地域政経

九条レオンの地域から社会と政治・経済のこれからを考える

 「自民党をぶっ壊す」。小泉純一郎という政治家を語るとき、今もこの強烈な言葉が思い出される。ただし、正確に言えば、小泉が訴えた論理は「自民党を変える。変わらなければぶっ壊す」というものだった。自民党という政党そのものを消滅させると言ったわけではなく、変化を拒む古い自民党ならば壊してでも改革するという意味であり、この違いを押さえておかなければ、その後に起きた政治の逆説も見えにくくなる。

 2001年、小泉は自民党総裁となり、内閣総理大臣に就任した。それから4年後の2005年、郵政解散によって行われた衆議院総選挙で、自民党は296議席を獲得する歴史的な大勝を収めた。2003年の237議席から59議席も増え、公明党と合わせた与党は327議席に達したのである。「自民党を変える。変わらなければぶっ壊す」と訴えて登場した政治家が、結果として自民党に巨大な議席をもたらしたのだから、表面だけを見れば奇妙な話に見える。

 では、小泉純一郎は結局、自民党を壊したのではなく、むしろ強くした総理だったのだろうか。この問いは、2005年の296議席だけを見れば簡単に答えられそうだが、実際にはそれほど単純ではない。なぜなら、小泉が弱めようとした自民党の「強さ」と、小泉時代に新たに生まれた自民党の「強さ」は、同じものではなかったからである。

小泉が壊そうとしたのは自民党そのものではなかった

 戦後長く政権を担ってきた自民党は、単純な一枚岩の政党ではなかった。党内には複数の派閥が存在し、その周囲には農業団体、建設業界、医療関係団体、商工団体をはじめとするさまざまな組織が結びついていた。政治家は選挙区へ予算や政策を持ち帰り、支持者や業界団体は選挙で政治家を支え、派閥は所属議員を支援しながら総裁、大臣、党役員などのポストを競う。現在の感覚では古い政治に見えるが、こうした複雑な利害調整の仕組みそのものが、自民党の長期政権を支えていた。

 この仕組みには欠点もあった。政策決定が遅れ、改革が必要だと分かっていても、影響を受ける業界や議員への配慮によって抜本的な変更が難しくなる場合がある。しかし、その反面、自民党内部に異なる価値観や利害を抱え込み、対立を党内で調整できるという利点もあった。財政支出を増やしたい政治家も、財政規律を重視する政治家も、農村を重視する政治家も、都市部を重視する政治家も、一つの政党の中に存在することができたのである。

 小泉が強く批判したのは、まさにこの仕組みだった。政策を実行する前に派閥や業界団体へ配慮し、党内調整を重ねなければならない政治では、大きな改革は進まないと考えたからである。したがって、小泉の「自民党を変える」という主張は、自民党という政党の看板を消すことではなく、長年続いてきた党内調整型、利益配分型の政治を変えることに向けられていたと考える方が実態に近い。

小泉以前から始まっていた自民党の変化

 ただし、ここで注意しなければならないのは、自民党の構造変化をすべて小泉一人の功績、あるいは責任と考えてはいけないということである。日本政治では1990年代から大きな制度改革が進められており、その段階ですでに自民党の権力構造は変化し始めていた。

 特に重要だったのが、1994年の政治改革によって導入された小選挙区比例代表並立制である。それ以前の中選挙区制では、一つの選挙区から複数の議員が選ばれるため、自民党の候補者同士が同じ選挙区で競争することも珍しくなかった。そのため、候補者は党の看板だけではなく、派閥や後援会、業界団体など自前の支持組織を必要としていた。

 ところが小選挙区制では、基本的に一つの選挙区から一人しか当選できない。そのため、どの人物を党の候補者として公認するかという党執行部の権限が以前より重くなる。政治資金制度の改革や政党交付金の導入も、派閥や個々の政治家より政党本部の重要性を高める方向に作用した。

 つまり、小泉が登場する以前から、日本政治には「派閥や個人中心の政治」から「党執行部や党首中心の政治」へ移る制度的な流れが存在していたのである。小泉はこの流れを一人で作った人物ではない。しかし、その新しい制度を誰より大胆に利用し、政治の表舞台で目に見える形にした人物ではあった。

2001年、自民党内部から自民党改革を訴える

 小泉の政治手法は、総裁になる過程からすでに従来型とは異なっていた。2001年の自民党総裁選では、地方の党員票で小泉への強い支持が示され、それが国会議員の投票行動にも大きな影響を与えた。

 ここには、小泉政治を理解する重要な特徴がある。小泉は自民党内部の派閥だけを相手に総裁の座を争ったのではなく、自民党に不満を持つ党員や一般の有権者へ直接訴えかけ、その世論を党内政治へ持ち込んだのである。制度上、日本の総理大臣を国民が直接選ぶわけではないが、政治的には、党首が世論を背景に党内を統率する性格が以前より強く表れるようになった。

 従来型の自民党では、総理大臣であっても党内の派閥や有力者を無視することは難しかった。これに対して小泉は、「国民が改革を支持している」という世論を一つの政治資源として利用し、党内の反対勢力を押し切ろうとした。党内の力関係だけではなく、党の外にある世論を使って党内政治を動かす。この手法が、後の郵政解散で最も劇的な形を取ることになる。

郵政民営化は政策であると同時に政治の物語になった

 2005年、小泉政権最大の争点となったのが郵政民営化だった。郵政事業を民営化するという政策の是非については、当時もさまざまな議論があり、現在から振り返っても評価は一つに決められない。しかし、政治史として重要なのは、その制度設計以上に、小泉がこの問題をどのような政治的構図へ変えたかである。

 郵政民営化法案に自民党内部から反対者が出ると、小泉は彼らを単なる政策上の異論を持つ仲間として処理しなかった。参議院で法案が否決されると衆議院を解散し、郵政民営化に反対した自民党議員の一部を公認せず、その選挙区へ別の候補者を擁立した。後に「刺客候補」と呼ばれた人々である。

 この瞬間、本来ならば「与党対野党」となるはずの総選挙に、別の対立軸が生まれた。「小泉対抵抗勢力」である。

 この構図は極めて強力だった。政権与党である自民党は、本来なら長期政権に対する不満を受ける側にいる。しかし小泉は、自民党総裁でありながら自民党内部の古い勢力と戦う改革者として振る舞ったため、政治を変えたいという有権者が必ずしも野党へ向かわなくてもよくなった。政権交代をしなくても、小泉を支持すれば自民党内部から政治を変えられるという選択肢が提示されたのである。

 これは、自民党が政権与党でありながら、同時に改革勢力として振る舞えるという不思議な政治構図だった。長期政権の責任を負う側でありながら、既存政治と戦う側にも立つことができる。この二重性によって、小泉は政権への不満の一部まで自民党自身の票へ取り込むことに成功したと考えられる。

テレビ政治が作ったのか、それともテレビが映しやすかったのか

 2005年の選挙は「劇場型政治」と呼ばれることが多い。郵政民営化という政策を中心に、「改革する小泉」と「改革に抵抗する勢力」という分かりやすい物語が形成され、テレビでも連日のように報道された。

 ただし、ここで「テレビが小泉を勝たせた」と断定するのは慎重でなければならない。政治学的には、メディア接触と政治意識の間に一定の関連が確認される研究がある一方で、テレビ報道そのものが投票行動を直接変えたという因果関係を完全に証明することは難しい。

 それでも、小泉政治がテレビという媒体と非常に相性がよかったことは確かだろう。郵政制度の詳細な設計を長時間説明するより、「改革か抵抗か」という構図の方が映像として伝えやすく、新しい候補者が登場し、旧来の自民党議員と対決する構図はニュースにもなりやすかった。小泉自身も長い政策説明より、短く印象に残る言葉を使うことに長けていたため、政治が制度の議論であるだけでなく、一つの物語として国民へ届くようになったのである。

296議席は何を意味していたのか

 2005年総選挙で、自民党は296議席を獲得した。2003年の237議席から59議席増えたのであるから、選挙結果だけを見れば圧倒的な勝利だった。

 しかし、この数字をそのまま「自民党への支持が59議席分増えた」と考えることはできない。2005年の自民党の小選挙区得票率は半数を超えていなかったにもかかわらず、小選挙区では全議席の7割を超える議席を獲得した。小選挙区制では、わずかな得票率の差が大きな議席差へ拡大されることがあり、2005年選挙ではこの制度的な増幅効果も強く働いたからである。

 したがって、小泉が自民党を強くしたかどうかを議席数だけで測るのは危険である。より正確に言えば、小泉は自民党への支持を広げると同時に、小選挙区制の特徴を最大限に生かして、その支持を巨大な議席へ変換することに成功した。

 それでも296議席という結果が持つ政治的意味は大きかった。選挙に勝ったことで、小泉は党内で圧倒的な正統性を得たからである。郵政民営化に反対していた勢力は政治的に弱まり、総理と党執行部の政策決定力は強くなった。選挙で得た国民の支持が、そのまま党内統率の力へ変換されたのである。

小泉が強くしたのは「どの自民党」だったのか

 ここで初めて、「小泉は自民党を強くしたのか」という問いをより正確に考えることができる。

 自民党の「強さ」にはいくつもの種類がある。選挙で票を集める力、議席を獲得する力、総裁が党を統率する力、政策を実行する力、地方組織を維持する力、業界団体との関係を保つ力、さらに党内の異なる意見を調整する力まで含めれば、「強い政党」という言葉は一つの数字では測れない。

 小泉時代に明らかに強まったのは、総裁の指導力、選挙で争点を設定する力、公認権を使って候補者を統制する力、そして党首人気を全国的な議席へ変える力だった。それまでの自民党が地域組織、後援会、業界団体、派閥など無数の小さな力を積み重ねて強さを作っていたとすれば、小泉時代には総裁を中心として全国の支持を一気に集約する能力が大きくなった。

 一方で、従来型の自民党が持っていた別の強さまで同時に増したとは言えない。地方組織や業界団体との長期的な関係、党内に異論を抱え込みながら調整する能力、複数の派閥が相互に牽制することで権力を分散させる仕組みなどは、むしろ相対的に弱くなった面がある。

 つまり、小泉時代に起きたのは自民党の単純な強化ではなく、強さの種類そのものの変化だったのである。

「抵抗勢力」を切る政治には強さと弱さが同居する

 小泉政治の特徴の一つは、複雑な党内対立を「改革する側」と「抵抗する側」に分けたことだった。この方法は有権者にとって非常に分かりやすく、政治決定を加速させる効果もあったが、その一方で、現実の政策には単純な賛成と反対だけでは整理できない問題も多い。

 郵政民営化そのものには賛成でも制度設計には反対する人がいるかもしれないし、改革の必要性を認めながら地域経済への影響を心配する政治家もいる。そのような中間的な立場まで「抵抗勢力」という一つの言葉にまとめれば、政治は分かりやすくなる反面、異なる意見を調整する余地は狭くなる。

 古い自民党の派閥政治には多くの問題があったが、それでも異なる利益を党内に抱え込み、時間をかけて妥協点を探す機能を持っていた。小泉政治はその調整過程を短縮し、総裁の判断によって政策を前へ進める力を強めたが、それは同時に、党内で意見を調整する能力を弱くする可能性も持っていたのである。

 会社に例えれば、会議ばかりで決定が遅い企業に強力な社長が現れ、「改革に反対する者には構わず進める」と宣言すれば、意思決定は劇的に速くなるだろう。しかし、その会社が長期的にも強くなったかどうかは別問題である。社長がいる間は動いても、組織内部で異なる意見を調整する仕組みが失われていれば、その人物が去った後に不安定になる可能性があるからである。

2009年の敗北を小泉改革だけで説明することはできない

 小泉は2006年に総理を退任した。そのわずか3年後の2009年衆議院総選挙で、自民党は119議席まで減少し、民主党に政権を明け渡した。2005年に296議席を獲得した政党が、4年後には119議席まで落ち込んだのである。

 この落差だけを見れば、小泉時代に作られた自民党の強さは一時的なものだったと考えたくなる。しかし、2009年の敗北を小泉改革だけの結果として説明することはできない。小泉退任後には安倍晋三、福田康夫、麻生太郎と短期間で総理大臣が交代し、政権運営に対する不信が強まった。世界金融危機による経済環境の悪化もあり、民主党に対して「一度政権を担当させてみよう」という期待も広がっていた。

 さらに、自民党の伝統的な支持構造の揺らぎ自体は、小泉政権以前の1990年代から始まっていた。したがって、2009年の政権交代を「小泉が自民党を壊した結果」と一直線に結びつけるのは、因果関係を単純化しすぎている。

 それでも2005年と2009年を並べると、重要なことが見えてくる。小選挙区制の下では、比較的小さな得票率の変化が巨大な議席変動へ拡大される。さらに、固定的な支持組織より党首や政党イメージに左右される有権者が増えれば、支持が集まったときには大勝できる反面、支持を失ったときには大敗する危険も大きくなる。2005年の296議席と2009年の119議席は、その振幅の大きさを象徴していたとも考えられる。

小泉は「自民党の勝ち方」を作り替えた

 ここまで考えてくると、小泉純一郎を「自民党を強くした総理」と単純に呼ぶことも、「自民党を壊した総理」と呼ぶことも、どちらも十分ではないことが分かる。

 小泉が大きく変えたのは、自民党という組織そのもの以上に、自民党の勝ち方だった。

 かつての自民党は、地方の後援会、農業団体、業界団体、派閥、公共事業などを通じて支持を積み上げ、その総和として全国選挙に勝っていた。小泉時代には、そうした仕組みが完全に消えたわけではないが、その上に別の勝ち方が加わった。総裁が全国共通の争点を設定し、党の公認権を使って候補者を統制し、メディアを通じて有権者へ直接訴え、無党派層を含む大量の票を一気に動かす政治である。

 これは自民党の「組織の厚み」に依存する政治から、「党首を中心とした集中力」を利用する政治への重心移動だった。

 この変化は強さを生んだが、同時に新しい弱さも生んだ。地方組織や固定支持層に支えられた政党は急激には崩れにくいが、党首の人気や政党イメージに依存する政治では、世論の変化によって支持が大きく動く可能性がある。強い指導者の下では非常に強くても、その人物が去れば同じ力を維持できるとは限らない。

「自民党を壊す」という言葉が本当に意味したもの

 小泉純一郎の政治を振り返ると、「自民党を変える。変わらなければぶっ壊す」という言葉は、単なる選挙向けの刺激的な標語だったとは言い切れない。

 小泉は自民党を離れて別の政党を作ったわけではなかった。自民党の中に残り、自民党総裁として自民党内部の古い仕組みを攻撃し、その攻撃によって自民党への支持を集めた。普通なら政権への不満は野党への支持につながるはずだが、小泉は自民党内部に「改革する自民党」と「改革に抵抗する自民党」という対立を作り、政治を変えたいという有権者のエネルギーまで政権与党へ引き寄せたのである。

 それは、日本政治では極めて珍しい成功だった。

 しかし、その成功が残した問いは今も消えていない。政党の強さとは、選挙で多くの議席を取ることなのか、全国に安定した支持組織を持つことなのか、異なる意見を内部で調整する能力なのか、それとも強い指導者の下で迅速に政策を実行できることなのか。どの基準を採用するかによって、小泉政治への評価は変わる。

 少なくとも2005年の選挙を見る限り、小泉は自民党の選挙力と総裁の統率力を大きく高めた。しかし同時に、派閥や業界団体を介した従来型の調整政治を弱め、自民党が長い時間をかけて形成してきた強さの一部を変質させた。そのため、小泉を「自民党を強くした総理」とだけ評価するのも、「自民党を壊した総理」とだけ評価するのも、歴史を単純化しすぎている。

 より実態に近いのは、小泉純一郎が「古い自民党の強さを壊しながら、新しい自民党の強さを作った総理だった」と考えることである。

 「自民党をぶっ壊す」という言葉だけを聞けば、失敗した宣言のようにも見える。自民党は消滅するどころか、その後も日本政治の中心にあり続けたからである。しかし、自民党が何によって選挙に勝ち、誰が党を動かし、どのように有権者へ訴えるのかという仕組みまで含めて考えるなら、小泉の言葉は意外なほど現実になったとも言える。

 彼が壊したのは自民党という名前ではなかった。壊したのは、長年当然だと思われていた自民党政治の一部であり、その跡に現れたのは、より党首の力が強く、より全国的な世論に敏感で、より大きく勝つことも大きく負けることもあり得る自民党だった。

 その意味で、小泉純一郎は「自民党を壊して弱くした総理」でも、「自民党を守って強くした総理」でもない。自民党の強さそのものの形を作り替えた総理だったのである。

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 2008年9月1日の夜、福田康夫は首相官邸で記者会見を開き、総理大臣を辞任すると表明した。前年9月に就任してから、まだ1年にも満たず、しかもわずか1か月前には内閣改造を行ったばかりだったため、その辞任は国民には唐突に映った。会見の最後に記者から「他人事のように聞こえる」と問われた福田が、「私は自分自身を客観的に見ることはできるんです。あなたとは違うんです」と応じた場面は、その後長く繰り返し紹介され、福田政権そのものを象徴する言葉のようになった。

 しかし、あの一言だけから福田康夫という政治家を見ようとすると、奇妙なことが残る。総理大臣としては、政局を突破できずに短期間で退陣した人物が、その後は中国をはじめアジア諸国の指導者と接触し、日本政府の正式な外交とは少し違う場所で対話の糸をつなぐ役割を長く果たしたからである。総理大臣という最大の権力を持っていた時には行き詰まり、権力を失った後には別のかたちで存在感を示した。この逆説を考えると、福田の辞任は単なる「政権の投げ出し」で終わる話ではなくなる。

最初から自由に動けない総理だった

 福田康夫が総理大臣になったのは2007年9月だったが、その時点ですでに政権運営の条件は厳しかった。同年7月の参議院選挙で自由民主党と公明党は過半数を失い、民主党が参議院第1党となっていたからである。衆議院では与党が多数を確保している一方で、参議院では野党側が多数を占める、いわゆる「ねじれ国会」が成立していた。

 もっとも、参議院で野党が多数だからといって、福田政権が法律をまったく成立させられなかったわけではない。当時の与党は衆議院で3分の2以上の議席を持っていたため、参議院で否決された法律案を衆議院で再可決することが制度上は可能だった。実際、ガソリン税の暫定税率をめぐって、その手法は使われている。しかし、法律を成立させることが可能であることと、安定した政治運営が可能であることは同じではない。参議院での審議が停滞し、最後には衆議院の3分の2で押し戻すという政治が続けば、時間もかかり、野党との対立も深まり、世論から「強引な国会運営」と批判される危険も高まる。

 しかも福田が引き継いだのは、政策を自由に構想できる白紙の政権ではなかった。年金記録問題、薬害C型肝炎問題、防衛省をめぐる不祥事、政治とカネの問題など、それ以前から積み残されてきた課題が次々と政権の前に現れていた。後期高齢者医療制度をめぐる批判も強まり、2008年6月には参議院で福田首相に対する問責決議まで可決される。世論調査でも内閣支持率は低迷し、政権が政策の内容を説明する以前に、「福田政権そのものを続けるべきなのか」が政治問題になりつつあった。

福田の政治は、ねじれ国会と相性が悪かった

 福田康夫は、群衆を熱狂させ、強い言葉によって反対勢力を押し切る政治家ではなかった。森喜朗、小泉純一郎両政権で長く内閣官房長官を務めた経歴にも表れているように、異なる立場の間で調整し、対立を必要以上に激しくしないことを重視する政治家として理解されることが多い。

 もちろん、それを福田の生まれつきの性格だけで説明することはできない。政治家の行動は本人の資質だけではなく、議会制度、党内事情、選挙、世論、相手となる野党の戦略などによって決まるからである。それでも、福田政権の行動を見ると、対立を一方的に押し切るより、相手との合意によって政治を前へ進めようとした形跡は確かに見える。

 その象徴が、2007年秋に浮上した自民党と民主党の大連立構想だった。福田と民主党代表の小沢一郎が党首会談を行い、衆議院と参議院で多数派が異なる政治状況を、与野党の協力によって乗り越えようとしたのである。構想は民主党内の反発によって実現しなかったが、ここには福田政治の特徴がよく表れている。相手を倒して前へ進むより、相手との間に妥協できる場所をつくり、そこから前へ進もうとする政治である。

 ところが、当時の民主党にとって次の衆議院選挙で政権交代を実現することは、すでに現実的な政治目標になっていた。だからといって民主党の反対をすべて政権奪取のためだったと説明することはできず、後期高齢者医療制度や年金、ガソリン税などをめぐる実質的な政策対立も存在したが、福田政権に協力して実績を積ませることが、野党の選挙戦略と必ずしも一致しなかったことも確かだろう。合意を前提にした政治家が、政権交代を争う二大勢力の正面衝突の中へ入れば、調整能力だけでは解けない問題が生まれる。

「何もしなかった首相」ではないが、「物語を作れなかった首相」だった

 福田政権は、後世から見ると印象が薄い。しかし実際には、道路特定財源の一般財源化、消費者行政を一元化する消費者庁構想、社会保障制度をめぐる議論など、後の政策につながる方向を示している。福田自身も辞任会見で、これらを自らの政権が進めてきた課題として挙げていた。

 ただし、それらをすべて福田個人の「大きな実績」と評価するのも慎重であるべきだろう。政策は一つの政権だけで完成するとは限らず、前政権から引き継いだ議論を整理する場合もあれば、ある政権が構想し、次の政権が法律を成立させ、その後の政権が制度として定着させる場合もある。福田は、目立つ成果を自分の名前と結びつける政治より、制度の方向を整える仕事を好んだように見えるが、それはテレビや世論調査を通じて指導者の「分かりやすさ」が求められる時代には不利だった。

 小泉純一郎には「郵政民営化」があり、安倍晋三には後に「アベノミクス」が生まれた。しかし福田政権には、国民が一言で記憶できる政治的な物語がほとんど残らなかった。政策がなかったのではなく、政策を自分の政治的物語として演出する力、あるいは演出しようとする意欲が弱かったのである。

では、なぜ辞めたのか

 2008年9月の辞任を一つの原因だけで説明することはできない。ねじれ国会があり、内閣支持率の低迷があり、参議院での問責決議があり、与野党対立があり、次の衆議院選挙を意識する自民党内の事情もあった。8月には内閣改造を行ったものの、政権を劇的に立て直すほどの効果は生まれなかった。

 そのなかで福田自身が示した判断は興味深い。秋の国会には補正予算や消費者行政など重要案件が控えている以上、自分がそのまま首相を続けて対立を抱えた状態で国会を始めるより、新しい首相に交代した方が政策を進めやすいというのである。本人の辞任会見は重要な一次資料だが、それだけを辞任の「真相」とみなすことはできない。それでも少なくとも、福田が自分自身を政権運営上の一つの変数として見ていたことは確かである。

 普通、政治家は自らを政策実現の主体として考える。しかし福田は、自分自身が政策実現を妨げる要因になったなら、主体そのものを交換すればよいと考えたように見える。これは責任ある判断だったとも、総理大臣として踏ん張る責任を放棄したとも評価できる。後世から一方だけに決める必要はない。ただ、少なくとも「嫌になったから突然辞めた」という説明だけでは、この判断の構造を十分には捉えられない。

 そして「あなたとは違うんです」という言葉も、この文脈に置くと別の色を帯びる。言い方としては感情的であり、首相の言葉として洗練されたものでもなかったが、福田が言おうとしたのは、自分自身を政権の外側から見ることができるということだった。権力の中心にいながら、自分自身まで政治状況を構成する一要素として眺める。その考え方は、総理大臣としては珍しく、同時に危ういものでもあった。

権力を失ってから、福田の政治は別の場所で生き始めた

 福田は首相を退任した後も国会議員を続け、2012年に政界を引退した。しかし、政治的活動そのものをやめたわけではなかった。むしろこの頃から、首相時代とは違う形で外交の世界に居場所をつくっていく。

 2010年から2018年まで、福田はボアオ・アジア・フォーラムの理事長を務めた。中国海南省で開催されるこの国際会議には、アジア各国の政治家、経済人、研究者が集まり、福田はそこで長期間にわたって人的関係を築いた。中国との関係だけでなく、日本インドネシア協会会長として東南アジアとの交流にも関わり続けている。

 ここで重要なのは、福田の退任後外交を本人の性格だけで説明しないことである。対話を重視する姿勢が外交に適していたことは確かだとしても、彼が一定の役割を果たすことができた背景には、「元総理大臣」という肩書、首相時代から築いてきたアジア各国の指導者との人的関係、ボアオ・アジア・フォーラムでの地位、そして現職政治家ではないという自由さがあった。

 現職の総理大臣や外務大臣が外国の指導者と会えば、その言葉は日本政府の公式見解として受け止められる。ところが元首相には、正式な交渉権限がない代わりに、政府が正面から動きにくい時でも相手と会える余地がある。何かを約束することはできないが、相手の考えを聞き、日本側の考えを伝え、完全に切れそうになった関係に細い糸を残すことはできる。

 福田自身は、こうした役割を野球の「球拾い」のようなものだと表現したことがある。自分が試合の主役になるのではなく、外へ飛んでいった球を拾い、もう一度試合ができる場所へ戻す。政治家として華やかな比喩ではない。しかし、福田康夫という人物には不思議によく似合っている。

2014年、日中関係が冷え込んだ時に現れた「非公式の通路」

 福田の長老外交が最も注目されたのは、2014年の日中関係だった。尖閣諸島をめぐる対立や安倍晋三首相の靖国神社参拝などを背景に、日本と中国の政治関係は深く冷え込み、首脳会談さえ開けない状態が続いていた。

 そのなかで福田は北京を訪れ、習近平国家主席と会談した。日中双方が関係悪化に危機感を持っていることが確認され、その後、11月には北京で安倍晋三首相と習近平国家主席による首脳会談が実現する。

 もっとも、この首脳会談を「福田が実現させた」と説明するのは正確ではない。水面下では谷内正太郎国家安全保障局長をはじめ、外務省、中国政府、政党関係者、経済界など複数の経路が動いており、日中双方にも関係悪化をこれ以上続けることへの経済的・外交的な懸念が存在していた。福田の接触は、そうした複数の対話ルートの一つであり、そのなかでも元首相という立場を利用した比較的重要な経路だったと考えるのが妥当だろう。

 ここに長老外交の本質がある。正式な外交交渉を代替することはできないが、正式な外交が始まる前の空間をつくることはできる。扉そのものを開ける権限はなくても、扉の向こう側にまだ話のできる相手がいることを確かめることはできるのである。

福田の日中重視は、退任後に突然始まったものではない

 福田が中国との関係を重視したのは、総理大臣を辞めてからではない。2007年12月、中国を訪問した福田は北京大学で講演し、「日中関係にとって、平和友好以外の選択肢はあり得ない」と語っている。翌2008年5月には胡錦濤国家主席を国賓として日本に迎え、日中両国は「戦略的互恵関係」を包括的に推進する共同声明を発表した。

 この考え方には、父・福田赳夫の外交を連想させる部分もある。福田赳夫は1978年の日中平和友好条約締結時の首相であり、東南アジア外交では、軍事大国にならず相互信頼を重視する「福田ドクトリン」で知られる。康夫自身も北京大学で父の日中外交について語っているため、父子の外交観に一定の連続性を見ることはできるだろう。

 ただし、父親がそう考えたから息子も同じ外交観を受け継いだ、と単純に結論づけることはできない。政治思想は家族関係だけで形成されるものではなく、本人自身の経験や時代状況によっても変わる。それでも、国家間の関係は一度の会談や一人の首相で完成するものではなく、何十年という時間をかけて維持するものだという感覚が、福田康夫の外交姿勢に強く表れていたことは確かだろう。

総理時代には弱点だったものが、外交では違う価値を持った

 ここまで見てくると、福田康夫の総理辞任と長老外交には一定の連続性が見えてくる。ただし、それを「福田は調整型の性格だったから、内政では失敗し、外交では成功した」という一つの物語だけに閉じ込めるべきではない。政治家の成功や失敗は、性格だけでなく、制度と環境によって大きく変わる。

 総理大臣には、最後には決断しなければならない場面がある。国会で多数派を形成し、反対を押し切ってでも予算や法律を成立させる必要がある。その役割では、福田の慎重さや対話志向は、ときに指導力不足として映った。しかし元首相の外交には、決定権がないからこそできる仕事がある。結論を急がず、相手を屈服させず、意見の違いが残っていても次の会談への道だけは閉ざさない。その役割では、総理時代に弱点と見られた政治姿勢が、別の価値を持つことになる。

 さらに福田の場合には、元首相という肩書、長年築いてきた中国や東南アジアとの人的関係、国際会議での活動、現職政府から一定の距離を持つ立場が重なった。つまり、福田が長老外交で存在感を示したのは、性格が外交向きだったからだけではなく、その性格と経歴と立場が、退任後の国際環境のなかでうまく組み合わさったからだった。

「あなたとは違うんです」の後に続いていた政治

 福田康夫の総理大臣在任期間は365日だった。それだけを見れば、日本政治に数多く存在する短命政権の一つにすぎない。しかし、総理大臣を辞めた後に外交へ関わった期間は、その何倍にもなる。2020年代に入っても中国側要人との会談を続け、日本インドネシア協会を通じた交流にも関与している。

 考えてみれば、福田康夫という政治家には、最初から主役らしくないところがあった。総理大臣になっても大きな言葉で時代を名付けず、退任した後も自分の外交を歴史的業績として語ろうとはしない。その代わり、関係が壊れそうになった時に相手と会い、話し合いの場所がなくなりそうになれば細い通路を残す。その仕事は、選挙で票になるわけでもなく、大きな政策名として教科書に残るわけでもない。

 2008年9月、福田は自分自身を客観的に見ることができると言って官邸を去った。当時、その言葉は総理大臣を途中で辞める人物の捨てぜりふとして受け取られた。しかし、その後の歩みまで含めて見ると、もう一つの読み方ができる。

 自分が権力の中心にいることと、自分が政治に役立つことは同じではない。総理大臣でいることが政治を動かすなら総理大臣でいればよいが、自分が退くことで政治が動くなら退く。そして権力を失った後には、権力を持たない者だからこそできる仕事を探す。福田の辞任を正しかったと評価する必要はないし、長老外交を過度に美化する必要もない。それでも、彼の政治人生には、「自分が主役であること」より「関係や仕組みを次へ渡すこと」を重視する一つの一貫性があったように見える。

 福田康夫は、総理大臣として大きな物語を残した政治家ではなかった。しかし政治には、物語を作る人だけでなく、物語が途切れないように次のページへつなぐ人もいる。総理大臣としては、その静かな政治手法が時代に合わなかった。そして総理大臣を辞めた後、その同じ静けさが、外交という別の場所で初めて居場所を見つけたのかもしれない。

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 1998年7月24日、自民党総裁選の結果が出た。小渕恵三225票、梶山静六102票、小泉純一郎84票。最も多くの票を集めたのは、三人のなかで最も強烈な印象を与えない男だった。この総裁選を前に、田中眞紀子は三人を「凡人・軍人・変人」と評したとされる。軍人は旧陸軍航空士官学校出身で剛腕の印象を持つ梶山、変人は党内の常識に逆らって持論を唱える小泉、そして凡人が小渕だった。

 この言葉はあまりに分かりやすかったため、三人の政策以上に後世へ残った。しかし考えてみれば、「凡人」という呼び名には奇妙なところがある。本当に平凡なだけの政治家が、日本最大の政党の総裁となり、内閣総理大臣にまで到達できるものだろうか。

 小渕は総裁選に突然現れた無名の政治家ではなかった。1963年、26歳で衆議院議員に初当選して以来、すでに35年間も国会におり、竹下内閣では官房長官として新元号「平成」を発表し、自民党幹事長、党副総裁、有力派閥の会長、橋本内閣の外務大臣まで経験していた。国民から見れば柔和な「平成おじさん」であっても、永田町の内部から見れば、すでに自民党政治の中心部を長く歩いてきた人物だったのである。

 だから小渕を理解するには、「凡人なのに総理になった」という物語からいったん離れた方がよい。むしろ興味深いのは、これほど長く権力の中心にいた政治家が、なぜ最後まで「凡人」に見え続けたのかということである。

巨人二人のいる選挙区から始まった

 小渕恵三の政治家人生には、最初から有利な条件があった。父の小渕光平は衆議院議員であり、その政治地盤を引き継いでの出馬だったから、小渕は明らかな世襲政治家である。したがって、「何も持たない普通の青年が努力だけで総理へ上り詰めた」という成功物語にしてしまうのは正確ではない。

 しかし、受け継いだ地盤がそのまま安泰を意味したわけでもなかった。小渕が初当選した旧群馬3区には、すでに福田赳夫と中曽根康弘がいた。後に二人とも総理大臣となる。26歳の新人小渕は、やがて戦後政治を代表する二人の大物と同じ選挙区で議席を争い、その環境のなかで初当選し、その後も連続して議席を守り続けた。

 この出発点は、小渕という政治家の生き方を象徴しているように見える。福田のような政策家として圧倒するのでも、中曽根のように国家像を雄弁に語って存在感を示すのでもない。自分より目立つ人物が周囲にいる環境のなかで、それでも消えずに残り続ける方法を身につける必要があった。

 政治では、目立つことと生き残ることは同じではない。演説がうまい政治家が必ず選挙に強いわけではなく、政策に詳しい政治家が党内で多数を形成できるとも限らない。とりわけ当時の自民党では、選挙区で票を積み、派閥のなかで信用を積み、他派閥との関係を保ち、人事や選挙や資金をめぐる長い貸し借りのなかで自らの位置を高めていくことが、権力への重要な経路だった。

 小渕が得意としたのは、まさにそうしたテレビには映りにくい政治だった。

小渕は「突然出世した」のではない

 小渕の経歴を時系列で眺めると、劇的な跳躍は意外なほど少ない。若くして一気に党内を駆け上がった小沢一郎とも違い、後に世論を味方につけて党内秩序そのものを揺さぶった小泉純一郎とも違う。小渕の政治人生には長い時間が流れており、その時間そのものが政治的資産になっていった。

 田中角栄の流れをくむ派閥に入り、やがて竹下登に近い政治家として地歩を固め、1987年の竹下内閣で官房長官となった。国民にとって最も鮮烈だった場面は、1989年1月に「平成」と書かれた額を掲げた瞬間だったが、それは小渕にとって政治人生の頂点ではなく、むしろ党内中枢へ入ったことを示す一つの通過点だった。その後も党幹事長、副総裁、外相といった要職を重ねていく。

 そして1992年、小渕の政治人生を決定的に変える出来事が起こる。巨大な竹下派では、金丸信の失脚後、後継会長をめぐって激しい対立が起きていた。小沢一郎らは羽田孜を推し、それに対抗する側は小渕を推した。ここで重要なのは、小渕が派閥会長になった事実を「温厚な人柄が評価されたから」とだけ説明しないことである。

 小渕の背後には竹下登を中心とする党内勢力があり、参議院側を含む派閥内の力関係があり、さらに小沢への警戒を強める議員たちの結集があった。小渕自身の信用や調整能力はもちろん重要だったとしても、巨大派閥の後継争いという組織政治のなかで選ばれたのであって、一人の人間的魅力だけで頂点へ押し上げられたわけではない。

 結果として竹下派は分裂し、羽田・小沢系の議員たちは別の道へ進む一方、小渕は旧竹下派の主要部分を率いることになった。この出来事によって、小渕は単なるベテラン議員から、自民党内の巨大な票の集団を背負う政治家へ変わった。

「凡人」の背後に巨大派閥があった

 小渕が1998年の総裁選で勝った理由を考えるとき、最も重要なのはここである。総裁選当時、小渕派はおよそ90人規模を抱える自民党最大級の派閥であり、小渕はその会長だった。

 この事実を抜きにして、「人柄がよかったから225票を取った」と説明すれば、小渕政治の核心を見誤る。自民党総裁選は国民による直接選挙ではない。当時の制度では国会議員票の比重が極めて大きく、派閥の所属議員がどこへ投票するかは決定的な意味を持っていた。

 小渕にはまず、自らが率いる大きな派閥という組織的基盤があった。そのうえで宮澤派など他派閥からも支持を広げ、最終的に225票を獲得した。つまり、1998年の勝利を説明する第一の要因は、35年間にわたる人間関係を漠然と「信用」と呼ぶことではなく、長い政治生活の末に自民党最大級の派閥を率いる位置まで到達していたという、目に見える組織的条件である。

 しかし、それだけなら話はまだ終わらない。派閥の力が大きかったとしても、すべての派閥会長が総理になれるわけではないからである。小渕が持っていたもう一つの特徴が、ここで効いてくる。

「敵をつくらない」は弱さだったのか

 強い政治家という言葉を聞くと、私たちはしばしば決断力のある人物を想像する。反対を押し切り、大胆な改革を打ち出し、敵と味方を鮮明にし、自らの理念に政治を引き寄せていくタイプである。しかし、その強さには必ず代償がある。熱烈な支持者をつくる政治家は、同時に強烈な反対者もつくりやすい。

 小渕は、その対極にいた。

 相手を論破して自分を大きく見せるより、話を聞き、電話をかけ、関係を切らない。総理になった後には、本人が直接さまざまな人へ電話することから「ブッチホン」という言葉まで生まれたが、これは単なる庶民派の演出というより、小渕が長く続けてきた政治の作法を象徴していた。

 中曽根康弘から「真空総理」と評されたように、小渕は何をしたい政治家なのか輪郭が見えにくいとも批判された。しかし、政治において輪郭が薄いことは、常に弱点とは限らない。自分の主張を鋭く打ち出さない分だけ、異なる立場の人間が近づく余地が残り、「この人物が権力を握れば自分は排除される」という恐怖を相手に抱かせにくくなるからである。

 ただし、ここで因果関係を逆転させない方がよい。小渕が敵をつくらなかったから総理になれたと証明することはできないし、「凡人だったから敵が少なかった」と断定することもできない。むしろ逆に考えることもできる。

 小渕はもともと凡人だったから調整型になったのではなく、巨大な自民党という組織のなかで何十年も生き残るために、相手を不用意に刺激せず、対立を決定的にせず、関係をつなぎ続ける政治を身につけ、その結果として外からは「凡人」に見える政治家になったのかもしれない。

 そう考えると、「凡人」という言葉の意味はかなり変わってくる。

1998年という時代が小渕を押し上げた

 1998年、小渕に総理への機会が訪れた背景には、日本政治そのものの危機があった。

 日本経済はバブル崩壊後の長い停滞から抜け出せず、1997年には北海道拓殖銀行が経営破綻し、山一證券が自主廃業するなど金融不安が深刻化していた。橋本龍太郎政権の下では景気悪化への批判が強まり、1998年7月の参議院選挙で自民党は大きく議席を減らした。橋本は責任を取って退陣し、後継総裁を決める選挙が行われることになる。

 そこで立候補したのが小渕、梶山、小泉の三人だった。

 後の歴史を知る私たちから見ると、小泉の方がはるかに「総理らしい」人物に見えるかもしれない。実際、わずか3年後、小泉は国民的人気を背景に総理へ上り詰める。しかし1998年の自民党総裁選で問われていたものは、2001年とは違っていた。

 日本の首相は大統領のように国民が直接選ぶわけではなく、国会で指名される。当時は自民党が衆議院で最大勢力だったため、自民党総裁になることが事実上、総理になるための最大の関門だった。しかも総裁選では党内の国会議員票が決定的な重みを持っていたため、テレビで最も人気のある人物ではなく、党内で最も多くの支持をまとめられる人物が有利になる。

 この制度のなかで見ると、小渕の35年間は単なる長い経歴ではなくなる。選挙を繰り返し、派閥のなかで地位を高め、官房長官、幹事長、副総裁、外相を経験し、巨大派閥の会長となり、他派閥とも関係を維持してきた時間のすべてが、総裁選で票を集めるための資産へ変わったのである。

 小渕225票という数字は、数週間の選挙運動で突然生まれた人気ではない。それ以前の数十年間に形成されていた党内権力の構造が、最後に数字として現れたものだった。

「凡人」の政治は総理になってから試された

 総理になれば、派閥の力だけで政治を動かせるわけではない。むしろ小渕にとって本当の試験はそこから始まった。

 参議院では自民党が過半数を失っていたため、政府提出法案を自民党だけで成立させることは難しかった。とりわけ金融危機への対応では、与野党の激しい対立が続き、最終的に政府・与党側は野党側の考えを大幅に取り入れながら金融再生法を成立させた。

 ここでも小渕政治の特徴が現れている。自分の案を守ることそのものを目的とするのではなく、成立させるために修正し、異なる勢力との合意点を探す。その後、小渕政権は自由党との連立へ進み、さらに公明党を加えた自自公連立を形成する。

 だからといって、「1998年には小渕のような政治家でなければならなかった」とまで言うことはできない。梶山や小泉が総理になっていれば何が起こったかを検証することはできず、歴史に比較実験は存在しないからである。

 ただ、結果として見るならば、参議院で単独過半数を持たず、金融危機への迅速な対応が必要で、さらに連立相手を求めなければならなかった当時の政治状況と、小渕が長年培ってきた調整型の政治手法との相性がよかったことは確かだろう。

 その意味で、小渕は時代を自分の思想によって作り替えた政治家というより、時代が要求する複雑な条件のなかで、利用できる選択肢をつなぎ合わせながら前へ進んだ政治家だった。

調整型政治には、当然ながら代償もある

 ここまで書くと、小渕が実は優れた名宰相だったという話に聞こえるかもしれない。しかし、それもまた単純化である。

 小渕政権は景気悪化と金融危機に対応するため、大規模な公共事業や減税を含む積極的な財政政策を進めた。景気を下支えする必要があったことは確かだが、その結果として国債発行は大幅に増え、財政悪化を加速させたという批判も残った。

 また、調整型政治には別の弱点もある。多くの勢力との妥協を重ねれば政策の輪郭は薄くなり、何を実現する政権なのかが分かりにくくなる。対立を避ける政治は合意を生みやすい一方で、問題を根本から変える決断を遅らせることもある。

 だから小渕政治を評価するときには、「強いリーダーではなかった」という批判も、「合意形成に優れた政治家だった」という評価も、どちらか一方だけを採用する必要はない。両方が同時に成り立つからである。

総理になった理由は「凡人だったから」ではない

 では、小渕恵三はなぜ総理大臣まで上り詰めたのか。

 その答えを一つの性格に求めることはできない。父から受け継いだ選挙地盤があり、26歳という若さで国会へ入り、35年間にわたって議席を守り続け、田中・竹下系の巨大派閥のなかで地位を高め、竹下登ら党内実力者の支持を背景に派閥会長となり、最終的には自民党最大級の派閥を率いた。その組織力を基盤に他派閥からも支持を集め、そこへ敵を不用意につくらず関係を維持する調整型の政治手法が重なり、さらに橋本退陣という政治的機会が訪れた。

 世襲、選挙、派閥、組織、人脈、経験、性格、そして時代。小渕恵三を総理にしたのは、そのどれか一つではなく、それらが長い時間をかけて重なった結果だった。

 だから小渕の人生を、「普通の人でも努力すれば総理になれる」という美談として読むのは適切ではない。むしろこの人物が教えてくれるのは、政治における「能力」という言葉の意味が、私たちがテレビ越しに見る能力とはかなり違うということである。

 私たちは政治家を見れば、演説の鋭さ、政策の大胆さ、知名度、カリスマ性、討論の強さといった目につきやすい能力を評価する。しかし、組織のなかで権力を形成する能力は、それほど分かりやすくない。誰と話せるのか、誰から完全には嫌われないのか、誰なら別の勢力との間に置くことができるのか、誰が何十年も関係を切らずにいられるのかという、数字にもテレビにも映りにくい能力によって組織は動いている。

 小渕が長い政治生活のなかで蓄積したものを一言で表すなら、それはおそらく「見えない政治資本」だった。

 梶山には「軍人」という輪郭があり、小泉には「変人」という輪郭があった。それに比べて小渕には、一言で説明できるほど鮮烈な輪郭がなかった。だから「凡人」と呼ばれた。しかし、巨大な組織のなかでは、輪郭が鋭くないことが、かえって多くの人を自分の周囲に残すこともある。

 そして、もう一つ考えておくべきことがある。小渕は凡人だったから調整型政治家になったのではなく、何十年にもわたって調整型政治家として生きた結果、凡人に見えるようになったのではないかということである。

 もしそうなら、「凡人」という評価は小渕恵三という政治家の弱点を言い当てた言葉であると同時に、彼の最大の政治技術を見落とした言葉でもあったことになる。

 1998年、自民党が総裁に選んだのは、最も強烈な男ではなかった。

 しかし、最も目立たなかった男が偶然最後に残ったわけでもない。長い歳月をかけて巨大な組織の中心へ近づき、多くの人間との糸を切らず、その時が来たときには最大級の派閥と他派閥の支持を動かせる位置にいた男が、最後に225票を集めたのである。

 「凡人が総理になった」のではない。

 総理になれるほど複雑な政治技術を身につけた人物が、最後まで凡人に見えていたのである。

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「決められない政治」を終わらせたあと、日本は何を手に入れ、何を失ったのか

 日本政治を長く見ていると、その時代を象徴する言葉がある。「官僚主導」「政治主導」、そして「官邸主導」もその一つだろう。しかも、これらの言葉には、いつの間にか善悪の色まで塗られていた。官僚主導は古い政治であり、政治主導は民主的であり、官邸主導は決断のできる強い政治であるという物語が、1990年代から2000年代にかけて広く共有されるようになった。

 もちろん、この物語には理由があった。かつての日本政治では、農業には農林水産省、産業には通商産業省、社会保障には厚生省、財政には大蔵省というように、それぞれの省庁が大きな専門領域を抱え、その周囲には与党の政策部会、業界団体、審議会、いわゆる族議員などが存在していた。一つの政策について見れば、専門知識と利害調整を積み上げていく精巧な仕組みだったともいえるが、国全体を一つの方向へ動かそうとすると、途端に政治は重くなった。それぞれの組織が、それぞれの合理性を持っていたからである。

 この仕組みは慎重だったが、遅かった。そして国民から見ると、誰が政策を決めているのかも分かりにくかった。選挙で政権を選んでも、その後の政策形成が霞が関や与党内部の複雑な調整に入れば、最初に掲げられた政治的意思が薄められてしまうこともある。そのため1990年代になると、「選挙で選ばれた政治家がもっと行政を動かすべきではないか」という考え方が勢いを増していった。

 そこで始まったのが、首相と内閣の機能を強める一連の改革である。橋本龍太郎政権による行政改革を経て、2001年には中央省庁再編が実施され、内閣官房の企画・調整機能が強化されるとともに、内閣府も設置された。改革の目的そのものに「内閣機能の強化」と、それを通じた「政治主導の強化」が掲げられていた以上、後に生まれた官邸主導は、偶然強い首相が登場した結果ではない。日本政治は制度そのものを組み替えることによって、意識的に首相が政策を動かしやすい仕組みを作ったのである。

 その変化をさらに後押ししたのが選挙制度改革だった。衆議院で小選挙区を中心とした制度が導入されると、候補者の公認や選挙戦略を握る政党執行部の力が相対的に強くなる。以前の自民党では派閥や個々の議員がかなりの自律性を持っていたが、選挙制度の変化と内閣機能の強化が重なったことによって、首相と党執行部が政策を動かす条件が整っていった。官邸主導とは首相個人の性格ではなく、政治制度の変化によって生まれた構造なのである。

小泉純一郎は「強くなった官邸」の使い方を示した

 制度が変わっても、それを使う政治家がいなければ政治は変わらない。その意味で象徴的だったのが小泉純一郎政権である。経済財政諮問会議を利用して、従来なら各省庁や自民党内部で長い時間をかけて調整されていた政策を首相周辺から動かし、郵政民営化をめぐって党内から強い抵抗を受ければ、衆議院を解散してその争点そのものを国民に問うた。

 2005年の総選挙で自民党が大勝した後、小泉首相の党内での影響力はさらに強まり、それまで与党や省庁との調整で停滞していた政策についても首相が主導的に方向を示す場面が増えたことは、政治学の研究でも確認されている。ただし、この研究から読み取るべきなのは、「首相主導なら政策が必ず成功する」ということではない。首相が政策を動かせるようになったことと、その政策が正しかったことは別の問題だからである。

 それでも当時の政治が多くの国民に新鮮に映った理由は理解できる。郵政民営化に賛成なのか反対なのか、改革を進めるのか止めるのかという争点を首相が提示し、その是非を選挙で問い、勝った政権が政策を実行する。この流れは、それ以前の複雑な政策決定過程と比べれば圧倒的に分かりやすかった。「選挙で選ばれた政治家が行政を動かす」という議院内閣制の原則が、ようやく現実の政策形成に近づいてきたようにも見えたのである。

 だからこそ、官邸主導を単純に「権力集中」と呼んで否定してしまうと、この改革が何を解決しようとしたのかが見えなくなる。かつての日本政治には、確かに「決められない」という問題が存在していた。

安倍政権で官邸主導は人事の領域へ広がった

 官邸主導を考えるうえでもう一つ重要なのが、第2次安倍晋三政権である。2014年には内閣人事局が設置され、各府省の幹部職員について政府中枢が横断的に人事を管理する仕組みが本格的に導入された。これによって官邸が持つ制度的な力は、政策の調整だけでなく、政策を実施する行政組織の幹部人事にまで広がった。

 ここには明確な合理性がある。もし各省庁が自分たちの幹部を事実上自分たちだけで選び、その人事に政治がほとんど関与できないとすれば、選挙で選ばれていない官僚組織が政府の方向性を左右する可能性が生まれる。選挙で選ばれた政権が自らの政策を実行できるよう、人事を含めて行政組織を統制することには民主主義的な根拠がある。

 しかし、この改革をめぐっては別の懸念も現れた。官邸が人事に強い影響力を持てば、官僚が政権の意向に反する意見を述べにくくなるのではないか、という問題である。参議院事務局の調査論文にも、内閣人事局について「官僚の萎縮を招き、意見を言いにくくする」との批判が存在することが紹介されている。ただし、ここは慎重に読む必要がある。それは官僚の萎縮が統計的、因果的に証明されたことを意味するものではなく、制度改革をめぐってそのような批判や懸念が提起されてきたということである。

 さらに近年の研究を加えると、状況はもっと複雑に見えてくる。2019年と2023年の主要省庁の官僚を対象とした意識調査を分析した2025年の研究では、首相官邸、内閣官房、内閣府が制度上強化されている一方、官僚から見た日常的な政策形成では、それらが常に圧倒的な存在として認識されているわけではないことが示されている。安倍政権期についても、官邸があらゆる政策分野で官僚を一方的に統制していたと単純化することは難しい。

 ここには官邸主導を理解するうえで重要な区別がある。「官邸が強い制度を持っていること」と、「すべての政策について官邸が実際に支配していること」は同じではないのである。

「決められる政治」と「良い政治」は同じなのか

 官邸主導を評価するとき、最も注意しなければならないのは、政策を決定できることと政治が良くなることを無意識に同じものとして扱わないことである。意思決定の速さは政治の能力の一つではあるが、それだけで政策の質を測ることはできない。

 会社を例にすれば分かりやすい。社長がほとんどすべての案件を即断できる会社は意思決定が速い。しかし、その社長が正しい判断をしているとは限らない。判断が正しければ会社は素早く前進するが、判断が誤っていれば同じ速度で間違った方向へ走ることもできる。

 政治も同じである。官邸主導によって直接強くなるのは、「正しい政策を選ぶ能力」というより、「政府として一つの方針を決定し、それを行政組織に実行させる能力」である。この違いを曖昧にすると、官邸主導の評価そのものを間違える。

 従来の省庁中心型政治には確かに欠点があった。各省庁が自らの所管や既存制度を守ろうとすれば、省庁間調整には時間がかかり、改革案が弱められることもある。しかし、その煩雑さの中には、別の機能も埋め込まれていた。財政を担当する官僚が「その財源はどうするのか」と問い、法制度を担当する官僚が「現行法との整合性はどうなるのか」と問い、政策を実施する現場の官僚が「自治体や事業者が本当に実行できるのか」と問い返す。政治家にとっては面倒な反論であっても、政策にとっては一種の品質検査なのである。

官僚が反対できる政府は弱いのか

 ここで問題になるのが、政治主導と官僚の専門性をどのように両立させるかという古くて新しい問題である。官僚が政治家の方針を無視して独自に政策を進めれば、民主主義的統制が失われる。しかし政治家の方針に対して官僚が何も反論できなくなれば、今度は政策判断に必要な専門的なチェック機能が弱まる可能性がある。

 政治と行政の理想的な関係は、政治家が目的と方向を決め、官僚が専門知識に基づいて実現可能性や副作用を検討し、それでも意見が分かれる場合には、最終的に選挙で選ばれた政治家が責任を持って決断する形に近いだろう。英国の政官関係を扱った研究でも、政治主導は大臣が官僚に一方的に命令することではなく、大臣が方針を示し、官僚が必要な質問や問題点を提示し、その対話を経て政治家が最終判断する関係として捉える必要があると論じられている。

 つまり、「政治家が決めること」と「官僚が黙ること」は同じではない。

 官邸主導によって官僚が実際にどの程度萎縮したのかについては、今なお研究上の議論が残る。それでも制度設計として考えれば、政権が官僚を統制する力と、官僚が専門家として異論を提出できる環境の双方を確保する必要があるという問題は消えない。政治主導と専門性は本来、どちらかを選ぶものではなく、互いを利用して政策の質を高めるべき関係だからである。

縦割りを壊すための官邸が、巨大組織になっていく

 官邸主導が求められた大きな理由の一つは、省庁の縦割り行政だった。人口減少、感染症、エネルギー、安全保障、少子化、デジタル化のような問題は、一つの省庁だけでは解決できない。そうであれば、各省を越えて調整する政府全体の司令塔が必要になるという発想には十分な合理性がある。

 ところが、ここには中央集権的な組織が持つ一つの逆説が潜んでいる。新しい政策課題が生まれるたびに「官邸で調整しよう」と考えれば、本部、会議、事務局、担当室が次々と政府中枢に設けられる。実際、内閣官房や内閣府には多数の政策課題別組織が設けられ、その業務量の膨張や役割の重複は以前から指摘されてきた。

 もちろん、これだけで「官邸と各省の新しい縦割りが生まれた」と断定することはできない。しかし、各省庁の縦割りを克服するために設けた調整組織が巨大化すれば、今度は官邸と各省庁との間に新しい調整コストが発生する可能性がある。中央に権限を集めれば、それだけで組織全体が単純になるわけではないのである。

 交通事故が起こるたびに運転席だけを大きくしても、自動車が安全になるとは限らない。必要なのは運転席だけではなく、計器、ブレーキ、ミラー、整備、道路標識まで含めた仕組みであり、政治についても同じことがいえる。

「誰が決めたか」が見える政治と、「なぜ決めたか」が見える政治

 官邸主導には民主主義にとって明確な利点がある。それは責任の所在を分かりやすくできることである。省庁、審議会、与党部会、業界団体の調整を積み重ねた末に政策が決まる仕組みでは、失敗したときにも「役所が決めた」「党で調整した」「関係者の合意だった」と責任が分散しやすい。それに対して首相が政策を掲げ、政府として実行するのであれば、その結果を選挙で評価しやすくなる。

 ただし、ここにも別の問題がある。意思決定が政府中枢に集まれば、「誰が決めたか」は分かりやすくなる一方、少人数での調整が増えた場合には「なぜその判断になったのか」が外部から見えにくくなる危険がある。

 もっとも、官邸主導そのものが不透明さを生むわけではない。小泉政権期の経済財政諮問会議では議事要旨や議事録が公開され、むしろ従来の政策形成より透明性が高かったと評価されることもある。重要なのは、誰が政策を決めたかではなく、その判断に使われた資料や異論、選択肢、議論の経過がどこまで記録され、後から検証できるかなのである。

 公文書が重要なのも、そのためだ。民主主義では、決定した政策だけではなく、なぜ別の政策を選ばなかったのかまで後世の国民が検証できなければならない。「誰が決めたか」が見える政治と、「なぜ決めたか」が見える政治は、似ているようで別のものである。

官邸主導によって政策の質は落ちたのか

 ここについては、簡単な答えを出すべきではない。

 官邸主導が強まることで政策論争が政府内部に閉じられ、異論が表面化しにくくなれば、政策の質が低下する可能性があるという指摘は政治学や行政学に存在する。しかし、日本政府全体について「官邸主導になったから政策の質が落ちた」という因果関係が統計的に確立しているわけではない。

 そもそも政策の質というものを一つの数字で測ること自体が難しい。外交政策と社会保障政策では成功の尺度が違い、感染症対策と経済政策でも評価基準は異なる。政策を早く決めることが重要な場面もあれば、時間をかけて異論を検討することが重要な場面もある。したがって、官邸主導について科学的にいえるのは、「政策の質を必ず低下させる」ということではなく、権力が集中するほど異論や代替案を検討する仕組みを意識的に設ける必要が高まる、という程度までである。

 逆に、「官邸主導なら必ず良い政策になる」ともいえない。官邸主導が比較的強く実証されているのは、首相の政策主導力や政府中枢の調整能力が以前より高まったという点であって、それが経済成長、行政効率、政策の公平性、透明性、民主的正統性のすべてを同時に高めたことが証明されているわけではない。

では「日本政治が良くなった」とは何を意味するのか

 ここまで考えると、実はこの記事の題名に含まれる「良くした」という言葉そのものが問題であることが分かる。

 政治が良くなったかどうかを、政策決定の速さで測るのか、選挙公約の実現率で測るのか、経済成長で測るのか、行政コストで測るのか、透明性で測るのか、少数意見が尊重されたかどうかで測るのかによって、官邸主導への評価は変わる。

 もし政治の目的を「政府が意思決定できること」に置くのであれば、官邸主導改革はかなり成功したと評価できるだろう。首相が政策課題を設定し、省庁を越えて政府全体を動かす制度的能力は、1990年代以前より明らかに強くなったと考えられる。

 しかし政治の目的を「できるだけ正しい政策を選び、間違えた場合には修正できること」に置くなら、評価はもっと複雑になる。決断能力だけでなく、情報収集、異論、専門性、記録、議会による監視、政策評価まで含めて制度を見なければならないからである。

強い指導者より、間違いを直せる制度の方が強い

 官邸主導について考えるとき、最も重要なのは首相を強くするべきか弱くするべきかという二択から離れることだろう。人口減少、安全保障、エネルギー、感染症、人工知能のように複数の省庁にまたがる問題が増える現代社会で、再び各省庁が個別に政策を積み上げ、最後に首相が承認するだけの政治へ完全に戻ることは現実的ではない。

 必要なのは弱い官邸ではなく、強い官邸の周囲に強い検証装置を置くことである。

 官僚が昇進だけを気にせず専門的な異論を提示でき、それが記録として残され、有識者会議では政府に近い意見だけでなく反対意見も検討され、最終的には選挙で選ばれた政治家が責任を持って決断する。そして国会と国民が、数年後に「なぜこの政策を選んだのか」「予想した効果は得られたのか」を資料に基づいて検証できる。その仕組みがあるなら、政治主導と官僚の専門性は対立するものではなく、むしろ互いを補完する。

 強い政治とは、指導者が何でも決められる政治ではない。間違ったときに、それを発見して修正できる政治である。

官邸主導が日本政治に残した本当の宿題

 「官邸主導は日本政治を良くしたのか」という問いに、単純な答えはない。しかし、かなり確かなことはある。日本政治はこの三十年ほどの改革によって、「誰も決められない政治」から「誰が決めるのかが比較的分かる政治」へと大きく変わった。

 それは小さな変化ではない。

 一方で、政治の目的は決めることそのものではない。よりよい選択肢を見つけ、間違った場合には修正し、その理由を国民に説明できることである。官邸主導によって日本政治は確かに強力なアクセルを手に入れたが、アクセルが強くなればなるほど、ブレーキ、計器、ミラーまで同じ性能にしておかなければならない。

 かつて日本政治が抱えていた問いは、「なぜ誰も決められないのか」だった。官邸主導の時代になって現れた問いは、それとは少し違っている。

 首相が政策を決める。それ自体は民主主義に反することではなく、むしろ議院内閣制では当然のことでもある。しかし、その決定に対して専門家が「この前提は間違っています」と言えるのか、官僚が「この政策にはこうした危険があります」と書けるのか、国会が「なぜそう決めたのか」と資料をたどれるのか、そして数年後の国民がその政策の成否を検証できるのかという問題は、首相が強くなっただけでは解決しない。

 日本政治は官邸主導という改革によって、「誰が決めるのか」という問いにはかなり明確な答えを与えた。

 しかし、その先にある問いには、まだ十分な答えを出していない。

 「決めた人が間違えたとき、それをどう発見し、誰が止め、どう直すのか」。

 おそらく官邸主導の成否を本当に判断できるのは、この問いに日本政治が答えられるようになったときなのだろう。

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 政治家の力を人気で測ろうとすると、二階俊博という政治家はひどく分かりにくい。

 テレビ映りのよさを武器にした政治家ではない。演説によって大衆を熱狂させるタイプでもなく、国民的人気を背負って総理大臣の座を目指したわけでもない。それどころか、中国との近い関係をめぐっては保守層の一部から厳しく批判され、道路や国土強靱化への強い関与からは利益誘導型政治の象徴のように語られることもあった。新型コロナウイルス感染症の流行期には、旅行業界との長い関係にも批判的な視線が向けられた。そして晩年には政治資金をめぐる問題が直撃し、2024年3月、次の衆議院選挙に立候補しないことを表明するに至った。

 ところが、その二階は2016年8月から2021年10月まで、1886日にわたって自由民主党(自民党)の幹事長を務めた。これは歴代最長である。安倍晋三政権から菅義偉政権へと総理大臣が交代しても、二階は党の中枢に残った。1983年の初当選から数えれば、衆議院議員として13回当選している。

 なぜ、これほど批判されながら権力の中心にいられたのか。

 この問いを解くには、「なぜ二階は人気があったのか」と考えるだけでは足りない。むしろ二階政治の核心は、好かれることよりも、政治の内部で必要とされることにあったのではないか。

権力は、拍手の大きさだけでは測れない

 民主政治では、選挙に勝つことが権力への入口になる。しかし、議員になった後の力関係は、得票数や世論調査の数字だけでは決まらない。

 候補者を誰にするのか。党内の対立をどう収めるのか。地方組織から上がってきた要求をどこへ運ぶのか。政権が危機に直面したとき、誰が異なる派閥の間を走り回るのか。選挙で苦戦している議員を誰が支えるのか。政府と党の意思がずれたとき、最後の着地点を誰が探すのか。

 こうした仕事は、国会中継にはほとんど映らない。

 だが政治組織は、演説する人間だけでは動かない。調整し、紹介し、つなぎ、時には対立する者同士の間に入り、誰かが決断できる環境をつくる人間が必要になる。

 二階は、この見えにくい政治を長く生きてきた。

 その経歴自体が異色である。1993年に自民党を離れ、新生党、新進党、自由党、保守党、保守新党と政党再編の時代を渡り歩いた後、2003年に保守新党が自民党へ合流する形で約10年ぶりに戻った

 普通なら、このような政党遍歴は弱点にもなる。

 しかし、別の角度から見れば、それは一つの政治的資産でもあった。

 自民党の中だけを歩いてきた政治家よりも、野党の事情を知っている。巨大政党だけでなく、小さな政党が生き残る難しさも知っている。昨日まで敵だった政治家が明日には連立相手になることも、新しい政党が数年で消えてしまうことも知っている。

 その経験から何を学んだのかは本人の内面に属するため断定できない。ただ、その後の二階の行動を見る限り、政治的な人間関係を一度の対立だけで切断しないという特徴は繰り返し現れている。

 政治の世界では、今日の敵が永久に敵であるとは限らない。

 その感覚を早くから身につけていたことが、二階の長い政治人生を理解する一つの手掛かりになる。

二階の力は「城」よりも「交差点」に近かった

 二階の権力を「派閥の領袖だったから」と説明することはできる。

 しかし、それだけでは十分ではない。

 2003年に自民党へ戻った二階は、旧保守新党の議員らを中心に「新しい波」という政治グループをつくった。その勢力は決して大きくなかった。2009年に自民党が政権を失った衆議院選挙では、所属国会議員は二階を含めてわずか3人まで減った。それが次第に議員を増やし、2020年には47人となり、党内第4派閥にまで成長している。

 ここには、二階政治を理解する重要な特徴がある。

 巨大派閥を最初から相続したのではない。

 小さな集団から始めて、人を増やしたのである。

 政治学や社会ネットワーク研究には、ブローカー(broker・異なる集団を仲介する主体)という考え方がある。ネットワークの中で力を持つ人物とは、単純に知り合いの数が最も多い人物とは限らない。互いに直接つながっていない人々や集団の間に位置し、情報や交渉の経路になる人物が大きな影響力を持つ場合がある。

 これを数理的に捉える考え方の一つが、媒介中心性(betweenness centrality・他者同士を結ぶ経路上に、ある主体がどの程度位置しているかを見る指標)である。政治に関するネットワーク研究でも、集団間をつなぐ仲介者が、情報伝達や政治的動員において特徴的な位置を占めることが示されている。

 もちろん、二階について媒介中心性を計算した研究が存在するわけではない。

 それでも、この考え方を借りると彼の立ち位置は理解しやすい。

 二階の権力は、巨大な城というより、交通量の多い交差点に近かった。

 交差点そのものは目的地ではない。だが、複数の道がそこで交わり、そこを通らなければ別の場所へ行きにくいとなれば、交差点には独自の価値が生まれる。

 二階が長年築いたのも、それに似た位置だったのではないか。

幹事長という地位が、交差点をさらに大きくした

 その二階に決定的な力を与えたのが、2016年の自民党幹事長就任だった。

 自民党の党則では、幹事長は「総裁を補佐し、党務を執行する」と定められている。また、自民党は過去の機構改革で、選挙実務を総裁と幹事長の下へ集中させる方針も明確にしてきた。  これは単なる名誉職ではない。

 党組織、選挙、人事、資金、地方組織との調整など、政党を実際に動かすさまざまな情報が幹事長周辺へ集まりやすい。

 ここで重要なのは、権力には「命令できる」という形だけでなく、「相談される」という形もあることである。

 相談が集まれば、情報が集まる。

 情報が集まれば、誰が困っているのかが見えてくる。誰と誰が対立しているのか、どの選挙区が危ないのか、どの議員が不満を持っているのか、地方が政府に何を求めているのかが分かる。

 そして、困っている人間を助けることができれば、その間には新しい政治的関係が生まれる。

 したがって、二階については「幹事長になったから強くなった」という一方向だけで考えない方がよい。

 長年蓄積した人脈と政治力があったからこそ幹事長に選ばれ、その幹事長という地位によって、さらに情報、人事、選挙、党内調整への接点が増えた。既存の政治力が役職を生み、役職がまた政治力を強くする。

 その循環が1886日続いたのである。

「総理にならない実力者」という奇妙な強さ

 二階政治には、もう一つ興味深い特徴があった。

 長い政治人生の中で大きな権力を持ちながら、自らが自民党総裁となって総理大臣を目指す動きは前面に出なかった。

 ここを、「安倍晋三にとって二階は使いやすかった」と断定してしまうのは慎重であるべきだろう。安倍本人の心理を外部から確定することはできない。

 しかし、客観的に確認できることはある。

 二階は安倍と総裁職を直接争う立場には立たず、安倍政権下で長期間幹事長を務めた。総理の座を奪う競争相手としてではなく、党運営を担う実力者として存在していた。

 一般論として、党首を目指す有力派閥の領袖と、党首の座を直接争わず組織運営を担う実力者とでは、総裁との関係は異なる。

 二階の長期在任についても、この位置関係は無視できない。

 権力者にとって恐ろしいのは、有能な部下そのものではない。有能で、なおかつ自分の椅子を狙う部下である。

 反対に、最高権力の座を直接競わず、そこで必要となる調整を引き受ける人物には別の価値が生まれる。

 二階は、総理大臣にならなかったから権力を持てなかったのではなく、総理大臣にならない位置から別種の権力を蓄積した、と見る方が実像には近い。

地方政治では「何を語ったか」だけでは評価されない

 東京から二階を見ると、しばしば古い政治の象徴に見える。

 しかし和歌山から見ると、景色は少し違ってくる。

 二階は道路、防災、国土強靱化、観光、港湾などの政策に長く関与してきた。本人の政治活動記録には、紀伊半島の道路整備、地震対策、ドクターヘリ、港湾など、地元の社会基盤に関係する事業が大量に記録されている。もっとも、政治家本人が掲げる「実績」は自己評価を含むため、それだけで政策効果や本人の寄与を証明することはできない。

 それでも、二階政治が地方の具体的な政策課題と深く結びついていたことまでは確認できる。

 地方の有権者が国会議員を見るとき、全国的な政治論争だけが判断材料になるわけではない。

 道路が整備されたか。災害対策が進んだか。地域の要望を中央政府まで運んでくれるか。行政との交渉力を持っているか。

 こうした評価軸も存在する。

 実際、二階が最後に出馬した2021年の衆議院選挙では、和歌山3区で10万2834票、得票率69.3%を獲得して当選している。2位候補は13.9%であり、選挙結果だけを見れば圧倒的だった。

 ただし、ここから「公共事業を持ってきたから69.3%を取った」と結論することはできない。

 選挙結果には、現職としての知名度、自民党の組織力、後援会、地域の政党支持構造、対立候補の顔ぶれなど、多数の要因が作用しているからである。

 それでも、全国的な評価と地元の評価が大きく異なり得るという事実は重要である。

 国会議員は全国民による一つの人気投票で選ばれるわけではない。

 二階が長く強固な議席を維持した背景には、こうした小選挙区政治の構造もあった。

「中国に近い」という批判が、同時に外交経路にもなる

 二階を語るとき、中国との関係を避けることはできない。

 象徴的なのが2015年である。

 この年、二階は総勢3162人に及ぶ「日中観光文化交流団」の名誉団長として中国を訪れた。北京の人民大会堂では習近平国家主席も出席して交流行事が行われ、二階は当時、全国旅行業協会会長でもあった。

 このような長年の日中交流を背景に、二階はしばしば「親中派」と呼ばれ、その姿勢は政治的批判の対象になった。

 その批判には政策論として検討すべき論点がある。中国政府に対してどこまで厳しい態度を取るべきか、安全保障と経済交流をどのように両立するのかは、日本外交にとって現実の争点だからである。

 ただし、ここにも二階政治らしい逆説がある。

 外交関係が悪化すると、相手国と会話できる経路そのものが不足する。

 そのとき、長年にわたり関係を維持してきた政治家の人的ネットワークは、少なくとも潜在的には、他の政治家では容易に代替できない外交資源になり得る。

 ここで重要なのは、「中国とのパイプがあったから二階は国内で権力を持てた」とまで断定しないことである。

 そこまでの因果関係を示す資料はない。

 しかし、中国との長期的な人的関係が二階固有の政治資源の一つだったこと、その資源が日中関係の悪化時には外交経路として利用可能だったことは、十分に合理的な説明である。

 つまり、「中国に近い」という評価は、ある有権者にとっては政治的弱点になり、別の場面では希少な交渉経路という価値を持ち得る。

 二階政治では、批判される理由と必要とされる理由が、同じ場所から生まれることがあった。

2020年、二階の政治技術が最も鮮明に現れた

 その特徴が最も分かりやすく現れたのが、2020年の安倍晋三退陣後である。

 安倍が辞意を表明すると、後継総裁をめぐる動きが一気に始まった。

 当時、二階派は47人であり、党内最大派閥ではなかった。

 それでも二階派が菅義偉支持を打ち出すと、最大派閥の細田派をはじめ、麻生派などが相次いで菅支持へ動いた。日本大百科全書も、菅が二階に出馬意向を伝え、二階派が支持を打ち出した後、党内各派が次々に支持を表明した経過を記録している。

 ここで二階派だけが菅政権をつくった、と考えるのは正確ではない。

 麻生派、細田派、竹下派など他の有力派閥もそれぞれの政治的判断によって菅を支持した。菅本人の官房長官としての実績や、安倍政権との継続性を求める力も作用した。

 しかし、二階派が早期に支持を打ち出したことが、総裁選初期の流れを形成する一要素になったことは否定しにくい。

 政治では、単純な人数だけでなく、いつ動くかが重要になる。

 全員が様子を見ている段階で一つの勢力が動けば、それ自体が新しい情報になる。

 「あの派閥が支持した」

 という事実を見て、別の派閥が勝敗を予測し、さらに動く。その動きを見た第三の勢力がまた判断を変える。

 雪崩は、最も大きな石だけが起こすとは限らない。

 斜面の状態を読んで、最初に動いた塊が全体を動かすことがある。

 2020年の総裁選は、二階の力を単なる派閥人数だけでは説明できないことを象徴する出来事だった。

 菅が総裁に就任すると、二階はそのまま幹事長に留任した。菅自身も当時、二階を「党の要」と位置付けていたと報じられている。

 この時期、二階は確かに「キングメーカー」と呼ばれるほどの影響力を持っていた。

 しかし、その力の本体は「自分の言うことを全員に聞かせる」という絶対的な支配ではなかった。

 むしろ、次に誰が動くのかを読み、先に動き、異なる勢力をつなぐ能力だったと見る方が適切だろう。

しかし、「必要とされる政治」は同時に不信も生む

 ここまで見ると、二階政治は非常に合理的に見える。

 だが、その強さを生み出した仕組みには、最初から弱点も埋め込まれていた。

 人間関係による調整を重視すれば、意思決定の過程は外から見えにくくなる。

 地方に具体的な政策を持ち帰る政治を重視すれば、政治力の強い地域ほど有利になるのではないかという疑問が生まれる。

 業界との長い関係を政策形成に利用すれば、専門知識や実行力を得られる一方で、政治と業界利益との距離が近すぎるのではないかという批判も起こる。

 選挙、資金、人事、派閥、地方、業界を結ぶ政治技術は、政治組織の内部では調整能力として評価され得る。しかし国民から見れば、「誰が、どのような理由で、どのように決定したのか」が分かりにくい政治にもなる。

 つまり、二階の強さをつくった仕組みそのものが、二階への不信をつくる仕組みにもなっていた。

 その矛盾が晩年に最も強く表れたのが、自由民主党派閥の政治資金問題だった。

 二階派「志帥会」の元会計責任者は、2022年までの5年間で約2億6000万円の政治資金パーティー収入などを収支報告書に記載しなかったとして起訴され、裁判で起訴内容を認めた。二階自身については、派閥の政治資金をめぐって刑事告発されたものの、東京地方検察庁特別捜査部は2024年7月、「嫌疑なし」として不起訴処分としている。したがって、会計責任者らの刑事責任と二階本人の刑事責任は明確に区別しなければならない。  それでも政治的責任という問題は残った。

 二階は2024年3月、次の衆議院選挙に出馬しないことを表明し、自らの政治責任について言及した。

 長い間、二階を支えてきた「必要とされる力」と、その政治手法を抱えることによって党が負う政治的コストとの均衡が、大きく崩れた時期だったと見ることができる。

二階を長く残したものは何だったのか

 二階俊博という政治家を「古い政治家」の一言で片付けるのは簡単である。

 確かに、彼が得意とした政治には、昭和以来の自民党政治を思わせる部分が多い。

 人に会う。敵とも関係を切らない。選挙で困っている人間を支える。地方の要求を中央へ運ぶ。業界との関係を維持する。外交が詰まれば別の経路を探す。派閥を越えて人間関係を残しておく。

 こうした政治は、透明性や公平性を強く求める現代の政治観とは緊張する。

 だから二階は批判された。

 しかし同時に、政党政治が依然として人間によって動き、選挙区が存在し、地方と中央の利害が異なり、派閥間の調整が必要で、外国との交渉経路も必要であるかぎり、二階の持っていたような技術にも需要が存在した。

 そこに、二階俊博が長く権力の中心に残った理由を考える鍵がある。

 もちろん、単一の原因で説明することはできない。

 強固な選挙基盤、長い議員経験、派閥、人事と選挙に関わる幹事長という地位、地方政策への関与、業界とのネットワーク、外交上の人的関係、そして党内の異なる勢力をつなぐ仲介能力。それらが互いに作用し合った結果として、二階の政治的影響力は形成されたと考えるのが最も慎重である。

 その中でも、とりわけ特徴的だったのは、自分を最大勢力にすること以上に、自分がいることで複数の勢力がつながる位置を確保したことではないか。

 政治の世界では、最も拍手を受ける人物が、必ずしも最も強いとは限らない。

 演説台の中央にいる人よりも、舞台裏で何本もの電話を受けている人の方が、重大な決定に近いことがある。

 人気のある人より、相談される人。

 誰からも愛される人より、対立する人々の双方と話せる人。

 最大の軍団を率いる人より、複数の軍団の間を行き来できる人。

 二階俊博の長い政治人生は、日本政治に存在するそうしたもう一つの権力の姿を、極端なほど分かりやすく示している。

 だから、最後に残る問いは「なぜ二階だけが生き残ったのか」ではないのかもしれない。

 より正確に言えば、自民党内の権力調整、選挙、地方、業界、外交を結ぶ政治構造の中で、なぜ二階のような政治家を必要とする局面がこれほど長く続いたのか、という問いである。

 二階俊博を理解することは、一人の老練な政治家を理解するだけではない。

 表に見える人気とは別の場所で、政治権力がどのように生まれ、どのように蓄積され、そして最後にはどのように失われていくのか。

 その仕組みを見ることなのである。

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「正しい政治」ができる日本を夢見て

 後藤田正晴という政治家を振り返るとき、しばしば「権力に慎重だった保守政治家」という言葉が使われる。しかし、その説明だけでは、彼の本質には届かない。後藤田は権力から遠い場所にいて、それを理念的に批判した人ではなかった。旧内務省に入り、戦後は警察行政の中枢を歩み、警察庁長官となり、さらに内閣官房副長官、自治大臣、国家公安委員長、内閣官房長官、副総理、法務大臣まで務めた。国家が情報を集め、人を動かし、命令を下し、ときには強制力を行使する、その仕組みの中心を長く歩いてきた人物である。

 だからこそ、彼が晩年になるほど権力の扱いに慎重になったことには重みがある。権力を知らなかったから恐れたのではない。権力が実際にはどのように動き、どのように人を変え、どのように組織を自己正当化させるのかを知ったからこそ、その危険を警戒するようになったのではないか。後藤田正晴という人物のおもしろさは、まさにその逆説の中にある。

権力は「正しさ」の中から膨張する

 国家権力は、悪意だけによって暴走するわけではない。むしろ現実には、「正しいことをしよう」という意志の中から膨張していく場合の方が多い。治安を守るため、国民を守るため、国家の安全を確保するため、災害に迅速に対応するため、行政を効率化するため。どれも必要な目的であり、それ自体を否定することはできない。国家が何もできなければ社会は成り立たないし、警察も防衛も外交も危機管理も必要である。後藤田は、その必要性を誰よりも現場に近い場所で知っていた。

 それでも彼は、国家が強くなればなるほど、その力をどう制御するかを考え続けた。彼が求めたのは、弱い国家ではなかった。必要なときには動ける国家でありながら、その強さが自分自身を正当化し、際限なく広がっていかない国家だった。民主主義の難しさはここにある。権力を弱めることだけなら、それほど難しくない。しかし、国民を守るために十分な権限を持たせながら、その権限を法と手続きと政治的責任の中に閉じ込めることは、はるかに難しい。

戦争が教えた「国家も間違える」という現実

 その感覚を考えるうえで、後藤田の戦争体験は外せない。1914年に徳島県で生まれ、東京帝国大学を卒業して1939年に内務省へ入った後藤田は、翌年には徴兵され、台湾歩兵第二連隊に入営した。その後、陸軍経理学校を経て台湾軍司令部に勤務し、終戦を迎えている。官僚として国家を支えるはずだった青年は、国家そのものが戦争へ総動員されていく過程を、自分の人生として経験した。

 戦争中の日本は、自らを破滅させようとしていたわけではない。むしろ、多くの政策は「国を守るため」「国益を守るため」という名のもとに進められた。一つ一つの判断には、その時点なりの理由があり、合理性があり、責任感があった。それでも、その判断が積み重なった先に破局があった。ここに、権力を考えるうえで見落としてはならない現実がある。国家は悪意がなくても間違える。使命感でも間違えるし、愛国心でも間違える。そして、自分たちは正しいという確信を強く持つほど、途中で軌道修正することが難しくなる。

 後藤田の戦後の言動を戦争体験だけで説明することはできない。しかし、彼が軍事に対する政治統制を繰り返し重視し、軍事組織の論理が政治判断を越えてはならないと考えていた背景には、この経験が一つの重要な土台として存在していたと見るのが自然である。

軍事を統制するのは政治である

 後藤田が重視したシビリアン・コントロール(Civilian Control・軍事を文民による政治的統制の下に置く原則)も、その文脈で見ると理解しやすい。これは単に背広を着た官僚が制服組より偉い、という意味ではない。彼が繰り返し強調したのは、軍事は政治に従属しなければならないという原則だった。つまり、軍事組織が自らの論理だけで国家の進路を決めることを許してはならないということである。

 ここで重要なのは、後藤田が軍人を特別に危険視していたわけではないという点だろう。彼が警戒したのは、組織というものが、自分に与えられた使命を中心に世界を見るようになることだった。警察は社会問題を治安問題として見る。軍事組織は外交問題を安全保障の問題として見る。財政当局は政策を財源の問題として見る。どの見方も必要であり、どの見方も一定の正しさを持つ。しかし、その一つだけが国家全体の判断になったとき、政治は危うくなる。政治の役割とは、それぞれの専門的な正しさを比較し、全体の中で統合し、どれか一つの論理が国家そのものを乗っ取らないようにすることにある。

「悪い本当の事実を報告せよ」という権力論

 その意味で、後藤田の有名な「五訓」は、単なる役人の心得ではなく、一つの権力論として読むことができる。なかでも「悪い本当の事実を報告せよ」という言葉は象徴的である。

 組織の上に行けば行くほど、権限は大きくなる。だが同時に、現場の事実からは遠ざかっていく。課長より部長、部長より局長、大臣、そして総理大臣へと権限が集中していく一方で、トップ自身が直接見られる現実はむしろ少なくなっていく。だから、権力者は情報を部下から受け取るしかない。

 そこで、権力特有の歪みが生まれる。部下は上司の表情を読み、上司が何を望んでいるのかを察する。政策がうまくいっているなら、それを補強する資料が集められ、失敗が起きれば、その失敗をどう説明するかが考えられる。最初から誰かが嘘をつこうとしているわけではない。数字の悪い部分より良い部分を先に説明し、危険な兆候には慎重な表現を添え、政策に不都合な事実には別の解釈を与える。その小さな加工が積み重なるうちに、権力者だけが現実から遠ざかっていく。

 だから後藤田は、単に「本当の事実を報告せよ」とは言わなかった。「悪い本当の事実を報告せよ」と言ったのである。権力者が最も必要としている情報とは、自分を安心させる情報ではない。自分の政策が間違っているかもしれないと教えてくれる情報だからである。

 「勇気を以て意見具申せよ」という言葉も、同じ思想につながる。日本の組織では、ときに上司に逆らわないことが忠誠とみなされる。しかし、後藤田の考え方は逆だった。決定されるまでは意見を言い、決定された後は組織として実行する。強い組織とは、反対意見が存在しない組織ではない。反対意見を言っても排除されず、そのうえで最終的な決定には従える組織である。

 逆に、指導者の意向を察する能力ばかりが評価される組織は、一見するとよく統率されているように見えるが、実際には脆い。指導者が正しい間は強いが、指導者が間違った瞬間に、全員で同じ方向へ間違ってしまうからである。後藤田が警戒していたものを一つの言葉で表すなら、権力者の周囲から異論が消えていくことだった、と読むこともできる。

反権力ではなく、権力を統制する思想

 もっとも、後藤田を「反権力の人」として美化するのは正しくない。彼は警察庁長官として、よど号ハイジャック事件、あさま山荘事件、成田空港をめぐる激しい対立など、国家が実力行使を迫られる局面を経験している。警察力そのものを否定していたわけではないし、自衛隊の存在を否定していたわけでもなく、日米安全保障体制そのものを拒絶していたわけでもない。

 だからこそ、彼の権力への警戒は重い。権力が必要であることを知ったうえで、その権力をどう縛るかを考えたからである。後藤田の思想を「反権力」と呼ぶより、「権力統制の思想」と呼んだ方が近いのだろう。

中曽根政権を支えながら、中曽根を止める

 その姿勢がもっとも鮮明に表れたのが、中曽根康弘政権である。中曽根は「戦後政治の総決算」を掲げ、日本の国家としての輪郭をより明確にしようとした政治家だった。構想を描き、決断し、前へ進もうとする政治家であり、政治的にはアクセルを踏むタイプだった。

 その中曽根の官房長官を長く務めた後藤田は、単なる抵抗勢力ではなかった。政権を支え、官邸機能を強化し、危機管理体制を整えながら、それでも越えてはならないと考えた線では止めた。象徴的なのが、1987年のペルシャ湾への海上自衛隊掃海艇派遣構想である。

 掃海という行為だけを見れば、防御的で人道的な作業にも見える。しかし、交戦海域に自衛隊の艦艇を送れば、日本側がどう説明しようとも、相手国からは戦争への参加と見なされる可能性がある。国家が何を意図したかだけでなく、相手からどう見えるかまで考えなければならない。後藤田はそこに強い懸念を示し、結果として派遣は実現しなかった。

 この出来事は、政治における「側近」の意味を考えさせる。総理大臣に何でも賛成する人間が有能な側近なのではない。総理が越えてはならない線に近づいたとき、「そこから先は危険です」と言える人間こそ、最も価値のある側近なのかもしれない。政権を倒すために反対するのではなく、政権を間違わせないために反対する。その役割を後藤田は担っていた。

安全保障の論理が国家すべてを覆うとき

 彼の慎重さは軍事行動に限らなかった。「国家安全保障会議」という名称についても、後藤田はかつて慎重な姿勢を示していた。国の安全という問題が、軍事や外交だけに狭く理解されることを警戒していたからである。国家の安全とは、軍事力だけで決まるものではない。経済が崩れ、災害への備えがなく、政治そのものへの信頼が失われれば、どれほど防衛力を持っていても国家は安定しない。

 安全保障が必要であることと、「安全保障」という言葉がすべての政策を正当化することは別の問題である。政治には、国家安全保障を考える能力と同時に、その言葉の強さに飲み込まれない慎重さも必要になる。

憲法とは政治家の善意を信じないためにある

 晩年の後藤田は憲法改正にも慎重な発言をしているが、彼を単純な護憲論者として理解するのも正確ではない。日本国憲法を一字一句変えてはならないと考えていたわけではなく、国民主権、民主主義、基本的人権、平和主義といった基本原理を重視しながら、もし現行憲法と整合しない政策を本当に行う必要があるなら、政治の都合で解釈を広げ続けるのではなく、国民に説明し、正式な改正手続きを踏むべきだという立場に近かった。

 ここにも、後藤田の権力観が現れている。憲法とは、善良な政治家を前提にする制度ではない。将来、どのような政治家が権力を握るか分からないからこそ存在する。現在の政権が「自分たちは正しく使う」と言って権限を拡大すれば、その権限は次の政権にも残る。制度は、その時々の政治家の善意ではなく、未来の政治家の危険性まで想定して作らなければならない。

権力は人を変えるより、世界の見え方を変える

 権力について語るとき、「権力を持つと人は悪くなる」という言い方がある。しかし現実は、それほど単純ではない。権力者が悪人になる必要はない。権力は、世界の見え方を変えるだけで十分に危険なのである。

 人が自分の話をよく聞くようになる。会議で反論されなくなる。自分の判断で予算が動き、人事が動き、行政が動く。その状態が続けば、自分の判断が正しいから人が従っているのか、権力を持っているから従っているのか、その区別は次第につきにくくなる。

 だから民主主義に必要なのは、立派な政治家を探すことだけではない。立派でない政治家が権力を握っても、国家が壊れない仕組みを作ることである。

問うべきは「強い首相か」ではなく「誰が止められるか」

 現在の政治でも、私たちはしばしば「強いリーダー」を求める。決断が早く、反対を押し切り、官僚を動かし、党内をまとめる政治家は、確かに強く見える。しかし、強いリーダーと、権力が集中したリーダーは同じではない。反対意見を排除すれば意思決定は速くなり、官邸に権限を集中すれば行政は動かしやすくなる。しかし政治の目的は、速く決めることではなく、できる限り正しい判断に到達することである。

 そして人間は間違える。

 ここを忘れた瞬間、「強い政治」は「訂正できない政治」に変わる。

 後藤田の思想から現在への問いを一つだけ引き出すなら、「この首相は強いか」ではなく、「この首相が間違ったとき、誰が止められるのか」と問うべきなのだろう。

 権力を外から見ると、どうしても美しく見える。総理大臣が決断すれば国が動き、大臣が指示すれば役所が動く。だから、もっと強い政治家がいれば改革が進むのではないかと考えたくなる。しかし実際に権力を使う側に立てば、一つの命令がどれほど多くの人を動かし、一つの判断がどれほど多くの人生に影響するかが見えてくる。

 治安政策なら人を拘束することがある。外交政策なら国家間の関係を変える。安全保障政策なら人命にかかわる。だから民主主義における権力は、政治家が所有するものではない。国民から一時的に預けられているものにすぎない。

 この感覚を失ったとき、政治家は代表者から支配者へ近づいていく。

正しい政治家より、間違いを止められる政治を

 私たちは政治に失望すると、「もっと正しい政治家はいないのか」と考える。しかし、正しい政治家だけを探しても政治は良くならない。必要なのは、間違った政治家が現れても、間違いが国家全体を支配しない制度である。

 権力者に不都合な数字が消えないこと。官僚が政治家に耳の痛い事実を言えること。専門家が政権に反対しても排除されないこと。報道機関が権力を批判できること。野党が政府を問いただせること。司法が政治から独立していること。そして選挙によって権力を入れ替えることができること。

 これらは政治を邪魔する仕組みではない。

 政治を間違わせないための仕組みである。

 民主主義とは、政府を全面的に信頼する制度ではない。人間は間違えるという前提に立ちながら、それでも政府に必要な権力を預ける制度である。その慎重さこそが、民主主義の強さなのだろう。

「カミソリ後藤田」と権力を納める鞘

 後藤田正晴は「カミソリ後藤田」と呼ばれた。頭の回転が速く、行政実務に通じ、危機管理にも強かった。しかし、この「カミソリ」という呼び名は、彼の権力観そのものにも重ねることができる。

 切れない刃物は役に立たない。しかし、よく切れる刃物ほど危険である。だから鞘が必要になる。

 国家権力も同じである。弱すぎれば国民を守れない。しかし、強ければ強いほど、それを納める鞘が必要になる。警察、自衛隊、情報機関、行政権、そして政治権力。後藤田は、それらを鈍らせようとしたのではない。必要なときには切れるようにしながら、それでも勝手に振り回されない仕組みを求めた。

 その鞘が、法であり、制度であり、政治統制であり、異論であり、「悪い本当の事実」を報告できる組織文化だったのではないか。

「正しい政治」ができる日本を夢見て

 後藤田正晴の人生から見えてくるのは、少し寂しく、それでも希望のある政治観である。

 政治家は間違える。

 官僚も間違える。

 専門家も間違える。

 そして国民も間違える。

 だから民主主義は面倒である。議論し、反対し、説明し、国会で問いただし、選挙を行い、報道が批判し、司法が判断する。その過程は遅く、騒がしく、効率が悪いように見える。

 しかし、その面倒さこそが、国家を取り返しのつかない間違いから救う最後の余地なのだろう。

 正しい政治とは、決して間違えない政治ではない。

 間違ったときに事実を隠さず、批判する者を敵とみなさず、自分たちの誤りを認め、政策を修正できる政治である。

 もし後藤田正晴が現在の日本政治を見たなら、特定の政党を支持せよとも、特定の思想に従えとも言わないかもしれない。

 むしろ、もっと地味で厳しい問いを投げかけるのではないか。

 総理大臣のもとに、悪い本当の事実は届いているのか。大臣に反対意見を言える官僚は残っているのか。専門家は、政治家が聞きたい答えではなく、自分が正しいと思う答えを言えているのか。選挙で勝った多数派は、自分たちが多数派だから正しいのだと思い込んでいないか。そして、権力を持つ者自身が、その権力の大きさを少しでも怖いと思っているか。

 後藤田が権力を知るほど権力を警戒した理由を、歴史資料だけから完全に証明することはできない。人間の内面を断定することはできないからである。それでも、戦争を経験し、警察を率い、官邸を動かし、総理大臣の傍らで国家意思の形成を見続けた人物が、最後まで権力の抑制を語り続けたという事実には意味がある。

 権力を知った者が、権力を礼賛しなかった。

 国家は必要である。強い政府も、ときには必要である。しかし、必要であることと、無条件に信じてよいことは同じではない。むしろ社会にとって重要な権力ほど、注意深く監視されなければならない。

 国を愛することと、政府を無条件に信じることも同じではない。政府を批判することと、国を否定することも同じではない。正しい政治を願うからこそ、政治家に事実を求める。国家を大切に思うからこそ、国家権力に限界を設ける。民主主義を信じるからこそ、異論を認める。

 いつか日本が、誰か一人の「強い政治家」に期待しなくても政治が機能する国になればよい。

 政治家が間違いを認めても弱いと笑われず、反対意見を聞いても優柔不断と呼ばれず、官僚が大臣に耳の痛い報告をしても不利益を受けず、選挙で勝った側も自らの権力には期限があることを忘れない。

 そんな政治は、派手ではない。

 英雄も生まれにくい。

 けれど、それこそが成熟した国家なのかもしれない。

 後藤田正晴という政治家を振り返る意味は、過去の「名政治家」を懐かしむことではない。権力とは何かを、私たち自身がもう一度考えることにある。

 権力を持つ者が、自分の強さよりも、その強さの危険を知っている政治。異論を排除するのではなく、異論によって自分を修正できる政治。都合のよい説明ではなく、「悪い本当の事実」から判断を始める政治。

 そのような政治が当たり前にできる日本を、まだ夢見ることはできる。

 おそらく民主主義とは、その夢を諦めないために存在しているのである。

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