地域政経

九条レオンの地域から社会と政治・経済のこれからを考える

政治家に必要なのは専門家の深さか教養人の広さか~国を動かす人に本当に必要な知性

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 政治家には専門知識が必要だ、と言われることがある。経済政策を論じるなら経済学を理解している方がよく、医療制度を改革するなら医療や社会保障制度に詳しい方がよい。財政、外交、安全保障、教育、エネルギー、科学技術と、現代国家が扱う問題が複雑になるほど、十分な知識を持たない政治家に重大な判断を委ねてよいのかという疑問が生じるのは自然である。

 しかし、ここから「それなら専門家を政治家にすればよい」と考えると、政治という仕事の少し不思議な性質が見えてくる。医療政策について詳しいのは医療の専門家であり、財政について詳しいのは財政学や経済学の専門家であり、エネルギー政策について詳しいのは工学やエネルギー政策の専門家だろう。それぞれの分野について最も知識のある人物に決定を任せればよいのなら、そもそも選挙によって政治家を選ぶ必要はなく、専門家委員会によって国家を運営した方が合理的だという考え方も生まれる。

 それでも民主政治が専門家による統治そのものにはならないのは、政治が単に「正しい知識を見つける仕事」ではないからである。現実の政策には、科学的な知識によって検証できる問題だけでなく、異なる価値や利害の衝突が入り込む。さらに政治家には、望ましい政策を考えるだけでなく、人々の合意を形成し、制度の中で実行し、その結果について責任を負う役割も求められる。

 では、政治家に本当に必要な知性とは何なのだろうか。特定の領域を深く理解していることなのか、それとも歴史、哲学、科学、経済、法律などを広く学び、社会全体を見渡せることなのか。この問いを、政治学や認知心理学の研究、数理的な政策評価、そして日本の民主主義制度から考えてみたい。

一つの問題の中に、いくつもの「正しさ」が存在する

 人口の少ない地域にある病院を残すべきかどうかを考えてみよう。医療の立場から見れば、住民が必要な医療へ到達できる環境を維持することには大きな意味がある。一方、財政の立場から見れば、利用者の少ない病院を多額の公費によって維持し続けることには限界があり、交通政策の立場から考えれば、病院そのものを残す代わりに救急搬送や通院交通を充実させるという選択肢も生まれる。さらに地域政策まで視野を広げれば、病院の撤退によって高齢者や子育て世帯の生活条件が悪化し、転出や人口減少につながる可能性まで検討しなければならない。

 実際、地方病院の閉鎖については、地域経済への悪影響や救急搬送時間の延長などを報告した研究が存在する。ただし、病院の閉鎖が人口減少を引き起こす場合も考えられる一方、人口減少や医療需要の縮小によって病院の経営が悪化し、閉鎖に至る場合もある。病院が閉鎖された地域で人口が減少したという統計的な関係だけでは、どちらが原因でどちらが結果なのかを確定できない。政策を判断するには、地域の人口動態、医療需要、交通条件、財政負担などを総合的に検証する必要がある。

 ここで重要なのは、それぞれの専門家が異なる価値を重視しているからといって、誰かが必ず間違っているわけではないことである。医療の専門家は住民の健康を守ることを重視し、財政の専門家は限られた財源を持続可能な形で配分することを重視する。それぞれの専門領域において合理的な判断を行っていても、政策上の結論が一致しないことは十分に起こり得る。

 ただし、ここでは検証可能な事実と価値判断を区別しなければならない。例えば、病院統合によって救急搬送時間が何分増えるのか、年間の財政負担がいくら軽減されるのかという問題には、推計上の不確実性はあっても、客観的な検証が可能である。ある専門家が不正確なデータや誤った計算に基づいて判断しているのであれば、それは単なる価値観の違いではなく、事実認識の誤りとして検証されるべき問題である。

 一方、救急搬送時間が一定程度延びるとしても、その負担をどこまで受け入れて財政の持続可能性を優先するのか、あるいは費用が増えても地域の医療アクセスを維持するのかという判断には、価値の選択が残る。政治家が扱うのは、正しい事実と誤った事実を見分ける問題だけではなく、十分に検証された事実を前提としても、異なる価値が衝突する問題なのである。

科学的に合理的な政策が、一つに決まるとは限らない

 この問題は、数理的に考えるとさらに明確になる。仮に、二つの政策について医療アクセスと財政持続性をそれぞれ10点満点で評価し、病院を維持する政策は医療アクセスが8点、財政持続性が3点、病院の機能を再編して交通手段を充実させる政策は医療アクセスが5点、財政持続性が8点だったとしよう。

 この数値は現実の医療政策を評価したものではなく、政策判断の構造を説明するための仮定である。医療アクセスを70%、財政持続性を30%の重みで評価すれば、病院維持は6.5点、機能再編は5.9点となり、病院維持の方が高く評価される。ところが、医療アクセスを30%、財政持続性を70%として評価すれば、病院維持は4.5点、機能再編は7.1点となり、結論は逆転する。

 ここで変化したのは、政策の効果に関する事実ではなく、それぞれの成果を社会としてどの程度重視するかという評価の重みである。同じデータを用い、同じ計算方法で分析しても、何を優先するかによって最も望ましい政策が変わる。このことは、政策の科学的評価と社会的な価値判断が同一ではないことを示している。

 もっとも、実際の政策評価はこのような単純な点数計算では済まない。医療アクセスの悪化が高齢者と若年者で異なる影響を持つ場合や、特定の住民に負担が集中する場合には、平均的な点数だけで判断することはできない。将来予測の不確実性、政策の実行可能性、法的制約なども考慮しなければならず、憲法上保障される権利のように、単純な費用対効果の計算だけで処理できない問題も存在する。

 科学や統計は、それぞれの政策を採用した場合に何が起こりそうなのかを分析し、判断に必要な情報を与えてくれる。しかし、その結果のうち何を最も重く評価すべきかという問いまで、科学的事実だけで一義的に決めることはできない。だからといって、価値判断は科学から独立して自由に行ってよいということでもない。新しい研究によって政策の効果が明らかになれば、人々の価値判断や優先順位そのものが変化することもある。科学と政治は切り離されたものではなく、互いに影響を与えながら政策を形成する関係にある。

専門家の政治家には、はっきりした強みがある

 だからといって、専門知識は政治家にとってそれほど重要ではない、と考えるのも適切ではない。むしろ現代政治では、高度な専門性や職業経験を持つ政治家が、政策形成において一定の強みを持つことを示した実証研究が存在する。

 米国の州議会を対象とした研究では、議員の過去の職業経験と提出する法案の政策領域が一致している場合、その法案が立法過程を進むうえで有利になる傾向が示されている。また、ドイツ、米国、スウェーデンで行われた調査では、政策分野に関係する職業経験を持つ政治家の提案が、有権者からの支持や他の議員との協力を得やすくなる傾向も確認されている。

 このような結果は、専門性が単なる肩書ではなく、政策形成や政治的信頼を支える資源になり得ることを示唆している。医療制度を理解している政治家であれば、病床数、医療需要、診療報酬、医療従事者の配置などについて、行政機関から提示された説明をより深く検討できる可能性がある。経済や財政に詳しければ、政策の財源や将来負担について、前提となる数字や推計方法の妥当性を問い直しやすくなるだろう。

 重要なのは、専門家や官僚から説明を受けたときに、内容をそのまま受け入れるのではなく、どの条件なら政策が機能し、どの条件では期待した成果が得られないのかを自分で考えられることである。高度に専門化した現代社会では、専門知識の乏しい政治家が十分に説明を理解できないまま重大な判断を下すことも、民主政治にとって望ましい状況とは言えない。

 ただし、これらの研究から、専門職出身の政治家が常に優れた政策成果を残すと結論づけることはできない。専門的な職歴を持つこと、周囲から信頼されること、法案を成立させること、成立した政策によって社会に望ましい成果を生み出すことは、それぞれ異なる問題だからである。米国の州議会に関する研究でも、過去の職業経験や政治経験が立法上の有効性を高めるかどうかは一様ではなく、経験の種類や議会制度によって効果が異なることが示されている。

 また、観察研究で専門家出身の議員の立法実績が優れていたとしても、専門知識だけがその原因だとは限らない。所属政党、当選回数、担当する委員会、議会内での地位などが成果に影響している可能性もある。専門能力の高い人物が政治家としても成功している場合には、その人物がもともと持っていた能力と職業経験の効果を区別する必要がある。

 したがって、専門性は政治家にとって重要な強みになり得るものの、その価値は政策領域や制度環境によって変わり、専門的な職歴がそのまま優れた統治能力を保証するわけではない。

それでも専門性には、別の危険が潜んでいる

 ところが専門性には、判断能力を高める作用と同時に、それとは異なる方向の作用が生まれる可能性もある。政治学では、専門知識によって生まれた強い確信が、有権者の意見に対する政治家の応答性を低下させる可能性が研究されている。

 スウェーデンの政治家を対象とした調査実験では、自分が詳しい政策分野について、政治家自身と異なる立場の有権者から意見が寄せられた場合、その有権者の理解や事実認識を低く評価する傾向が確認された。また、そうした意見が多数派を代表している可能性も低く見積もられる傾向があり、専門性を持っているという認識によって生じる自信の強さが、その一因として検討されている。

 ただし、この研究は主として実験で設定された政策上の要望に対する反応を調べたものであり、専門知識のある政治家が実際の政治活動において常に有権者を軽視していることを証明したわけではない。また、有権者の意見に従わないことが、直ちに誤った判断を意味するわけでもない。科学的根拠に反する意見が多数を占めている場合、政治家が専門的な知識に基づいて別の判断を下すことには合理性がある。

 重要なのは、専門家として正しいと考えることと、政治家として社会全体の選択を行うことが、必ずしも同じではないという点である。医療の立場から望ましい政策が財政の立場からも望ましいとは限らず、経済効率の高い政策が地域共同体の維持にとって最善とも限らない。一つの専門領域における合理性が、そのまま社会全体の合理性になるわけではないからである。

 専門性が高いほど必ず視野が狭くなるという証拠があるわけではない。しかし、人は自分が詳しい分野の概念や理論を使って問題を理解しやすくなる。そのため、自らの専門知識が世界を見る唯一の窓になっていないか、他の分野では異なる評価基準が存在しないかを点検する態度が重要になる。

では、幅広い教養を持つ人物なら安心なのか

 ここで、歴史、哲学、文学、科学、経済、法律などを広く学んだ、いわゆるリベラルアーツ的な教養を持つ人物の方が政治家に適しているのではないか、という考えが出てくる。

 この考えには一定の合理性がある。政治では一つの政策領域だけを見るのではなく、その政策が社会の別の場所にどのような影響を与えるのかを考えなければならない。経済効率が改善しても公平性が大きく損なわれる場合があり、安全性を最大限に高めれば個人の自由が狭くなる場合もある。そのような価値の衝突を理解するためには、単一の専門理論だけではなく、歴史的な経験、法制度、人間の行動、倫理、文化について複数の視点を持つことが役に立つ。

 歴史を知ることは、現在の制度がどのような失敗や試行錯誤を経て成立したのかを考える材料になる。哲学は、自由、公平、責任、正義といった価値が互いに衝突したとき、それらを単純な善悪に還元しないための知的資源になり得る。文学についても、読書によって優れた政治判断ができるようになると科学的に断言することはできないものの、統計の中では一人の数字としてしか現れない人間にも、それぞれ異なる生活や事情があることを想像する契機にはなり得る。

 ただし、幅広い教養を持つ人物の方が専門家より政治家として優秀であると、一般的に証明されているわけではない。広く知っていることと正確に理解していることは同じではなく、医療、金融、原子力、情報通信などの高度な専門領域では、一般教養だけで専門家の議論の妥当性を判断することは難しい。歴史や哲学に造詣が深くても、財政推計の前提を検証できるとは限らず、政治思想に詳しくても、医療制度の具体的な仕組みを理解しているとは限らない。

 専門家型には、一つの視点を強く信じすぎる危険がある一方、教養人型には、広く知っていることで十分に理解したつもりになる危険がある。専門性と教養を対立させるだけでは、政治家に必要な能力を正確に捉えることはできないのである。

「キツネ型」の知性が示唆するもの

 政治的判断について考える際、心理学者・政治学者のフィリップ・テトロックが行った長期的な予測研究は興味深い示唆を与えている。

 テトロックは、多数の専門家による政治や経済、国際情勢の予測を長期間にわたって調べる中で、一つの大きな理論によって多くの出来事を説明しようとする「ハリネズミ型」と、複数の説明を組み合わせ、新しい情報によって自分の見方を修正する「キツネ型」という思考様式を比較した。その結果、複雑な政治的予測では、複数の視点を組み合わせるキツネ型の方が良い成績を示す傾向が見られた。

 ただし、この研究から直ちに「幅広い教養を持つ人の方が専門家より政治家に向いている」と結論づけることはできない。テトロックが主として調べたのは、思考様式と予測能力の関係であって、専門家と教養人を直接比較したわけではないからである。特定分野について非常に深い知識を持ちながら、複数の理論を比較し、新しい証拠によって判断を修正できる専門家も存在する。

 さらに、将来の出来事を正確に予測する能力と、現実の政治を運営する能力も同じではない。政策によって何が起こるかを高い精度で予測できても、その政策を実現するための予算を確保し、法律を整備し、利害の異なる人々の合意を形成できるとは限らない。政策の結果を予測する能力は重要だが、それだけで統治能力全体を評価することはできないのである。

 それでも、この研究には政治家の知性を考えるうえで重要な含意がある。一つの理論や専門領域だけに依存するのではなく、複数の説明を比較し、自分の判断が間違っている可能性を残し、新しい情報によって考えを変更できることは、不確実性の高い政策課題を扱ううえで有用だと考えられる。

 重要なのは、専門知識を持たないことではなく、専門知識を持ちながらも、その説明力には限界があると理解することである。

「知らないことを知っている」という能力

 ここまで考えると、政治家の能力を単純な知識量で測ること自体が適切ではないのかもしれない。

 一人の政治家が財政、医療、外交、安全保障、教育、農業、エネルギー、情報通信、社会保障、地方行政のすべてについて、第一級の専門家になることは現実的ではない。それにもかかわらず、政治家には専門の異なるさまざまな問題について判断を下す場面が訪れる。この矛盾を埋めるために必要なのは、すべてを知っていることではなく、自分が何を知り、何を知らないのかを認識する能力である。

 このような態度は「知的謙虚さ」と呼ばれることがあり、自分の知識や判断には限界があり、誤っている可能性もあると認める姿勢を意味する。近年の政治心理学研究では、知的謙虚さを示す政治家が、有権者から能力や好感度について高い評価を得る場合があることも報告されている。

 もっとも、その効果は一律ではない。支持政党や政治的立場、問題の性質によって有権者の反応は異なり、自分と同じ立場の政治家が見解の不確かさを強調した場合に、否定的な評価が生じることもある。また、十分な科学的根拠が確立している問題についてまで自信のなさを示せば、判断力に欠ける人物だと受け取られる可能性もある。

 したがって、知的謙虚さと優柔不断は区別しなければならない。知的謙虚さとは、あらゆる問題について判断を避けることではなく、証拠の強さに応じて自分の確信の程度を調整することである。十分な根拠があれば明確に判断し、根拠が不十分であれば不確実性を認め、必要に応じて判断を修正する。そのような態度こそが重要になる。

 ただし、知的謙虚な政治家ほど実際に優れた政策成果を残すと証明されているわけではない。研究で測定される有権者の人物評価や投票意向と、政策の実現能力、行政運営能力、危機管理能力は異なるからである。

 それでも政治の構造を考えれば、自分の知識の限界を認識できることには実務上の意味がある。自分では判断できない問題だと分かれば、その領域に適した専門家を探すことができ、異なる意見を持つ専門家を比較することもできる。重要なのは専門家の意見に無条件で従うことではなく、なぜ専門家同士の意見が異なるのかを理解することである。

 どこまでが比較的確かな事実で、どこからが不確実な将来予測なのか、さらにどの部分から価値判断が入り込んでいるのかを区別できれば、政治家は専門知識を利用しながら、それに支配されることを避けられるだろう。

専門家が優れていても、なぜ選挙で政治家を選ぶのか

 ここで、民主政治の制度そのものに目を向ける必要がある。政治家に専門性だけでは決められない役割があるという考えは、単なる政治哲学上の議論ではなく、日本の統治制度とも関係している。

 日本国憲法第41条は、国会を国の唯一の立法機関と定め、第43条は、両議院が全国民を代表する選挙された議員で組織されることを定めている。また、第65条は行政権が内閣に属することを、第66条第3項は内閣が国会に対して連帯して責任を負うことを規定している。地方自治についても、第93条は地方公共団体の議会の議員と長を住民が直接選挙する仕組みを定めている。

 ここから分かるのは、政治家の権限の正統性と専門能力が、制度上も異なる概念だということである。専門知識が優れているという理由だけで法律を制定する権限が与えられるわけではなく、反対に選挙に当選したからといって、その人物の専門能力が保証されるわけでもない。民主政治における権限は、専門家としての資格だけではなく、憲法や法律に定められた代表と責任の仕組みによって与えられている。

 もっとも、これは専門家の判断より政治家の判断が常に優先されるべきだという意味ではない。日本でも、審議会や専門家会議、行政機関の職員などが政策形成に関与しており、専門的な知識を活用する仕組みが存在する。問題は民主政治か専門家統治かという単純な二者択一ではなく、専門知識を政治的な意思決定へどのように組み込み、その過程を誰が監督し、結果について誰が責任を負うのかという制度設計にある。

 この点では、政治家を一つの職業としてまとめて論じることにも限界がある。国会議員や地方議会議員には、政策の審議、法律や条例の制定、予算の議決、行政の監視などが重要な役割となる。一方、内閣総理大臣や地方自治体の長には、政策の選択だけでなく、行政組織の統率、人事、予算執行、危機管理などについての能力も求められる。議員として優れた人物が、そのまま優れた行政の長になるとは限らず、反対に行政運営に優れた人物が、議会での政策審議に適しているとも限らない。

 政治家に必要な知性は、どのような立場で、どのような権限と責任を負うのかによっても変わるのである。

政策を理解する能力と、政策を実現する能力は違う

 ここまで専門性、教養、思考の柔軟性について考えてきたが、政治家の能力を評価するうえでは、もう一つ重要な要素がある。それは、理解した政策を実際の社会で実現する能力である。

 例えば、ある自治体の人口減少に対して、住宅政策、子育て支援、交通政策、地域産業政策を組み合わせることが望ましいと分析できたとしても、それだけで政策が実現するわけではない。必要な財源を確保し、行政組織の実施体制を整え、議会の議決を得て、住民や関係団体との調整を進める必要がある。政策が理論上は合理的でも、法制度や予算、人員の制約によって実施できない場合があり、実施できても当初期待した効果が得られない場合もある。

 このため、政治家の能力は少なくとも四つの側面から考える必要がある。第一は、専門的な情報を理解し、政策の前提や効果を検証する能力である。第二は、公平性、自由、効率性、安全性などの異なる価値を比較して判断する能力である。第三は、利害の異なる人々の合意を形成し、制度的な制約の中で政策を実現する能力である。そして第四は、実施した政策の成果を検証し、予想と異なる結果が生じた場合に修正する能力である。

 これらの能力は互いに関連しているものの、必ずしも同じ人物に同じ程度備わっているわけではない。高度な専門知識を持っていても政治的な合意形成が苦手な人物は存在し、反対に人々の意見をまとめる能力に優れていても、政策の数理的な前提を十分に理解していない人物も存在するだろう。

 さらに、政治家には能力だけでなく、誠実性や法令遵守、利益相反の管理といった倫理的な条件も求められる。専門知識が豊富であり、幅広い教養を備え、合意形成が得意であっても、公的な権限を私的利益のために利用するのであれば、優れた政治家とは評価できない。知性の高さと公職を担う適格性は、重なり合う部分を持ちながらも、区別して評価しなければならないのである。

人工知能が発達すると、政治家の知性はどう変わるのか

 人工知能が高度化することで、政治家に求められる知性のあり方が変化する可能性もある。膨大な法律、行政資料、学術論文、統計データを短時間で整理し、複数の政策案を比較する技術が進めば、個人が大量の知識を記憶していることの相対的な価値は変わるかもしれない。

 しかし、人工知能が大量のデータを処理できることと、政策の効果を正確に予測できることは同じではない。例えば、ある市町村で新しい移住支援策を実施した後に転入者が増えたとしても、政策がなかった場合にも同じように増加していた可能性がある。政策の因果効果を明らかにするためには、比較対象の設定や交絡要因の検討が必要であり、単に大量のデータを分析するだけでは十分ではない。

 さらに、政治や経済では、制度が変わることによって人々の行動そのものが変化する。過去の統計に基づいて予測した結果が、新しい制度の下でも同じように成立するとは限らない。人工知能による予測には、データの偏り、推計モデルの前提、将来の社会変化などに伴う不確実性が残る。

 そのため、人工知能が高度化したとしても、政策判断のすべてを機械に委ねることが合理的になるとは限らない。むしろ、示された分析結果について、どの部分が検証された事実で、どの部分がモデル上の仮定なのかを理解し、異なる推計結果を比較する能力が重要になるだろう。

 加えて、効率性を優先するのか、公平性を優先するのか、少数者の権利をどのように保障するのかといった判断には、社会としての価値の選択が残る。人工知能は判断の材料を増やすことができても、その選択について民主的な正統性を持つわけではなく、政策の結果について政治的責任を負う存在でもない。

 人工知能の発達によって政治家の仕事から知識が不要になるのではない。大量の情報にアクセスできる時代だからこそ、その情報の信頼性や限界を見極め、社会の価値判断へ結びつける能力が、より重要になる可能性がある。

結局、専門家と教養人のどちらが政治家に向いているのか

 最初の問いに戻ると、科学的には「専門家型より教養人型の方が一般的に政治家に向いている」とまでは言えない。逆に、専門知識を持つ人物の方が政治家として優れているとも一般化できない。政治家の専門性が政策形成や立法活動に役立つことを示す研究がある一方、専門性から生じる強い確信が有権者への応答性を低下させる可能性を示す研究もある。また、複数の視点を柔軟に組み合わせる思考様式の有用性を示唆する研究は存在するものの、それが幅広い教養を身につけた人物の政治的優位性を直接証明しているわけではない。

 そもそも専門家と教養人は、必ずしも対立する分類ではない。ある分野について高度な専門性を持ちながら、歴史や哲学、経済や法律について広い理解を持つ人物もいる。反対に、幅広い教養を持っていても、特定の政策領域については十分な理解を欠く場合がある。専門性の深さ、知識の広さ、思考の柔軟性、知的謙虚さは、互いに関連することがあっても、それぞれ別の性質として評価する必要がある。

 ここから導けるのは、専門家か教養人かという二者択一よりも、政治家という職業には専門家とは異なる種類の能力の組み合わせが必要だということである。

 理想的なのは、少なくともいくつかの領域について十分な知識を持ちながら、自分の専門だけで社会全体を説明しようとせず、異なる専門家の議論を理解し、それぞれの前提と限界を比較できる人物だろう。さらに、自分の考えに反する証拠が出たときには判断を修正でき、自分では答えられない問題については「分からない」と認め、そのうえで必要な知識を持つ人間を探せることが重要になる。

 しかし、それだけでも十分ではない。政治家は研究者でも評論家でもなく、社会に現実の影響を与える意思決定を担う存在である。多様な価値や利害の間で優先順位を決め、関係者との合意を形成し、予算や法律などの制約を踏まえて政策を実行し、その結果を検証することまで求められる。政策が期待した成果を生まなかった場合に、責任を他者へ押しつけるのではなく、事実を確認して判断を修正できるかどうかも重要な評価基準になる。

 政治家を選ぶとき、私たちはしばしば「この人は何に詳しいのか」と考える。しかし、それだけでは十分ではない。その人物は、自分とは異なる専門家の意見を聞けるのか、自分の考えに反する証拠が出たとき判断を変更できるのか、自分の知らないことを認識できるのか。そして、異なる意見を持つ人々との合意を形成し、実際に政策を実現し、結果について責任を負うことができるのか。こうした問いも、専門知識の豊富さと同じくらい重要になる。

 もっとも、専門性の深さ、教養の広さ、知的謙虚さを同時に備えた人物が、他の政治家より常に優れた政策成果を残すと実証されているわけではない。ここで示した政治家像は、複数の学術研究や民主主義制度の特徴から導かれる合理的な考え方ではあるが、それ自体が科学的に証明された唯一の正解ではない。

 それでも、複雑な社会で政治を担う人物に、特定分野の知識だけ、あるいは幅広い教養だけを求めることには限界がある。現実の政策課題は専門領域の境界を越えて存在し、科学的な分析によっても解消できない価値の衝突を含み、さらに制度的な制約の中で実行されなければならないからである。

 政治家に必要なのは、専門家ではないことではない。むしろ専門家と議論できるだけの知性を持ちながら、専門知を絶対視しないことである。そして、幅広い視野を持ちながら、表面的な理解だけで複雑な問題を判断しないことである。

 専門家と議論できるだけの深さを持ち、専門領域の境界を越えられるだけの広さを持ち、それでも自分の知識には限界があると理解している人。さらに、その知識を社会の選択へ結びつけ、異なる意見を調整し、実行した政策の結果に責任を負える人。そのような人物こそ、複雑な社会の政治を担ううえで、最も望ましい政治家像に近いのではないだろうか。

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