「地域でお金を回しましょう」という言葉は、地方創生や商店街振興の場でよく聞かれる。地元の店で買い物をし、地元の会社に仕事を頼み、できれば地元で作られたものを選ぶ。それによって地域が豊かになる、と説明されることも多い。しかし、少し考えてみると不思議な言葉でもある。お金は使えば店に渡り、店から仕入先へ渡り、最後にはどこかへ消えていく。同じ千円札を町の中で何度受け渡したところで、千円札が二千円札になるわけではない。それでは「お金が回る」とは、経済学的にはいったい何が起きているのだろうか。
この問いを考えるには、財布の中の紙幣ではなく、その紙幣が誰の所得になるのかを見る必要がある。地域経済にとって重要なのは、お金そのものが町の中を移動することではない。ある人の支出が別の人の売上となり、その売上の一部が賃金や利益として地域住民の所得になり、その所得が再び地域の店や事業者に支払われる。この連鎖がどこまで続くかによって、同じ一円の経済的な意味が変わってくるのである。
一枚の千円札を追いかけてみる
たとえば、ある町を訪れた観光客が、地元の食堂で千円の昼食を食べたとする。この千円は、もともと町の外にあった所得である。それが食堂の売上として町の中へ入ってきた瞬間、地域経済には千円の需要が新しく生まれる。
けれども、その千円がそのまま食堂の主人の所得になるわけではない。米を買い、魚を仕入れ、電気代を払い、調味料を買い、設備を修理しなければならない。その食堂が地元の漁師から魚を買い、近所の米屋から米を仕入れ、町内の電気工事店に修理を頼んでいるなら、観光客が置いていった千円の一部は、食堂だけではなく町の別の事業者の売上へと変わっていく。
魚屋がその所得で町内の理髪店に行き、理髪店の主人が地元のスーパーで食料品を買えば、最初の千円が生み出した需要はさらに先へ進む。もちろん、そのたびに一部は町の外へ出ていく。それでも、外へ出るまでに何度も地域住民や事業者の所得を生み出すなら、その千円は地域経済の中で比較的大きな働きをしたことになる。
経済波及効果を分析するときにも、ある需要による直接的な売上だけでなく、原材料などへの需要が生まれる一次的な波及、さらにそこで生じた所得が消費されることによる二次的な波及が考えられる。環境省の地域経済波及効果分析でも、域外から原材料を調達したり、域外居住者へ賃金を支払ったり、所得が域外で消費されたりすれば、その途中で効果が地域外へ流出すると整理されている。
「地域でお金を回す」という言葉の実体は、こうした所得の連鎖なのである。
地域経済には「入口」と「出口」がある
もっとも、町の中だけで何度も買い物をしていれば、それだけで永遠に豊かになれるわけではない。ここには、地域経済を考えるうえで非常に重要な落とし穴がある。
十人の住民がそれぞれ一万円を持っている町を想像してみよう。互いに商品を売ったりサービスを提供したりすれば、取引額は増える。しかし、町全体が最初に持っていた所得そのものが、それだけで増えるわけではない。地域の中だけでお金を受け渡している経済は、やがて使える所得の限界にぶつかる。
そこで必要になるのが、地域の外から所得を獲得する力である。農産物を都市へ売ることも、製造業が町外へ製品を出荷することも、観光客が宿泊することも、地域外の企業から仕事を受注することも、外から所得を持ち込むという意味では同じ働きをする。町外で働く人の給与、年金や政府からの財政移転なども、経路は異なるものの、地域経済へ所得を流入させる役割を持つ。
環境省が地域経済を考える際に、「地域でお金を循環させること」と並んで「地域でお金を稼ぐ力」を重視しているのは、このためである。地域経済は、生産によって所得を稼ぎ、それが家計や企業へ分配され、消費や投資として支出され、再び生産へ戻っていく。したがって、外から稼ぐ力と、入ってきた所得を地域内に残す力の双方が必要になる。
町の経済を風呂桶にたとえるなら、域外から所得を稼ぐ産業は蛇口であり、町外への支払いは排水口である。桶の中で水を勢いよくかき回しても、蛇口が閉まり、排水口が大きく開いていれば、水位はやがて下がっていく。「地域でお金を回す」という言葉だけでは、この蛇口の存在を見落としやすい。
大切なのは「何回使われたか」より「どこまで残ったか」
ここで単純な数理モデルを考えてみると、地域経済循環の意味が見えやすくなる。
町外から百円が入ってきたとし、その百円を受け取った人が六十円を町内で使い、四十円を町外の商品やサービスに使うとする。次に六十円を受け取った人も、その六割に当たる三十六円を町内で使い、さらにその六割が町内で使われると仮定する。
すると地域内で生じる支出は、
100+60+36+21.6+……
と続いていく。
極端に単純化したモデルではあるが、地域内に残る割合を0.6とすると、この無限等比級数の合計は、
100÷(1-0.6)=250
となる。
最初に地域外から入ってきた百円をきっかけとして、累計では二百五十円分の地域内支出が生じ得るということである。もし地域内に残る割合が0.3しかなければ、同じ計算による累計は約百四十三円にとどまる。最初に入ってくる金額が同じでも、その後の地域内調達や地域内消費の割合によって、経済的な波及の大きさは大きく変わる。
ただし、この二百五十円を「百円が二百五十円の富になった」と理解してはいけない。ここで数えているのは累計された取引や支出であり、新しく生まれた付加価値や住民の所得とは区別しなければならない。それでも、この単純な計算は、「地域にいくら入ってきたか」だけでは地域経済の強さを測れない理由を鮮やかに示している。
地元企業なら必ず地域に残る、とは限らない
ここからさらに厄介な問題が出てくる。「地元の店で買うこと」と「地域に所得が残ること」は、似ているようで完全には同じではない。
町内にある店でも、販売している商品のほとんどを町外から仕入れ、設備も広告も情報システムも町外企業へ支払い、利益まで町外の本社へ送っているなら、売上のかなりの部分は地域外へ流れていく。一方、全国展開する企業であっても、地元住民を多数雇用し、地域の事業者から仕入れを行い、地域で設備投資をしているなら、その店舗から地域住民へ帰着する所得は決してゼロではない。
したがって、「地元資本か、大企業か」という看板だけを見て地域経済を論じると、本質を取り逃がす。重要なのは、売上のうちどれだけが地域住民の賃金になり、どれだけが地域企業の利益になり、どれだけの原材料やサービスが地域内から調達され、そこで得られた所得がさらにどこで使われるのかである。
経済産業省の地域間産業連関表も、地域の経済を単独で見るのではなく、財やサービスがどの地域から調達され、どの地域へ供給されるかという相互依存関係を捉えるために作られてきた。ある地域で投資が行われても、必要な財の多くを地域外から調達すれば、地域内に生じる生産波及は小さくなる。この考え方は、小さな町の商店や観光政策にも、そのまま当てはめることができる。
つまり、町に大きな店があるかどうかよりも、その店の後ろにどれだけ地域内の取引網がつながっているかの方が重要なのである。
「地産地消」だけでは地域は豊かにならない
ここまで考えると、「それなら何でも地域内で作ればよい」という結論に向かいたくなる。しかし、それもまた経済学的には危うい。
地域外から商品を買うこと自体が悪いわけではない。石油を産出しない町がガソリンを地域内で生産する必要はないし、小さな町が医薬品や自動車やコンピューターまで自給しようとすれば、かえって生活費は高くなり、生産性も落ちる。地域間で得意なものを交換することは、市場経済が豊かさを生み出してきた基本的な仕組みでもある。
問題は「地域外から買うこと」ではなく、地域が外から何も稼がないまま、あらゆる所得が一方向に外へ流れ続けることである。
地域で農産物を生産して都市へ販売し、その所得で地域外から自動車を購入するなら、それは交易である。しかし、地域内に域外から所得を獲得する産業がほとんどなく、住民が受け取った所得の多くを町外の店舗やサービスへ支払い続ければ、地域経済の循環は次第に弱くなる。
だから本当に考えるべきなのは、「町内で全部買おう」という閉鎖的な経済ではない。地域が得意なものを外へ売り、外から所得を呼び込みながら、その所得の一部が地域内の雇用、仕入れ、消費、投資へつながる構造をどう作るかなのである。
観光客が増えても地域が豊かにならないことがある
この問題が最も分かりやすく現れるのが観光地かもしれない。
年間百万人の観光客が訪れる町でも、宿泊施設の所有者が町外企業で、食材が町外から運ばれ、予約手数料が町外の事業者へ支払われ、土産物まで他地域で製造されているなら、観光客が落としたお金の相当部分は短時間で地域から出ていく。観光消費額だけを見れば巨大でも、その町で生活する人の所得があまり増えないということは十分に起こり得る。
反対に、観光客の人数がそれほど多くなくても、地元の宿が地域の農家から食材を買い、地元の酒を提供し、清掃や修繕を地域企業へ頼み、そこで働く住民が地域の商店を利用するなら、一人の観光客がもたらした所得は地域の中を比較的長く流れる。
環境省の地域経済循環分析が、単に地域の売上額を見るのではなく、生産、分配、支出の各段階で所得がどこから入り、どこへ出ていくのかを捉えようとしている理由もここにある。2025年12月に公表された最新版の分析ツールも、市町村単位で地域内外の資金の流れや産業間取引を分析できるものとして整備されている。
観光客の数を競うより、その一万円が翌朝どこへ行くのかを見る方が、地域経済の実像に近いのである。
地域経済を支えるのは「金額」より「つながり」なのかもしれない
ある町に百億円規模の工場が一つある場合と、数十人規模の企業、農家、商店、建設会社、宿泊業者、飲食店が互いに取引している場合とでは、どちらの地域経済が強いのだろうか。
答えは単純ではない。大工場が地域外から大きな所得を稼ぎ、地元住民を雇い、地域企業から多くを調達しているなら、それは非常に強力な地域経済の核になる。しかし、原材料も従業員も取引先も地域外に依存し、利益も本社へ送られるなら、巨大な生産額のわりに地域住民へ届く所得は小さい可能性がある。
逆に、小さな企業ばかりの地域でも、それぞれが互いに仕入れ、仕事を発注し、そこで得た所得を地域内で消費する関係が厚ければ、一つの需要が複数の事業者へ波及していく。地域経済を強くするものは、企業の数だけでも、観光客の数だけでも、売上高だけでもない。企業と企業、人と企業、そして地域と外部を結ぶ取引の網そのものなのである。
ここまで来ると、「地域でお金を回す」という素朴な言葉が、少し違って見えてくる。
それは、千円札を町から逃がさない運動ではない。
町の外から所得を稼ぐ人がいて、その所得を受け取る人がいて、その人の支出を次の誰かの所得に変えられる産業や店があり、その所得がさらに別の仕事を生み出していく。経済学的に見れば、「お金を回す」とは、その連鎖をできるだけ途中で切れにくくすることである。
地域に必要なのは、高い塀を造ってお金を閉じ込めることではない。外へ向かって開いた入口を持ちながら、入ってきた所得がすぐに流れ去ってしまわないよう、町の中に細かな水路を張り巡らせることなのだろう。
夕方、町の食堂で誰かが千円札を一枚置いて席を立つ。その千円が翌日には魚屋へ渡り、その週末には理髪店へ渡り、その一部が電気工事店の仕事になり、やがてどこかで町の外へ出ていく。
地域経済の強さとは、おそらく、その一枚の千円札が町を出ていくまでの時間ではない。
その途中で、何人の仕事と所得を生み出せたかなのである。



