地域政経

九条レオンの地域から社会と政治・経済のこれからを考える

 地方の会議の写真を見ると、ときどき似た顔ぶれが並んでいることに気づく。地域経済について話し合う席には商工会、観光振興なら観光協会、住民生活に関する会議なら自治会の代表がいる。そこに行政職員や議員、場合によっては学識経験者が加わり、「地域の意見」を聞きながら政策を考えていく。それ自体は不思議なことではなく、市や町の事情を知らない人だけで地域政策を作るより、長く現場に関わってきた人の話を聞く方が合理的である。

 しかし、その当たり前の風景を少し違う角度から眺めると、一つの疑問が浮かぶ。観光協会は、いつから「観光の声」になったのだろう。商工会が話す地域経済とは、その地域で働く人すべての経済なのだろうか。そして自治会の代表が「地域住民としては」と語ったとき、その「住民」には自治会へ加入していない人や、最近移住してきた人、仕事や子育てで地域活動にほとんど参加できない人まで含まれているのだろうか。

 市長・町長や議員なら、少なくとも権限を持つまでの入口は目に見える。選挙があり、有権者が投票し、その結果として公職に就く。しかし地域社会には、住民による選挙を経なくても行政から繰り返し意見を求められ、審議会や協議会に参加し、「地域を代表する声」として扱われる組織や人物が存在する。

 では、その発言力は誰が決めているのだろう。

 実は、この問いに「市長・町長が決めている」「行政が決めている」「昔からの有力者が決めている」と一人の主体を置いてしまうと、かえって地域社会の本当の姿を見失う。地域の発言力は、誰かが一度の決定で与えるものというより、人間関係、組織、情報、参加実績、行政との接点が長い時間をかけて積み重なった結果として形成されている可能性が高いからである。

組織の代表者と「地域の代表者」は同じではない

 最初に区別しておかなければならないのは、ある組織を代表する資格と、地域全体を代表する資格は別のものだということである。

 商工会は法律に基づく組織であり、会員の議決権や役員などについて制度が定められている。したがって、商工会長が何の手続きもなく突然「地域経済の代表」を名乗っているわけではなく、その組織内部では一定の正当性を持つ代表者である。

 しかし、そのことから直ちに、商工会長が地域経済に関わるすべての人を代表しているとは言えない。地域には商工会に加入する事業者もいれば加入しない事業者もおり、店舗を構える人もいれば、自宅からインターネットを使って全国へ商品やサービスを販売する人もいる。農業、建設、福祉、医療、宿泊、飲食、小売では利害も異なり、自治体の外にある会社で働きながら地域内で生活している住民まで含めれば、「地域経済の声」は一つではない。

 それでも行政が地域経済について意見を聞こうとしたとき、地域内の事業者一人ひとりに同じ時間をかけて聞き取りをすることは現実的ではない。そこで、すでに組織があり、代表者がいて、連絡先が明確で、ある程度まとまった意見を伝えることのできる商工会が窓口になりやすい。

 ここには、地方社会を考えるうえで重要な仕組みが隠れている。発言力とは、必ずしも誰かが強引に奪い取ったものではなく、「意見を集約できる組織がある」という事実そのものから生まれることがあるのである。

観光協会が「観光の声」になるまで

 観光協会の場合は、さらに事情が複雑である。全国の観光協会が同じ法律、同じ法人形態、同じ財源、同じ役割で運営されているわけではなく、行政との距離も地域によって異なる。また、観光協会の中にはDMO(Destination Management/Marketing Organization・観光地域づくり法人)として登録され、単なる観光宣伝だけではなく、データ分析、観光戦略の策定、関係事業者との調整など、地域全体の観光経営に関与する団体もあるが、すべての観光協会がDMOであるわけではない。

 この違いを無視すると、「観光協会」という同じ名称の組織が全国で同じ影響力を持っているかのような誤解が生まれる。実際には、行政からの委託や補助、会員構成、観光産業の規模、地域内での歴史などによって、その位置は大きく違うだろう。

 それでも観光協会が行政の重要な相談相手になりやすい理由は理解できる。宿泊施設、飲食店、観光施設、交通事業者など、観光に関わる多くの主体と接点を持っていれば、行政が一軒ずつ事情を聞くより効率的だからである。

 ところが、この便利な窓口が長く使われ続けると、「観光関係者の意見」と「地域全体としての観光に対する意見」がいつの間にか近いものとして扱われる可能性が出てくる。

 たとえば海辺の市や町で、観光客を増やすための大規模な駐車場整備が計画されたとしよう。宿泊施設や飲食店にとっては集客につながるかもしれないが、近隣住民にとっては交通量や騒音が増える可能性があり、観光とは直接関係のない住民から見れば、税金を使う優先順位について別の意見があるかもしれない。

 観光振興という言葉には、売上、雇用、税収、地域ブランド、交流人口など多くの公共的な価値が結びついているため、個々の事業者の利益だったものが「地域全体のための政策」として語られやすい。その転換が合理的な場合もあれば、一部の利害が地域全体の利益として拡張されてしまう場合もある。

 だから重要なのは、「観光協会は地域を支配している」と決めつけることではない。誰の利益が、どのような経路を通って「地域の利益」という言葉に変換されているのかを確かめることである。

自治会の「住民代表」はどこまで住民を代表しているのか

 自治会になると、「代表」という問題はさらに身近になる。

 自治会は自治体そのものではなく、一般に住民によって自主的に組織される地域団体である。一方で、防災、防犯、環境美化、ごみ集積所の管理、地域行事、行政情報の伝達など、行政と住民の間にある多くの仕事を担ってきた。

 行政にとって、自治会が持っている情報は貴重である。道路が傷んでいる、街灯が暗い、一人暮らしの高齢者が増えている、空き家が増えた、祭りの担い手が足りないといった地域の細かな変化は、統計表だけでは簡単に把握できない。しかし自治会長に聞けば、「この辺では最近こうなっている」と具体的な話が出てくることがある。

 この情報機能を考えれば、行政が自治会を地域の窓口として利用すること自体には十分な合理性がある。

 ただし、ここでも「地域事情をよく知っていること」と「住民全体を代表していること」は別である。全国的に自治会加入率の低下や役員の担い手不足が課題とされており、地域によっては住民のかなりの割合が自治会に加入していない。加入していても会合には参加しない人、名前だけ加入している世帯、活動の中心を長年同じ少数の住民が担っている地域もあるだろう。

 この状況で自治会長が「地域住民の意見として」と発言した場合、それが住民全体の意見なのか、自治会加入者の意見なのか、役員会で話し合われた意見なのか、それとも地域事情を熟知した会長個人の判断なのかは、本来区別して考える必要がある。

 しかし現実の会議では、その違いが曖昧なまま「住民代表」という一つの言葉にまとめられることがある。

 ここに、地域政治の見えにくさがある。

問題は「誰が話したか」だけではなく「誰がそこに座っているか」にある

 政治について考えるとき、私たちは会議の中で誰が何を発言し、誰が賛成し、誰が反対したかに注目しやすい。しかし、実際にはその前の段階に重要な選択が存在する。

 誰を会議に呼んだのか、という選択である。

 仮に十人の委員による地域振興の会議が開かれ、市長・町長、学識経験者、商工会、観光協会、自治会、福祉関係者などが参加していたとする。会議の中で全員が自由に意見を述べれば、手続きとしては開かれた議論に見える。

 しかし、その十人が住民全体の縮図になっているとは限らない。

 子育て中の住民、若年層、最近移住してきた人、自治会に入っていない人、商工会に加入していない事業者、自治体の外へ通勤する住民、地域活動にはほとんど参加しないがそこで暮らし税を負担している住民は、どの席に座っているのだろうか。

 もちろん、すべての住民を一つの会議に集めることなどできない。だから代表者を選ぶこと自体は避けられない。しかし代表者を選ぶ以上、「誰を代表者として選びやすいか」という仕組みそのものを検討する必要がある。

 地方の見えない権力は、採決の瞬間だけに現れるのではない。ときには、委員名簿を作る段階ですでに輪郭を見せている。

なぜ参加者は住民全体と同じ構成にならないのか

 この問題は感覚だけでなく、統計学的にも考えることができる。

 住民全体から無作為に人を選べば、人数が十分に多くなるにつれて、選ばれた人々の構成は住民全体の構成に近づいていく。しかし地域活動への参加者、団体役員、協議会委員などは通常、住民から完全な無作為抽出によって選ばれているわけではない。

 住民の中には地域活動に積極的な人もいれば、ほとんど参加しない人もいる。仮に住民の20%を積極的参加層、80%をそれ以外の住民とし、積極的参加層が委員候補になる確率を20%、その他の住民を2%と仮定すると、最終的な委員候補の約71%を、人口では20%しかいない積極的参加層が占めることになる。

 これは実際の自治体について測定した数値ではなく、選択の仕組みを理解するための仮想例である。しかし、数学的に示していることは重要である。最初の住民構成に大きな偏りがなくても、「地域活動に参加する」「団体役員になる」「推薦対象になる」「委員に選ばれる」という複数の段階で選ばれる確率に差があれば、最終的に会議へ出てくる人々の構成は住民全体から大きく離れる可能性がある。

 統計学では、このような問題を選択バイアスとして考えることができる。

 つまり、「会議で多く聞こえた意見」が「住民全体で最も多い意見」であるとは限らない。

 十人が強く主張していることと、千人が静かに考えていることのどちらが地域の多数意見なのかは、会議の音量からは分からないのである。

行政が「いつもの人」を呼ぶことには合理性もある

 それでは、行政はなぜ同じ団体や似た人物に繰り返し意見を求めるのだろう。

 ここを「行政と有力者の癒着」とだけ説明すると、現実を単純化しすぎる。

 自治体職員が短期間で新しい政策案を作らなければならないとき、数千人、数万人、あるいはそれ以上の住民すべてに聞き取りを行うことはできない。誰に連絡すればよいのか分かり、会議の日程を調整でき、資料を読んで意見を返し、地域事情も知っている人は、行政にとって非常に扱いやすい情報源になる。

 商工会、観光協会、自治会などが行政の会議に繰り返し登場する背景には、この実務上の効率性がある。

 しかも長期間地域活動を続けている人には、単なる肩書以上の知識が蓄積している可能性もある。どの道路が混むのか、どの地区で高齢化が進んでいるのか、誰に話を通せば地域行事が動くのか、過去の政策がなぜ失敗したのかといった知識は、行政の資料だけを読んでも分からない。

 したがって、「同じ人が何度も会議に出ている」という事実だけでは、それが既得権益なのか、行政運営の効率なのか、蓄積された専門性への評価なのかを判断することはできない。

 地域の発言力を分析するときには、少なくとも「権力」「効率」「専門性」という複数の説明を同時に考える必要がある。

発言力があるから呼ばれるのか、呼ばれるから発言力を持つのか

 さらに難しい問題がある。

 ある人物が多くの行政会議に参加しているとしよう。その人は発言力が強いから会議に呼ばれているのかもしれない。しかし逆に、会議へ何度も参加するうちに行政職員や議員との接点が増え、情報が集まり、別の委員を紹介され、結果として発言力が強くなった可能性もある。

 原因と結果が逆方向にも動くのである。

 発言力があるから会議に呼ばれ、会議に呼ばれることでさらに情報や人脈を得て、次の会議にも呼ばれやすくなる。この循環が長期間続けば、最初にどちらが原因だったのかを後から区別することは難しくなる。

 昨日まで無名だった人物が、肩書を得た瞬間に突然「地域の有力者」になるわけではない。祭り、防災訓練、商工団体、観光イベント、行政委員、地域福祉活動などに十年、二十年と関わり、そのたびに新しい人と知り合い、「この問題ならあの人に聞けば分かる」という評価が少しずつ積み重なっていく。

 地域の発言力とは、選挙のように一度の出来事によって誕生するのではなく、長い時間をかけて形成される社会的な信用でもある。

「人脈が広い人」より「異なる世界をつなぐ人」が強い

 ここで地域の人間関係を、少し数理的に見てみよう。

 人を点、人と人との関係を線として描く考え方をSNA(Social Network Analysis・社会ネットワーク分析)という。この視点に立つと、地域の発言力は単純に「知り合いが多い人ほど強い」とは限らない。

 たとえば百人の知人がいても、その百人がすべて同じ自治会の中だけにいる人と、知人は二十人しかいないものの、行政、商工会、観光業、議会、福祉団体、自治会という異なる集団にそれぞれ接点を持つ人では、情報を仲介する能力が違う。

 社会ネットワーク分析では、単純なつながりの数だけでなく、他の集団と他の集団の間に位置して情報や人を仲介できるかという中心性も重要になる。

 地域で本当に影響力を持つ人を探すなら、名刺に書かれた肩書だけを見るより、その人が異なる組織の間をどのようにつないでいるかを見る方が実態に近い場合がある。

 行政にも話ができ、商工会にも顔が利き、観光関係者とも付き合いがあり、自治会の事情も知っている人がいれば、その人物は正式な権限を持っていなくても、情報の交差点になり得る。

 権力とは、「命令できること」だけではない。「誰と誰をつなげられるか」という位置から生まれることもあるのである。

情報を知る時期にも差が生まれる

 地域の発言力を考えるうえで、もう一つ見落とせないものが情報である。

 行政が新しい政策を正式に発表した日だけを見れば、すべての住民が同じ日に情報を得たように見える。しかし政策が正式な形になるまでには、担当部署による情報収集、関係団体への聞き取り、事業者との意見交換、庁内調整などが行われることがある。

 日常的に行政との接点を持つ団体は、こうした政策形成の比較的早い段階から情報や意見交換に接する機会を持つ場合がある。

 これは秘密情報を得ているという意味ではない。政策を作るためには、関係する団体や専門家へ事前に事情を聞かなければならないことも多い。しかし、正式発表を見て初めて問題を知る住民と、それ以前から行政との意見交換に関わっている人では、政策を考える時間や準備できる情報量に差が生まれる可能性がある。

 そのため、地域の発言力を考えるなら、「誰が最終的に発言したか」だけではなく、「誰がどの段階から政策形成に参加していたか」を見る必要がある。

声の大きい人より、声を届ける回路を持つ人

 地方政治について語るとき、「声の大きい人の意見ばかり通る」という表現が使われることがある。しかし、実際にはもう少し複雑だろう。

 一人の住民が行政へ電話して観光政策について意見を述べれば、それは個人の意見として受け止められるだろう。一方、観光協会が正式に意見を提出すれば、行政はそれを観光関係者の意見として捉える可能性があり、商工会からの要望であれば地域事業者の意見、自治会連合組織からの要望であれば一定の地域住民を背景に持つ意見として受け止めることがあり得る。

 同じ内容でも、個人として発言するのか、一定の構成員を持つ団体として発言するのかによって、その意見がどの範囲を代表するものとして認識されるかは変わり得る。

 ここで強いのは、人間の声量ではない。

 意見を行政へ届けるための安定した回路を持っていることである。

地域団体をなくせば民主的になるわけではない

 ここまで読むと、商工会や観光協会、自治会の力を小さくすれば、より民主的な地域社会になるように思えるかもしれない。

 しかし、それも単純ではない。

 これらの団体がなければ、行政は地域の細かな事情を知るために別の方法を用意しなければならず、行政と住民の距離がかえって広がる可能性もある。災害時の連絡、防犯、地域福祉、商業政策、観光政策などでは、地域内のネットワークを持った団体が存在すること自体に大きな公共的価値がある。

 したがって、問題は商工会、観光協会、自治会が意見を述べることではない。

 その意見が「誰の意見なのか」を曖昧にしないことである。

 商工会の意見なら、その商工会が代表できる範囲の意見であり、観光協会の意見なら、その組織が把握している観光関係者を中心とした意見である。自治会の意見も、その自治会が接触できる住民や地域活動の中から形成された意見であり、必ずしも自治体住民全体の統計的な縮図ではない。

 どの組織の意見も重要である。

 しかし、どの組織の意見も地域社会そのものではない。

 複数の部分的な声を集め、それぞれが誰を代表しているのかを確認しながら政策を作るのであれば、地域団体は民主主義を支える重要な装置になる。反対に、一つの部分的な意見を「地域の総意」と読み替えた瞬間、そこに含まれない人々が見えなくなる。

本当の「地域の声」は、簡単には見つからない

 では、どうすれば本当の住民意見を知ることができるのだろう。

 残念ながら、一つの方法だけで完全に把握することは難しい。

 自治会から聞けば地域活動に参加する人の声を詳しく知ることができ、商工会から聞けば事業者の事情を把握しやすい。観光協会には観光現場の情報が集まり、住民アンケートでは普段会議へ出ない人の意見を拾うことができる。無作為抽出による調査を使えば住民全体に近い構成から意見を得ることも可能になるが、回答率が低ければ別の偏りが生じる。

 つまり「住民の声」とは、どこかに一つの完成品として存在しているものではない。

 異なる方法で集めた声を比較し、その偏りを理解しながら近づいていくしかないのである。

誰が発言力を決めているのか

 最初の問いに戻ろう。

 商工会、観光協会、自治会などの発言力を、いったい誰が決めているのだろう。

 おそらく答えは、「誰か一人ではない」である。

 組織の内部で役員が選ばれ、行政が意見を求め、担当者が委員候補として推薦し、市長・町長が相談し、議員が接触し、地域行事で顔を合わせ、報道機関がコメントを求める。その小さな選択が何年も繰り返されるうちに、「地域のことならこの人に聞けばよい」という社会的な位置が形成されていく。

 そこでは、肩書、人脈、専門知識、情報、信頼、参加実績が互いに絡み合っている。

 だから地域の権力を知ろうとして、市長・町長や議員の名前だけを調べても十分ではない。誰がどの審議会に参加しているのか、同じ人物が複数の団体や委員を兼任しているのか、行政がどの組織に繰り返し意見を求めているのか、どの団体が補助金や委託事業を受けているのか、そして「地域の声」という言葉の後ろに誰がいるのかを追っていく必要がある。

 もし人物を点、所属、委員兼任、行政との接点などを線として描けば、地域社会の人間関係は一つのネットワークとして見ることもできる。そこで重要なのは、単に知り合いが多い人物ではなく、行政、経済、観光、地域団体といった異なる世界を結んでいる人物である可能性がある。

 そうして地域を眺め直すと、選挙結果だけを見ていたときとは別の政治地図が浮かび上がってくる。

 ただし、それをすぐに「癒着」「既得権益」「地方の闇」と呼んでしまえば、かえって本質は見えなくなる。同じネットワークは、あるときには権力として働き、別のときには行政の効率を高め、災害時には住民を助ける連絡網となり、長年蓄積された地域知識を次世代へ伝える装置にもなるからである。

 地方の見えない権力が興味深いのは、秘密の会議で誰かが地域を支配しているからではない。

 むしろ誰も「この人を地域の有力者にしよう」と正式に決めていないのに、長い時間の中で発言力の差が自然に形成されていくところにある。

 そして、その仕組みを作っているのは、会議に出る少数の人だけではない。地域活動には参加せず、委員にもならず、「誰かがやってくれているから」と地域の運営を任せてきた多数の住民も、その構造の外側にいるのではなく、沈黙という形でその構造の一部になっている。

 地域で本当に強いのは、声の大きな人なのか。肩書のある人なのか。人脈の広い人なのか。それとも、他の誰より長く、その場所に座り続けてきた人なのか。

 その答えを知りたければ、市長室や町長室だけを見るのでは足りない。

 商工会の会議室、観光協会の事務所、自治会館の長机、行政の審議会名簿、そして何気なく繰り返される「この件なら、あの人に聞いてみよう」という一言まで見なければならない。

 地方の政治は、選挙の日だけ動いているわけではないのである。

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 町の政治を知ろうと思えば、まず町役場を見ることになる。町長がいて、議会があり、予算書や条例が公開され、議事録を読めば誰が何を発言したのかも分かる。選挙になれば候補者の名前も得票数も数字として残り、誰が住民から正式な権限を託されたのかはかなり明確である。民主主義とは、権力の所在をできるだけ見えるようにする仕組みでもあるから、ここまでは分かりやすい。

 ところが、一つの町に長く暮らしていると、その制度上の地図だけでは説明しにくい場面に出会うことがある。「この話は、まずあの人に伝えておいた方がいい」「役場に直接話すより、あの人から話してもらった方が伝わりやすい」といった会話である。その「あの人」は町長でも議員でも役場職員でもなく、現在は自治会長ですらないかもしれない。それでも地域の事情に詳しく、さまざまな人とつながり、困り事が起きれば相談を受け、何かを始めようとすれば自然に名前が挙がる。

 こうした人物を、私たちはしばしば「有力者」と呼ぶ。しかし、その言葉から、町長や議員を裏から操る秘密の支配者を想像すると、本質を見誤る。地方政治を考えるうえで面白いのは、正式な権力とは別に、人間関係や信用、情報、仲介によって生じる影響力があり、その二つが重なる場所で町の意思決定が進むことがある、という点なのである。

町長と議会には「決定する権力」がある

 最初にはっきりさせておかなければならないのは、町長や議員の権力が形式だけのものではないということである。地方自治では、首長と議会議員を住民がそれぞれ直接選ぶ二元代表制が採られており、首長は自治体の行政を執行し、議会は条例や予算などについて議決し、行政を監視する役割を担う。道路を整備するにも、公共施設を建てるにも、福祉事業を始めるにも、公費を支出する以上は正式な制度と手続きを通らなければならない。

 したがって、選挙に出ていない人物が電話一本で予算を成立させたり、条例を書き換えたりするわけではない。少なくとも制度上の最終決定権という意味では、町長と議会が中心にいるという理解は変わらない。

 しかし、政治を「最後に誰が決めたか」という一点だけから見ると、その決定が生まれるまでの過程が見えなくなる。町には数え切れないほどの要望や不満や提案が存在するが、そのすべてが役場に届き、そのすべてが議会で議論されるわけではない。ある問題は行政へ伝わり、別の問題は伝わらない。ある要望には役場が早く反応し、別の要望は長く放置される。その違いがどこで生まれるのかを考えると、正式な決定権とは別の種類の力が見えてくる。

 政治学では、誰が最終的に決定したかだけでなく、「そもそも何を政治的な問題として取り上げるのか」を左右する力が重要だと考えられてきた。これを議題設定力と呼ぶなら、町長や議会が「決める力」を持っている一方で、町のさまざまな人々は「何を決める問題にするのか」に影響することがある。

 表に現れる政治は採決の瞬間だが、そのずっと前から政治は始まっている。

「有力者」という肩書はどこにもない

 面白いことに、「有力者」という正式な役職は存在しない。選挙管理委員会が認定するわけでもなく、辞令も任期もなければ、町役場の組織図にも載らない。それでも、ある地域では「この人は顔が広い」「この問題ならこの人に聞けば分かる」と認識されている人物がいる。

 その影響力を単純に財産や家柄だけで説明するのは難しい。もちろん、地域によっては地主、大きな事業者、旧家などが歴史的に強い発言力を持ってきた場合もあるだろう。しかし、現代の地域社会で人を動かす力を考えるなら、より重要なのは、その人がどれだけ多くの人や組織の間をつないでいるかである。

 長年商売をしてきた人なら、多くの住民を客として知っているかもしれない。自治会、商工団体、祭礼、防災活動、学校関係などに長く関わってきた人なら、役場職員、地域団体、事業者、住民のそれぞれと接点を持っている可能性がある。冠婚葬祭や地域行事を通じて人間関係を蓄積し、「この問題なら誰に相談すればよいか」を知っている人もいる。

 こうした力は、社会学では人間関係そのものを一種の資源として考えることができる。政治的な有力者や組織とのつながりを「関係的資源」として捉える研究もあり、影響力は個人の能力や財産だけでなく、誰と誰につながっているかによって生まれることがある。

 人口統計にも資産台帳にも、この種類の力は簡単には表れない。しかし、地域社会では「あの人を通せば話が早い」という信用が積み重なり、結果として人と人の間に立つ人物へ相談や情報が集まっていく。

 命令するから強いのではない。人が集まるから強くなるのである。

「人間関係が集中する場所」に立つ人

 社会ネットワークの考え方を使うと、この現象はさらに分かりやすい。人間関係を点と線で描いたとすれば、全員が同じ位置にいるわけではなく、異なる集団の間をつないでいる人物が現れる。商店街の人々とも付き合いがあり、自治会とも関係があり、行政とも話ができ、移住者のグループとも接点を持つ人物がいれば、その人を経由して多くの情報が行き来することになる。

 社会ネットワーク分析には、異なる人や集団の間にどれほど位置しているかを見る「媒介中心性」という考え方がある。現実の町の有力者をそのまま数式で決められるわけではないが、「有力者とは人間関係が集中した場所にいる人物である」という見方には、一定の理論的な裏付けがある。

 この視点に立つと、町の有力者は必ずしも一人ではないことにも気づく。商業について影響力を持つ人物と、福祉に詳しい人物は違うかもしれない。祭りでは中心人物でも、行政政策についてはほとんど発言力を持たない人もいる。ある地区では頼られている人物が、隣の地区ではほとんど知られていないこともある。

 つまり「この町を動かしている人は誰か」という問いそのものが、少し乱暴なのである。より正確には、「どの問題について、誰が誰をつなぐ位置にいるのか」と考えた方がよい。

小さな町だから有力者が生まれる、とは限らない

 地方政治を論じるとき、「人口の少ない町では有力者が強く、大都市ではそうではない」と単純化するのも危険である。大都市にも企業、業界団体、地域団体、専門職、メディアなど、政治や行政へ影響を与える多くの主体が存在する。

 ただし、人口規模の小さな地域や、人の移動が比較的少ない地域では、一人の人間を複数の関係で知ることが起こりやすい。取引先だった人物が自治会でも一緒になり、子どもの学校でも顔を合わせ、祭礼では同じ実行委員になり、選挙になれば候補者とも知り合いだった、という関係である。

 ここで重要なのは、人口の少なさそのものよりも、人間関係がどれほど重なっているかである。人口が少なくても住民の入れ替わりが激しく、地域組織への参加が少なければ、人間関係は必ずしも密にならない。一方、人口規模が比較的大きくても、長期間同じ地域で生活し、複数の地域組織へ参加する人が多ければ、関係は重なりやすい。

 したがって、「人口が少ないから有力者が生まれる」という一本道の説明より、地域の歴史、人口移動、産業構造、住宅所有、地域組織への参加、世代構成などが重なった結果として、特定の人物や団体へ人間関係が集中する場合がある、と考える方が現実に近い。

行政にとっても「話の分かる人」は便利である

 ここから問題は少し複雑になる。

 役場が地域住民一人一人と日常的に話をすることは現実には難しい。住民の考えは一様ではなく、行政職員の時間にも限りがあるため、防災、環境美化、地域行事、福祉、広報などを進めるとき、自治会や地域団体を通して住民へ情報を伝えたり、地域側から事情を聞いたりする場面が生まれる。

 日本の自治会や町内会は、単なる親睦団体ではなく、地域によって程度の差はあるものの、行政と住民との接点として機能してきた。災害時に地域の事情を知っている人がいること、高齢者や困窮世帯について行政だけでは把握しきれない情報を地域側が持っていること、行政が新しい施策を説明するときに住民との橋渡しをする人がいることには、現実的な利点がある。

 したがって、行政が地域事情に詳しい人物や団体と継続的な関係を持つこと自体を、直ちに癒着や古い地方政治と決めつけることはできない。制度だけでは拾えない情報を、人間関係が補完している面があるからである。

 しかし、便利な仕組みほど固定化したときに問題が生まれる。

「住民の声」は、誰の声なのか

 ある地区について行政が意見を聞きたいとする。そこで、長年その地区で活動している自治会役員や地域団体の代表へ相談する。相手は地域事情に詳しく、多くの住民を知っているから、行政にとっては合理的な方法である。

 ところが、その人物の意見が、いつの間にか「地域の意見」に変わったとき、問題が生じる。

 百人が暮らしている地区で、一人の人物が「この地域ではみんなそう思っています」と話しても、科学的に見れば、それだけで百人全員の意見を代表しているとはいえない。本人が意図的に話を誇張しているとは限らず、自分の周囲で日常的に接している人々の意見を、そのまま地域全体の意見だと認識している可能性もある。

 ここには、統計学でいう選択バイアスに似た問題がある。地域活動に積極的に参加する人だけから意見を聞けば、得られるのは「地域活動に参加する人々の意見」であって、「住民全体の意見」と一致するとは限らないからである。

 高齢者には高齢者の人間関係があり、商店主には商店主の世界があり、昔から住んでいる人には昔からの住民同士のネットワークがある。その一方で、移住してきたばかりの人、自治会へ加入していない人、仕事で昼間町にいない人、地域活動へ参加する時間のない子育て世帯、そもそも政治や地域活動について発言しない人もいる。

 行政が効率よく住民の意見を知ろうと代表者を立てるほど、その代表者につながっていない住民の声が見えにくくなる可能性がある。この矛盾は、地域民主主義を考えるうえでかなり重要である。

本当に影響力のある人は、よく発言する人とは限らない

 権力を観察するとき、私たちは目立つ人物を見てしまう。会議で長く発言する人、行政へ何度も要望する人、議員へ頻繁に相談する人は分かりやすい。しかし、影響力は必ずしも発言回数と同じではない。

 本人が何も言っていなくても、「この案について、あの人はどう思うだろう」と周囲が気にしているなら、そこにはすでに影響力が存在する。

 これは政治権力を考えるうえで興味深い現象である。誰かに命令された後で行動を変えるだけが権力ではなく、相手の反応をあらかじめ予想して、自分から行動を変えることもあるからだ。

 例えば、地域で何か新しい事業を始める人が「まず○○さんへ挨拶しておこう」と考え、地域行事を変えようとする人が「先に○○さんへ説明した方がいい」と考え、行政側まで「この件は地域の○○さんへ事前に話した方がよい」と判断するようになれば、その人物は正式な決定者ではなくても、意思決定過程の一つの通過点になっている。

 しかし、この種類の影響力は記録に残りにくい。町長が予算案を提出すれば公文書に残り、議員が質問すれば議事録に残り、選挙なら得票数も記録されるが、「先にあの人へ相談しておこう」と考えたことは通常どこにも記録されない。

 地域の「見えない権力」が見えにくいのは、それが秘密裏に行使されているからとは限らない。日常の判断や人間関係の中に溶け込んでいるため、制度の記録だけでは観察しにくいのである。

有力者がいることと、民主主義が壊れていることは同じではない

 ここまで読めば、有力者という存在そのものが民主主義に反するように見えるかもしれない。しかし、人間社会から非公式な影響力を完全になくすことはできないし、なくすべきだとも限らない。

 長年地域活動を続けてきた人が信頼され、地域事情について詳しい人の意見に重みが生まれるのは自然なことである。経験を積んだ人と、昨日その町へ来た人とでは、地域について持っている情報量が同じとは限らない。災害、防災、福祉、土地利用などでは、長年の経験が実際に役立つこともある。

 問題は、影響力の存在そのものではなく、その影響力へ他の人が挑戦できなくなったときに生じる。

 行政が何年も同じ人物だけを地域の窓口として扱い、地域団体でも同じ人々だけが意思決定に参加し、新しく入ってきた住民が意見を述べる経路がほとんどない状態になれば、地域社会の経験を生かす仕組みは、少しずつ閉鎖的な仕組みに変わっていく。

 さらに、「政策に反対すること」と「地域に協力しないこと」が同じ意味で受け取られるようになれば、本来は別であるはずの人間関係と政策判断が混ざり始める。

 異論を述べれば人間関係まで悪くなると感じる社会では、人は発言する前に自分で言葉を飲み込むようになる。そのとき政治は、議会の採決よりずっと前の段階ですでに狭くなっている。

 民主主義に必要なのは、すべての人が同じ影響力を持つことではない。強い意見を持つ人にも異論を唱えられ、従来とは違う人が新しい担い手になれ、これまで地域活動に関わってこなかった人にも参加する入口が開かれていることの方が重要である。

移住者から見ると、町には二つの地図がある

 地方へ移住した人が戸惑う理由の一つも、この正式な制度と非公式な人間関係の違いにあるのかもしれない。

 町役場のホームページを見れば、町長の名前も議員の名前も分かり、役場の組織図も委員会の構成も確認できる。しかし実際に生活を始めると、それとは別の地図が存在していることに気づく。

 誰と誰が昔から付き合いがあるのか、地域行事を実際に動かしているのは誰なのか、商工関係なら誰が詳しいのか、防災なら誰に聞けばよいのか、行政と地域の両方を知っているのは誰なのかといった情報は、公式サイトにはほとんど掲載されていない。

 昔から住んでいる人には当然の知識でも、新しく来た人には見えない。

 この情報格差が「地方は閉鎖的だ」という感覚を生むことがある。ただし、すべてを排他性だけで説明するのも正確ではない。長年かけて形成された信用のネットワークに、新しく来た人がまだつながっていないだけの場合もあるからである。

 それでも、公共的な意思決定に関わる部分については、「時間がたてば分かる」で済ませない方がよい。誰が参加できるのか、地域団体の代表はどのように選ばれるのか、行政へ意見を伝える方法は何通りあるのかを見えるようにすることは、古くからの住民と新しく来た住民の双方にとって利益になる。

 伝統を残すことと、入口を閉じることは同じではない。

昔ながらの「有力者」を支えた環境は変わりつつある

 もう一つ注意すべきなのは、地域の影響力の構造が固定されたものではないということである。

 自治会や町内会の加入率は長期的に低下傾向を示す地域があり、人口移動の増加、職業構造の変化、生活時間の多様化などによって、かつてのように多くの住民が同じ地域団体へ参加することが難しくなっている。また、政治家や行政自身がインターネットを通じて住民へ直接情報を届けるようになり、地域の中間的な人物を経由しなくても意見や情報を交換できる場面が増えている。

 ただし、これを根拠に「昔の有力者は消えた」と結論づけることはできない。地域団体への参加が減れば、人間関係の中心人物の影響力も必ず弱くなるとは限らず、逆に参加者が減った結果として、少数の担い手へ仕事や情報が集中する可能性もある。

 したがって、より慎重にいえば、昔ながらの有力者を支えてきた社会環境が変化し、それに伴って地域の影響力の形も変わりつつある、と考えるのが妥当だろう。

 さらに現在では、地域内で百人とつながっている人物だけでなく、インターネット上で地域内外の何千人へ情報を届ける人物も現れる。顔の見える人間関係を束ねる従来型の影響力と、画面を通して人々の認識を変える新しい影響力が、同じ地域の中で並存する時代になっている。

 前者には地域事情を深く知っている強みがあり、同時に人間関係が閉じやすいという弱点がある。後者には従来の地域組織につながっていない人の声を可視化できる可能性がある一方、地域外の人々まで巻き込んだ感情的な議論が急速に広がる危険もある。

 地方政治の「見えない影響力」は、なくなったというより、その姿が変わっていると考えた方がよさそうである。

「有力者」を科学的に見ることはできるのか

 では、町の有力者を感覚ではなく、もう少し客観的に捉えることはできるだろうか。

 単に「町で有名な人は誰ですか」と尋ねるだけでは不十分である。誰かが有力者だと評判になっていることと、その人が実際の意思決定に影響していることは同じではないからだ。

 むしろ、行政や議員、地域団体との接触がどの程度あるのか、異なる組織をどれほど結びつけているのか、地域の人々から相談を受ける頻度はどの程度か、地域の問題を行政へ伝える役割をどれだけ果たしているのか、その問題が実際に行政や議会で取り上げられたのか、といった行動を見る必要がある。

 こうして考えると、「有力者」という曖昧な言葉は、少しずつ分析可能な対象へ変わっていく。

 面白いのは、そこまで調べた結果、町の人々が「一番の有力者」と考えていた人物が、実際には政策過程でそれほど大きな役割を果たしていない可能性もあることである。逆に、目立った肩書もなく、会議でほとんど発言しない人物が、異なる集団をつなぐことで重要な役割を果たしていることも考えられる。

 権力を科学的に見るということは、「黒幕」を探すことではない。人と情報と意思決定が、どのような経路を通っているのかを確かめることである。

町の権力を見るなら、「誰が決めたか」の一歩前を見る

 地域政治の記事では、議会で誰が賛成し、誰が反対したのかを追うことが多い。それはもちろん重要である。しかし、その一歩前へ戻って、「なぜこの問題が議会で扱われることになったのか」を考えると、違う町の姿が見えてくる。

 その問題を最初に役場へ伝えたのは誰だったのか、行政は地域事情を誰から聞いたのか、議員へ相談した人は誰だったのか、賛成する人だけでなく反対する人にも発言する機会があったのか、そして、そもそも声を上げなかった多数の住民はどう考えていたのか。

 こうした問いを重ねていくと、町の政治は町長と議員だけによってできているわけでも、特定の「有力者」がすべてを動かしているわけでもないことが分かってくる。

 むしろ、その中間にある。

 商業について人をつなぐ人がいて、福祉について詳しい人がいて、自治会で人をまとめる人がいて、行政との橋渡しをする人がいる。同じ人物が複数の役割を持つ場合もあれば、それぞれ異なる人物が担っている場合もある。

 町の影響力は、一人の人物が所有するものというより、人と人の関係の中を移動するものとして見た方が理解しやすい。

選挙に出ない人々のところから、政治が始まることがある

 選挙の日、住民は町長と議員を選び、その結果によって正式な権限を持つ人物が決まる。この仕組みが地方民主主義の中心であることは変わらない。

 しかし町の政治は、選挙の日だけに存在しているわけではない。地域の困り事を聞く人がいて、それを誰かへ伝える人がいる。行政と住民の間をつなぐ人がいて、地域行事を何十年も支えてきた人がいる。誰かの相談に応じ続けた結果、本人が望んだわけでもないのに、多くの情報と信用が集まる人物もいる。

 そこには善意も利害もあり、献身も自己利益もあるだろう。長年の経験が地域を助けることもあれば、古い人間関係が新しい考えを入りにくくすることもある。

 それらをすべて「利権」と呼べば現実を単純化しすぎるし、反対にすべてを「地域の絆」と呼べば問題を見落とす。

 地方政治の興味深さは、その中間にある。

 役場の組織図には名前がなく、選挙公報にも載っていない。それでも、ある問題が起きると自然に相談が集まる人物がいるなら、「この人が町を支配している」と考えるのではなく、まず「なぜこの人のところに人と情報が集まるのだろう」と考えてみる。

 そこには、その町が長い時間をかけてつくってきた信用、人間関係、産業、歴史、人口移動、地域組織のあり方が凝縮されている。

 町で本当に影響力を持っているのは町長なのか、議員なのか、それとも選挙に出ない有力者なのかという問いに、一人の名前で答えることはできない。

 町長と議会には、制度によって与えられた「決定する権力」がある。その外側には、人をつなぎ、情報を運び、問題を行政へ伝え、ときには何を政治的な議題にするのかに影響する力がある。そして、現実の地域政治は、おそらくその二つが交わる場所で動いている。

 だから議会で何かが決まったとき、採決結果だけを見るのではなく、ほんの少し時間を巻き戻してみるとよい。

 「この話は、最初に誰のところから始まったのだろう」。

 その問いを持った瞬間、選挙結果や役場の組織図だけでは見えなかった、もう一つの町の政治が姿を現し始める。

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 選挙の日が来たのに、選挙がない。候補者のポスターが町を埋めることも、選挙カーの声が朝の静けさを破ることもなく、それでも告示の日が過ぎれば議員や首長が決まっている。無投票当選とは、候補者数が定数を超えなかったため投票を行わずに当選者が決まる制度上まったく合法的な仕組みであり、それ自体を直ちに民主主義の異常と呼ぶことはできない。しかし、その静けさが一度だけではなく、各地で繰り返されるようになったとき、その背後には人口減少時代の地方自治が抱える構造的な変化が見えてくる。

 本稿では、首長選挙や都道府県議会議員選挙でも発生する無投票のすべてを一括して論じるのではなく、なり手不足の問題がとりわけ鮮明に表れている町村議会議員選挙を中心に考えていく。選挙の種類が違えば無投票になる理由も完全には同じではなく、たとえば首長選挙では現職の強さや政党・地域勢力の関係などが大きく作用するため、「地方選挙の無投票には一つの原因がある」と考えること自体が適切ではないからである。

町村議会では、無投票はすでに珍しい出来事ではない

 全国町村議会議長会の集計を見ると、町村議会議員の一般選挙で無投票となった町村の割合は、2011年5月から2015年4月までの20.4%から、2015年5月から2019年4月には21.9%、2019年5月から2023年4月には27.4%へと上昇している。さらに2023年の統一地方選挙だけを見ると、町村議会議員選挙が行われた373町村のうち123町村、33.0%が無投票となった。

 さらに重要なのは、実際に無投票となった自治体だけを見ても候補者不足の全体像は分からないことである。2019年5月から2023年4月までの町村議会議員選挙では、無投票となった町村に、候補者数が定数をわずか1人だけ上回った町村まで加えると全体の59.7%に達しており、これは町村議会の約6割が「候補者があと一人少なければ無投票」という境界付近にあったことを意味する。無投票選挙は、もはやごく一部の山間部や離島だけで起きる例外的な現象ではなく、地方議会の候補者供給そのものが細くなっていることを示す現象として考える必要がある。

人口が少ない自治体ほど無投票になりやすいのは確かである

 最初に思い浮かぶ原因は人口減少だろう。住民が少なくなれば議員になろうとする人の母数も小さくなるため、小規模自治体ほど無投票になりやすいという説明には直感的な説得力があり、実際の統計もその傾向をかなり明瞭に示している。

 2017年5月から2021年4月までの市町村議会議員選挙を分析した研究では、無投票となった252選挙のうち241選挙、95.6%が「選挙人5万人以下、当選者20人以下」という比較的小規模な範囲に入っていた。また、無投票自治体の選挙人平均は約1万2900人だったのに対し、投票が行われた自治体では約5万4200人となっており、自治体規模と無投票との間には明瞭な関連が確認できる。

 ただし、ここで「人口が少なければ無投票になる」と単純化してしまうと、現象のかなり重要な部分を見落としてしまう。同じ研究では自治体の面積そのものには極端な差がみられなかった一方、1平方キロメートル当たりの選挙人数は、無投票自治体で約69人、投票が行われた自治体では約253人と大きく異なっていた。つまり、人口の総数だけでなく、人がどの程度まとまって暮らしているかという人口密度も無投票と関連しているのである。

 もっとも、この数字から「人口密度が低いことが無投票を引き起こす」と因果関係まで断定することはできない。人口密度の高い自治体では企業や商店、学校、地域組織、政党活動、職業構成なども同時に異なるため、人口密度だけの効果を切り離すことは難しいからである。統計が確実に示しているのは、小規模で人口密度の低い自治体ほど無投票が多いという相関であって、その背後にどのような社会構造が介在しているかは、さらに考える必要がある。

同じ5000人の町でも、候補者を生み出す力は同じではない

 人口5000人の町を二つ想像してみよう。一方には駅があり、その周囲に住宅、商店、学校、診療所、事業所が集まり、多様な職業や世代の住民が日常的に交わっている。もう一方では広い山間部に小さな集落が点在し、若い世代の多くが町外へ通勤し、地域組織の担い手も高齢化している。同じ人口5000人であっても、この二つの町から新しい議員候補が生まれる可能性まで同じだと考える理由はない。

 選挙とは、住民の頭数から一定割合で候補者が発生する仕組みではなく、政治に関心を持つ人が存在し、その人が立候補を現実的な選択肢だと考え、仕事や家族生活との調整ができ、周囲から一定の支援を受け、選挙に必要な時間と費用を負担できて初めて候補者が一人誕生する制度である。この過程のどこか一つでも大きな障壁が生じれば、人口が存在していても候補者は出てこない。

減っているのは「議員になれる年齢の人」だけではない

 町村議会の変化を見るうえでは、人口減少とともに年齢構成にも注意する必要がある。全国町村議会議長会の調査では、町村議会議員の平均年齢は2015年の62.7歳から2019年には63.9歳、2023年には64.4歳へ上昇している。また、在職20年以上の議員割合も12.3%から15.3%、16.2%へ増加している。

 一方、在職4年未満の議員割合は2015年の26.3%から2019年には24.9%へ低下し、2023年には25.9%までやや回復したものの、2015年をなお下回っている。このため「新人議員が一貫して減り続けている」と表現するのは正確ではないが、長期在職者の比率が高まり、議会構成の高齢化が進んでいることは確かであり、新しい世代への交代が十分に進んでいるとは言いにくい。

 問題は単なる年齢ではなく、現役世代が地方議員という仕事を選択できる生活条件を持っているかどうかである。若い人が町に残っていても、住宅ローンを抱え、子どもを育て、会社員としてフルタイムで勤務しているなら、地方議員への立候補は容易ではない。したがって候補者不足を考えるとき、本当に見るべきなのは「25歳以上の住民が何人いるか」ではなく、「現実に立候補できる生活条件を持つ人が何人いるか」なのである。

月額約22万円の議員報酬をどう見るか

 町村議会議員の報酬の低さも、なり手不足を考えるうえで無視できない。全国町村議会議長会の2025年調査では、町村議会議員の平均月額報酬は約22万3000円であり、人口5000人未満の町村では平均約19万2000円にとどまっている。

 もちろん、議員報酬が低いという事実だけで無投票が発生するわけではなく、報酬を上げれば候補者不足が自動的に解消するとも限らない。しかし、地方議員の仕事には本会議への出席だけでなく、委員会、行政資料の調査、住民相談、地域行事、政策研究などが伴うため、十分な生活収入を得られる専業職とは言いにくい一方、副業として簡単にこなせるほど軽い仕事でもないという矛盾が生じる。

 この条件は、とりわけ会社員に重くのしかかる。勤務先に兼業制度や休職制度がなければ立候補を機に退職せざるを得ない場合があり、しかも選挙に当選する保証はなく、当選しても4年後に再選できる保証はない。そのため、40代や50代の会社員が「地域のために働いてみたい」と考えても、その意欲だけでは越えられない経済的な壁が存在する。

 地方議会のなり手不足とは、政治に関心のある人がいない問題というより、政治に関心があっても職業生活を維持したまま参加することが難しい問題として捉えた方が実態に近い。

小さな町ほど、立候補は本人だけの問題ではなくなる

 小規模地域では住民同士の関係が密接であり、それは災害時の助け合いや高齢者の見守りでは大きな長所となるが、選挙では必ずしも政治参加を促進する方向だけに作用するとは限らない。

 全国町村議会議長会が行った現地調査では、小規模な町村では候補者本人だけでなく家族や親族まで地域から注目されるため、家族の反対によって立候補を断念した事例や、地域の推薦を受けていない移住者が立候補を考えた際に周囲から難色を示された事例などが報告されている。また、一部地域には、自ら立候補することを「出過ぎた行為」と捉える文化的な感覚が残っているとの指摘もある。

 ただし、これらは全国すべての小規模自治体に共通することを統計的に証明した結果ではなく、現地調査や聞き取りから得られた事例であることには注意が必要である。それでも、立候補が匿名性の高い都市部とは違って本人の政治的決断だけでは完結せず、家族や地域の人間関係を巻き込む場合があるという指摘は、候補者不足を人口統計だけでは説明できない理由の一つになる。

 ここには地方政治の難しい逆説がある。地域とのつながりが強い人ほど議員に向いているように見える一方、その人ほど立候補によって失う可能性のある人間関係も多い。商売をしていれば顧客との関係を考え、会社員なら勤務先を考え、家族は近所付き合いを考えるため、政治参加によって生じる社会的な費用が大きくなれば、「そこまでして議員にならなくてもよい」と判断することも個人にとっては合理的なのである。

候補者だけでなく、候補者を「担ぐ人」も減っている

 地方選挙では、候補者本人がある日突然政治家を志し、すべてを一人で準備して立候補するとは限らない。かつては自治会、商工団体、農業関係者、地域の世話役などが候補者を探し、「次はあの人に出てもらおう」と本人を説得し、選挙運動を支えることも珍しくなかった。候補者の背後には、候補者を発見し、支援し、政治へ送り込む地域社会の仕組みが存在していたのである。

 ところが人口減少と高齢化は、候補者になる世代だけでなく、その「担ぎ手」となってきた地域組織の側にも及んでいる。全国町村議会議長会の調査でも、従来の選挙を支えた組織や担ぎ手が弱まり、初めて立候補する人が選挙手続きや人員確保、資金準備などを自ら行わなければならない状況が指摘されている。

 もっとも、自治会や商工会などの縮小が候補者数をどの程度減らすのかを全国的な統計から数量的に示した研究は十分ではないため、「地域組織が弱くなったから無投票が増えた」と直接的な因果関係を断定することはできない。それでも、政治参加には候補者本人だけでなく候補者を発掘し支援する社会的な基盤が必要だという考え方には十分な合理性がある。

 人口減少から無投票へ至る経路は、「人口が1割減れば候補者も1割減る」という単純なものではないのかもしれない。人口が減ることで若年層が減り、事業所や商店が減り、地域組織が弱まり、候補者を探す人も支援する人も少なくなり、その長い連鎖の最後に候補者不足が数字となって表れると考える方が、地方社会の実態には近い。

定数を減らせば解決するという単純な話でもない

 候補者が少ないのであれば議員定数を減らせばよいという考え方も、一見すると合理的である。定数12人に候補者が12人しかいないため無投票になるのであれば、定数を10人に減らせば候補者12人で選挙が成立するからである。

 しかし、定数削減には別の作用もある。議席が少なくなれば一人の候補者が当選するために必要な支持は相対的に大きくなり、既存の支持基盤を持たない新人にとって参入障壁が高くなる可能性がある。町村議会を対象とした研究でも、低い議員報酬だけでなく少ない議員定数と無投票との関連が指摘されている。

 もちろん、定数を減らせば必ず候補者がさらに減るという意味ではなく、短期的には候補者数と定数との差が広がり、無投票を回避できる自治体もあるだろう。しかし、無投票を解消することだけを目的として定数を減らし続ければ、形式上は選挙が成立していても、新しい人が政治へ参入するための入口まで狭くしてしまう可能性がある。

無投票になりやすい自治体にあるのは、一つの原因ではなく「条件の重なり」ではないか

 ここまでを整理すると、無投票選挙が増える自治体の特徴を一つの数字だけで説明することは難しいことが分かる。統計的にかなり確実なのは、小規模で人口密度の低い自治体ほど無投票が発生しやすいということであり、その背景には高齢化、議員報酬の低さ、会社員が立候補する際の職業上のリスク、地域組織の担い手不足、新人が参入する際の障壁など、複数の条件が重なっている可能性がある。

 したがって、「人口5000人以下なら無投票になる」といった明確な境界線を設定することはできない。同じ5000人の町でも人口密度、産業構造、通勤形態、議員報酬、議員定数、地域組織、移住者の割合、地域社会の開放性などが違えば候補者供給の条件も異なるからである。

 科学的に重要なのは、ここで相関と因果を混同しないことである。小規模自治体ほど無投票になりやすいことはかなり強いデータで確認できるが、「人口が少ないから無投票になる」という単独の因果関係が証明されているわけではない。むしろ自治体が小規模になるにつれて、候補者を生み出す社会的・経済的条件が複数同時に厳しくなると考える方が、現在確認できる研究には整合的である。

本当に問題なのは「選べない状態」が続くことである

 無投票選挙については、選挙費用がかからず、地域内で候補者への合意が形成されているのであれば合理的ではないかという考え方もできる。実際、一度無投票になったという事実だけから、その自治体の民主主義が機能していないと断定することはできない。

 しかし、無投票が何度も繰り返される場合には別の問題が生じる。選挙がなければ候補者同士の政策比較は行われず、住民は複数の選択肢から地域の将来像を選ぶ機会を持たない。選挙期間中に本来行われるはずだった政策論争そのものが発生しないため、誰が当選するかという結果だけでなく、地域社会が政治を考える過程そのものが失われることになる。

 競争性の低い選挙と投票率との関連を示す研究は存在するものの、「無投票が続くことで住民の主権者意識が低下し、その結果としてさらに候補者が減る」という因果の連鎖までが全国的なデータによって十分に証明されているわけではない。逆に、もともと政治参加の低い地域だからこそ無投票が起こりやすいという逆方向の因果も考えられる。

 したがって、無投票が住民の政治意識を必ず低下させると断定するよりも、無投票が繰り返されれば、住民が候補者を比較し、政策を選択し、地域の将来について議論する機会が継続的に失われるという事実そのものを問題として捉える方が適切である。

無投票率は「地域の更新能力」を映す指標になり得るか

 ここから先は、現在の研究によって確立された結論ではなく、一つの仮説として考えてみたい。無投票率は、その地域社会が新しい担い手をどれだけ生み出せるかという「地域の更新能力」を見る補助的な指標として使えるのではないだろうか。

 人口減少率や高齢化率は地域の人口構造をよく表すが、それだけでは新しい住民が地域活動へ参加できるのか、若い世代が意思決定に入れるのか、既存組織の外から新しい人が出てこられるのかまでは分からない。もし人口規模や高齢化率がほぼ同じ二つの自治体で、一方では毎回複数の新人候補が現れ、もう一方では何期も無投票が続いているとすれば、その違いには人口統計だけでは捉えられない社会的な条件が存在する可能性がある。

 この仮説を検証するには、自治体ごとの無投票回数と人口減少率、高齢化率、人口密度、議員報酬、定数、産業構造、新人候補割合、移住者割合、地域組織への参加状況などを長期間にわたって比較する必要がある。その研究が十分に行われているわけではない以上、「無投票率が地域衰退を示す」と断定することはできないが、地域社会の政治的な新陳代謝を見る材料として注目する価値はある。

選挙がなくなる前に、何が地域から失われているのか

 無投票選挙の増加を人口減少だけの問題として処理すると、「人口が少ない地域では仕方がない」という結論になりやすい。しかし、実際には同じ規模の自治体であっても選挙になるところと無投票になるところが存在している以上、人口だけでは説明できない何かがある。

 そこには議員という仕事の経済条件、会社員が政治参加するための制度、候補者を支える地域組織、外部から来た住民や若い世代を受け入れる地域社会の開放性、そして議会そのものが住民から魅力ある政治参加の場として見えているかどうかまで、多くの要素が絡んでいる可能性がある。

 選挙とは、誰を選ぶかを決める制度である。しかし、その前にはもっと根本的な条件が存在する。選ばれようとする人が複数いなければ、住民が「選ぶ」という行為そのものが成立しないからである。

 地方自治にとって本当に注意すべき変化は、投票率が50%を切ることだけではないのかもしれない。そのさらに手前で、投票率を計算する選挙そのものが行われなくなっていくことにも目を向ける必要がある。

 人口が静かに減る町では、最初に学校が統合され、商店が閉じ、路線バスが消えるとは限らない。それらの変化と並行して、「次の選挙に出る人がいない」という政治の担い手不足が先に姿を現すこともある。ポスターのない選挙期間は静かであり、住民の日常生活が直ちに変わるわけでもない。しかし、その静けさが4年ごとに繰り返されるようになったとき、私たちは「選挙がなくて困らない」と考えるだけでなく、なぜこの地域から選ばれようとする人が生まれにくくなったのかを問い直す必要がある。

 無投票選挙が発しているのは、「人口が減った」という単純な警報ではない。それは、地域社会が新しい担い手を生み出し、世代を交代させ、異なる意見を政治へ送り込む力が今も残っているのかを問いかける、人口減少時代の地方自治から届く静かな警告なのかもしれない。

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 町の将来を左右する大きな公共事業が持ち上がったとする。議会では賛成派と反対派が議論を続けているが、なかなか結論が出ない。住民説明会では厳しい意見が飛び交い、新聞や地域の情報サイトには「最後は住民に決めさせるべきだ」という声が並び始める。そこで登場するのが住民投票であり、賛成か反対かを一人一票で決めるという方法は、複雑な政治の世界を一瞬で透明にしてくれるように見える。

 政治家でも役所でもなく、住民自身が決める。これほど民主主義らしい制度はないようにも思える。それなら町長や議会が決めている政策をもっと住民投票に移し、重要事項のたびに住民の意思を尋ねれば、地方政治は今より民主的になるのだろうか。

 ところが、住民投票についての研究をたどっていくと、この直感は半分正しく、半分危ういことが分かってくる。住民投票には代表民主制にはない強みがある一方、投票する回数を増やすだけでは民主主義の質は高まらず、場合によっては、有権者が処理しなければならない情報を増やし、少数者を不利にし、政治責任の所在を曖昧にすることさえあるからである。

民主主義は、多数決と同じ言葉ではない

 住民投票を考える前に確かめておかなければならないのは、民主主義と多数決は同じものではないということである。多数決は、多くの人が異なる意見を持つ社会で結論を出すための極めて重要な方法だが、「過半数が賛成した」という事実だけで、その決定が民主主義的に正当化されるわけではない。

 人口一万人の町で、九千人にはほとんど負担がなく、残る千人だけの生活環境を大きく悪化させる政策があったとする。単純な多数決なら九千対千で圧倒的に可決される。しかし、この結果だけを見て「九割の民意なのだから民主的だ」と言い切るなら、民主主義は多数者が少数者を自由に支配する仕組みに変わってしまう。

 近代民主主義が多数決だけでできていないのは、そのためである。表現の自由、基本的人権、少数者の保護、司法による統制、権力分立などは、多数者であっても簡単には越えてはならない線を設ける仕組みである。住民投票を考えるときにも、「何人が賛成したのか」だけでなく、「そもそも多数決に委ねてよい問題なのか」という問いを避けることはできない。

スイスを見ても、「何でも住民が決める」わけではない

 直接民主制の代表例としてしばしば挙げられるのがスイスである。スイスでは2026年にも年四回の投票日が設定され、憲法改正には国民投票が必要であるほか、一定数の署名によって国民側から憲法改正を提案する国民発議や、議会が成立させた法律などを国民投票に持ち込む任意的レファレンダムも存在している。国民発議には18か月以内に10万筆、任意的レファレンダムには100日以内に5万筆の署名が必要であり、直接民主制はスイスの統治制度の中に深く組み込まれている。

 しかし、ここで重要なのは、「住民投票」という一つの言葉の中に性質の違う制度が入っていることである。政府が自ら設定した問題について住民の判断を求める場合と、住民自身が署名を集めて政治課題を持ち込む場合、さらに議会の決定に対して住民が拒否権を行使する場合とでは、同じ投票でも政治的な意味はかなり違う。

 この違いを無視して「直接民主制は良いか悪いか」と問うと、議論は粗くなる。住民が答える権利を持っていても、質問を作る権利を行政だけが持っている制度と、住民自身が質問を政治の場に持ち込める制度とでは、民主主義の構造そのものが違うからである。

本当に大きな権力は、「答える人」より「問いを作る人」が持っている

 例えば老朽化した町役場を50億円かけて建て替える計画があったとしよう。「新庁舎建設に賛成ですか」と尋ねることもできれば、「老朽化し耐震性に問題のある庁舎を建て替えることに賛成ですか」と尋ねることもできる。反対に、「50億円を投じる新庁舎建設に賛成ですか」と問えば、財政負担の印象が前面に出る。

 扱っている政策は同じでも、住民が最初に見る風景は同じではない。投票用紙に書かれた言葉そのものが投票行動へ影響し得ることは実験研究でも示されており、基本的な選挙運動情報が与えられるとその効果が弱まるとの結果もある。つまり質問文の影響は絶対的ではないが、無視してよいほど小さな問題でもない。

 欧州評議会のヴェネツィア委員会が住民投票・国民投票について、質問は明確で理解可能であり、誤解を招かず、特定の答えへ誘導しない中立的なものでなければならないと繰り返し求めているのも、この問題が民主主義の周辺的な技術論ではないからだ。2026年の意見書でも、質問の明確性や中立性を事前に審査する重要性が改めて示されている。

 私たちは住民投票というと、投票箱の前に立つ住民の姿を思い浮かべる。しかし、その人が「賛成」と「反対」のどちらかを選ぶはるか前に、誰かが問題を切り取り、質問を作り、選択肢を並べている。民主主義の公平さは投票箱を置いた日に始まるのではなく、その問いを作り始めた日からすでに試されているのである。

現実の政策は、本当は二つの箱には入らない

 住民投票にはもう一つ避けにくい問題がある。現実の政策の多くは、賛成と反対という二つの箱に収まらない。

 町立病院が毎年3億円の赤字を出しているとして、「病院を存続させることに賛成ですか」と住民へ尋ねれば、投票用紙には賛成と反対しか並ばない。しかし行政が本当に考えなければならないのは、全面存続か廃止かだけではない。病床を減らす、診療科を再編する、近隣自治体と共同運営する、入院機能を縮小して外来中心にする、民間医療機関への支援に切り替えるといった複数の選択肢があり、それぞれ費用と医療アクセスと将来リスクが違う。

 ところが住民投票を成立させるには、その複雑な政策空間を一定の選択肢へ圧縮しなければならない。住民に決定権を渡すという民主的な行為は、同時に、誰かが現実から選択肢を切り出す行為でもある。この意味では、住民投票が直接民主制だからといって、すべての政治権力が住民へ移るわけではない。

「普通の住民には難しい政策を判断できない」のか

 直接民主制への古典的な批判として、「専門知識を持たない住民に複雑な政策を判断できるのか」というものがある。水道事業、病院経営、都市計画、廃棄物処理、公共交通、自治体財政などを考えれば、この疑問は簡単には退けられない。議員や行政職員でさえ専門家の説明を聞き、膨大な資料を読んで判断する問題を、普段は別の仕事をしている住民が数週間で理解できるのかという問いには現実味がある。

 しかし、「一般の住民には分からないから専門家へ任せればよい」と結論づけるのも、研究結果とは合わない。2026年に公表されたデンマークの欧州連合関連国民投票の研究では、4回の国民投票を通じて、争点についての有権者の知識が投票運動期間中に平均約10~19パーセントポイント上昇していた。しかも知識の増加には、学歴や政治への関心以上に、ニュースでその問題がどれだけ扱われたかという情報環境が関連していた。研究者自身は因果関係を過度に断定せず記述的知見としているが、「普通の有権者は政策について学習しない」という単純な見方には明確な反証を与えている。

 だからといって、どんな政策でも住民が十分理解できると考えるのも危険である。2021年に、住宅ローンや航空機部品など非常に専門的な投票案件を使って行われた実験では、有権者が問題の意味を十分理解できず、文章を分かりやすくしたり追加説明を与えたりしても理解が大きく改善せず、初期設定的な回答に依存する傾向が確認された。

 この二つの研究は矛盾しているように見えるが、むしろ住民投票の本質をよく表している。住民には学習する能力があるが、無限の情報処理能力があるわけではないのである。したがって問題は「住民を信用するか、専門家を信用するか」ではなく、住民が意味のある判断をできる程度まで問題を理解できるのか、そのための情報環境を社会が用意できるのかという制度設計へ移る。

住民投票は、多ければ多いほど良いのか

 この記事の題名に最も直接答える研究の一つが、スイスで3,500件を超える投票案件を分析した2019年の研究である。そこで確認されたのは、同時に処理しなければならない投票案件が増えると、有権者が個々の案件について持っている知識が低くなる傾向だった。

 ただし、この研究は「住民投票を増やすと民主主義が崩壊する」と結論づけてはいない。投票行動や民主主義への態度など他の指標については、観察された範囲では案件数の増加による一貫した悪化は確認されなかったからである。

 ここには重要な示唆がある。住民投票を増やした途端に有権者が政治に嫌気を差し、民主主義が機能しなくなると考える根拠は乏しい一方、住民にも時間という希少資源があり、一度に考えさせる案件を増やせば、一件当たりに割ける注意力が薄くなる可能性がある。民主主義もまた、人間の認知能力という制約から自由ではないのである。

 自治体が十の案件について住民の意思を知りたいからといって、10件を一度に投票へかけることが最善とは限らない。民主主義への参加機会を増やすことと、有権者の判断負担を増やすことは、しばしば同じ政策によって同時に起こる。

一人一票でも、一票ができるまでの条件は平等ではない

 投票所に入れば、大企業の経営者も年金生活者も一票である。しかし、その一票が作られるまでの情報環境まで平等になるわけではない。

 政策広告を出すには資金が必要であり、専門家を雇って資料を作るにも、新聞広告を出すにも、インターネットで大量の情報を発信するにも費用がかかる。アメリカ・カリフォルニア州の住民発議を分析した研究では、賛成側と反対側双方の選挙運動支出が投票結果へ統計的に有意な影響を持つことが報告され、スイスの三百二十三件の連邦レベルの投票を分析した研究でも、政党連合の構成とともに選挙運動支出が結果へ影響することが確認されている。

 もちろん、資金や組織力が政治へ影響するのは住民投票だけではない。議員選挙でもロビー活動でも同じ問題は存在する。それでも、「政治家を通さず住民が直接決めれば、権力関係から解放された純粋な民意が現れる」と考えるのは無理がある。

 投票権について一人一票を保障することと、一票を形成するための情報へ同じように接近できることは別問題だからである。民主主義を投票日の平等だけで測れば、その前に存在する情報格差を見落としてしまう。

多数者に決めさせない方がよい問題もある

 住民投票と少数者の関係についても、結論は単純ではない。直接民主制だから必ず少数者が迫害されるわけではなく、多数の有権者自身が少数者の権利保護を支持していれば、直接投票によってその方向へ政策が動くこともあり得る。

 しかし、少数者自身の権利を多数者が直接判断する場合には、無視できない実証研究も存在する。スイス約1,400自治体の1991年から2009年までを分析した研究では、移民の帰化申請を住民による直接的な判断から選挙で選ばれた地方議員による判断へ移した自治体で、帰化率が約60%上昇した。制度変更がスイス連邦裁判所の判断によって生じたことを利用した研究であるため、単なる地域差の比較よりも因果関係を推定しやすい設計になっている。

 もちろん、この結果だけから「代表民主制は常に少数者を守り、直接民主制は常に少数者を傷つける」と一般化することはできない。帰化審査という特殊な制度についてのスイスの研究だからである。それでも、当事者が人口上の少数者である以上、自分たちの権利を多数票によって守ることが構造的に難しい問題が存在することは分かる。

 多数決は意見を集計する優れた方法だが、多数決によって決める対象の選択まで多数決に任せてよいとは限らないのである。

住民投票を増やすと、政治家は責任から逃げられるのか

 代表民主制には、しばしば忘れられる一つの機能がある。選ばれた政治家に決定させることで、誰がその判断をしたのかを明確にし、次の選挙で評価できることである。

 この観点からは、難しい政策を次々と住民投票へ委ねると、政治家が「住民が決めたことです」と説明して、自らの政治的責任を薄めるのではないかという批判が生まれる。政治学者マイヤ・セタラは、特に政府側が住民投票の実施をコントロールする制度では、政府が難しい争点について自ら立場を取ることを避けるために投票を利用する場合があり、代表者のアカウンタビリティ(accountability・説明責任と責任追及可能性)を弱める可能性を論じている。

 ただし、この問題についても結論は決着していない。政治学者アリス・エル=ワキルは、有権者自身には政治家と同じ意味で責任を取らせることができないという理由だけで、拘束力のある住民投票や住民発議を非民主的とみなすことはできないと反論している。

 したがって正確に言えば、住民投票を増やせば必ず政治責任が消えるのではない。問題は、誰が住民投票を発議したのか、結果に拘束力があるのか、議会でどこまで審議したのか、そして実施後の政策について誰が説明責任を負うのかである。政府自身が都合の悪い問題だけを住民へ投げ返す制度と、住民側が署名によって政治家へ問いを突きつける制度を、同じ「住民投票」として扱うべきではない理由もここにある。

日本の住民投票には「重いのに拘束しない」というねじれがある

 日本について考える場合には、さらに注意が必要である。2026年4月16日の衆議院総務委員会で、林総務大臣は、日本の地方自治では住民の直接選挙によって選ばれた首長と議会が中心的な役割を果たすことが基本であり、自治体が条例によって設ける拘束力を持たない住民投票は、議会制民主主義を補完して住民意思を把握する一つの手法として活用されているとの認識を示している。

 ただし、日本に存在するすべての住民投票が法的拘束力を持たないわけではない。法律に根拠を持つ法定型の投票と、自治体が条例によって実施する諮問型の住民投票は区別しなければならない。一般に地方政治で議論になることが多いのは後者であり、条例型では投票結果が首長や議会を法的に直接拘束しない場合が多い。

 ここに日本独特のねじれが生まれる。法的には拘束しないと言っても、例えば70%の住民が反対した大型事業を首長がそのまま進めれば、「住民投票を無視した」という強烈な政治的批判を受けるだろう。法律上は諮問でも、政治的には無視しにくい。

 それなら住民投票は決定なのか、それとも意見聴取なのか。結果に従わない可能性があるなら、住民は何のために投票するのか。必ず従うのであれば、なぜ最初からその法的効果を制度として整理しないのか。住民投票を増やそうとする議論では、投票の実施回数ばかりに目を向けるのではなく、「投票した後に何が起きるのか」まで決めておかなければならない。

それでも住民投票には、選挙ではできないことがある

 ここまで読めば、住民投票とは随分危険な制度のように感じるかもしれない。しかし、代表民主制にも同じくらい明確な限界がある。

 選挙では、一人の候補者が持つ無数の政策を一括して選ばなければならない。福祉政策には賛成だが公共事業には反対、教育政策には賛成だが増税には反対という有権者でも、投票用紙では候補者を一人選ぶしかない。しかも地方では候補者不足によって無投票選挙になることもあり、選挙結果をそのまま個々の政策への賛成と解釈することには限界がある。

 住民投票には、この束になった民意を一度ほどく働きがある。「この町長を支持しますか」ではなく、「この病院建設を支持しますか」と、一つの政策だけについて住民の意思を確認できるからである。

 直接民主制が財政政策そのものを変える可能性も研究されている。例えばスイスの州を分析した研究では、一定の財政支出について住民投票を義務づける制度が政府支出を抑制する方向に関連していた。ただし、その後の研究では、住民のもともとの政策選好を十分考慮すると制度そのものの効果は従来推計より小さくなることも示されており、「住民投票さえ導入すれば行政が効率化する」と単純化することもできない。

 それでも、住民投票という制度が政治家へ圧力を与え、政策を変える可能性があること自体は無視できない。住民投票は代表民主制と競争する別の民主主義というより、代表者だけに判断を独占させないための補助装置として考えた方が現実に近い。

投票する前の「考える時間」を制度にできないか

 ここまでの問題の多くは、住民へ判断させることそのものより、住民へいきなり賛成と反対の二択を突きつけることから生まれている。

 そこで考えられるのが、投票と熟議を組み合わせる方法である。無作為抽出などで選ばれた市民が、行政だけでなく賛成派、反対派、専門家などから説明を受け、一定期間議論し、争点を整理する。その成果を全住民へ提供した上で最終的な投票を行うのであれば、「詳しい人だけが情報を持ったまま投票日を迎える」という問題をいくらか緩和できる。

 重要なのは、民主主義を「すでに出来上がった民意を数える制度」と考えないことである。人の意見は、投票日の朝に突然完成するものではない。新しい事実を知り、自分とは違う事情を抱える人の話を聞き、予算額や代替案を知れば考えが変わることもある。

 デンマークの研究で、投票運動中に政策知識が増え、その増加が情報環境と関連していたことは、この意味で示唆的である。良い民主主義に必要なのは、住民にたくさん投票させることだけではなく、判断するための材料と時間を渡すことなのかもしれない。

民主主義の質は、投票箱の数では測れない

 結局のところ、「住民投票を増やせば民主主義は良くなるのか」という問いに、単純なイエスもノーもない。

 住民投票には、議会と住民の意思のずれを修正し、一つの政策について明確な意思を示し、政治家だけに決定権を独占させない力がある。投票運動を通じて住民が政策について学習する場合もあり、直接民主制そのものが議会や政府の行動を変える可能性もある。

 しかし投票案件を増やせば、有権者が一件ごとに持てる知識が薄くなる可能性がある。複雑すぎる問題では十分理解できない場合もあり、質問文の作り方によって結果が動くこともある。多額の選挙運動資金を投入できる組織と個人住民では情報発信力が違い、少数者自身の権利を多数決に委ねることにも危険がある。さらに、政府が都合の悪い問題を住民投票へ送る制度であれば、代表者が負うべき責任まで曖昧になる可能性がある。

 だから民主主義の程度を、「年間何回住民投票を行ったか」で測ることにはほとんど意味がない。見るべきなのは、その問題を住民投票で決めることが適切なのか、誰が議題を設定したのか、質問は中立なのか、代替案は示されているのか、住民が判断できる情報は届いているのか、少数者の基本的権利を多数決に委ねていないか、そして決定後に誰が政策を実行し、その結果について誰が説明するのかという一連の仕組みである。

 議会で決める方がよい政策もあれば、住民が直接決める方がよい政策もある。その中間には、住民参加型の審議会、市民会議、住民発議、諮問型投票など様々な仕組みを置くこともできる。民主主義とは、代表民主制か直接民主制かという二者択一ではなく、問題の性質に応じて「誰に、どの段階で、どこまで決めさせるか」を設計する仕事だと考えた方がよい。

 投票箱は民主主義の象徴であり、その価値は今後も変わらないだろう。しかし投票箱を増やすだけで民主主義が豊かになるわけではない。誰が問いを作り、どのような情報を受け取り、どれだけ考える時間を持ち、誰が決定し、その後に誰が責任を引き受けるのか。その長い過程全体を公正にすることこそ、民主主義を良くする仕事なのである。

 私たちが投票用紙に丸をつけるとき、民主主義が始まるのではない。その頃には、民主主義の質を決める仕事のかなりの部分が、すでに終わっている。

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人口が減れば、自治体の職員も減っていく。それ自体は、それほど不思議な話ではない。住民が5万人から3万人になれば、役場も同じ人数の職員を抱え続ける必要はないように見えるからだ。

ところが、行政という仕事は人口に比例して小さくできるものばかりではない。

住民が半分になっても道路が半分になるわけではなく、橋が半分になるわけでもない。水道管や下水道管も、住民票を発行する制度も、税を徴収する仕組みも、災害が起きたときの対応も残る。人口減少社会で自治体に起きる本当の問題は、仕事の量が減る速度より、その仕事を担う人が減る速度のほうが速くなることである。

では、自治体職員が減っていったとき、何から維持できなくなるのだろうか。

おそらく最初に姿を消すのは、住民票の発行でも、税金の徴収でもない。もっと目立たず、普段は役所の存在さえ意識しないところから、行政の余力が失われていく。

役所の窓口が最初になくなるとは限らない

自治体の仕事というと、役所の窓口を思い浮かべる人は多い。住民票を取り、転入届を出し、税金や国民健康保険について相談する。職員が減れば、まず窓口が維持できなくなるようにも思える。

しかし、実際にはこの分野は比較的人員削減に耐えやすい。

現在、国は地方自治体の基幹業務システムの統一・標準化を進めており、住民基本台帳、地方税、介護保険、国民健康保険、生活保護、障害者福祉など20業務が標準化の対象になっている。目的の一つは、情報システムに費やす人的・財政的負担を減らし、職員を住民への直接的なサービスや企画業務へ振り向けることである。オンライン申請の普及も、この方向にある。

つまり、単純な申請や証明書発行のように、手続きが定型化されている仕事ほど、デジタル化や共同処理によって人数の減少を吸収しやすい。

もちろん、高齢者への窓口支援など、人が必要な部分まで消えるわけではない。それでも「一件の住民票を発行するために、その自治体だけの高度な専門家が必要」という仕事ではない。

問題になるのは、その反対側にある仕事である。

最初に苦しくなるのは「専門家が一人いないと動かない仕事」

道路に異常が見つかったとする。

単に穴が開いているだけなら補修を発注すればよいように見えるが、現実の行政ではそう簡単ではない。現場を確認し、危険度を判断し、工事方法を検討し、予算を確保し、設計や積算を行い、施工業者と調整し、完成した工事を検査する必要がある。

そこには土木の知識を持った職員が必要になる。

ところが、この人材がすでに薄くなっている。

国土交通省の資料では、1996年度から2024年度までに市区町村全体の職員数が約16%減少したのに対し、土木部門の職員数は約26%減少している。さらに、全国のおよそ半数の市区町村では技術系職員が5人以下である。別の国土交通省資料では、2023年時点で土木技師・建築技師が一人もいない自治体が435団体とされている。

ここに、人口減少時代の行政サービスを考える重要なヒントがある。

行政は「職員が100人から90人になったからサービスも一律に10%低下する」という仕組みではない。100人の中から土木技師が3人から2人になり、2人から1人になり、最後の1人が退職した瞬間、それまで自治体内部で完結していた機能が突然成立しなくなることがある。

人数の問題であると同時に、専門性の問題なのである。

道路や橋は、壊れてから問題になるのではない

こうした専門職不足の影響は、ある朝突然、道路が閉鎖されるという形で始まるとは限らない。

最初に起きるのは、おそらく「優先順位をつける行政」である。

以前なら年に何度も巡回していた道路を見る回数を減らす。小さな補修は翌年度へ送る。利用者の少ない施設への投資を先送りする。橋の点検で問題が見つかっても、緊急性の高いものから対応する。

その一つ一つは合理的な判断である。

ところが、それが10年続くと地域の姿が変わる。

人口の多い中心部では道路も施設も維持されるが、利用者の少ない地区では修繕までの期間が延びる。同じ自治体の中でも、行政サービスの密度に少しずつ差が生まれる。

人口減少によって最初に起きるのは、行政サービスの「消滅」ではなく、行政サービスの「粗密化」なのかもしれない。

そして、この変化は住民から見えにくい。

役場は開いている。住民票も取れる。ごみも収集されている。それでも町のどこかでは、橋の補修が一年延び、道路の草刈り回数が減り、水路の点検間隔が長くなっている。

行政機能は、ある日突然なくなるのではなく、少しずつ薄くなっていく。

次に苦しくなるのは「現場へ行かなければできない仕事」

デジタル化には大きな効果があるが、自治体の仕事をすべてデジタル化できるわけではない。

住民票はオンラインで処理できても、崩れかけた道路をオンラインで直すことはできない。

倒木が道路をふさいだら誰かが現場へ行かなければならない。大雨で側溝があふれたら現場を確認しなければならない。空き家が倒壊しそうなら建物を見る必要がある。高齢者の生活状況を確認する必要があれば、電話や画面だけでは判断できないこともある。

ここには、行政サービスのもう一つの境界線がある。

「情報を処理する行政」は少人数化しやすいが、「現実の地域を管理する行政」は少人数化しにくいのである。

人口減少が進む地方ほど、この矛盾は大きくなる。住民は減るのに自治体の面積は縮まらないからだ。

10平方キロメートルの町で人口が半分になっても、管理する土地が5平方キロメートルになるわけではない。道路、水路、山林との境界、公共施設、海岸、河川など、行政が関係する空間はほぼそのまま残る。

人口密度が低下するとは、一人の職員が担当しなければならない「地域の広さ」が相対的に大きくなることでもある。

災害対応は、普段の職員不足を一気に表面化させる

平常時には何とか回っている自治体でも、台風や豪雨、大規模地震が発生すると状況は変わる。

行政職員には通常業務とは別に災害対応が発生する。避難所を開設し、道路の被害を調べ、住民からの問い合わせに応じ、断水や停電の状況を把握し、国や都道府県との連絡を行い、被害認定や罹災証明にも対応しなければならない。

普段100の仕事を100人で処理している組織なら、一時的に120の仕事が来ても何とか対応できるかもしれない。

しかし、100の仕事を70人でぎりぎり処理する組織に、突然120の仕事が来れば事情は違う。

人口減少地域で恐ろしいのは、平常時の行政サービスが維持されているように見えるため、組織の「余白」がどれほど失われているのか住民から分かりにくいことである。

自治体職員の減少問題は、単なる窓口待ち時間の問題ではない。

災害時に行政がどこまで同時に動けるかという、地域の安全性そのものにかかわっている。

福祉行政は「なくなる」のではなく、一人あたりの負担が重くなる

一方で、人口減少社会では、住民が減るからといって福祉行政の需要まで同じように減るとは限らない。

むしろ、高齢化によって介護、生活支援、認知症、孤立、成年後見、身寄りのない高齢者への対応など、一件あたりの判断が難しい案件が増える可能性がある。

この仕事は住民票発行のように完全には定型化できない。

同じ「高齢者一人暮らし」でも、家族関係、所得、健康状態、認知機能、住宅環境、近隣との関係によって必要な支援は違うからだ。

したがって福祉分野では、サービスそのものが突然なくなるというより、一人の職員が担当する案件が増え、相談から対応までの時間が長くなるという形で職員不足が現れやすい。

ここでも行政サービスは「あるか、ないか」では測れない。

同じ制度が残っていても、相談員が十分にいる自治体と、少人数で多数の案件を抱える自治体では、実際に住民が受ける行政サービスの質は同じとは限らない。

「最初に維持できなくなるサービス」を一つに決めることはできない

では結局、自治体職員が減ったとき、最初に維持できなくなる行政サービスは何なのか。

全国共通で「これ」と一つに決めることは難しい。

ただし、弱くなりやすい行政には共通した特徴がある。

処理件数が少なくても一定数の専門職を必要とし、現場へ出る必要があり、機械的な標準化が難しく、しかも事故や災害が起きたときには即時に判断しなければならない仕事である。

道路、橋、上下水道、建築、防災、福祉などがその典型になる。

反対に、全国で制度が共通していて、処理方法を標準化しやすく、デジタル化や外部との共同処理が可能な業務は、比較的長く維持しやすい。

この違いを考えると、将来の自治体行政は「すべての仕事を現在の形のまま少人数で続ける」方向には進みにくい。

むしろ、何をその自治体が自分で担い、何を周辺自治体や都道府県と共同化し、何を民間に委託し、何をデジタル化するのかという再設計が避けられなくなる。

合併しなくても「役所の中身」は共同化されていく

人口が減れば市町村合併をすればよい、という考え方もある。

しかし、自治体を合併しなくても行政機能を共同化することはできる。

例えば、専門職を複数自治体で共有したり、一部の事務を広域組織で処理したり、都道府県が技術的支援を行ったりする方法がある。情報システムについても、約1,800の地方公共団体がそれぞれ独自に開発・保有する方式から、標準化された仕組みを利用する方向へ政策は動いている。

ここで重要なのは、「自治体を残すこと」と「自治体がすべての行政能力を自前で持つこと」は別問題だということである。

町長も議会も役場も残っている。しかし道路行政の専門機能は周辺自治体と共有する。情報システムは共通化する。高度な建築審査は広域で担う。

そうした自治体が今後増えても不思議ではない。

行政区域は残りながら、行政機能だけが広域化するのである。

人口ではなく「職員構成」を見なければ自治体の将来は分からない

地方自治体について語るとき、私たちは人口を見る。

人口3万人、1万人、5000人という数字は分かりやすいからだ。

しかし、本当に行政を維持できるかを考えるなら、人口だけでは十分ではない。

職員が何人いるのか。その中に土木、建築、保健、福祉、情報といった専門職が何人いるのか。50歳代の職員が退職したあと、代わりになる若手が採用できているのか。一人しかいない専門職が休職したり退職したりしたとき、その仕事を誰が引き継ぐのか。

こちらのほうが、地域の将来を考えるうえでは重要な数字になっていく。

人口1万人でも専門職を確保し、周辺自治体と業務を共同化し、デジタル化によって定型業務を効率化できれば行政を維持できる可能性はある。

反対に、人口がそれより多くても、専門職を採用できず、業務を職員個人の経験に依存していれば、特定の行政機能が先に弱くなることはあり得る。

人口規模だけから「何人以下なら自治体は維持できない」と線を引くのが難しい理由も、ここにある。

最後まで役場は残っていても、行政は以前と同じではない

人口減少社会で起きる行政の縮小は、役場が閉鎖されるところから始まるのではないだろう。

役場は最後まで残る可能性が高い。

住民票も発行され、税金も徴収され、ホームページには行政サービスの一覧が掲載され続ける。

それでも、その裏側では道路を見回る回数が減り、専門職一人の担当範囲が広がり、福祉相談の案件が積み重なり、災害時に応援へ回せる職員が少なくなっていく。

行政サービスが失われるとは、「制度の名前がなくなること」だけではない。

同じ制度が存在していても、対応までの日数が長くなり、現場へ行ける回数が減り、予防的な仕事より緊急対応が優先されるようになれば、その行政サービスはすでに以前とは違うものになっている。

だから人口減少地域を見るとき、役所が存在するかどうかだけを見ても十分ではない。

見るべきなのは、その役所に「地域で何か起きたとき、実際に動ける人が何人残っているか」である。

人口減少後の地方自治を左右するのは、役場という建物を残せるかどうかではない。

その建物の中に、地域を動かす知識と経験を持つ人を残せるかどうかなのである。

そして日本の地方自治は今、「住民が何人まで減れば維持できないのか」という問題から、「少なくなる職員で、どの行政機能をどこまで自前で持ち続けるのか」という、もう一段難しい問題へ入り始めている。

参考資料

本稿では、国土交通省による市区町村の職員数・土木系技術職員に関する資料、およびデジタル庁による地方公共団体の基幹業務システム統一・標準化に関する公表資料を参照した。国土交通省は、自治体のインフラ管理体制について、技術系職員の減少と人的制約への対応を重要課題として示している。またデジタル庁は、主要20業務のシステム標準化によって人的・財政的負担を軽減し、職員を住民への直接的サービスなどへ振り向ける方向を示している。

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地方議会は必要なのだろうか。

人口数千人の町にも議会があり、議員がいる。定例会が開かれ、予算や条例が審議され、一般質問が行われる。一方で住民から見ると、「結局、役所が作った予算を承認しているだけではないか」「議員が何をしているのか分からない」「議員同士の人間関係や地域のしがらみばかりが目につく」と感じることもあるだろう。

しかし、この問題を「地方議会は要らない」という結論で処理するのは適切ではない。

むしろ問題は逆である。

地方議会は地方自治にとって極めて重要だからこそ、それが十分に機能しなくなったときの弊害も大きい。

地方議会を考えるときに必要なのは、議員個人の資質について論じることではない。「良い議員がいる」「悪い議員がいる」という話だけでは、地方議会が抱えている問題の本質には届かない。

見るべきなのは、首長と議会の関係、選挙制度、人口減少、候補者不足、議員構成、行政との情報格差、政策形成能力、そして住民との関係である。

地方議会とは本来何をするための制度なのか。そして、なぜその制度が地域によっては十分に機能しにくくなっているのか。

そこから考えてみたい。

地方議会は「首長を手伝う組織」ではない

日本国憲法第93条は、地方公共団体に「議事機関として議会を設置する」と定め、地方公共団体の長と議会議員の双方を住民が直接選挙する仕組みを採用している。

ここが地方政治を理解するうえで非常に重要である。

国政では、国会の多数派を基礎として内閣が組織される議院内閣制が採用されている。それに対して地方自治では、知事や市町村長も住民が直接選び、議員も住民が直接選ぶ。

一般に「二元代表制」と呼ばれる仕組みである。

したがって、市町村長が住民の代表であるのと同じように、市町村議会も住民の代表である。

2014年の衆議院総務委員会でも、政府は地方議会について、条例の制定・改廃、予算決定、地方税の賦課徴収などの団体意思決定機能と、執行機関に対する監視機能を持ち、首長と議会が「健全な緊張関係」の中で地方自治を運営することが期待されているとの趣旨を説明している。

つまり、本来の関係は、

首長が行政を動かし、議会がそれを民主的に制御する

という関係である。

地方議会は首長を手伝うための組織でもなければ、役所が提出した案件に形式的に賛成するための組織でもない。

首長から一定の距離を置き、「その政策は本当に必要なのか」「その支出は妥当なのか」「別の選択肢はないのか」と問い続ける存在でなければならない。

数千万円、数億円を使う行政を一人の首長だけに任せてよいのか

地方議会の存在理由を理解するには、議会がなくなった自治体を想像すると分かりやすい。

市町村長は予算を編成し、道路を整備し、公共施設を建設し、福祉政策を決め、補助金を交付し、さまざまな契約を行う。

行政が扱う金額は、小さな町村であっても極めて大きい。

これを「選挙で選ばれた首長なのだから任せればよい」と考えることもできる。

しかし、選挙で選ばれたことと、任期中のすべての判断が正しいこととは別問題である。

だからこそ地方自治法第96条は、条例の制定・改廃、予算、決算、地方税、一定の契約や財産取得・処分などについて、地方議会の議決を必要としている。

これは行政手続上の形式ではない。

行政権力に対して、もう一つの民主的な判断を介在させる仕組みなのである。

首長が「やりたい」と考えても議会が認めなければ実施できない政策があり、行政が税金をどう使ったかについても議会が決算を審査する。

この仕組みを取り除けば、行政権は非常に強くなる。

したがって、地方議会の最大の存在意義は「議員を置くこと」そのものではなく、

地方政府の権力を一か所に集中させないこと

にある。

問題は、制度として議会があっても「チェック」が働くとは限らないことだ

ここから地方議会の難しい問題が始まる。

制度上、首長と議会が別々に選ばれているからといって、自動的に相互監視が機能するわけではない。

首長提出の議案について議員が十分な資料を読み、政策効果を検証し、必要なら修正を求めることで初めて制度は機能する。

ところが現実には、行政と議会との間には大きな情報格差が存在する。

役所には、財政、税務、福祉、都市計画、上下水道、教育、介護、防災など、それぞれの分野を担当する職員がいる。政策案はこうした行政組織によって長時間をかけて作成される。

それに対し議員側は、限られた人数と支援体制で、その内容を検証しなければならない。

しかも地方自治体が扱う政策は、以前より高度化している。

人口減少対策、公共施設再編、地域公共交通、医療・介護、情報システム、防災、再生可能エネルギーなど、専門的な判断を必要とする案件は珍しくない。

ここには構造的な問題がある。

行政を監視する側より、監視される行政側の方が情報と専門知識を大量に持っているのである。

したがって議会が十分な調査能力を持たなければ、制度上は議決していても、実質的には行政の説明を確認して承認するだけになりかねない。

すべての地方議会がそうだという意味ではない。

重要なのは、「議会が存在すること」と「議会による監視が機能していること」は同じではない、という点である。

「選挙があるから民意を反映している」とも限らなくなっている

さらに深刻なのが、地方議員のなり手不足である。

2023年の統一地方選挙について、当時の総務大臣は国会で、市区町村議会における無投票当選者の割合が前回の9.4%から11.9%へ上昇し、定数割れとなった団体も8団体から21団体へ増加したと説明している。

町村に限定するとさらに厳しい。

全国町村議会議長会が2024年にまとめた検討では、2023年の統一地方選挙で無投票や定数割れが増加したことを踏まえ、議員のなり手不足を議会だけではなく町村そのものに関わる危機として位置づけている。

これは民主主義にとって軽い問題ではない。

議員定数が10人で候補者が10人しかいなければ、候補者同士を比較して選ぶという選挙の核心部分が失われる。

法律上は正当に選出された議員であっても、政治学的には「競争による選択」という機能が弱くなる。

地方議会の正統性は選挙に由来する。

ところが、候補者不足によって選挙そのものが成立しにくくなれば、その正統性を支えている土台が弱くなってしまう。

これは地方議会制度が現在直面している最も重大な問題の一つである。

議会が地域社会の縮図になっていないという問題

もう一つ考えなければならないのが代表性である。

議会は住民の代表機関である以上、地域社会のさまざまな立場や利害が持ち込まれることに意味がある。

高齢者だけでなく若者がいる。会社員もいれば自営業者もいる。子育て世代、一人暮らし世帯、介護を担う人、移住者など、地域社会を構成する人々の生活条件は異なる。

ところが地方議会の構成が地域人口の構成から大きく偏れば、悪意がなくても議論されやすい政策分野と議論されにくい政策分野が生じる可能性がある。

政府も地方議会のなり手不足問題について、過去の統一地方選挙では女性議員が少ない議会や議員の平均年齢が高い議会ほど無投票当選割合が高い傾向があったとして、多様な層の議会参加を促す必要性を指摘している。

ここで問題なのは、年齢や性別そのものではない。

ある属性の人が議員になることが悪いのではなく、特定の職業、世代、性別、社会経験だけに候補者が偏り続ける構造が問題なのである。

代表制民主主義は、さまざまな利害を議会の中に持ち込み、議論を通じて調整する制度である。

その入口が狭くなれば、議会の制度的価値そのものが小さくなる。

「地域の要望を役所へ届ける人」だけになれば議会は弱くなる

地方議員には、住民から道路補修、街灯、福祉、交通、公共施設など多くの相談が寄せられる。

住民の声を行政へ届けること自体は重要な仕事である。

しかし、地方議員の役割が「住民から頼まれたことを役所につなぐ人」だけになってしまうと別の問題が生じる。

議員の本来の仕事は、個別の要望を処理することだけではない。

例えば人口減少地域で、

「利用者が少なくなった公共施設を今後も維持するのか」

「道路、水道、学校、公共交通をどの範囲まで残すのか」

「限られた財源を子育て、高齢者福祉、産業政策のどこへ配分するのか」

といった問題を考える必要がある。

このような問題では、すべての住民の要求を同時に満たすことはできない。

だから政治が必要になる。

個々の要求を行政につなぐことと、地域全体にとって何を優先すべきか判断することは違う。

地方議会が前者ばかりになれば、長期的な政策判断が弱くなり、目の前の個別利益を積み重ねる政治へ傾きやすくなる。

人口減少は地方議会の問題をさらに難しくする

今後、地方議会の問題は人口減少と切り離せなくなる。

人口が減れば、議員候補になり得る人口も減る。

さらに若年人口や現役世代が少なくなれば、仕事を続けながら議員になることのできる人材も限られる。

そこで「議員が少ないなら定数を減らせばよい」という議論が出てくる。

一見すると合理的である。

しかし定数削減には別の問題がある。

議員を減らせば議会経費は減少する一方、一人の議員が代表する住民の範囲は広くなり、委員会などで政策を専門的に調査する人数も減る。

つまり、

議員を減らせば議会が効率化するとは限らない。

行政組織の規模に対して議会側を極端に小さくすれば、行政を監視する能力まで低下する可能性がある。

同じことは議員報酬にもいえる。

議員報酬を下げれば財政負担は軽くなる。

しかし報酬が低すぎれば、他の仕事を持つことが難しい人や、子育て世代、現役会社員などが立候補しにくくなり、候補者層をさらに狭くする可能性がある。

地方議会改革では「経費を減らすこと」と「民主的統制能力を維持すること」を分けて考えなければならない。

最も危険なのは「首長と議会が仲良くなること」ではなく、緊張関係が消えること

政治の世界で対立という言葉は悪く受け取られやすい。

「町長と議会が対立している」 「議会が行政の邪魔をしている」

という報道を見ると、協力した方がよいように感じる。

もちろん、感情的な対立や政争によって行政運営が止まることは望ましくない。

しかし、首長と議会が常に同じ方向を向いている状態も、本来の制度設計から考えれば必ずしも理想ではない。

地方自治では、首長と議会は異なる選挙によって住民から権限を与えられている。

だからこそ議会には、

「その説明では十分ではない」

「予算が過大ではないか」

「別の政策の方が効果的ではないか」

と問い返す役割がある。

政府自身も、二元代表制について首長と議会がそれぞれの役割を果たし、「健全な緊張関係」を形成することを期待している。

問題なのは対立そのものではない。

チェックすべき場面でもチェックしなくなることである。

反対に「反対すること」だけが議会の仕事でもない

ただし、ここには逆方向の危険もある。

行政を監視することと、行政提案に反対することは同じではない。

十分に検討した結果、行政案が合理的なら賛成するのが当然である。

議会の価値は賛成率や反対率では測れない。

重要なのは、

「どのような資料を確認したのか」

「どのような代替案を比較したのか」

「費用と効果をどう評価したのか」

「将来負担を検討したのか」

という意思決定の過程である。

すべての議案に賛成する議会が直ちに悪いわけではないし、反対議案が多い議会が優れているわけでもない。

民主政治で重要なのは、結論よりも、結論へ至るまでの検証可能性なのである。

一般質問をしているだけでは議会改革にはならない

多くの地方議会では一般質問が行われている。

一般質問は行政課題を公開の場で取り上げる重要な制度である。

しかし、質問件数だけで議会活動を評価することには注意が必要だろう。

本当に重要なのは、質問した結果として政策がどう変わったか、予算配分がどう改善されたか、行政の問題点が是正されたかである。

地方自治法は議員による議案提出や、委員会による調査・議案審査、公聴会、参考人からの意見聴取など、議会が政策形成に関与できる制度も用意している。

地方議会を強くするには、

「質問する議会」から「調査し、比較し、政策を形成する議会」へ進めること

が重要になる。

人口減少時代には特にそうである。

これからの自治体では、「何を新しく始めるか」以上に、「何を維持し、何を縮小し、何をやめるか」という政治的に難しい判断が増える。

こうした判断を首長と行政だけに背負わせるのではなく、住民代表である議会が責任を分担する必要がある。

地方議会の最大の弊害は「議会があることで民主主義が機能していると思ってしまうこと」かもしれない

ここまで考えると、地方議会が地域社会にもたらし得る最大の弊害は、議員報酬でも議員数でもないことが見えてくる。

制度として議会が存在し、定例会が開かれ、予算が議決されている。

その形式が整っているために、

「地方自治は民主的に統制されている」

と思い込んでしまうことである。

候補者が不足し、選挙競争が弱くなり、議会の構成が偏り、行政との情報格差が大きく、政策を独自に検証する能力が弱くなれば、形式的には地方自治制度が存在していても、その中身は次第に薄くなっていく。

これは議会を廃止すれば解決する問題ではない。

むしろ逆である。

行政権が強くなればなるほど、その行政を監視する議会の能力を強くしなければならない。

必要なのは「議員を減らす改革」ではなく「議会を機能させる改革」である

地方議会改革というと、議員定数削減や報酬削減が注目されやすい。

確かに議会経費が妥当かどうかを検証することは必要である。

しかし、本当の改革はそこではない。

候補者が出られる環境をつくること。会社員や子育て世代を含む多様な住民が政治参加できる制度をつくること。議員が行政資料を分析できる調査支援を整えること。議案、賛否、議事録、委員会審査などを住民が容易に確認できるようにすること。政策について行政案と代替案を比較できる議会にすること。

こうした改革の方が、地方自治の本質に近い。

議員を何人減らしたかではなく、

行政の判断をどこまで検証できたか。

住民の異なる意見をどこまで議論の場に持ち込めたか。

将来世代まで考えた政策判断ができたか。

そこを評価すべきである。

地方議会はなくてはならない。だからこそ厳しく見る必要がある

地方議会は、地域社会に付け加えられた飾りではない。

条例を決め、予算を決め、決算を審査し、税や重要な財産・契約について判断し、行政を監視する。

地方自治における権力分立の重要な一部分である。

だから地方議会は必要である。

しかし、「必要な制度だから批判してはいけない」ということにはならない。

むしろ必要不可欠な制度だからこそ、機能しているのかを徹底して検証しなければならない。

人口減少によって候補者が減り、無投票当選や定数割れが発生し、行政課題が専門化・複雑化している現在、地方議会を取り巻く条件は以前より厳しくなっている。政府も国会答弁で、地方議員のなり手不足を重要な課題として認識している。

これから問われるのは、

「地方議会を残すか、なくすか」

ではない。

「地方議会という制度を、本当に住民のために機能させられるのか」

である。

首長に反対することが議会なのではない。

首長に賛成することが議会なのでもない。

行政が示した政策を検証し、住民の異なる利害を調整し、その自治体が限られた財源をどこへ使い、何を残し、何を諦めるのかを公開の場で決める。

それが地方議会の仕事である。

そして人口が減り、財源が限られ、すべての行政サービスを維持することが難しくなる社会ほど、その役割は重くなる。

地方議会が不要になるのではない。

地方が難しい時代になるほど、本当に機能する地方議会が必要になるのである。

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