1994年6月29日、日本の国会では、戦後政治の常識から見れば極めて異例の首相指名選挙が行われていた。候補者の一人は日本社会党委員長の村山富市であり、その村山を首相にしようとしていた最大の政治勢力は、社会党が長年にわたって対決してきた自由民主党だった。自由民主党と日本社会党は、1955年に成立したいわゆる「55年体制」の中で、日本政治の保守と革新を代表する勢力として向かい合ってきた。日米安全保障条約、自衛隊、憲法、防衛政策、経済政策をめぐって両党は激しく争い、自民党が政権を担えば、社会党は最大野党としてそれを批判する。その対立構造はあまりに長く続いたため、多くの有権者にとって、自民党と社会党が同じ政権に入ること自体が想像しにくい出来事だった。
しかも、首相になる村山は社会党の一議員ではない。党の最高責任者である委員長だった。その村山の名前を、自民党議員たちが首相指名選挙の投票用紙に書いたのである。なぜ、そんなことが起きたのか。自民党と社会党の思想が突然近づいたからではない。長年の対立を忘れて和解したからでもない。むしろ、1993年から1994年にかけて、それまで両党を対立させていた日本政治の構造そのものが大きく変化し、それぞれの政党が従来とは異なる生存戦略を迫られていたことが、村山政権誕生を理解する鍵になる。
自民党が政権を失った選挙で、社会党も大敗していた
物語は1993年に始まる。それまで自民党は、1955年以来、多少の政治的な混乱はありながらも、ほぼ一貫して政権の中心にいた。ところが、政治改革をめぐる党内対立が激化し、小沢一郎や羽田孜らが自民党を離党して新生党を結成する。宮沢喜一内閣に対する不信任決議案には自民党からも造反者が出て、衆議院は解散された。重要なのは、自民党が単独過半数を失ったのは総選挙の結果だけによるものではなく、その前の党分裂によってすでに過半数を割り込んでいたという事実である。そして1993年7月18日の総選挙で、自民党は223議席を獲得したものの、単独過半数を回復することができなかった。
ここまでなら、「自民党が敗れて野党が勝った選挙」と説明したくなるが、実際の選挙結果はもっと複雑だった。それまで最大野党だった社会党も、1990年総選挙の136議席から70議席へと大幅に議席を減らしていたのである。減少率を計算すると、自民党は275議席から223議席への減少で約18.9%、社会党は136議席から70議席への減少で約48.5%となる。自民党も後退したが、社会党の議席減少はそれ以上に深刻だった。つまり、有権者が自民党から社会党へ政権を渡そうとしたという構図ではなく、自民党と社会党という戦後政治を長く支えてきた二つの政党が同時に大きな変化に直面していたのである。
この変化は、両党の合計議席からも確認できる。1990年総選挙では、自民党275議席と社会党136議席を合わせて411議席となり、衆議院定数512議席の約80.3%を占めていた。ところが1993年総選挙では、自民党223議席と社会党70議席の合計は293議席となり、定数511議席に対する占有率は約57.3%まで低下した。わずか一回の総選挙を挟んで、両党の合計議席占有率は約23ポイント低下したことになる。ただし、これは議席数の比較であり、両党から他党への有権者の移動をそのまま示す数値ではない。新党の結成、現職議員の離党、候補者の所属変更なども含めて、政党の勢力構造が大きく組み替わった結果と理解する必要がある。
新生党、日本新党、新党さきがけといった新党が存在感を増し、公明党や民社党なども加わって、自民党を政権から外す新しい連立の枠組みがつくられた。その結果、日本新党代表の細川護熙を首相とする非自民連立政権が誕生し、1955年以来続いてきた自民党中心の政権はいったん途切れた。しかし、細川政権には誕生した時点から構造的な不安定要因があった。参加していた政党の政治理念や政策はかなり異なっており、社会党と新生党では、安全保障政策も経済政策も政治改革に対する考え方も同じではなかった。公明党、民社党、日本新党、新党さきがけも、それぞれ異なる政治的背景を持っていた。
彼らを強く結びつけていた共通項の一つは、「自民党を政権から降ろす」という目的だった。しかし、その目的が達成されると、次の問題が現れる。自民党に代わって、どのような政治を実現するのかという問いである。政治改革という共通課題は存在したものの、税制、安全保障、経済運営、政界再編の進め方まで一致していたわけではない。非自民連立政権が抱えていたのは、政権交代という目標を共有することと、政権運営の具体的な政策を共有することは同じではないという問題だった。
細川政権の後で始まった「次の政界」をめぐる争い
細川護熙政権は、それまでの中選挙区制を改め、小選挙区比例代表並立制を導入する政治改革を実現した。しかし、連立内部の意見対立は解消されず、1994年2月には国民福祉税構想の発表と撤回をめぐって混乱が生じた。さらに政治資金をめぐる問題なども重なり、細川は同年4月に退陣する。政治改革という大きな課題では一定の成果を上げたものの、その後の政権運営を安定させる共通基盤は十分に形成されていなかったのである。
後継首相となったのが新生党党首の羽田孜だった。しかし羽田政権は、正式に発足する前から大きくつまずいた。1994年4月25日、羽田が国会で首相に指名された日に、新生党、日本新党、民社党などが社会党を含まない院内会派「改新」を結成したのである。社会党は首相指名では羽田を支持していたにもかかわらず、この会派には参加しておらず、翌26日に連立政権からの離脱を決めた。また、新党さきがけも羽田政権では閣外協力の立場を取っており、羽田内閣は少数与党として政権運営を始めることになった。
これを単なる国会内の会派再編と考えると、当時の社会党が受けた政治的な衝撃を見落とす。社会党にとって問題だったのは、自分たちが外されたことだけではない。その背後で、新生党の小沢一郎らを中心として、社会党を含まない新しい政治勢力が形成される可能性が見え始めたことだった。ただし、「社会党は小沢一郎を恐れていた」と一言で断定するのは正確ではない。社会党内部にもさまざまな立場があり、旧連立政権への復帰を模索する勢力も存在した。社会党と小沢らの対立には、政権運営の手法や政策決定の進め方に対する不満も含まれていたと考えるべきだろう。
政治構造として見れば、社会党が置かれていた状況は厳しかった。1993年の総選挙ですでに70議席まで後退している。さらに新生党、公明党、日本新党、民社党などが大きな政治勢力へまとまれば、かつて自民党と並んで日本政治を代表した社会党が、新しい政界再編の中で存在感を失う可能性があった。この懸念が現実的なものだったことは、その年の暮れの政治情勢からも理解できる。1994年12月には、新生党、日本新党、民社党、公明党系の一部勢力などが結集し、新進党が結成されたからである。
つまり1994年春の段階で、日本政治ではすでに、「自民党対社会党」という古い構図とは異なる競争が始まっていた。誰が次の政界再編を主導し、どの政党が新しい政治秩序の中心に位置するのかという争いである。社会党はその中で、自らの政策を実現する方法を模索すると同時に、政党としての発言力を維持する必要にも迫られていた。羽田政権の少数与党化は、前年に政権を失った自民党にとって、政治的な力関係を変える機会にもなった。
自民党が欲しかったのは「村山首相」よりも政権復帰だった
自民党から見れば、1993年の下野は極めて大きな事件だった。長年にわたって政権を担ってきた政党が、突然野党になったのである。自民党にとって政権復帰は最優先の政治目標の一つだったが、単独では衆議院の過半数に届かない。そこで重要になったのが、社会党と新党さきがけだった。
1993年総選挙の獲得議席を基準にすると、自民党223議席と社会党70議席を合わせれば293議席となり、当時の衆議院定数511議席の過半数である256議席を上回る。さらに新党さきがけの13議席を加えれば306議席となる。一方、自民党と新党さきがけだけでは236議席にとどまり、過半数には届かない。この数字から、社会党は自民党にとって政権復帰を実現するうえで、極めて重要な交渉相手だったことが分かる。ただし、これは1993年総選挙の獲得議席を単純に合算した比較であり、1994年6月時点の議員の所属や実際の首相指名投票の結果をそのまま表したものではない。
ここで注目したいのは、議席計算だけなら自民党と社会党の二党でも過半数を確保できるという点である。したがって、新党さきがけの役割を単なる議席の上積みだけで説明することはできない。新党さきがけには、社会党との政策協議を進め、異なる政治的立場を持つ政党の間で合意を形成するという重要な役割があった。自民党と社会党だけでは、長年の対立や支持者への説明の難しさが大きかったが、政治改革を掲げる新党さきがけが参加することで、三党連立に一定の政策的な枠組みを与えることができたと考えられる。
自民党が社会党の協力を得るには、首相を誰にするかという問題もあった。社会党が自民党総裁を首相にして連立に入ることは、政治的に容易ではない。社会党の立場からすれば、長年最大の対立相手として戦ってきた自民党の総裁を首相にするために協力するのでは、党内や支持者に説明することが難しくなる。そこで自民党が受け入れたのが、社会党委員長の村山富市を首相候補とする構想だった。
これは自民党にとって非常に大きな譲歩だったが、政治権力は首相の椅子一つだけで構成されているわけではない。閣僚を送り込み、政策決定に参加し、国会運営を担い、行政機構との政策調整に関与し、政権与党として政治の中心へ戻ることにも大きな意味がある。首相の座を社会党に譲る代わりに、自民党が政権に復帰するという選択には、政治的な合理性があった。
したがって、「自民党は村山を首相にしたかった」とだけ考えると本質を見誤る。より正確には、村山を首相として受け入れることが、自民党の政権復帰を可能にする有力な選択肢だったのである。それは同時に、社会党を新しい連立の枠組みへ引き入れることで、細川政権を生んだ非自民勢力の結束を崩し、小沢一郎らを中心とする政治勢力を野党側へ押し戻す効果も持っていた。
ただし、自民党の政治家が全員同じ目的や計算によって動いたわけではない。村山を首相とする連立構想には自民党内部にも反対があり、実際に党を離れる政治家も現れた。自民党が一枚岩となって長期的な戦略を実行したというより、党内の対立を抱えながらも、政権復帰を可能にする選択が最終的に採用されたと見る方が、当時の実態に近いだろう。
社会党も「自民党と組む」という常識外れの選択をした
しかし、自民党側の事情だけでは村山政権は成立しない。社会党にも連立を受け入れる理由があった。もちろん、自民党と組むことには大きな抵抗があった。社会党にとって自民党は、何十年にもわたって批判してきた相手であり、支持者の多くも、自民党政治に対抗する政党として社会党を支持してきたからである。
それでも、自民党との連立という選択肢が現実味を持ったのは、社会党が別の政治的課題にも直面していたからだった。1993年の選挙で大幅に議席を失い、非自民連立政権の中でも主導権を握れない。さらに自分たちを外した政界再編が進めば、社会党は新しい政治秩序の中で埋没する可能性がある。こうした状況では、従来の対立関係だけを基準に連立相手を選ぶことが、必ずしも党の利益に結び付くとは限らなかった。
もっとも、社会党が自民党との連立を選んだ理由を、単に政党としての生き残りだけに求めることも適切ではない。社会党には、憲法の理念を尊重し、平和政策や社会保障政策を重視しながら、政権参加を通じて具体的な政策を実現しようとする立場もあった。社会党側が新党さきがけと政策協議を重ねていたことは、連立構想が単なる役職配分や議席計算だけで進められたわけではないことを示している。政治家や政党の行動には、権力の獲得、政策の実現、選挙上の利益など、複数の目的が同時に存在するからである。
自民党と社会党は思想的に突然近づいたわけではなかったが、1994年という時点では利害が交差した。自民党には政権へ戻りたいという事情があり、社会党には政界再編の中で自らの位置を確保しながら政策を実現したいという事情があった。そして新党さきがけには、政党間の政策調整を進めながら、政治改革の方向性を維持したいという考えがあった。理念の異なる三党が完全に同じ方向を向いたわけではない。それぞれが異なる目的を持ちながらも、一定の政策合意の下で協力できる可能性が生まれたのである。
1994年6月29日、村山首相を誕生させた政治的合意
羽田内閣の退陣を受け、1994年6月29日に首相指名選挙が行われた。中心となった候補者は村山富市と、元自民党総裁で元首相の海部俊樹だった。ここには、当時の政界再編の複雑さが凝縮されている。自民党議員の多数が社会党委員長の村山を支持する一方、村山に対抗する旧連立勢力が担いだのは、自民党を離党した海部だったのである。政党の名称だけを見ていては、当時の政治勢力の対立関係を正確に理解できない状況になっていた。
衆議院の第1回投票では、村山241票、海部220票となり、いずれも必要な過半数を得られなかったため決選投票に入った。その結果、村山261票、海部214票となり、村山が内閣総理大臣に指名された。日本社会党からの首相誕生は、1947年に首相となった片山哲以来47年ぶりのことだった。翌6月30日には、自民党、日本社会党、新党さきがけの三党による村山内閣が発足した。
ここで制度上重要なのは、日本の内閣総理大臣が国民による直接選挙で選ばれるのではなく、国会議員の中から国会の議決によって指名されるということである。日本国憲法第67条は、内閣総理大臣を国会の議決で指名することを定め、衆議院と参議院の指名が異なる場合などには、一定の条件の下で衆議院の議決を優先する仕組みを設けている。そのため、最大政党の党首が必ず首相になるわけではない。複数の政党が協力して国会内の多数を形成すれば、最大政党ではない政党の党首が首相になることも制度上可能である。村山政権は、この議院内閣制の特徴を象徴する事例でもあった。
ただし、首相指名までに三党間でどの程度の合意が成立していたのかについては、史料を区別して読む必要がある。自民党の公式な党史では、6月28日に森喜朗幹事長が社会党の久保亘幹事長へ村山首班の連立構想を正式に提案し、同日の河野洋平総裁と村山委員長の会談で、自社さ連立について合意したと説明している。一方、村山自身は7月1日の首相就任後の記者会見で、社会党と新党さきがけが事前に政策協議を行って共同の合意案を各党へ示し、自民党からもおおむね了承する回答を得ていたものの、首班指名までにすべての協議が完全にまとまっていたわけではないという趣旨の説明をしている。
さらに、当時の社会党機関誌に掲載された「新しい連立政権の樹立に関する合意事項」は、1994年6月29日に提示され、翌30日に合意された文書として記録されている。つまり、村山を首相に推すという政治的な合意と、三党による正式な政策合意文書の成立は、区別して考える必要がある。首相指名前から政治的な協力や政策協議が進められていたことは確認できるが、すべての政策や政権運営の詳細が完全に確定してから首相指名が行われたと考えるのも正確ではない。
後に菅直人も、首班指名の段階では自民党を含めた詳細な三党合意が完成していたわけではなく、社会党と新党さきがけの政策協議が先行していたという趣旨を国会で説明している。関係者の証言にはそれぞれの立場や認識の違いが含まれているため、一つの証言だけで当時の交渉過程を断定することはできない。より妥当なのは、村山首班を実現するための政治的協力が先行し、その前後に三党政権としての政策と具体的な枠組みが急速に整理されていったと理解することだろう。
総理大臣になった瞬間、社会党は野党ではいられなくなった
しかし村山にとって、本当に難しい政治はここから始まった。社会党は長年、自衛隊や日米安全保障体制について自民党とは大きく異なる立場を取ってきた。自民党は自衛隊を合憲とし、日米安全保障条約を日本外交の基軸と考える一方、社会党は自衛隊違憲論や非武装中立論を掲げてきた。同じ政権に入る以上、こうした根本的な政策の違いについて、政府として一定の統一した方針を示さなければならなかった。
村山は首相就任後の1994年7月20日、国会で自衛隊を憲法上認められる存在とし、日米安全保障体制を堅持する立場を明確にした。これは社会党が長年掲げてきた安全保障政策との関係で、極めて大きな意味を持つ表明だった。ただし、首相個人が政府の責任者として見解を示すことと、社会党という政党が正式に政策を変更することは、制度上別の出来事である。社会党は同年9月3日の臨時全国大会において、自衛隊の合憲性を認める方向への基本政策の転換を承認した。したがって、7月の首相答弁と9月の党大会決定を区別することで、政策転換の過程をより正確に理解できる。
この変化を「村山が首相になった途端、それまでの主張を突然捨てた」と理解するのも正確ではない。冷戦終結など国際環境が大きく変化する中で、社会党内部ではそれ以前から安全保障政策の見直しをめぐる議論が進んでいた。村山自身も、社会党が果たしてきた平和政策上の役割を評価しながら、冷戦終結後の現実に対応する必要があると説明している。安全保障政策の転換は、連立政権成立だけによって一夜にして生じたものではなく、それ以前から存在した党内の議論が、政権を担うことによって具体的な結論を迫られた結果と考えられる。
それでも、野党として政策を議論することと、政府として実際に政策を決定することの間には大きな違いがある。野党であれば、政府の安全保障政策に反対し、将来的な制度変更を主張することができる。しかし首相になれば、自衛隊の指揮監督、安全保障条約に基づく外交関係、国際情勢への対応などについて、現実の国家運営を前提とする判断が求められる。連立参加政党がそれぞれ異なる政策理念を持つこと自体は制度上可能だが、政府としての決定や行政の執行については、内閣として一体性を保たなければならない。村山政権は社会党に対して、野党時代とは異なる政治的責任を突き付けたのである。
社会党は首相を得たが、自民党との違いを説明することが難しくなった
村山政権の成立直後だけを見れば、社会党は大きな成果を得たように見える。何しろ自民党を差し置いて、自党の委員長が総理大臣になったのである。しかし、政治の勝敗は、その日の首相指名だけでは決まらない。社会党は政権を担うことによって、自衛隊や日米安全保障体制など、それまで党の重要な特徴を形成してきた政策を修正した。それは政府を運営するための現実的な選択だったとも評価できるが、支持者から見れば別の疑問も生まれる。
社会党が自民党と同じ政府に入り、自衛隊を認め、日米安全保障体制も認めるのであれば、自民党と社会党の違いはどこにあるのか。これは社会党にとって深刻な問題だった。ただし、社会党の政策的な特徴が安全保障分野だけにあったわけではない。社会保障、労働政策、平和政策、社会的公正などには依然として独自の主張があり、政権参加によってそうした政策を実現する余地も存在した。自民党との連立によって社会党の独自性がすべて失われたと考えることも、また単純化し過ぎである。
問題は、支持者が政党を評価する際に、個別の政策だけでなく、どの政党と協力し、どのような政治的立場を取るかという点も重視することである。自民党に反対することを重要な支持理由としていた有権者にとって、自民党との連立は従来の支持理由を見直す契機になり得た。一方で、社会党の現実的な政策転換を評価した有権者もいた可能性がある。どちらの反応がどの程度存在したのかを明らかにするには、当時の世論調査や政党支持率、選挙区別の得票変化などを詳しく分析する必要がある。
したがって、「自民党との連立が社会党の支持基盤を弱めた」という説明には合理性があるものの、その影響の大きさを議席数の変化だけから正確に測定することはできない。社会党の支持基盤には、労働組合の組織力や雇用構造の変化、冷戦終結後の政治意識の変容など、連立以前から進行していた変化も影響していたからである。
社会党の衰退は村山政権だけで説明できるのか
社会党は1996年1月に社会民主党へと党名を変更し、同年10月の衆議院総選挙では15議席となった。1990年の日本社会党136議席、1993年の70議席、1996年の社会民主党15議席という数字を並べれば、政治勢力として大幅に縮小したことは明らかである。しかし、この三つの数字を単純に比較し、その原因を村山政権への参加だけに求めるのは統計的にも歴史的にも適切ではない。
まず、1990年から1993年への議席減少は、村山政権成立以前に起きている。社会党の勢力低下は自社さ連立によって初めて始まったものではない。さらに1994年には小選挙区比例代表並立制を導入する政治改革が行われ、1996年の総選挙から新しい制度が適用された。小選挙区制では、各選挙区で最も多く得票した候補者だけが当選するため、支持が広く分散している政党は、得票率に比べて小選挙区の獲得議席が少なくなる可能性がある。一方、比例代表部分には別の議席配分の仕組みがあり、新制度の影響は単純なものではない。それでも、選挙制度の変更が政党の組織戦略や候補者調整に新しい圧力を与えたことは重要である。
さらに1996年には民主党が結成され、旧社会党系の議員の多くが新党へ移った。これは社民党の議席減少を考えるうえで極めて重要な要因である。新党へ移った議員が別の政党から当選した場合、社民党の議席は減少しても、それがすべて従来の社会党支持者の政治的な離反を意味するわけではない。政党組織の分裂や議員の所属変更と、有権者による支持の変化は、区別して分析しなければならない。
仮に自社さ連立がなかった場合、社会党がどの程度の議席を維持できたのかという問いについても、確実な答えを出すことはできない。歴史上、同じ社会党を同じ時期に二つ用意し、一方だけを自民党と連立させて比較することは不可能だからである。因果関係をより厳密に検証するには、連立前後の世論調査、政党支持率、労働組合の支持方針、候補者の移動、各選挙区の投票結果などを総合的に分析する必要がある。それでも、政界再編や選挙制度改革などが同時に進行していたため、連立そのものの独立した影響を完全に分離することは難しい。
したがって、「村山政権に参加したから社会党が消えた」という単純な因果関係を置くことはできない。しかし、自民党との連立と基本政策の転換が、社会党の存在理由を支持者に説明することを難しくした重要な要因の一つだったと考えることには合理性がある。首相の座を得ることと、政党として長期的に強くなることは同じではなかったのである。
自民党は首相の椅子を譲りながら、政権の中心へ戻っていった
一方、自民党のその後を見ると、村山政権の持つもう一つの意味が見えてくる。自民党は1993年8月に政権を失ったが、1994年6月には村山内閣の与党として政府へ復帰し、さらに1996年1月、村山が首相を退くと、後継首相になったのは自民党総裁の橋本龍太郎だった。
自民党が村山内閣に参加した意味は、閣僚構成にも表れている。村山内閣では、自民党の河野洋平総裁が副総理兼外務大臣に就任し、橋本龍太郎や野中広務、亀井静香らも閣僚として参加した。新党さきがけの武村正義代表は大蔵大臣となり、社会党からは五十嵐広三が内閣官房長官に就任した。首相こそ社会党の村山だったが、政権運営は三党によるものであり、特に議席数の多い自民党は、政府の政策決定に大きな影響力を持つ立場を回復していた。
1993年8月に非自民の細川政権が成立してから、1996年1月に自民党総裁の橋本が首相となるまで、およそ2年5か月である。この間、日本政治は、自民党中心の政権から非自民連立政権へ移り、そこから社会党首相の自社さ政権が成立し、最後には再び自民党総裁が首相となった。この流れを見ると、自民党が村山首班を受け入れた政治的な意味が理解できる。自民党は一度、首相の座を他党に譲ったが、その代わりに政権へ戻り、政権内部での影響力を回復した後、最終的には首相の座まで取り戻したのである。
もちろん、結果論だけで「自民党は最初から橋本政権の成立まで計画していた」と考えるべきではない。当時の政治情勢は流動的であり、村山政権がどの程度続くのか、その後の首相が誰になるのかを確実に予測できたわけではない。自民党内部でも村山首班に対する意見は一致していなかった。それでも、実際の結果から評価すれば、社会党委員長を首相として受け入れるという選択は、自民党が政権へ復帰するうえで有効に機能した。
政治では、目の前の首相の椅子を獲得することと、政権全体に影響力を持つことは必ずしも一致しない。議席数、閣僚ポスト、政策決定への参加、国会運営、将来の連立の組み合わせなど、複数の要素が政党の実質的な影響力を決定する。村山政権は、首相をどの政党が出すかという形式と、政権の中でどの政党がどれだけの力を持つかという実態を、分けて考える必要があることを示している。
なぜ「村山富市」だったのか
では、社会党委員長であれば誰でもよかったのだろうか。そこには村山富市という人物の政治姿勢も関係していた可能性がある。村山は、大分市議、大分県議を経て国政入りし、社会党内では調整型の政治家として評価されてきた。強い個人的な指導力によって周囲を従わせるというより、異なる立場の人々の意見を聞き、合意できる部分を探る政治姿勢を持つ人物だったと考えられる。
何十年も対立してきた自民党と社会党が同じ政府に入るとき、これは重要な資質になり得る。連立政権では、一つの政党が自党の政策をすべて実現できるわけではない。異なる政策理念を持つ政党が、何を優先し、どこまで妥協し、どの問題を将来の協議に残すのかを調整する必要がある。自分の構想を強力に押し通す指導者よりも、各党が一定の信頼を置き、首相として受け入れられる人物の方が適している場合がある。
ただし、「村山が調整型だったから自社さ政権が成立した」とまで断定することはできない。村山が社会党委員長だったという制度上の立場、社会党の議席数、三党間の政策協議、当時の政界再編など、複数の要因が重なっていたからである。仮に社会党の委員長が別の人物だった場合でも、同じような連立が成立した可能性は排除できない。村山という人物の性格だけで政権成立を説明することは、政治構造の重要性を見落とす危険がある。
それでも、村山の調整を重視する政治姿勢が、異質な三党から首相として受け入れられるうえで有利に働いたと考えることには合理性がある。村山は自分一人の巨大な政治構想によって首相になったというより、日本政治の構造変化の中で、社会党の委員長という立場と個人の政治姿勢が、三党連立の成立条件に適合した人物だったと理解する方が適切だろう。その意味で、村山富市は1994年という政治状況が生み出した首相でもあった。
55年体制の崩壊は、政治の何を変えたのか
村山政権の成立を理解するうえで、もう一つ重要なのが選挙制度の変化である。戦後長く続いた衆議院の中選挙区制では、一つの選挙区から複数の議員が当選していた。そのため、自民党は同じ選挙区に複数の候補者を立て、党内派閥や後援会が競争する構造を形成していた。一方、社会党も一定の組織的支持基盤を持つことで、政権を獲得しなくても国会内で相応の議席を維持することができた。
しかし、1994年の政治改革によって小選挙区比例代表並立制が導入され、1996年の衆議院総選挙から実施されることになった。小選挙区では一つの選挙区から一人しか当選できないため、各政党には候補者の一本化や、より広範な有権者の支持を得る戦略が求められる。この制度変更は、政党の合併や協力関係の形成を促す一つの要因になり得る。ただし、比例代表部分も存在するため、すべての政治勢力が二大政党へ統合されるとは限らず、実際の影響は政党の支持分布や選挙協力の仕組みに左右される。
このような制度変化を考えると、1994年の政界再編は、単にどの政党が内閣に参加するかという問題にとどまらなかったことが分かる。政治家たちは、従来の選挙制度と政党構造を前提にした政治から、新しい制度の下での政党間競争へ移行しようとしていた。新生党などによる新しい政治勢力の形成も、自民党の政権復帰戦略も、社会党の連立参加も、こうした大きな制度変化と切り離して考えることはできない。
ただし、選挙制度改革だけが村山政権を生んだわけではない。選挙制度の変更は政党再編を促す構造的な条件であり、実際に自民党と社会党が連立するという選択には、政治家間の交渉、政策協議、党内の意思決定、当時の議席構成などが直接関係していた。制度が政治家の選択肢を変え、その選択肢の中から政治家が具体的な連立を選んだという二つの段階を区別する必要がある。
村山政権は「自民党と社会党が仲良くなった政権」ではない
結局、村山富市が社会党委員長でありながら自民党と連立し、総理大臣になった理由を、「自民党と社会党が和解したから」と説明することはできない。むしろ、自民党と社会党を長年対立させてきた55年体制の方が先に崩れたのである。1993年の選挙を前に自民党は分裂し、総選挙では単独過半数を回復できなかった。一方、社会党も大幅に議席を減らし、両党を中心とした政治構造は大きく変化した。細川非自民連立政権が生まれたものの、参加政党の政策や政治的な目標は完全には一致せず、羽田政権では社会党が離脱した。その一方で、小沢一郎らを中心とする新しい政界再編が進み、社会党には新しい政治秩序の中で自らの位置を確保するという課題が生じた。
自民党には政権復帰という目的があり、社会党には政界再編の中で政策実現と政治的影響力を確保する必要があり、新党さきがけには両者を仲介しながら政治改革を進める役割があった。三党は同じ思想を持っていたわけではなく、それぞれの利害や政策目標が一定の範囲で一致したのである。そして、その協力を成立させる首相候補として村山富市が選ばれた。
政治学的に見れば、これは政党が理念だけで行動するわけではないことを示す事例である。政党には政策を実現したいという目的があり、政権に参加したいという目的があり、次の選挙で議席を維持・拡大したいという目的もある。これらの目的は常に一致するわけではなく、ときには政策上の妥協を受け入れることで政権参加を実現し、ときには首相の座を他党に譲ることで、より大きな政治的利益を得ることもある。ただし、合理的な戦略だったと説明できることと、当事者が実際にその計算だけで行動したことは同じではない。歴史を検証する際には、確認できる事実と、そこから導かれる政治的な解釈を区別する必要がある。
村山政権の成立とその後の経過からは、対照的な結果も読み取れる。社会党は首相の座を得たが、長年の基本政策を転換し、その後の政界再編の中で勢力を縮小させた。一方、自民党は首相の座を一度譲りながら政権に復帰し、1996年には再び自党総裁を首相にすることができた。ただし、社会党の衰退を自社さ連立だけで説明することも、自民党の政権復帰を最初から計画された成功として描くことも適切ではない。政治の結果には、各党の戦略だけでなく、選挙制度、支持基盤、政治家の移動、その後の政界再編など、複数の要因が作用していたからである。
だから1994年6月29日、自民党議員が社会党委員長の名前を投票用紙に書いたことは、単なる政界の珍事ではない。それは、日本政治の対立軸が従来の「自民党対社会党」という構図から、異なる政党間の競争と連立の組み合わせへ移り始めたことを示す象徴的な出来事だった。昨日まで最大の対立相手だった政党と組まなければ、明日の自分たちの立場を確保できない。そのような状況になれば、政治家は従来の常識とは違う選択をすることがある。
政治を動かすものは理念だけではない。議席があり、政権があり、政策実現の可能性があり、政党の存続があり、次の選挙があり、政界再編の主導権がある。それらが複雑に絡み合ったとき、何十年も敵対してきた二つの政党が、一つの内閣をつくることさえある。
村山富市が社会党委員長でありながら自民党と組んで総理大臣になったことを、単に不思議な政治的事件として見るだけでは不十分である。本当に見るべきなのは、そのような政権を生み出すほど、1993年から1994年にかけて日本政治の古い秩序が変化していたということである。村山政権は、政治の左右が突然仲良くなった物語ではない。戦後政治を支えてきた地図が描き替えられる中で、それぞれの政党が次に立つ場所を探し、異なる利害と政策目標を調整した結果として生まれた政権だったのである。




