地域政経

九条レオンの地域から社会と政治・経済のこれからを考える

~肩書の外側に生まれる「見えない権力」の正体~

 政治の世界には、ときどき不思議な人物が現れる。大臣ではなく、党の幹事長でもなく、政府や党の重要会議を取り仕切っているわけでもないのに、政局が動き始めると記者がその人物の動静を追い、若手から中堅、時には党幹部までが面会に訪れ、誰と会食したのかというだけで政治記事になる人物である。表面だけを見れば国会議員の1人にすぎないはずなのに、その人物が何を考え、誰と会ったのかが政治の行方を読む材料として扱われる。

 こうした政治家は、しばしば「無役の実力者」「重鎮」などと呼ばれる。しかし、よく考えると奇妙な存在である。政治が法律や党則に基づいて動くのであれば、強い権限を持つのは役職に就いている人物のはずであり、総理大臣には総理大臣の権限があり、大臣には所管行政を担う権限があり、政党幹部には党運営上の権限がある。それにもかかわらず、肩書を持たない人物が大きな存在感を示すことがあるのは、政治における「権力」と「影響力」が必ずしも同じものではないからである。

 無役の実力者という存在を理解するには、権力を「命令できる能力」だけで考えない方がよい。政治は制度によって動くと同時に、人が人に相談し、人が人を説得し、ときには対立する者同士を仲介しながら進んでいくため、誰が誰を知っているのか、誰の話なら聞いてもらえるのか、誰が選挙や政策形成を支援できるのかという人間関係の構造も、政治過程を理解するうえで重要になる。

役職による権力と、蓄積される政治的影響力は同じではない

 もちろん、政治において役職が重要であることに疑いはない。役職には正式な権限、情報へのアクセス、組織を動かす能力が伴い、自由民主党でも党役員について任期を設ける改革が行われてきた。2022年には党役員の任期を原則として「1期1年、連続3期まで」とする党則改正が行われ、党側はその趣旨を、党の新陳代謝を進め、権力の集中や惰性を防ぐためだと説明している。つまり、役職そのものが政治的な力を生むことは、政党自身も前提としている。

 しかし、役職には任期がある一方、人間関係には必ずしも任期がない。昨日まで大臣だった政治家が内閣改造によって無役になっても、その人物が20年、30年とかけて築いた議員仲間との関係、地方組織との交流、政策分野の専門家や各種団体との接点まで、その日の人事発表と同時に消滅するわけではない。

 ここに、制度によって与えられる権力と、長い政治活動の中で形成される影響力との違いが生まれる。役職上の権力が「現在どの権限を持っているか」に関係するものだとすれば、非公式な政治的影響力は「どの人物や組織と関係を持ち、その関係を政治過程の中でどの程度機能させられるか」に関係するものだと考えることができる。ただし、後者は法律上認められた権限ではなく、誰かに従わせることを保証する力でもない。ここを混同すると、「実力者なら何でも決められる」という誤った政治像になってしまう。

なぜ選挙を助けられる政治家は存在感を持つのか

 政治家にとって、最も根本的な条件の1つは選挙に勝つことである。どれほど政策に詳しくても、選挙で議席を失えば国会議員として活動を続けることはできない。そのため、自分自身が当選できる能力だけでなく、他の候補者の選挙を支援できる政治家は、党内で一定の存在感を持ちやすくなる。

 たとえば新人候補が苦戦しているとき、地域の有力者を紹介することもあれば、地方議員との関係を仲介することもあり、選挙経験を持つスタッフや応援弁士を送り込むことも考えられる。こうした支援を受けた政治家が、将来すべての政治判断で支援者に従うとは限らないが、少なくとも政治的人間関係が形成される契機にはなり得る。

 日本政治を対象とした研究では、自由民主党の派閥が歴史的に候補者公認、選挙、人事などと関係してきたことが確認されている。1994年の選挙制度改革を分析した研究では、改革後、派閥指導者が候補者公認に与える影響は大きく低下した一方、少なくとも改革直後にはポスト配分に関する影響の変化は比較的小さかったとされている。これは、制度を変更すれば党内の非公式な関係が瞬時に消えるわけではないことを示す重要な例である。

 ただし、「有力政治家が指示すれば所属議員が必ずその通り投票する」というほど単純ではない。議員にはそれぞれ選挙区があり、支持者があり、政策上の判断があり、党員や世論からの圧力も受ける。したがって、他の政治家を支援できることは政治的資源の1つにはなっても、それだけで他者を自由に動かせることを意味しない。

人事では「決定権」だけでなく、その前に何が起きているかを見る

 政治で最も目立つのは最終決定である。「誰が大臣になった」「誰が党役員になった」という結果は誰にでも見えるため、政治権力を考えるときには、つい最後に判を押した人物だけを見てしまう。しかし実際の組織では、決定に至るまでに候補者の検討、関係者への相談、党内情勢の把握、利害調整などが行われることがあり、その過程を理解しなければ人事の力学は見えてこない。

 自由民主党の閣僚ポストを1960年から2007年まで分析した政治学研究では、党指導部が党内の派閥やライバルとの関係を考慮しながら閣僚ポストを配分していたことが統計的に示されている。党指導者が党内からの挑戦を受けやすい状況ほど、派閥側により多くのポストを配分する傾向が確認されており、人事が単純な年功や能力だけではなく、党内交渉とも関連していたことが分かる。

 ここから考えると、無役の政治家でも党内の人間関係をよく知り、「この人物を登用するとどの勢力がどう反応するか」「誰と誰の関係が悪化しているか」といった情報を持っていれば、正式な任命権を持たなくても相談相手になる可能性がある。ただし、相談を受けたことと人事を決定したことは全く別であり、政治報道を読む際にはこの区別が重要になる。

情報が集まる人物には、なぜ人がさらに集まるのか

 無役の実力者という現象を考えるうえで、もう1つ重要なのが情報である。ただし、「情報を持っている人は権力者である」と単純化するのは正確ではなく、重要なのは、異なる場所から情報が集まり、その情報を別の人物や集団につなぐ位置にいることである。

 ある政治家のもとには若手議員から党内の動向が入り、地方組織からは選挙区の状況が伝わり、政策関係者からは制度上の問題が持ち込まれるかもしれない。個々の情報だけなら大きな意味を持たなくても、異なる場所からの情報が同じ人物のところに集まれば、党内の変化を比較的早く把握できる可能性が生まれる。そして、「あの人物なら事情を知っている」と周囲から認識されれば、さらに相談や情報が集まるという循環が生じることも考えられる。

 この考え方は、社会ネットワーク分析(Social Network Analysis・人間や組織のつながりをネットワークとして分析する方法)によって、ある程度理論的に説明できる。ネットワーク研究では、単純に知人の数が多い人物だけでなく、異なる集団の間に位置し、情報や関係を橋渡しする人物が重要な位置を占める場合があることが知られている。議員の投票行動をネットワークとして分析した研究でも、ネットワーク上の中心性を政治的影響力の測定に利用しようとする試みが行われている。

 もっとも、これは「情報が多い人ほど必ず政治力が強い」という法則ではない。持っている情報が古ければ役に立たず、他者から信用されなければ仲介することもできず、正式な意思決定者が別の判断をすれば情報提供者の意向とは異なる結果になるため、情報は影響力を構成する1つの要素ではあっても、それ自体が権力そのものではない。

人脈は人数だけでは測れない

 政治家の実力を語るとき、「何人の議員を抱えている」「何人の仲間がいる」という人数が注目されることがある。しかし、ネットワークの観点から見ると、人間関係の価値は単純な人数だけでは説明できない。

 たとえば同じ20人と関係を持つ2人の政治家がいたとしても、1人は同じグループの20人だけと結び付き、もう1人は複数の異なる世代、地域、政策分野、党内グループにまたがって関係を持っているかもしれない。この場合、2人の知人の数は同じでも、ネットワークにおける役割は大きく異なる。

 社会ネットワーク研究では、このように異なる集団の間を橋渡しする位置を「媒介」という観点から分析することがあり、その程度を表す代表的な指標として媒介中心性が使われる。議員ネットワークを分析した研究では、正式な党幹部ではない議員が異なる集団をつなぐ位置を占める例も確認されている。もっとも、こうした研究の対象には日本以外の議会やオンライン上の議員ネットワークも含まれるため、その結果をそのまま2026年の日本政界に当てはめることはできないが、「公式の肩書」と「ネットワーク上の重要性」が必ずしも一致しないことを理解する理論的な手掛かりにはなる。

 したがって、「仲間が100人いる政治家より、橋渡しをする1人の方が強い」と数字で断言することはできない。政治的影響力は、直接的な人脈の数、関係の強さ、相手自身の影響力、異なる集団をつなぐ位置、政策能力、選挙基盤、資金、役職、世論などが複雑に絡み合った結果として生じるものだからである。

「電話できる相手の数」は政治力そのものではない

 政治の世界では、長い活動の中でさまざまな貸し借りが生まれる。選挙を手伝ったこともあれば、政策について関係者を紹介したこともあり、対立した政治家同士の仲介をしたこともあるだろう。そうした経験の蓄積によって、必要なときに連絡を取り、話を聞いてもらえる関係が増えていくことは十分考えられる。

 しかし、「電話をかけられる人物が100人いるから政治力が強い」というほど単純ではない。関係の数より、相手が実際に話を聞くか、互いにどの程度の信頼があるか、その関係が現在も生きているか、そして相手自身がどのような政治的位置にいるかの方が重要な場合もある。

 それでも、役職を離れた人物に人が相談を持ち込む現象を見るとき、それを単なる「昔の偉い人への挨拶」と決めつける必要もない。長年形成された関係や知識が、役職とは別の価値を持っている可能性があるからである。ただし、面会者が多いことだけから「この人物が政治を支配している」と結論づけることもできない。

政治の世界では「橋を架けられる人」が必要になる

 政治には対立がある。政策をめぐる対立だけでなく、世代、選挙区、党内グループ、過去の人事などをめぐって関係が悪化することもある。そのようなとき、自分の仲間を大量に抱えている人物とは別に、対立する双方と話ができる人物が意味を持つ場合がある。

 Aという集団とBという集団が互いに直接話しにくい状態になっているとき、双方と関係を持つ人物Xがいれば、Xを通じて情報や提案が伝わる可能性が生まれる。このXには正式な役職がなくてもよく、重要なのは双方から一定の信頼を得ていることである。

 実際、政治ネットワークに関する研究では、議員間の社会的つながりが議員としての活動成果と関連することを示す研究も存在する。米国議会を対象とした研究では、議員の社会的なつながりが立法上の有効性に影響することが統計的に示されており、人間関係そのものを政治的資源として分析する余地があることが分かる。もちろん米国議会の結果を日本政治へそのまま移すことはできないが、「政治家個人の能力だけでなく、その人がどのネットワークに位置しているかも政治活動に関係する」という考え方には実証的な裏付けがある。

派閥が変われば「無役の実力者」も消えるのか

 ここで問題になるのが、現在の日本政治である。かつて自由民主党の派閥が資金、人事、選挙、情報共有などをめぐって重要な機能を担ってきたことは多くの政治学研究で論じられてきたが、2024年以降、そのあり方は大きく変化している。

 自由民主党が2026年5月に公表したガバナンス体制に関する報告書では、「派閥」が従来その一部を担ってきた機能として、情報共有、人材育成、意見集約、意思疎通が挙げられており、それらを今後は党組織としてどのように代替し、透明性の高い統治構造へ転換するかが課題だとされている。また、2024年のガバナンスコード改正に基づき、政策集団を資金や人事から切り離し、政策集団からの組織的な人事要望を受け付けない方針も確認されている。

 この変化を踏まえると、「昔の派閥政治が名前だけ変えてそのまま続いている」と断定するのは適切ではない。その一方で、派閥という組織が弱まっても、政治家同士が情報を交換し、政策について相談し、選挙を助け、世代や立場を越えて人間関係を築く必要までなくなるわけではない。

 むしろ今後注目すべきなのは、かつて派閥という目に見える組織の内部に集約されていた機能が、党本部、政策集団、議員個人のネットワーク、地方組織などへどのように再配置されていくかである。2026年の日本政治については、過去数十年間の派閥研究と同じ構造がそのまま続いていると仮定するのではなく、現在進行中の変化として観察する必要がある。

「実力者の一声で決まった」という物語には注意が必要である

 政治報道では、ときどき「あの実力者が動いた」「重鎮が了承した」「最後は一声で決まった」といった物語が語られる。この種の表現は政治を分かりやすくする一方で、実際には多くの要因が絡んだ結果を、1人の人物の意思だけで説明してしまう危険も持っている。

 たとえばある人物が大臣に起用されたとしても、その背景には首相や党執行部の判断だけでなく、当選回数、政策経験、地域的なバランス、世代構成、党内事情、選挙への影響など、複数の要因が存在している可能性がある。直前に有力政治家と面会していたからといって、その有力者が人事を決めたとは限らない。

 ここには因果関係を考えるうえで重要な問題がある。「実力者と会った後に人事が決まった」という時間的な順序だけでは、「実力者が人事を決めた」という因果関係は証明できないからである。その人物が本当に結果へ影響したのかを確認するには、本人や関係者の証言、意思決定過程の記録、複数の独立した情報などを照合する必要がある。

 したがって、「無役の実力者」という言葉は正式な地位を示すものではなく、その人物が持つと考えられている影響力を表現した政治用語として読む方がよい。重要なのは「実力者と呼ばれているから実力がある」と循環論法で考えることではなく、その人物が誰と関係し、どの場面で何を行い、それが意思決定にどの程度結び付いたのかを具体的に見ることである。

役職を失った後に見えてくるもの

 それでも、政治家が役職を離れた後の姿は興味深い。大臣であれば行政機関から大量の情報が集まり、党幹部であれば役職上の必要から議員や職員が訪れるため、役職に就いている間だけを見ても、その人物自身のネットワークと役職の力を分離することは難しい。

 そこで、役職を離れた後にも多くの政治家が相談に訪れたり、政策や党内情勢について意見を求められたりするのであれば、その人物が役職以外にも一定の人的資源や知識を持っている可能性は考えられる。ただし、それだけで「真の政治力が証明された」と断言することはできない。元首相や元大臣という経歴自体が人を集める理由になるかもしれず、単なる儀礼的な面会も含まれるからである。

 科学的に検証するなら、同程度の年齢、当選回数、過去の役職、選挙基盤を持つ政治家を比較し、退任後の面会関係、他議員との共同活動、人事や政策への関与などを長期間観察する必要がある。現実にはそのようなデータを完全に集めることは難しいため、「役職を失ったとき本当の政治力が見える」という表現は、厳密な法則というより、政治を見るための興味深い視点として理解するのが適切である。

本当の政治は、組織図だけでは見えてこない

 政治を大きな建物にたとえるなら、総理大臣、大臣、幹事長などの役職は、扉に名前が書かれた部屋である。誰がそこに座っているのかも、どのような権限を持つのかも、ある程度は制度から読み取ることができる。

 しかし建物は部屋だけでは成り立たない。部屋と部屋をつなぐ廊下があり、階段があり、互いに離れた場所を行き来する通路がある。政治に置き換えれば、それが人間関係、情報交換、相談、説得、仲介であり、無役の実力者と呼ばれる人物を理解するには、その人物が大きな部屋を持っているかではなく、どの部屋とどの部屋を結ぶ位置にいるのかを見る必要がある。

 その意味で、無役の実力者とは、秘密の命令権を持つ人物ではない。正式な権限を持たなくても、長い政治活動によって形成された信頼関係、情報、経験、選挙支援、政策上の知識、異なる集団を結ぶネットワークなどを持ち、それらを通じて政治過程に一定の影響を及ぼす可能性のある人物である。

 しかも、その力は固定されたものではない。選挙で議席を失えばネットワークは弱まり、世代交代が進めば古い人脈の価値が低下することもあり、制度改革によって資金や人事への関与が難しくなることもある。世論が大きく動けば、党内の人間関係だけでは結果を制御できない場合もある。したがって、「実力者」という呼び名を、その人物が政治を自由自在に動かせる証明のように受け取るべきではない。

 それでも、無役の実力者という存在が繰り返し語られるのは、政治が制度だけで動く機械ではなく、人間が人間を説得し、協力し、ときには警戒しながら意思決定していく営みだからなのだろう。役職はある日突然与えられ、ある日突然失われるが、20年、30年とかけて形成された人間関係まで、その日の人事発表だけで消えるわけではない。

 政治の表面を見るなら、誰がどの役職に就いたかを見ればよい。しかし、その政治がどちらへ動こうとしているのかをもう少し深く読みたいなら、組織図には書かれていないもう1つの問いを持つ必要がある。

 役職を持っていないその人物のところへ、なぜ人は会いに行くのか。

 その理由をたどっていくと、肩書だけでは説明できない政治の構造が、少しずつ姿を現してくる。

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衆議院と参議院を分けて見ると、「党のナンバー2」では説明できない

 政治ニュースを見ていると、党首の隣にはしばしば幹事長がいる。選挙になれば候補者について語り、党内で問題が起これば調整に動き、他党との交渉でも名前が出てくるため、「党のナンバー2」と説明されることも多い。しかし、この説明だけでは幹事長という役職の本当の姿は見えてこない。日本の政党は、党首と幹事長だけで動く単純な組織ではなく、党本部、地方組織、選挙組織、政策部門、国会対策部門に加えて、衆議院と参議院という制度も選挙周期も異なる二つの議院を同時に抱えているからである。

 しかも2026年の日本政治を見ると、この構造はさらに複雑になっている。以下では自由民主党、立憲民主党、日本維新の会、公明党を主な例として見るが、これら4党だけで日本のすべての政党を説明できるわけではなく、幹事長という名称や権限、衆議院と参議院の組織関係は政党によって異なる。その前提を置いたうえで各党を比較すると、幹事長の力とは「何でも一人で決定できる力」ではなく、人事、資金、選挙、国会、地方組織、そして衆参両院を結び付ける位置から生まれる力だということが見えてくる。

まず、「政党」と「国会会派」は同じものではない

 幹事長を理解する前に、一つ重要な区別がある。それは政党と国会会派の違いである。政党とは、共通する理念や政策を実現するためにつくられる政治組織であり、国会会派とは衆議院や参議院の内部で活動を共にする議員の集団である。同じ政党の議員が一つの会派をつくることが多いものの、複数政党が一つの会派を構成することもあれば、政党に所属していない議員が会派に加わることもあるため、「政党の所属」と「国会でどの会派に所属するか」は必ずしも一致しない。

 2026年は、この違いを理解するのに象徴的な年になった。衆議院が公表している2026年2月18日現在の会派構成では、自由民主党・無所属の会が316人、中道改革連合・無所属が48人、日本維新の会が36人などとなり、立憲民主党と公明党はそれぞれ独立した衆議院会派としては存在していない。一方、参議院の2026年6月30日現在の会派構成を見ると、自由民主党・無所属の会101人、立憲民主・無所属40人、公明党21人、日本維新の会19人となっており、衆議院と参議院では同じ政党名をめぐる組織構造が大きく異なっている。

2026年には、衆議院と参議院の「政党地図」がずれた

 このずれが生じた大きな理由の一つが、2026年初めの政党再編である。立憲民主党所属だった衆議院議員と公明党所属だった衆議院議員は、中道改革連合の結成に伴ってそれぞれ元の党を離れ、2月の衆議院選挙を中道改革連合から戦った。その結果、立憲民主党と公明党は参議院や地方組織では存続しながら、衆議院ではそれぞれ独自の議員団を持たないという、通常とは異なる状態になった。

 ところが、この体制も固定されたわけではない。2026年9月には、中道改革連合、立憲民主党、公明党の3党による組織的な合流が実現しないことが明らかになり、中道改革連合は新たな形態へ移る方針を決めた。公明党出身の衆議院議員は公明党へ再結集し、立憲民主党出身の衆議院議員は新党を立ち上げ、そのうえで次の国会では両者が衆議院の統一会派「中道」を形成する方向が示されている。したがって2026年9月16日現在の衆議院については、「中道改革連合という既存政党がそのまま存続している」とも、「すでに新しい体制への移行が完全に終了した」とも単純には言えず、政党所属と国会会派の組み替えが進んでいる過渡期として見る必要がある。

 この出来事は、幹事長を理解するうえでも重要である。政党組織は衆議院と参議院で必ずしも同じ形を取らず、一方の議院で党所属議員がいなくなっても、他方の議院や地方組織を基盤として政党そのものは存続できるからである。幹事長とは、単に国会議員を束ねる役職ではなく、このような複数の組織を一つの政党として維持する党務の責任者なのである。

幹事長とは、そもそも国会の役職ではない

 衆議院議長や参議院議長は国会という国家機関の役職だが、政党の幹事長はその政党内部の役職である。そのため、日本国憲法に「幹事長」という役職が定められているわけではなく、その権限は各党の党則や規約によって決められる。同じ「幹事長」という名前でも、自由民主党と日本維新の会と公明党では制度設計が異なり、さらに党本部の幹事長とは別に、参議院幹事長や国会議員団幹事長を置く政党もある。

 自由民主党では、党本部の幹事長は総裁を補佐して党務を執行する役職とされ、その管掌下に人事局、経理局、情報調査局、国際局が置かれている。一方、参議院側には参議院議員総会や参議院幹事長、参議院政策審議会長、参議院国会対策委員長などの独自の組織が存在するため、「自由民主党幹事長」と「参議院幹事長」は名前こそ似ていても別の役職である。

 日本維新の会ではさらに構造が重なる。党本部には代表を補佐して予算執行など党運営を統括する幹事長がいる一方、国会議員で構成される国会議員団にも幹事長を置く仕組みがあり、さらに参議院には参議院会を設け、参議院会長や参議院幹事長、参議院国会対策委員長などを置くことができる。したがって政治ニュースで「維新の幹事長」と書かれていた場合、それが党本部を指しているのか、国会議員団を指しているのかまで確認しなければ、権限の意味を正確には理解できない。

衆議院と参議院では、政治を刻む時計そのものが違う

 なぜ一つの政党の中に、衆議院と参議院で別々の組織が必要になるのか。それは両院が同じ国会を構成しながら、まったく同じ制度では動いていないからである。衆議院議員の任期は4年だが、衆議院が解散されれば任期途中でも選挙になるため、衆議院議員は常に「いつ選挙になるか分からない」という不確実性の中で政治活動を行う。

 これに対して参議院議員の任期は6年で、参議院には解散がなく、3年ごとに半数が改選される。議員全員が一度の選挙で入れ替わることがないため、参議院という議院そのものには制度的な継続性が組み込まれている。したがって衆議院では突然の解散に備えた候補者や選挙区の準備が重要になり、参議院では3年ごとの改選周期を前提に、より長い時間軸で選挙や院内活動を組み立てることができる。

 さらに両院は権限も完全には対称ではない。予算は衆議院に先に提出され、内閣総理大臣の指名、予算、条約など一定の事項では条件を満たせば衆議院の議決が優越し、内閣不信任決議も衆議院に認められた制度である。このため衆議院は内閣の成立や存立とより直接的に結び付く一方、参議院は解散の影響を受けずに活動を継続する。党本部の幹事長は、この異なる時計で動く二つの議員集団を同時に政党の中へ組み込まなければならない。

自由民主党では、「党本部」と「参院自民党」が重なって動く

 自由民主党を見ると、この構造が比較的分かりやすい。党本部では総裁が最高責任者となり、幹事長が党務執行の中心に立つ一方、参議院には参議院議員総会を中心とする独自の組織があり、参議院幹事長などが置かれている。参議院側は党本部と無関係な別組織ではないが、党本部幹事長の直属部門として単純に一本化されているわけでもない。

 ここで重要なのは、幹事長の力を「上から命令する力」だけで測らないことである。党本部では全国の地方組織、選挙、人事、資金などを扱わなければならず、参議院側には参議院独自の議員間調整や国会運営があるため、両者の考えが完全に一致するとは限らない。その間を党として一つの方向へまとめることができるかどうかが、幹事長の政治的な力になる。

立憲民主党は、2026年に「参議院と地方組織を持つ政党」という性格が強くなった

 立憲民主党については、2026年以前の規約だけを読んで現在を説明すると誤解が生じる。規約上は衆議院議員団と参議院議員団を置くことができ、幹事長は代表を補佐して党務執行全般を統括し、国会対策委員長は代表と幹事長の下で衆参にまたがる国会対策を担うという構造が想定されている。しかし2026年には、所属していた衆議院議員が中道改革連合へ移ったことから、現実の立憲民主党は参議院議員、地方議員、地方組織を中心に存続することになった。

 2026年8月時点の立憲民主党役員を見ると、代表、幹事長、選挙対策委員長、政務調査会長、国会対策委員長など党執行部の中心を参議院議員が担っており、党自身も衆議院小選挙区の暫定総支部を設けるなど、将来の衆議院との関係を見据えながら地方組織を維持している。9月には中道改革連合の立憲民主党出身衆議院議員が新党をつくる方針となり、立憲民主党との今後の関係はなお調整段階にあるため、現在の立憲民主党を「従来と同じ衆参一体の政党」として描くことはできない。

 むしろここから分かるのは、幹事長の仕事が国会議員団の人数だけで決まるわけではないということである。衆議院に所属議員がいない時期でも、地方組織、党員、選挙準備、政策活動、参議院議員団を維持しなければ政党は存続できない。幹事長とは、国会内だけでなく、その背後にある組織を切れ目なく動かす役職なのである。

公明党も2026年に、衆議院と参議院の関係が大きく変わった

 公明党についても同じ注意が必要である。2026年1月、公明党所属の衆議院議員は中道改革連合への参加に伴って公明党を離れ、公明党は一時、参議院議員と地方議員を中心とする政党になった。それでも党本部には代表、幹事長、中央幹事会、常任役員会などが存続し、参議院側には参議院公明党議員団の組織が存在したため、衆議院から所属議員がいなくなっても政党そのものが消滅したわけではない。

 その後、2026年9月には中道改革連合の再編方針を受け、公明党出身の衆議院議員を公明党側が受け入れ、再び衆参両院に国会議員を持つ体制へ移行する方針が示された。ただし衆議院では、立憲民主党出身議員が設立する新党と統一会派「中道」を組む方向であるため、今後は「政党としての公明党」と「衆議院会派としての中道」が重なって存在することになる。

 この構造は一見ややこしいが、政党と会派を分ければ理解しやすい。公明党という政党には独自の代表や幹事長、党組織がありながら、衆議院では別の政党に所属する議員たちと一つの会派をつくることが可能である。つまり幹事長は、党の内部だけでなく、必要に応じて他党と組む国会会派との関係まで調整しなければならない。

「幹事長が金を握る」という言葉は、かなり乱暴である

 幹事長について昔から語られてきたのが、「金と人事を握るから強い」という説明である。しかし制度を確認すると、この言葉はそのままでは正確ではない。自由民主党では経理局が幹事長の管掌下に置かれているが、党財政には財務委員会など別の監督機構が存在する。日本維新の会では幹事長が予算を執行することが明確に規定されている一方、公明党では党の収支を管理する財務委員会や会計を監査する組織が置かれているため、いずれの党でも「幹事長が個人的判断で党の金を自由に使える」という意味ではない。

 それでも資金と幹事長が強く結び付けられるのは、政治における資金配分が単なる経理処理ではないからである。選挙対策にどれだけの組織資源を投入するのか、地方組織をどこまで支えるのか、党本部の活動をどう組み立てるのかという判断は、最終的には党の政治戦略と結び付いているため、党務全般に関与する幹事長がその調整から離れることは難しい。したがって「金を握る」というより、「党の限られた資源をどこへ向けるかという調整の中心に近い」と表現する方が実態に近い。

人事も、公認も、一人で決めているわけではない

 人事についても同じことが言える。自由民主党では幹事長管掌の部局について、総務会の承認を受けて幹事長が局長や次長を決定する仕組みがあり、日本維新の会では幹事長が常任役員会の承認を受けて幹事会の構成員などを選任できる。公明党でも幹事長室を中心に党務を統括する仕組みがあるが、中央幹事会などの議決機関と常任役員会などの執行機関が別に存在するため、幹事長が党内のあらゆる役職を単独で決定しているわけではない。

 選挙の公認についても同様である。候補者を正式に公認する手続きには各党の選挙対策機関や議決機関が関与するため、「幹事長の一声で候補者が決まる」という説明は制度上正しくない。しかし実際の候補者選定では、地方組織の希望、現職との関係、選挙区事情、比例代表との配分、他党との協力、資金や応援態勢などを事前に調整しなければならない。この長い調整過程に深く関わることが、幹事長の影響力につながるのである。

衆議院の選挙と参議院の選挙では、幹事長が考える時間軸も変わる

 衆議院では解散があるため、党本部は常に「次の総選挙が予定より早く来るかもしれない」という可能性を考えなければならない。候補者が決まっていない選挙区、地方組織が弱い地域、現職と新人の調整、他党との候補者競合などを日常的に整理しておかなければ、突然の解散に対応できなくなる。

 一方、参議院では改選時期があらかじめ分かっているため、衆議院とは異なる準備が可能になる。しかし参議院選挙には選挙区と比例代表があり、党全体の得票戦略や全国組織との関係が強く影響するため、こちらにも独自の調整が必要になる。幹事長は一種類の選挙だけを見ていればよいのではなく、いつ起こるか分からない衆議院選挙と、周期が決まっている参議院選挙を同じ党組織の中で並行して準備しなければならない。

幹事長には、「異なる種類の情報」が集まりやすい

 幹事長の力を考えるとき、資金や人事ほど目立たないものの、情報も重要である。ただし「幹事長が誰よりも早くすべての情報を知る」と断定する根拠はなく、より正確には、役職上、異なる種類の情報が集まりやすい位置にいると考えるべきである。

 自由民主党では情報調査局が幹事長の管掌下にあり、日本維新の会では幹事長が役職者の連絡や調整のための会議を招集できる。立憲民主党でも幹事長を中心とする党執行部には地方組織、選挙、国会対策、政策などの情報が集まる構造がある。衆議院側からは解散や選挙区情勢を意識した情報が入り、参議院側からは独自の国会運営や改選事情が届き、地方組織からは候補者や地域政治に関する情報が上がるため、幹事長はそれらを直接すべて処理しなくても、どの問題をどこで解決すべきかを判断する位置に置かれる。

だからといって、幹事長が党首より強いわけではない

 これだけ多くの分野に関わると、幹事長が党首の裏側で党を動かしているようにも見える。しかし制度上の最高責任者は、自由民主党なら総裁、立憲民主党や日本維新の会、公明党なら代表であり、幹事長ではない。また各党には総務会、常任幹事会、中央幹事会、常任役員会、両院議員総会などの合議機関が置かれており、重要事項を幹事長一人で決定する仕組みにはなっていない。

 むしろ幹事長の政治的な力は、党首からどこまで信頼されているか、衆議院議員や参議院議員とどのような関係を持つか、地方組織との調整能力があるかによって変化する。同じ党則の下でも、強い幹事長と目立たない幹事長が生まれるのはこのためであり、役職に書かれた権限だけを読んでも、その人物の実際の政治的影響力までは分からない。

幹事長の本当の力は、「接続点」と考えると見えてくる

 ここまで見てくると、「幹事長は何を握っているのか」という問いに、「金」「人事」「選挙」とだけ答えることが不十分である理由が分かってくる。資金は財務機構と共有され、人事には党内の承認手続きがあり、候補者公認には選挙対策部門や議決機関が関与し、国会運営には国会対策委員長や衆参それぞれの議員組織が存在するため、幹事長が一つ一つの権限を独占しているわけではない。

 それでも幹事長が重要なのは、これらの機能が互いに切り離されていないからである。候補者を立てれば資金と地方組織が必要になり、地方組織を動かせば人事や党本部との調整が必要になり、選挙で議席を得れば衆議院や参議院の国会運営へつながり、国会での政策判断は次の選挙に影響する。その循環の途中に幹事長が何度も現れる。

 したがって、幹事長が何か一つの巨大な権力を「握っている」と考えるより、人事、資金、選挙、国会、地方組織、衆議院、参議院という別々の回路を結ぶ「接続点」にいると考える方が実態を捉えやすい。これは党則に書かれた正式な定義ではなく、複雑な政党組織を理解するための一つのモデルであるが、幹事長という役職がなぜこれほど政治ニュースで重く扱われるのかを説明するには有効である。

 2026年の政党再編は、そのことを逆に鮮明にした。立憲民主党や公明党のように衆議院と参議院で一時的に所属構造が分かれても、政党そのものは地方組織や参議院議員、党員を基盤として存続し、その後また衆議院側との関係を組み直すことができる。その過程では、国会議員の数だけでなく、組織、人事、選挙、資金、他党との関係を同時に調整しなければならない。

 政治の表舞台で最も強い照明を浴びるのは党首である。しかし政党が実際に動く場所では、衆議院と参議院という異なる時間で動く二つの議院、全国の地方組織、選挙、政策、人事、資金が絶えず結び直されている。幹事長の力とは、そのすべてを独占することではなく、それぞれ別の方向へ動きかねない歯車を、一つの政党として噛み合わせ続ける位置にいることなのである。

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政治ニュースはどこで生まれているのか

 朝の霞が関では、まだ多くの人が職場へ向かっている時間から記者たちが官庁の廊下を歩き、大臣が何を語ったのか、官僚の説明は昨日とどこが変わったのか、政府の方針にわずかな修正が加えられていないかを追い続けている。そこで拾われた言葉は、数時間後には新聞の記事となり、テレビのニュースとなり、インターネットを通じて私たちの手元へ届くが、その「政治ニュース」がどのような場所で生産され、記者と政治家や官僚がどのような距離を保ちながら作られているのかを意識する機会は、それほど多くない。日本の政治報道を考えるとき、その舞台裏に百年以上存在してきた仕組みがある。記者クラブである。

記者クラブは「権力の道具」として生まれたわけではない

 記者クラブという言葉には、しばしば閉鎖性や横並び報道という批判的な印象がつきまとうが、その出発点は少し違う。日本新聞協会が示している沿革によれば、起源は1890年、帝国議会が開会した際、議会を取材しようとした新聞記者たちが傍聴取材を求めて結成した「議会出入り記者団」にさかのぼる。当時の政治情報は現在以上に政府や官庁の内部に閉じ込められており、個々の新聞社が別々に取材を求めるより、記者たちが集団となって情報公開を要求する方が力を持った。少なくともその原型を見る限り、記者クラブは権力が記者を管理するために一方的につくった制度ではなく、むしろ閉ざされた権力の扉を記者側から開こうとした運動の中から生まれたのである。

 もっとも、一つの制度は誕生した瞬間の理念のまま百年以上存在し続けるわけではない。記者クラブも戦時下の報道統制を経験し、敗戦後には親睦団体として位置付けられ、その後も社会環境と報道制度の変化に合わせて役割を変えてきた。したがって、1890年の成立事情を根拠として現在の記者クラブまで無条件に「権力から情報を引き出す制度」と評価することも、逆に現在指摘されている閉鎖性から歴史全体をさかのぼって「権力が報道を管理するためにつくった制度」と説明することも正確ではない。記者クラブを理解するには、理想から始まった制度が長い時間の中でどのように政治権力、行政機構、大手メディアとの関係を組み替えてきたのかを見る必要がある。

記者クラブがもたらした「継続して見る力」

 この仕組みが日本の政治報道にもたらしたものとして、まず無視できないのは継続的な取材環境である。政治は選挙や政変のときだけ動くのではなく、予算編成、法案作成、省庁間調整、与野党協議、人事、外交交渉といった小さな変化を毎日のように積み重ねながら進んでいく。官房長官の定例会見が原則として平日に午前と午後の二回開かれていることに象徴されるように、政治報道とは一度の会見で真相を聞き出す仕事というより、昨日の発言と今日の発言のわずかな差を追い続ける仕事でもある。その意味で、記者を行政機関の近くに置き、継続して資料や説明に接触させる仕組みは、速報性を高め、公式情報を継続的に確認し、政治過程の変化を記録するための実務的な基盤として機能してきた。

 ここで注意したいのは、記者クラブがあるから報道が「正確になる」と単純に断定することはできないという点である。記者クラブの存在する取材現場と存在しない取材現場を比較し、誤報率や訂正率がどれほど違うのかを厳密に測定した実験が十分に蓄積されているわけではないからだ。しかし、行政側の説明を継続して受け、同じ問題を担当する複数の記者が資料や発言内容を照合できる環境が、公式情報の確認可能性を高める方向に働くという説明には合理性がある。つまり、ここで実証的に強く言えるのは「記者クラブが真実を保証する」ということではなく、「政治や行政を継続的に観察するための安定した取材経路を提供してきた」というところまでなのである。

権力に近づくほど、権力から離れにくくなる

 しかし、まさにその長所の中に記者クラブの難しさが潜んでいる。権力の近くに記者を置けば情報は入りやすくなるが、明日も明後日も同じ政治家や官僚から情報を得なければならない記者にとって、取材対象は監視すべき相手であると同時に仕事を成立させる重要な情報源にもなる。ここに政治取材特有の矛盾が生まれる。政治家から離れ過ぎれば内部で何が起きているのか分からず、近づき過ぎれば相手の世界観や問題設定を無意識のうちに共有する可能性が高まるのであり、これは個々の記者の倫理性だけに還元できる問題ではなく、継続的に情報源へ依存する取材という仕事そのものに内在する構造なのである。

 政治家と記者の関係を考えると、この構造はさらによく見える。政治家には自らの政策や意図を社会に伝えてほしいという動機があり、記者には他社より早く政治の内部情報を知りたいという動機があるため、両者は対立するだけでなく互いを必要とする。政治家が情報を渡し、記者がそれを社会へ伝え、記者はその関係を通じて次の情報へ近づく。この交換関係そのものが不正であるわけではなく、政治報道を成立させるために必要な側面もあるが、情報へのアクセスそのものが記者にとって希少な資源になるほど、取材対象との関係を失うことのコストも大きくなる。記者クラブが生み出した「近さ」は、情報量を増やす利点と、情報源から自由でいることを難しくする危険を同時に抱えているのである。

記者会見は本当に「閉鎖空間」なのか

 ただし、現在の記者会見が一律に「記者クラブ会員しか参加できない閉鎖空間」であるかのように描くことも正確ではない。首相官邸が示してきた会見参加の仕組みを見ると、専門新聞、雑誌、外国報道機関、一定の条件を満たすインターネット報道機関や媒体へ記事を提供する記者などにも参加経路が設けられており、近年は従来の大手新聞・放送会社だけに完全に限定された制度ではなくなっている。一方で、参加には登録や活動実績などの条件があり、会見によってはスペースや時間の制約から参加や質問の機会が限定されることもあるため、「完全に閉鎖されている」と「誰にでも完全に開放されている」のどちらも実態を正しく表してはいない。問題はゼロか百かではなく、誰が、どの条件で、どの程度継続的に権力へ質問できるのかという開放性の度合いにある。

失われるのは「席」ではなく「異質な問い」かもしれない

 そして、この問題が重要なのは、会見室の椅子を誰が確保できるかという物理的な問題にとどまらないからである。本当に失われる可能性があるのは「違う角度から問いを立てる人間」であり、同じ省庁を毎日取材し、同じ資料を読み、同じ会見に参加し、同じ政治日程を追う記者たちは、会社が違っていても、何を重要なニュースと考え、何を記事にするほどではないと判断するかという職業上の感覚を共有していく可能性がある。そこでは政府による検閲も、編集部からの命令も必要ない。「これは大きな話だ」「これはまだ書けない」「この程度ならニュースにはならない」という判断そのものが似ていけば、結果として報道内容も似ていくからである。

日本の新聞は本当に「横並び」なのか

 この「横並び」は単なる印象論だけではない。日本と韓国の主要新聞について複数の社会問題の報道量を比較した研究では、対象とした四つの問題について新聞間の報道量の相関を計算したところ、日本紙の平均相関係数は0.77、韓国紙では0.51となり、研究対象の範囲では日本の新聞の方が、ある問題をいつ、どの程度報道するかという動きが相対的に似ていた。相関係数は1に近いほど二つの変数が同じ方向に動くことを示すため、0.77という数字は小さくない。ただし、この研究だけから「記者クラブがあるから0.77になった」と結論することはできない。調査対象は限定された新聞と社会問題であり、新聞社の市場構造、通信社からの情報供給、記者教育、政府発表の日程、ニュース価値についての職業規範など、報道を似せる別の要因も存在するからである。

 これは統計学でいう相関関係と因果関係の違いそのものである。二つの現象が同時に存在していても、一方がもう一方を生み出したとは限らず、その背後に第三の要因が存在する可能性を検討しなければならない。したがって、「日本の新聞には報道内容が同質化する傾向が観察された」というところまでは研究によって支持されても、「その原因は記者クラブである」と単独原因のように断定すれば、科学的には一歩進み過ぎる。記者クラブは有力な説明要因の一つとして考えることはできても、それだけで日本の報道文化全体を説明することはできないのである。

情報の入口が同じでも、新聞の「味」は同じではない

 しかも、日本の新聞が政治についてすべて同じ意見を示しているわけでもない。全国紙を対象とした計量的な研究では、同じ政権や政策を扱っていても新聞ごとに取り上げる争点や肯定的・否定的な論調に違いが存在することが示されており、長期間の社説を分析した研究でも各紙の政治的立場には一定の差が確認されている。ここから見えてくるのは、「情報の入口が似ていること」と「最終的な論調が同じであること」は別問題だということである。同じ市場で材料を仕入れていても、料理人によって出来上がる料理の味は違う。記者クラブを論じる際には、この二つを混同しない方がよい。

「世界62位」という数字をどう読むべきか

 国際的な評価を見ると、日本の報道環境が単純に「自由」か「不自由」かという二択で説明できないことも分かる。国境なき記者団が公表した2026年の世界報道自由度指数で、日本は180の国と地域のうち62位、得点は62.90だった。同団体は、日本を議会制民主主義の国として報道の自由と多元性の原則がおおむね尊重されているとする一方、政治的圧力、メディア産業の構造、法制度や情報アクセスなどについて問題を指摘している。ただし、この62位という数字を日本のジャーナリズムの品質順位として読むことはできない。この指数には専門家による評価なども含まれており、記事の正確性や記者個人の能力を直接測定したものではないため、国際比較の一つの指標として見るべきであって、それだけで日本の政治報道全体を判定することはできない。

記者クラブの外に広がった政治情報

 そして今、この百年以上続いた仕組みの前提そのものをインターネットが変え始めている。かつて有権者が首相や大臣の発言を知るためには新聞やテレビという編集過程を通過する必要があったが、現在では政府自身が記者会見の動画や発言記録を公開し、政治家も動画配信やソーシャルメディアを通じて有権者へ直接発信できるようになった。これは記者クラブが握っていた政治情報への入口を相対的に分散させる一方で、政治家自身が都合のよい論点を選び、編集者や記者による検証を経ずに有権者へ届けられる環境を生み出したという意味でもある。情報の入口が増えたことと、情報の信頼性が自動的に高まったことは同じではない。

「横並び」の次に現れたエコーチェンバー

 既存メディアの横並びを嫌ってインターネットへ移った人が、今度は自分の政治的好みに合う情報だけを見るようになる可能性も指摘されている。ソーシャルメディア上には、似た政治的立場を持つ利用者同士が結びつきやすい「エコーチェンバー」と呼ばれる現象が観察されることがあるが、ここでも慎重さが必要である。異なる意見への接触を減らすことが、そのまま政治的な分極化を引き起こすのかについては研究結果が一様ではなく、情報環境と政治意識の間には、年齢、社会階層、既存の政治意識、メディア選択など多くの要因が介在する。したがって、「記者クラブの時代は横並び、インターネットの時代は自由」という単純な物語ではなく、旧来メディアには情報の同質化という危険があり、インターネットには選択的な情報接触という別の危険があると考える方が現実に近い。

問うべきは「廃止か存続か」ではない

 こうして見ると、記者クラブをめぐる問いを「残すべきか、廃止すべきか」という二択に閉じ込めること自体が、問題を単純化し過ぎていることが分かる。政治家や官僚を長期間追い、過去の発言や政策との矛盾を発見できる専門記者は必要であり、継続的に取材できる拠点にも実務上の価値がある一方、その場所に集まる記者が固定され、政府から提供される情報が報道の中心になり過ぎれば、外部から見れば不思議に思える問題設定が内部では当たり前になってしまう可能性がある。制度を評価するときに問うべきなのは、クラブが存在するかどうかだけではなく、どれほど多様な報道者が参加でき、政府発表以外の情報源をどれだけ持ち、既存の問いそのものを疑う余地が残されているかなのである。

記者クラブがもたらした「近さ」と失わせた「異質さ」

 記者クラブが日本の政治報道にもたらしたものを一つ挙げるなら、「近さ」という言葉が最もよく似合う。権力の近くに記者を置いたからこそ、政治や行政の動きを日々追い、わずかな政策変更を記録し、公式情報を継続的に確認する報道が可能になった。しかし、その近さが情報源への依存を生み、取材する側とされる側の問題意識まで近づけてしまう可能性も同時に生まれた。逆に、記者クラブが失わせる危険を持つものを一つ挙げるなら、それは「異質な視線」なのかもしれない。全員が同じ情報を聞くことより恐ろしいのは、全員が同じ問いを当然だと思い始めることである。

扉を開くための制度が、新しい扉になったとき

 1890年、記者たちは閉ざされた議会の扉を開けるために集まった。そこには、権力が持っている情報を社会へ取り戻そうとするジャーナリズムの原点があった。しかし制度には奇妙な性質があり、かつて扉を開くためにつくられた仕組みが、長い年月の中で新たな扉になることがある。だから日本の政治報道に必要なのは、記者クラブを無条件に称賛することでも、すべての問題の原因として否定することでもない。その扉を誰に向かって、どの程度開き続けられるかを問い続けることである。民主主義にとって危険なのは、政府と報道が対立することそのものではなく、政府も報道も、そして情報を受け取る私たちまでが、いつの間にか「ほかに問うべきことがある」という可能性を忘れてしまうことなのである。

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 先に結論を言えば、官房長官がときとして首相以上の存在感を持って見えるのは、官房長官のほうが首相より大きな権限を持っているからではない。首相が政府の最終的な政治判断を担う「頂点」だとすれば、官房長官は、省庁から集まる情報、政策調整、危機対応、首相への報告、そして社会への情報発信が交差する「結節点」にいるからである。つまり、首相が「決断する権力」を代表するのに対し、官房長官は政府という巨大組織を日常的に動かす「つなぐ力」を強く持つ。そのうえ平日には原則として午前と午後の二度、記者会見を行うため、国民から見た可視性も極めて高い。この制度上の位置と日常的な露出が重なることで、官房長官が首相以上に政府の中心人物であるかのように見える場面が生まれる。

 日本政治を眺めていると、この構造がときおり鮮明に姿を現す。国の行政を率いる中心人物は内閣総理大臣であるはずなのに、日々のニュースでは官房長官のほうが何度も画面に現れ、外交問題から経済政策、災害、閣僚の発言、政府内の不祥事に至るまで、ほとんどあらゆる出来事について記者から質問を受けているため、政治を継続的に見ている人ほど、「実際に政府の中心で動いているのはこちらなのではないか」と感じる瞬間がある。

 しかし、制度上の関係は明確である。日本国憲法第72条は、内閣総理大臣が内閣を代表し、行政各部を指揮監督すると定め、内閣法も首相が閣議を主宰し、閣議で決定された方針に基づいて行政各部を指揮監督する仕組みを置いている。さらに首相には国務大臣を任命し、罷免する権限があるため、官房長官が首相より制度的に上位に立つわけではない。

 それにもかかわらず、官房長官が首相に匹敵するほど大きな存在に見える場合があるのは、政治権力が単純な上下関係だけでは説明できないからである。巨大な組織を実際に動かすためには、最終決定をする人物だけではなく、情報を集め、部門間の利害を調整し、判断材料を整理し、決定された方針を組織の外へ伝える人物が必要になる。官房長官は、まさにそうした複数の流れが交差する場所に置かれている。

首相が「頂点」なら、官房長官は「交差点」である

 政府には財務省、外務省、厚生労働省、経済産業省、防衛省をはじめ、それぞれ異なる専門性と組織目的を持つ行政機関が存在するが、現代の政策課題の多くは一つの省庁だけでは処理できない。物価上昇への対策を考えるだけでも、財政、金融、エネルギー、産業、社会保障が関係し、大規模災害が起これば警察、消防、自衛隊、国土交通行政、自治体などが同時に動かなければならず、安全保障上の事態では外交、防衛、経済、情報が一つの問題の中に入り込んでくる。

 ところが、それぞれの省庁にはそれぞれの立場があるため、専門組織を並べただけで政府全体が自然に一つの方向へ進むとは限らない。そこで重要になるのが内閣官房であり、内閣法第12条は、内閣の重要政策についての企画・立案と総合調整に加え、行政各部の施策を統一するための企画・立案と総合調整を内閣官房の仕事として定めている。そして第13条は、官房長官がその内閣官房の事務を統轄すると規定している。

 この仕組みを考えると、官房長官の力が少し違った姿で見えてくる。首相が政府という組織の頂点に位置するのに対して、官房長官は複数の行政機関の線が交差する場所に近く、政治学や行政学でも、省庁を横断する政策課題では総合調整機能が重要になることが指摘されてきた。中央省庁再編も、縦割り行政の限界に対応し、官邸や内閣の総合調整力を高めることを重要な目的の一つとして進められた。

 会社にたとえるなら、首相は単純に最高経営責任者に相当すると考えられるが、官房長官を単なる広報担当者と考えると実態を見誤る。複数部門から情報を受け取り、部門同士の問題を整理し、経営トップの判断を支え、その判断を組織全体へ伝え、さらに外部からの質問にも答える役割が重なっていると考えたほうが近く、官房長官という職務の政治的な重さは、この複数の機能が一つの地点に集まるところから生じている。

官房長官は「政府が日常的に話す場所」に立っている

 官房長官の存在感をさらに大きくしているのが、記者会見である。首相官邸によれば、官房長官の定例記者会見は原則として月曜日から金曜日まで、午前と午後の二回行われるため、通常の一週間を単純化すれば最大で約10回、記者の前に立つ機会が制度的に用意されていることになる。ただし、休日、国会日程、出張、政治日程などによって実際の回数は変わるため、「年間に必ず何百回会見する」と固定的な数字に置き換えることは適切ではない。

 それでも、この頻度は政治的な「可視性」を考えるうえで大きな意味を持つ。首相は重要政策の発表、外交、国会、選挙、危機対応など、国家として重要な局面で強く前面に出るのに対し、官房長官は政府の日常的な出来事について継続的に質問を受ける立場にあるため、政治の大きな方向を示す首相に対して、官房長官は「今日、政府は何を考えているのか」を説明する人物として国民の前に現れ続ける。

 政府も過去の国会答弁で、官房長官の記者会見について、国民や国際社会に向けて政府として情報発信を行うことを主な目的としていると説明している。ただし、ここには重要な注意点があり、官房長官が記者会見で語ったすべての発言を、一律に政府の公式見解とみなすことができるわけではないことも政府自身が答弁しているため、官房長官会見は「すべての発言が政府公式見解になる場所」というより、「政府として継続的な情報発信が行われる重要な場所」と理解するほうが正確である。

「何度も見る人」は、本当に大きく見えるのか

 ここで一つ、政治制度だけでは説明できない問題が現れる。官房長官が毎日のようにテレビやインターネットのニュースに登場すること自体が、その人物を政府の中心人物として認識させる可能性はないのだろうか。

 心理学には、同じ対象に繰り返し接触することで、その対象への認知や評価が変化する「単純接触効果」と呼ばれる現象が知られている。政治を対象とした研究でも、架空の政治家の名前をニュース上で繰り返し目にした参加者が、その後の模擬的な選択で頻繁に目にした人物を選びやすくなったという実験結果が報告されており、少なくとも「反復的な露出が人物認知に影響を及ぼし得る」という考え方には実験的な根拠がある。

 ただし、この研究結果をそのまま日本の官房長官に当てはめて、「会見が多いから首相より重要に感じられる」と断定することはできない。報道内容が肯定的なのか否定的なのか、すでに人物がどれだけ知られているのか、視聴者が政治にどの程度関心を持っているのかによって効果は変わり得るため、官房長官の頻繁なメディア露出は存在感を高める一因になり得るものの、それだけで存在感を説明できるわけではない。

 それでも、首相が国家の重要な局面で強く現れるのに対し、官房長官が平日の午前と午後というリズムで繰り返し登場することは、両者の「見え方」を異なるものにする。首相は政治の頂点として見え、官房長官は政府の日常そのものとして見えるため、この違いが、ときとして官房長官のほうが政府運営の中心にいるような印象を生み出す可能性がある。

権力を「順位」ではなく「ネットワーク」で見る

 官房長官の立場を数理的に考えるなら、政治権力を一本の序列として考えるよりも、複数の組織を結ぶネットワークとして考えたほうが理解しやすい。政府の中には省庁、大臣、官僚組織、首相官邸、与党など多数の主体が存在し、その間を情報、指示、相談、政策案が絶えず行き来しているため、「一番上にいる人物」と「多くの経路が通過する人物」は必ずしも同じではない。

 ネットワーク分析では、単に多くの相手と接続しているかだけでなく、異なる集団同士をどれだけ仲介しているかという位置も重要になる。この考え方を政府に当てはめると、官房長官は財務、外交、安全保障、社会保障など異なる政策領域の間を結ぶ位置に置かれやすく、ある省庁と別の省庁、官僚組織と政治家、政府内部と報道機関の間で、情報の通り道になる可能性が高い。

 ただし、ネットワークの中心に位置することと、最終的な決定権を持つことは同じではない。内閣官房がどれだけ多くの情報を集め、省庁間の調整を行ったとしても、首相には閣議を主宰し、行政各部を指揮監督し、国務大臣を任免する制度的権限があり、政策の最終的な政治責任も首相と内閣が負うことになる。したがって、「首相より官房長官の権力が強い」という結論ではなく、「権力には階層上の権限とは別に、情報や調整の経路から生まれる影響力がある」と理解するほうが正確である。

危機になるほど「交差点」の価値は高くなる

 平時には見えにくい調整機能も、大規模災害、重大事故、感染症、安全保障上の緊張などが発生すると、その重要性が急速に高まる。危機時には、一つの省庁だけが正確に動いても政府全体として十分ではなく、異なる機関から入ってくる情報を整理し、重複や矛盾を調整しながら、首相や関係閣僚が判断できる状態をつくらなければならない。

 内閣法は、内閣官房に内閣危機管理監を置き、国民の生命、身体、財産に重大な被害が生じ、または生じるおそれがある緊急事態への対処を危機管理として位置付けている。また、内閣官房には関係行政機関から情報を集約し、省庁横断的な分析や調整を行う機能も置かれており、危機が一省庁の範囲を越えるほど、官邸を中心とした情報集約と調整の必要性は高くなる。

 ただし、「危機が深刻になるほど官房長官のテレビ出演が必ず増える」といった関係まで統計的に証明されているわけではない。これを科学的に確認するには、過去の大規模災害や安全保障上の事件について、発生前後の官房長官と首相の報道回数、テレビ出演時間、新聞記事での言及数などを長期間にわたって比較する必要があるため、ここで言えるのは、危機時に内閣官房の調整機能が重要になる制度的理由が存在し、その結果として官房長官が前面に出やすい条件が生まれる、というところまでである。

本当の力は、記者会見の後ろ側にある

 官房長官を理解するとき、テレビに映る記者会見だけを見ていては職務の半分しか見えない。むしろ政治的に重要なのは、カメラのない場所で、省庁の意見がぶつかり、政策案が修正され、関係者の意向が調整され、最終的に首相へ上げるべき問題が整理されていく過程である。

 巨大な政府組織では、首相自身がすべての政策について各省庁との細かな調整を行うことは現実的ではない。個々の省庁には担当大臣と官僚組織があり、その上で省庁を越える問題について内閣官房などが調整機能を果たすことによって、首相はより重要な政治判断に集中することができる。この意味で官房長官の役割は、首相に代わって国を支配することではなく、首相が判断できる政府をつくることに近い。

 「決める人」と「決められる状態をつくる人」は同じではない。ある政策についてどの情報が重要なのか、どの省庁の利害が衝突しているのか、どこまで調整すれば政治判断が可能になるのかという作業は、最終決定そのものほど目立たないが、巨大組織では欠かすことのできない仕事であり、その過程に深く関与できる立場は、法律上の命令権だけでは測ることのできない影響力を持ち得る。

 情報が集まる場所には相談も集まり、相談が集まる場所にはさらに情報が集まる。こうした循環が続けば、官房長官という役職の周囲には一種の「情報の重力」が生まれるが、それは官房長官が首相より強いことを意味するのではなく、巨大組織では情報を結び付ける位置そのものが一つの力になることを意味している。

同じ官房長官でも、存在感は同じではない

 もっとも、この構造が存在するからといって、歴代の官房長官がすべて同程度の影響力を持つわけではない。官房長官の実際の政治的な重さは、首相との信頼関係、与党内での人間関係、官僚組織との接点、政策調整をどこまで任されているか、危機時の情報処理能力などによって変化するため、役職だけを見て実質的な力を機械的に推定することはできない。

 首相が官房長官に多くの調整を委ねる政権では、官房長官が政策形成の早い段階から関与しやすくなる一方、首相自身が細部まで政策調整を行う場合や、別の有力閣僚、首相補佐官、党幹部などが大きな役割を担う場合には、同じ官房長官という肩書でも影響力の分布は変わる。このため「官房長官は常に政権のナンバー二である」と固定的に考えるより、誰と誰の間に情報が流れ、誰が何を調整し、首相が誰に何を任せているのかを見る必要がある。

「決断する権力」と「つなぐ権力」

 政治を見るとき、私たちは無意識のうちに「誰が一番偉いのか」という一本の順位表をつくりたくなるが、現実の権力はそれほど単純ではない。最終決定をする力、予算を動かす力、人事を決める力、情報を集める力、異なる組織を調整する力、そして政府の考えを社会へ伝える力は、それぞれ別の経路から生まれる。

 首相が象徴するのは、最終的な政治判断と責任を引き受ける「決断する権力」である。それに対して官房長官の特徴は、省庁、官僚、閣僚、首相、報道機関といった異なる主体の間に位置し、それらを結び付ける「つなぐ力」にある。この二つは競合するものではなく、むしろ首相が強い政治的リーダーシップを発揮するためにも、複雑な政府組織をつなぐ調整機能が必要になる。

 だから官房長官が、ときとして首相以上の存在感を示しているように見えるとしても、それを「本当は官房長官のほうが権力者だから」と説明するのは正確ではない。そこに見えているのは、現代国家が一人の指導者だけで動く組織ではなく、多数の専門組織を情報と調整によって結び合わせながら動く巨大なネットワークだという事実である。

 首相が船の進路を最終的に決める船長だとすれば、官房長官は、機関室、通信室、航海士、甲板から届く情報を整理し、船長の判断を船内へ伝え、外から飛んでくる問いにも応答しながら、船全体がばらばらにならないようにする人物に近い。船長より上にいるわけではないが、海が荒れ、情報が錯綜し、複数の部署を同時に動かさなければならない状況になるほど、その場所に立つ人物の姿は大きく見えてくる。

 次にニュースで官房長官の記者会見を見るとき、注目すべきなのは、その人物が首相より目立っているかどうかだけではない。その背後でどの省庁から情報が集まり、何が調整され、どの問題が政治判断を必要とし、どの内容が政府から社会への情報発信として示されているのかを考えてみると、記者会見の演台の向こう側に、日本政府という巨大組織の神経網が浮かび上がってくる。官房長官という役職が興味深いのは、一人の政治家の強さを映しているからではなく、政治において「権力とは何か」が、肩書や順位だけでは決まらないことを最もよく見せてくれる場所だからである。

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生まれる前の罪を、現在の人間が背負う必要はないのか

 人は、自分が生まれる前に起きた出来事について、個人的な罪を負うことはできない。戦争を始めたのが祖父母や曽祖父母の世代であったとしても、その行為について、生まれてさえいなかった孫や曾孫を加害者として扱うことはできないし、まして「同じ国の人間なのだから、あなたも罪を負わなければならない」と考えるのであれば、それは歴史認識の問題を越えて、血統による連帯責任に近づいてしまう。近代社会が守ってきた重要な原則の一つは、罪や法的責任は、原則として実際に行為をした個人や組織に帰属するという考え方であり、生まれた国や民族によって人間の道徳的価値まで決めることではない。

 しかし、ここで話を終えてしまうと、政治というものの性質を見誤ることになる。なぜなら国会議員、とりわけ政府や国家を代表する立場にある政治家は、私人として歴史を見るだけの存在ではなく、現在の国家制度を運営する公人でもあるからである。政治家自身が過去の戦争を始めたわけでも、植民地政策を決定したわけでも、過去の国家権力による人権侵害に直接手を貸したわけでもないとしても、その人物が今日運営している国家は、昨日突然生まれたものではない。

国家は、政治家よりも長く生き続ける

 国家には時間的な連続性がある。政治家が交代しても、政権が交代しても、選挙が終わっても、国家そのものが毎回ゼロから作り直されるわけではなく、法律、行政組織、外交関係、領土、公共財産、条約、債務、社会制度、そして国際的信用は、多くの場合、以前の国家活動から引き継がれていく。その意味で政治家は、自分が作ったものだけを管理しているのではなく、自分が生まれるより前から続いてきた巨大な制度の一時的な管理者でもある。

 ここで重要なのは、「国家の歴史を引き継ぐ」ということと、「過去の人間の罪を現在の個人が相続する」ということを混同しないことである。両者はまったく同じではない。現在を生きる国民が、過去の加害者と同じ罪を負う必要はない一方で、国家の制度や外交関係や過去の政策から現在まで続いている問題については、現在の政府や政治家が対応を求められることがある。引き継がれるのは罪そのものではなく、過去から残された制度的、外交的、社会的な課題なのである。

歴史の「成果」だけを選んで継承することはできるのか

 これは、過去の国家の歴史をどのように扱うかという問題にもつながる。私たちは、過去の優れた文化、経済発展、科学技術、制度改革については、現在の国家の歴史として自然に語っている。明治以降の近代化を語り、戦後の経済成長を語り、文化や技術や社会制度の蓄積を国家の歴史として評価するのであれば、その同じ歴史の中に存在した政策の失敗、戦争、差別、抑圧、重大な判断の誤りについても、少なくとも検討の対象から除外することはできない。

 ただし、ここから「過去の成果を受け継ぐ以上、過去の罪も現在の国民が負わなければならない」という結論を導くことはできない。そのような議論は論理的に飛躍している。正確には、国家という長期的な制度を維持する以上、過去の成果だけでなく、現在まで残っている未解決の問題についても現在の政治が向き合わなければならないことがある、ということである。

「歴史に向き合う」とは、謝り続けることではない

 歴史に向き合うという言葉も、しばしば誤解される。過去について永久に謝罪を続けること、自国を否定すること、あるいは現在の国民に罪悪感を持たせることが、歴史に向き合うことなのではない。本来求められるのは、何が起きたのかを証拠に基づいて検討し、その出来事がなぜ起き、どのような結果を生み、現在の政治制度や外交関係とどのようにつながっているのかを考えることである。

 したがって、歴史認識で重要なのは、謝罪という言葉を使ったかどうかだけではない。より重要なのは、自分の政治的立場にとって不都合な資料や証拠が現れたとき、それを無視せず検討できるかどうかである。自国に不都合な資料だから信用しない、あるいは逆に、自国を批判する内容だから無条件に信用するという態度は、いずれも歴史を理解する姿勢とは言いにくい。

歴史は、右からも左からも政治利用される

 歴史は、現在の政治闘争の道具にもなりやすい。過去の国家の加害行為を批判する側だけが歴史を政治利用するわけではなく、それを否定したり過度に小さく扱ったりする側もまた、自分の望む国家像を守るために歴史を利用する可能性がある。その逆に、自国の過去を批判すること自体が政治的目的となり、事実以上に単純化された物語が作られる可能性もある。だからこそ必要なのは、右か左か、保守かリベラルかという分類より先に、資料と主張を分け、確認できる事実と解釈を区別する姿勢なのである。

人間は、自分に都合のよい情報を信じやすい

 人間の認識は、完全に中立ではない。心理学では、自分がすでに信じている考えに合う情報を受け入れやすく、反対する情報については厳しく評価しやすい傾向が知られている。政治の世界では、この傾向に集団への帰属意識や選挙上の利害、支持者からの期待まで加わるため、歴史を冷静に評価することは決して容易ではない。

 だからといって、「過去の歴史を認めない政治家は、現在の政策の失敗も認めない」とまで断定することはできない。歴史認識と政策判断能力の間に、単純な一対一の因果関係が証明されているわけではないからである。しかし、自分の信念と衝突する証拠をどのように扱う人物なのかを見ることは、その政治家の判断姿勢を知る一つの材料にはなる。

問われるのは、「反証」を受け入れられる政治家かどうか

 ある政治家が、自分にとって都合のよい資料だけを引用し、反対する資料を検討しようとしないのであれば、それは歴史問題に限らず、「この人物は反証をどのように扱うのか」という問題として見ることができる。一方、新しい資料が現れたとき、自分の以前の発言を修正できる政治家であれば、その姿勢は少なくとも、証拠に応じて考えを変える能力を持っていることを示す一つの材料になる。

 政治家に必要なのは、絶対に間違えない能力ではない。そもそも人間も政府も、間違いを完全に避けることはできない。重要なのは、誤りが判明したときに修正できることである。民主主義という制度そのものも、この人間観の上に成り立っている。選挙、議会、司法、報道、行政監視といった仕組みが存在するのは、誰か一人の政治家が常に正しいと考えているからではなく、誰でも誤る可能性があるという前提があるからである。

「国家は間違えない」という考えは、民主主義と相性がよいのか

 この意味で、自国の歴史について「国家は誤ったことがない」という態度を取ることは、単なる愛国心とは異なる。国家もまた人間によって運営される制度である以上、成功することもあれば、判断を誤ることもある。その可能性を認めることは国家を否定することではなく、国家を人間が作った制度として現実的に理解することである。

 もちろん、その反対にも危険はある。過去の国家の行為を現在の国民一人一人の人格評価に結びつけ、何世代後の人間にまで道徳的な負債を負わせ続ける考え方も健全ではない。国家が過去の行為を検証することと、現在を生きる個人が先祖の罪を背負うことは別問題であり、この区別を失えば、歴史教育は理解のための営みではなく、人々を善と悪に分類するための儀式に変わってしまう。

自国を愛することと、自国の過ちを認めることは両立する

 自国を肯定することと、自国の誤りを認めることも、本来は矛盾しない。成熟した国家とは、自国の歴史を無条件に美化する国家でも、自国を際限なく断罪する国家でもなく、成功と失敗を同じ歴史の中で語ることのできる国家ではないだろうか。優れた文化や制度を評価しながら、誤った政策や加害についても事実として検討することは、自己否定ではない。

 一人の人間の人生について考えてみれば分かりやすい。自分の成功だけを語り、失敗について一切認めようとしない人間よりも、成功した経験と失敗した経験の両方を理解し、その失敗から何を学んだのかを説明できる人間のほうが、自分自身を現実的に理解していると考えることができる。国家についても、少なくとも同じような成熟のあり方を考えることは可能である。

政治家を見る基準は、「謝罪したか」だけではない

 政治家を見るときも、「謝罪したか」「謝罪しなかったか」という一つの言葉だけで人物を判定するのは適切ではない。見るべきなのは、資料や証拠に接したとき、自分の信念に反する情報であっても検討できるか、自国に不都合な事実と他国に不都合な事実を同じ基準で扱えるか、事実と解釈を区別できるか、そして新しい証拠が現れたときに以前の主張を修正できるかという知的態度である。

新しい社長は、前任者の問題から逃れられるのか

 ここで、国家を企業に置き換えて考えると、問題の一部は理解しやすくなる。新しく就任した社長が、前任者の時代に起きた重大な問題について「私は当時社員ではなかったので知りません」と答えたとしても、その社長個人が問題を起こしたわけではないことと、会社の代表者として対応する必要がないこととは別である。会社が以前の契約や資産や信用を引き継ぐ以上、未解決の問題についても対応を求められることがある。

 もちろん、国家と企業は同じではない。国家には国民、主権、外交、歴史、文化といった企業とは異なる要素があり、国家の責任を企業の債務と同じように考えることはできない。しかし、「組織には個人の寿命を越えて続く時間的連続性がある」という点については、この比喩は一つの理解の手掛かりになる。

政治家に歴史学者であることを求めているのではない

 そして、国家の過去に向き合う能力を政治家に求める理由も、最終的には過去そのものだけにあるのではない。政治家は歴史学者ではないし、すべての歴史問題について専門的知識を持つことを期待するのも現実的ではない。それでも政治家には、専門家の研究や資料に耳を傾け、自分の政治的立場とは異なる証拠も検討し、必要であれば判断を修正する姿勢が求められる。

 その意味で、「歴史に向き合えるか」という問いは、その政治家が善人か悪人か、人間として信用できるかどうかを判定するためのものではない。歴史認識だけから一人の人間全体の人格を判断することはできないし、そうするべきでもない。しかし、国家を運営する公人として、証拠に基づいて考え、不都合な事実からも目をそらさず、自らの判断を必要に応じて修正できる人物なのかを見る材料にはなる。

歴史を検証することも、国家への責任ではないか

 自国を愛することと、自国の過去の誤りを認めることは両立できる。むしろ、自国が再び同じ失敗を繰り返さないようにすることまで含めて考えれば、過去の誤りを検証する行為そのものが、国家に対する責任の一つとも考えられる。子どもの失敗を一切認めず、何が起きても「この子は絶対に悪くない」と言い続けることだけが愛情ではないように、国家についても、無条件に正当化することだけが愛国であるとは限らない。

問うべきなのは、先祖の罪ではない

 結局、私たちが政治家に問うべきなのは、「あなたは生まれる前の罪を背負うのか」という問いではない。その問いの立て方自体が間違っている。問うべきなのは、自分が直接経験していない過去であっても、証拠に基づいて理解し、自分にとって不都合な事実も検討し、その経験から現在の政治に生かすべき教訓を考えることができる人物なのか、ということである。

歴史は、未来へ進むための地図である

 政治とは未来をつくる仕事だと言われる。しかし未来だけを見て政治をすることはできない。国家がどのような判断を積み重ねて現在に至ったのかを知らなければ、いま立っている場所を正確に理解することは難しく、現在地を誤認すれば、未来へ向かう方向もまた誤る可能性が高くなる。

 歴史とは、現在を生きる人間に、過去の罪を背負わせるための鎖ではない。それは、国家がかつてどこで判断を誤り、どこで成功し、どの道を再び歩くべきではないのかを知るための地図である。

 その地図に、自分が見たくない場所が描かれているという理由だけで目をそらす政治家に、私たちは国家の進路を任せてよいのだろうか。問われているのは、過去の人間と同じ罪を現在の政治家に負わせることではない。権力を預ける人物が、不都合な事実を含めて現実を見ることのできる人なのかどうかなのである。

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一度目の安倍晋三は、あまりにも早く「自分の政治」を始めた

 2006年9月、52歳で内閣総理大臣となった安倍晋三は、戦後最年少の首相として政権の座に就いた。小泉純一郎という強烈な個性を持つ首相の後継者であり、北朝鮮による拉致問題への対応などですでに全国的な知名度を持っていた安倍には、若い指導者が新しい時代を開くという期待も集まっていた。しかし後から振り返れば、第一次安倍政権の特徴は、その若さ以上に、首相になった直後から自分が本当に実現したかった政治をかなり正面から始めようとしたことにあった。

 安倍が掲げた「美しい国、日本」の背後には、「戦後レジームからの脱却」という問題意識があった。教育、安全保障、憲法、国家のあり方を長期的に組み替えていこうとする政治であり、実際に第一次政権は教育基本法の改正や防衛庁の防衛省への移行などを実現している。したがって、第一次安倍政権を「何もできずに終わった政権」と片づけるのは正確ではなく、むしろ問題は、政策を成立させる能力と、政権を安定して持続させる能力が別物であったことを、政権自身が十分に処理できなかった点にあった。

 政治家には自分が重要だと考える政策があるが、有権者にもまた、その時々で政治に解決してもらいたい問題がある。そして残念ながら、この二つはしばしば一致しない。憲法、安全保障、教育、国家観は安倍にとって重要だったが、多くの国民にとって切実だったのは、年金、雇用、所得、格差、社会保障といった生活に直結する問題であり、第一次政権では、この「政治家が語りたいこと」と「有権者が解決してほしいこと」のずれが徐々に広がっていった。

 ここには第一次政権の弱点がよく表れている。安倍は首相になれば政策を動かせると考えていたのだろうが、民主政治では、首相になったことと、首相であり続けられることは同じではない。総理大臣という席は政策を実行するための到着点ではなく、むしろそこから始まる不安定な仕事であり、この当たり前の事実を安倍は最初の政権でかなり高い授業料を払って学ぶことになった。

年金、閣僚問題、参議院選挙――政権を削ったのは一つの失敗ではなかった

 2007年に入ると、第一次安倍政権は急速に不安定になった。閣僚をめぐる政治資金問題や失言、辞任が相次ぎ、さらに約5000万件の年金記録が基礎年金番号に統合されていないことが明らかになった、いわゆる年金記録問題が大きな社会問題となった。もちろん、年金記録の混乱そのものを安倍政権が生み出したわけではない。しかし政治では、問題を作った政権と、その問題によって批判を受ける政権が同じとは限らず、長年蓄積された行政上の不備であっても、それが表面化した瞬間の政権が責任を引き受けることになる。

 同年7月の参議院議員通常選挙では、年金記録問題、「政治とカネ」、格差などが大きな争点となり、自由民主党は改選前64議席から37議席へ大幅に減らした。一方、民主党は60議席を獲得して参議院第一党となり、衆議院では与党が多数、参議院では野党が多数という「ねじれ国会」が生まれた。それでも安倍は続投したが、その後、国会で所信表明演説を行った直後に辞意を表明するという異例の退陣となり、その唐突さは政権の評価をさらに悪化させた。

 加えて、安倍自身には潰瘍性大腸炎という持病があり、第一次政権末期にはその症状が悪化していた。したがって第一次政権の崩壊を、選挙敗北だけ、年金問題だけ、安倍本人の力量だけで説明するのは適切ではなく、政策の優先順位、閣僚管理、国会運営、選挙結果、世論との距離、本人の健康状態といった複数の要因が重なった結果として理解する必要がある。

 政治史はしばしば、一人の指導者の決断によって動いたかのように描かれる。しかし実際の政権は、首相の思想だけで動いているわけではない。政党、官僚、国会、選挙、報道機関、世論、経済、そして最後には首相本人の身体までが絡み合う巨大なシステムであり、第一次安倍政権は、そのシステムを制御することが政策を考えること以上に難しいことを露呈した政権でもあった。

五年後に戻ってきた安倍は、思想を変えたのではなく入口を変えた

 2007年の退陣後、安倍が別の政治家になったわけではない。憲法改正、安全保障、教育、国家観、政治主導に対する基本的な問題意識は、その後も大きく変化していない。もし第一次政権の失敗から安倍が学んだことがあるとすれば、それは思想を捨てることではなく、その思想を実現するために何を先に行うべきかを変えることだった、と考える方が実態に近い。

 2012年12月、安倍が再び首相に就任したとき、政権の正面に置かれたのは「美しい国」でも「戦後レジームからの脱却」でもなく、経済再生だった。大胆な金融政策、機動的な財政政策、民間投資を喚起する成長戦略という、いわゆる「三本の矢」を掲げ、デフレ脱却と景気回復を政権の最優先課題として示した。第二次政権で安倍が安全保障や憲法への関心を失ったわけではなく、むしろそれらを政権の入口に置かなくなったのである。

 この変化は政治的には合理的だった。憲法や安全保障は有権者の意見を大きく二分するが、景気回復、雇用改善、賃金上昇を望む人は左右の政治的立場を越えて存在する。支持を広げる必要がある政権にとって、経済政策は安全保障政策よりはるかに広い有権者に届きやすい。第一次政権の安倍が、自分の政治的理念から政権を始めたとすれば、第二次政権の安倍は、多くの有権者が関心を持つ経済から政権を始め、その後に自分の政治課題へ進む道筋を選んだと見ることができる。

 ただし、ここで「第一次政権で失敗したから、第二次政権でこの戦略を採用した」とまで断定することはできない。本人がどこまで体系的に第一次政権の経験を分析し、その結果として政策の順序を変更したのかは外部から完全には確認できないからである。観察できるのは、第一次政権と第二次政権の政策の見せ方と進め方が明らかに異なっていたという事実であり、その差を「学習」と解釈することには合理性があるが、それを唯一の原因と考えるべきではない。

第二次政権が覚えたのは、政策だけではなく「時間の使い方」だった

 第二次安倍政権では、まず経済政策を前面に出し、選挙で政権基盤を安定させ、その後に国家安全保障会議の設置、特定秘密保護法、安全保障法制など、より政治的対立の大きな政策へ進んでいった。この順序には、第一次政権にはなかった慎重さが見られる。

 民主政治では、政策には政治的な費用がある。広い支持を得やすい政策もあれば、支持者を分断する政策もあるため、政権が何を先に行い、何を後に行うかによって、その持続可能性は大きく変わる。これは企業経営で資金繰りを無視して理想的な事業計画だけを語っても会社が続かないのと似ており、政治でも、理念を実行するためには先に政治的な余力を確保しなければならない。

 第二次安倍政権は、この政治的余力を選挙、支持率、経済政策、政権人事によって蓄積しながら、対立の大きい政策へ進んでいった。第一次政権が「政策を実行するために政権がある」と考えていたように見えたのに対し、第二次政権では「政策を実行するためには、まず政権を維持しなければならない」という発想がより明確になった。

 政治家にとっては少々身も蓋もない話だが、政権から降りれば、どれほど立派な理念を持っていても法律にはならない。第二次政権の安倍は、この単純だが厳しい現実に第一次政権より適応していた。

「強い官邸」は安倍が突然発明したものではない

 第二次安倍政権の特徴として「官邸主導」がしばしば挙げられるが、これを安倍が一から作り出した制度のように説明するのは正確ではない。首相官邸の権限強化は1990年代以降の政治改革、橋本龍太郎政権による行政改革、2001年の中央省庁再編、小泉純一郎政権などを通じて段階的に進められてきた。第二次安倍政権は、その延長線上に成立している。

 しかも安倍自身も、第一次政権の段階ですでに官邸機能の強化や政治主導を明確に志向していた。したがって第一次政権を「弱い官邸」、第二次政権を「強い官邸」と単純に対比するよりも、第一次政権では官邸主導を目指しながら十分に安定運用できず、第二次政権では既存の制度改革を利用しながら、それをより強く、継続的に運用できるようになったと見るべきである。

 2014年に設置された内閣人事局も、この流れの中にある。中央省庁の幹部人事を政府全体で一元的に管理する仕組みが整えられたことで、官邸は各省庁の幹部人事に以前より強い影響力を持つようになった。ただし、これも第二次安倍政権だけから突然生まれた制度ではなく、それ以前から検討されてきた国家公務員制度改革の延長に位置している。

 安倍政権の特徴は、制度を一から発明したことよりも、すでに存在していた制度的な道具を政治的に有効活用したことにある、と考えた方がよい。政治では新しい制度を作ることより、既存の制度を徹底して使う方が権力を大きく変えることさえある。

人を固定したのではなく、政権の骨格を固定した

 第一次政権では閣僚の問題が次々に政権全体の問題へ発展した。大臣を守るのか辞任させるのか、その判断が遅れれば、一人の大臣の問題が首相の任命責任へと変わり、さらに内閣全体の支持率低下へつながっていく。首相の仕事は政策を考えるだけではなく、人事と危機管理を同時に処理することであり、第一次政権はその難しさに翻弄された。

 第二次政権では、この点がかなり変わった。菅義偉を内閣官房長官、麻生太郎を副総理兼財務大臣として政権の中枢に長期間置き、主要な意思決定を担う人物を安定させた。もちろん安倍政権も内閣改造を繰り返しており、「閣僚を固定した」と表現するのは正確ではないが、政権運営の骨格となる人物を固定したことには意味があった。

 菅は政府内の調整、危機管理、報道対応などを担い、麻生は党内と政権の双方で政治的な重しとなった。首相がすべてを直接処理するのではなく、信頼する人物に権限と役割を分担させたことで、第二次政権では第一次政権よりも安定した政権中枢が形成された。

 第一次政権の安倍が「自分が首相として政治を行う」色彩の強い政権だったとすれば、第二次政権では「安倍政権という組織が政治を行う」構造がより明確になった。長期政権を一人の政治家の能力だけで説明するのが危険なのは、まさにこの点である。

選挙は審判であると同時に、政権を再起動する装置になった

 第二次安倍政権では、衆議院解散と総選挙が政権運営の重要な手段として使われた。2014年、2017年の解散を含め、安倍は政治情勢や野党の準備状況を見ながら選挙時期を選択し、選挙に勝つことで政権の正統性と国会議席を更新していった。

 ただし、ここでも安倍個人の意図を過度に読み込むことは避けるべきである。外部から確認できるのは、第二次安倍政権が結果として、野党側の準備が整っていない時期や、与党に比較的有利な政治状況で解散を行い、選挙勝利を繰り返したということである。それを巧みな戦略と評価することはできるが、すべてが事前に設計された長期計画だったと考える必要はない。

 それでも、第一次政権との違いは明確だった。2007年には参議院選挙の大敗によって政権が主導権を失ったのに対し、第二次政権では選挙を受動的な審判として待つだけではなく、自ら政権の節目を作る手段として利用した。選挙で勝利すれば、与党内で首相に異論を唱える政治家も減る。民主主義では選挙が権力を制限する仕組みである一方、勝ち続ける政権にとっては権力を強化する仕組みにもなるという、少し皮肉な現実がここに表れている。

しかし長期政権は、安倍が賢くなったからだけでは説明できない

 第一次政権と第二次政権を比較するとき、最も注意しなければならないのは、第二次政権の長期化をすべて「安倍の成長」で説明してしまうことである。政治家の伝記としては美しいが、分析としては少々出来すぎた物語になる。

 2012年に安倍が政権へ復帰した時点で、政治環境そのものが2006年とは大きく違っていた。2009年に政権交代を実現した民主党は、政権運営への失望や内部対立を経て支持を失い、2012年以降の野党勢力は分裂した。小選挙区制を中心とする衆議院選挙では、野党候補が複数に分かれれば、与党候補が過半数に達しない得票でも議席を獲得できる場合があるため、野党分裂は自民党に大きな選挙上の利益をもたらした。

 さらに、自民党と公明党の安定した選挙協力、選挙制度の特性、自民党内で首相に代わる有力な指導者が現れにくかったこと、経済状況や株価、雇用環境の改善など、複数の条件が長期政権を支えた。これらの要因を除外し、「第一次政権で失敗した安倍が学習したから長期政権になった」と説明すれば、安倍本人の効果を実際以上に大きく評価することになる。

 数理的な比喩を使えば、長期政権という結果を説明するモデルに、野党分裂、選挙制度、連立構造、経済状況などの重要な変数を入れず、安倍本人の学習だけを説明変数として置けば、その係数は過大に見える可能性が高い。政治分析でありがちな「偉大な指導者が歴史を動かした」という物語は読みやすいが、現実の政治はもう少し散らかっている。

健康状態の改善も、第二次政権を可能にした重要な条件だった

 第一次政権末期に悪化した潰瘍性大腸炎について、安倍はその後、新しい薬によって症状をコントロールできるようになったと説明している。第二次政権で約七年八か月にわたって首相を務めることができた背景には、この健康状態の改善も無視できない。

 ただし、これを「第一次政権の反省を踏まえた健康管理戦略」とまで解釈するのは証拠が足りない。確認できるのは、新しい治療によって病状を長期間コントロールできるようになったことと、それが首相として職務を継続する前提条件になったことである。

 歴史は思想と制度によって動くように見えるが、ときに一錠の薬が政治史を変えることもある。第二次安倍政権を成立させた条件の一つが医療技術の進歩だったという事実は、政治というものが理念だけでできているわけではないことを、いささか身も蓋もなく教えている。

強い官邸は政治を動かしたが、強い権力には別の問題が生まれる

 第二次安倍政権では、官邸への意思決定の集中によって省庁間の調整が進み、首相が重要政策を迅速に進めやすくなった。その意味では、政治主導を目指した一連の制度改革が一定の成果を上げたと言える。

 しかし制度には必ず裏面がある。官邸が幹部人事に強い影響を持つようになれば、官僚にとって官邸の意向を無視することは難しくなる。長期政権になれば与党内でも首相への異論は出にくくなり、選挙に勝ち続ければ党内の政治家も首相の人気と公認権に依存する。権力を安定させるために作られた仕組みが、そのまま権力を監視しにくくする仕組みに変わる可能性がある。

 森友学園、加計学園、桜を見る会などをめぐっては、行政の透明性や説明責任、長期政権下における官邸と行政機構の関係が厳しく問われた。ただし、これらの問題が官邸主導の強化によって直接引き起こされたと断定できるわけではない。むしろ重要なのは、これらの問題をきっかけとして、「強い官邸を誰が監視するのか」という問いが現実の政治課題として浮上したことである。

 第一次政権では政権が弱すぎることが問題となり、第二次政権では政権が強くなりすぎていないかが問題となった。政治とはなかなか都合よくできておらず、弱い権力を強くすれば、それで問題が終わるわけではない。

アベノミクスも「成功か失敗か」の二択では評価できない

 第二次安倍政権を支えた重要な要素の一つが、アベノミクスと呼ばれた経済政策だった。金融緩和や財政政策、成長戦略を通じてデフレからの脱却を目指し、株価、企業収益、雇用などには改善が見られた。一方で、実質賃金、潜在成長率、生産性、財政再建、デフレからの完全な脱却などについては評価が分かれる。

 したがって、「アベノミクスによって日本経済は復活した」と言い切るのも、「何の効果もなかった」と切り捨てるのも、どちらも雑である。経済政策の成果は、どの指標を見るかによって評価が異なり、株価上昇を重視するのか、雇用者数を重視するのか、実質所得を重視するのかによって結論は変わる。

 しかし政治的な効果という観点では、アベノミクスは重要だった。経済政策を政権の看板に置くことで、安倍政権は憲法や安全保障だけでは獲得しにくい幅広い有権者に支持を求めることができた。経済政策として何点だったかとは別に、政権維持の政治戦略としては相当な意味を持っていたのである。

安倍晋三が変えたものと、安倍晋三では変えられなかったもの

 第一次政権と第二次政権を比較すると、安倍晋三という政治家の基本的な思想が劇的に変わったとは考えにくい。安全保障を重視し、政治主導を志向し、日本という国家のあり方を変えようとする姿勢は、二つの政権に共通していた。

 変わったのは、その思想を実行するための方法だった。経済政策を入口に置き、政権の中枢を安定させ、官邸機能を活用し、選挙で議席を更新しながら、対立の大きな政策へ段階的に進む。第一次政権では政策そのものが前へ出すぎたのに対し、第二次政権では政策を実現するための政治的条件を先に整える傾向が強くなった。

 ただし、それだけで七年八か月の長期政権が生まれたわけではない。民主党政権への失望、野党勢力の分裂、小選挙区制の特性、公明党との選挙協力、自民党内の対抗勢力の弱さ、経済環境、そして健康状態の改善といった複数の条件が重なった。安倍が変わったことは重要だったが、安倍を取り巻く政治環境もまた大きく変わっていたのである。

 ここを無視すると、政治史は途端に英雄物語になる。第一次政権で敗れた政治家が反省し、学習し、復活して長期政権を築いたという筋書きは確かに美しい。しかし現実の政治は、そこまで脚本家に親切ではない。

 それでも、第一次政権と第二次政権の違いを一つだけ取り出すなら、「順序」という言葉は捨てる必要がない。第一次政権の安倍は、自分が実現したい政治をかなり早い段階から前面に押し出した。第二次政権の安倍は、自分が実現したい政治の前に、それを実現できる時間と権力基盤を作ることを重視した。

 第一次政権の安倍は、理念を急いだ。第二次政権の安倍は、順番を覚えた。ただし、その順番だけが長期政権を生んだわけではない。安倍自身の学習と、野党の弱体化、選挙制度、連立構造、官邸機能の強化、経済状況、健康状態といった条件が重なったところに、第二次安倍政権は成立していた。

 政治家が成長したから歴史が変わった、と言えば物語としては美しい。しかし実際には、政治家が変わり、制度が変わり、敵が弱くなり、運にも恵まれ、その全部が揃ったときに初めて長期政権は生まれる。第二次安倍政権の本当の特徴は、安倍晋三が第一次政権の失敗を忘れなかったことだけではなく、その経験を生かせる政治環境が、二度目にはそこに存在していたことなのである。

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