまで考えてくると、小泉純一郎を「自民党を強くした総理」と単純に呼ぶことも、「自民党を壊した総理」と呼ぶことも、どちらも十分ではないことが分かる。

 小泉が大きく変えたのは、自民党という組織そのもの以上に、自民党の勝ち方だった。

 かつての自民党は、地方の後援会、農業団体、業界団体、派閥、公共事業などを通じて支持を積み上げ、その総和として全国選挙に勝っていた。小泉時代には、そうした仕組みが完全に消えたわけではないが、その上に別の勝ち方が加わった。総裁が全国共通の争点を設定し、党の公認権を使って候補者を統制し、メディアを通じて有権者へ直接訴え、無党派層を含む大量の票を一気に動かす政治である。

 これは自民党の「組織の厚み」に依存する政治から、「党首を中心とした集中力」を利用する政治への重心移動だった。

 この変化は強さを生んだが、同時に新しい弱さも生んだ。地方組織や固定支持層に支えられた政党は急激には崩れにくいが、党首の人気や政党イメージに依存する政治では、世論の変化によって支持が大きく動く可能性がある。強い指導者の下では非常に強くても、その人物が去れば同じ力を維持できるとは限らない。

「自民党を壊す」という言葉が本当に意味したもの

 小泉純一郎の政治を振り返ると、「自民党を変える。変わらなければぶっ壊す」という言葉は、単なる選挙向けの刺激的な標語だったとは言い切れない。

 小泉は自民党を離れて別の政党を作ったわけではなかった。自民党の中に残り、自民党総裁として自民党内部の古い仕組みを攻撃し、その攻撃によって自民党への支持を集めた。普通なら政権への不満は野党への支持につながるはずだが、小泉は自民党内部に「改革する自民党」と「改革に抵抗する自民党」という対立を作り、政治を変えたいという有権者のエネルギーまで政権与党へ引き寄せたのである。

 それは、日本政治では極めて珍しい成功だった。

 しかし、その成功が残した問いは今も消えていない。政党の強さとは、選挙で多くの議席を取ることなのか、全国に安定した支持組織を持つことなのか、異なる意見を内部で調整する能力なのか、それとも強い指導者の下で迅速に政策を実行できることなのか。どの基準を採用するかによって、小泉政治への評価は変わる。

 少なくとも2005年の選挙を見る限り、小泉は自民党の選挙力と総裁の統率力を大きく高めた。しかし同時に、派閥や業界団体を介した従来型の調整政治を弱め、自民党が長い時間をかけて形成してきた強さの一部を変質させた。そのため、小泉を「自民党を強くした総理」とだけ評価するのも、「自民党を壊した総理」とだけ評価するのも、歴史を単純化しすぎている。

 より実態に近いのは、小泉純一郎が「古い自民党の強さを壊しながら、新しい自民党の強さを作った総理だった」と考えることである。

 「自民党をぶっ壊す」という言葉だけを聞けば、失敗した宣言のようにも見える。自民党は消滅するどころか、その後も日本政治の中心にあり続けたからである。しかし、自民党が何によって選挙に勝ち、誰が党を動かし、どのように有権者へ訴えるのかという仕組みまで含めて考えるなら、小泉の言葉は意外なほど現実になったとも言える。

 彼が壊したのは自民党という名前ではなかった。壊したのは、長年当然だと思われていた自民党政治の一部であり、その跡に現れたのは、より党首の力が強く、より全国的な世論に敏感で、より大きく勝つことも大きく負けることもあり得る自民党だった。

 その意味で、小泉純一郎は「自民党を壊して弱くした総理」でも、「自民党を守って強くした総理」でもない。自民党の強さそのものの形を作り替えた総理だったのである。

九条レオンのリベラル文庫

九条レオンの作品やエッセイをまとめています。

リベラル文庫を見る

 1993年8月、日本の政治には、それまで当然と思われていた風景が突然崩れるような出来事が起きた。内閣総理大臣になったのは自由民主党総裁ではなく、日本新党代表の細川護熙だった。1955年の自民党結成以来、38年間ほぼ途切れることなく続いてきた自民党政権が終わり、日本にも「政権は交代する」という現実が姿を現したのである。

 ところが、その細川が首相であった期間はわずか263日だった。1993年8月9日に発足した細川内閣は、翌1994年4月28日に総辞職している。政権交代の象徴として華々しく登場した人物が、一年にも満たないうちに首相官邸を去ったことだけを見れば、細川政権は一瞬の政治的熱狂に終わったようにも見える。しかし、その短さを東京佐川急便からの一億円借入問題だけで説明してしまうと、この政権がなぜ生まれ、なぜ急速に力を失ったのかという本当の構造が見えなくなる。

 細川政権の短命さを理解するには、まず1993年の「政権交代」がどのような政権交代だったのかを見なければならない。それは、一つの野党が選挙で圧勝し、自民党を打ち破った政権交代ではなかった。

自民党は敗れたのではなく、過半数を失った

 1993年7月の衆議院議員総選挙で、自民党は223議席を獲得していた。依然として国会第一党である。これに対して日本社会党は70議席、新生党55議席、公明党51議席、日本新党35議席、新党さきがけ13議席などに分かれており、自民党に代わる巨大政党が出現したわけではなかった。

 それでも自民党は政権を失った。自民党自身の分裂によって新生党や新党さきがけが生まれ、そこへ日本社会党、公明党、日本新党、民社党、社会民主連合などが加わったことで、自民党を上回る国会多数派が形成されたからである。正確には、日本社会党、新生党、公明党、日本新党、民社党、新党さきがけ、社会民主連合の7党と、民主改革連合という1会派が連立に参加した。一般には「8党派連立」と呼ばれる政権である。

 ここで興味深いのは、その中で35議席しか持たない日本新党の細川護熙が首相になったことである。議席数だけを考えれば、細川は連立政権の最大勢力の代表ではない。それでも彼が選ばれたのは、むしろ最大勢力ではなかったからだった。

 旧来の自民党政治から一定の距離を置き、熊本県知事を経験し、新党を立ち上げた細川には、「古い政治を終わらせる新しい顔」という象徴性があった。社会党の代表を首相にすれば保守系の新党がまとまりにくく、新生党の中心人物を前面に出せば自民党分裂の延長に見えてしまう。その間に立つ細川は、異質な勢力を一つにまとめるための政治的な接着剤として適した人物だったのである。

 しかし、この構造には最初から矛盾が含まれていた。細川は国民的には政権の顔であっても、自らの党が35議席しかない以上、国会の多数を自分の判断だけで動かす力を持っていなかった。細川政権は「強い首相が率いる多数党政権」ではなく、「異なる政党が細川という象徴の下で一時的に結びついた連立政権」だったのである。

八党派を結びつけた政治改革

 その異質な勢力を結びつける最大の共通課題が政治改革だった。当時の日本政治では、リクルート事件や東京佐川急便事件などを通じて政治と金への不信が高まり、中選挙区制の下で同じ自民党候補同士が競争し、多額の政治資金を必要とする仕組みそのものが問題視されていた。

 細川政権は、選挙制度と政治資金制度を変えることを最優先課題に据えた。しかし、ここで注意しなければならないのは、八党派が政治改革について完全に同じ考えだったわけではないことである。とりわけ社会党内部には小選挙区制への警戒があり、新生党の小沢一郎と新党さきがけの武村正義との間にも、選挙制度だけでなく、その先の政界再編をどう描くかという点で違いがあった。

 つまり、政治改革によって連立内部の対立が消えていたのではない。対立は初めから存在していたが、「まず自民党長期政権の下で実現できなかった政治改革を成し遂げる」という大きな目標が、その亀裂を覆っていたのである。

 政治改革関連法案の成立過程も平坦ではなかった。1994年1月21日、法案はいったん参議院で否決される。それでも細川首相と自民党の河野洋平総裁が協議し、制度内容を調整したうえで、1月29日に政治改革四法が成立した。さらに、その細川~河野合意を具体化するための改正法が3月に成立し、現在につながる衆議院の小選挙区比例代表並立制や政党助成制度など、新しい政治制度の基本的な枠組みが固まっていった。

 長年議論されながら実現できなかった政治改革を実際に成立させたことは、細川政権の歴史的成果として軽視できない。しかし皮肉なことに、その成功によって、それまで連立政権を一つに束ねていた最大の目標が一段落することになった。

 政治改革が成立したから連立内部の対立が突然生まれたのではない。もともと存在していた考え方の違いや権力関係の緊張を、政治改革という共通目標が覆い隠しにくくなったのである。

小沢一郎と武村正義の間にあった二つの政治構想

 細川政権内部の複雑さを理解するうえで見落とせないのが、新生党の小沢一郎と、新党さきがけ代表で官房長官を務めた武村正義との関係である。

 両者の対立を単なる個人的な確執として見るだけでは十分ではない。そこには、日本の政党政治を今後どの方向へ組み替えていくのかという構想の違いがあった。小沢は政治改革を通じて政党再編を進め、より明確な二大政治勢力の競争へ日本政治を変えていくことを志向していた。一方、武村はそのような急速な政界再編や権力集中に警戒を示していた。

 しかも武村は官房長官であり、首相を日常的に支える政権中枢の人物だった。その武村と、連立与党の強力な実力者である小沢との間に政治的緊張が存在する以上、細川は両者の間で政権を運営しなければならない。細川政権の不安定さは、単純に「政党が八つあったから」という数の問題ではなく、連立内部に将来の政治そのものについて異なる設計図が存在していたことから生まれていた。

 政権交代を実現するまでは、「自民党政権を終わらせる」という目標がそれらの違いを超えることができた。しかし政権を取った後には、増税をするのか、社会保障をどう設計するのか、経済政策をどこへ向けるのか、そして政界をどのように再編するのかという問題に一つずつ答えなければならない。政権を倒すための連合と、国家を運営するための連合は、似ているようでまったく別のものだった。

国民福祉税という「34時間」が露出させたもの

 その違いを国民の前に最も鮮明に示したのが、1994年2月の国民福祉税構想だった。

 細川は2月3日未明、消費税を廃止し、将来的に税率7%の「国民福祉税」を導入する構想を記者会見で発表した。ところが、この政策について連立与党内部では十分な合意が形成されておらず、とりわけ社会党などから強い反発が起こった結果、構想は約34時間後に白紙撤回される。

 問題は、7%という税率が高かったか低かったかということだけではなかった。国民生活に直接かかわる重要な税制改革が突然発表され、その直後に同じ与党内部の反対で撤回されたことにより、「この政権では誰が政策を決めているのか」という疑問が一気に表面化したのである。

 ただし、これを単純に「細川首相が決めた政策を連立与党が潰した」と理解するのも正確ではない。国民福祉税構想には、小沢一郎をはじめ政権中枢の一部が深く関与していた一方、社会党や武村官房長官を含め、連立全体の意思決定機構には十分に共有されていなかった。

 つまり露呈したのは、首相が弱かったという一言では片づけられない問題だった。政権中枢の一部で形成された政策を、複数の政党からなる連立与党全体の合意へどのようにつなげるのかという仕組みそのものが未成熟だったのである。

 政治改革までは「制度を変える」という目標でまとまることができた。しかし、税制のように誰かの負担を増やさなければならない政策になると、各党はそれぞれの支持者や理念を背負って判断する。そこで必要になるのは新鮮なイメージではなく、地道で複雑な利害調整だった。国民福祉税の34時間は、細川政権が「新しい政治」を象徴する力には優れていても、「新しい政治を運営する仕組み」を十分につくれていなかったことを映し出した。

政治と金を変える政権に返ってきた一億円問題

 そうした政権内部の緊張が続く中で、細川自身にも政治資金をめぐる問題が重くのしかかることになる。東京佐川急便からの一億円借入問題である。

 細川は、1982年に東京佐川急便から一億円を借りたこと自体は認め、それについては完済したと説明した。しかし国会では、借入目的、返済の経過、関連資料などについて追及が続いた。

 この問題を扱う際には慎重さが必要である。一億円を借りた事実があるからといって、それだけで違法な金銭授受だったと断定することはできない。政治的な疑惑と、法的に確認された違法行為とは区別しなければならないからである。

 それでも、この問題が細川に与えた政治的打撃は大きかった。なぜなら細川政権そのものが、政治と金をめぐる旧来の政治への不信を背景に誕生した政権だったからである。古い政治を変えると登場した首相自身が巨額の資金問題について国会で説明を求められることになれば、たとえ法的な問題とは別であっても、「新しい政治」という政権の物語そのものが傷つく。

 政治家にとって、疑惑の重さは金額や法律論だけでは決まらない。その政治家が何を掲げて登場した人物なのかによっても意味が変わる。政治倫理を掲げる政権にとって、自らの資金問題は通常以上に大きな政治的負担にならざるを得なかった。

細川は一億円問題だけで辞めたわけではない

 1994年4月8日、細川は辞意を表明する。ここを「佐川急便から一億円を借りたことが発覚し、責任を取って辞めた」とだけ説明すると、実際の辞任理由を単純化しすぎる。

 細川自身の辞意表明では、一億円借入問題などをめぐって国会審議が停滞し、自らの問題が予算審議の妨げになっていることへの政治的責任が語られている。さらに、過去に自分の資金を知人に運用させていた問題について、新たに法的な問題がある可能性が明らかになったとして、政治の最高責任者として道義的責任を負う必要があるとも説明した。

 したがって、辞任は一つの疑惑だけによって突然引き起こされた出来事ではない。政治改革という最大の共通目標が一段落し、もともと存在した連立内部の対立が見えやすくなり、国民福祉税問題によって意思決定の弱さが露呈し、その上に細川自身の資金問題と国会審議の停滞が重なった結果だったと見る方が実態に近い。

 政治学的にいえば、細川政権の崩壊は単一の原因によるものではない。いくつもの条件が時間をかけて重なり、その最後に首相自身の資金問題が加わった「累積的な政権崩壊」だったのである。

263日しか続かなかった政権は失敗だったのか

 では、263日で終わった細川政権は失敗だったのだろうか。

 政権の安定性だけを基準にすれば、成功した政権とは言いにくい。国民福祉税構想は短時間で撤回され、連立内部の意思決定は安定せず、最終的には首相自身の問題によって国会審議まで停滞した。長期的な政策体系を構築し、それを継続的に実行するところまでは到達できなかった。

 しかし、日本政治に与えた影響まで含めると評価は変わってくる。細川政権は、自民党が国会第一党であっても、過半数を確保できず、他党が多数派を形成すれば政権を失うという議院内閣制の原理を現実の政治として示した。それまで制度上は可能であっても、実際にはほとんど想像されていなかった政権交代を経験したことで、「自民党政権は永続するものではない」という感覚が社会に広がった。

 さらに、長年議論されながら実現できなかった政治改革を成立させたことも残った。後にその制度がどのような結果をもたらしたかについては別の評価が必要だが、日本の選挙制度と政党政治の枠組みを大きく変えたこと自体は否定できない。

 細川政権は、長く統治した政権ではなかったが、日本政治が別の形へ移るための橋のような政権だったともいえる。橋は人が住み続ける場所ではない。それでも、向こう岸へ移るには必要になる。

政権交代の扉を開けることと、その先を統治すること

 細川護熙という政治家の歴史的な意味は、長期政権を築いたことにはない。それまでほとんど開かないと思われていた政権交代という扉を、実際に開いてみせたことにある。

 しかし、扉を開けることと、その向こう側で国家を運営することは別の仕事だった。自民党政権を終わらせるためなら、社会党から保守系新党まで異なる勢力が同じ方向を向くことができる。しかし政権を取った翌日からは、税金を誰が負担するのか、社会保障をどう支えるのか、外交や安全保障をどう考えるのか、将来どのような政党政治をつくるのかという問いに答えなければならない。

 その段階になると、「何に反対するか」ではなく「何を選ぶか」が問われる。しかも一つの政策を選べば、別の選択肢を捨てなければならない。政権交代には異なる勢力を集める力が必要だが、政権運営にはその異なる勢力の間で優先順位を決め、時には不人気な決断まで引き受ける力が必要になる。

 細川政権は、その二つが同じ能力ではないことを日本政治に示した最初の大きな事例だった。

 だから細川護熙は、政権交代の象徴になったにもかかわらず短期間で辞めた、というよりも、政権交代の象徴として成立した政権だったからこそ短命になりやすい条件を抱えていた、と考えた方がよい。細川という人物の新鮮さは異質な八党派を結びつける力になったが、その象徴性を支える巨大な政党組織はなく、連立の内部には政治改革の先にある日本政治について異なる設計図が存在していた。そして政治改革という共通目標が一段落した後、それまで覆われていた亀裂が次第に見えるようになったところへ、国民福祉税問題と細川自身の資金問題が重なった。

 1993年の政権交代が残した最大の教訓は、おそらく「政権を取ること」と「政権を運営すること」はまったく別だということだろう。長く続いた政権を終わらせるとき、人々は一つの旗の下に集まりやすい。しかし、その旗を降ろした後に必要なのは、誰が何を負担し、どの政策を諦め、どの未来を選ぶのかを決めることである。

 細川護熙の263日間は短かった。しかし、その短さの中には、その後の日本政治が何度も直面することになる問題がすでに凝縮されていた。政権交代を可能にすることと、政権交代を安定した統治へ変えることとの間には大きな距離がある。細川政権は、その距離を日本政治が初めて実際に歩き、そして途中で立ち止まった政権だったのである。

九条レオンのリベラル文庫

九条レオンの作品やエッセイをまとめています。

リベラル文庫を見る