地域政経

九条レオンの地域から社会と政治・経済のこれからを考える

政治に裏切りが必要になることはあるのか

- Posted in 政治家論 by

 政治家を批判するとき、「裏切った」という言葉ほど強いものはない。選挙で掲げた公約を実行しなかった。昨日まで反対していた政策に賛成した。所属していた政党を離れた。長く支えてきた支持者とは違う方向へ舵を切った。こうした場面に出会うと、私たちはその政治家の一貫性を疑い、さらにその奥にある人格や信用まで疑いたくなる。

 それは決して不合理な反応ではない。民主主義において選挙が意味を持つためには、有権者が「この候補者なら、おおむねこの方向へ進むだろう」と予測できなければならないからである。選挙の翌日に公約をすべて捨てても構わないのであれば、選挙は未来の政策を選ぶ仕組みではなく、単に人物の名前を書く儀式に近づいてしまう。

 実際、政治学の研究でも、公約は私たちが想像するほど無意味ではない。複数の民主主義国を比較した研究では、政権を担った政党が相当部分の公約を実際に実現していることが確認されており、公約をより多く履行した政権ほど次の選挙で評価されやすいという研究もある。つまり、有権者が公約を気にすることにも、政治家が公約を守ろうとすることにも、民主主義の仕組みとして十分な理由がある。

 それでも政治という仕事を少し長い時間の中で眺めると、一つの厄介な問題が浮かび上がる。

 政治家は、本当に「裏切らないこと」だけを目指せばよいのだろうか。

 選挙のときには合理的だった政策が、その後の経済危機や災害、人口変化、新しいデータによって不合理になったとしても、約束した以上は実行すべきなのか。所属政党の方針が住民の利益に反すると判断しても、党を裏切らないために賛成すべきなのか。支持者の要求と社会全体の利益が衝突したとき、政治家はどちらに忠実であるべきなのだろう。

 こうして考えていくと、政治における「裏切り」は、単純な道徳問題ではなくなってくる。

政治家は誰の代理人なのか

 政治家の場合、忠誠を向ける相手が一つではない。有権者から選ばれ、政党に所属し、公約を掲げ、議会の一員となり、同時に自治体や国家全体の利益について判断する立場に置かれる。選挙区の住民、支持者、政党、議会、行政、そしてまだ投票することのできない将来世代まで含めれば、政治家が向き合う利害は最初から重なり合っている。

 しかも、それらがいつも同じ方向を向いているわけではない。

 たとえば、ある地方議員が「この学校は絶対に残す」と訴えて当選したとする。当選した時点では、地域の人口も財政も、その約束を支えられる状態だった。しかし数年後、出生数が予想以上に減り、一学年に数人しかいなくなった。教員配置や教育環境、建物の更新費用、通学時間まで調べてみると、学校を統合し、スクールバスなどの移動手段を充実させた方が子どもたちにとって望ましいという結論に近づいていく。

 ここで議員が統合に賛成すれば、選挙時の約束を裏切ったと言われるだろう。

 しかし、学校を残すという過去の言葉だけを守った結果、現在の子どもたちの教育環境が悪化したなら、その議員は別のものを裏切ったとも言える。つまり、過去の約束に忠実であるために、現在の住民の利益を犠牲にしたことになる。

 政治の難しさは、ここにある。

 何かを裏切らないという行為が、別の何かに対する裏切りになることがある。

バークが考えた「代表する」という仕事

 この問題は、現代だけのものではない。

 18世紀のイギリスの政治家・思想家エドマンド・バークは、議員を選挙区の要求をそのまま運ぶ使者とは考えなかった。議員は有権者の意見を重く受け止めなければならないが、それと同時に、自分自身の知識と判断を使って公共の利益を考える存在であるべきだ、と考えたのである。

 この発想に立てば、政治家は有権者の命令を機械的に実行する装置ではない。

 ただし、だからといって「政治家は自分の好きなように決めてよい」ということにもならない。バーク型の代表観が政治家に与えるのは自由というより、むしろ重い責任である。自分の判断で有権者の期待と異なる決定をする以上、「なぜそう判断したのか」を説明し、その判断について政治的責任を負わなければならないからだ。

 これは民主主義に存在する二つの考え方の緊張でもある。

 一方には、有権者から与えられた意思をできるだけ忠実に実行する代表者像がある。他方には、選ばれた者が情報を集め、熟慮し、場合によっては有権者の目前の要求とは違う判断をする代表者像がある。

 現実の政治は、そのどちらか一方だけでは成り立たない。

 有権者の意思を無視すれば民主主義ではなくなり、反対にその瞬間の多数意見だけを機械的に実行すれば、代表者が判断する意味がなくなってしまう。

公約は未来を知らない時点で作られる

 公約には、避けることのできない性質がある。

 それは、未来を知らない時点で作られるということである。

 選挙が行われたときには存在しなかった感染症が広がるかもしれない。景気が急激に悪化するかもしれない。税収が予想を大きく下回ることもある。巨大災害が発生すれば、財政支出の優先順位は一夜で変わる。人口予測が外れることも、新しい技術によって以前は不可能だった政策が可能になることもある。

 それでも、「公約は一度掲げた以上、何が起きても変更してはいけない」と考えるなら、政治家に期待しているのは判断ではない。選挙の時点で書かれたプログラムを、その後の現実に関係なく実行することになる。

 しかし、政治とは本来、未来が完全には分からない社会で判断を繰り返す仕事である。

 だから、政策変更そのものを直ちに裏切りと呼ぶのは少し粗い。

 問題にすべきなのは、何を変更したかだけではなく、なぜ変更したのかである。

 新しい事実が判明したから変えたのか。前提条件が崩れたから変えたのか。自分の判断が間違っていたと認めて変えたのか。それとも、権力を得た後で自分に都合のよい方向へ動いただけなのか。

 同じ「昨日と言っていることが違う」という現象でも、その中身はまったく異なる。

「不人気な決断」は、それだけでは正しくない

 ここで一つ注意しなければならない。

 政治を論じるとき、しばしば「本当に必要な改革ほど国民には嫌われる」という物語が語られる。病院を統合する。公共施設を減らす。赤字路線を廃止する。負担を増やす。こうした政策は短期的に反発を生みやすく、選挙上の不利益になる場合がある。

 しかし、不人気だから正しいわけではない。

 病院統合が合理的な場合もあれば、医療アクセスを著しく悪化させるだけの場合もある。増税が財政の持続可能性に必要な場合もあれば、単に政策設計が悪い場合もある。公共施設を減らすことが合理化になる場合もあれば、必要な生活基盤を破壊する場合もある。

 政治家が「批判されても改革を断行する」と言ったからといって、その改革が正しいと証明されたことにはならない。

 政治学の研究から比較的確かに言えるのは、政治家の行動が選挙上の誘因から完全に自由ではないという程度である。再選の可能性や選挙制度が議員の行動に影響することは確認されているが、そこから「選挙に不利な政策ほど社会にとって正しい」という結論を導くことはできない。

 だから必要なのは、勇気の演出ではなく根拠である。

 どの政策を変えるのか。その変更によって誰が利益を得て、誰が負担するのか。別の方法はなかったのか。将来の費用まで含めると、本当にその選択が合理的なのか。

 政治家が有権者の期待を裏切ることを正当化できるとすれば、その判断を検証可能な形で説明できる場合に限られるだろう。

「党を裏切る」とは何を意味するのか

 裏切りという言葉がとりわけ強く使われるのが、政党を離れたり、党の方針に反対したりする場面である。

 しかし、ここでも事情は単純ではない。

 ある議員が政策上の重大な対立から離党する場合と、役職や選挙上の利益を得るために有利な政党へ移る場合とでは、同じ「離党」でも意味が違う。実際、海外の議会を調べた研究では、党を移ったという事実だけでなく、なぜ移ったのかによって有権者の評価が異なる可能性が示されている。

 これは直感的にも理解できる。

 「この政策だけは自分の信念と両立しない」と説明して議席や役職を失う覚悟で党と対立する政治家と、選挙に有利だから強い政党へ移る政治家を、まったく同じ裏切りとして扱うのは難しい。

 だから、政治における一貫性を測るときには、所属先だけを見るのでは足りない。

 何を守ろうとして立場を変えたのかを見る必要がある。

未来の住民は投票所に来ない

 政治には、もう一つ厄介な問題がある。

 時間である。

 現在の政策決定によって影響を受けるのは、現在の有権者だけではない。道路や上下水道、公共施設、国債、年金制度、環境政策、都市計画などは、数十年後の住民にも影響を与える。

 ところが、20年後にその地域で暮らす人々は、今日の選挙には参加できない。

 そのため民主政治には、短い選挙周期の中では将来世代の利益が現在の有権者の要求より弱くなりやすい、という問題が生じることがある。これは政治学で「政治的短期主義」として研究されてきた問題の一つである。

 もちろん、民主主義だから必ず未来が犠牲になるわけではない。現在の有権者も、自分の子どもや孫の生活を考える。財政規律や環境保護を支持する人もいるし、制度によって長期的な政策を守ることもできる。

 それでも、現在の有権者には一票があり、まだ生まれていない人には一票がないという非対称性そのものは消えない。

 この事実を考えると、「支持者を裏切らない政治」という言葉の意味も変わって見えてくる。

 すべての道路を残す。すべての公共施設を維持する。負担は増やさない。サービスも減らさない。それは現在の住民にとって魅力的であり、政治家にとっても説明しやすい。

 しかし、その費用は消えてなくならない。

 借金になり、更新費になり、人手不足になり、将来の住民が選べる政策の幅を狭めていく。

 現在の支持者を裏切らないために未来の選択肢を削っているのだとすれば、それもまた政治的な忠誠のあり方として検討されなければならない。

「状況が変わった」は便利な言葉でもある

 ここまでなら、「では政治家は状況に応じて自由に公約を変えればよい」という話に聞こえるかもしれない。

 しかし、そこには危険な落とし穴がある。

 権力を持つ側にとって、「状況が変わった」「国民のためだ」「苦渋の決断だった」という説明ほど便利な言葉はないからである。

 選挙前には反対していた政策を、権力を得た途端に支持する。既得権益を改革すると訴えていたのに、政権を取ると既存の利害関係に取り込まれる。政策上の理由ではなく役職や党内での立場を守るために態度を変える。それらまで「現実的な政治」と呼んでしまえば、公約も政治的責任も意味を失う。

 そこで、正当化可能な政策変更と、単なる政治的裏切りの境界が必要になる。

 その境界を完全な数式のように引くことはできないが、判断材料はある。

 何が変わったのかを具体的に説明できるか。変更前の判断のどこが誤っていたのかを認めているか。変更によって誰が利益を得るのかを公開できるか。自分自身や特定の支持団体だけが利益を得る構造になっていないか。以前の公約を維持する場合と変更する場合を比較した根拠が示されているか。

 そして何より、その変更について有権者の審判を受ける意思があるか。

 民主主義において正当化される方針転換とは、責任から逃れるための変節ではない。

 むしろ、「以前の自分の判断は誤っていた」「状況が変わったのでこの政策は維持できない」と説明し、その結果として支持を失う可能性まで引き受ける行為でなければならない。

一貫性とは、同じことを言い続けることなのか

 私たちは政治家に一貫性を求める。

 それ自体は正しい。昨日と今日で都合よく言うことを変える政治家ばかりになれば、選挙による選択も責任追及も成り立たなくなる。

 しかし、一貫性という言葉には二つの意味が混ざっている。

 一つは、判断基準の一貫性である。

 誰の利益を重視するのか。公平性と効率性をどう考えるのか。現在世代と将来世代をどう扱うのか。そうした価値判断の軸を保ちながら、新しい情報に応じて政策手段を変える。

 もう一つは、発言内容の一貫性である。

 状況が変わっても、「以前そう言ったから」という理由だけで同じ政策を続ける。

 政治に本当に必要なのは、後者より前者ではないだろうか。

 人口が増え続けることを前提につくられた公共施設を、人口が半分になっても維持することが信念なのか。成長期につくられた制度を、その前提条件が失われたあとも変えないことが一貫性なのか。

 それはもしかすると、現在の社会に忠実なのではなく、過去の自分に忠実なだけなのかもしれない。

「裏切り」が必要なのではない

 ここまで考えてくると、最初の問いにも少し違った答えが見えてくる。

 政治に「裏切り」が必要なのかと問われれば、厳密には少し違う。

 必要になることがあるのは、裏切りそのものではない。

 新しい事実によって以前の判断が維持できなくなったとき、過去の公約や所属政党、支持者の目前の要求と異なる方向へ進むことである。

 公約違反、政策変更、離党、党の方針への反対、支持者の要求への拒否は、日常語ではすべて「裏切り」と呼ばれることがある。しかし政治学的に見れば、それらは同じ行為ではない。動機も違えば、民主主義に与える影響も違う。

 だから評価すべきなのは、「裏切ったか、裏切らなかったか」という一語ではない。

 何を守るために、何を変更したのか。

 そこを見る必要がある。

 政治家が決して裏切ってはならないものがあるとすれば、それは過去に口にした一つ一つの言葉ではないだろう。政党そのものでも、特定の支持団体でもない。

 それは、政治によって影響を受ける人々の利益について考え続け、その判断を説明し、結果について責任を負うという、代表者としての役割ではないだろうか。

 その責任を守ろうとすれば、ときには公約を修正し、党と対立し、支持者を説得し、そして昨日までの自分自身を否定しなければならないこともある。

 だから政治に必要なのは、「絶対に裏切らない政治家」ではないのかもしれない。

 必要なのは、何を変え、なぜ変えたのかを説明できる政治家である。そして、より大きな責任を守るために過去の約束を変えたのだと言うのであれば、その判断が間違っていたと有権者から裁かれる可能性まで引き受ける政治家である。

 政治において問われるべきなのは、裏切ったという事実だけではない。

 その政治家が、最後まで何を裏切らなかったのかなのである。

九条レオンリベラル文庫の記事をさらに読む

九条レオンの文学・文芸に関する記事をまとめています。

リベラル文庫のページを見る