地域政経

九条レオンの地域から社会と政治・経済のこれからを考える

1989年7月23日の夜、日本の政治で、それまで動かないと思われていたものが大きく揺れた。

第15回参議院議員通常選挙で、日本社会党は46議席を獲得し、自由民主党の36議席を上回った。社会党は改選第一党となり、自民党は参議院で単独過半数を失った。1955年の結党以来、多少の浮き沈みを経験しながらも日本政治の中心にあり続けてきた自民党優位の政治構造に、明らかな亀裂が走った選挙だった。

その中心にいたのが、日本社会党委員長の土井たか子である。

選挙後の土井を象徴する言葉は、やがて一つの短い表現に凝縮されて人々の記憶に残った。

「山が動いた」。

政治家の言葉の多くは、その選挙が終われば消えていく。ところが、この言葉だけは1989年という時代を説明する言葉として生き残った。

なぜだったのだろう。

そこには、社会党が一度の選挙に勝ったというだけでは説明できないものがある。昭和が終わり、平成が始まったばかりの日本で、それまで政治の中心に見えにくかった人々が、自分たちにも政治を動かせるのではないかと感じた瞬間があった。そして土井たか子という政治家は、その期待を不思議なほど鮮明に背負う人物になったのである。

政治家になる予定ではなかった憲法学者

土井たか子は、最初から職業政治家として人生を設計した人物ではなかった。

1928年に神戸で生まれ、同志社大学で法律を学び、大学院を経て大学で憲法を教えた。1969年の衆議院議員総選挙で日本社会党から立候補して初当選するまで、彼女の立っていた場所は永田町ではなく、憲法を研究し、学生に教える教室だった。

その出発点は、その後の政治家としての土井を理解するときに重要である。

護憲を中心に据え、安全保障や原子力政策などでも明確な立場を取り続けた土井の政治思想には当然、賛否がある。しかし彼女は、時代の風向きに合わせて器用に立ち位置を移す政治家ではなかった。一度、自分にとって原則だと考えたものを簡単には手放さない。その頑固さが支持者には信頼として映り、反対する人には硬直性として映った。

後から振り返れば、それは土井たか子という政治家の強さであると同時に、限界にもなっていく。

ところが、そんな憲法学者出身の政治家が、やがて日本政治でも屈指の「言葉を持つ政治家」になる。

「やるっきゃない」。

「ダメなものはダメ」。

いずれも政策論として精密な言葉ではない。むしろ精密さの反対側にある。

それでも強かった。

政府や政党が長い説明を重ねるより、「この人は何に怒っているのか」「何には譲らないのか」が一瞬で伝わったからである。本人自身は、こうしたキャッチフレーズが独り歩きすることを必ずしも好んでいなかったと、後に土井を取材した記者は記している。

考えてみれば不思議な人生である。

憲法を教えていた大学講師が、難しい法律用語ではなく、誰にでも覚えられる短い日本語によって国民的人気を得たのである。

敗北した社会党が選んだ女性党首

1986年、土井は日本社会党の委員長に就任する。

この人事は、勢いに乗る政党が新しい時代を先取りして女性を党首に据えた、という華やかな話ではなかった。

むしろ逆だった。

社会党は同年の衆参同日選挙で大敗し、戦後長く自民党と対峙してきた最大野党としての存在感を失いつつあった。労働組合を中心とした強固な支持基盤を持ってはいたものの、高度経済成長によって生活が変わり、会社員が増え、都市化が進んだ日本社会に対して、従来の社会党の言葉が届きにくくなっていた。

その危機のなかで、土井は委員長になった。

国会に議席を持つ政党のトップに女性が就いたのは、憲政史上初とされる。後に女性初の衆議院議長にもなる土井だが、最初の「女性初」は、政党が追い詰められた場所から始まっていた。

そこには少し皮肉な構図も見える。

組織が安定している間は従来の男性中心の秩序が維持され、行き詰まったときになって初めて、それまでとは違う人物が前面に出てくる。

しかし、社会党が単に「女性だから目新しい」と考えて土井を利用しただけなら、その後に起きた現象までは説明できない。

委員長になった土井は、党の看板を変えただけではなかった。

それまで政治の中心的な議題として語られにくかった生活の問題を、国会の言葉に変え始めたのである。

委員長就任後の代表質問で、土井は「女は三つの老後を生きなければなりません」と語った。親の老後を支え、夫の老後を支え、その後に自分自身の老後が来る。まだ介護保険制度も存在しなかった時代、家庭の中で女性が当然のように背負っていた介護負担を、個人的な家庭事情ではなく政治の問題として国会に持ち込んだ。

これは土井人気を考えるうえで小さくない。

女性だから女性の問題を扱った、というだけではない。

それまで「家の中のこと」として政治から切り離されていたものを、政治の側へ引きずり出したのである。

1989年、政治への不満が行き場を失っていた

もちろん、土井たか子一人に選挙を動かす魔法があったわけではない。

1989年の自民党政権には、いくつもの逆風が重なっていた。

前年から続いたリクルート事件によって政界と企業の癒着が問題となり、竹下登首相は退陣した。1989年4月には3%の消費税が導入され、家計への新たな負担に対する反発が広がっていた。その後を継いだ宇野宗佑首相にも女性問題が報じられ、政権は発足した時点から強い逆風のなかに置かれた。

つまり、山が突然、自分の意思で歩き出したわけではない。

その下ではすでに地殻変動が始まっていたのである。

政治と金への不信、消費税への反発、長期政権への倦怠感。性質の異なる不満が同時に噴き出したとき、それを受け止める顔として土井たか子がいた。

社会党は1989年参院選で46議席を獲得した。さらに、この選挙では女性候補の躍進が大きな話題となり、後に「マドンナ旋風」と呼ばれることになる。

この選挙で女性当選者は22人。改選された126議席の17.46%を女性が占めた。前回1986年の女性当選者10人から倍以上に増え、日本の国政選挙としては画期的な変化だった。

ただし、「マドンナ旋風」という言葉そのものにも、今から振り返れば当時の社会が映り込んでいる。

女性政治家が多数当選したことを歓迎する一方で、政策や思想を持った一人の政治家としてではなく、「女性候補」という特別な集団として眺める視線があったからこそ成立した呼び名でもある。

女性が政治家であること自体がニュースになった時代だった。

土井たか子は、女性政治家の進出を象徴した人物であると同時に、女性政治家がまだ珍しい存在として見られていた日本の姿を映す人物でもあった。

なぜ土井たか子は国民的スターになれたのか

それでも、土井人気を「女性だったから」で説明するのは無理がある。

彼女が登場した1980年代後半は、テレビが国民共通の巨大な窓だった。

インターネットはない。政治家が自分の動画を毎日発信することもない。新聞とテレビが政治家の姿を全国へ届け、夜のニュースで映された数十秒の表情や言葉が、翌日の職場や家庭の話題になる。

そこで強かったのは、一瞬で人物像が伝わる政治家だった。

土井には、それがあった。

よく通る声があり、言葉に歯切れがあり、男性ばかりが並んでいた政治の画面のなかで、遠くからでも分かる存在感があった。「クイズダービー」や「世界まるごとHOWマッチ」といった一般のテレビ番組にも出演し、政治ニュースを熱心に見ない人々にも顔を知られていった。

だが、それだけなら人気タレント型の政治家で終わっただろう。

土井にはもう一つ、奇妙な強みがあった。

彼女は政治家なのに、「政治の外から来た人」に見えたのである。

1989年の時点で初当選からすでに20年近くが経過している。政治経験の浅い新人ではない。それなのに、永田町の専門家としてではなく、永田町へ普通の人々の感覚を持ち込む人物として受け取られた。

政治経験があるのに、政治屋には見えない。

制度を知っているのに、専門用語ばかりで話さない。

国会の内部にいるのに、国会の外側にいる人々の不満を代弁しているように見える。

この距離感こそ、土井たか子という政治家の最大の資産だったのではないだろうか。

人々は彼女を「おたかさん」と呼んだ。

最大野党の党首であり、首相候補にもなり得る政治家なのに、呼び名だけを聞けば近所のよく知っている人のようだった。

権力の中心へ近づくほど、普通の人から遠ざかって見える政治家は多い。

土井は、逆だった。

政治の中心へ近づくほど、「自分たちの側から政治を見ている人」に見えたのである。

「山の動く日」は女性たちの目覚めを歌った言葉だった

そして、あの「山」に戻る。

土井が若いころから愛唱していたとされるのが、与謝野晶子が1911年の『青鞜』創刊号に寄せた『そぞろごと』である。

その冒頭は「山の動く日来る」で始まる。

現在、この冒頭部分だけを取り出して「山の動く日」と呼ばれることも多いが、厳密には『青鞜』創刊号に掲載された作品の総題が『そぞろごと』で、その冒頭の詩が後世、広く知られるようになったものである。そこでは、長い間眠っていた女性たちが目覚め、動き始める姿が「山」に重ねられている。

土井が社会党委員長だったころ、東京・三宅坂の社会党本部にあった委員長室には、「山の動く日」と書かれた額が掲げられていたという。

だから本来、土井にとって「山」は自民党そのものではなかったのだろう。

長い間、政治の中心に十分な場所を持てなかった女性たちであり、政治を自分とは遠いものだと考えていた市民であり、「どうせ政治は変わらない」と諦めていた有権者でもあった。

ところが1989年の大勝によって、この言葉には別の意味が重なっていく。

眠っていた女性が動くという与謝野晶子の山と、動かないように見えた戦後政治の山が、一つの映像になった。

言葉が政治家本人の手を離れ、時代の言葉になった瞬間だった。

女性が首相として指名された日

参議院選挙からわずか半月ほど後、その勢いを象徴する出来事が起きる。

1989年8月9日の内閣総理大臣指名選挙で、参議院は土井たか子を内閣総理大臣に指名した。

一方、衆議院は自民党の海部俊樹を指名した。両院協議会でも一致しなかったため、日本国憲法第67条第2項による衆議院の優越によって、最終的には海部の指名が国会の議決となった。

したがって、土井たか子内閣が成立したわけではない。

しかし、この出来事を「結局首相にはなれなかった」で終わらせると、その歴史的意味を取り逃がす。

1989年の日本で、国会を構成する二つの議院の一方が、一人の女性を内閣総理大臣として正式に指名したのである。

女性首相がまだ遠い未来の話に思われていた時代に、参議院だけを見れば、土井たか子はすでに首相に選ばれていた。

その瞬間、彼女が「日本で最も首相に近づいた女性」だったと表現しても、大きな誇張ではない。

社会党が数年前まで低迷していたことを考えれば、なおさら異例の光景だった。

それでも山は動き続けなかった

だが、政治には残酷な性質がある。

熱狂を得票に変える力と、その得票を持続的な政権基盤へ変える力は同じではない。

社会党は1990年の衆議院議員総選挙でも大幅に議席を増やした。それでも自民党政権を倒すところまでは届かず、翌1991年の統一地方選挙で社会党が敗北すると、土井は委員長を辞任する。

ほんの数年前には衰退政党と思われていた社会党を復活させ、首相指名にまで到達した人物が、驚くほど短い時間で党首の座を去ることになった。

ここに「土井ブーム」の本質と限界が見える。

1989年に社会党へ向かった票は、一枚岩の社会党支持ではなかった。

政治腐敗への怒りがあり、消費税への反発があり、自民党長期政権への倦怠感があり、女性政治家への期待があり、土井本人への好感があった。

異なる場所から流れてきた水が、一時的に同じ低地へ集まったのである。

洪水のような票だった。

しかし洪水は、必ずしも一本の川にはならない。

社会党が本当に政権を担うためには、「自民党に反対する人々」の受け皿であるだけでは足りなかった。安全保障をどうするのか、経済をどう運営するのか、現実の国際関係のなかでどこまで従来の政策を維持するのかという問いに、一つの政権構想として答える必要があった。

しかも、そのころ世界の方が先に変わり始めていた。

1989年にはベルリンの壁が崩れ、東欧の社会主義体制が相次いで崩壊し、米ソ冷戦も終結へ向かう。

戦後日本政治を支えてきた「保守対革新」という対立軸そのものが揺らぎ始めたのである。

土井人気によって一時的に覆い隠されていた社会党の古い問題が、時代の変化とともに再び姿を現した。

土井たか子の長所は、そのまま弱点でもあった

土井は、権力政治の職人というタイプではなかった。

むしろ、そう見えなかったことが彼女の人気を支えた。

原則を語り、生活者の言葉で政治を批判し、曖昧な表現で逃げない。その姿は、派閥、密室協議、根回しによって物事が決まる印象の強かった当時の政治とは鮮明な対照をなしていた。

しかし政権を取る側に回れば、政治に求められるものは変わる。

異なる考えを持つ人々と合意し、政策に優先順位をつけ、財源を割り振り、ときには支持者が望まない妥協もしなければならない。

「ダメなものはダメ」という言葉は、野党政治家としては強い。

だが政府を運営する側は、その次に「では何をするのか」を示さなければならない。

何を認め、何を捨て、誰と組み、どこまで譲るのか。

土井たか子という政治家の魅力と、社会党が本格的な政権政党になり切れなかった問題は、この地点で微妙に重なっていた。

もっとも、その責任を土井一人に帰すのは公平ではない。

安全保障政策、党内の路線対立、労働組合との関係、変わりゆく社会と支持基盤のずれ。社会党が抱えていた問題の多くは、土井が委員長になるはるか以前から存在していた。

むしろ一人の人物の人気によって、衰退過程にあった政党が数年間とはいえ政権をうかがう位置まで戻ったこと自体が異例だった、と見る方が歴史には近いのではないか。

土井たか子は、社会党を救えなかった政治家だったというより、社会党がまだ救えるかもしれないと国民に思わせた最後の政治家だった。

女性初の衆議院議長へ

そして土井の政治人生は、「山が動いた」で終わらない。

1993年の衆議院議員総選挙で自民党は単独過半数を失い、細川護煕を首相とする非自民連立政権が成立した。

その新しい国会で、土井たか子は第68代衆議院議長に選ばれる。

女性として初めての衆議院議長だった。在任期間は1993年8月6日から1996年9月27日までである。

社会党委員長として自民党と激しく対決した人物が、今度は国会全体を代表し、与党と野党双方を公平に扱わなければならない席に座った。

議長時代には、議員を呼ぶ際の慣例だった「君」ではなく「さん」を用いたことでも知られる。

小さな変更に見える。

だが、いかにも土井らしい。

制度そのものを大声で否定するのではなく、その制度のなかに残っている「なぜ昔からこうなのか分からない慣習」を一つ問い直す。

女性だから特別扱いしてほしい、という話ではない。

そもそも男性ばかりだった時代につくられた慣習を、なぜそのまま続けなければならないのか。

土井たか子の政治には、そうした問い方が一貫していた。

女性政治家が「珍しかった時代」のスターだったのか

土井たか子を振り返るとき、「女性だったから人気が出た」という説明は半分しか当たっていない。

確かに、女性党首という新鮮さは大きかった。

テレビ画面に男性政治家がずらりと並ぶなか、土井はそれだけで目立った。

しかし、珍しいというだけで何年も国民的人気は続かない。

土井が強かったのは、彼女が登場することによって、周囲の政治の古さが逆に見えてしまったからではないだろうか。

男性ばかりの国会。

派閥を中心に動く自民党。

組織中心の社会党。

家庭内で女性が担っていた介護や家事を、政治問題として十分に扱ってこなかった社会。

政治家は政治家の言葉を話し、普通の人々はそれを遠くから眺めている。

その風景の中へ土井が入る。

すると、土井自身が特別に新しいという以上に、その周囲に残っていた「昔からこういうものだ」という政治の姿が古く見えた。

政治家がスターになるとき、その人物一人の能力だけで現象が起きるとは限らない。

社会の方がすでに変わり始めているのに、制度や政治文化だけが取り残されているとき、そのずれを一人で可視化してしまう人物が現れることがある。

1989年の土井たか子は、その位置にいた。

「山が動いた」から36年後、日本に女性首相が誕生した

1989年から36年後の2025年10月21日、高市早苗が衆参両院の内閣総理大臣指名選挙で指名され、第104代内閣総理大臣に就任した。

日本で初めての女性首相だった。

もちろん、土井たか子と高市早苗の政治思想は大きく異なる。

だから、女性という一点だけで二人の政治を直線的につなぐべきではないだろう。

それでも歴史として眺めれば、不思議な連続性がある。

1989年、参議院は土井たか子を首相として指名した。

しかし衆議院では届かなかった。

それから36年を経て、初めて女性が実際に内閣総理大臣となった。

その翌年である2026年は、日本の女性が国政選挙で初めて選挙権と被選挙権を実際に行使してから80年に当たる。

ここは年月を正確に分けて考える必要がある。

女性の国政参政権は、1945年12月17日の衆議院議員選挙法改正によって制度上認められた。そして翌1946年4月10日の第22回衆議院議員総選挙で、女性は初めて投票し、立候補した。この選挙では39人の女性衆議院議員が誕生している。したがって、参政権獲得から数えれば2025年が80年、実際の国政選挙での行使から数えれば2026年が80年となる。

80年という時間を置いて眺めると、土井たか子の位置が少し違って見えてくる。

彼女は女性首相になった政治家ではない。

女性政治家が当たり前になった時代の政治家でもない。

女性が大政党の党首になること自体が歴史的事件であり、女性候補が多数当選すれば「旋風」と呼ばれた時代に、その珍しさを弱点ではなく政治的な力へ変えた人物だった。

しかも彼女は、最後まで「女性問題だけを語る女性政治家」にはならなかった。

憲法を語り、外交を語り、税制を語り、介護を語った。

社会党を率い、参議院で自民党を過半数割れに追い込み、参議院から首相に指名され、最後には衆議院議長になった。

その意味では、土井たか子を単に「女性政治家の先駆者」と呼ぶだけでは、少し小さすぎるのかもしれない。

山とは何だったのか

結局、1989年に動いた「山」とは何だったのだろう。

社会党だったのか。

自民党だったのか。

女性だったのか。

おそらく、そのどれか一つではない。

長い間、「政治とはこういうものだ」と考えられてきた常識そのものが山だったのではないか。

政治家は男性である。

政権は自民党が握る。

家庭の問題は家庭で解決する。

普通の市民が政治を動かすことなどない。

その一つ一つは法律に書かれていたわけではない。

それでも社会の中には、岩盤のように存在していた。

だから一つの選挙で社会党が勝っただけなのに、人々はそこに何か巨大なものが動く感覚を見た。

もちろん、山は完全には崩れなかった。

社会党はその後衰退し、土井ブームも終わった。1989年に集まった熱狂が、そのまま新しい政治体制をつくったわけでもない。

それでも、動かなかったことにはならない。

山は、動いた後に元の場所へ戻ることもある。

少しだけ形を変え、その変化が次の時代からは当たり前に見えることもある。

女性が政党の党首になること。

女性が衆議院議長になること。

女性が首相候補として扱われること。

そして、実際に女性が首相になること。

1989年には、そのどれもが現在ほど当たり前には見えなかった。

土井たか子という政治家を今振り返る意味は、彼女の政策に賛成することでも、かつての社会党を美化することでもない。

政治の景色が変わるときには、その変化が起きる少し前に、「こんなことは起きない」と多くの人が思っている。

その固定観念が崩れる瞬間を、一人の政治家が象徴することがある。

1989年の夏、その場所に立っていたのが土井たか子だった。

そして彼女が見た山は、社会党の山でも、自民党の山でもなかったのだろう。

長い間眠っていた人々が、自分たちも政治を動かす側に立てるかもしれないと感じた、その巨大な塊こそが山だった。

「山が動いた」という言葉が今も残っているのは、だからなのかもしれない。

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昭和の政治家には、平成以降の政治家とはどこか異なる空気がある。それは政策の違いだけではなく、政治家自身が国家の歴史を背負っているかのように振る舞い、ときには自分の人生と日本という国の歩みを重ね合わせながら政治を語ったことに由来するのかもしれない。その意味で、中曽根康弘ほど「昭和の政治家」という言葉が似合う人物は少ない。大正に生まれ、戦争を経験し、敗戦直後に国政へ入り、高度経済成長と冷戦の時代を駆け抜け、昭和の終わりが近づいた1980年代に総理大臣として政権の頂点に立った彼の人生をたどると、そこには一人の政治家の成功物語というより、日本の戦後そのものが映っている。

中曽根はしばしば「大統領型首相」、より正確には「大統領的首相」と評される。もちろん、日本は大統領制ではなく議院内閣制であり、中曽根が総理大臣になったことで制度そのものが変わったわけではない。彼が変えようとしたのは制度の名称ではなく、総理大臣という職の使い方だった。それまでの自民党政治では、総理とは派閥や党内有力者、官僚組織、業界団体などの利害を調整し、その均衡の上に立つ存在であることが多かったのに対し、中曽根は総理自身が国家の進む方向を示し、国民に直接語りかけ、世論を味方につけながら党と官僚を動かしていく政治を求めたのである。後年の研究でも、その政治手法は「大統領的首相」と位置づけられている。

しかし、その発想は1982年に総理大臣になって突然生まれたものではなかった。むしろ中曽根の政治人生を振り返ると、若いころから一貫して抱いていた問題意識が、長い時間をかけて総理在任中に形になったものだと考えた方が分かりやすい。

敗戦を知る青年が、戦後政治の中へ入っていった

中曽根康弘は1918年、群馬県に生まれ、東京帝国大学法学部を卒業した後、官僚の道に入ったが、ほどなく海軍に入り、戦争を経験した。終戦時には海軍主計少佐となり、敗戦後は内務省系の官僚として勤務した後、1947年、新憲法下で行われた衆議院議員総選挙で初当選する。まだ28歳であり、その後2003年まで衆議院議員を務めることになるのだから、国会議員としての経歴だけで半世紀をはるかに超えることになる。

ここには、中曽根という政治家を理解するうえで重要な原点がある。彼は戦後に政治家になった人物ではあるが、精神形成そのものは戦前の日本で行われ、しかも国家の敗北を軍人として経験した世代だった。戦争に敗れ、それまで絶対的なものに見えていた国家の制度が一夜にして崩れ、占領政策の下で新しい憲法と新しい政治制度がつくられていく光景を、彼は青年期に目撃している。だから中曽根にとって「国家とは何か」「日本は誰が統治するのか」という問いは、政治学の教科書に書かれた抽象的な問題ではなく、自分の青春そのものに刻み込まれた問題だったのである。

戦後の中曽根が自主憲法制定や自主防衛を強く唱えたのも、この経験と切り離して考えることは難しい。ただし、彼を単純な戦前回帰の政治家として理解すると、その後の政治人生を読み誤る。中曽根は後に「戦後政治の総決算」を掲げることになるが、それは戦後40年間そのものを否定するという意味ではなく、本人も国会で、戦後日本が平和、民主主義、平等、経済的繁栄において大きな成果を上げてきたことを明確に認めている。そのうえで、40年という時間の中で制度に生じたひずみを修正し、日本が次の時代に進むための政治を行うというのが、彼のいう「総決算」だった。

若き中曽根が考えた「首相を国民が選ぶ政治」

中曽根の「大統領型首相」という発想の源流を探ると、1960年代初めまでさかのぼることができる。1962年に刊行された『首相公選論~その主張と批判』には、中曽根自身による「首相公選論の提唱」が収録されており、彼がかなり早い段階から、総理大臣と国民との関係そのものを変えようとしていたことが分かる。

なぜ国会議員でありながら、国会が選ぶ総理ではなく、国民から直接政治的正統性を得る総理を考えたのか。その背景には、中曽根が戦後の議院内閣制の運用に感じていた不満があった。研究では、中曽根の首相公選論には、派閥政治、政権の不安定、激しい政争によって政治責任の所在が曖昧になることへの問題意識があり、民意をより直接的に政治の中心へ取り戻そうという考えがあったと整理されている。

戦後自民党政治では、総理大臣になるために国民から直接選ばれる必要はなかった。それよりも重要なのは、自民党総裁選挙で派閥の支持を集めることであり、そのためには政策だけでなく、誰と組み、誰と妥協し、誰の支持を受けるかが決定的な意味を持った。中曽根が嫌ったのは、まさにこの構造が政治の最終的な責任者を曖昧にすることだったのだろう。総理が国民に向かって国家の方向を示すのではなく、党内の実力者たちの合意をまとめる議長のような存在になってしまえば、政治は誰の意思によって動いているのか分からなくなる。中曽根が求めたのは、国民から政治的な力を得た指導者が、自分の責任で決断する政治だった。

もっとも、ここに中曽根という政治家の面白さがある。理念としては強い指導者を求めながら、自分自身が総理になるまでの道のりでは、誰よりも自民党派閥政治の海を巧みに泳いだからである。

「風見鶏」と呼ばれた男は、本当に信念がなかったのか

中曽根には長い間、「風見鶏」というあまりありがたくない呼び名がついて回った。政治状況によって立場を変え、時の権力者と巧みに関係を築く姿が、風向きによって向きを変える風見鶏のように見えたからである。岸信介、佐藤栄作、田中角栄ら自民党の実力者が次々と主役を演じる時代、中曽根は政界の中心から完全に外れることなく、科学技術庁長官、運輸大臣、防衛庁長官、通商産業大臣、自民党幹事長、行政管理庁長官などを歴任しながら、総理の椅子に近づいていった。

だが、「風見鶏だったから信念がなかった」と結論づけると、中曽根の半分しか見たことにならない。むしろ彼には、自分が実現したい国家像を持ちながら、それを実現するためにはまず権力を握らなければならないという、極めて現実主義的な政治観があったように見える。政治家は思想家ではない以上、正しいことを語っているだけでは国家を動かせない。昨日の敵とも必要なら手を結び、党内で少数派なら多数派の力を借り、機会が来るまで待つというその姿勢は、美しくはないかもしれないが、権力というものの性質を熟知した政治家の姿でもあった。

そして皮肉なことに、その中曽根が1982年11月に総理大臣になったとき、彼を首相の座へ押し上げる大きな力となったのが田中角栄だった。当時の田中はロッキード事件の刑事被告人でありながら自民党最大級の勢力を保持しており、その支援を受けて成立した中曽根政権は「田中曽根内閣」「角影内閣」とまで揶揄された。長年、国家の指導者として強い首相を構想してきた中曽根が、いざ首相になってみると、背後には巨大な田中派の影が見えるという、何とも皮肉な出発だったのである。

だからこそ、中曽根にとって「大統領型首相」という政治手法は、単なる好み以上の意味を持ったのではないか。党内の後ろ盾によって総理になった人物が、その後ろ盾から自立するためには、別の政治的な力が必要になる。その力を中曽根は、官邸と政策、そして何より国民世論の中に求めたのである。

派閥の上に立つには、国民に直接語らなければならなかった

中曽根政権の特徴の一つは、首相自身が政治の物語をつくったことである。政策を各省庁に任せ、出来上がったものを総理が説明するのではなく、まず総理が「何を変えるのか」という大きなテーマを国民に提示し、そのテーマを中心に政治を動かしていく。テレビというメディアが政治に大きな影響を持ち始めていた時代、中曽根はその性質をよく理解していた。

1985年の国会で中曽根は、自らの政治手法について、政権発足以来「国民にわかりやすい政治」「国民に語りかける政治」を目指してきたと説明している。審議会や私的諮問機関に専門家や民間人を登用し、そこで議論を起こし、その問題を社会全体の議論にしていくという方法も多用した。これは党内や官僚組織の調整だけで政策を決める従来型の政治とは違い、先に世論を動かし、その世論を背景に既得権益を動かしていく手法だった。

ここに「大統領的」と呼ばれる理由がある。中曽根は議会を無視したわけではないし、実際には自民党内の派閥調整も続けていた。しかし政治の表舞台では、総理自身が国民に語り、国家の方向を示し、政策に自分の名前を刻もうとした。総理大臣を巨大な調整機構の最終承認者から、政治の中心的な演者へ変えようとしたのである。

後の小泉純一郎政権や安倍晋三政権で「官邸主導」という言葉が頻繁に使われるようになるが、その遠い原型を中曽根政治に見ることは十分可能だろう。ただし、中曽根の時代には現在ほど首相官邸の制度的権限が強化されていたわけではない。だから彼は制度の力ではなく、政治技術と世論と個人的な力量によって、総理の力を大きく見せなければならなかったのである。

行政改革こそ「大統領型首相」を必要とした

中曽根政治を象徴する最大の内政課題が行政改革だった。もっとも、行政改革そのものを中曽根一人が始めたわけではなく、第二次臨時行政調査会は鈴木善幸内閣時代の1981年に設置され、中曽根自身も行政管理庁長官として改革に関わっていた。彼は当時から、戦後の日本が欧米への追いつきをほぼ実現した以上、明治以来続いてきた中央集権的で規制中心の行政から、民間の創意や活力を生かす行政へ変える必要があると国会で論じていた。

しかし行政改革とは、誰もが賛成できる抽象的な言葉ほど簡単なものではない。実際に改革を始めれば、省庁の権限、国会議員の利害、業界団体、労働組合、地域経済など、既存の制度によって利益を得ているさまざまな勢力と衝突する。つまり行政改革を実現するためには、関係者全員の合意を待つ調整型政治では動かない場面が必ず出てくる。そこで必要になるのが、「国家全体の利益」という大きな物語を掲げ、個別の利害を乗り越えようとする強い首相だった。

中曽根政権下では、日本電信電話公社と日本専売公社の民営化が1985年に実現し、さらに最大の難題であった日本国有鉄道の分割・民営化も進められ、1987年4月に新しい鉄道会社へ移行した。日本国有鉄道は巨額の累積赤字と長期債務を抱えており、改革は以前から国家的課題となっていたが、巨大組織を実際に解体し、新しい経営形態へ移す作業には極めて大きな政治的エネルギーが必要だった。

行政改革は、中曽根がなぜ強い首相を求めたのかを最もよく説明している。大統領型首相とは、威張る総理のことではない。中曽根にとってそれは、巨大な制度を変更するとき、誰が最終的な政治責任を引き受けるのかという問題だったのである。

「ロン・ヤス」が映し出した、日本という国の変化

中曽根の大統領的な政治手法が最も映像的に表れたのは、国内政治より外交だったかもしれない。アメリカのロナルド・レーガン大統領との親密な関係は「ロン・ヤス」と呼ばれ、二人の個人的な信頼関係そのものが日米関係の象徴として報じられた。

しかし、これは単なる仲良し外交ではなかった。1980年代、日本はすでに世界有数の経済大国となりながら、安全保障ではアメリカへの依存が大きく、国際政治における発言力と経済力との間にはなお距離があった。中曽根は、その日本を単なる経済大国から国際政治の主体へ押し上げようと考え、日米同盟を外交の基軸として明確に位置づける一方、中国や韓国との関係構築にも力を入れた。外務省の当時の記録でも、中曽根はレーガンとの首脳外交を通じ日米の相互信頼を強化すると同時に、中国の指導者とも関係を深めている。

首脳外交という舞台は、中曽根の政治観と非常に相性がよかった。国と国との関係を官僚同士の交渉だけで処理するのではなく、国家の指導者同士が信頼関係をつくり、その姿を世界と国民に見せる。そこでは総理は国内の派閥代表ではなく、「日本」という国家そのものを演じる人物になる。中曽根が求めていた大統領的首相像は、サミットという舞台に立ったとき最も完成された姿を見せたともいえる。

「戦後政治の総決算」という危うい言葉

中曽根政治を語るとき避けて通れないのが、「戦後政治の総決算」という言葉である。この表現には、行政改革だけでなく、教育、憲法、安全保障、国家意識など、戦後日本が築いてきた制度全体を一度検証し直そうとする意志が込められていた。

防衛政策でも、中曽根政権は従来より積極的な姿勢を取った。1976年の三木内閣以来、防衛関係費について国民総生産の1%を上限の目安とする方針が続いていたが、中曽根政権末期の1987年度予算ではこの枠を適用しないことが決まり、結果として1%を超えることになった。ただし中曽根自身は、防衛費を無制限に増やす考えではなく、専守防衛や非核三原則などを維持しながら防衛力を整備するという説明をしていた。

このあたりが、中曽根という政治家を単純な「保守強硬派」という一語で説明できないところでもある。国家意識や自主防衛を強調する一方で、現実の外交ではアメリカとの同盟を重視し、中国や韓国との関係にも気を配る。理念だけを見れば一直線に進みそうに見えるが、現実政治では何度も速度を落とし、ときには方向を修正する。その姿を「風見鶏」と見るか、「現実主義者」と見るかによって、中曽根への評価は大きく変わる。

靖国参拝が示した「強い首相」の限界

その矛盾が最も鮮明に現れた出来事の一つが靖国神社参拝だった。戦後40年にあたる1985年8月15日、中曽根は首相として靖国神社を公式参拝した。政府は戦没者を追悼し、平和への決意を新たにすることが目的だと説明したが、中国から強い批判が寄せられ、外交問題となった。

興味深いのは、その後である。中国側からの反発を受け、1986年と1987年には中曽根首相の靖国参拝は行われなかった。外務省の後年公開資料にも、1985年の公式参拝を契機に中国側から強い批判があり、その後の首相参拝が見送られた経緯が記録されている。

ここには「大統領型首相」の限界と、中曽根の現実主義が同時に表れている。強い指導者だからといって、自分の信念だけで国家を動かせるわけではない。国内で支持される象徴的行動が外交では重大な摩擦を生むこともあり、そのとき政治家は理念と国益の間で判断しなければならない。中曽根は踏み込み、反発を受け、そして引いた。その姿は一見すると一貫性を欠いているようでありながら、政治とは自分の意思を貫くだけの仕事ではないことを誰より理解していたとも読めるのである。

1986年、「大統領型首相」は頂点に立った

1986年の衆参同日選挙で、自民党は衆議院304議席を獲得する大勝を収めた。 田中角栄の力を借りて総理になり、「田中曽根」と揶揄された男は、4年後には自分自身の人気と政権実績を背景に自民党を歴史的勝利へ導く首相となっていたのである。

ここで中曽根の「大統領型首相」は一つの完成を見る。党内派閥の合意によって選ばれた総理が、国民に直接語り、選挙で大勝し、その結果によって党内に対する自らの権威を強める。制度として首相公選を実現することはできなかったが、政治的には国民の支持を自らの権力基盤とする総理像をかなりの程度まで実現したともいえる。

中曽根内閣の通算在職日数は1,806日に達した。戦後の総理大臣としては異例の長期政権であり、短命内閣が珍しくなかった昭和の自民党政治の中では、それ自体が中曽根政治の力を示している。

だが、政治の絶頂は永遠には続かない。1987年に導入を目指した売上税は激しい反発を受けて挫折し、中曽根自身も後に、国民への説明時間や手続きが十分ではなく、理解を得られなかったことを認めている。 それは皮肉にも、「国民に語りかける政治」を掲げて成功してきた中曽根が、最後に国民への説明不足によって大型改革につまずいた出来事だった。

強い首相でも、世論を越えて政治を行うことはできない。むしろ中曽根政治の成功と失敗は、大統領的リーダーシップとは世論を無視する政治ではなく、世論との関係を絶えずつくり続けなければ成立しない政治であることを示している。

総理を辞めても、「国家を語る政治家」を辞めなかった

1987年11月、中曽根は竹下登を後継に選び、総理の座を退いた。だが、そこで政治家としての人生が終わったわけではなかった。1988年には世界平和研究所を設立し、安全保障や国際経済について研究・政策提言を行う拠点をつくり、政界の長老として発言を続けた。

もちろん、その晩年が完全に平穏だったわけでもない。リクルート問題をめぐって自民党を離党する時期もあり、中曽根政治の影の部分が消えたわけではなかった。それでも国会議員としての活動を続け、2003年まで衆議院議員の座にあった。

その政界最後の場面も、中曽根らしい。85歳となった2003年、小泉純一郎首相が自民党の比例代表候補に73歳定年制を厳格に適用しようとしたため、中曽根は引退を求められた。当初は強く反発したものの、最終的には立候補を断念し、1947年以来続いた56年余りの国会議員生活に幕を下ろした。

ここには奇妙な歴史の巡り合わせがある。中曽根が開拓した「総理が国民に直接訴え、党内の長老や派閥を越えて決断する政治」を、より鮮明な形で実践した政治家の一人が小泉だった。その小泉による党改革の対象となり、昭和政治を代表する中曽根自身が舞台から降ろされることになったのである。

自分がつくった新しい政治の型が、やがて自分の属していた古い政治の世界を壊していく。その場面は、中曽根康弘という政治家の終幕として、不思議なほど象徴的だった。

なぜ中曽根は「大統領型首相」を目指したのか

結局、中曽根康弘はなぜ大統領型首相を目指したのだろうか。

それは単純に権力欲が強かったからではない。もちろん、政治家として強烈な上昇志向を持った人物であったことは否定できない。しかしその奥には、戦争と敗戦を経験し、戦後日本の政治を最初から見続けてきた人物として、「誰が国家の方向を決め、その結果に責任を負うのか」という問いがあったのではないだろうか。

派閥が総理を選び、官僚が政策をつくり、業界団体が利益を守り、政治家がそれを調整する。その仕組みは高度経済成長期の日本を安定させるうえで大きな役割を果たしたが、経済大国となり、国際政治でも責任を求められるようになった1980年代には、従来の調整型政治だけでは国家の方向を決めにくくなっていた。中曽根はそこに、国民へ直接語りかける首相、政策の優先順位を自ら決める首相、外国の首脳と国家を代表して渡り合う首相を置こうとしたのである。

その試みには危うさもあった。指導者の個人的信念が強くなれば、議会や党内の慎重な議論が軽視される危険があり、世論への直接訴求が政治的演出へ傾けば、政策の複雑さが単純な物語に置き換えられる可能性もある。中曽根自身、靖国参拝や売上税をめぐって、強い政治指導と社会の合意との間にある難しさを経験した。

それでも、中曽根以前と以後で、日本の総理大臣像がまったく同じだったとは言いにくい。総理自身がテレビの前に立ち、国民へ政策を説明し、首脳外交を自ら演出し、選挙で得た支持を背景に党内を動かすという政治は、その後の日本政治で繰り返し現れるようになった。中曽根が完全な形で大統領型首相を完成させたというより、総理大臣という職にはこれほど大きな政治的可能性があることを、日本政治に見せたと考える方が適切なのかもしれない。

昭和政治最後の大物とは何だったのか

中曽根康弘は2019年11月29日、101歳で亡くなった。1918年に生まれた人物が、令和の日本まで生きたことになる。

その101年を振り返れば、戦前の日本、太平洋戦争、敗戦、占領、55年体制、高度経済成長、冷戦、バブル経済、平成の政治改革、そして21世紀の日本までが一人の人生の中に収まっている。1947年に28歳で国会へ入った青年が、1980年代にはレーガン大統領と並んで世界政治を語り、21世紀には小泉純一郎から世代交代を迫られる長老になったのである。

だから中曽根を「昭和政治最後の大物」と呼ぶとき、その「大物」とは単に権力が大きかったという意味ではないのだろう。国家とは何か、憲法とは何か、安全保障とは何か、日本は世界でどのような国になるべきなのかという巨大な問いを、政治家自身の言葉で語ることをためらわなかった最後の世代に属していた、という意味の方が近い。

その思想に賛成するか反対するかは別問題である。中曽根政治には功績もあれば、現在まで評価の分かれる政策や言動もある。しかし、半世紀を超えて政治の中心近くに居続けながら、最後まで「日本という国をどうするのか」という問いを手放さなかったことだけは確かだろう。

中曽根康弘が求めた「大統領型首相」とは、結局のところ権力の形式ではなく、政治家が国家の進路について自ら決断し、自ら国民に説明し、その結果について自ら歴史の評価を受けるという政治家像だったのではないか。

昭和という時代が遠くなった現在、中曽根の政治を振り返る意味もそこにある。強い総理がよいのか、調整する総理がよいのかという単純な二者択一ではなく、民主主義の中で政治的リーダーシップはどこまで強くあるべきなのか。そして、強い指導者を望むとき、その力を誰が監視し、誰が最後に裁くのか。

中曽根康弘という政治家の生涯は、その問いへの答えではない。

むしろ、昭和から令和へ残された、まだ終わっていない問いなのである。

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総理大臣という仕事には、不思議なところがある。

就任する瞬間には、日本中の視線が一人の政治家に集まり、官邸へ入る車のドアが開くだけでもニュースになり、外国の首脳と並んで歩けば、その一挙手一投足が「日本の意思」として世界に伝えられるのに、退任した瞬間から、その人は突然「元総理」と呼ばれるようになる。もちろん衆議院議員として残る人もいれば、党内で相変わらず大きな力を持つ人もいるのだが、それでも昨日まで自分の判断によって大臣を任命し、衆議院を解散し、国家の進路を決めていた人間が、翌日には別の総理大臣が座る官邸をテレビで眺める側へ回るのである。

考えてみれば、これほど大きな人生の落差も珍しい。

だからこそ政治家という人物を知るには、総理大臣だった時代だけを見るより、むしろ総理大臣でなくなってから何をしたのかを眺めた方が、その人の本質が見えてくる場合がある。権力を失ってもなお権力のそばに居続けようとする人もいるし、驚くほどあっさり政界から距離を置く人もいる。一つの政策に残りの人生を賭ける人もいれば、外交の舞台を歩き続ける人もいる。そして一度は「元総理」になりながら、再び総理大臣になってしまった人物さえいる。

2025年に刊行された日本の元首相を研究した書籍『Former Prime Ministers in Japan』も、日本では元首相が単なる「引退した指導者」になるとは限らず、党内政治、派閥、外交、政策運動などを通じて長期間にわたり影響を残すことを指摘している。つまり日本政治では、総理退任は必ずしも政治人生の終着駅ではないのである。

では、2000年以降に総理大臣を務めた人々は、その巨大な椅子から降りたあと、どのように生きてきたのだろうか。

そこには、思った以上に異なる人生がある。

森喜朗~表舞台を降りても「政治の奥座敷」からは去らなかった人

2001年に総理を退任した森喜朗は、退任後の人生という意味では非常に日本的な元首相だったと言えるかもしれない。

再び首相や大臣になろうとはしなかったが、だからといって政治から離れたわけでもなく、長く自民党の派閥に影響力を残し、2012年に国会議員を引退してからも、かつて自ら率いた政治集団の人事について相談を受ける存在であり続けた。安倍晋三の死後、旧安倍派の後継体制をめぐる局面でも森の影響力が取り沙汰されており、国会議員でなくなってから十年以上たっても政治の奥座敷に席が残っていたというのだから、「引退」という日本語から普通に想像する姿とはかなり違う。

一方で、森が退任後に情熱を注いだもう一つの世界がスポーツだった。ラグビー界との長い関係を持ち、日本でのラグビーワールドカップ開催にも関わり、さらに2014年から東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長を務めたことで、首相在任中よりも長い期間、スポーツ行政の中心人物として国民の前に現れ続けた。

しかし、その長い第二の政治人生の終盤で、女性についての発言が国内外から強い批判を受け、2021年に組織委員会会長を辞任することになった。東京大会そのものが新型コロナウイルス感染症による延期という難局にあった時期だけに、その辞任は森の退任後の歩みに大きな影を落とす出来事となった。

森の歩みを見ると、「晩節」とは単に静かに余生を送ることではないのだと思わされる。力を持ち続ければ、その力によって仕事をすることもできるが、その分だけ最後まで評価の舞台から降りることもできないのである。

小泉純一郎~権力から離れたことで、かえって自由になった人

森とは対照的なのが、その後を継いだ小泉純一郎だった。

2006年に五年余りの長期政権を終えると、小泉は後継者として安倍晋三を送り出し、その後しばらく衆議院議員を続けたものの、2009年の総選挙には出馬せず、国会そのものから去った。首相在任中には、郵政民営化をめぐって自民党を二分するほどの闘争を演じ、「自民党をぶっ壊す」という言葉で政治の主役を演じた人物であるだけに、退任後も党内最大級の実力者として振る舞うことは十分可能だったはずだが、その道を選ばなかったところに小泉らしさがある。研究書も、小泉の党内での影響力は退任後かなり早く低下したと分析している。

ところが、政治家として静かになった小泉が再び強い言葉を発するようになったのは、2011年の東京電力福島第一原子力発電所事故を経験してからだった。

首相時代には原子力発電を否定していなかった小泉が、退任後には原子力発電からの脱却を唱え、講演を続け、2014年の東京都知事選挙では同じ元首相の細川護熙を支援し、その後も菅直人らとともに原子力政策の転換を訴えるようになる。

ここには少し皮肉な構図がある。総理大臣だった時には、政党、官僚組織、財界、国際関係、電力供給という巨大な現実を背負わなければならなかった政治家が、その椅子から降りたことによって初めて、一人の政治家として自分が正しいと思うことだけを語れるようになったのである。

小泉の晩年が比較的すっきりして見える理由も、おそらくそこにある。彼は「元総理」という肩書を権力への通行証として使うより、発言を聞いてもらうための拡声器として使った。その主張に賛成するかどうかとは別に、総理退任後の生き方として一つの完成された形である。

安倍晋三と麻生太郎~「元総理」が終着点にならなかった二人

しかし、政治家にとって総理退任後の人生が静かな余生であるという常識を最も劇的に壊したのは、安倍晋三だった。

2007年、第一次安倍政権はわずか一年ほどで終わり、健康問題もあって退任した。その時点で、多くの人には安倍の政治人生が頂点を越えたように見えただろう。ところが安倍は一議員として雌伏し、その間に自らの政治手法や経済政策を再構築し、2012年に自民党総裁へ返り咲くと総選挙に勝利し、再び総理大臣になった。

元総理が再び総理になる例は日本政治史にもあるが、2000年以降では安倍だけであり、一度失敗した政権の記憶を抱えたまま政治的に復活し、その後は憲政史上最長の首相在任期間を築いたという経歴は、「晩節」という言葉そのものを一度無意味にしてしまったほどである。研究書でも、1989年以降の元首相の中で安倍を最も強い再登板意欲を示した人物として位置付けている。

そして2020年、二度目の退任を迎えたあとも、今度は本当の引退にはならなかった。安倍は2021年に自民党最大派閥の会長となり、外交・安全保障や経済政策をめぐって発言を続け、後継世代の政治家にも強い影響を及ぼしていたが、その時間は2022年7月の銃撃事件によって突然断ち切られた。

その安倍と長く政治行動をともにしながら、また別の意味で「元総理になっても終わらなかった」のが麻生太郎である。

麻生は2009年、総選挙で自民党が大敗して政権を失った時の首相だったから、本来なら政治家として大きな責任を負って第一線から遠ざかっても不思議ではなかった。しかし三年後、安倍政権が復活すると、副総理兼財務大臣として政権中枢へ戻り、その後約九年間にわたって巨大な存在感を示した。さらに首相退任から十七年近くたった2026年になっても衆議院議員であり、高市早苗総裁の下で自民党副総裁を務めている。

ここまで来ると、麻生に「首相退任後の晩節」という言葉を当てはめること自体が難しい。首相という地位は彼の長い政治人生の一時期にすぎず、退任によって人生が前半と後半に分かれたのではなく、一本の長い政治生活の途中に首相在任期間が挟まっていたようにさえ見えるからである。

福田康夫と鳩山由紀夫~同じ「元首相外交」でも、残る印象はまったく違う

首相を辞めた人物には、現職首相にはできない仕事もある。

政府の正式な代表ではないから外交交渉の責任を負うことはできない代わりに、政府同士の関係が冷え込んでいる時にも相手国へ赴き、長年築いた人脈によって対話の糸をつなぐことができる。福田康夫の退任後は、その典型に近い。

2008年に首相を辞任した福田は2012年に国会議員を退いた後も、ボアオ・アジア・フォーラムをはじめとする国際組織や日中関係に関わり続け、特に中国との関係では、政府間関係が難しい時期にも首脳級と接触できる元首相として役割を果たしてきた。研究書は、福田が元首相として「長老政治家」に近い国際的役割を担い、中国との緊張緩和に非公式に寄与した局面を指摘している。

福田の興味深いところは、首相時代より退任後の方が、その人物像が分かりやすくなったように見えることである。政権運営では「地味」「調整型」と評されることの多かった性質が、元首相外交になると、むしろ相手の話を聞き、派手な自己主張をせず、長い時間をかけて関係をつなぐという長所へ変わった。

ところが、同じように東アジアとの対話を退任後の仕事にした鳩山由紀夫の人生は、まったく異なる評価を呼ぶことになった。

鳩山は2012年に政界を引退し、翌2013年には東アジア共同体研究所を設立して、自らが首相時代から唱えていた東アジア共同体や「友愛」という理念を追求し続けた。首相在任中に十分実現できなかった理念を、政治権力を失った後も個人として追い続けたという点では、その行動には驚くほど一貫性がある。

しかし元首相は、本人が私人になったつもりでも、外国から見れば完全な私人にはならない。2015年に政府の方針に反してロシアが併合したクリミアを訪問した際には日本政府から強い批判を受け、さらに2025年には北京で中国政府が開催した抗日戦争勝利80年の記念行事にも私人として出席した。

鳩山自身から見れば、それは首相時代から続く東アジア和解という思想の延長なのだろう。しかし国家の元代表者という肩書は、その人が官邸を去った日には消えてくれないため、本人が「個人の外交」と考える行動も、国内外では日本政治の一部として読まれてしまう。

福田と鳩山を並べると、元首相外交の難しさがよく見える。政治的立場を越えて相手国と話せることは元首相の財産だが、その自由が大きくなるほど「日本を代表しているのか、していないのか」という境界も曖昧になるのである。

菅直人と野田佳彦~敗れた政権の記憶を、どう背負って生きたか

2009年に始まった民主党政権の三人の首相は、いずれも短期間で官邸を去ったが、その後の歩みはかなり違う。

菅直人の場合、退任後の人生から福島第一原子力発電所事故を切り離すことはできなかった。

事故当時の首相だった菅は、政権を離れてから原子力発電に依存しない社会を強く主張するようになり、小泉純一郎らとも行動をともにした。それと同時に、事故対応をめぐる自らの判断について著書や講演で説明を続けており、研究者から見れば、政策運動と同時に「自分があの時何をしたのかを歴史に説明し続ける元首相」という側面を持っている。

そして2024年の衆議院選挙には立候補せず、国政から退いた。

小泉が福島事故を外から見て原子力政策を変えた人物であるのに対し、菅は事故の渦中にいた当事者として原子力政策を変えた人物であり、同じ脱原発という結論に至っていても、その言葉の背後にある人生はまるで違う。

ところが野田佳彦は、首相退任から十年以上たってから再び政治の中心へ戻ってきた。

2012年の総選挙で民主党政権が大敗すると代表を辞任したが、国会議員を続け、駅頭での活動や国会論戦を積み重ね、2024年には立憲民主党代表へ返り咲いた。かつて首相として政権を失った人物が、十年以上後に野党第一党を率いて再び政権交代を目指す姿は、安倍とは方向こそ逆であっても、「政治家の人生は一度の敗北では終わらない」という点でどこか似ている。

さらに政治はそこで終わらず、2026年1月には公明党側と合流して中道改革連合を結成し、野田は共同代表となった。しかし2月の衆議院選挙で同党は49議席にとどまり、選挙後に野田と斉藤鉄夫は責任を取って共同代表を辞任し、その後、野田は党顧問となった。

首相退任から十四年後、再び大きな政治的勝負に出て、再び敗北の責任を負って代表を降りたことになる。

だから野田の晩節は、まだ「静かな晩節」と呼べるものではない。むしろ、総理経験者でありながら駅前に立ち、野党政治家としてもう一度勝負し、それでも選挙に敗れれば代表を辞めるという、政治家という職業からなかなか降りようとしない人生そのものが、野田という人物を表しているように思える。

菅義偉~元の「裏方」に戻り、最後は自分で幕を引いた

安倍政権で七年八か月にわたり官房長官を務めた菅義偉は、もともと派手な理念を語る政治家というより、物事を動かす政治家だった。

そのため2021年に首相を退任すると、彼は不思議なほど自然に、かつて得意としていた裏方の世界へ戻っていった。派閥には属さず、しかし党内の若手や中堅との人脈を持ち、2024年の自民党総裁選挙では小泉進次郎を支援した後、決選投票では石破茂を支持し、その石破体制で党副総裁に就くなど、表舞台の主役ではないまま「誰を主役にするか」に影響を与える政治家になった。

だが麻生とは違い、菅はその立場をいつまでも続ける道を選ばなかった。

2026年1月、77歳になった菅は次の衆議院選挙に立候補せず、後進に道を譲るとして政界引退を表明した。秋田の農家に生まれ、東京へ出て、政治家秘書、横浜市議、衆議院議員、官房長官を経て総理大臣まで上り詰めた人物が、最後には自ら「引き際」を決めたのである。

首相の退任そのものは、新型コロナウイルス感染症への対応などをめぐる支持率低下の中で迎えたものだった。しかし政治家としての最後まで同じ空気を引きずったわけではなく、数年間の元首相時代を経て、自分で後継者を示し、選挙に出ないと決めて去った。

晩節という言葉を「最後にどのように権力を手放したか」と考えるなら、菅の2026年の決断は、2000年以降の元首相の中でも比較的輪郭のはっきりした引き際だったと言えるだろう。

岸田文雄と石破茂~まだ「晩節」と呼ぶには早すぎる二人

岸田文雄と石破茂については、ここまでの元首相たちと同じ物差しで評価するのは早い。

岸田は2024年に首相を退任した後も衆議院議員を続け、2026年現在、自民党の日本成長戦略本部長として経済政策に関わっている。総理を辞めたからといって長老になったわけでも、政界を去ったわけでもなく、まだ68歳であり、元首相としての第二幕が始まったばかりである。

さらに新しい元首相が石破茂である。

石破は2025年10月に首相を退任した後も国会議員を続け、2026年の衆議院選挙でも鳥取1区で議席を維持した。退任から一年も経過していない2026年8月現在も、消費税、社会保障、皇室制度、自民党のあり方などについて積極的に発言しており、元首相というより、首相経験を持つ現役政治家と呼ぶ方が実態に近い。

岸田も石破も、これから麻生のように党内で長期間力を持つのか、福田のような長老型へ移るのか、小泉のように特定の政策課題へ向かうのか、それとも比較的早く政界から離れるのかは分からない。

晩節は、本人が書いている最中にはまだ晩節には見えないのである。

「立派な元総理」とは、静かな元総理のことなのだろうか

こうして2000年以降の首相たちを並べてみると、意外なことに気づく。

首相を辞めた後の人生に、模範解答など存在しない。

小泉純一郎のように政界そのものから離れ、一つの政策を訴える人生もある。福田康夫のように政府の外側から国際関係をつなぐ人生もあり、麻生太郎のように首相退任後の方がはるかに長く政権中枢に居続ける人生もある。安倍晋三は一度失った首相の座そのものを取り戻し、野田佳彦は政権を失って十年以上たってから再び野党の先頭に立った。菅直人は自らが首相として遭遇した巨大事故と向き合い続け、鳩山由紀夫は首相時代に実現できなかった外交理念を私人となってからも追い続けた。森喜朗はスポーツと党内政治に長く影響を残し、菅義偉は最後には自ら政治家としての終わりを決めた。

そこに共通しているものがあるとすれば、人間は一度この国の最高権力を経験すると、完全に「普通の人」に戻ることは難しいということなのかもしれない。

昨日まで外国首脳が自分を待ち、大臣が自分の判断を仰ぎ、全国の新聞が自分の言葉を一面に載せていた。その世界を知った人間が、翌日から庭を眺めて余生を過ごせと言われても、それほど簡単な話ではないだろう。

だから元首相の晩節を考えるとき、本当に問われるのは「政治を続けたか、辞めたか」ではない。

むしろ、自分がもう総理大臣ではないという事実と、どのように折り合いをつけたのかということなのだろう。

かつての肩書を使って後継者を動かすのか。その名声を一つの社会運動へ使うのか。国際社会との橋渡しに使うのか。それとも、自分が去るべき時を自分で決めるのか。

総理大臣として何を成し遂げたかは、教科書にも年表にも残る。

しかし、その人が本当はどんな政治家だったのかは、首相官邸の玄関から最後に出ていった、その後の人生にこそ表れるのかもしれない。

権力を握った時よりも、権力を失った時の方が、人間は隠しようがない。

2000年以降の元総理たちの人生を眺めていると、「晩節」という古い言葉が、少し違って聞こえてくる。

それは人生の最後をきれいに飾ることではない。

自分がかつて持っていた巨大な力と、最後にどのような距離を取ることができたのか。

おそらく政治家の晩節とは、その距離の取り方そのものなのである。

※本稿は2026年8月時点の公開情報をもとに、2000年以降に首相を務め、その後退任した人物を対象としている。小渕恵三は2000年4月まで首相を務めたが在任中に病に倒れ、退任後の政治活動を比較できないため本文の対象から外した。現職の高市早苗首相についても当然ながら対象としていない。歴代内閣の在任期間は首相官邸の公式記録による。

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「地域でお金を回しましょう」という言葉は、地方創生や商店街振興の場でよく聞かれる。地元の店で買い物をし、地元の会社に仕事を頼み、できれば地元で作られたものを選ぶ。それによって地域が豊かになる、と説明されることも多い。しかし、少し考えてみると不思議な言葉でもある。お金は使えば店に渡り、店から仕入先へ渡り、最後にはどこかへ消えていく。同じ千円札を町の中で何度受け渡したところで、千円札が二千円札になるわけではない。それでは「お金が回る」とは、経済学的にはいったい何が起きているのだろうか。

この問いを考えるには、財布の中の紙幣ではなく、その紙幣が誰の所得になるのかを見る必要がある。地域経済にとって重要なのは、お金そのものが町の中を移動することではない。ある人の支出が別の人の売上となり、その売上の一部が賃金や利益として地域住民の所得になり、その所得が再び地域の店や事業者に支払われる。この連鎖がどこまで続くかによって、同じ一円の経済的な意味が変わってくるのである。

一枚の千円札を追いかけてみる

たとえば、ある町を訪れた観光客が、地元の食堂で千円の昼食を食べたとする。この千円は、もともと町の外にあった所得である。それが食堂の売上として町の中へ入ってきた瞬間、地域経済には千円の需要が新しく生まれる。

けれども、その千円がそのまま食堂の主人の所得になるわけではない。米を買い、魚を仕入れ、電気代を払い、調味料を買い、設備を修理しなければならない。その食堂が地元の漁師から魚を買い、近所の米屋から米を仕入れ、町内の電気工事店に修理を頼んでいるなら、観光客が置いていった千円の一部は、食堂だけではなく町の別の事業者の売上へと変わっていく。

魚屋がその所得で町内の理髪店に行き、理髪店の主人が地元のスーパーで食料品を買えば、最初の千円が生み出した需要はさらに先へ進む。もちろん、そのたびに一部は町の外へ出ていく。それでも、外へ出るまでに何度も地域住民や事業者の所得を生み出すなら、その千円は地域経済の中で比較的大きな働きをしたことになる。

経済波及効果を分析するときにも、ある需要による直接的な売上だけでなく、原材料などへの需要が生まれる一次的な波及、さらにそこで生じた所得が消費されることによる二次的な波及が考えられる。環境省の地域経済波及効果分析でも、域外から原材料を調達したり、域外居住者へ賃金を支払ったり、所得が域外で消費されたりすれば、その途中で効果が地域外へ流出すると整理されている。

「地域でお金を回す」という言葉の実体は、こうした所得の連鎖なのである。

地域経済には「入口」と「出口」がある

もっとも、町の中だけで何度も買い物をしていれば、それだけで永遠に豊かになれるわけではない。ここには、地域経済を考えるうえで非常に重要な落とし穴がある。

十人の住民がそれぞれ一万円を持っている町を想像してみよう。互いに商品を売ったりサービスを提供したりすれば、取引額は増える。しかし、町全体が最初に持っていた所得そのものが、それだけで増えるわけではない。地域の中だけでお金を受け渡している経済は、やがて使える所得の限界にぶつかる。

そこで必要になるのが、地域の外から所得を獲得する力である。農産物を都市へ売ることも、製造業が町外へ製品を出荷することも、観光客が宿泊することも、地域外の企業から仕事を受注することも、外から所得を持ち込むという意味では同じ働きをする。町外で働く人の給与、年金や政府からの財政移転なども、経路は異なるものの、地域経済へ所得を流入させる役割を持つ。

環境省が地域経済を考える際に、「地域でお金を循環させること」と並んで「地域でお金を稼ぐ力」を重視しているのは、このためである。地域経済は、生産によって所得を稼ぎ、それが家計や企業へ分配され、消費や投資として支出され、再び生産へ戻っていく。したがって、外から稼ぐ力と、入ってきた所得を地域内に残す力の双方が必要になる。

町の経済を風呂桶にたとえるなら、域外から所得を稼ぐ産業は蛇口であり、町外への支払いは排水口である。桶の中で水を勢いよくかき回しても、蛇口が閉まり、排水口が大きく開いていれば、水位はやがて下がっていく。「地域でお金を回す」という言葉だけでは、この蛇口の存在を見落としやすい。

大切なのは「何回使われたか」より「どこまで残ったか」

ここで単純な数理モデルを考えてみると、地域経済循環の意味が見えやすくなる。

町外から百円が入ってきたとし、その百円を受け取った人が六十円を町内で使い、四十円を町外の商品やサービスに使うとする。次に六十円を受け取った人も、その六割に当たる三十六円を町内で使い、さらにその六割が町内で使われると仮定する。

すると地域内で生じる支出は、

100+60+36+21.6+……

と続いていく。

極端に単純化したモデルではあるが、地域内に残る割合を0.6とすると、この無限等比級数の合計は、

100÷(1-0.6)=250

となる。

最初に地域外から入ってきた百円をきっかけとして、累計では二百五十円分の地域内支出が生じ得るということである。もし地域内に残る割合が0.3しかなければ、同じ計算による累計は約百四十三円にとどまる。最初に入ってくる金額が同じでも、その後の地域内調達や地域内消費の割合によって、経済的な波及の大きさは大きく変わる。

ただし、この二百五十円を「百円が二百五十円の富になった」と理解してはいけない。ここで数えているのは累計された取引や支出であり、新しく生まれた付加価値や住民の所得とは区別しなければならない。それでも、この単純な計算は、「地域にいくら入ってきたか」だけでは地域経済の強さを測れない理由を鮮やかに示している。

地元企業なら必ず地域に残る、とは限らない

ここからさらに厄介な問題が出てくる。「地元の店で買うこと」と「地域に所得が残ること」は、似ているようで完全には同じではない。

町内にある店でも、販売している商品のほとんどを町外から仕入れ、設備も広告も情報システムも町外企業へ支払い、利益まで町外の本社へ送っているなら、売上のかなりの部分は地域外へ流れていく。一方、全国展開する企業であっても、地元住民を多数雇用し、地域の事業者から仕入れを行い、地域で設備投資をしているなら、その店舗から地域住民へ帰着する所得は決してゼロではない。

したがって、「地元資本か、大企業か」という看板だけを見て地域経済を論じると、本質を取り逃がす。重要なのは、売上のうちどれだけが地域住民の賃金になり、どれだけが地域企業の利益になり、どれだけの原材料やサービスが地域内から調達され、そこで得られた所得がさらにどこで使われるのかである。

経済産業省の地域間産業連関表も、地域の経済を単独で見るのではなく、財やサービスがどの地域から調達され、どの地域へ供給されるかという相互依存関係を捉えるために作られてきた。ある地域で投資が行われても、必要な財の多くを地域外から調達すれば、地域内に生じる生産波及は小さくなる。この考え方は、小さな町の商店や観光政策にも、そのまま当てはめることができる。

つまり、町に大きな店があるかどうかよりも、その店の後ろにどれだけ地域内の取引網がつながっているかの方が重要なのである。

「地産地消」だけでは地域は豊かにならない

ここまで考えると、「それなら何でも地域内で作ればよい」という結論に向かいたくなる。しかし、それもまた経済学的には危うい。

地域外から商品を買うこと自体が悪いわけではない。石油を産出しない町がガソリンを地域内で生産する必要はないし、小さな町が医薬品や自動車やコンピューターまで自給しようとすれば、かえって生活費は高くなり、生産性も落ちる。地域間で得意なものを交換することは、市場経済が豊かさを生み出してきた基本的な仕組みでもある。

問題は「地域外から買うこと」ではなく、地域が外から何も稼がないまま、あらゆる所得が一方向に外へ流れ続けることである。

地域で農産物を生産して都市へ販売し、その所得で地域外から自動車を購入するなら、それは交易である。しかし、地域内に域外から所得を獲得する産業がほとんどなく、住民が受け取った所得の多くを町外の店舗やサービスへ支払い続ければ、地域経済の循環は次第に弱くなる。

だから本当に考えるべきなのは、「町内で全部買おう」という閉鎖的な経済ではない。地域が得意なものを外へ売り、外から所得を呼び込みながら、その所得の一部が地域内の雇用、仕入れ、消費、投資へつながる構造をどう作るかなのである。

観光客が増えても地域が豊かにならないことがある

この問題が最も分かりやすく現れるのが観光地かもしれない。

年間百万人の観光客が訪れる町でも、宿泊施設の所有者が町外企業で、食材が町外から運ばれ、予約手数料が町外の事業者へ支払われ、土産物まで他地域で製造されているなら、観光客が落としたお金の相当部分は短時間で地域から出ていく。観光消費額だけを見れば巨大でも、その町で生活する人の所得があまり増えないということは十分に起こり得る。

反対に、観光客の人数がそれほど多くなくても、地元の宿が地域の農家から食材を買い、地元の酒を提供し、清掃や修繕を地域企業へ頼み、そこで働く住民が地域の商店を利用するなら、一人の観光客がもたらした所得は地域の中を比較的長く流れる。

環境省の地域経済循環分析が、単に地域の売上額を見るのではなく、生産、分配、支出の各段階で所得がどこから入り、どこへ出ていくのかを捉えようとしている理由もここにある。2025年12月に公表された最新版の分析ツールも、市町村単位で地域内外の資金の流れや産業間取引を分析できるものとして整備されている。

観光客の数を競うより、その一万円が翌朝どこへ行くのかを見る方が、地域経済の実像に近いのである。

地域経済を支えるのは「金額」より「つながり」なのかもしれない

ある町に百億円規模の工場が一つある場合と、数十人規模の企業、農家、商店、建設会社、宿泊業者、飲食店が互いに取引している場合とでは、どちらの地域経済が強いのだろうか。

答えは単純ではない。大工場が地域外から大きな所得を稼ぎ、地元住民を雇い、地域企業から多くを調達しているなら、それは非常に強力な地域経済の核になる。しかし、原材料も従業員も取引先も地域外に依存し、利益も本社へ送られるなら、巨大な生産額のわりに地域住民へ届く所得は小さい可能性がある。

逆に、小さな企業ばかりの地域でも、それぞれが互いに仕入れ、仕事を発注し、そこで得た所得を地域内で消費する関係が厚ければ、一つの需要が複数の事業者へ波及していく。地域経済を強くするものは、企業の数だけでも、観光客の数だけでも、売上高だけでもない。企業と企業、人と企業、そして地域と外部を結ぶ取引の網そのものなのである。

ここまで来ると、「地域でお金を回す」という素朴な言葉が、少し違って見えてくる。

それは、千円札を町から逃がさない運動ではない。

町の外から所得を稼ぐ人がいて、その所得を受け取る人がいて、その人の支出を次の誰かの所得に変えられる産業や店があり、その所得がさらに別の仕事を生み出していく。経済学的に見れば、「お金を回す」とは、その連鎖をできるだけ途中で切れにくくすることである。

地域に必要なのは、高い塀を造ってお金を閉じ込めることではない。外へ向かって開いた入口を持ちながら、入ってきた所得がすぐに流れ去ってしまわないよう、町の中に細かな水路を張り巡らせることなのだろう。

夕方、町の食堂で誰かが千円札を一枚置いて席を立つ。その千円が翌日には魚屋へ渡り、その週末には理髪店へ渡り、その一部が電気工事店の仕事になり、やがてどこかで町の外へ出ていく。

地域経済の強さとは、おそらく、その一枚の千円札が町を出ていくまでの時間ではない。

その途中で、何人の仕事と所得を生み出せたかなのである。

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支持率は政治家の能力を測っているのか~数字が映しているもの、映していないもの

政治家について報道するとき、ほとんど必ず登場する数字がある。支持率である。

内閣支持率が上がれば「政権に追い風」、下がれば「政権運営に打撃」。一定の水準を割り込めば「危険水域」と呼ばれ、その数字を材料に首相の求心力や選挙への影響まで語られる。私たちはいつの間にか、支持率という一つの数字によって政治家の状態を判断することに慣れてしまった。

しかし、ここには素朴な疑問が残る。

支持率が高い政治家は、本当に能力の高い政治家なのだろうか。

逆に支持率が低い政治家は、政策を立案したり、行政を動かしたり、外交交渉を行ったりする能力まで低いのだろうか。

結論から言えば、支持率は政治家の能力を直接測定している数字ではない。支持率が測っているのは、その時点で人々がその政治家や政権を「支持するかどうか」である。

当たり前のように聞こえるが、この二つを分けて考えることは、政治を数字から読むうえで非常に重要である。

「支持する」と「能力がある」は同じではない

会社であれば、経営者の能力をある程度は売上、利益、生産性、成長率などから評価できる。スポーツ選手なら、勝率、得点、記録という比較的明確な指標がある。

政治家の場合は事情が違う。

経済成長を重視する人もいれば、所得再分配を重視する人もいる。財政赤字を減らした政治家を高く評価する人がいる一方、そのために社会保障が削減されれば低く評価する人もいる。防衛力の強化を評価する人と、それを問題視する人もいる。

つまり政治には、そもそも全員が合意できる「得点」が存在しにくい。

そのため有権者が政治家を評価するときには、政策の成果だけではなく、「自分の考えに近いか」「生活が良くなったと感じるか」「説明に納得できるか」「信頼できそうか」といった複数の判断が混ざる。

政治学には、政府が過去に何をしてきたかを見て有権者が評価する「回顧的投票」という考え方があり、政府の実績に対する認識が政治的評価に影響することは古くから研究されている。しかし、そこで重要なのは、有権者が客観的な政策成果そのものを採点しているとは限らないということである。人々は自分が認識した政府の実績を通じて政治を評価する。

ここに、支持率と能力の間にずれが生まれる。

同じ政策でも支持率への影響は違う

例えば、ある政府が20年後の財政を安定させるため、現在の有権者に負担を求める政策を実施したとする。

長期的には合理的な政策かもしれない。しかし、現在の生活費が増えれば支持率は下がる可能性がある。

反対に、将来の財政負担を増やす政策であっても、現在の給付や減税につながれば歓迎されることがある。

ここで起きているのは、政治家の能力と有権者の評価時間軸のずれである。

政治家には10年、20年後を考えなければならない仕事がある。しかし、有権者の生活は今日も続いている。電気料金、食料品価格、住宅費、税金、社会保険料といった負担を毎月支払っている以上、「将来のためだから現在は我慢してほしい」という説明だけでは支持されないこともある。

だからといって、有権者の判断が間違っているということでもない。

将来の利益を理由に現在の負担を無制限に要求できるのであれば、民主政治は政府を監視する機能を失ってしまう。むしろ政治家には、長期的に必要な政策を設計すると同時に、その必要性を説明し、現在の負担をできるだけ公平に配分する能力まで求められる。

政策を考える能力だけでは政治は成立しない。

支持を形成する能力もまた政治家の仕事なのである。

ここまで考えると、支持率と能力の関係は単純なものではなくなる。

支持率には「期待値」が入っている

支持率を考えるとき、もう一つ見逃せないのが期待である。

100点の仕事をしたかどうかではなく、「期待していた仕事と比べてどうだったか」によって評価は変わる。

大きな期待を集めて誕生した政権は、一定の成果を上げても「期待ほどではなかった」と評価される可能性がある。一方、もともと期待が低ければ、小さな成果でも「思っていたよりよくやった」と受け取られることがある。

企業決算にたとえれば分かりやすい。

利益が増えても市場予想を下回れば株価が下がることがあり、利益が減っていても予想ほど悪くなければ株価が上がることがある。株価が企業の絶対的な実力だけではなく、市場参加者の期待との差によって動くように、政治家への評価にも期待との差が入り込む。

支持率という数字を見るとき、「何をしたか」だけを見るのでは足りない。

「何を期待されていたか」まで見なければならないのである。

景気が悪ければ政治家の能力も低く見えるのか

政治評価には、政治家が完全には制御できない出来事も影響する。

世界的な原油価格の上昇、海外での戦争、感染症、自然災害、外国為替市場の変動、世界経済の後退など、一国の政府だけでは解決できない要因はいくらでもある。

しかし、有権者は日常生活の中で政治を評価する。

食品価格が上がれば生活は苦しくなる。実質的な所得が減れば不満が生まれる。その結果として政権への評価が悪化しても不思議ではない。

政治家に原因があるとは限らないが、政府は結果に対する責任を問われる。

これは必ずしも非合理的ではない。

政治とは、問題そのものを発生させない能力だけを競うものではなく、問題が発生したときにどのように対応するかを問われる仕事でもあるからだ。

世界的な物価上昇を止められなかったことと、物価上昇への対応が適切だったかという問題は別である。

支持率には、この二つが混ざって表れる。

「何をしたか」だけでなく「どう見えたか」が数字になる

さらに難しいのが情報の問題である。

多くの有権者は、政府が毎日行っている行政活動を直接見ることはできない。

法律案の調整、官僚組織との協議、外国政府との交渉、予算編成、制度設計など、政治の中心部分の多くは日常生活から見えにくい。

私たちが政治を知る主な窓口は、新聞、テレビ、インターネットニュース、SNS(Social Networking Service・交流サイト)などである。

すると政治家への評価は、「政治家が実際に何をしているか」だけではなく、「その行動についてどのような情報に接したか」によっても変わってくる。

一つの失言が何日も報道されることがある一方、何か月もかけた制度改正は数分しか報じられないこともある。

これは報道機関が意図的に政治家を操作しているという話ではない。ニュースには、珍しい出来事、対立、失敗、変化などが取り上げられやすいという性質がある。

しかし、その性質がある以上、支持率は政策能力だけではなく、政治家の説明能力、報道される出来事、情報環境まで反映した数字になる。

ここまで来れば、「支持率=能力点」という解釈が成立しにくい理由が見えてくる。

支持率という数字自体にも誤差がある

しかも支持率は、国民全員に質問して得られた数字ではない。

実際の世論調査では、一定数の人を抽出し、その回答から全体を推定している。

調査の精度には、誰を対象にしたのか、どのように回答者を選んだのか、電話なのかインターネットなのか、質問をどのような言葉で尋ねたのかといった方法が関係する。Pew Research Center(ピュー・リサーチ・センター)も、世論調査では標本抽出だけでなく、質問の表現によって回答が変化する可能性があるとしており、一つの質問だけで複雑な世論を完全に把握することはできないと説明している。

日本の世論調査でも、RDD(Random Digit Dialing・電話番号を無作為に生成して対象者を抽出する方法)による固定電話・携帯電話調査などが使われてきた。したがって「支持率35%」という数字を、国民のちょうど35%が寸分違わず支持しているという意味で読むべきではない。

本当に重要なのは、1回の数字の小さな上下よりも、一定期間にどの方向へ動いているかである。

47%から46%になったことより、60%だった支持率が数か月かけて40%まで下がったという傾向の方が、政治的にははるかに大きな意味を持つ。

支持率は精密な体温計というより、社会の空気の変化を捉えるセンサーに近い。

それでも支持率が重要なのはなぜか

では、政治家の能力を直接測れないのであれば、支持率など気にする必要はないのだろうか。

そうではない。

むしろ民主政治において支持率は非常に重要である。

政治家がどれほど優秀な政策を考えていたとしても、それを国民に説明できず、支持を得られず、議会を動かせなければ政策は実現しないからである。

政治家の能力には、専門知識だけではなく、利害を調整し、国民に説明し、反対意見を聞き、妥協点を探し、最終的に制度として成立させる能力も含まれる。

その意味では、支持率と政治家の能力は無関係ではない。

ただし、支持率は能力そのものではなく、能力の一部分が社会との関係の中で現れた結果と考える方が正確だろう。

支持率90%だから90点の政治家ではないし、支持率20%だから20点の政治家でもない。

支持率とは、試験の点数ではないのである。

支持率を見るなら「なぜ」を見る

政治報道では数字そのものがニュースになる。

「支持率が5ポイント低下した」という見出しは分かりやすい。

しかし、本当に政治を理解しようとするなら、その次の問いへ進む必要がある。

なぜ下がったのか。

政策への反対なのか。物価なのか。不祥事なのか。首相本人への評価なのか。政党への評価なのか。説明不足なのか。それとも以前の支持率が一時的に高すぎただけなのか。

同じ支持率30%でも、その意味はまったく違う。

そして支持率が低いときこそ、政策評価と人物評価を分けて考える必要がある。

「この政治家を好きか」という問いと、「この政策は合理的か」という問いは、本来別のものである。

しかし政治では、この二つが簡単に重なってしまう。

好きな政治家の政策には甘くなり、嫌いな政治家の政策には厳しくなる。それは人間として不思議なことではないが、その心理を自覚しなければ、政治の評価は人物人気だけに引き寄せられてしまう。

政治家の能力を測るなら、何を見るべきなのか

政治家の能力を評価したければ、一つの数字を探すのではなく、複数の時間軸から見る必要がある。

公約した政策をどこまで実行したのか。その政策によって社会にどのような変化が起きたのか。予期しなかった問題が起きたとき修正できたのか。異なる意見を持つ人々と合意を形成できたのか。そして、自分に不利な情報についても説明責任を果たしたのか。

こうしたものは、一つの支持率には収まらない。

むしろ政治家の能力とは、数字一つで評価できないからこそ難しい。

選挙も同じである。

有権者は数年に一度、政策、人物、政党、経済状況、将来への期待などをまとめて一票に変える。その一票もまた、政治家の能力試験の採点ではない。

「この人に次の期間を任せるか」という判断である。

支持率は「政治家の成績表」ではなく「政治と社会の関係」を映す

支持率を政治家の能力点だと考えると、政治は非常に単純に見える。

上がれば優秀、下がれば無能。

しかし実際の政治はそれほど単純ではない。

支持率の中には、政策の成果だけでなく、景気、物価、事件、期待、政党支持、報道、説明能力、人物への好感、そして調査そのものの誤差まで混ざっている。

だから支持率は政治家の能力を測る物差しとしては粗い。

一方で、その数字を無意味だとして切り捨てるのも間違っている。

支持率が示しているのは、「政治家がどれほど優秀か」ではなく、「現在、その政治家と社会との関係がどのような状態にあるか」なのである。

そう考えれば、支持率の記事を見たときの読み方も少し変わる。

数字が上がったか下がったかだけではなく、その数字の背後で社会の何が動いたのかを見る。

支持率そのものより、「なぜその支持率になったのか」を考える。

その視点を持ったとき、世論調査は政治家の人気ランキングではなく、社会が政治をどのように受け止めているのかを知るための資料になる。

そしておそらく、それこそが支持率という数字の最も有効な使い方なのである。

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人口が減れば、自治体の職員も減っていく。それ自体は、それほど不思議な話ではない。住民が5万人から3万人になれば、役場も同じ人数の職員を抱え続ける必要はないように見えるからだ。

ところが、行政という仕事は人口に比例して小さくできるものばかりではない。

住民が半分になっても道路が半分になるわけではなく、橋が半分になるわけでもない。水道管や下水道管も、住民票を発行する制度も、税を徴収する仕組みも、災害が起きたときの対応も残る。人口減少社会で自治体に起きる本当の問題は、仕事の量が減る速度より、その仕事を担う人が減る速度のほうが速くなることである。

では、自治体職員が減っていったとき、何から維持できなくなるのだろうか。

おそらく最初に姿を消すのは、住民票の発行でも、税金の徴収でもない。もっと目立たず、普段は役所の存在さえ意識しないところから、行政の余力が失われていく。

役所の窓口が最初になくなるとは限らない

自治体の仕事というと、役所の窓口を思い浮かべる人は多い。住民票を取り、転入届を出し、税金や国民健康保険について相談する。職員が減れば、まず窓口が維持できなくなるようにも思える。

しかし、実際にはこの分野は比較的人員削減に耐えやすい。

現在、国は地方自治体の基幹業務システムの統一・標準化を進めており、住民基本台帳、地方税、介護保険、国民健康保険、生活保護、障害者福祉など20業務が標準化の対象になっている。目的の一つは、情報システムに費やす人的・財政的負担を減らし、職員を住民への直接的なサービスや企画業務へ振り向けることである。オンライン申請の普及も、この方向にある。

つまり、単純な申請や証明書発行のように、手続きが定型化されている仕事ほど、デジタル化や共同処理によって人数の減少を吸収しやすい。

もちろん、高齢者への窓口支援など、人が必要な部分まで消えるわけではない。それでも「一件の住民票を発行するために、その自治体だけの高度な専門家が必要」という仕事ではない。

問題になるのは、その反対側にある仕事である。

最初に苦しくなるのは「専門家が一人いないと動かない仕事」

道路に異常が見つかったとする。

単に穴が開いているだけなら補修を発注すればよいように見えるが、現実の行政ではそう簡単ではない。現場を確認し、危険度を判断し、工事方法を検討し、予算を確保し、設計や積算を行い、施工業者と調整し、完成した工事を検査する必要がある。

そこには土木の知識を持った職員が必要になる。

ところが、この人材がすでに薄くなっている。

国土交通省の資料では、1996年度から2024年度までに市区町村全体の職員数が約16%減少したのに対し、土木部門の職員数は約26%減少している。さらに、全国のおよそ半数の市区町村では技術系職員が5人以下である。別の国土交通省資料では、2023年時点で土木技師・建築技師が一人もいない自治体が435団体とされている。

ここに、人口減少時代の行政サービスを考える重要なヒントがある。

行政は「職員が100人から90人になったからサービスも一律に10%低下する」という仕組みではない。100人の中から土木技師が3人から2人になり、2人から1人になり、最後の1人が退職した瞬間、それまで自治体内部で完結していた機能が突然成立しなくなることがある。

人数の問題であると同時に、専門性の問題なのである。

道路や橋は、壊れてから問題になるのではない

こうした専門職不足の影響は、ある朝突然、道路が閉鎖されるという形で始まるとは限らない。

最初に起きるのは、おそらく「優先順位をつける行政」である。

以前なら年に何度も巡回していた道路を見る回数を減らす。小さな補修は翌年度へ送る。利用者の少ない施設への投資を先送りする。橋の点検で問題が見つかっても、緊急性の高いものから対応する。

その一つ一つは合理的な判断である。

ところが、それが10年続くと地域の姿が変わる。

人口の多い中心部では道路も施設も維持されるが、利用者の少ない地区では修繕までの期間が延びる。同じ自治体の中でも、行政サービスの密度に少しずつ差が生まれる。

人口減少によって最初に起きるのは、行政サービスの「消滅」ではなく、行政サービスの「粗密化」なのかもしれない。

そして、この変化は住民から見えにくい。

役場は開いている。住民票も取れる。ごみも収集されている。それでも町のどこかでは、橋の補修が一年延び、道路の草刈り回数が減り、水路の点検間隔が長くなっている。

行政機能は、ある日突然なくなるのではなく、少しずつ薄くなっていく。

次に苦しくなるのは「現場へ行かなければできない仕事」

デジタル化には大きな効果があるが、自治体の仕事をすべてデジタル化できるわけではない。

住民票はオンラインで処理できても、崩れかけた道路をオンラインで直すことはできない。

倒木が道路をふさいだら誰かが現場へ行かなければならない。大雨で側溝があふれたら現場を確認しなければならない。空き家が倒壊しそうなら建物を見る必要がある。高齢者の生活状況を確認する必要があれば、電話や画面だけでは判断できないこともある。

ここには、行政サービスのもう一つの境界線がある。

「情報を処理する行政」は少人数化しやすいが、「現実の地域を管理する行政」は少人数化しにくいのである。

人口減少が進む地方ほど、この矛盾は大きくなる。住民は減るのに自治体の面積は縮まらないからだ。

10平方キロメートルの町で人口が半分になっても、管理する土地が5平方キロメートルになるわけではない。道路、水路、山林との境界、公共施設、海岸、河川など、行政が関係する空間はほぼそのまま残る。

人口密度が低下するとは、一人の職員が担当しなければならない「地域の広さ」が相対的に大きくなることでもある。

災害対応は、普段の職員不足を一気に表面化させる

平常時には何とか回っている自治体でも、台風や豪雨、大規模地震が発生すると状況は変わる。

行政職員には通常業務とは別に災害対応が発生する。避難所を開設し、道路の被害を調べ、住民からの問い合わせに応じ、断水や停電の状況を把握し、国や都道府県との連絡を行い、被害認定や罹災証明にも対応しなければならない。

普段100の仕事を100人で処理している組織なら、一時的に120の仕事が来ても何とか対応できるかもしれない。

しかし、100の仕事を70人でぎりぎり処理する組織に、突然120の仕事が来れば事情は違う。

人口減少地域で恐ろしいのは、平常時の行政サービスが維持されているように見えるため、組織の「余白」がどれほど失われているのか住民から分かりにくいことである。

自治体職員の減少問題は、単なる窓口待ち時間の問題ではない。

災害時に行政がどこまで同時に動けるかという、地域の安全性そのものにかかわっている。

福祉行政は「なくなる」のではなく、一人あたりの負担が重くなる

一方で、人口減少社会では、住民が減るからといって福祉行政の需要まで同じように減るとは限らない。

むしろ、高齢化によって介護、生活支援、認知症、孤立、成年後見、身寄りのない高齢者への対応など、一件あたりの判断が難しい案件が増える可能性がある。

この仕事は住民票発行のように完全には定型化できない。

同じ「高齢者一人暮らし」でも、家族関係、所得、健康状態、認知機能、住宅環境、近隣との関係によって必要な支援は違うからだ。

したがって福祉分野では、サービスそのものが突然なくなるというより、一人の職員が担当する案件が増え、相談から対応までの時間が長くなるという形で職員不足が現れやすい。

ここでも行政サービスは「あるか、ないか」では測れない。

同じ制度が残っていても、相談員が十分にいる自治体と、少人数で多数の案件を抱える自治体では、実際に住民が受ける行政サービスの質は同じとは限らない。

「最初に維持できなくなるサービス」を一つに決めることはできない

では結局、自治体職員が減ったとき、最初に維持できなくなる行政サービスは何なのか。

全国共通で「これ」と一つに決めることは難しい。

ただし、弱くなりやすい行政には共通した特徴がある。

処理件数が少なくても一定数の専門職を必要とし、現場へ出る必要があり、機械的な標準化が難しく、しかも事故や災害が起きたときには即時に判断しなければならない仕事である。

道路、橋、上下水道、建築、防災、福祉などがその典型になる。

反対に、全国で制度が共通していて、処理方法を標準化しやすく、デジタル化や外部との共同処理が可能な業務は、比較的長く維持しやすい。

この違いを考えると、将来の自治体行政は「すべての仕事を現在の形のまま少人数で続ける」方向には進みにくい。

むしろ、何をその自治体が自分で担い、何を周辺自治体や都道府県と共同化し、何を民間に委託し、何をデジタル化するのかという再設計が避けられなくなる。

合併しなくても「役所の中身」は共同化されていく

人口が減れば市町村合併をすればよい、という考え方もある。

しかし、自治体を合併しなくても行政機能を共同化することはできる。

例えば、専門職を複数自治体で共有したり、一部の事務を広域組織で処理したり、都道府県が技術的支援を行ったりする方法がある。情報システムについても、約1,800の地方公共団体がそれぞれ独自に開発・保有する方式から、標準化された仕組みを利用する方向へ政策は動いている。

ここで重要なのは、「自治体を残すこと」と「自治体がすべての行政能力を自前で持つこと」は別問題だということである。

町長も議会も役場も残っている。しかし道路行政の専門機能は周辺自治体と共有する。情報システムは共通化する。高度な建築審査は広域で担う。

そうした自治体が今後増えても不思議ではない。

行政区域は残りながら、行政機能だけが広域化するのである。

人口ではなく「職員構成」を見なければ自治体の将来は分からない

地方自治体について語るとき、私たちは人口を見る。

人口3万人、1万人、5000人という数字は分かりやすいからだ。

しかし、本当に行政を維持できるかを考えるなら、人口だけでは十分ではない。

職員が何人いるのか。その中に土木、建築、保健、福祉、情報といった専門職が何人いるのか。50歳代の職員が退職したあと、代わりになる若手が採用できているのか。一人しかいない専門職が休職したり退職したりしたとき、その仕事を誰が引き継ぐのか。

こちらのほうが、地域の将来を考えるうえでは重要な数字になっていく。

人口1万人でも専門職を確保し、周辺自治体と業務を共同化し、デジタル化によって定型業務を効率化できれば行政を維持できる可能性はある。

反対に、人口がそれより多くても、専門職を採用できず、業務を職員個人の経験に依存していれば、特定の行政機能が先に弱くなることはあり得る。

人口規模だけから「何人以下なら自治体は維持できない」と線を引くのが難しい理由も、ここにある。

最後まで役場は残っていても、行政は以前と同じではない

人口減少社会で起きる行政の縮小は、役場が閉鎖されるところから始まるのではないだろう。

役場は最後まで残る可能性が高い。

住民票も発行され、税金も徴収され、ホームページには行政サービスの一覧が掲載され続ける。

それでも、その裏側では道路を見回る回数が減り、専門職一人の担当範囲が広がり、福祉相談の案件が積み重なり、災害時に応援へ回せる職員が少なくなっていく。

行政サービスが失われるとは、「制度の名前がなくなること」だけではない。

同じ制度が存在していても、対応までの日数が長くなり、現場へ行ける回数が減り、予防的な仕事より緊急対応が優先されるようになれば、その行政サービスはすでに以前とは違うものになっている。

だから人口減少地域を見るとき、役所が存在するかどうかだけを見ても十分ではない。

見るべきなのは、その役所に「地域で何か起きたとき、実際に動ける人が何人残っているか」である。

人口減少後の地方自治を左右するのは、役場という建物を残せるかどうかではない。

その建物の中に、地域を動かす知識と経験を持つ人を残せるかどうかなのである。

そして日本の地方自治は今、「住民が何人まで減れば維持できないのか」という問題から、「少なくなる職員で、どの行政機能をどこまで自前で持ち続けるのか」という、もう一段難しい問題へ入り始めている。

参考資料

本稿では、国土交通省による市区町村の職員数・土木系技術職員に関する資料、およびデジタル庁による地方公共団体の基幹業務システム統一・標準化に関する公表資料を参照した。国土交通省は、自治体のインフラ管理体制について、技術系職員の減少と人的制約への対応を重要課題として示している。またデジタル庁は、主要20業務のシステム標準化によって人的・財政的負担を軽減し、職員を住民への直接的サービスなどへ振り向ける方向を示している。

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