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菅直人はなぜ市民運動家から総理大臣まで上り詰めることができたのか

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~市川房枝との微妙な距離から見えてくる「市民派政治家」の実像~

 日本の総理大臣には、ある程度決まった入口がある。政治家の家に生まれて地盤を継ぐ者、中央官庁で経験を積んで政界へ転じる者、大政党に入り派閥や党内組織の階段を一段ずつ上っていく者である。菅直人は、そのどれにもきれいには当てはまらなかった。東京工業大学を卒業し、弁理士資格を取得した後、市民運動や選挙運動に参加し、自ら国政選挙に挑戦して三度敗れ、それでも政治の世界を去らず、1980年に衆議院議員となった。その後、厚生大臣、民主党代表、副総理、財務大臣を経て、2010年には内閣総理大臣に就任する。結果だけを見れば華々しい出世であるが、その道筋は一直線ではなく、むしろ敗北、政党再編、失脚、復帰を何度も繰り返す長い政治人生だった。

 そのため菅の経歴は、「一人の市民運動家が既成政治に挑戦し、ついには国家権力の頂点へ到達した」という魅力的な物語にまとめられやすい。しかし、この説明だけでは実像を取り逃がす。菅が総理大臣まで到達できた理由を考えるには、市民運動家としての理念だけでなく、選挙実務を覚え、政党政治へ入り込み、政界再編に適応し、政策上の問題を争点化しながら、何度政治的に傷ついても完全には退場しなかったという長期的な行動の積み重ねを見る必要がある。

市川房枝との出会いは「政治的原点」だった

 菅直人の政治人生を語るうえで、市川房枝を避けることはできない。1974年の参議院全国区選挙で、当時27歳だった菅は、市川を国政選挙に擁立する運動に参加し、選挙事務長を務めた。単に街頭で応援した若者の一人だったわけではなく、選挙運動の中核にいた人物であり、この経験を菅自身も後年、政治活動の原点として繰り返し振り返っている。

 市川房枝は、戦前から女性参政権運動に取り組み、戦後も金のかからない選挙、組織に依存し過ぎない政治、政治腐敗への厳しい姿勢を主張してきた政治家だった。そうした人物の選挙を若い時期に間近で経験したことが、菅の政治観や選挙観に大きな影響を与えたこと自体は疑いにくい。企業や巨大組織だけに頼らず、個人の寄付や市民ボランティアを集めながら選挙を組み立てる経験は、後に「市民派」を掲げる菅にとって非常に重要な政治的資産となった。

 では、市川は菅をどの程度信頼していたのだろうか。ここになると、後世に広まった「市川房枝の愛弟子」という単純なイメージとは少し違った姿が現れる。1974年の選挙で選挙事務長という重要な役割を任せた以上、市川が菅の行動力や実務能力を全く評価していなかったとは考えにくい。しかし、そのことと、「政治的後継者として全面的に信頼していた」ということは同じではない。

市川房枝は、菅直人の選挙に距離を置いた

 その違いがはっきり表れたのが、菅自身が1976年の衆議院選挙に立候補した時だった。市川が後に残した記録によれば、菅は立候補に際して市川に応援を求めたものの、市川は正式な推薦や選挙応援をせず、「自力で闘いなさい」という趣旨の対応を取った。ただし、完全に突き放したわけではなく、50万円をカンパし、秘書らが手伝えるよう配慮もしている。

 この事実だけでも、二人の関係が単純な絶縁でも、無条件の師弟関係でもなかったことが分かる。市川は若い菅を一定程度支援しながらも、自分の名前によって当選させることまではしなかったのである。しかも選挙が進むと、市川は菅が自分の名前や過去の支援者とのつながりを利用して選挙活動を展開したことについて、自分が主張してきた「理想選挙」とはかなり違うという趣旨の批判を残している。

 この記録は重要である。市川房枝が菅直人を政治家として全面的に認定し、後継者として送り出したという説明は、少なくとも史料上は成り立ちにくい。むしろ市川は、菅の行動力を認めつつ、その政治手法には警戒や違和感も抱いていたと考えるのが自然である。したがって、菅が後に自らを市川房枝の政治的伝統につながる「市民派政治家」として位置づけたとしても、市川側から見た二人の関係には、最後まで一定の距離があったと見るべきだろう。

三度落選しても政治から去らなかった

 1976年の衆議院選挙で菅は落選し、1977年の参議院選挙でも敗れ、1979年の衆議院選挙でも当選できなかった。現在の有名政治家という結果から過去を見ると忘れがちだが、国政選挙に三度続けて落ちた無名に近い若者である。政治家の家に生まれたわけでもなく、巨大な後援会や企業組織を持っていたわけでもない菅が、この段階で政治の道を諦めていたとしても不思議ではなかった。

 しかし菅は政治活動を続けた。江田三郎らと社会市民連合を結成し、それが社会民主連合へ発展すると副代表を務め、1980年の衆参同日選挙でようやく衆議院議員に初当選する。ここで重要なのは、菅が「市民運動家だから政党政治を嫌った」のではなく、かなり早い時期から政党という組織の必要性を理解し、その内部で活動する道を選んでいたことである。

 後から見れば、この経験は菅の政治人生を特徴づけるものとなった。市民運動を出発点としながら、政党政治を拒絶するのではなく、その中に入り込んで政策実現の可能性を広げていく。これを「変節」と見るか、「現実政治への適応」と見るかは評価が分かれる。しかし少なくとも、菅が少数の市民運動の世界にとどまり続けなかったことが、後に総理大臣へ到達する条件の一つになったことは間違いない。

菅直人には、制度を調べて問題を掘り出す政治手法があった

 菅を単なる運動型政治家と考えると、もう一つの特徴を見落とす。国会議員となった1980年代初頭から、菅は薬事行政や審議会制度などについて、資料や制度の仕組みに踏み込む国会質問を行っていた。製薬会社、薬の承認過程、審議会委員の立場などを具体的に取り上げ、行政判断が本当に中立的なのかを問いただしている。

 ここから「菅は生来、官僚を信用しない性格だった」とまで断定することはできない。人物の内面は、国会質問だけから科学的に証明できるものではないからである。しかし、「行政資料や制度の内部構造を具体的に調べ、それを国会で追及する政治手法を早い時期から取っていた」と評価することはできる。この違いは小さいように見えて重要であり、人物の性格を推測するのではなく、確認可能な行動から政治家としての特徴を描く方が、歴史記事としてははるかに信頼できる。

 この政治手法が最も強く注目されたのが、1996年の厚生大臣時代だった。薬害エイズ問題をめぐって、それまで存在が確認できないとされていた資料の調査が進められ、いわゆる「郡司ファイル」を含む資料が発見され、公表された。菅は国の責任を認め、被害者に謝罪する姿勢を示し、それまでの厚生行政とは異なる対応として大きく報道された。

 もちろん、薬害エイズ問題を菅一人が発見したわけではない。患者や家族、弁護士、支援者、研究者、報道機関、国会議員らが長年にわたって問題を追及しており、その蓄積の上に厚生大臣としての菅の行動があった。ここを「一人の英雄が巨大官僚機構の隠蔽を暴いた」と描けば、歴史を単純化し過ぎることになる。

 それでも菅の役割が小さかったわけではない。長年問題が指摘されていても、行政組織の内部を大臣の権限で調査させ、資料を公表し、国の責任を認めるという行為には政治権力が必要だった。市民運動の側から行政を批判していた人物が、大臣となって行政組織そのものを動かしたのである。この経験によって菅は、「市民派」の政治家というだけではなく、行政を動かすことのできる政治家として全国的な知名度を高めた。

「市民派」と「権力」は、本当に対立するものだったのか

 1990年代の日本政治は、大きな政界再編の時代だった。菅は社会民主連合という小政党にとどまらず、新党さきがけに参加し、自民党、社会党、新党さきがけによる連立政権の中で厚生大臣となった。その後、鳩山由紀夫らと民主党を結成し、共同代表、代表へと進んでいく。

 この歩みを見れば、「市民派政治家」という言葉から連想される人物像と、菅の実際の政治行動の間には興味深い緊張関係があったことが分かる。既成政治を批判する立場から政治を始めながら、その後は連立政権へ入り、大臣となり、政党をつくり、党首となり、自ら国家権力の中枢へ近づいていったからである。

 ただし、これを直ちに「権力欲」や「野心」で説明してしまうのは慎重であるべきだろう。政党移動の背景には政策、選挙制度、政界再編、人間関係、政党の存続可能性など複数の要因が存在し、本人の内面的動機を一つに決めることはできない。その一方で、観察可能な行動として明らかなのは、菅が少数政党の政治家であり続ける道ではなく、より大きな政治的影響力を持てる組織へ活動の場を広げていったということである。

 ここに、市民運動家から首相へ至る一つの逆説がある。市民の声を政治へ届けたいのであれば、政治権力から距離を置くだけでは政策を実現できない。行政を動かし、法律を変え、予算を決めようとすれば、最終的には権力を獲得しなければならない。その意味では、菅が市民政治を掲げながら次第に権力の中心へ近づいていったことは、必ずしも論理的矛盾とは言えない。しかし同時に、権力を批判する側から権力を行使する側へ移れば、それまで自分が批判してきた政治と同じ問題に直面することになる。

民主党という「大きな器」を得たことが決定的だった

 菅が首相候補になれる政治家へ変わるためには、本人の能力だけでは不十分だった。総理大臣になるためには、衆議院で多数を確保できる政党または政党連合の中心人物にならなければならないからである。社会民主連合のような小政党に所属し続けていれば、どれほど知名度を上げても首相への道はほぼ存在しなかった。

 その意味で、1996年に結成された民主党と、その後の党勢拡大は菅にとって決定的だった。菅は党代表を務め、自民党に対抗し得る野党第一党の指導者として活動するようになった。民主党はその後、合流と再編を重ねながら勢力を拡大し、2009年の衆議院総選挙で大勝して政権交代を実現する。

 ここまで来ると、菅直人はもはや1970年代の市民運動家ではない。国会議員として約30年の経験を持ち、厚生大臣経験者であり、大政党の代表経験者であり、民主党政権成立後には副総理・国家戦略担当大臣、さらに財務大臣を務める政治家になっていた。市民運動家という出発点は消えていなかったが、それだけで彼を説明することはすでにできなくなっていた。

2010年、首相の椅子は突然転がり込んできたのか

 2010年6月、鳩山由紀夫首相が退陣すると、民主党は新しい代表を選ぶ必要に迫られた。菅は代表選に立候補し、樽床伸二を291票対129票で破って民主党代表となり、その日の衆議院本会議では313票を得て内閣総理大臣に指名された。

 鳩山の突然の退陣によって菅に機会が生じたという意味では、首相就任には偶然的な要素があった。しかし政治における偶然とは、その瞬間に資格を持っている人物にしか利用できない偶然でもある。この時の菅は、副総理であり、財務大臣であり、民主党代表経験者であり、厚生大臣として全国的知名度を持つベテラン政治家だった。岡田克也や前原誠司ら有力政治家が自ら立候補せず菅支持に回ったことで、後継候補として急速に優位な立場を確保した。

 したがって、菅が首相になったことを単なる「棚ぼた」と見るのも正確ではない。鳩山退陣という偶然は存在したが、その偶然を首相就任につなげられる位置に菅がいたことには、約30年間の政治経験があった。政治家の成功を考えるとき、能力と偶然は対立するものではない。偶然によって機会が生まれ、その機会を利用できるだけの経歴、党内基盤、知名度、役職を事前に獲得していた人物が最後に選ばれるのである。

菅直人の最大の特徴は「何度でも政治の中心へ戻ってきたこと」だった

 菅直人を卓越した思想家と見るか、優れた行政指導者と見るかについては評価が分かれる。首相在任中の政治運営についても、東日本大震災や福島第一原子力発電所事故への対応を含め、現在まで議論が続いている。しかし、市民運動家から首相までの上昇過程だけを見れば、一つの特徴が浮かび上がる。それは、一度の成功によって頂点へ駆け上がったのではなく、何度も政治的に敗れながら、そのたびに別の形で中心舞台へ戻ってきたことである。

 国政選挙に三度落選しても戻ってきた。小政党から出発しながら政界再編の中で活動の場を広げた。民主党代表を退いた後も政治生命を失わず、政権交代時には副総理として政権中枢に戻った。こうした長期的な行動から、「非常に強い上昇志向の人物だった」と評価することは可能だが、それを本人の心理として断定する必要はない。確認できる事実だけでも、菅が政治的敗北によって完全に退場することを避け続けた人物だったことは十分に分かる。

 そして、そこに市川房枝との関係を重ねると、菅直人という政治家の少し皮肉な輪郭が見えてくる。市川は若い菅に政治への入口を与え、重要な選挙実務を経験させた一方、菅が自ら選挙へ出ると、その方法には批判的な視線を向けた。菅は市川の政治的理念から影響を受けながら、市川の政治手法をそのまま継承したわけではなかったのである。

「市川房枝の弟子だから総理になった」のではない

 したがって、菅直人が総理大臣まで上り詰めた理由を、市川房枝からの信頼や後援だけで説明することはできない。市川との関係は非常に重要な政治的出発点だったが、市川自身が菅を無条件に政治的後継者として扱っていたとは言い難く、むしろ1976年の選挙では菅の手法を明確に批判していた。

 菅の上昇をより現実的に説明するなら、市民参加型の選挙を若い時期に実地で経験したこと、三度の落選後も政治活動を続けたこと、政党政治の内部へ入り政界再編に適応したこと、国会で行政制度の具体的な問題を調査し争点化したこと、厚生大臣として薬害エイズ問題への対応によって全国的な知名度を得たこと、民主党という政権獲得可能な大政党の指導者となったこと、そして2009年の政権交代後に副総理・財務大臣という首相候補になり得る位置を占めていたことが重なった結果と見るべきである。

 言い換えれば、菅直人の政治人生は、「清廉な市民運動家が国民から支持され続け、自然に総理大臣になった」という物語ではない。市民運動、選挙、政党、行政、政界再編という異なる世界を渡り歩きながら、その都度、自分の政治的な立ち位置を作り直してきた人物の物語である。

 1974年、市川房枝を国会へ戻すために奔走していた27歳の青年が、36年後には自分自身が国会から総理大臣に指名される立場になった。この事実だけを見れば、一つの立身出世物語のようにも映る。しかし、その36年間を丁寧にたどれば、そこにあるのは英雄譚というより、理想と現実、市民運動と政党政治、権力批判と権力行使の間を往復しながら生き残った一人の政治家の姿である。

 市川房枝から受け継いだものと、市川房枝から離れていったもの。その両方を持っていたからこそ、菅直人は単なる「市民運動家」で終わらず、最終的に総理大臣という日本政治の頂点まで到達したのかもしれない。そしてその成功の中には、市川が若き日の菅に感じた違和感さえ、後の政治家・菅直人を考えるための一つの手がかりとして残っているのである。

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