地域政経

九条レオンの地域から社会と政治・経済のこれからを考える

 1998年7月24日、自民党総裁選の結果が出た。小渕恵三225票、梶山静六102票、小泉純一郎84票。最も多くの票を集めたのは、三人のなかで最も強烈な印象を与えない男だった。この総裁選を前に、田中眞紀子は三人を「凡人・軍人・変人」と評したとされる。軍人は旧陸軍航空士官学校出身で剛腕の印象を持つ梶山、変人は党内の常識に逆らって持論を唱える小泉、そして凡人が小渕だった。

 この言葉はあまりに分かりやすかったため、三人の政策以上に後世へ残った。しかし考えてみれば、「凡人」という呼び名には奇妙なところがある。本当に平凡なだけの政治家が、日本最大の政党の総裁となり、内閣総理大臣にまで到達できるものだろうか。

 小渕は総裁選に突然現れた無名の政治家ではなかった。1963年、26歳で衆議院議員に初当選して以来、すでに35年間も国会におり、竹下内閣では官房長官として新元号「平成」を発表し、自民党幹事長、党副総裁、有力派閥の会長、橋本内閣の外務大臣まで経験していた。国民から見れば柔和な「平成おじさん」であっても、永田町の内部から見れば、すでに自民党政治の中心部を長く歩いてきた人物だったのである。

 だから小渕を理解するには、「凡人なのに総理になった」という物語からいったん離れた方がよい。むしろ興味深いのは、これほど長く権力の中心にいた政治家が、なぜ最後まで「凡人」に見え続けたのかということである。

巨人二人のいる選挙区から始まった

 小渕恵三の政治家人生には、最初から有利な条件があった。父の小渕光平は衆議院議員であり、その政治地盤を引き継いでの出馬だったから、小渕は明らかな世襲政治家である。したがって、「何も持たない普通の青年が努力だけで総理へ上り詰めた」という成功物語にしてしまうのは正確ではない。

 しかし、受け継いだ地盤がそのまま安泰を意味したわけでもなかった。小渕が初当選した旧群馬3区には、すでに福田赳夫と中曽根康弘がいた。後に二人とも総理大臣となる。26歳の新人小渕は、やがて戦後政治を代表する二人の大物と同じ選挙区で議席を争い、その環境のなかで初当選し、その後も連続して議席を守り続けた。

 この出発点は、小渕という政治家の生き方を象徴しているように見える。福田のような政策家として圧倒するのでも、中曽根のように国家像を雄弁に語って存在感を示すのでもない。自分より目立つ人物が周囲にいる環境のなかで、それでも消えずに残り続ける方法を身につける必要があった。

 政治では、目立つことと生き残ることは同じではない。演説がうまい政治家が必ず選挙に強いわけではなく、政策に詳しい政治家が党内で多数を形成できるとも限らない。とりわけ当時の自民党では、選挙区で票を積み、派閥のなかで信用を積み、他派閥との関係を保ち、人事や選挙や資金をめぐる長い貸し借りのなかで自らの位置を高めていくことが、権力への重要な経路だった。

 小渕が得意としたのは、まさにそうしたテレビには映りにくい政治だった。

小渕は「突然出世した」のではない

 小渕の経歴を時系列で眺めると、劇的な跳躍は意外なほど少ない。若くして一気に党内を駆け上がった小沢一郎とも違い、後に世論を味方につけて党内秩序そのものを揺さぶった小泉純一郎とも違う。小渕の政治人生には長い時間が流れており、その時間そのものが政治的資産になっていった。

 田中角栄の流れをくむ派閥に入り、やがて竹下登に近い政治家として地歩を固め、1987年の竹下内閣で官房長官となった。国民にとって最も鮮烈だった場面は、1989年1月に「平成」と書かれた額を掲げた瞬間だったが、それは小渕にとって政治人生の頂点ではなく、むしろ党内中枢へ入ったことを示す一つの通過点だった。その後も党幹事長、副総裁、外相といった要職を重ねていく。

 そして1992年、小渕の政治人生を決定的に変える出来事が起こる。巨大な竹下派では、金丸信の失脚後、後継会長をめぐって激しい対立が起きていた。小沢一郎らは羽田孜を推し、それに対抗する側は小渕を推した。ここで重要なのは、小渕が派閥会長になった事実を「温厚な人柄が評価されたから」とだけ説明しないことである。

 小渕の背後には竹下登を中心とする党内勢力があり、参議院側を含む派閥内の力関係があり、さらに小沢への警戒を強める議員たちの結集があった。小渕自身の信用や調整能力はもちろん重要だったとしても、巨大派閥の後継争いという組織政治のなかで選ばれたのであって、一人の人間的魅力だけで頂点へ押し上げられたわけではない。

 結果として竹下派は分裂し、羽田・小沢系の議員たちは別の道へ進む一方、小渕は旧竹下派の主要部分を率いることになった。この出来事によって、小渕は単なるベテラン議員から、自民党内の巨大な票の集団を背負う政治家へ変わった。

「凡人」の背後に巨大派閥があった

 小渕が1998年の総裁選で勝った理由を考えるとき、最も重要なのはここである。総裁選当時、小渕派はおよそ90人規模を抱える自民党最大級の派閥であり、小渕はその会長だった。

 この事実を抜きにして、「人柄がよかったから225票を取った」と説明すれば、小渕政治の核心を見誤る。自民党総裁選は国民による直接選挙ではない。当時の制度では国会議員票の比重が極めて大きく、派閥の所属議員がどこへ投票するかは決定的な意味を持っていた。

 小渕にはまず、自らが率いる大きな派閥という組織的基盤があった。そのうえで宮澤派など他派閥からも支持を広げ、最終的に225票を獲得した。つまり、1998年の勝利を説明する第一の要因は、35年間にわたる人間関係を漠然と「信用」と呼ぶことではなく、長い政治生活の末に自民党最大級の派閥を率いる位置まで到達していたという、目に見える組織的条件である。

 しかし、それだけなら話はまだ終わらない。派閥の力が大きかったとしても、すべての派閥会長が総理になれるわけではないからである。小渕が持っていたもう一つの特徴が、ここで効いてくる。

「敵をつくらない」は弱さだったのか

 強い政治家という言葉を聞くと、私たちはしばしば決断力のある人物を想像する。反対を押し切り、大胆な改革を打ち出し、敵と味方を鮮明にし、自らの理念に政治を引き寄せていくタイプである。しかし、その強さには必ず代償がある。熱烈な支持者をつくる政治家は、同時に強烈な反対者もつくりやすい。

 小渕は、その対極にいた。

 相手を論破して自分を大きく見せるより、話を聞き、電話をかけ、関係を切らない。総理になった後には、本人が直接さまざまな人へ電話することから「ブッチホン」という言葉まで生まれたが、これは単なる庶民派の演出というより、小渕が長く続けてきた政治の作法を象徴していた。

 中曽根康弘から「真空総理」と評されたように、小渕は何をしたい政治家なのか輪郭が見えにくいとも批判された。しかし、政治において輪郭が薄いことは、常に弱点とは限らない。自分の主張を鋭く打ち出さない分だけ、異なる立場の人間が近づく余地が残り、「この人物が権力を握れば自分は排除される」という恐怖を相手に抱かせにくくなるからである。

 ただし、ここで因果関係を逆転させない方がよい。小渕が敵をつくらなかったから総理になれたと証明することはできないし、「凡人だったから敵が少なかった」と断定することもできない。むしろ逆に考えることもできる。

 小渕はもともと凡人だったから調整型になったのではなく、巨大な自民党という組織のなかで何十年も生き残るために、相手を不用意に刺激せず、対立を決定的にせず、関係をつなぎ続ける政治を身につけ、その結果として外からは「凡人」に見える政治家になったのかもしれない。

 そう考えると、「凡人」という言葉の意味はかなり変わってくる。

1998年という時代が小渕を押し上げた

 1998年、小渕に総理への機会が訪れた背景には、日本政治そのものの危機があった。

 日本経済はバブル崩壊後の長い停滞から抜け出せず、1997年には北海道拓殖銀行が経営破綻し、山一證券が自主廃業するなど金融不安が深刻化していた。橋本龍太郎政権の下では景気悪化への批判が強まり、1998年7月の参議院選挙で自民党は大きく議席を減らした。橋本は責任を取って退陣し、後継総裁を決める選挙が行われることになる。

 そこで立候補したのが小渕、梶山、小泉の三人だった。

 後の歴史を知る私たちから見ると、小泉の方がはるかに「総理らしい」人物に見えるかもしれない。実際、わずか3年後、小泉は国民的人気を背景に総理へ上り詰める。しかし1998年の自民党総裁選で問われていたものは、2001年とは違っていた。

 日本の首相は大統領のように国民が直接選ぶわけではなく、国会で指名される。当時は自民党が衆議院で最大勢力だったため、自民党総裁になることが事実上、総理になるための最大の関門だった。しかも総裁選では党内の国会議員票が決定的な重みを持っていたため、テレビで最も人気のある人物ではなく、党内で最も多くの支持をまとめられる人物が有利になる。

 この制度のなかで見ると、小渕の35年間は単なる長い経歴ではなくなる。選挙を繰り返し、派閥のなかで地位を高め、官房長官、幹事長、副総裁、外相を経験し、巨大派閥の会長となり、他派閥とも関係を維持してきた時間のすべてが、総裁選で票を集めるための資産へ変わったのである。

 小渕225票という数字は、数週間の選挙運動で突然生まれた人気ではない。それ以前の数十年間に形成されていた党内権力の構造が、最後に数字として現れたものだった。

「凡人」の政治は総理になってから試された

 総理になれば、派閥の力だけで政治を動かせるわけではない。むしろ小渕にとって本当の試験はそこから始まった。

 参議院では自民党が過半数を失っていたため、政府提出法案を自民党だけで成立させることは難しかった。とりわけ金融危機への対応では、与野党の激しい対立が続き、最終的に政府・与党側は野党側の考えを大幅に取り入れながら金融再生法を成立させた。

 ここでも小渕政治の特徴が現れている。自分の案を守ることそのものを目的とするのではなく、成立させるために修正し、異なる勢力との合意点を探す。その後、小渕政権は自由党との連立へ進み、さらに公明党を加えた自自公連立を形成する。

 だからといって、「1998年には小渕のような政治家でなければならなかった」とまで言うことはできない。梶山や小泉が総理になっていれば何が起こったかを検証することはできず、歴史に比較実験は存在しないからである。

 ただ、結果として見るならば、参議院で単独過半数を持たず、金融危機への迅速な対応が必要で、さらに連立相手を求めなければならなかった当時の政治状況と、小渕が長年培ってきた調整型の政治手法との相性がよかったことは確かだろう。

 その意味で、小渕は時代を自分の思想によって作り替えた政治家というより、時代が要求する複雑な条件のなかで、利用できる選択肢をつなぎ合わせながら前へ進んだ政治家だった。

調整型政治には、当然ながら代償もある

 ここまで書くと、小渕が実は優れた名宰相だったという話に聞こえるかもしれない。しかし、それもまた単純化である。

 小渕政権は景気悪化と金融危機に対応するため、大規模な公共事業や減税を含む積極的な財政政策を進めた。景気を下支えする必要があったことは確かだが、その結果として国債発行は大幅に増え、財政悪化を加速させたという批判も残った。

 また、調整型政治には別の弱点もある。多くの勢力との妥協を重ねれば政策の輪郭は薄くなり、何を実現する政権なのかが分かりにくくなる。対立を避ける政治は合意を生みやすい一方で、問題を根本から変える決断を遅らせることもある。

 だから小渕政治を評価するときには、「強いリーダーではなかった」という批判も、「合意形成に優れた政治家だった」という評価も、どちらか一方だけを採用する必要はない。両方が同時に成り立つからである。

総理になった理由は「凡人だったから」ではない

 では、小渕恵三はなぜ総理大臣まで上り詰めたのか。

 その答えを一つの性格に求めることはできない。父から受け継いだ選挙地盤があり、26歳という若さで国会へ入り、35年間にわたって議席を守り続け、田中・竹下系の巨大派閥のなかで地位を高め、竹下登ら党内実力者の支持を背景に派閥会長となり、最終的には自民党最大級の派閥を率いた。その組織力を基盤に他派閥からも支持を集め、そこへ敵を不用意につくらず関係を維持する調整型の政治手法が重なり、さらに橋本退陣という政治的機会が訪れた。

 世襲、選挙、派閥、組織、人脈、経験、性格、そして時代。小渕恵三を総理にしたのは、そのどれか一つではなく、それらが長い時間をかけて重なった結果だった。

 だから小渕の人生を、「普通の人でも努力すれば総理になれる」という美談として読むのは適切ではない。むしろこの人物が教えてくれるのは、政治における「能力」という言葉の意味が、私たちがテレビ越しに見る能力とはかなり違うということである。

 私たちは政治家を見れば、演説の鋭さ、政策の大胆さ、知名度、カリスマ性、討論の強さといった目につきやすい能力を評価する。しかし、組織のなかで権力を形成する能力は、それほど分かりやすくない。誰と話せるのか、誰から完全には嫌われないのか、誰なら別の勢力との間に置くことができるのか、誰が何十年も関係を切らずにいられるのかという、数字にもテレビにも映りにくい能力によって組織は動いている。

 小渕が長い政治生活のなかで蓄積したものを一言で表すなら、それはおそらく「見えない政治資本」だった。

 梶山には「軍人」という輪郭があり、小泉には「変人」という輪郭があった。それに比べて小渕には、一言で説明できるほど鮮烈な輪郭がなかった。だから「凡人」と呼ばれた。しかし、巨大な組織のなかでは、輪郭が鋭くないことが、かえって多くの人を自分の周囲に残すこともある。

 そして、もう一つ考えておくべきことがある。小渕は凡人だったから調整型政治家になったのではなく、何十年にもわたって調整型政治家として生きた結果、凡人に見えるようになったのではないかということである。

 もしそうなら、「凡人」という評価は小渕恵三という政治家の弱点を言い当てた言葉であると同時に、彼の最大の政治技術を見落とした言葉でもあったことになる。

 1998年、自民党が総裁に選んだのは、最も強烈な男ではなかった。

 しかし、最も目立たなかった男が偶然最後に残ったわけでもない。長い歳月をかけて巨大な組織の中心へ近づき、多くの人間との糸を切らず、その時が来たときには最大級の派閥と他派閥の支持を動かせる位置にいた男が、最後に225票を集めたのである。

 「凡人が総理になった」のではない。

 総理になれるほど複雑な政治技術を身につけた人物が、最後まで凡人に見えていたのである。

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 「派閥政治をなくせば、日本の政治はもっと良くなる」。そう言われると、ほとんど反論の余地がないようにも聞こえる。派閥という言葉には、政策を競い合う議員集団というより、料亭での密談、総裁選の票読み、派閥順送りの人事、そして政治資金をめぐる不透明な関係といった、いささか古びた永田町の風景が重なっているからだ。自民党派閥の政治資金をめぐる問題が大きく表面化した後では、なおさら「派閥をなくす」という言葉そのものが政治改革を意味するようになった。

 実際、自民党は2024年以降、従来型の派閥から資金と人事の機能を切り離す改革を進めてきた。政治資金制度についても、政党などが議員個人に資金を渡し、その最終的な使途を明らかにしない、いわゆる政策活動費を禁止する改正政治資金規正法が2026年1月1日に施行された。少なくとも制度の表面だけを見れば、日本政治は長く続いた「派閥ありき」の政治から一歩離れようとしているように見える。

 ところが、政治というものは看板を外しただけでは終わらない。2026年に入ると、解散した旧派閥の議員たちが再び会合を重ねる動きが目立つようになった。旧二階派の議員を中心に「総合安全保障研究会」という政策グループがつくられ、旧安倍派や旧岸田派の人脈にも会合の動きが見られる一方、解散しなかった麻生派は衆議院選挙後に新人らを加えて60人となった。ただし、ここで「派閥が完全復活した」とまで断定するのは早い。現在確認できるのは、旧派閥を基礎とする人脈や政策集団が再び動き始めているという事実であり、それがかつてと同じ資金・人事機能を持つ派閥へ戻るかどうかは、まだ観察の途中にある。

 しかし、この動きは一つの重要な問いを突きつけている。そもそも派閥とは、誰かが意図的に発明した日本政治の悪習だったのだろうか。それとも、日本の選挙制度や政党組織、人事制度が長い時間をかけて生み出した一つの合理的な帰結だったのだろうか。この違いを考えないまま派閥の善悪だけを論じても、派閥が消えた後に何が現れるのかまでは見えてこない。

派閥を育てたのは「同じ党の候補との競争」だった

 自民党の派閥を理解するには、1994年の政治改革以前まで時計を戻す必要がある。当時の衆議院選挙では中選挙区制が採用され、一つの選挙区から複数の議員が選ばれていたため、自民党は同じ選挙区に複数の候補者を立てることが珍しくなかった。その結果、自民党候補にとって最も手ごわい競争相手が野党候補ではなく、同じ自民党の別の候補になるという、現在から見ると不思議な政治状況が生まれていた。

 同じ党なのだから、政党名も大まかな政策も同じである。それでも有権者には自分の名前を書いてもらわなければならない。そこで候補者は個人後援会をつくり、地域との結びつきを強め、自ら選挙資金を集めると同時に、中央政界では選挙や資金、人事で支えてくれる有力政治家を必要とした。こうした環境の中で派閥は強くなり、領袖は所属議員を支え、所属議員は総裁選などで領袖を支えるという交換関係が発達していった。

 もちろん、派閥そのものを中選挙区制が一から生み出したと考えるのは正確ではない。自民党は1955年、自由党と日本民主党が合同して誕生した政党であり、結党以前から政治家同士の人脈や系列は存在していた。ただ、中選挙区制が党内競争を強め、それらの人脈を資金・選挙・人事を伴う強固な組織へ発達させる重要な条件になったと考えるのが、より実態に近い。

 その構造を大きく変えたのが1994年の選挙制度改革だった。小選挙区比例代表並立制の導入によって、一つの小選挙区から一人しか当選しない仕組みが中心となれば、同じ政党から複数候補が競争する場面は大幅に減る。政治学の研究でも、制度改革後には派閥が候補者公認に及ぼす影響力が弱まり、党執行部の公認権が相対的に重要になったことが指摘されている。一方で、派閥による人事や党内ポストをめぐる機能は完全には消えず、派閥は役割を変えながら残った。つまり派閥は、制度が一つ変われば消えてしまうほど単純な組織ではなかったのである。

派閥をなくすことと、派閥の仕事をなくすことは違う

 会社から営業部という名称を消しても、商品を売る仕事までなくなるわけではない。誰かが営業をしなければ会社が回らないように、政治組織でも名前をなくしただけでは消えない機能がある。数百人の国会議員を抱える巨大政党で、すべての議員が党首と直接相談し、すべての政策について全員で同時に議論することなど現実にはできないため、情報を集める人、意見をまとめる人、新人を育てる人、政策分野ごとの専門家を結びつける人がどうしても必要になる。

 興味深いことに、この問題を認識しているのは派閥を擁護する政治学者だけではない。自民党自身が公表したガバナンス体制に関する報告書でも、従来の派閥が情報共有、人材育成、意見集約、意思疎通の一部を担ってきたことを認め、その機能をこれから党組織としてどのように代替するかを課題として挙げている。さらに同報告書は、単純に権限を中央へ集めればよいのではなく、「集権」と「分権」の均衡が必要だとしている。これは、自民党自身が「派閥を消した後にも組織として残る問題」があることを認めているに等しい。

 したがって、派閥改革の本当の問題は派閥という部屋を閉鎖することではなく、その部屋で行われていた仕事をこれから誰が引き受けるのかという点にある。人材育成を党本部が担うのか、政策研究会が担うのか、地方組織が担うのかによって、同じ「派閥廃止」でも出来上がる政党の姿はまるで違ってくる。

派閥が弱くなると、党執行部は相対的に強くなりやすい

 派閥政治には明らかな弊害があった。能力や専門性より派閥の順番が優先される人事、総裁選をめぐる数合わせ、資金を通じた上下関係が政治への不信を招いてきたことは否定しにくい。それなら派閥が弱くなれば、政治家は派閥領袖の束縛から解放され、能力だけで評価されるようになるのではないかと考えたくなる。

 ところが、権力というものは消えるより移動することの方が多い。小選挙区では主要政党から原則一人の候補者が公認されるため、現職議員にとって党の公認を得られるかどうかは政治生命に直結する。候補者公認、選挙支援、党内ポスト、人事といった政治的資源を党執行部が握り、その一方で派閥の力が弱まれば、議員一人一人が自由になるとは限らず、むしろ党執行部への依存が高まる可能性がある。

 ただし、ここで「派閥をなくせば総裁独裁になる」と短絡するのも正しくない。1994年以降の変化は、小選挙区制だけではなく、政党交付金、公認制度、政治資金制度、選挙運動の変化など複数の要因が重なって生じたものであり、党総裁と党執行部も完全に同じ存在ではない。政治学研究から言えるのは、選挙制度改革などによって候補者選定にかかわる政治的資源が中央へ集まりやすくなり、党執行部の影響力を行使しやすい環境が生まれたというところまでである。

 それでも、ここには派閥改革の一つの逆説がある。かつての「派閥の領袖に逆らいにくい政治」がなくなったとしても、その代わりに「党執行部に逆らいにくい政治」が生まれるのであれば、権力の総量が減ったわけではない。権力の住所が変わっただけである。

派閥は権力の源泉であると同時に、権力を割る装置でもあった

 派閥を考えるうえで難しいのは、派閥が一方では権力を生み出しながら、別の面では権力の集中を防いでいたことである。複数の派閥が競争する自民党では、総裁や首相であっても党内のすべてを自由に決められるわけではなく、他派閥との調整を必要とした。これは政策決定を遅らせ、人事を複雑にする原因になった一方で、党執行部への権力集中を抑える一種の内部的な牽制として作用する場面もあった。

 もちろん、これをそのまま「派閥は民主主義を守っていた」と美化することはできない。有権者から見えないところで数人の派閥幹部が大臣ポストや党役職を調整するのであれば、それは民主的な権力分散とは別のものである。しかし、「派閥を弱めること」と「権力を分散させること」が同じではないという点は重要である。派閥を解体した結果、一か所に権力が集中するのであれば、政治の透明性や意思決定の質が自動的に向上するわけではない。

 政治に必要なのは速度だけでもない。強い執行部は政策決定を速め、選挙で掲げた政策を実行しやすくする一方、内部から異論が出にくくなれば、間違った政策へ進んだときにブレーキを踏む仕組みまで弱くなる可能性がある。政治制度を考えるときには、「誰が決めるか」と同時に「誰が止められるか」を見なければならないのである。

本当に注意すべきなのは、表札のない政治集団かもしれない

 さらに厄介なのは、人間関係には解散届がないことである。何十年も同じ派閥に所属してきた政治家同士には、先輩と後輩、師弟、同期、選挙支援、政策分野などを通じた関係が残っているため、「今日で派閥を解散します」と宣言した翌日から互いが無関係な政治家になるわけではない。

 2026年に旧派閥を基盤とした政策研究会や会合が再び目立つようになっていることは、その意味で興味深い。現在のところ、それらが旧来の派閥と同じように政治資金を集め、人事を要求し、総裁選の票を一括して動かす組織になっていると証明されたわけではない。しかし、人間関係に基づく政治集団そのものが、派閥解散によって消滅したわけでもないことは見えてきている。

 ここには別の危険もある。以前の派閥政治では、「この議員は何派に所属し、領袖は誰で、所属議員は何人なのか」という粗いながらも権力地図を見ることができた。ところが政治団体としての派閥が消え、実際の政治的連携が食事会、勉強会、政策研究会、同期会などの緩やかなネットワークへ移れば、誰と誰が継続的に協力し、誰が人事や政策に影響を及ぼしているのかを外部から把握しにくくなる可能性がある。

 だからといって、非公式な議員グループの方が旧派閥より危険だと現時点で断定することはできない。そこにはまだ十分な実証データがない。しかし、「組織をなくせば透明になる」とも限らないという仮説は、今後の自民党政治を見るうえで重要である。表札を外したことで建物まで消えたと思っていたら、実際には入口だけが分かりにくくなっていたということも、政治の世界では起こり得るからだ。

悪かったのは「集まること」なのか、それとも集団に与えられた権力なのか

 ここまで考えると、改革の対象そのものが少し違って見えてくる。政治家が集まること自体を問題にする必要はない。同じ政策に関心を持つ議員が研究会をつくり、新人議員が経験者から国会運営を学び、ある総裁候補を支持する政治家同士が連携することは、議会政治ではむしろ自然な行為である。

 問うべきなのは、その集団が何を握っているのかである。政治資金を不透明に動かせるのか、人数を背景に大臣や党役職を要求できるのか、候補者公認に影響を与えられるのか、若手議員の昇進や選挙支援を事実上左右できるのか、そして誰がどの意思決定にどれだけ関与したのかを外部から確認できるのかという問題こそが重要になる。

 こう考えれば、派閥改革の核心は「政治家を集団から解放すること」ではなく、「集団形成そのものと、資金・人事・公認という権力資源を切り分けること」にある。政策を研究する集団は存在してもよいが、その集団への所属と大臣就任が交換条件になってはならず、若手を育成する仕組みも特定の領袖への忠誠ではなく、党全体の制度として用意される方が望ましい。資金についても、誰から入り、何に使われたのかを追跡できる仕組みを強くする方が、集団そのものを禁止するより制度として筋が通っている。

派閥は日本政治の原因であると同時に、制度の結果でもあった

 政治改革では、目に見えるものを原因だと思い込みやすい。政治とカネの問題が起これば派閥をなくそうと考え、世襲議員が多ければ世襲そのものを禁止したくなり、政治家が長く在職すれば多選を制限すればよいと思ってしまう。しかし制度を変えるときには、その現象を生み出している一段奥の構造まで見なければ、形を変えた同じ問題が再び現れる。

 政治家には選挙があり、公認があり、政治資金が必要で、党内人事があり、大臣や委員長への昇進があり、総裁選もある。しかも数百人の議員が一つの政党に所属しながら、限られた役職と政治的影響力を競っている。この条件が続くかぎり、政治家には他の政治家と連携し、ある程度まとまった集団をつくる強い誘因が残る。

 三人が情報交換を始め、五人で定期的に会い、十人で特定の政策を共同提案するようになれば、そこにはすでに政治的なネットワークがある。それを派閥と呼ぶのか、政策研究会と呼ぶのか、議員グループと呼ぶのかによって法的・組織的な違いはあるが、人間が集団をつくって政治力を形成するという現象まで消えるわけではない。

 だから本当に問うべきなのは、「派閥を完全になくせるか」ではなく、「政治家が集団をつくることを前提に、その力をどのような透明で公正な制度の中へ置くか」である。

派閥のない政治が、きれいな政治とは限らない

 派閥を弱めることで改善できる問題は確かにある。派閥単位での不透明な資金集めを防ぎ、所属派閥の順番だけで大臣や党役職が回ってくる慣行を弱められれば、政治家の専門性や能力を重視する余地は広がる。それだけでも改革には意味がある。

 しかし、派閥がなくなった空間を党執行部だけが埋めれば権力は中央へ集中し、旧派閥の人脈が非公式な集団として残れば権力関係がかえって見えにくくなる可能性があり、さらに人材育成や意見集約まで一緒に失われれば巨大政党を動かす組織能力そのものが落ちるかもしれない。派閥をなくしたという一つの事実だけから、政治が良くなったか悪くなったかを判断することはできないのである。

 それなら、派閥改革の成否を何で測ればよいのだろう。見るべきなのは派閥の数ではなく、政治資金を以前より追跡できるようになったのか、人事の理由を以前より説明できるようになったのか、若手議員が特定の有力者に従属しなくても育つ仕組みができたのか、党内で異論を唱えた議員が直ちに政治生命を失わない制度があるのか、そして誰が誰と結びつき、どのような過程で意思決定が行われたのかを有権者が以前より理解できるようになったのか、という変化である。

 派閥という名前を永田町から消すことはできるかもしれない。しかし、政治家から人間関係を消すことはできない。人が集まれば関係が生まれ、関係が続けば集団が生まれ、集団が形成されればそこには何らかの力が生まれる。その力そのものを消そうとするより、どこに力があり、誰が使い、誰が利益を得て、間違ったときに誰が責任を負うのかを見えるようにする方が、民主政治の制度設計としては現実的である。

 そう考えると、「派閥をなくせば日本政治は良くなるのか」という問いへの答えは、単純な「はい」でも「いいえ」でもない。派閥をなくすことで改善する問題はあるが、改革の本当の成否は、その後に資金、人事、公認、情報、人材育成という政治的資源がどこへ移り、それを誰が監視できるようになるかによって決まる。

 古い派閥の看板が永田町から消えたところで、政治改革は完成しない。むしろ興味深いのはその後であり、空席になったはずの椅子に誰が座るのか、あるいは椅子そのものが別の部屋へ移されるのかを見なければならない。派閥政治の終わりを論じるなら、派閥が消えた瞬間ではなく、その後にどのような権力地図が描かれ始めるのかを見るべきなのである。

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 政治家の力を人気で測ろうとすると、二階俊博という政治家はひどく分かりにくい。

 テレビ映りのよさを武器にした政治家ではない。演説によって大衆を熱狂させるタイプでもなく、国民的人気を背負って総理大臣の座を目指したわけでもない。それどころか、中国との近い関係をめぐっては保守層の一部から厳しく批判され、道路や国土強靱化への強い関与からは利益誘導型政治の象徴のように語られることもあった。新型コロナウイルス感染症の流行期には、旅行業界との長い関係にも批判的な視線が向けられた。そして晩年には政治資金をめぐる問題が直撃し、2024年3月、次の衆議院選挙に立候補しないことを表明するに至った。

 ところが、その二階は2016年8月から2021年10月まで、1886日にわたって自由民主党(自民党)の幹事長を務めた。これは歴代最長である。安倍晋三政権から菅義偉政権へと総理大臣が交代しても、二階は党の中枢に残った。1983年の初当選から数えれば、衆議院議員として13回当選している。

 なぜ、これほど批判されながら権力の中心にいられたのか。

 この問いを解くには、「なぜ二階は人気があったのか」と考えるだけでは足りない。むしろ二階政治の核心は、好かれることよりも、政治の内部で必要とされることにあったのではないか。

権力は、拍手の大きさだけでは測れない

 民主政治では、選挙に勝つことが権力への入口になる。しかし、議員になった後の力関係は、得票数や世論調査の数字だけでは決まらない。

 候補者を誰にするのか。党内の対立をどう収めるのか。地方組織から上がってきた要求をどこへ運ぶのか。政権が危機に直面したとき、誰が異なる派閥の間を走り回るのか。選挙で苦戦している議員を誰が支えるのか。政府と党の意思がずれたとき、最後の着地点を誰が探すのか。

 こうした仕事は、国会中継にはほとんど映らない。

 だが政治組織は、演説する人間だけでは動かない。調整し、紹介し、つなぎ、時には対立する者同士の間に入り、誰かが決断できる環境をつくる人間が必要になる。

 二階は、この見えにくい政治を長く生きてきた。

 その経歴自体が異色である。1993年に自民党を離れ、新生党、新進党、自由党、保守党、保守新党と政党再編の時代を渡り歩いた後、2003年に保守新党が自民党へ合流する形で約10年ぶりに戻った

 普通なら、このような政党遍歴は弱点にもなる。

 しかし、別の角度から見れば、それは一つの政治的資産でもあった。

 自民党の中だけを歩いてきた政治家よりも、野党の事情を知っている。巨大政党だけでなく、小さな政党が生き残る難しさも知っている。昨日まで敵だった政治家が明日には連立相手になることも、新しい政党が数年で消えてしまうことも知っている。

 その経験から何を学んだのかは本人の内面に属するため断定できない。ただ、その後の二階の行動を見る限り、政治的な人間関係を一度の対立だけで切断しないという特徴は繰り返し現れている。

 政治の世界では、今日の敵が永久に敵であるとは限らない。

 その感覚を早くから身につけていたことが、二階の長い政治人生を理解する一つの手掛かりになる。

二階の力は「城」よりも「交差点」に近かった

 二階の権力を「派閥の領袖だったから」と説明することはできる。

 しかし、それだけでは十分ではない。

 2003年に自民党へ戻った二階は、旧保守新党の議員らを中心に「新しい波」という政治グループをつくった。その勢力は決して大きくなかった。2009年に自民党が政権を失った衆議院選挙では、所属国会議員は二階を含めてわずか3人まで減った。それが次第に議員を増やし、2020年には47人となり、党内第4派閥にまで成長している。

 ここには、二階政治を理解する重要な特徴がある。

 巨大派閥を最初から相続したのではない。

 小さな集団から始めて、人を増やしたのである。

 政治学や社会ネットワーク研究には、ブローカー(broker・異なる集団を仲介する主体)という考え方がある。ネットワークの中で力を持つ人物とは、単純に知り合いの数が最も多い人物とは限らない。互いに直接つながっていない人々や集団の間に位置し、情報や交渉の経路になる人物が大きな影響力を持つ場合がある。

 これを数理的に捉える考え方の一つが、媒介中心性(betweenness centrality・他者同士を結ぶ経路上に、ある主体がどの程度位置しているかを見る指標)である。政治に関するネットワーク研究でも、集団間をつなぐ仲介者が、情報伝達や政治的動員において特徴的な位置を占めることが示されている。

 もちろん、二階について媒介中心性を計算した研究が存在するわけではない。

 それでも、この考え方を借りると彼の立ち位置は理解しやすい。

 二階の権力は、巨大な城というより、交通量の多い交差点に近かった。

 交差点そのものは目的地ではない。だが、複数の道がそこで交わり、そこを通らなければ別の場所へ行きにくいとなれば、交差点には独自の価値が生まれる。

 二階が長年築いたのも、それに似た位置だったのではないか。

幹事長という地位が、交差点をさらに大きくした

 その二階に決定的な力を与えたのが、2016年の自民党幹事長就任だった。

 自民党の党則では、幹事長は「総裁を補佐し、党務を執行する」と定められている。また、自民党は過去の機構改革で、選挙実務を総裁と幹事長の下へ集中させる方針も明確にしてきた。  これは単なる名誉職ではない。

 党組織、選挙、人事、資金、地方組織との調整など、政党を実際に動かすさまざまな情報が幹事長周辺へ集まりやすい。

 ここで重要なのは、権力には「命令できる」という形だけでなく、「相談される」という形もあることである。

 相談が集まれば、情報が集まる。

 情報が集まれば、誰が困っているのかが見えてくる。誰と誰が対立しているのか、どの選挙区が危ないのか、どの議員が不満を持っているのか、地方が政府に何を求めているのかが分かる。

 そして、困っている人間を助けることができれば、その間には新しい政治的関係が生まれる。

 したがって、二階については「幹事長になったから強くなった」という一方向だけで考えない方がよい。

 長年蓄積した人脈と政治力があったからこそ幹事長に選ばれ、その幹事長という地位によって、さらに情報、人事、選挙、党内調整への接点が増えた。既存の政治力が役職を生み、役職がまた政治力を強くする。

 その循環が1886日続いたのである。

「総理にならない実力者」という奇妙な強さ

 二階政治には、もう一つ興味深い特徴があった。

 長い政治人生の中で大きな権力を持ちながら、自らが自民党総裁となって総理大臣を目指す動きは前面に出なかった。

 ここを、「安倍晋三にとって二階は使いやすかった」と断定してしまうのは慎重であるべきだろう。安倍本人の心理を外部から確定することはできない。

 しかし、客観的に確認できることはある。

 二階は安倍と総裁職を直接争う立場には立たず、安倍政権下で長期間幹事長を務めた。総理の座を奪う競争相手としてではなく、党運営を担う実力者として存在していた。

 一般論として、党首を目指す有力派閥の領袖と、党首の座を直接争わず組織運営を担う実力者とでは、総裁との関係は異なる。

 二階の長期在任についても、この位置関係は無視できない。

 権力者にとって恐ろしいのは、有能な部下そのものではない。有能で、なおかつ自分の椅子を狙う部下である。

 反対に、最高権力の座を直接競わず、そこで必要となる調整を引き受ける人物には別の価値が生まれる。

 二階は、総理大臣にならなかったから権力を持てなかったのではなく、総理大臣にならない位置から別種の権力を蓄積した、と見る方が実像には近い。

地方政治では「何を語ったか」だけでは評価されない

 東京から二階を見ると、しばしば古い政治の象徴に見える。

 しかし和歌山から見ると、景色は少し違ってくる。

 二階は道路、防災、国土強靱化、観光、港湾などの政策に長く関与してきた。本人の政治活動記録には、紀伊半島の道路整備、地震対策、ドクターヘリ、港湾など、地元の社会基盤に関係する事業が大量に記録されている。もっとも、政治家本人が掲げる「実績」は自己評価を含むため、それだけで政策効果や本人の寄与を証明することはできない。

 それでも、二階政治が地方の具体的な政策課題と深く結びついていたことまでは確認できる。

 地方の有権者が国会議員を見るとき、全国的な政治論争だけが判断材料になるわけではない。

 道路が整備されたか。災害対策が進んだか。地域の要望を中央政府まで運んでくれるか。行政との交渉力を持っているか。

 こうした評価軸も存在する。

 実際、二階が最後に出馬した2021年の衆議院選挙では、和歌山3区で10万2834票、得票率69.3%を獲得して当選している。2位候補は13.9%であり、選挙結果だけを見れば圧倒的だった。

 ただし、ここから「公共事業を持ってきたから69.3%を取った」と結論することはできない。

 選挙結果には、現職としての知名度、自民党の組織力、後援会、地域の政党支持構造、対立候補の顔ぶれなど、多数の要因が作用しているからである。

 それでも、全国的な評価と地元の評価が大きく異なり得るという事実は重要である。

 国会議員は全国民による一つの人気投票で選ばれるわけではない。

 二階が長く強固な議席を維持した背景には、こうした小選挙区政治の構造もあった。

「中国に近い」という批判が、同時に外交経路にもなる

 二階を語るとき、中国との関係を避けることはできない。

 象徴的なのが2015年である。

 この年、二階は総勢3162人に及ぶ「日中観光文化交流団」の名誉団長として中国を訪れた。北京の人民大会堂では習近平国家主席も出席して交流行事が行われ、二階は当時、全国旅行業協会会長でもあった。

 このような長年の日中交流を背景に、二階はしばしば「親中派」と呼ばれ、その姿勢は政治的批判の対象になった。

 その批判には政策論として検討すべき論点がある。中国政府に対してどこまで厳しい態度を取るべきか、安全保障と経済交流をどのように両立するのかは、日本外交にとって現実の争点だからである。

 ただし、ここにも二階政治らしい逆説がある。

 外交関係が悪化すると、相手国と会話できる経路そのものが不足する。

 そのとき、長年にわたり関係を維持してきた政治家の人的ネットワークは、少なくとも潜在的には、他の政治家では容易に代替できない外交資源になり得る。

 ここで重要なのは、「中国とのパイプがあったから二階は国内で権力を持てた」とまで断定しないことである。

 そこまでの因果関係を示す資料はない。

 しかし、中国との長期的な人的関係が二階固有の政治資源の一つだったこと、その資源が日中関係の悪化時には外交経路として利用可能だったことは、十分に合理的な説明である。

 つまり、「中国に近い」という評価は、ある有権者にとっては政治的弱点になり、別の場面では希少な交渉経路という価値を持ち得る。

 二階政治では、批判される理由と必要とされる理由が、同じ場所から生まれることがあった。

2020年、二階の政治技術が最も鮮明に現れた

 その特徴が最も分かりやすく現れたのが、2020年の安倍晋三退陣後である。

 安倍が辞意を表明すると、後継総裁をめぐる動きが一気に始まった。

 当時、二階派は47人であり、党内最大派閥ではなかった。

 それでも二階派が菅義偉支持を打ち出すと、最大派閥の細田派をはじめ、麻生派などが相次いで菅支持へ動いた。日本大百科全書も、菅が二階に出馬意向を伝え、二階派が支持を打ち出した後、党内各派が次々に支持を表明した経過を記録している。

 ここで二階派だけが菅政権をつくった、と考えるのは正確ではない。

 麻生派、細田派、竹下派など他の有力派閥もそれぞれの政治的判断によって菅を支持した。菅本人の官房長官としての実績や、安倍政権との継続性を求める力も作用した。

 しかし、二階派が早期に支持を打ち出したことが、総裁選初期の流れを形成する一要素になったことは否定しにくい。

 政治では、単純な人数だけでなく、いつ動くかが重要になる。

 全員が様子を見ている段階で一つの勢力が動けば、それ自体が新しい情報になる。

 「あの派閥が支持した」

 という事実を見て、別の派閥が勝敗を予測し、さらに動く。その動きを見た第三の勢力がまた判断を変える。

 雪崩は、最も大きな石だけが起こすとは限らない。

 斜面の状態を読んで、最初に動いた塊が全体を動かすことがある。

 2020年の総裁選は、二階の力を単なる派閥人数だけでは説明できないことを象徴する出来事だった。

 菅が総裁に就任すると、二階はそのまま幹事長に留任した。菅自身も当時、二階を「党の要」と位置付けていたと報じられている。

 この時期、二階は確かに「キングメーカー」と呼ばれるほどの影響力を持っていた。

 しかし、その力の本体は「自分の言うことを全員に聞かせる」という絶対的な支配ではなかった。

 むしろ、次に誰が動くのかを読み、先に動き、異なる勢力をつなぐ能力だったと見る方が適切だろう。

しかし、「必要とされる政治」は同時に不信も生む

 ここまで見ると、二階政治は非常に合理的に見える。

 だが、その強さを生み出した仕組みには、最初から弱点も埋め込まれていた。

 人間関係による調整を重視すれば、意思決定の過程は外から見えにくくなる。

 地方に具体的な政策を持ち帰る政治を重視すれば、政治力の強い地域ほど有利になるのではないかという疑問が生まれる。

 業界との長い関係を政策形成に利用すれば、専門知識や実行力を得られる一方で、政治と業界利益との距離が近すぎるのではないかという批判も起こる。

 選挙、資金、人事、派閥、地方、業界を結ぶ政治技術は、政治組織の内部では調整能力として評価され得る。しかし国民から見れば、「誰が、どのような理由で、どのように決定したのか」が分かりにくい政治にもなる。

 つまり、二階の強さをつくった仕組みそのものが、二階への不信をつくる仕組みにもなっていた。

 その矛盾が晩年に最も強く表れたのが、自由民主党派閥の政治資金問題だった。

 二階派「志帥会」の元会計責任者は、2022年までの5年間で約2億6000万円の政治資金パーティー収入などを収支報告書に記載しなかったとして起訴され、裁判で起訴内容を認めた。二階自身については、派閥の政治資金をめぐって刑事告発されたものの、東京地方検察庁特別捜査部は2024年7月、「嫌疑なし」として不起訴処分としている。したがって、会計責任者らの刑事責任と二階本人の刑事責任は明確に区別しなければならない。  それでも政治的責任という問題は残った。

 二階は2024年3月、次の衆議院選挙に出馬しないことを表明し、自らの政治責任について言及した。

 長い間、二階を支えてきた「必要とされる力」と、その政治手法を抱えることによって党が負う政治的コストとの均衡が、大きく崩れた時期だったと見ることができる。

二階を長く残したものは何だったのか

 二階俊博という政治家を「古い政治家」の一言で片付けるのは簡単である。

 確かに、彼が得意とした政治には、昭和以来の自民党政治を思わせる部分が多い。

 人に会う。敵とも関係を切らない。選挙で困っている人間を支える。地方の要求を中央へ運ぶ。業界との関係を維持する。外交が詰まれば別の経路を探す。派閥を越えて人間関係を残しておく。

 こうした政治は、透明性や公平性を強く求める現代の政治観とは緊張する。

 だから二階は批判された。

 しかし同時に、政党政治が依然として人間によって動き、選挙区が存在し、地方と中央の利害が異なり、派閥間の調整が必要で、外国との交渉経路も必要であるかぎり、二階の持っていたような技術にも需要が存在した。

 そこに、二階俊博が長く権力の中心に残った理由を考える鍵がある。

 もちろん、単一の原因で説明することはできない。

 強固な選挙基盤、長い議員経験、派閥、人事と選挙に関わる幹事長という地位、地方政策への関与、業界とのネットワーク、外交上の人的関係、そして党内の異なる勢力をつなぐ仲介能力。それらが互いに作用し合った結果として、二階の政治的影響力は形成されたと考えるのが最も慎重である。

 その中でも、とりわけ特徴的だったのは、自分を最大勢力にすること以上に、自分がいることで複数の勢力がつながる位置を確保したことではないか。

 政治の世界では、最も拍手を受ける人物が、必ずしも最も強いとは限らない。

 演説台の中央にいる人よりも、舞台裏で何本もの電話を受けている人の方が、重大な決定に近いことがある。

 人気のある人より、相談される人。

 誰からも愛される人より、対立する人々の双方と話せる人。

 最大の軍団を率いる人より、複数の軍団の間を行き来できる人。

 二階俊博の長い政治人生は、日本政治に存在するそうしたもう一つの権力の姿を、極端なほど分かりやすく示している。

 だから、最後に残る問いは「なぜ二階だけが生き残ったのか」ではないのかもしれない。

 より正確に言えば、自民党内の権力調整、選挙、地方、業界、外交を結ぶ政治構造の中で、なぜ二階のような政治家を必要とする局面がこれほど長く続いたのか、という問いである。

 二階俊博を理解することは、一人の老練な政治家を理解するだけではない。

 表に見える人気とは別の場所で、政治権力がどのように生まれ、どのように蓄積され、そして最後にはどのように失われていくのか。

 その仕組みを見ることなのである。

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