地域政経

九条レオンの地域から社会と政治・経済のこれからを考える

 1994年6月29日、日本の国会では、戦後政治の常識から見れば奇妙としか言いようのない首相指名選挙が行われていた。候補者の一人は日本社会党委員長の村山富市であり、その村山を首相にしようとしていた最大の政治勢力は、社会党が長年にわたって対決してきた自由民主党だった。自由民主党と日本社会党は、1955年に成立したいわゆる「55年体制」の中で、日本政治の左右を代表する二大勢力として向かい合ってきた。日米安全保障条約、自衛隊、憲法、防衛政策、経済政策をめぐって両党は激しく争い、自民党が政権を担えば、社会党は最大野党としてそれを批判する。その対立構造はあまりに長く続いたため、多くの有権者にとって、自民党と社会党が同じ政権に入ること自体が想像しにくい出来事だった。

 しかも、首相になる村山は社会党の一議員ではない。党の最高責任者である委員長だった。その村山の名前を、自民党議員たちが首相指名選挙の投票用紙に書いたのである。なぜ、そんなことが起きたのか。自民党と社会党の思想が突然近づいたからではない。長年の対立を忘れて和解したからでもない。むしろ逆であり、1993年から1994年にかけて、それまで両党を対立させていた日本政治そのものの土台が崩れ始めたことこそが、村山政権誕生を理解する鍵になる。

自民党が敗れた選挙で、社会党も敗れていた

 物語は1993年に始まる。それまで自民党は、1955年以来、多少の揺れはありながらもほぼ一貫して政権の中心にいた。ところが政治改革をめぐる党内対立が激化し、小沢一郎や羽田孜らが自民党を離党して新生党を結成する。宮沢喜一内閣に対する不信任決議案には自民党からも造反者が出て、衆議院は解散された。そして1993年7月18日の総選挙で、自民党は223議席にとどまり、単独過半数を失う。

 ここまでなら、「自民党が敗れて野党が勝った選挙」と説明したくなるが、実際の選挙結果はもっと複雑だった。それまで最大野党だった社会党も、前回の136議席から70議席へと大幅に議席を減らしていたのである。つまり、有権者が自民党から社会党へ政権を渡そうとしたわけではない。自民党と社会党という、戦後政治を長く支配してきた二つの巨大な柱が同時に揺れ、その間から新しい政治勢力が一気に伸びてきたのである。

 新生党、日本新党、新党さきがけといった新党が存在感を増し、公明党や民社党なども加わって、自民党を政権から外す新しい連立の枠組みがつくられた。その結果、日本新党代表の細川護熙を首相とする非自民連立政権が誕生し、1955年以来続いてきた自民党中心の政権は、ここでいったん途切れた。しかし、細川政権には誕生した瞬間から矛盾があった。参加していた政党の政治理念はかなり違っており、社会党と新生党では、安全保障政策も経済政策も政治改革に対する考え方も同じではない。公明党、民社党、日本新党、新党さきがけも、それぞれ異なる政治的背景を持っていた。

 彼らを強く結びつけていた最大の共通項は、「自民党を政権から降ろす」という目的だった。ところが、その目的が達成されると、次の問題が現れる。自民党を倒した後、どのような政治をつくるのかという問いである。ここでは意見が一致していなかった。共通の敵がいる間は一緒に戦うことができるが、その敵がいなくなった瞬間、昨日まで見えなかった味方同士の違いが急に大きくなる。非自民連立政権が抱えていたのは、まさにその問題だった。

細川政権の後で始まった「次の政界」をめぐる争い

 細川護熙は政治改革を実現したものの、政治資金をめぐる問題などから1994年4月に退陣し、後継首相となったのが羽田孜だった。しかし羽田政権は、発足前から大きくつまずいた。新生党、公明党、日本新党、民社党などが「改新」という院内会派を結成したのである。その枠組みに社会党は入っていなかった。

 これを単なる国会内の会派再編と考えると、当時の社会党が受けた衝撃を見落とす。社会党にとって問題だったのは、自分たちが外されたことだけではない。その背後で、新生党の小沢一郎らを中心に、社会党を含まない新しい政治勢力が形成される可能性が見え始めたことだった。もっとも、「社会党は小沢一郎を恐れていた」と一言で断定するのは正確ではない。社会党内部にもさまざまな立場があり、すべての議員が同じ動機で動いていたわけではないからである。

 ただ、政治構造として見れば、社会党が置かれていた状況はかなり厳しかった。1993年の総選挙ですでに70議席まで後退している。さらに新生党、公明党、日本新党、民社党などが大きな政治勢力へまとまれば、かつて自民党と並んで日本政治を代表した社会党が、新しい政界再編の中で存在感を失う危険があった。そして、この懸念が単なる空想ではなかったことは、その年の暮れに明らかになる。1994年12月、新生党、公明党系勢力、日本新党、民社党などが参加して巨大な新進党が結成されたからである。

 つまり1994年春の段階で、日本政治ではすでに、「自民党対社会党」という古い構図とは別の競争が始まっていた。誰が次の政界再編を主導するのかという争いである。社会党はその争いの中で、自分たちが脇へ押しやられる可能性に直面していた。「改新」の結成を契機として社会党は羽田政権から離脱し、その結果、羽田内閣は少数与党となる。ここで、日本政治の力関係がもう一度変わり、前年に政権を失った自民党に、思いがけない機会が訪れた。

自民党が欲しかったのは「村山首相」よりも政権復帰だった

 自民党から見れば、1993年の下野は極めて大きな事件だった。長年にわたって政権を担ってきた政党が、突然野党になったのである。自民党としては当然、政権への復帰を目指す。しかし、自民党単独では衆議院の過半数に届かない。そこで重要になったのが、社会党と新党さきがけだった。

 自民党と社会党が組めば、国会の勢力関係は一気に変わる。羽田政権を支えていた勢力を政権から外し、自民党が再び政府に参加する道が開ける。ただし、社会党が自民党総裁を首相にして連立に入ることは容易ではない。社会党の立場からすれば、長年最大の敵として戦ってきた自民党の総裁を首相にするために連立するのでは、支持者への説明が極めて難しい。

 そこで自民党が切ったカードが、社会党委員長の村山富市を首相候補として支持するというものだった。これは自民党にとって非常に大きな譲歩だったが、政治権力は首相の椅子一つだけでできているわけではない。閣僚を送り込み、政策決定に参加し、国会運営を担い、官僚機構との関係を回復し、政権与党として政治の中心へ戻る。それらを考えれば、首相の座を社会党に譲る代わりに自民党が政権へ復帰するという選択には、十分な合理性があった。

 したがって、「自民党は村山を首相にしたかった」とだけ考えると本質を見誤る。より正確には、村山を首相として受け入れることによって、自民党は政権へ戻る可能性を手にしたのである。それは同時に、社会党を自民党側へ引き寄せることで、細川政権を生んだ非自民連合を完全に崩し、小沢一郎らを中心として進みつつあった非自民勢力の再編を野党側へ押し戻すという効果も持っていた。後から見れば、自民党が首相の椅子を一度譲ったことは、政権そのものを取り戻すための極めて効果的な選択だったことが分かる。

社会党も「自民党と組む」という常識外れの選択をした

 しかし、自民党側の事情だけでは村山政権は成立しない。社会党にも連立を受け入れる理由があった。もちろん、自民党と組むことには大きな抵抗があった。社会党にとって自民党は、何十年にもわたって批判してきた相手であり、支持者の多くも、自民党政治に対抗する政党として社会党を支持してきたからである。

 それでも、自民党との連立という選択肢が現実味を持ったのは、社会党がすでに別の危機に直面していたからだった。1993年の選挙で大幅に議席を失い、非自民連立政権の中でも主導権を握れない。さらに自分たちを外した政界再編が進めば、社会党は新しい政治秩序の中で埋没する可能性がある。自民党は長年の敵だったが、政治では、昨日の敵と明日の脅威が同じとは限らない。

 自民党と社会党は思想的に近づいたわけではなかったが、1994年という一点では利害が交差した。自民党には政権へ戻りたいという事情があり、社会党には政界再編の中で存在感を失いたくないという事情があった。そして新党さきがけには、旧来の巨大政党と新党勢力の双方から一定の距離を取りながら、政治改革を進める位置を確保したいという思惑があった。理念の違う三党が同じ方向を向いたわけではない。それぞれ別の方向から歩いてきた三党が、たまたま同じ交差点に到着したのである。その交差点に立っていた人物が、村山富市だった。

1994年6月29日、政治の左右が入れ替わった夜

 羽田内閣の退陣を受け、1994年6月29日に首相指名選挙が行われた。候補者は村山富市と、元自民党総裁で元首相の海部俊樹だった。ここには、当時の政界再編の異様さが凝縮されている。自民党議員の多数が社会党委員長の村山に投票し、その村山に対抗する側が、かつて自民党総裁だった海部を担いだのである。政党名だけを見ていると、どちらが自民党側なのか分からなくなるような構図だった。

 衆議院の第1回投票では、村山241票、海部220票となり、過半数を得た候補はいなかったため決選投票に入り、結果は村山261票、海部214票となった。こうして村山富市が内閣総理大臣に指名され、社会党からは片山哲以来47年ぶりとなる首相が誕生した。ただし、この首相指名に至る過程は、後世から見るほど整理されたものではない。

 当時の関係者の証言や記録には、首班指名前にどの程度まで三党間の連立合意が完成していたのかについて、ニュアンスの違いが残っている。自民党側の記録では、首相指名前から村山を首班とする連立政権について相当程度の政治的合意が進んでいたとされる一方、後に菅直人は国会で、首班指名の段階では自民党を含めた詳細な三党合意が完成していたわけではなく、社会党と新党さきがけの政策協議が先行していたという趣旨の説明をしている。

 したがって、「何の合意もないまま突然自民党が村山に投票した」と考えるのも、「詳細な連立協定がすべて完成した後に予定通り村山を選んだ」と考えるのも、実態を単純化し過ぎている。より現実に近いのは、村山を首班とする政治的合意は首相指名前から進んでいたが、三党政権としての政策や具体的な枠組みは、その前後に急速に詰められていった、と見ることだろう。当時の日本政治が、それほど流動的だったということである。こうして自由民主党、日本社会党、新党さきがけによる、いわゆる「自社さ連立政権」が成立した。

総理大臣になった瞬間、社会党は野党ではいられなくなった

 しかし村山にとって、本当に難しい政治はここから始まった。社会党は長年、自衛隊や日米安全保障体制について自民党とは大きく異なる立場を取ってきた。ところが政府に入れば、政府として二つの安全保障政策を同時に持つことはできない。自民党は自衛隊を合憲とし、日米安全保障条約を日本外交の基軸と考える一方、社会党は長くそれに批判的な立場を取ってきた。同じ政権に入る以上、どこかで折り合いをつけなければならなかった。

 村山は首相になると、自衛隊を憲法上認められる存在とし、日米安全保障体制を堅持する立場を明確にしていく。これは社会党にとって極めて大きな政策転換だったが、この変化を「村山が首相になった途端、突然それまでの主張を捨てた」と理解するのも正確ではない。冷戦終結など国際環境が大きく変化する中で、社会党内部ではそれ以前から安全保障政策の見直しをめぐる議論が進んでおり、村山自身も後に、党内で数年前から議論が続いていた趣旨を国会で説明している。

 それでも、野党として議論することと、政府として結論を出すことの間には大きな違いがある。野党であれば、「政府の政策に反対する」という立場を取ることができるが、首相になれば、「では日本政府としてどうするのか」という答えを出さなければならない。村山政権は社会党に、長年先送りすることができた問いへの回答を迫り、その回答は結果として社会党自身の姿を変えていった。

社会党は首相を得たが、自民党との違いを説明することが難しくなった

 村山政権の成立直後だけを見れば、社会党は大きな成果を得たように見える。何しろ自民党を差し置いて、自党の委員長が総理大臣になったのである。しかし政治の勝敗は、その日の首相指名だけでは決まらない。社会党は政権を担うことによって、自衛隊や日米安全保障体制など、それまで党の重要な特徴を形成してきた政策を修正した。それは現実の政府を運営するためには必要な選択だったとも言えるが、支持者から見れば別の疑問が生まれる。

 社会党が自民党と同じ政府に入り、自衛隊を認め、日米安全保障体制も認めるのであれば、自民党と社会党の違いはどこにあるのか。この問題が社会党の支持基盤に影響したことは否定できない。ただし、その後の社会党の衰退を自社さ連立だけで説明するのは単純すぎる。労働組合を中心とする旧来の支持基盤の変化、新しい選挙制度の導入、政界再編の進行、そして1996年の民主党結成による多数の議員の移動など、複数の要因が同時に作用したからである。

 社会党は1996年に社会民主党へ党名を変更し、同年の衆議院総選挙では議席をさらに減らした。したがって、「村山政権に参加したから社会党が消えた」と単純な因果関係を置くことはできない。しかし、自民党との連立と基本政策の転換が、社会党の存在理由を支持者に説明することを難しくした重要な要因の一つだったことは確かだろう。首相の座を得ることと、政党として強くなることは同じではなかったのである。

自民党は首相の椅子を譲りながら、政権の中心へ戻っていった

 一方、自民党のその後を見ると、村山政権の持つもう一つの意味が見えてくる。自民党は1993年8月に政権を失ったが、1994年6月には村山内閣の与党として政府へ復帰し、さらに1996年1月、村山が首相を退くと、後継首相になったのは自民党総裁の橋本龍太郎だった。

 わずか二年半ほどの間に、自民党単独を中心とする政権から非自民政権へ移り、そこから社会党首相の自社さ政権が成立し、最後には再び自民党総裁が首相に戻ったことになる。この流れを見ると、自民党が村山を首相として支持した意味がよく分かる。自民党は一度、首相の座を他党へ譲ったが、その代わりに政権へ戻り、政権内部で存在感を回復した後、最終的には首相の座まで取り戻したのである。

 もちろん、結果論だけで「最初からそこまで計画されていた」と考えるべきではない。当時の政治はそれほど予測可能ではなかった。それでも、自民党にとって村山首班を受け入れることが、政権復帰への有効な戦略になったことは疑いにくい。政治では、目の前の椅子を取った者が最終的な勝者とは限らない。ときには一つの椅子を譲ることで、部屋そのものへ戻ることができる。1994年の自民党は、それを実行した。

なぜ「村山富市」だったのか

 では、社会党委員長であれば誰でもよかったのだろうか。そこには村山富市という人物の性格も影響したと考えられる。村山は、華々しい権力闘争によって頭角を現した政治家ではなかった。大分市議、大分県議を経て国政入りし、党内では調整型の政治家として歩んできた。強烈なカリスマ性で周囲を従わせるというより、対立する人間の間に入って合意点を探すタイプだった。

 何十年も対立してきた自民党と社会党が同じ政府に入るとき、これは意外に重要な資質になる。自分の構想を強力に押し通す指導者よりも、互いに異なる政党が「この人物なら首相として受け入れられる」と考えられる人物の方が適している場合があるからだ。もちろん、「村山だったから自社さ政権が成立した」と証明することはできない。歴史に別の村山政権を用意して比較実験をすることはできないからである。

 しかし少なくとも、村山の調整型の政治姿勢が、自民党、新党さきがけ、社会党という異質な三党から首班として受け入れられるうえで有利に働いた、と考えることには十分な合理性がある。村山は自分一人の巨大な政治構想によって首相になったというより、日本政治の巨大な構造変化の中で、「この人物なら三党が同じ政府に入れる」と判断されたことによって首相へ押し上げられた。その意味で、村山富市は1994年という時代そのものが生み出した首相でもあった。

村山政権は「自民党と社会党が仲良くなった政権」ではない

 結局、村山富市が社会党委員長でありながら自民党と連立し、総理大臣になった理由を、「自民党と社会党が和解したから」と説明することはできない。むしろ、自民党と社会党を長年対立させてきた55年体制の方が先に壊れたのである。1993年の選挙で自民党は過半数を失い、社会党も大幅に議席を減らした。細川非自民連立政権が生まれたものの、参加政党の理念は大きく異なり、羽田政権では社会党が離脱した。その一方で、小沢一郎らを中心とする新しい政界再編が進み始め、社会党には新しい政治秩序の中で埋没する危険が生じた。

 自民党には政権復帰という目的があり、社会党には政界再編の中で自らの位置を確保する必要があり、新党さきがけには両者を仲介しながら政治改革の方向性を維持する思惑があった。三党は同じ思想を持っていたわけではなく、それぞれの利害が一時的に一致したのである。そして、その一致を成立させる首相候補として村山富市が選ばれた。

 だから1994年6月29日、自民党議員が社会党委員長の名前を投票用紙に書いたことは、単なる政界の珍事ではない。それは、日本政治の座標軸が「自民党対社会党」から別のものへ移り始めたことを示す象徴的な出来事だった。昨日まで最大の敵だった政党と組まなければ、明日の自分たちの立場を守れない。そのような状況になれば、政治家は昨日までとは違う選択をする。

 政治を動かすものは理念だけではない。議席があり、政権があり、政党の生存があり、次の選挙があり、政界再編の主導権がある。それらが絡み合ったとき、何十年も敵対してきた二つの政党が、一つの内閣をつくることさえある。

 村山富市が社会党委員長なのに自民党と組んで総理になったことが、不思議なのではない。本当に見るべきなのは、そのような政権を生み出すほど、1993年から1994年にかけて日本政治の古い秩序が崩れていたということである。村山政権は、左右が突然仲良くなった物語ではない。戦後政治を支えてきた地図が破れ、その破れた地図の上で、それぞれの政党が次に立つ場所を探した結果として生まれた政権だったのである。

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野中広務という政治家を振り返るとき、奇妙な事実に気づく。総理大臣にはならなかった。自民党総裁にもならなかった。国会議員になったのは1983年、すでに57歳になってからである。若くして国政へ入り、当選回数を重ね、派閥の階段を上りながら首相を目指すという、戦後自民党政治の典型的な出世コースから見れば、むしろ遅すぎる出発だった。

それにもかかわらず、1990年代後半から2000年代初めの永田町では、野中の名前を抜きに重要な政局を語ることが難しい時期があった。小渕恵三政権では内閣官房長官として連立政権形成に深くかかわり、その後は自民党幹事長として党内を動かした。「影の総理」とまで呼ばれたことがあるのも、後世につくられた誇張だけではない。野中自身の回顧録も、そのように呼ばれた政治家の記録として紹介されている。

では、総理でも総裁でもなかった男が、なぜそこまで大きな力を持つことができたのだろうか。

答えを「裏工作が巧みだったから」の一言で片づけることは簡単である。しかし、それでは野中広務という政治家の本質を取り逃がす。彼の強さは、権力の頂点に立つことよりも、権力が実際に動く場所を知っていたことにあった。そして、その感覚を身につけたのは東京の永田町ではない。京都の地方政治だった。

永田町とは遠いところから始まった政治家

野中は1925年、京都府船井郡園部町、現在の南丹市園部地域に生まれた。旧制京都府立園部中学校を卒業すると鉄道省大阪鉄道局に入り、戦争末期には召集を経験した。戦後に職場へ戻ったのち、1951年に園部町議会議員となり、1958年には園部町長に就任する。その後も京都府議会議員、京都府副知事を務め、1983年に衆議院議員へ転じるまで、30年以上を地方政治と地方行政の中で過ごした。同志社大学に残る略年譜でも、この長い地方政治歴を確認できる。

この経歴は、単なる履歴書の前半ではない。後の野中政治を形づくる訓練期間そのものだったと考えた方がよい。

町長の仕事には、華やかな演説より先に、道路があり、学校があり、福祉があり、災害がある。限られた予算をどこへ配分するのかを決めれば、必ず得をする地域と後回しになる地域が生まれる。住民の要望を聞くだけでは行政は動かず、議会をまとめ、役所を動かし、京都府や国との関係をつくらなければならない。

そこで求められるのは、理想を語る能力だけではない。相手が何を望み、どこまでなら譲り、何だけは譲らないのかを読む能力である。

野中が後に永田町で発揮した「調整力」を、地方政治経験だけで説明することはできない。しかし、地方行政の現場で長く利害の衝突を処理してきた経験が、その政治技術の重要な基盤になったと考えることには十分な合理性がある。

ただし、野中が地方から持ってきたものは、単なる調整術だけではなかった。

京都では長く蜷川虎三知事による革新府政が続き、自民党が中央政府では与党でありながら、京都では思うように主導権を握れない時代が続いた。つまり野中は、自分たちが常に多数派である政治だけを経験してきた人物ではない。相手側にも権力があり、自分たちだけでは何も決められない政治を知っていた。

この経験が後年、意外な意味を持つことになる。

57歳の新人議員は、本当の意味では新人ではなかった

1983年、旧京都2区で前尾繁三郎と谷垣専一の死去に伴う衆議院補欠選挙が行われ、野中は谷垣禎一とともに初当選した。谷垣自身も後年、国会でこの補欠選挙について証言している。

57歳の初当選は、自民党政治家として考えれば遅い。しかし、ここには数字の錯覚がある。

国会議員としては一年生でも、政治家としてはすでに30年以上の経験があった。町議として選挙を知り、町長として行政を知り、府議として議会を知り、副知事として巨大な行政組織の内部を知っている。若い国会議員が永田町で一から学ぶべき事柄のかなりの部分を、野中は別の場所ですでに経験していた。

そのため野中の国政入りは、57歳から政治家人生を始めたというより、地方で身につけた政治技術を国という一段大きな舞台へ移した出来事だったと見る方が実像に近い。

しかし、それだけなら地方行政に詳しいベテラン政治家で終わっていたかもしれない。野中を中央政界の実力者へ押し上げたもう一つの条件は、本人の経歴ではなく、日本政治そのものの変化だった。

1989年から、日本政治のルールが少しずつ変わった

戦後自民党政治を語るとき、1993年の政権交代は大きな断層として記憶されている。細川護熙を首相とする非自民政権が成立し、自民党が1955年以来初めて本格的に野党へ転落したからである。

しかし、変化はその4年前から始まっていた。

1989年の参議院選挙で自民党は大敗し、参議院の単独過半数を失った。これによって、衆議院で多数を持つだけでは法律を安定して成立させにくい状況が生まれ、与野党間の協議や修正交渉の重要性が増していった。政治学的に見れば、1993年に突然連立政治の時代が始まったのではなく、1989年から従来の自民党単独支配の仕組みが徐々に変質していたのである。

これは野中にとって重要な環境変化だった。

自民党が衆参両院で安定多数を持つなら、最も重要なのは党内の派閥や政策部門をまとめる能力である。しかし自民党だけでは決められなくなると、必要な技術が変わる。党内だけではなく、昨日まで敵だった野党の事情まで理解し、その相手と合意をつくらなければ政権を動かせなくなるからである。

野中が地方政治で経験してきたのは、まさにそうした世界だった。

ここで重要なのは、「地方政治を経験したから野中は成功した」と単純な原因と結果で結ばないことである。地方政治家出身者の全員が中央政界の実力者になったわけではない。野中自身の人間関係、旧田中派から竹下派へ続く党内基盤、国会対策での経験、選挙制度改革、政界再編、そして本人特有の記憶力や交渉力など、複数の条件が重なっている。

それでも、地方で培った調整型の政治技術と、1990年代に訪れた「一党だけでは決められない政治」が非常によく適合したという見方は、野中の急速な台頭を説明する有力な仮説になる。

自民党が野党になったとき、野中の経験が生きた

1993年、自民党は下野した。細川政権、続いて羽田孜政権が成立し、長く政権担当を当然の前提としてきた自民党は、突然野党になった。

その翌年、政治史に残る組み合わせが誕生する。

自民党、日本社会党、新党さきがけによる自社さ連立である。

社会党は長年、自民党最大の対抗勢力だった。その社会党の村山富市委員長を首相に担ぎ、自民党が政権へ復帰するという構図は、それまでの左右対立だけで政治を見ていた人々には理解しにくいものだった。

しかし、連立政治とは本来そういうものである。

政策が完全に一致する相手としか協力できないなら、連立そのものが成立しない。どこを譲り、何を共有し、どこを棚上げするかという取引の積み重ねによって、初めて政権は形になる。

野中は、この自社さ連立の形成過程で重要な役割を担い、村山内閣では自治大臣兼国家公安委員会委員長として初入閣した。ただし、村山政権は野中一人がつくった政権ではない。河野洋平、森喜朗、亀井静香、村山富市、武村正義ら多くの政治家が動いた結果であり、野中はその一角を占めた重要な調整者だったと見るのが適切だろう。

野中の価値が高まったのは、まさにこの「誰も一人では決められない政治」が常態化していったからだった。

小渕政権で「影の実力者」は完成した

野中広務の政治力が最も鮮明に表れたのは、小渕恵三政権である。

1998年の参議院選挙で自民党は敗北し、再び参議院で厳しい少数状態に置かれた。そこで小渕が官房長官に起用したのが野中だった。自民党の公式党史も、野中について「野党との交渉に辣腕が期待された」と記している。

ここで野中は単なる政府の報道官ではなくなる。

小渕政権を安定させるには、自民党だけでは足りない。そこで政権は小沢一郎率いる自由党との連立へ向かい、1999年1月に自自連立政権が成立する。同年10月には公明党も加わり、自自公連立へ発展した。自民党史でも、小渕首相、野中官房長官、自民党執行部が参議院での過半数割れを克服するため政権基盤の強化を模索した経緯が記されている。

興味深いのは、野中にとって小沢一郎が決して気心の知れた仲間ではなかったことである。

政治的対立があっても、必要であれば交渉する。昨日まで敵だった相手でも、今日の国会を動かすために必要なら同じ席につく。

そこには、理念がないのではない。

むしろ「政治は結果を出さなければ存在しない」という、地方行政出身者らしい現実感覚があったように見える。

この政治を節操のない権力維持と見ることもできるし、議会制民主主義に不可欠な妥協の技術と見ることもできる。おそらく野中政治の評価が現在まで割れるのは、この二つを簡単に分離できないからだろう。

それでも一つだけ確かなことがある。

首相が小渕恵三であっても、その政権を成立させる議席を誰がどう集め、どの党との間に橋を架けるかという作業を担う人物の影響力は極めて大きい。正式な地位以上に、表から見えにくい調整過程で巨大な影響力を持ったことが、「影の実力者」「影の総理」という野中の人物像につながったと考えることができる。

野中の権力は「人間を一人で見ない」ことから生まれた

野中の強さを、単純な人脈の広さだけで説明するのも十分ではない。

彼が見ていたのは、一人の国会議員だけではなかった。その議員の後ろにある選挙区、後援会、地方議員、支援団体、派閥、そして次の選挙まで含めて、一つの政治的なネットワークとして見ていた。

この特徴が最も劇的に表れたのが、2000年の「加藤の乱」だった。

森喜朗内閣に批判的だった加藤紘一と山崎拓が、野党提出の内閣不信任決議案への対応をめぐって倒閣を図った。表面だけを見れば、自民党内部の派閥抗争である。しかし実際の攻防は、国会議員本人だけに対する説得では終わらなかった。党執行部は公認権や次の選挙を背景に造反予定者への切り崩しを進め、野中もその中心人物の一人として動いた。

ここでも、「野中が一人で加藤の乱を潰した」と考えるのは正確ではない。加藤派内部の温度差、選挙への不安、党公認を失う危険、森派や党執行部全体の動きなど、複数の要因が重なったからこそ倒閣運動は崩れた。

しかし、その複雑な構造を利用して一人ずつ切り離していく政治技術こそ、野中が最も得意としたものだった。

議員に直接「反対するな」と命じるだけではない。その人間が何によって政治家として存在しているのかを調べ、そこへ働きかける。

園部町から永田町まで半世紀近く政治を続けてきた男が最後に身につけていたのは、政治家を見る技術というより、政治家を取り囲む関係を見る技術だったのである。

「影」という言葉には、称賛だけではなく不気味さもある

もっとも、「影の実力者」という表現を格好のよい称号として扱うだけでは、野中政治の半分を見失う。

影で政治を動かすとは、別の言い方をすれば、有権者から見えない場所で重大な決定が行われることでもある。

誰と誰が会い、どのような条件が示され、どこまで譲歩し、その代わりに何を得たのか。派閥、後援会、地方組織、官僚組織、業界団体が複雑につながる政治では、結果は見えても、その過程が国民から十分には見えないことがある。

野中は相手の事情を理解する調整型政治家であると同時に、必要と考えれば党組織と権力を強く使う政治家でもあった。

つまり包容と圧力は、互いに矛盾する性質ではない。

相手が何を恐れているかを理解できるからこそ、説得もできるし、圧力もかけられる。相手の弱点を知らなければ妥協点もつくれないが、その弱点を知れば政治的な武器にもなる。

野中政治の魅力と怖さは、実は同じ場所から生まれている。

だから「実力者」という言葉だけでは足りなかったのだろう。「影」という言葉は、正式な肩書以上の影響力だけではなく、その権力が見えにくいところから働いていたことまで含んでいる。

権力を使いながら、権力を警戒した政治家

ここで野中広務という人物をさらに複雑にするのが、彼が単純な権力至上主義者ではなかったことである。

戦争体験を持ち、地方政治では福祉行政にも深く関わり、国政では沖縄問題や差別の問題について繰り返し発言した。権力を行使する側に立ちながら、国家権力が弱い立場の人間に何をするかという問題に敏感だった人物として評価されることも多い。

しかし、だからといって平和主義者、弱者の味方という言葉だけで整理してしまえば、逆方向の美化になる。

野中は政権担当者であり、国家公安委員会委員長にも官房長官にもなった。沖縄では米軍基地問題を抱える政府側の政治家として現実の政策決定に関与している。理想だけを語り、その結果について責任を負わない立場ではなかった。

そこに野中という政治家の独特な矛盾がある。

権力の危険を知っている。しかし、政治を動かすためにはその権力を使う。

弱者への視線を持つ。しかし政権を守るためなら、反対する政治家へ強い圧力をかける。

敵の事情を理解する。しかし必要なら、その事情を利用して相手を切り崩す。

この矛盾を偽善と呼ぶこともできる。しかし政治とは本来、理念だけでなく結果への責任を引き受ける仕事だと考えるなら、そこに野中政治の現実主義を見ることもできる。

小泉純一郎の登場で、政治の「見せ方」が変わった

2001年、小泉純一郎が自民党総裁となり首相に就任すると、永田町の空気は大きく変わった。

もちろん、野中時代には調整しかなく、小泉時代には対決しかなかったというほど政治は単純ではない。小泉も党内調整を行っていたし、野中も世論を無視していたわけではない。

それでも、政治の見せ方には明らかな違いがあった。

野中型の政治では、対立する相手と水面下で交渉し、最終的に一致点をつくることに価値があった。それに対して小泉は、対立を国民の前に見える形で示し、「改革に賛成するのか、反対するのか」と世論へ直接問いかける政治を得意とした。

調整の過程を見せないことが政治力だった時代から、対立そのものを見せることが政治力になる時代へ。

少なくとも政治コミュニケーションという点では、そんな変化が起きていた。

政治学的にも、小泉政権は1990年代の制度改革を背景として首相権力を強く行使した政権として分析されている。ただし、その小泉政権でさえ、参議院では青木幹雄ら党幹部との調整を必要としていた。したがって野中型政治が完全に消滅したのではなく、表舞台に立つ政治家と裏側で調整する政治家との力関係が変わったと見る方が正確である。

野中は2003年に国会議員を引退した。1951年の園部町議初当選から数えれば、半世紀を超える政治生活だった。

なぜ野中広務は「影の実力者」になれたのか

野中広務が「影の実力者」となった理由を一つに絞ることはできない。

地方政治で培った行政実務と利害調整の経験があり、旧来の自民党組織の人脈があり、政界再編の荒波を読む能力があり、そして1989年以降、日本政治そのものが一党だけでは決めにくい構造へ変化していった。

それらが重なったところに、野中という政治家の最盛期があった。

もし自民党が衆参両院で安定多数を持ち続けていたなら、野中ほどの調整型政治家があれほど大きな力を持ったかどうかは分からない。逆に、連立政権が必要になったとしても、誰もが野中のように異なる勢力をつなぐことができたわけでもない。

つまり野中の力は、個人の能力だけでも、時代だけでも説明できない。

野中広務という政治家の能力と、1990年代という政治環境が出会った結果だった。

多数を持つ者が強い政治では、調整役は目立たない。しかし誰も単独では決められない政治になると、最後の数票を集める者、昨日までの敵を同じテーブルへ連れてくる者、相手が何を恐れ、何を求めているかを知る者が、時として総理大臣以上の存在感を持つ。

野中は首相の椅子に座ったことはない。

けれども政治というものを、首相の椅子だけから眺めれば、その本当の構造は見えてこない。

演壇で政策を語る人間の背後には、議席を数える人間がいる。敵対する政党との間を歩く人間がいる。地方の事情を中央へ運ぶ人間がいる。誰も譲らない夜に、一人ずつ電話をかけ、どこまでなら折り合えるのかを探る人間がいる。

野中広務は、その仕事を知り尽くしていた。

京都の地方政治家として始まった男が、半世紀をかけてたどり着いたのは、総理大臣という権力の頂点ではなかった。

その頂点を支え、ときに揺らし、ときには誰をそこへ座らせるのかさえ左右する、表からは見えにくい政治の中枢だったのである。

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2026年2月8日の夜、岩手3区の選挙結果は、一人の政治家の敗北というだけでは片づけにくい光景をつくった。

1969年、27歳で初当選して以来、半世紀を超えて国会に議席を持ち続け、2024年には19回目の当選を果たした小沢一郎が、自民党の藤原崇に敗れた。2021年にも小選挙区では初めて藤原に敗れたが、そのときは比例代表で議席をつないだ。2024年には再び岩手3区を奪い返したものの、20回目の当選を目指して中道改革連合から立候補した2026年の総選挙では、小選挙区で敗れ、比例代表でも議席を得られなかった。83歳だった。

その長い政治生活を振り返ると、一人の政治家の履歴というより、日本の政党政治そのものが何度も形を変えてきた時代の地層を眺めているように感じられる。

小沢は政権をつくった。大きな政党もつくった。自民党を下野させ、野党をまとめ、自民党と連立を組み、その自民党を再び政権から引きずり下ろす流れにも中心人物として関わった。それなのに、小沢が力を注いでつくった政治的な器の多くは、やがて分裂するか、消えていった。

そのため、小沢一郎には「剛腕」と並んで「壊し屋」という言葉が付きまとってきた。

しかし、40年近い政界再編を一続きの歴史として眺めると、単に人間関係を壊し続けた政治家という説明では足りない。

むしろ、小沢は政党を壊すことそのものを目的にしていたのではなく、自分が正しいと考える政治の仕組みを実現するためなら、政党という器を取り替えることをためらわなかった政治家だった、と考えた方が理解しやすい。

そして、その考え方こそが、彼を何度も政権の設計者にし、同時に「壊し屋」と呼ばれる原因にもなった。

「剛腕」は自民党を壊すために生まれたのではない

小沢一郎という名前が全国的な権力政治と結びついて語られるようになったのは、1980年代の自民党である。

この時代の小沢は、後年のような反自民の政治家ではなかった。むしろ自民党の中枢にいた。

田中角栄のもとで政治を学び、竹下登、金丸信らと行動し、1985年には田中派内部から生まれた創政会の形成に関わった。その流れは1987年の竹下派・経世会へとつながっていく。田中派という巨大な組織の内部で新しい多数派をつくり、権力の重心そのものを動かしていった経験は、後年の小沢政治を考えるうえで重要である。

1989年8月、小沢は自民党幹事長に就任した。47歳だった。その後も1991年4月まで三期にわたって幹事長を務めている。自民党幹事長は、単なる党務の責任者ではない。候補者の擁立、選挙区の調整、党の資金、国会対策、派閥間の調整など、政党という巨大組織を実際に動かす仕事が集中する役職である。

ここで小沢が身につけたのは、演説によって人々を熱狂させる政治とは少し違った。

政治理念を実現するには議席が必要であり、議席を得るには候補者を立てなければならず、候補者を当選させるには組織と資金と選挙戦術が要る。そして最後には、国会の中で過半数をつくらなければ政策を実現できない。

政治とは理念であると同時に、数でもある。

田中角栄の政治を間近に見ながら、小沢はその現実を徹底して学んだ。

皮肉なのは、自民党という巨大な政党の中で覚えたその技術を、数年後には自民党そのものを政権から降ろすために使うことになる点である。

小沢が壊そうとしたのは、自民党より「政権交代のない政治」だった

1990年代初頭、日本政治を取り巻く風景は大きく変わっていた。

冷戦が終わり、湾岸戦争では巨額の資金を拠出しながら、日本の国際的な役割をどう考えるべきかという問題が残った。一方、国内ではリクルート事件や東京佐川急便事件などによって政治不信が高まり、自民党内部でも最大派閥だった経世会が分裂していく。

1992年には、小沢と羽田孜らが経世会を離れて独自のグループを形成した。

このころ、小沢が考えていたのは単なる派閥争いだけではなかった。

1993年に出版した『日本改造計画』に象徴されるように、彼は政治家が政策決定の責任を負い、有権者が選挙によって政権を選択し、失敗すれば別の勢力に政権を渡す仕組みを重視していた。小選挙区を軸とする選挙制度と、政権を競い合える二つの大きな政治勢力をつくるという構想は、その後も小沢自身が繰り返し語っている。

この発想に立つと、政党の意味も変わる。

政党は一生所属し続ける家ではない。

政治を実現するための器である。

器が目的を果たせないのであれば、作り替えればよい。

後に小沢が何度も政党を離れ、新党をつくり、さらに別の党へ合流していく背景には、この考え方がある。

もちろん、そこには本人の権力闘争や党内対立もあった。小沢の行動をすべて高尚な制度改革だけで説明するのも現実的ではない。

それでも、自民党という組織を守ることと、政権交代可能な政治をつくることが両立しなくなったとき、小沢が前者より後者を選んだことは、その後の行動を見る限り一貫している。

1993年、小沢は初めて自民党を政権から降ろした

1993年、宮沢喜一内閣に対する不信任決議案が衆議院で可決されると、小沢や羽田らは自民党を離れ、新生党を結成した。

総選挙後、自民党は単独過半数を失う。そこで小沢らが動き、日本新党の細川護熙を首相候補として、社会党、公明党、新生党など八党・会派による非自民連立政権を成立させた。

1955年以来、ほぼ一貫して政権の中心にいた自民党が下野した。

戦後日本政治の大きな転換点だった。

小沢自身は首相にならなかった。

その代わりに、首相をつくった。

この構図は、その後の小沢政治を考えるうえで象徴的である。

自分が表舞台の頂点に立つより、候補者を立て、勢力を組み合わせ、過半数をつくり、政権そのものを設計するところに異常なまでの力を発揮した。

ところが、政権を成立させることと、成立した政権を維持することは、同じ仕事ではなかった。

ここから「剛腕」と「壊し屋」が少しずつ同じ輪郭を持ち始める。

政権をつくる力は、時として政権を不安定にする力にもなった

細川政権を成立させた連立勢力は、「自民党政権を終わらせる」「政治改革を進める」という点では協力できた。

しかし外交、安全保障、税制、社会政策、さらには政権運営そのものについてまで同じ考えを持っていたわけではない。

自民党に代わる政権を一度つくるための合意と、一つの政権として何年も統治するための合意は、似ているようで違う。

小沢は前者を組み立てることには極めて強かった。

だが政治には、その後がある。

予算をつくり、政策の細部を詰め、連立各党の主張を聞き、昨日反対した相手とも翌日には妥協しなければならない。改革の速度を落とさなければ組織がついてこないこともある。

そこで必要になるのは「決める力」だけではない。

時には待ち、譲り、不満を抱えた仲間を同じ船に乗せ続ける力も必要になる。

細川政権は1994年4月に退陣したが、その直接的な背景には政治資金問題などもあり、政権崩壊を小沢一人の責任に帰すことはできない。

続く羽田孜政権についても事情は単純ではない。羽田政権発足直前に新生党などが統一会派「改新」を結成したことに社会党が反発して連立を離れ、羽田内閣は発足時から少数与党になった。約2か月後には退陣に追い込まれるが、ここにも社会党との対立、連立各党の利害、国会の議席構成など複数の要因が絡んでいる。

したがって、「小沢が細川政権や羽田政権を壊した」と単純に言うことは正確ではない。

それでも興味深いのは、こうした政権再編のほとんどの転換点に小沢がいたことである。

政権を誕生させる局面にもいた。

連立の組み替えにもいた。

崩れた後に次の政党をつくる場面にもいた。

小沢自身がすべてを壊したわけではない。しかし、政治が大きく動く場所に小沢が繰り返し現れたことが、「壊し屋」という印象を強くしたのである。

新進党という巨大な実験

非自民連立政権が崩れた後、小沢は諦めなかった。

むしろ、一度の連立では足りないと考えたように見える。

自民党に対抗できる本格的な大政党をつくらなければ、安定した政権交代は実現しない。

その考えの延長線上に、1994年12月の新進党結成があった。

新生党、公明系勢力、旧民社党系などが集まり、衆参両院に多数の国会議員を抱える巨大野党が誕生した。小選挙区を中心とする新しい選挙制度のもとで、自民党と真正面から政権を争うための器をつくろうとしたのである。

理念だけを見れば、小沢が1990年代初めから追っていた構想とよくつながっている。

ところが、大きな党をつくることはできても、その党に一つの政治文化を与えることは容易ではなかった。

旧自民党系、公明系、旧民社党系など、異なる歴史を持つ政治家たちが同居していた。自民党に対抗することでは一致していても、政策や組織運営についてすべてが一致するわけではない。

小沢の強力な指導力は、選挙を戦う場面では武器になったが、同時に「独断的だ」という反発を生む原因にもなった。

1996年の衆議院選挙で新進党は自民党から政権を奪えず、内部対立は深まっていく。

そして1997年12月、小沢党首のもとで新進党は解党へ向かった。

巨大な野党をつくった本人が、その巨大政党を解体する。

「壊し屋」という言葉が、小沢という政治家の代名詞になっていった大きな理由がここにある。

ただ、小沢の側から見れば違う論理もあったのだろう。

政権交代を実現するためにつくった器が、その役割を果たせなくなったのであれば、器そのものを残す理由はない。

問題は、その判断が他の政治家よりはるかに速かったことだった。

自民党を倒した男が、自民党と組んだ

1998年、小沢は自由党を結成した。

そして翌1999年、小渕恵三政権の自民党と連立を組む。

1993年に自民党を飛び出し、その自民党を政権から降ろす中心人物となった男が、わずか6年後には自民党政権に参加した。

この動きを「反自民の政治家」としてだけ見ると、理解しにくい。

しかし、「日本の政治システムを自分の考える方向へ組み替えたい政治家」として見ると、別の景色が見える。

小沢にとって、自民党を倒すこと自体が最終目的ではなかった。

必要なら自民党とも組む。

政策や制度を動かせるのであれば、その組み合わせを選ぶ。

実際、自民・自由両党の連立では、議員定数削減や副大臣・政務官制度、政府委員制度の廃止など国会・政治制度改革が議論された。後に公明党も加わり、自民・自由・公明の三党連立となる。

しかし、その連立も長くは続かなかった。

2000年4月、自民、公明、自由の党首会談で今後の政権運営について合意できず、自由党の連立離脱が決定的になる。一方、連立に残ることを望んだ自由党議員は保守党を結成し、自由党は分裂した。衆議院の公式記録にも、この経過が明確に残されている。

また一つ、小沢が率いた党が割れた。

だが、小沢はそこで政界の中心から消えなかった。

次に目を向けたのは、民主党だった。

自由党を消してでも、より大きな野党をつくる

2003年、小沢の自由党は民主党と合併した。

ここは、小沢政治を語るときに注意が必要なところである。

民主党を小沢がつくったわけではない。

民主党は自由党との合併以前から存在していた。

2003年9月24日、民主党代表の菅直人と自由党党首の小沢一郎が合併協議書に調印し、民主党を存続政党、自由党を解散政党として合併することが正式に決まった。国会の公式資料にも、その形が明記されている。

つまり小沢は、ここでも自分の政党を残すことにはこだわらなかった。

自由党という名前を守るより、自民党と政権を争える大きな野党をつくる方を優先した。

新生党をつくり、新進党をつくり、それを解体し、自由党をつくり、その自由党も民主党へ溶かしていく。

この動きを節操のなさと見ることもできる。

だが別の角度から見れば、政党を政治家の「家」と考えず、政権交代を可能にするための「器」と考えていた一貫性も見えてくる。

そして、この合併から6年後、小沢が長く追い続けた風景が現実になる。

首相にならない男が、二度「首相」に指名された

2006年、小沢は民主党代表に就任した。

翌2007年の参議院選挙では民主党が躍進し、参議院で第一党となる。

ここから、小沢の政治人生には少し奇妙な場面が生まれる。

2007年9月、安倍晋三首相の退陣を受けて後継首相を指名した際、衆議院は福田康夫を指名したが、参議院は小沢一郎を指名した。両院の指名が一致せず、両院協議会でも合意できなかったため、憲法の規定によって衆議院の議決が国会の議決となり、福田が首相になった。

翌2008年9月にも同じことが起きる。

福田内閣の総辞職を受けた首相指名で、参議院では最初の投票で過半数を得た候補がいなかったため、小沢一郎と麻生太郎による決選投票になった。その結果、小沢125票、麻生108票、白票7票となり、参議院は再び小沢を内閣総理大臣に指名した。

しかし衆議院では麻生が指名され、両院協議会でも一致しなかったため、最終的には衆議院の議決が優先され、麻生が首相となった。

小沢一郎は結局、一度も内閣総理大臣には就任しなかった。

それでも、日本の国会の一院からは二度にわたり首相に指名されている。

何人もの首相の誕生や退陣に関わり、自分自身は首相官邸に入らなかった小沢一郎という政治家を象徴する、不思議な史実である。

2009年、小沢が追い続けた政権交代が実現する

小沢が民主党代表として力を入れたのは、再び選挙だった。

地方を回り、候補者を擁立し、自民党の強い農村部にも候補者を立て、選挙区ごとの勝敗を積み上げていった。

かつて自民党幹事長として身につけた選挙の技術が、今度は自民党政権を終わらせるために使われた。

ただし、2009年の政権交代直前に、小沢は民主党代表を退くことになる。

この部分では、二つの政治資金事件を分けて考える必要がある。

2009年3月、西松建設からの政治献金をめぐる事件で、小沢の資金管理団体の会計責任者だった公設第一秘書が政治資金規正法違反容疑で逮捕され、後に起訴された。この問題をめぐる批判が続く中、同年5月、小沢は民主党代表を辞任した。

一方、その後、小沢本人が強制起訴された陸山会事件は、土地購入をめぐる政治資金収支報告書の記載をめぐる別の事件である。

小沢は一審で無罪となり、2012年11月には東京高裁も無罪判決を維持した。検察官役の指定弁護士が上告を断念したことで、小沢本人の無罪が確定した。

したがって、「2009年の秘書逮捕」と「小沢自身が強制起訴された陸山会事件」を一つの事件として扱うのは正確ではない。

それでも、小沢が代表を辞任した後も、民主党の選挙戦における影響力は残った。

2009年8月30日の衆議院選挙で、民主党は308議席を獲得した。選挙前の115議席から193議席を増やす圧勝だった。自民党は119議席にまで減少し、鳩山由紀夫政権が成立した。

1993年の細川政権は、多数の政党が集まった非自民連立だった。

2009年は違った。

民主党という一つの大政党が総選挙で自民党を上回り、選挙によって政権を交代させた。

小沢が1990年代から訴えてきた「政権交代可能な政治」に、最も近い形が実現した瞬間だった。

ところが、その完成したはずの器から、小沢は数年後に自ら出ていくことになる。

なぜ、ようやくつくった民主党まで離れたのか

2009年の民主党政権が小沢政治の一つの到達点だったのなら、その民主党を守り抜く道もあったはずである。

しかし、鳩山由紀夫政権から菅直人政権、野田佳彦政権へと移るにつれて、小沢と党執行部との距離は広がっていった。

決定的な対立となったのが、消費税増税だった。

2012年6月、社会保障と税の一体改革に伴う消費税増税法案の衆議院採決で、小沢らは党の方針に反して反対票を投じた。その後、小沢らは民主党を離れ、7月11日に新党「国民の生活が第一」を結成する。

結党時には衆議院議員37人、参議院議員12人の計49人が参加した。

支持する側から見れば、2009年総選挙で掲げた政策や「国民の生活が第一」という政治理念を守ろうとした行動になる。

一方、批判する側から見れば、ようやく実現した政権交代可能な大政党を再び分裂させた行動になる。

ここでも、小沢に対する二つの評価が同時に成立する。

信念を持っていたから党を出たと見ることもできる。

組織内で妥協できなかったから党を割ったと見ることもできる。

この二つは、必ずしも矛盾しない。

自分が正しいと考える政治構想を政党より上位に置くのであれば、その構想を守る行動は本人にとって一貫していても、組織の側から見れば破壊的になるからである。

小沢は本当に政権を「壊した」のか

ここまで小沢の政治人生を追ってくると、「政権をつくっては壊した」という言葉には強い説得力があるように見える。

しかし、事実関係を公平に見るためには、一度この印象から距離を置く必要がある。

細川政権の退陣を小沢一人の責任にはできない。

羽田政権の崩壊にも、社会党の連立離脱や少数与党という事情があった。

新進党解党には、小沢の党運営への反発だけでなく、異質な政治勢力を一党にまとめたこと自体の難しさがあった。

民主党政権の失敗についても、鳩山政権の基地問題、菅政権期の東日本大震災と原発事故への対応、野田政権下の政策対立など、複数の問題が重なっていた。

それをすべて小沢一郎という一人の政治家に還元することは、政治史として正確ではない。

では、なぜ「壊し屋」という呼び名がこれほど定着したのか。

それは小沢自身がすべてを破壊したからではなく、政治の秩序が壊れ、新しい秩序が生まれる場所に、あまりにも頻繁に小沢がいたからではないだろうか。

自民党が割れたときにもいた。

非自民政権ができたときにもいた。

新進党ができたときにも、その党がなくなるときにもいた。

自由党と自民党が組むときにも、自由党が連立から離れるときにもいた。

民主党が政権を取る過程にも、その民主党が割れる場面にもいた。

これほど何度も政界再編の中心に現れた政治家は珍しい。

その存在そのものが、政治の変化と結びついて記憶されるようになったのである。

なぜ「つくる」ことには強く、「維持する」ことには苦しんだのか

小沢政治を40年という長い時間で見ると、ある特徴が浮かび上がる。

政治が行き詰まった瞬間に、極めて強い。

既存の均衡を壊し、敵と味方を組み替え、候補者を集め、議席を計算し、新しい多数派をつくる。

1993年の細川政権もそうだった。

1994年の新進党もそうだった。

2003年の民由合併もそうだった。

そして2009年の政権交代も、その長い流れの先にある。

ところが、一度新しい秩序ができると、政治に必要な能力は少し変わる。

大きな改革より、毎日の小さな妥協が重要になる。

敵を倒すことより、味方を逃がさないことが重要になる。

100点の政策を実現するより、60点や70点でも同じ組織に人々を残しながら前へ進めることが求められる。

小沢が繰り返し苦しんだのは、この局面だったのではないか。

新しい家を建てる建築家と、完成した家を何十年も修繕しながら維持する管理人には、違う才能が必要である。

小沢一郎は、日本政治でも屈指の政治的建築家だった。

問題を見つければ、壁を動かし、間取りを変え、場合によっては家そのものを建て替えようとした。

だから政治が停滞しているときには、大きな変化を起こすことができた。

しかし一緒に暮らしている人々からすれば、ようやく落ち着いたと思ったところで、また壁を壊されることにもなる。

「剛腕」と「壊し屋」は、別々の性格ではなかったのかもしれない。

同じ能力を、政治を動かした側から見れば剛腕と呼び、動かされた側から見れば壊し屋と呼んだのである。

小沢がつくった政党は消えても、問いは残った

小沢がつくり、あるいは大規模な再編に関わった政党の多くは、現在では存在しない。

新生党は新進党へ合流し、新進党は解党した。自由党は民主党との合併で解散し、「国民の生活が第一」も短期間で別の政党再編へ向かった。

民主党については事情が異なる。小沢がつくった政党ではないが、自由党を率いて合流し、その後、政権交代の器として巨大化していった政治勢力である。その民主党も2012年に政権を失い、その後の分裂と再編を経て、2009年当時の形では存在していない。

政党名だけを追えば、小沢政治は失敗の連続にも見える。

しかし制度の側を見ると、もう少し複雑である。

1990年代の政治改革によって衆議院に小選挙区比例代表並立制が導入され、政党同士が総選挙で政権を争う仕組みは、それ以前より明確になった。2009年には実際に総選挙による本格的な政権交代が起きた。

小沢自身も後年、1993年と2009年の二度の政権交代を、自らが長年求めた政権交代可能な議会制民主主義の文脈で語っている。

ただし、現在の日本政治に見られる「官邸主導」までを、小沢一郎の改革の成果だと考えるのは行き過ぎである。

首相官邸機能の強化には、橋本龍太郎政権以降の中央省庁再編や内閣機能強化など、別の制度改革も大きく関わっている。

小沢が強く主張してきた政治主導、政権交代、国会改革という問題意識の一部がその後の政治に残った、と考える程度が妥当だろう。

そして何より、小沢が思い描いた安定的な二大政党政治が完成したとは言い難い。

選挙制度は変わった。

2009年には政権も交代した。

それでも野党はその後、分裂と再編を繰り返している。

ここに小沢政治の大きな限界があったのかもしれない。

制度を変えることはできる。

選挙制度を変えれば、政治家の行動もある程度変わる。

しかし、政治家同士の信頼や政党文化までは、法律だけではつくれない。

同じ党に長くとどまり、意見の違う相手と妥協し続ける習慣もまた、政治制度とは別の時間をかけて形成される。

政治を制度設計の問題として考え続けた小沢が、最後まで完全には解けなかった問題がそこにあったのではないだろうか。

2026年、小沢一郎の敗北が映したもの

2026年2月8日の総選挙で、小沢一郎は岩手3区の議席を失った。

岩手県選挙管理委員会の記録にも、この日に第51回衆議院議員総選挙が行われたことが残っている。岩手県議会でも、その後、岩手3区で藤原崇が小沢を破った結果が取り上げられた。

1969年に始まった小沢の国会議員生活は、19回の当選を重ねたところで、少なくとも一度途切れることになった。

だが、小沢一郎という政治家を当選回数だけで評価するのは難しい。

彼が若手議員だったころ、日本政治には自民党が政権を担い続けることを前提とした空気があった。

その自民党を割った。

非自民政権をつくった。

それが崩れれば、今度は自民党に対抗する巨大政党をつくった。

うまくいかなければ解体し、また別の党をつくった。

自民党とも組んだ。

再び離れた。

最後には自由党そのものを解散させ、民主党へ入り、2009年の政権交代へつながる大きな流れをつくった。

この歩みを、すべて改革の信念だったと美化する必要はない。

強引な党運営への反発もあった。

権力闘争もあった。

小沢の判断によって亀裂が深まった政治局面もあった。

同時に、すべてを「壊し屋の身勝手」で説明するのも、40年の政治史を単純化しすぎる。

小沢一郎にとって、政党は守ること自体が目的となる故郷ではなかった。

政治を変えるための乗り物だった。

だから、その乗り物が目的地へ向かわないと判断すると、別の乗り物へ移った。

必要なら新しいものをつくり、場合によっては自分がつくったものさえ壊した。

普通の政治家は、自分が所属する党の中で権力の頂点を目指す。

小沢は少し違った。

自分が首相にならなくても、首相を生み出す政治状況をつくった。

実際には一度も首相官邸の主にならなかったにもかかわらず、参議院からは二度、内閣総理大臣に指名された。

政権を取ることだけが目的なら、もっと早く自ら首相を目指したはずだ。

一つの党で出世することだけが目的なら、自民党から出なかった方が合理的だったかもしれない。

自分の名前を残す政党を政治的遺産にしたいのであれば、新進党や自由党をもっと長く維持する道もあっただろう。

それでも小沢は、何度も器を替えた。

その結果として、日本政治には多くの瓦礫も残った。

同時に、政権交代という、それ以前には現実感の薄かった風景も一度は現実のものとなった。

だから、小沢一郎の40年を最後に問い直すとき、「なぜこれほど政党を壊したのか」という問いだけでは足りない。

むしろ問うべきなのは、別のことなのだろう。

小沢一郎は、何を完成させようとしていたのか。

自民党を倒すことだったのか。

二大政党政治をつくることだったのか。

政治家が官僚機構を主導する政治だったのか。

あるいは、有権者が選挙によって政権そのものを選び、失敗すれば取り替える政治だったのか。

その答えは一つではない。

ただ、その問いをたどっていくと、「剛腕」「壊し屋」と呼ばれた一人の政治家の向こう側に、政権交代を可能にしながら、それを安定した政治文化として定着させることには成功しなかった、日本政治そのものの40年が見えてくる。

おそらく小沢一郎という政治家の最も大きな意味は、そこにある。

彼が壊したものだけを見るのでもなく、彼がつくったものだけを見るのでもない。

つくろうとした政治と、実際に残った政治との距離を眺めること。

その距離の中にこそ、「剛腕」の40年を読む本当の面白さがあるのである。

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総理にならなかった最高実力者・金丸信はなぜ日本政治を動かせたのか

日本政治において、最も力を持つ人物は誰か。

そう問われれば、普通は内閣総理大臣と答えるだろう。閣僚を任命し、政府を代表して外交を行い、衆議院の解散を決定する政治過程でも中心的な位置を占める。その権限だけを見れば、総理大臣こそ政治権力の頂点にいる。

ところが、昭和の終わりから平成の初めにかけて、この常識だけでは説明しきれない政治家がいた。

金丸信である。

建設大臣、防衛庁長官、自民党幹事長、副総理、自民党副総裁まで上りつめながら、彼はついに総理大臣にはならなかった。それでも一時期の日本政治では、「次の総理を誰にするのか」という、本来なら総理大臣を目指す政治家たちが争うはずの問題について、金丸の判断が決定的な意味を持った。

不思議なのは、金丸が総理になれなかったことではない。

むしろ考えるべきなのは、なぜ総理にならなくても、日本政治の最高実力者と呼ばれるほどの力を持てたのかということである。

その答えをたどっていくと、金丸信という一人の政治家の人物像を越えて、いまではかなり姿を変えてしまった「昭和型自民党政治」の構造そのものが見えてくる。

総理候補が「お願い」に行った時代

金丸信の権力が最もわかりやすい形で現れたのは、1991年の自民党総裁選だった。

海部俊樹首相の退陣が決まり、宮沢喜一、渡辺美智雄、三塚博らが後継総裁を争った。このとき自民党最大派閥だった竹下派、正式名称を経世会という巨大集団が誰を支持するかによって、勝敗は大きく左右される状況になっていた。

そこで起きたのが、後に「小沢面談」と呼ばれる場面である。

宮沢、渡辺、三塚という総裁候補たちが、竹下派会長代行だった小沢一郎と個別に面談した。総理を目指す政治家が、自分より若い一派閥の幹部を訪ね、政権構想を説明する。その光景そのものが、当時の自民党において最大派閥がどれほど大きな力を持っていたかを物語っていた。

そして、この話にはさらに興味深い続きがある。

小沢一郎が後年語ったところによれば、三人との面談が終わった後、小沢は金丸信、竹下登とともに誰を支持するかを話し合った。そこで三人はいったん、宮沢ではなく渡辺美智雄を支持することで一致したという。金丸自身も「それではミッチーにするか」と同意し、その日の結論は渡辺支持だったと小沢は回想している。

ところが翌朝、金丸は竹下と小沢を再び呼び出した。

そして前日の結論を覆し、「宮沢にしてくれ」と頼んだという。

なぜ金丸が一夜にして判断を変えたのか。その理由について小沢自身も真相は分からないと語っているため、そこから先を史実として断定することはできない。しかし重要なのは、理由ではない。

竹下派が誰を支持するのかという最終局面で、金丸の判断がそれほど大きな意味を持っていたという事実である。

竹下と小沢を含む派閥中枢がいったん渡辺支持で一致しても、翌朝に金丸が宮沢支持を求めれば、結論そのものが動いた。そして竹下派は宮沢支持へと進み、宮沢は総裁選に勝利して首相となった。

ここには、現在の政治感覚では少し理解しにくい光景がある。

総理になりたい人物が、総理経験者の許可を求めていたのではない。総理経験のない金丸信が率いる巨大派閥の判断が、誰が総理になるのかを左右していたのである。

つまり金丸の力は、憲法にも法律にも書かれていなかった。

それでも現実の政治を動かした。

なぜなら当時の自民党では、政治権力のかなりの部分が首相官邸だけではなく、「党」と「派閥」の中にも存在していたからである。

金丸を強くしたのは、金丸だけではなかった

金丸信は1958年の衆議院議員総選挙で初当選し、その後、建設大臣、国土庁長官、防衛庁長官などを歴任した。1984年には自民党幹事長となり、1986年の第3次中曽根内閣では、内閣法第9条に基づいて首相に事故があった場合などに職務を代行する国務大臣、いわゆる副総理に指定された。

だが、こうした肩書だけを追っても、金丸の本当の力は見えてこない。

重要なのは、彼が政治家として成長した時代の選挙制度である。

当時の衆議院選挙では、一つの選挙区から複数の議員を選ぶ中選挙区制が採用されていた。自民党が一つの選挙区で複数議席を獲得しようとすれば、同じ選挙区に自民党候補を複数立てることになる。すると奇妙な競争が起きる。同じ自民党でありながら、候補者同士が票を奪い合わなければならないのである。

政党も大きな政策の方向も同じなら、候補者は別の違いを有権者に示さなければならない。そこで重要になったのが、個人後援会であり、地元との結びつきであり、政治資金であり、そして派閥だった。

派閥は単なる政治家同士の親睦団体ではなかった。選挙で候補者を支援し、政治資金を集め、党内人事や閣僚人事をめぐって所属議員を後押しし、総裁選になるとまとまった票を提供する。

議員にとって派閥は、自分の政治生命を支えてくれる組織だった。

そして派閥領袖にとって所属議員は、自分の政治力を数字として示す存在だった。

つまり、金丸が強かったから派閥が強くなっただけではない。

派閥が力を持ちやすい政治制度が存在し、その制度の中で人と金と人事を動かす方法を金丸が誰より深く理解していたから、金丸は強くなったのである。

ここを見落とすと、金丸信は「裏で政治家を操った怪物」という人物伝で終わってしまう。

しかし実際には、金丸は当時の政治制度が生み出した権力の流れを、驚くほど正確に読んでいた政治家だったと考えた方が理解しやすい。

田中角栄から受け継いだ「数」の政治

その政治を金丸に教えた巨大な存在が、田中角栄だった。

田中派は1970年代から1980年代前半にかけて自民党最大級の派閥となり、田中本人が首相を退いた後も大きな影響力を保ち続けた。

田中政治の核心にあったものは、華麗な演説や抽象的な理念だけではない。

政治では、最後には数が必要になる。

総裁選で何票あるのか。国会で法案を成立させるために何人を動かせるのか。大臣や党幹部を何人送り込めるのか。そして選挙になったとき、仲間を何人当選させられるのか。

数を持っている者は、他の派閥と交渉できる。数を持たない者は、どれほど立派な政策を語っても、最後には誰かの協力を求めなければならない。

金丸は、その単純で冷徹な原理を知っていた。

しかし1980年代半ばになると、田中派内部にも世代交代を求める動きが強くなる。竹下登を中心としたグループは1985年に創政会を結成し、その後、田中派は大きく揺れる。そして1987年、竹下登を中心に経世会、いわゆる竹下派が発足した。

竹下が首相になると、金丸は経世会会長となる。

ここで金丸は、田中角栄とは少し違う位置に立った。

田中角栄は自ら総理大臣になり、その後も巨大派閥を背景に政界へ強い影響を及ぼした。

ところが金丸は、総理大臣にならないままキングメーカーになったのである。

この違いは小さいようでいて、実は大きい。

総理になれば、自分自身が政権の責任者になる。経済が悪くなれば批判され、選挙に負ければ退陣を迫られ、政策判断をするたびに支持する者と反対する者が生まれる。

一方、キングメーカーは自ら政権の看板にならずに、政権形成へ大きく関与することができる。

もっとも、ここから「金丸は総理になるより裏から動かす方が得だと計算していた」とまで断定することはできない。

ただ、金丸が結果として手にしたのは、総理大臣とは異なる種類の権力だった。

自分が総理になるのではなく、誰を総理にするのか。

金丸の政治人生が最終的に到達した場所は、そこだった。

「自分がなる」より「誰をならせるか」

もちろん、「金丸が望めば簡単に総理になれた」と考えるのも行き過ぎだろう。

自民党総裁になるには他派閥との関係、年齢、世論、政治的なタイミングなど多くの条件があり、最大派閥の実力者だから自動的に総理になれるわけではない。

しかし小沢一郎は後年、金丸について興味深い証言を残している。

小沢の回想では、金丸は自分自身がトップに立つことを強く望む人物ではなく、若い議員であっても意見を聞き、納得すれば受け入れる人物だったという。

これは小沢という金丸に近かった政治家から見た人物像であって、それ自体を客観的事実として一般化することはできない。しかし、金丸の政治行動を理解する手掛かりにはなる。

彼が得意としていたのは、自分が舞台中央に立って拍手を浴びること以上に、人と人の間に立つことだった。

対立する派閥をつなぐ。若手を引き上げる。国会運営の落としどころを探す。総裁候補の力関係を読み、最後に誰へ票をまとめるかを決める。

それは政策を細部まで設計する政治家というより、政治という巨大な人間関係を動かす政治家の姿だった。

金丸が何度も自民党国会対策委員長を務め、後に幹事長まで上りつめたことも、この政治スタイルと無関係ではない。

国会対策とは、正論を述べれば仕事が終わる場所ではない。与党と野党、政府と党、派閥と派閥の間で妥協点を探し、「ここまでなら相手が受け入れる」という境界を見極める世界である。

そこで必要になるのは、法律や政策についての知識だけではない。

人間を読む力である。

誰が何を欲しがっているのか。誰と誰が対立しているのか。どこまで譲れば相手の顔が立つのか。そして今日の譲歩や恩義が、数年後の政治でどのような関係になって返ってくるのか。

金丸の政治とは、人間関係を長い時間軸で読む政治でもあった。

だからこそ彼には、肩書そのものを越えた力が生まれた。

金と人事が一つの回路につながっていた

だが、ここから金丸政治のもう一つの顔が現れる。

人を束ねるには選挙を支えなければならず、選挙を支えるには金がいる。派閥が議員の選挙や昇進を支援する制度の中では、「数」と「金」は切り離すことができない。

金丸は建設行政との関係が深い政治家でもあり、1972年には田中角栄内閣で建設大臣を務めた。その後、政界での影響力を増していくにつれて、建設会社を含む企業などから多額の政治献金が金丸周辺へ集まるようになっていったことは、後の事件や裁判を通じても明らかになっている。

ただし、ここで注意しなければならない。

建設業界との関係が深かったことと、個々の公共事業が献金の直接的な見返りとして決められたとすることは、同じ意味ではない。根拠のない因果関係まで広げれば、歴史分析ではなく推測になってしまう。

それでも、当時の自民党政治において政治資金と派閥が密接に結びついていたことは重要である。

派閥には所属議員の選挙を助け、人事を調整し、組織を維持する役割があった。そのためには莫大な政治資金が必要になる。一方、企業側にも政治との関係を維持しようとする動機があった。

企業や支援者から政治へ資金が流れ、その資金によって議員の選挙や政治活動が支えられ、議員は派閥へ所属し、その人数が総裁選や党内人事で派閥領袖の力になる。

こうして金と人と票が、一つの循環をつくる。

その循環の中央に立つ人物ほど強くなる。

金丸の権力は、その回路の中で膨張した。

だからこそ後に明らかになる政治と金の問題も、一人の政治家の蓄財問題だけでは終わらなかった。それは、戦後日本の長期政権を支えてきた政治資金と派閥の仕組みそのものへの疑問へと広がっていったのである。

外交まで「個人のパイプ」が動かした

金丸の政治手法は国内だけにとどまらなかった。

1990年9月、金丸は自民党代表団を率い、社会党の田辺誠らとともに北朝鮮を訪問して金日成主席と会談した。

この訪朝を契機として、長く抑留されていた第18富士山丸の日本人船員が帰国し、その後の日朝国交正常化交渉へつながる流れが生まれた。

ここにも金丸政治の特徴がよく表れている。

本来、外交を担うのは政府である。

ところが政府間関係が動かないとき、政党間交流や政治家同士の人的関係が別の通路をつくることがある。制度が動かないなら、人間関係から動かしてしまう。

金丸は、国内政治でも外交でも、この種の政治を得意としていた。

現代から見れば、こうした方法には危うさもある。

外交政策がどのような手続きで決まり、誰が責任を負うのかが曖昧になりやすいからである。その一方で、正式な政府間交渉だけでは解決できなかった問題に政治家同士の接触が突破口をつくることもある。

金丸政治には、この二面性が常につきまとっていた。

制度から見ると不透明である。

しかし、その不透明な人間関係だからこそ、公式の制度だけでは動かないところを動かす場合がある。

その便利さと危険さは、ほとんど同じ場所から生まれていた。

頂点からの転落は、あまりにも突然だった

その巨大な権力は、1992年に崩れ始める。

東京佐川急便から金丸側への5億円の献金問題が発覚し、金丸は自民党副総裁を辞任した。政治資金規正法違反で略式起訴され、罰金20万円の略式命令を受けたが、問題となった金額の大きさに比べ処分が軽すぎるという世論の強い反発が起きた。

金丸はその年の10月、衆議院議員を辞職する。

翌1993年には脱税容疑で逮捕され、巨額の所得を隠したとして所得税法違反で起訴された。裁判は続いたが、金丸は公判中の1996年に死去し、公訴は棄却された。

しかし政治史として重要なのは、一人の大物政治家が失脚したことだけではない。

金丸の退場を契機として、それまで最大派閥の内部に存在していた亀裂が急速に表面へ現れた。

ただし、ここを「金丸がいなくなったから竹下派が割れた」と単純化するのは正確ではない。

竹下派内部では、金丸の後を誰が率いるのかという後継問題に加え、政治改革をどのように進めるのか、小沢一郎らの改革志向と旧来型の党運営を重視する勢力との関係をどうするのかという路線対立が重なっていた。金丸という巨大な調整役が退場したことで、それまで一つの派閥の内部に押し込められていた複数の対立が、一気に政治問題として噴き出したと見る方が実態に近い。

小沢一郎、羽田孜らのグループは、竹下登、小渕恵三らの側と袂を分かち、新たな政策集団を形成する。

その対立はやがて派閥内部だけでは収まらなくなった。

1993年、政治改革をめぐる宮沢政権への不信任決議案に自民党の一部議員が賛成し、衆議院は解散される。総選挙後、小沢、羽田らは自民党を離れて新生党を結成し、細川護熙を首相とする非自民連立政権の成立へとつながっていった。

したがって、金丸一人が消えたことで自民党政権が崩壊したわけではない。

しかし、金丸の失脚が、それまで巨大派閥の内部で抑えられていた後継争いと路線対立を表面化させる重大な契機になったことも確かである。

その意味では、金丸の権力は彼が力を持っていたときだけでなく、彼がいなくなった後にまで、その大きさを示したと言える。

金丸事件だけが政治改革を生んだわけではない

金丸信の失脚から1994年の政治改革へと歴史を一直線につなぐと、話は分かりやすくなる。

しかし、歴史はそれほど単純ではない。

日本政治で「政治と金」が大きな問題となり、選挙制度や政治資金制度を変えるべきだという議論が本格化したのは、金丸事件から突然始まったわけではなかった。

1980年代末にはリクルート事件が政治を揺るがし、政治家と企業との関係、政治資金の透明性、派閥政治の弊害に対する国民の不信はすでに強くなっていた。その流れの中で政治改革は自民党内でも大きな課題となり、海部政権、宮沢政権へと持ち越されていた。

そこへ東京佐川急便事件と金丸問題が起きる。

巨額の政治資金をめぐる問題と、それに対する司法処分への国民の強い不満は、それ以前から存在していた政治不信をさらに深刻なものにした。

つまり、金丸事件が政治改革をゼロから生み出したのではない。

すでに燃えていた政治改革への要求に、大量の油を注いだ事件の一つだったのである。

そして1993年には政治改革をめぐって宮沢政権が行き詰まり、自民党が分裂して政権を失う。細川護熙を首相とする非自民連立政権は政治改革を最重要課題に掲げ、与野党の激しい交渉を経て、1994年に政治改革関連法が成立した。

衆議院選挙は、それまでの中選挙区制から小選挙区比例代表並立制へ移行する。

政治資金制度も改められ、政党を中心とする政治へ制度の重心が移っていった。

この変化が、その後の自民党政治の権力構造を大きく変えていくことになる。

なぜ「金丸信のような政治家」は生まれにくくなったのか

1994年の政治改革は、金丸信という一人の政治家を消すために行われたものではない。

しかし結果として、金丸のような政治家が力を持つための土壌の一部を弱めることになった。

中選挙区制では、一つの選挙区で自民党候補同士が競争する。そのため候補者は、自分を支えてくれる派閥の資金や組織を必要とした。

ところが小選挙区制では、一つの選挙区から原則として一人の自民党候補しか公認されない。

すると政治家にとって重要になるのは、派閥がどれほど支援してくれるかだけではなく、まず党から公認を得られるかどうかになる。

その結果、候補者公認を握る党執行部、そして自民党総裁の力が相対的に大きくなる。

さらにテレビ政治の発達、世論調査の影響力増大、政党助成制度の導入などが重なり、政治資金、人事、選挙のすべてを一つの派閥領袖が握ることは以前より難しくなっていった。

この変化を逆から眺めれば、金丸信がなぜあれほど強かったのかがよく分かる。

金丸が超人的だったからだけではない。

中選挙区制があり、派閥が選挙を支え、派閥領袖が人事に大きな影響を持ち、政治資金が派閥を通じて所属議員を支え、総裁選では派閥単位の票が勝敗を左右する。

そのいくつもの制度と慣行の交差点に、金丸信が立っていたのである。

彼はその交差点で、誰より巧みに交通整理をした。

だから自分自身が常に車を運転していなくても、どの車をどの方向へ走らせるのかに影響を及ぼすことができた。

金丸信とは何者だったのか

金丸信を評価するのは難しい。

「政界のドン」という言葉だけで英雄視すれば、政治と金をめぐって起きた重大な問題が消えてしまう。

逆に「金権政治家」の一言だけで片づければ、なぜその人物が三十年以上にわたって政治の中心に近づき、最後には総理大臣を選ぶほどの影響力を持ったのかを説明できない。

金丸は、昭和型自民党政治の異常な例外だったのではない。

むしろ、その仕組みが持っていた特徴を極端なほど鮮明な形で体現した政治家だったのではないだろうか。

政治を理念だけではなく、数で見る。

数を維持するために人を育てる。

人を育てるために選挙を支える。

選挙を支えるために政治資金を集める。

そして、その数を使って人事を動かし、総裁選を動かし、政権形成に影響を及ぼす。

こうした循環を動かす能力において、金丸は抜群だった。

しかし、その循環が強くなりすぎれば、やがて「誰が正式な権限を持っているのか」が見えにくくなる。

選挙によって国会議員となり、国会によって指名された首相がいる。その一方で、法律上は首相を指揮する権限など持たない派閥の実力者が、首相候補の選定や党内人事に大きな影響を及ぼす。

制度上の権力と、現実に政治を動かす権力が一致しなくなるのである。

金丸政治の強さは、そのまま金丸政治の危うさでもあった。

そして金丸が失脚すると、その人物によって調整されていた巨大派閥の内部対立が表面化し、自民党の分裂と政界再編へつながっていった。

同じ時期、リクルート事件以来積み重なっていた政治不信に佐川急便事件などが重なり、日本政治は選挙制度と政治資金制度そのものを改める大きな政治改革へ向かっていく。

そう考えると、金丸信の人生には奇妙な歴史の皮肉がある。

彼は総理大臣にはならなかった。

それでも総理大臣をつくる側に立った。

1991年には、渡辺美智雄で一度まとまったとされる最大派閥の判断を、自ら翌朝に宮沢喜一へと変えたという証言さえ残っている。

総理になった人物の名前は歴代首相一覧に残る。

しかし、誰をその一覧に載せるのかを決める政治家が、その背後にいた時代もあったのである。

金丸信が政治の頂点近くにいたころ、日本政治の権力の中心は、必ずしも首相官邸だけにあったわけではなかった。

派閥事務所にあり、議員会館にあり、料亭での会合にあり、ときには一本の電話や、政治家同士の長年の人間関係の中にあった。

法律には書かれていない権力である。

だからこそ強く、だからこそ見えにくかった。

そして一度その仕組みが崩れ始めると、その下から政治資金と派閥、人事と選挙、企業と政治を結んできた昭和型自民党政治の骨組みまでが姿を現した。

「総理にならなかった最高実力者」という金丸信の奇妙な肩書は、一人の政治家を表しているだけではない。

それは、総理大臣という肩書を持たなくても、総理大臣を選び、政権の行方に影響を与えられる政治構造が、日本に実際に存在したことを示している。

そして金丸信という政治家を理解することは、その人物の栄光と転落を眺めることではない。

総理大臣よりも目立たない場所にありながら、ときに総理大臣以上の影響力を発揮する権力とは何なのか。

昭和から平成へ移る日本政治の境目で、金丸信はその問いを、最も極端な形で残した政治家だったのである。

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