支持率は政治家の能力を測っているのか~数字が映しているもの、映していないもの
政治家について報道するとき、ほとんど必ず登場する数字がある。支持率である。
内閣支持率が上がれば「政権に追い風」、下がれば「政権運営に打撃」。一定の水準を割り込めば「危険水域」と呼ばれ、その数字を材料に首相の求心力や選挙への影響まで語られる。私たちはいつの間にか、支持率という一つの数字によって政治家の状態を判断することに慣れてしまった。
しかし、ここには素朴な疑問が残る。
支持率が高い政治家は、本当に能力の高い政治家なのだろうか。
逆に支持率が低い政治家は、政策を立案したり、行政を動かしたり、外交交渉を行ったりする能力まで低いのだろうか。
結論から言えば、支持率は政治家の能力を直接測定している数字ではない。支持率が測っているのは、その時点で人々がその政治家や政権を「支持するかどうか」である。
当たり前のように聞こえるが、この二つを分けて考えることは、政治を数字から読むうえで非常に重要である。
「支持する」と「能力がある」は同じではない
会社であれば、経営者の能力をある程度は売上、利益、生産性、成長率などから評価できる。スポーツ選手なら、勝率、得点、記録という比較的明確な指標がある。
政治家の場合は事情が違う。
経済成長を重視する人もいれば、所得再分配を重視する人もいる。財政赤字を減らした政治家を高く評価する人がいる一方、そのために社会保障が削減されれば低く評価する人もいる。防衛力の強化を評価する人と、それを問題視する人もいる。
つまり政治には、そもそも全員が合意できる「得点」が存在しにくい。
そのため有権者が政治家を評価するときには、政策の成果だけではなく、「自分の考えに近いか」「生活が良くなったと感じるか」「説明に納得できるか」「信頼できそうか」といった複数の判断が混ざる。
政治学には、政府が過去に何をしてきたかを見て有権者が評価する「回顧的投票」という考え方があり、政府の実績に対する認識が政治的評価に影響することは古くから研究されている。しかし、そこで重要なのは、有権者が客観的な政策成果そのものを採点しているとは限らないということである。人々は自分が認識した政府の実績を通じて政治を評価する。
ここに、支持率と能力の間にずれが生まれる。
同じ政策でも支持率への影響は違う
例えば、ある政府が20年後の財政を安定させるため、現在の有権者に負担を求める政策を実施したとする。
長期的には合理的な政策かもしれない。しかし、現在の生活費が増えれば支持率は下がる可能性がある。
反対に、将来の財政負担を増やす政策であっても、現在の給付や減税につながれば歓迎されることがある。
ここで起きているのは、政治家の能力と有権者の評価時間軸のずれである。
政治家には10年、20年後を考えなければならない仕事がある。しかし、有権者の生活は今日も続いている。電気料金、食料品価格、住宅費、税金、社会保険料といった負担を毎月支払っている以上、「将来のためだから現在は我慢してほしい」という説明だけでは支持されないこともある。
だからといって、有権者の判断が間違っているということでもない。
将来の利益を理由に現在の負担を無制限に要求できるのであれば、民主政治は政府を監視する機能を失ってしまう。むしろ政治家には、長期的に必要な政策を設計すると同時に、その必要性を説明し、現在の負担をできるだけ公平に配分する能力まで求められる。
政策を考える能力だけでは政治は成立しない。
支持を形成する能力もまた政治家の仕事なのである。
ここまで考えると、支持率と能力の関係は単純なものではなくなる。
支持率には「期待値」が入っている
支持率を考えるとき、もう一つ見逃せないのが期待である。
100点の仕事をしたかどうかではなく、「期待していた仕事と比べてどうだったか」によって評価は変わる。
大きな期待を集めて誕生した政権は、一定の成果を上げても「期待ほどではなかった」と評価される可能性がある。一方、もともと期待が低ければ、小さな成果でも「思っていたよりよくやった」と受け取られることがある。
企業決算にたとえれば分かりやすい。
利益が増えても市場予想を下回れば株価が下がることがあり、利益が減っていても予想ほど悪くなければ株価が上がることがある。株価が企業の絶対的な実力だけではなく、市場参加者の期待との差によって動くように、政治家への評価にも期待との差が入り込む。
支持率という数字を見るとき、「何をしたか」だけを見るのでは足りない。
「何を期待されていたか」まで見なければならないのである。
景気が悪ければ政治家の能力も低く見えるのか
政治評価には、政治家が完全には制御できない出来事も影響する。
世界的な原油価格の上昇、海外での戦争、感染症、自然災害、外国為替市場の変動、世界経済の後退など、一国の政府だけでは解決できない要因はいくらでもある。
しかし、有権者は日常生活の中で政治を評価する。
食品価格が上がれば生活は苦しくなる。実質的な所得が減れば不満が生まれる。その結果として政権への評価が悪化しても不思議ではない。
政治家に原因があるとは限らないが、政府は結果に対する責任を問われる。
これは必ずしも非合理的ではない。
政治とは、問題そのものを発生させない能力だけを競うものではなく、問題が発生したときにどのように対応するかを問われる仕事でもあるからだ。
世界的な物価上昇を止められなかったことと、物価上昇への対応が適切だったかという問題は別である。
支持率には、この二つが混ざって表れる。
「何をしたか」だけでなく「どう見えたか」が数字になる
さらに難しいのが情報の問題である。
多くの有権者は、政府が毎日行っている行政活動を直接見ることはできない。
法律案の調整、官僚組織との協議、外国政府との交渉、予算編成、制度設計など、政治の中心部分の多くは日常生活から見えにくい。
私たちが政治を知る主な窓口は、新聞、テレビ、インターネットニュース、SNS(Social Networking Service・交流サイト)などである。
すると政治家への評価は、「政治家が実際に何をしているか」だけではなく、「その行動についてどのような情報に接したか」によっても変わってくる。
一つの失言が何日も報道されることがある一方、何か月もかけた制度改正は数分しか報じられないこともある。
これは報道機関が意図的に政治家を操作しているという話ではない。ニュースには、珍しい出来事、対立、失敗、変化などが取り上げられやすいという性質がある。
しかし、その性質がある以上、支持率は政策能力だけではなく、政治家の説明能力、報道される出来事、情報環境まで反映した数字になる。
ここまで来れば、「支持率=能力点」という解釈が成立しにくい理由が見えてくる。
支持率という数字自体にも誤差がある
しかも支持率は、国民全員に質問して得られた数字ではない。
実際の世論調査では、一定数の人を抽出し、その回答から全体を推定している。
調査の精度には、誰を対象にしたのか、どのように回答者を選んだのか、電話なのかインターネットなのか、質問をどのような言葉で尋ねたのかといった方法が関係する。Pew Research Center(ピュー・リサーチ・センター)も、世論調査では標本抽出だけでなく、質問の表現によって回答が変化する可能性があるとしており、一つの質問だけで複雑な世論を完全に把握することはできないと説明している。
日本の世論調査でも、RDD(Random Digit Dialing・電話番号を無作為に生成して対象者を抽出する方法)による固定電話・携帯電話調査などが使われてきた。したがって「支持率35%」という数字を、国民のちょうど35%が寸分違わず支持しているという意味で読むべきではない。
本当に重要なのは、1回の数字の小さな上下よりも、一定期間にどの方向へ動いているかである。
47%から46%になったことより、60%だった支持率が数か月かけて40%まで下がったという傾向の方が、政治的にははるかに大きな意味を持つ。
支持率は精密な体温計というより、社会の空気の変化を捉えるセンサーに近い。
それでも支持率が重要なのはなぜか
では、政治家の能力を直接測れないのであれば、支持率など気にする必要はないのだろうか。
そうではない。
むしろ民主政治において支持率は非常に重要である。
政治家がどれほど優秀な政策を考えていたとしても、それを国民に説明できず、支持を得られず、議会を動かせなければ政策は実現しないからである。
政治家の能力には、専門知識だけではなく、利害を調整し、国民に説明し、反対意見を聞き、妥協点を探し、最終的に制度として成立させる能力も含まれる。
その意味では、支持率と政治家の能力は無関係ではない。
ただし、支持率は能力そのものではなく、能力の一部分が社会との関係の中で現れた結果と考える方が正確だろう。
支持率90%だから90点の政治家ではないし、支持率20%だから20点の政治家でもない。
支持率とは、試験の点数ではないのである。
支持率を見るなら「なぜ」を見る
政治報道では数字そのものがニュースになる。
「支持率が5ポイント低下した」という見出しは分かりやすい。
しかし、本当に政治を理解しようとするなら、その次の問いへ進む必要がある。
なぜ下がったのか。
政策への反対なのか。物価なのか。不祥事なのか。首相本人への評価なのか。政党への評価なのか。説明不足なのか。それとも以前の支持率が一時的に高すぎただけなのか。
同じ支持率30%でも、その意味はまったく違う。
そして支持率が低いときこそ、政策評価と人物評価を分けて考える必要がある。
「この政治家を好きか」という問いと、「この政策は合理的か」という問いは、本来別のものである。
しかし政治では、この二つが簡単に重なってしまう。
好きな政治家の政策には甘くなり、嫌いな政治家の政策には厳しくなる。それは人間として不思議なことではないが、その心理を自覚しなければ、政治の評価は人物人気だけに引き寄せられてしまう。
政治家の能力を測るなら、何を見るべきなのか
政治家の能力を評価したければ、一つの数字を探すのではなく、複数の時間軸から見る必要がある。
公約した政策をどこまで実行したのか。その政策によって社会にどのような変化が起きたのか。予期しなかった問題が起きたとき修正できたのか。異なる意見を持つ人々と合意を形成できたのか。そして、自分に不利な情報についても説明責任を果たしたのか。
こうしたものは、一つの支持率には収まらない。
むしろ政治家の能力とは、数字一つで評価できないからこそ難しい。
選挙も同じである。
有権者は数年に一度、政策、人物、政党、経済状況、将来への期待などをまとめて一票に変える。その一票もまた、政治家の能力試験の採点ではない。
「この人に次の期間を任せるか」という判断である。
支持率は「政治家の成績表」ではなく「政治と社会の関係」を映す
支持率を政治家の能力点だと考えると、政治は非常に単純に見える。
上がれば優秀、下がれば無能。
しかし実際の政治はそれほど単純ではない。
支持率の中には、政策の成果だけでなく、景気、物価、事件、期待、政党支持、報道、説明能力、人物への好感、そして調査そのものの誤差まで混ざっている。
だから支持率は政治家の能力を測る物差しとしては粗い。
一方で、その数字を無意味だとして切り捨てるのも間違っている。
支持率が示しているのは、「政治家がどれほど優秀か」ではなく、「現在、その政治家と社会との関係がどのような状態にあるか」なのである。
そう考えれば、支持率の記事を見たときの読み方も少し変わる。
数字が上がったか下がったかだけではなく、その数字の背後で社会の何が動いたのかを見る。
支持率そのものより、「なぜその支持率になったのか」を考える。
その視点を持ったとき、世論調査は政治家の人気ランキングではなく、社会が政治をどのように受け止めているのかを知るための資料になる。
そしておそらく、それこそが支持率という数字の最も有効な使い方なのである。





