地域政経

九条レオンの地域から社会と政治・経済のこれからを考える

一度目の安倍晋三は、あまりにも早く「自分の政治」を始めた

 2006年9月、52歳で内閣総理大臣となった安倍晋三は、戦後最年少の首相として政権の座に就いた。小泉純一郎という強烈な個性を持つ首相の後継者であり、北朝鮮による拉致問題への対応などですでに全国的な知名度を持っていた安倍には、若い指導者が新しい時代を開くという期待も集まっていた。しかし後から振り返れば、第一次安倍政権の特徴は、その若さ以上に、首相になった直後から自分が本当に実現したかった政治をかなり正面から始めようとしたことにあった。

 安倍が掲げた「美しい国、日本」の背後には、「戦後レジームからの脱却」という問題意識があった。教育、安全保障、憲法、国家のあり方を長期的に組み替えていこうとする政治であり、実際に第一次政権は教育基本法の改正や防衛庁の防衛省への移行などを実現している。したがって、第一次安倍政権を「何もできずに終わった政権」と片づけるのは正確ではなく、むしろ問題は、政策を成立させる能力と、政権を安定して持続させる能力が別物であったことを、政権自身が十分に処理できなかった点にあった。

 政治家には自分が重要だと考える政策があるが、有権者にもまた、その時々で政治に解決してもらいたい問題がある。そして残念ながら、この二つはしばしば一致しない。憲法、安全保障、教育、国家観は安倍にとって重要だったが、多くの国民にとって切実だったのは、年金、雇用、所得、格差、社会保障といった生活に直結する問題であり、第一次政権では、この「政治家が語りたいこと」と「有権者が解決してほしいこと」のずれが徐々に広がっていった。

 ここには第一次政権の弱点がよく表れている。安倍は首相になれば政策を動かせると考えていたのだろうが、民主政治では、首相になったことと、首相であり続けられることは同じではない。総理大臣という席は政策を実行するための到着点ではなく、むしろそこから始まる不安定な仕事であり、この当たり前の事実を安倍は最初の政権でかなり高い授業料を払って学ぶことになった。

年金、閣僚問題、参議院選挙――政権を削ったのは一つの失敗ではなかった

 2007年に入ると、第一次安倍政権は急速に不安定になった。閣僚をめぐる政治資金問題や失言、辞任が相次ぎ、さらに約5000万件の年金記録が基礎年金番号に統合されていないことが明らかになった、いわゆる年金記録問題が大きな社会問題となった。もちろん、年金記録の混乱そのものを安倍政権が生み出したわけではない。しかし政治では、問題を作った政権と、その問題によって批判を受ける政権が同じとは限らず、長年蓄積された行政上の不備であっても、それが表面化した瞬間の政権が責任を引き受けることになる。

 同年7月の参議院議員通常選挙では、年金記録問題、「政治とカネ」、格差などが大きな争点となり、自由民主党は改選前64議席から37議席へ大幅に減らした。一方、民主党は60議席を獲得して参議院第一党となり、衆議院では与党が多数、参議院では野党が多数という「ねじれ国会」が生まれた。それでも安倍は続投したが、その後、国会で所信表明演説を行った直後に辞意を表明するという異例の退陣となり、その唐突さは政権の評価をさらに悪化させた。

 加えて、安倍自身には潰瘍性大腸炎という持病があり、第一次政権末期にはその症状が悪化していた。したがって第一次政権の崩壊を、選挙敗北だけ、年金問題だけ、安倍本人の力量だけで説明するのは適切ではなく、政策の優先順位、閣僚管理、国会運営、選挙結果、世論との距離、本人の健康状態といった複数の要因が重なった結果として理解する必要がある。

 政治史はしばしば、一人の指導者の決断によって動いたかのように描かれる。しかし実際の政権は、首相の思想だけで動いているわけではない。政党、官僚、国会、選挙、報道機関、世論、経済、そして最後には首相本人の身体までが絡み合う巨大なシステムであり、第一次安倍政権は、そのシステムを制御することが政策を考えること以上に難しいことを露呈した政権でもあった。

五年後に戻ってきた安倍は、思想を変えたのではなく入口を変えた

 2007年の退陣後、安倍が別の政治家になったわけではない。憲法改正、安全保障、教育、国家観、政治主導に対する基本的な問題意識は、その後も大きく変化していない。もし第一次政権の失敗から安倍が学んだことがあるとすれば、それは思想を捨てることではなく、その思想を実現するために何を先に行うべきかを変えることだった、と考える方が実態に近い。

 2012年12月、安倍が再び首相に就任したとき、政権の正面に置かれたのは「美しい国」でも「戦後レジームからの脱却」でもなく、経済再生だった。大胆な金融政策、機動的な財政政策、民間投資を喚起する成長戦略という、いわゆる「三本の矢」を掲げ、デフレ脱却と景気回復を政権の最優先課題として示した。第二次政権で安倍が安全保障や憲法への関心を失ったわけではなく、むしろそれらを政権の入口に置かなくなったのである。

 この変化は政治的には合理的だった。憲法や安全保障は有権者の意見を大きく二分するが、景気回復、雇用改善、賃金上昇を望む人は左右の政治的立場を越えて存在する。支持を広げる必要がある政権にとって、経済政策は安全保障政策よりはるかに広い有権者に届きやすい。第一次政権の安倍が、自分の政治的理念から政権を始めたとすれば、第二次政権の安倍は、多くの有権者が関心を持つ経済から政権を始め、その後に自分の政治課題へ進む道筋を選んだと見ることができる。

 ただし、ここで「第一次政権で失敗したから、第二次政権でこの戦略を採用した」とまで断定することはできない。本人がどこまで体系的に第一次政権の経験を分析し、その結果として政策の順序を変更したのかは外部から完全には確認できないからである。観察できるのは、第一次政権と第二次政権の政策の見せ方と進め方が明らかに異なっていたという事実であり、その差を「学習」と解釈することには合理性があるが、それを唯一の原因と考えるべきではない。

第二次政権が覚えたのは、政策だけではなく「時間の使い方」だった

 第二次安倍政権では、まず経済政策を前面に出し、選挙で政権基盤を安定させ、その後に国家安全保障会議の設置、特定秘密保護法、安全保障法制など、より政治的対立の大きな政策へ進んでいった。この順序には、第一次政権にはなかった慎重さが見られる。

 民主政治では、政策には政治的な費用がある。広い支持を得やすい政策もあれば、支持者を分断する政策もあるため、政権が何を先に行い、何を後に行うかによって、その持続可能性は大きく変わる。これは企業経営で資金繰りを無視して理想的な事業計画だけを語っても会社が続かないのと似ており、政治でも、理念を実行するためには先に政治的な余力を確保しなければならない。

 第二次安倍政権は、この政治的余力を選挙、支持率、経済政策、政権人事によって蓄積しながら、対立の大きい政策へ進んでいった。第一次政権が「政策を実行するために政権がある」と考えていたように見えたのに対し、第二次政権では「政策を実行するためには、まず政権を維持しなければならない」という発想がより明確になった。

 政治家にとっては少々身も蓋もない話だが、政権から降りれば、どれほど立派な理念を持っていても法律にはならない。第二次政権の安倍は、この単純だが厳しい現実に第一次政権より適応していた。

「強い官邸」は安倍が突然発明したものではない

 第二次安倍政権の特徴として「官邸主導」がしばしば挙げられるが、これを安倍が一から作り出した制度のように説明するのは正確ではない。首相官邸の権限強化は1990年代以降の政治改革、橋本龍太郎政権による行政改革、2001年の中央省庁再編、小泉純一郎政権などを通じて段階的に進められてきた。第二次安倍政権は、その延長線上に成立している。

 しかも安倍自身も、第一次政権の段階ですでに官邸機能の強化や政治主導を明確に志向していた。したがって第一次政権を「弱い官邸」、第二次政権を「強い官邸」と単純に対比するよりも、第一次政権では官邸主導を目指しながら十分に安定運用できず、第二次政権では既存の制度改革を利用しながら、それをより強く、継続的に運用できるようになったと見るべきである。

 2014年に設置された内閣人事局も、この流れの中にある。中央省庁の幹部人事を政府全体で一元的に管理する仕組みが整えられたことで、官邸は各省庁の幹部人事に以前より強い影響力を持つようになった。ただし、これも第二次安倍政権だけから突然生まれた制度ではなく、それ以前から検討されてきた国家公務員制度改革の延長に位置している。

 安倍政権の特徴は、制度を一から発明したことよりも、すでに存在していた制度的な道具を政治的に有効活用したことにある、と考えた方がよい。政治では新しい制度を作ることより、既存の制度を徹底して使う方が権力を大きく変えることさえある。

人を固定したのではなく、政権の骨格を固定した

 第一次政権では閣僚の問題が次々に政権全体の問題へ発展した。大臣を守るのか辞任させるのか、その判断が遅れれば、一人の大臣の問題が首相の任命責任へと変わり、さらに内閣全体の支持率低下へつながっていく。首相の仕事は政策を考えるだけではなく、人事と危機管理を同時に処理することであり、第一次政権はその難しさに翻弄された。

 第二次政権では、この点がかなり変わった。菅義偉を内閣官房長官、麻生太郎を副総理兼財務大臣として政権の中枢に長期間置き、主要な意思決定を担う人物を安定させた。もちろん安倍政権も内閣改造を繰り返しており、「閣僚を固定した」と表現するのは正確ではないが、政権運営の骨格となる人物を固定したことには意味があった。

 菅は政府内の調整、危機管理、報道対応などを担い、麻生は党内と政権の双方で政治的な重しとなった。首相がすべてを直接処理するのではなく、信頼する人物に権限と役割を分担させたことで、第二次政権では第一次政権よりも安定した政権中枢が形成された。

 第一次政権の安倍が「自分が首相として政治を行う」色彩の強い政権だったとすれば、第二次政権では「安倍政権という組織が政治を行う」構造がより明確になった。長期政権を一人の政治家の能力だけで説明するのが危険なのは、まさにこの点である。

選挙は審判であると同時に、政権を再起動する装置になった

 第二次安倍政権では、衆議院解散と総選挙が政権運営の重要な手段として使われた。2014年、2017年の解散を含め、安倍は政治情勢や野党の準備状況を見ながら選挙時期を選択し、選挙に勝つことで政権の正統性と国会議席を更新していった。

 ただし、ここでも安倍個人の意図を過度に読み込むことは避けるべきである。外部から確認できるのは、第二次安倍政権が結果として、野党側の準備が整っていない時期や、与党に比較的有利な政治状況で解散を行い、選挙勝利を繰り返したということである。それを巧みな戦略と評価することはできるが、すべてが事前に設計された長期計画だったと考える必要はない。

 それでも、第一次政権との違いは明確だった。2007年には参議院選挙の大敗によって政権が主導権を失ったのに対し、第二次政権では選挙を受動的な審判として待つだけではなく、自ら政権の節目を作る手段として利用した。選挙で勝利すれば、与党内で首相に異論を唱える政治家も減る。民主主義では選挙が権力を制限する仕組みである一方、勝ち続ける政権にとっては権力を強化する仕組みにもなるという、少し皮肉な現実がここに表れている。

しかし長期政権は、安倍が賢くなったからだけでは説明できない

 第一次政権と第二次政権を比較するとき、最も注意しなければならないのは、第二次政権の長期化をすべて「安倍の成長」で説明してしまうことである。政治家の伝記としては美しいが、分析としては少々出来すぎた物語になる。

 2012年に安倍が政権へ復帰した時点で、政治環境そのものが2006年とは大きく違っていた。2009年に政権交代を実現した民主党は、政権運営への失望や内部対立を経て支持を失い、2012年以降の野党勢力は分裂した。小選挙区制を中心とする衆議院選挙では、野党候補が複数に分かれれば、与党候補が過半数に達しない得票でも議席を獲得できる場合があるため、野党分裂は自民党に大きな選挙上の利益をもたらした。

 さらに、自民党と公明党の安定した選挙協力、選挙制度の特性、自民党内で首相に代わる有力な指導者が現れにくかったこと、経済状況や株価、雇用環境の改善など、複数の条件が長期政権を支えた。これらの要因を除外し、「第一次政権で失敗した安倍が学習したから長期政権になった」と説明すれば、安倍本人の効果を実際以上に大きく評価することになる。

 数理的な比喩を使えば、長期政権という結果を説明するモデルに、野党分裂、選挙制度、連立構造、経済状況などの重要な変数を入れず、安倍本人の学習だけを説明変数として置けば、その係数は過大に見える可能性が高い。政治分析でありがちな「偉大な指導者が歴史を動かした」という物語は読みやすいが、現実の政治はもう少し散らかっている。

健康状態の改善も、第二次政権を可能にした重要な条件だった

 第一次政権末期に悪化した潰瘍性大腸炎について、安倍はその後、新しい薬によって症状をコントロールできるようになったと説明している。第二次政権で約七年八か月にわたって首相を務めることができた背景には、この健康状態の改善も無視できない。

 ただし、これを「第一次政権の反省を踏まえた健康管理戦略」とまで解釈するのは証拠が足りない。確認できるのは、新しい治療によって病状を長期間コントロールできるようになったことと、それが首相として職務を継続する前提条件になったことである。

 歴史は思想と制度によって動くように見えるが、ときに一錠の薬が政治史を変えることもある。第二次安倍政権を成立させた条件の一つが医療技術の進歩だったという事実は、政治というものが理念だけでできているわけではないことを、いささか身も蓋もなく教えている。

強い官邸は政治を動かしたが、強い権力には別の問題が生まれる

 第二次安倍政権では、官邸への意思決定の集中によって省庁間の調整が進み、首相が重要政策を迅速に進めやすくなった。その意味では、政治主導を目指した一連の制度改革が一定の成果を上げたと言える。

 しかし制度には必ず裏面がある。官邸が幹部人事に強い影響を持つようになれば、官僚にとって官邸の意向を無視することは難しくなる。長期政権になれば与党内でも首相への異論は出にくくなり、選挙に勝ち続ければ党内の政治家も首相の人気と公認権に依存する。権力を安定させるために作られた仕組みが、そのまま権力を監視しにくくする仕組みに変わる可能性がある。

 森友学園、加計学園、桜を見る会などをめぐっては、行政の透明性や説明責任、長期政権下における官邸と行政機構の関係が厳しく問われた。ただし、これらの問題が官邸主導の強化によって直接引き起こされたと断定できるわけではない。むしろ重要なのは、これらの問題をきっかけとして、「強い官邸を誰が監視するのか」という問いが現実の政治課題として浮上したことである。

 第一次政権では政権が弱すぎることが問題となり、第二次政権では政権が強くなりすぎていないかが問題となった。政治とはなかなか都合よくできておらず、弱い権力を強くすれば、それで問題が終わるわけではない。

アベノミクスも「成功か失敗か」の二択では評価できない

 第二次安倍政権を支えた重要な要素の一つが、アベノミクスと呼ばれた経済政策だった。金融緩和や財政政策、成長戦略を通じてデフレからの脱却を目指し、株価、企業収益、雇用などには改善が見られた。一方で、実質賃金、潜在成長率、生産性、財政再建、デフレからの完全な脱却などについては評価が分かれる。

 したがって、「アベノミクスによって日本経済は復活した」と言い切るのも、「何の効果もなかった」と切り捨てるのも、どちらも雑である。経済政策の成果は、どの指標を見るかによって評価が異なり、株価上昇を重視するのか、雇用者数を重視するのか、実質所得を重視するのかによって結論は変わる。

 しかし政治的な効果という観点では、アベノミクスは重要だった。経済政策を政権の看板に置くことで、安倍政権は憲法や安全保障だけでは獲得しにくい幅広い有権者に支持を求めることができた。経済政策として何点だったかとは別に、政権維持の政治戦略としては相当な意味を持っていたのである。

安倍晋三が変えたものと、安倍晋三では変えられなかったもの

 第一次政権と第二次政権を比較すると、安倍晋三という政治家の基本的な思想が劇的に変わったとは考えにくい。安全保障を重視し、政治主導を志向し、日本という国家のあり方を変えようとする姿勢は、二つの政権に共通していた。

 変わったのは、その思想を実行するための方法だった。経済政策を入口に置き、政権の中枢を安定させ、官邸機能を活用し、選挙で議席を更新しながら、対立の大きな政策へ段階的に進む。第一次政権では政策そのものが前へ出すぎたのに対し、第二次政権では政策を実現するための政治的条件を先に整える傾向が強くなった。

 ただし、それだけで七年八か月の長期政権が生まれたわけではない。民主党政権への失望、野党勢力の分裂、小選挙区制の特性、公明党との選挙協力、自民党内の対抗勢力の弱さ、経済環境、そして健康状態の改善といった複数の条件が重なった。安倍が変わったことは重要だったが、安倍を取り巻く政治環境もまた大きく変わっていたのである。

 ここを無視すると、政治史は途端に英雄物語になる。第一次政権で敗れた政治家が反省し、学習し、復活して長期政権を築いたという筋書きは確かに美しい。しかし現実の政治は、そこまで脚本家に親切ではない。

 それでも、第一次政権と第二次政権の違いを一つだけ取り出すなら、「順序」という言葉は捨てる必要がない。第一次政権の安倍は、自分が実現したい政治をかなり早い段階から前面に押し出した。第二次政権の安倍は、自分が実現したい政治の前に、それを実現できる時間と権力基盤を作ることを重視した。

 第一次政権の安倍は、理念を急いだ。第二次政権の安倍は、順番を覚えた。ただし、その順番だけが長期政権を生んだわけではない。安倍自身の学習と、野党の弱体化、選挙制度、連立構造、官邸機能の強化、経済状況、健康状態といった条件が重なったところに、第二次安倍政権は成立していた。

 政治家が成長したから歴史が変わった、と言えば物語としては美しい。しかし実際には、政治家が変わり、制度が変わり、敵が弱くなり、運にも恵まれ、その全部が揃ったときに初めて長期政権は生まれる。第二次安倍政権の本当の特徴は、安倍晋三が第一次政権の失敗を忘れなかったことだけではなく、その経験を生かせる政治環境が、二度目にはそこに存在していたことなのである。

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はじめに~本稿は個人攻撃を目的とするものではない

本稿は、高市早苗首相の人格、性別、家族、容姿、支持者などを批判するものではない。

令和8年7月31日時点で確認できる国会会議録、政府・政党の公式発表、衆参両院の資料、複数の報道を基に、高市首相の国会運営能力を検証することを目的とする。

高市首相の政策に賛成か反対かという問題と、首相として国会を適切に運営できているかという問題は分けて考える。

また、高市首相が安倍晋三元首相の政治的後継を自認、またはその支持基盤を継承していると評価されることについても、思想や政策の類似だけではなく、議会運営、野党との調整、参議院への対応、官僚機構の使い方という観点から比較する。

本稿で用いる「稚拙」「軽視」「後継者として不十分」といった評価は、感情的な印象ではなく、可能な限り観察可能な行動から導く。

ただし、政治的力量は自然科学の実験のように完全には証明できない。

そこで本稿では、事実を次の五つの評価軸に分ける。

  1. 国会への説明責任
  2. 野党との合意形成能力
  3. 参議院と衆参二院制への理解
  4. 官僚機構に対する統制と専門性の活用
  5. 政策実現のための日程管理と結果

この五項目によって、高市首相の国会運営を検証する。

高市首相は強い衆議院基盤を得た

令和8年2月8日の衆議院議員総選挙で、自由民主党と日本維新の会を合わせた与党は352議席を獲得した。

高市首相は選挙後の記者会見で、この結果を重要政策の転換に対する国民の信任と位置づけた。一方で、参議院では与党が過半数を有していないことを認め、「様々な声に耳を傾け、謙虚に」政権運営を行うと述べていた。

令和8年2月18日の首相指名では、衆議院で354票を得た。参議院では最初の投票で過半数に届かず、決選投票によって首相に指名された。

この結果は、高市内閣の政治基盤について二つの異なる事実を示している。

一つは、衆議院では極めて強い多数を持っていることである。

もう一つは、参議院では単独で安定した多数を形成できていないことである。

したがって、高市内閣に求められる国会運営は、衆議院では多数を背景に政策を推進しつつ、参議院では野党を説得し、修正協議を行い、法案ごとに合意を形成するというものであった。

これは高市首相に不利な条件だけではない。

議院内閣制と衆参二院制を理解する首相であれば、参議院との調整能力を示す機会でもある。

衆議院の勝利は、国会全体への白紙委任ではない

高市首相は、衆議院選挙の大勝を自らの政策転換に対する信任として強く位置づけている。

選挙で掲げた政策を実行することは、民主政治の基本である。大勝した政権が、選挙後に公約を放棄する方が問題である。

しかし、衆議院選挙の勝利を、国会審議の結論まであらかじめ決まったものと解釈することはできない。

日本では、首相を国民が直接選ぶ制度は採られていない。

衆議院議員は選挙区や比例代表で選ばれ、有権者の投票理由も一様ではない。高市首相個人への支持、地元候補への支持、経済政策への期待、野党への不信、連立政権への評価など、複数の理由が含まれる。

さらに、参議院議員も国民による選挙で選ばれている。

衆議院選挙が新しいという理由だけで、参議院に表れている民意が無効になるわけではない。

衆参二院制は、異なる時期、異なる任期、異なる選挙制度によって選ばれた二つの議院が、政策を重ねて審議する制度である。

高市首相が衆議院の大勝を強調する一方で、参議院の反対を政策実現の妨害とみなすなら、それは二院制の理解として不十分である。

国会への出席時間は、首相の姿勢を測る一つの指標になる

令和8年の国会では、高市首相の予算委員会などへの出席が少ないことが争点となった。

毎日新聞は、衆参両院の予算委員会集中審議における高市首相の出席時間が合計30時間余りにとどまり、与野党から国会軽視との批判が出たと報じている。

首相の国会出席時間が長ければ、必ず優れた首相であるとは限らない。

外交、安全保障、災害対応、行政全般の統括など、首相には国会以外にも重要な職務がある。各省の専門的事項については、担当大臣が答弁する方が適切な場合も多い。

したがって、単純に「出席時間が短いから失格」と結論づけることはできない。

一方、予算の基本方針、内閣全体の政策、衆議院解散の判断、重要な制度改革、首相自身の政治姿勢については、担当大臣だけでは答えられない。

これらの論点についてまで首相出席を抑制すれば、議院内閣制における内閣の国会責任が弱まる。

令和8年7月17日の参議院予算委員会では、野党議員から国会出席の少なさを問われ、高市首相は国会出席自体を嫌っているわけではないという趣旨で答えている。

問題は、首相が国会を嫌っているかどうかではない。

首相にしか説明できない問題について、必要な時間を確保したかどうかである。

本人の主観ではなく、実際の出席、答弁、資料提出、再質問への対応によって評価する必要がある。

「国会運営は国会が決める」という説明の限界

令和8年度予算審議において、高市首相は「国会の運営については国会でお決めいただくこと」と答弁した。

同時に、国民生活に支障を生じさせないため、野党にも協力を求め、予算の年度内成立を目指す考えを示した。委員会への出席については、「お呼びがあれば私は参ります」と述べている。

国会の委員会日程を国会自身が決めるという説明は、制度上は正しい。

しかし、現実の国会では、政府提出法案の提出時期、優先順位、首相や閣僚の出席可能日、与党の採決方針などに内閣と与党が大きな影響を持つ。

したがって、国会運営が混乱したときに、「国会が決めること」と述べるだけでは、首相としての政治的責任を十分に説明したことにはならない。

首相が強い衆議院基盤を政策推進の根拠にするのであれば、その日程管理と合意形成についても責任を負うべきである。

政策を進める局面では首相主導を強調し、審議日程が問題になると国会の自主性を持ち出すなら、権限と責任の関係が不均衡になる。

野党軽視と評価できるのか

高市内閣が野党を完全に無視していると断定することはできない。

高市首相は公式には、野党に協力を求め、様々な声に耳を傾けると繰り返している。党首討論や予算委員会にも出席している。

したがって、「野党とは一切対話していない」という批判は事実に反する。

しかし、野党への配慮は、会談や答弁の回数だけで測るものではない。

重要なのは、野党の指摘によって政府案が修正されたか、審議時間が確保されたか、資料が提出されたか、採決前に合意形成が試みられたかである。

令和8年夏の国会では、衆議院比例代表の定数削減法案や副首都構想に関する法案を巡り、野党が欠席する中で与党側が審議を進めたとして、複数の報道機関や公明党関係者から強引な運営との批判が出た。特に、連立政権内の合意を国会に押しつけているとの指摘が紹介されている。

議員定数や選挙制度は、現在の多数派だけに影響する問題ではない。

将来の政党間競争、少数政党の議席、地域代表、民意の反映方法に関わる。

この種の制度変更を、与党内の連立合意を根拠に短期間で進めることは、通常の政策法案以上に慎重でなければならない。

高市内閣が野党の出席を待たずに審議を進めたこと自体は、国会規則上直ちに違法という意味ではない。

しかし、制度変更の性質を考えれば、政治的には合意形成が不十分だったと評価できる。

したがって、「野党軽視」という評価には一定の根拠がある。

ただし、野党側にも、審議拒否や日程闘争を政策内容の検討より優先していなかったかという検証が必要である。

野党が反対するだけで、具体的な修正案や代替案を示さなかった場合には、野党も責任を免れない。

参議院軽視と評価できるのか

参議院軽視を判断するには、三つの要素を見る必要がある。

第一は、参議院の審議時間を十分に確保したか。

第二は、参議院で与党が過半数を持たない状況を踏まえ、事前の協議を行ったか。

第三は、参議院の修正や警告を政策へ反映したかである。

高市首相自身は、衆議院選挙後の会見で、参議院では与党が過半数を持たないことを明確に認め、野党の協力を求めると述べていた。

ところが、実際の国会運営では、衆議院での大きな多数を背景に審議を先行させ、参議院側に限られた時間で処理を求める形になったとの批判が出ている。

衆議院の優越が認められている事項はある。

予算、条約、首相指名では、衆議院の意思が参議院より強く扱われる。

しかし、衆議院の優越は、参議院審議を形式化してよいという意味ではない。

むしろ、憲法が衆議院の優越を個別に定めていることは、それ以外の領域では参議院の意思が独立した意味を持つことを示している。

高市首相の国会運営が、参議院を「衆議院で決めた内容を最終的に通過させる場所」として扱っていたなら、二院制への理解は浅いと評価せざるを得ない。

参議院で与党が過半数を持たないことは、異常事態ではない。

首相に対し、説得、修正、協議を求める政治的条件である。

それを煩わしい制約とみなすか、合意形成の機会とみなすかによって、首相の議会政治家としての力量が表れる。

財務省軽視という評価は、慎重に扱う必要がある

高市首相は「責任ある積極財政」を掲げ、従来の財政再建路線に批判的な経済学者や元日本銀行関係者を政府の会議に起用した。

ロイターは、高市政権が積極財政論者を経済財政諮問会議などに登用し、財務省内に警戒感が生じていると報じている。一方、民間エコノミストからは景気下支えを期待する評価と、金利上昇や円安、財政拡大への歯止めが弱くなるとの懸念の双方が示されている。

ここから確認できるのは、高市首相と財務省の政策的な緊張である。

しかし、これだけで「財務省を軽視している」と断定することはできない。

財務省の見解は、選挙で選ばれた政府が必ず従わなければならない絶対的な答えではない。

財政政策の最終的な決定責任は、官僚ではなく内閣と国会にある。

財務省の財政規律重視に対し、首相が異なる経済理論を採用すること自体は、政治主導として正当である。

問題となるのは、財務省と異なる意見を採用したことではない。

反対意見を十分に検討したか。

金利、物価、為替、国債費、将来の利払い負担について数量的な試算を示したか。

積極財政論者だけでなく、財政規律を重視する専門家も意思決定に参加させたか。

政策が想定どおりに機能しなかった場合の修正基準を設けたか。

これらが重要である。

高市政権が財務省の権限を相対化し、異なる専門家を登用したことは、直ちに問題ではない。

しかし、自らに近い理論だけを選び、反対方向のリスク分析を排除した場合には、科学的な政策形成とはいえなくなる。

現時点の公開情報だけでは、「財務省を軽視した」と断定するより、「財務省の従来路線に対抗する人事と政策枠組みを作った」と表現する方が正確である。

数十年の議員経験は、首相としての力量を保証するか

高市早苗氏は長年にわたり国会議員を務め、複数の閣僚や党役職を経験してきた。

しかし、経験年数と政治的能力は同じではない。

経験年数が長ければ、制度、法案、官僚組織、党内調整に関する知識は一般に増えると考えられる。

一方で、経験が同じ行動様式を強化し、異なる意見への対応を硬直化させる場合もある。

したがって、「数十年議員を務めたのだから、必ず優れた首相になる」という推論は成り立たない。

評価すべきなのは経験年数ではなく、経験から行動が改善したかである。

具体的には、次の点を確認すべきである。

  • 過去の国会混乱から日程管理を学んだか
  • 野党時代に求めていた説明責任を、自らが政権を持った後も守っているか
  • 閣僚経験を通じて、官僚の専門性と政治主導を両立できるようになったか
  • 少数与党や参議院のねじれに対応する協議能力を身につけたか
  • 批判を政策修正へ結びつけているか

令和8年国会で、重要法案の審議が会期末に集中し、首相出席を巡って審議が停滞し、野党欠席下で審議を進める場面が生じたとすれば、長い議員経験が十分な合意形成能力へ転化していない可能性がある。

ただし、一つの国会だけで「何も学んでいない」と断定するのも過剰である。

高市首相が長年の経験から何を学んだかは、本人の内面なので直接確認できない。

客観的にいえるのは、その学びが国会運営の結果として十分に表れていない場面があるということである。

安倍晋三元首相との比較は慎重でなければならない

高市首相は、政策思想、安全保障観、憲法観、積極財政などの点で、安倍晋三元首相の政治的路線を継承する人物として支持されてきた。

しかし、政治的後継者であるかどうかは、思想が似ているだけでは決まらない。

首相としての後継者を名乗るのであれば、選挙戦略、党内統治、官僚統制、外交、野党対応、参議院との関係など、政権運営全体が比較対象になる。

安倍氏も、常に国会を尊重し、野党との合意を重視した首相だったとはいえない。

安倍政権では、安全保障関連法、特定秘密保護法、共謀罪などを巡って、審議の強行や説明不足への厳しい批判があった。

したがって、「安倍氏は常に熟議型で、高市氏だけが強権的である」という比較は正確ではない。

一方、第2次安倍内閣の発足直後には参議院で与党が過半数を持たない、いわゆるねじれ状態が存在した。安倍政権は、平成25年7月の参議院選挙で与党が多数を得るまで、参議院の構成を前提に政権を運営しなければならなかった。安倍氏が長期政権を維持できた背景には、選挙の勝利だけでなく、党内調整、連立相手である公明党との関係、官僚機構の統制、政策の優先順位づけがあった。安倍氏の通算在職期間は憲政史上最長となった。

高市首相と安倍氏の違いとして注目すべきなのは、思想の純度ではなく、政治的な幅である。

安倍氏は強い保守的理念を持ちながらも、政権維持のために公明党、党内各派、官僚、経済界などとの調整を行った。

政策のすべてを一度に実現しようとせず、優先順位をつけ、選挙日程や政権基盤を見ながら進めた。

高市首相が、安倍氏の政策的主張だけを継承し、調整、譲歩、優先順位づけという政権運営の技術を十分に継承していないのであれば、安倍政治の一部分だけを受け継いでいることになる。

「似非安倍後継者」という表現は妥当か

「似非安倍晋三の後継者」という表現は、政治評論として刺激的ではあるが、客観的な分析用語ではない。

「似非」には、本物を装った偽物という人格的な含意がある。

高市首相が意図的に安倍氏を偽装しているという事実は確認できない。

したがって、事実に基づく記事では、この表現を結論として使用することは適切ではない。

より正確な表現は、次のようになる。

「高市首相は安倍氏の政策的理念を継承しているが、安倍政権を支えた合意形成、党内統治、連立調整、参議院対応まで継承できているかには疑問が残る」

これは人格攻撃ではなく、政治的能力の比較である。

安倍氏の後継を評価するなら、安倍氏と同じ言葉を使っているかではなく、安倍氏が実際に行った政権運営を再現できているかを見るべきである。

後継者とは、標語を受け継ぐ人ではない。

理念を現実の制度の中で実行可能な政策に変換できる人である。

数理的な評価枠組み

政治的力量を完全に数値化することはできない。

しかし、評価基準を明示することで、感情的な判断を減らすことはできる。

本稿では、五つの項目を各20点、合計100点として考える。

1.説明責任

評価対象は、首相出席、答弁の直接性、資料公開、訂正、再質問への回答である。

高市首相は国会へ出席し、答弁も行っているため、ゼロ評価にはならない。

一方、出席時間の少なさや首相出席を巡る審議停滞が確認されており、高得点も与えにくい。

暫定評価は10点から12点程度となる。

2.野党との合意形成

野党との会談や党首討論は行われている。

しかし、重要法案を巡り、野党欠席下で審議が進められたことや、強引な運営との批判が与野党から出ている。

暫定評価は7点から10点程度となる。

3.参議院への対応

高市首相は、参議院で与党が過半数を持たないことを認識し、協力を求めている。

一方、衆議院で決めた日程や法案を参議院に処理させる構図が強まり、参議院の独自性を十分に生かしたとは評価しにくい。

暫定評価は7点から10点程度となる。

4.官僚機構と専門性の活用

財務省の従来路線に異論を持つ専門家を登用したことは、政治主導と政策選択の多様化として評価できる。

一方、積極財政の副作用に対する検証が十分かは継続的に確認する必要がある。

暫定評価は11点から14点程度となる。

5.政策実現と日程管理

衆議院で強い基盤を築き、政策実現を推進する能力はある。

しかし、国会日程の混乱、重要法案の会期末集中、野党との対立による審議停滞は減点要素になる。

暫定評価は9点から12点程度となる。

合計すると、44点から58点程度になる。

これは、高市内閣が機能していないという意味ではない。

政策推進力と人事主導は認められる一方、議会運営、合意形成、参議院対応に明確な弱点があるという評価である。

なお、この得点は科学的に証明された絶対値ではない。

評価基準と根拠を公開し、異なる評価者が修正できるようにした分析上の目安である。

高市首相を支持する側から考えられる反論

公平を期すため、高市首相を支持する側の反論も検討する必要がある。

第一に、野党が首相出席を過度に要求し、政策審議を政局化しているという反論がある。

確かに、担当大臣で回答できる内容まで首相出席を求めれば、行政全体の効率が低下する。野党が同じ質問を繰り返したり、審議拒否を交渉手段として常態化させたりする場合には、野党にも責任がある。

第二に、衆議院選挙で圧倒的な信任を得た以上、政策を迅速に実行することが民主的責任だという反論がある。

これも一定の合理性がある。

選挙で公約を掲げて勝利した政権が、野党の反対を理由に何も実施しなければ、選挙結果が政策へ反映されない。

第三に、財務省への対抗は、官僚主導を改めるために必要だという反論がある。

財務省の財政規律論が常に正しいわけではない。経済成長、物価、雇用、災害対応、安全保障などを考えれば、積極財政が合理的な時期もある。

これらの反論は無視できない。

しかし、政策の迅速な実行と国会審議の軽視は同じではない。

政治主導と専門家の排除も同じではない。

首相出席の効率化と説明責任の縮小も同じではない。

高市首相を擁護する場合にも、この区別が必要である。

客観的な総合評価

令和8年7月31日時点で、高市首相について確認できるのは、次のような姿である。

衆議院選挙で大きな勝利を得て、強い政策推進基盤を築いた。

自らの経済・安全保障・国家観を明確にし、従来の政策路線を転換しようとしている。

財務省を含む官僚機構に対し、政治主導を強めようとしている。

この点では、方向性の明確な首相である。

一方、国会運営では、首相出席、野党との協議、重要法案の日程管理、参議院との合意形成に問題が表れている。

特に、衆議院の大きな多数を、政策実現の根拠として強く使う一方、参議院で与党が過半数を持たないという別の民意への対応が十分とはいえない。

高市首相の弱点は、理念がないことではない。

むしろ、理念が強い一方で、それを異なる立場の議員や国民が受け入れられる制度へ変換する政治技術が追いついていないことにある。

数十年の国会議員経験が、政策知識や発信力としては蓄積されている。

しかし、それが首相として必要な譲歩、調整、優先順位づけ、参議院対応へ十分に結びついているかには疑問が残る。

安倍晋三元首相の後継という点でも、政策思想の継承は明確である。

一方、安倍氏が長期政権の中で示した党内統治、連立調整、官僚統制、選挙戦略、政策の優先順位づけまで継承できているとは、現時点では評価しにくい。

したがって、高市首相を「安倍氏の偽物」と人格的に揶揄することは適切ではない。

しかし、「安倍路線の理念は継承しているが、安倍政権の統治技術までは継承できていない」という批判は、一定の事実的根拠を持つ。

結論~強い理念だけでは、首相の力量は完成しない

高市早苗首相は、政治的な方向性が明確であり、選挙で強い衆議院基盤を獲得した。

その事実は正当に評価すべきである。

財務省の方針に無条件で従わず、異なる経済理論を政策へ取り入れようとする姿勢も、それ自体は民主政治における政治主導の一形態である。

しかし、首相の力量は、政策を強く主張する能力だけでは測れない。

反対する野党を説得できるか。

参議院の独自性を尊重できるか。

自分に不利な質問にも答えられるか。

専門家の反対意見を政策へ取り込めるか。

法案を会期内に成立させるため、余裕を持った日程を組めるか。

必要なら修正や撤回を受け入れられるか。

これらが首相としての統治能力を構成する。

高市首相の国会運営には、強い衆議院基盤に依存しすぎ、参議院や野党との合意形成を政策実現の中心に置いていないように見える場面がある。

これは、単なる野党側の不満ではない。

議院内閣制と衆参二院制の下で首相を務める以上、制度上の弱点になり得る。

現時点での客観的評価は、次のようにまとめられる。

高市首相は、理念、発信力、選挙動員、政策転換の意思では強い。

一方、国会調整、少数意見への対応、参議院との関係、重要法案の日程管理では、首相として未成熟な部分を示している。

安倍晋三元首相の後継を評価するなら、安倍氏の政策的言葉を繰り返すだけでは足りない。

安倍氏が長期政権を維持するために身につけた現実的な調整力、優先順位づけ、連立運営、異なる勢力を政権内に取り込む技術まで継承できるかが問われる。

高市首相が今後、参議院と野党を障害ではなく、政策を検証し改善する相手として扱えるか。

財務官僚を敵視するのではなく、異論を含む専門知を政策へ統合できるか。

衆議院の多数を、押し切る力ではなく、より丁寧に説明する責任として使えるか。

それができなければ、高市首相は安倍政治の理念的後継者ではあっても、統治能力を含む実質的な後継者とは評価されにくい。

逆に、この弱点を認識して国会運営を修正するならば、長年の議員経験が首相としての学びへ転化したと評価できる。

結論は、今後の行動によって変わり得る。

それこそが、人物への好き嫌いではなく、反証可能な事実に基づいて政治家を評価するということである。

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