地域政経

九条レオンの地域から社会と政治・経済のこれからを考える

深く頭を下げれば、政治はリセットされるのか

 政治家の謝罪には、ほとんど決まった風景がある。記者たちの前に立ち、「国民の皆さまに多大なご迷惑をおかけしたことを、心よりお詫び申し上げます」と述べて深く頭を下げると、シャッターの音が一斉に響き、その姿がテレビや新聞、SNS(Social Networking Service・交流型ソーシャルメディア)を駆け巡る。しかし、それで騒動が終わることはめったになく、その日のうちに「本当に反省しているのか」「辞任しないのか」「謝れば済むと思っているのではないか」という別の問いが始まる。

 考えてみれば、これは少し奇妙である。私たちは政治家に「謝れ」と要求しながら、政治家が実際に謝罪すると、それだけでは納得しない。謝らなければ「なぜ謝らない」と批判し、謝れば今度は「謝って済む問題ではない」と批判するのだから、一見すると有権者の側が矛盾しているようにも見える。しかし、この矛盾こそが政治家の謝罪という行為の特殊さをよく表している。

 そもそも私たちは、政治家に何を求めて「謝れ」と言っているのだろう。反省してほしいのか、事実を認めてほしいのか、それとも職を辞するなど具体的な責任を取ってほしいのか。この三つはしばしば一緒に語られるが、本来は別の問題であり、ここを区別しなければ、「謝った政治家は潔い」「謝らない政治家は卑怯だ」という単純な人物評から先へ進むことができない。

普通の人間関係では、謝罪は壊れた関係を修復する

 日常生活では、謝罪は壊れた関係を修復するための重要な手段として機能する。自分に非があったことを認め、相手が受けた損害や不快感を理解し、可能ならば償い、同じことを繰り返さない意思を示すことで、相手は初めて「この人は何が問題だったのかを理解している」と判断できるからである。

 謝罪を扱った心理学や交渉研究でも、すべての謝罪が同じ効果を持つわけではないことが示されている。ロイ・ルウィッキらが謝罪を構成する要素を比較した研究では、単なる後悔の表明や事情説明だけでなく、自分の責任を認めることや、損なわれたものを修復しようとする姿勢が重要であり、とりわけ責任の承認は高く評価された。一方で、「どうか許してください」と許しを求めるだけでは、十分な信頼回復には結び付きにくかった。

 感覚的にも理解しやすい。誰かが大切な物を壊した後に、「嫌な思いをさせてしまったのなら申し訳ない」と言ったとしても、私たちはどこか釈然としない。問題は相手が嫌な気持ちになったことだけではなく、その人自身が物を壊したことにあるからであり、「あなたが不快になったこと」を謝るのと「私が壊したこと」を認めるのとでは、謝罪の意味がまるで違う。

 ところが、政治の世界へ入ると、この当たり前の仕組みが複雑になる。政治家が「私が間違っていました」と率直に認めることは、人間関係として見れば誠実な行動である一方、政治的には「疑惑を本人が認めた」という新しい情報にもなるからである。

謝罪は誠実さの表明であると同時に、事実を認める行為でもある

 ここに、政治家が簡単には謝罪しない合理的な理由の一つがある。疑惑が報道された直後には、まだ事実関係をよく知らない有権者も多く、「本当にやったのだろうか」「報道が誇張されているのではないか」と判断を保留している人もいる。その段階で本人が全面的に謝罪すれば、有権者は「少なくとも本人は何らかの責任を認めた」と受け止める可能性が高くなる。

 つまり謝罪には、「この人物は自分の責任を認めるだけの誠実さを持っている」というプラスの情報と、「問題とされた行為が実際に存在したらしい」というマイナスの情報が同時に含まれている。この二つの効果が同じ方向へ働かないところに、政治的謝罪の難しさがある。

 この逆説は、政治スキャンダルについて行われた実験研究でも確認されている。ただし、ここで重要なのは研究の適用範囲を広げ過ぎないことである。米国の有権者を対象として、架空の連邦議会議員による性的不祥事を扱った大規模な実験では、不祥事を認めて謝罪した政治家より、疑惑を否認した政治家の方が支持を保つ場合があり、さらに追加の証拠が示された場合でも、謝罪が必ず否認を上回るとは確認されなかった。

 これはかなり刺激的な結果だが、「政治家は謝らない方が得だ」という普遍的な法則を意味するわけではない。この研究が直接示しているのは、米国の有権者、議員、性的不祥事、実験的なシナリオという一定の条件下で、謝罪が必ずしも政治的評価を回復しないということであり、政治資金問題や政策判断の失敗、失言、行政上の過失まで、同じ結果になるとは限らない。

 それでも、この研究が示す意味は大きい。私たちは道徳的には「正直に認めて謝る人を評価したい」と考えるが、有権者が実際に政治家を評価するときには、誠実さだけでなく、「この疑惑は本当だったのか」という事実認識まで同時に更新しているからである。

人は謝罪そのものではなく、新しい情報として受け取っている

 この仕組みは、確率的な情報更新として考えると分かりやすい。疑惑が報道された時点では、有権者一人一人が「本当である可能性は高い」「まだ分からない」「おそらく誤報だろう」と異なる判断を持っている。そこへ本人の謝罪という情報が加われば、「本人が責任を認めたのだから、疑惑が事実である可能性は以前より高そうだ」と判断する人が出てくる。

 逆に政治家が完全否認すれば、一部の有権者は「本人がここまで否定するのなら、まだ確定していないのかもしれない」と判断する。この反応が合理的であるかどうかは別として、政治家の発言自体が有権者の事実認識を変化させる情報として働くことは、実験研究でも確認されている。

 この意味で、謝罪の政治効果は単純な加点方式ではない。「謝罪すれば誠実さが十点上がる」といった問題ではなく、誠実性への評価が上がる一方で、不祥事が事実だったという認識も強まり、その二つが相殺したり、後者が前者を上回ったりする可能性がある。

 政治家の謝罪を理解するには、この二重構造を見なければならない。

支持する政治家の失敗には、私たちは少し甘くなる

 さらに政治を複雑にするのが、政党支持や政治家への既存の好感度である。ある政治家の不祥事を聞いたとき、もともと嫌っていた政治家なら「やはりそういう人物だった」と受け取り、自分が支持している政治家なら「何か事情があるのではないか」「報道の仕方に問題があるのではないか」と考えることは珍しくない。

 これは政治に限った特殊な心理ではない。人間は、自分がすでに持っている信念と一致する情報を受け入れやすく、それと矛盾する情報については慎重に扱ったり、別の説明を探したりする傾向を持つ。政治では、政党支持や政治的立場がその傾向を強めることがある。

 実際、カナダの総選挙期間中に現実の政治スキャンダルを利用して行われた大規模な調査実験では、問題となった政治家と同じ側を支持している有権者ほど、その政治家を許す方向へ動きやすく、反対側の支持者では逆方向の反応が現れた。つまり「その行為が許せるか」という判断は、行為そのものだけから独立して決まるわけではない。

 ここは政治家の謝罪を考えるうえで重要である。同じ言葉、同じ表情、同じ問題行為であっても、誰が謝っているかによって評価が変わるなら、謝罪の成否は政治家の技術だけでは説明できない。謝罪を受け取る有権者の側もまた、結果を作っているからである。

謝らないことが、支持者をつなぎ止める場合もある

 この党派性が強く働くと、「私は間違っていない」と言い続けること自体が政治的な意味を持ち始める。支持者にとって政治家の否認は単なる言い逃れではなく、「われわれの側が不当に攻撃されている」という物語を維持する材料にもなり得るからである。

 米国で行われた複数の実験でも、自分と同じ政治的陣営に属する政治家が問題行為を否認したり正当化したりすると、沈黙する場合より好意的に評価される条件があることが確認されている。ただし、この結果も無条件に一般化することはできず、研究者自身が示しているように、政治家と有権者の党派的関係や、その問題行為が政治的な目的とどう結び付いているかによって効果は変わる。

 したがって、「謝らない政治家ほど強い」と結論付けるのは乱暴である。ただ、「謝罪しないことが必ず政治的損失になるわけではなく、条件によっては支持者との結束を維持する戦略として働き得る」と考えることには、実証的な根拠がある。

 ここまで来ると、政治家が謝らない理由を単純に「反省していないから」と説明することは難しくなる。人間として反省しているかどうかと、政治家としてどの言葉を選択するかは同じ問題ではなく、謝罪、否認、沈黙のどれを選ぶかには政治的な損得計算も入り込むからである。

「申し訳ない」と「私の責任です」は似ているようで違う

 だからこそ、政治家の謝罪を見るときには、頭を何秒下げたかより、何について責任を認めたのかを見る必要がある。

 政治の謝罪では、「このような事態を招いたことは大変遺憾です」「国民の皆さまにご心配をおかけしました」「誤解を招く表現があったとすれば申し訳ありません」といった言葉が使われることがある。一見すると謝罪に見えるが、注意深く読むと「私は具体的に何をしたのか」という主語と行為が曖昧なまま残されている場合がある。

 「ご心配をおかけしたこと」と「不正な行為を行ったこと」は同じではなく、「誤解を招いたこと」と「誤った発言をしたこと」も同じではない。前者では、問題の中心が政治家自身の行為から、有権者がどう受け取ったかという側へ微妙に移されている。

 一般的な謝罪研究でも、責任の承認は信頼回復にとって重要な要素として示されている。ただし、これは政治家だけを対象とした研究ではないため、「政治家でも必ず同じ効果が生じる」とまで言うことはできない。それでも、人間が謝罪をどのように評価するかという基礎的な心理として、単なる後悔より責任の承認を重視するという知見は、政治的謝罪を読むうえでも重要な手掛かりになる。

能力の失敗と、誠実性の失敗は同じではない

 さらに、政治家が何について謝っているのかによっても意味は変わる。判断を誤った、予測が外れた、説明が不足していたという失敗と、嘘をついた、不正を隠した、私的利益のために権限を利用したという問題では、同じ「申し訳ありません」という言葉でも受け取られ方が違う。

 一般的な信頼修復研究では、能力不足によって失われた信頼は、誠実性そのものを疑わせる違反によって失われた信頼よりも、謝罪によって回復しやすい傾向が示されている。ただし、これも政治家だけを対象にした研究ではなく、一般的な対人関係や組織上の信頼を扱った研究なので、政治家へそのまま当てはめることは避けなければならない。

 それでも理屈は理解しやすい。「判断を間違えました。原因を検証し、次から改善します」という人物なら、経験によって能力が高まる可能性がある。しかし、「私は意図的に嘘をつきました。今後は正直に話します」と言われた場合、その約束そのものを信用してよいかという別の問題が発生する。

 謝罪とは本来、言葉を信じてもらうことによって成立する行為である。そのため、問題行為そのものが「この人物の言葉は信用できない」という疑念を生み出した場合には、謝罪という手段そのものの効力まで弱くなってしまう。

誰が謝るのかによっても、謝罪の意味は変わる

 謝罪の受け取られ方が「何を言ったか」だけで決まらないという点については、日本と韓国を対象にした大規模な実験研究からも示唆が得られている。ただし、これは政治家個人の不祥事ではなく、歴史問題をめぐる国家間・集団間の政治的謝罪を扱った研究であり、個人政治家の謝罪と同一視することはできない。

 その研究では、謝罪の言葉だけでなく、誰が誰を代表して謝るのか、誰に対して謝罪するのかといった要素が、謝罪の受け入れられ方を大きく左右していた。政治家個人の不祥事に直接当てはめることはできないものの、「正しい言葉さえ並べれば謝罪は成功するわけではない」という意味では示唆的である。

 謝罪とは文章ではなく関係である。誰が、どの立場から、誰に向かって、何について責任を認めるのかによって、同じ言葉の重さは変わる。

それでも社会が謝罪を求め続ける理由

 ここまで考えると、「謝っても必ず許されるわけではなく、場合によっては政治的に不利になるのであれば、政治家に謝罪を求める意味などないのではないか」という疑問が生まれる。

 しかし、おそらくそうではない。

 公的な謝罪には、選挙上の損得だけでは説明できない役割がある。政治哲学では、公的謝罪を、責任を持つ側が社会との関係を修復し、何が許され何が許されないのかという規範を改めて確認する行為として捉える議論がある。これは実験によって「謝罪すれば信頼が何%回復する」と証明された経験則ではなく、民主政治における責任とは何かを考える規範的な議論である。

 政治家が不正を行った後に、「私は何も悪くないし、そもそもこの行為の何が問題なのか分からない」と言う場合と、「私の行為は公職者として許されないものであり、責任は自分にある」と認める場合では、同じ問題行為が過去に存在したとしても、その後に共有できる社会的なルールが違う。

 謝罪の価値は、過去を消してしまうことではない。むしろ、過去を消せないからこそ、何が起きたのかを認め、そこから先の行動を評価できる地点まで戻ることに意味がある。

本当に評価すべきなのは、頭を上げた後である

 そう考えると、優れた謝罪とは巧みな謝罪文のことではない。完璧な言葉を並べても、その翌日に同じ行為を繰り返すのであれば意味はなく、反対に表現は不器用でも、事実を明らかにし、自分の責任を認め、必要な処分を受け、制度を改め、同じ問題を防ぐ仕組みを残したのであれば、その方が政治的にははるかに重い。

 政治家が謝罪すると、私たちはしばしば「本当に反省している顔か」という心理鑑定を始める。頭を下げる角度、声の震え、目線、表情、謝罪までにかかった時間までが論評されるが、他人の心の中を外から正確に測ることはできない。深く頭を下げたから誠実とは限らず、表情が硬いから反省していないとも限らない。

 民主政治が比較的客観的に評価できるのは、心の中より行動である。何が起きたのかを説明したか、自分の責任を具体的に認めたか、調査に協力したか、被害や損失をどう回復しようとしたか、同じことが繰り返されない制度を作ったかという行動であれば、少なくとも外部から検証することができる。

 このとき初めて、謝罪は一日のニュースではなく、政治的責任の一部になる。

「許すこと」と「責任を問わないこと」は違う

 政治家の謝罪をめぐる議論で最も混同されやすいのが、「許す」という言葉である。政治家が心から反省していると認めることと、その人物を引き続き大臣や首長として働かせることは別の判断であり、人間として謝罪を受け入れながら、公職者として辞任を求めることは何も矛盾しない。

 逆に、その政治家を個人的に好きになれなくても、問題が軽微で、十分な説明と是正が行われ、職務遂行能力にも重大な問題がないのであれば、政治的責任は果たしたと判断することもあり得る。

 ここを一緒にすると、「謝ったのだからもう許してやれ」という議論と、「一度失敗した人物は永久に許してはいけない」という議論の間を往復するだけになってしまう。

 民主政治に必要なのは、感情として許せるかどうかだけではなく、その行為の重大性に対してどの程度の責任を負わせるのが妥当なのかを考えることである。

謝らない政治家が強く見える理由

 それでも現実の政治では、謝らない政治家が強く見えることがある。批判されても引かず、報道機関と争い、自分は間違っていないと言い続ける姿を「信念がある」「ぶれない」と評価する支持者もいれば、逆にすぐ謝罪した政治家を「弱い」「世論に迎合した」と見る人もいる。

 政治が政策の違いだけでなく、自分たちと相手側という集団間の対立として認識されるようになるほど、謝罪は相手側への譲歩や敗北宣言として受け取られやすくなる。その結果、政治家には厄介な誘因が生まれる。正直に問題を認めれば責任を問われる一方、否定し続ければ支持者の一部が残る可能性があるからである。

 近年の米国の実験研究では、実際には存在する政治スキャンダルについて、政治家が「報道は偽物だ」「映像や情報は捏造されたものだ」と主張する戦略の効果も調べられている。複数の大規模実験では、文字情報を中心に不祥事が提示された場合、疑惑そのものを虚偽情報だと否認することで、謝罪するより支持を保ちやすくなる場合が確認された。

 しかし、この効果にも限界がある。本物の映像のような強い証拠が示された場合には、虚偽情報だと主張する戦略の効果は弱くなった。つまり「否定し続ければ何でも押し切れる」ということではなく、有権者が利用できる証拠の種類と強さによっても結果は変わる。

謝罪の効果を、一つの数字で表すことはできない

 ここまでの研究を総合すると、政治家の謝罪には「謝れば支持率が上がる」「謝らなければ支持率が下がる」という単純な法則が存在しないことが分かる。

 謝罪の政治的効果は、謝罪したかどうかだけではなく、不祥事の種類、問題の重大性、証拠の強さ、政治家への既存の好感度、有権者の政党支持、謝罪の内容、責任の認め方、報道媒体、発覚してからの時間、さらには政治家と有権者の関係まで組み合わさって決まる。

 数理的に考えれば、これは一つの原因と一つの結果を結ぶ単純な関係ではなく、複数の要因が互いに影響する多変量の問題である。「謝罪」という同じ行為であっても、自分が支持する政治家か反対側の政治家かによって効果が変わるなら、そこには交互作用が存在する。同じ謝罪でも、政策判断の失敗と意図的な不正では結果が異なる可能性があり、強い証拠がある場合と証拠が曖昧な場合でも効果は変わる。

 したがって、現在の研究から科学的に言えるのは、「政治家は謝った方が得である」でも「謝らない方が得である」でもない。

 より正確に言えば、政治家の謝罪の効果は、その謝罪が置かれた条件によって変わるのである。

謝罪会見で試されているのは、有権者なのかもしれない

 結局、「政治家は謝罪すると本当に許されるのか」という問いに、一つの答えを与えることはできない。謝罪によって信頼が回復することはあるが、謝罪そのものが責任の承認となって政治的に不利になることもあり、逆に謝らない政治家が支持者との結束を維持する場合もある。そして同じ謝罪を聞いても、ある人は「潔い」と評価し、別の人は「今さら遅い」と感じる。

 つまり、政治家の謝罪を見ているようで、そこで露わになっているのは、政治家だけではない。

 自分が支持する政治家なら事情を考慮し、嫌いな政治家なら即座に断罪していないだろうか。謝罪の言葉そのものを評価しているのか、それとも失敗した後の行動を見ているのか。人間として許すことと、公職者として責任を取らせることを区別できているだろうか。

 カメラの前で政治家が深く頭を下げたとき、私たちはその角度や時間や表情を見てしまう。しかし本当に見るべきなのは、政治家が再び頭を上げた後なのだろう。

 何を説明し、何を認め、何を変えたのか。そして私たち自身も、その謝罪を評価するとき、目の前の行為と証拠を見ているのか、それとも政治家の名前や政党、自分がもともと抱いていた好き嫌いを見ているのか。

 政治家の謝罪は、政治家自身を映す鏡であると同時に、それを見つめる有権者の判断を映す鏡でもある。

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 選挙が近づくと、政治家は急に私たちの日常の風景へ近づいてくる。商店街を歩き、地元の食堂で丼を食べ、祭りでは法被を着て、スーパーでは野菜や米の値段を眺め、ときには腕まくりをして住民と握手する。それだけを見れば、どれも特別な行動ではないのだが、同じ光景を見ても「親しみやすい人だ」と感じる人がいる一方、「選挙のときだけでしょう」と冷めた目を向ける人もいる。政治家が食べているものも、歩いている商店街も同じなのに、その光景はある人には自然体に、別の人には舞台装置のように映る。

 この違いを、「本当に庶民なのか、それとも庶民を演じているのか」という二択だけで説明するのは難しい。そもそも国会議員や自治体の首長は、一般の生活者とはかなり異なる仕事をしている。国家予算や条例を扱い、多くの職員や支援者と仕事をし、政治的な交渉や政策決定に参加する以上、生活のすべてが一般の有権者と同じであるはずはない。それにもかかわらず政治家は繰り返し「普通の人」であることを見せようとし、有権者の側もまた、政治家に普通の生活感覚を失わないでほしいと願っている。

 ここには、民主政治につきまとう少し奇妙な矛盾がある。私たちは政治家に、自分たちとは違うほど高い能力を求めながら、自分たちと同じ感覚も求めているのである。

「特別な能力」と「普通の感覚」を同時に求める

 外交、安全保障、財政、社会保障、医療、産業政策のような複雑な問題を扱う以上、政治家には専門知識だけでなく、交渉力や判断力、長期的な見通しが必要になる。その意味では、有権者より政治に詳しく、政治を職業として扱える人物でなければ困る。しかし一方で、食料品が値上がりしたときの負担や、子育てにかかる費用、地方で病院へ通う不便さ、年金で暮らすことへの不安まで理解していてほしいとも思う。

 政治家はそこで、「私は政治を任せられる特別な能力を持っている」と示しながら、同時に「私はあなた方と遠い世界にいる人間ではない」と伝えなければならなくなる。この二つを両立させるために、政治家は政策だけでなく、自分がどのような人間なのかを絶えず見せる。

 政治コミュニケーションの研究では、このような政治家の「本物らしさ」を考える際、Ordinariness(普通らしさ)、Consistency(一貫性)、Immediacy(即時性・自然に内面が表れているように感じられること)といった要素が重要だと考えられている。興味深いのは、本物らしさが政治家本人に備わった客観的な性質というより、政治家の行動、発言、それを伝えるメディア、そして受け手である有権者との間で作られる評価だという点である。

 だから、政治家が地元のラーメン店へ行ったから庶民派になるわけでもなければ、高級店を利用したから庶民感覚がないと直ちに判断できるわけでもない。私たちが見ているのは、行動そのものだけではなく、その行動がその人物にどれほど自然につながって見えるかなのである。

牛丼一杯が「小道具」に変わる瞬間

 たとえば、ある政治家が駅前の立ち食いそば店へ入り、一般客に交じって昼食を取ったとする。その政治家が以前からその店を利用していたと知っていれば、多くの人は特に奇妙には感じないだろう。しかし選挙運動の最中だけ突然そこへ現れ、入店から注文、食事、店主との会話までが丁寧に撮影され、その映像が「庶民の暮らしを知る政治家」といった物語とともに繰り返し発信されれば、見る側が別の意味を読み取り始める可能性がある。

 そばの値段も味も変わっていない。変わったのは、その行動を「食事」と見るか、「食事をしている自分を見せる行為」と見るかという受け手の解釈である。

 人は他人の行動を見るとき、行動だけでなく、その背後にある意図まで推測する。「この人は本当にここへ来たかったのだろうか。それとも、ここへ来ている自分を見せたかったのだろうか」という疑問が生じれば、庶民的な行動そのものが演出の証拠になるわけではなくても、その行動を見る視線は変わってくる。

 だから庶民派アピールの成否は、食事の価格では決まらない。むしろ、高級店を利用することを隠さず、自分の生活を必要以上に庶民的に見せようとしない政治家の方が、場合によっては一貫した人物として受け取られることさえある。一方で、普段の人物像と明らかに離れた行動を突然始め、その行動に「庶民派」という意味を強く持たせようとすると、安い食事をしているにもかかわらず、かえって生活者との距離を感じさせることがある。

 庶民性は、何円の食事をしたかではなく、その行動が人物のこれまでとどのようにつながっているかによっても判断されるのである。

SNS時代には「自然体」まで設計できる

 この問題をさらに複雑にしたのが、SNS(交流型ソーシャルメディア)の普及である。かつて、有権者が政治家の日常を見る機会は新聞やテレビにほぼ限られていたが、現在では政治家本人が、移動中の車内、控室、食事、趣味、家族との時間、スタッフとの会話まで発信できるようになった。

 正式な記者会見よりも、スマートフォンで撮影された短い動画の方が「本人の素顔を見ている」と感じることもある。画面が少し揺れ、完全には整えられていない場所で話し、言葉につかえる場面まで残されていれば、従来型の政治広告より自然に見えるかもしれない。しかし研究上は、こうした映像形式そのものが必ず本物らしさを高めるとまでは確認されていない。むしろ重要なのは、その形式が「作り込まれていない」「その場で話している」という印象を与える技法として利用できることである。

 つまり、自然体に見えることと、本当に自然であることは同じではない。

 政治家が「飾らない姿には価値がある」と理解すれば、飾らない姿そのものを広報戦略へ取り込むこともできる。服装を少し崩し、執務室ではなく廊下で撮影し、整った原稿ではなく話し言葉で語ることによって、従来型の政治広告とは異なる親近感を作ることは可能である。しかし、その手法が広く知られるほど、有権者の側も「これは本当に舞台裏なのか、それとも舞台裏という舞台なのか」と考えるようになる。

 ここに現代政治の少し滑稽なところがある。本物らしさを示そうとすればするほど、「本物らしく見せる技術」が発達し、その技術が発達すればするほど、本物らしさそのものが疑われるようになるのである。

不器用なら本物、というほど単純でもない

 政治家が言葉につまったり、料理を失敗したり、予想外の出来事に戸惑ったりする姿に親近感を覚えることもある。実験研究の中には、政治家の失敗や不完全さが、状況によってはコミュニケーションを本物らしく感じさせる可能性を示したものもある。

 しかし、ここにも単純な公式は存在しない。不器用であればあるほど本物らしくなるわけではなく、政治的オーセンティシティを測る研究では、「欠点があること」そのものが普通らしさと必ず強く結び付くわけではないことも示されている。

 考えてみれば当然かもしれない。経済政策を任せる人物が数字を理解できない姿を見せれば、それは親しみやすさより能力への不安につながるだろうし、祭りで餅をうまく丸められない程度なら、かえって人間らしく感じる人もいるだろう。失敗が好感へ変わるか、不安へ変わるかは、その人物に求められている能力と、失敗の種類によって異なる。

 有権者は、完全無欠の機械のような政治家を必ずしも望んでいないが、だからといって能力不足まで「人間味」として歓迎するわけではないのである。

一枚の写真より「時間のつながり」がものを言う

 庶民派アピールが演出に見え始める重要な境界の一つが、過去との一貫性である。

 近年の政治心理学の実験研究では、政治家が政治的な圧力を受けた場面で、それまで表明してきた立場と一致した行動を取ると、その政策について回答者自身が賛成しているかどうかとは別に、その政治家がより本物らしく評価されやすいことが示されている。ここで重要なのは、「自分と同じ意見だから本物らしい」というだけではなく、「この人物は自分の言ってきたことに沿って行動している」という認識そのものが評価に関係している点である。

 もっとも、本物らしさを決める要因が一貫性だけだと考えるのも正確ではない。政治的オーセンティシティの尺度研究では、普通らしさと一貫性の双方が本物らしさと強く関係しており、さらに両者そのものも強く結び付いている。つまり有権者の中では、「以前からこういう人だった」という感覚と、「自分たちから遠すぎない人だ」という感覚が、完全に別々に存在しているわけではない可能性がある。

 これは庶民派アピールを考えるうえで非常に興味深い。政治家が庶民的な行動を一度見せるだけではなく、「この人は以前からこうだった」と感じられることによって、その行動が自然なものとして受け入れられやすくなるからである。

 たとえば長年同じ商店街へ通い、当選後も選挙前と同じようにその地域へ顔を出している政治家なら、選挙期間中にそこを歩いていても特別な違和感は生じにくい。反対に、選挙が始まった途端、それまでほとんど関係のなかった市場、大衆食堂、農作業の現場などへ集中的に姿を現し、選挙が終わるとその光景がほとんど消えてしまえば、一つ一つの行動が事実であったとしても、全体として「選挙用だったのではないか」という解釈が生まれやすくなる。

 このとき有権者が見ているのは、「今日、この人がそばを食べたか」という一点ではない。「この人は以前からこういう人だったのか」という長い時間のつながりなのである。

検索できる時代には、過去が現在についてくる

 かつて政治家は、現在の演説や新聞記事によって人物像を作り直す余地が今より大きかった。しかし現在は、昔の発言、過去の映像、SNSへの投稿、議会での発言、政策判断などが長く残り、簡単に検索される。

 そのため、選挙期間中に「生活者の痛みが分かる」と語る政治家は、その言葉だけで評価されるとは限らない。過去に物価について何を語ったのか、社会保障をどう考えてきたのか、地方交通や子育てについてどのような政策判断をしてきたのかという履歴と並べて見られる可能性がある。

 そこで現在の姿と過去の姿が自然につながれば、一杯のラーメンもその人の日常に見える。しかし二つの姿が大きく食い違えば、同じラーメンが急に小道具のように見え始める。

 もちろん、有権者全員が政治家の過去を詳細に調べるわけではないし、誰もが同じ矛盾を同じように評価するわけでもない。支持政党、政治的関心、人物への好悪、メディア環境などによって受け止め方は変わる。それでも、過去の記録を参照しやすくなったことで、「今日一日だけ普通の人に見せればよい」という政治コミュニケーションは以前より難しくなったと考えることはできる。

「庶民であること」と「庶民を理解すること」は違う

 ここまで考えると、そもそも政治家に求めるべきなのは、「庶民そのもの」であることなのかという疑問が出てくる。

 政治家がスーパーで自分で買い物をしていることと、物価高によって低所得世帯の可処分所得がどれほど圧迫されているかを理解していることは別の問題である。政治家が電車へ乗っていることと、地方で鉄道路線やバス路線が縮小したとき、高齢者の通院がどれほど難しくなるかを理解していることも同じではない。

 裕福な政治家であっても、統計を読み、現場を訪れ、多様な生活者の話を聞き、それを政策へ結び付けることはできる。一方で、庶民的な服装を好み、大衆食堂へ頻繁に通い、日常生活では親しみやすい政治家であっても、それだけで生活者に有効な政策を設計できるわけではない。

 政治家に本来求められるのは、庶民になることではなく、自分とは異なる立場にいる人の生活を理解し、それを制度や予算や政策へ翻訳する能力なのだろう。

 ところが、その能力は写真一枚では伝わりにくい。所得分布を読み、社会保障制度を設計し、複数の利害を調整したという話より、商店街でコロッケを食べている写真の方が、一瞬で「生活者に近い政治家」という印象を作ることができる。ここに庶民派アピールが繰り返される理由がある。

庶民派アピールだけを笑うこともできない

 政治家が商店街を歩いたり、地元の祭りへ参加したりする姿を見ると、「また選挙用の演出か」と切り捨てたくなることもある。しかし、政治家が有権者の前へ姿を現すことそのものを否定してしまえば、別の問題が生じる。

 民主政治では、政治家は見知らぬ多数の人から代表者として選ばれる。政策だけでなく、その人物が何を大切にし、どのような判断をし、どのような人間なのかを有権者が知ろうとすること自体は不合理ではない。政治家が自分の人柄を示そうとする行為にも一定の意味がある。

 問題なのは、演出があるかないかではない。政治の世界で「まったく演出されていない政治家」を探すこと自体、ほとんど意味を持たないからである。演説する場所を選ぶこと、ネクタイを選ぶこと、ポスターの写真を選ぶこと、どの政策を前面に出すかを決めること、そのすべてが政治的な自己提示であり、広い意味では演出を含んでいる。

 重要なのは、その演出が本人の言動や履歴から大きく離れているかどうかである。

「普通の人」を演じ続けなければならない政治

 政治家はこれからも商店街を歩き、地元料理を食べ、祭りで法被を着て、SNSでは舞台裏を見せ続けるだろう。それをすべて欺瞞と呼ぶ必要はない。しかし、それを見ただけで「この政治家は庶民の味方だ」と判断する必要もない。

 私たちは政治家に、高度な判断力を要求しながら、自分たちと同じ生活感覚も要求する。その矛盾が存在するかぎり、政治家は「権力を扱う特別な人」でありながら、「あなたと同じ普通の人」でもあるという二つの顔を見せ続けなければならない。

 そして庶民派アピールが自然に見えるか、演出に見えるかを決めるものは、ラーメンの値段でも、袖をまくった回数でも、商店街で握った手の数でもない。普通らしさ、一貫性、自然さ、これまでの発言や行動とのつながり、そしてそれを見る有権者自身の認識が重なって、一つの政治家像を作っていく。

 政治家の「庶民派アピール」が演出に見え始める場所には、誰にでも共通する一本の境界線が引かれているわけではない。それでも、目の前で見せられている一枚の風景と、その人物がこれまで積み重ねてきた長い物語との間に距離が生まれ、その距離を私たちが意識した瞬間、何気ない食事も握手も作業着も、それまでとは少し違って見え始める。

 おそらく庶民派というものは、政治家が自分で名乗って完成する属性ではない。政治家が何を食べ、何を着て、どこへ行ったかという一場面ではなく、「この人なら、カメラがなくても同じことをするかもしれない」と有権者が感じられる時間の積み重ねによって、初めて成立する印象なのである。

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 政治家の写真を一枚見ただけで、その人物が何を語っているのか知らないにもかかわらず、「強そうだ」「頼りになりそうだ」「少し怖そうだ」と感じることがある。考えてみれば不思議な話で、予算案を読んだわけでも外交政策を比較したわけでもなく、そこにあるのはスーツを着た人物の写真にすぎないのに、私たちはすでにその政治家について何かを判断し始めている。

 麻生太郎という政治家ほど、この奇妙な現象を考えるのに適した人物も少ないだろう。濃色のスーツ、きっちりと結ばれたネクタイ、コート、そして時折かぶる中折れ帽。口元には独特の形があり、笑っていてもどこか皮肉めいて見えることがある。その姿には、他の政治家とは少し違う輪郭がある。もし顔を隠して服装だけを見せても麻生氏を連想する人がいるのではないか、と思わせるほど、長い年月のうちに人物と装いが結びついてきた。

 しかし、ここで考えたいのは麻生氏がおしゃれかどうかではない。もっと興味深いのは、なぜ帽子やスーツや表情といった、本来なら政策能力とは直接関係のないものが、いつの間にか政治家としての印象と結びつき、ついにはその人物を説明する政治的な記号にまで変わっていくのかという問題である。

帽子は、いつから「麻生太郎」になったのか

 麻生氏が外遊などでかぶる帽子として知られてきたものの一つが、イタリアの老舗帽子メーカー、ボルサリーノである。もちろん、政治家が帽子をかぶること自体は政治思想でも政策でもなく、本人の趣味や実用品としての選択である可能性が高い。ところが同じ人物が、同じような服装を長い期間にわたって繰り返し見せ、その姿が新聞写真、テレビ映像、インターネット上の画像として何度も社会に流通すると、帽子は単なる帽子ではなくなっていく。

 企業のロゴを考えてみると分かりやすい。最初は単なる図形にすぎなかったものが、繰り返し目にするうちに、会社名が書かれていなくても企業を思い出させるようになる。同じことは人間の外見にも起こり得る。ある政治家なら眼鏡、別の政治家なら髪型や話し方が記憶の手掛かりになるが、麻生氏の場合には、帽子や仕立てのよいスーツ、独特の表情が一つのまとまりとして認識されるようになったと考えることができる。

 ここで注意しなければならないのは、それを最初から計算された政治広告だったと考える必要はないということである。麻生氏本人が「政治的なブランドを作るためにこの帽子をかぶっている」と説明しているわけではない以上、本人の意図を外部から断定することはできない。しかし、個人的な好みから始まった装いであっても、それが何年、何十年と繰り返され、多数の人々の記憶の中で特定の人物と結びつけば、結果としてブランドのような働きをすることは十分にあり得る。

 ブランドとは、本人が「これは私のブランドです」と宣言した瞬間に生まれるものではない。他人の頭の中で「あの人といえばこれだ」という連想が成立したときに生まれるのであり、その意味では、麻生氏の帽子は本人の頭の上にあるだけではなく、見る側の記憶の中にも置かれている。

私たちは政治家を「政策だけ」で見ているわけではない

 民主政治の建前からいえば、政治家は政策、実績、能力によって評価されるべきである。しかし現実の人間は、すべての候補者について政策集を読み、予算案を調べ、過去の国会答弁を比較してから一人ずつ評価しているわけではない。むしろ日常生活の中で政治家に接するのは、数十秒のニュース映像、一枚の写真、短い発言、あるいは見出しだけということの方が多い。

 情報があまりにも多いとき、人間はすべてを精密に計算することができないため、限られた情報から素早く判断する。その際に使われるのが、顔つき、服装、声、姿勢、年齢、話す速さといった手掛かりであり、心理学ではこのような簡便な判断の仕組みが長く研究されてきた。

 特に興味深いのが、アレクサンダー・トドロフらによる政治家の顔についての研究である。候補者の顔写真を短時間見せ、「どちらが有能そうに見えるか」を判断してもらうと、その評価と実際の選挙結果との間に統計的な関連が見られた。だからといって、顔が選挙結果を決定するわけではないし、顔から本当の政治能力が分かるわけでもない。政党、現職であるかどうか、選挙運動、資金、地域事情など無数の要因が選挙には存在するため、この研究から言えるのは、私たちが政治家を評価するときに外見から受ける第一印象を完全には無視していないらしい、ということである。

 さらに興味深い実験がある。同じ人物の顔に、経済的地位が高そうに見える服と低そうに見える服を組み合わせると、顔そのものは同じであるにもかかわらず、裕福そうな服を着ている人物の方が「有能そうだ」と評価されやすかった。しかも、服装と実際の能力には関係がないと注意されても、その影響は完全には消えなかった。

 ここには重要な逆説がある。私たちは頭では「服装と能力は別だ」と理解していても、実際に人物を見るときには、服装から受けた印象が知らないうちに人物評価へ入り込むことがあるのである。

 だからこそ、「服装から能力が分かる」と考えてはいけない。科学的に示されているのは、服装が実際の能力を変えるということではなく、服装によって「能力が高そうに見える」という知覚が変化する可能性である。この違いは小さく見えるが、政治を考えるうえでは決定的に重要である。

麻生太郎の服装が作るのは「親しみ」なのか「距離」なのか

 選挙になると、政治家はしばしば有権者との距離を縮めようとする。商店街を歩き、祭りに参加し、腕まくりをし、ときには作業着を着る。もちろん、そのすべてが計算された演出だという意味ではないが、政治家が「あなたと同じ場所に立っています」という印象を与えようとすることは珍しくない。

 麻生氏の服装から受ける印象は、それとは少し違う。長年仕立てていると報じられてきた端正なスーツ、コート、帽子、小物まで含めた姿は、少なくとも見る側からすれば、「どこにでもいる普通の人」を強調する装いとは違って見えることがある。

 その服装から何を感じるかは見る人によって異なる。ある人はそこに「風格」を見るかもしれないし、別の人は「庶民感覚からの距離」を感じるかもしれない。さらに別の人には、「国際舞台に慣れた政治家」「古い政財界を知る重鎮」「裕福な家柄の政治家」といったイメージが重なって見えるかもしれない。

 ここで重要なのは、そのどれか一つが客観的な正解だということではない。同じ服装から正反対の評価が生まれるという点にこそ、政治的ブランドの面白さがある。「威厳」と「尊大さ」、「余裕」と「庶民感覚の欠如」、「格好よさ」と「気取り」は、それぞれ境界線が曖昧であり、見る人がどちら側から読むかによって意味が変わってしまう。

 ブランドが強いとは、必ずしも万人から好かれることを意味しない。むしろ一目見ただけで何らかの人物像を呼び起こすことの方が重要である。誰にも嫌われないが翌日には思い出せない人物より、「あの人らしい」と瞬時に識別される人物の方が記憶には残りやすく、その意味で麻生氏の装いは、好悪とは別の次元で強い識別力を持っていると考えることができる。

「似合っている」という言葉は何を意味しているのか

 麻生氏の服装について語られるとき、「似合っている」という言葉がよく使われる。しかし、この何気ない言葉を少し掘り下げてみると、政治的ブランドというものの正体が見えてくる。

 仮に、昨日初当選したばかりの若い議員が、麻生氏とほとんど同じ帽子、同じようなコート、同じようなスーツを着て国会へ現れたとしよう。おそらく私たちは同じ印象を受けない。「風格がある」と感じる人より、「格好をつけている」と受け取る人の方が多いかもしれない。

 つまり、帽子そのものに威厳が入っているわけではない。

 長い政治経歴、首相経験、閣僚経験、党内での立場、年齢、話し方、過去に報道されてきた姿といった情報がすでに見る側の記憶にあり、それらが現在の服装と重なったときに、「麻生太郎らしい」という感覚が生まれるのである。

 ブランドとは物の集合ではなく、物語の一貫性なのだ。

 帽子だけを取り出しても麻生太郎にはならず、仕立てのよいスーツだけでもならない。独特の口調だけでも、口元の表情だけでも十分ではない。しかし、それらが何十年にも及ぶ政治経歴と重なり、多くの写真や映像の中で反復されると、個々の要素を切り離すことが難しくなってくる。

 やがて帽子を見れば人物を思い出し、人物を見れば帽子を思い出す。

 そこまで来ると、服装は政治家の外側に付着した装飾ではなく、その政治家について社会が共有している物語の一部分になっている。

笑顔なら政治家は得をするのか

 麻生氏についてもう一つ興味深いのが、表情である。選挙ポスターを見ると、多くの候補者が笑顔を選んでいるため、政治家は笑っていた方が選挙で有利なのではないかと思いたくなるが、実際の研究はそれほど単純ではない。

 日本の地方選挙を扱った研究では、候補者の笑顔と得票との関係が検討されているが、「笑えば常に得票が増える」という単純な結果にはなっていない。投票率などの状況によって関係が変わることが示されており、政治家の表情が持つ意味は、その人物だけでなく選挙環境によっても変化するらしい。

 それでも、表情が人の第一印象に影響すること自体は不思議ではない。笑顔には親しみやすさを感じる人が多い一方、政治家には親しみやすさだけでなく、危機の際に判断できるのか、交渉相手に押し切られないのか、組織をまとめられるのかという「強さ」や「有能さ」も求められるため、どの表情が政治家として有利なのかは一つの答えに決められないのである。

 麻生氏の場合、満面の笑顔だけが代表的な表情として定着しているわけではない。口元をわずかに曲げたように見える表情、何かを見定めるような視線、独特の立ち姿などが長年写真に収められてきた。

 もちろん、それらの写真から本人の性格や本心が分かるわけではない。同じ表情を見て「自信がある」と感じる人もいれば、「尊大だ」と感じる人もいるだろう。しかし政治的ブランドという観点から見れば、その曖昧さは必ずしも弱点ではない。「あの表情」と呼べるほど特徴が定着していれば、それ自体が人物を思い出す手掛かりになるからである。

なぜ「マフィアのようだ」という連想まで生まれるのか

 濃色のスーツ、コート、中折れ帽、厳しく見える表情という組み合わせから、映画に登場するマフィアのようだという比喩が語られることがある。当然ながら、これは政治的事実ではなく、外見から生まれる文化的な連想にすぎない。

 しかし、なぜそのような連想が生まれるのかを考えると、政治家の外見が持つもう一つの面白さが見えてくる。

 私たちは現実の政治家だけを見て、「権力者とはどのような姿をしているのか」を学んできたわけではない。映画、テレビドラマ、小説、漫画、広告といった文化の中で、何十年にもわたり「権力を持つ人物らしい姿」を見続けている。暗いスーツ、帽子、落ち着いた歩き方、鋭く見える視線といった要素が一つの画面にそろうと、現実の政治家に対しても、過去に映画やドラマで覚えた権力者のイメージを重ねてしまうことがある。

 つまり政治家のブランドは、政治の世界だけで作られているわけではない。映画の記憶、小説の人物像、テレビドラマで学習した「偉い人らしさ」までが、現実の政治家を見る私たちの目に入り込んでいる。

 この点を考えると、一枚の写真が政策についての長い記事以上の速度で広がる理由も分かってくる。政策を理解するには背景知識が必要だが、写真なら一秒で見ることができ、その一秒の中へ私たちは驚くほど多くの意味を書き込んでしまうからである。

「麻生太郎の帽子が政治ブランドを作った」とまでは言えない

 ここまでの話で、最も注意しなければならない点がある。

 心理学の研究からは、顔、服装、表情などが人物評価に影響し得ることが分かっている。しかし、「麻生太郎氏が帽子をかぶった場合とかぶらない場合で、政治家としての評価がどの程度変化するか」を直接測定した実験があるわけではない。

 本当に確かめるなら、同じ麻生氏について帽子をかぶった写真とかぶっていない写真を用意し、参加者を無作為に分けて見せ、「有能さ」「強さ」「親しみやすさ」「信頼感」「庶民性」「権威」などを評価してもらう必要がある。さらに、その人がどの政党を支持しているのか、もともと麻生氏を好きなのか嫌いなのか、年齢や政治関心がどの程度なのかといった要因も考慮しなければならない。

 そこまで調べて初めて、「帽子そのものが麻生氏の政治的評価を変えた」と因果関係を論じることができる。

 したがって、この記事で言えるのはそこまでではない。より慎重に言えば、麻生氏の特徴的な服装や表情が長年にわたってメディア上で反復され、その結果として、麻生太郎という政治家を識別する視覚的なブランドの一部になっていると考えることができる、という程度である。

 しかし、科学的な断定ができないからといって、この現象に意味がないわけではない。むしろ、その微妙な境界にこそ政治を見る面白さがある。政治家の側が意図したかどうかとは別に、有権者の側ではすでに意味が作られてしまうことがあるからである。

ブランドが強いことと、政治家として優れていることは別である

 ここまで読むと、政治では外見が重要なのだから、政治家は服装や表情を工夫すればよいという話に見えるかもしれない。しかし、むしろ結論は逆である。

 外見が政治家の印象に影響する可能性があるからこそ、私たちはそれを政治能力そのものと混同してはいけない。

 仕立てのよいスーツを着ていることと、複雑な財政政策を正確に設計できることとの間に必然的な関係はない。厳しく見える表情をしていることと、危機管理能力が高いことも別問題であり、親しみやすい笑顔を見せる政治家だから住民の意見をよく聞くとも限らない。

 ところが人間は、政治家を完全に無色透明な目で見ることができない。最初に「豪胆な人物」というイメージを持っている人が強い発言を聞けば、その発言を豪胆さの証拠として受け取りやすくなるかもしれないし、最初から「尊大な人物」という印象を持っている人なら、同じ発言を尊大さの証拠として読むかもしれない。

 ここには少し怖い循環がある。

 外見から人物像を作り、その人物像を使って発言を解釈し、その解釈によって最初の人物像をさらに強くする。そうなれば、政治家のブランドは本人だけによって作られているのではなく、新聞、テレビ、インターネット、そしてそれを見る私たち自身によって共同で作られていることになる。

麻生太郎を見ているつもりで、私たちは自分自身を見ている

 結局、麻生太郎氏の帽子が政治的ブランドのように見える理由を、帽子の値段やメーカーだけから説明することはできない。

 同じ帽子を買っても麻生太郎にはならないし、同じ仕立てのスーツを着ても同じ存在感が生まれるわけではない。長い政治経歴、首相や閣僚としての経験、党内での立場、話し方、表情、身体の動かし方、そして何十年にもわたって報道されてきた姿が重なった結果として、見る側の中に「麻生太郎らしさ」が形成されてきたと考える方が自然である。

 そして、おそらく本当に考えるべきなのは麻生氏の服装ではない。

 私たちは政治家を見るとき、いったい何を見ているのか、という問題である。

 帽子を格好いいと感じることは自由であり、その表情を頼もしいと思うことも、逆に威圧的だと感じることも自由である。しかし、その感覚と政策評価との境界線は、自分で思っているほど明瞭ではないかもしれない。

 政治家は言葉によって政治をする。しかし、有権者がその言葉を理解するより先に、政治家の姿はすでに目に入っている。

 麻生太郎氏の帽子について考えていると、最後にはそこへ戻ってくる。帽子やスーツそのものが政治になったのではない。それを見た私たちが、そこから人物像を作り、権力や能力や親しみやすさについて意味を読み始めたのである。

 そして麻生氏の姿を見て「いかにも麻生太郎らしい」と感じた瞬間、その写真に映っているのは麻生太郎氏だけではない。

 政治家とはこういう人物であってほしい、権力を持つ人物とはこんな姿をしているものだ、強い政治家とはこう見えるものだという、私たち自身の頭の中にある政治家像もまた、その帽子の向こう側に映っているのである。

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 政治家にとって、口は災いの元である。選挙中なら一言で票が逃げ、大臣になれば記者会見の一節が翌朝の見出しになり、本人が三十分かけて丁寧に説明したつもりでも、その中から十数秒だけ切り取られた映像が独り歩きすることがある。政治家の側から見れば、現代ほど「余計なことを言わない」という能力に高い価値がつく時代はないのかもしれない。

 だから私たちは、失言の少ない政治家を見ると、つい「しっかりしている」と感じる。質問を受けても慌てず、不必要な断言を避け、言葉を選び、記者から何度尋ねられても不用意なことを言わない政治家は、確かに安定して見えるし、大きな組織を率いる人間に言葉の管理能力が必要なのも間違いない。けれども、ここで少し意地の悪い問いを置いてみると、政治家を見る景色は急に違ってくる。

 失言しない政治家とは、本当に優れた政治家なのだろうか。

 もちろん、これは「失言する政治家の方が優れている」という話ではない。他人を傷つける発言、差別的な発言、事実に反する発言、職務への無理解をさらけ出す発言まで、「率直な人だから」で済ませてしまえば、政治家の言葉に責任を求めること自体ができなくなる。問題はそこではなく、失言をしないことと、政治家として優れていることは本来別の尺度であるのに、私たちがいつの間にか両者をかなり近いものとして扱ってはいないか、という点にある。

なぜ十秒の失言が三十分の説明より残るのか

 政治家の発言には奇妙な性質がある。一時間の会見をほとんど問題なく終えても、最後の一言が不用意なら、その言葉だけが翌日のニュースになることがある。「一時間より十秒の方が重要になる」というのはもちろん厳密な統計ではなく比喩だが、人間が好ましい情報より好ましくない情報に強く反応しやすいことは心理学でも知られており、政治ニュースについても否定的な内容に注意が向きやすい傾向が研究されてきた。

 ここで重要なのは、私たちが政治家の発言を均等に記憶しているわけではないということだ。十回きちんと説明したことより、一度の奇妙な言葉の方が人物像を形づくる場合があり、それは必ずしも有権者が愚かだからではなく、人間の認知そのものが珍しい出来事や危険を示す情報に敏感だからでもある。

 政治家自身もそれを知っているので、言葉に保険を掛けるようになる。「現時点では」「さまざまな意見を踏まえ」「総合的に判断し」「適切に対応する」。政治に関心がある人なら何度も聞いたことのある表現だろうし、これらの言葉そのものが悪いわけではない。政策には不確実性があり、一人の政治家だけで決められない問題も多いため、責任ある立場なら軽々しく断言できない場面は当然存在する。

 しかし、安全な言葉ばかりを積み重ねていくと、不思議な現象が起きる。間違ったことは言っていないのに、その政治家が何を考えているのかも分からなくなるのである。

 言葉の安全性を高めるほど本人の考えが見えにくくなり、極端に言えば、「何も間違ったことを言わない政治家」を突き詰めていくと、「何を言っているのか分からない政治家」に近づいてしまう。ここに、失言をめぐる最初の逆説がある。

曖昧に話す政治家は、本当に逃げているのか

 政治家が曖昧な話し方をするのは、単なる性格の弱さとは限らない。政治学では古くから、候補者が自分の立場をあえて明確にしすぎない「戦略的曖昧性」が研究されてきた。

 選挙を考えてみれば、その理由は分かりやすい。ある政策について明確に賛成すれば、反対する有権者を失う可能性があるし、反対を明言すれば賛成派を失うかもしれない。それなら「状況を見ながら判断する」と言っておけば、異なる立場の有権者がそれぞれ自分に都合よく解釈してくれる余地が残る。実際、候補者の政策姿勢が曖昧でも有権者が必ずしもその候補者を嫌うわけではなく、支持政党などの情報を手掛かりに、自分に近い立場だろうと補って理解することがある。

 ただし、曖昧に話せば必ず得をするわけでもない。所属政党や過去の発言から立場を推測されることもあり、場合によっては曖昧に語るより、その問題について何も言わない方が政治的には安全なことさえある。政治家にとって、明確に話すこと、曖昧に話すこと、沈黙することには、それぞれ違った危険があるのである。

 この関係を少し数理的に考えると、なぜ政治家の言葉が無難になっていくのかが見えやすい。政治家にとって明確な発言には、政策を理解してもらえる利益がある一方、反発や失言によって受ける損失もある。その期待損失は、簡単に考えれば「問題が起きる確率」と「問題が起きたときの損失」を掛け合わせたものになる。

 たとえば、はっきり語れば政策を理解してもらう利益が大きい一方、炎上する可能性も高くなるとする。反対に、抽象的に語れば説明としての価値は小さくなるが、炎上する可能性も低くなる。このとき社会にとっては明確な説明の方が有益でも、政治家個人にとっては曖昧に話す方が合理的になる場合がある。

 つまり、政治家が曖昧だからといって、その政治家だけを責めれば済む問題ではない。「何を言ったか」より「何か間違ったことを言わなかったか」に注目が集まる社会では、政治家にとって安全な言葉を選ぶこと自体が合理的な戦略になってしまう。

失言した瞬間、本性が見えたと思いたくなる

 それなら、思ったことをそのまま言う政治家の方が信用できるのだろうか。この問題もそれほど単純ではない。

 慎重な言葉ばかり聞かされていると、遠慮なく物を言う政治家は魅力的に見える。「この人は本音で話している」と感じられるからだ。しかし、十分に考えた末に不人気なことを言う政治家と、深く考えずに刺激的なことを言う政治家は、外から見ると意外によく似ている。

 逆方向の間違いもある。政治家が失言すると、私たちは「つい本音が出たのだ」と考えたくなる。しかし、すべての言い間違いが深層心理の告白であるはずもない。

 統計的に考えるなら、一度の発言は一回の観測値にすぎない。ある政治家の考え方や知識を知りたいとしても、その発言には本人の考えだけでなく、質問の聞き違い、即興で答えたことによる言葉選びの失敗、疲労、その場の文脈などが混ざっている。

 一度だけ起きた奇妙な発言なら偶然の誤差かもしれないが、似た種類の発言が何度も繰り返されれば、偶然だけでは説明しにくくなる。科学的に見るなら、「失言したか、しなかったか」という二択より、その失言がどの程度その人物についての情報を含んでいるのかを見る方が重要なのである。

 たとえば、十分な知識を持つ人でもしばしば犯す言い間違いなら、その一回から政治家の能力を大きく下げて評価するのは合理的ではない。しかし、その分野を理解している人ならほとんどしないような重大な誤りを何度も繰り返すなら、それは政治家の知識や判断力についてかなり強い情報になる。

 言い換えれば、一言は証拠ではある。ただし、一言だけで人物全体を確定できるほど強い証拠とは限らない。

日本の政治家は、失言すると本当に終わるのか

 この問題について、日本政治を対象にした興味深い研究がある。2026年に公表された研究では、1960年から2024年までの日本の首相や閣僚について新聞報道を調べ、単なる言い間違いや小さな事実誤認を除いたうえで、344件の政治的失言を分析している。

 結果を見ると、「政治家は一度失言すれば政治生命が終わる」というイメージとは少し違った風景が見えてくる。失言の約四分の一は報道が一日で終わり、約七割は一週間以内に大きな報道が収まっていた。つまり、失言の大半が長期間続く政治的事件になったわけではないのである。

 さらに興味深いのは、失言そのものより、その発言に対して誰が批判したかとの関係だった。主要な政治・社会的主体から批判されなかった失言では辞任に結びついた例がなかった一方、批判する主体が一種類の場合には約5.7%、二種類になると約16.7%、三種類になると約42.9%が辞任に関連していた。

 もちろん、この数字から「批判する人が増えたから大臣が辞めた」と単純に因果関係を決めることはできない。そもそも深刻な発言だからこそ多方面から批判された可能性もある。それでも、失言の政治的破壊力は、発言内容だけで自動的に決まるわけではないことを示す材料にはなる。

 不用意な一言があり、報道され、野党が批判し、与党内部でも問題視され、社会団体などが反応することで、単なる失言が政治的なスキャンダルへ成長していく。失言とは、口から出た瞬間に完成する事件ではなく、その後に社会との相互作用の中で大きさが決まっていく現象でもある。

 そう考えると、政治家の失言を一つの言葉だけで評価することが、いかに危ういかが分かる。

「失言しない政治家」を求めると何が起きるのか

 ここから先は、慎重に考えなければならない。

 失言を強く恐れる政治家ほど曖昧な表現を選びやすくなるという理屈にはかなり説得力がある。しかし、それだけで「失言を恐れる政治家は政策判断までしなくなる」と断定することはできない。発言を慎重にすることと政策判断を避けることは別の行動であり、その二つが必ず連動するという強い実証的証拠があるわけではないからだ。

 それでも、政治家が政治的損失を最小化しようとすれば、批判を招きやすい行動そのものを避ける誘因が生まれる可能性はある。

 政治という仕事には、正解のない決断が多い。医療にどこまで予算を振り向けるのか、高齢化した地域の公共交通をどこまで維持するのか、税負担を誰にどれだけ求めるのか、人口が減る自治体で学校や公共施設をどう再編するのか。誰も損をせず、誰からも反対されない政策など、ほとんど存在しない。

 ここで政治家が「何かを変えて失敗する損失」と「何も変えず問題が続く損失」を比べることになる。前者はその政治家本人の責任として見えやすいが、後者は社会全体にゆっくり広がるため、誰の責任なのか分かりにくい。

 道路を造って失敗すれば「無駄な公共事業」と批判されるが、何も造らず十年間交通が不便なままでも、その損失が一人の政治家の名前と結びつくとは限らない。改革を実行して問題が起きれば責任者が見えるのに、改革をしなかったことで失われた機会は見えにくいのである。

 だから失点回避を重視する政治文化では、何かを実行するより現状を維持する方が、政治家個人にとって安全になる可能性がある。ただしこれは「失言する政治家の方が改革者である」という意味ではないし、「失言を許せば政治が良くなる」という話でもない。むしろ、政治家を評価するときに、失点の少なさと成果の大きさを同じものとして扱わない方がよい、という話である。

政治家は試験を受けているのか

 学校の試験なら、間違えないほど点数が高くなる。しかし政治は試験ではない。

 ところが、政治家の評価には試験と似た減点方式が入り込みやすい。一度の失言、一度の答弁ミス、一度の数字の言い間違いが大きく報道される一方、政策によって回避できた問題や、十年後に現れる利益は点数にしにくい。

 すると「大きな成果を出したが失言もした政治家」と「大きな成果はないが問題発言もしなかった政治家」を、どう比べればよいのかという難しい問題が出てくる。

 政治家の能力を一つの数字で表せると仮定しても、その中身は失言の少なさだけではないはずだ。政策知識、判断力、実行力、倫理性、説明能力、危機管理能力、反対意見を聞く能力、間違えたときに修正する能力など、いくつもの要素が重なって初めて政治家としての能力になる。

 失言の少なさは、そのうち言葉を管理する能力を推測する一つの材料にはなる。しかし、「失言ゼロだから優秀」と判断するのは、多数の変数で決まる問題を一つの変数だけで説明しようとするのに近い。

 逆に、一回失言しただけで「無能」と判断するのも同じ種類の単純化である。

謝る政治家は優れた政治家なのか

 失言の後に「謝罪したかどうか」を重視する人もいるが、これも単純ではない。

 政治家の謝罪についての研究では、謝れば必ず評価が上がるという結果は出ていない。問題の種類によっては、謝罪した政治家の方が不利になる場合さえあり、反対に歴史的・外交的問題では、謝罪が相手側の評価を改善することもある。

 つまり、「謝れば許される」という万能な法則は存在しない。

 それでも、失言の後を見る意味がないわけではない。むしろ重要なのは、謝罪という儀式そのものより、その人物が何を問題と理解しているかである。

 「誤解を招いたことは遺憾だ」とだけ言い続けるのか、それとも自分の発言のどこが不適切だったのかを理解し、必要なら認識を修正するのか。同じ失言でも、この違いから得られる情報はかなり大きい。

 人間が一度も間違えないことを前提にするより、間違いを認識し、修正できるかを見る方が現実的だという考え方は、科学的事実というより民主政治についての価値判断に属する。それでも、現実の政治家が人間である以上、「一度も間違えない政治家」という理想より、「間違えたときにどう行動する政治家か」を見る方が、少なくとも人物を多面的に判断する材料にはなるだろう。

私たちは政治家の「中身」を見ているのか

 失言探しが政治の中心になると、奇妙なことが起こる。

 質問する側は不用意な一言を引き出そうとし、答える側はそれを避けようとするようになり、記者会見や国会答弁が、政策を理解する場所というより「言葉の事故が起きるかどうかを見る場所」に近づいてしまう。

 政治家が公式の場所で安全な言葉しか使わなくなると、今度は有権者が別の場所に「本当の政治家」を探し始める。街頭演説、雑談、過去の動画、短く切り取られた映像、SNS(Social Networking Service・交流型ソーシャルメディア)での投稿などから、「こちらが本音なのではないか」と考える。

 しかし、人間には公式の顔もあれば私的な顔もあり、どちらか一方だけが偽物というわけではない。政治家についても、一つの発言だけを「本性」と決めつけるより、異なる場面でどんな判断を繰り返しているかを見る方が、その人物を知るには適している。

 ここまで考えると、失言の問題は政治家だけの問題ではなくなってくる。

 私たち有権者が何に反応し、報道機関が何を大きく扱い、政党が何を攻撃材料にし、その結果として政治家がどんな言葉を選ぶようになるかという、一つの循環が存在するからである。

 政治家の言葉は有権者に影響するが、有権者の評価方法もまた政治家の言葉を変えている。

「言葉の無事故運転」だけでは政治はできない

 失言しない政治家には確かに能力がある。言葉を管理し、状況を読み、不必要な摩擦を避ける能力であり、それは政治にとって決して小さなものではない。

 しかし政治家には、不人気でも必要なことを説明する力、複雑な問題を自分の言葉で語る力、反対されても判断を示す力、そして自分が間違えたときに認識を修正する力も求められる。

 車にたとえるなら、事故を起こさない運転手は確かに優秀である。しかし政治家の場合、ただ安全に走ればよいわけではなく、どこへ向かうのかも決めなければならない。道路が傷んでいれば補修するのか迂回するのかを選び、乗客が違う方向へ行きたがれば説明し、必要なら反対されても進路を決めることになる。

 駐車場から一度も出なければ、交通事故を起こす可能性は限りなく低い。

 けれども、それを優れた運転と呼ぶ人はいないだろう。

 政治家を見るときにも、同じ問いを置いてみると面白い。その人物は言葉を間違えないのか、それとも間違える危険を避けるために重要なことを語っていないのか。慎重なのか、それとも責任の生じる判断を避けているのか。そして反対に、失言した政治家についても、その一言が本当に知識不足や価値観を示す強い証拠なのか、それとも一度の言葉選びの失敗なのかを見分ける必要がある。

 政治家を選ぶのは有権者だが、その前に政治家たちは、有権者が持っている「良い政治家とはこういう人物だ」という物差しによって選別されている。

 だから、「失言しない政治家は本当に優れた政治家なのか」という問いは、政治家についての問いだけではない。

 私たちは政策を判断する政治家を求めているのか、それとも決して私たちを不快にさせず、決して言葉を間違えず、決して炎上しない人物を求めているのか。

 もし後者であるなら、政治家たちは私たちの期待に適応して、ますます安全な言葉を選ぶようになるだろう。けれども、安全な言葉が増えることと、良い政治が増えることは、必ずしも同じではない。

 そして、何も間違えないための最も確実な方法は、昔から変わらない。

 何も言わないことである。

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 政治家について誰かと話していると、不思議なことに気づくことがある。その政治家が具体的に何を実現しようとしているのかを尋ねると、税制や社会保障、産業政策、安全保障といった話はなかなか出てこないのに、「強い」「頼もしい」「怖い」「保守的だ」「はっきりしている」といった人物の印象については、驚くほどすぐ言葉が返ってくるのである。政治というものが本来、制度や予算や法律を扱う営みであることを考えると、これは少し奇妙な現象に見える。

 高市早苗という政治家は、その奇妙さを考えるうえで興味深い存在である。2025年10月に自由民主党総裁となり、同月に内閣総理大臣に就任、その後2026年2月の総選挙を経て第2次高市内閣を発足させた現在、高市氏は「将来の首相候補」として論じられる人物ではなく、実際に日本の政策決定の中心にいる。それにもかかわらず、高市氏について語られるとき、財政政策や産業政策の細部より先に、彼女の話し方や言葉の強さが話題になる場面は少なくない。

 象徴的だったのが、2025年10月、自民党総裁に選出された直後の演説である。高市氏は党の立て直しに向けて自らのワークライフバランスにも触れながら、「働いて」という言葉を五回繰り返した。この発言は広く報じられ、ある人には党を立て直す覚悟の表現として受け取られた一方、別の人には長時間労働を美徳とするような危うさを感じさせる言葉として受け止められた。

 興味深いのは、同じ発言を聞いた人々が、まったく同じ人物像を思い浮かべたわけではないことである。ある人には「覚悟のある政治家」に見え、別の人には「強引な政治家」に見える。言葉そのものは一つでも、その言葉が入っていく先には、すでにそれぞれの高市早苗像が存在している。

 ここに、高市氏個人を越えた現代政治の問題が見えてくる。私たちは政治家の政策を理解し、その結果として人物イメージを作っているのだろうか。それとも、先に作られた人物イメージを通して、その後の政策や発言を読み直しているのだろうか。

「政策の高市」と「言葉の高市」

 高市氏を単純に「強い言葉を使う政治家」とだけ捉えると、実際の政治家像のかなり大きな部分を取り落とすことになる。本人は2026年1月の記者会見で「政策の高市」を自認してきたと述べており、実際、高市政権にはかなり明確な政策体系がある。

 中心に置かれているのが「責任ある積極財政」である。政府が成長分野や安全保障上重要な分野への投資を行い、それを民間投資や所得の増加へつなげ、経済規模を拡大させながら財政の持続可能性も確保しようという考え方で、その周囲には半導体をはじめとする先端産業、経済安全保障、食料安全保障、エネルギー・資源安全保障、防災、国土強靱化、サイバーセキュリティ、医療、研究開発などが配置されている。

 もちろん、それらの政策が期待通りの結果を生むかどうかは別問題である。積極的な政府支出によって成長力を高められるという考えには一定の理屈がある一方、財政負担や金利、市場の信認をどのように管理するのかという論点は消えない。外交・安全保障についても、日本を取り巻く安全保障環境に対応するため抑止力を高める必要があるという見方がある一方、政策や発言の出し方次第では周辺国との緊張を高める可能性を懸念する見方も成り立つ。

 つまり、高市氏の政策を本気で評価しようとすれば、本来かなり長い文章が必要になる。

 ところが、人間の記憶は政策文書をそのまま保存してはくれない。

 何十ページもの政策集より一つの言葉の方が覚えやすく、数年間にわたる財政戦略より「強く豊かに」という表現の方が頭に残りやすい。2026年の施政方針演説でも、高市氏は成長政策を説明するなかで、「成長のスイッチを押す」という表現を印象的に繰り返している。

 もっとも、ここで注意しなければならないのは、高市氏の演説が常に強い言葉だけで作られているわけではないということである。同じ施政方針演説の中では「様々なお声に耳を傾け、謙虚に、しかし、大胆に」といった表現も使われており、協調や慎重さを意識した言葉も存在する。「働いて」「強く」「押す」といった言葉だけを拾い集めれば、当然ながら「高市氏は強い言葉ばかり使う」という結論が生まれやすくなるが、それ自体が、分析する側の選び方によって人物像が作られてしまう一例でもある。

 それでも、高市氏の政治言語に、行動を感じさせる動詞が目立つことは確かである。働く、守る、強くする、押す、前へ進む。政策文書の高市早苗が制度を説明する政治家だとすれば、演説の高市早苗は、複雑な政策を動詞へと圧縮して提示する政治家だと言えるのかもしれない。

有権者は政策を全部読んでから投票するわけではない

 しかし、この現象を「有権者は政策を読まない」と批判するだけでは、政治の現実を十分に説明できない。

 そもそも一人の有権者が、税制、社会保障、外交、防衛、エネルギー、農業、教育、医療、産業政策、憲法といった多数の政策について各党の主張を詳細に比較し、それぞれの財源や副作用まで調べたうえで投票することは、現実にはかなり難しい。仕事をし、家庭生活を送りながら、選挙のたびに数百ページの政策資料を読むことのできる人は多くない。

 そこで人は、限られた情報から判断するための手掛かりを使う。政党名、政治家の経歴、話し方、表情、過去の実績、報道で繰り返される言葉などから、「この人物はおそらくこういう政治家だろう」と推測するのである。政治学や政治心理学では、こうした判断の近道はヒューリスティクス(heuristics・限られた情報をもとに効率的な判断を行うための認知的手掛かり)として研究されてきた。

 これは必ずしも愚かな判断方法ではない。政治家が長年にわたって一貫して安全保障政策を重視してきたなら、その経歴を見て「安全保障を重視する政治家だ」と判断することには合理性がある。所属政党から大まかな政策方向を推測することにも一定の情報価値がある。私たちは日常生活でも、すべての情報を一から検証して判断しているわけではなく、過去の経験や信用、評判を使いながら意思決定している。

 問題は、その便利な近道が、いつの間にか判断そのものを支配する可能性があることだ。

 いったん「高市早苗は強い政治家だ」という人物像を持てば、安全保障政策が「決断力」の証拠として見えやすくなるかもしれない。逆に「高市早苗は強硬な政治家だ」という印象を持っていれば、同じ政策が「危うさ」の証拠に見えることもあり得る。人物イメージが必ず政策評価を決定するわけではないが、いったん形成された人物像が、その後の発言や政策の受け止め方に影響する可能性は十分に考えられる。

 同時に、その逆方向もある。新しい政策を知ることで人物イメージが変わることもあり、予想外に穏当な発言を聞けば、それまでの印象が修正されることもある。政治家のイメージと政策評価は、どちらか一方が原因で、もう一方が結果になるほど単純ではなく、互いに影響し合いながら作られていくと考えた方が現実に近いだろう。

「働いて、働いて」は何を意味したのか

 先ほどの「働いて」という発言を、この視点からもう一度見てみると面白い。

 発言の文脈は、自民党を立て直すため、自分自身も党所属議員も徹底的に働くという決意を述べたものだった。その意味では、「日本国民全体に長時間労働を要求した発言」と理解するなら、実際の文脈より広く解釈していることになる。

 しかし一方で、将来の首相就任が現実味を帯びていた政党総裁が、ワークライフバランスを捨てると語れば、それを単なる党内向けの掛け声ではなく、日本社会の働き方に対する象徴的メッセージとして受け止める人が現れることも不自然ではない。政府自身が長時間労働の是正や仕事と生活の両立を政策課題としてきただけに、その発言と従来政策との整合性を問う批判にも理由がある。

 だから、この発言について「何の問題もない」と片づけることも、「長時間労働を国民に強制した発言だ」と断定することも、どちらも言葉を少し単純化してしまう。

 ところが政治の世界では、この「少し単純化された説明」の方が圧倒的に流通しやすい。

 数十分の演説はニュースになると数十秒になり、交流型ソーシャルメディアではさらに短い映像へ切り取られ、最後には一つの言葉だけが記憶に残る。政治家の人格は本来、何年、何十年という政治活動の積み重ねによって判断されるべきものなのに、私たちのスマートフォンの画面の中では、ときに十秒ほどで完成してしまうのである。

高市早苗のイメージを作っているのは誰か

 では、「強い政治家」という高市氏のイメージを作ったのは誰なのだろう。

 最初の作者が高市氏本人であることは間違いない。政治家は自分の言葉を選び、「強い経済」「強い外交・安全保障」「日本列島を、強く豊かに」といった表現を自ら発している以上、高市氏自身が「強さ」という概念を政治的メッセージとして意識的に利用していると見ることには一定の根拠がある。

 しかし、その言葉が社会に届くまでには、何人もの編集者が存在する。新聞やテレビは長い演説の中からニュース価値があると判断した一部分を選び、見出しを付ける。交流型ソーシャルメディアでは利用者がさらに短い場面を切り抜き、そこへ賛成や批判の文章を添える。そして、それを見た別の利用者が再び共有する。

 この過程では、支持者と批判者が正反対の評価をしながら、結果的に同じイメージを強めることもあり得る。支持者が「ここまで言い切れる政治家はいない」と高市氏の映像を繰り返し共有し、批判者が「この言葉こそ危険性の証拠だ」と同じ映像を広めれば、評価そのものは正反対でも、「高市早苗は強い言葉を使う政治家だ」という共通イメージだけは社会に残りやすくなる。

 ただし、これは高市氏について直接実証された結論ではない。実際に確認するためには、交流型ソーシャルメディア上の投稿を大量に収集し、肯定的投稿と否定的投稿の双方でどの発言が共有され、どのような語句とともに拡散されたのかを時系列で調べる必要がある。現段階では、「そのような作用が起こり得る」という仮説として扱うのが妥当だろう。

世論調査は「政策か人柄か」に答えてくれるのか

 2026年8月のテレビ朝日の世論調査には、この問題を考えるうえで興味深い数字がある。

 高市内閣を支持する理由として「政策に期待が持てる」と答えた人は24.1%、「高市総理の人柄が信頼できる」は19.7%、「他の内閣よりよさそう」は32.4%だった。不支持理由では、「政策に期待が持てない」が43.9%、「人柄が信頼できない」が23.0%となっている。

 この数字を見ると、「高市氏は政策よりイメージだけで支持されている」という単純な説明は成り立たない。支持する側にも政策を理由にする人がかなり存在し、むしろ「人柄」より「政策」を選んだ人の方が多い。一方、不支持側でも政策への評価が大きな比重を占めている。

 もっとも、この調査から「高市氏は政策で評価されている」と逆方向に断定することもできない。回答者は複数ある理由の中から一つを選ぶ形式になっているため、実際には「人柄も政策も評価している」という人でも、どちらか一方しか回答できないからである。

 さらに重要なのは、このような世論調査から因果関係までは分からないことである。高市氏の人柄を信頼したから内閣を支持するようになったのか、それとも先に内閣を支持しているため「人柄も信頼できる」と感じるようになったのかは、この数字だけでは判定できない。同じように、政策への評価と人物への評価のどちらが時間的に先に形成されたのかも分からない。

 それでも、この調査から一つ確かなことがあるとすれば、政治的支持が政策だけ、あるいは人物だけで説明できるほど単純ではないということである。私たちは政策を見ながら人物を考え、人物を見ながら政策を読む。その二つは頭の中で切り離されているわけではないらしい。

名前を消したら、高市早苗の政策はどう見えるのか

 ここで、小さな思考実験をしてみたい。

 紙の上から「高市早苗」という名前を消し、「国内投資を増やして先端産業への政府支援を拡大する」「経済安全保障を強化する」「政府支出によって成長力を高めながら、経済規模に対する債務の比率を改善していく」とだけ書いてあったとする。

 それを読んだときと、同じ紙の一番上に大きく「高市早苗」と書かれているときで、政策に対する印象は本当に変わらないだろうか。

 高市氏を支持する人なら、名前を見ることで政策をより好意的に評価するかもしれないし、高市氏に強い不信感を持つ人なら、同じ政策でも警戒するかもしれない。しかし実際には名前の有無で評価がほとんど変わらない人もいるだろう。だから、この思考実験だけで「人は政策ではなく政治家の名前を選んでいる」と結論づけることはできない。

 それでも、この問いを自分に向けることには意味がある。

 もし政治家の名前を隠した瞬間に、自分の政策評価が大きく揺れるのであれば、それまで政策だけを判断していたわけではなかった可能性があるからである。

 そして、この現象は高市氏に限らない。石破茂でも、小泉進次郎でも、野田佳彦でも、麻生太郎でも同じ問いを立てることができる。

 政治家の名前には、その人物の過去、所属政党、報道、支持者、批判者、発言、成功、失敗といった膨大な情報が圧縮されている。「名前を知っている」というだけで、私たちはすでに多くの情報を政策の上に重ねて見ているのである。

「強い言葉」は悪いことなのか

 ここまで考えると、「強い言葉を使う政治家は危険だ」という結論にも慎重になる必要がある。

 民主政治では、複雑な政策を社会へ伝えるために、ある程度の単純化は避けられない。「責任ある積極財政」という表現も、「強い経済」という表現も、本来は何十もの政策を短い言葉にまとめた入口である。政治家が有権者に方向性を示そうとする以上、記憶に残る言葉を使うこと自体は政治コミュニケーションの一部であり、それだけで良いとも悪いとも言えない。

 むしろ問題になるのは、入口だったはずの言葉が、そのまま出口になってしまうときである。

 「強い日本」という言葉を聞いて安心して終わるのではなく、何を強くするのか、そのためにいくら費用が必要なのか、誰が利益を得て誰が負担するのか、別の選択肢と比べて何が優れているのかを見る必要がある。「積極財政」という言葉を聞いて期待するだけでなく、どの支出が成長を生み、どの支出が将来負担として残る可能性があるのかまで考えなければならない。

 これは高市氏を批判する側にも同じように当てはまる。強い言葉を聞いた瞬間に「危険な政治家」と結論づけてしまえば、それもまた政策を検討する手続きを省略していることになる。政策を批判するのであれば、どの部分に問題があり、どのような代替案があり、その結果がどう違うのかまで問わなければ、支持者とは逆方向の近道を走っているだけかもしれない。

最後の編集者は私たち自身である

 高市早苗という政治家のイメージを作っているのは誰なのか。

 高市氏本人が言葉を発し、政党がそれを政治メッセージに整え、報道機関が一部分を選び、交流型ソーシャルメディアがさらに切り取り、支持者と批判者がそれぞれ意味を与える。

 しかし、その長い工程の最後にいる人物を忘れてはいけない。

 それは、私たち自身である。

 画面に流れてきた十秒の映像を見て「やはりこの人は頼りになる」と感じたときにも、「やはりこの人は危険だ」と感じたときにも、私たちの頭の中では一人の政治家像が少しずつ出来上がっている。そして一度形成されたその像は、次に入ってくる政策や発言を解釈するときのレンズになり得る。

 だから高市早苗について考えるとき、本当に興味深い問いは、「高市氏は強い政治家なのか」ではないのかもしれない。

 むしろ、「私はなぜ高市氏を強い政治家だと思うようになったのか」と自分自身に問い返すことである。

 高市氏自身の言葉なのか。テレビの見出しなのか。交流型ソーシャルメディアで繰り返し見た映像なのか。支持する人から聞いた評価なのか。批判する人から聞いた評価なのか。それとも、実際に政策を読み、自分なりに考えた結果なのか。

 おそらく、そのすべてが少しずつ混ざっている。

 高市早苗が「政策」より「強い言葉」で先に理解されているということを、現在の資料だけから科学的事実として断定することはできない。政治家イメージが政治評価と関係すること、有権者が政党名や人物像のような手掛かりを利用して判断することについては研究の蓄積がある一方、高市氏について「強い言葉が先に認知され、その結果として政策評価が変化した」という一連の因果関係が直接測定されたわけではないからである。

 しかし、だからこそ、この問いは面白い。

 高市氏には実際にかなり具体的な政策体系があり、それを短く記憶に残る言葉へ圧縮する政治的な話法もある。そして私たち有権者の側には、複雑な政策をすべて処理する代わりに、人物像や政党、印象的な言葉を判断の手掛かりとして利用する性質がある。

 政治家が言葉を作り、メディアがその言葉を選び、交流型ソーシャルメディアがそれを増幅し、最後に私たちが意味を与える。その共同作業の中で、「高市早苗」という政治家像が出来上がっていく。

 政治家を見るという行為は、政治家だけを見ることではない。

 その人を見ている自分が、何を選んで見て、何を忘れ、どの言葉だけを記憶しているのかまで含めて初めて、政治家を見ていることになるのかもしれない。

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