地域政経

九条レオンの地域から社会と政治・経済のこれからを考える

 1998年7月24日、自民党総裁選挙の結果が出た。小渕恵三225票、梶山静六102票、小泉純一郎84票。投票総数411票のうち小渕が54.7%を獲得し、他の二人を引き離して第18代自民党総裁に選ばれた。三人のなかで最も強烈な印象を与える人物が勝ったわけではなかった。この総裁選をめぐって、田中眞紀子は三人を「凡人・軍人・変人」と評した。軍人は旧陸軍航空士官学校出身で政策への強いこだわりを持つ梶山、変人は党内の慣例にとらわれず持論を唱える小泉、そして凡人が小渕だった。

 この言葉はあまりに分かりやすかったため、三人の政策や党内での立場以上に後世へ残った。しかし、考えてみれば「凡人」という呼び名には奇妙なところがある。本当に平凡なだけの政治家が、日本最大の政党の総裁となり、内閣総理大臣にまで到達できるものだろうか。しかも小渕が勝利したのは、単なる人気投票ではなく、長い歴史を持つ自民党の権力構造のなかで行われた選挙だった。

 小渕は総裁選に突然現れた無名の政治家ではない。1963年に26歳で衆議院議員に初当選して以来、35年間にわたって国会に議席を持ち続け、竹下内閣では官房長官として新元号「平成」を発表した。その後も自民党幹事長、党副総裁、有力派閥の会長、橋本内閣の外務大臣などを経験していた。国民から見れば柔和な「平成おじさん」であっても、永田町の内部から見れば、自民党政治の中心部を長く歩いてきた人物だったのである。

 だから小渕を理解するには、「凡人なのに総理になった」という物語から離れた方がよい。むしろ興味深いのは、これほど長く権力の中心にいた政治家が、なぜ最後まで「凡人」に見え続けたのかということである。その問いを考えるには、個人の性格だけでなく、選挙制度、世襲地盤、派閥の力関係、党内での人間関係、そして1998年という時代の条件を重ね合わせる必要がある。

巨人二人のいる選挙区から始まった

 小渕恵三の政治家人生には、最初から有利な条件があった。父の小渕光平は衆議院議員であり、その政治地盤を引き継ぐ形で1963年の衆議院議員総選挙に出馬したからである。したがって、小渕は明らかな世襲政治家であり、「何も持たない普通の青年が努力だけで総理へ上り詰めた」という成功物語にしてしまうのは正確ではない。

 しかし、受け継いだ地盤がそのまま安泰を意味したわけでもなかった。小渕が初当選した旧群馬3区には、すでに福田赳夫と中曽根康弘がいた。後に二人とも総理大臣となる政治家である。1963年の選挙で福田は9万5378票、中曽根は8万4504票を獲得したのに対し、新人の小渕は4万7350票だった。それでも小渕は定数4の選挙区で3位に入り、26歳で初当選を果たしている。

 ここで重要なのは、当時の選挙制度である。旧群馬3区は、一つの選挙区から複数の議員を選ぶ中選挙区だった。現在の衆議院小選挙区のように、福田、中曽根、小渕のうち一人だけが当選する仕組みではない。同じ自民党の候補者同士が競争しながら、それぞれ異なる後援会や支持組織によって議席を確保することが可能だった。小渕の初当選は、福田や中曽根を打ち負かしたことを意味するものではなく、有力な先輩議員が存在する選挙区のなかで、自分の当選に必要な支持基盤を維持できたことを示している。

 これは、その後の小渕の政治人生を考えるうえで示唆的である。自分より目立つ人物が周囲にいても、必ずしもその人物を倒す必要はない。自分の支持者を確保し、選挙区で議席を守り、党内での立場を少しずつ高めていく方法もある。ただし、1963年の当選という事実だけから、当時の小渕がすでに優れた調整能力を持っていたと断定することはできない。父から継承した後援会や地域の政治的関係も、当選を支えた重要な条件だったと考えるべきだろう。

 政治では、目立つことと生き残ることは同じではない。演説がうまい政治家が必ず選挙に強いわけではなく、政策に詳しい政治家が必ず党内で多数派を形成できるわけでもない。とりわけ当時の自民党では、選挙区で支持を積み、派閥のなかで信用を得て、他派閥との関係を維持し、人事や選挙をめぐる長い交渉のなかで自らの位置を高めていくことが、権力への重要な経路だった。小渕が政治人生を通じて蓄積したものは、まさにそうしたテレビには映りにくい政治的な資源だった。

小渕は「突然出世した」のではない

 小渕の経歴を時系列で眺めると、総理就任までの道筋が長い時間をかけて形成されていたことが分かる。若くして一気に党内中枢へ駆け上がった小沢一郎とも違い、後に世論の支持を背景に党内秩序を揺さぶった小泉純一郎とも違う。小渕の政治人生には、選挙で当選回数を重ね、党内の役職を経験し、その時間そのものを政治的な資産へ変えていく過程があった。

 田中角栄の流れをくむ派閥で経験を積み、1979年には第2次大平内閣で総理府総務長官兼沖縄開発庁長官として初入閣した。1987年には竹下派の結成に参加して事務総長となり、同年11月の竹下内閣発足に伴って官房長官に就任する。国民にとって最も鮮烈だったのは、1989年1月7日に「平成」と書かれた額を掲げた場面だったが、それは小渕にとって政治人生の頂点ではなく、すでに党内中枢に入っていたことを示す一つの出来事だった。

 その後も1991年に自民党幹事長、1994年に党副総裁、1997年には橋本内閣の外務大臣となった。党の選挙や組織運営に関わる幹事長、党内の重鎮として位置づけられる副総裁、政府の外交政策を担当する外務大臣では、それぞれ求められる役割が異なる。小渕はそうした役職を経験することによって、単に当選回数の多いベテラン議員というだけではない立場を築いていた。

 そして1992年、小渕の政治人生を大きく変える出来事が起きる。巨大な竹下派では、金丸信の失脚後、派閥の主導権をめぐって激しい対立が生じていた。小沢一郎らは羽田孜を推し、それに対抗する勢力は小渕を推した。この後継争いの背景には、竹下登を中心とする勢力、参議院側を含む派閥内の力関係、小沢の政治手法への警戒など、複数の要因があった。

 ここで重要なのは、小渕が派閥会長になったことを「温厚な人柄が評価されたから」とだけ説明しないことである。小渕自身の信用や交渉能力が意味を持ったとしても、その地位は派閥内の組織的な支持と権力関係のなかで形成された。派閥の指導者は、人柄がよいという理由だけで選ばれるものではない。誰を会長にすれば組織を維持できるか、どの政治勢力が主導権を握るかという判断が、そこには存在していた。

 結果として竹下派は分裂し、羽田・小沢系の議員たちは別の政治集団を形成した。一方、小渕は竹下派の主要部分を引き継ぎ、自民党内の有力派閥を率いる政治家となった。これは小渕にとって大きな政治的資産となったが、同時に「敵をつくらない政治家」という評価を考え直す材料でもある。小渕は対立のない世界で出世したのではなく、激しい権力闘争の当事者として、組織の分裂と再編を経験していたのである。

「凡人」の背後には巨大派閥があった

 小渕が1998年の総裁選で勝利した理由を考えるとき、最も重要な条件の一つが派閥の組織力である。当時の小渕派は90人前後の国会議員を抱える自民党最大級の派閥であり、小渕はその会長だった。この事実を抜きにして「人柄がよかったから225票を取った」と説明すれば、小渕政治の核心を見誤ることになる。

 自民党総裁選挙は国民による直接選挙ではない。しかも1998年の選挙は、現在の党員参加型の総裁選挙とも仕組みが異なり、党大会に代わる両院議員総会で実施された。投票したのは自民党所属の衆参両院議員と都道府県代表であり、国会議員票が圧倒的な比重を持っていた。そのため、国民的な知名度やテレビでの人気よりも、党内でどれだけの支持を組織できるかが選挙結果に強く影響する制度だった。

 実際の得票数を計算すると、小渕は411票中225票で54.7%、梶山は102票で24.8%、小泉は84票で20.4%だった。小渕は過半数を確保して明確に勝利したものの、残る二人の合計も186票に達していた。つまり、党内の支持が小渕に圧倒的に集中していたわけではなく、かなりの議員が別の候補者を支持していたことになる。

 また、小渕派が大きかったからといって、その所属議員全員が小渕に投票したと考えることもできない。対立候補の梶山静六自身が小渕派に属していた有力政治家であり、総裁選への出馬に際して派閥を離れていたからである。そこには政策判断や党内での立場をめぐる対立があり、派閥が一枚岩だったわけではない。派閥の所属人数と、実際に候補者が獲得できる票数は区別して考えなければならない。

 仮に小渕派の勢力を94人と置き、全員が小渕に投票したと想定しても、225票を獲得するには派閥外から少なくとも131票が必要になる。これは実際の投票内訳を示す数字ではなく、派閥の規模から考えた単純な計算にすぎない。それでも、小渕の勝利が自派閥の人数だけでは説明できず、宮澤派など他の政治勢力からも支持を獲得する必要があったことは理解できる。

 したがって、小渕の勝利を説明するには二つの条件を区別する必要がある。一つは、長い政治生活の末に自民党最大級の派閥を率いる位置まで到達したという組織的な条件である。もう一つは、その基盤の上で他派閥の支持を取り込み、総裁選の過半数を形成したという党内政治の条件だった。大派閥を持つことは有利だが、それだけで総裁選に勝てるわけではない。小渕は自らの組織基盤を持ちながら、党内の支持を過半数へ広げる位置にいたのである。

「敵をつくらない」は弱さだったのか

 強い政治家という言葉を聞くと、私たちはしばしば決断力のある人物を想像する。反対を押し切り、大胆な改革を打ち出し、敵と味方を鮮明にし、自らの理念に政治を引き寄せていくタイプである。しかし、その強さには代償もある。熱烈な支持者をつくる政治家は、同時に強い反対者を生みやすいからである。

 小渕は一般に、こうした対決型の政治家とは異なる人物として評価されてきた。相手を論破して自分を大きく見せるよりも、話を聞き、電話をかけ、関係を切らない。総理になった後には、本人がさまざまな人へ直接電話することから「ブッチホン」という言葉まで生まれた。これは庶民派の印象を与える政治的な演出でもあったが、小渕が対話や人間関係を重視する政治家として知られていたことも表していた。

 中曽根康弘が小渕を「真空総理」と評したことも、こうした人物像と関係している。この表現には、何を目指す政治家なのか輪郭が見えにくいという批判的な意味がある一方、真空であるからこそ多くのものを吸収できるという肯定的な意味も含まれていた。政治において自己主張の輪郭が薄いことは、常に弱点とは限らない。異なる立場の政治家が近づく余地を残し、自分が排除されるのではないかという警戒心を相手に抱かせにくくする場合があるからである。

 ただし、ここで「小渕は敵をつくらなかったから総理になれた」と断定することはできない。1992年の竹下派分裂は深刻な権力闘争だったし、1998年の総裁選でも梶山との対立が表面化している。小渕の政治人生が対立と無縁だったわけではない。より正確には、対立を経験しながらも、他の勢力との交渉や協力の可能性を維持しようとする政治手法を重視した人物と捉えるべきだろう。

 そして、因果関係を逆転させないことも重要である。小渕はもともと凡人だったから調整型になったのではなく、自民党という巨大な組織のなかで何十年も生き残る過程で、相手を不用意に刺激せず、対立を必要以上に広げず、関係をつなぎ続ける政治手法を発達させた可能性がある。その結果として、外からは「凡人」に見える政治家になったのかもしれない。

 もちろん、これは小渕の行動や経歴から考えられる解釈であって、性格が形成された過程を直接証明するものではない。しかし、政治家の能力を演説の巧みさや政策の独創性だけで測ることができないという点では、重要な見方を示している。大きな組織では、他人を従わせる力だけでなく、立場の違う人間を同じ方向へ動かす力も政治的な能力となるからである。

1998年という時代が小渕を押し上げた

 1998年、小渕に総理への機会が訪れた背景には、日本政治そのものの危機があった。日本経済はバブル崩壊後の長い停滞から抜け出せず、1997年には北海道拓殖銀行が経営破綻し、山一證券が自主廃業するなど、金融システムへの不安が深刻化していた。景気後退によって企業活動や雇用環境にも厳しさが増し、橋本龍太郎政権の経済運営への批判が高まっていた。

 1998年7月12日の参議院議員通常選挙で、自民党は改選議席を大きく減らして敗北した。橋本はその責任を取って退陣を表明し、後継総裁を決める選挙が行われることになった。そこで立候補したのが小渕、梶山、小泉の三人である。小渕の総裁選勝利は、本人の長い政治経験だけでなく、橋本退陣によって総裁の地位が空いたという政治的な機会があって初めて実現した。

 後の歴史を知る私たちから見ると、小泉純一郎の方がはるかに強い政治的な個性を持つ人物に見えるかもしれない。実際、わずか3年後の2001年、小泉は国民的な人気と地方からの支持を背景に総理大臣となる。しかし、1998年と2001年では総裁選の制度や党内の政治状況が異なっていた。2001年には都道府県連の票の比重が拡大され、地方の支持を集めることの意味が大きくなっていたのに対し、1998年には国会議員を中心とする党内支持の形成が、より直接的に勝敗を左右する仕組みだった。

 この制度のなかで見ると、小渕の35年間は単なる長い経歴ではなくなる。選挙を繰り返して議席を守り、派閥内で地位を高め、官房長官、幹事長、副総裁、外務大臣を経験し、巨大派閥の会長となり、他派閥との関係も築いてきた。それらの経験や組織的な立場が、総裁選で支持を集めるための政治的資産となったのである。

 ただし、ここでも結果から原因を単純に決めつけることはできない。小渕が最も優れた政策を掲げていたから勝ったと証明することも、調整型の性格だけで勝ったと証明することもできない。確認できるのは、小渕が大きな派閥基盤を持ち、他派閥の支持も獲得し、当時の選挙制度の下で過半数の票を集めたという事実である。その事実と、人物の性格や能力についての解釈は区別する必要がある。

自民党総裁になっても、参議院は小渕を選ばなかった

 小渕の首相就任を考えるうえで、もう一つ見落としてはならないのが日本の憲法制度である。日本の総理大臣は、国民が直接選ぶ大統領とは異なり、国会の議決によって指名される。自民党総裁になれば自動的に総理大臣になるわけではない。

 1998年7月30日の首相指名選挙では、この制度の特徴が明瞭に表れた。衆議院では小渕が497票中268票を獲得し、首相に指名された。しかし、参議院では最初の投票で過半数を得た候補者がなく、小渕と民主党の菅直人による決選投票となった。その結果、菅が142票、小渕が103票となり、参議院は菅を首相に指名したのである。

 衆議院は小渕、参議院は菅という異なる人物を指名したため、両院協議会が開かれたが、意見は一致しなかった。最終的には、日本国憲法第67条第2項に定められた衆議院の優越によって、衆議院が指名した小渕が第84代内閣総理大臣となった。

 この事実は、小渕の首相就任を個人の人柄や党内の支持関係だけで説明できないことを示している。小渕が自民党総裁選に勝ったことは首相就任の重要な条件だったが、最終的に首相となることを可能にしたのは、衆議院の議席構成と憲法上の制度でもあった。政治家の権力は個人の能力だけによって生まれるものではなく、所属する政党、議会の多数派、憲法や選挙制度といった条件によって形づくられるのである。

 また、参議院が小渕とは別の人物を首相に指名したという事実は、政権発足後の困難を予告していた。小渕は総理の座を手に入れたものの、国会の両院を自民党単独で安定的に支配していたわけではなかった。総理就任後には、総裁選で勝つための党内政治とは異なる、国会全体で合意を形成する能力が問われることになった。

「凡人」の政治は総理になってから試された

 総理大臣になれば、派閥の力だけで政治を動かせるわけではない。むしろ小渕にとって本当の試験はそこから始まった。自民党は参議院で単独過半数を持っていなかったため、政府提出法案を成立させるには、野党の協力や連立による議席の確保が必要だった。

 とりわけ金融危機への対応では、与野党の激しい対立が続いた。金融機関の破綻処理や不良債権問題への対応を急がなければならなかった一方、政府・与党の当初案だけでは国会で十分な支持を得られなかった。1998年の金融再生法をめぐる協議では、政府・与党側が民主党など野党側の案を大幅に受け入れる形で合意が形成された。

 これは、危機対応のために政治的な妥協が必要だったことを示す出来事である。ただし、その合意をすべて小渕個人の調整能力による成果とみなすことはできない。野中広務官房長官をはじめ、与野党の交渉担当者や金融政策に関わる議員たちが重要な役割を果たしていた。政治的な成果は総理個人の意思だけで生み出されるのではなく、政党組織や政府内部の交渉によって形成される場合も多い。

 その後、小渕政権は政権基盤を安定させるため、連立へ向かっていく。1999年1月には小沢一郎率いる自由党との連立を成立させ、同年10月には公明党を加えた自民党・自由党・公明党の三党連立政権を発足させた。これは単に小渕の人柄が評価されたから実現したものではなく、参議院の議席構成、政策上の妥協、各党の政治的な利益が重なった結果だった。

 興味深いのは、1992年の竹下派分裂で小渕と対立する側にいた小沢一郎が、後に小渕政権の連立相手となったことである。政治の世界では、一度対立した相手と将来も協力できないとは限らない。異なる時期に異なる政策課題や議席上の条件が生じれば、かつての対立相手との協力にも合理性が生まれる。小渕の政治を考える際には、こうした関係の変化を理解する必要がある。

 もっとも、「1998年には小渕のような政治家でなければならなかった」とまで言うことはできない。仮に梶山や小泉が総理となっていた場合、どのような政策や連立が実現したかを確定することは不可能である。歴史上の出来事は、比較政治史や反実仮想によって別の可能性を分析することはできても、同じ条件で再実験することはできない。ただ、参議院で単独過半数を持たず、金融危機への対応を迫られていた当時の状況は、小渕が長年培ってきたとされる調整型の政治手法が機能しやすい条件を備えていたと考えることはできるだろう。

調整型政治には、当然ながら代償もある

 ここまで書くと、小渕が実は優れた名宰相だったという話に聞こえるかもしれない。しかし、それもまた単純化である。政権を獲得する能力、与野党の合意を形成する能力、そして国民生活にとって望ましい政策成果を実現する能力は、同じものではないからである。

 小渕政権は景気悪化と金融危機に対応するため、大規模な公共事業や減税を含む積極的な財政政策を進めた。金融システムの安定化と景気の下支えが重要な課題だったことは確かだが、財政支出の拡大と減税には国債発行の増加という負担も伴った。国の一般会計における公債発行額は、1997年度の約18.5兆円から1998年度には約34.0兆円、1999年度には約37.5兆円に増加している。1997年度と1999年度を比較すると約2倍の水準であり、公債残高も同じ期間に約258兆円から約332兆円へ増えた。

 ただし、こうした財政悪化のすべてを小渕政権固有の政策判断に帰属させることは正確ではない。1998年度の途中までは橋本政権であり、景気後退による税収減少や、それ以前から継続していた財政政策も影響している。また、国債発行額が増加したという事実だけで、当時の財政出動が不必要だったと結論することもできない。深刻な不況のなかで政府支出を増やすことには、経済活動の急激な落ち込みを抑えるという目的があったからである。

 実際、1998年度に大きく落ち込んだ日本経済は、その後、緩やかな回復局面へ移っていった。もっとも、その変化には財政政策だけでなく、金融危機への対応、海外経済の回復に伴う輸出の増加、民間企業の活動など、複数の要因が関係していた。景気が回復したという事実だけから、小渕政権の財政政策の効果を単独で測定することはできない。さらに、経済成長率の改善が直ちに雇用情勢の改善につながったわけでもなく、1998年の完全失業率4.1%は1999年には4.7%へ上昇していた。

 したがって、小渕政権の経済政策は、金融危機への対応、景気の下支え、雇用への影響、財政負担という複数の観点から評価する必要がある。財政赤字が増えたから失敗だったという評価も、景気が持ち直したから成功だったという評価も、それだけでは十分ではない。政策がなかった場合と比較してどの程度の効果があったのか、短期的な経済安定と長期的な財政負担をどう評価するのかという問題が残るからである。

 調整型政治には、経済政策とは別の弱点もある。多くの勢力との妥協を重ねれば政策の輪郭は薄くなり、何を実現する政権なのかが分かりにくくなる場合がある。対立を避ける政治は合意を生みやすい一方、問題の根本的な解決を先送りする危険もある。特に、利害関係の強い集団が多数存在する場合には、それらの要求を調整すること自体が政策の目的になり、本来必要な制度改革が遅れる可能性も否定できない。

 だから小渕政治を評価するときには、「強い指導力が見えにくかった」という批判も、「合意形成に適した政治家だった」という評価も、どちらか一方だけを採用する必要はない。両方が同時に成り立つ可能性がある。ただし、そのどちらが実際にどの程度の政策成果につながったかを判断するには、具体的な政策ごとの検証が必要となる。

「凡人」と呼ばれた政治家の能力は何だったのか

 小渕恵三の政治人生を振り返ると、私たちが一般に思い浮かべる政治家の能力と、実際に組織のなかで権力を形成する能力との違いが見えてくる。

 私たちは政治家を評価するとき、演説の鋭さ、政策の大胆さ、知名度、カリスマ性、討論の強さといった目につきやすい能力に注目する。しかし、大きな政党の内部では、それだけで指導者が決まるわけではない。選挙区で議席を守れるか、党内で信頼を得られるか、他派閥との交渉ができるか、対立する集団の間で妥協点を見つけられるか、長い時間をかけて自分を支える組織を形成できるかという能力も、政治的な地位を左右する。

 小渕が持っていた重要な資産は、長年の選挙経験、党内要職の経験、派閥の組織基盤、他の政治家との関係、交渉の経験などが重なったものだったと考えられる。これらは一つの数字で測定できるものではないが、総裁選の得票や党内での地位という形で、その一部が観察できる。小渕の政治人生で蓄積されたものを一言で表すなら、「見えない政治資本」と呼ぶことができるだろう。

 ただし、この政治資本を小渕個人の能力だけで説明することも適切ではない。父から受け継いだ選挙地盤があり、田中角栄や竹下登の流れをくむ派閥の組織があり、党内実力者の支持もあった。小渕自身の努力や政治手法が意味を持ったとしても、それらが機能したのは、当時の自民党が持っていた組織構造や制度のなかだった。小渕の成功は、個人の能力と、本人が利用できた政治的資源との相互作用によって生まれたものと考える方が合理的である。

 ここでも注意すべきなのは、首相になったという結果から、逆向きに能力を証明してしまうことである。総理大臣になった人物だから優れていたと考えるのも、総理大臣になれなかった人物だから能力が劣っていたと考えるのも、論理としては成り立たない。政治家の出世には本人の能力だけでなく、選挙制度、政党内の競争、経済情勢、政治的な機会、偶然の出来事などが影響する。小渕が225票を獲得したという事実は確認できても、そのうち何票が本人の人柄や調整能力によるものだったのかを正確に算出することはできない。

 したがって、「凡人に見えたことが最大の政治的武器だった」という見方は、興味深い解釈ではあっても、直接証明された事実ではない。それでも、小渕の経歴と1998年の総裁選の構造を見れば、派手な政治的個性を持たないことが、必ずしも権力形成に不利とは限らないことは理解できる。政治組織のなかでは、他人より目立つ能力と、他人から支持を得る能力が必ずしも一致しないからである。

総理になった理由は「凡人だったから」ではない

 では、小渕恵三はなぜ総理大臣まで上り詰めたのか。その答えを一つの性格に求めることはできない。父から受け継いだ選挙地盤があり、26歳という若さで国会へ入り、35年間にわたって議席を守り続け、田中・竹下系の巨大派閥のなかで地位を高め、竹下登ら党内実力者の支持を背景に派閥会長となり、最終的には自民党最大級の派閥を率いた。その組織力を基盤に他派閥からも支持を集め、そこへ人間関係を重視する調整型の政治手法が重なり、さらに橋本退陣という政治的機会が訪れた。

 そして、1998年の自民党総裁選が国会議員を中心とした選挙制度で行われたことも、小渕の持つ組織的資源を生かす条件となった。小渕は411票中225票を獲得して自民党総裁となり、衆議院の多数派による首相指名と憲法上の制度を通じて、内閣総理大臣に就任したのである。そこには個人の政治的能力だけでなく、選挙制度、政党組織、議会の議席構成という制度的な条件も関係していた。

 世襲、選挙、派閥、組織、人脈、経験、性格、制度、そして時代。小渕恵三を総理にしたのは、そのどれか一つではなく、それらが長い時間をかけて重なった結果だった。

 だから小渕の人生を、「普通の人でも努力すれば総理になれる」という美談として読むのは適切ではない。むしろこの人物が示しているのは、政治における能力という言葉の意味が、私たちがテレビ越しに見る能力とはかなり違うということである。

 梶山には「軍人」という輪郭があり、小泉には「変人」という輪郭があった。それに比べて小渕には、一言で説明できるほど鮮烈な政治的個性が見えにくかった。だから「凡人」と呼ばれた。しかし、巨大な組織のなかでは、輪郭が鋭くないことが、かえって異なる立場の人々を自分の周囲に残す条件となる場合もある。自分の主張を強く打ち出す能力と、多くの人間の協力を引き出す能力は、必ずしも同じではない。

 そして、もう一つ考えておくべきことがある。小渕は凡人だったから調整型政治家になったのではなく、何十年にもわたって組織のなかで経験を積み、調整型の政治手法を身につけた結果、凡人に見えるようになったのではないかということである。もしそうなら、「凡人」という評価は小渕恵三という政治家の弱点を言い当てた言葉であると同時に、彼が長年培ってきた政治的な技術を見落とした言葉でもあったことになる。

 1998年、自民党が総裁に選んだのは、最も強烈な政治的個性を持つ人物ではなかった。しかし、目立たなかった人物が偶然最後に残ったわけでもない。長い歳月をかけて巨大な組織の中心へ近づき、選挙地盤と派閥の支持基盤を維持し、他の政治勢力との関係を築き、その時が来たときには党内の過半数を形成できる位置にいた人物が、最後に225票を集めたのである。

 「凡人が総理になった」という言葉だけでは、この歴史の本質を十分に説明できない。

 小渕恵三は、首相になるための政治的資源を長年にわたって蓄積し、組織と制度の条件が重なったとき、その資源を権力へ結びつけることができた政治家だった。

 そして、その複雑な政治過程を歩んできた人物が、最後まで「凡人」に見えていたのである。

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 「派閥政治をなくせば、日本の政治はもっと良くなる」。そう言われると、ほとんど反論の余地がないようにも聞こえる。派閥という言葉には、政策を競い合う議員集団というより、料亭での密談、総裁選の票読み、派閥順送りの人事、そして政治資金をめぐる不透明な関係といった、いささか古びた永田町の風景が重なっているからだ。自由民主党の派閥による政治資金収支報告書の不記載問題が大きく表面化した後では、なおさら「派閥をなくす」という言葉そのものが政治改革を意味するようになった。

 実際、自由民主党(以下、自民党)は2024年以降、従来型の派閥から資金と人事の機能を切り離す改革を進めてきた。政治資金制度についても、政党などが議員個人に資金を渡し、その後の実際の使途を十分に把握・開示しない従来型の政策活動費を廃止するため、渡切りの方法による経費支出を禁止する改正政治資金規正法が2026年1月1日に施行された。ただし、政治活動に伴う資金の支出が一律に禁止されたわけではなく、資金の追跡可能性に関する課題がすべて解消したわけでもない。制度上は、長く続いた「派閥ありき」の政治から離れるための改革が進められているといえる。

 ところが、政治というものは看板を外しただけでは終わらない。2026年に入ると、解散した旧派閥の議員たちが再び会合を重ねる動きが目立つようになった。旧二階派の議員を中心に新たな政策研究会が発足し、旧派閥を通じた人脈の再結集が見られる一方、解散しなかった麻生派は同年2月の衆議院選挙後に新人らを加え、当時の所属議員数が60人に達した。さらに9月には、新たな政策研究会が所属議員の希望する役職を聞き取り、首相への推薦を検討していると報じられた。これらの動きだけで旧来の派閥政治が全面的に復活したと断定することはできないが、派閥から切り離したはずの機能が別の形で現れる可能性を考えさせる出来事である。

 そもそも派閥とは、誰かが意図的に発明した日本政治の悪習だったのだろうか。それとも、日本の選挙制度や政党組織、人事制度が長い時間をかけて生み出した一つの合理的な帰結だったのだろうか。この違いを考えないまま派閥の善悪だけを論じても、派閥が消えた後に何が現れるのかまでは見えてこない。

派閥を育てたのは「同じ党の候補との競争」だった

 自民党の派閥を理解するには、1994年の政治改革以前まで時計を戻す必要がある。当時の衆議院選挙では中選挙区制が採用され、一つの選挙区から複数の議員が選ばれていたため、自民党は同じ選挙区に複数の候補者を立てることが珍しくなかった。その結果、自民党候補にとって最も手ごわい競争相手が野党候補ではなく、同じ自民党の別の候補になるという、現在から見ると不思議な政治状況が生まれていた。

 同じ党なのだから、政党名も大まかな政策も共通している。それでも有権者には自分の名前を書いてもらわなければならない。そこで候補者は個人後援会をつくり、地域との結びつきを強め、自ら選挙資金を集めると同時に、中央政界では選挙や資金、人事で支えてくれる有力政治家を必要とした。こうした環境の中で派閥は強くなり、領袖は所属議員を支え、所属議員は総裁選などで領袖を支えるという交換関係が発達していった。派閥は単なる親睦団体ではなく、議員の政治活動を支える組織としての機能を持つようになったのである。

 もっとも、派閥そのものを中選挙区制が一から生み出したと考えるのは正確ではない。自民党は1955年、自由党と日本民主党が合同して誕生した政党であり、結党以前から政治家同士の人脈や系列は存在していた。ただ、中選挙区制が党内競争を強め、それらの人脈を資金・選挙・人事を伴う強固な組織へ発達させる重要な条件になったと考えるのが、より実態に近い。

 その構造を大きく変えたのが1994年の選挙制度改革だった。小選挙区比例代表並立制が導入され、1996年には新制度による最初の衆議院選挙が実施された。一つの小選挙区から一人しか当選しない仕組みが中心になれば、同じ政党から複数候補が競争する場面は大幅に減る。政治学の研究でも、制度改革後には派閥が候補者公認に及ぼす影響力が弱まり、党執行部の公認権が相対的に重要になったことが指摘されている。一方、派閥による党内役職の配分や人事調整の機能は短期間で消滅したわけではなく、派閥は役割を変えながら残った。つまり派閥は、選挙制度が一つ変われば消えてしまうほど単純な組織ではなかったのである。

派閥をなくすことと、派閥の仕事をなくすことは違う

 会社から営業部という名称を消しても、商品を売る仕事までなくなるわけではない。誰かが営業をしなければ会社が回らないように、政治組織でも名称をなくしただけでは消えない機能がある。数百人の国会議員を抱える巨大政党で、すべての議員が党首と直接相談し、すべての政策について全員で同時に議論することなど現実にはできないため、情報を集める人、意見をまとめる人、新人を育てる人、政策分野ごとの専門家を結びつける人が必要になる。

 興味深いことに、この問題を認識しているのは派閥の機能を研究する政治学者だけではない。自民党が2026年5月に公表した「ガバナンス体制に関する報告書」でも、従来の派閥が情報共有、人材育成、意見集約、意思疎通の一部を担ってきたことを認め、その機能を党組織としてどのように代替するかを課題として挙げている。さらに同報告書は、権限を単純に中央へ集めることが改革ではなく、「集権」と「分権」の均衡が必要だとしている。これは、自民党自身が「派閥を消した後にも組織として残る問題」があることを認めているに等しい。

 ただし、派閥の代替制度がまったく用意されていないわけではない。自民党では候補者の公募、人材データベース、女性議員の育成制度、経験豊富な議員などが助言するメンター制度、人事に関するオンライン希望調査などが進められている。同報告書も、こうした取り組みに一定の進展を認める一方、制度としての定着や実効性にはなお課題があるとしている。したがって、問うべきなのは代替制度の有無だけではなく、それらが旧派閥の担っていた機能をどの程度、公平で透明な形で引き継いでいるかである。

 派閥改革の本当の問題は、派閥という部屋を閉鎖することではなく、その部屋で行われていた仕事をこれから誰が引き受けるのかという点にある。人材育成を党本部が担うのか、政策研究会が担うのか、地方組織が担うのかによって、同じ「派閥廃止」でも出来上がる政党の姿は違ってくる。

政治資金をめぐる法律と、党内ルールは別のもの

 派閥改革を考えるうえでは、国の法律による規制と、政党が自ら定める内部規範を区別する必要がある。2026年1月1日に施行された政治資金規正法の改正は、政治団体の役職員や構成員に対し、使途を精算しないまま資金を渡す従来型の支出方法を禁止するものである。政治資金の収支を実態に即して記載することも求められているが、これによって政治資金の不透明性がすべてなくなったと考えるのは早い。

 一方、自民党が2024年以降に進めた派閥改革は、政策集団が資金集めや人事への組織的な働きかけを行わないようにする党内改革である。自民党のガバナンスコードは政党内部の行動規範であり、政治家同士が政策研究会をつくることそのものを、国の法律によって一律に禁止するものではない。政治団体としての届出が必要かどうかも、集団の名称だけで決まるのではなく、実際の活動目的や内容などによって判断される。

 この違いを無視すると、「派閥をなくすと言ったのに議員が再び集まっているから違法だ」という誤解も、「政治団体として届け出ていないから法律や制度とは無関係だ」という誤解も生まれる。問題は、集団が存在しているかどうかだけではなく、その集団が実際にどのような活動を行い、政治資金や人事、候補者公認などにどう関与しているかという点にある。

2026年の再結集は、何を意味しているのか

 2026年に入ってからの自民党内の動きは、派閥の解散と政治家同士の連携の消滅が同じではないことを示している。2月19日には、解散せずに存続していた麻生派が衆議院選挙後の例会を開き、新人ら18人の加入によって所属議員が60人になったと報じられた。これは同日時点の人数であり、その後も変わらないことを意味するわけではないが、旧来型の派閥組織が完全に姿を消したわけではないことを示す具体例である。

 4月2日には、旧二階派の議員を中心に、武田良太元総務大臣を会長とする「総合安全保障研究会」が発足し、初会合には国会議員22人が出席した。研究会は外交や防衛に限らず、食料、エネルギー、国土の強靱化などを対象として政策研究を進め、議員立法につなげることを目指すと説明している。また、武田氏は従来の派閥とは異なる運営を目指し、政治資金規正法上の政治団体として届け出る考えはないと表明した。こうした政策研究そのものは、議員が共同して立法活動を行うための自然な取り組みと評価することもできる。

 しかし、同年9月には、この研究会が所属議員の希望する役職を聞き取り、武田氏が首相へ直接推薦する考えであると報じられた。自民党が5月のガバナンス報告書で、政策集団からの組織的な人事要望を引き続き受け付けない方針を明示していたことを考えれば、これは見過ごせない動きである。もっとも、人事への関与を検討したこと、実際に組織的な推薦を行ったこと、その推薦が人事決定に影響したことは、それぞれ異なる。報道された事実だけを根拠に、旧来の派閥人事が復活したと断定することはできない。

 重要なのは、政策研究会という新しい形をとりながらも、人事や政治的影響力をめぐる機能が再び集団に結びつく可能性が具体的に表れたという点である。かつての派閥と同じ機能を持つのか、それとも政策活動を中心とした緩やかな議員集団として定着するのかは、名称や設立時の説明だけで判断することはできない。実際の活動、資金の流れ、人事への働きかけ、総裁選での行動などを継続して確認する必要がある。

派閥が弱くなると、党執行部は相対的に強くなりやすい

 派閥政治には明らかな弊害があった。能力や専門性より派閥の順番が優先される人事、総裁選をめぐる数合わせ、資金を通じた上下関係が政治への不信を招いてきたことは否定しにくい。それなら派閥が弱くなれば、政治家は派閥領袖の束縛から解放され、能力だけで評価されるようになるのではないかと考えたくなる。

 ところが、政治的な権限は、ある組織が弱くなったからといって自動的に消滅するわけではない。小選挙区では主要政党から原則として一人の候補者が公認されるため、現職議員にとって党の公認を得られるかどうかは政治生命に直結する。候補者公認、選挙支援、党内ポスト、人事といった政治的資源に党執行部が強い影響力を持ち、その一方で派閥の力が弱まれば、議員一人一人が自由になるとは限らず、むしろ党執行部への依存が高まる可能性がある。

 政治学の研究でも、1994年の選挙制度改革後には、派閥が候補者公認に及ぼす影響力が低下する一方、党指導部の公認決定への影響が相対的に強まったことが指摘されている。ただし、この変化を小選挙区制だけで説明することはできない。政党交付金の導入、政治資金制度の変化、候補者選定の仕組み、政党組織の運営方法など、複数の要因が重なっている。また、党総裁と党執行部は完全に同じ存在ではなく、執行部を構成する政治家自身が旧派閥の人脈や支持基盤を持っている場合もある。

 そのため、派閥改革の結果を「派閥から総裁への権力移動」とだけ説明するのも単純すぎる。派閥が弱体化しても、それまで派閥が担ってきた公認、人事、選挙支援などの機能まで消滅するとは限らない。党執行部に集約されるものもあれば、地方組織や新たな議員グループに移るものもあり、党全体の制度として再構築されるものもあるだろう。改革の効果を考えるときには、単に派閥の影響力が低下したかどうかではなく、政治的資源の配分と意思決定の仕組みがどのように変わったのかを検証する必要がある。

 ただし、党執行部の権限が強まることが、必ず政治の質の低下につながるわけでもない。責任を負う主体が明確になり、選挙で示した政策を実行しやすくなれば、有権者が政権の成果を評価しやすくなる面もある。問題は権限の集中そのものではなく、集中した権限に対して説明責任があり、異論や監視が適切に働き、誤った意思決定を修正できるかどうかである。

派閥は権力の源泉であると同時に、権力を割る装置でもあった

 派閥を考えるうえで難しいのは、派閥が一方では権力を生み出しながら、別の面では権力の集中を抑えていたことである。複数の派閥が競争する自民党では、総裁や首相であっても党内のすべてを自由に決められるわけではなく、他派閥との調整を必要とした。これは政策決定を遅らせ、人事を複雑にする原因になった一方で、党執行部への権力集中を抑える内部的な牽制として作用する場面もあった。

 もちろん、これをそのまま「派閥は民主主義を守っていた」と美化することはできない。有権者から見えないところで少数の派閥幹部が大臣ポストや党役職を調整するのであれば、それは透明な民主的統制とは別のものである。また、複数の派閥が存在していても、それぞれが競争するとは限らず、互いに利益を交換しながら既存の権力構造を維持することもあり得る。派閥の存在だけで権力分散や民主的な監視が保証されるわけではない。

 それでも、「派閥を弱めること」と「権力を分散させること」が同じではないという点は重要である。派閥を解体した結果、一か所に権限が集中するのであれば、政治の透明性や意思決定の質が自動的に向上するわけではない。一方、党本部が明確な基準に基づいて人事や公認を決定し、地方組織や所属議員の意見を反映させる制度が整えば、従来の派閥政治より公正な運営に近づく可能性もある。

 政治に必要なのは速度だけでも、権力を分散させることだけでもない。強い執行部は政策決定を速め、選挙で掲げた政策を実行しやすくする一方、内部から異論が出にくくなれば、間違った政策へ進んだときにブレーキを踏む仕組みまで弱くなる可能性がある。政治制度を考えるときには、「誰が決めるか」と同時に「誰が止められるか」、そして「その判断について誰が責任を負うか」を見なければならないのである。

本当に注意すべきなのは、表札のない政治集団かもしれない

 さらに厄介なのは、人間関係には解散届がないことである。何十年も同じ派閥に所属してきた政治家同士には、先輩と後輩、師弟、同期、選挙支援、政策分野などを通じた関係が残っているため、「今日で派閥を解散します」と宣言した翌日から互いが無関係な政治家になるわけではない。

 2026年に旧派閥を基盤とした政策研究会や会合が再び目立つようになっていることは、その意味で興味深い。現在のところ、それらがすべて旧来の派閥と同じように政治資金を集め、人事を要求し、総裁選の票を一括して動かす組織になっていると証明されたわけではない。しかし、人間関係に基づく政治集団そのものが、派閥解散によって消滅したわけでもないことは見えてきている。

 ここには別の問題もある。以前の派閥政治では、「この議員は何派に所属し、領袖は誰で、所属議員は何人なのか」という粗いながらも権力地図を見ることができた。ところが政治団体としての派閥が消え、実際の政治的連携が食事会、勉強会、政策研究会、同期会などの緩やかな人間関係へ移れば、誰と誰が継続的に協力し、誰が人事や政策に影響を及ぼしているのかを外部から把握しにくくなる可能性がある。

 もっとも、公式な派閥であれば透明で、非公式な議員グループであれば不透明だという単純な話でもない。正式な政治団体として届出を行っていても、内部の意思決定や政治的な取引が十分に公開されるとは限らない。反対に、政策研究を中心とし、資金や人事への不透明な関与を持たない議員グループであれば、旧来の派閥より問題が少なくなる可能性もある。

 したがって、非公式な政治集団の方が旧派閥より危険だと現時点で断定することはできない。その判断には、構成員の関係、資金の授受、人事への働きかけ、政策決定における影響力などの実証データが必要である。ただし、「組織をなくせば透明になる」とも限らないという仮説は、今後の自民党政治を見るうえで重要である。表札を外したことで建物まで消えたと思っていたら、実際には入口だけが分かりにくくなっていたということも、政治の世界では起こり得るからだ。

なぜ政治家は、再び集団をつくろうとするのか

 そもそも、政治家が集団を形成する理由は、政治学だけでなく、経済学やゲーム理論からも説明できる。政治家がある集団に参加する場合、情報共有、政策立案、選挙協力、人脈形成、人事上の機会などの利益が得られる可能性がある。一方で、活動に必要な時間や費用、集団の方針に従うことによる自由の制約、評判上のリスクなどの負担も生じる。政治家が参加による利益を負担より大きいと判断すれば、集団に所属する誘因が生まれる。

 派閥から資金や人事の機能を切り離す改革は、こうした利益の一部を減らす効果を持つと考えられる。しかし、政策実現のために仲間を集める必要性や、議員同士が情報を交換する利益まで消えるわけではない。仮に資金や人事への関与が厳格に禁止されたとしても、共同で政策を提案する利益が十分に大きければ、政治家は新たな集団を形成する可能性がある。

 ただし、これは派閥が必ず復活するという意味ではない。集団に所属する利益が小さくなり、特定の有力者に従属する負担が大きくなれば、組織的な結びつきが弱まることもある。また、党本部や地方組織が情報共有、人材育成、政策形成を十分に担うようになれば、派閥的な集団を必要とする理由そのものが減る可能性もある。政治家が集団をつくる誘因が残ることと、旧来の派閥政治がそのまま復活することは、区別して考える必要がある。

 それでも、数百人の議員が限られた役職や政治的影響力を競い、同時に政策実現のために協力するという基本的な環境が続くかぎり、何らかの政治的集団が形成されることは不自然ではない。三人が情報交換を始め、五人で定期的に会い、十人で特定の政策を共同提案するようになれば、そこにはすでに政治的なネットワークがある。その集団が健全な政策研究組織になるのか、不透明な資金や人事を扱う集団になるのかは、形成された後の活動と、それを規律する制度によって変わってくる。

派閥改革の効果は、数字で確かめられるのか

 派閥改革の評価で難しいのは、「派閥がなくなった」という事実は比較的確認しやすくても、「政治が良くなった」という結果を客観的に測定することは容易ではないという点である。政治の質には、資金の透明性、人事の公平性、政策形成能力、意思決定の速さ、党内で異論を認める程度、有権者への説明責任など、異なる側面が含まれている。一つの指標が改善しても、別の指標が悪化する可能性がある。

 例えば、派閥が弱くなった結果として権力が集中したかどうかを調べる場合、経済学で市場集中度の測定に用いられるハーフィンダール・ハーシュマン指数の考え方を参考にできる。この指数は、各主体が占める割合をそれぞれ二乗して合計するもので、特定の主体への集中が強まるほど数値が大きくなる。仮に四つの集団が権限を25%ずつ持つとすれば指数は0.25であるのに対し、一つの集団が55%、残り三つが15%ずつを持つとすれば0.37となる。この例では後者の方が権限の集中度は高い。ただし、これは考え方を示すための仮定であり、実際の自民党の権力集中度を計算したものではない。

 現実の政治では、公認、人事、資金配分、政策形成などの権限が同じ政治家や集団に集中しているとは限らないため、一つの数字で測定すること自体に限界がある。それでも、党内役職の配分、旧派閥出身者の登用率、総裁選での投票傾向、政治資金の流れ、候補者公認における党本部と地方組織の関与などを継続して調べれば、改革前後の変化を一定程度把握することは可能だろう。

 さらに重要なのは、改革前後の変化が確認されたとしても、そのすべてを派閥改革の成果や弊害とみなすことはできないという点である。選挙によって新人議員が増えれば人事構成は変わり、首相の政治的影響力や党内の勢力関係が変われば、役職配分や政策決定も変化する。政治資金の流れも、法律改正、監督体制、報告制度、政治家自身の行動変化など複数の要因によって左右される。派閥改革そのものの効果を検証するには、これらの要因を可能な範囲で区別しなければならない。

 現在確認できるのは、制度改革が行われ、旧派閥の再結集や新たな人事関与の動きが報じられているという事実である。それだけで政治が以前より清潔になったとも、反対に不透明になったとも結論づけることはできない。改革の成否を判断するには、継続的な統計分析と、個々の意思決定過程を確認する実証的な調査が必要なのである。

悪かったのは「集まること」なのか、それとも集団に与えられた権力なのか

 ここまで考えると、改革の対象そのものが少し違って見えてくる。政治家が集まること自体を問題にする必要はない。同じ政策に関心を持つ議員が研究会をつくり、新人議員が経験者から国会運営を学び、ある総裁候補を支持する政治家同士が連携することは、議会政治ではむしろ自然な行為である。議員が互いに協力し、意見を交換することまで抑制すれば、政策形成に必要な情報や経験の共有が難しくなる可能性もある。

 問うべきなのは、その集団が何を握っているのかである。政治資金を不透明に動かせるのか、人数を背景に大臣や党役職を要求できるのか、候補者公認に影響を与えられるのか、若手議員の昇進や選挙支援を事実上左右できるのか、そして誰がどの意思決定にどのように関与したのかを外部から確認できるのかという問題こそが重要になる。

 こう考えれば、派閥改革の核心は「政治家を集団から解放すること」ではなく、「集団形成そのものと、資金・人事・公認という権力資源を切り分けること」にある。政策を研究する集団は存在してもよいが、その集団への所属が大臣就任や党内昇進の事実上の交換条件になってはならない。若手を育成する仕組みも、特定の有力者への忠誠ではなく、党全体の制度として公正に利用できる方が望ましい。資金についても、誰から入り、何に使われたのかを追跡できる仕組みを強くする方が、政治家同士が集まる行為そのものを問題視するより制度として筋が通っている。

 もっとも、集団が人事や公認への影響力をまったく持たない状態を実現することも容易ではない。政策に詳しい議員が専門性のある人物を役職に推薦したり、複数の議員が特定の候補者を支持したりすることまで否定すれば、通常の政治的な意思表明との区別が難しくなるからだ。重要なのは、専門性に基づく推薦や公開された政治的支持と、集団への所属や忠誠を対価とする不透明な人事取引を区別することである。

派閥は日本政治の原因であると同時に、制度の結果でもあった

 政治改革では、目に見えるものを原因だと思い込みやすい。政治とカネの問題が起これば派閥をなくそうと考え、世襲議員が多ければ世襲そのものを禁止したくなり、政治家が長く在職すれば多選を制限すればよいと思ってしまう。しかし制度を変えるときには、その現象を生み出している一段奥の構造まで見なければ、形を変えた同じ問題が再び現れる。

 政治家には選挙があり、公認があり、政治資金が必要で、党内人事があり、大臣や委員長への昇進があり、総裁選もある。しかも数百人の議員が一つの政党に所属しながら、限られた役職と政治的影響力を競っている。この条件が続くかぎり、政治家には他の政治家と連携し、ある程度まとまった集団をつくる誘因が残る。派閥はこうした環境の中で形成され、選挙制度や政党組織の変化に合わせて役割を変えてきた。

 だからといって、派閥が自然に形成されたから容認すべきだという結論にはならない。制度によって生まれた組織であっても、不透明な資金管理や不公正な人事を行えば、その行為は厳しく問われなければならない。一方で、組織を解散させるだけで同じ問題が再発しないと考えるのも合理的ではない。改革の対象は目に見える集団だけではなく、その集団に不透明な権限や利益が集中する仕組みである。

 その意味で、派閥改革を自民党内部だけの特殊な問題として考える必要もない。どの政党でも、一定以上の規模になれば議員間の情報共有、人材育成、政策調整、候補者選定、役職配分が必要になる。集団形成の誘因は政党の思想や立場だけで決まるものではなく、議員数、選挙制度、組織構造、政治的資源の配分によって左右される。自民党の派閥改革を検証することは、日本の政党組織全体のあり方を考えることにもつながる。

派閥のない政治が、きれいな政治とは限らない

 派閥を弱めることで改善できる問題は確かにある。派閥単位での不透明な資金集めを防ぎ、所属派閥の順番だけで大臣や党役職が回ってくる慣行を弱められれば、政治家の専門性や能力を重視する余地は広がる。候補者公募や人材育成の制度が適切に運用されれば、従来の人脈に依存しない新しい政治家が登場する機会も増える可能性がある。それだけでも改革には意味がある。

 しかし、派閥がなくなった空間を党執行部だけが埋めれば権力が中央へ集中する可能性があり、旧派閥の人脈が非公式な集団として残れば権力関係がかえって見えにくくなる可能性もある。さらに、人材育成や意見集約まで一緒に失われれば、巨大政党を動かす組織能力そのものが落ちるかもしれない。反対に、党全体の共通制度や地方組織の役割が強まれば、従来より公平で効率的な政党運営に近づく可能性もある。派閥をなくしたという一つの事実だけから、政治が良くなったか悪くなったかを判断することはできないのである。

 それなら、派閥改革の成否を何で測ればよいのだろう。見るべきなのは派閥の数ではなく、政治資金を以前より追跡できるようになったのか、人事の理由を以前より説明できるようになったのか、若手議員が特定の有力者に従属しなくても育つ仕組みが機能しているのか、党内で異論を唱えた議員が不合理な不利益を受けない仕組みがあるのか、そして誰がどのような過程で政策や人事の意思決定に関与したのかを有権者が以前より理解できるようになったのか、という変化である。

 こうした指標を継続して確認することができれば、派閥改革の効果は政治家の説明や報道の印象だけに頼らず、一定の客観性をもって評価できるようになる。ただし、そのためには公表される政治資金の情報や人事の選定基準が十分でなければならず、制度を整えることと、制度が実際に機能することを区別する必要がある。

 派閥という名前を永田町から消すことはできるかもしれない。しかし、政治家から人間関係を消すことはできない。人が集まれば関係が生まれ、関係が続けば集団が生まれ、集団が形成されればそこには何らかの政治的影響力が生まれる。その力そのものを消そうとするより、どこに力があり、誰が使い、誰が利益を得て、間違ったときに誰が責任を負うのかを見えるようにする方が、民主政治の制度設計としては現実的である。

 そう考えると、「派閥をなくせば日本政治は良くなるのか」という問いへの答えは、単純な「はい」でも「いいえ」でもない。派閥をなくすことで改善する問題はあるが、改革の本当の成否は、その後に資金、人事、公認、情報、人材育成という政治的資源がどこへ移り、それを誰が監視できるようになるかによって決まる。

 古い派閥の看板が永田町から消えたところで、政治改革は完成しない。むしろ重要なのはその後であり、空席になったはずの椅子に誰が座るのか、あるいは椅子そのものが別の部屋へ移されるのかを見なければならない。派閥政治の終わりを論じるなら、派閥が消えた瞬間ではなく、その後にどのような権力地図が描かれ、政治資金の透明性や人事の公平性、政策形成の質が実際にどう変化したのかを検証すべきなのである。

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 政治家の力を人気で測ろうとすると、二階俊博という政治家は、ひどく分かりにくい存在になる。テレビ映りのよさを武器にした政治家ではない。演説によって大衆を熱狂させるタイプでもなく、国民的人気を背負って総理大臣の座を目指したわけでもない。それどころか、中国との近い関係をめぐっては保守層の一部から厳しく批判され、道路整備や国土強靱化への積極的な関与からは、利益誘導型政治の象徴のように語られることもあった。新型コロナウイルス感染症の流行期には、旅行業界との長い関係にも批判的な視線が向けられた。そして晩年には政治資金をめぐる問題が直撃し、2024年3月、次の衆議院選挙に立候補しないことを表明するに至った。

 ところが、その二階は2016年8月3日から2021年10月1日まで、1886日にわたって自由民主党(自民党)の幹事長を務めた。これは歴代最長の在任記録である。安倍晋三政権から菅義偉政権へと総理大臣が交代しても、二階は党の中枢に残った。1983年の初当選から2021年の衆議院選挙まで、当選回数は13回に達している。

 なぜ、これほど批判を受けながら、長期間にわたって権力の中心にいられたのだろうか。この問いを解くには、「二階はなぜ人気があったのか」と考えるだけでは足りない。そもそも全国的な批判の大きさと、地元選挙区での支持、党内での政治的影響力は、それぞれ異なるものである。全国世論調査によって二階個人の人気を長期間測定した一貫したデータがあるわけでもなく、批判的な報道の多さだけで国民全体からの評価を数値化することはできない。それでも、二階の長期的な政治的影響力を説明するうえで重要な視点がある。それは、大衆に広く好かれることと、政治組織の内部で必要とされることは、必ずしも一致しないという点である。

権力は、拍手の大きさだけでは測れない

 民主政治では、選挙に勝つことが権力への入口になる。しかし、議員になった後の力関係は、得票数や世論調査の数字だけでは決まらない。選挙区の候補者を誰にするのか。党内の対立をどう収めるのか。地方組織から上がってきた要求をどこへ運ぶのか。政権が危機に直面したとき、誰が異なる派閥の間を調整するのか。選挙で苦戦している議員を誰が支えるのか。政府と党の意思がずれたとき、誰が合意できる着地点を探すのか。こうした仕事は国会中継にはほとんど映らないが、政党を運営するうえでは重要な役割を担っている。

 政治組織は、演説する人間だけでは動かない。政策を立案する能力、選挙に勝つ能力、議会で多数派を形成する能力に加えて、異なる利害を調整し、対立する者同士の間に入り、合意形成を可能にする能力が必要になる。政治家の影響力は、こうした複数の能力がどのように組み合わされるかによって変わる。

 二階の政治経歴は、この見えにくい権力の働きを考える材料になる。1993年に自民党を離れた二階は、新生党、新進党、自由党、保守党、保守新党と、政党再編の時代を渡り歩いた。2003年には保守新党が自民党へ合流する形で、約10年ぶりに自民党へ戻った。日本の政党政治が大きく変動した時期に、複数の政治組織で活動したという経験を持っている。

 こうした政党遍歴は、必ずしも政治的な強みになるわけではない。所属政党を変えることは、有権者から政治理念の一貫性を問われる原因にもなる。しかし別の角度から見れば、異なる政治組織の意思決定や内部事情を知り、以前は対立していた政治家とも関係を持つ機会を得たとも考えられる。

 その経験から何を学んだのかは、本人の内面に属するため断定できない。ただ、後の派閥運営や政権内での行動を考えると、一度の対立によって政治的な人間関係を完全に断ち切らず、状況に応じて協力関係を形成する姿勢は、二階の政治的特徴を理解する一つの手掛かりになる。政治の世界では、今日の敵が永久に敵であるとは限らない。選挙では対立した相手が、数年後には連立相手や政策上の協力者になることもある。政党再編を経験した二階の経歴は、そうした政治の流動性を理解するうえで重要である。

二階派は、わずか3人から独力で拡大したわけではない

 二階の権力を「派閥の領袖だったから」と説明することはできる。しかし、それだけでは十分ではない。さらに、二階派の成長過程を正確に見ると、単純な派閥拡大とは異なる特徴が浮かび上がる。

 2003年に自民党へ戻った二階は、旧保守新党系の議員らを中心に「新しい波」という政治グループを形成した。しかし、その勢力は決して大きくなかった。2009年の衆議院選挙で自民党が政権を失うと、所属する衆議院議員は二階を含めて3人にまで減少した。

 ここで重要なのは、その後の経緯である。二階は、この3人の集団を独力で拡大し続けたわけではない。2009年11月、伊吹文明が率いる既存の派閥「志帥会」に合流し、会長代行に就任した。2012年12月に伊吹が衆議院議長となって派閥を離れると、二階はその指導的地位を引き継ぎ、2013年に志帥会会長となった。

 つまり、二階派の形成には、少数グループの維持、既存派閥への合流、指導権の継承、その後の勢力拡大という複数の段階があった。2020年には47人を擁し、岸田派と並ぶ自民党内第4派閥となったが、それは2009年の3人から全員を新たに集めた結果ではない。

 この違いは、二階の政治的能力を評価するうえで重要である。巨大派閥を最初から相続したわけでも、完全に独立した小集団を47人まで育てたわけでもない。少数派になったときには他の集団と結びつき、既存の政治組織の中に足場を確保し、その後に指導権を継承して勢力を拡大したのである。

 こうした経緯は、二階の政治力が単純な人数の獲得能力だけでは説明できないことを示唆している。自らの立場が弱い時期には他の組織と協力し、影響力を持てる位置を確保する。その後、党内の人間関係や政治的な機会を利用して組織を拡大するという過程は、政治的な適応能力の一例として理解できる。

 もっとも、派閥の拡大を二階個人の能力だけに帰することはできない。所属議員の判断、他派閥の状況、党内人事、選挙結果など、複数の要因が作用しているからである。それでも、政治的環境の変化に合わせて組織上の位置を変えながら影響力を維持したという事実は、二階の長期的な政治活動を特徴付けている。

二階の力は「城」よりも「交差点」に近かったのか

 社会ネットワーク研究には、ブローカー(broker・異なる個人や集団を仲介する主体)という考え方がある。ネットワークの中で影響力を持つ人物は、必ずしも最も多くの知人を持つ人物ではない。互いに直接つながっていない集団の間に位置し、情報交換や交渉の経路になる人物が、重要な役割を果たす場合がある。

 これを数学的に捉える考え方の一つが、媒介中心性(betweenness centrality・他者同士を結ぶ最短経路上に、特定の主体がどの程度位置しているかを表す指標)である。例えば、互いに直接交流していない四つの集団があり、その間の連絡が一人の仲介者を経由している場合、その人物は情報伝達や交渉において重要な位置を占める。逆に、各集団が直接連絡を取り合えるようになれば、その仲介者への依存は小さくなる可能性がある。

 この考え方を二階政治に当てはめると、その権力は巨大な城というより、複数の道路が交わる交通量の多い交差点に近かったという仮説が成り立つ。交差点そのものは目的地ではないが、別の場所へ移動するために多くの人がそこを通らなければならないのであれば、交差点には独自の価値が生まれる。

 二階も、派閥、地方組織、業界団体、政府、他の政治勢力との間に複数の接点を持っていた。こうした関係が政治的な情報や交渉の経路になっていたとすれば、単純な派閥人数以上の影響力を発揮できた可能性がある。

 ただし、ここには重要な留保が必要である。二階個人の政治的人脈を網羅したデータを用いて媒介中心性を計算したわけではなく、その数値が他の政治家より高かったと実証したものでもない。また、媒介中心性が高いことと、実際に人事や政策を決定できることは同じではない。政治権力には、制度上の権限、相手からの信頼、資金や組織への接点、交渉能力なども作用する。

 したがって、二階を「交差点」に例えるのは、権力構造を理解するための理論的な説明であり、測定によって確定した結論ではない。それでも、最大派閥の領袖ではなかった二階が長期間にわたり党内の中枢に位置した理由を考えるうえで、集団間の仲介という視点には一定の説明力がある。

幹事長という地位が、人的ネットワークの価値を高めた

 二階に大きな制度的権限を与えたのが、2016年8月の自民党幹事長就任だった。自民党の党則では、幹事長は総裁を補佐し、党務を執行すると定められている。幹事長は総裁の意向や党内の意思決定機関と無関係に、党のすべてを単独で決定できるわけではない。しかし、党務の執行責任者として、選挙、組織運営、人事、資金管理、地方組織との連絡などに関わる重要な地位である。

 この役職の特徴は、決定に関わる権限だけでなく、多くの政治情報が集まりやすいことにある。どの選挙区で候補者の調整が難航しているのか。どの地方組織が支援を求めているのか。どの議員が党執行部の方針に不満を持っているのか。複数の派閥が対立したとき、どのような条件で合意が成立し得るのか。幹事長は、こうした情報に接する機会を持ちやすい。

 政治組織における権力には、命令する力だけでなく、情報を把握し、交渉の場を設定し、意思決定に影響する力もある。相談が集まれば、党内の問題や人間関係に関する情報を得やすくなる。そこで調整を成立させれば、さらに信頼や協力関係が生まれる可能性がある。

 この点で、二階の政治力を「幹事長になったから強くなった」と一方向だけで説明するのは適切ではない。長年の政治活動によって蓄積した人脈や党内での地位が幹事長就任の背景となり、幹事長という役職がさらに情報や調整への接点を増やしたという、相互に強め合う関係が考えられる。

 もっとも、この関係には逆因果の問題がある。政治力が強いから幹事長に選ばれたのか、幹事長になったことで政治力が強まったのか、それぞれの影響を厳密に分離することは難しい。二階の就任前後の党内調整への関与や政治的影響力を数量化した比較データがなければ、役職による効果の大きさまでは確定できない。

 それでも、長年の人的関係と幹事長の制度的な地位が結びついたことは、二階が長期間にわたって党の中心に位置した理由を考えるうえで、重要な要素である。

「総理にならない実力者」という位置

 二階政治には、もう一つ特徴的な点があった。大きな政治的影響力を持ちながら、自らが自民党総裁となって総理大臣を目指す動きは、政治活動の中心にはならなかったことである。

 ここで、二階が最初から総理を目指さない戦略を意識的に選んでいたと断定することはできない。総裁を目指すための政治的条件が整っていなかった可能性もあるし、本人の政治的関心や年齢、派閥規模などが影響した可能性もある。いずれにしても、確認できない本人の意図を前提に説明することは慎重であるべきだろう。

 しかし、客観的に確認できることがある。二階は安倍晋三と総裁職を直接争う立場には立たず、安倍政権下で長期間幹事長を務めた。また、2020年に安倍が退陣した際にも、自ら総裁選挙に立候補するのではなく、菅義偉を支持する側に回った。

 政治組織では、最高指導者の座を直接争う人物と、その座を争わず組織運営や多数派形成を担う人物とでは、指導者との利害関係が異なる。有力な競争相手は将来の指導者になり得る一方、組織運営を担う実力者は、指導者にとって政権を維持するための協力者になり得る。

 二階の長期在任についても、こうした位置関係は無視できない。ただし、安倍が二階をどのように評価していたのか、なぜ長期にわたって幹事長に起用したのかを、外部から単一の理由で断定することはできない。選挙、派閥間の均衡、党内人事、政権運営上の必要性などが関係していたと考えるのが慎重である。

 重要なのは、総理大臣にならなければ政治的影響力を持てないわけではないという点である。政権の最高責任者ではなくても、党組織の運営や人事、選挙、派閥間の調整に関わることで、別の種類の権力を持つことは可能である。二階は、そのような権力のあり方を示した政治家の一人だった。

地方政治では「何を語ったか」だけでは評価されない

 全国的な政治論争から二階を見ると、古い利益誘導型政治の象徴のように映ることがある。しかし、地方の有権者が国会議員を評価する際には、全国的な政治課題だけでなく、地域の具体的な課題への対応も判断材料となる。

 二階は長年にわたり、道路、港湾、防災、観光、国土強靱化などの政策分野に関与してきた。紀伊半島の道路整備や地震防災対策をはじめ、地元の社会基盤に関係する事業を政治活動の重要な課題としてきたことは、本人の活動記録や関連する政策資料から確認できる。2013年には、防災・減災等に資する国土強靱化基本法など、複数の防災関係法案の提出にも関わっている。

 ただし、政治家本人が掲げる実績と、その政治家が実際に生み出した政策効果は区別しなければならない。道路や港湾の整備には、政府の計画、財政状況、自治体の要望、行政機関による調査、他の国会議員の活動など、多数の要因が作用する。事業が実現したという事実だけで、その成果を特定の政治家一人に帰属させることはできない。

 また、公共事業の推進そのものが不当な利益誘導を意味するわけでもない。必要な社会基盤を整備することは、国や自治体の正当な政策課題である。問題になるのは、事業の必要性、費用対効果、地域間の公平性、意思決定の透明性などが十分に検討されていたかどうかである。

 例えば、道路整備の効果を評価するのであれば、移動時間の短縮、災害時の代替経路、救急搬送の改善、地域産業への影響などを調べる必要がある。一方で、建設費や維持管理費、交通需要の見通し、人口減少に伴う将来の利用状況も考慮しなければならない。こうした政策効果の検証と、政治家が事業実現に果たした役割の検証は、本来別々に行うべきものである。

 それでも、地方の有権者にとって、中央政府や関係省庁との交渉力を持つ政治家が重要な存在になり得ることは理解できる。地域の政策課題を国政へ伝え、必要な制度や予算の実現を求めることも、国会議員に期待される役割の一つだからである。

 実際、二階が最後に立候補した2021年10月の衆議院選挙では、和歌山3区で10万2834票を獲得し、得票率69.3%で当選した。2位の日本共産党候補は2万692票、得票率14.0%であり、得票差は8万2142票、得票率の差は約55.3ポイントに達していた。

 ただし、69.3%という数字は有効投票に占める割合であって、選挙区の有権者全体に占める支持割合ではない。同選挙区の投票率は62.32%であり、二階の得票数を有権者数約25万人で割ると約41.1%になる。これは二階への積極的な支持者の割合を正確に示したものではないが、得票率だけを見て有権者の約7割が支持していたと解釈することは適切ではない。

 さらに、この選挙結果から「公共事業を持ってきたから69.3%を獲得した」と結論することもできない。長年の現職としての知名度、自民党の組織力、後援会、地域の政党支持構造、対立候補の顔ぶれなど、多数の要因が作用しているためである。

 重要なのは、全国的な報道による評価と、地元選挙区での候補者評価が異なり得るという構造である。国会議員は全国民による一つの人気投票で選ばれるわけではなく、それぞれの選挙区で有権者の判断を受ける。二階が長く議席を維持した背景には、こうした小選挙区政治の制度的特徴もあったと考えられる。

「中国に近い」という批判は、外交上の人的経路という側面も持つ

 二階を語るとき、中国との関係を避けることはできない。象徴的なのが2015年の日中観光文化交流団である。二階は総勢3162人に及ぶ訪中団の名誉団長として中国を訪れた。北京の人民大会堂では習近平国家主席が出席する交流行事が開かれ、二階自身もあいさつした。当時、二階は全国旅行業協会の会長を務めており、観光業界との関係を背景に大規模な人的交流を進めていた。

 このような長年の日中交流を背景に、二階はしばしば「親中派」と呼ばれ、その姿勢が政治的批判の対象になった。中国政府に対してどこまで厳しい態度を取るべきか、安全保障上の懸念と経済交流をどのように両立させるのかは、日本外交における現実の政策課題である。

 したがって、中国との関係を維持してきたという理由だけで二階の外交姿勢を肯定することも、交流を行ったという事実だけで不適切だったと決め付けることも適切ではない。評価には、具体的な外交案件や政策上の成果、日本の国益への影響を検討する必要がある。

 ただし、外交関係が悪化した際にも、政府間交渉以外の人的な連絡経路が意味を持つ場合はある。相手国の政治関係者と長期的な関係を維持してきた人物は、少なくとも潜在的には、対話を継続するための経路となり得る。

 二階の中国との関係も、こうした外交資源としての側面から考えることができる。ただし、人的な経路が存在することと、それによって具体的な外交成果が生まれたことは同じではない。2015年の訪中団の規模だけでは、日中関係をどの程度改善したのかを証明できない。また、中国との関係が国内政治における二階の地位をどれほど強めたのかについても、明確な因果関係を示す資料は十分ではない。

 それでも、一部の有権者から政治的な弱点とみなされる対外関係が、別の局面では外交上の連絡経路として評価され得るという構造は存在する。二階政治では、批判される理由と、政治的な資源になり得る理由が、同じ人的関係から生まれていた可能性がある。

2020年、二階の政治技術が鮮明に現れた

 二階の党内での影響力を考えるうえで、2020年の自民党総裁選挙は重要な事例である。2020年8月、安倍晋三が辞意を表明すると、後継総裁をめぐる動きが一気に始まった。当時、二階派は47人であり、自民党内の最大派閥ではなかった。しかし、8月31日に二階派が菅義偉支持を決めると、その後、最大派閥の細田派や麻生派など、有力派閥が相次いで菅支持へ動いた。

 この経過から、二階派の早期支持が総裁選挙の流れを形成する一要素になった可能性は考えられる。政治では、単純な人数だけでなく、いつ支持を表明するかも重要だからである。複数の派閥が情勢を見極めている段階では、ある派閥の支持表明が他の派閥にとって新しい情報になる。誰が有力候補なのか、どの候補を支持すれば党内で有利な立場を確保できるのかを判断する際、他の政治勢力の動向が参考にされることは十分に考えられる。

 ただし、二階派が動いたから他の派閥も動いたと、時系列だけで断定することはできない。各派閥が菅の官房長官としての実績や安倍政権との継続性、選挙での勝算などを独自に判断した可能性もある。二階の動きと他派閥の判断には共通の政治的背景が存在していたとも考えられる。

 さらに、この総裁選挙では、選出制度そのものが重要だった。2020年の総裁選挙は、通常の党員・党友による全国的な投票を含む方式ではなく、党大会に代わる両院議員総会によって実施された。投票権は党所属国会議員394人と、47都道府県連の代表各3人、合計141人に与えられ、計535票の枠組みで行われた。

 つまり、投票権の約73.6%を国会議員が占める仕組みだった。一般党員からの支持だけでなく、国会議員や派閥の動向が選挙結果に強く反映されやすい構造である。地方組織でも予備選などは行われたが、各都道府県に割り当てられた票数は3票に限られていた。

 選挙結果は、有効投票534票のうち、菅が377票、岸田文雄が89票、石破茂が68票だった。菅は有効投票の約70.6%を獲得して当選した。

 ここで、二階派47人の規模を数理的に考えてみる。47人は国会議員394人の約11.9%に相当する。仮に二階派の47人全員が菅に投票したとしても、それだけで377票を説明することはできない。実際の得票377票から47票を差し引いても330票が残り、他の派閥や国会議員、地方組織からの幅広い支持が菅の当選に寄与していたことは明らかである。

 もっとも、この計算は、他の投票行動が変化しないと仮定した単純な比較である。二階派が支持を表明しなかった場合、他の派閥の判断や得票配分まで同じだったとは限らない。したがって、この数字から二階派の早期支持に影響がなかったと結論することもできない。

 最も慎重な説明は、二階派単独で菅を当選させたわけではないが、早期の支持表明が党内の期待形成や支持勢力の調整に影響した可能性がある、というものである。菅が自民党総裁となり、総理大臣に就任すると、二階は幹事長に留任した。この結果、安倍政権から菅政権への移行を経ても、二階は党運営の中心的地位を維持した。

 この時期、二階は「キングメーカー」と呼ばれるほどの影響力を持つ政治家として扱われた。しかし、その力を他派閥に一方的に命令する能力と理解するのは適切ではない。むしろ、党内の政治情勢を読み、早い段階で支持を明確にし、複数の勢力が合意し得る方向を形成する能力に特徴があったと考えられる。

 2020年の総裁選挙は、二階の政治力を派閥の人数だけで説明することの難しさと同時に、幹事長という地位、党内ネットワーク、総裁選挙の制度が組み合わさって影響力を形成する仕組みを示す事例だった。

二階の長期在任には、本人以外の条件も作用していた

 ただし、二階の長期的な権力を本人の調整能力だけで説明すると、重要な点を見落とす。第一に、幹事長という役職は、本人の意思だけで維持できるものではない。自民党の党則では、幹事長は総務会の承認を受けて総裁が決定する。したがって、二階が長期間幹事長に在任できたことには、安倍や菅をはじめとする総裁側の判断が関わっていた。

 第二に、自民党内の派閥構造や政権運営上の利害が存在する。総裁は党内の各勢力との関係を調整する必要があり、幹事長の選任も、そのような党内政治と無関係ではない。二階が必要とされたとしても、その必要性は党内の勢力関係や政権の状況によって変化する。

 第三に、政治的な仲介能力がある人物なら誰でも長期的な権力を維持できるわけではない。同じように派閥間の調整や選挙支援を重視しながら、選挙に敗れたり、党内人事で影響力を失ったりした政治家も存在する。長く生き残った二階だけを対象に分析すると、その成功を生んだ特徴を過大評価する生存者バイアスに陥る危険がある。

 二階の特徴が本当に例外的だったのかを検証するためには、同時代の自民党有力政治家と比較し、幹事長在任期間、派閥規模、当選回数、役職歴、党内での調整への関与などを調べる必要がある。この記事が示す説明は、二階個人の能力を実証的に数量化したものではない。確認できる経歴や政治行動を基礎に、党内制度や政治学の理論から長期的な影響力の形成過程を説明する仮説として位置付けるのが適切である。

2021年、制度的な権力を失う転換点が訪れた

 二階の影響力がどのように形成されたのかを考えるなら、それがどのように弱まったのかも検討しなければならない。重要な転換点は、2024年の不出馬表明だけではない。その前の2021年に、二階は長く務めてきた自民党幹事長の地位を失っている。

 2021年9月の自民党総裁選挙では岸田文雄が当選し、10月1日に党役員人事が行われた。幹事長には甘利明が就任し、二階の1886日に及ぶ在任は終了した。これによって二階は、党務の執行責任者という制度上の地位を失った。

 岸田は総裁選挙において、党役員の任期に上限を設ける改革方針も打ち出していた。長期在任の是非が党運営上の論点となっていたことは、二階の地位を考えるうえで無視できない。ただし、幹事長交代の理由を二階への反発だけで説明するのは適切ではなく、新総裁による党運営体制の構築や人事上の判断なども考慮する必要がある。

 ここには、政治権力の性質を理解するための重要な論点がある。二階が長年蓄積した人脈は、幹事長を退任したからといって突然消滅するものではない。しかし、党務を執行する正式な権限や、選挙、人事、組織運営に関する情報が集まる制度的な地位は失われる。個人的な人脈が残っていても、役職を通じて得られる政治的資源は変化するのである。

 これは、幹事長への就任が政治的影響力を強めるという仮説の反対側に当たる。役職と人脈が相互に政治力を高めていたのであれば、役職を失うことによって、その循環の一部が弱まる可能性がある。もちろん、2021年以降の二階の影響力が実際にどの程度低下したのかを数量的に測定したわけではない。ただ、制度的な地位を失ったことは確認できる事実であり、長期的な権力の変化を考えるうえで、2021年は重要な区切りだった。

「必要とされる政治」は、同時に不信も生む

 ここまで見ると、二階政治には一定の組織的な合理性があったことが分かる。しかし、その強さを生み出した仕組みには、政治的な不信を招き得る側面も存在していた。

 人的関係を通じた調整を重視すれば、正式な会議や公開資料だけでは意思決定の過程が分かりにくくなる。地域の要望を中央政府へ届ける政治を重視すれば、政治的影響力の強い地域ほど有利になるのではないかという疑問が生まれる。業界団体との長い関係を政策形成に利用すれば、専門知識や現場の情報を得られる一方で、特定業界の利益が過度に優先されていないかという問題も生じる。

 こうした関係が存在すること自体は、直ちに不正を意味するわけではない。民主政治において政党、地方組織、業界団体、行政機関、国会議員が意見交換や調整を行うことは一般的であり、必要な場合も多い。

 しかし、政策決定の公平性や透明性を確保するためには、誰がどのような要望を出し、何を根拠に決定が行われ、どのような利益や負担が生じたのかを検証できる仕組みが必要になる。調整能力が高くても、その過程が外部から検証できなければ、政治的な不信を生む可能性がある。

 つまり、二階が持っていたと考えられる政治的な調整能力は、党内では組織運営上の価値を持ち得る一方、国民に対する説明責任や政策決定の透明性という観点からは、厳しい検証を受けるべきものでもあった。その緊張関係が強く表れたのが、自民党派閥の政治資金問題である。

政治資金問題では、刑事責任と政治的責任を分ける必要がある

 自民党派閥の政治資金事件では、二階派「志帥会」の元会計責任者が、2022年までの5年間に約2億6400万円の政治資金パーティー収入や、約1億1600万円の支出を政治資金収支報告書に記載しなかったとして、政治資金規正法違反の罪に問われた。

 元会計責任者は起訴内容を認め、2024年9月10日、東京地方裁判所から禁錮2年、執行猶予5年の有罪判決を受けた。裁判所は、長年にわたる会計処理によって収支の実態が報告書に反映されず、政治資金の流れが国民から見えなくなっていたことなどを重く評価した。

 ただし、この事件における元会計責任者の刑事責任と、二階本人の刑事責任は明確に区別しなければならない。二階自身も派閥の政治資金をめぐって刑事告発されたが、東京地方検察庁特別捜査部は2024年7月、本人について嫌疑なしとして不起訴処分とした。したがって、会計責任者に有罪判決が出たことをもって、二階本人にも犯罪が成立したかのように記述することはできない。

 さらに、これとは別に、自民党和歌山県連の政治資金収支報告書の不記載をめぐる事件もあった。県連会長だった二階らに対する告発について、和歌山地方検察庁はいったん不起訴処分としたが、2025年に和歌山検察審査会が不起訴不当と議決した。

 その後、和歌山地検は再捜査を行い、2019年分と2020年分については2026年2月、2021年分と2022年分については同年10月2日に改めて不起訴処分とした。2021年分と2022年分について、二階本人は事実を認定するに足りる証拠が認められなかったとして、嫌疑なしと判断されている。

 この和歌山県連の問題は、二階派の元会計責任者が有罪判決を受けた事件とは別のものである。対象となる政治団体や告発内容、検察による判断を混同しないことが重要である。また、不起訴処分がされたことと、政治的な説明責任をどう評価するかは、別の問題である。政治資金の管理に関わる組織の責任者が、どのような監督体制を構築し、問題が明らかになった際にどのような説明を行ったのかについては、刑事司法の判断とは別に政治的な評価が成立し得る。

 二階は2024年3月、次の衆議院選挙には立候補しないことを表明し、自らの政治責任にも言及した。ただし、その判断には年齢、世代交代、党内情勢など、複数の事情が関係していた可能性があり、政治資金問題だけを唯一の理由と断定することは避けるべきである。

 それでも、長年にわたって政治的影響力を維持してきた二階が、晩年に政治資金をめぐる問題と説明責任を強く問われる立場になったことは、政治的な調整能力だけでは権力を維持できないことを示す出来事だった。

2024年の後継候補敗北が示したもの

 二階の政治的影響力の変化を考えるうえで、2024年の衆議院選挙も重要である。和歌山県では、衆議院小選挙区の区割り改定によって選挙区数が3から2に削減された。従来の和歌山3区はなくなり、選挙区の区域も大きく変更された。

 2024年10月27日の衆議院選挙では、再編された和歌山2区から、二階俊博の三男である二階伸康が自民党公認候補として立候補した。しかし、無所属で立候補した世耕弘成に敗れた。得票数は、世耕が10万1739票、二階伸康が7万1114票で、得票差は3万625票だった。得票率は世耕が44.0%、二階伸康が30.8%である。

 この結果から、二階俊博本人が持っていた選挙基盤が、後継候補に自動的に引き継がれるわけではなかったことが分かる。ただし、2021年の和歌山3区と2024年の和歌山2区では選挙区の区域が異なるうえ、対立候補の知名度や政治経歴、選挙時の党内情勢も違う。したがって、俊博本人の2021年の得票率69.3%と、伸康の2024年の30.8%を単純に比較して、二階の地盤がその差だけ衰退したと判断することはできない。

 また、二階伸康の敗北を、父親である俊博の政治力が完全に失われた証拠とみなすこともできない。選挙はあくまで個々の候補者、対立候補、選挙区の状況、政治的争点などによって結果が変わるからである。

 それでも、ここには政治学的に興味深い問題がある。長年にわたって形成された個人後援会や政治的人脈、地元組織との関係は、血縁関係によってそのまま継承されるとは限らない。政治的な信頼や支持は、候補者自身の経験、能力、評価によっても左右される。二階が築いてきた政治的資源には、組織として継続する部分と、本人の経験や人間関係に強く依存する部分があったと考えられる。後継候補の選挙結果は、そうした個人的な政治資源の継承が必ずしも容易ではないことを示唆している。

二階政治を一つの成功物語として説明してよいのか

 ここまでの事実から、二階の長期的な影響力には、強固な選挙基盤、長い議員経験、派閥の指導的地位、幹事長としての制度的権限、地方政策への関与、業界との関係、外交上の人的接点など、複数の要因が作用していたと考えられる。しかし、これらの要因がそれぞれどの程度の影響を与えたのかを、現在確認できる資料だけで正確に数値化することは難しい。

 例えば、長い議員経験が人脈を増やした可能性がある一方、政治的人脈が選挙での再選を助け、その結果として議員経験が長くなった可能性もある。幹事長就任が政治力を強めた一方、もともと政治力があったから幹事長に選ばれたとも考えられる。これらは互いに独立した要因ではなく、影響し合っている可能性が高い。

 また、二階と似た政治手法を取った他の政治家を比較せず、長く権力を維持した二階だけを詳しく分析すると、成功した人物に共通する特徴と、成功の原因となった特徴を混同する危険もある。

 本来、より厳密な実証研究を行うなら、同時代の政治家について、選挙成績、派閥規模、党内役職、組織間の人的関係、政権交代時の地位の変化などを比較する必要がある。さらに、幹事長就任前後や退任後の影響力を測定できれば、制度的な地位の効果と個人的な人脈の効果をある程度区別できる可能性がある。

 ただし、政治における人的関係の多くは非公開であり、単純に知人の数を調べれば政治権力を測定できるわけではない。誰と接点を持っているかだけでなく、その関係を通じてどのような交渉が成立し、どのような意思決定に影響したのかまで把握しなければならない。

 したがって、二階の長期的な影響力を、調整能力という一つの原因だけで説明するのは適切ではない。むしろ、選挙制度、党内組織、政治的な人間関係、幹事長の権限、政治情勢の変化が互いに作用した結果として理解する方が、歴史的事実にも政治学の理論にも整合する。

二階を長く権力の中心に残したものは何だったのか

 二階俊博という政治家を「古い政治家」の一言で片付けるのは簡単である。確かに、彼が得意としたと考えられる政治手法には、昭和以来の自民党政治を思わせる部分が多い。人に会い、対立した相手とも関係を完全には切らず、選挙で困っている政治家を支える。地方の要求を中央政府へ届け、業界団体との関係を維持し、外交関係が難しくなれば別の連絡経路を探す。派閥間の対立が起きたときには、互いに受け入れられる合意点を探る。こうした行動は、政治組織の内部では一定の実務的な価値を持ち得る。

 一方で、その政治手法は透明性や公平性、説明責任を重視する現代の政治観と緊張する場合がある。人的関係を通じて問題が解決されるとしても、その判断が公共の利益にかなっているかどうかは、別途検証されなければならない。

 二階政治の特徴は、この二つの側面が同時に存在していたことにある。党内での調整能力は、政権運営にとって有用な資源となり得る。しかし、その調整過程が外部から見えにくければ、国民の不信を招く可能性もある。地方の要望を政策に反映する力は、地域の有権者から評価され得る。しかし、地域間の公平性や公共投資の効率性については別の検証が必要になる。業界や外国の政治関係者との長い人脈は、情報や交渉の経路となり得る一方、その関係が政策判断にどのような影響を与えたのかについて説明責任が生じる。

 そして、こうした能力や人間関係があっても、政治権力を無期限に維持できるわけではない。2021年の幹事長退任によって制度上の地位は変化し、2024年には次の衆議院選挙への不出馬を表明した。同年の後継候補の選挙結果も、本人が築いた政治的基盤の継承が容易ではないことを示した。

 二階の長い政治人生から読み取れるのは、政治権力が単なる人気や派閥人数だけで決まるものではないということである。もちろん、選挙で支持されることは民主政治の基本であり、その重要性が小さくなるわけではない。しかし、選挙で議席を得た後の政治組織では、異なる勢力を調整し、情報を集め、合意を形成し、制度上の役職を通じて意思決定に関与する能力も、政治的影響力を左右する。

 二階は、最も人気のある政治家でも、常に最大派閥を率いる政治家でもなかった。それでも、党内の重要な組織や人間関係の接点に位置し、長期にわたって幹事長という制度的な地位を維持した。ただし、その状態が続いた理由を二階個人の能力だけに求めることはできない。安倍や菅による党運営上の判断、他派閥の利害、党内の選挙制度、地元での支持基盤など、本人を取り巻く政治構造も大きく関係していた。

 そう考えると、最後に残る問いは「なぜ二階だけが生き残ったのか」というものではないのかもしれない。より重要なのは、自民党内の権力調整、選挙、地方政治、業界団体、外交上の人的関係が複雑に結びつく政治構造の中で、なぜ二階のような政治家が長期にわたって必要とされる地位を維持できたのか、という問いである。

 二階俊博を理解することは、一人の老練な政治家の経歴を振り返るだけではない。選挙によって得られる民主的な正統性と、政党組織の内部で形成される政治的影響力が、どのような関係にあるのかを考えることでもある。そして、その権力が個人の能力だけではなく、役職、組織、制度、周囲の政治情勢によって支えられているのであれば、それらの条件が変化したときには、長年の実力者であっても影響力を失い得る。

 二階の政治人生が示しているのは、人気とは異なる場所で政治権力が形成される仕組みだけではない。その権力が何によって支えられ、どのような条件で維持され、そして何が変わると失われていくのかという、政党政治そのものの構造なのである。

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