地域政経

九条レオンの地域から社会と政治・経済のこれからを考える

 2002年9月30日、小泉純一郎首相は内閣改造を行い、大島理森氏を農林水産大臣に任命した。それから約6か月後の2003年3月31日、大島氏は元秘書による政治資金の取り扱いなどをめぐる疑惑を受け、農林水産大臣を辞任することになる。ところが、この問題を調べていくと、単に任命後に不祥事が発覚したという説明では済まない、重要な事実が浮かび上がってくる。

 2003年2月20日の衆議院予算委員会で、大島氏は、元秘書が受け取った600万円について、2001年の暮れには自分自身が報告を受けていたと答弁している。つまり、農林水産大臣に任命される約9か月前には、少なくとも大島氏本人は、この資金をめぐる問題を認識していたことになる。さらに、2002年1月には資金を提供した人物と直接面会し、謝罪していたことも国会で認めている。

 それでは、閣僚人事を決めた小泉官邸は、この事実を事前に把握していたのだろうか。知らなかったとすれば、どのような調査が行われていたのか。把握していたとすれば、なぜ任命する判断に至ったのか。この疑問を追っていくと、小泉首相の政治活動を長年にわたって支え、政権発足後は首席総理秘書官として官邸の中枢にいた飯島勲氏の存在に行き着く。

 飯島氏は後年、閣僚候補者の政治資金や過去の活動を調べる「身体検査」について、具体的な方法を明らかにしている。その説明は、公開資料を丹念に読み込み、疑問点を本人に確認するという実務的なものだった。しかし、優れた調査方法を知っていることと、現実の人事で問題を発見できたことは同じではない。小泉政権の内部で情報はどのように集められ、誰の判断によって大臣が選ばれていたのか。飯島氏の仕事を通して、首相官邸の人事管理能力と、その限界を考えてみたい。

1.小泉首相が信頼した秘書は、どれほどの影響力を持っていたのか

 飯島勲氏は1945年、長野県辰野町に生まれ、1970年代から小泉純一郎氏の秘書として政治活動を支えてきた。小泉氏が2001年4月26日に首相へ就任すると、飯島氏は首席総理秘書官となり、2006年9月の退陣まで官邸で首相を補佐した。中央省庁で専門行政を経験してきた事務秘書官とは異なり、長年の政治家秘書としての経験を持ち、政治家同士の関係や政党内の事情に接してきたことが特徴だった。

 飯島氏と小泉首相の関係を理解するうえで、注目したい国会答弁がある。2002年2月13日の衆議院予算委員会では、民主党の山岡賢次議員が飯島氏の立場や政治的影響力について小泉首相に質問している。これに対して小泉首相は、飯島氏を長年自分の秘書として働いてきた信頼すべき人物だと説明した。さらに、田中眞紀子外務大臣の更迭に飯島氏が関与したのではないかと問われた際には、更迭の決断は自分自身が行ったものだと明確に答えている。

 この答弁から分かるのは、小泉首相が飯島氏を信頼していたという事実と、重要な政治判断については首相自身の決断であると説明していたことである。ただし、それによって飯島氏が事前の情報収集や助言に関与していなかったと証明されるわけではない。政治の意思決定では、最終的に判断する人物と、その判断に必要な情報を集める人物が異なることは珍しくなく、首相に近い秘書官ほど、どの情報を優先して伝えるかという点で重要な役割を持ち得る。

 政治家の人物像は、履歴書や役職歴だけで分かるものではない。選挙区での活動、政治資金の管理状況、党内の人間関係、過去の発言や政策上の立場など、複数の情報を組み合わせて判断する必要がある。飯島氏が長年の政治活動で培った経験は、こうした情報を理解する際に役立った可能性があるが、それが実際の閣僚人事でどの程度の成果につながったかについては、具体的な事例を調べなければ判断できない。

2.鉛筆の予定表から見えてくる、小泉官邸の情報管理

 飯島氏は2008年の『プレジデント』への寄稿で、小泉官邸における仕事の進め方を振り返っている。その中で紹介しているのが、自分の机の上に置いていた予定表である。用紙は日本産業規格でB列4番に相当する大きさで、首相の日程を官邸の関係者が共有できるようにしていたという。予定が変われば書き直す必要があるため、記入にはボールペンではなく鉛筆を使っていたと説明している。

 首相の日程管理というと、面会や会議の時刻を整理する事務作業のように思える。しかし、首相が誰と会い、どの案件に時間を割き、何を優先して説明を受けるかは、政権の意思決定に関係する。飯島氏が予定表を共有する仕組みを重視していたことからは、複数の担当者が同じ情報を把握し、状況の変化に応じて行動できる体制を整えようとしていた様子がうかがえる。

 同じ寄稿によれば、飯島氏の周辺で小泉首相を支えたスタッフは、飯島氏自身を含む5人の首相秘書官と5人の参事官の計10人だった。事務秘書官は財務、外務、経済産業、警察の各省庁から派遣され、参事官はそれ以外の行政分野を補う役割を担っていた。この10人という数字は、官邸全体の職員数ではなく、飯島氏が説明した首相を直接補佐するチームの人数である。

 この体制については、当時内閣参事官として官邸に勤務していた黒江哲郎氏も、後年の回顧で説明している。黒江氏によれば、小泉政権では従来の秘書官体制を拡充し、複数の省庁から参事官を集めた官邸連絡室を設け、飯島氏の指示を受けながら特命事項への対応や行政機関との連絡を行っていた。首相の判断に必要な情報を各省庁から集め、政策の実行につなげるための体制だったと理解できる。

 もっとも、官邸連絡室が存在したことは、閣僚候補の身体検査についても同じ組織が調査を担当していたことを意味しない。どの秘書官が候補者の政治資金を調べ、どの担当者が過去の政治活動を確認し、調査結果を誰が取りまとめていたのかについて、公開資料から具体的な分担を確認することはできない。

 ここには、飯島氏の能力を評価するうえで重要な違いがある。行政組織を利用して政策情報を集める能力と、政治家個人の不祥事につながる情報を発見する能力は、必ずしも一致しないからである。前者では省庁の専門知識を活用できる一方、後者では政治団体の会計処理や個人的な人間関係など、行政資料だけでは把握できない問題に向き合う必要がある。

3.飯島勲が語った身体検査は、何を調べる仕組みだったのか

 2012年10月24日、飯島氏はテレビ朝日系の情報番組「モーニングバード!」に出演し、閣僚候補者の身体検査について説明した。当時の放送内容を紹介した報道によれば、基本となるのは、候補者が過去にどのような政治活動を行い、何を発言してきたのかという確認と、政治資金の流れを調べる作業だった。

 政治資金については、少なくとも直近2回の選挙に関する収支報告書を点検するという方法が紹介されている。さらに、選挙、政党支部、個人に関係する資金の流れを分けて確認し、疑問点があれば候補者本人に非公式に質問することや、係争事案の有無を調べることも重要な項目とされていた。

 ただし、ここでいう収支報告書については、法制度上の区別が必要になる。政治資金規正法第12条に基づく政治資金収支報告書は、政治団体の年間の収入や支出を記録するものである。一方、公職選挙法第189条に基づく選挙運動費用収支報告書は、候補者個人の選挙運動に関する収入や支出を記録するもので、提出先や記載対象も異なる。

 例えば、政党支部が受け取った寄付と、候補者の選挙運動費用として受け取った資金は、制度上の取り扱いが同じとは限らない。政治団体が複数存在する場合には、それぞれの報告書を確認する必要があり、特定の資金がどの団体に属するものなのかという問題も生じる。したがって、単に1種類の収支報告書を読むだけで、政治家に関係するすべての資金を把握できるわけではない。

 飯島氏がテレビ番組で説明した「直近2回の選挙」という方法が、これらの書類を具体的にどこまで含むものだったのかについては、原放送の詳細な記録を確認する必要がある。しかし、政治活動と政治資金を複数の資料によって照合するという基本的な考え方には、実務上の合理性がある。

 政治資金の調査では、単に金額の大きさを見るだけでは不十分である。前年に比べて寄付が急増していたとしても、選挙が行われたためなのか、政党支部の活動が拡大したためなのか、あるいは別の要因があるのかを調べる必要がある。支出についても、事務所費や人件費が増えたという事実だけで不正を推定することはできず、活動内容、支出先、過去の傾向などを合わせて確認しなければならない。

 こうした作業は、行政監査や企業会計の検証とも共通する部分を持つ。数字の変化から疑問点を見つけ、別の資料と照合し、必要に応じて当事者へ説明を求めるという方法である。ただし、帳簿に記載されていない資金や、資料の外で行われた約束まで、書類だけで把握できるとは限らない。この限界を具体的に考えるうえで、大島理森氏の600万円問題は重要な事例となる。

4.八戸市の大型店撤退問題が、なぜ政治資金疑惑につながったのか

 2003年2月20日の衆議院予算委員会で、民主党の細野豪志議員は、大島理森農林水産大臣に対して、青森県八戸市の大型商業施設をめぐる問題を追及した。問題の背景にあったのは、地元の大型店であるイトーヨーカドーの撤退と、店舗が入居する建物の所有者による存続への働きかけだった。

 大型商業施設の撤退は、単に1店舗の営業が終了するという問題ではない。中心市街地の買い物環境や商店街の人の流れ、建物所有者の経営、周辺の雇用などにも影響する可能性がある。八戸市でも、店舗の存続を望む関係者が政治家に働きかけていた経緯があり、大島氏自身も国会で、地元から相談を受け、店舗側に撤退を思いとどまるよう求めていたことを説明している。

 その過程で問題になったのが、2000年6月12日に建物所有者から大島氏の当時の秘書へ渡されたとされる600万円である。細野議員は、建物所有者から直接聞いた内容として、店舗存続への働きかけに対する謝意などから資金が提供されたという経緯を説明した。一方、大島氏は、2000年の衆議院総選挙に際して、選挙活動に役立ててほしいという趣旨で元秘書が受け取ったものだと説明している。

 双方の説明には違いがあるものの、資金が元秘書に渡されたこと自体について、大島氏は国会で認めている。そして、その元秘書は約1年半にわたり、大島氏や事務所のほかの関係者に受領を報告していなかったというのが、大島氏の説明だった。

 その後、2001年暮れに地元で資金に関する噂が広がり、事務所の関係者が元秘書に確認したことで、受領の事実が明らかになったとされる。大島氏は国会で、自らも元秘書を問いただし、資金を長期間預かっていたことや流用の疑いを認識したため、返金を指示したと説明している。

 2002年1月23日には、大島氏が建物所有者と面会したことも確認できる。細野議員は、この面会で大島氏が元秘書による資金の使い込みを謝罪したとする所有者の説明を紹介し、大島氏も資金が提供者の意向とは異なる扱いになっていたことについて謝罪した事実を認めた。その後、600万円が返還されたことについても、大島氏は元秘書から別の秘書を通じて返金したとの報告を受けたと答弁している。

 ここで注意しなければならないのは、600万円の法的な性格が国会で争われていたことである。細野議員は、元秘書が政治団体の会計責任者でもあったことなどを理由に、政治資金収支報告書に記載されていなかった点を追及した。一方、大島氏は、元秘書が個人的に預かっていた資金であり、事務所の政治資金として受け入れられたものではないという趣旨の説明を行っている。

 政治団体への寄付に該当するのか、元秘書による流用がどの範囲であったのか、大島氏自身にどのような責任があったのかは、それぞれ区別して検討する必要がある。国会で疑惑が追及されたことと、違法行為が法的に確定したことは同じではなく、元秘書の行為をそのまま大島氏本人の違法行為として扱うこともできない。

 さらに、大島氏の辞任を600万円問題だけで説明することも正確ではない。農林水産省の『平成15年度農林水産省年報』には、元秘書による企業献金流用問題のほか、衆議院法制局への想定問答作成依頼問題などをめぐって国会で質疑が行われ、審議が一時停滞したことが記録されている。こうした複数の問題が政治的な責任を問われる中で、大島氏は2003年3月31日に辞任し、翌4月1日に亀井善之氏が後任の農林水産大臣となった。

5.600万円を知っていた大臣と、知られていない官邸の判断

 大島氏の問題を時系列で見ると、重要な事実がはっきりする。600万円が元秘書に渡されたとされるのは2000年6月12日であり、大島氏が問題を認識したと説明しているのは2001年暮れ、提供者と面会して謝罪したのは2002年1月23日だった。その約8か月後の2002年9月30日に農林水産大臣へ任命され、翌2003年2月に国会で追及を受け、3月31日に辞任している。

 つまり、少なくとも候補者本人が問題を認識していた時期と、大臣への任命時期には相当の時間差があった。身体検査の観点から問題となるのは、この間に官邸がどのような情報を収集し、候補者本人に何を確認していたのかということである。

 しかし、今回確認した国会会議録や政府資料には、2002年9月の任命に先立って、飯島氏が大島氏の600万円問題を調査したことや、調査結果を小泉首相へ報告したことを直接示す記録は見当たらない。逆に、飯島氏がこの問題をまったく知らなかったと証明する資料も確認できていない。

 ここで、政治家本人が知っていた情報は、当然に首相官邸も把握していたはずだと考えるのは論理的に適切ではない。候補者本人が問題を説明しなかった場合も考えられるし、関係者からの情報が官邸に届いていても、その信憑性を十分に確認できなかった可能性もある。また、一定の情報を把握したうえで、任命を妨げるほどの問題ではないと判断した可能性も否定できない。

 ただし、これらはあくまで考えられる情報経路や判断の違いであり、実際の小泉官邸で何が起きたのかを示す証拠ではない。飯島氏の責任や能力を評価するには、調査を誰が指示したのか、どの資料を確認したのか、首相に何が報告されたのかという過程を明らかにする必要がある。

 さらに、仮に600万円が当時の正式な収支報告書に記載されていなかったのであれば、公開された報告書を読み込むだけでは、その資金を直接発見することは難しかったと考えられる。書類に表れていない問題を把握するためには、候補者本人への確認や、ほかの関係者からの情報などが必要になる場合がある。

 飯島氏が説明した身体検査には、疑問点を候補者本人に確認するという方法も含まれていた。そうであれば、公開情報だけでは発見できない事実を、本人への照会によって補う仕組みが実際に存在していたのかが重要になる。ただし、大島氏の任命時にどのような質問が行われたかは確認できないため、この事例をもって飯島氏の調査が失敗したと断定することはできない。

6.公開情報で90%調査できるという数字の落とし穴

 飯島氏は2011年に佐藤優氏との対談で、身体検査の大部分は公にされている情報によって実施可能だという趣旨の説明をしている。2012年の報道では、その割合が90%と紹介されているが、この数字については何を基準として算出したのかを慎重に考える必要がある。

 例えば、身体検査に100項目の確認事項があり、そのうち90項目を公開情報で調べられるとすれば、公開情報による調査項目の充足率は90%になる。しかし、これは問題のある候補者を90%の確率で発見できることを意味しない。重要な問題が、残された10項目に集中している可能性があるからである。

 また、同じ90%でも、100人の候補者のうち90人について十分な情報を収集できたという意味と、実際に問題のある100人のうち90人を正しく発見できたという意味では、統計学的な性質が異なる。前者は情報収集の範囲に関する指標であり、後者は問題発見能力を示す指標である。飯島氏の説明について、こうした分母や評価対象が明らかでない以上、90%という数字を実証された発見精度として採用することはできない。

 さらに、身体検査の能力を正確に測定するには、問題を見逃した件数だけでなく、実際には問題のない候補者を誤って不適格と判断した件数も確認する必要がある。疑惑の段階で候補者をすべて排除すれば、問題を見逃す可能性は低くなるかもしれないが、根拠の乏しい情報によって適格な人物を排除する危険も生じる。反対に、明確な証拠がない限り任命を妨げないとすれば、不適切な排除は減る一方で、問題を見逃す可能性が高くなる。

 調査の精度を評価する際には、実際に問題のある候補者のうち何人を発見できたかという割合と、問題のない候補者のうち何人を正しく適格と判断できたかという割合を、分けて考える必要がある。加えて、任命後に初めて発生した問題については、任命前の身体検査で予測できたかどうかを別に検討しなければならない。

 小泉政権で実際に何人の閣僚候補者が調査されたのか、何人について問題が発見されたのか、調査結果によって任命を見送った人物が何人いたのかという記録は、今回の公開資料から確認できない。したがって、飯島氏の身体検査について、成功率や発見率を数値で評価することはできない。

 ここで、辞任した閣僚の人数だけを数えて調査能力を評価することにも問題がある。そもそも閣僚に任命されなかった候補者の中に、身体検査によって問題が見つかった人物がいた可能性を排除できないためである。任命された人物だけを対象にすると、調査によって任命が見送られた人物を観察できないという偏りが生じる。

 身体検査の能力を実証的に検証するためには、調査対象者全体の情報が必要になる。飯島氏の方法が合理的だった可能性と、実際の調査成果を数値で証明できるかという問題は、区別して考えなければならない。

7.田中眞紀子、福田康夫、島村宜伸の退任も、調査失敗だったのか

 小泉政権では、大島氏の政治資金問題以外にも、閣僚の辞任や更迭、罷免が起きている。しかし、それぞれの事情を調べると、すべてを身体検査の失敗として扱うことが適切でないことが分かる。

 2002年1月29日には、田中眞紀子外務大臣が更迭された。政府は同年2月8日の質問主意書に対する答弁で、アフガニスタン復興支援国際会議への非政府機関の参加をめぐる外務省内の問題によって国会審議が紛糾し、事態を打開するために更迭したと説明している。また、田中氏の個々の発言を理由にした更迭ではないことも明記している。

 田中氏の事例は、閣僚候補の政策能力や行政組織との関係を、任命前にどこまで評価できるかという問題につながる。ただし、組織運営上の対立は、任命前から存在する問題だけでなく、就任後の具体的な出来事によって深刻化する場合もある。田中氏が外相として直面した問題を、任命時点でどこまで予測できたかについては、当時の判断材料を確認しなければ結論を出せない。

 2004年5月7日には、福田康夫官房長官が国民年金の保険料未納・未加入問題をめぐる混乱の中で辞任している。この事例では、政治資金収支報告書や国会会議録とは異なり、個人の年金加入記録という情報が問題になる。年金制度そのものの複雑さや個人情報の取り扱いも関係するため、公開資料を調べる能力だけで事前確認の適否を判断することはできない。

 さらに2005年8月8日には、郵政民営化関連法案が参議院で否決されたことを受け、小泉首相が衆議院解散を決断し、それに反対した島村宜伸農林水産大臣を罷免している。飯島氏が説明した身体検査には、内閣の政策への賛同を確認するという要素も含まれているが、政治家が将来の重要な政策判断について、任命時と同じ立場を取り続けるとは限らない。

 つまり、政治資金をめぐる疑惑、行政組織との対立、個人情報に関係する問題、政策上の意見対立は、原因も事前の発見可能性も異なる。これらを同じ種類の調査失敗として集計すれば、身体検査の能力を正確に評価することはできない。

 しかも、辞任や更迭が注目された事例だけを取り上げれば、問題が起きなかった多数の閣僚人事が分析対象から外れる。小泉政権の人事全体について評価するには、問題が発生した閣僚だけでなく、各内閣改造で任命された人物の構成や在任期間、辞任理由なども同じ条件で調べる必要がある。

8.そもそも身体検査は、誰の責任で行われるものなのか

 閣僚人事における身体検査という表現は広く使われているが、法律上、すべての閣僚候補者について統一された手順による審査を義務づける制度が定められているわけではない。

 日本国憲法第68条は、国務大臣の任命権を内閣総理大臣に与えており、首相が国務大臣を任意に罷免できることも規定している。一方、内閣法第22条第3項は、首相秘書官について、首相の命を受けて機密に関する事務を担当し、必要に応じて関係部局の事務を助けることを定めている。

 これらの規定から確認できるのは、閣僚を任命する権限は首相にあり、秘書官は首相の職務を補佐する立場にあるということである。法律には、首相秘書官が閣僚候補者の政治資金や交友関係を、どのような項目に従って調べなければならないかという具体的な規定はない。

 そのため、実際の身体検査がどのような仕組みで行われるかは、政権の運営方法や首相と側近の関係によって異なり得る。官房長官が調査を調整する場合も考えられれば、政務担当秘書官が政治的な情報を集め、事務担当秘書官が行政資料を確認する場合も考えられる。ただし、こうした一般的な役割分担が、小泉政権で実際にどのように運用されていたかは、個別の証拠に基づいて確認する必要がある。

 ここで重要になるのは、法的な責任と実務上の能力を混同しないことである。仮に秘書官が候補者に不利な情報を収集し、首相へ正確に報告していたとしても、首相がその情報をどのように評価するかは別の判断になる。政治的な経験や政策能力、党内の人事調整などを重視し、懸念事項を認識したうえで任命する場合も制度上はあり得る。

 反対に、首相が十分な情報を得られないまま任命していた場合には、情報収集や報告の仕組みが適切だったかという問題が生じる。しかし、その場合でも、候補者本人が情報を隠していたのか、調査担当者が見落としたのか、組織内で情報が共有されなかったのかを区別しなければ、具体的な責任の所在は明らかにならない。

 飯島氏が小泉首相から信頼され、官邸運営に重要な役割を果たしていたことは確認できる。しかし、そのことだけを根拠に、すべての閣僚人事について身体検査の最終責任者だったと断定することはできない。

9.飯島勲の能力を評価するなら、何を証明しなければならないのか

 飯島氏の調査能力について、今回確認した公開資料から一定の評価が可能なのは、調査方法に関する実務知識と、官邸内の情報共有体制の運営に関する部分である。

 過去の政治活動や政治資金の流れを確認し、疑問点を候補者本人に照会するという方法は、合理的な調査の基本に沿っている。また、首相秘書官と官邸連絡室の参事官が連携する仕組みを整えていたことからは、個人的な政治経験だけではなく、行政組織の情報を活用しようとする運営上の工夫も確認できる。

 しかし、実務知識や組織運営の経験があることと、調査の精度が高かったことは別である。実際に問題のある候補者を何人発見できたのか、発見した問題をどのように評価したのか、首相に何を報告したのか、調査結果によって任命が見送られた事例が存在するのかについては、十分な資料がそろっていない。

 大島氏の600万円問題は、その限界を具体的に示している。候補者本人は任命前に問題を認識していたと答弁しているが、その情報が飯島氏へ伝わったかどうかは確認できない。これを飯島氏の調査能力不足と結論づけるのは早計であり、反対に、飯島氏の優れた身体検査によって小泉政権では政治資金問題を防げていたと評価することも、実際に発生した辞任事例と整合しない。

 また、政治家の身体検査では、問題を発見する能力だけでなく、不確実な情報を適切に扱う能力も重要になる。疑惑に関する情報を入手したとしても、その出所が明確なのか、複数の独立した資料で確認できるのか、当事者の説明に矛盾があるのかを判断する必要がある。根拠の乏しい噂を確定した事実として扱えば、不適切な人事判断につながる可能性があるからである。

 この点では、調査で何を発見したかと同じくらい、何を確認できなかったのかを正確に報告できることが重要になる。候補者の適格性を単純に問題あり、問題なしと分類するのではなく、確認された事実、未確認の情報、法的な問題、政治的な懸念を区別して首相へ伝える仕組みが求められる。

 飯島氏が実際にそのような区分で調査結果を報告していたかどうかは分からない。ただし、公開情報を重視するという本人の説明は、特別な人脈や非公開情報の有無だけではなく、確認できる資料をどれほど丁寧に扱うかが重要であるという、身体検査の基本的な考え方を示している。

10.600万円の謎は、首相官邸の人事管理に何を問いかけるのか

 2001年4月に発足した小泉政権は、2006年9月まで続いた。その間、飯島勲氏は首席総理秘書官として首相を支え、官邸の情報共有や日程管理を担う重要人物だった。後年には閣僚候補の身体検査について具体的な方法を説明しており、その内容からは、政治家の過去の活動や資金管理を資料に基づいて確認するという実務的な考え方を読み取ることができる。

 しかし、実際の身体検査でどれほどの問題を発見できたのか、候補者の任命を見送る判断にどの程度の影響を与えたのかについては、明らかになっていない部分が多い。人事調査の対象者、使用した資料、調査結果の報告方法、任命を見送った理由などが確認できなければ、飯島氏個人の能力を客観的な数値で評価することは難しい。

 その意味で、2003年の大島理森農林水産大臣の辞任は、単なる政治資金疑惑の一例ではない。候補者本人が任命前から問題を認識していたことが国会答弁によって確認できる一方、その情報が首相官邸にどのように伝わったのかという重要な過程が見えてこないからである。

 政治家が問題を抱えていたことと、首相秘書官がその問題を発見できなかったことは、同じ事実ではない。さらに、秘書官が問題を発見していたとしても、それを首相へ報告したかどうか、首相がその報告をどう評価したかによって、人事判断の意味は変わってくる。

 飯島氏が使っていたという鉛筆の予定表を思い浮かべると、首相官邸の仕事の一端が見えてくる。政治の日程は変わり、会議の順番も変わり、予定していた判断を変更しなければならないこともある。鉛筆で書かれた予定は消して書き直せるが、政治家が過去に何を行い、どのような資金を受け取り、誰と関係を持っていたのかという事実そのものを、後から書き換えることはできない。

 首相秘書官に求められるのは、その書き換えられない事実をできる限り正確に把握し、首相が判断するための材料として整理することである。しかし、情報が公開されていなければ発見は難しく、公開されていても見落とす可能性があり、把握した情報が必ずしも人事判断に反映されるとは限らない。

 飯島氏の身体検査を検証することで見えてくるのは、有能な秘書官がいれば閣僚の不祥事をすべて防げるという単純な構図ではない。公開情報の限界、政治家本人への確認の難しさ、官邸内の情報共有、そして首相自身の任命判断が重なり合う、政治人事の複雑な仕組みである。

 2002年9月30日、大島理森氏を農林水産大臣に任命した時点で、小泉官邸は600万円問題について何を知っていたのだろうか。飯島勲氏はどのような資料を確認し、どのような情報を首相に伝えていたのだろうか。今回確認した公開資料だけでは、この問いに確定的な答えを出すことはできない。

 だが、答えが出ないからといって、調査能力の評価を諦める必要はない。何が記録によって確認でき、何が当事者の説明にとどまり、何が未解明なのかを区別することで、政治人事の実態を少しずつ明らかにすることはできる。

 閣僚の身体検査で本当に問われるべきなのは、秘書官がどれほど多くの情報を持っていたかということだけではない。問題となる情報を正確に見極め、それを首相へ届け、任命の判断に適切に反映できる仕組みが存在したかどうかである。

 そして、どれほど優れた調査体制が整っていたとしても、最後に誰を大臣に任命するかを決めるのは首相自身である。飯島勲氏の調査能力を検証することは、同時に、小泉純一郎首相が閣僚人事において何を重視し、どのように判断していたのかを問い直すことでもある。

 八戸市の大型店撤退問題から始まった600万円をめぐる国会質疑は、20年以上を経た現在も、政治家の身体検査とは何のために行われ、誰がその結果に責任を持つべきなのかという、容易には答えの出ない問いを残している。

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 政治の世界には、若いころには同じ方向を見ていたはずなのに、権力が近づくにつれて、まるで別の政治家になったように見える人々がいる。山崎拓、加藤紘一、小泉純一郎の三人も、まさにそうだった。三人の姓の頭文字を取ったYKK(山崎拓・加藤紘一・小泉純一郎の頭文字を組み合わせた通称)は、一時期の自由民主党で、単なる仲良し三人組以上の意味を持っていた。同じ派閥に属していたわけでもなく、政策思想が完全に一致していたわけでもない。それでも一つの名前で呼ばれたのは、古い自民党政治の内部にいながら、そのままでは自民党も日本政治も立ち行かなくなるという問題意識を共有していたからである。

 山崎、加藤、小泉はいずれも1972年の衆議院議員総選挙で初当選した。三人は同じ政治世代に属し、高度経済成長が終わり、自民党の長期政権がなお強固である一方、派閥政治や政治資金、利益誘導型政治への批判が次第に強まっていく時代を歩いた。若手議員だったころには、派閥の中で経験を積み、党内調整を重ね、その延長線上で大臣や首相を目指すという戦後自民党の出世構造がまだ機能していたが、三人が中堅から実力者へ成長した1990年代には、その仕組みそのものが揺らぎ始めていた。

 その意味でYKKは、同じ目的地へ向かって同じ道を歩く三人というより、同じ古い建物の中にいて、「このままでは建物が時代に耐えられない」と感じていた三人だったと考えた方が分かりやすい。ただし、どう直すかについては最初から違いがあった。加藤は内部の設計を合理的に改めようとし、山崎は建物全体の力学を見ながら現実的に補強し、小泉は古い構造そのものを政治的争点にする方向へ進んだ。この違いは若いころには大きく見えなかったが、首相という権力が現実のものとして近づくにつれ、三人を別々の政治家へ分けていった。

加藤紘一という「自民党改革派の優等生」

 YKKの三人の中で、従来の自民党政治が持っていた合意形成の論理を最も強く体現していたのが加藤紘一だったと見ることができる。宏池会という自民党有数の名門派閥で育ち、政策や行政機構に詳しく、党内の議論と調整を重視した加藤は、自民党政治の内部からその質を高めることで改革を実現しようとする政治家だった。

 加藤にとって改革とは、敵を作り、その敵を打ち破ることではなかった。複雑な利害を整理し、政策を磨き、党内の合意を積み重ねながら、時代に合わなくなった制度や慣行を修正していくことだった。政治とは単純な勝敗ではなく、多数の異なる利害を一つの方向へ収束させていく知的な作業であるという発想が、加藤の政治手法の根底にあった。

 しかし、その政治手法は、政治環境が変わるにつれて弱点を露呈していった。1990年代、日本政治はバブル崩壊後の長期停滞、政治改革、政界再編、55年体制の終焉を経験し、「誰と誰が合意したか」以上に、「誰が何を変えるのか」が問われるようになった。加藤自身も変化を理解していたと考えられるが、問題は、改革を実行するための政治技術まで従来の党内調整型から完全に切り替えることができなかったことである。

 その矛盾が最も劇的に現れたのが、2000年のいわゆる「加藤の乱」だった。森喜朗政権への不満が高まる中、加藤は山崎とともに倒閣へ動き、野党提出の内閣不信任決議案に同調する構えを見せた。しかし党執行部による激しい切り崩しによって派閥内部が割れ、最終的に加藤の構想は頓挫した。ここで重要なのは、単に倒閣に失敗したことではなく、自民党の内部を知り尽くしていた政治家が、その自民党内部の統制力によって動きを封じられたことである。

 加藤は党内政治を熟知していたからこそ、その論理の中で首相を目指した。しかし最後の勝負では、その論理そのものが彼を拘束した。政策能力、知性、人脈、派閥という従来型自民党政治で重要とされた資源を豊富に持ちながら、それを首相への権力へ転換することができなかったところに、加藤紘一という政治家の悲劇性がある。

「加藤の乱」で、YKKはすでに二対一に分かれていた

 この加藤の乱は、YKKの歴史を考えるうえでも決定的な場面だった。山崎は加藤と行動をともにしたが、小泉は二人に同調しなかった。YKKという呼び名からは三人が政治行動まで常に一致していたような印象を受けるが、実際には最も重要な政局の一つで、加藤と山崎、小泉は二対一に分かれたのである。

 しかも小泉が加藤らの倒閣に加わらなかったことは、その後の政治人生を考えると極めて象徴的である。加藤と山崎は党内の議員を動かすことによって首相を交代させようとしたが、小泉はその方法を選ばなかった。これは小泉が当時から完成された「反派閥政治家」だったという意味ではない。小泉自身も派閥政治の中で育ち、自民党組織の力学を利用してきた政治家だったが、少なくとも加藤の乱の時点で、YKK三人の権力への接近方法はすでに同じではなくなっていた。

 この出来事を境に、YKKは友情や人的関係として残りながらも、政治戦略としては別々の道へ向かい始めたと見ることができる。三人の違いは、後から生まれたものではなく、権力の取り方が具体的な選択として突きつけられた瞬間に、初めてはっきりと姿を現したのである。

山崎拓はなぜ加藤と同じ運命をたどらなかったのか

 山崎拓は、加藤とはまた違った種類の政治家だった。政策に詳しい一方で、その政治感覚はより実戦的であり、自民党という巨大組織の内部で誰が力を持ち、どの局面で対立し、どの局面で妥協するべきかを読むことに長けていた。理念から組織を作り替えることよりも、現実の力関係を読み、その中で自らの影響力を維持することに強みを持つ政治家だったと捉えると理解しやすい。

 その意味では、山崎はYKKの中で最も自民党の伝統的な政治技術を体現していたとも言える。これは「古い政治家」という意味ではない。対立しても関係を完全には切らず、昨日の敵とも次の局面では交渉し、政策、人間関係、派閥、選挙を同時に計算するという自民党政治特有の柔軟性を持っていたということである。

 加藤の乱で山崎は加藤と運命を共にしたように見えたが、その後の二人の軌跡は大きく分かれた。加藤にとって失敗は首相候補としての上昇軌道を決定的に損なう出来事となったのに対し、山崎は党内で再び足場を築き、2001年に小泉が自民党総裁となると幹事長に起用された。ここには、政治的失敗をどのように処理するかという二人の違いが現れている。

 加藤は政治理念と組織論理が衝突したとき、理念の側から組織を動かそうとした。山崎は同じ衝突を経験しても、なお組織の内部へ戻り、次の力関係の中で自らの役割を探すことができた。加藤にとって加藤の乱は自らの政治構想そのものを揺さぶる敗北だったが、山崎にとっては重大な失敗でありながら、それで政治が終わるわけではなかった。この違いが、二人のその後を分けた。

小泉純一郎は、党組織を捨てたのではなく使い方を変えた

 そしてYKKの中で、最終的に首相へ到達したのが小泉純一郎だった。ただし、小泉の成功を「派閥政治を捨てて国民だけを頼ったから」と説明すると、実際の政治構造を単純化しすぎる。小泉もまた自民党という組織の内部で活動し、党の総裁選挙制度、地方組織、党員票、党内人脈を利用した政治家だった。

 小泉が従来の自民党政治と異なっていたのは、党組織を迂回したことではなく、派閥領袖や国会議員の支持だけに依存せず、地方党員票と世論を党内権力へ転換したことである。2001年の自民党総裁選で小泉は地方票を背景に圧倒的な支持を集め、最終的に298票を獲得して橋本龍太郎を大きく引き離した。形式的には自民党内部の総裁選挙でありながら、その背後では世論の動きが国会議員や地方組織の判断に強く作用していた。

 ここに加藤との重要な違いがある。加藤は自民党の中の政治家を動かすことで自民党を変えようとしたのに対し、小泉は地方党員と一般有権者の支持を党内部へ流し込み、その圧力によって国会議員の行動を変えようとした。つまり、小泉は組織を捨てたのではなく、組織に作用する力の入口を変えたのである。

 2001年に小泉が掲げた「自民党をぶっ壊す」という言葉が強い意味を持ったのも、そのためだった。自民党総裁になろうとする政治家が自民党を壊すと語るのは論理的には矛盾している。しかし小泉は、自民党に対する国民の不満を自民党そのものを改革する力へ変換し、その改革者として自分を位置付けた。党への批判を党外へ逃がすのではなく、党内の権力獲得に利用したところに、小泉政治の特徴があった。

三人を分けたのは思想だけではなく「権力への接近方法」だった

 YKKが同じ道を歩まなかった理由を、政策思想の違いだけで説明することはできない。もちろん外交、安全保障、経済政策などについて三人の考え方には違いがあったが、それ以上に重要なのは、政治的権力をどこから獲得し、どのように動かそうとしたかという違いである。

 加藤は党内で信頼と合意を積み重ね、その延長線上で首相になるという戦後自民党型の政治を基礎にしていた。山崎は党内の勢力均衡を読みながら影響力を保ち、その中で機会を作る政治を得意とした。小泉は従来の派閥力学だけでは自分が圧倒的に有利ではないことを理解し、地方党員票と世論を利用して党内の勢力均衡そのものを変えようとした。

 したがって三人の違いを単純化して表現するなら、加藤は組織内の合意形成を重視し、山崎は組織内の力学を利用し、小泉は組織の内外を結びつけることで権力構造を組み替えた、と考えるのが最も実態に近い。

 この違いは政治家としての性格とも関係していたと考えられる。加藤は複雑な問題を複雑なまま理解しようとする傾向が強かったのに対し、小泉は複雑な問題を有権者が理解しやすい一つの争点へ集約することに長けていた。郵政民営化はその典型であり、実際には郵便、郵便貯金、簡易保険、財政投融資、地域金融など多数の論点が絡む政策だったが、小泉はそれを「改革を進めるのか、それとも止めるのか」という政治的対立軸へ変換した。

小泉を可能にしたのは、人物だけではなく制度だった

 ただし、小泉が成功し、加藤が失敗した理由を、二人の性格や政治能力だけに求めることも適切ではない。二人が活動した時代には、日本政治の制度そのものが変化していた。

 1990年代の政治改革によって衆議院選挙には小選挙区比例代表並立制が導入され、候補者個人だけでなく政党の看板や党首の人気が選挙結果を左右する度合いが高まった。さらに政党による候補者公認の重要性が増し、中央省庁再編などを通じて首相官邸の政策調整能力も強化されていった。こうした制度変化は、派閥間調整を中心とした従来型の首相とは異なる、党首の人気と選挙を直接結びつける政治を可能にする条件となった。

 政治的な成功を単一の原因で説明することはできない。小泉の成功は、本人の政治的個性だけでなく、世論の支持、地方党員票、選挙制度、党執行部の公認権、首相としての制度的権限、そしてそれらを使いこなす戦略が組み合わさった結果と見る方が妥当である。

 逆に考えれば、加藤の乱の失敗も、加藤個人の弱さだけで説明することはできない。党内議員の造反によって政権を倒そうとした加藤の戦略は、当時の自民党執行部が持つ統制力と正面から衝突した。政治家の能力だけでなく、その能力がどのような制度環境で使われたのかを見る必要がある。

「加藤の乱」と「郵政解散」は、二つの改革手法の対照だった

 2000年の加藤の乱と2005年の郵政解散を並べると、YKK三人の違いと自民党政治の変化が鮮明になる。どちらも自民党内部の現状を変えようとした政治行動だったが、その方法は正反対だった。

 加藤は国会議員を動かすことによって政権を変えようとした。それに対し、小泉は郵政民営化関連法案が参議院で否決されると、衆議院を解散し、有権者に判断を求めた。さらに衆議院で郵政民営化法案に反対した自民党議員を原則として公認せず、その選挙区の多くに別の候補者を擁立した。党内対立を閉じた党内交渉で処理するのではなく、選挙という公開された場へ持ち出したのである。

 この2005年の衆議院選挙で自民党は296議席を獲得し、単独で衆議院全体の六割を超える議席を占める大勝となった。加藤の乱では党内執行部による議員の切り崩しが倒閣運動を止めたのに対し、郵政解散では首相自身が公認権と選挙を使って党内反対派へ圧力を加えた。わずか五年間の違いだが、そこには自民党政治における権力の使い方の大きな変化が表れていた。

小泉政治と「テレビ政治」をどう見るか

 小泉政治を語るとき、テレビの存在を無視することはできない。小泉は短く分かりやすい言葉を使い、複雑な政策を明確な対立構図へ変え、ニュース番組が扱いやすい政治的場面を作ることに長けていた。2005年の郵政選挙でも、郵政民営化への賛否や、いわゆる「刺客候補」などが大量に報道され、選挙に対する有権者の関心を高めた。

 しかし、「テレビが小泉を勝たせた」とまで言うのは正確ではない。小泉への支持と自民党への支持が相互に結びついた「小泉効果」は統計的研究でも確認されているが、メディア報道だけが支持を直接生み出したと単純に証明されているわけではない。より慎重に言えば、小泉の政治手法と、テレビを中心とした当時の政治報道環境との親和性が非常に高かったのである。

 加藤の政治は、長い説明と交渉によって合理的な結論へ到達する政治だった。それに対して小泉の政治は、対立軸をはっきりさせ、その選択を有権者に示す政治だった。どちらが政治として優れているかは一概には言えないが、テレビを通じて政治が大量の有権者へ直接伝わる時代には、小泉型の政治の方が大きな動員力を持ちやすかった。

YKKという名前が隠していたもの

 YKKという呼び名は、三人を一つの政治グループのように見せる。しかし振り返ってみると、この名前の最も興味深いところは三人の共通点ではなく、その内部に最初から存在していた違いである。

 加藤には、政策と理性、そして党内合意によって自民党を改善できるという信頼があった。山崎には、政治とは理念だけでは動かず、力関係を読み続けなければならないという現実主義があった。そして小泉には、自分を阻む既存の仕組みがあるなら、その仕組みそのものを国民の前で争点化し、世論を党内権力へ変えてしまうという政治技術があった。

 若いころには、これらの違いは互いを補う個性に見えた。しかし三人が首相候補として権力の近くへ進むほど、その違いは拡大した。権力が遠くにあるうちは、三人とも「改革」という言葉で結ばれることができる。ところが首相という椅子が現実のものになると、誰を説得し、誰と戦い、誰を味方にし、どこまで組織と対立するのかという具体的な選択を迫られる。

 権力とは、人間の性格を突然変えるものというより、その人がもともと持っていた政治観を拡大して見せる装置なのかもしれない。加藤の乱で、山崎は加藤と行動をともにし、小泉はそこから離れた。そのわずか一年後、小泉が首相となり、敗れた山崎を幹事長として自らの政権を支える側へ迎え入れたという事実は、政治における人間関係と権力関係の複雑さを象徴している。

同じ道を歩まなかったからこそ、YKKは面白い

 もし山崎、加藤、小泉の三人が最後まで同じ政治行動を取り続けていたなら、YKKはこれほど興味深い存在として残らなかったかもしれない。三人が別々の道を歩いたからこそ、1990年代から2000年代にかけて、自民党政治がどのように変質したのかが、その政治人生を通して見えてくる。

 加藤の政治には、戦後自民党が長く培ってきた合意形成型政治の成熟と、その限界が現れていた。山崎の政治には、状況が変わっても組織の中に戻り、次の局面で影響力を取り戻す自民党政治の柔軟さが現れていた。そして小泉の政治には、地方党員票、世論、選挙、党執行部の権限を組み合わせ、党内権力の構造そのものを動かす新しい政治手法が現れていた。

 三人は同じ1972年に国会へ入り、同じ自民党という巨大な船に乗り、長いあいだ同じ海を航海した。しかし船が古くなり、外から大きな波が押し寄せたとき、加藤は船内の秩序を組み替えようとし、山崎は船の中の力学を読みながら生き残る場所を探し、小泉は乗客の声まで利用して船の進路そのものを変えようとした。

 YKKがなぜ三人とも同じ道を歩まなかったのかという問いに、一つだけの答えはない。性格の違いもあれば、政策思想の違いもあり、政治制度や時代環境の違いもあった。しかし最も重要なのは、三人が共有していたのが「このままではいけない」という問題意識までであり、「では、どこから力を得て、どう変えるのか」という問いへの答えは最初から同じではなかったということである。

 首相になれなかった加藤、首相を支える側へ戻った山崎、そして首相となり自民党内部の対立そのものを国民に問いかけた小泉。同じ時代、同じ年に政治家として出発した三人の軌跡を重ねると、政治家の運命を決めるのは政策の正しさや能力だけではなく、制度と世論が変化する瞬間に、自分の政治手法をその変化へ適応させられるかどうかであることが見えてくる。

 YKKとは、三人が同じだったことを示す名前ではない。むしろ、同じ場所から出発し、同じ時代の自民党に違和感を抱いた三人が、権力という分岐点を前にしたとき、まったく異なる方法を選んだことを後世に残した名前なのである。

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 政治家の失敗には、少なくとも二つの種類がある。判断そのものを誤った失敗と、問題の所在はかなり正確に見抜いていたのに、それを現実に変える方法を誤った失敗である。前者は比較的分かりやすく、結果が出れば、どこで情勢を読み違えたのかを検証できる。しかし後者は厄介である。時間がたつほど「あの人の言っていたことにも一理あった」という再評価が生まれる一方で、それならなぜ、その人物は政治的な勝者になれなかったのかという疑問が残るからだ。

 加藤紘一という政治家を振り返るとき、この疑問から逃れることは難しい。とりわけ2000年11月に起きた、いわゆる「加藤の乱」は、一人の政治家の失敗談としてだけ読むには惜しい事件である。そこには、世論と議員行動のずれ、正論と組織の力の違い、選挙制度と党公認権、集団行動が崩れる仕組み、そして政治において「正しいこと」と「正しいことを実現すること」がなぜ別の能力なのかという問題が、ほとんど標本のように詰まっている。

 2000年11月20日、野党が森喜朗内閣に対する不信任決議案を提出すると、自民党の有力政治家だった加藤紘一は、山崎拓とともにこれに同調する姿勢を示した。ところが、決定的な局面に近づくにつれて党執行部による切り崩しが進み、加藤を支持するとみられていた議員たちは次々に造反から離れていった。加藤は最後には自ら国会へ向かおうとしたものの、側近たちに制止され、本会議を欠席する。不信任案の採決そのものは日付をまたいだ11月21日未明に行われ、賛成190票、反対237票で否決された。

 その直前、加藤を制止した谷垣禎一が「あんたが大将なんだから行っちゃ駄目だ」と訴えた場面は、平成政治を象徴する映像として長く記憶されることになった。敗北したのは不信任案だけではなかった。加藤自身が党内で築いてきた政治的影響力も、この一件によって大きく傷ついたのである。

 この光景だけを切り取れば、政局を読み違えた政治家が無謀な倒閣運動を起こし、最後には自ら投票することさえできずに敗れた話に見える。しかし四半世紀ほどの距離を置いて眺めると、それほど単純でもない。加藤が見ていた森政権の脆弱さそのものは、当時の世論調査やその後の政治情勢と照らしても、現実から大きく外れた認識ではなかったからである。

森政権を危ういと見た判断は間違っていたのか

 森喜朗内閣は、小渕恵三首相の急病という異例の状況のなかで、2000年4月5日に発足した。その政権継承をめぐっては、党幹部らによる協議のあり方が「五人組」「密室政治」と厳しく批判された。ただし、党内の後継協議と憲法に基づく首相指名手続きは区別しなければならない。森は自民党の両院議員総会で総裁に選出され、国会でも正式に首相指名を受けている。したがって、法的な手続きそのものが存在しなかったわけではない。問題とされたのは、後継者選びに至る党内の意思決定が、国民や一般党員から見て十分に開かれていなかったことである。

 森内閣の厳しい状況は、当時の世論調査にも表れていた。中央調査社が公表した時事通信社の月例世論調査によれば、森内閣の支持率は2000年4月の33.3%から6月には18.2%へ低下した。わずか2か月で15.1ポイントの下落であり、その後も支持率は20%前後で低迷した。7月には不支持率が56.9%に達し、政権に対する不満が一時的なものではなくなりつつあることを示していた。

 この調査は全国の20歳以上の男女2,000人を対象とする月例面接調査で、回収率はおおむね70%だった。世論調査である以上、標本の偏りや回答しなかった人の影響を完全に排除できるわけではない。それでも、複数月にわたって低い支持率が続いたことは、森政権の求心力が弱まっていたという評価を支える十分な材料になる。加藤の政権批判は、少なくともこうした客観的な状況と整合していたのである。

 もっとも、内閣支持率が低いことと、直ちに倒閣すべきことは同じではない。支持率は国民の評価を示す一つの指標にすぎず、政権交代によってどのような政策改善が実現するのか、国会の多数派を組み直せるのか、解散総選挙になった場合にどのような結果が生じるのかまでは教えてくれない。低支持率を根拠として政権への批判を強めることは合理的でも、不信任案に賛成するという具体的な手段が最善だったかどうかは、別に検証する必要がある。

 実際、森政権は加藤の乱から約5か月後の2001年4月に終わるが、そこに至るまでには低支持率だけでなく、政権運営上の問題や自民党内部の事情が重なっている。後から政権が終わったという結果だけを見て、加藤が将来を完全に予見していたと考えるのは、後知恵による評価になりかねない。森政権が弱体化しているという認識は妥当だったとしても、その後の政治展開を加藤が正確に予測していたことまで証明されるわけではない。

 したがって、加藤の問題認識については「正しかった」と断定するより、「当時の客観的な政治状況とかなり整合していた」と評価する方が正確だろう。加藤は政権の重大な弱点を捉えていた可能性が高い。しかし、政治では問題を正確に発見することと、その問題を解決できることは同じではない。

世論が動いても、国会議員が動くとは限らない

 加藤の乱が起きた2000年は、日本の政治にインターネットが影響を与え始めていた時期でもあった。加藤のホームページには多くのアクセスが集まり、激励の電子メールが多数送られた。加藤自身も後のインタビューで、当時は一日に1,000通から2,000通の電子メールが寄せられていたと振り返っている。既存の政治組織を通さずに支持や期待を直接感じ取れることは、当時としては新しい経験だった。

 しかし、そこには統計的な落とし穴があった。インターネット上で強く観察される支持と、国民全体の支持は同じではない。政治家に積極的に電子メールを送る人は、もともと関心や期待の強い人に偏る傾向がある。さらに当時はインターネットの利用者構成も現在とは異なり、年齢や職業、情報環境による偏りが大きかった。大量の激励が届いたとしても、その人数や意見の分布から、有権者全体の支持率を直接推定することはできなかった。

 この問題は、統計学でいう自己選択による偏りに近い。自分から発信する人々の意見を集計しても、発信しなかった人々の意見まで代表しているとは限らない。また、国民全体の内閣支持率から個々の国会議員の行動を予測する場合には、異なる集団の関係を同一視する誤りにも注意しなければならない。世論調査で森政権への不支持が多かったとしても、その人々が加藤を次の首相に望んでいたかどうかは分からず、まして自民党議員が野党の不信任案に賛成するかどうかを、その数字だけから判断することはできない。

 有権者がテレビを見ながら「森政権を代えた方がいい」「加藤にやらせてみてもいい」と考えることには、大きな個人的代償はない。しかし、自民党所属の国会議員が野党提出の内閣不信任案に賛成するとなれば事情はまったく違う。そこでは自分の信念だけでなく、次回の選挙で党公認を受けられるのか、後援会や地方組織はどう動くのか、党内の役職や政治的将来を失わないか、自分だけが敗者側に取り残されないかという問題まで、一度に判断しなければならない。

 しかも1994年の選挙制度改革によって、小選挙区比例代表並立制が導入され、1996年の衆議院総選挙から実施されたことで、党公認の重要性は以前より高まっていた。中選挙区制では同じ自民党から複数候補が競うことも普通だったが、小選挙区では原則として一つの政党から一人の公認候補が出る。そのため、党執行部が持つ公認権は、議員の政治生命により直接的な影響を与えるようになった。

 この変化は政治学の実証研究とも整合している。選挙制度改革前後の自民党の候補者公認を分析した研究では、小選挙区制への移行後、党総裁や幹事長に近い派閥の影響力が候補者選定で強まったことが示されている。ただし、これは公認過程全体の傾向を分析した結果であり、加藤の乱で造反を断念した議員一人一人が、どの程度公認を失うことを恐れていたかを直接証明するものではない。

 当時の野中広務ら党執行部が強かったのは、森喜朗の政治的主張が加藤紘一より論理的に優れていることを証明したからではない。造反しようとしている議員が何を恐れ、何を失いたくないのかを理解し、その条件に働きかけることができたからである。もちろん、派閥内の人間関係や政治的忠誠、政策上の意見の違いも無視できず、離脱した議員全員を公認喪失への恐怖だけで説明することはできない。それでも、制度的な権限が個々の議員の行動を左右する重要な条件だったことは否定しにくい。

 ここに、正論と権力が一致しない最初の理由がある。人は主張の内容だけで行動を決めているわけではない。自分が置かれた制度や組織のなかで、その行動がどのような利益や損失をもたらすかも計算している。正論による説得と制度的な権力は互いに排他的なものではないが、正論だけで人間の行動条件を変えられるとは限らないのである。

「森首相を辞めさせたい」と「加藤についていく」は同じではなかった

 政治では、多くの人間が同じ不満を持っていても、それだけで集団行動が成立するとは限らない。当時の自民党議員の中に森政権への不満を持つ者がいたとしても、「森首相は交代した方がよい」と考えることと、「野党の内閣不信任案に賛成し、自分の政治生命まで賭けて加藤と行動を共にする」ことの間には大きな距離があった。

 この違いは、加藤自身がどのように行動を開始したかを振り返ると、さらに明確になる。加藤は2000年11月上旬、森政権の継続に強い危機感を示し、自ら政権を担う意欲を表明した。しかし、当時の報道では、その意思表明が山崎拓や加藤派の幹部にも十分に事前共有されていなかったことが指摘されている。加藤派の若手には行動を支持する声があった一方、ベテラン議員には慎重論が存在し、同じ派閥に属していても倒閣の方法について意見は一致していなかった。

 この状況は、組織論でいう協調問題として理解できる。ある行動に参加することの利益と損失は、ほかの人々が何人参加するかによって変わる。例えば、50人が確実に造反すると分かっていれば、自分も加わろうと考える議員がいるかもしれない。しかし、途中で35人しか集まらないと分かった瞬間、その議員にとって造反の期待利益は変化する。そこで一人が離れれば34人になり、その情報を見た別の議員も離れる。この数字は実際の加藤派の人数を示したものではなく、集団行動が連鎖的に崩れる仕組みを説明するための仮定である。

 社会学では、ある人数以上の参加者が集まらなければ自分も参加しないという行動を、閾値モデルによって説明することがある。参加に必要な人数の基準は人によって異なり、ほかの人々の参加状況が変わることで、自分の選択も変化する。その結果、集団の中に同じ不満を持つ人が多数存在していても、実際には誰も行動しない場合や、一度始まった行動が途中で急速に崩れる場合が生じる。

 政治家の判断を数理的に考えるなら、造反の期待利益は、成功確率と成功した場合の利益、失敗確率と失敗した場合の損失、さらに行動そのものに伴う費用によって変化する。党執行部が公認剥奪や処分の可能性を示せば、造反に失敗した場合の予想損失は大きくなる。同時に、仲間の離脱が進むと造反の成功確率も低下するため、残っている議員にとっても参加する合理性が弱まっていく。

 ただし、実際の議員がこうした計算式を用いて判断していたわけではない。政治家には政策上の信念や人間関係、過去の恩義、名誉への思いもある。また、各議員が考えていた成功確率や損失の大きさを事後的に正確に測定することも難しい。数理モデルは人間の判断を理解するための道具ではあるが、個々の政治家の心理を完全に説明するものではない。

 加藤の大きな誤算の一つは、森政権に対する不満の大きさを、自分への政治的支持と同じように捉えたことだったのではないか。森政権への不満が強くても、加藤への支持が同じ程度に存在するとは限らない。加藤への好感があったとしても、加藤のために党執行部と戦う覚悟を持つ者が同じ人数いるとは限らないのである。

 政治における支持には、意見としての支持と、実際の行動を伴う支持がある。前者を集める能力が高くても、後者を十分に確保できなければ、議会で多数派を形成することはできない。加藤の乱は、こうした二つの支持の違いを際立たせた事件だった。

採決結果を数字で見ると、加藤には何が足りなかったのか

 加藤の乱の実際の採決結果を数字で見ると、敗北の構造はさらに明確になる。2000年11月21日未明の衆議院本会議では、森内閣不信任案に対する賛成が190票、反対が237票だった。投票総数427票に占める賛成の割合は約44.5%、反対は約55.5%であり、両者の差は47票だった。

 ここで、採決に参加した議員の一部が行動を変えていたと仮定してみよう。反対票を投じた議員のうち24人が賛成に転じれば、賛成214票、反対213票となり、不信任案は可決される。一方、反対票を投じた議員が単に投票を取りやめるだけなら、賛成190票が反対票を上回るには48人の離脱が必要になる。また、反対237票が変わらない状態で、欠席者から新たに賛成票が加わる場合も、48人の追加が必要になる。

 当時の採決では、加藤派から21人、山崎派から17人の合計38人が欠席していた。この38人全員が不信任案に賛成したと仮定しても、賛成228票、反対237票で否決される。そこから可決に持ち込むには、反対側から少なくとも5人を賛成に転じさせるか、さらに10人の賛成票を加える必要があった。

 もちろん、この計算は実際の投票結果を固定し、特定の議員だけが行動を変えたとする仮定に基づいている。38人全員が本当に賛成する意思を持っていたことを示すものではなく、採決前に造反の規模が拡大すれば、ほかの議員の判断まで変化した可能性もある。政治的な多数派形成は静的な足し算だけで決まるものではないが、この数字は加藤・山崎両派の欠席者が全員まとまったとしても、それだけで可決できる状況ではなかったことを示している。

 つまり、加藤に必要だったのは、自分に近い議員を説得することだけではなかった。ほかの派閥や無所属議員を含めて、どの程度の支持を確実に確保できるのかを見極め、その人数を採決の瞬間まで維持する仕組みが必要だったのである。

 実際には、加藤派の中から不信任案に反対する議員も現れた。単に他派閥への働きかけが不足していたのではなく、自派閥の内部にも行動方針の一致を妨げる事情があった。加藤が率いる派閥の全員が、森政権への不満と不信任案への賛成を同じものとして考えていたわけではない。

 この点を考えると、加藤の乱の失敗を「最後に加藤が投票しなかったから」と説明するのは不十分である。投票しなかったことは象徴的な出来事だったが、その前に、可決に必要な人数を安定的に確保できていないという、より根本的な問題が存在していたのである。

不信任案が可決されても、加藤政権が誕生するとは限らなかった

 加藤の乱を理解するには、内閣不信任案という制度が持つ意味も確認しておく必要がある。日本国憲法第69条は、衆議院で内閣不信任決議案が可決された場合、内閣は10日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職しなければならないと定めている。つまり、不信任案の可決は森内閣の継続を困難にするが、それだけで加藤が次の首相になるわけではない。

 仮に不信任案が可決されていたとしても、衆議院の解散と総選挙に進む可能性があった。その場合、自民党所属議員が野党の不信任案に賛成した結果、自分たちも厳しい選挙に直面することになりかねない。一方、内閣が総辞職した場合でも、新たな首相は国会で指名される必要があり、加藤がその座を得るには、改めて国会の多数派を形成しなければならなかった。

 当時の与党は自民党、公明党、保守党による連立政権だった。加藤が政権を担おうとすれば、自民党内部の勢力関係だけでなく、連立相手の意向や野党との関係も考えなければならなかった。森首相を退陣させることに賛成する議員が存在したとしても、その後に加藤を首相にすることまで同意していたとは限らない。

 この制度上の分岐は、加藤の戦略を評価するうえで重要である。政治では現在の政権を倒すための多数派と、次の政権を成立させるための多数派が同じになるとは限らない。前者について一定の見通しがあったとしても、後者の構想が十分でなければ、政権交代後の政治的な安定まで保証されないのである。

 加藤自身は、森政権を倒した後に自ら政治の中心に立つことを視野に入れていた。当時の報道でも、加藤が首相就任を強く意識し、人事や政策の構想に言及していたことが伝えられている。したがって、加藤を権力から距離を置いた純粋な改革者として描くことは適切ではない。加藤は自ら権力を獲得しようとしていた政治家であり、そのために既存の政権を倒すという大きな賭けに出たのである。

 問題は、その賭けが成功した場合に、どのような政治的多数派が新たな政権を支えるのかという設計だった。加藤の乱の弱点は、不信任案を可決するための人数の不足だけでなく、その先の政権構想を確実な支持基盤に結びつけられなかったことにもあったと考えられる。

なぜ「最後に投票しなかったこと」が重かったのか

 加藤の乱では、最後に加藤自身が不信任案へ賛成票を投じなかったことが、しばしば決定的な場面として語られる。谷垣禎一の制止を受けて国会へ向かうことを断念した場面は、政治家としての決断と派閥の長としての責任が衝突した瞬間として見ることもできる。

 もっとも、これを単純に「臆病だった」と説明するのは公平ではない。加藤が本会議へ向かえば、それまで行動を共にしてきた議員たちにも厳しい処分や政治的損失をもたらす可能性があった。派閥の長として仲間を守ろうとした判断だったと考える余地はあるし、もはや勝算のなくなった戦いを続けることに意味はないと判断した可能性もある。組織の責任者にとって、撤退そのものが常に誤った決断になるわけではない。

 しかし、権力という観点から見れば、撤退には別の代償が生じる。政治における発言の力は、その内容だけで決まるわけではない。「この人物は、最後には本当に実行する」と周囲が予測することによって、初めて交渉力になる。反対者が「強いことを言っていても、最後には撤退するだろう」と考えるようになれば、その人物が次に行う政治的な威嚇や交渉の効果は低下する可能性がある。

 これは交渉理論における約束や威嚇の信頼性という問題に近い。相手が実行すると信じない約束や威嚇は、交渉の場では十分な効力を持たない。ただし、政治家の信頼性は一度の行動だけで決まるものではなく、それまでの実績や政策能力、組織内の関係、その後の行動によっても変化する。加藤が欠席したことで、その後の交渉力がどの程度低下したのかを数量的に測定することは難しい。

 また、もし加藤が一人でも本会議に出席して不信任案に賛成していたなら、その後の評価が高まったと断定することもできない。逆に、勝算がなくなった後も党を混乱させた政治家として、さらに厳しく批判された可能性もある。結果が異なっていた場合の政治的評価を、後から一つに確定することはできないのである。

 それでも、加藤の乱が単なる敗北ではなく、「挫折」という印象を伴って記憶された理由は理解できる。負けたことだけでなく、勝負を宣言した人物が最後の決定的な場面で勝負そのものから降りたように見えたからである。政治では合理的な撤退であっても、指導者への期待や信頼という別の観点から、厳しく評価されることがある。

小泉純一郎は、なぜ加藤と同じ道を選ばなかったのか

 加藤紘一の敗北を考えるうえで、興味深い比較対象は小泉純一郎である。加藤、山崎拓、小泉の三人は、それぞれの名前の頭文字から「YKK」と呼ばれ、自民党の次世代を担う有力政治家として注目されていた。しかし、2000年11月の加藤の乱では三人が同じ行動を取ったわけではない。

 後に「自民党をぶっ壊す」と訴え、旧来の自民党政治に挑戦する象徴となった小泉は、加藤の乱では加藤側に立っていない。森派の有力政治家として党内にとどまり、加藤の造反には同調しなかった。小泉が森政権の継続にどのような評価を持っていたかと、実際に野党の不信任案へ賛成するかどうかは別の問題だったのである。

 一方、加藤は自民党執行部に正面から反旗を翻し、野党提出の内閣不信任案という制度を利用して、一気に森政権を倒そうとした。成功すれば劇的だったが、失敗した場合の政治的損失も大きかった。これに対して小泉は、その時点で党を割る側には回らず、数か月後の2001年4月に自民党総裁選という党内の正規手続きを通して権力獲得を目指した。

 ただし、この比較には重要な補足が必要である。加藤自身も、党内の正規手続きを利用して総裁を目指した経験があった。1999年9月21日の自民党総裁選では、小渕恵三が350票を獲得して再選されたのに対し、加藤は113票、山崎は51票にとどまった。加藤はすでに、通常の総裁選によって党内の多数派を形成することの難しさを経験していたのである。

 この経緯を踏まえると、加藤と小泉の違いを、制度を利用したかどうかだけで説明することはできない。加藤も正規の制度による権力獲得を試み、その後に別の手段を選んだ。一方、小泉も1995年と1998年の総裁選に挑戦して敗れており、2001年の勝利が最初から約束されていたわけではなかった。二人とも複数回の政治的挑戦を経験していたのである。

 さらに、2001年の総裁選では制度そのものにも重要な変化があった。全国の都道府県連が持つ票数は、従来の各1票から各3票に拡大された。背景には政治不信の高まりと、一般党員や地方組織の声をより強く反映すべきだという要求があった。小泉は地方組織で強い支持を獲得し、4月24日の総裁選では298票を得て、橋本龍太郎の155票、麻生太郎の31票を大きく上回った。

 この結果は、制度が政治家の勝敗に与える影響を示している。仮に国会議員だけの判断で総裁を選ぶ状況であれば、派閥の力関係がより直接的に結果を左右した可能性がある。しかし、地方票の比重が高まれば、党員や地方組織からの支持を国会議員票と組み合わせることができる。小泉は、国民的な注目や党改革への期待を地方組織での支持につなげ、それを総裁選の票へと変換することに成功した。

 もっとも、制度変更だけで小泉の勝利が説明できるわけではない。小泉自身の知名度、発信力、改革姿勢、支持議員の動向、橋本に対する党内外の評価など、複数の要因が関係していた。1999年と2001年では投票制度や候補者の顔ぶれも異なるため、加藤の113票と小泉の298票を単純に比較して、政治家としての能力差を測ることもできない。

 それでも、二人の明暗を分けた一つの重要な違いは見えてくる。加藤は既存の執行部に対する反乱を通じて権力関係を変えようとしたが、その行動を支える議員多数派を確保できなかった。小泉は政治不信が高まる状況のなかで、地方票の比重が拡大した党内制度を利用し、自らへの支持を総裁選の勝利に結びつけたのである。

 加藤が堤防を壊して川の流れを変えようとしたのに対し、小泉はその戦いには加わらず、後に変化した水門の仕組みを利用して流れの中心に立った、と表現できるかもしれない。ただし、その水門が開いたのは小泉個人の政治技術だけによるものではなく、自民党自身が選挙制度を変え、党内外の政治情勢が変化した結果でもあった。

 この比較から導けるのは、小泉が加藤より常に優れた政治家だったという単純な評価ではない。政治家が持つ支持を、実際の権力に変えるためには、その支持を受け止める制度と、適切な時期と、実行可能な組織的基盤が必要になるということである。

加藤紘一は、本当に「正しい政治家」だったのか

 しかし、ここまで読んで加藤を「正しかったのに権力政治に敗れた人物」と美化してしまえば、今度は別の誤りに陥る。政治家の主張は数学の答案ではない。二十年後に答え合わせをして、丸かバツかを付けられるものばかりではないからである。森政権をいつ倒すべきだったのか、景気対策と財政再建をどう両立するべきだったのか、中国とどの程度協調するべきだったのか、安全保障政策をどこまで拡張するべきだったのかには、それぞれ複数の合理的な立場が存在する。

 政治的な判断を評価する場合、事実認識の正確さ、政策目的の妥当性、手段の合法性、実行可能性、そして結果の有効性を分けて考える必要がある。例えば、森政権の支持率が低下していたという認識は客観的な統計で検証できるが、その時点で政権を倒すことが国民にとって最善だったかどうかは、政策の継続性や代替政権の実現可能性を含めた判断になる。加藤の問題認識に根拠があったとしても、そこから採用した手段の正当性や有効性まで自動的に導かれるわけではない。

 加藤はその後、自民党内では比較的穏健な保守政治家として、日中関係を重視し、小泉首相の靖国神社参拝を批判した。イラク戦争にも批判的な立場を示し、自衛隊派遣に慎重だった。2004年1月には、イラクへの自衛隊派遣承認案をめぐる衆議院本会議で、党の賛成方針に同調せず、採決直前に退席している。これは、加藤が加藤の乱の後も政策上の異論を表明し続けたことを示す具体的な行動だった。

 イラク戦争については、開戦前に想定されていた大量破壊兵器の大規模な備蓄が、戦後の調査で確認されなかった。この事実は、開戦の根拠を疑問視していた政治家たちの議論を後から評価する重要な材料になる。しかし、それによって加藤の外交・安全保障政策が常に正しく、反対した政治家が常に間違っていたことにはならない。ある問題で事実認識が適切だったことと、政治家としての全体的な判断能力は区別すべきだからである。

 また、加藤の政治人生を評価する際には、2000年の敗北だけに注目することも避けなければならない。2002年には、元事務所代表の脱税事件や政治資金をめぐる問題が表面化し、加藤は同年3月に自民党を離党、4月には衆議院議員を辞職した。加藤本人は事件への直接の関与を否定した一方、事務所を管理する立場として重大な監督責任があることを認めた。

 この出来事も、加藤の政治的信用や首相候補としての将来を考えるうえで無視できない。加藤の乱によって党内基盤が傷ついたことと、その後の政治資金問題によって政治活動が大きな打撃を受けたことは、別の出来事として評価する必要がある。加藤が総理大臣になれなかった理由を、2000年の戦略的失敗だけに帰属させるのは、歴史を単純化しすぎることになる。

 加藤は2003年の総選挙で衆議院に復帰し、自民党にも復党した。その後も外交や安全保障などについて独自の見解を示し続けたが、かつてのように総裁候補として党内の中心に立つことはなかった。この経緯を見ると、加藤の政治人生は、一度の敗北によってすべてが決まったというより、複数の政治的事件や本人の判断が重なり、党内での立場が変化していった過程として理解する方が適切である。

 それでも、加藤紘一という政治家を考えるうえで興味深いのは、後から振り返ったときに無視できない論点をたびたび提示しながら、それを持続的な政治的多数派へ変えることができなかったという点にある。ただし、それは加藤一人に固有の欠点というより、政治家が政策的な問題提起と組織的な支持形成を同時に求められることの難しさを示しているのかもしれない。

正論は、それだけでは政治にならない

 私たちは政治を語るとき、ときに「正しいことを言えば人は動く」という考えに引き寄せられる。その反動として政治の現実を知ると、「結局は数だ」「結局は権力だ」と冷笑したくもなる。しかし、どちらも政治の半分しか見ていない。政策の内容に合理性があっても、それを実現できる多数派がなければ制度は変わらない。一方、多数派を形成する技術だけに長けていても、その権力を使って何を実現するのかという目的を見失えば、民主政治の意味そのものが薄れてしまう。

 民主政治では、政策の妥当性と意思決定の正統性を区別しながら、両方を成立させなければならない。ある政策が専門的な知識に基づいて合理的に設計されていたとしても、それだけで民主的な手続きを省略してよいことにはならない。逆に、選挙や議会で多数を確保したからといって、その政策が必ず合理的であるとも限らない。民主政治における多数決は、政策の科学的な正しさを証明する仕組みではなく、異なる価値観や利害を持つ人々の間で、正統な決定を行うための制度なのである。

 正しいと考える政策を現実に変えるには賛同者が必要であり、その賛同者が決定的な瞬間まで離れない仕組みが必要になる。反対者が何を恐れ、何を守ろうとしているのかを理解し、ときには妥協し、ときには待ち、ときには退路を断つ必要もある。ただし、すべての場面で退路を断つことが正しいわけではない。勝算が乏しいと判断すれば撤退することも合理的な選択になり得るし、逆に短期的な損失を引き受けて原則を守ることが、長期的な信用につながる場合もある。

 こうした政治的判断には、数学的に考えられる部分と、数学だけでは決められない部分がある。必要な票数や議席の分布、選挙制度が生む誘因、政策実施に必要な予算などは、数理的に分析できる。しかし、どの価値を優先するか、どの損失を受け入れるか、どの時点で妥協するかという判断には、政治家や有権者の価値観が関わる。合理的な手段を選ぶことは重要だが、何を実現することが望ましいかまで、一つの計算式で決められるわけではない。

 加藤紘一には言葉があった。政策を考える能力があり、外務官僚出身の国際感覚を持ち、自民党幹事長まで務めた経験もあった。それでも総理大臣にはなれなかった。その理由を「いい人だったから」「正論を言ったから」と説明してしまえば、政治という営みの重要な部分を取り逃がすことになる。問題を発見する能力と、その問題を解決できる多数派を作る能力は別であり、さらに、権力を獲得した後に政策を実現し、その結果に責任を負う能力もまた別だからである。

「正しかったのに負けた」という物語の危うさ

 敗れた政治家を後世から眺めると、私たちはしばしばそこに物語を付け加える。勝者は権力に汚れ、敗者は信念を守ったという物語である。しかし、加藤紘一の政治人生はそれほどきれいには整理できない。加藤自身も権力を望んでいた。自民党総裁となり、総理大臣になることを目指していた政治家であり、1999年の総裁選にも立候補していた。森政権を倒した後に、自らが政治の中心に立つことも視野に入れていたのである。

 つまり加藤は、権力から距離を置いた孤高の思想家ではなく、権力を獲得しようとして失敗した政治家だった。加藤の乱を善良な改革者と強大な党執行部の対決としてだけ描くなら、本人が権力獲得を目指していた事実や、その過程で犯した戦略上の誤りを見落とすことになる。

 同時に、勝利した小泉の行動を、後から見てすべて合理的だったと評価することにも注意が必要である。小泉が総裁選で勝利したのは事実だが、それは小泉が取った行動のすべてが正しかったことを意味しない。加藤が2000年11月に造反をせず、2001年の総裁選まで待っていればどうなったか、あるいは小泉が加藤の乱に同調していたらどうなったかは、歴史上実際には観察できない別の可能性である。勝者の行動だけを成功要因として取り上げ、敗者の行動だけを失敗要因として扱えば、結果を知っていることによる判断の偏りが生じる。

 政治的な成功は、個人の能力と制度的な条件、組織内の利害関係、社会の状況、さらに本人にも予測しきれない偶然が重なって成立する。ある人物が勝ったという事実から、その人が常に最良の選択をしていたと結論づけることはできない。反対に、敗れたという事実だけで、その人が提示した問題の重要性まで否定することもできないのである。

 加藤の乱から見えてくるのは、善と悪の対決でも、正論と悪辣な権力者の対立でもない。政治における問題認識の妥当性と実行能力のずれである。森政権が弱体化しているという認識に相当な根拠があったとしても、不信任案を利用して倒閣するという方法まで適切だったとは限らない。国民の不満を感じ取ることができても、それが自分への支持に変わるとは限らず、自分への支持があったとしても、それが議会での造反票になるとは限らない。

 さらに、時代の方向をある程度見抜いていたとしても、いつ動くのか、どの制度を利用するのか、誰と組むのか、誰を敵に回すのか、どの時点で退路を断つのかという判断を誤れば、政治的には敗北する。逆に、ある時点で敗北したからといって、それ以前の問題提起や政策判断に価値がなかったと結論づけることもできない。

 政治家を評価する際には、少なくとも三つの問いを分ける必要がある。その人物は何を問題と考えたのか。その問題を解決するために、どのような手段を選んだのか。そして、その手段は実際にどのような結果を生んだのか。この三つを混同すると、勝った政治家を過大評価し、負けた政治家を過小評価するか、逆に敗者を過度に美化することになりやすい。

 加藤紘一の場合、森政権の弱体化という問題認識には客観的な根拠があった。しかし、党内の支持を不信任案への賛成票に変える仕組みは十分ではなく、仮に不信任案が可決されても、その後の政権を支える多数派が確実に存在していたわけではなかった。この制度的な問題と組織的な問題を合わせて考えることが、加藤の乱の敗北を理解するうえで重要になる。

加藤紘一は正しかったのに負けたのか

 したがって、「加藤紘一は正しかったのに負けたのか」という問いに対する答えは、単純な「はい」でも「いいえ」でもない。加藤は森政権の弱さという問題の存在を、当時の世論や政治情勢に照らして相当程度正確に捉えていた。しかし、その問題認識を実際の政権交代へ結びつけるための多数派形成には失敗した。そこには、自派閥内部の意見の不一致、党執行部による切り崩し、選挙制度が生む公認権の重み、野党提出の不信任案に賛成することへの抵抗、そして行動を開始する時期や準備の問題など、複数の要因が関係していた。

 さらに、仮に加藤の乱が成功して森政権を倒したとしても、それだけで加藤政権が実現したわけではない。内閣不信任案の可決には衆議院解散や内閣総辞職という制度上の分岐があり、その後の首相指名や連立政権の形成には改めて多数派が必要だった。加藤の政治的構想を評価するには、政権を倒すための戦略だけでなく、倒した後に何を実現するかという統治の構想まで考えなければならない。

 その意味で、加藤の乱は「正しいことを言ったために権力者から排除された」という単純な事件ではない。加藤自身が権力を求め、その獲得手段として選んだ政治行動が、必要な支持と制度的条件を十分に確保できなかった事件だった。ただし、敗北の原因を本人の覚悟や政治的能力の不足だけに帰属させることも適切ではない。加藤が置かれていた党内の力関係、1990年代の選挙制度改革、当時の連立政権の構造、そしてその後に起きた政治資金問題も、政治人生全体を左右した要因として考える必要がある。

 そして、この事実を最も鮮烈に示しているのが小泉純一郎なのかもしれない。加藤の乱では造反に同調しなかった小泉が、そのわずか数か月後には党内の正規の総裁選を利用して権力を獲得し、自民党改革の象徴となった。ただし、小泉の勝利もまた、本人の政治的技量だけによるものではなかった。都道府県連の持ち票が拡大された総裁選制度、地方組織からの支持、党内外の政治不信などが重なり、小泉への期待が実際の票へと変わる条件が整ったのである。

 政治とは、正しい人を選び出す試験ではない。異なる利益、恐怖、計算、価値観を持つ人々を、制度に従って同じ方向へ動かし、現実の政策を変えていく営みである。そこでは問題を発見する能力と、多数派を形成する能力、さらに権力を行使して結果に責任を負う能力が必要になる。一人の政治家がそのすべてを備えるとは限らず、ある能力に優れていることが別の能力の不足を補うとも限らない。

 加藤紘一の敗北が今なお考える材料になるとすれば、それは一人の政治家の悲劇だからではない。私たち自身もまた、「正しいこと」と「正しいことを実現できること」を、つい同じものだと思ってしまうからである。政治を評価するときには、主張の内容だけでなく、それを実現する制度と組織をどのように構築したのか、実際に何を達成したのか、その結果にどのような責任を負ったのかまで見る必要がある。

 正論は、それだけでは権力を生まない。しかし、権力が正論や合理的な政策判断をまったく必要としなくなった社会も危うい。その二つの間に橋を架けることこそ政治家の重要な仕事なのだとすれば、加藤紘一は橋の向こう岸に存在する問題を比較的早く見つけながら、そこへ至る橋そのものを完成させることができなかった政治家だったのかもしれない。

 そして、その橋を架けるために必要なのは、正しいと信じる主張を繰り返すことだけでも、権力を握るために数を集めることだけでもない。問題を正確に認識し、異なる立場の人々が参加できる条件を整え、制度のなかで合意を形成し、結果を引き受けることである。加藤の乱が四半世紀を経てもなお問いかけているのは、政治家の人格の優劣よりも、正論を現実の政治に変えることの難しさなのである。

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 「自民党をぶっ壊す」。小泉純一郎という政治家を語るとき、今もこの強烈な言葉が思い出される。ただし、小泉が訴えた基本的な論理は「自民党を変える。変わらなければぶっ壊す」というものであり、自民党という政党そのものを消滅させるという意味ではなかった。長く続いてきた自民党政治の仕組みを改革し、それを妨げる勢力があるならば、党内の既存秩序を壊してでも変えるという主張だったのである。

 2001年4月、小泉は自民党総裁となり、内閣総理大臣に就任した。それから4年後の2005年9月、郵政解散によって行われた衆議院総選挙では、自民党が296議席を獲得し、公明党と合わせた与党は327議席に達した。2003年の総選挙で自民党が獲得した237議席と比較すると59議席の増加であり、自民党の改革を掲げて登場した政治家が、結果として自民党に歴史的な大勝をもたらしたことになる。

 しかし、この結果だけで小泉を「自民党を強くした総理」と評価してよいのだろうか。小泉退任から3年後の2009年には、自民党は119議席まで減少して民主党に政権を明け渡しており、2005年の圧勝が長期的な組織力の強化を意味していたのかについては、別の検証が必要になる。そもそも、小泉が変えようとした自民党の仕組みと、小泉時代に強まった自民党の選挙上の能力は、必ずしも同じものではなかった。

 この問題を考えるには、単に小泉の人気や選挙の勝敗を見るのではなく、自民党の組織構造、1990年代からの政治制度改革、2005年の得票率と議席数の関係、さらに小泉退任後の政治的変化を合わせて検討する必要がある。

小泉が壊そうとしたのは自民党そのものではなかった

 戦後長く政権を担ってきた自民党は、単一の思想や政策方針によって統一された政党というよりも、異なる政治的立場や利害を党内に抱え込むことで政権を維持してきた政党だった。党内には複数の派閥が存在し、その周囲には農業団体、建設業界、医療関係団体、商工団体など、さまざまな利益集団が結びついていた。政治家は地域の要望を国政へ持ち込み、支持団体は選挙で政治家を支え、派閥は所属議員の選挙や政治活動を支援しながら、総裁、大臣、党役員などのポストを競っていた。

 こうした政治には、政策決定に時間がかかり、既存の制度から利益を得ている人々への配慮によって改革が難しくなるという問題があった。公共事業や補助金などの政策資源が選挙上の支持と結びつけば、政策の必要性や費用対効果よりも、既存の支持関係を維持することが優先される危険もある。しかし、その一方で、自民党内部に多様な意見を抱え込み、対立する利害を調整するという機能も存在していた。財政支出の拡大を求める政治家と財政規律を重視する政治家、都市部の経済政策を重視する政治家と農村の利益を代表する政治家が、同じ政党に所属しながら政策を調整できたのである。

 このような仕組みは、政治学的には利益集約や党内調整の機能として理解できる。多様な利益を一つの政党の内部で調整できれば、社会の対立がそのまま政党間の対立へ発展することを抑えられる反面、調整に必要な時間や妥協によって政策の一貫性が損なわれる場合もある。つまり、従来型の自民党政治は単に古く非効率だったのではなく、長期政権を可能にする安定性と、改革を難しくする硬直性を同時に持っていたのである。

 小泉が批判したのは、こうした仕組みのうち、既存の利益関係や党内の力学によって政策変更が妨げられる部分だった。特に郵政民営化をめぐっては、郵政事業と関係の深い政治家や支持組織の影響力を問題視し、党内の合意形成を優先して改革が進まない政治を変えようとした。ただし、小泉が従来の支持団体や地方組織をすべて否定したわけではなく、自民党の組織基盤を全面的に解体したわけでもない。この点を区別しなければ、「自民党をぶっ壊す」という言葉の意味を実際以上に大きく解釈することになる。

自民党の変化は小泉以前から始まっていた

 小泉政治を理解するうえで重要なのは、自民党の権力構造の変化を小泉一人の功績や責任として扱わないことである。日本政治では1990年代から制度改革が進んでおり、小泉が首相になる以前に、党内の権力関係や政策決定の仕組みはすでに変化し始めていた。

 特に大きな転換点となったのが、1994年の政治改革によって導入され、1996年の総選挙から実施された小選挙区比例代表並立制である。それ以前の中選挙区制では、一つの選挙区から複数の議員が選ばれるため、自民党の候補者同士が同じ選挙区で競争することも珍しくなかった。その結果、候補者は自民党という政党の支持だけでなく、派閥、後援会、業界団体などを通じて自分自身の支持基盤を形成する必要があり、派閥が選挙資金や政治活動を支えることには大きな意味があった。

 これに対して小選挙区制では、基本的に一つの選挙区で一人の議員しか当選できないため、党がどの候補者を公認するかという判断の重要性が高くなる。候補者個人の支持組織が不要になるわけではないが、政党本部や党執行部の公認権が以前より強い政治的意味を持つようになり、政治資金制度の改革や政党交付金の導入も、政党本部の役割を拡大する方向に作用した。

 さらに、1990年代から進められた行政改革によって、首相官邸を中心とした政策調整の仕組みも変化した。2001年1月の中央省庁再編では内閣府が設置され、経済財政諮問会議などを通じて、首相が経済財政政策の基本方針に関与する制度的な基盤が整備された。これらは小泉政権が発足する前に準備された改革であり、小泉は既存の制度を積極的に活用して、首相主導の政策運営を目に見える形にしたのである。

 したがって、自民党における派閥の影響力低下や党執行部の権限拡大は、小泉政権だけによって生じた現象ではない。小泉の特徴は、すでに進行していた制度的な変化を政治的な指導力と結びつけ、党内の反対勢力との対立を通じて、その効果を強く表面化させたことにあった。

2001年総裁選で現れた新しい権力の作り方

 小泉の政治手法は、2001年の自民党総裁選ですでに現れていた。当時の自民党では派閥による国会議員票の取りまとめが総裁選を左右してきたが、小泉は地方の党員から強い支持を獲得し、その結果が国会議員の投票行動にも影響を与えた。総裁選の結果、小泉は地方票と国会議員票を合わせて298票を獲得し、橋本龍太郎らを破って総裁に選出された。

 この選挙で特徴的だったのは、小泉が党内の派閥だけでなく、自民党員や一般の有権者にまで改革を訴え、その支持を党内政治へ持ち込んだことである。もちろん、制度上は国民が自民党総裁や内閣総理大臣を直接選ぶわけではない。しかし、世論調査や報道によって小泉への支持が広く可視化されれば、党内の政治家にとっても、その支持を無視することが難しくなる。

 従来型の自民党政治では、総理大臣であっても派閥の有力者や党内の調整機関との関係を重視しなければならなかったが、小泉は国民の支持を政治的な資源として利用し、党内の力関係を変えようとした。この方法は、世論が政策決定を後押しする可能性を広げる一方で、党首の人気が低下すれば指導力も弱くなるという特徴を持っている。小泉時代に強まった党首中心の政治には、発足当初からそのような強さと不安定さが同居していたのである。

郵政民営化を政策対立から政治的対立へ変えた

 2005年、小泉政権最大の政治的争点となったのが郵政民営化だった。郵政事業は郵便、郵便貯金、簡易生命保険という異なる性格の事業を含み、全国に広がる郵便局網を維持しながら、金融事業や郵便事業の経営形態をどのように変更するかという複雑な問題を抱えていた。民営化によって経営の効率性や競争条件を改善できるという主張がある一方で、採算性の低い地域におけるサービス維持や金融機能への影響を懸念する意見もあり、政策上の賛否を単純な改革派と反改革派に分けることはできなかった。

 しかし、小泉は郵政民営化を一つの政策課題として扱うだけでなく、自民党政治そのものを変える象徴的な争点として位置づけた。郵政民営化法案に自民党内部から反対者が出ると、その対立を党内の政策調整だけで解決しようとはせず、改革を進める勢力と改革に抵抗する勢力の対立として国民へ訴えたのである。

 2005年8月8日、郵政民営化関連法案は参議院本会議で賛成108票、反対125票によって否決された。同日、小泉内閣は衆議院を解散したが、参議院で法案が否決されたからといって、制度上、自動的に衆議院が解散されるわけではない。衆議院の解散は内閣の助言と承認によって行われるものであり、小泉は参議院での否決を受けて、衆議院総選挙で郵政民営化に対する政治的な支持を問うという判断をしたのである。その解散のあり方については、当時から政治的にも憲法解釈上も議論があった。

 小泉は郵政民営化に反対した自民党議員の一部を公認せず、その選挙区に別の候補者を擁立した。後に「刺客候補」と呼ばれるようになった候補者たちである。これによって2005年の総選挙では、通常の与党と野党の対立に加えて、自民党総裁である小泉と自民党出身の反対派が競争するという特徴的な構図が形成された。

 この構図が持っていた重要な意味は、長期政権に対する不満の一部を、政権与党自身が取り込める可能性を作り出したことである。自民党の政治を変えたいと考える有権者が、必ずしも野党に投票する必要はなく、小泉を支持することによって自民党内部の改革を後押しできると受け止める余地が生まれた。政権を担当する自民党が、同時に既存政治と戦う改革勢力として振る舞うことができた点に、2005年の選挙の大きな特徴があった。

「小泉劇場」は選挙結果をどこまで左右したのか

 2005年の総選挙は「劇場型政治」と呼ばれ、テレビを中心とした報道でも大きく取り上げられた。郵政民営化という複雑な政策問題は、「改革する小泉」と「改革に抵抗する勢力」という分かりやすい対立として伝えられ、反対派の選挙区に新しい候補者が登場する展開は、ニュースとしても扱いやすかった。小泉自身も長い制度説明より短く印象に残る言葉を用いることに長けており、政治的な対立を有権者が理解しやすい形へ置き換える能力を持っていた。

 ただし、テレビ報道が小泉を勝たせたと断定することには慎重であるべきだ。メディアを通じて小泉に接する機会が多かった人ほど小泉を支持していたとしても、その人たちが報道によって支持するようになったのか、もともと小泉を支持していたために関連番組を積極的に視聴したのかは、単純な調査だけでは区別できない。これは統計学でいう因果関係と相関関係の問題であり、報道への接触と投票行動の間に関連性が確認されても、報道そのものが票を増やしたことの直接的な証明にはならない。

 また、刺客候補の擁立についても、その政治的な象徴性と実際の得票効果は分けて考える必要がある。個々の候補者がどれほど票を増やしたのかについては、対立候補の顔ぶれ、地域の支持組織、選挙区の事情などを考慮しなければならず、刺客候補を擁立したから全国的な大勝が生まれたと単純化することはできない。

 それでも、2005年の選挙で小泉が全国共通の争点を形成し、党首の人気と選挙戦略を結びつけることに成功したという評価には、十分な合理性がある。重要なのは、テレビ報道、候補者擁立、郵政民営化への賛否、小泉個人への評価などが同時に作用していたと考えることであり、単一の要因だけで選挙結果を説明しないことである。

296議席という大勝を数字から検証する

 2005年の自民党の獲得議席は296議席で、2003年総選挙の237議席から59議席増加した。ただし、2005年の解散直前には離党などによって自民党所属議員が212人となっていたため、解散直前との比較では84議席の増加となる。2003年の選挙結果と比較するのか、2005年の解散時点と比較するのかによって増加数は異なり、二つの数字を混同してはいけない。

 議席数以上に重要なのは、実際の得票率である。2003年総選挙における自民党の小選挙区得票率は43.85%、比例代表得票率は34.96%だったが、2005年にはそれぞれ47.77%、38.18%へ上昇した。小選挙区では3.92ポイント、比例代表では3.22ポイントの上昇であり、自民党に投票した有権者の割合が実際に増えたことは確認できる。

 比例代表の得票数も、2003年の約2066万票から2005年には約2589万票へ増加した。増加率は約25%に達するため、2005年の大勝を単に選挙制度だけの結果とみなすことはできない。ただし、この期間には小選挙区の投票率も約59.9%から約67.5%へ上昇しており、自民党の得票増には、それまで投票しなかった有権者の参加、他党支持者の投票先変更、支持層の投票行動の変化など、複数の要因が関係していた可能性がある。

 その一方で、2005年の自民党は小選挙区で47.77%の得票率だったにもかかわらず、300議席中219議席を獲得している。小選挙区全体の73%に当たり、得票率と議席占有率の間には25ポイント以上の差が生じていた。これは、小選挙区制では各選挙区で最多得票を獲得した候補者が当選するため、全国得票率が過半数に達しなくても、選挙区ごとの競争状況によって多数の議席を獲得できることを示している。

 ただし、この差をすべて選挙制度の効果として独立に計算できるわけではない。どの政党がどの選挙区に候補者を立てたのか、他党の票がどの程度分散したのか、公明党との選挙協力がどのように機能したのかといった条件によって、得票率と議席数の関係は変わる。小泉の政治的な訴求力と、選挙制度が持つ議席増幅の仕組みを区別しながら、その両方が2005年の大勝に関係したと評価するのが妥当だろう。

圧勝によって強まった党内統率力と政策決定力

 2005年の総選挙は、自民党に大量の議席をもたらしただけでなく、小泉の党内での政治的な立場を強める結果にもなった。郵政民営化をめぐる党内対立を選挙の争点とし、その選挙で大勝したことで、小泉は改革を進めることへの強い政治的な正統性を得たのである。郵政民営化に反対していた議員の一部は党を離れ、選挙で落選した議員もおり、従来の党内勢力の関係も変化した。

 また、2005年の総選挙では自民党と公明党の合計議席が327となり、衆議院定数480の3分の2に当たる320議席を上回った。日本国憲法第59条では、参議院が否決した法律案について、衆議院が出席議員の3分の2以上の多数で再可決すれば法律となる仕組みが定められているため、与党が衆議院でこの議席規模を確保したことには、二院制の下で政策を進めるうえでも重要な意味があった。

 実際には、郵政民営化関連法案は総選挙後に改めて国会へ提出され、2005年10月14日には参議院でも賛成134票、反対100票によって可決、成立した。衆議院の再可決によって成立したわけではないが、選挙の圧勝によって政治的な力関係が変化し、以前には成立しなかった法案が成立したという事実は、小泉が選挙結果を政策決定力へ転換したことを示している。

 ただし、ここでも政治的な指導力の強化と政策の質を同一視すべきではない。首相が党内の反対を押し切って政策を進められることは、意思決定の迅速化や政策の一貫性につながる可能性がある一方、異なる意見を十分に検討しないまま決定する危険も生む。郵政民営化が長期的にどの程度の経済的利益をもたらしたかという政策評価と、小泉がそれを実現する政治的能力を持っていたかという政治過程の評価は、分けて考える必要があるのである。

小泉は自民党の何を強くしたのか

 ここまでの経過から、小泉時代に強まった自民党の能力を整理することができる。第一に、総裁が全国共通の争点を設定して有権者へ訴える能力であり、第二に、党の公認権を利用して候補者や議員を統率する能力、第三に、選挙で得た支持を政策決定の政治的な力へ転換する能力である。さらに、党首の人気によって無党派層を含む幅広い有権者へ訴え、従来の支持基盤だけでは得られなかった票を獲得する可能性も示した。

 それまでの自民党が、地域の後援会、業界団体、派閥、地方議員などの支持を積み重ねることによって全国的な選挙力を形成していたとすれば、小泉時代には、その上に総裁を中心とした全国的な選挙戦略が強く加わったと考えられる。自民党が地域ごとに支持を積み上げる政党であると同時に、党首の人気や全国的な争点によって有権者を動かす政党としての性格を強めたのである。

 しかし、この変化によって地方組織や業界団体の影響力が全面的に失われたと判断することはできない。実際、選挙区における候補者個人の後援会や地方議員との関係は、その後も重要な役割を果たしており、全国的な党首人気だけで各地域の選挙活動が成立するわけではなかった。公明党との選挙協力も、小選挙区での議席獲得を支える重要な条件であり、小泉時代の自民党の強さを党首個人の人気だけで説明することには限界がある。

 また、派閥の影響力が弱まったことと、政党内部の意見調整能力が低下したことも、同じ現象ではない。派閥が担ってきた人事や資金配分の役割が変化しても、党の政策部会、国会議員間の調整、地方組織との協議など、別の経路で意見調整が行われる可能性がある。小泉が従来の党内秩序に大きな影響を与えたことは確かだが、それが自民党全体の調整能力をどの程度、どれほど長期間にわたって弱めたのかについては、個別の政策決定過程や組織活動を検証しなければ結論を出せない。

 つまり、小泉は自民党の選挙上の能力と総裁の統率力を強めた一方、従来型の支持組織や党内調整の仕組みをすべて解体したわけではない。ここで生じたのは、古い組織力が完全に新しい組織力へ置き換わったという単純な変化ではなく、既存の支持基盤の上に党首中心の政治手法が強く重なったという変化だったと考える方が実態に近い。

「抵抗勢力」を排除する政治が抱えていた問題

 小泉政治の特徴の一つは、複雑な政策対立を「改革する側」と「改革に抵抗する側」という分かりやすい構図に整理したことだった。この方法は、政策の争点を明確にして有権者の関心を集め、従来の党内調整では進みにくかった改革を実現するうえで有効に働く場合がある。しかし、現実の政策には、単純な賛成と反対の二つだけでは整理できない問題が多く、改革の目的には賛成でも制度設計や実施方法には反対するという立場も当然あり得る。

 例えば郵政民営化についても、経営の効率化には賛成しながら、地方の郵便局網や金融サービスへの影響を懸念する立場が考えられる。そのような政策上の異論まで改革への抵抗として扱えば、政治的な対立は明確になる反面、制度の問題点を修正するための議論が難しくなる可能性がある。

 企業経営に置き換えれば、意思決定に時間がかかる組織に強力な経営者が現れ、既存の調整手続きを短縮することによって改革を進める状況に近い。決定速度が上がり、短期的な業績が改善したとしても、その経営者が去った後に同じ成果を維持できるかどうかは別問題であり、組織内部で情報を集約し、異なる立場を調整しながら意思決定する能力が失われていれば、長期的な安定性が低下する可能性もある。

 もっとも、ここから小泉政治が自民党の調整能力を実際に低下させたと断定することも適切ではない。確認できるのは、小泉が郵政民営化をめぐって従来の党内調整よりも選挙による政治的決着を優先したことと、その方法によって大きな政治的成果を得たことである。こうした手法が政党の内部制度にどの程度定着したかという問題は、小泉退任後の経過まで含めて判断しなければならない。

2006年の郵政造反組復党は何を意味したのか

 小泉が2006年9月に首相を退任すると、自民党内部では早くも郵政民営化をめぐる党内対立の処理が問題となった。同年12月4日、安倍晋三政権下の自民党は、郵政民営化に反対して離党した無所属衆議院議員11人の復党を正式に認めた。2005年の選挙では改革への抵抗勢力として扱われた政治家たちが、その翌年には再び自民党へ戻ることになったのである。

 この出来事は、小泉の改革によって旧来の自民党政治が完全に解体されたわけではなかったことを示している。小泉は郵政民営化への賛否を党内の重要な対立軸とし、反対派を公認しないという強い手法によって党内の力関係を変えたが、その判断が後継政権にも恒久的に維持されたわけではなかった。小泉の政治手法によって一時的に弱まった勢力の一部が、その後に再び党内へ組み込まれたという事実は、組織改革の持続性を考えるうえで重要である。

 ただし、この復党を単純に改革の失敗と評価することもできない。政党には選挙で勝つだけでなく、多様な政治家や支持者を内部に取り込むことで勢力を維持する機能もあるため、復党は失われた党内の統合機能を回復しようとする判断だったとも解釈できる。その一方で、前年の選挙で郵政民営化への賛否を明確に問うたこととの整合性が問題になり、党の方針や政治家の行動に対する有権者の信頼を損なう危険もあった。

 したがって、小泉によって生じた変化は、すべてが不可逆的なものだったわけではない。首相の指導力によって既存秩序を変えることと、その変化を政党の制度として定着させることは別であり、2006年の復党問題は、その違いを具体的に示す出来事だったのである。

2007年参議院選挙で見え始めた自民党の弱さ

 小泉退任後の自民党を考えるうえでは、2009年の衆議院選挙だけでなく、その2年前に行われた2007年の参議院選挙も重要である。2007年7月の参議院選挙では、自民党が改選37議席にとどまり、民主党が参議院の第一党となった。衆議院と参議院で多数派の構成が異なる、いわゆる「ねじれ国会」が生じたことで、政府・与党の政策運営は難しくなった。

 この選挙では、消えた年金記録問題、閣僚の政治資金問題、政府への不信などが大きな争点となり、郵政造反組の復党をめぐる批判も自民党の政治姿勢に対する評価へ影響したと考えられる。2005年には小泉自身が改革の象徴となることで政権与党への批判をかわしていたが、後継政権では同じ構図を再現することが難しくなり、政権に対する不満が直接与党への批判として表れやすくなった。

 ただし、ここでも2007年の敗北を小泉退任の結果だけで説明することはできない。年金記録問題や閣僚の不祥事、個別政策への評価など、それぞれ独立した政治的要因が存在していたからである。小泉のような人気の高い指導者がいなくなったことが政権にとって不利に働いた可能性はあるが、それをどの程度の得票減少につなげて評価できるかについては、慎重な検証が必要となる。

2009年の敗北は小泉改革の失敗だったのか

 2009年8月の衆議院総選挙で、自民党は119議席まで減少し、民主党が308議席を獲得して政権交代が実現した。2005年には296議席を獲得した自民党が、わずか4年後には177議席を失ったことになるため、小泉時代に形成された選挙上の強さが長期的な安定につながらなかったことは明らかである。

 しかし、この敗北を小泉改革の直接的な結果と考えるのは適切ではない。小泉退任後には安倍晋三、福田康夫、麻生太郎と短期間で首相が交代し、2007年の参議院選挙敗北による政治運営の困難に加えて、2008年の世界金融危機による経済環境の悪化も重なった。民主党に対して政権交代を期待する有権者が増えたことも重要であり、2009年の選挙は自民党の支持低下だけでなく、野党側の支持拡大によっても説明されなければならない。

 実際の得票率を見ると、2005年に47.77%だった自民党の小選挙区得票率は、2009年には38.68%へ低下しており、その差は9.09ポイントに達している。比例代表得票率も38.18%から26.73%へ11.45ポイント低下しているため、議席の激減が選挙制度による増幅効果だけで生じたわけではなく、自民党に対する実際の支持が相当程度失われていたことも確認できる。

 それでも、得票率の低下と議席数の減少が同じ割合になるわけではない。小選挙区制では多くの選挙区で僅差の勝敗が逆転すると、全国得票率の変化を上回る議席変動が生じることがあり、2005年に自民党へ有利に働いた制度的な特徴が、2009年には民主党に有利に働いたのである。

 したがって、2005年と2009年の大きな落差から読み取れるのは、小泉の改革によって自民党が弱体化したという単純な結論ではなく、小選挙区制の下では党首や政党への評価、相手政党の状況、選挙協力などによって議席数が大きく変動するということである。小泉はその制度の下で自民党を大勝させることに成功したが、その成功が後継政権の勝利まで保証するものではなかった。

2012年の議席回復が示す、もう一つの現実

 小泉時代の自民党の強さを長期的に考えるなら、2009年の敗北で分析を終えるべきではない。民主党政権下で行われた2012年12月の衆議院総選挙では、自民党が294議席を獲得して政権に復帰したが、このときの得票率を見ると、議席数から受ける印象とは異なる実態が浮かび上がる。

 2012年の自民党の小選挙区得票率は43.01%、比例代表得票率は27.62%だった。2009年の比例代表得票率26.73%と比較すると上昇幅はわずか0.89ポイントであり、比例代表の得票数に至っては約1881万票から約1662万票へ減少している。それにもかかわらず、自民党は2009年の119議席から2012年には294議席へと大幅に議席を増やしたのである。

 この結果は、選挙で大量の議席を獲得することと、有権者からの支持を同じ程度に拡大することが必ずしも一致しないことを示している。2012年には民主党への支持が大きく低下し、民主党以外の政党も複数に分かれて候補者を擁立したため、選挙区ごとの票の分布が自民党に有利に働いた。公明党との選挙協力も含めて考えれば、自民党の議席数は自民党自身の得票率だけで決まるわけではなく、野党の競争状況や候補者配置によっても大きく左右されることが分かる。

 2005年の296議席と2012年の294議席は、議席数だけを見ればほぼ同じ規模の勝利だったが、比例代表得票率は2005年の38.18%に対して2012年には27.62%であり、10ポイント以上の差が存在していた。この事実を踏まえると、2005年の大勝を小泉の個人的な人気だけに帰することも、2012年の大勝を小泉が作った新しい自民党の選挙手法が定着した証拠とみなすこともできない。

 むしろ、1990年代以降の選挙制度の下では、有権者の支持の分布と野党の競争状況が議席数に強く反映されるようになり、政党が大勝と大敗を繰り返す可能性が高まったと考えるべきだろう。ただし、それがかつての中選挙区制と比べてどの程度大きな変動なのかについては、選挙区構成や政党数などの違いを調整した比較分析が必要であり、議席数の推移だけで制度の影響を完全に証明できるわけではない。

小泉は「自民党の勝ち方」を作り替えたのか

 ここまで検討すると、小泉純一郎を「自民党を強くした総理」と単純に呼ぶことも、「自民党を壊した総理」と呼ぶことも、どちらも十分ではないことが分かる。小泉が目に見える成果を残したのは、1990年代から整備されてきた政治制度を利用して、党首の指導力を全国的な選挙戦略へ転換する方法を示したことだった。

 従来の自民党は、地域の後援会、業界団体、地方議員、派閥などを通じて支持を積み重ね、その総和によって全国選挙を戦ってきた。小泉時代には、こうした支持基盤が消えたわけではないが、それに加えて総裁が全国共通の争点を設定し、党の公認権を利用して候補者を統制し、メディアを通じて有権者へ訴えかける政治の重要性が高まった。政党として長い時間をかけて形成した地域組織の力と、党首個人の人気や全国的な政治課題によって支持を集める力が、選挙において組み合わされるようになったのである。

 もっとも、この手法を小泉が一人で発明したと考えることはできない。選挙制度改革、政治資金制度改革、中央省庁再編、報道環境の変化など、小泉以前から存在していた条件が重要な役割を果たしていたためである。小泉の政治的な特徴は、それらの制度的条件を効果的に利用し、特に2005年の郵政解散において、自民党内部の対立を全国的な選挙の争点へ転換したところにあった。

 この方法には強さと弱さが同居している。党首が高い支持を集め、全国的な争点設定に成功すれば、従来の支持組織を超えて多数の票を獲得できる可能性があるが、党首の評価が低下した場合や野党側が有利な争点を形成した場合には、同じ制度の下で大きく議席を失う危険もある。特定の政治家の人気や指導力を利用して選挙に勝つことと、その政治家が退いた後も政党として安定した支持を維持することは、必ずしも一致しないのである。

政党の強さは議席数だけでは測れない

 そもそも、政党の強さとは何を意味するのだろうか。選挙で多数の議席を獲得する能力、全国に安定した支持組織を維持する能力、優れた候補者を継続的に育成する能力、異なる意見を調整する能力、政策を立案して実行する能力など、複数の側面が存在している。

 これらは必ずしも同じ方向に変化するわけではない。党首の権限が強まれば意思決定を迅速化できる可能性がある一方で、党内の異論が反映されにくくなる場合もある。地方組織や支持団体との関係を重視すれば安定した選挙基盤を維持しやすくなる反面、既存の利益関係に配慮することで政策変更が難しくなる場合もある。全国的な人気によって無党派層を獲得することは短期的な大勝につながり得るが、その支持が長期間維持されるとは限らない。

 したがって、小泉政治の評価には、何を政党の強さと考えるかという基準が欠かせない。2005年の選挙で小泉が自民党の議席獲得力と総裁の統率力を大きく高めたことには明確な根拠があるが、地方組織の継続性、党内の政策調整機能、後継指導者の育成能力まで同時に改善されたと確認できるわけではない。

 また、小泉によって自民党の従来型の政治構造がどの程度変化したのかについても、短期的な政治的成果と長期的な組織変化を区別する必要がある。2006年の郵政造反組復党は、2005年の選挙で形成された党内秩序が一部修正されたことを示しており、2009年の敗北と2012年の議席回復は、選挙制度や対立政党の状況が議席数に大きく作用することを示している。これらの出来事を合わせて考えると、小泉の残した変化は、自民党の従来型組織を全面的に解体したものではなく、既存の政治構造の上に党首中心の選挙と政策運営を強く押し出したものだったと理解できる。

「自民党をぶっ壊す」という言葉は実現したのか

 小泉純一郎の政治を振り返ると、「自民党を変える。変わらなければぶっ壊す」という言葉は、単なる選挙向けの刺激的な標語だったとは言い切れない。小泉は自民党を離れて別の政党を作るのではなく、自民党の中に残り、自民党総裁として党内の既存秩序を攻撃し、その対立を通じて自民党への支持を集めた。長期政権への不満が野党の支持拡大につながるとは限らず、政権与党自身が改革を掲げることで、政治を変えたいと考える有権者の支持を取り込めることを示したのである。

 しかし、小泉が従来の自民党政治を完全に壊したと考えるのは、歴史的事実を単純化しすぎている。派閥や後援会、業界団体、地方議員のネットワークはその後も存在し、郵政民営化をめぐる党内対立の一部も後継政権によって修正された。自民党が長く維持してきた利益調整型の政治は、小泉時代に強い圧力を受けたものの、その機能が全面的に失われたわけではなかった。

 一方で、小泉が何も変えなかったという評価も成り立たない。全国的な世論を背景に党内の反対勢力を抑え、党の公認権を利用して候補者を統制し、総選挙での勝利を政策実現の政治的な力へ転換したことは、従来型の自民党政治とは異なる指導力を示していた。2005年の選挙は、小泉個人の人気や政治手法に加え、それ以前から進んでいた制度改革が一体となって大きな政治的成果を生んだ事例だったといえる。

 結局、小泉が自民党を強くしたのか、それとも弱くしたのかという問いには、一つの答えだけを与えることは難しい。選挙で議席を獲得する能力や総裁の指導力という基準では、小泉が自民党を強くしたという評価には根拠がある。しかし、従来型の党内調整機能や地方の支持基盤がどの程度変化し、その変化が長期的な政党運営にどのような影響を与えたのかについては、2005年の選挙結果だけから判断することはできない。

 より実態に近いのは、小泉純一郎が、1990年代から進行していた政治制度改革を背景に、自民党の選挙戦略と党内の権力関係を大きく変化させた総理だったと考えることである。従来の派閥や利益団体を中心とする政治を批判しながら、党首の人気、全国共通の争点、党の公認権を組み合わせることによって、自民党に新しい選挙上の強さをもたらした。ただし、それは従来の組織力を完全に置き換えたものではなく、後継政権でも同じ効果が維持されることを保証するものでもなかった。

 「自民党をぶっ壊す」という言葉を、自民党という政党の消滅や従来の政治構造の全面的な解体と理解するなら、小泉の宣言がそのまま実現したとはいえない。しかし、自民党総裁が党内の反対勢力と対決し、全国的な世論を利用して党の力関係を変えるという政治手法に注目するなら、小泉が自民党政治の一部を大きく変えたことも否定できない。

 小泉純一郎は、自民党を壊して弱くした総理でも、従来の自民党を守って強くした総理でもなかった。既存の政治制度と組織基盤を利用しながら、その内部に新しい権力の集中と選挙での勝ち方を持ち込んだ総理だったのである。

 そして、その政治手法がもたらした最大の教訓は、強い指導者の下で選挙に圧勝することと、政党が長期的に強くなることは同じではないという点にある。小泉が示した新しい勝ち方は、自民党に大きな成功をもたらしたが、その成功を政党の持続的な強さへ転換するには、党首の人気だけではなく、地域の支持基盤、党内の意見調整、政策実行能力、後継指導者の育成など、別の条件が必要だった。

 小泉政治の歴史的な意味は、自民党を強くしたか弱くしたかという単純な結論よりも、政党が持つ複数の強さを際立たせ、それらが必ずしも両立しないことを明らかにした点にあったと考えられる。

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 2001年の日本政治を振り返ると、首相でも政党の代表でもない一人の政治家が、政権全体の印象を左右するほどの存在感を持っていたことに気づく。田中真紀子、正確には田中眞紀子である。田中角栄元首相の長女として政界入りした彼女は、独特の言葉遣いと歯に衣着せぬ発言によって全国的な注目を集め、2001年の小泉純一郎内閣発足時には、日本で初めての女性外務大臣に就任した。

 田中はテレビに登場するたびに話題となり、政治家や官僚を評する短い言葉が新聞や週刊誌の見出しになった。複雑な政策を詳しく説明する政治家とは異なり、永田町の人間関係や政治の矛盾を一言で表現する姿は、当時の政治に不満を抱いていた人々の共感を呼んだ。政治家としての実績だけを見れば、その存在感の大きさは説明しきれない。

 ところが、その政治的な絶頂は長く続かなかった。2001年4月に外務大臣へ就任した田中は、翌2002年1月29日に小泉首相によって更迭され、同年8月には衆議院議員を辞職した。わずか一年余りの間に、政権の改革イメージを象徴する人物の一人から、政権の中枢を離れた政治家へと立場が大きく変化したのである。

 ただし、田中の政治人生を2002年の失脚だけで説明するのは正確ではない。2003年には無所属で衆議院議員に返り咲き、2005年と2009年の選挙でも当選した。2009年には民主党に入り、2012年には野田佳彦内閣で文部科学大臣として再入閣している。つまり、2002年に全国政治の中心的な存在ではなくなったことと、その後の政治活動や地元での支持が失われたことは、同じ現象ではない。

 では、なぜ田中眞紀子はあれほどの注目と支持を集めたのだろうか。そして、なぜその人気を長期的な政治的影響力へ結び付けることが難しかったのだろうか。この問いを検討するには、本人の発言や行動だけでなく、父・田中角栄から受け継いだ政治的基盤、1990年代の社会状況、テレビによる政治報道、小泉政権の成立、行政組織との関係、さらには選挙制度と政党政治の変化まで視野に入れる必要がある。

「田中角栄の娘」だけでは説明できない人気

 田中眞紀子の政治的な出発点を考えるうえで、父・田中角栄の存在を避けることはできない。田中角栄は、戦後日本の高度経済成長と地方開発を象徴する政治家の一人であり、「日本列島改造論」を掲げ、道路、鉄道、公共事業などを通じて地方の経済基盤整備を進めようとした。その政治手法は、政策資源の配分と地域の後援組織を密接に結び付けるものでもあった。

 その長女である田中眞紀子が1993年の衆議院選挙で初当選したとき、全国的な知名度と地域の政治的な基盤を最初から持っていたことは明らかだった。新潟県における父親以来の人的関係や後援組織も、初当選とその後の政治活動を理解するうえで重要な条件だったと考えられる。ただし、父親の知名度や選挙基盤が、どの程度まで本人の得票や全国的な人気に寄与したのかを数量的に特定することは難しい。

 さらに重要なのは、父と娘が大衆との関係を築いた方法の違いである。田中角栄の政治では、地方への政策資源の配分や個別の利益調整が支持形成の重要な要素になっていたのに対し、田中眞紀子が全国的な知名度を高めた際には、発言の分かりやすさや既成政治への批判が大きな役割を果たした。政策的な利益を直接示すというより、政治に対して人々が抱いていた不満や違和感を、印象に残る言葉で表現する政治家として注目されたのである。

 その特徴を象徴するのが、1998年の自由民主党総裁選挙をめぐる「凡人・軍人・変人」という表現だった。田中は小渕恵三を「凡人」、梶山静六を「軍人」、小泉純一郎を「変人」と評し、三人の政治家の人物像を極めて短い言葉で印象付けた。これらの表現は政策の内容を説明するものではなかったが、派閥や党内人事の複雑な事情を知らない人にも理解しやすく、政治家の特徴を一瞬で伝える効果を持っていた。

 こうした言葉が政治家の実像を正確に示していたかどうかは、別の問題である。しかし、複雑な政治状況を人々が理解しやすい人物像へ置き換える表現力が、田中の全国的な存在感を高める一つの要素になっていたことは、当時の報道状況から読み取ることができる。

1990年代の政治不信が生んだ社会的な需要

 田中人気を本人の話術だけで説明することはできない。彼女が全国的な注目を集めた背景には、1990年代から2000年代初頭にかけての日本社会の変化があった。

 1990年代の日本では、バブル経済の崩壊後に経済停滞が長期化し、金融機関の経営問題や企業の倒産、雇用環境の悪化などが社会的な不安を強めていた。政治面でも、1993年には自由民主党が一時的に政権を失い、その後は新党の結成、政党の再編、連立政権の組み替えが相次いだ。行政機関や金融機関をめぐる不祥事も表面化し、従来の政治や官僚機構に対する信頼を問い直す動きが広がっていた。

 こうした時代において、派閥の論理や官僚組織の慣行を批判する田中の発言は、既成政治への不満を抱く人々にとって理解しやすいものだったと考えられる。自民党の内部に所属しながら、自民党の古い政治文化を批判するという立場も、既存の政治体制を変えてほしいという期待と結び付きやすかった。

 ただし、「国民全体が田中の発言に共感していた」と断定することはできない。田中の強い表現を評価する人がいた一方で、政治的な対立を激化させたり、政策論議を人物批評に置き換えたりすることへの批判もあり得た。政治家に対する支持は、政策への期待、人物への好感、所属政党への支持など、異なる要素から構成されるためである。

 それでも、田中の人気を考える際に、社会の側に存在した政治不信という条件を無視することはできない。父親から継承した知名度、本人の発言力、既成政治への不満、政治報道の変化が同時に作用したことが、彼女への注目を高めた可能性がある。重要なのは、これらを単一の原因として扱うのではなく、互いに関係する複数の要因として理解することである。

テレビ政治と田中眞紀子の存在感

 田中の政治的な特徴を理解するうえで、テレビとの関係も重要である。テレビ報道では、長時間の政策説明よりも、短時間で意味が伝わり、視聴者の印象に残る発言が注目されやすい。田中の表情、声の抑揚、皮肉を交えた表現、相手の特徴を端的に示す言葉は、映像による政治報道と相性がよかった。

 その注目度は、雑誌報道の記録からも確認できる。大宅壮一文庫が公表した2001年の人名索引ランキングでは、田中眞紀子に関する記事索引が463件で第1位となり、小泉純一郎の334件を上回っていた。当時の首相よりも多くの雑誌記事で取り上げられていたという事実は、田中が一閣僚という枠を超え、全国的な報道の対象になっていたことを示している。

 ただし、この463件という数字を、そのまま国民の支持率や好感度と解釈することはできない。雑誌記事には肯定的なものだけでなく、批判や疑惑の追及も含まれるため、掲載件数はメディア上の注目度を表す指標であって、人物への支持を直接測定した数値ではない。田中の人気がどの程度高かったのか、どの時期に変化したのかを厳密に測るには、同じ質問と調査方法によって継続的に実施された人物別の世論調査が必要になる。

 また、メディア露出と人気の因果関係にも注意が必要である。田中が人気を集めたから報道が増えたのか、報道が増えたことで人気が高まったのか、あるいは両者が相互に影響し合ったのかは、掲載件数だけでは判別できない。

 それでも、田中の発言が政治報道の中で強い存在感を示していたことと、政策実行の成果とは別のものである。政治家の活動には、選挙で支持を得る能力、政治課題を説明する能力、政策を形成する能力、行政組織を管理する能力、他の政治家や関係機関と合意を形成する能力などが含まれる。これらは関連していても同一ではなく、優れた発信力がそのまま行政運営の成果につながるとは限らない。

2001年、小泉純一郎との政治的な結合

 2001年の自民党総裁選挙は、田中の政治的な存在感が最も強く発揮された局面の一つだった。森喜朗政権末期には自民党への批判が強まり、従来の党内派閥を中心とした政治運営を変えることが求められていた。そこへ小泉純一郎が、「自民党を変える」「自民党をぶっ壊す」という改革姿勢を掲げて登場した。

 田中はこの総裁選挙で小泉を積極的に支援した。小泉は党内の抵抗勢力との対立を政治的な争点として示し、田中もまた、既成政治の矛盾を分かりやすく批判する発言によって注目を集めていた。二人の政策思想が全面的に一致していたわけではないが、複雑な政治対立を分かりやすい言葉と構図で示すという点では、共通する特徴が見られた。

 小泉の総裁選勝利に田中の支援がどの程度寄与したのかを、正確に数量化することはできない。実際の結果には、小泉自身への期待、森政権への反発、地方党員の動向、国会議員の判断、派閥間の関係など、多数の要因が影響していた。田中の支援だけを小泉勝利の決定的な原因とする説明は、ほかの要因を過小評価することになる。

 それでも、田中の存在が小泉陣営の改革イメージを強め、報道上の注目を集める要素になっていたことは、当時の政治過程を理解するうえで重要である。小泉と田中の組み合わせは、従来の党内調整を重視する政治とは異なる印象を生み出し、政治の変化を期待する人々に訴えかける象徴的な存在となった。

 そして2001年4月26日、小泉内閣の発足とともに田中は外務大臣に就任する。政治の矛盾を指摘する立場から、国家の外交を担う行政組織を率いる立場へと移ったことは、その後の政治活動にとって重要な転機となった。

実は2001年が初めての閣僚経験ではなかった

 ここで見落としてはならないのが、田中には2001年以前にも閣僚経験があったという事実である。田中は1994年6月30日から1995年8月8日まで、村山富市内閣で科学技術庁長官を務めている。したがって、2001年の外務大臣就任を、初めて行政組織の責任者になった出来事として説明するのは正確ではない。

 科学技術庁長官と外務大臣では、所管する行政分野、組織の規模、国際関係への関与、政治的な注目度などが異なる。科学技術政策も専門的な知識と行政上の調整を必要とする分野だが、外務大臣には、外交交渉、外国政府との関係、国会対応、外務省内部の管理など、特有の責任が伴う。加えて2001年の外務省は、後に述べる不祥事や組織改革の問題を抱えていた。

 この違いを踏まえれば、1994年の閣僚経験があったにもかかわらず、2001年の外務大臣就任後に深刻な政治的対立が生じた理由を考える必要がある。単純に行政経験の不足だけで説明することも、本人の政治手法だけに原因を求めることも適切ではない。

 また、科学技術庁長官時代の政策実績や組織運営を十分に検証せずに、田中の行政運営能力全般について結論を下すことはできない。後の外務大臣時代と文部科学大臣時代の出来事は重要な検討材料になるものの、それだけで政治家としての一貫した能力や性格まで断定することには慎重であるべきだろう。

外務省改革を必要とした現実

 田中が外務大臣に就任した当時、外務省は組織改革を求められる状況にあった。機密費をめぐる不祥事などによって行政の適正さが問われ、国民への説明責任、内部管理、組織の透明性が重要な課題となっていた。したがって、田中が外務省改革を掲げたこと自体には、具体的な社会的背景が存在していた。

 さらに、当時問題となった鈴木宗男衆議院議員と外務省との関係についても、後に外務省の調査で不適切な実態が指摘された。2002年3月4日にまとめられた調査報告では、北方四島住民支援事業に関する入札参加資格の決定過程などで、鈴木氏と外務省関係部局との間に詳細なやり取りがあったことが明らかにされている。

 外務省はその後、鈴木氏と同省との関係について、社会通念に照らしてあってはならない異常な状態だったと総括し、行政の公平性や透明性に対する疑念を国民に抱かせたことを反省している。この事実を踏まえるなら、田中が外務省と特定の政治家との関係に問題意識を持ったことを、根拠のない思い込みとして処理するのは適切ではない。

 ただし、改革の必要性があったという事実と、田中が実際に行ったすべての判断や組織運営が適切だったかという問題は区別しなければならない。行政機関に不適切な慣行が存在していたとしても、それを改善するために行われる人事、指示、政策決定、対外交渉は、それぞれの制度的条件や実際の結果に基づいて評価される必要がある。

 行政組織の問題を指摘することと、その組織を使って政策を実施することは、異なる仕事である。大臣になれば、批判してきた官僚とも協議しなければならず、必要な情報を集め、職員の協力を得ながら、政策を具体的な手続や制度へと結び付けなければならない。対立を明確にする政治的な発信は問題提起として機能することがあっても、それだけで行政組織が改革されるわけではない。

 もっとも、行政組織との摩擦が大きかったという事実だけから、田中の改革姿勢が誤っていたと判断することもできない。既存組織を変えようとすれば、利益や慣行の変更に伴う反発が生じる場合もあるからである。必要なのは、改革の目的、具体的な手段、対立が起きた経緯、実施された政策とその結果を分けて検討することである。

非政府組織の参加問題では、何が確認されたのか

 外務大臣時代の対立が大きく表面化したのが、2002年1月に開催されたアフガニスタン復興支援国際会議をめぐる問題だった。非政府組織(Non-Governmental Organization・政府から独立して社会的課題に取り組む民間組織、略称NGO)の会議参加をめぐり、外務省の判断や鈴木宗男氏の関与について、田中外相と外務省事務方の説明に食い違いが生じた。

 田中は、鈴木氏の影響が会議参加の判断に及んでいた可能性を問題視した。一方、外務省側からは異なる説明が示され、国会審議でも当事者間の認識の相違が大きな争点となった。単なる大臣と官僚の意見対立にとどまらず、行政判断の透明性と、政府が国会に対して一貫した説明を行えるかという問題へ発展したのである。

 この問題を検証する際には、2002年2月8日に政府側が公表した非政府組織の参加問題に関する調査と、同年3月4日にまとめられた鈴木氏と外務省との関係に関する調査を分けて考える必要がある。前者はアフガニスタン復興支援会議への参加判断がどのように行われたかという個別の問題を扱い、後者は北方四島住民支援事業などにおける政治家と外務省との関係を対象としていた。

 政府は非政府組織の参加問題について、外務省の判断が特定の国会議員の主張に従って決定されたわけではないとの立場を示した。一方、鈴木氏の存在を外務省側が強く意識していたことも問題とされ、その後の調査では別の案件における不適切な関係が明らかになっている。したがって、後の外務省調査によって田中の問題意識に一定の根拠があったことと、アフガニスタン復興支援会議の個別の参加判断について田中の認識が全面的に裏付けられたことは、同じではない。

 政治家と官僚組織との関係に実際の問題があったとしても、その事実だけで、個々の行政判断の原因まで確定することはできない。逆に、田中の説明と事務方の説明に相違があったからといって、外務省側に存在していた制度的な問題まで消えるわけではない。外務大臣時代の評価が分かれやすい理由の一つは、こうした異なる問題が、一連の政治的対立としてまとめて語られやすいことにある。

2002年1月29日、更迭と内閣支持率の急落

 国会審議の混乱が続くなか、小泉首相は2002年1月29日深夜、田中外相を更迭した。政府は同年2月の国会答弁書で、非政府組織の参加問題をめぐって国会審議が紛糾したため、事態を打開し、国会審議を正常化する目的で田中に協力を求め、更迭に至ったと説明している。特定の一つの発言を処分理由としたのではないというのが、政府の公式な説明だった。

 もちろん、この公式説明だけで、更迭に至るすべての政治的な判断過程が解明されたことにはならない。外務省との対立、首相官邸と大臣との関係、国会審議への影響、政権運営の安定など、複数の条件を考慮して決定された可能性がある。ただし、当事者の政治的な動機を推定する場合には、政府の公式説明や国会記録で確認できる事実と、後年の政治的な解釈を分けて扱う必要がある。

 田中の更迭は、小泉政権の支持率が大きく変化した時期と重なった。時事通信社の世論調査によると、小泉内閣の支持率は2002年1月の67.8%から、2月には46.5%へ低下している。下落幅は21.3パーセントポイントであり、直前の支持率に対する相対的な低下率は約31.4%となる。これは、単なる小幅な支持率変動ではなく、政権に対する世論の評価が大きく変化したことを示す数値である。

 ただし、この21.3パーセントポイントを、すべて田中更迭による影響とみなすことはできない。支持率の変化と更迭の時期が重なっていても、それだけで因果関係が証明されるわけではないからである。当時の政権運営、外務省問題そのものへの不信、経済情勢、ほかの政治的な出来事も世論に影響した可能性があり、田中を更迭しなかった場合の内閣支持率を実際に観測することもできない。

 それでも、更迭と支持率の急落が同じ時期に生じたことは、小泉政権と田中の政治的な関係を考えるうえで重要な事実である。田中は単なる一閣僚としてではなく、政権の改革イメージと結び付いた人物として受け止められていた可能性がある。そのため、田中を政権から外したことが、一部の支持者にとって、小泉の改革姿勢を問い直す契機になったという解釈には、検討する価値がある。

 ただし、これは当時の世論の変化についての説明仮説であって、21.3パーセントポイントの下落の原因を数量的に特定した結論ではない。内閣支持率の変化だけで田中個人の人気を直接測ることもできず、二つの指標は区別して考える必要がある。

公設秘書給与問題と議員辞職

 田中の政治的な立場がさらに変化したのは、外務大臣の更迭から数カ月後だった。2002年には公設秘書給与をめぐる疑惑が政治問題化し、田中は衆議院政治倫理審査会で説明を求められた。自民党も田中に対して調査を行い、同年6月には2年間の党員資格停止処分を決定している。

 この党内処分については、秘書給与問題だけが理由だったと単純化しないことが重要である。当時の報道では、給与問題に関する党内調査への非協力を含め、党運営への協力を欠いたことなどが処分理由として挙げられている。田中は不正を否定していたが、疑惑をめぐる政治的な対立と党内処分によって活動の条件が大きく変化し、2002年8月9日に衆議院議員を辞職した。

 ただし、政治的な疑惑が生じたことと、刑事責任が立証されたことは同じではない。田中の公設秘書給与問題については、2003年9月30日、東京地方検察庁特別捜査部が「嫌疑なし」として不起訴処分にしたと報じられている。この経緯を踏まえれば、田中が秘書給与を不正に取得したことが刑事事件として立証されたかのように記述するのは不適切である。

 一方、刑事手続上の判断と、政党による処分や政治家の説明責任も、区別して考える必要がある。不起訴処分になったという事実だけから、当時の政治的な批判や党内処分のすべてが正しかった、あるいは誤っていたと結論付けることはできない。それぞれの判断は、異なる制度と基準に基づいて行われるからである。

 ここで注目したいのは、外務大臣の更迭、党員資格停止処分、議員辞職という三つの出来事が、2002年の短い期間に連続したことである。2001年春には政権の主要閣僚として全国的な注目を集めていた田中が、翌年夏には国会議員の地位も離れていた。この急速な地位の変化が、田中の政治的な影響力が突然失われたという印象を残したと考えられる。

 しかし、その後の選挙結果を見ると、政治的な地位の喪失と支持基盤の消滅を同一視することはできないことが分かる。

2003年の復帰が示した、全国的人気と地元支持の違い

 2003年11月の衆議院選挙で、田中は無所属として新潟5区から立候補し、9万8112票を獲得して当選した。得票率は約49.1%であり、外務大臣の更迭と議員辞職を経験した後も、地元選挙区では相当な支持を維持していたことが確認できる。

 その後も田中は、2005年の衆議院選挙で10万5484票、得票率約51.2%を獲得して当選し、2009年には10万3202票、得票率約49.1%で当選した。2003年から2009年までの三回の選挙では、得票数が約10万票前後、得票率も約49%から51%の範囲で推移していた。

 この事実は、2002年を境に田中への支持が一気に消滅したという説明とは一致しない。全国的な政治報道における存在感が以前ほど大きくなくなったとしても、地元選挙区では長期間にわたって議席を維持できるだけの支持が残っていたのである。

 ただし、得票の背景を単純に本人への個人的な支持だけで説明することもできない。そこには、田中角栄以来の後援基盤、田中本人への評価、対立候補の顔ぶれ、所属政党、当時の政権への支持や反発などが複合的に作用していた可能性がある。選挙の得票数や得票率は重要な実績指標だが、各要因の寄与度まで直接示すものではない。

 さらに、2000年の衆議院選挙では田中は13万7866票、得票率約68.6%を獲得している。その後の選挙と比較すると得票率には差があるが、選挙ごとに候補者数や対立構造が変化しているため、得票率の違いをそのまま個人人気の増減と解釈することもできない。

 ここから読み取れるのは、全国政治における影響力、報道上の注目度、地元選挙区での支持は、関連しながらも異なる指標だということである。田中の政治人生では、この三つが必ずしも同じ時期に変化していたわけではなかった。

民主党への参加と2012年の再入閣

 田中は2009年に民主党へ入党し、同年の衆議院選挙では民主党候補として当選した。田中角栄の長女として自民党政治の中から登場した人物が、後に自民党からの政権交代を目指す民主党へ加わったことは、平成期の政党再編を象徴する出来事の一つとして捉えることができる。

 2009年の衆議院選挙では民主党が308議席を獲得し、自民党からの政権交代が実現した。田中もこの新しい政治状況の中で国政活動を続け、2012年10月には野田佳彦首相の第3次改造内閣で文部科学大臣に就任した。2002年の外務大臣更迭から約10年を経て、再び中央政府の行政組織を率いる立場に戻ったのである。

 この再入閣は、田中が2002年に政治生命を完全に失ったわけではないことを示している。一方で、2001年当時のように、田中自身の存在が政権全体の改革イメージと強く結び付いていた状況とは異なっていた。所属政党も政権の政治的な課題も変化しており、同じ人物が閣僚へ就任しても、十年前と同じ政治的な意味を持つとは限らない。

 再入閣後に生じた大学設置認可問題は、田中の政策判断と行政制度との関係を改めて考える機会となった。

2012年の大学設置認可問題と制度上の争点

 2012年11月、田中文部科学大臣は大学の新設をめぐって大きな論争を引き起こした。対象となったのは、札幌保健医療大学、秋田公立美術大学、岡崎女子大学の三大学であり、いずれも大学設置・学校法人審議会が現行の審査基準に基づいて設置を認める答申を出していた。

 田中は11月2日の記者会見で、大学設置認可制度や審議会の在り方に課題があるとして、三大学の新設を認可できないとの方針を示した。この発言を受けて、大学側の開学準備や受験生への影響が問題となり、国会でも政府の判断をめぐって議論が行われた。

 制度面で重要なのは、文部科学大臣が大学の設置認可権限を持つ一方、その判断には学校教育法などの制度上の手続が関係していることである。大学設置・学校法人審議会は専門的な審査を行う機関であり、その答申が大臣の判断を無条件に拘束するものとまではいえない。しかし、現行の制度と基準に沿って準備を進めてきた申請者に対し、政策方針の変更をどのように適用するかという問題には、行政判断の一貫性や予測可能性が関係する。

 この問題については、もう一つ重要な区別がある。田中が11月2日に三大学を認可できないとの方針を表明したことと、正式な不認可処分が行われたことは同じではない。政府側は国会審議において、当該時点では正式な不認可処分は行われておらず、申請が継続している状態だったと説明している。

 その後、11月7日の衆議院文部科学委員会では、三大学の個別の設置認可と、大学設置認可制度全体の見直しを切り離して考える必要性が議論された。田中も現行制度に従って適切に対応する意向を示し、翌8日には審議会の答申に沿って三大学が認可された。

 田中が問題提起した背景には、18歳人口の減少が続く日本社会で、大学の数、教育の質、学生確保の見通しをどのように考えるかという政策課題があった。この問題は当時に限らず、高等教育政策において継続的に検討されるべき課題であり、大学設置制度の見直しそのものが不要だったわけではない。

 実際、この問題を受けて大学設置認可制度の在り方に関する検討が行われ、翌2013年には大学の質を高める観点から制度見直しの方向性がまとめられた。その後、学生確保の見通しに関する事項を審査基準へ加えるなどの対応も進められている。したがって、この出来事を単に方針変更による混乱だけで終わったものとして捉えると、その後の制度的な動きを見落とすことになる。

 一方で、制度全体を見直す必要性と、現行の審査手続を経た三大学の設置認可をどう扱うべきだったかは、別々に検討しなければならない。将来の制度変更を考えることと、現在の制度の下で申請している人々を公平に扱うことの両立が、行政上の重要な論点となるためである。

 この出来事には、2001年から2002年の外務省問題との共通性を見いだすこともできる。いずれも、既存の行政制度に問題を提起する発言が注目される一方、実際の行政手続や組織運営との間で摩擦が生じた事例だからである。ただし、二つの事例だけから、田中に恒常的な行政運営能力の問題があったと一般化することはできない。行政分野、関係者、政治環境、制度上の条件が異なるため、共通性は検討すべき仮説として扱うのが適切である。

2012年の落選は何を意味するのか

 2012年12月16日の衆議院選挙で、田中は新潟5区から民主党候補として立候補したが、落選した。自民党の長島忠美が8万0488票を獲得したのに対し、田中の得票は5万1503票で、票差は2万8985票だった。田中の得票率は約29.3%であり、長島の約45.7%を大きく下回った。

 田中の得票は、2009年の10万3202票から2012年には5万1503票へと減少した。減少数は5万1699票であり、得票率も約49.1%から約29.3%へ、約19.8パーセントポイント低下している。2003年、2005年、2009年に約10万票を維持していたことと比較すると、2012年の選挙結果には明確な変化が見られる。

 ただし、この落選を田中個人への評価だけで説明することはできない。2012年の衆議院選挙は、民主党政権全体が厳しい評価を受けた選挙でもあり、民主党の議席数は2009年の308議席から57議席へと大幅に減少した。政党支持の変化が個々の選挙区の結果に影響していた可能性を考慮する必要がある。

 さらに、新潟5区の投票率は2009年の75.52%から2012年の63.75%へ低下しており、候補者の構成も変わっている。2012年には日本維新の会から米山隆一が立候補し、3万5720票を獲得していた。したがって、田中の得票減少には、民主党への評価、田中個人への評価、投票行動の変化、候補者間の票の配分など、複数の要因が関係していたと考えられる。

 選挙結果を分析する際には、得票数の増減をそのまま個人人気の変化とみなすのではなく、投票率や有効投票数、所属政党、対立候補の構成を考慮しなければならない。特に、2009年から2012年のように全国的な政権交代の流れが大きく変化した時期には、個人に対する支持と政党に対する支持を切り分けることが難しい。

 それでも、2012年の落選は、田中が国会議席を失ったという明確な政治的転機だった。2002年に政権中枢から離れた後も国会議員としての活動を続けていた田中は、この選挙を境に国会議席を失い、2026年10月現在まで国政への復帰は果たしていない。

 つまり、田中の政治人生には少なくとも二つの異なる転機が存在する。2002年は小泉政権の中枢から離れた時期であり、2012年は長く維持してきた衆議院議員の地位を失った時期だった。この二つを区別することによって、全国的な政治的影響力の変化と、選挙区における支持の変化を、より正確に理解することができる。

田中人気を長期的な政治的影響力へ変えることは、なぜ難しかったのか

 ここまでの経緯を見ると、田中の政治的な浮沈を一つの原因で説明することには無理がある。人気が高まった背景にも、全国政治の中心から離れた背景にも、複数の要因が関係していたからである。

 人気形成については、田中角栄から受け継いだ政治的な資産、田中本人の発言力、1990年代の政治不信、テレビを中心とした報道との相性、2001年の小泉純一郎との政治的な協力関係などが考えられる。これらの要因は独立していたとは限らず、相互に影響し合った可能性もある。例えば、本人の発言力によって報道が増え、報道が増えることで知名度が高まり、知名度の上昇がさらに発言への注目を集めるという循環も考えられる。

 一方、2002年以降の政治的な影響力の変化には、外務省との対立、国会審議の混乱、外務大臣の更迭、秘書給与問題をめぐる政治的な打撃、自民党との関係悪化、政党移動、民主党政権への評価、2012年の大学設置認可問題などが関係していた。これらはそれぞれ異なる時期の出来事であり、すべてを一つの失脚原因へまとめることは適切ではない。

 政治学的には、田中の経歴を、人気を獲得する過程と、人気を政策実現や組織的な影響力へ結び付ける過程の違いから考えることができる。政治的な人気は、選挙での支持、報道上の注目、世論への影響を通じて活動の機会を広げることがある。しかし、政権内で政策を実現するためには、政府内部での権限、党内での協力関係、官僚組織との連携、関係者との合意形成、法律や予算の成立といった、別の条件も必要になる。

 この意味で、発信力と政策実現の仕組みは区別して考える必要がある。政治家が国民の不満を分かりやすく表現できたとしても、その不満を解決するには、制度的な手続を進め、他の政治主体の協力を得ることが求められる。田中の政治人生は、政治的な発信によって注目を集めることと、政権内部で継続的に政策を形成することが異なる過程であると考えるための事例になっている。

 ただし、この区別を田中個人の能力不足という結論へ直結させることはできない。政治家の政策実現には、本人の行動だけでなく、与えられた権限、所属政党の状況、首相との関係、行政組織の協力、議会の議席構成などが影響する。政策が実現しなかった場合に、本人の判断がどの程度影響したのかを見極めるには、個別の政策過程を具体的に検証する必要がある。

小泉純一郎との比較から見える、権限と制度の違い

 田中眞紀子と小泉純一郎を比較することは、2001年前後の政治を考えるうえで興味深い。二人とも既成政治への批判を明確にし、短い言葉で政治的な争点を示し、テレビなどを通じて全国的な注目を集めた。しかし、その後に担った役職と、政策を実現するために利用できる制度上の権限には、大きな違いがあった。

 小泉は内閣総理大臣として政権全体の運営を担い、郵政民営化という具体的な政策目標を掲げた。2005年8月8日には郵政民営化関連法案が参議院で賛成108票、反対125票により否決されたが、小泉は同日に衆議院を解散し、郵政民営化への賛否を総選挙の大きな争点とした。自民党は選挙で多数の議席を獲得し、同年10月14日には郵政民営化関連法案が成立した。

 この経緯は、政策目標を選挙や立法という制度的な過程に結び付けた具体的な事例である。ただし、郵政民営化の政策効果をどう評価するかは別問題であり、法律を成立させた事実だけで政策全体の成果を判断することはできない。

 また、小泉と田中の政治的な影響力の違いを、個人の資質だけで説明することも適切ではない。小泉は首相として内閣の人事や重要政策を主導し、党総裁として候補者公認などの党運営にも大きく関与する立場にあった。これに対して田中は、外務大臣や文部科学大臣として担当省の行政を所管していたものの、内閣全体の政策や衆議院解散を単独で決定する権限は持っていなかった。

 さらに、小泉は党内に一定の政治的基盤を持ち、首相としての立場を利用して政策実現を図ることができた一方、田中が閣僚として政策を進める場合には、首相や他の閣僚との調整が必要だった。したがって、両者の政治的な成果を比較する際には、役職上の権限差や組織的な条件を考慮しなければならない。

 そのうえで比較すると、小泉は自らの政治的な主張を、選挙による議席獲得と法律の成立に結び付けた具体的な事例を持つ。一方、田中については、発言や問題提起が全国的な注目を集めたことと、担当した政策がどのように制度変更へつながったかを、個別に検証する必要がある。単純に一方を政治的な実行力のある人物、他方を実行力のない人物として分類するのではなく、権限や政治環境の違いを含めて理解することが適切である。

田中眞紀子の政治現象を、どこまで科学的に説明できるのか

 田中の政治人生は、人気と政策実現の関係を考える事例として興味深いが、そこから一般的な法則を導くには慎重さが必要である。人気の形成、内閣支持率の変化、選挙での得票、政策の実施には、それぞれ異なる要因が作用するからである。

 例えば、2002年の小泉内閣支持率の急落を分析する場合、田中更迭の前後を比較するだけでは、ほかの政治的な出来事の影響を除くことができない。また、2003年から2012年の田中の得票率を比較する場合も、候補者構成、政党支持、投票率などが変化しているため、得票率の差をすべて本人に対する評価の変化とみなすことはできない。

 さらに、田中の発言力やメディア適応能力が際立っていたという評価についても、直接測定できる指標と、観察者による解釈を分けなければならない。雑誌記事の掲載件数は報道上の注目度を示す一方、政治家としての信頼や政策形成能力まで測定するものではない。個人人気の変化を実証するには、比較可能な世論調査、報道内容の分析、選挙結果など、複数の資料を組み合わせる必要がある。

 科学的な分析では、もっともらしい説明があることと、その説明が実際に原因として確認されたことは異なる。田中の政治的な変化についても、いくつかの事実が同じ時期に起きたというだけでは、一つの出来事が別の出来事を引き起こしたとは断定できない。

 したがって、田中の政治手法が行政組織との対立を生みやすかったという説明や、田中更迭が小泉政権への支持を低下させたという説明は、一定の根拠を持つ検討仮説として扱うべきである。実際の政策過程や世論の変化を詳しく検証することによって、その説明がどの程度支持されるかを判断する必要がある。

それでも田中眞紀子が平成政治の記憶に残る理由

 田中眞紀子は首相にはならず、外務大臣の在任期間も約9カ月だった。2012年には文部科学大臣として再び入閣したものの、その年の衆議院選挙で落選し、閣僚としての在任も短期間に終わった。政治家としての影響力を、役職の在任期間や法律の成立件数だけで測るなら、2001年当時の強い存在感との間には大きな違いがある。

 しかし、政治家の歴史的な意味は、制度改革や法律の成立だけで決まるものではない。世論にどのような問題を意識させたのか、政治報道のあり方にどのような影響を与えたのか、既存の政治に対する期待や不満をどのように表現したのかという観点も、政治史を理解するうえで重要になる。

 田中の発言が注目された背景には、派閥の都合で政治が決まっているのではないか、官僚組織は国民のために適切に機能しているのか、政治家はなぜ分かりにくい言葉で説明するのかという、当時の社会に存在していた疑問があったと考えられる。田中はこうした疑問を、政治家自身の言葉として表現し、人々に分かりやすく伝える人物として受け止められていた。

 その一方で、政治的な不満を表現することと、不満の原因となった制度を改善することは、同じ過程ではない。問題を解決するには、必要な法律や予算を検討し、行政組織の手続を整え、異なる利害や立場を持つ人々と調整し、実施後の効果を確認することが求められる。こうした作業は短い発言や印象的な場面として報道されにくいが、政治が現実の制度として機能するうえでは不可欠である。

 田中の政治人生が興味深いのは、こうした政治の二つの側面が、同じ人物の経歴の中で鮮明に表れていることである。政治への不満を分かりやすく表現する発信力によって強い注目を集めた一方、閣僚として行政制度の中で活動する際には、複雑な政治的対立や制度上の制約に直面した。さらに、政権中枢から離れた後も地元選挙区での支持を維持し、十年後には再び大臣となったという経緯は、単純な成功と失敗の物語では説明できない。

なぜ人気を集め、なぜ政治の中心から離れたのか

 田中眞紀子が2001年前後に大きな人気を集めた背景には、田中角栄から受け継いだ知名度と政治基盤、本人の印象的な発言、1990年代の政治不信、テレビを中心とした政治報道、そして小泉純一郎との政治的な協力関係があったと考えられる。これらの要因がどの程度影響したかを厳密に数量化することはできないものの、複数の条件が重なったことによって、田中が全国政治の中心的な存在として受け止められる状況が生まれた可能性がある。

 一方、政治の中心から離れた過程には、外務省との対立、非政府組織の参加問題をめぐる国会審議の混乱、2002年の更迭、秘書給与問題による政治的な影響、自民党との関係悪化などが関係していた。さらにその後、民主党への参加と2012年の再入閣を経て、大学設置認可問題や衆議院選挙での落選という別の転機を迎えた。これらは異なる時期の出来事であり、一つの原因によって一貫して説明できるものではない。

 特に重要なのは、全国的な政治的影響力が大きく変化した2002年と、地元選挙区の議席を失った2012年を区別することである。田中は2002年に政権の中枢から離れたが、その後も2003年、2005年、2009年の衆議院選挙で当選しており、政治的な支持を直ちに失ったわけではなかった。彼女の政治的な変化は、一度の失脚で終わるものではなく、全国政治での立場と地元での支持が異なる時間軸で変化した過程として理解する必要がある。

 また、田中の経歴から考えられるのは、政治的な人気と政策実現には異なる条件が必要だということである。ただし、政策を実現できるかどうかは本人の発信力や政治手法だけで決まるものではなく、制度上の権限、所属政党の支持、行政組織との関係、議会の構成などに左右される。田中と小泉の比較についても、こうした条件を考慮せず、単純な個人の能力差として結論付けることはできない。

 田中眞紀子という政治家を振り返るとき、重要なのは、なぜ彼女が突然人気を失ったのかという問いだけではない。なぜ一人の閣僚が政権全体の印象を左右するほどの存在になれたのか、なぜ政権の中枢から離れた後も地元での支持を維持できたのか、そして政治的な発信力を政策実現に結び付けるためには、どのような制度や組織的な条件が必要なのかという、より広い問いが浮かび上がってくる。

 田中眞紀子の政治人生は、政治家の人気が単なる個人の魅力だけで生まれるわけではなく、社会状況、報道環境、政党政治、行政制度との関係の中で形成され、変化していくことを考える材料となっている。2001年の強い注目、2002年の更迭と議員辞職、その後の選挙での復帰、2012年の再入閣と落選という一連の経過は、平成期の日本政治が抱えていた期待と矛盾を映し出している。

 政治家が人々の不満を言葉にすることは、政治の課題を社会に認識させる一つの役割を持つ。しかし、その課題を実際に解決するには、異なる意見を調整し、行政組織を動かし、制度を変更し、具体的な成果へ結び付ける過程が必要になる。田中眞紀子の歩みが今なお検討する価値を持つのは、政治への共感を生み出す力と、政治を制度として動かす仕組みとの間に、どのような関係があるのかを問いかけているからではないだろうか。

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