地域政経

九条レオンの地域から社会と政治・経済のこれからを考える

 自分を窮地に追い込んだ新聞記者が目の前に現れたとき、政治家はその男をどう扱うだろうか。怒鳴りつけるかもしれないし、出入りを禁じるかもしれない。少なくとも、自分の側近にしようとは普通は考えないだろう。ところが田中角栄は、そうしなかった。その記者を、やがて自分の秘書にしたのである。

 男の名は早坂茂三。のちに二十三年間にわたって田中の側近を務め、田中政治の内側を後世に伝える証言者となる人物である。二人の関係が興味深いのは、最初から田中に忠実だった人物が取り立てられたわけではないところにある。むしろ逆で、早坂は新聞記者として田中に不利な記事を書き、それによって田中を政治的に困らせた。その能力を見た田中が、やがてその男を自分の懐へ引き入れたのである。

 もちろん、私たちは田中の心の中を見ることはできない。「自分を攻撃する人間だからこそ欲しかった」と田中自身が体系的な人材論を残したわけでもない。それでも、確認できる出来事を丁寧につなぐと、田中が早坂のどこを評価したのかはかなり見えてくる。そこにあったのは、単なる好き嫌いを越えて、人間の「使える力」を見抜こうとする田中角栄独特の人材感覚だったのではないか。

すべては一つのスクープから始まった

 一九三〇年に北海道函館で生まれた早坂茂三は、早稲田大学政治経済学部を卒業後、東京タイムズに入り、政治部記者として永田町を取材していた。田中角栄との関係が大きく動くのは一九六二年である。

 この年二月、アメリカのロバート・F・ケネディ司法長官が来日した。ケネディは大統領ジョン・F・ケネディの実弟であり、当時のアメリカ政治を象徴する人物の一人だった。その来日に際して日本の政治家との非公式な懇談が行われ、その席に当時自民党政務調査会長だった田中角栄も出席している。そこで田中が沖縄返還や安全保障、憲法などに関してかなり踏み込んだ発言をしたことは、後世に作られた角栄伝説だけではない。アメリカ側の外交記録などからも、この懇談で田中が敏感な政治問題について積極的に発言していたことが確認されている。

 問題は、その内容が外へ出たことである。早坂は、その発言を記事にした。記事は政治問題へ発展し、国会審議にも影響を及ぼしたとされるから、政治家の側から見れば極めて迷惑な記者だったはずである。ところが、ここから話がおもしろくなる。

 早坂は後年、自分が記事を書いたことを田中本人に名乗り出たと回想している。そして田中は早坂を激しく責めるどころか、記者としての仕事を認め、自分が記者でも書いただろうという趣旨の反応をしたという。

 この場面については注意が必要である。私たちが確認できるのは、「早坂が後年、そのように回想している」ということであって、その場に録音機が置かれていたわけではない。会話の一字一句まで客観的に確定しているわけではないのである。それでも、早坂がかなり早い時期から同様の経緯を語っていたこと、その後実際に田中の秘書へ転じたことを考えれば、少なくとも「スクープをきっかけとして田中が早坂を強く意識するようになった」という大筋は不自然ではない。

 政治家と記者の間に最初に生まれたものは友情ではなかった。むしろ、互いに相手の力量を知る機会だったと考えた方がよい。早坂は田中の発言の政治的な危険性を嗅ぎ取り、記事にする判断をした。一方の田中は、その記事によって自分が傷つけられたと同時に、早坂という記者がどの程度の男なのかを知った。敵味方という分類より先に、能力が見えたのである。

田中が見たのは「従順さ」ではなかった

 組織が人を選ぶとき、最も簡単なのは自分に逆らわない人物を選ぶことである。上司の意向を理解し、余計な摩擦を起こさず、忠実に動く人物は扱いやすい。政治家の秘書なら、なおさらそう考えたくなる。しかし、早坂はその条件からかなり遠い人物だった。

 田中に不利な記事を書き、問題になれば本人のところへ出ていく。しかも学生時代には、自民党政治家の秘書としては一見すると異質に見える左翼運動の経験まで持っていた。早坂自身の自伝によれば、早稲田大学時代には左翼学生運動に関わり、共産党に入党した経験もあった。

 にもかかわらず、田中は早坂を自分の側へ引き入れる。ここから推測できるのは、田中の人物評価では、少なくとも経歴上の「無難さ」だけが最優先ではなかったということである。

 田中自身も、当時の政界の典型的なエリートコースからは外れた人物だった。新潟県の二田尋常高等小学校を卒業したのち上京し、働きながら中央工学校で土木を学んでいる。旧帝国大学や有名大学を経て官僚となり、そこから政界へ転じるという経歴ではなかった。

 田中には、出身校や学閥によって自然に形成される強固な人的ネットワークが最初から用意されていたわけではない。だからこそ、自分で人間を探し、自分で値踏みし、自分で人間関係をつくる必要があったとも考えられる。早坂の登用は、その田中らしさをよく示している。過去にどこへ所属していたかではなく、目の前で何ができるかを見る。少なくとも早坂のケースでは、田中はそういう人間の見方をしたように見える。

「俺は十年後、天下を取る」

 一九六二年七月、田中角栄は池田勇人内閣の大蔵大臣に就任した。四十四歳だった。その年の十二月、早坂は田中から大蔵大臣室へ呼ばれたと回想している。そして、そこで田中から「俺は十年後、天下を取る。お前は片棒を担げ」と言われたという。

 あまりにも田中角栄らしい言葉である。ただし、この有名な言葉についても、読み方には慎重さが必要だろう。この会話を伝えている中心的な証言者は早坂自身である。したがって、「一九六二年十二月、田中がこの文言を一字一句そのまま発した」と歴史学的に完全確定しているわけではない。正確に言えば、早坂は後年、「田中からそのように誘われた」と回想しているのである。

 それでも、この回想が強烈な印象を残す理由がある。田中角栄が自民党総裁となり、内閣総理大臣に就任するのは一九七二年七月だった。早坂を誘った一九六二年十二月から、およそ九年七か月後である。「十年後」という言葉と、現実の総理就任時期が驚くほど接近している。

 もちろん、だからといって田中が一九六二年の段階で十年後の政局を正確に予測していたとは言えない。政治には選挙があり、派閥抗争があり、首相の交代があり、景気や外交情勢まで絡む。それでも、少なくとも田中が自分の将来を一大臣の椅子だけで終わらせるつもりではなかったことは、十分に想像できる。

 早坂によれば、十二月二日に大臣室へ呼ばれ、十二月十日には大蔵大臣秘書官事務取扱となった。ここで一つだけ、事実と推論を分けておかなければならない。田中が「十年後の天下」を意識していた可能性は高いとしても、早坂の採用そのものが十年後の総理就任を見据えた計画的人材戦略だったと証明する史料はない。

 しかし、少なくとも田中が自らの政治的将来を長い時間軸で考えており、その過程で早坂という異質な能力を持つ人物を側近に加えた、と見ることはできる。この違いは小さいようで大きい。歴史をおもしろくするために、証拠のないところまで物語を完成させてしまってはいけない。むしろ、不確かな部分を残しておく方が、田中という人物の巨大さはかえって際立つ。

なぜ新聞記者だったのか

 田中が早坂を欲しがった理由を考えるとき、彼が単に「頭のいい人間だった」からでは説明しきれない。重要なのは、早坂が新聞記者だったことである。

 政治家と新聞記者は、同じ永田町にいても物事を見る方向が違う。政治家は自分が何を実現するかを考えるが、記者はそれが外からどう見えるかを考える。政治家が政策の内容を説明しているとき、記者はその中のどの一言が翌日の見出しになるかを探している。政治家が「これは大した問題ではない」と思っているとき、記者は「ここから問題が起きる」と感じることがある。

 一九六二年のスクープは、まさにその差を田中に突きつけた出来事だった。田中自身が政治家として発言した言葉を、早坂はニュースとして見た。しかも実際に政治問題となった。田中から見れば、それは苦い経験だったに違いないが、別の角度から見れば、早坂は田中の目の前で、自分の能力をこれ以上ないほど分かりやすく実演してみせたことになる。

 どの発言が危険なのか、世間はどこに反応するのか、新聞は何を問題として切り取るのか。政治家が権力を大きくすればするほど、こうした「外から見る目」は重要になる。田中が早坂を登用した理由を一つに決めることはできないが、早坂の記者としての判断力と胆力を田中が高く評価したことは、早坂自身の証言とその後の登用という事実から見ても、かなり自然な解釈である。

左翼だった男を自民党政治家が採る

 さらに興味深いのが、早坂の政治的経歴である。早坂は学生時代、左翼運動に関わっており、後年の自伝でも共産党への入党経験まで記している。

 田中がその経歴を把握していたことについても、早坂は興味深い回想を残している。田中から、公安調査庁にある自分の資料まで読んだという趣旨のことを言われた、というのである。ただし、これも田中側の公文書によって裏付けられた話ではない。正確には、「早坂が田中からそう言われたと回想している」という証言である。

 それでも、早坂の政治的過去が秘書就任の障害にはならなかったこと自体は動かない。これは田中という政治家の人間観を考えるうえで示唆的である。思想的に自分と完全に同じ人間だけを集めれば、組織は一見まとまりやすい。しかし、その代わりに同じものしか見えない組織にもなりやすい。

 新聞社にいた人間、左翼運動を経験した人間、自分に不都合な記事を書ける人間。早坂は、田中とは違うところから政治を見ることのできる人物だった。田中がそこまで意識的に「異質な人材を集めよう」と考えていたかどうかは分からないが、結果として田中は自分とは異なる経歴と視点を持つ人物を、自分の最も近いところへ置いた。そこに、田中の人材登用の柔軟さを見ることはできるだろう。

早坂は田中の「もう一つの目」になった

 早坂茂三は、その後二十三年間にわたって田中の秘書を務める。単なる一時的な登用ではなかった。田中が権力の頂点へ駆け上がる時期も、総理大臣となった時期も、金脈問題によって退陣した後も、ロッキード事件で政治的に追い詰められていく時期も、早坂は田中の近くにいた。田中が病に倒れるまで、その関係は続いた。

 この長さそのものが、一九六二年の選択が単なる思いつきではなかったことを示している。早坂は田中政治の単なる観察者ではなく、その内部に入った人間になった。新聞記者時代には外から田中を見る人間だったが、秘書になってからは内側から田中を見る人間になった。その二つの視点を持っていたからこそ、後年の早坂は田中角栄について数多くの本を書き、政治評論家として独特の存在感を持つことになる。

 考えてみれば、不思議な関係である。田中にとって早坂は、もともと自分の言葉の危険性を外側から見抜いた男だった。その男を、今度は自分のすぐそばに置いたのである。田中が早坂にどのような役割を期待していたのか、そのすべてを史料から再現することはできないが、結果から見るならば、早坂は田中にとって、自分とは違う角度から政治を見る「もう一つの目」に近い存在になっていったように思える。

「敵を味方にした」というだけでは足りない

 田中と早坂の物語は、ともすると「自分を攻撃した記者を懐柔した」という話として語られる。しかし、それだけでは田中角栄という人物のおもしろさを取り逃がす。もし田中が単に敵を減らしたかっただけなら、記者を一人秘書にしても新聞社そのものが味方になるわけではない。

 むしろ重要なのは、早坂が自分を困らせた過程で、能力を見せてしまったことだったのではないか。田中に不都合な発言を記事にする判断力、大物政治家を相手にしても引かない胆力、自分が書いたと本人の前へ出る覚悟、そして政治の内側と外側を往復して見ることのできる記者としての感覚。田中が早坂を「優秀だ」と評価したという早坂の回想は、こうした事実とよく整合する。

 だから、この一本釣りを最も慎重に表現するなら、田中角栄は自分に従順だったから早坂茂三を選んだのではなく、早坂が記者として実際に能力を示し、その判断力と胆力を田中が高く評価したことが、登用の重要な理由だったと考えるのが自然である。そして、その能力が最も鮮烈に現れた場所が、皮肉にも田中自身を困らせたスクープだったのである。

自分を刺した銛を、自分の船へ引き上げる

 人間は、自分に利益をもたらした相手の能力を評価することはできる。難しいのは、自分に損害を与えた相手の能力を評価することである。そこには感情が入る。「あいつのせいで困った」と考える方が自然であり、「それだけの仕事ができる人間なのだ」と考えるには、かなり強い自己制御が必要になる。

 田中が実際にどこまで意識的にそのような判断をしたのかは分からない。しかし起きたことだけを見れば、田中は自分を困らせた新聞記者を排除せず、やがて自らの側近へ転じさせた。これだけでも十分に異例である。

 早坂は知らないうちに、田中角栄の前で自分の能力を証明していた。採用試験でもなく、履歴書でもなく、面接でもない。田中自身を政治的に困らせる一本の記事が、その男の力量を示してしまったのである。そして田中は、その能力を自分への敵意と同一視しなかった。ここに、早坂茂三一本釣りの核心があったのではないか。

 田中は「自分に都合のいい人間」を探していたというより、「使える人間」を見つけた。少なくとも、二人の間に残された事実と早坂の回想を重ねるなら、そう読むのが最も無理が少ない。

 自分を刺した銛が鋭ければ、普通なら捨てたくなる。ところが田中角栄は、その鋭さそのものに価値を見いだし、銛ごと自分の船へ引き上げたように見える。

 一九六二年十二月、早坂茂三は新聞記者から田中角栄の秘書へ転じた。そして約十年後、田中角栄は本当に総理大臣になった。そのとき、かつて田中の発言を記事にして彼を窮地に追い込んだ男は、もう記者席から田中を見てはいなかった。

 権力の頂点へ登った田中の、すぐそばにいたのである。

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 政治家を批判するとき、「裏切った」という言葉ほど強いものはない。選挙で掲げた公約を実行しなかった。昨日まで反対していた政策に賛成した。所属していた政党を離れた。長く支えてきた支持者とは違う方向へ舵を切った。こうした場面に出会うと、私たちはその政治家の一貫性を疑い、さらにその奥にある人格や信用まで疑いたくなる。

 それは決して不合理な反応ではない。民主主義において選挙が意味を持つためには、有権者が「この候補者なら、おおむねこの方向へ進むだろう」と予測できなければならないからである。選挙の翌日に公約をすべて捨てても構わないのであれば、選挙は未来の政策を選ぶ仕組みではなく、単に人物の名前を書く儀式に近づいてしまう。

 実際、政治学の研究でも、公約は私たちが想像するほど無意味ではない。複数の民主主義国を比較した研究では、政権を担った政党が相当部分の公約を実際に実現していることが確認されており、公約をより多く履行した政権ほど次の選挙で評価されやすいという研究もある。つまり、有権者が公約を気にすることにも、政治家が公約を守ろうとすることにも、民主主義の仕組みとして十分な理由がある。

 それでも政治という仕事を少し長い時間の中で眺めると、一つの厄介な問題が浮かび上がる。

 政治家は、本当に「裏切らないこと」だけを目指せばよいのだろうか。

 選挙のときには合理的だった政策が、その後の経済危機や災害、人口変化、新しいデータによって不合理になったとしても、約束した以上は実行すべきなのか。所属政党の方針が住民の利益に反すると判断しても、党を裏切らないために賛成すべきなのか。支持者の要求と社会全体の利益が衝突したとき、政治家はどちらに忠実であるべきなのだろう。

 こうして考えていくと、政治における「裏切り」は、単純な道徳問題ではなくなってくる。

政治家は誰の代理人なのか

 政治家の場合、忠誠を向ける相手が一つではない。有権者から選ばれ、政党に所属し、公約を掲げ、議会の一員となり、同時に自治体や国家全体の利益について判断する立場に置かれる。選挙区の住民、支持者、政党、議会、行政、そしてまだ投票することのできない将来世代まで含めれば、政治家が向き合う利害は最初から重なり合っている。

 しかも、それらがいつも同じ方向を向いているわけではない。

 たとえば、ある地方議員が「この学校は絶対に残す」と訴えて当選したとする。当選した時点では、地域の人口も財政も、その約束を支えられる状態だった。しかし数年後、出生数が予想以上に減り、一学年に数人しかいなくなった。教員配置や教育環境、建物の更新費用、通学時間まで調べてみると、学校を統合し、スクールバスなどの移動手段を充実させた方が子どもたちにとって望ましいという結論に近づいていく。

 ここで議員が統合に賛成すれば、選挙時の約束を裏切ったと言われるだろう。

 しかし、学校を残すという過去の言葉だけを守った結果、現在の子どもたちの教育環境が悪化したなら、その議員は別のものを裏切ったとも言える。つまり、過去の約束に忠実であるために、現在の住民の利益を犠牲にしたことになる。

 政治の難しさは、ここにある。

 何かを裏切らないという行為が、別の何かに対する裏切りになることがある。

バークが考えた「代表する」という仕事

 この問題は、現代だけのものではない。

 18世紀のイギリスの政治家・思想家エドマンド・バークは、議員を選挙区の要求をそのまま運ぶ使者とは考えなかった。議員は有権者の意見を重く受け止めなければならないが、それと同時に、自分自身の知識と判断を使って公共の利益を考える存在であるべきだ、と考えたのである。

 この発想に立てば、政治家は有権者の命令を機械的に実行する装置ではない。

 ただし、だからといって「政治家は自分の好きなように決めてよい」ということにもならない。バーク型の代表観が政治家に与えるのは自由というより、むしろ重い責任である。自分の判断で有権者の期待と異なる決定をする以上、「なぜそう判断したのか」を説明し、その判断について政治的責任を負わなければならないからだ。

 これは民主主義に存在する二つの考え方の緊張でもある。

 一方には、有権者から与えられた意思をできるだけ忠実に実行する代表者像がある。他方には、選ばれた者が情報を集め、熟慮し、場合によっては有権者の目前の要求とは違う判断をする代表者像がある。

 現実の政治は、そのどちらか一方だけでは成り立たない。

 有権者の意思を無視すれば民主主義ではなくなり、反対にその瞬間の多数意見だけを機械的に実行すれば、代表者が判断する意味がなくなってしまう。

公約は未来を知らない時点で作られる

 公約には、避けることのできない性質がある。

 それは、未来を知らない時点で作られるということである。

 選挙が行われたときには存在しなかった感染症が広がるかもしれない。景気が急激に悪化するかもしれない。税収が予想を大きく下回ることもある。巨大災害が発生すれば、財政支出の優先順位は一夜で変わる。人口予測が外れることも、新しい技術によって以前は不可能だった政策が可能になることもある。

 それでも、「公約は一度掲げた以上、何が起きても変更してはいけない」と考えるなら、政治家に期待しているのは判断ではない。選挙の時点で書かれたプログラムを、その後の現実に関係なく実行することになる。

 しかし、政治とは本来、未来が完全には分からない社会で判断を繰り返す仕事である。

 だから、政策変更そのものを直ちに裏切りと呼ぶのは少し粗い。

 問題にすべきなのは、何を変更したかだけではなく、なぜ変更したのかである。

 新しい事実が判明したから変えたのか。前提条件が崩れたから変えたのか。自分の判断が間違っていたと認めて変えたのか。それとも、権力を得た後で自分に都合のよい方向へ動いただけなのか。

 同じ「昨日と言っていることが違う」という現象でも、その中身はまったく異なる。

「不人気な決断」は、それだけでは正しくない

 ここで一つ注意しなければならない。

 政治を論じるとき、しばしば「本当に必要な改革ほど国民には嫌われる」という物語が語られる。病院を統合する。公共施設を減らす。赤字路線を廃止する。負担を増やす。こうした政策は短期的に反発を生みやすく、選挙上の不利益になる場合がある。

 しかし、不人気だから正しいわけではない。

 病院統合が合理的な場合もあれば、医療アクセスを著しく悪化させるだけの場合もある。増税が財政の持続可能性に必要な場合もあれば、単に政策設計が悪い場合もある。公共施設を減らすことが合理化になる場合もあれば、必要な生活基盤を破壊する場合もある。

 政治家が「批判されても改革を断行する」と言ったからといって、その改革が正しいと証明されたことにはならない。

 政治学の研究から比較的確かに言えるのは、政治家の行動が選挙上の誘因から完全に自由ではないという程度である。再選の可能性や選挙制度が議員の行動に影響することは確認されているが、そこから「選挙に不利な政策ほど社会にとって正しい」という結論を導くことはできない。

 だから必要なのは、勇気の演出ではなく根拠である。

 どの政策を変えるのか。その変更によって誰が利益を得て、誰が負担するのか。別の方法はなかったのか。将来の費用まで含めると、本当にその選択が合理的なのか。

 政治家が有権者の期待を裏切ることを正当化できるとすれば、その判断を検証可能な形で説明できる場合に限られるだろう。

「党を裏切る」とは何を意味するのか

 裏切りという言葉がとりわけ強く使われるのが、政党を離れたり、党の方針に反対したりする場面である。

 しかし、ここでも事情は単純ではない。

 ある議員が政策上の重大な対立から離党する場合と、役職や選挙上の利益を得るために有利な政党へ移る場合とでは、同じ「離党」でも意味が違う。実際、海外の議会を調べた研究では、党を移ったという事実だけでなく、なぜ移ったのかによって有権者の評価が異なる可能性が示されている。

 これは直感的にも理解できる。

 「この政策だけは自分の信念と両立しない」と説明して議席や役職を失う覚悟で党と対立する政治家と、選挙に有利だから強い政党へ移る政治家を、まったく同じ裏切りとして扱うのは難しい。

 だから、政治における一貫性を測るときには、所属先だけを見るのでは足りない。

 何を守ろうとして立場を変えたのかを見る必要がある。

未来の住民は投票所に来ない

 政治には、もう一つ厄介な問題がある。

 時間である。

 現在の政策決定によって影響を受けるのは、現在の有権者だけではない。道路や上下水道、公共施設、国債、年金制度、環境政策、都市計画などは、数十年後の住民にも影響を与える。

 ところが、20年後にその地域で暮らす人々は、今日の選挙には参加できない。

 そのため民主政治には、短い選挙周期の中では将来世代の利益が現在の有権者の要求より弱くなりやすい、という問題が生じることがある。これは政治学で「政治的短期主義」として研究されてきた問題の一つである。

 もちろん、民主主義だから必ず未来が犠牲になるわけではない。現在の有権者も、自分の子どもや孫の生活を考える。財政規律や環境保護を支持する人もいるし、制度によって長期的な政策を守ることもできる。

 それでも、現在の有権者には一票があり、まだ生まれていない人には一票がないという非対称性そのものは消えない。

 この事実を考えると、「支持者を裏切らない政治」という言葉の意味も変わって見えてくる。

 すべての道路を残す。すべての公共施設を維持する。負担は増やさない。サービスも減らさない。それは現在の住民にとって魅力的であり、政治家にとっても説明しやすい。

 しかし、その費用は消えてなくならない。

 借金になり、更新費になり、人手不足になり、将来の住民が選べる政策の幅を狭めていく。

 現在の支持者を裏切らないために未来の選択肢を削っているのだとすれば、それもまた政治的な忠誠のあり方として検討されなければならない。

「状況が変わった」は便利な言葉でもある

 ここまでなら、「では政治家は状況に応じて自由に公約を変えればよい」という話に聞こえるかもしれない。

 しかし、そこには危険な落とし穴がある。

 権力を持つ側にとって、「状況が変わった」「国民のためだ」「苦渋の決断だった」という説明ほど便利な言葉はないからである。

 選挙前には反対していた政策を、権力を得た途端に支持する。既得権益を改革すると訴えていたのに、政権を取ると既存の利害関係に取り込まれる。政策上の理由ではなく役職や党内での立場を守るために態度を変える。それらまで「現実的な政治」と呼んでしまえば、公約も政治的責任も意味を失う。

 そこで、正当化可能な政策変更と、単なる政治的裏切りの境界が必要になる。

 その境界を完全な数式のように引くことはできないが、判断材料はある。

 何が変わったのかを具体的に説明できるか。変更前の判断のどこが誤っていたのかを認めているか。変更によって誰が利益を得るのかを公開できるか。自分自身や特定の支持団体だけが利益を得る構造になっていないか。以前の公約を維持する場合と変更する場合を比較した根拠が示されているか。

 そして何より、その変更について有権者の審判を受ける意思があるか。

 民主主義において正当化される方針転換とは、責任から逃れるための変節ではない。

 むしろ、「以前の自分の判断は誤っていた」「状況が変わったのでこの政策は維持できない」と説明し、その結果として支持を失う可能性まで引き受ける行為でなければならない。

一貫性とは、同じことを言い続けることなのか

 私たちは政治家に一貫性を求める。

 それ自体は正しい。昨日と今日で都合よく言うことを変える政治家ばかりになれば、選挙による選択も責任追及も成り立たなくなる。

 しかし、一貫性という言葉には二つの意味が混ざっている。

 一つは、判断基準の一貫性である。

 誰の利益を重視するのか。公平性と効率性をどう考えるのか。現在世代と将来世代をどう扱うのか。そうした価値判断の軸を保ちながら、新しい情報に応じて政策手段を変える。

 もう一つは、発言内容の一貫性である。

 状況が変わっても、「以前そう言ったから」という理由だけで同じ政策を続ける。

 政治に本当に必要なのは、後者より前者ではないだろうか。

 人口が増え続けることを前提につくられた公共施設を、人口が半分になっても維持することが信念なのか。成長期につくられた制度を、その前提条件が失われたあとも変えないことが一貫性なのか。

 それはもしかすると、現在の社会に忠実なのではなく、過去の自分に忠実なだけなのかもしれない。

「裏切り」が必要なのではない

 ここまで考えてくると、最初の問いにも少し違った答えが見えてくる。

 政治に「裏切り」が必要なのかと問われれば、厳密には少し違う。

 必要になることがあるのは、裏切りそのものではない。

 新しい事実によって以前の判断が維持できなくなったとき、過去の公約や所属政党、支持者の目前の要求と異なる方向へ進むことである。

 公約違反、政策変更、離党、党の方針への反対、支持者の要求への拒否は、日常語ではすべて「裏切り」と呼ばれることがある。しかし政治学的に見れば、それらは同じ行為ではない。動機も違えば、民主主義に与える影響も違う。

 だから評価すべきなのは、「裏切ったか、裏切らなかったか」という一語ではない。

 何を守るために、何を変更したのか。

 そこを見る必要がある。

 政治家が決して裏切ってはならないものがあるとすれば、それは過去に口にした一つ一つの言葉ではないだろう。政党そのものでも、特定の支持団体でもない。

 それは、政治によって影響を受ける人々の利益について考え続け、その判断を説明し、結果について責任を負うという、代表者としての役割ではないだろうか。

 その責任を守ろうとすれば、ときには公約を修正し、党と対立し、支持者を説得し、そして昨日までの自分自身を否定しなければならないこともある。

 だから政治に必要なのは、「絶対に裏切らない政治家」ではないのかもしれない。

 必要なのは、何を変え、なぜ変えたのかを説明できる政治家である。そして、より大きな責任を守るために過去の約束を変えたのだと言うのであれば、その判断が間違っていたと有権者から裁かれる可能性まで引き受ける政治家である。

 政治において問われるべきなのは、裏切ったという事実だけではない。

 その政治家が、最後まで何を裏切らなかったのかなのである。

九条レオンのリベラル文庫

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政治の権力者という言葉から、多くの人が思い浮かべるのは首相か、自民党幹事長だろう。衆議院で当選を重ね、総裁選挙を戦い、テレビカメラの前で政策を語り、最後には首相官邸へ入る。それが日本政治における「大物政治家」の分かりやすい姿である。

青木幹雄は、その典型から奇妙なほど外れていた。国政では一貫して参議院議員であり、首相になったことも自民党総裁になったこともない。全国的な人気を競った政治家でもなければ、強烈な演説によって世論を動かした政治家でもない。それにもかかわらず、1990年代末から2000年代の自民党政治をたどると、重要な局面のかなり深いところに青木の名前が現れる。

やがて彼には「参院のドン」という呼び名が付いた。

この言葉だけを聞けば、古い自民党にいた一人のボス政治家の物語に見える。しかし、それでは青木幹雄という人物の面白さを半分も説明できない。青木の力は、単純に派閥の人数を持っていたからでも、参議院議員を命令で従わせていたからでもなかった。参議院という制度、自民党参院組織の独自性、竹下派以来の人的関係、選挙と人事に関する情報、そして衆議院と参議院、官邸と党をつなぐ調整能力が、一人の政治家のところで重なった。その結果、首相でも幹事長でもない人物が、首相でさえ無視できない存在になったのである。

青木幹雄を読むことは、政治の権力が必ずしも一番高い椅子に座っている者だけのものではないことを知ることでもある。そしてそれは、参議院の政治的意味があらためて問われている2026年の日本政治を考えるうえでも、決して過去の話ではない。

竹下登のそばで見た「人を動かす政治」

青木幹雄は1934年、島根県に生まれた。竹下登の秘書を務め、島根県議会議員を経て、1986年の参議院選挙で初当選した。青木の政治人生を考えるうえで、竹下との関係は避けて通れない。

竹下は、強烈な理念を掲げて党内を二分する政治家ではなかった。相手が何を求めているのかを読み、対立する政治家の間に入って妥協点を探し、人間関係の機微まで含めて巨大な自民党を動かしていく。後の時代から見れば古い派閥政治に映るかもしれないが、当時の自民党を運営するうえでは、そうした調整能力そのものが重要な政治技術だった。

青木は、その政治のすぐ近くにいた。もちろん、竹下のそばにいたことだけを理由に、青木が後の調整能力を獲得したと断定することはできない。それでも、青木がその後、政策理念を大声で主張する政治家ではなく、人間関係の間をつなぐ政治家として頭角を現したことを考えれば、竹下政治の環境が彼の政治観に影響を与えたと見るのは不自然ではない。

政治家の力を役職表だけで測ると、こうした人物は見えなくなる。組織にはしばしば、正式な最高責任者とは別に、「この人に話を通しておかなければ物事が進まない」という人物が生まれる。人事の事情を知り、組織内の感情や利害を知り、誰と誰を結び付ければ案件が動くのかを理解している人物である。情報と相談がその人物のところを通過するようになれば、組織図に書かれた肩書以上の権力が生まれる。

青木が後に築いたのは、まさにこの種類の政治力だった。自分自身が首相になる必要はない。人事や選挙、法案、派閥間の調整が行われる場所に入り、その複雑な関係を結び直す役割を担えば、首相になる政治家とは別の種類の権力を持つことができる。青木は舞台の中央に立ち続ける政治家というより、舞台と舞台をつなぐ通路を押さえる政治家だった。

そもそも参議院はそれほど弱いのか

ここで素朴な疑問が生まれる。それほど政治力があるなら、なぜ青木は衆議院へ行かなかったのだろうか。

日本では首相指名や予算、条約などについて衆議院の優越が認められており、首相を目指す政治家のほとんども衆議院議員である。そのため、参議院はどうしても「二番目の議院」のように見えやすい。しかし、この見方では日本の二院制を正確には理解できない。

日本国憲法第59条では、通常の法律案は原則として衆議院と参議院の双方の可決を必要とする。参議院が否決した法律案を衆議院だけで成立させるには、出席議員の3分の2以上による再可決が必要である。政権与党が衆議院で過半数を持つことと、3分の2を持つこととの間には大きな隔たりがあるため、参議院で多数を確保できなければ、政府は法案ごとに何らかの調整を迫られる。

つまり参議院は、首相をつくる力では衆議院より弱いが、首相が進めようとする政策を止めたり、修正を迫ったりする力については決して軽い存在ではない。権力とは、自分が命令できることだけを意味するわけではない。「自分の同意がなければ相手が困る」という位置に立つこともまた、権力なのである。

しかも参議院には衆議院のような解散がない。首相が参議院の多数派を気に入らないからといって、議員全員を選挙へ送り返すことはできず、半数ずつ改選される議員は6年間の任期を持つ。この制度のため、自民党政権にとって参院自民党は、衆議院側の単なる下部組織にはならなかった。独自の選挙事情と人事慣行を持ち、独自の院内秩序を形成する政治集団として発達したのである。

そこをまとめる人物には、本人の資質とは別に、制度そのものが政治的価値を与える。青木の権力を「とにかく顔が利く人物だった」という人物論だけで説明できない理由は、ここにある。

小渕政権で舞台裏から官邸へ

青木が全国政治の表舞台へ現れたのは、小渕恵三政権だった。1999年10月、小渕首相は青木を内閣官房長官に起用する。参議院議員である青木が、首相官邸の中枢である官房長官になったのである。

二人を結び付けていたのは、竹下登だった。竹下派という巨大な政治集団の中で、小渕と青木は長い時間を共有しており、政策だけではなく、人間として誰を信用できるのかという感覚まで含めた関係が形成されていたと考えられる。

そして2000年4月、小渕首相が病に倒れる。小渕内閣は総辞職し、官房長官だった青木は内閣総理大臣臨時代理となった。その後、森喜朗が首相に指名されるが、この政権移行の過程で大きな批判を浴びたのが、後に「5人組」と呼ばれた自民党有力者による協議だった。

青木、森喜朗、野中広務、亀井静香、村上正邦らが協議し、森後継の流れが形成されたとされる。ただし、会合が最初から後継首相を決める目的だったのか、どの時点で森後継が具体化したのかについては、当事者の説明にも違いがある。「5人が密室で森を首相に決めた」と単純化するのは、歴史的経緯をやや粗くしてしまう。

それでも、この場に青木がいたこと自体には大きな意味がある。首相交代という自民党政治最大級の局面で、参議院議員である青木が最高幹部の協議に加わっていたからである。竹下派を知り、官邸を知り、参議院を知り、衆議院側の実力者とも直接話ができる。青木はこの時点ですでに、複数の政治空間をまたぐ人物になっていた。

「参院のドン」は参議院を支配していたのか

青木はその後、参院自民党の中心へ戻り、参院幹事長などを経て、2004年から自民党参議院議員会長を務めた。このころから「参院のドン」という呼び名が定着していった。

しかし、この言葉は青木の実像を少し誤解させる。「ドン」と聞けば、参議院議員を命令一つで動かしていた人物のように感じられるが、実際の政治はそれほど単純ではなかった。

青木の強さは、議員を恐怖で服従させることではなく、多くの議員が青木との関係を必要とする仕組みを持っていたことにあった。参議院議員にとって6年ごとの選挙は政治生命そのものであり、その過程では公認、組織票、業界団体との関係、党や政府の人事などが複雑に絡み合う。こうした事情を把握し、その調整に深く関与できる人物は、それだけで大きな政治資源を持つことになる。

しかも青木は、参議院内部だけに人脈を持っていたわけではなかった。衆議院側の派閥幹部や首相官邸とも話のできる回路があり、参議院側の事情を官邸へ伝える一方、官邸側の事情を参議院へ持ち帰ることができた。参議院、衆議院、派閥、官邸という別々の世界の間に立つことで、青木自身の政治的価値が高まっていったのである。

社会ネットワーク論の概念を借りるなら、青木の位置は、異なる集団同士を結び付ける「媒介者」として理解することができる。ただし、これはあくまで説明モデルであって、当時の議員間関係をすべてデータ化して社会ネットワーク分析を行った結果ではない。それでも、青木を単なる参議院のボスと見るより、複数の政治集団をつなぐ結節点と考えた方が、彼の影響力ははるかに理解しやすい。

青木は参議院という島の王だったのではない。複数の島を結ぶ橋を管理する人物だったのである。

小泉純一郎でさえ、その橋を壊せなかった

青木の政治力を最も鮮明にしたのは、皮肉にも旧来の自民党政治を壊すと宣言した小泉純一郎だった。

2001年、小泉は「自民党をぶっ壊す」と訴えて総裁となり、派閥均衡型の人事を崩し、首相官邸の主導力を高めていった。その政治手法は、竹下や青木に代表される調整型政治とは対極にあるように見えた。

それでも小泉は、参院自民党の存在を消すことはできなかった。衆議院側で派閥人事を大胆に崩しても、参議院側には独自の秩序があり、その秩序との調整が必要だった。これは小泉が青木個人に服従していたという意味ではない。どれほど強い首相であっても、参議院という制度を消すことはできず、参院自民党が独自の政治集団である以上、そこをまとめる人物との交渉を避けることはできなかったということである。

その構造が劇的に表れたのが、2005年の郵政民営化だった。

小泉が政治生命を懸けた郵政民営化法案は衆議院を通過したが、8月8日の参議院本会議では賛成108、反対125で否決された。自民党からも22人が反対し、青木自身は賛成票を投じている。

この事件は、青木の力と限界を同時に示した。「参院のドン」である青木が賛成しても、自民党参議院議員の大量造反を止めることはできなかった。つまり青木は参議院を完全に支配していたわけではなく、通常の人事や選挙、国会運営において非常に大きな調整力を持っていた人物と理解するのが正確である。

ところが、青木個人の限界が明らかになった一方で、参議院そのものの力は逆に証明された。国民的人気を持ち、自民党総裁であり首相でもあった小泉でさえ、参議院によって最重要法案を一度止められたからである。小泉はその直後、衆議院を解散し、後に本人も国会で、このような解散は「異例中の異例」だったと認めている。

首相でさえ参議院を消すことはできない。だからこそ、参議院をまとめられる人物には大きな政治力が生まれるのである。

首相を目指さなかったことも、青木には有利だったのか

青木にはもう一つ特徴があった。自ら首相の座を争う政治家ではなかったことである。

自民党の衆議院側では、実力者たちは最終的に総裁・首相という一つしかない椅子を争う。普段は同じ派閥にいても、総裁選挙になれば競争相手になり得る。それに対して、首相候補ではない参議院の有力者は、その競争から少し外れた位置にいる。

そのため青木は、衆議院側の実力者にとって、自分の地位を直接奪う相手ではなく、相談や仲介を依頼できる人物になりやすかった可能性がある。ただし、これを青木の権力の決定的原因と断定することはできない。重要なのは、首相候補ではなかったという位置が、仲介者としての役割と矛盾せず、むしろその役割を果たしやすい条件の一つになっていたと考えられることである。

青木が強かった理由は、結局のところ単一ではない。参議院の制度的権限と参院自民党の組織的自律性が土台にあり、そこへ人事や選挙への関与、竹下派以来の人脈、官邸との連絡、本人の調整能力が重なった。どれか一つだけで「参院のドン」が生まれたのではなく、複数の条件が同じ人物のところで重なったことが、青木幹雄という政治現象を生み出したのである。

そして2026年、高市早苗は青木の政治から何を学ぶのか

青木幹雄を昔話の中へ戻してしまえば、この人物をいま読む意味は半減する。

2026年の高市早苗政権は、衆議院で圧倒的な議席を持つ一方、参議院ではそれとは全く異なる政治環境に置かれている。衆議院で巨大な多数を持っているからといって、参議院で同じように政策が通るわけではない。参議院には参議院の選挙によって形成された多数派があり、その政治的正統性は衆議院の議席数によって消えるものではないからである。

ここで高市政権に対して憂慮すべきなのは、本人が明確に「参議院を軽視する」と宣言したかどうかではない。そうした内心まで事実として断定することはできないし、政治的批判ほど事実との区別を慎重にしなければならない。

しかし、もし衆議院で得た巨大な多数を背景に、参議院を政策実現の途中にある面倒な障害物程度に扱う政治姿勢が強まるなら、それは制度論として極めて危うい。高市首相の国会出席をめぐって参議院側から批判が出ていることも、単なる出席回数の問題として片付けるのではなく、政権と第二院との関係という観点から考える必要がある。

衆議院で多数を持たないから参議院と話し合うのではない。参議院が、衆議院とは別の選挙によって選ばれた独立した議院だから話し合わなければならないのである。

2005年、小泉純一郎は非常に強い首相だった。それでも郵政民営化法案は参議院で止まった。2026年の政権が衆議院でどれだけ多くの議席を持っていても、参議院の一票を消すことはできない。

高市政権がこの重みを理解せず、衆議院での圧倒的多数を万能の政治資本と錯覚するようなことがあれば、それは青木幹雄の時代から政治が進歩したことを意味しない。むしろ、二院制を運営する政治技術の一部を失ったというべきだろう。

もちろん、青木型政治そのものを理想化する必要もない。彼が得意とした非公式な調整や派閥的人間関係には、意思決定が国民から見えにくくなるという重大な問題があった。しかし少なくとも青木は、参議院には参議院独自の論理があり、それを無視して衆議院側の都合だけで政治を動かそうとすれば、いずれどこかで行き詰まることを知っていた。

その意味で、青木から学ぶべきなのは古い派閥政治そのものではない。異なる民意を持つ二つの議院を、どうすれば一つの政治として動かせるのかという感覚なのである。

青木が握っていたのは「接続」だった

2007年の参議院選挙で自民党が大敗すると、青木は参議院議員会長を辞任し、2010年には参議院選挙への出馬を見送って政界を引退した。しかし、その後もしばらく自民党内で影響力が残ったことは、青木の力が役職だけに由来していたのではないことを示している。

長い政治生活の中で青木が蓄積していたのは、人と人との関係についての膨大な記憶だった。政治家同士の信頼や対立、選挙事情、支持団体とのつながり、人事の経緯などは、議員を辞職した瞬間に消えるものではない。誰に話を持っていけば物事が動くのかを知っている人物は、役職がなくなっても一定の価値を持ち続ける。

ここまで見てくると、「参院のドン」という呼び名も少し違って見えてくる。

青木が支配していたのは、参議院そのものではなかった。

彼が握っていたのは、政治の「接続」だった。

「参議院議員でありながら」ではなく「参議院議員だったから」

最初の問いへ戻ろう。

なぜ青木幹雄は、参議院議員でありながら自民党政治を動かすことができたのか。

ここまで考えると、この問いには最初から少し偏見が含まれていたことに気付く。「参議院議員でありながら」という言葉には、政治の本流は衆議院にあり、参議院議員が大きな力を持つのは例外だという前提があるからだ。

青木の場合、それを逆に考えた方が実態に近い。

青木幹雄は、参議院議員でありながら強かったのではない。ある意味では、参議院議員だったからこそ強くなった。

首相を生み出す衆議院とは別の場所に、首相が無視できない政治集団が存在する。そこには解散がなく、独自の人事と選挙があり、通常の法律案を止めることのできる制度的な力がある。そして、その政治集団をまとめながら、衆議院の派閥とも首相官邸とも地方政治とも話のできる人物が現れた。それが青木幹雄だった。

もちろん、青木型政治には民主政治から見て重大な問題もあった。「5人組」に象徴されるように、有力者同士の非公式な話し合いによって国家の重大な意思決定が進むなら、その過程は国民から見えにくくなる。青木を評価することと、そうした政治手法を肯定することは別の問題である。

それでも、青木の政治力がどこから生まれたのかを考える意味は残る。彼は制度を知り、人間関係を知り、それぞれが直接にはつながらない場所で自分が媒介者になることで力を得た。

政治では、目立つ人物が必ずしも最も重要な人物とは限らない。首相が政策を掲げ、幹事長が党を動かし、国会議員が採決する。その背後では、それぞれの利害を結び付け、対立する者同士を同じテーブルに着かせる役割が必要になる。青木幹雄は長い間、その役割を担っていた。

首相官邸の正面玄関に立っていたわけではない。テレビカメラの中央にいたわけでもない。それでも政治家たちが目的地へ向かう途中には、青木のいる細い廊下を通らなければならない場面があった。

その廊下の一つが、参議院だった。

「参院のドン」という呼び名が教えてくれるのは、一人の老人が参議院を支配していたという単純な物語ではない。民主政治の権力は、必ずしも一番高い椅子だけに存在するわけではないということである。

そして2026年、衆議院で巨大な多数を持つ政権ほど、そのことを忘れてはならない。

小泉純一郎ですら、参議院で止まった。

青木幹雄は、その重みをよく知っていた。

参議院を軽く見る政治がもしあるとすれば、それが軽く見ているのは単なる一つの議院ではない。異なる選挙で形成された二つの民意をあえて並立させ、政治を少し不便にすることで権力を抑制しようとする、日本の二院制そのものなのである。

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 政治家の力を人気で測ろうとすると、二階俊博という政治家はひどく分かりにくい。

 テレビ映りのよさを武器にした政治家ではない。演説によって大衆を熱狂させるタイプでもなく、国民的人気を背負って総理大臣の座を目指したわけでもない。それどころか、中国との近い関係をめぐっては保守層の一部から厳しく批判され、道路や国土強靱化への強い関与からは利益誘導型政治の象徴のように語られることもあった。新型コロナウイルス感染症の流行期には、旅行業界との長い関係にも批判的な視線が向けられた。そして晩年には政治資金をめぐる問題が直撃し、2024年3月、次の衆議院選挙に立候補しないことを表明するに至った。

 ところが、その二階は2016年8月から2021年10月まで、1886日にわたって自由民主党(自民党)の幹事長を務めた。これは歴代最長である。安倍晋三政権から菅義偉政権へと総理大臣が交代しても、二階は党の中枢に残った。1983年の初当選から数えれば、衆議院議員として13回当選している。

 なぜ、これほど批判されながら権力の中心にいられたのか。

 この問いを解くには、「なぜ二階は人気があったのか」と考えるだけでは足りない。むしろ二階政治の核心は、好かれることよりも、政治の内部で必要とされることにあったのではないか。

権力は、拍手の大きさだけでは測れない

 民主政治では、選挙に勝つことが権力への入口になる。しかし、議員になった後の力関係は、得票数や世論調査の数字だけでは決まらない。

 候補者を誰にするのか。党内の対立をどう収めるのか。地方組織から上がってきた要求をどこへ運ぶのか。政権が危機に直面したとき、誰が異なる派閥の間を走り回るのか。選挙で苦戦している議員を誰が支えるのか。政府と党の意思がずれたとき、最後の着地点を誰が探すのか。

 こうした仕事は、国会中継にはほとんど映らない。

 だが政治組織は、演説する人間だけでは動かない。調整し、紹介し、つなぎ、時には対立する者同士の間に入り、誰かが決断できる環境をつくる人間が必要になる。

 二階は、この見えにくい政治を長く生きてきた。

 その経歴自体が異色である。1993年に自民党を離れ、新生党、新進党、自由党、保守党、保守新党と政党再編の時代を渡り歩いた後、2003年に保守新党が自民党へ合流する形で約10年ぶりに戻った

 普通なら、このような政党遍歴は弱点にもなる。

 しかし、別の角度から見れば、それは一つの政治的資産でもあった。

 自民党の中だけを歩いてきた政治家よりも、野党の事情を知っている。巨大政党だけでなく、小さな政党が生き残る難しさも知っている。昨日まで敵だった政治家が明日には連立相手になることも、新しい政党が数年で消えてしまうことも知っている。

 その経験から何を学んだのかは本人の内面に属するため断定できない。ただ、その後の二階の行動を見る限り、政治的な人間関係を一度の対立だけで切断しないという特徴は繰り返し現れている。

 政治の世界では、今日の敵が永久に敵であるとは限らない。

 その感覚を早くから身につけていたことが、二階の長い政治人生を理解する一つの手掛かりになる。

二階の力は「城」よりも「交差点」に近かった

 二階の権力を「派閥の領袖だったから」と説明することはできる。

 しかし、それだけでは十分ではない。

 2003年に自民党へ戻った二階は、旧保守新党の議員らを中心に「新しい波」という政治グループをつくった。その勢力は決して大きくなかった。2009年に自民党が政権を失った衆議院選挙では、所属国会議員は二階を含めてわずか3人まで減った。それが次第に議員を増やし、2020年には47人となり、党内第4派閥にまで成長している。

 ここには、二階政治を理解する重要な特徴がある。

 巨大派閥を最初から相続したのではない。

 小さな集団から始めて、人を増やしたのである。

 政治学や社会ネットワーク研究には、ブローカー(broker・異なる集団を仲介する主体)という考え方がある。ネットワークの中で力を持つ人物とは、単純に知り合いの数が最も多い人物とは限らない。互いに直接つながっていない人々や集団の間に位置し、情報や交渉の経路になる人物が大きな影響力を持つ場合がある。

 これを数理的に捉える考え方の一つが、媒介中心性(betweenness centrality・他者同士を結ぶ経路上に、ある主体がどの程度位置しているかを見る指標)である。政治に関するネットワーク研究でも、集団間をつなぐ仲介者が、情報伝達や政治的動員において特徴的な位置を占めることが示されている。

 もちろん、二階について媒介中心性を計算した研究が存在するわけではない。

 それでも、この考え方を借りると彼の立ち位置は理解しやすい。

 二階の権力は、巨大な城というより、交通量の多い交差点に近かった。

 交差点そのものは目的地ではない。だが、複数の道がそこで交わり、そこを通らなければ別の場所へ行きにくいとなれば、交差点には独自の価値が生まれる。

 二階が長年築いたのも、それに似た位置だったのではないか。

幹事長という地位が、交差点をさらに大きくした

 その二階に決定的な力を与えたのが、2016年の自民党幹事長就任だった。

 自民党の党則では、幹事長は「総裁を補佐し、党務を執行する」と定められている。また、自民党は過去の機構改革で、選挙実務を総裁と幹事長の下へ集中させる方針も明確にしてきた。  これは単なる名誉職ではない。

 党組織、選挙、人事、資金、地方組織との調整など、政党を実際に動かすさまざまな情報が幹事長周辺へ集まりやすい。

 ここで重要なのは、権力には「命令できる」という形だけでなく、「相談される」という形もあることである。

 相談が集まれば、情報が集まる。

 情報が集まれば、誰が困っているのかが見えてくる。誰と誰が対立しているのか、どの選挙区が危ないのか、どの議員が不満を持っているのか、地方が政府に何を求めているのかが分かる。

 そして、困っている人間を助けることができれば、その間には新しい政治的関係が生まれる。

 したがって、二階については「幹事長になったから強くなった」という一方向だけで考えない方がよい。

 長年蓄積した人脈と政治力があったからこそ幹事長に選ばれ、その幹事長という地位によって、さらに情報、人事、選挙、党内調整への接点が増えた。既存の政治力が役職を生み、役職がまた政治力を強くする。

 その循環が1886日続いたのである。

「総理にならない実力者」という奇妙な強さ

 二階政治には、もう一つ興味深い特徴があった。

 長い政治人生の中で大きな権力を持ちながら、自らが自民党総裁となって総理大臣を目指す動きは前面に出なかった。

 ここを、「安倍晋三にとって二階は使いやすかった」と断定してしまうのは慎重であるべきだろう。安倍本人の心理を外部から確定することはできない。

 しかし、客観的に確認できることはある。

 二階は安倍と総裁職を直接争う立場には立たず、安倍政権下で長期間幹事長を務めた。総理の座を奪う競争相手としてではなく、党運営を担う実力者として存在していた。

 一般論として、党首を目指す有力派閥の領袖と、党首の座を直接争わず組織運営を担う実力者とでは、総裁との関係は異なる。

 二階の長期在任についても、この位置関係は無視できない。

 権力者にとって恐ろしいのは、有能な部下そのものではない。有能で、なおかつ自分の椅子を狙う部下である。

 反対に、最高権力の座を直接競わず、そこで必要となる調整を引き受ける人物には別の価値が生まれる。

 二階は、総理大臣にならなかったから権力を持てなかったのではなく、総理大臣にならない位置から別種の権力を蓄積した、と見る方が実像には近い。

地方政治では「何を語ったか」だけでは評価されない

 東京から二階を見ると、しばしば古い政治の象徴に見える。

 しかし和歌山から見ると、景色は少し違ってくる。

 二階は道路、防災、国土強靱化、観光、港湾などの政策に長く関与してきた。本人の政治活動記録には、紀伊半島の道路整備、地震対策、ドクターヘリ、港湾など、地元の社会基盤に関係する事業が大量に記録されている。もっとも、政治家本人が掲げる「実績」は自己評価を含むため、それだけで政策効果や本人の寄与を証明することはできない。

 それでも、二階政治が地方の具体的な政策課題と深く結びついていたことまでは確認できる。

 地方の有権者が国会議員を見るとき、全国的な政治論争だけが判断材料になるわけではない。

 道路が整備されたか。災害対策が進んだか。地域の要望を中央政府まで運んでくれるか。行政との交渉力を持っているか。

 こうした評価軸も存在する。

 実際、二階が最後に出馬した2021年の衆議院選挙では、和歌山3区で10万2834票、得票率69.3%を獲得して当選している。2位候補は13.9%であり、選挙結果だけを見れば圧倒的だった。

 ただし、ここから「公共事業を持ってきたから69.3%を取った」と結論することはできない。

 選挙結果には、現職としての知名度、自民党の組織力、後援会、地域の政党支持構造、対立候補の顔ぶれなど、多数の要因が作用しているからである。

 それでも、全国的な評価と地元の評価が大きく異なり得るという事実は重要である。

 国会議員は全国民による一つの人気投票で選ばれるわけではない。

 二階が長く強固な議席を維持した背景には、こうした小選挙区政治の構造もあった。

「中国に近い」という批判が、同時に外交経路にもなる

 二階を語るとき、中国との関係を避けることはできない。

 象徴的なのが2015年である。

 この年、二階は総勢3162人に及ぶ「日中観光文化交流団」の名誉団長として中国を訪れた。北京の人民大会堂では習近平国家主席も出席して交流行事が行われ、二階は当時、全国旅行業協会会長でもあった。

 このような長年の日中交流を背景に、二階はしばしば「親中派」と呼ばれ、その姿勢は政治的批判の対象になった。

 その批判には政策論として検討すべき論点がある。中国政府に対してどこまで厳しい態度を取るべきか、安全保障と経済交流をどのように両立するのかは、日本外交にとって現実の争点だからである。

 ただし、ここにも二階政治らしい逆説がある。

 外交関係が悪化すると、相手国と会話できる経路そのものが不足する。

 そのとき、長年にわたり関係を維持してきた政治家の人的ネットワークは、少なくとも潜在的には、他の政治家では容易に代替できない外交資源になり得る。

 ここで重要なのは、「中国とのパイプがあったから二階は国内で権力を持てた」とまで断定しないことである。

 そこまでの因果関係を示す資料はない。

 しかし、中国との長期的な人的関係が二階固有の政治資源の一つだったこと、その資源が日中関係の悪化時には外交経路として利用可能だったことは、十分に合理的な説明である。

 つまり、「中国に近い」という評価は、ある有権者にとっては政治的弱点になり、別の場面では希少な交渉経路という価値を持ち得る。

 二階政治では、批判される理由と必要とされる理由が、同じ場所から生まれることがあった。

2020年、二階の政治技術が最も鮮明に現れた

 その特徴が最も分かりやすく現れたのが、2020年の安倍晋三退陣後である。

 安倍が辞意を表明すると、後継総裁をめぐる動きが一気に始まった。

 当時、二階派は47人であり、党内最大派閥ではなかった。

 それでも二階派が菅義偉支持を打ち出すと、最大派閥の細田派をはじめ、麻生派などが相次いで菅支持へ動いた。日本大百科全書も、菅が二階に出馬意向を伝え、二階派が支持を打ち出した後、党内各派が次々に支持を表明した経過を記録している。

 ここで二階派だけが菅政権をつくった、と考えるのは正確ではない。

 麻生派、細田派、竹下派など他の有力派閥もそれぞれの政治的判断によって菅を支持した。菅本人の官房長官としての実績や、安倍政権との継続性を求める力も作用した。

 しかし、二階派が早期に支持を打ち出したことが、総裁選初期の流れを形成する一要素になったことは否定しにくい。

 政治では、単純な人数だけでなく、いつ動くかが重要になる。

 全員が様子を見ている段階で一つの勢力が動けば、それ自体が新しい情報になる。

 「あの派閥が支持した」

 という事実を見て、別の派閥が勝敗を予測し、さらに動く。その動きを見た第三の勢力がまた判断を変える。

 雪崩は、最も大きな石だけが起こすとは限らない。

 斜面の状態を読んで、最初に動いた塊が全体を動かすことがある。

 2020年の総裁選は、二階の力を単なる派閥人数だけでは説明できないことを象徴する出来事だった。

 菅が総裁に就任すると、二階はそのまま幹事長に留任した。菅自身も当時、二階を「党の要」と位置付けていたと報じられている。

 この時期、二階は確かに「キングメーカー」と呼ばれるほどの影響力を持っていた。

 しかし、その力の本体は「自分の言うことを全員に聞かせる」という絶対的な支配ではなかった。

 むしろ、次に誰が動くのかを読み、先に動き、異なる勢力をつなぐ能力だったと見る方が適切だろう。

しかし、「必要とされる政治」は同時に不信も生む

 ここまで見ると、二階政治は非常に合理的に見える。

 だが、その強さを生み出した仕組みには、最初から弱点も埋め込まれていた。

 人間関係による調整を重視すれば、意思決定の過程は外から見えにくくなる。

 地方に具体的な政策を持ち帰る政治を重視すれば、政治力の強い地域ほど有利になるのではないかという疑問が生まれる。

 業界との長い関係を政策形成に利用すれば、専門知識や実行力を得られる一方で、政治と業界利益との距離が近すぎるのではないかという批判も起こる。

 選挙、資金、人事、派閥、地方、業界を結ぶ政治技術は、政治組織の内部では調整能力として評価され得る。しかし国民から見れば、「誰が、どのような理由で、どのように決定したのか」が分かりにくい政治にもなる。

 つまり、二階の強さをつくった仕組みそのものが、二階への不信をつくる仕組みにもなっていた。

 その矛盾が晩年に最も強く表れたのが、自由民主党派閥の政治資金問題だった。

 二階派「志帥会」の元会計責任者は、2022年までの5年間で約2億6000万円の政治資金パーティー収入などを収支報告書に記載しなかったとして起訴され、裁判で起訴内容を認めた。二階自身については、派閥の政治資金をめぐって刑事告発されたものの、東京地方検察庁特別捜査部は2024年7月、「嫌疑なし」として不起訴処分としている。したがって、会計責任者らの刑事責任と二階本人の刑事責任は明確に区別しなければならない。  それでも政治的責任という問題は残った。

 二階は2024年3月、次の衆議院選挙に出馬しないことを表明し、自らの政治責任について言及した。

 長い間、二階を支えてきた「必要とされる力」と、その政治手法を抱えることによって党が負う政治的コストとの均衡が、大きく崩れた時期だったと見ることができる。

二階を長く残したものは何だったのか

 二階俊博という政治家を「古い政治家」の一言で片付けるのは簡単である。

 確かに、彼が得意とした政治には、昭和以来の自民党政治を思わせる部分が多い。

 人に会う。敵とも関係を切らない。選挙で困っている人間を支える。地方の要求を中央へ運ぶ。業界との関係を維持する。外交が詰まれば別の経路を探す。派閥を越えて人間関係を残しておく。

 こうした政治は、透明性や公平性を強く求める現代の政治観とは緊張する。

 だから二階は批判された。

 しかし同時に、政党政治が依然として人間によって動き、選挙区が存在し、地方と中央の利害が異なり、派閥間の調整が必要で、外国との交渉経路も必要であるかぎり、二階の持っていたような技術にも需要が存在した。

 そこに、二階俊博が長く権力の中心に残った理由を考える鍵がある。

 もちろん、単一の原因で説明することはできない。

 強固な選挙基盤、長い議員経験、派閥、人事と選挙に関わる幹事長という地位、地方政策への関与、業界とのネットワーク、外交上の人的関係、そして党内の異なる勢力をつなぐ仲介能力。それらが互いに作用し合った結果として、二階の政治的影響力は形成されたと考えるのが最も慎重である。

 その中でも、とりわけ特徴的だったのは、自分を最大勢力にすること以上に、自分がいることで複数の勢力がつながる位置を確保したことではないか。

 政治の世界では、最も拍手を受ける人物が、必ずしも最も強いとは限らない。

 演説台の中央にいる人よりも、舞台裏で何本もの電話を受けている人の方が、重大な決定に近いことがある。

 人気のある人より、相談される人。

 誰からも愛される人より、対立する人々の双方と話せる人。

 最大の軍団を率いる人より、複数の軍団の間を行き来できる人。

 二階俊博の長い政治人生は、日本政治に存在するそうしたもう一つの権力の姿を、極端なほど分かりやすく示している。

 だから、最後に残る問いは「なぜ二階だけが生き残ったのか」ではないのかもしれない。

 より正確に言えば、自民党内の権力調整、選挙、地方、業界、外交を結ぶ政治構造の中で、なぜ二階のような政治家を必要とする局面がこれほど長く続いたのか、という問いである。

 二階俊博を理解することは、一人の老練な政治家を理解するだけではない。

 表に見える人気とは別の場所で、政治権力がどのように生まれ、どのように蓄積され、そして最後にはどのように失われていくのか。

 その仕組みを見ることなのである。

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 1994年6月29日、日本の国会では、戦後政治の常識から見れば奇妙としか言いようのない首相指名選挙が行われていた。候補者の一人は日本社会党委員長の村山富市であり、その村山を首相にしようとしていた最大の政治勢力は、社会党が長年にわたって対決してきた自由民主党だった。自由民主党と日本社会党は、1955年に成立したいわゆる「55年体制」の中で、日本政治の左右を代表する二大勢力として向かい合ってきた。日米安全保障条約、自衛隊、憲法、防衛政策、経済政策をめぐって両党は激しく争い、自民党が政権を担えば、社会党は最大野党としてそれを批判する。その対立構造はあまりに長く続いたため、多くの有権者にとって、自民党と社会党が同じ政権に入ること自体が想像しにくい出来事だった。

 しかも、首相になる村山は社会党の一議員ではない。党の最高責任者である委員長だった。その村山の名前を、自民党議員たちが首相指名選挙の投票用紙に書いたのである。なぜ、そんなことが起きたのか。自民党と社会党の思想が突然近づいたからではない。長年の対立を忘れて和解したからでもない。むしろ逆であり、1993年から1994年にかけて、それまで両党を対立させていた日本政治そのものの土台が崩れ始めたことこそが、村山政権誕生を理解する鍵になる。

自民党が敗れた選挙で、社会党も敗れていた

 物語は1993年に始まる。それまで自民党は、1955年以来、多少の揺れはありながらもほぼ一貫して政権の中心にいた。ところが政治改革をめぐる党内対立が激化し、小沢一郎や羽田孜らが自民党を離党して新生党を結成する。宮沢喜一内閣に対する不信任決議案には自民党からも造反者が出て、衆議院は解散された。そして1993年7月18日の総選挙で、自民党は223議席にとどまり、単独過半数を失う。

 ここまでなら、「自民党が敗れて野党が勝った選挙」と説明したくなるが、実際の選挙結果はもっと複雑だった。それまで最大野党だった社会党も、前回の136議席から70議席へと大幅に議席を減らしていたのである。つまり、有権者が自民党から社会党へ政権を渡そうとしたわけではない。自民党と社会党という、戦後政治を長く支配してきた二つの巨大な柱が同時に揺れ、その間から新しい政治勢力が一気に伸びてきたのである。

 新生党、日本新党、新党さきがけといった新党が存在感を増し、公明党や民社党なども加わって、自民党を政権から外す新しい連立の枠組みがつくられた。その結果、日本新党代表の細川護熙を首相とする非自民連立政権が誕生し、1955年以来続いてきた自民党中心の政権は、ここでいったん途切れた。しかし、細川政権には誕生した瞬間から矛盾があった。参加していた政党の政治理念はかなり違っており、社会党と新生党では、安全保障政策も経済政策も政治改革に対する考え方も同じではない。公明党、民社党、日本新党、新党さきがけも、それぞれ異なる政治的背景を持っていた。

 彼らを強く結びつけていた最大の共通項は、「自民党を政権から降ろす」という目的だった。ところが、その目的が達成されると、次の問題が現れる。自民党を倒した後、どのような政治をつくるのかという問いである。ここでは意見が一致していなかった。共通の敵がいる間は一緒に戦うことができるが、その敵がいなくなった瞬間、昨日まで見えなかった味方同士の違いが急に大きくなる。非自民連立政権が抱えていたのは、まさにその問題だった。

細川政権の後で始まった「次の政界」をめぐる争い

 細川護熙は政治改革を実現したものの、政治資金をめぐる問題などから1994年4月に退陣し、後継首相となったのが羽田孜だった。しかし羽田政権は、発足前から大きくつまずいた。新生党、公明党、日本新党、民社党などが「改新」という院内会派を結成したのである。その枠組みに社会党は入っていなかった。

 これを単なる国会内の会派再編と考えると、当時の社会党が受けた衝撃を見落とす。社会党にとって問題だったのは、自分たちが外されたことだけではない。その背後で、新生党の小沢一郎らを中心に、社会党を含まない新しい政治勢力が形成される可能性が見え始めたことだった。もっとも、「社会党は小沢一郎を恐れていた」と一言で断定するのは正確ではない。社会党内部にもさまざまな立場があり、すべての議員が同じ動機で動いていたわけではないからである。

 ただ、政治構造として見れば、社会党が置かれていた状況はかなり厳しかった。1993年の総選挙ですでに70議席まで後退している。さらに新生党、公明党、日本新党、民社党などが大きな政治勢力へまとまれば、かつて自民党と並んで日本政治を代表した社会党が、新しい政界再編の中で存在感を失う危険があった。そして、この懸念が単なる空想ではなかったことは、その年の暮れに明らかになる。1994年12月、新生党、公明党系勢力、日本新党、民社党などが参加して巨大な新進党が結成されたからである。

 つまり1994年春の段階で、日本政治ではすでに、「自民党対社会党」という古い構図とは別の競争が始まっていた。誰が次の政界再編を主導するのかという争いである。社会党はその争いの中で、自分たちが脇へ押しやられる可能性に直面していた。「改新」の結成を契機として社会党は羽田政権から離脱し、その結果、羽田内閣は少数与党となる。ここで、日本政治の力関係がもう一度変わり、前年に政権を失った自民党に、思いがけない機会が訪れた。

自民党が欲しかったのは「村山首相」よりも政権復帰だった

 自民党から見れば、1993年の下野は極めて大きな事件だった。長年にわたって政権を担ってきた政党が、突然野党になったのである。自民党としては当然、政権への復帰を目指す。しかし、自民党単独では衆議院の過半数に届かない。そこで重要になったのが、社会党と新党さきがけだった。

 自民党と社会党が組めば、国会の勢力関係は一気に変わる。羽田政権を支えていた勢力を政権から外し、自民党が再び政府に参加する道が開ける。ただし、社会党が自民党総裁を首相にして連立に入ることは容易ではない。社会党の立場からすれば、長年最大の敵として戦ってきた自民党の総裁を首相にするために連立するのでは、支持者への説明が極めて難しい。

 そこで自民党が切ったカードが、社会党委員長の村山富市を首相候補として支持するというものだった。これは自民党にとって非常に大きな譲歩だったが、政治権力は首相の椅子一つだけでできているわけではない。閣僚を送り込み、政策決定に参加し、国会運営を担い、官僚機構との関係を回復し、政権与党として政治の中心へ戻る。それらを考えれば、首相の座を社会党に譲る代わりに自民党が政権へ復帰するという選択には、十分な合理性があった。

 したがって、「自民党は村山を首相にしたかった」とだけ考えると本質を見誤る。より正確には、村山を首相として受け入れることによって、自民党は政権へ戻る可能性を手にしたのである。それは同時に、社会党を自民党側へ引き寄せることで、細川政権を生んだ非自民連合を完全に崩し、小沢一郎らを中心として進みつつあった非自民勢力の再編を野党側へ押し戻すという効果も持っていた。後から見れば、自民党が首相の椅子を一度譲ったことは、政権そのものを取り戻すための極めて効果的な選択だったことが分かる。

社会党も「自民党と組む」という常識外れの選択をした

 しかし、自民党側の事情だけでは村山政権は成立しない。社会党にも連立を受け入れる理由があった。もちろん、自民党と組むことには大きな抵抗があった。社会党にとって自民党は、何十年にもわたって批判してきた相手であり、支持者の多くも、自民党政治に対抗する政党として社会党を支持してきたからである。

 それでも、自民党との連立という選択肢が現実味を持ったのは、社会党がすでに別の危機に直面していたからだった。1993年の選挙で大幅に議席を失い、非自民連立政権の中でも主導権を握れない。さらに自分たちを外した政界再編が進めば、社会党は新しい政治秩序の中で埋没する可能性がある。自民党は長年の敵だったが、政治では、昨日の敵と明日の脅威が同じとは限らない。

 自民党と社会党は思想的に近づいたわけではなかったが、1994年という一点では利害が交差した。自民党には政権へ戻りたいという事情があり、社会党には政界再編の中で存在感を失いたくないという事情があった。そして新党さきがけには、旧来の巨大政党と新党勢力の双方から一定の距離を取りながら、政治改革を進める位置を確保したいという思惑があった。理念の違う三党が同じ方向を向いたわけではない。それぞれ別の方向から歩いてきた三党が、たまたま同じ交差点に到着したのである。その交差点に立っていた人物が、村山富市だった。

1994年6月29日、政治の左右が入れ替わった夜

 羽田内閣の退陣を受け、1994年6月29日に首相指名選挙が行われた。候補者は村山富市と、元自民党総裁で元首相の海部俊樹だった。ここには、当時の政界再編の異様さが凝縮されている。自民党議員の多数が社会党委員長の村山に投票し、その村山に対抗する側が、かつて自民党総裁だった海部を担いだのである。政党名だけを見ていると、どちらが自民党側なのか分からなくなるような構図だった。

 衆議院の第1回投票では、村山241票、海部220票となり、過半数を得た候補はいなかったため決選投票に入り、結果は村山261票、海部214票となった。こうして村山富市が内閣総理大臣に指名され、社会党からは片山哲以来47年ぶりとなる首相が誕生した。ただし、この首相指名に至る過程は、後世から見るほど整理されたものではない。

 当時の関係者の証言や記録には、首班指名前にどの程度まで三党間の連立合意が完成していたのかについて、ニュアンスの違いが残っている。自民党側の記録では、首相指名前から村山を首班とする連立政権について相当程度の政治的合意が進んでいたとされる一方、後に菅直人は国会で、首班指名の段階では自民党を含めた詳細な三党合意が完成していたわけではなく、社会党と新党さきがけの政策協議が先行していたという趣旨の説明をしている。

 したがって、「何の合意もないまま突然自民党が村山に投票した」と考えるのも、「詳細な連立協定がすべて完成した後に予定通り村山を選んだ」と考えるのも、実態を単純化し過ぎている。より現実に近いのは、村山を首班とする政治的合意は首相指名前から進んでいたが、三党政権としての政策や具体的な枠組みは、その前後に急速に詰められていった、と見ることだろう。当時の日本政治が、それほど流動的だったということである。こうして自由民主党、日本社会党、新党さきがけによる、いわゆる「自社さ連立政権」が成立した。

総理大臣になった瞬間、社会党は野党ではいられなくなった

 しかし村山にとって、本当に難しい政治はここから始まった。社会党は長年、自衛隊や日米安全保障体制について自民党とは大きく異なる立場を取ってきた。ところが政府に入れば、政府として二つの安全保障政策を同時に持つことはできない。自民党は自衛隊を合憲とし、日米安全保障条約を日本外交の基軸と考える一方、社会党は長くそれに批判的な立場を取ってきた。同じ政権に入る以上、どこかで折り合いをつけなければならなかった。

 村山は首相になると、自衛隊を憲法上認められる存在とし、日米安全保障体制を堅持する立場を明確にしていく。これは社会党にとって極めて大きな政策転換だったが、この変化を「村山が首相になった途端、突然それまでの主張を捨てた」と理解するのも正確ではない。冷戦終結など国際環境が大きく変化する中で、社会党内部ではそれ以前から安全保障政策の見直しをめぐる議論が進んでおり、村山自身も後に、党内で数年前から議論が続いていた趣旨を国会で説明している。

 それでも、野党として議論することと、政府として結論を出すことの間には大きな違いがある。野党であれば、「政府の政策に反対する」という立場を取ることができるが、首相になれば、「では日本政府としてどうするのか」という答えを出さなければならない。村山政権は社会党に、長年先送りすることができた問いへの回答を迫り、その回答は結果として社会党自身の姿を変えていった。

社会党は首相を得たが、自民党との違いを説明することが難しくなった

 村山政権の成立直後だけを見れば、社会党は大きな成果を得たように見える。何しろ自民党を差し置いて、自党の委員長が総理大臣になったのである。しかし政治の勝敗は、その日の首相指名だけでは決まらない。社会党は政権を担うことによって、自衛隊や日米安全保障体制など、それまで党の重要な特徴を形成してきた政策を修正した。それは現実の政府を運営するためには必要な選択だったとも言えるが、支持者から見れば別の疑問が生まれる。

 社会党が自民党と同じ政府に入り、自衛隊を認め、日米安全保障体制も認めるのであれば、自民党と社会党の違いはどこにあるのか。この問題が社会党の支持基盤に影響したことは否定できない。ただし、その後の社会党の衰退を自社さ連立だけで説明するのは単純すぎる。労働組合を中心とする旧来の支持基盤の変化、新しい選挙制度の導入、政界再編の進行、そして1996年の民主党結成による多数の議員の移動など、複数の要因が同時に作用したからである。

 社会党は1996年に社会民主党へ党名を変更し、同年の衆議院総選挙では議席をさらに減らした。したがって、「村山政権に参加したから社会党が消えた」と単純な因果関係を置くことはできない。しかし、自民党との連立と基本政策の転換が、社会党の存在理由を支持者に説明することを難しくした重要な要因の一つだったことは確かだろう。首相の座を得ることと、政党として強くなることは同じではなかったのである。

自民党は首相の椅子を譲りながら、政権の中心へ戻っていった

 一方、自民党のその後を見ると、村山政権の持つもう一つの意味が見えてくる。自民党は1993年8月に政権を失ったが、1994年6月には村山内閣の与党として政府へ復帰し、さらに1996年1月、村山が首相を退くと、後継首相になったのは自民党総裁の橋本龍太郎だった。

 わずか二年半ほどの間に、自民党単独を中心とする政権から非自民政権へ移り、そこから社会党首相の自社さ政権が成立し、最後には再び自民党総裁が首相に戻ったことになる。この流れを見ると、自民党が村山を首相として支持した意味がよく分かる。自民党は一度、首相の座を他党へ譲ったが、その代わりに政権へ戻り、政権内部で存在感を回復した後、最終的には首相の座まで取り戻したのである。

 もちろん、結果論だけで「最初からそこまで計画されていた」と考えるべきではない。当時の政治はそれほど予測可能ではなかった。それでも、自民党にとって村山首班を受け入れることが、政権復帰への有効な戦略になったことは疑いにくい。政治では、目の前の椅子を取った者が最終的な勝者とは限らない。ときには一つの椅子を譲ることで、部屋そのものへ戻ることができる。1994年の自民党は、それを実行した。

なぜ「村山富市」だったのか

 では、社会党委員長であれば誰でもよかったのだろうか。そこには村山富市という人物の性格も影響したと考えられる。村山は、華々しい権力闘争によって頭角を現した政治家ではなかった。大分市議、大分県議を経て国政入りし、党内では調整型の政治家として歩んできた。強烈なカリスマ性で周囲を従わせるというより、対立する人間の間に入って合意点を探すタイプだった。

 何十年も対立してきた自民党と社会党が同じ政府に入るとき、これは意外に重要な資質になる。自分の構想を強力に押し通す指導者よりも、互いに異なる政党が「この人物なら首相として受け入れられる」と考えられる人物の方が適している場合があるからだ。もちろん、「村山だったから自社さ政権が成立した」と証明することはできない。歴史に別の村山政権を用意して比較実験をすることはできないからである。

 しかし少なくとも、村山の調整型の政治姿勢が、自民党、新党さきがけ、社会党という異質な三党から首班として受け入れられるうえで有利に働いた、と考えることには十分な合理性がある。村山は自分一人の巨大な政治構想によって首相になったというより、日本政治の巨大な構造変化の中で、「この人物なら三党が同じ政府に入れる」と判断されたことによって首相へ押し上げられた。その意味で、村山富市は1994年という時代そのものが生み出した首相でもあった。

村山政権は「自民党と社会党が仲良くなった政権」ではない

 結局、村山富市が社会党委員長でありながら自民党と連立し、総理大臣になった理由を、「自民党と社会党が和解したから」と説明することはできない。むしろ、自民党と社会党を長年対立させてきた55年体制の方が先に壊れたのである。1993年の選挙で自民党は過半数を失い、社会党も大幅に議席を減らした。細川非自民連立政権が生まれたものの、参加政党の理念は大きく異なり、羽田政権では社会党が離脱した。その一方で、小沢一郎らを中心とする新しい政界再編が進み始め、社会党には新しい政治秩序の中で埋没する危険が生じた。

 自民党には政権復帰という目的があり、社会党には政界再編の中で自らの位置を確保する必要があり、新党さきがけには両者を仲介しながら政治改革の方向性を維持する思惑があった。三党は同じ思想を持っていたわけではなく、それぞれの利害が一時的に一致したのである。そして、その一致を成立させる首相候補として村山富市が選ばれた。

 だから1994年6月29日、自民党議員が社会党委員長の名前を投票用紙に書いたことは、単なる政界の珍事ではない。それは、日本政治の座標軸が「自民党対社会党」から別のものへ移り始めたことを示す象徴的な出来事だった。昨日まで最大の敵だった政党と組まなければ、明日の自分たちの立場を守れない。そのような状況になれば、政治家は昨日までとは違う選択をする。

 政治を動かすものは理念だけではない。議席があり、政権があり、政党の生存があり、次の選挙があり、政界再編の主導権がある。それらが絡み合ったとき、何十年も敵対してきた二つの政党が、一つの内閣をつくることさえある。

 村山富市が社会党委員長なのに自民党と組んで総理になったことが、不思議なのではない。本当に見るべきなのは、そのような政権を生み出すほど、1993年から1994年にかけて日本政治の古い秩序が崩れていたということである。村山政権は、左右が突然仲良くなった物語ではない。戦後政治を支えてきた地図が破れ、その破れた地図の上で、それぞれの政党が次に立つ場所を探した結果として生まれた政権だったのである。

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「正しい政治」ができる日本を夢見て

 後藤田正晴という政治家を振り返るとき、しばしば「権力に慎重だった保守政治家」という言葉が使われる。しかし、その説明だけでは、彼の本質には届かない。後藤田は権力から遠い場所にいて、それを理念的に批判した人ではなかった。旧内務省に入り、戦後は警察行政の中枢を歩み、警察庁長官となり、さらに内閣官房副長官、自治大臣、国家公安委員長、内閣官房長官、副総理、法務大臣まで務めた。国家が情報を集め、人を動かし、命令を下し、ときには強制力を行使する、その仕組みの中心を長く歩いてきた人物である。

 だからこそ、彼が晩年になるほど権力の扱いに慎重になったことには重みがある。権力を知らなかったから恐れたのではない。権力が実際にはどのように動き、どのように人を変え、どのように組織を自己正当化させるのかを知ったからこそ、その危険を警戒するようになったのではないか。後藤田正晴という人物のおもしろさは、まさにその逆説の中にある。

権力は「正しさ」の中から膨張する

 国家権力は、悪意だけによって暴走するわけではない。むしろ現実には、「正しいことをしよう」という意志の中から膨張していく場合の方が多い。治安を守るため、国民を守るため、国家の安全を確保するため、災害に迅速に対応するため、行政を効率化するため。どれも必要な目的であり、それ自体を否定することはできない。国家が何もできなければ社会は成り立たないし、警察も防衛も外交も危機管理も必要である。後藤田は、その必要性を誰よりも現場に近い場所で知っていた。

 それでも彼は、国家が強くなればなるほど、その力をどう制御するかを考え続けた。彼が求めたのは、弱い国家ではなかった。必要なときには動ける国家でありながら、その強さが自分自身を正当化し、際限なく広がっていかない国家だった。民主主義の難しさはここにある。権力を弱めることだけなら、それほど難しくない。しかし、国民を守るために十分な権限を持たせながら、その権限を法と手続きと政治的責任の中に閉じ込めることは、はるかに難しい。

戦争が教えた「国家も間違える」という現実

 その感覚を考えるうえで、後藤田の戦争体験は外せない。1914年に徳島県で生まれ、東京帝国大学を卒業して1939年に内務省へ入った後藤田は、翌年には徴兵され、台湾歩兵第二連隊に入営した。その後、陸軍経理学校を経て台湾軍司令部に勤務し、終戦を迎えている。官僚として国家を支えるはずだった青年は、国家そのものが戦争へ総動員されていく過程を、自分の人生として経験した。

 戦争中の日本は、自らを破滅させようとしていたわけではない。むしろ、多くの政策は「国を守るため」「国益を守るため」という名のもとに進められた。一つ一つの判断には、その時点なりの理由があり、合理性があり、責任感があった。それでも、その判断が積み重なった先に破局があった。ここに、権力を考えるうえで見落としてはならない現実がある。国家は悪意がなくても間違える。使命感でも間違えるし、愛国心でも間違える。そして、自分たちは正しいという確信を強く持つほど、途中で軌道修正することが難しくなる。

 後藤田の戦後の言動を戦争体験だけで説明することはできない。しかし、彼が軍事に対する政治統制を繰り返し重視し、軍事組織の論理が政治判断を越えてはならないと考えていた背景には、この経験が一つの重要な土台として存在していたと見るのが自然である。

軍事を統制するのは政治である

 後藤田が重視したシビリアン・コントロール(Civilian Control・軍事を文民による政治的統制の下に置く原則)も、その文脈で見ると理解しやすい。これは単に背広を着た官僚が制服組より偉い、という意味ではない。彼が繰り返し強調したのは、軍事は政治に従属しなければならないという原則だった。つまり、軍事組織が自らの論理だけで国家の進路を決めることを許してはならないということである。

 ここで重要なのは、後藤田が軍人を特別に危険視していたわけではないという点だろう。彼が警戒したのは、組織というものが、自分に与えられた使命を中心に世界を見るようになることだった。警察は社会問題を治安問題として見る。軍事組織は外交問題を安全保障の問題として見る。財政当局は政策を財源の問題として見る。どの見方も必要であり、どの見方も一定の正しさを持つ。しかし、その一つだけが国家全体の判断になったとき、政治は危うくなる。政治の役割とは、それぞれの専門的な正しさを比較し、全体の中で統合し、どれか一つの論理が国家そのものを乗っ取らないようにすることにある。

「悪い本当の事実を報告せよ」という権力論

 その意味で、後藤田の有名な「五訓」は、単なる役人の心得ではなく、一つの権力論として読むことができる。なかでも「悪い本当の事実を報告せよ」という言葉は象徴的である。

 組織の上に行けば行くほど、権限は大きくなる。だが同時に、現場の事実からは遠ざかっていく。課長より部長、部長より局長、大臣、そして総理大臣へと権限が集中していく一方で、トップ自身が直接見られる現実はむしろ少なくなっていく。だから、権力者は情報を部下から受け取るしかない。

 そこで、権力特有の歪みが生まれる。部下は上司の表情を読み、上司が何を望んでいるのかを察する。政策がうまくいっているなら、それを補強する資料が集められ、失敗が起きれば、その失敗をどう説明するかが考えられる。最初から誰かが嘘をつこうとしているわけではない。数字の悪い部分より良い部分を先に説明し、危険な兆候には慎重な表現を添え、政策に不都合な事実には別の解釈を与える。その小さな加工が積み重なるうちに、権力者だけが現実から遠ざかっていく。

 だから後藤田は、単に「本当の事実を報告せよ」とは言わなかった。「悪い本当の事実を報告せよ」と言ったのである。権力者が最も必要としている情報とは、自分を安心させる情報ではない。自分の政策が間違っているかもしれないと教えてくれる情報だからである。

 「勇気を以て意見具申せよ」という言葉も、同じ思想につながる。日本の組織では、ときに上司に逆らわないことが忠誠とみなされる。しかし、後藤田の考え方は逆だった。決定されるまでは意見を言い、決定された後は組織として実行する。強い組織とは、反対意見が存在しない組織ではない。反対意見を言っても排除されず、そのうえで最終的な決定には従える組織である。

 逆に、指導者の意向を察する能力ばかりが評価される組織は、一見するとよく統率されているように見えるが、実際には脆い。指導者が正しい間は強いが、指導者が間違った瞬間に、全員で同じ方向へ間違ってしまうからである。後藤田が警戒していたものを一つの言葉で表すなら、権力者の周囲から異論が消えていくことだった、と読むこともできる。

反権力ではなく、権力を統制する思想

 もっとも、後藤田を「反権力の人」として美化するのは正しくない。彼は警察庁長官として、よど号ハイジャック事件、あさま山荘事件、成田空港をめぐる激しい対立など、国家が実力行使を迫られる局面を経験している。警察力そのものを否定していたわけではないし、自衛隊の存在を否定していたわけでもなく、日米安全保障体制そのものを拒絶していたわけでもない。

 だからこそ、彼の権力への警戒は重い。権力が必要であることを知ったうえで、その権力をどう縛るかを考えたからである。後藤田の思想を「反権力」と呼ぶより、「権力統制の思想」と呼んだ方が近いのだろう。

中曽根政権を支えながら、中曽根を止める

 その姿勢がもっとも鮮明に表れたのが、中曽根康弘政権である。中曽根は「戦後政治の総決算」を掲げ、日本の国家としての輪郭をより明確にしようとした政治家だった。構想を描き、決断し、前へ進もうとする政治家であり、政治的にはアクセルを踏むタイプだった。

 その中曽根の官房長官を長く務めた後藤田は、単なる抵抗勢力ではなかった。政権を支え、官邸機能を強化し、危機管理体制を整えながら、それでも越えてはならないと考えた線では止めた。象徴的なのが、1987年のペルシャ湾への海上自衛隊掃海艇派遣構想である。

 掃海という行為だけを見れば、防御的で人道的な作業にも見える。しかし、交戦海域に自衛隊の艦艇を送れば、日本側がどう説明しようとも、相手国からは戦争への参加と見なされる可能性がある。国家が何を意図したかだけでなく、相手からどう見えるかまで考えなければならない。後藤田はそこに強い懸念を示し、結果として派遣は実現しなかった。

 この出来事は、政治における「側近」の意味を考えさせる。総理大臣に何でも賛成する人間が有能な側近なのではない。総理が越えてはならない線に近づいたとき、「そこから先は危険です」と言える人間こそ、最も価値のある側近なのかもしれない。政権を倒すために反対するのではなく、政権を間違わせないために反対する。その役割を後藤田は担っていた。

安全保障の論理が国家すべてを覆うとき

 彼の慎重さは軍事行動に限らなかった。「国家安全保障会議」という名称についても、後藤田はかつて慎重な姿勢を示していた。国の安全という問題が、軍事や外交だけに狭く理解されることを警戒していたからである。国家の安全とは、軍事力だけで決まるものではない。経済が崩れ、災害への備えがなく、政治そのものへの信頼が失われれば、どれほど防衛力を持っていても国家は安定しない。

 安全保障が必要であることと、「安全保障」という言葉がすべての政策を正当化することは別の問題である。政治には、国家安全保障を考える能力と同時に、その言葉の強さに飲み込まれない慎重さも必要になる。

憲法とは政治家の善意を信じないためにある

 晩年の後藤田は憲法改正にも慎重な発言をしているが、彼を単純な護憲論者として理解するのも正確ではない。日本国憲法を一字一句変えてはならないと考えていたわけではなく、国民主権、民主主義、基本的人権、平和主義といった基本原理を重視しながら、もし現行憲法と整合しない政策を本当に行う必要があるなら、政治の都合で解釈を広げ続けるのではなく、国民に説明し、正式な改正手続きを踏むべきだという立場に近かった。

 ここにも、後藤田の権力観が現れている。憲法とは、善良な政治家を前提にする制度ではない。将来、どのような政治家が権力を握るか分からないからこそ存在する。現在の政権が「自分たちは正しく使う」と言って権限を拡大すれば、その権限は次の政権にも残る。制度は、その時々の政治家の善意ではなく、未来の政治家の危険性まで想定して作らなければならない。

権力は人を変えるより、世界の見え方を変える

 権力について語るとき、「権力を持つと人は悪くなる」という言い方がある。しかし現実は、それほど単純ではない。権力者が悪人になる必要はない。権力は、世界の見え方を変えるだけで十分に危険なのである。

 人が自分の話をよく聞くようになる。会議で反論されなくなる。自分の判断で予算が動き、人事が動き、行政が動く。その状態が続けば、自分の判断が正しいから人が従っているのか、権力を持っているから従っているのか、その区別は次第につきにくくなる。

 だから民主主義に必要なのは、立派な政治家を探すことだけではない。立派でない政治家が権力を握っても、国家が壊れない仕組みを作ることである。

問うべきは「強い首相か」ではなく「誰が止められるか」

 現在の政治でも、私たちはしばしば「強いリーダー」を求める。決断が早く、反対を押し切り、官僚を動かし、党内をまとめる政治家は、確かに強く見える。しかし、強いリーダーと、権力が集中したリーダーは同じではない。反対意見を排除すれば意思決定は速くなり、官邸に権限を集中すれば行政は動かしやすくなる。しかし政治の目的は、速く決めることではなく、できる限り正しい判断に到達することである。

 そして人間は間違える。

 ここを忘れた瞬間、「強い政治」は「訂正できない政治」に変わる。

 後藤田の思想から現在への問いを一つだけ引き出すなら、「この首相は強いか」ではなく、「この首相が間違ったとき、誰が止められるのか」と問うべきなのだろう。

 権力を外から見ると、どうしても美しく見える。総理大臣が決断すれば国が動き、大臣が指示すれば役所が動く。だから、もっと強い政治家がいれば改革が進むのではないかと考えたくなる。しかし実際に権力を使う側に立てば、一つの命令がどれほど多くの人を動かし、一つの判断がどれほど多くの人生に影響するかが見えてくる。

 治安政策なら人を拘束することがある。外交政策なら国家間の関係を変える。安全保障政策なら人命にかかわる。だから民主主義における権力は、政治家が所有するものではない。国民から一時的に預けられているものにすぎない。

 この感覚を失ったとき、政治家は代表者から支配者へ近づいていく。

正しい政治家より、間違いを止められる政治を

 私たちは政治に失望すると、「もっと正しい政治家はいないのか」と考える。しかし、正しい政治家だけを探しても政治は良くならない。必要なのは、間違った政治家が現れても、間違いが国家全体を支配しない制度である。

 権力者に不都合な数字が消えないこと。官僚が政治家に耳の痛い事実を言えること。専門家が政権に反対しても排除されないこと。報道機関が権力を批判できること。野党が政府を問いただせること。司法が政治から独立していること。そして選挙によって権力を入れ替えることができること。

 これらは政治を邪魔する仕組みではない。

 政治を間違わせないための仕組みである。

 民主主義とは、政府を全面的に信頼する制度ではない。人間は間違えるという前提に立ちながら、それでも政府に必要な権力を預ける制度である。その慎重さこそが、民主主義の強さなのだろう。

「カミソリ後藤田」と権力を納める鞘

 後藤田正晴は「カミソリ後藤田」と呼ばれた。頭の回転が速く、行政実務に通じ、危機管理にも強かった。しかし、この「カミソリ」という呼び名は、彼の権力観そのものにも重ねることができる。

 切れない刃物は役に立たない。しかし、よく切れる刃物ほど危険である。だから鞘が必要になる。

 国家権力も同じである。弱すぎれば国民を守れない。しかし、強ければ強いほど、それを納める鞘が必要になる。警察、自衛隊、情報機関、行政権、そして政治権力。後藤田は、それらを鈍らせようとしたのではない。必要なときには切れるようにしながら、それでも勝手に振り回されない仕組みを求めた。

 その鞘が、法であり、制度であり、政治統制であり、異論であり、「悪い本当の事実」を報告できる組織文化だったのではないか。

「正しい政治」ができる日本を夢見て

 後藤田正晴の人生から見えてくるのは、少し寂しく、それでも希望のある政治観である。

 政治家は間違える。

 官僚も間違える。

 専門家も間違える。

 そして国民も間違える。

 だから民主主義は面倒である。議論し、反対し、説明し、国会で問いただし、選挙を行い、報道が批判し、司法が判断する。その過程は遅く、騒がしく、効率が悪いように見える。

 しかし、その面倒さこそが、国家を取り返しのつかない間違いから救う最後の余地なのだろう。

 正しい政治とは、決して間違えない政治ではない。

 間違ったときに事実を隠さず、批判する者を敵とみなさず、自分たちの誤りを認め、政策を修正できる政治である。

 もし後藤田正晴が現在の日本政治を見たなら、特定の政党を支持せよとも、特定の思想に従えとも言わないかもしれない。

 むしろ、もっと地味で厳しい問いを投げかけるのではないか。

 総理大臣のもとに、悪い本当の事実は届いているのか。大臣に反対意見を言える官僚は残っているのか。専門家は、政治家が聞きたい答えではなく、自分が正しいと思う答えを言えているのか。選挙で勝った多数派は、自分たちが多数派だから正しいのだと思い込んでいないか。そして、権力を持つ者自身が、その権力の大きさを少しでも怖いと思っているか。

 後藤田が権力を知るほど権力を警戒した理由を、歴史資料だけから完全に証明することはできない。人間の内面を断定することはできないからである。それでも、戦争を経験し、警察を率い、官邸を動かし、総理大臣の傍らで国家意思の形成を見続けた人物が、最後まで権力の抑制を語り続けたという事実には意味がある。

 権力を知った者が、権力を礼賛しなかった。

 国家は必要である。強い政府も、ときには必要である。しかし、必要であることと、無条件に信じてよいことは同じではない。むしろ社会にとって重要な権力ほど、注意深く監視されなければならない。

 国を愛することと、政府を無条件に信じることも同じではない。政府を批判することと、国を否定することも同じではない。正しい政治を願うからこそ、政治家に事実を求める。国家を大切に思うからこそ、国家権力に限界を設ける。民主主義を信じるからこそ、異論を認める。

 いつか日本が、誰か一人の「強い政治家」に期待しなくても政治が機能する国になればよい。

 政治家が間違いを認めても弱いと笑われず、反対意見を聞いても優柔不断と呼ばれず、官僚が大臣に耳の痛い報告をしても不利益を受けず、選挙で勝った側も自らの権力には期限があることを忘れない。

 そんな政治は、派手ではない。

 英雄も生まれにくい。

 けれど、それこそが成熟した国家なのかもしれない。

 後藤田正晴という政治家を振り返る意味は、過去の「名政治家」を懐かしむことではない。権力とは何かを、私たち自身がもう一度考えることにある。

 権力を持つ者が、自分の強さよりも、その強さの危険を知っている政治。異論を排除するのではなく、異論によって自分を修正できる政治。都合のよい説明ではなく、「悪い本当の事実」から判断を始める政治。

 そのような政治が当たり前にできる日本を、まだ夢見ることはできる。

 おそらく民主主義とは、その夢を諦めないために存在しているのである。

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