地域政経

九条レオンの地域から社会と政治・経済のこれからを考える

町で本当に影響力を持っているのは町長と議員なのか~選挙に出ない有力者という存在

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 町の政治を知ろうと思えば、まず町役場を見ることになる。町長がいて、議会があり、予算書や条例が公開され、議事録を読めば誰が何を発言したのかも分かる。選挙になれば候補者の名前も得票数も数字として残り、誰が住民から正式な権限を託されたのかはかなり明確である。民主主義とは、権力の所在をできるだけ見えるようにする仕組みでもあるから、ここまでは分かりやすい。

 ところが、一つの町に長く暮らしていると、その制度上の地図だけでは説明しにくい場面に出会うことがある。「この話は、まずあの人に伝えておいた方がいい」「役場に直接話すより、あの人から話してもらった方が伝わりやすい」といった会話である。その「あの人」は町長でも議員でも役場職員でもなく、現在は自治会長ですらないかもしれない。それでも地域の事情に詳しく、さまざまな人とつながり、困り事が起きれば相談を受け、何かを始めようとすれば自然に名前が挙がる。

 こうした人物を、私たちはしばしば「有力者」と呼ぶ。しかし、その言葉から、町長や議員を裏から操る秘密の支配者を想像すると、本質を見誤る。地方政治を考えるうえで面白いのは、正式な権力とは別に、人間関係や信用、情報、仲介によって生じる影響力があり、その二つが重なる場所で町の意思決定が進むことがある、という点なのである。

町長と議会には「決定する権力」がある

 最初にはっきりさせておかなければならないのは、町長や議員の権力が形式だけのものではないということである。地方自治では、首長と議会議員を住民がそれぞれ直接選ぶ二元代表制が採られており、首長は自治体の行政を執行し、議会は条例や予算などについて議決し、行政を監視する役割を担う。道路を整備するにも、公共施設を建てるにも、福祉事業を始めるにも、公費を支出する以上は正式な制度と手続きを通らなければならない。

 したがって、選挙に出ていない人物が電話一本で予算を成立させたり、条例を書き換えたりするわけではない。少なくとも制度上の最終決定権という意味では、町長と議会が中心にいるという理解は変わらない。

 しかし、政治を「最後に誰が決めたか」という一点だけから見ると、その決定が生まれるまでの過程が見えなくなる。町には数え切れないほどの要望や不満や提案が存在するが、そのすべてが役場に届き、そのすべてが議会で議論されるわけではない。ある問題は行政へ伝わり、別の問題は伝わらない。ある要望には役場が早く反応し、別の要望は長く放置される。その違いがどこで生まれるのかを考えると、正式な決定権とは別の種類の力が見えてくる。

 政治学では、誰が最終的に決定したかだけでなく、「そもそも何を政治的な問題として取り上げるのか」を左右する力が重要だと考えられてきた。これを議題設定力と呼ぶなら、町長や議会が「決める力」を持っている一方で、町のさまざまな人々は「何を決める問題にするのか」に影響することがある。

 表に現れる政治は採決の瞬間だが、そのずっと前から政治は始まっている。

「有力者」という肩書はどこにもない

 面白いことに、「有力者」という正式な役職は存在しない。選挙管理委員会が認定するわけでもなく、辞令も任期もなければ、町役場の組織図にも載らない。それでも、ある地域では「この人は顔が広い」「この問題ならこの人に聞けば分かる」と認識されている人物がいる。

 その影響力を単純に財産や家柄だけで説明するのは難しい。もちろん、地域によっては地主、大きな事業者、旧家などが歴史的に強い発言力を持ってきた場合もあるだろう。しかし、現代の地域社会で人を動かす力を考えるなら、より重要なのは、その人がどれだけ多くの人や組織の間をつないでいるかである。

 長年商売をしてきた人なら、多くの住民を客として知っているかもしれない。自治会、商工団体、祭礼、防災活動、学校関係などに長く関わってきた人なら、役場職員、地域団体、事業者、住民のそれぞれと接点を持っている可能性がある。冠婚葬祭や地域行事を通じて人間関係を蓄積し、「この問題なら誰に相談すればよいか」を知っている人もいる。

 こうした力は、社会学では人間関係そのものを一種の資源として考えることができる。政治的な有力者や組織とのつながりを「関係的資源」として捉える研究もあり、影響力は個人の能力や財産だけでなく、誰と誰につながっているかによって生まれることがある。

 人口統計にも資産台帳にも、この種類の力は簡単には表れない。しかし、地域社会では「あの人を通せば話が早い」という信用が積み重なり、結果として人と人の間に立つ人物へ相談や情報が集まっていく。

 命令するから強いのではない。人が集まるから強くなるのである。

「人間関係が集中する場所」に立つ人

 社会ネットワークの考え方を使うと、この現象はさらに分かりやすい。人間関係を点と線で描いたとすれば、全員が同じ位置にいるわけではなく、異なる集団の間をつないでいる人物が現れる。商店街の人々とも付き合いがあり、自治会とも関係があり、行政とも話ができ、移住者のグループとも接点を持つ人物がいれば、その人を経由して多くの情報が行き来することになる。

 社会ネットワーク分析には、異なる人や集団の間にどれほど位置しているかを見る「媒介中心性」という考え方がある。現実の町の有力者をそのまま数式で決められるわけではないが、「有力者とは人間関係が集中した場所にいる人物である」という見方には、一定の理論的な裏付けがある。

 この視点に立つと、町の有力者は必ずしも一人ではないことにも気づく。商業について影響力を持つ人物と、福祉に詳しい人物は違うかもしれない。祭りでは中心人物でも、行政政策についてはほとんど発言力を持たない人もいる。ある地区では頼られている人物が、隣の地区ではほとんど知られていないこともある。

 つまり「この町を動かしている人は誰か」という問いそのものが、少し乱暴なのである。より正確には、「どの問題について、誰が誰をつなぐ位置にいるのか」と考えた方がよい。

小さな町だから有力者が生まれる、とは限らない

 地方政治を論じるとき、「人口の少ない町では有力者が強く、大都市ではそうではない」と単純化するのも危険である。大都市にも企業、業界団体、地域団体、専門職、メディアなど、政治や行政へ影響を与える多くの主体が存在する。

 ただし、人口規模の小さな地域や、人の移動が比較的少ない地域では、一人の人間を複数の関係で知ることが起こりやすい。取引先だった人物が自治会でも一緒になり、子どもの学校でも顔を合わせ、祭礼では同じ実行委員になり、選挙になれば候補者とも知り合いだった、という関係である。

 ここで重要なのは、人口の少なさそのものよりも、人間関係がどれほど重なっているかである。人口が少なくても住民の入れ替わりが激しく、地域組織への参加が少なければ、人間関係は必ずしも密にならない。一方、人口規模が比較的大きくても、長期間同じ地域で生活し、複数の地域組織へ参加する人が多ければ、関係は重なりやすい。

 したがって、「人口が少ないから有力者が生まれる」という一本道の説明より、地域の歴史、人口移動、産業構造、住宅所有、地域組織への参加、世代構成などが重なった結果として、特定の人物や団体へ人間関係が集中する場合がある、と考える方が現実に近い。

行政にとっても「話の分かる人」は便利である

 ここから問題は少し複雑になる。

 役場が地域住民一人一人と日常的に話をすることは現実には難しい。住民の考えは一様ではなく、行政職員の時間にも限りがあるため、防災、環境美化、地域行事、福祉、広報などを進めるとき、自治会や地域団体を通して住民へ情報を伝えたり、地域側から事情を聞いたりする場面が生まれる。

 日本の自治会や町内会は、単なる親睦団体ではなく、地域によって程度の差はあるものの、行政と住民との接点として機能してきた。災害時に地域の事情を知っている人がいること、高齢者や困窮世帯について行政だけでは把握しきれない情報を地域側が持っていること、行政が新しい施策を説明するときに住民との橋渡しをする人がいることには、現実的な利点がある。

 したがって、行政が地域事情に詳しい人物や団体と継続的な関係を持つこと自体を、直ちに癒着や古い地方政治と決めつけることはできない。制度だけでは拾えない情報を、人間関係が補完している面があるからである。

 しかし、便利な仕組みほど固定化したときに問題が生まれる。

「住民の声」は、誰の声なのか

 ある地区について行政が意見を聞きたいとする。そこで、長年その地区で活動している自治会役員や地域団体の代表へ相談する。相手は地域事情に詳しく、多くの住民を知っているから、行政にとっては合理的な方法である。

 ところが、その人物の意見が、いつの間にか「地域の意見」に変わったとき、問題が生じる。

 百人が暮らしている地区で、一人の人物が「この地域ではみんなそう思っています」と話しても、科学的に見れば、それだけで百人全員の意見を代表しているとはいえない。本人が意図的に話を誇張しているとは限らず、自分の周囲で日常的に接している人々の意見を、そのまま地域全体の意見だと認識している可能性もある。

 ここには、統計学でいう選択バイアスに似た問題がある。地域活動に積極的に参加する人だけから意見を聞けば、得られるのは「地域活動に参加する人々の意見」であって、「住民全体の意見」と一致するとは限らないからである。

 高齢者には高齢者の人間関係があり、商店主には商店主の世界があり、昔から住んでいる人には昔からの住民同士のネットワークがある。その一方で、移住してきたばかりの人、自治会へ加入していない人、仕事で昼間町にいない人、地域活動へ参加する時間のない子育て世帯、そもそも政治や地域活動について発言しない人もいる。

 行政が効率よく住民の意見を知ろうと代表者を立てるほど、その代表者につながっていない住民の声が見えにくくなる可能性がある。この矛盾は、地域民主主義を考えるうえでかなり重要である。

本当に影響力のある人は、よく発言する人とは限らない

 権力を観察するとき、私たちは目立つ人物を見てしまう。会議で長く発言する人、行政へ何度も要望する人、議員へ頻繁に相談する人は分かりやすい。しかし、影響力は必ずしも発言回数と同じではない。

 本人が何も言っていなくても、「この案について、あの人はどう思うだろう」と周囲が気にしているなら、そこにはすでに影響力が存在する。

 これは政治権力を考えるうえで興味深い現象である。誰かに命令された後で行動を変えるだけが権力ではなく、相手の反応をあらかじめ予想して、自分から行動を変えることもあるからだ。

 例えば、地域で何か新しい事業を始める人が「まず○○さんへ挨拶しておこう」と考え、地域行事を変えようとする人が「先に○○さんへ説明した方がいい」と考え、行政側まで「この件は地域の○○さんへ事前に話した方がよい」と判断するようになれば、その人物は正式な決定者ではなくても、意思決定過程の一つの通過点になっている。

 しかし、この種類の影響力は記録に残りにくい。町長が予算案を提出すれば公文書に残り、議員が質問すれば議事録に残り、選挙なら得票数も記録されるが、「先にあの人へ相談しておこう」と考えたことは通常どこにも記録されない。

 地域の「見えない権力」が見えにくいのは、それが秘密裏に行使されているからとは限らない。日常の判断や人間関係の中に溶け込んでいるため、制度の記録だけでは観察しにくいのである。

有力者がいることと、民主主義が壊れていることは同じではない

 ここまで読めば、有力者という存在そのものが民主主義に反するように見えるかもしれない。しかし、人間社会から非公式な影響力を完全になくすことはできないし、なくすべきだとも限らない。

 長年地域活動を続けてきた人が信頼され、地域事情について詳しい人の意見に重みが生まれるのは自然なことである。経験を積んだ人と、昨日その町へ来た人とでは、地域について持っている情報量が同じとは限らない。災害、防災、福祉、土地利用などでは、長年の経験が実際に役立つこともある。

 問題は、影響力の存在そのものではなく、その影響力へ他の人が挑戦できなくなったときに生じる。

 行政が何年も同じ人物だけを地域の窓口として扱い、地域団体でも同じ人々だけが意思決定に参加し、新しく入ってきた住民が意見を述べる経路がほとんどない状態になれば、地域社会の経験を生かす仕組みは、少しずつ閉鎖的な仕組みに変わっていく。

 さらに、「政策に反対すること」と「地域に協力しないこと」が同じ意味で受け取られるようになれば、本来は別であるはずの人間関係と政策判断が混ざり始める。

 異論を述べれば人間関係まで悪くなると感じる社会では、人は発言する前に自分で言葉を飲み込むようになる。そのとき政治は、議会の採決よりずっと前の段階ですでに狭くなっている。

 民主主義に必要なのは、すべての人が同じ影響力を持つことではない。強い意見を持つ人にも異論を唱えられ、従来とは違う人が新しい担い手になれ、これまで地域活動に関わってこなかった人にも参加する入口が開かれていることの方が重要である。

移住者から見ると、町には二つの地図がある

 地方へ移住した人が戸惑う理由の一つも、この正式な制度と非公式な人間関係の違いにあるのかもしれない。

 町役場のホームページを見れば、町長の名前も議員の名前も分かり、役場の組織図も委員会の構成も確認できる。しかし実際に生活を始めると、それとは別の地図が存在していることに気づく。

 誰と誰が昔から付き合いがあるのか、地域行事を実際に動かしているのは誰なのか、商工関係なら誰が詳しいのか、防災なら誰に聞けばよいのか、行政と地域の両方を知っているのは誰なのかといった情報は、公式サイトにはほとんど掲載されていない。

 昔から住んでいる人には当然の知識でも、新しく来た人には見えない。

 この情報格差が「地方は閉鎖的だ」という感覚を生むことがある。ただし、すべてを排他性だけで説明するのも正確ではない。長年かけて形成された信用のネットワークに、新しく来た人がまだつながっていないだけの場合もあるからである。

 それでも、公共的な意思決定に関わる部分については、「時間がたてば分かる」で済ませない方がよい。誰が参加できるのか、地域団体の代表はどのように選ばれるのか、行政へ意見を伝える方法は何通りあるのかを見えるようにすることは、古くからの住民と新しく来た住民の双方にとって利益になる。

 伝統を残すことと、入口を閉じることは同じではない。

昔ながらの「有力者」を支えた環境は変わりつつある

 もう一つ注意すべきなのは、地域の影響力の構造が固定されたものではないということである。

 自治会や町内会の加入率は長期的に低下傾向を示す地域があり、人口移動の増加、職業構造の変化、生活時間の多様化などによって、かつてのように多くの住民が同じ地域団体へ参加することが難しくなっている。また、政治家や行政自身がインターネットを通じて住民へ直接情報を届けるようになり、地域の中間的な人物を経由しなくても意見や情報を交換できる場面が増えている。

 ただし、これを根拠に「昔の有力者は消えた」と結論づけることはできない。地域団体への参加が減れば、人間関係の中心人物の影響力も必ず弱くなるとは限らず、逆に参加者が減った結果として、少数の担い手へ仕事や情報が集中する可能性もある。

 したがって、より慎重にいえば、昔ながらの有力者を支えてきた社会環境が変化し、それに伴って地域の影響力の形も変わりつつある、と考えるのが妥当だろう。

 さらに現在では、地域内で百人とつながっている人物だけでなく、インターネット上で地域内外の何千人へ情報を届ける人物も現れる。顔の見える人間関係を束ねる従来型の影響力と、画面を通して人々の認識を変える新しい影響力が、同じ地域の中で並存する時代になっている。

 前者には地域事情を深く知っている強みがあり、同時に人間関係が閉じやすいという弱点がある。後者には従来の地域組織につながっていない人の声を可視化できる可能性がある一方、地域外の人々まで巻き込んだ感情的な議論が急速に広がる危険もある。

 地方政治の「見えない影響力」は、なくなったというより、その姿が変わっていると考えた方がよさそうである。

「有力者」を科学的に見ることはできるのか

 では、町の有力者を感覚ではなく、もう少し客観的に捉えることはできるだろうか。

 単に「町で有名な人は誰ですか」と尋ねるだけでは不十分である。誰かが有力者だと評判になっていることと、その人が実際の意思決定に影響していることは同じではないからだ。

 むしろ、行政や議員、地域団体との接触がどの程度あるのか、異なる組織をどれほど結びつけているのか、地域の人々から相談を受ける頻度はどの程度か、地域の問題を行政へ伝える役割をどれだけ果たしているのか、その問題が実際に行政や議会で取り上げられたのか、といった行動を見る必要がある。

 こうして考えると、「有力者」という曖昧な言葉は、少しずつ分析可能な対象へ変わっていく。

 面白いのは、そこまで調べた結果、町の人々が「一番の有力者」と考えていた人物が、実際には政策過程でそれほど大きな役割を果たしていない可能性もあることである。逆に、目立った肩書もなく、会議でほとんど発言しない人物が、異なる集団をつなぐことで重要な役割を果たしていることも考えられる。

 権力を科学的に見るということは、「黒幕」を探すことではない。人と情報と意思決定が、どのような経路を通っているのかを確かめることである。

町の権力を見るなら、「誰が決めたか」の一歩前を見る

 地域政治の記事では、議会で誰が賛成し、誰が反対したのかを追うことが多い。それはもちろん重要である。しかし、その一歩前へ戻って、「なぜこの問題が議会で扱われることになったのか」を考えると、違う町の姿が見えてくる。

 その問題を最初に役場へ伝えたのは誰だったのか、行政は地域事情を誰から聞いたのか、議員へ相談した人は誰だったのか、賛成する人だけでなく反対する人にも発言する機会があったのか、そして、そもそも声を上げなかった多数の住民はどう考えていたのか。

 こうした問いを重ねていくと、町の政治は町長と議員だけによってできているわけでも、特定の「有力者」がすべてを動かしているわけでもないことが分かってくる。

 むしろ、その中間にある。

 商業について人をつなぐ人がいて、福祉について詳しい人がいて、自治会で人をまとめる人がいて、行政との橋渡しをする人がいる。同じ人物が複数の役割を持つ場合もあれば、それぞれ異なる人物が担っている場合もある。

 町の影響力は、一人の人物が所有するものというより、人と人の関係の中を移動するものとして見た方が理解しやすい。

選挙に出ない人々のところから、政治が始まることがある

 選挙の日、住民は町長と議員を選び、その結果によって正式な権限を持つ人物が決まる。この仕組みが地方民主主義の中心であることは変わらない。

 しかし町の政治は、選挙の日だけに存在しているわけではない。地域の困り事を聞く人がいて、それを誰かへ伝える人がいる。行政と住民の間をつなぐ人がいて、地域行事を何十年も支えてきた人がいる。誰かの相談に応じ続けた結果、本人が望んだわけでもないのに、多くの情報と信用が集まる人物もいる。

 そこには善意も利害もあり、献身も自己利益もあるだろう。長年の経験が地域を助けることもあれば、古い人間関係が新しい考えを入りにくくすることもある。

 それらをすべて「利権」と呼べば現実を単純化しすぎるし、反対にすべてを「地域の絆」と呼べば問題を見落とす。

 地方政治の興味深さは、その中間にある。

 役場の組織図には名前がなく、選挙公報にも載っていない。それでも、ある問題が起きると自然に相談が集まる人物がいるなら、「この人が町を支配している」と考えるのではなく、まず「なぜこの人のところに人と情報が集まるのだろう」と考えてみる。

 そこには、その町が長い時間をかけてつくってきた信用、人間関係、産業、歴史、人口移動、地域組織のあり方が凝縮されている。

 町で本当に影響力を持っているのは町長なのか、議員なのか、それとも選挙に出ない有力者なのかという問いに、一人の名前で答えることはできない。

 町長と議会には、制度によって与えられた「決定する権力」がある。その外側には、人をつなぎ、情報を運び、問題を行政へ伝え、ときには何を政治的な議題にするのかに影響する力がある。そして、現実の地域政治は、おそらくその二つが交わる場所で動いている。

 だから議会で何かが決まったとき、採決結果だけを見るのではなく、ほんの少し時間を巻き戻してみるとよい。

 「この話は、最初に誰のところから始まったのだろう」。

 その問いを持った瞬間、選挙結果や役場の組織図だけでは見えなかった、もう一つの町の政治が姿を現し始める。

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