2006年11月15日、日本で1件の特許公報が発行された。そこには、肺の内部に蓄積した微細な粒子を磁気の性質を利用して測定し、その分布を画像化する技術が記されていた。発明者として名前が並んでいたのは3人。そのうちの1人が、かつて政治家・鈴木宗男氏の私設秘書として全国的に知られたジョン・ムウェテ・ムルアカ氏だった。
ムルアカ氏といえば、身長209センチという際立った長身と、鈴木氏に同行して永田町を歩く姿を思い浮かべる人が多いだろう。コンゴ民主共和国出身のムルアカ氏は、研究者、大学教員、政治家の秘書、国際政治評論家という複数の顔を持ち、日本とアフリカを結ぶ活動にも関わってきた。しかし、政治報道の中で取り上げられた姿に比べると、医用工学の研究者として何をしていたのかは、あまり知られていないのではないだろうか。
その研究歴をたどると、1999年から2001年にかけて利用した、旧科学技術庁の外国人研究者向け給費制度に行き着く。2002年3月15日付の「しんぶん赤旗」は、ムルアカ氏が2年間で合計1,083万円の支給を受けていたと報じ、研究者としての採用資格や政治家の私設秘書活動との両立について疑問を呈した。さらに、当時の文部科学省が採用申請手続に関する調査を開始したことも伝えている。
この問題を調べていくと、単純に研究費の金額だけでは説明できない事情が見えてくる。採用当時37歳だったムルアカ氏に対し、制度の公式説明には35歳以下という年齢要件が記されていた一方、実際に公表された学術論文や特許出願の記録も存在しているのである。では、37歳での採用はどのような審査を経て認められたのか。研究者としての実績はどこまで確認でき、2002年に問題となった公的資金の受給について、行政は最終的に何を認定したのだろうか。
ここでは、1999年の科学技術振興事業団の公式制度説明、2002年の国会会議録、学術論文、特許公報、当時の報道を照合し、確認できる事実と、なお明らかになっていない事項を区別して検証する。目的は、特定の人物について不正があったと推定することではない。公的な研究支援制度がどのような条件で運用され、その採用判断を後からどこまで検証できるのかという、行政の透明性に関わる問題を考えることである。
永田町で知られた人物は、千葉市で何を研究していたのか
千葉市稲毛区にあった放射線医学総合研究所は、放射線が人体に与える影響や放射線の医学利用などを研究してきた国の研究機関である。現在、その研究機能は量子科学技術研究開発機構に引き継がれているが、1999年当時、ムルアカ氏の研究活動の受入先となっていたのは、この放射線医学総合研究所だった。
研究テーマは、肺の内部に蓄積した粉じんなどの粒子を磁気測定によって評価する方法に関するものだった。鉱山、鋳造、溶接といった作業現場では、空気中に浮遊する微細な粒子を長期間吸入することがあり、それが肺に蓄積して健康障害を引き起こす場合がある。じん肺は、こうした労働環境と深く関係する疾患であり、肺内の粒子の蓄積状態を把握する技術は、労働衛生や医用工学の研究対象となってきた。
ムルアカ氏が関わった肺磁界測定は、磁性を持つ粒子を外部から加えた磁場によって磁化し、その後に生じる微弱な磁界を体外から測定するという考え方に基づいている。ただし、肺に吸い込まれる粉じんのすべてが同じ磁気特性を持つわけではなく、測定できる粒子の種類や量、装置の感度などによって得られる情報は制約される。このため、測定技術としての研究上の意義と、実際の医療現場で診断に利用できることは、分けて考えなければならない。
ムルアカ氏の研究活動は、科学技術庁の給費制度に採用されて初めて始まったものではない。1996年と1997年には肺内磁性粒子に関する共著論文が発表され、1999年8月1日には、日本医療機器学会の学術誌『医科器械学』第69巻第8号に、単著の原著論文「肺磁界の一測定と組み立て式肺磁界計測装置」が掲載されている。この論文では、従来の大型装置では移動が容易でなかったことを踏まえ、持ち運びやすい構造の肺磁界測定装置について検討している。
さらに、研究成果に関連する特許出願も確認できる。1999年6月29日を優先日として、2000年1月6日に日本国内で出願が行われ、同年6月29日には国際出願も行われた。発明者には山本幹男氏、町好雄氏、ムルアカ氏の名前が記載され、放射線医学総合研究所と科学技術振興事業団が出願に関係している。2006年11月15日に公報が発行された日本の特許第3846675号は、この研究開発に連なるものであり、研究奨励金の受給期間と技術開発の時期が重なっていたことが分かる。
これらの記録は、ムルアカ氏が医用工学分野の研究に関与していたことを裏付ける重要な資料である。しかし、学術論文が掲載された事実や特許に発明者として記載された事実だけで、研究奨励金の採用条件や研究活動の実施要件をすべて満たしていたと判断することもできない。1999年の論文については、実際に研究や執筆が行われた時期と奨励金の受給期間との対応を確認する必要があり、特許についても、発明者としての貢献の内容や研究に費やした時間まで書誌情報から読み取れるわけではない。
研究成果が実在することと、公的な支援制度が適正に運用されたことは、互いに関連していても別の問題なのである。
公式制度に記された35歳以下という条件は、どのように扱われたのか
旧科学技術庁が設けた外国人研究者向けの支援制度は、科学技術庁フェローシップ制度と呼ばれていた。フェローシップとは、研究者が一定期間、研究活動に取り組むための機会と生活面の支援を提供する仕組みであり、この制度は1988年に創設され、1989年10月から科学技術振興事業団が運営を担当していた。
制度の目的は、海外の優秀な研究者を日本の国立試験研究機関などに招き、研究活動を通じて国際交流と科学技術の発展を促進することにあった。研究者が受け入れられる機関は全国に存在し、千葉市の放射線医学総合研究所もその一つだったが、制度そのものは千葉県独自の助成事業ではなく、国の科学技術政策に基づく全国的な研究者支援制度だった。
科学技術振興事業団が1999年3月26日に更新した公式説明を確認すると、採用資格には、科学技術分野の博士号またはこれと同等の資格を持つことと、35歳以下であることが掲げられている。ただし、年齢については、短期研究員であれば35歳以上でも可能と明記されていた。研究期間は長期研究員が6か月から2年、短期研究員が1か月から3か月とされており、外国人研究者の研究期間や受入形態に応じた区分が設けられていたことが分かる。
これをムルアカ氏の採用状況と比較すると、確認すべき問題が現れる。ムルアカ氏は1961年6月21日生まれで、1999年3月31日の受給開始時点では37歳だった。2002年2月28日付の「しんぶん赤旗」によれば、支給期間は1999年3月31日から2001年3月30日までの約2年間であり、期間からみれば長期研究員の区分に相当する。
公式制度説明に明示された35歳以上の例外は短期研究員についてであるため、37歳で約2年間の採用を認めた経緯には、追加の確認が必要になる。しかし、ここで注意すべきなのは、公式の制度概要と、個別の採用審査に実際に適用された規程の全文が、必ずしも同じものではないという点である。1999年3月26日更新の資料は確認できたものの、ムルアカ氏が応募したとされる同年2月時点の募集要領全文や、例外的な採用を認める詳細な規定は、今回の調査では特定できなかった。
したがって、37歳だったという事実だけから規則違反を認定することはできない。応募時に適用される年齢基準、例外措置の有無、承認権限を持つ担当者の判断などを確認して初めて、個別採用の適否を検証できるのであり、年齢要件との表面的な不一致を、そのまま不適切な採用の証拠とすることは避けなければならない。
もう一つ確認が必要なのが、博士号の取得時期である。当時の報道では、ムルアカ氏が東京電機大学で博士号を取得したのは1999年で、採用申請時にはまだ取得していなかったとされている。ただし、制度は博士号の保有だけでなく、それと同等の研究資格も認めていたため、採用前に発表していた学術論文などが審査資料として評価された可能性も考えられる。実際にどのような資格認定が行われたかは、大学の学位授与記録だけでなく、応募書類や審査記録を照合しなければ確定できない。
今回確認できた公開資料では、1999年の個別採用申請書、推薦書、審査票、採用決裁書の原本を特定できなかった。そのため、37歳という年齢が審査の中でどのように扱われたのか、博士号に代わる研究資格がどのように評価されたのかについて、現時点で断定的な結論を示すことはできない。
1,083万円という数字だけで、制度の適否は判断できるのか
2002年3月15日付の「しんぶん赤旗」が報じた支給総額1,083万円は、一般的な生活感覚からすると大きな金額に映るかもしれない。ところが、この数字を研究者本人の給与や通常の研究費と同じように扱うと、制度の性格を正確に理解できなくなる。
1999年の公式制度説明には、研究員に対する支援として、生活費、家族手当、住居手当、往復航空賃、移転料、国内旅費などが挙げられている。外国から来日する研究者は、研究機関での活動だけでなく、日本での住居確保や家族の生活にも費用を必要とするため、こうした支援は研究を継続するための生活基盤を整える役割を持っていた。
報道された1,083万円を、約24か月の受給期間で単純に割ると、1か月当たり45万1,250円、年額換算では541万5,000円になる。計算自体は正しいものの、これは総額を期間で均等に配分した場合の平均値であり、毎月45万1,250円の給与を受け取っていたという意味ではない。どの手当がいくら支給されたのか、実際にどのような時期に支払われたのかは、公的な支給明細や会計記録を確認しなければ再現できない。
また、1,083万円という総額は、今回確認した資料では主に当時の新聞報道によって把握された数値であり、支給元の会計原簿そのものを確認したものではない。このため、金額を紹介する際には、報道に基づく数字であることを明確にしておく必要がある。
仮に制度上の妥当性を統計的に評価するのであれば、同じ年度に採用された長期研究員について、研究期間、家族構成、住居手当、その他の給付条件をそろえて比較することが求められる。比較条件が異なれば支給額も変わり得るため、1,083万円という数字が平均より高かったのか、例外的な金額だったのかを、比較資料なしに判断することはできない。
まして、支給額が大きいという理由だけで不正を推定することは、数理的にも論理的にも成り立たない。制度の適正性を判断するには、採用資格、研究活動の実態、兼職に関する規則、支給条件という複数の要素を分けて確認する必要がある。
その中でも、当時の国会や報道で大きな問題となったのが、ムルアカ氏の研究活動と鈴木氏の私設秘書としての仕事が、どのような関係にあったのかという点だった。
研究所への訪問が月1~2回という報道を、どう理解すべきか
2002年3月11日の衆議院予算委員会で行われた証人喚問では、鈴木宗男氏自身がムルアカ氏を私設秘書として雇用し、給与を支払っていたことを認めている。これは国会会議録に記録された本人の証言であり、両者の雇用関係を確認する重要な資料である。
一方、同月15日付の「しんぶん赤旗」は、放射線医学総合研究所広報室への取材に基づき、ムルアカ氏が研究所を訪れていたのは月1回から2回程度で、主に画像化手法について講習や指導を受けていたと報じた。さらに、同研究所では実験を行っておらず、東京電機大学との共同研究という位置付けだったとの説明も紹介している。
この報道が受入研究機関での活動状況を正確に伝えているのであれば、研究所への訪問頻度は限定的だったことになる。ただし、これは研究所が当時公表した独立の出勤記録を確認した結果ではなく、新聞社による取材報道である。また、研究所の職員ではない研究員について通常の出勤簿が作成されていなかったとする説明もあり、訪問頻度の正確な集計には限界がある。
月1回から2回の訪問が2年間続いたと仮定すれば、訪問回数は24回から48回になる。しかし、これは報道された頻度が全期間を通じて一定だったという仮定に基づく計算であり、実際の訪問記録から得られた数字ではない。さらに、1回当たりの滞在時間も、東京電機大学など他の場所で行われた研究活動の時間も分からないため、訪問回数から総研究時間を推定することはできない。
研究は必ずしも一つの研究所だけで完結するものではなく、複数の機関の研究者が分担して実験、測定、解析、論文執筆を進めることもある。ムルアカ氏の場合、1999年の原著論文や研究奨励金受給期間中の特許出願記録が存在する以上、受入研究所への訪問回数だけで研究活動がなかったと結論づけることは適切ではない。
ただし、研究活動が存在していたとしても、それが採用時の研究計画や制度上の要件に適合していたかどうかは、別に検証する必要がある。受入研究機関における指導内容、東京電機大学での活動、研究成果の報告方法などを確認することで、初めて研究の実施状況を具体的に把握できるからである。
加えて、研究奨励金の受給期間中に政治家の私設秘書として働き、報酬を得ていたことが制度上どのように扱われるのかについても、当時の正式な兼職規定が必要になる。2002年の報道では、文部科学省担当者が応募時に秘書活動を把握していなかったと説明しているが、把握していなかったことと、制度上禁止されていたことは同一ではない。
さらに、当時問題となった外国人の在留資格に基づく就労制限と、研究奨励金の受給条件は、別々の制度である。2002年の国会では、ムルアカ氏の在留資格や外国政府との関係についても審議が行われたが、その議論をそのまま研究奨励金の違反認定に置き換えることはできない。
公的研究資金の問題を正しく検証するためには、研究成果の有無だけでなく、どの規則が適用され、その規則に照らしてどのような活動が求められていたのかを明確にする必要がある。
2002年に始まった調査は、何を明らかにしたのか
ムルアカ氏の研究奨励金受給が国会で取り上げられたのは、2002年3月12日の参議院予算委員会だった。日本共産党の小池晃議員は、研究者向けの支援制度を利用していた人物が政治家の私設秘書として活動していたことなどを問題にし、制度の採用資格や審査の適正性について質問した。
翌13日の「しんぶん赤旗」は、小泉純一郎首相が、研究者として受給資格があるならば問題はないという趣旨の説明を行ったと報じている。この発言は、資格を満たしていれば受給自体に問題はないという条件付きの考え方を示したものであり、ムルアカ氏の採用審査が適正だったことについて、政府が個別の調査結果を示したわけではない。
同月15日の報道では、文部科学省がフェローシップの申請手続について、違法な問題がなかったか調査を開始したと伝えられている。ここで検証すべきなのは、行政が調査を始めたという経過だけでなく、その後どのような資料を確認し、どのような判断に至ったのかという点である。
しかし、今回の公開資料調査では、調査の完了日、個別採用審査に対する最終的な評価、奨励金の返還請求、返還実績、処分などについて、結論を確定できる公的文書を特定できなかった。これは、調査が終了しなかったことや、結果が意図的に公表されなかったことを意味するものではない。調査自体は内部で終了していた可能性もあるが、その結末を示す資料が、今回確認した公開情報の範囲では見つからなかったということである。
ここで注意が必要なのは、2002年にはムルアカ氏の旅券、在留資格、コンゴ民主共和国の外交官人事などをめぐって、外務省や法務省による別の調査も行われていたことである。例えば、1994年の在留資格変更に関する調査については、2002年4月3日の衆議院法務委員会で法務大臣が結果を説明している。しかし、この調査は出入国管理行政の問題を対象としており、1999年の研究奨励金の採用審査とは所管機関も調査対象も異なる。
そのため、在留資格の調査で説明された結論を、研究奨励金の採用審査についての行政判断として利用することはできない。同じ人物をめぐる複数の問題が近い時期に取り上げられたからといって、すべてを一つの調査として扱えば、行政上の責任や判断の所在がかえって分からなくなる。
研究奨励金の問題について必要なのは、旧科学技術庁の制度を運営していた科学技術振興事業団の採用関係資料と、文部科学省が2002年に行ったと報じられる調査の記録を、個別に確認することである。
鈴木宗男氏は、研究員の採用に関与していたのか
研究奨励金問題が注目された背景には、ムルアカ氏が鈴木宗男氏の私設秘書だったという事情がある。しかも、1999年当時の鈴木氏は内閣官房副長官という政府の要職にあり、外交や国際協力に関する活動でも知られていた。そのため、私設秘書が公的な研究者支援制度に採用されたことについて、政治家の影響力が働いたのではないかという疑問が国会で示されたことには、当時の政治的な背景があった。
しかし、疑問が提起されたことと、実際に採用審査への介入が確認されたことは、明確に区別する必要がある。鈴木氏とムルアカ氏の雇用関係は国会会議録によって確認できるものの、それだけで鈴木氏が研究奨励金への応募を推薦したり、採用担当者に働きかけたりしたと推定することはできない。
2002年の国会では、鈴木氏による採用への働きかけがあったかどうかも調査すべき問題として取り上げられた。ただし、今回確認した公開資料の中には、鈴木氏が科学技術庁フェローシップの採用決定に直接関与したことを裏付ける確実な記録は見つかっていない。したがって、ムルアカ氏の採用が鈴木氏の政治的影響力によって実現したという説明を、確認された事実として記述することはできない。
一方で、個別の採用審査記録が確認できていない以上、応募から採用決定までの過程を完全に把握できたわけでもない。受入研究機関がどのような推薦を行い、運営機関がどのような基準で採用を承認したのか、その判断に外部からの働きかけが関係していたのかという問題は、それぞれ独立した証拠によって検証する必要がある。
政治家の関与を論じる際には、役職や人間関係を根拠に動機を推測するよりも、実際の推薦文書、連絡記録、採用決裁の内容を確認することが重要になる。資料に基づく事実と、資料が不足しているために判断できない事項を区別することが、政治家と行政機関の関係を公平に検証するための基本条件だからである。
研究者としての実績と、行政審査の適正性は両立して検証できる
ムルアカ氏は2023年8月30日、海外へ向かう航空機内で急死した。62歳だった。鈴木氏は死去後の取材で、ムルアカ氏との長年にわたる関係を振り返り、その人柄やアフリカでの教育支援活動について語っている。亡くなる前日にも鈴木氏の事務所で仕事をしていたと報じられており、二人の人的関係は2002年の政治的な混乱だけで終わったものではなかった。
こうした長い関係があったことを考えると、研究奨励金の問題を扱う際にも、政治家と秘書という一つの側面だけで人物像を描くべきではないだろう。ムルアカ氏には、来日後に大学で学び、医用工学分野の研究成果を公表してきた経歴があり、学術論文と特許出願の記録は、その活動を検証できる具体的な資料として残されている。
その一方で、研究者としての業績が存在することによって、公的資金の採用審査について残された疑問が自動的に解消されるわけではない。仮に研究成果が十分に存在していたとしても、採用時の資格審査や兼職条件の確認に問題があった可能性は、別途検証する必要がある。逆に、年齢要件について正当な例外規定が適用されていたのであれば、37歳で採用されたという事実だけをもって不適切な採用と判断することもできない。
研究実績の評価と行政手続の評価は、異なる証拠によって行われるべきものである。研究者としての能力や成果は学術論文、特許、研究報告などによって検証し、採用資格や給費制度の利用条件は、当時の規程、申請書類、審査記録、決裁文書によって確認する必要がある。
さらに、研究成果の医学的な有効性を判断するには、測定精度や再現性、比較試験などの科学的な評価が必要になる。学術誌への掲載や特許登録は、研究成果の公表や技術的な権利保護に関係する事実ではあるが、それだけで臨床的な診断性能や実用性が確立されたことを意味しない。
このように、研究者としての経歴、研究技術の科学的評価、公的制度の採用審査という異なる問題を区別して初めて、過去の出来事を客観的に検証することが可能になる。
24年後に残された疑問は、行政の記録から解明できるのか
1999年の研究奨励金受給開始から27年、2002年の国会審議から24年が経過した。今回の調査によって、当時の制度概要、本人の採用時年齢、受給期間、研究論文、特許出願、私設秘書としての活動、国会での問題提起については、公開資料を通じて一定の事実関係を整理できた。
しかし、中心的な疑問はなお残っている。1999年の採用審査で、37歳という年齢がどのような規程に基づいて認められたのか。そして、2002年に開始されたと報じられた調査が、最終的にどのような行政上の判断に至ったのかという問題である。
この2点について結論を得るには、1999年当時の長期研究員募集要領、ムルアカ氏の採用審査票、受入機関の推薦書、例外適用に関する決裁記録、2002年の調査関係文書などを確認する必要がある。制度の運営主体がその後変更されているため、資料が当時の科学技術振興事業団からどの機関に引き継がれたのかという保存・移管の経緯も、重要な調査対象になる。
もっとも、約25年前の個人審査資料については、保存期間の満了や個人情報保護などの理由によって、現在では取得できない可能性もある。今回の調査は公開されている資料の検索と照合に基づくものであり、文部科学省や科学技術振興機構に対して正式な情報公開請求を行い、文書の不存在が確認されたということではない。したがって、資料が見つからなかったことをもって、記録が破棄された、調査が行われなかった、あるいは行政が結果を隠したと推定することはできない。
また、本稿の検証に際して、鈴木氏本人や関係行政機関から新たな個別回答を取得したものでもない。採用審査への政治的な働きかけ、研究奨励金の不適切な受給、返還請求や処分の有無については、確認できる根拠が不足しており、判断を留保する必要がある。
公的研究資金は、優れた研究者が生活上の制約を超えて研究に取り組めるよう支える制度である。その目的を実現するには、研究成果を適切に評価するだけでなく、採用条件の明確さ、選考過程の公平性、研究活動の確認、必要に応じた事後調査という行政上の仕組みが機能していることが求められる。
研究者への支援は、その人物が著名であるかどうかによって正当性が決まるものではない。また、研究成果が存在するという理由だけで制度上の審査が不要になるわけでもなく、政治家との関係があったという理由だけで採用の不適切性が推定されるものでもない。求められるのは、誰に対しても同じ基準を適用し、その判断が当時の規程と具体的な記録によって説明できることである。
ムルアカ氏が関わった肺磁界測定の研究は、学術論文や特許の記録として今日まで残されている。それに対して、1999年の採用審査が具体的にどのように行われ、2002年の調査が最終的に何を認定したのかについては、今回確認できた資料だけでは答えを確定できなかった。
ある研究者の業績を認めることと、その研究を支えた公的制度の審査過程を検証することは、決して矛盾しない。むしろ、研究者個人への評価と行政制度への評価を切り離し、それぞれに必要な証拠を積み重ねることが、研究者に対しても納税者に対しても公平な態度だと考えられる。
1,083万円という数字が投げかける問いは、金額の大きさや、政治家との人間関係だけにあるのではない。公的資金を誰に、どのような条件で支給し、その判断を後の世代にどこまで説明できるのかという、研究支援制度そのものの透明性にある。
1999年の採用記録と2002年の調査結果が確認されれば、この問題の評価は変わる可能性がある。しかし、確認できない事実を推測で埋めることは、過去の出来事を解明することにはならない。今ある資料から明らかになったことを正確に記し、残された疑問については必要な記録を求め続けることが、24年を経たこの問題に向き合うための現実的な方法なのである。






