地域政経

九条レオンの地域から社会と政治・経済のこれからを考える

 自分を窮地に追い込んだ新聞記者が目の前に現れたとき、政治家はその男をどう扱うだろうか。怒鳴りつけるかもしれないし、出入りを禁じるかもしれない。少なくとも、自分の側近にしようとは普通は考えないだろう。ところが田中角栄は、そうしなかった。その記者を、やがて自分の秘書にしたのである。

 男の名は早坂茂三。のちに二十三年間にわたって田中の側近を務め、田中政治の内側を後世に伝える証言者となる人物である。二人の関係が興味深いのは、最初から田中に忠実だった人物が取り立てられたわけではないところにある。むしろ逆で、早坂は新聞記者として田中に不利な記事を書き、それによって田中を政治的に困らせた。その能力を見た田中が、やがてその男を自分の懐へ引き入れたのである。

 もちろん、私たちは田中の心の中を見ることはできない。「自分を攻撃する人間だからこそ欲しかった」と田中自身が体系的な人材論を残したわけでもない。それでも、確認できる出来事を丁寧につなぐと、田中が早坂のどこを評価したのかはかなり見えてくる。そこにあったのは、単なる好き嫌いを越えて、人間の「使える力」を見抜こうとする田中角栄独特の人材感覚だったのではないか。

すべては一つのスクープから始まった

 一九三〇年に北海道函館で生まれた早坂茂三は、早稲田大学政治経済学部を卒業後、東京タイムズに入り、政治部記者として永田町を取材していた。田中角栄との関係が大きく動くのは一九六二年である。

 この年二月、アメリカのロバート・F・ケネディ司法長官が来日した。ケネディは大統領ジョン・F・ケネディの実弟であり、当時のアメリカ政治を象徴する人物の一人だった。その来日に際して日本の政治家との非公式な懇談が行われ、その席に当時自民党政務調査会長だった田中角栄も出席している。そこで田中が沖縄返還や安全保障、憲法などに関してかなり踏み込んだ発言をしたことは、後世に作られた角栄伝説だけではない。アメリカ側の外交記録などからも、この懇談で田中が敏感な政治問題について積極的に発言していたことが確認されている。

 問題は、その内容が外へ出たことである。早坂は、その発言を記事にした。記事は政治問題へ発展し、国会審議にも影響を及ぼしたとされるから、政治家の側から見れば極めて迷惑な記者だったはずである。ところが、ここから話がおもしろくなる。

 早坂は後年、自分が記事を書いたことを田中本人に名乗り出たと回想している。そして田中は早坂を激しく責めるどころか、記者としての仕事を認め、自分が記者でも書いただろうという趣旨の反応をしたという。

 この場面については注意が必要である。私たちが確認できるのは、「早坂が後年、そのように回想している」ということであって、その場に録音機が置かれていたわけではない。会話の一字一句まで客観的に確定しているわけではないのである。それでも、早坂がかなり早い時期から同様の経緯を語っていたこと、その後実際に田中の秘書へ転じたことを考えれば、少なくとも「スクープをきっかけとして田中が早坂を強く意識するようになった」という大筋は不自然ではない。

 政治家と記者の間に最初に生まれたものは友情ではなかった。むしろ、互いに相手の力量を知る機会だったと考えた方がよい。早坂は田中の発言の政治的な危険性を嗅ぎ取り、記事にする判断をした。一方の田中は、その記事によって自分が傷つけられたと同時に、早坂という記者がどの程度の男なのかを知った。敵味方という分類より先に、能力が見えたのである。

田中が見たのは「従順さ」ではなかった

 組織が人を選ぶとき、最も簡単なのは自分に逆らわない人物を選ぶことである。上司の意向を理解し、余計な摩擦を起こさず、忠実に動く人物は扱いやすい。政治家の秘書なら、なおさらそう考えたくなる。しかし、早坂はその条件からかなり遠い人物だった。

 田中に不利な記事を書き、問題になれば本人のところへ出ていく。しかも学生時代には、自民党政治家の秘書としては一見すると異質に見える左翼運動の経験まで持っていた。早坂自身の自伝によれば、早稲田大学時代には左翼学生運動に関わり、共産党に入党した経験もあった。

 にもかかわらず、田中は早坂を自分の側へ引き入れる。ここから推測できるのは、田中の人物評価では、少なくとも経歴上の「無難さ」だけが最優先ではなかったということである。

 田中自身も、当時の政界の典型的なエリートコースからは外れた人物だった。新潟県の二田尋常高等小学校を卒業したのち上京し、働きながら中央工学校で土木を学んでいる。旧帝国大学や有名大学を経て官僚となり、そこから政界へ転じるという経歴ではなかった。

 田中には、出身校や学閥によって自然に形成される強固な人的ネットワークが最初から用意されていたわけではない。だからこそ、自分で人間を探し、自分で値踏みし、自分で人間関係をつくる必要があったとも考えられる。早坂の登用は、その田中らしさをよく示している。過去にどこへ所属していたかではなく、目の前で何ができるかを見る。少なくとも早坂のケースでは、田中はそういう人間の見方をしたように見える。

「俺は十年後、天下を取る」

 一九六二年七月、田中角栄は池田勇人内閣の大蔵大臣に就任した。四十四歳だった。その年の十二月、早坂は田中から大蔵大臣室へ呼ばれたと回想している。そして、そこで田中から「俺は十年後、天下を取る。お前は片棒を担げ」と言われたという。

 あまりにも田中角栄らしい言葉である。ただし、この有名な言葉についても、読み方には慎重さが必要だろう。この会話を伝えている中心的な証言者は早坂自身である。したがって、「一九六二年十二月、田中がこの文言を一字一句そのまま発した」と歴史学的に完全確定しているわけではない。正確に言えば、早坂は後年、「田中からそのように誘われた」と回想しているのである。

 それでも、この回想が強烈な印象を残す理由がある。田中角栄が自民党総裁となり、内閣総理大臣に就任するのは一九七二年七月だった。早坂を誘った一九六二年十二月から、およそ九年七か月後である。「十年後」という言葉と、現実の総理就任時期が驚くほど接近している。

 もちろん、だからといって田中が一九六二年の段階で十年後の政局を正確に予測していたとは言えない。政治には選挙があり、派閥抗争があり、首相の交代があり、景気や外交情勢まで絡む。それでも、少なくとも田中が自分の将来を一大臣の椅子だけで終わらせるつもりではなかったことは、十分に想像できる。

 早坂によれば、十二月二日に大臣室へ呼ばれ、十二月十日には大蔵大臣秘書官事務取扱となった。ここで一つだけ、事実と推論を分けておかなければならない。田中が「十年後の天下」を意識していた可能性は高いとしても、早坂の採用そのものが十年後の総理就任を見据えた計画的人材戦略だったと証明する史料はない。

 しかし、少なくとも田中が自らの政治的将来を長い時間軸で考えており、その過程で早坂という異質な能力を持つ人物を側近に加えた、と見ることはできる。この違いは小さいようで大きい。歴史をおもしろくするために、証拠のないところまで物語を完成させてしまってはいけない。むしろ、不確かな部分を残しておく方が、田中という人物の巨大さはかえって際立つ。

なぜ新聞記者だったのか

 田中が早坂を欲しがった理由を考えるとき、彼が単に「頭のいい人間だった」からでは説明しきれない。重要なのは、早坂が新聞記者だったことである。

 政治家と新聞記者は、同じ永田町にいても物事を見る方向が違う。政治家は自分が何を実現するかを考えるが、記者はそれが外からどう見えるかを考える。政治家が政策の内容を説明しているとき、記者はその中のどの一言が翌日の見出しになるかを探している。政治家が「これは大した問題ではない」と思っているとき、記者は「ここから問題が起きる」と感じることがある。

 一九六二年のスクープは、まさにその差を田中に突きつけた出来事だった。田中自身が政治家として発言した言葉を、早坂はニュースとして見た。しかも実際に政治問題となった。田中から見れば、それは苦い経験だったに違いないが、別の角度から見れば、早坂は田中の目の前で、自分の能力をこれ以上ないほど分かりやすく実演してみせたことになる。

 どの発言が危険なのか、世間はどこに反応するのか、新聞は何を問題として切り取るのか。政治家が権力を大きくすればするほど、こうした「外から見る目」は重要になる。田中が早坂を登用した理由を一つに決めることはできないが、早坂の記者としての判断力と胆力を田中が高く評価したことは、早坂自身の証言とその後の登用という事実から見ても、かなり自然な解釈である。

左翼だった男を自民党政治家が採る

 さらに興味深いのが、早坂の政治的経歴である。早坂は学生時代、左翼運動に関わっており、後年の自伝でも共産党への入党経験まで記している。

 田中がその経歴を把握していたことについても、早坂は興味深い回想を残している。田中から、公安調査庁にある自分の資料まで読んだという趣旨のことを言われた、というのである。ただし、これも田中側の公文書によって裏付けられた話ではない。正確には、「早坂が田中からそう言われたと回想している」という証言である。

 それでも、早坂の政治的過去が秘書就任の障害にはならなかったこと自体は動かない。これは田中という政治家の人間観を考えるうえで示唆的である。思想的に自分と完全に同じ人間だけを集めれば、組織は一見まとまりやすい。しかし、その代わりに同じものしか見えない組織にもなりやすい。

 新聞社にいた人間、左翼運動を経験した人間、自分に不都合な記事を書ける人間。早坂は、田中とは違うところから政治を見ることのできる人物だった。田中がそこまで意識的に「異質な人材を集めよう」と考えていたかどうかは分からないが、結果として田中は自分とは異なる経歴と視点を持つ人物を、自分の最も近いところへ置いた。そこに、田中の人材登用の柔軟さを見ることはできるだろう。

早坂は田中の「もう一つの目」になった

 早坂茂三は、その後二十三年間にわたって田中の秘書を務める。単なる一時的な登用ではなかった。田中が権力の頂点へ駆け上がる時期も、総理大臣となった時期も、金脈問題によって退陣した後も、ロッキード事件で政治的に追い詰められていく時期も、早坂は田中の近くにいた。田中が病に倒れるまで、その関係は続いた。

 この長さそのものが、一九六二年の選択が単なる思いつきではなかったことを示している。早坂は田中政治の単なる観察者ではなく、その内部に入った人間になった。新聞記者時代には外から田中を見る人間だったが、秘書になってからは内側から田中を見る人間になった。その二つの視点を持っていたからこそ、後年の早坂は田中角栄について数多くの本を書き、政治評論家として独特の存在感を持つことになる。

 考えてみれば、不思議な関係である。田中にとって早坂は、もともと自分の言葉の危険性を外側から見抜いた男だった。その男を、今度は自分のすぐそばに置いたのである。田中が早坂にどのような役割を期待していたのか、そのすべてを史料から再現することはできないが、結果から見るならば、早坂は田中にとって、自分とは違う角度から政治を見る「もう一つの目」に近い存在になっていったように思える。

「敵を味方にした」というだけでは足りない

 田中と早坂の物語は、ともすると「自分を攻撃した記者を懐柔した」という話として語られる。しかし、それだけでは田中角栄という人物のおもしろさを取り逃がす。もし田中が単に敵を減らしたかっただけなら、記者を一人秘書にしても新聞社そのものが味方になるわけではない。

 むしろ重要なのは、早坂が自分を困らせた過程で、能力を見せてしまったことだったのではないか。田中に不都合な発言を記事にする判断力、大物政治家を相手にしても引かない胆力、自分が書いたと本人の前へ出る覚悟、そして政治の内側と外側を往復して見ることのできる記者としての感覚。田中が早坂を「優秀だ」と評価したという早坂の回想は、こうした事実とよく整合する。

 だから、この一本釣りを最も慎重に表現するなら、田中角栄は自分に従順だったから早坂茂三を選んだのではなく、早坂が記者として実際に能力を示し、その判断力と胆力を田中が高く評価したことが、登用の重要な理由だったと考えるのが自然である。そして、その能力が最も鮮烈に現れた場所が、皮肉にも田中自身を困らせたスクープだったのである。

自分を刺した銛を、自分の船へ引き上げる

 人間は、自分に利益をもたらした相手の能力を評価することはできる。難しいのは、自分に損害を与えた相手の能力を評価することである。そこには感情が入る。「あいつのせいで困った」と考える方が自然であり、「それだけの仕事ができる人間なのだ」と考えるには、かなり強い自己制御が必要になる。

 田中が実際にどこまで意識的にそのような判断をしたのかは分からない。しかし起きたことだけを見れば、田中は自分を困らせた新聞記者を排除せず、やがて自らの側近へ転じさせた。これだけでも十分に異例である。

 早坂は知らないうちに、田中角栄の前で自分の能力を証明していた。採用試験でもなく、履歴書でもなく、面接でもない。田中自身を政治的に困らせる一本の記事が、その男の力量を示してしまったのである。そして田中は、その能力を自分への敵意と同一視しなかった。ここに、早坂茂三一本釣りの核心があったのではないか。

 田中は「自分に都合のいい人間」を探していたというより、「使える人間」を見つけた。少なくとも、二人の間に残された事実と早坂の回想を重ねるなら、そう読むのが最も無理が少ない。

 自分を刺した銛が鋭ければ、普通なら捨てたくなる。ところが田中角栄は、その鋭さそのものに価値を見いだし、銛ごと自分の船へ引き上げたように見える。

 一九六二年十二月、早坂茂三は新聞記者から田中角栄の秘書へ転じた。そして約十年後、田中角栄は本当に総理大臣になった。そのとき、かつて田中の発言を記事にして彼を窮地に追い込んだ男は、もう記者席から田中を見てはいなかった。

 権力の頂点へ登った田中の、すぐそばにいたのである。

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総理にならなかった最高実力者・金丸信はなぜ日本政治を動かせたのか

日本政治において、最も力を持つ人物は誰か。

そう問われれば、普通は内閣総理大臣と答えるだろう。閣僚を任命し、政府を代表して外交を行い、衆議院の解散を決定する政治過程でも中心的な位置を占める。その権限だけを見れば、総理大臣こそ政治権力の頂点にいる。

ところが、昭和の終わりから平成の初めにかけて、この常識だけでは説明しきれない政治家がいた。

金丸信である。

建設大臣、防衛庁長官、自民党幹事長、副総理、自民党副総裁まで上りつめながら、彼はついに総理大臣にはならなかった。それでも一時期の日本政治では、「次の総理を誰にするのか」という、本来なら総理大臣を目指す政治家たちが争うはずの問題について、金丸の判断が決定的な意味を持った。

不思議なのは、金丸が総理になれなかったことではない。

むしろ考えるべきなのは、なぜ総理にならなくても、日本政治の最高実力者と呼ばれるほどの力を持てたのかということである。

その答えをたどっていくと、金丸信という一人の政治家の人物像を越えて、いまではかなり姿を変えてしまった「昭和型自民党政治」の構造そのものが見えてくる。

総理候補が「お願い」に行った時代

金丸信の権力が最もわかりやすい形で現れたのは、1991年の自民党総裁選だった。

海部俊樹首相の退陣が決まり、宮沢喜一、渡辺美智雄、三塚博らが後継総裁を争った。このとき自民党最大派閥だった竹下派、正式名称を経世会という巨大集団が誰を支持するかによって、勝敗は大きく左右される状況になっていた。

そこで起きたのが、後に「小沢面談」と呼ばれる場面である。

宮沢、渡辺、三塚という総裁候補たちが、竹下派会長代行だった小沢一郎と個別に面談した。総理を目指す政治家が、自分より若い一派閥の幹部を訪ね、政権構想を説明する。その光景そのものが、当時の自民党において最大派閥がどれほど大きな力を持っていたかを物語っていた。

そして、この話にはさらに興味深い続きがある。

小沢一郎が後年語ったところによれば、三人との面談が終わった後、小沢は金丸信、竹下登とともに誰を支持するかを話し合った。そこで三人はいったん、宮沢ではなく渡辺美智雄を支持することで一致したという。金丸自身も「それではミッチーにするか」と同意し、その日の結論は渡辺支持だったと小沢は回想している。

ところが翌朝、金丸は竹下と小沢を再び呼び出した。

そして前日の結論を覆し、「宮沢にしてくれ」と頼んだという。

なぜ金丸が一夜にして判断を変えたのか。その理由について小沢自身も真相は分からないと語っているため、そこから先を史実として断定することはできない。しかし重要なのは、理由ではない。

竹下派が誰を支持するのかという最終局面で、金丸の判断がそれほど大きな意味を持っていたという事実である。

竹下と小沢を含む派閥中枢がいったん渡辺支持で一致しても、翌朝に金丸が宮沢支持を求めれば、結論そのものが動いた。そして竹下派は宮沢支持へと進み、宮沢は総裁選に勝利して首相となった。

ここには、現在の政治感覚では少し理解しにくい光景がある。

総理になりたい人物が、総理経験者の許可を求めていたのではない。総理経験のない金丸信が率いる巨大派閥の判断が、誰が総理になるのかを左右していたのである。

つまり金丸の力は、憲法にも法律にも書かれていなかった。

それでも現実の政治を動かした。

なぜなら当時の自民党では、政治権力のかなりの部分が首相官邸だけではなく、「党」と「派閥」の中にも存在していたからである。

金丸を強くしたのは、金丸だけではなかった

金丸信は1958年の衆議院議員総選挙で初当選し、その後、建設大臣、国土庁長官、防衛庁長官などを歴任した。1984年には自民党幹事長となり、1986年の第3次中曽根内閣では、内閣法第9条に基づいて首相に事故があった場合などに職務を代行する国務大臣、いわゆる副総理に指定された。

だが、こうした肩書だけを追っても、金丸の本当の力は見えてこない。

重要なのは、彼が政治家として成長した時代の選挙制度である。

当時の衆議院選挙では、一つの選挙区から複数の議員を選ぶ中選挙区制が採用されていた。自民党が一つの選挙区で複数議席を獲得しようとすれば、同じ選挙区に自民党候補を複数立てることになる。すると奇妙な競争が起きる。同じ自民党でありながら、候補者同士が票を奪い合わなければならないのである。

政党も大きな政策の方向も同じなら、候補者は別の違いを有権者に示さなければならない。そこで重要になったのが、個人後援会であり、地元との結びつきであり、政治資金であり、そして派閥だった。

派閥は単なる政治家同士の親睦団体ではなかった。選挙で候補者を支援し、政治資金を集め、党内人事や閣僚人事をめぐって所属議員を後押しし、総裁選になるとまとまった票を提供する。

議員にとって派閥は、自分の政治生命を支えてくれる組織だった。

そして派閥領袖にとって所属議員は、自分の政治力を数字として示す存在だった。

つまり、金丸が強かったから派閥が強くなっただけではない。

派閥が力を持ちやすい政治制度が存在し、その制度の中で人と金と人事を動かす方法を金丸が誰より深く理解していたから、金丸は強くなったのである。

ここを見落とすと、金丸信は「裏で政治家を操った怪物」という人物伝で終わってしまう。

しかし実際には、金丸は当時の政治制度が生み出した権力の流れを、驚くほど正確に読んでいた政治家だったと考えた方が理解しやすい。

田中角栄から受け継いだ「数」の政治

その政治を金丸に教えた巨大な存在が、田中角栄だった。

田中派は1970年代から1980年代前半にかけて自民党最大級の派閥となり、田中本人が首相を退いた後も大きな影響力を保ち続けた。

田中政治の核心にあったものは、華麗な演説や抽象的な理念だけではない。

政治では、最後には数が必要になる。

総裁選で何票あるのか。国会で法案を成立させるために何人を動かせるのか。大臣や党幹部を何人送り込めるのか。そして選挙になったとき、仲間を何人当選させられるのか。

数を持っている者は、他の派閥と交渉できる。数を持たない者は、どれほど立派な政策を語っても、最後には誰かの協力を求めなければならない。

金丸は、その単純で冷徹な原理を知っていた。

しかし1980年代半ばになると、田中派内部にも世代交代を求める動きが強くなる。竹下登を中心としたグループは1985年に創政会を結成し、その後、田中派は大きく揺れる。そして1987年、竹下登を中心に経世会、いわゆる竹下派が発足した。

竹下が首相になると、金丸は経世会会長となる。

ここで金丸は、田中角栄とは少し違う位置に立った。

田中角栄は自ら総理大臣になり、その後も巨大派閥を背景に政界へ強い影響を及ぼした。

ところが金丸は、総理大臣にならないままキングメーカーになったのである。

この違いは小さいようでいて、実は大きい。

総理になれば、自分自身が政権の責任者になる。経済が悪くなれば批判され、選挙に負ければ退陣を迫られ、政策判断をするたびに支持する者と反対する者が生まれる。

一方、キングメーカーは自ら政権の看板にならずに、政権形成へ大きく関与することができる。

もっとも、ここから「金丸は総理になるより裏から動かす方が得だと計算していた」とまで断定することはできない。

ただ、金丸が結果として手にしたのは、総理大臣とは異なる種類の権力だった。

自分が総理になるのではなく、誰を総理にするのか。

金丸の政治人生が最終的に到達した場所は、そこだった。

「自分がなる」より「誰をならせるか」

もちろん、「金丸が望めば簡単に総理になれた」と考えるのも行き過ぎだろう。

自民党総裁になるには他派閥との関係、年齢、世論、政治的なタイミングなど多くの条件があり、最大派閥の実力者だから自動的に総理になれるわけではない。

しかし小沢一郎は後年、金丸について興味深い証言を残している。

小沢の回想では、金丸は自分自身がトップに立つことを強く望む人物ではなく、若い議員であっても意見を聞き、納得すれば受け入れる人物だったという。

これは小沢という金丸に近かった政治家から見た人物像であって、それ自体を客観的事実として一般化することはできない。しかし、金丸の政治行動を理解する手掛かりにはなる。

彼が得意としていたのは、自分が舞台中央に立って拍手を浴びること以上に、人と人の間に立つことだった。

対立する派閥をつなぐ。若手を引き上げる。国会運営の落としどころを探す。総裁候補の力関係を読み、最後に誰へ票をまとめるかを決める。

それは政策を細部まで設計する政治家というより、政治という巨大な人間関係を動かす政治家の姿だった。

金丸が何度も自民党国会対策委員長を務め、後に幹事長まで上りつめたことも、この政治スタイルと無関係ではない。

国会対策とは、正論を述べれば仕事が終わる場所ではない。与党と野党、政府と党、派閥と派閥の間で妥協点を探し、「ここまでなら相手が受け入れる」という境界を見極める世界である。

そこで必要になるのは、法律や政策についての知識だけではない。

人間を読む力である。

誰が何を欲しがっているのか。誰と誰が対立しているのか。どこまで譲れば相手の顔が立つのか。そして今日の譲歩や恩義が、数年後の政治でどのような関係になって返ってくるのか。

金丸の政治とは、人間関係を長い時間軸で読む政治でもあった。

だからこそ彼には、肩書そのものを越えた力が生まれた。

金と人事が一つの回路につながっていた

だが、ここから金丸政治のもう一つの顔が現れる。

人を束ねるには選挙を支えなければならず、選挙を支えるには金がいる。派閥が議員の選挙や昇進を支援する制度の中では、「数」と「金」は切り離すことができない。

金丸は建設行政との関係が深い政治家でもあり、1972年には田中角栄内閣で建設大臣を務めた。その後、政界での影響力を増していくにつれて、建設会社を含む企業などから多額の政治献金が金丸周辺へ集まるようになっていったことは、後の事件や裁判を通じても明らかになっている。

ただし、ここで注意しなければならない。

建設業界との関係が深かったことと、個々の公共事業が献金の直接的な見返りとして決められたとすることは、同じ意味ではない。根拠のない因果関係まで広げれば、歴史分析ではなく推測になってしまう。

それでも、当時の自民党政治において政治資金と派閥が密接に結びついていたことは重要である。

派閥には所属議員の選挙を助け、人事を調整し、組織を維持する役割があった。そのためには莫大な政治資金が必要になる。一方、企業側にも政治との関係を維持しようとする動機があった。

企業や支援者から政治へ資金が流れ、その資金によって議員の選挙や政治活動が支えられ、議員は派閥へ所属し、その人数が総裁選や党内人事で派閥領袖の力になる。

こうして金と人と票が、一つの循環をつくる。

その循環の中央に立つ人物ほど強くなる。

金丸の権力は、その回路の中で膨張した。

だからこそ後に明らかになる政治と金の問題も、一人の政治家の蓄財問題だけでは終わらなかった。それは、戦後日本の長期政権を支えてきた政治資金と派閥の仕組みそのものへの疑問へと広がっていったのである。

外交まで「個人のパイプ」が動かした

金丸の政治手法は国内だけにとどまらなかった。

1990年9月、金丸は自民党代表団を率い、社会党の田辺誠らとともに北朝鮮を訪問して金日成主席と会談した。

この訪朝を契機として、長く抑留されていた第18富士山丸の日本人船員が帰国し、その後の日朝国交正常化交渉へつながる流れが生まれた。

ここにも金丸政治の特徴がよく表れている。

本来、外交を担うのは政府である。

ところが政府間関係が動かないとき、政党間交流や政治家同士の人的関係が別の通路をつくることがある。制度が動かないなら、人間関係から動かしてしまう。

金丸は、国内政治でも外交でも、この種の政治を得意としていた。

現代から見れば、こうした方法には危うさもある。

外交政策がどのような手続きで決まり、誰が責任を負うのかが曖昧になりやすいからである。その一方で、正式な政府間交渉だけでは解決できなかった問題に政治家同士の接触が突破口をつくることもある。

金丸政治には、この二面性が常につきまとっていた。

制度から見ると不透明である。

しかし、その不透明な人間関係だからこそ、公式の制度だけでは動かないところを動かす場合がある。

その便利さと危険さは、ほとんど同じ場所から生まれていた。

頂点からの転落は、あまりにも突然だった

その巨大な権力は、1992年に崩れ始める。

東京佐川急便から金丸側への5億円の献金問題が発覚し、金丸は自民党副総裁を辞任した。政治資金規正法違反で略式起訴され、罰金20万円の略式命令を受けたが、問題となった金額の大きさに比べ処分が軽すぎるという世論の強い反発が起きた。

金丸はその年の10月、衆議院議員を辞職する。

翌1993年には脱税容疑で逮捕され、巨額の所得を隠したとして所得税法違反で起訴された。裁判は続いたが、金丸は公判中の1996年に死去し、公訴は棄却された。

しかし政治史として重要なのは、一人の大物政治家が失脚したことだけではない。

金丸の退場を契機として、それまで最大派閥の内部に存在していた亀裂が急速に表面へ現れた。

ただし、ここを「金丸がいなくなったから竹下派が割れた」と単純化するのは正確ではない。

竹下派内部では、金丸の後を誰が率いるのかという後継問題に加え、政治改革をどのように進めるのか、小沢一郎らの改革志向と旧来型の党運営を重視する勢力との関係をどうするのかという路線対立が重なっていた。金丸という巨大な調整役が退場したことで、それまで一つの派閥の内部に押し込められていた複数の対立が、一気に政治問題として噴き出したと見る方が実態に近い。

小沢一郎、羽田孜らのグループは、竹下登、小渕恵三らの側と袂を分かち、新たな政策集団を形成する。

その対立はやがて派閥内部だけでは収まらなくなった。

1993年、政治改革をめぐる宮沢政権への不信任決議案に自民党の一部議員が賛成し、衆議院は解散される。総選挙後、小沢、羽田らは自民党を離れて新生党を結成し、細川護熙を首相とする非自民連立政権の成立へとつながっていった。

したがって、金丸一人が消えたことで自民党政権が崩壊したわけではない。

しかし、金丸の失脚が、それまで巨大派閥の内部で抑えられていた後継争いと路線対立を表面化させる重大な契機になったことも確かである。

その意味では、金丸の権力は彼が力を持っていたときだけでなく、彼がいなくなった後にまで、その大きさを示したと言える。

金丸事件だけが政治改革を生んだわけではない

金丸信の失脚から1994年の政治改革へと歴史を一直線につなぐと、話は分かりやすくなる。

しかし、歴史はそれほど単純ではない。

日本政治で「政治と金」が大きな問題となり、選挙制度や政治資金制度を変えるべきだという議論が本格化したのは、金丸事件から突然始まったわけではなかった。

1980年代末にはリクルート事件が政治を揺るがし、政治家と企業との関係、政治資金の透明性、派閥政治の弊害に対する国民の不信はすでに強くなっていた。その流れの中で政治改革は自民党内でも大きな課題となり、海部政権、宮沢政権へと持ち越されていた。

そこへ東京佐川急便事件と金丸問題が起きる。

巨額の政治資金をめぐる問題と、それに対する司法処分への国民の強い不満は、それ以前から存在していた政治不信をさらに深刻なものにした。

つまり、金丸事件が政治改革をゼロから生み出したのではない。

すでに燃えていた政治改革への要求に、大量の油を注いだ事件の一つだったのである。

そして1993年には政治改革をめぐって宮沢政権が行き詰まり、自民党が分裂して政権を失う。細川護熙を首相とする非自民連立政権は政治改革を最重要課題に掲げ、与野党の激しい交渉を経て、1994年に政治改革関連法が成立した。

衆議院選挙は、それまでの中選挙区制から小選挙区比例代表並立制へ移行する。

政治資金制度も改められ、政党を中心とする政治へ制度の重心が移っていった。

この変化が、その後の自民党政治の権力構造を大きく変えていくことになる。

なぜ「金丸信のような政治家」は生まれにくくなったのか

1994年の政治改革は、金丸信という一人の政治家を消すために行われたものではない。

しかし結果として、金丸のような政治家が力を持つための土壌の一部を弱めることになった。

中選挙区制では、一つの選挙区で自民党候補同士が競争する。そのため候補者は、自分を支えてくれる派閥の資金や組織を必要とした。

ところが小選挙区制では、一つの選挙区から原則として一人の自民党候補しか公認されない。

すると政治家にとって重要になるのは、派閥がどれほど支援してくれるかだけではなく、まず党から公認を得られるかどうかになる。

その結果、候補者公認を握る党執行部、そして自民党総裁の力が相対的に大きくなる。

さらにテレビ政治の発達、世論調査の影響力増大、政党助成制度の導入などが重なり、政治資金、人事、選挙のすべてを一つの派閥領袖が握ることは以前より難しくなっていった。

この変化を逆から眺めれば、金丸信がなぜあれほど強かったのかがよく分かる。

金丸が超人的だったからだけではない。

中選挙区制があり、派閥が選挙を支え、派閥領袖が人事に大きな影響を持ち、政治資金が派閥を通じて所属議員を支え、総裁選では派閥単位の票が勝敗を左右する。

そのいくつもの制度と慣行の交差点に、金丸信が立っていたのである。

彼はその交差点で、誰より巧みに交通整理をした。

だから自分自身が常に車を運転していなくても、どの車をどの方向へ走らせるのかに影響を及ぼすことができた。

金丸信とは何者だったのか

金丸信を評価するのは難しい。

「政界のドン」という言葉だけで英雄視すれば、政治と金をめぐって起きた重大な問題が消えてしまう。

逆に「金権政治家」の一言だけで片づければ、なぜその人物が三十年以上にわたって政治の中心に近づき、最後には総理大臣を選ぶほどの影響力を持ったのかを説明できない。

金丸は、昭和型自民党政治の異常な例外だったのではない。

むしろ、その仕組みが持っていた特徴を極端なほど鮮明な形で体現した政治家だったのではないだろうか。

政治を理念だけではなく、数で見る。

数を維持するために人を育てる。

人を育てるために選挙を支える。

選挙を支えるために政治資金を集める。

そして、その数を使って人事を動かし、総裁選を動かし、政権形成に影響を及ぼす。

こうした循環を動かす能力において、金丸は抜群だった。

しかし、その循環が強くなりすぎれば、やがて「誰が正式な権限を持っているのか」が見えにくくなる。

選挙によって国会議員となり、国会によって指名された首相がいる。その一方で、法律上は首相を指揮する権限など持たない派閥の実力者が、首相候補の選定や党内人事に大きな影響を及ぼす。

制度上の権力と、現実に政治を動かす権力が一致しなくなるのである。

金丸政治の強さは、そのまま金丸政治の危うさでもあった。

そして金丸が失脚すると、その人物によって調整されていた巨大派閥の内部対立が表面化し、自民党の分裂と政界再編へつながっていった。

同じ時期、リクルート事件以来積み重なっていた政治不信に佐川急便事件などが重なり、日本政治は選挙制度と政治資金制度そのものを改める大きな政治改革へ向かっていく。

そう考えると、金丸信の人生には奇妙な歴史の皮肉がある。

彼は総理大臣にはならなかった。

それでも総理大臣をつくる側に立った。

1991年には、渡辺美智雄で一度まとまったとされる最大派閥の判断を、自ら翌朝に宮沢喜一へと変えたという証言さえ残っている。

総理になった人物の名前は歴代首相一覧に残る。

しかし、誰をその一覧に載せるのかを決める政治家が、その背後にいた時代もあったのである。

金丸信が政治の頂点近くにいたころ、日本政治の権力の中心は、必ずしも首相官邸だけにあったわけではなかった。

派閥事務所にあり、議員会館にあり、料亭での会合にあり、ときには一本の電話や、政治家同士の長年の人間関係の中にあった。

法律には書かれていない権力である。

だからこそ強く、だからこそ見えにくかった。

そして一度その仕組みが崩れ始めると、その下から政治資金と派閥、人事と選挙、企業と政治を結んできた昭和型自民党政治の骨組みまでが姿を現した。

「総理にならなかった最高実力者」という金丸信の奇妙な肩書は、一人の政治家を表しているだけではない。

それは、総理大臣という肩書を持たなくても、総理大臣を選び、政権の行方に影響を与えられる政治構造が、日本に実際に存在したことを示している。

そして金丸信という政治家を理解することは、その人物の栄光と転落を眺めることではない。

総理大臣よりも目立たない場所にありながら、ときに総理大臣以上の影響力を発揮する権力とは何なのか。

昭和から平成へ移る日本政治の境目で、金丸信はその問いを、最も極端な形で残した政治家だったのである。

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昭和の政治家には、平成以降の政治家とはどこか異なる空気がある。それは政策の違いだけではなく、政治家自身が国家の歴史を背負っているかのように振る舞い、ときには自分の人生と日本という国の歩みを重ね合わせながら政治を語ったことに由来するのかもしれない。その意味で、中曽根康弘ほど「昭和の政治家」という言葉が似合う人物は少ない。大正に生まれ、戦争を経験し、敗戦直後に国政へ入り、高度経済成長と冷戦の時代を駆け抜け、昭和の終わりが近づいた1980年代に総理大臣として政権の頂点に立った彼の人生をたどると、そこには一人の政治家の成功物語というより、日本の戦後そのものが映っている。

中曽根はしばしば「大統領型首相」、より正確には「大統領的首相」と評される。もちろん、日本は大統領制ではなく議院内閣制であり、中曽根が総理大臣になったことで制度そのものが変わったわけではない。彼が変えようとしたのは制度の名称ではなく、総理大臣という職の使い方だった。それまでの自民党政治では、総理とは派閥や党内有力者、官僚組織、業界団体などの利害を調整し、その均衡の上に立つ存在であることが多かったのに対し、中曽根は総理自身が国家の進む方向を示し、国民に直接語りかけ、世論を味方につけながら党と官僚を動かしていく政治を求めたのである。後年の研究でも、その政治手法は「大統領的首相」と位置づけられている。

しかし、その発想は1982年に総理大臣になって突然生まれたものではなかった。むしろ中曽根の政治人生を振り返ると、若いころから一貫して抱いていた問題意識が、長い時間をかけて総理在任中に形になったものだと考えた方が分かりやすい。

敗戦を知る青年が、戦後政治の中へ入っていった

中曽根康弘は1918年、群馬県に生まれ、東京帝国大学法学部を卒業した後、官僚の道に入ったが、ほどなく海軍に入り、戦争を経験した。終戦時には海軍主計少佐となり、敗戦後は内務省系の官僚として勤務した後、1947年、新憲法下で行われた衆議院議員総選挙で初当選する。まだ28歳であり、その後2003年まで衆議院議員を務めることになるのだから、国会議員としての経歴だけで半世紀をはるかに超えることになる。

ここには、中曽根という政治家を理解するうえで重要な原点がある。彼は戦後に政治家になった人物ではあるが、精神形成そのものは戦前の日本で行われ、しかも国家の敗北を軍人として経験した世代だった。戦争に敗れ、それまで絶対的なものに見えていた国家の制度が一夜にして崩れ、占領政策の下で新しい憲法と新しい政治制度がつくられていく光景を、彼は青年期に目撃している。だから中曽根にとって「国家とは何か」「日本は誰が統治するのか」という問いは、政治学の教科書に書かれた抽象的な問題ではなく、自分の青春そのものに刻み込まれた問題だったのである。

戦後の中曽根が自主憲法制定や自主防衛を強く唱えたのも、この経験と切り離して考えることは難しい。ただし、彼を単純な戦前回帰の政治家として理解すると、その後の政治人生を読み誤る。中曽根は後に「戦後政治の総決算」を掲げることになるが、それは戦後40年間そのものを否定するという意味ではなく、本人も国会で、戦後日本が平和、民主主義、平等、経済的繁栄において大きな成果を上げてきたことを明確に認めている。そのうえで、40年という時間の中で制度に生じたひずみを修正し、日本が次の時代に進むための政治を行うというのが、彼のいう「総決算」だった。

若き中曽根が考えた「首相を国民が選ぶ政治」

中曽根の「大統領型首相」という発想の源流を探ると、1960年代初めまでさかのぼることができる。1962年に刊行された『首相公選論~その主張と批判』には、中曽根自身による「首相公選論の提唱」が収録されており、彼がかなり早い段階から、総理大臣と国民との関係そのものを変えようとしていたことが分かる。

なぜ国会議員でありながら、国会が選ぶ総理ではなく、国民から直接政治的正統性を得る総理を考えたのか。その背景には、中曽根が戦後の議院内閣制の運用に感じていた不満があった。研究では、中曽根の首相公選論には、派閥政治、政権の不安定、激しい政争によって政治責任の所在が曖昧になることへの問題意識があり、民意をより直接的に政治の中心へ取り戻そうという考えがあったと整理されている。

戦後自民党政治では、総理大臣になるために国民から直接選ばれる必要はなかった。それよりも重要なのは、自民党総裁選挙で派閥の支持を集めることであり、そのためには政策だけでなく、誰と組み、誰と妥協し、誰の支持を受けるかが決定的な意味を持った。中曽根が嫌ったのは、まさにこの構造が政治の最終的な責任者を曖昧にすることだったのだろう。総理が国民に向かって国家の方向を示すのではなく、党内の実力者たちの合意をまとめる議長のような存在になってしまえば、政治は誰の意思によって動いているのか分からなくなる。中曽根が求めたのは、国民から政治的な力を得た指導者が、自分の責任で決断する政治だった。

もっとも、ここに中曽根という政治家の面白さがある。理念としては強い指導者を求めながら、自分自身が総理になるまでの道のりでは、誰よりも自民党派閥政治の海を巧みに泳いだからである。

「風見鶏」と呼ばれた男は、本当に信念がなかったのか

中曽根には長い間、「風見鶏」というあまりありがたくない呼び名がついて回った。政治状況によって立場を変え、時の権力者と巧みに関係を築く姿が、風向きによって向きを変える風見鶏のように見えたからである。岸信介、佐藤栄作、田中角栄ら自民党の実力者が次々と主役を演じる時代、中曽根は政界の中心から完全に外れることなく、科学技術庁長官、運輸大臣、防衛庁長官、通商産業大臣、自民党幹事長、行政管理庁長官などを歴任しながら、総理の椅子に近づいていった。

だが、「風見鶏だったから信念がなかった」と結論づけると、中曽根の半分しか見たことにならない。むしろ彼には、自分が実現したい国家像を持ちながら、それを実現するためにはまず権力を握らなければならないという、極めて現実主義的な政治観があったように見える。政治家は思想家ではない以上、正しいことを語っているだけでは国家を動かせない。昨日の敵とも必要なら手を結び、党内で少数派なら多数派の力を借り、機会が来るまで待つというその姿勢は、美しくはないかもしれないが、権力というものの性質を熟知した政治家の姿でもあった。

そして皮肉なことに、その中曽根が1982年11月に総理大臣になったとき、彼を首相の座へ押し上げる大きな力となったのが田中角栄だった。当時の田中はロッキード事件の刑事被告人でありながら自民党最大級の勢力を保持しており、その支援を受けて成立した中曽根政権は「田中曽根内閣」「角影内閣」とまで揶揄された。長年、国家の指導者として強い首相を構想してきた中曽根が、いざ首相になってみると、背後には巨大な田中派の影が見えるという、何とも皮肉な出発だったのである。

だからこそ、中曽根にとって「大統領型首相」という政治手法は、単なる好み以上の意味を持ったのではないか。党内の後ろ盾によって総理になった人物が、その後ろ盾から自立するためには、別の政治的な力が必要になる。その力を中曽根は、官邸と政策、そして何より国民世論の中に求めたのである。

派閥の上に立つには、国民に直接語らなければならなかった

中曽根政権の特徴の一つは、首相自身が政治の物語をつくったことである。政策を各省庁に任せ、出来上がったものを総理が説明するのではなく、まず総理が「何を変えるのか」という大きなテーマを国民に提示し、そのテーマを中心に政治を動かしていく。テレビというメディアが政治に大きな影響を持ち始めていた時代、中曽根はその性質をよく理解していた。

1985年の国会で中曽根は、自らの政治手法について、政権発足以来「国民にわかりやすい政治」「国民に語りかける政治」を目指してきたと説明している。審議会や私的諮問機関に専門家や民間人を登用し、そこで議論を起こし、その問題を社会全体の議論にしていくという方法も多用した。これは党内や官僚組織の調整だけで政策を決める従来型の政治とは違い、先に世論を動かし、その世論を背景に既得権益を動かしていく手法だった。

ここに「大統領的」と呼ばれる理由がある。中曽根は議会を無視したわけではないし、実際には自民党内の派閥調整も続けていた。しかし政治の表舞台では、総理自身が国民に語り、国家の方向を示し、政策に自分の名前を刻もうとした。総理大臣を巨大な調整機構の最終承認者から、政治の中心的な演者へ変えようとしたのである。

後の小泉純一郎政権や安倍晋三政権で「官邸主導」という言葉が頻繁に使われるようになるが、その遠い原型を中曽根政治に見ることは十分可能だろう。ただし、中曽根の時代には現在ほど首相官邸の制度的権限が強化されていたわけではない。だから彼は制度の力ではなく、政治技術と世論と個人的な力量によって、総理の力を大きく見せなければならなかったのである。

行政改革こそ「大統領型首相」を必要とした

中曽根政治を象徴する最大の内政課題が行政改革だった。もっとも、行政改革そのものを中曽根一人が始めたわけではなく、第二次臨時行政調査会は鈴木善幸内閣時代の1981年に設置され、中曽根自身も行政管理庁長官として改革に関わっていた。彼は当時から、戦後の日本が欧米への追いつきをほぼ実現した以上、明治以来続いてきた中央集権的で規制中心の行政から、民間の創意や活力を生かす行政へ変える必要があると国会で論じていた。

しかし行政改革とは、誰もが賛成できる抽象的な言葉ほど簡単なものではない。実際に改革を始めれば、省庁の権限、国会議員の利害、業界団体、労働組合、地域経済など、既存の制度によって利益を得ているさまざまな勢力と衝突する。つまり行政改革を実現するためには、関係者全員の合意を待つ調整型政治では動かない場面が必ず出てくる。そこで必要になるのが、「国家全体の利益」という大きな物語を掲げ、個別の利害を乗り越えようとする強い首相だった。

中曽根政権下では、日本電信電話公社と日本専売公社の民営化が1985年に実現し、さらに最大の難題であった日本国有鉄道の分割・民営化も進められ、1987年4月に新しい鉄道会社へ移行した。日本国有鉄道は巨額の累積赤字と長期債務を抱えており、改革は以前から国家的課題となっていたが、巨大組織を実際に解体し、新しい経営形態へ移す作業には極めて大きな政治的エネルギーが必要だった。

行政改革は、中曽根がなぜ強い首相を求めたのかを最もよく説明している。大統領型首相とは、威張る総理のことではない。中曽根にとってそれは、巨大な制度を変更するとき、誰が最終的な政治責任を引き受けるのかという問題だったのである。

「ロン・ヤス」が映し出した、日本という国の変化

中曽根の大統領的な政治手法が最も映像的に表れたのは、国内政治より外交だったかもしれない。アメリカのロナルド・レーガン大統領との親密な関係は「ロン・ヤス」と呼ばれ、二人の個人的な信頼関係そのものが日米関係の象徴として報じられた。

しかし、これは単なる仲良し外交ではなかった。1980年代、日本はすでに世界有数の経済大国となりながら、安全保障ではアメリカへの依存が大きく、国際政治における発言力と経済力との間にはなお距離があった。中曽根は、その日本を単なる経済大国から国際政治の主体へ押し上げようと考え、日米同盟を外交の基軸として明確に位置づける一方、中国や韓国との関係構築にも力を入れた。外務省の当時の記録でも、中曽根はレーガンとの首脳外交を通じ日米の相互信頼を強化すると同時に、中国の指導者とも関係を深めている。

首脳外交という舞台は、中曽根の政治観と非常に相性がよかった。国と国との関係を官僚同士の交渉だけで処理するのではなく、国家の指導者同士が信頼関係をつくり、その姿を世界と国民に見せる。そこでは総理は国内の派閥代表ではなく、「日本」という国家そのものを演じる人物になる。中曽根が求めていた大統領的首相像は、サミットという舞台に立ったとき最も完成された姿を見せたともいえる。

「戦後政治の総決算」という危うい言葉

中曽根政治を語るとき避けて通れないのが、「戦後政治の総決算」という言葉である。この表現には、行政改革だけでなく、教育、憲法、安全保障、国家意識など、戦後日本が築いてきた制度全体を一度検証し直そうとする意志が込められていた。

防衛政策でも、中曽根政権は従来より積極的な姿勢を取った。1976年の三木内閣以来、防衛関係費について国民総生産の1%を上限の目安とする方針が続いていたが、中曽根政権末期の1987年度予算ではこの枠を適用しないことが決まり、結果として1%を超えることになった。ただし中曽根自身は、防衛費を無制限に増やす考えではなく、専守防衛や非核三原則などを維持しながら防衛力を整備するという説明をしていた。

このあたりが、中曽根という政治家を単純な「保守強硬派」という一語で説明できないところでもある。国家意識や自主防衛を強調する一方で、現実の外交ではアメリカとの同盟を重視し、中国や韓国との関係にも気を配る。理念だけを見れば一直線に進みそうに見えるが、現実政治では何度も速度を落とし、ときには方向を修正する。その姿を「風見鶏」と見るか、「現実主義者」と見るかによって、中曽根への評価は大きく変わる。

靖国参拝が示した「強い首相」の限界

その矛盾が最も鮮明に現れた出来事の一つが靖国神社参拝だった。戦後40年にあたる1985年8月15日、中曽根は首相として靖国神社を公式参拝した。政府は戦没者を追悼し、平和への決意を新たにすることが目的だと説明したが、中国から強い批判が寄せられ、外交問題となった。

興味深いのは、その後である。中国側からの反発を受け、1986年と1987年には中曽根首相の靖国参拝は行われなかった。外務省の後年公開資料にも、1985年の公式参拝を契機に中国側から強い批判があり、その後の首相参拝が見送られた経緯が記録されている。

ここには「大統領型首相」の限界と、中曽根の現実主義が同時に表れている。強い指導者だからといって、自分の信念だけで国家を動かせるわけではない。国内で支持される象徴的行動が外交では重大な摩擦を生むこともあり、そのとき政治家は理念と国益の間で判断しなければならない。中曽根は踏み込み、反発を受け、そして引いた。その姿は一見すると一貫性を欠いているようでありながら、政治とは自分の意思を貫くだけの仕事ではないことを誰より理解していたとも読めるのである。

1986年、「大統領型首相」は頂点に立った

1986年の衆参同日選挙で、自民党は衆議院304議席を獲得する大勝を収めた。 田中角栄の力を借りて総理になり、「田中曽根」と揶揄された男は、4年後には自分自身の人気と政権実績を背景に自民党を歴史的勝利へ導く首相となっていたのである。

ここで中曽根の「大統領型首相」は一つの完成を見る。党内派閥の合意によって選ばれた総理が、国民に直接語り、選挙で大勝し、その結果によって党内に対する自らの権威を強める。制度として首相公選を実現することはできなかったが、政治的には国民の支持を自らの権力基盤とする総理像をかなりの程度まで実現したともいえる。

中曽根内閣の通算在職日数は1,806日に達した。戦後の総理大臣としては異例の長期政権であり、短命内閣が珍しくなかった昭和の自民党政治の中では、それ自体が中曽根政治の力を示している。

だが、政治の絶頂は永遠には続かない。1987年に導入を目指した売上税は激しい反発を受けて挫折し、中曽根自身も後に、国民への説明時間や手続きが十分ではなく、理解を得られなかったことを認めている。 それは皮肉にも、「国民に語りかける政治」を掲げて成功してきた中曽根が、最後に国民への説明不足によって大型改革につまずいた出来事だった。

強い首相でも、世論を越えて政治を行うことはできない。むしろ中曽根政治の成功と失敗は、大統領的リーダーシップとは世論を無視する政治ではなく、世論との関係を絶えずつくり続けなければ成立しない政治であることを示している。

総理を辞めても、「国家を語る政治家」を辞めなかった

1987年11月、中曽根は竹下登を後継に選び、総理の座を退いた。だが、そこで政治家としての人生が終わったわけではなかった。1988年には世界平和研究所を設立し、安全保障や国際経済について研究・政策提言を行う拠点をつくり、政界の長老として発言を続けた。

もちろん、その晩年が完全に平穏だったわけでもない。リクルート問題をめぐって自民党を離党する時期もあり、中曽根政治の影の部分が消えたわけではなかった。それでも国会議員としての活動を続け、2003年まで衆議院議員の座にあった。

その政界最後の場面も、中曽根らしい。85歳となった2003年、小泉純一郎首相が自民党の比例代表候補に73歳定年制を厳格に適用しようとしたため、中曽根は引退を求められた。当初は強く反発したものの、最終的には立候補を断念し、1947年以来続いた56年余りの国会議員生活に幕を下ろした。

ここには奇妙な歴史の巡り合わせがある。中曽根が開拓した「総理が国民に直接訴え、党内の長老や派閥を越えて決断する政治」を、より鮮明な形で実践した政治家の一人が小泉だった。その小泉による党改革の対象となり、昭和政治を代表する中曽根自身が舞台から降ろされることになったのである。

自分がつくった新しい政治の型が、やがて自分の属していた古い政治の世界を壊していく。その場面は、中曽根康弘という政治家の終幕として、不思議なほど象徴的だった。

なぜ中曽根は「大統領型首相」を目指したのか

結局、中曽根康弘はなぜ大統領型首相を目指したのだろうか。

それは単純に権力欲が強かったからではない。もちろん、政治家として強烈な上昇志向を持った人物であったことは否定できない。しかしその奥には、戦争と敗戦を経験し、戦後日本の政治を最初から見続けてきた人物として、「誰が国家の方向を決め、その結果に責任を負うのか」という問いがあったのではないだろうか。

派閥が総理を選び、官僚が政策をつくり、業界団体が利益を守り、政治家がそれを調整する。その仕組みは高度経済成長期の日本を安定させるうえで大きな役割を果たしたが、経済大国となり、国際政治でも責任を求められるようになった1980年代には、従来の調整型政治だけでは国家の方向を決めにくくなっていた。中曽根はそこに、国民へ直接語りかける首相、政策の優先順位を自ら決める首相、外国の首脳と国家を代表して渡り合う首相を置こうとしたのである。

その試みには危うさもあった。指導者の個人的信念が強くなれば、議会や党内の慎重な議論が軽視される危険があり、世論への直接訴求が政治的演出へ傾けば、政策の複雑さが単純な物語に置き換えられる可能性もある。中曽根自身、靖国参拝や売上税をめぐって、強い政治指導と社会の合意との間にある難しさを経験した。

それでも、中曽根以前と以後で、日本の総理大臣像がまったく同じだったとは言いにくい。総理自身がテレビの前に立ち、国民へ政策を説明し、首脳外交を自ら演出し、選挙で得た支持を背景に党内を動かすという政治は、その後の日本政治で繰り返し現れるようになった。中曽根が完全な形で大統領型首相を完成させたというより、総理大臣という職にはこれほど大きな政治的可能性があることを、日本政治に見せたと考える方が適切なのかもしれない。

昭和政治最後の大物とは何だったのか

中曽根康弘は2019年11月29日、101歳で亡くなった。1918年に生まれた人物が、令和の日本まで生きたことになる。

その101年を振り返れば、戦前の日本、太平洋戦争、敗戦、占領、55年体制、高度経済成長、冷戦、バブル経済、平成の政治改革、そして21世紀の日本までが一人の人生の中に収まっている。1947年に28歳で国会へ入った青年が、1980年代にはレーガン大統領と並んで世界政治を語り、21世紀には小泉純一郎から世代交代を迫られる長老になったのである。

だから中曽根を「昭和政治最後の大物」と呼ぶとき、その「大物」とは単に権力が大きかったという意味ではないのだろう。国家とは何か、憲法とは何か、安全保障とは何か、日本は世界でどのような国になるべきなのかという巨大な問いを、政治家自身の言葉で語ることをためらわなかった最後の世代に属していた、という意味の方が近い。

その思想に賛成するか反対するかは別問題である。中曽根政治には功績もあれば、現在まで評価の分かれる政策や言動もある。しかし、半世紀を超えて政治の中心近くに居続けながら、最後まで「日本という国をどうするのか」という問いを手放さなかったことだけは確かだろう。

中曽根康弘が求めた「大統領型首相」とは、結局のところ権力の形式ではなく、政治家が国家の進路について自ら決断し、自ら国民に説明し、その結果について自ら歴史の評価を受けるという政治家像だったのではないか。

昭和という時代が遠くなった現在、中曽根の政治を振り返る意味もそこにある。強い総理がよいのか、調整する総理がよいのかという単純な二者択一ではなく、民主主義の中で政治的リーダーシップはどこまで強くあるべきなのか。そして、強い指導者を望むとき、その力を誰が監視し、誰が最後に裁くのか。

中曽根康弘という政治家の生涯は、その問いへの答えではない。

むしろ、昭和から令和へ残された、まだ終わっていない問いなのである。

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新聞記者出身の論客からテレビのコメンテーター、そしてSNS時代の分散型政治解説へ

かつて日本では、「政治評論家」という肩書を持つ人物がテレビや新聞で政治を解説する光景が珍しくなかった。

細川隆元、藤原弘達、竹村健一、三宅久之など、「政治評論家」という職業名そのものが社会的に認識されていた時代があった。

ところが令和の政治報道を見ると、政治について論評する人はむしろ増えているように見える一方、「政治評論家」という肩書は以前ほど前面には出てこない。

代わりに、

  • 政治ジャーナリスト
  • 新聞社・テレビ局の解説委員
  • 大学研究者
  • 弁護士
  • 元官僚
  • 元政治家
  • 経済学者
  • コメンテーター
  • YouTubeなどの動画配信者
  • SNS(Social Networking Service・交流サイト)の発信者

など、多様な人物が政治を説明するようになった。

では、「政治評論家」は衰退したのだろうか。

それとも形を変えただけなのだろうか。

この問題を感覚的な「昔の評論家は重みがあった」「今は誰でも評論家になれる」といった印象論で処理することは適切ではない。

そもそも、昭和・平成・令和について「政治評論家の人数」を継続的に調査した公的統計は確認できない。

したがって本稿では、政治評論家の増減を人数として断定するのではなく、

誰が政治を解釈したのか

どの媒体を通して国民へ伝えたのか

どのような情報源と専門性を持っていたのか

視聴者は政治解説者をどのように選択できたのか

という構造の変化から、昭和・平成・令和の政治評論の変遷を分析する。

結論を先に述べれば、日本の政治評論は、

「少数の専門的評論家が政治を解釈する構造」から、「テレビ番組の中で複数の専門家・ジャーナリストが解釈する構造」へ、さらに「専門家・報道機関・政治家・一般発信者が同時に政治を解釈する分散型構造」へ変化してきた

と整理するのが最も妥当である。

これは政治評論そのものの消滅ではない。

むしろ、

政治評論という「職業」が弱くなり、政治評論という「機能」が多くの職種と媒体へ分散した

と考えた方が、確認できる事実と整合する。


1.まず「政治評論家」とは何か

政治評論家には、公的資格制度がない。

医師や弁護士のように、特定の資格を取得しなければ名乗れない職業ではない。

したがって、

「どこから政治評論家なのか」

を厳密に線引きすることは困難である。

歴史的には、新聞記者、政治部記者、学者、元政治家などが新聞・雑誌・ラジオ・テレビで政治情勢を分析し、それを主な活動とするようになった場合に政治評論家と呼ばれることが多かった。

ここでは政治評論家を、

政治について継続的に情報を収集し、事実関係、政党間関係、政策、権力構造、政治家の行動などを解釈・評価し、それを国民へ伝える人物

という機能的な意味で捉える。

この定義ならば、肩書が「政治評論家」でなくても、政治解説委員や政治ジャーナリストの一部は同じ機能を担っている。


2.昭和の政治評論家~「政治内部を知る人物」が解説する時代

昭和、とりわけ戦後から高度経済成長期にかけての政治評論を考えるうえで重要なのは、情報環境である。

現在のように、首相官邸、各省庁、政党、国会議員がインターネット上で大量の一次資料を直接公開する環境は存在していなかった。

国民が中央政治の内部情報を得るためには、

新聞、ラジオ、テレビ、雑誌

などのマスメディアに大きく依存する必要があった。

そのため政治家と直接接触できる政治部記者や新聞社幹部の経験は、現在以上に大きな情報価値を持っていたと考えられる。

典型的なのが細川隆元である。

細川は東京朝日新聞で政治部長、編集局長などを務め、戦後には衆議院議員も経験した。その後、政治評論活動に移った。

つまり、

新聞政治部 → 政治の当事者 → 政治評論

という経歴である。

当時の政治評論家が単なる「テレビで意見を言う人」ではなかったことが分かる。


3.『時事放談』が象徴する昭和型政治評論

昭和型政治評論を象徴する番組の一つがTBS系列の『時事放談』である。

細川隆元らが出演した同番組は1957年から1987年まで約30年間続いた。

ここで重要なのは番組形式である。

現代の情報番組では、

司会者 +ニュース映像 +解説者 +複数のコメンテーター +専門家

という構成が一般的である。

それに対して昭和型の政治評論では、

政治事情をよく知る人物そのものが番組の中心になる

という構造が成立しやすかった。

評論家自身の知識、取材網、政治家との人脈、経験が情報商品だったのである。


4.昭和の政治評論家には「情報仲介者」という役割があった

この構造を情報理論的に整理すると分かりやすい。

政治に関する一次情報をP、

国民をC、

評論家をKとする。

昭和型では、

P → K → C

という情報経路の重要性が高かった。

政治家や政党から得た情報を評論家が解釈し、それを国民へ説明する。

国民がPへ直接アクセスする手段が限られていたため、Kの情報価値が高くなる。

政治評論家には、

  1. 政治情報へのアクセス
  2. 政治家との人的関係
  3. 制度についての知識
  4. 情報の選別能力
  5. 情報を一般向けに翻訳する能力

が要求された。

つまり昭和型政治評論家は、

情報を持つ人と情報を解釈する人がかなり重なっていた

のである。


5.藤原弘達は異なるタイプだった

昭和の政治評論家が全員新聞記者出身だったわけではない。

藤原弘達は政治学者として明治大学教授を務めた後、評論活動を本格化させ、テレビでも活動した人物である。

これは重要である。

細川隆元型が、

政治取材・政治実務経験を背景とした評論

であるとすれば、藤原型には、

政治学的な分析を大衆メディアへ持ち込む評論

という側面があった。

すでに昭和の段階でも、

「政治家をよく知っている人」

だけでなく、

「政治という現象を理論的に説明する人」

が政治評論の世界に存在したのである。


6.テレビの普及が政治評論家そのものを変えた

政治評論は新聞・雑誌だけの世界ではなくなった。

テレビでは文章と異なる能力が要求される。

新聞なら、数千字を使って論理を構築できる。

テレビでは数十秒から数分で結論を伝えなければならない。

したがってテレビ時代には、

政治について詳しい

だけでは足りない。

さらに、

  • 話が分かりやすい
  • 短時間で説明できる
  • 相手と議論できる
  • 強い表現を作れる
  • 視聴者の記憶に残る

という能力が重要になる。

ここで政治評論家は、

専門家

から、

専門家+メディア出演者

へ変化していく。


7.竹村健一は「テレビ評論家型」の一つの完成形だった

その代表例として竹村健一を見ることができる。

竹村は新聞記者経験を持ち、その後、政治・経済を中心に評論活動を展開し、多数のテレビ番組に出演した。

竹村の存在は、政治評論家という職業がテレビ文化と結合したことを象徴している。

ここでは評論家の商品価値が、

情報量だけではなく、

話し方、キャラクター、言語表現

にも依存する。

これは政治評論の質が低下したことを意味するわけではない。

テレビという媒体に適応した結果である。

しかし構造的な危険もある。

論証が強い意見より、

短く、分かりやすく、印象の強い意見

がテレビ番組では有利になる可能性がある。

この問題は後の情報番組にも引き継がれる。


8.昭和型政治評論家を理論的に整理すると

昭和後期までの典型的政治評論家には、次の特徴が確認できる。

情報源

政治家、官僚、政党、新聞記者などとの人的ネットワーク。

主な媒体

新聞、雑誌、ラジオ、テレビ。

専門性

政治記者経験、政治学、議員経験など。

情報流通

少数のマスメディアから多数の国民への一方向型。

評論家の価値

「一般人が直接入手しにくい情報を持っていること」。

これを、

情報希少性型政治評論

と呼ぶことができる。

これは価値判断ではなく、当時の情報流通構造を説明するモデルである。


9.平成~政治評論家が「番組の一部」へ変わる

平成になると政治評論の構造は大きく変わる。

政治評論家が消えたわけではない。

しかし、

政治評論家一人が政治を説明する番組

から、

番組の中に政治評論家や専門家が配置される形式

が強くなる。

ここに「コメンテーター」という役割が拡大する。

代表的な政治評論家の一人だった三宅久之は、毎日新聞政治部記者などを経て1976年に退社し、政治評論家となった。その後『サンデープロジェクト』『ビートたけしのTVタックル』『たかじんのそこまで言って委員会』などに出演している。

注目すべきは出演番組の種類である。

純粋なニュース番組だけではない。

政治討論、情報番組、バラエティー的要素を持つ番組へと活動範囲が広がっている。


10.「政治評論家」と「コメンテーター」の違い

この二つは同一ではない。

政治評論家は基本的には、

政治が専門分野である人物

である。

コメンテーターは、

番組内で出来事について意見・解説を述べる役割

である。

したがって、弁護士、医師、芸能人、大学教授、経営者などもコメンテーターになれる。

平成のテレビでは、

政治評論家だけが政治について語る構造から、

政治記者+学者+弁護士+文化人+タレント

などが同じ番組で政治について語る構造へ移行した。

政治評論の「専門職独占」が弱くなったのである。


11.平成のもう一つの変化~ニュースと情報番組の接近

テレビニュース研究でも、報道系番組と情報系番組を区別しながら、ニュースをめぐる「言論空間」の構造を分析する研究が行われている。

この変化は重要である。

政治ニュースを、

「何が起きたか」

だけでなく、

「どう考えるべきか」

まで番組内で扱うようになる。

その結果、ニュース番組そのものが評論機能を内包する。

昭和なら、

ニュース →政治評論家が評論

という二段階だったものが、

平成には、

ニュース+解説+評論+討論

が一つの番組に統合されていった。


12.久米宏や田原総一朗は「政治評論家」なのか

ここには重要な分類問題がある。

久米宏はニュースキャスターであり、田原総一朗はジャーナリストである。

肩書としては、伝統的な政治評論家とは異なる。

しかし両者とも政治について、

  • 質問する
  • 解釈する
  • 問題点を提示する
  • 政治家の説明を検証する

という機能を果たしてきた。

つまり平成には、

政治評論家だけが担っていた機能の一部を、キャスターやジャーナリストが担う

ようになった。

ここが昭和から平成への非常に重要な転換である。


13.政治情報の受け手に対してテレビは実際に影響していたのか

ここは印象論ではなく、研究を見る必要がある。

2009年衆議院選挙前後の全国パネル調査を分析した研究では、特定のテレビ番組への接触が政治的知識にプラスの関係を持つことなどが報告されている。

一方で、投票方向への影響は一部を除いて大きく確認されなかった。

これは重要である。

テレビに政治評論家が出演したからといって、

「評論家が有権者の投票先を決めていた」

と単純化することはできない。

研究結果からより慎重に言えるのは、

テレビ政治情報は政治についての知識や人物評価などには一定の関係を持つが、有権者の投票行動を直接支配するとまでは立証できない

ということである。


14.平成型は「番組内専門分業モデル」である

昭和型を、

P → K → C

とした。

平成になると、

政治情報Pが、

記者J キャスターA 評論家K 専門家E

へ分配され、

その内容がテレビ番組Tで編集される。

つまり、

P → J・A・K・E → T → C

となる。

このモデルでは、一人の政治評論家の情報支配力は相対的に小さくなる。

その代わり、

テレビ局という編集システムの影響力が大きくなる。

誰を出演させるか。

誰に何分話させるか。

どの映像を使うか。

どの発言をテロップ化するか。

ここに新しいゲートキーピングが発生する。


15.多人数化すれば自動的に公平になるわけではない

コメンテーターを複数配置すれば、多角的になるように見える。

しかし、

人数の多さ=意見の多様性

ではない。

全員が同じ前提を共有していれば、人数が増えても一つの見解を補強するだけになる。

現行の放送法第4条は、放送事業者に対して「政治的に公平であること」「報道は事実をまげないですること」、さらに意見が対立する問題について「できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」を求めている。

重要なのは人数ではなく、

合理的に異なる論拠を提示できているか

である。


16.平成後期~インターネットが情報独占を崩す

平成後期になると、さらに大きな変化が起こる。

インターネットである。

政治家自身がウェブサイトを持つ。

政党が政策資料を公開する。

国会審議を見ることができる。

官公庁資料を一般市民が取得できる。

やがてSNS(Social Networking Service・交流サイト)が普及し、政治家が報道機関を経由せず発言できるようになる。

つまり、

政治家P ↓ 評論家K ↓ 国民C

という従来型だけでなく、

P → C

という直接経路が成立した。

これは政治評論家の機能を根本から変える。


17.令和~「情報を持っていること」の価値が変わった

令和の情報環境では、政治に関する一次資料の相当部分を一般市民が直接入手できる。

国会会議録、法案、予算資料、統計、記者会見、政党政策、政治家のSNS投稿などである。

したがって政治評論家の価値は、

「政治家がこう言っている」

という情報を早く持っていることから、

大量の情報から何が重要なのかを判断すること

へ移る。

昭和の政治評論家に重要だったものを、

情報アクセス力

とすれば、令和ではより重要なのは、

情報選別力と検証力

である。


18.実際にテレビよりインターネットを使う時間が長くなった

この変化には数量的裏付けがある。

総務省が継続的に実施している「情報通信メディアの利用時間と情報行動に関する調査」では、インターネット利用時間の増加が続いている。

2025年度調査では全年代平均の平日利用時間が、

インターネット:約183.9分

テレビのリアルタイム視聴:約156.1分

となり、インターネット利用がテレビ視聴を上回っている。

NHK(Nippon Hoso Kyokai・日本放送協会)放送文化研究所の2020年国民生活時間調査でもテレビ視聴者率の低下、とりわけ若年層のテレビ離れが確認されている。

したがって、

政治評論の中心がテレビだけではなくなった

ことは単なる印象ではない。

メディア利用行動そのものが変化している。


19.令和では政治評論の参入障壁が劇的に低下した

昭和に全国的な政治評論家になるには、

出版社、新聞社、放送局などのメディアを通過する必要があった。

これは一種の参入障壁である。

令和では、

YouTube SNS ブログ インターネット番組 音声配信

などを利用すれば、個人でも政治解説を発信できる。

つまり発信者数をNとすれば、

昭和・平成初期よりNが大幅に拡大し得る情報構造になった。

ただし、ここで重要なのは、

Nの増加=情報の質の向上

ではないことである。


20.令和型の最大の特徴は「専門性の民主化」と「検証責任の個人化」

ネット時代には大きな利点がある。

従来のテレビ番組では15分しか扱えない政策でも、インターネットなら数時間議論できる。

大学教授や研究者が直接解説できる。

政治家本人の会見全文を見ることもできる。

少数意見も発信できる。

これは、

政治評論へのアクセスを民主化した

と評価できる。

しかし同時に問題もある。

誰でも発信できるため、

  • 取材していない
  • 統計を確認していない
  • 一次資料を読んでいない
  • 出典を示さない
  • 推測を事実として話す

人物も政治評論に参加できる。

結果として、情報を選別する責任の一部が視聴者自身へ移る。


21.SNS時代には意見の分断も起こり得る

日本の2017年衆議院選挙における政党のTwitter利用を分析した研究では、政党情報を拡散する利用者ネットワークに同質性がみられ、多様な政治的立場へ情報が広がるとは限らないことが示されている。

この点は昭和型と大きく異なる。

昭和のテレビは、

少数の発信者 → 大多数の視聴者

だった。

令和のSNSでは、

多数の発信者 → 特定の関心・思想を持つ集団

という経路が形成されることがある。

そのため評論家の権威は弱くなる一方、

特定の発信者を強く信頼する小規模集団が形成される可能性がある。


22.「評論家の権威」から「アルゴリズムの選択」へ

ここにはもう一つ重大な変化がある。

昭和の視聴者が見る政治評論家は、主として放送局や新聞社が決めていた。

令和では視聴者自身が検索する。

しかし完全に自由に選んでいるわけでもない。

SNSや動画サービスでは、推薦システムがコンテンツ選択に関与する。

したがって政治情報のゲートキーパーは、

昭和 新聞社・放送局

平成 放送局+出演者

令和 放送局+ネット媒体+発信者+プラットフォーム+利用者自身

へ拡散したと整理できる。


23.令和では「政治評論家」という肩書が必要なくなったのか

ここで最初の疑問に戻る。

政治評論家は消滅したのか。

そう断定できる証拠はない。

むしろ重要なのは、

政治評論という機能が職業名から分離した

ことである。

現在では、

政治ジャーナリストが評論する。

大学教授が評論する。

元官僚が評論する。

弁護士が評論する。

経済学者が政治政策を評価する。

YouTube配信者が政治を論評する。

ニュースキャスターがコメントする。

つまり、

政治評論家という「肩書」は相対的に弱くなっても、政治評論という行為は社会全体へ拡大している。


24.三時代を比較する

構造を整理すると次のようになる。

項目 昭和 平成 令和
代表的媒体 新聞・ラジオ・テレビ テレビ中心+ネット テレビ+ネット+SNS+動画
主な論者 政治評論家・新聞記者 評論家・記者・キャスター・専門家 専門家・記者・元官僚・元政治家・個人発信者等
情報経路 一方向 一方向+初期ネット 多方向
情報の希少性 高い 中程度 低い
情報量 少~中 中~多 非常に多い
発信参入障壁 高い 中程度 低い
評論家の役割 情報提供+解説 解説+討論 選別+分析+検証
視聴者の選択肢 少ない 増加 非常に多い
主な危険 少数者への情報集中 テレビ的単純化 誤情報・分断・情報過多

25.政治評論の質をどう測るべきか

ここで「昔の政治評論家と現在のコメンテーターのどちらが優秀か」という問いを立てても、科学的にはあまり意味がない。

比較するなら同じ尺度を使う必要がある。

例えば次の10項目で評価することができる。

  1. 一次資料を確認しているか
  2. 情報源を複数持っているか
  3. 事実と推測を区別しているか
  4. 反対仮説を検討しているか
  5. 政策の費用を説明しているか
  6. 政治家との利益相反を開示しているか
  7. 誤りを訂正するか
  8. 数値を出典付きで示すか
  9. 自分と異なる立場を公平に検討するか
  10. 視聴者が元資料を確認できるか

この基準なら、

昭和の有名評論家だから高得点、

SNS発信者だから低得点、

とはならない。

一人ずつ検証する必要がある。


26.政治家との「近さ」は長所でもあり短所でもある

昭和型政治評論家の強みの一つは政治家へのアクセスだった。

しかしこれは同時に利益相反の問題を生む。

政治家と親しいから内部情報を得られる。

しかし親しいから批判が弱くなる可能性もある。

したがって、

政治家との距離Dと情報アクセスAには、

一定範囲で、

Dが小さくなるほどAが増える

関係が考えられる。

しかし独立性Iは逆に低下する可能性がある。

つまり政治評論家には、

アクセスと独立性のトレードオフ

が存在する。

この問題は昭和だけではなく、現在の政治ジャーナリストにも存在する。


27.令和のコメンテーターにも同じ問題がある

2022年にはBPO(Broadcasting Ethics & Program Improvement Organization・放送倫理・番組向上機構)が、政治的テーマを扱った番組について、出演者の政治的影響力やスタジオトークを出演者任せにすることなどに関する問題点を指摘している。

また同年、情報番組のコメンテーターが国葬をめぐって事実と異なる発言を行い、翌日に訂正・謝罪した事例について、多くの視聴者意見が寄せられた。

これは現代型評論の重要な課題を示す。

即時コメントには、検証の時間が不足する危険がある。

政治について「何か言わなければならない」番組構造そのものが、誤りを誘発する可能性がある。


28.昭和型を美化するのも正しくない

ここで注意すべきなのは、

「昔の評論家は本物だった」

という結論である。

それを裏付ける定量的証拠はない。

昭和では情報源が少なかったため、評論家自身の発言を一般市民が検証することも現在より難しかった。

政治家との非公開の会話を根拠に、

「私が聞いたところでは」

と説明されても、視聴者は検証できない。

つまり昭和型には、

情報アクセスが強い代わりに検証可能性が低い

という問題があった。


29.令和型を単純に劣化と見るのも正しくない

一方、

「ネットで誰でも意見を言うようになったから政治評論の質が落ちた」

とも断定できない。

現在では視聴者自身が、

政府統計 国会会議録 法律 予算資料 会見全文 学術論文

へアクセスできる。

専門家がテレビ局を通さず長時間説明することもできる。

つまり令和には、

非常に質の低い政治評論と、昭和には実現困難だったほど専門的な政治解説が同時に存在する。

平均的な質よりも、

質の分散が大きくなった

と考える方が合理的である。


30.三時代の本質的変化

以上を一つのモデルに整理すると、日本の政治評論は三段階に分けられる。

昭和

情報希少性モデル

情報を持つ評論家に価値があった。

「私は政治の内部を知っている」

ことが重要だった。

平成

マスメディア編集モデル

政治評論家、記者、キャスター、専門家が番組の中で役割分担する。

「複雑な政治をテレビで分かる形にする」

ことが重要になった。

令和

情報過剰・分散モデル

情報そのものは大量に存在する。

重要になるのは、

「大量の情報から、何が事実で何が重要なのかを選別し検証する」

能力である。


31.政治評論家の価値は逆転した

この変化を端的に表現すると、

昭和は、

情報を知っている人が強かった。

令和は、

情報を検証できる人が強くあるべき時代

になった。

情報の量Qが少ない時代には、

情報アクセスAの価値が大きい。

しかしQが巨大になると、

Aだけでは価値を生みにくい。

むしろ、

検証能力V 選別能力S 専門知識E

が重要になる。

概念的には、

政治評論の価値を

R = f(A, V, S, E)

と考えることができる。

昭和はAの比重が高かった。

令和はV、S、Eの重要性が相対的に高まっている。

これは数学的に実証された公式ではなく、三時代の情報環境を説明するための概念モデルである。


32.これから必要なのは「政治評論家」ではなく「政治評論の品質基準」

政治評論家という職業名が復活するかどうかは、本質的な問題ではない。

重要なのは、

誰が政治を語るにしても、

同じ検証基準を適用すること

である。

元新聞記者だから正しいわけではない。

大学教授だから正しいわけでもない。

元官僚だから正しいわけでもない。

YouTubeで人気だから正しいわけでもない。

政府を批判しているから優秀なのでもない。

政府を支持しているから間違っているのでもない。

評価すべきなのは、

その主張を事実によって立証できるか

である。


総合評価~政治評論家は消えたのではなく、「政治を解釈する権力」が分散した

昭和、平成、令和の政治評論を比較すると、大きな歴史的変化が見えてくる。

昭和の政治評論家は、

政治の内部情報と国民を結ぶ情報仲介者

だった。

細川隆元のような新聞政治部出身者や、藤原弘達のような学者型評論家が存在し、テレビの普及とともに竹村健一のようなテレビに適応した評論家も登場した。

平成になると、三宅久之に代表される政治評論家が活躍する一方、ニュースキャスター、ジャーナリスト、解説委員、学者などが政治評論機能を分担するようになった。

そして令和では、テレビそのものの情報独占が崩れ、インターネット利用時間がテレビのリアルタイム視聴を上回る情報環境になっている。

したがって、

「政治評論家がいなくなった」

という説明は正確ではない。

より正確なのは、

政治評論家という独立した職業が担っていた機能が、ジャーナリスト、研究者、解説委員、元官僚、元政治家、コメンテーター、ネット発信者などへ分散した

という説明である。

そして、さらに重要な変化がある。

昭和では、

誰が政治を解釈するかを主として新聞社や放送局が決めていた。

令和では、

国民自身も政治解説者を選択する。

これは政治情報の民主化である。

しかし同時に、誤情報を選択する自由まで拡大した。

したがって令和の政治評論に最も必要なのは、有名な「大政治評論家」の復活ではない。

必要なのは、

一次資料に戻ること。

事実と意見を分けること。

反対説を検討すること。

間違えれば訂正すること。

視聴者自身が根拠を確認できること。

である。

昭和の政治評論が「情報を持つ者」の時代であり、

平成が「テレビで解釈する者」の時代だったとすれば、

令和の政治評論に求められるのは、

「情報を検証できる者」の時代

である。

政治評論家という肩書が残るかどうかより、この変化の方が民主主義にとってはるかに重要なのである。

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