「自民党をぶっ壊す」。小泉純一郎という政治家を語るとき、今もこの強烈な言葉が思い出される。ただし、小泉が訴えた基本的な論理は「自民党を変える。変わらなければぶっ壊す」というものであり、自民党という政党そのものを消滅させるという意味ではなかった。長く続いてきた自民党政治の仕組みを改革し、それを妨げる勢力があるならば、党内の既存秩序を壊してでも変えるという主張だったのである。
2001年4月、小泉は自民党総裁となり、内閣総理大臣に就任した。それから4年後の2005年9月、郵政解散によって行われた衆議院総選挙では、自民党が296議席を獲得し、公明党と合わせた与党は327議席に達した。2003年の総選挙で自民党が獲得した237議席と比較すると59議席の増加であり、自民党の改革を掲げて登場した政治家が、結果として自民党に歴史的な大勝をもたらしたことになる。
しかし、この結果だけで小泉を「自民党を強くした総理」と評価してよいのだろうか。小泉退任から3年後の2009年には、自民党は119議席まで減少して民主党に政権を明け渡しており、2005年の圧勝が長期的な組織力の強化を意味していたのかについては、別の検証が必要になる。そもそも、小泉が変えようとした自民党の仕組みと、小泉時代に強まった自民党の選挙上の能力は、必ずしも同じものではなかった。
この問題を考えるには、単に小泉の人気や選挙の勝敗を見るのではなく、自民党の組織構造、1990年代からの政治制度改革、2005年の得票率と議席数の関係、さらに小泉退任後の政治的変化を合わせて検討する必要がある。
小泉が壊そうとしたのは自民党そのものではなかった
戦後長く政権を担ってきた自民党は、単一の思想や政策方針によって統一された政党というよりも、異なる政治的立場や利害を党内に抱え込むことで政権を維持してきた政党だった。党内には複数の派閥が存在し、その周囲には農業団体、建設業界、医療関係団体、商工団体など、さまざまな利益集団が結びついていた。政治家は地域の要望を国政へ持ち込み、支持団体は選挙で政治家を支え、派閥は所属議員の選挙や政治活動を支援しながら、総裁、大臣、党役員などのポストを競っていた。
こうした政治には、政策決定に時間がかかり、既存の制度から利益を得ている人々への配慮によって改革が難しくなるという問題があった。公共事業や補助金などの政策資源が選挙上の支持と結びつけば、政策の必要性や費用対効果よりも、既存の支持関係を維持することが優先される危険もある。しかし、その一方で、自民党内部に多様な意見を抱え込み、対立する利害を調整するという機能も存在していた。財政支出の拡大を求める政治家と財政規律を重視する政治家、都市部の経済政策を重視する政治家と農村の利益を代表する政治家が、同じ政党に所属しながら政策を調整できたのである。
このような仕組みは、政治学的には利益集約や党内調整の機能として理解できる。多様な利益を一つの政党の内部で調整できれば、社会の対立がそのまま政党間の対立へ発展することを抑えられる反面、調整に必要な時間や妥協によって政策の一貫性が損なわれる場合もある。つまり、従来型の自民党政治は単に古く非効率だったのではなく、長期政権を可能にする安定性と、改革を難しくする硬直性を同時に持っていたのである。
小泉が批判したのは、こうした仕組みのうち、既存の利益関係や党内の力学によって政策変更が妨げられる部分だった。特に郵政民営化をめぐっては、郵政事業と関係の深い政治家や支持組織の影響力を問題視し、党内の合意形成を優先して改革が進まない政治を変えようとした。ただし、小泉が従来の支持団体や地方組織をすべて否定したわけではなく、自民党の組織基盤を全面的に解体したわけでもない。この点を区別しなければ、「自民党をぶっ壊す」という言葉の意味を実際以上に大きく解釈することになる。
自民党の変化は小泉以前から始まっていた
小泉政治を理解するうえで重要なのは、自民党の権力構造の変化を小泉一人の功績や責任として扱わないことである。日本政治では1990年代から制度改革が進んでおり、小泉が首相になる以前に、党内の権力関係や政策決定の仕組みはすでに変化し始めていた。
特に大きな転換点となったのが、1994年の政治改革によって導入され、1996年の総選挙から実施された小選挙区比例代表並立制である。それ以前の中選挙区制では、一つの選挙区から複数の議員が選ばれるため、自民党の候補者同士が同じ選挙区で競争することも珍しくなかった。その結果、候補者は自民党という政党の支持だけでなく、派閥、後援会、業界団体などを通じて自分自身の支持基盤を形成する必要があり、派閥が選挙資金や政治活動を支えることには大きな意味があった。
これに対して小選挙区制では、基本的に一つの選挙区で一人の議員しか当選できないため、党がどの候補者を公認するかという判断の重要性が高くなる。候補者個人の支持組織が不要になるわけではないが、政党本部や党執行部の公認権が以前より強い政治的意味を持つようになり、政治資金制度の改革や政党交付金の導入も、政党本部の役割を拡大する方向に作用した。
さらに、1990年代から進められた行政改革によって、首相官邸を中心とした政策調整の仕組みも変化した。2001年1月の中央省庁再編では内閣府が設置され、経済財政諮問会議などを通じて、首相が経済財政政策の基本方針に関与する制度的な基盤が整備された。これらは小泉政権が発足する前に準備された改革であり、小泉は既存の制度を積極的に活用して、首相主導の政策運営を目に見える形にしたのである。
したがって、自民党における派閥の影響力低下や党執行部の権限拡大は、小泉政権だけによって生じた現象ではない。小泉の特徴は、すでに進行していた制度的な変化を政治的な指導力と結びつけ、党内の反対勢力との対立を通じて、その効果を強く表面化させたことにあった。
2001年総裁選で現れた新しい権力の作り方
小泉の政治手法は、2001年の自民党総裁選ですでに現れていた。当時の自民党では派閥による国会議員票の取りまとめが総裁選を左右してきたが、小泉は地方の党員から強い支持を獲得し、その結果が国会議員の投票行動にも影響を与えた。総裁選の結果、小泉は地方票と国会議員票を合わせて298票を獲得し、橋本龍太郎らを破って総裁に選出された。
この選挙で特徴的だったのは、小泉が党内の派閥だけでなく、自民党員や一般の有権者にまで改革を訴え、その支持を党内政治へ持ち込んだことである。もちろん、制度上は国民が自民党総裁や内閣総理大臣を直接選ぶわけではない。しかし、世論調査や報道によって小泉への支持が広く可視化されれば、党内の政治家にとっても、その支持を無視することが難しくなる。
従来型の自民党政治では、総理大臣であっても派閥の有力者や党内の調整機関との関係を重視しなければならなかったが、小泉は国民の支持を政治的な資源として利用し、党内の力関係を変えようとした。この方法は、世論が政策決定を後押しする可能性を広げる一方で、党首の人気が低下すれば指導力も弱くなるという特徴を持っている。小泉時代に強まった党首中心の政治には、発足当初からそのような強さと不安定さが同居していたのである。
郵政民営化を政策対立から政治的対立へ変えた
2005年、小泉政権最大の政治的争点となったのが郵政民営化だった。郵政事業は郵便、郵便貯金、簡易生命保険という異なる性格の事業を含み、全国に広がる郵便局網を維持しながら、金融事業や郵便事業の経営形態をどのように変更するかという複雑な問題を抱えていた。民営化によって経営の効率性や競争条件を改善できるという主張がある一方で、採算性の低い地域におけるサービス維持や金融機能への影響を懸念する意見もあり、政策上の賛否を単純な改革派と反改革派に分けることはできなかった。
しかし、小泉は郵政民営化を一つの政策課題として扱うだけでなく、自民党政治そのものを変える象徴的な争点として位置づけた。郵政民営化法案に自民党内部から反対者が出ると、その対立を党内の政策調整だけで解決しようとはせず、改革を進める勢力と改革に抵抗する勢力の対立として国民へ訴えたのである。
2005年8月8日、郵政民営化関連法案は参議院本会議で賛成108票、反対125票によって否決された。同日、小泉内閣は衆議院を解散したが、参議院で法案が否決されたからといって、制度上、自動的に衆議院が解散されるわけではない。衆議院の解散は内閣の助言と承認によって行われるものであり、小泉は参議院での否決を受けて、衆議院総選挙で郵政民営化に対する政治的な支持を問うという判断をしたのである。その解散のあり方については、当時から政治的にも憲法解釈上も議論があった。
小泉は郵政民営化に反対した自民党議員の一部を公認せず、その選挙区に別の候補者を擁立した。後に「刺客候補」と呼ばれるようになった候補者たちである。これによって2005年の総選挙では、通常の与党と野党の対立に加えて、自民党総裁である小泉と自民党出身の反対派が競争するという特徴的な構図が形成された。
この構図が持っていた重要な意味は、長期政権に対する不満の一部を、政権与党自身が取り込める可能性を作り出したことである。自民党の政治を変えたいと考える有権者が、必ずしも野党に投票する必要はなく、小泉を支持することによって自民党内部の改革を後押しできると受け止める余地が生まれた。政権を担当する自民党が、同時に既存政治と戦う改革勢力として振る舞うことができた点に、2005年の選挙の大きな特徴があった。
「小泉劇場」は選挙結果をどこまで左右したのか
2005年の総選挙は「劇場型政治」と呼ばれ、テレビを中心とした報道でも大きく取り上げられた。郵政民営化という複雑な政策問題は、「改革する小泉」と「改革に抵抗する勢力」という分かりやすい対立として伝えられ、反対派の選挙区に新しい候補者が登場する展開は、ニュースとしても扱いやすかった。小泉自身も長い制度説明より短く印象に残る言葉を用いることに長けており、政治的な対立を有権者が理解しやすい形へ置き換える能力を持っていた。
ただし、テレビ報道が小泉を勝たせたと断定することには慎重であるべきだ。メディアを通じて小泉に接する機会が多かった人ほど小泉を支持していたとしても、その人たちが報道によって支持するようになったのか、もともと小泉を支持していたために関連番組を積極的に視聴したのかは、単純な調査だけでは区別できない。これは統計学でいう因果関係と相関関係の問題であり、報道への接触と投票行動の間に関連性が確認されても、報道そのものが票を増やしたことの直接的な証明にはならない。
また、刺客候補の擁立についても、その政治的な象徴性と実際の得票効果は分けて考える必要がある。個々の候補者がどれほど票を増やしたのかについては、対立候補の顔ぶれ、地域の支持組織、選挙区の事情などを考慮しなければならず、刺客候補を擁立したから全国的な大勝が生まれたと単純化することはできない。
それでも、2005年の選挙で小泉が全国共通の争点を形成し、党首の人気と選挙戦略を結びつけることに成功したという評価には、十分な合理性がある。重要なのは、テレビ報道、候補者擁立、郵政民営化への賛否、小泉個人への評価などが同時に作用していたと考えることであり、単一の要因だけで選挙結果を説明しないことである。
296議席という大勝を数字から検証する
2005年の自民党の獲得議席は296議席で、2003年総選挙の237議席から59議席増加した。ただし、2005年の解散直前には離党などによって自民党所属議員が212人となっていたため、解散直前との比較では84議席の増加となる。2003年の選挙結果と比較するのか、2005年の解散時点と比較するのかによって増加数は異なり、二つの数字を混同してはいけない。
議席数以上に重要なのは、実際の得票率である。2003年総選挙における自民党の小選挙区得票率は43.85%、比例代表得票率は34.96%だったが、2005年にはそれぞれ47.77%、38.18%へ上昇した。小選挙区では3.92ポイント、比例代表では3.22ポイントの上昇であり、自民党に投票した有権者の割合が実際に増えたことは確認できる。
比例代表の得票数も、2003年の約2066万票から2005年には約2589万票へ増加した。増加率は約25%に達するため、2005年の大勝を単に選挙制度だけの結果とみなすことはできない。ただし、この期間には小選挙区の投票率も約59.9%から約67.5%へ上昇しており、自民党の得票増には、それまで投票しなかった有権者の参加、他党支持者の投票先変更、支持層の投票行動の変化など、複数の要因が関係していた可能性がある。
その一方で、2005年の自民党は小選挙区で47.77%の得票率だったにもかかわらず、300議席中219議席を獲得している。小選挙区全体の73%に当たり、得票率と議席占有率の間には25ポイント以上の差が生じていた。これは、小選挙区制では各選挙区で最多得票を獲得した候補者が当選するため、全国得票率が過半数に達しなくても、選挙区ごとの競争状況によって多数の議席を獲得できることを示している。
ただし、この差をすべて選挙制度の効果として独立に計算できるわけではない。どの政党がどの選挙区に候補者を立てたのか、他党の票がどの程度分散したのか、公明党との選挙協力がどのように機能したのかといった条件によって、得票率と議席数の関係は変わる。小泉の政治的な訴求力と、選挙制度が持つ議席増幅の仕組みを区別しながら、その両方が2005年の大勝に関係したと評価するのが妥当だろう。
圧勝によって強まった党内統率力と政策決定力
2005年の総選挙は、自民党に大量の議席をもたらしただけでなく、小泉の党内での政治的な立場を強める結果にもなった。郵政民営化をめぐる党内対立を選挙の争点とし、その選挙で大勝したことで、小泉は改革を進めることへの強い政治的な正統性を得たのである。郵政民営化に反対していた議員の一部は党を離れ、選挙で落選した議員もおり、従来の党内勢力の関係も変化した。
また、2005年の総選挙では自民党と公明党の合計議席が327となり、衆議院定数480の3分の2に当たる320議席を上回った。日本国憲法第59条では、参議院が否決した法律案について、衆議院が出席議員の3分の2以上の多数で再可決すれば法律となる仕組みが定められているため、与党が衆議院でこの議席規模を確保したことには、二院制の下で政策を進めるうえでも重要な意味があった。
実際には、郵政民営化関連法案は総選挙後に改めて国会へ提出され、2005年10月14日には参議院でも賛成134票、反対100票によって可決、成立した。衆議院の再可決によって成立したわけではないが、選挙の圧勝によって政治的な力関係が変化し、以前には成立しなかった法案が成立したという事実は、小泉が選挙結果を政策決定力へ転換したことを示している。
ただし、ここでも政治的な指導力の強化と政策の質を同一視すべきではない。首相が党内の反対を押し切って政策を進められることは、意思決定の迅速化や政策の一貫性につながる可能性がある一方、異なる意見を十分に検討しないまま決定する危険も生む。郵政民営化が長期的にどの程度の経済的利益をもたらしたかという政策評価と、小泉がそれを実現する政治的能力を持っていたかという政治過程の評価は、分けて考える必要があるのである。
小泉は自民党の何を強くしたのか
ここまでの経過から、小泉時代に強まった自民党の能力を整理することができる。第一に、総裁が全国共通の争点を設定して有権者へ訴える能力であり、第二に、党の公認権を利用して候補者や議員を統率する能力、第三に、選挙で得た支持を政策決定の政治的な力へ転換する能力である。さらに、党首の人気によって無党派層を含む幅広い有権者へ訴え、従来の支持基盤だけでは得られなかった票を獲得する可能性も示した。
それまでの自民党が、地域の後援会、業界団体、派閥、地方議員などの支持を積み重ねることによって全国的な選挙力を形成していたとすれば、小泉時代には、その上に総裁を中心とした全国的な選挙戦略が強く加わったと考えられる。自民党が地域ごとに支持を積み上げる政党であると同時に、党首の人気や全国的な争点によって有権者を動かす政党としての性格を強めたのである。
しかし、この変化によって地方組織や業界団体の影響力が全面的に失われたと判断することはできない。実際、選挙区における候補者個人の後援会や地方議員との関係は、その後も重要な役割を果たしており、全国的な党首人気だけで各地域の選挙活動が成立するわけではなかった。公明党との選挙協力も、小選挙区での議席獲得を支える重要な条件であり、小泉時代の自民党の強さを党首個人の人気だけで説明することには限界がある。
また、派閥の影響力が弱まったことと、政党内部の意見調整能力が低下したことも、同じ現象ではない。派閥が担ってきた人事や資金配分の役割が変化しても、党の政策部会、国会議員間の調整、地方組織との協議など、別の経路で意見調整が行われる可能性がある。小泉が従来の党内秩序に大きな影響を与えたことは確かだが、それが自民党全体の調整能力をどの程度、どれほど長期間にわたって弱めたのかについては、個別の政策決定過程や組織活動を検証しなければ結論を出せない。
つまり、小泉は自民党の選挙上の能力と総裁の統率力を強めた一方、従来型の支持組織や党内調整の仕組みをすべて解体したわけではない。ここで生じたのは、古い組織力が完全に新しい組織力へ置き換わったという単純な変化ではなく、既存の支持基盤の上に党首中心の政治手法が強く重なったという変化だったと考える方が実態に近い。
「抵抗勢力」を排除する政治が抱えていた問題
小泉政治の特徴の一つは、複雑な政策対立を「改革する側」と「改革に抵抗する側」という分かりやすい構図に整理したことだった。この方法は、政策の争点を明確にして有権者の関心を集め、従来の党内調整では進みにくかった改革を実現するうえで有効に働く場合がある。しかし、現実の政策には、単純な賛成と反対の二つだけでは整理できない問題が多く、改革の目的には賛成でも制度設計や実施方法には反対するという立場も当然あり得る。
例えば郵政民営化についても、経営の効率化には賛成しながら、地方の郵便局網や金融サービスへの影響を懸念する立場が考えられる。そのような政策上の異論まで改革への抵抗として扱えば、政治的な対立は明確になる反面、制度の問題点を修正するための議論が難しくなる可能性がある。
企業経営に置き換えれば、意思決定に時間がかかる組織に強力な経営者が現れ、既存の調整手続きを短縮することによって改革を進める状況に近い。決定速度が上がり、短期的な業績が改善したとしても、その経営者が去った後に同じ成果を維持できるかどうかは別問題であり、組織内部で情報を集約し、異なる立場を調整しながら意思決定する能力が失われていれば、長期的な安定性が低下する可能性もある。
もっとも、ここから小泉政治が自民党の調整能力を実際に低下させたと断定することも適切ではない。確認できるのは、小泉が郵政民営化をめぐって従来の党内調整よりも選挙による政治的決着を優先したことと、その方法によって大きな政治的成果を得たことである。こうした手法が政党の内部制度にどの程度定着したかという問題は、小泉退任後の経過まで含めて判断しなければならない。
2006年の郵政造反組復党は何を意味したのか
小泉が2006年9月に首相を退任すると、自民党内部では早くも郵政民営化をめぐる党内対立の処理が問題となった。同年12月4日、安倍晋三政権下の自民党は、郵政民営化に反対して離党した無所属衆議院議員11人の復党を正式に認めた。2005年の選挙では改革への抵抗勢力として扱われた政治家たちが、その翌年には再び自民党へ戻ることになったのである。
この出来事は、小泉の改革によって旧来の自民党政治が完全に解体されたわけではなかったことを示している。小泉は郵政民営化への賛否を党内の重要な対立軸とし、反対派を公認しないという強い手法によって党内の力関係を変えたが、その判断が後継政権にも恒久的に維持されたわけではなかった。小泉の政治手法によって一時的に弱まった勢力の一部が、その後に再び党内へ組み込まれたという事実は、組織改革の持続性を考えるうえで重要である。
ただし、この復党を単純に改革の失敗と評価することもできない。政党には選挙で勝つだけでなく、多様な政治家や支持者を内部に取り込むことで勢力を維持する機能もあるため、復党は失われた党内の統合機能を回復しようとする判断だったとも解釈できる。その一方で、前年の選挙で郵政民営化への賛否を明確に問うたこととの整合性が問題になり、党の方針や政治家の行動に対する有権者の信頼を損なう危険もあった。
したがって、小泉によって生じた変化は、すべてが不可逆的なものだったわけではない。首相の指導力によって既存秩序を変えることと、その変化を政党の制度として定着させることは別であり、2006年の復党問題は、その違いを具体的に示す出来事だったのである。
2007年参議院選挙で見え始めた自民党の弱さ
小泉退任後の自民党を考えるうえでは、2009年の衆議院選挙だけでなく、その2年前に行われた2007年の参議院選挙も重要である。2007年7月の参議院選挙では、自民党が改選37議席にとどまり、民主党が参議院の第一党となった。衆議院と参議院で多数派の構成が異なる、いわゆる「ねじれ国会」が生じたことで、政府・与党の政策運営は難しくなった。
この選挙では、消えた年金記録問題、閣僚の政治資金問題、政府への不信などが大きな争点となり、郵政造反組の復党をめぐる批判も自民党の政治姿勢に対する評価へ影響したと考えられる。2005年には小泉自身が改革の象徴となることで政権与党への批判をかわしていたが、後継政権では同じ構図を再現することが難しくなり、政権に対する不満が直接与党への批判として表れやすくなった。
ただし、ここでも2007年の敗北を小泉退任の結果だけで説明することはできない。年金記録問題や閣僚の不祥事、個別政策への評価など、それぞれ独立した政治的要因が存在していたからである。小泉のような人気の高い指導者がいなくなったことが政権にとって不利に働いた可能性はあるが、それをどの程度の得票減少につなげて評価できるかについては、慎重な検証が必要となる。
2009年の敗北は小泉改革の失敗だったのか
2009年8月の衆議院総選挙で、自民党は119議席まで減少し、民主党が308議席を獲得して政権交代が実現した。2005年には296議席を獲得した自民党が、わずか4年後には177議席を失ったことになるため、小泉時代に形成された選挙上の強さが長期的な安定につながらなかったことは明らかである。
しかし、この敗北を小泉改革の直接的な結果と考えるのは適切ではない。小泉退任後には安倍晋三、福田康夫、麻生太郎と短期間で首相が交代し、2007年の参議院選挙敗北による政治運営の困難に加えて、2008年の世界金融危機による経済環境の悪化も重なった。民主党に対して政権交代を期待する有権者が増えたことも重要であり、2009年の選挙は自民党の支持低下だけでなく、野党側の支持拡大によっても説明されなければならない。
実際の得票率を見ると、2005年に47.77%だった自民党の小選挙区得票率は、2009年には38.68%へ低下しており、その差は9.09ポイントに達している。比例代表得票率も38.18%から26.73%へ11.45ポイント低下しているため、議席の激減が選挙制度による増幅効果だけで生じたわけではなく、自民党に対する実際の支持が相当程度失われていたことも確認できる。
それでも、得票率の低下と議席数の減少が同じ割合になるわけではない。小選挙区制では多くの選挙区で僅差の勝敗が逆転すると、全国得票率の変化を上回る議席変動が生じることがあり、2005年に自民党へ有利に働いた制度的な特徴が、2009年には民主党に有利に働いたのである。
したがって、2005年と2009年の大きな落差から読み取れるのは、小泉の改革によって自民党が弱体化したという単純な結論ではなく、小選挙区制の下では党首や政党への評価、相手政党の状況、選挙協力などによって議席数が大きく変動するということである。小泉はその制度の下で自民党を大勝させることに成功したが、その成功が後継政権の勝利まで保証するものではなかった。
2012年の議席回復が示す、もう一つの現実
小泉時代の自民党の強さを長期的に考えるなら、2009年の敗北で分析を終えるべきではない。民主党政権下で行われた2012年12月の衆議院総選挙では、自民党が294議席を獲得して政権に復帰したが、このときの得票率を見ると、議席数から受ける印象とは異なる実態が浮かび上がる。
2012年の自民党の小選挙区得票率は43.01%、比例代表得票率は27.62%だった。2009年の比例代表得票率26.73%と比較すると上昇幅はわずか0.89ポイントであり、比例代表の得票数に至っては約1881万票から約1662万票へ減少している。それにもかかわらず、自民党は2009年の119議席から2012年には294議席へと大幅に議席を増やしたのである。
この結果は、選挙で大量の議席を獲得することと、有権者からの支持を同じ程度に拡大することが必ずしも一致しないことを示している。2012年には民主党への支持が大きく低下し、民主党以外の政党も複数に分かれて候補者を擁立したため、選挙区ごとの票の分布が自民党に有利に働いた。公明党との選挙協力も含めて考えれば、自民党の議席数は自民党自身の得票率だけで決まるわけではなく、野党の競争状況や候補者配置によっても大きく左右されることが分かる。
2005年の296議席と2012年の294議席は、議席数だけを見ればほぼ同じ規模の勝利だったが、比例代表得票率は2005年の38.18%に対して2012年には27.62%であり、10ポイント以上の差が存在していた。この事実を踏まえると、2005年の大勝を小泉の個人的な人気だけに帰することも、2012年の大勝を小泉が作った新しい自民党の選挙手法が定着した証拠とみなすこともできない。
むしろ、1990年代以降の選挙制度の下では、有権者の支持の分布と野党の競争状況が議席数に強く反映されるようになり、政党が大勝と大敗を繰り返す可能性が高まったと考えるべきだろう。ただし、それがかつての中選挙区制と比べてどの程度大きな変動なのかについては、選挙区構成や政党数などの違いを調整した比較分析が必要であり、議席数の推移だけで制度の影響を完全に証明できるわけではない。
小泉は「自民党の勝ち方」を作り替えたのか
ここまで検討すると、小泉純一郎を「自民党を強くした総理」と単純に呼ぶことも、「自民党を壊した総理」と呼ぶことも、どちらも十分ではないことが分かる。小泉が目に見える成果を残したのは、1990年代から整備されてきた政治制度を利用して、党首の指導力を全国的な選挙戦略へ転換する方法を示したことだった。
従来の自民党は、地域の後援会、業界団体、地方議員、派閥などを通じて支持を積み重ね、その総和によって全国選挙を戦ってきた。小泉時代には、こうした支持基盤が消えたわけではないが、それに加えて総裁が全国共通の争点を設定し、党の公認権を利用して候補者を統制し、メディアを通じて有権者へ訴えかける政治の重要性が高まった。政党として長い時間をかけて形成した地域組織の力と、党首個人の人気や全国的な政治課題によって支持を集める力が、選挙において組み合わされるようになったのである。
もっとも、この手法を小泉が一人で発明したと考えることはできない。選挙制度改革、政治資金制度改革、中央省庁再編、報道環境の変化など、小泉以前から存在していた条件が重要な役割を果たしていたためである。小泉の政治的な特徴は、それらの制度的条件を効果的に利用し、特に2005年の郵政解散において、自民党内部の対立を全国的な選挙の争点へ転換したところにあった。
この方法には強さと弱さが同居している。党首が高い支持を集め、全国的な争点設定に成功すれば、従来の支持組織を超えて多数の票を獲得できる可能性があるが、党首の評価が低下した場合や野党側が有利な争点を形成した場合には、同じ制度の下で大きく議席を失う危険もある。特定の政治家の人気や指導力を利用して選挙に勝つことと、その政治家が退いた後も政党として安定した支持を維持することは、必ずしも一致しないのである。
政党の強さは議席数だけでは測れない
そもそも、政党の強さとは何を意味するのだろうか。選挙で多数の議席を獲得する能力、全国に安定した支持組織を維持する能力、優れた候補者を継続的に育成する能力、異なる意見を調整する能力、政策を立案して実行する能力など、複数の側面が存在している。
これらは必ずしも同じ方向に変化するわけではない。党首の権限が強まれば意思決定を迅速化できる可能性がある一方で、党内の異論が反映されにくくなる場合もある。地方組織や支持団体との関係を重視すれば安定した選挙基盤を維持しやすくなる反面、既存の利益関係に配慮することで政策変更が難しくなる場合もある。全国的な人気によって無党派層を獲得することは短期的な大勝につながり得るが、その支持が長期間維持されるとは限らない。
したがって、小泉政治の評価には、何を政党の強さと考えるかという基準が欠かせない。2005年の選挙で小泉が自民党の議席獲得力と総裁の統率力を大きく高めたことには明確な根拠があるが、地方組織の継続性、党内の政策調整機能、後継指導者の育成能力まで同時に改善されたと確認できるわけではない。
また、小泉によって自民党の従来型の政治構造がどの程度変化したのかについても、短期的な政治的成果と長期的な組織変化を区別する必要がある。2006年の郵政造反組復党は、2005年の選挙で形成された党内秩序が一部修正されたことを示しており、2009年の敗北と2012年の議席回復は、選挙制度や対立政党の状況が議席数に大きく作用することを示している。これらの出来事を合わせて考えると、小泉の残した変化は、自民党の従来型組織を全面的に解体したものではなく、既存の政治構造の上に党首中心の選挙と政策運営を強く押し出したものだったと理解できる。
「自民党をぶっ壊す」という言葉は実現したのか
小泉純一郎の政治を振り返ると、「自民党を変える。変わらなければぶっ壊す」という言葉は、単なる選挙向けの刺激的な標語だったとは言い切れない。小泉は自民党を離れて別の政党を作るのではなく、自民党の中に残り、自民党総裁として党内の既存秩序を攻撃し、その対立を通じて自民党への支持を集めた。長期政権への不満が野党の支持拡大につながるとは限らず、政権与党自身が改革を掲げることで、政治を変えたいと考える有権者の支持を取り込めることを示したのである。
しかし、小泉が従来の自民党政治を完全に壊したと考えるのは、歴史的事実を単純化しすぎている。派閥や後援会、業界団体、地方議員のネットワークはその後も存在し、郵政民営化をめぐる党内対立の一部も後継政権によって修正された。自民党が長く維持してきた利益調整型の政治は、小泉時代に強い圧力を受けたものの、その機能が全面的に失われたわけではなかった。
一方で、小泉が何も変えなかったという評価も成り立たない。全国的な世論を背景に党内の反対勢力を抑え、党の公認権を利用して候補者を統制し、総選挙での勝利を政策実現の政治的な力へ転換したことは、従来型の自民党政治とは異なる指導力を示していた。2005年の選挙は、小泉個人の人気や政治手法に加え、それ以前から進んでいた制度改革が一体となって大きな政治的成果を生んだ事例だったといえる。
結局、小泉が自民党を強くしたのか、それとも弱くしたのかという問いには、一つの答えだけを与えることは難しい。選挙で議席を獲得する能力や総裁の指導力という基準では、小泉が自民党を強くしたという評価には根拠がある。しかし、従来型の党内調整機能や地方の支持基盤がどの程度変化し、その変化が長期的な政党運営にどのような影響を与えたのかについては、2005年の選挙結果だけから判断することはできない。
より実態に近いのは、小泉純一郎が、1990年代から進行していた政治制度改革を背景に、自民党の選挙戦略と党内の権力関係を大きく変化させた総理だったと考えることである。従来の派閥や利益団体を中心とする政治を批判しながら、党首の人気、全国共通の争点、党の公認権を組み合わせることによって、自民党に新しい選挙上の強さをもたらした。ただし、それは従来の組織力を完全に置き換えたものではなく、後継政権でも同じ効果が維持されることを保証するものでもなかった。
「自民党をぶっ壊す」という言葉を、自民党という政党の消滅や従来の政治構造の全面的な解体と理解するなら、小泉の宣言がそのまま実現したとはいえない。しかし、自民党総裁が党内の反対勢力と対決し、全国的な世論を利用して党の力関係を変えるという政治手法に注目するなら、小泉が自民党政治の一部を大きく変えたことも否定できない。
小泉純一郎は、自民党を壊して弱くした総理でも、従来の自民党を守って強くした総理でもなかった。既存の政治制度と組織基盤を利用しながら、その内部に新しい権力の集中と選挙での勝ち方を持ち込んだ総理だったのである。
そして、その政治手法がもたらした最大の教訓は、強い指導者の下で選挙に圧勝することと、政党が長期的に強くなることは同じではないという点にある。小泉が示した新しい勝ち方は、自民党に大きな成功をもたらしたが、その成功を政党の持続的な強さへ転換するには、党首の人気だけではなく、地域の支持基盤、党内の意見調整、政策実行能力、後継指導者の育成など、別の条件が必要だった。
小泉政治の歴史的な意味は、自民党を強くしたか弱くしたかという単純な結論よりも、政党が持つ複数の強さを際立たせ、それらが必ずしも両立しないことを明らかにした点にあったと考えられる。

