地域政経

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宮澤喜一は知識と経験が豊富でも、なぜ政治を動かし切れなかったのか

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 政治家の能力を試験の点数のように測ることができるなら、宮澤喜一は戦後日本の首相の中でもかなり上位に位置しただろう。大蔵省で行政を経験し、経済、財政、金融、外交に通じ、外国要人と英語で直接対話できるほど語学にも堪能だった。戦後日本の制度がどのように形成され、官僚機構がどのように動き、アメリカを中心とする国際秩序の中で日本がどこまで行動できるのかについても、長い政治生活を通して深く理解していた人物だった。

 それにもかかわらず、1991年に首相となった宮澤が、後世から「日本政治を大きく動かした首相」として語られることはそれほど多くない。むしろ1993年、自民党が衆議院で過半数を失い、非自民勢力による細川護熙政権が成立する直前の首相として記憶されている。この落差は、宮澤個人の評価を超えて、政治という仕事の本質を考えるうえで興味深い。

 政治では、問題を理解する能力と、問題を解決する能力は同じではない。さらに言えば、政策として合理的な答えを見つけることと、その答えを議会、政党、官僚、業界、世論の中で実際の決定へ変えることの間には、大きな隔たりがある。宮澤喜一という政治家を考えるときに重要なのは、「知識があったのになぜ失敗したのか」という単純な問いではなく、「政策を理解する知性を、なぜ政治的な多数と実行力へ十分に変換できなかったのか」という問いである。

 宮澤の政策を見る目が決して鈍かったわけではないことは、バブル経済崩壊後の金融問題を見るとよく分かる。1990年代初頭、日本の金融機関には不動産価格や株価の下落によって不良債権が急速に積み上がり始めていたが、損失の全体像はまだ十分に表面化していなかった。その段階で宮澤は、金融システムの安定のためには公的な関与や公的資金の投入まで視野に入れる必要があるとの考えを示していた。

 後に日本は金融危機の深刻化を受け、実際に巨額の公的資金を投入することになる。その後の展開を知る現在から見れば、宮澤の問題認識には先見性があったと評価できる。しかし当時、公的資金による金融機関救済は簡単に国民の理解を得られる政策ではなかった。バブル期に融資を膨張させた金融機関を、なぜ国民の税金で助けなければならないのかという反発が当然予想され、金融機関の側にも不良債権を一気に表面化させたくない事情があり、官僚組織にも従来の行政責任を問われることへの警戒があった。

 つまり、宮澤には問題が見えていたとしても、その認識だけで政策が実現するわけではなかった。政策を現実にするためには、損失を誰が負担するのかを明らかにし、国民に必要性を説明し、金融機関や官僚機構を動かし、与党内の反発を抑えながら議会で多数を形成しなければならない。政治における「実行力」とは、首相が強い言葉で決断することではなく、異なる利害を持つ人間を一つの決定へ集約していく力なのである。

 宮澤政権が直面していた問題は金融だけではなかった。1980年代末から1990年代初頭にかけて、リクルート事件をはじめとする政治と金の問題によって、自民党政治そのものへの不信が急速に強まっていた。国民が求めていたのは個別政策の修正だけではなく、政治の仕組みそのものを変えることだったため、選挙制度改革を中心とした政治改革が大きな争点となっていった。

 ところが選挙制度改革は、普通の政策とは性質が違う。税率を変えたり公共事業の予算を増減したりするのとは異なり、国会議員自身が次の選挙で当選できるかどうかを左右するからである。議員にとっては理念の問題であると同時に、自分の政治生命そのものにかかわる問題だったため、「政治改革には賛成だが、自分が不利になる改革には反対する」という行動が起こるのは、ある意味では合理的だった。

 宮澤はその利害の衝突を乗り越えるだけの政治的主導権を確立できなかった。ここを「優柔不断だった」と一言で片づけてしまうと、当時の政治構造を見失ってしまう。政治改革を進めれば自民党内部の反発が強まり、進めなければ世論の批判が高まるという状況の中で、宮澤が扱っていたのは単なる政策論争ではなく、自民党そのものの権力構造だったからである。

 さらに自民党内部には、政治改革だけでは説明できない派閥間の対立が存在していた。竹下派内部では小沢一郎らをめぐる権力争いが進み、党内の次の主導権をめぐる対立が政治改革問題と結びついていった。1993年6月、宮澤内閣に対する不信任決議案が衆議院で可決されたとき、野党だけでなく自民党内部からも造反者が出たことは象徴的だった。

 不信任案可決を受けて宮澤は衆議院を解散し、同年7月の総選挙に臨んだが、自民党は第一党には残ったものの過半数を確保できなかった。その後、非自民勢力による細川護熙政権が成立し、1955年以来続いてきた自民党中心の政権構造は大きな転換点を迎えることになった。

 ここで注意したいのは、「1955年から1993年まで自民党の単独政権が一度も途切れなかった」というわけではないことである。1983年には中曽根政権が新自由クラブとの連立政権を成立させているため、1993年を単純に「自民党単独政権が初めて終わった年」と表現するのは正確ではない。それでも1993年が、日本政治のいわゆる55年体制に大きな亀裂が入った年であることに変わりはない。

 宮澤にとって不幸だったのは、この大きな転換が、首相個人の力量だけでは制御しにくい複数の変化と同時に起きたことである。バブル経済が崩壊し、金融システムには不良債権が蓄積し、冷戦が終わって日本の国際的役割が問い直され、政治と金への批判が高まり、自民党内部では派閥秩序が揺らいでいた。宮澤は一つの問題を処理すれば済む首相ではなく、戦後日本の政治経済システムそのものが転換期に入った時期の首相だった。

 そう考えると、宮澤の失敗を「頭はよかったが政治力がなかった」と説明するだけでは不十分である。確かに宮澤には、党内を強引にまとめるタイプの政治家とは異なる面があったが、それ以上に重要なのは、当時の首相が置かれていた制度的条件である。首相が政策を実現するには、自民党総裁として党内多数を維持しながら、派閥間の利害を調整し、官僚機構を動かし、衆参両院で法案を成立させ、同時に世論の支持を失わないようにしなければならない。

 この構造を数式のように単純化するなら、政治的成果は「首相個人の能力」だけで決まるのではなく、政策能力、党内基盤、議会多数、官僚との関係、世論、経済状況、利害集団、政治的タイミングなど、多数の変数の組み合わせによって決まると考える方が現実に近い。宮澤の政策知識が高かったことと、政権が十分な成果を残せなかったことが同時に観察されたとしても、「知識が豊富だったから動けなかった」と因果関係を逆向きに結びつけることはできない。

 むしろ宮澤政権が示しているのは、政策知識の豊富さが政治的成果の十分条件ではないということである。問題を理解していても、それを実行するための支持、制度、時間、政治的連合が整わなければ政策は動かない。逆に、強い政治基盤があっても政策理解が乏しければ、決断力は単なる暴走になり得るため、知識と政治力はどちらか一方を選べばよいという関係ではない。

 宮澤の経歴についても、単純に「官僚出身だったから政党政治に弱かった」と考えるのは適切ではない。宮澤が大蔵省出身だったことは事実だが、1953年に国会議員となってから首相に就任する1991年まで約四十年にわたり国政の中心にいたため、首相となった時点ではすでに十分すぎるほど長い政治経験を持っていた。外務大臣、大蔵大臣、官房長官などを歴任し、自民党内部の権力構造についても知らない人物ではなかった。

 それでも、宮澤が長年磨いてきた政策形成能力と、1990年代初頭に求められた政治能力との間にはずれがあったと考えることはできる。戦後日本の制度を熟知し、その内部で調整を積み重ねる能力は非常に高かったが、制度そのものが揺らぎ、政党再編まで視野に入る状況では、既存の仕組みを使って合意を形成する能力だけでは十分ではなかった。

 これは、古い建物の構造を誰よりも詳しく知る建築家が、その建物の管理責任者になったようなものだった。柱の位置も配管の経路も理解しており、どこに亀裂が生じているかも見えている。しかし建物そのものを建て替える段階に入れば、設計図を読む能力だけでは足りず、住人を説得して退去させ、資金を集め、反対する所有者と交渉し、新しい建物の姿を示さなければならない。

 ただし、宮澤政権を「何もできなかった政権」と見るのも正確ではない。外交・安全保障の分野では、1992年に国際連合平和維持活動などへの協力を可能にする国際平和協力法が成立し、日本はカンボジアのPKO(Peacekeeping Operations・国際連合平和維持活動)に参加することになった。湾岸戦争では巨額の資金協力を行いながら、日本の国際的貢献が十分に評価されなかったという経験があり、その後、日本が人員を伴う国際協力へ踏み出したことは戦後外交の重要な転換の一つだった。

 この事実は、宮澤を単純に「決断できなかった首相」と評価することの危険性を示している。すべての政策分野で主導力を欠いたわけではなく、政治的条件が整った分野では制度を動かしている。したがって宮澤政権を評価する場合、個人の性格や決断力だけで説明するのではなく、「どの政策では実行でき、どの政策では実行できなかったのか」を比較し、その違いを生み出した政治的条件を見る必要がある。

 こうして考えると、宮澤喜一という政治家の興味深さは、「知識がありすぎたため決断できなかった」という心理的な物語にあるのではない。むしろ問題は、政策を理解する能力があっても、それを政治的多数へ変換する制度的・党内的条件が整わなければ、首相でさえ政策を自由には動かせないという事実にある。

 政治では正しい答えを持つことが重要だが、その答えを実行できる状態を作ることも同じくらい重要である。必要性を説明し、反対者と交渉し、支持者を増やし、時には自分の政治的資源を消耗しながら多数を形成しなければ、正しい政策も紙の上に残るだけで終わる。

 宮澤には地図がなかったのではない。むしろ地図はかなり正確だった。しかし1990年代初頭の日本で必要だったのは、地図を読む能力だけではなく、すでに崩れ始めた道を通る人々をまとめ、新しい道を作ることだった。その作業には、知識とも経験とも異なる種類の政治的力が必要だったのである。

 だから宮澤喜一の挫折を、「頭のよい政治家は政治に向かない」という教訓に変えてしまうべきではない。それは事実から導くには飛躍が大きすぎる。宮澤の経験から読み取れるのは、政策知識の豊富さが政治的成功の十分条件ではなく、知識、権力基盤、世論形成、利害調整、制度設計、そして政治的タイミングが結びついたときに初めて大きな政策変更が可能になるという、より現実的な政治の姿である。

 宮澤喜一は、おそらく戦後日本で最も政策をよく理解していた首相の一人だった。それでも、その知識をすべて政治的成果へ変えることはできなかった。しかし、それは必ずしも宮澤個人だけの失敗ではない。古い政治秩序が崩れ、新しい秩序がまだ見えていなかった時代に、戦後日本の制度を最もよく知る政治家の一人が、その制度そのものの限界に直面したのである。

 その意味で宮澤喜一の首相時代は、一人の政治家の成功と失敗を超えた意味を持っている。政治を動かすには、知識だけでも、経験だけでも、強い決断だけでも足りない。それらを人間と制度の中で結びつけ、実際の多数と行動へ変換する能力が必要であり、宮澤喜一という政治家の歩みは、その難しさを戦後日本政治の転換点において極めて鮮明に示したのである。

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