地域政経

九条レオンの地域から社会と政治・経済のこれからを考える

「民意の直接反映」という利点と、分断・単純化・誤情報がもたらす危険を検証する

SNS(Social Networking Service・交流サイト)は、政治のあり方を大きく変えた。

かつて政治家が多数の有権者へ直接語りかけるには、新聞、テレビ、ラジオ、街頭演説、政党機関紙などを利用する必要があった。

現在は違う。

政治家がスマートフォンから投稿すれば、数分後には何万人、何十万人へ情報が届くことがある。有権者も、その発言へ直接反応し、共有し、批判し、別の意見を発信できる。

この変化には明確な民主的価値がある。

既存メディアで取り上げられなかった問題を社会へ知らせることができる。大きな政党や組織を持たない政治家でも有権者へ直接訴えることができる。政治への参加障壁も低くなる。

その意味で、SNSそのものを民主主義の敵と考えるのは適切ではない。

しかし、SNSと非常に親和性が高い政治手法がある。

ポピュリズムである。

「既得権益を持つエリート対普通の国民」

「われわれ対あいつら」

「複雑な制度より国民の常識」

「専門家より民意」

「既存メディアは真実を隠している」

こうした単純で感情的な政治メッセージは、短く、共有しやすく、対立を明確にできる。

SNSの構造は、こうしたポピュリズム的コミュニケーションと非常に相性がよい。

問題はここにある。

SNSは政治参加を民主化する一方で、政治的な複雑さを削り、敵味方の対立へ置き換え、怒りや不信を政治資源へ変換する仕組みにもなり得る。

本稿では、ポピュリズムに否定的な立場から、その問題を検討する。

ただし、結論を先に決めて都合のよい事例だけを集めるのではない。

ポピュリズムが既存政治へ与える是正作用を認めたうえで、それでもなぜ長期的には議会制民主主義、専門知、少数者の権利、制度的な権力抑制と衝突しやすいのかを、政治学とメディア研究の知見から考える。

1.そもそもポピュリズムとは何か

「ポピュリズム」という言葉は日常会話では、「人気取り政策」「大衆迎合」「ばらまき政策」といった意味で使われることが多い。

しかし、政治学上の定義はもう少し厳密である。

政治学者カス・ムッデによる定義は、現在のポピュリズム研究で広く使用されている。

そこではポピュリズムを、社会を基本的に「純粋な人民」と「腐敗したエリート」という二つの同質的で対立する集団へ分け、政治は人民の一般意思を表現すべきだと考える「薄い中心を持つイデオロギー」と整理する。

重要なのは、ポピュリズム自体が右翼や左翼を意味しないことである。

右派ポピュリズムにも左派ポピュリズムにもなり得る。

保守主義、ナショナリズム、社会主義、反緊縮政策など、別の政治思想と結びつく。

その核心は政策内容ではなく、

「正しい人民」

「腐敗したエリート」

という政治の捉え方にある。

ここが通常の民主政治と決定的に違う。

議会制民主主義は、社会には複数の正当な利益と価値観が存在することを前提にする。

農業者と消費者。

労働者と経営者。

若年者と高齢者。

都市住民と地方住民。

納税者と給付を必要とする人。

安全保障を重視する人と自由を重視する人。

誰か一方だけが「真の国民」なのではない。

民主政治とは、この異なる利益を制度の中で調整する仕組みである。

ポピュリズムはこれに対し、「国民には一つの本当の意思が存在する」という方向へ傾きやすい。

この差が、後に大きな問題になる。

2.SNSはなぜポピュリズムと相性がよいのか

SNS以前、政治家が国民へ情報を伝える場合、新聞記者やテレビ局などの編集過程を通ることが多かった。

記者が質問する。

発言の背景を確認する。

反対側にも取材する。

数字を検証する。

編集者が内容を確認する。

もちろん、既存メディアが常に公正で正確だったという意味ではない。

誤報も偏向も存在する。

しかし、少なくとも情報が大量の人へ届くまでには、一定の中間過程が存在した。

SNSではそれを迂回できる。

政治家から支持者へ直接届く。

これは「中抜き」であり、民主主義上の長所でもある。

しかし同時に、検証機能も中抜きされる。

政治家が、

「マスコミは報じない真実です」

と投稿すれば、その文章そのものが一次情報として支持者へ届く。

そこに報道機関の確認は必要ない。

しかも、支持者自身が拡散装置になる。

これがSNS時代のポピュリズムの大きな特徴である。

3.従来の政治では支持者だった人が、SNSでは情報流通者になる

テレビの政治演説を見た有権者は、基本的には情報の受信者だった。

SNSでは違う。

「いいね」

共有

引用

コメント

動画の切り抜き

再編集

短い解説

を通して、一人ひとりが情報流通へ参加する。

これは民主的には大きな進歩である。

しかし、政治運動の構造として見ると重要な意味を持つ。

例えば、政治家Aに10万人の熱心な支持者がいるとする。

政治家Aが一つ投稿する。

そのうち1万人が共有する。

共有先でさらに数十人ずつが見る。

こうなると、政党が新聞広告やテレビ広告を買わなくても、支持者自身が政治宣伝のネットワークになる。

つまりSNSは、

政治家 → 有権者

という一方向の情報伝達を、

政治家 → 支持者 → 支持者の知人 → さらに別の利用者

というネットワーク型へ変えた。

ポピュリズムは、この仕組みを非常に利用しやすい。

なぜなら、複雑な政策説明より、

「許せないと思ったら拡散してください」

という感情的メッセージの方が共有行動へ結びつきやすいからである。

4.ポピュリズムの最大の長所~既存政治が無視した不満を可視化する

ポピュリズムを完全に否定する前に、その長所を確認する必要がある。

政治学でも、ポピュリズムには民主主義の「是正機能」があり得ると議論されてきた。既成政党が十分に代表していなかった人々を政治へ取り込み、既存の代表制の失敗を可視化する可能性がある。

例えば、

地方衰退

実質賃金の停滞

雇用不安

社会保障への不満

既存政党への不信

行政の不透明性

大企業と政治の関係

都市と地方の格差

などについて、既成政党や大手メディアの問題認識が弱ければ、その不満を拾う政治運動には意味がある。

ポピュリスト政治家の支持者を、

「情報弱者」

「政治を理解していない人」

と片付けることも適切ではない。

有権者が不満を持つ背景には、実際の経済的・社会的問題が存在する場合がある。

したがって、ポピュリズムの支持拡大は、民主主義の故障を知らせる警報器として機能することがある。

問題は、その警報が示した問題をどう解決するかである。

5.SNSの第一のメリット~政治参加の参入障壁を下げる

SNS以前に大規模な政治運動を行うには、相当な資源が必要だった。

政党組織。

新聞広告。

テレビ出演。

大量のビラ。

街宣車。

事務所。

支持団体。

資金。

現在は、スマートフォン一台でも政治的主張を全国へ届けられる可能性がある。

これは新規政党、小規模政党、市民運動にとって大きなメリットである。

政治的ネットワークが政治参加を促進すること自体は、政治参加研究でも長く確認されてきた。社会的ネットワークを考慮することで、人々が民主的過程へ参加する理由をより深く理解できることが指摘されている。

SNSはそのネットワーク形成の費用を劇的に下げた。

これは否定すべきではない。

6.第二のメリット~政治家と有権者の距離を縮める

従来、国会議員の日常的な考えを直接読む機会は限られていた。

現在は、国会議員、地方議員、首長、政党などが自ら情報を公開できる。

法案提出。

国会質問。

地域活動。

災害対応。

政策資料。

こうした情報が直接公開されれば、政治の透明性は高まる。

既存メディアの記事だけに依存せず、政治家本人の説明を確認できることも重要である。

SNSを利用した政治コミュニケーションそのものには民主的価値がある。

したがって、本稿が否定的に評価する対象はSNSではない。

SNSによって増幅される、反多元主義的なポピュリズムである。

7.第三のメリット~既存メディアのゲートキーパー独占を崩した

新聞やテレビが政治情報の流通をほぼ独占していた時代には、「何を報道するか」を少数の報道機関が決めることができた。

SNSはこの構造を崩した。

政治家本人の発言全文。

国会動画。

官公庁資料。

研究論文。

地方議会。

市民が撮影した映像。

これらへ直接アクセスできる。

この点も民主主義にはプラスである。

既存メディアを批判すること自体はポピュリズムではない。

メディアが誤報すれば批判されるべきである。

問題は、

「既存メディアは誤ることがある」

という合理的批判から、

「既存メディアは国民を欺く敵である」

へ論理が飛躍することである。

ここからポピュリズム特有の問題が始まる。

8.最大の問題~社会を「国民」と「敵」に二分する

民主政治では、多数決が重要である。

しかし、多数決だけが民主主義ではない。

51%の国民が支持すれば、49%の国民の権利を自由に奪ってよいわけではない。

日本国憲法も、多数決による議会政治と基本的人権、司法、地方自治などを組み合わせている。

ポピュリズムは、

「われわれこそ国民」

という発想へ傾きやすい。

すると、自分たちに反対する人が、

単なる政治的反対者

ではなく、

国民の敵

既得権益者

売国的な人

エリート側の人

と表現されるようになる。

ここで民主主義の質が変化する。

政策論争が、

「どちらの政策がよいか」

ではなく、

「どちらが正しい国民か」

という道徳的対立へ変わるからである。

9.SNSは「われわれ対あいつら」を可視化しやすい

SNSでは人間関係が数字として表示される。

フォロワー数。

いいね数。

共有数。

動画再生数。

コメント数。

このため、

「これほど多くの人が支持している」

という感覚が容易に生まれる。

しかし、SNS上の多数は、有権者全体の多数を意味しない。

例えば100万回再生された動画があっても、

同じ人が複数回見ている可能性がある。

有権者でない人も含まれる。

反対するために見ている人もいる。

海外利用者もいる。

アルゴリズムによって繰り返し表示されることもある。

それでも数字として100万と表示されれば、

「国民は怒っている」

と感じやすい。

SNS上の可視的多数と、民主主義における実際の多数を混同することは危険である。

10.SNS利用者の集合は国民全体ではない

2025年のReuters Institute for the Study of Journalism(ロイター・ジャーナリズム研究所)の調査では、日本でSNSを週単位のニュース取得手段として利用する割合は24%とされている。

日本ではニュース取得におけるSNS依存度は国際的には比較的低い一方、XやYouTubeが政治・ニュース情報の流通経路として重要な役割を持っている。また、同研究所は、日本のSNS上で言及されるニュース関連人物にはポピュリスト系・右派政治家などが目立つと報告している。

ここから重要なことが分かる。

SNSで政治的発言が大量に流れているとしても、それをそのまま日本国民全体の意見と考えることはできない。

SNSを積極利用する人と利用しない人では、年齢、政治関心、情報行動などが異なる可能性がある。

SNS上の「世論」は、世論調査とは違う。

投稿数は票数ではない。

トレンド入りは国民投票ではない。

11.怒りはSNS上で非常に使いやすい政治資源である

ポピュリズムとSNSが結びつく最大の理由の一つが感情である。

政策説明を考えてみる。

「社会保障制度について、給付水準、保険料、税負担、世代間公平、財政持続可能性の五つを同時に調整する必要があります」

という文章は比較的正確である。

しかし、SNSでは弱い。

一方、

「政府は高齢者を見捨てた」

「若者だけが損をしている」

「財務官僚が国民から金を奪っている」

とすれば、短い。

敵も明確である。

感情も動く。

共有もしやすい。

しかし、政策としての情報量は少ない。

これがSNS政治の根本的な問題である。

情報として正確な文章と、拡散に適した文章の性質が一致しない。

12.プラットフォームの経済合理性と民主主義の合理性は一致しない

民間SNS企業には、利用者に長くサービスを使ってもらう経済的動機がある。

利用者が投稿を見て、反応し、共有し、再びアクセスすれば、広告表示などの機会が増える。

OECD(Organisation for Economic Co-operation and Development・経済協力開発機構)は、デジタル技術によって誤った、あるいは誤解を招く情報が低コストかつ高速に拡散できるようになったと指摘している。またオンラインプラットフォームのエンゲージメント最大化の経済的インセンティブが、感情的・政治的に強く反応されるメッセージを増幅する可能性を問題視している。

これは陰謀論ではない。

企業として合理的な行動と、民主主義にとって望ましい情報環境が一致しない可能性があるという問題である。

民主主義に必要なのは、

正確な情報

異論

慎重な分析

不確実性

長期的視点

である。

一方、SNSの利用時間を伸ばしやすいのは、

驚き

怒り

恐怖

対立

スキャンダル

である可能性がある。

ここに構造的な緊張関係がある。

13.ただし「アルゴリズムが分断を作る」と単純化してはいけない

ここでは特に慎重な分析が必要である。

SNS批判では、

「アルゴリズムがエコーチェンバーをつくり、政治的分断を生んでいる」

と説明されることが多い。

一定の根拠はある。

しかし、科学的には完全に確定した単純な因果関係ではない。

2020年米国大統領選挙期のFacebookを対象にした大規模研究では、利用者が接触するコンテンツの多くが政治的に同質的な情報源から来ていることが確認された。

しかし、2万3,377人を対象に、自分と同じ政治的立場の情報への接触を約3分の1減少させる実験を行っても、感情的分極化、思想的極端化、候補者評価、誤情報への信念などに測定可能な変化は確認されなかった。

つまり、

エコーチェンバーが存在する

ことと、

エコーチェンバーを減らせば短期間で政治的分断が解消する

ことは別である。

政治的分断には、社会階層、地域、宗教、所得、教育、政党政治、既存メディアなど多くの要因がある。

SNSだけを原因にすることもポピュリズムと同じ「単純化」である。

14.一方で、エンゲージメント重視が問題を増幅する研究もある

2026年にJournal of Public Economicsに掲載された研究では、推薦システムが「いいね」や共有など社会的反応を強く重視すると、エンゲージメントを増やす一方、誤情報や政治的分極化も増加し得るという理論モデルが示された。

さらに、Facebookが2018年に実施した「Meaningful Social Interactions」と呼ばれる更新について、イタリアと米国のデータを用いた分析では、社会的反応を重視する変更が思想的極端化や感情的分極化を強めた可能性が示されている。

したがって、現在の研究から妥当な結論は、

「SNSアルゴリズムが政治分断の唯一の原因である」

ではない。

より正確には、

「既存の社会的対立や政治的不満が存在する状況で、エンゲージメントを優先する情報流通構造が、感情的・対立的情報を増幅する可能性がある」

という程度である。

この区別は重要である。

15.誤情報とポピュリズムの関係も単純ではない

ポピュリズムを批判する場合にも、事実に忠実でなければならない。

「ポピュリストは嘘をつく」

と一括して断定することはできない。

2025年にオンライン先行公開され、2026年にThe International Journal of Press/Politicsに掲載された研究は、26か国の国会議員による約3,200万件のTwitter(現在のX)投稿を分析している。

その結果、低信頼性情報を共有する傾向との最も強い関連が確認されたのは「急進右派ポピュリズム」だった。

重要なのは、研究では、

ポピュリズム一般

左派ポピュリズム

単なる右派的政治立場

それぞれ単独では、同じ関連が確認されなかったことである。

これは非常に重要な結果である。

政治的立場に基づいて、

「右は嘘をつく」

「左は嘘をつく」

「ポピュリストは全員嘘をつく」

と結論づけてはいけない。

研究が示しているのは、特定の政治的組み合わせ、すなわち急進右派ポピュリズムと低信頼性情報拡散との強い統計的関連である。

否定的な記事であるほど、この区別を守る必要がある。

16.なぜ誤情報がポピュリズムと親和的になり得るのか

理論的には説明できる。

ポピュリズムは、

「われわれの常識」

「腐敗したエリート」

を対立させる。

この構造では、専門機関が反論したとき、それ自体を陰謀の証拠として処理できてしまう。

例えば、

統計機関が否定する →「政府機関だから信用できない」

大学研究者が否定する →「御用学者だ」

新聞社が否定する →「既存メディアは隠蔽している」

裁判所が否定する →「司法も既得権側だ」

という構造が成立すると、反証が困難になる。

通常の科学的方法では、反証可能性が重要である。

証拠が示されれば自分の仮説を修正する。

ところが、あらゆる反証を「敵側の工作」と説明できれば、理論は永久に反証されない。

政治的には強力だが、事実検証には極めて弱い構造である。

17.短文政治は複雑な政策を不当に単純化する

財政政策を例に考える。

税金を下げれば、家計の可処分所得が増える。

これは利点である。

しかし同時に、

税収が減る。

国債を増やすのか。

歳出を削るのか。

将来の増税で補うのか。

金利への影響はどうか。

物価への影響はどうか。

所得階層別の恩恵はどうか。

という問題がある。

政策とは本来、

便益-費用-副作用-分配-時間

を同時に考えるものである。

ところがSNSでは、

「減税か増税か」

「国民か財務省か」

という二項対立へ圧縮できる。

この方が政治的には強い。

しかし、政策分析としては弱い。

ポピュリズムの最大の問題の一つは、複雑な政策問題を、善悪の問題へ変換してしまうことである。

18.「専門家は間違う」と「専門知は不要」は全く違う

専門家は間違う。

経済学者も間違う。

医師も間違う。

官僚も間違う。

新聞記者も間違う。

だから検証と反論が必要である。

しかし、

「専門家が間違うことがある」

から、

「普通の人の直感と専門家の分析は同じ価値を持つ」

とはならない。

例えば橋の耐震設計を多数決で決めることはできない。

感染症治療を人気投票で決めることもできない。

金融政策も専門的な制約が存在する。

民主政治で国民が決めるべきなのは、

何を目標にするか

である。

具体的な技術的方法については専門知が必要である。

民主主義と専門知は対立概念ではない。

国民が目的を決め、専門家が選択肢と費用を示し、政治家が最終責任を負う。

これが合理的な役割分担である。

19.ポピュリズムは「中間制度」を邪魔と考えやすい

議会。

裁判所。

官僚組織。

独立行政機関。

中央銀行。

報道機関。

大学。

専門家会議。

地方自治体。

これらは時に遅い。

非効率でもある。

国民から遠く見えることもある。

だからポピュリストにとって批判しやすい。

「国民が望んでいるのに、なぜ裁判所が止めるのか」

「選挙で選ばれていない官僚がなぜ口を出すのか」

という主張は直感的には分かりやすい。

しかし、これらの制度の多くは、多数派の政治権力を制限するために存在している。

多数派であっても法律を守る。

政府であっても裁判所の審査を受ける。

政治家が都合のよい統計に書き換えない。

政権が批判的報道を直接統制しない。

これが立憲民主主義である。

20.実証研究では、ポピュリスト政権の民主主義への影響は概して否定的

ここはポピュリズムを評価するうえで重要である。

2025年に公表された政治学研究のレビューでは、ポピュリストが政権を握った場合について、過去10年前後の国際比較研究はかなり一貫して、自由権、メディアの自由、政府への水平的な権力抑制、選挙の公正性などへ悪影響があることを示している。

一方、ポピュリズムが政治参加や代表性を改善する「是正効果」については、肯定的証拠はより少なく、一貫していない。

さらに、欧州とラテンアメリカのデータを用いた2026年の研究でも、ポピュリスト政権の下では平均的に、

選挙民主主義

自由民主主義

熟議民主主義

の水準が低下する一方、平等や政治参加について期待された改善効果は確認できなかった。

ここから本稿の否定的評価には、かなり強い根拠がある。

21.なぜ民主的に選ばれたポピュリストが民主主義を傷つけることがあるのか

これは矛盾しているように見える。

選挙で選ばれたのだから民主的ではないか。

その通りである。

問題は、

民主的な選出

民主的な統治

が同じではないことである。

民主主義には少なくとも二つの側面がある。

第一は、

国民多数が政府を選ぶこと。

第二は、

政府が権力を制限されること。

である。

ポピュリズムは第一を非常に重視する。

「われわれは国民から選ばれた」

という正統性である。

しかし、その正統性を絶対化すると、

裁判所

野党

報道機関

少数派

独立機関

などを、

「民意を妨害する勢力」

として扱いやすくなる。

これが立憲主義との緊張を生む。

22.SNSは指導者個人への政治的依存を強める

従来の政党政治では、

党首

幹事長

政策責任者

国会議員

地方組織

党員

など複数の階層があった。

SNS時代では、一人の政治家のアカウントが政党そのものより大きな影響力を持つことがある。

すると、

政党を支持する

から、

人物を支持する

へ変化する。

政治家本人が毎日直接語るため、支持者は疑似的な親密さを感じることもある。

こうして個人中心型政治が強くなる。

政治家本人の判断が、党内議論より優先される。

党内で反対すれば、

「リーダーを裏切った」

と支持者から攻撃される。

すると政党内部の異論も弱くなる。

しかし、健全な政党には異論が必要である。

政策の誤りを修正する最初の機会だからである。

23.支持者による自発的攻撃は、政治家本人が命令しなくても発生する

SNS政治の新しい問題である。

政治家が直接、

「この記者を攻撃しろ」

「この議員へ嫌がらせをしろ」

と言わなくてもよい。

「あの記者は偏っている」

「この専門家は国民を分かっていない」

と投稿するだけで、一部の支持者が大量の批判を送る可能性がある。

政治家自身は、

「私は攻撃を指示していない」

と言える。

しかし、影響力の大きい人物には、自分の発言が支持者へどう作用するかについて一定の責任がある。

特に、

敵を名指しする

裏切り者と呼ぶ

国民ではないかのように扱う

行為は慎重でなければならない。

これは右派・左派を問わない。

24.政治家への批判と人格攻撃が混ざりやすい

SNSでは政策批判より人物批判の方が拡散しやすい。

「この財政政策では歳出が年間○兆円増える」

より、

「この政治家は無能だ」

の方が短く理解しやすい。

しかし、民主主義に必要なのは政策評価である。

政治家の能力は、

政策立案能力

説明力

交渉力

実績

修正能力

法制度への理解

などから評価すべきである。

容姿、性別、家族、出身、話し方などを政治的攻撃の材料にしても、政策の良否は分からない。

ポピュリズムが感情政治へ接近すると、この境界が壊れやすくなる。

25.敵を作る政治は支持者を結束させやすい

集団を結束させる簡単な方法の一つが、共通の敵を設定することである。

「われわれ」の定義だけでは集団は曖昧である。

しかし、

「われわれは、あいつらに搾取されている」

とすると、集団の境界が明確になる。

敵は、

官僚

大企業

外国人

富裕層

既存メディア

政治家

専門家

労働組合

金融機関

など、左右のポピュリズムによって変わる。

ここで重要なのは、対象そのものではない。

個別の問題を検証するのではなく、集団全体を道徳的な敵として扱うことが問題である。

官僚制度に問題があれば制度を改革すればよい。

メディアが誤報すれば記事を検証すればよい。

企業が違法行為をすれば処罰すればよい。

集団全体を「敵」と呼ぶ必要はない。

26.ポピュリズムが政策失敗を修正しにくくする理由

民主政治で重要なのは、

正しい政策を最初から選ぶこと

だけではない。

失敗した政策を修正する能力である。

しかしポピュリズムでは、政策と政治家への支持が道徳化しやすい。

政策への批判が、

リーダーへの攻撃

支持者への攻撃

国民への攻撃

と受け取られる。

すると修正が難しくなる。

本来、

「この政策の効果は予想より小さかったので変更する」

ことは合理的である。

しかし、

「われわれは常に正しい」

という政治では、変更が敗北になる。

科学では仮説を修正することが進歩である。

ポピュリズムでは修正が裏切りに見える場合がある。

これは政策運営上、大きな弱点になる。

27.SNSの政治的成功指標が政策成功指標と一致しない

SNSでは成功が数値化される。

再生回数。

共有数。

フォロワー。

トレンド順位。

しかし政策成果は別である。

例えば経済政策なら、

実質賃金

生産性

雇用

物価

税収

企業投資

財政収支

所得分布

などを見る必要がある。

100万回再生された経済政策が、良い経済政策とは限らない。

逆に、非常に重要だが説明が難しい制度改革はほとんど拡散されないかもしれない。

つまりSNSでは、

情報市場で勝つ能力

政策を成功させる能力

が乖離する可能性がある。

人気は政策能力の代理変数ではない。

28.「国民の声を聞く」ことと「声の大きい支持者に従う」ことは違う

SNS政治では、政治家は国民の反応を即座に見ることができる。

一見すると素晴らしい。

しかし、投稿へ積極的に返信する人は国民の無作為標本ではない。

政治関心が高い。

強い意見を持つ。

支持または反対が明確。

こうした人ほど発言する可能性が高い。

つまり政治家がSNSの反応を「民意」と考えると、最も声の大きい層へ政策が引っ張られる危険がある。

民主主義では、

選挙

世論調査

公聴会

議会

パブリックコメント

統計

当事者調査

など複数の方法で民意を把握する必要がある。

SNSはその一つにすぎない。

29.ポピュリズム批判がエリート主義になってはいけない

ここも重要である。

ポピュリズムを批判する側が、

「一般市民は複雑な政治を理解できない」

「専門家へ任せればよい」

という態度を取れば、ポピュリズムをさらに強める。

専門家は政策を決定する主権者ではない。

最終的な政治的選択は国民と、その代表者が行う。

例えば、

税負担を増やして社会保障を厚くするか。

税負担を抑えて給付を限定するか。

これは科学だけでは答えられない。

価値判断だからである。

専門家ができるのは、

それぞれの費用と結果を示すこと

である。

民主主義で必要なのは、

「専門家が国民を支配する」

ことでも、

「専門家を無視して国民の直感だけで決める」

ことでもない。

国民が目的を選び、専門知が実現可能性を検証する仕組みである。

30.左右どちらのポピュリズムも同じ基準で評価すべきである

ポピュリズムは右派だけの問題ではない。

左派にも存在する。

右派では、

外国人

国際機関

リベラルなエリート

などが敵として設定される場合がある。

左派では、

富裕層

大企業

金融機関

経済エリート

などが敵として設定される場合がある。

もちろん、それぞれについて正当な政策批判はあり得る。

問題は、

具体的行為を批判する

ことから、

集団そのものを悪とする

方向へ移行することである。

本稿が否定するのは特定の左右思想ではない。

「人民対敵」という構図で複雑な社会を説明する政治手法である。

31.SNS時代のポピュリズムのメリットとデメリットを整理する

項目 メリット デメリット
政治参加 参加障壁を下げる 熱心な少数を民意と誤認しやすい
政治家との距離 直接情報を得られる 中間的な事実確認を迂回する
小規模政党 発信機会を得られる 強い感情ほど有利になりやすい
既存政治批判 見落とされた問題を可視化する 政治不信そのものを資源化できる
メディア批判 誤報や偏向を監視できる メディア全体を敵視しやすい
専門家批判 権威を検証できる 専門知そのものを否定しやすい
情報拡散 高速・低コスト 誤情報も同じ速度で広がる
政治的動員 無関心層を参加させ得る 怒りと敵意による動員になりやすい
政策説明 簡潔に伝えられる 複雑なトレードオフを削りやすい
リーダーシップ 責任者が明確になる 個人崇拝・組織弱体化につながり得る

この表を見ると、興味深いことが分かる。

ほぼすべての長所の裏側に短所が存在する。

問題はSNS技術そのものではなく、その能力をどの政治文化が利用するかである。

32.ポピュリズムの危険性は、政権獲得後により大きくなる

野党時代のポピュリズムには、既存権力を監視する効果がある。

しかし政権を取ると状況が変わる。

自分自身が権力者になるからである。

それでも、

「われわれは人民」

「批判者はエリート」

という物語を維持すると、

政府を批判するメディア

政府を止める裁判所

政府を監査する機関

政府に反対する野党

が、

単なる制度的なチェックではなく「人民の敵」に見える。

2025年の比較政治研究は、ポピュリスト政権が民主的競争や自由民主主義へ一貫して悪影響を与えることを、近年の複数の大規模比較研究が確認していると整理している。

したがって、ポピュリズムの本質的問題は、単に言葉遣いが激しいことではない。

権力を抑制する制度の正統性そのものを弱める可能性にある。

33.SNS規制を強化すれば解決するのか

ここにも単純な答えはない。

誤情報対策として政府がSNSを強く規制すれば、今度は政府が「真実」を決める危険が生じる。

政権に不都合な批判まで削除されれば、民主主義にとってさらに深刻である。

したがって、

「政府が正しい情報を決める」

制度は慎重でなければならない。

OECDも、偽情報対策では表現・意見の自由を守りながら、プラットフォームの透明性と説明責任を強め、多様で質の高い情報環境をつくる方向を重視している。

必要なのは内容の全面統制より、

推薦システムの透明性

政治広告の公開

自動アカウントの識別

広告主情報の公開

研究者へのデータ提供

訂正情報へのアクセス

などである。

34.政治家側にもSNS利用の原則が必要である

民主社会の政治家がSNSを利用する場合、少なくとも次の原則が望ましい。

第一に、一次資料へリンクする。

第二に、統計の年度と出典を示す。

第三に、速報情報を断定しない。

第四に、誤りが判明した投稿を明確に訂正する。

第五に、支持者へ特定個人への攻撃を促さない。

第六に、批判者を「国民の敵」と扱わない。

第七に、政策の費用と副作用も説明する。

第八に、自分に不利な事実も削除しない。

これらは右派、左派を問わず同じである。

35.有権者が確認すべき「ポピュリズムの兆候」

SNS上の政治発信を見る場合、次のような特徴が重なるほど注意が必要である。

「われわれだけが国民を代表する」

選挙で何票得ても、支持しなかった有権者も国民である。

敵が常に存在する

問題の原因が毎回、官僚、外国人、企業、富裕層、メディアなど特定集団に帰される。

複雑な問題に極端に簡単な解決策を出す

社会保障、人口問題、外交、財政などに副作用ゼロの政策はほとんど存在しない。

専門家の反論を内容ではなく属性で否定する

「御用学者だから」「官僚だから」だけでは反論にならない。

メディア批判が全面的不信へ変化する

個々の記事を批判することと、すべての報道を敵とすることは違う。

数字より感情を優先する

「みんな怒っている」では政策効果を測定できない。

政策への批判を人格的な裏切りと扱う

異論を許さない政治組織は修正能力が低下する。

36.日本の議会制民主主義に必要なのは「直接性」より「熟議」である

SNSは非常に直接的である。

国民の反応がすぐ政治家へ届く。

しかし、民主主義は速ければよいわけではない。

例えば法律を作るには、

問題を把握する。

法案を作る。

利害関係者から意見を聞く。

委員会で審議する。

野党が問題点を指摘する。

修正する。

衆議院と参議院で審議する。

という過程がある。

遅い。

面倒である。

しかし、この遅さには意味がある。

間違いを発見する時間だからである。

SNS上の多数意見をそのまま即時政策へ反映することが、必ずしも民主的とは限らない。

熟議とは、国民の意思を無視する仕組みではない。

異なる国民の意思を調整する仕組みである。

37.SNS時代に必要なのはポピュリズムではなく「参加型の熟議民主主義」

ポピュリズムが指摘する問題の一部は正しい。

政治家が国民から遠い。

行政が分かりにくい。

政策決定が閉鎖的。

専門家の説明が難しい。

既存メディアにも問題がある。

これらは改善すべきである。

しかし解決方法は、

議会や専門家を排除して指導者と国民を直接結ぶこと

ではない。

むしろ、

政策資料を公開する。

議会審議を分かりやすくする。

政府統計を利用しやすくする。

住民参加を増やす。

パブリックコメントを実質化する。

政策評価を公開する。

政治家が長文でも政策を説明する。

専門家が国民に理解できる言葉で説明する。

という方向である。

これは時間がかかる。

SNS映えもしない。

しかし民主主義を持続させるには、この地味な制度改善の方が重要である。

38.総合評価~ポピュリズムは民主主義の警報器にはなるが、統治原理には向かない

ここまでを総合すると、ポピュリズムについて二つを区別する必要がある。

第一に、

「既存政治が見落としている問題を発見する機能」

である。

これは価値がある。

第二に、

「社会を人民対敵へ二分して統治する原理」

である。

こちらには大きな問題がある。

ポピュリズムが支持されるとき、既成政党は支持者を批判する前に、

なぜ不満が生まれたのか

を調べるべきである。

しかし、不満の存在がポピュリズムの政策を正しいものにするわけではない。

診断が正しくても治療法が間違っていることはある。

政治でも同じである。

結論~SNSが民主主義を壊すのではない。単純な政治がSNSによって増幅されることが問題である

SNSは民主主義に重要な利益をもたらした。

政治家と国民の距離を縮めた。

小さな政治勢力にも発言機会を与えた。

既存メディアを経由しない一次情報へのアクセスを可能にした。

市民の政治参加を容易にした。

したがって、SNSを民主主義の敵とする結論は適切ではない。

問題は、その情報環境がポピュリズムと極めて相性がよいことである。

ポピュリズムは、複雑な社会を「人民対エリート」という単純な物語へ変換する。

SNSは、短く、感情的で、対立の明確な情報を高速で流通させられる。

この二つが結びつくと、

怒りが支持へ変わり、

支持が共有へ変わり、

共有数が「民意」のように見え、

その可視的多数がさらに政治的正統性へ変換される。

しかし、SNS上の多数は国民全体ではない。

共有回数は投票ではない。

再生回数は政策効果ではない。

フォロワー数は統治能力ではない。

ここを混同してはいけない。

さらに重要なのは、実証研究である。

近年の国際比較研究では、ポピュリスト政権は平均的に、自由権、メディアの自由、政府への権力抑制、選挙制度、熟議などへ否定的な影響を与える傾向が確認されている。一方、政治参加や代表性を改善する効果については、それほど一貫した証拠がない。

したがって、本稿ではポピュリズムを民主主義にとって長期的には好ましくない政治原理と評価する。

ただし、ポピュリズムを禁止すればよいという意味ではない。

むしろ逆である。

ポピュリズムが支持される原因となった、

政治不信

地域格差

生活不安

行政の不透明性

既成政党の代表機能の低下

メディアへの不信

を、民主主義の制度の中で解決しなければならない。

そしてSNSについても、発言内容を政府が統制する方向ではなく、推薦システム、政治広告、自動アカウント、資金源などの透明性を高めるべきである。

民主主義に必要なのは、国民の怒りを否定することではない。

その怒りを政策へ翻訳する過程で、事実、専門知、少数意見、費用、副作用を確認することである。

政治家の役割は、有権者がすでに感じている怒りをさらに増幅することではない。

複雑な現実を説明し、自らの理念を示し、異なる利害を調整し、実現可能な政策によって国民を説得することである。

「敵をつくって結束させる政治」と「事実を示して説得する政治」。

SNS時代だからこそ、この二つを明確に区別する必要がある。

ポピュリズムは、民主主義の異常を知らせる警報器としては役立つかもしれない。

しかし、警報器に国家を運転させるべきではない。

民主政治を動かすべきなのは、熱狂でも敵意でもなく、事実、議論、制度、妥協、そして検証可能な政策である。

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はじめに~党首候補を選ぶことは、政治家の人気順位をつけることではない

本稿は、特定の政党や政治家への支持を呼びかけるものではない。

令和8年7月末時点で国会に議席を持つ政党について、現在の党首以外から次の指導者を選ぶとすれば、どのような人物が適切なのかを検討するものである。

ただし、すべての政党について、無理に「現職より優れた人物」を挙げることはしない。

現職党首を交代させる合理性が乏しい政党もある。

後継者候補が十分に育っていない政党もある。

代表選挙を終えたばかりで、新代表の運営を検証すべき段階にある政党もある。

党首候補の評価は、知名度、交流サイトでの人気、演説のうまさ、政治的な好き嫌いだけでは決められない。

本稿では、次の七項目を共通の評価軸とする。

  1. 党の理念と政策との整合性
  2. 政策を制度や法案へ落とし込む能力
  3. 国会で質問や批判に答える説明力
  4. 党内の異なる意見を調整する能力
  5. 他党、官僚、自治体との交渉能力
  6. 誤りや不祥事に対応し、組織を修正する能力
  7. 代表個人に依存しない政党をつくる能力

強い言葉で支持者を集めることと、政党を運営することは異なる。

党首は、支持者の感情を代弁するだけではなく、党内をまとめ、政策の費用を説明し、他党と協議し、必要な場合には妥協や修正を受け入れなければならない。

令和8年7月末の国会勢力

令和8年2月18日時点の衆議院では、自由民主党・無所属の会が316人、中道改革連合・無所属が48人、日本維新の会が36人、国民民主党・無所属クラブが28人、参政党が15人、チームみらいが11人、日本共産党が4人となっている。参議院には、これらに加えて、れいわ新選組、社会民主党、日本保守党などに所属する議員もいる。

以下では、国会に所属議員を持ち、政党として継続的な活動を行っている各党を検討する。


自由民主党~次期総裁候補として小林鷹之氏をどう評価するか

令和8年7月時点の自由民主党総裁は高市早苗氏である。

党役員は、麻生太郎副総裁、鈴木俊一幹事長、有村治子総務会長、小林鷹之政務調査会長、西村康稔選挙対策委員長らで構成されている。

現職総裁を除いて次の候補を考える場合、小林鷹之氏が有力候補の一人になる。

小林鷹之氏を候補とする理由

第一に、政務調査会長として、自民党の政策全体を取りまとめる立場にあることである。

自民党総裁には、外交、安全保障だけでなく、財政、社会保障、医療、農業、地方経済、教育、エネルギーなどを総合的に扱う能力が必要になる。

特定分野で目立つことより、党全体の政策を調整した経験の方が、総裁候補として重要である。

第二に、世代交代を示せることである。

自民党は、長年の政権運営によって行政、業界団体、地方組織との関係を蓄積している。

一方で、特定の長老政治家や過去の派閥構造への依存が続けば、組織の更新が遅れる。

小林氏が総裁候補になることには、従来の自民党の政策基盤を維持しながら、執行部を次世代へ移す意味がある。

第三に、経済安全保障や産業政策を重視する点で、高市路線の一部を引き継ぎながら、より政策実務型の運営へ移行できる可能性がある。

小林氏の課題

一方、小林氏が党全体をまとめられるかは、まだ十分に証明されていない。

自民党には、積極財政派、財政規律派、保守派、穏健派、地方組織、農業団体、経済界など、複数の利害が存在する。

政策に詳しいことと、相反する利害を調整できることは別の能力である。

総裁候補として評価するには、保守的な支持層だけでなく、地方、高齢者、若者、無党派層にも説明できる政治的な幅が必要になる。

自民党に必要な党首像

自民党に必要なのは、高市氏以上に強い言葉を使う人物ではない。

強い衆議院基盤を持っていても、参議院、野党、官僚、地方自治体との調整を軽視しない人物である。

現段階では、小林鷹之氏は有力な次世代候補であるが、総裁としての適性は、党内調整と国会運営の実績によって今後確認される必要がある。


中道改革連合~岡本三成氏は旧来の二つの政治文化を統合できるか

衆議院では、中道改革連合・無所属が48議席を持っている。

この政党にとって最大の課題は、単に党首を交代することではない。

異なる政治文化や支持基盤を持つ議員を、一つの政策政党として統合できるかどうかである。

仮に現職代表以外から選ぶなら、政策調整を担う岡本三成氏が候補となる。

岡本三成氏を候補とする理由

中道を掲げる政党では、右派と左派の中間にいるだけでは不十分である。

どの分野では政府の役割を強め、どの分野では民間活力を使うのか。

安全保障と平和主義をどう両立するのか。

社会保障をどこまで拡充し、その財源をどこに求めるのか。

これらを一つの政策体系として説明しなければならない。

岡本氏のような政策責任者には、旧来の出身母体や支持団体を超えて、党の基本政策を作り直す役割が期待される。

岡本氏の課題

中道政党は、主張が穏健であるだけでは支持を得にくい。

何を守り、何を変えるのかが曖昧であれば、与党と野党の間で態度を決められない政党に見える。

岡本氏が党首となる場合には、生活者重視、立憲主義、福祉、財政、外交について、明確な優先順位を示す必要がある。

また、出身母体の一方だけを代表する人物と受け取られれば、党内統合が難しくなる。

中道改革連合に必要な党首像

この党に必要なのは、テレビで目立つ人物より、複数の政治文化を政策として統合できる人物である。

現段階では岡本三成氏が候補になるが、党名どおりの「中道」を、単なる妥協ではなく政策原理として説明できるかが問われる。


日本維新の会~現職以外の明確な代替候補はまだ育っていない

日本維新の会では、吉村洋文氏が代表、藤田文武氏が共同代表として活動している。党の公式情報でも、藤田氏の共同代表としての会見や、吉村代表と藤田共同代表が並ぶ活動が確認できる。

現在の両氏を除いた場合、直ちに全国政党の代表を任せられる人物は明確ではない。

維新の課題は後継者不足より地域依存である

維新は大阪での知名度と行政実績を強い基盤としている。

しかし、全国政党としては、人口減少地域の医療、農業、鉄道、バス、学校、上下水道など、大都市型改革だけでは対応できない問題を扱わなければならない。

大阪で成立した政策が、財政規模や人口密度の異なる地方でそのまま再現できるとは限らない。

無理に代替候補を挙げるべきではない

党首候補の記事では、すべての政党に一人ずつ名前を挙げたくなる。

しかし、十分な実績が確認できない人物を、形式的に候補とすることは客観的ではない。

維新の場合、現在の代表・共同代表を除くと、全国的な党務、政策、国会運営を総合的に担当した候補者層が薄い。

したがって、現段階で必要なのは交代ではなく、大阪以外の議員を政策責任者や国会責任者として育てることである。


国民民主党~榛葉賀津也氏は玉木依存を解消できるか

国民民主党では、玉木雄一郎氏が代表、古川元久氏が代表代行、榛葉賀津也氏が幹事長、浜口誠氏が政務調査会長を務めている。

玉木代表以外から選ぶ場合、榛葉賀津也氏が最も現実的な候補である。

榛葉賀津也氏を候補とする理由

国民民主党は、政策ごとに与党とも野党とも協議する立場を取っている。

この姿勢には、政党間対立に縛られず、政策実現を優先できる利点がある。

一方で、判断基準が不明確であれば、与党と野党の間で都合よく立場を変えているように見える。

榛葉氏には、党の判断や他党との違いを、比較的明確な言葉で説明する力がある。

また、代表交代によって「玉木氏個人の党」という印象を弱め、組織政党へ移行する意味もある。

榛葉氏の課題

発信力だけでは党首は務まらない。

国民民主党が掲げる減税、手取り増加、エネルギー政策、賃金上昇などについて、社会保障、地方財政、国債、物価との整合性を説明する必要がある。

榛葉氏が代表となる場合、短い言葉で注目を集める能力に加えて、中長期的な制度設計を示せるかが問われる。

国民民主党に必要な党首像

国民民主党が今後さらに議席を増やすには、人気のある代表だけでなく、政策判断の基準を党全体で共有する必要がある。

榛葉氏は有力候補だが、代表個人が変わっても政策が継続する組織を作れるかが重要である。


参政党~吉川里奈氏は党の個人依存を弱められるか

参政党では、神谷宗幣氏が代表、吉川里奈氏が副代表、松田学氏が代表代理、安藤裕氏が幹事長、豊田真由子氏が政務調査会長を務めている。

神谷代表以外から選ぶ場合、吉川里奈氏が候補となる。

吉川里奈氏を候補とする理由

参政党は、神谷氏の発信力、党組織づくり、街頭活動によって拡大した政党である。

しかし、規模が大きくなるほど、創設期の指導者一人に依存する運営には限界が生じる。

吉川氏は副代表として、次の指導者候補に位置づけられる立場にある。

女性、子育て世代、生活者の問題をより前面に出すことで、国家観、歴史、外国人政策などに偏って見られやすい党の政策領域を広げる可能性もある。

吉川氏の課題

副代表であることだけで、党首としての能力が証明されるわけではない。

参政党が掲げる医療、食、教育、農業、主権、外国人政策などには、科学的・法的な検証を要する論点が多い。

党首には、支持者が好む情報だけでなく、反証や専門家の批判も取り上げる姿勢が必要である。

参政党に必要な党首像

参政党に必要なのは、神谷氏以上に刺激的な言葉を使う人物ではない。

党の主張を、統計、法令、財源、政策効果によって検証し、誤りがあれば訂正できる仕組みをつくる人物である。

吉川氏は候補となり得るが、その評価は政策検証と党内統治の実績によって決まる。


チームみらい~古川あおい氏は将来候補だが、現時点で党首交代は早い

チームみらいは、安野貴博氏が立ち上げた政党であり、公式にも安野氏が党首とされている。令和8年衆議院選挙後は11議席を持つ会派となった。

現時点で安野氏を交代させる合理性は低い。

ただし、将来的な候補としては、政務調査会長を務める古川あおい氏が考えられる。

古川あおい氏を候補とする理由

古川氏は厚生労働省、公共政策、データサイエンス、金融機関、技術企業での経験を持ち、令和8年の衆議院選挙で当選後、政務調査会長を務めている。

チームみらいが技術政党から総合政党へ発展するには、行政実務、医療、介護、社会保障などを理解する人材が必要である。

古川氏の経歴は、技術だけでなく社会政策を扱ううえで一定の強みとなる。

現時点では交代させるべきでない理由

チームみらいは誕生から日が浅く、安野氏の理念と組織が強く結びついている。

党の政策体系、組織文化、地方基盤が固まる前に党首を交代すれば、政党の方向性が不明確になる可能性がある。

古川氏は将来候補ではあるが、現在は安野氏の下で政策実績を蓄積すべき段階である。


日本共産党~山添拓氏は世代交代と組織改革を両立できるか

日本共産党では田村智子氏が委員長を務め、志位和夫氏が議長を務めている。

田村委員長以外の候補としては、山添拓氏が有力である。

山添拓氏を候補とする理由

山添氏は法律、憲法、労働、安全保障などについて、論点を整理して説明できる政治家の一人である。

共産党の政策を、従来の支持層だけでなく、若年層や無党派層へ説明する役割を担える可能性がある。

また、長期間にわたって同じ世代の指導部が中心となってきた党において、世代交代を示す意味もある。

山添氏の課題

日本共産党の課題は、委員長一人を若返らせれば解決するものではない。

党内の意思決定、異論の扱い、党員減少、他党との協力、安全保障政策、企業政策などについて、組織全体の見直しが必要になる。

若い指導者を就任させても、従来の意思決定構造が変わらなければ、党の外部からは実質的な変化と評価されにくい。

日本共産党に必要な党首像

共産党に必要なのは、理念を薄める人物ではない。

平和、人権、労働、格差是正という理念を維持しながら、異論を認め、政策変更の過程を公開し、他党と現実的な協議ができる人物である。

山添氏にはその可能性があるが、党首交代と組織改革を一体で行えるかが問われる。


れいわ新選組~山本譲司新代表を中心に、党そのものを再構築する段階に入った

れいわ新選組については、前稿の評価を全面的に改める必要がある。

2026年7月31日に行われた代表選挙では、山本譲司衆議院議員が新代表に選出された。

党の公式活動では「山本ジョージ」の表記も用いられているが、山本譲司氏と同一人物である。

代表選には山本氏、阪口直人前衆議院議員、石井れいこ三鷹市議会議員が立候補し、山本氏が過半数を得た。新代表は、地域の問題を吸い上げて政策を作る、ボトムアップ型の党運営を掲げている。

大石あきこ氏を次期代表候補とする評価が適切でない理由

大石あきこ氏は、山本太郎氏の下で共同代表や政策責任を担った人物である。

しかし、党首候補として評価するには、発信力や支持者への訴求力だけでは不十分である。

党内の異論をまとめる力、他党との政策協議、組織の混乱への対応、選挙結果に対する責任、党外の人々への説明力が必要になる。

れいわ新選組は、令和8年2月の衆議院選挙で山本譲司氏一人の当選にとどまった。党公式の選挙結果でも、比例南関東ブロックの山本氏一人の当選が示されている。

この結果を踏まえれば、従来の執行部の延長線上で党を立て直すより、党運営の原理そのものを再検討する必要がある。

新代表選挙で山本譲司氏が選ばれたことは、党員や構成員が従来とは異なる指導者像を選択した結果と見るべきである。

したがって、現時点で大石氏を代表候補として推す合理性は乏しい。

山本太郎氏の辞任と、れいわの転換点

山本太郎氏は、健康上の問題などを理由として代表辞任と政界引退を表明した。

辞任会見では、自身が代表でなくても党が動く仕組みづくりを進めてきたと説明している。

れいわ新選組は、山本太郎氏の演説力、知名度、個人的な求心力によって成長した政党である。

その功績は大きい。

一方で、代表個人への依存が強かったため、代表の健康問題や活動縮小が、そのまま党全体の危機につながった。

山本譲司新代表に求められるのは、山本太郎氏の話し方や政治手法を再現することではない。

山本太郎氏が一人で担っていた役割を、複数の責任者へ分けることである。

山本譲司氏を評価するうえで避けて通れない過去

山本譲司氏は、過去に秘書給与をめぐる事件で有罪判決を受け、服役した経歴を自ら公表している。

党の公式プロフィールでも、その過去を隠さず、服役中に高齢者や障害者の置かれた状況を知り、その後の福祉活動や更生支援へつながったと説明している。

この経歴をどのように評価するかは慎重でなければならない。

過去に有罪判決を受けたという事実は、政治家として軽視できない。

公金や政治活動に関する不正であれば、特に説明責任が問われる。

一方で、刑を終えた人物が、その経験を基に福祉、更生支援、再犯防止へ取り組むことまで否定すべきではない。

法治国家では、刑を終えた人物の社会復帰も重要な原則である。

したがって、山本氏を評価する際には、過去を隠していないか、責任を認めているか、その後の活動に一貫性があるか、新たな不正がないかを確認すべきである。

過去の一件だけで永久に排除することも、現在の福祉活動を理由に過去の責任を消すことも、どちらも適切ではない。

山本譲司新代表に期待できる点

第一に、福祉や社会的孤立を、理念ではなく現場経験から語れることである。

山本氏は、服役経験や更生支援活動を通じて、刑務所、高齢者、障害者、出所者などの問題に関わってきた。

れいわ新選組が従来掲げてきた「弱い立場の人を切り捨てない」という理念を、より具体的な福祉政策へ発展させられる可能性がある。

第二に、地域の問題を吸い上げるボトムアップ型の党運営を表明していることである。

山本太郎氏の街頭演説を中心とする党から、地方議員、党員、当事者団体、地域組織が政策形成に関わる党へ変わるなら、組織としての持続性は高まる。

第三に、個人中心型の政党から制度中心型の政党へ移行する機会になることである。

山本譲司新代表の重大な課題

第一に、党の信頼回復である。

山本氏自身の過去に加え、党勢の縮小、離党者、内部対立、山本太郎氏への依存など、複数の問題を抱えている。

新代表は、批判を敵意として退けるのではなく、党内外からの検証を受け入れなければならない。

第二に、消費税廃止や積極財政を、標語ではなく制度として説明することである。

山本氏は代表就任時、消費税廃止を引き続き訴える考えを示した。

しかし、消費税を廃止するなら、地方消費税を含む税収減をどう補うのか。

社会保障財源をどう確保するのか。

供給力が不足する局面で物価にどう影響するのか。

国債発行をどこまで許容するのか。

これらを具体的に説明する必要がある。

第三に、攻撃的な政治文化を改めることである。

れいわ新選組の一部の発信では、政府、他党、報道機関、批判者を強い言葉で非難する傾向が見られた。

支持者を熱狂させることはできても、他党との法案協議や幅広い有権者の信頼にはつながりにくい。

山本新代表が掲げるボトムアップ型運営が本物であるなら、党内の反対意見や批判者の声も政策へ反映しなければならない。

第四に、山本太郎氏の影響力との関係を整理することである。

創設者への敬意は必要である。

しかし、新代表の決定が常に前代表の意向によって左右されるなら、代表交代は形式的なものになる。

れいわ新選組に必要な再構築

れいわ新選組を倫理的・論理的に再構築するには、少なくとも次の改革が必要である。

1.責任と権限を明確にする

代表、幹事長、政策責任者、国会対策責任者、選挙責任者の権限を分ける。

誰が何を決めたのかを公開する。

2.代表選挙と役員選任を定例化する

代表交代が危機時だけに行われるのではなく、一定期間ごとに党員が選択できる仕組みにする。

3.政策の費用と副作用を示す

消費税廃止、給付、社会保障拡充などについて、利益だけでなく、財源、物価、地方財政、実施時期を明示する。

4.党内の異論を認める

政策に反対した議員や党員を敵視せず、少数意見を記録する。

5.個人攻撃を禁止する

政府や他党への批判は、政策、法案、予算、発言記録に限定する。

支持者による過度な攻撃にも明確な態度を示す。

6.地方議員と当事者の声を政策へ反映する

ボトムアップを掲げるなら、地域組織から提出された意見が、どのように政策へ反映されたかを公開する。

れいわ新選組の現段階の評価

れいわ新選組については、もはや「現職代表以外なら誰がよいか」を論じる段階ではない。

山本譲司氏が2026年7月31日に新代表へ選ばれた直後であり、まずその運営を検証すべき段階である。

したがって、本稿の結論は次のようになる。

れいわ新選組では、新たな代替候補を探すより、山本譲司新代表がボトムアップ型運営、政策の具体化、組織の透明化、攻撃的文化の修正を実行できるかを見極めるべきである。

山本氏がこれらを実現できなければ、代表交代は人物の入れ替えにとどまる。

実現できれば、山本太郎氏の個人的求心力に依存した政党から、制度によって存続できる政党へ移行する転機となる。


社会民主党~大椿ゆうこ氏は党の世代交代を担えるか

社会民主党では、令和8年4月の党首選挙で福島みずほ氏が再選された。

再選挙では、福島氏が2364票、大椿ゆうこ氏が1792票を獲得している。

現職以外の候補としては、大椿氏が最も自然である。

大椿ゆうこ氏を候補とする理由

大椿氏は党首選で相当数の支持を得ており、党内で実際に後継候補として認められた人物である。

非正規雇用や労働問題に取り組んだ経験があり、社民党の労働、人権、社会保障という理念との整合性もある。

大椿氏の課題

社民党の問題は、党首を交代すれば解決するものではない。

国会議員数、地方組織、資金、候補者育成、政策立案人材が不足している。

また、令和8年の党首選後の記者会見では、大椿氏らへの発言機会をめぐって会見運営が問題となり、福島党首が配慮不足を謝罪した。

少数意見や党内対立をどう扱うかは、社民党自身が掲げる民主主義や人権の理念にも関わる。

社民党に必要な党首像

社民党には、福島氏の知名度に依存する状態から脱し、地方議員、労働運動、若い党員を結びつける人物が必要である。

大椿氏は候補となるが、党内対立を激化させるのではなく、世代交代を組織再建へつなげられるかが問われる。


日本保守党~有本香氏は候補になり得るが、党首交代だけでは個人依存は解消しない

日本保守党では百田尚樹氏が代表・創設者、有本香氏が事務総長を務めている。

現職代表以外から選ぶ場合、組織運営を担う有本香氏が候補になる。

有本香氏を候補とする理由

有本氏は事務総長として、党務、候補者、組織運営に深く関与している。

百田氏の知名度だけでなく、実際の政党運営を理解している人物という点では、後継候補として自然である。

有本氏の課題

日本保守党は、百田氏と有本氏の二人への依存が強い。

代表を百田氏から有本氏へ交代しても、少数の創設者に権限が集中する構造が変わらなければ、組織政党への移行にはならない。

また、保守的な価値観を語るだけでなく、財政、社会保障、医療、地方経済、農業、外交を総合的に扱う政策体制が必要になる。

日本保守党に必要な党首像

日本保守党に必要なのは、百田氏と同じ言葉を使う人物ではない。

保守理念を法案、予算、行政制度へ変換し、党内に複数の政策責任者を育てられる人物である。

有本氏は候補となるが、個人中心型の組織を制度中心型へ変えられるかが評価の中心となる。


各党に共通する最大の課題~代表個人への依存

現在の日本の政党には、代表個人の知名度や発信力に依存する傾向がある。

国民民主党は玉木雄一郎氏。

参政党は神谷宗幣氏。

チームみらいは安野貴博氏。

れいわ新選組は長く山本太郎氏。

日本保守党は百田尚樹氏。

こうした人物の発信力が、政党の成長に貢献したことは否定できない。

しかし、その人物が離れたときに党が機能しなくなるなら、政党として成熟しているとはいえない。

成熟した政党には、少なくとも次の機能が必要である。

  • 党の理念を説明する代表
  • 政策を設計する責任者
  • 国会を運営する責任者
  • 選挙と候補者育成を担う責任者
  • 地方組織をまとめる責任者
  • 財政、法令、統計を検証する専門組織
  • 代表に反対意見を述べられる幹部

最も優れた党首とは、自分以外の有能な政治家を排除する人物ではない。

自分が退任しても機能する政党を残す人物である。

令和8年の日本に必要な党首の共通条件

第一に、利益だけでなく費用を説明できること

減税、給付、防衛、教育、医療、公共交通、社会保障には費用が伴う。

誰が利益を得るのかだけでなく、誰が負担するのかを説明できなければならない。

第二に、支持者以外へ説明できること

支持者だけを喜ばせる政治家は、党内の人気者にはなれても、国全体を率いることはできない。

反対する有権者の疑問に答えられる人物が必要である。

第三に、誤りを修正できること

一度示した政策を絶対に変えないことが、信念の強さとは限らない。

事実や環境が変われば、政策も修正する必要がある。

第四に、地方の生活基盤を理解していること

大都市では市場で維持できるサービスも、人口減少地域では維持できない。

病院、学校、鉄道、バス、上下水道、介護などを、採算性だけで判断しない人物が必要である。

第五に、党内の異論を排除しないこと

党首の意見に反対した議員を敵視する政党は、政策の誤りを修正できない。

少数意見を記録し、議論できる組織が必要である。

総合評価

現職党首以外を前提にした場合、現段階の候補は次のように整理できる。

自由民主党では小林鷹之氏。

中道改革連合では岡本三成氏。

国民民主党では榛葉賀津也氏。

参政党では吉川里奈氏。

日本共産党では山添拓氏。

社会民主党では大椿ゆうこ氏。

日本保守党では有本香氏。

日本維新の会は、現在の代表・共同代表を除く明確な全国党首候補がまだ育っていない。

チームみらいでは古川あおい氏が将来候補になり得るが、現時点で安野貴博氏を交代させる合理性は低い。

れいわ新選組では山本譲司氏が2026年7月31日に新代表へ選ばれたばかりであり、次の候補を探す段階ではない。

山本新代表が、党の透明化、ボトムアップ型運営、財源を含む政策説明、個人依存からの脱却を実現できるかを検証すべき段階である。

結論~望ましい党首は、支持者を最も熱狂させる人物ではない

党首は、政党で最も有名な人物である必要はない。

最も攻撃的な人物でも、最も交流サイトで拡散される人物でもない。

必要なのは、党の理念を政策へ変え、費用を説明し、異論を調整し、他党と交渉し、誤りを修正できる人物である。

また、現職党首以外の名前を挙げること自体が目的であってはならない。

代替候補が育っていないなら、その事実を指摘すべきである。

新代表が選ばれた直後なら、その人物の実績を確認するべきである。

現職が党の発展に必要なら、交代を急ぐべきではない。

れいわ新選組の代表交代は、この問題を象徴している。

山本太郎氏の強い個人的求心力によって成長した党が、山本譲司新代表の下で、制度と組織によって存続できる党へ変われるのか。

これは、れいわ新選組だけの問題ではない。

日本のすべての政党に共通する課題である。

党首交代が政党の危機になるのではなく、党首交代によって政策と組織が更新される。

そのような政党が増えることが、議会制民主主義を安定させるために必要なのである。

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国会議員の発言を見ていると、中立的・中道的な立場から離れ、リベラル、左派、保守、右派の色彩を強めるほど、表現が激しくなり、相手を非難する言葉が増え、時には社会通念から外れた発言をするように見えることがある。

右派の政治家が、外国人、少数者、報道機関、野党などを強い言葉で攻撃する場合がある。一方、左派の政治家にも、保守層、企業、防衛政策の支持者、伝統的価値観を持つ人々を一括して非難するような言説が見られる。

しかし、この現象を単純に、

「右派は危険である」

「左派は非常識である」

「中道だけが良識的である」

と説明することはできない。

政治思想が右か左かということと、その政治家が乱暴な言葉を使うかどうかは、本来、別の問題である。穏健な保守政治家もいれば、穏健な社会民主主義者もいる。反対に、左右のどちらにも、敵対心をあおり、事実関係を単純化し、支持者の感情に訴える政治家が存在する。

したがって、分析すべきなのは、思想の内容そのものではない。

なぜ政治的立場を先鋭化させた政治家ほど、過激な言葉を使う利益が大きくなり、穏健な言葉を使う利益が小さくなるのかという、政治を取り巻く構造である。

最初に確認すべきこと~「端にいる政治家ほど過激」という印象は必ずしも事実ではない

この問題を考える際には、最初から重要な注意点がある。

私たちが目にする政治家の発言は、政治家全体の発言を均等に抽出したものではない。

テレビ、新聞、インターネットニュース、動画配信、交流サイトでは、目立つ発言ほど取り上げられやすい。政策の細部を説明する10分間の発言よりも、相手を強い言葉で批判した10秒間の映像の方が、多く拡散される。

その結果、次のような選択の偏りが生じる。

穏健な政治家の発言は、ニュースになりにくい。

過激な政治家の発言は、ニュースになりやすい。

さらに、同じ政治家であっても、日常的な政策説明より、失言や攻撃的な発言だけが記憶されやすい。

したがって、「中道から離れた政治家ほど必ず言葉が汚い」とまでは断定できない。

より正確には、

「思想的に先鋭化した政治家のうち、強い言葉を使う人が可視化されやすい」

「政治的対立が強い環境では、左右を問わず攻撃的な政治家が注目を集めやすい」

と考えるべきである。

ここを区別しなければ、観察された印象と、実際の政治家全体の傾向を混同してしまう。

政治的分極化には二つの種類がある

政治学では、政治的な対立を考える際に、少なくとも二つの分極化を区別する必要がある。

一つは、政策や思想の違いが大きくなる「政策的分極化」である。

例えば、税率を高くして社会保障を拡充するのか、税負担を抑えて民間の選択を重視するのか。防衛力を強化するのか、外交や軍縮を優先するのか。こうした政策上の距離が広がることである。

もう一つは、「感情的分極化」である。

感情的分極化とは、自分と異なる政党や政治集団を、単に政策の違う相手としてではなく、嫌悪すべき相手、信用できない人々、社会にとって危険な存在として見る傾向を指す。

近年の比較研究でも、政党間や政治指導者間の感情的な対立は、複数の民主主義国で確認されている。ただし、その程度や現れ方は国によって異なる。感情的分極化が強まると、反対派への差別や排除を容認しやすくなる可能性も指摘されている。

政策的分極化それ自体は、必ずしも悪いものではない。

政党間の違いが明確でなければ、有権者は何を基準に投票すればよいか分からない。すべての政党が似た政策を掲げる政治も、民主主義にとって健全とは限らない。

問題は、政策の対立が人物や集団への敵意に変わることである。

「この政策は誤っている」

という主張が、

「この政策を支持する人間は無知である」

「この政党を支持する人間は国民ではない」

「反対派は社会から排除すべきである」

という言葉に変わったとき、政策論争は感情的な敵対関係へ移行する。

政治家の言葉が汚くなる背景には、思想上の距離そのものより、この感情的分極化の方が強く関係している可能性がある。

数理的に見ると、過激な発言には利益がある

政治家の行動を道徳心だけで説明すると、構造が見えにくくなる。

政治家も、限られた時間、資金、人員、知名度の中で、自分にとって有利な行動を選択する主体である。

単純化すると、政治家がある発言を行う際の期待利益は、次のように整理できる。

発言の期待利益 = 支持者の増加 + 注目度の上昇 + 資金や協力者の増加 + 党内での影響力上昇 - 失言による批判 - 無党派層の離反 - 政党や議会からの処分 - 社会的信用の低下

穏健な政治環境では、過激な発言による損失が大きい。

無党派層が離れ、党執行部から注意され、報道機関から批判され、選挙で不利になるからである。

ところが、政治的分極化が進むと、この計算が変わる。

強い言葉を使うことで、熱心な支持者から評価される。

交流サイトで拡散される。

動画の再生回数が増える。

政治資金を集めやすくなる。

党内の特定の支持層に対する影響力が高まる。

一方で、反対陣営からの批判は、もともと自分に投票しない人からの批判であるため、政治的損失が小さい。

この状態では、過激な発言の期待利益が穏健な発言を上回る可能性がある。

つまり、政治家の人間性が突然悪化したのではなく、政治環境の変化によって、乱暴な言葉を使うことが合理的な選択になってしまうのである。

中道から離れるほど支持者の構成が変わる

一般に、中道的な政党や政治家は、幅広い有権者から支持を得る必要がある。

会社員、自営業者、高齢者、若者、都市部、地方、保守層、リベラル層、無党派層など、異なる利害を持つ人々を取り込まなければならない。

そのため、極端な発言には大きな費用が伴う。

一つの集団を強く喜ばせても、別の集団を失う可能性があるからである。

これに対し、左右の端に近い政治家は、支持者の範囲を広く取るより、狭くても熱心な支持者を固める戦略を選びやすい。

支持者の人数を「広さ」、支持の強さを「深さ」と考えると、中道政治家は広く浅い支持を必要とする。一方、先鋭的な政治家は、狭くても深い支持によって政治活動を維持できる場合がある。

例えば、支持者が100万人いても、その多くが関心の薄い支持者であれば、選挙運動、寄付、交流サイトでの拡散にはつながりにくい。

反対に、支持者が10万人でも、全員が熱心に活動し、寄付を行い、周囲に働きかけるなら、政治的影響力は大きくなる。

そのため、先鋭的な政治家にとっては、支持者の数を最大化することより、支持者の感情的な熱量を最大化することが合理的になる場合がある。

このとき有効なのが、敵の設定である。

「私たちの生活が悪化したのは、あの集団の責任だ」

「既存の政治家はすべて腐敗している」

「専門家や報道機関は真実を隠している」

「自分だけが国民の声を代弁している」

という物語を提示すれば、支持者の帰属意識を強めることができる。

政治家と支持者の関係は、政策への賛成から、集団としての一体感へ変化する。

ポピュリズムとは、単なる人気取りではない

ポピュリズムは、日本語ではしばしば「大衆迎合」と説明される。

しかし、政治学上のポピュリズムは、単に人気のある政策を掲げることだけを意味しない。

一般的には、社会を「善良で純粋な国民」と「腐敗した既成勢力」に分け、政治は国民の単一の意思をそのまま実現すべきだと主張する政治的な考え方や言説を指す。

この構造では、社会内部の多様な利害や価値観が見えにくくなる。

実際の国民には、会社員、自営業者、農業者、高齢者、子育て世帯、障害のある人、外国にルーツを持つ人など、異なる立場がある。国民全体が一つの意思を持っているわけではない。

ところが、ポピュリズム的な政治家は、

「普通の国民は皆そう思っている」

「反対する者は既得権益側である」

「自分に反対する政治家は国民の敵である」

と主張しやすい。

こうした政治は、左派にも右派にも存在する。

右派型のポピュリズムでは、移民、外国、国際機関、都市部の知識人、報道機関などが敵として設定されやすい。

左派型のポピュリズムでは、大企業、富裕層、金融機関、官僚、既成政党などが敵として設定されやすい。

敵として挙げる対象は異なるが、「善良な国民対腐敗した支配層」という構図は共通している。

国際民主化選挙支援機構の分析でも、ポピュリズム政権の影響は、左右の政策内容だけでなく、議会、司法、報道、制度的な抑制との関係から評価する必要があるとされている。

ポピュリズムに迎合する政治と、理念を訴える政治は違う

政治家が有権者の意見を聞くことは重要である。

民主主義において、政治家が国民の声を無視してよいはずはない。

しかし、有権者の声を聞くことと、その時々の感情に迎合することは異なる。

迎合型の政治家は、世論調査や交流サイトの反応を見ながら、最も支持を得られそうな言葉を選ぶ。

その政策が長期的に正しいかどうかより、今日の反応を優先する。

社会保障を増やすと言いながら、財源には触れない。

税金を下げると言いながら、どの支出を減らすのか説明しない。

治安対策を強化すると言いながら、人権侵害の危険を検討しない。

外国人を批判しながら、労働力不足や産業構造には触れない。

防衛費削減を主張しながら、安全保障上の代替策を示さない。

このような政治は、支持者が聞きたい言葉を返しているだけであり、政治的指導とはいえない。

望ましい政治家とは、有権者の感情をそのまま増幅する人物ではない。

自らの理念、政策、価値判断を明らかにしたうえで、それがなぜ必要なのかを説明し、有権者を説得する人物である。

政治家は、国民の意見を受け取るだけの受信機ではない。

情報を整理し、利害を調整し、将来の危険を説明し、時には人気のない決定についても責任を負う存在である。

したがって、政治家に求められるのは「扇動」ではなく「説得」である。

扇動とは、恐怖、怒り、憎悪を利用して、人々を特定の方向へ動かすことである。

説得とは、事実、論理、価値判断、費用、利益を示し、相手が自分で判断できるようにすることである。

両者は、似ているようで正反対である。

交流サイトは強い感情を増幅しやすい

SNS(Social Networking Service・交流サイト)は、政治家が有権者と直接つながる手段を拡大した。

従来、政治家の発言は、記者会見、新聞、テレビ、議会中継などを通じて伝えられていた。現在では、政治家自身が短い文章や動画を直接発信できる。

これは政治参加の面では大きな利点がある。

小規模政党や新人候補でも情報発信ができ、報道機関が扱わない論点を提示できる。市民も政治家に意見を伝えやすくなった。

一方、交流サイトには、強い感情を伴う情報が拡散されやすいという問題がある。

怒り、恐怖、侮辱、驚きなどを含む投稿は、反応を集めやすい。穏健で条件の多い政策説明は、短い投稿や動画に向きにくい。

デジタルメディアと政治に関する研究では、インターネットや交流サイトが政治参加や情報アクセスを広げる一方、誤情報、分極化、政治的動員との関係について、国や制度によって異なる結果が確認されている。交流サイトが必ず分極化を生むと単純化することはできないが、政治的対立を増幅する条件になり得ることは無視できない。

また、自分と反対の意見を見せれば、必ず穏健になるとも限らない。

反対意見への接触によって、かえって自分の立場を強める場合があることも研究で示されている。

人は、自分と異なる情報を見たとき、常に冷静に再検討するわけではない。

相手から攻撃されたと感じれば、自分の所属集団を守ろうとする。

結果として、

反対派の強い発言を見る ↓ 自分の立場を守ろうとする ↓ さらに強い政治家を支持する ↓ 政治家がさらに強い言葉を使う ↓ 反対派も対抗して強い言葉を使う

という循環が生まれる。

過激化は左右対称に起きるとは限らない

中立的に分析することは、左右に必ず同じ量の問題があると結論づけることではない。

ある時期、ある国、ある争点では、右派側の過激化が強い場合がある。別の時期や争点では、左派側の排他的な言説が強くなる場合もある。

重要なのは、形式的に左右を同数ずつ批判することではない。

同じ評価基準を適用することである。

例えば、次の基準で比較する必要がある。

事実と異なる情報を意図的に使っていないか。

反対派を国民として認めない表現をしていないか。

暴力や威圧を容認していないか。

司法、議会、報道機関などの独立性を弱めようとしていないか。

少数者の権利を、多数者の感情だけで制限しようとしていないか。

政策の費用や副作用を隠していないか。

自分の支持者による問題行動だけを正当化していないか。

この基準を適用した結果、一方の陣営により多くの問題が確認されることはあり得る。

それを無理に均等化する必要はない。

公正中立とは、結論を中央に置くことではなく、評価方法を共通にすることである。

党内競争が政治家を先鋭化させる

政治家は、他党との選挙だけを戦っているのではない。

政党内でも、候補者選定、役職、発言力、資金、人事を巡る競争がある。

中道的な有権者を対象とする本選挙よりも、党員、活動家、熱心な支持者の影響が強い候補者選定では、より明確な思想を示す候補が有利になる場合がある。

党内の熱心な支持者は、一般有権者より政治への関心が高い。そのため、政策的にも感情的にも明確な立場を持つ傾向がある。

政治家が党内で存在感を示すためには、

「私は他の議員よりも本物の保守である」

「私は他の議員よりも一貫したリベラルである」

と示す必要が生じる。

この競争では、穏健な妥協は裏切りと見なされやすい。

相手政党と協議すれば、弱腰と批判される。

法案を修正すれば、信念を曲げたと批判される。

発言を訂正すれば、圧力に屈したと批判される。

その結果、政治家は自らの立場を修正しにくくなる。

政治家の思想が先鋭化するというより、先鋭化した態度を示さなければ、党内で生き残りにくくなるのである。

メディア環境は中間的な説明を不利にする

政治問題の多くは、本来、単純な二択ではない。

原子力発電を増やすか減らすかという問題には、電力価格、二酸化炭素排出量、廃棄物、事故リスク、立地地域の経済、再生可能エネルギー、送電網などが関係する。

外国人労働者を受け入れるかという問題にも、人手不足、賃金、社会保障、教育、地域統合、企業責任などが関係する。

ところが、報道や交流サイトでは、

賛成か反対か。

味方か敵か。

愛国か反国か。

改革派か抵抗勢力か。

という単純な対立に置き換えられやすい。

複雑な説明を行う政治家は、分かりにくいと評価される。

条件付きの賛成や部分的な反対は、態度が曖昧だと見なされる。

一方、単純で強い主張は、理解しやすく、映像や見出しにしやすい。

その結果、政治家は、政策の正確さより、情報としての分かりやすさを優先するようになる。

しかし、分かりやすいことと、正しいことは同じではない。

政策を単純化しすぎれば、費用、例外、副作用、実施上の困難が見えなくなる。

政治への不信が、強い言葉を求めさせる

政治家の過激化は、政治家側だけの問題ではない。

有権者が既存の政治や行政に強い不信を持っているとき、穏健な説明は「ごまかし」と受け取られやすい。

「慎重に検討する」

「関係者と調整する」

「段階的に実施する」

という言葉が、何もしない政治の象徴に見えるからである。

その反動として、

「すぐに廃止する」

「全員追放する」

「既得権益を壊す」

「一気に変える」

という政治家が支持を得る。

経済停滞、格差、地域間格差、公共サービスへの不満、行政への不信などは、ポピュリズムを支持する背景になり得る。緊縮政策や経済的不安とポピュリズムの関係についても、比較政治学で研究が蓄積されている。

経済協力開発機構の調査でも、政府への信頼が低い人の割合は高く、政治的な発言力を持てないという感覚や、政府が公平に行動していないという認識が、信頼の低下と関係している。

したがって、過激な政治家だけを批判しても、問題は解決しない。

なぜ有権者が強い言葉を必要としているのか。

既存政党がどの不満に答えられていないのか。

政策決定が特定の利益集団に偏っていないか。

行政が十分な説明をしているか。

地域や世代による不利益が放置されていないか。

こうした背景を検証する必要がある。

過激な言葉は、政治家の能力不足を隠すことがある

強い言葉を使う政治家が、強い政策能力を持っているとは限らない。

政策を実行するには、法律、予算、行政組織、人員、地方自治体、民間企業、国際関係などを調整しなければならない。

ところが、制度設計の能力が弱い政治家ほど、抽象的な敵を攻撃することで、自らの能力不足を隠せる場合がある。

政策が実現しなければ、

野党が邪魔をした。

官僚が抵抗した。

報道機関が偏っている。

外国勢力が妨害した。

国民の理解が不足している。

と説明できる。

この構造では、失敗の責任が常に外部へ移される。

政治家の支持者も、政策の成果ではなく、敵と戦っている姿勢を評価するようになる。

その結果、政治家は問題を解決するより、問題を解決できない理由となる敵を維持する方が得になる。

これは、政治の目的が政策成果から集団対立へ変わった状態である。

中道が常に正しいわけではない

ここで誤解してはならないのは、中道であること自体が正しさを保証するわけではないということである。

歴史上、当時は過激とされた主張が、後に社会の標準になった例は多い。

普通選挙、女性参政権、労働者の権利、人種差別撤廃、障害者の権利などは、既存秩序に対する強い異議申し立てから始まった。

逆に、中道を名乗る政治家が、必要な改革を先送りし、問題を放置する場合もある。

重要なのは、政治的位置が中央にあるかどうかではない。

主張に根拠があるか。

人権を侵害しないか。

政策として実行可能か。

費用と負担を説明しているか。

反対意見を排除せず、検討しているか。

誤りが判明した場合に修正できるか。

この基準で評価すべきである。

先鋭的な政策であっても、十分な根拠があり、少数者の権利を守り、実施可能性が高いなら、検討に値する。

中道的な政策であっても、問題を先送りするだけなら、評価できない。

望ましい政治家は「鏡」ではなく「案内役」である

有権者の感情をそのまま映すだけの政治家は、国民の代表ではあっても、政治的指導者とはいえない。

政治家は、国民がすでに考えていることを繰り返すだけではなく、知られていない事実を示し、複雑な利害を説明し、長期的な選択肢を提示する必要がある。

例えば、有権者が減税を望んでいるなら、

どの税を減らすのか。

減収はいくらか。

どの支出を削減するのか。

国債で補うのか。

将来の金利や物価にどのような影響があるのか。

自治体財政にどう影響するのか。

まで説明しなければならない。

防衛力を増強するなら、装備品の価格、維持費、人員、外交上の効果、軍拡競争の危険を説明する。

社会保障を拡充するなら、財源、労働力、給付対象、世代間負担を説明する。

政治家の役割は、有権者の希望を無条件に肯定することではない。

選択には必ず費用があることを示し、それでもなぜ自分の政策を選ぶべきかを説得することである。

政治家に必要なのは、主義の明示と反証可能性である

政治家が自らの主義を明確に主張することは望ましい。

何を大切にするのか。

国家と個人の関係をどう考えるのか。

市場と政府の役割をどう分けるのか。

どのような社会を目指すのか。

これらを曖昧にしたまま、世論に合わせて発言を変える政治家は信頼しにくい。

ただし、主義を持つことと、主義に固執することは違う。

望ましい政治家は、自分の理念を示すと同時に、どのような事実が確認された場合に政策を修正するのかを示すべきである。

例えば、

「この政策により雇用が増える」

と主張するなら、何年後に、何人増えるのかを示す。

成果が出なければ、政策を見直す。

「犯罪が減る」

と主張するなら、どの統計で検証するのかを示す。

「地域経済が活性化する」

と主張するなら、所得、雇用、税収、人口、事業継続率など、評価指標を明確にする。

主義だけを語り、結果による検証を拒む政治は、信念ではなく教条主義になる。

政治的過激化を抑えるために必要なこと

政治家の過激な言葉を禁止するだけでは、問題は解決しない。

表現の自由への過度な制限にもつながり得る。

必要なのは、過激な発言の利益を小さくし、実質的な政策説明の利益を大きくする制度と文化である。

第一に、報道機関は、失言の一部分だけでなく、政策の内容、法案、予算、実績を継続的に報道する必要がある。

第二に、交流サイトの反応数を、世論全体と同一視しないことである。投稿を頻繁に行う人は、有権者全体を代表しているとは限らない。

第三に、政党は、攻撃的な発信だけで知名度を得た政治家を安易に優遇しないことである。政策立案、議会活動、法案修正、合意形成も評価すべきである。

第四に、有権者は、政治家が誰を攻撃しているかではなく、何を実現したかを見る必要がある。

第五に、政府や議会は、政策決定の資料、議事録、費用、効果測定を公開し、事実に基づく検証を可能にする必要がある。

第六に、異なる政党の政治家が、協力できる分野では協力することである。政治指導者同士が協力の可能性を示すことが、支持者間の感情的な敵意を弱める可能性を示した研究もある。

結論~政治家は民意に迎合するのではなく、民意に責任を負うべきである

中立や中道から離れた政治家ほど過激で、言葉が汚く、常識を逸脱しているように見える現象は、左右どちらかの思想に固有の問題ではない。

その背景には、複数の要因がある。

先鋭的な政治家ほど、広い支持より熱心な支持を必要とすること。

敵を設定することで支持者の結束を高められること。

交流サイトでは強い感情を伴う情報が拡散されやすいこと。

党内競争では、穏健な妥協より思想的純粋さが評価されやすいこと。

政治不信や経済的不安が、強い言葉への需要を生むこと。

政策能力が不足した政治家が、敵への攻撃によって責任を回避できること。

こうした条件が重なると、政治家にとって過激な発言が合理的な戦略になる。

しかし、合理的であることと、望ましいことは同じではない。

政治家は、有権者が怒っているから一緒に怒るだけの存在であってはならない。

有権者が不安を感じているなら、その原因を調べ、複数の選択肢を示し、必要な負担も説明しなければならない。

政治家は、世論を追いかけるだけではなく、自らの理念を示し、それを事実と論理によって説得する責任がある。

ただし、理念を主張することは、支持者を扇動することではない。

反対派を敵として扱い、恐怖や憎悪を利用するのは政治的指導ではない。

望ましい政治家とは、自らの主義を明確にしながら、反対意見を聞き、事実によって政策を修正し、異なる立場の国民にも説明しようとする人物である。

民主主義に必要なのは、何も主張しない中立的な政治家でも、支持者の感情を増幅する過激な政治家でもない。

明確な理念を持ち、その理念を政策に変換し、その費用と結果について責任を負い、反対する人々をも説得しようとする政治家である。

政治家は、民意に迎合するのではなく、民意を理解し、民意に説明し、民意に対して責任を負うべきなのである。

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令和8年7月28日現在、高市早苗首相は強い政治基盤を持つ首相である。

令和8年2月8日の衆議院議員総選挙では、自由民主党と日本維新の会を合わせた与党が352議席を獲得した。高市首相自身も、この結果を重要政策の転換について国民から信任を受けたものと位置づけている。一方で、高市首相は選挙直後の会見において、参議院では与党が過半数を有していないことを認め、野党に協力を求めながら「様々な声に耳を傾け、謙虚に」政権を運営すると述べていた。

問題は、その言葉と実際の国会運営との間に、看過できない距離が生じていることである。

衆議院で圧倒的多数を得たからといって、内閣が国会より上位に立つわけではない。まして、参議院の異論を障害物のように扱い、首相自身が国会審議への出席を抑え、与党内の決定を国会に追認させようとするならば、それは「強い政治」ではない。

むしろ、日本の統治制度に対する理解が十分でない、稚拙な国会運営と評価されても仕方がない。

高市首相への批判は、保守かリベラルかという問題ではない

高市首相を支持する人の中には、野党の質問を「揚げ足取り」と考え、長時間の国会審議を政策実行の妨げだと感じる人もいるだろう。

国際情勢が緊迫し、物価高や人口減少への対応も急がれる中、迅速な意思決定を求めること自体は理解できる。政府が何も決められず、先送りを繰り返す政治が望ましくないことも事実である。

しかし、迅速な決定と、異論を排除した決定は同じではない。

本来の保守政治とは、制度を壊してでも指導者の意思を通す政治ではないはずである。長い時間をかけて形成されてきた議会制度、権力分立、慎重な審議、少数意見の尊重を守ることこそ、制度を重視する保守主義の基本ではないか。

自分が支持する政治家が権力を握っているときだけ、議会の歯止めを邪魔だと考えるのは危険である。

今日、高市首相のために弱めた国会の統制は、将来、自分が強く反対する首相によって利用される可能性がある。制度とは、信頼できる指導者だけを想定して設計するものではない。信頼できない指導者が現れても権力の暴走を防げるように設計するものである。

したがって、高市内閣の国会運営を批判することは、高市氏の政治思想が好きか嫌いかという問題ではない。

日本の立憲政治を長期的に維持できるかという問題なのである。

議院内閣制は、内閣が国会を支配する制度ではない

日本は議院内閣制を採用している。

議院内閣制では、内閣総理大臣は国会議員の中から国会の議決によって指名され、内閣は国会に対して連帯して責任を負う。

ここで重要なのは、首相が国民から直接選ばれる大統領ではないという点である。

衆議院選挙で自由民主党を中心とする与党が勝利したとしても、それによって高市首相個人が国会を超越する権限を得たわけではない。首相は国会から独立した直接公選の統治者ではなく、国会によって指名され、国会に説明し、国会の審議を通じて統制を受ける立場にある。

高市首相は、令和8年1月の衆議院解散に際し、「高市早苗が内閣総理大臣で良いのかどうか」を国民に決めてもらうという趣旨の説明を行った。さらに、前回の衆議院選挙では掲げられていなかった重要政策について信を問うと述べている。

選挙によって政策の信任を問うこと自体には合理性がある。

しかし、この説明には注意が必要である。

日本の衆議院選挙は、首相個人を選ぶ選挙ではない。全国の小選挙区と比例代表で、それぞれの候補者と政党を選ぶ選挙である。有権者が自由民主党候補に投票した理由も、高市首相への支持だけとは限らない。地元候補への評価、野党への不信、経済政策、安全保障政策、政党組織、消去法による選択など、複数の理由が考えられる。

したがって、与党の大勝を「高市首相のあらゆる政策と国会運営が全面的に承認された」と読み替えることはできない。

選挙で得られるのは、一定期間政権を担当するための政治的基盤であって、国会審議を省略する権利ではない。

衆議院の圧勝だけで国民全体の意思を代表したことにはならない

高市内閣の国会運営を考えるうえで、衆参二院制の意味を改めて確認する必要がある。

国会には衆議院と参議院がある。

衆議院には解散があり、任期も参議院より短い。このため、直近の民意を反映しやすい。一方、参議院には解散がなく、議員の任期は6年で、3年ごとに半数が改選される。

この違いは偶然ではない。

一時的な政治状況や選挙の熱気だけで国の重要政策が決められないように、異なる選出時期と任期を持つ二つの議院が、相互に審議を重ねる仕組みとなっている。

衆議院で大勝した政権にとって、参議院の異論は確かに煩わしく感じられるかもしれない。しかし、その「煩わしさ」こそが二院制の機能である。

参議院が衆議院と常に同じ結論を出すのであれば、二つの議院を置く意味は薄い。衆議院の多数派が見落とした問題を指摘し、法案を修正し、政府に再考を迫ることが、参議院の重要な役割である。

令和8年2月の選挙後、与党は衆議院で352議席という圧倒的多数を得たが、参議院では過半数を有していない。高市首相自身も、この事実を認めている。

これは政治的な矛盾ではない。

異なる時期の選挙で示された、異なる民意が同時に存在しているのである。

高市内閣は、直近の衆議院選挙だけを本物の民意とみなし、参議院の構成を過去の民意として軽視してはならない。参議院議員もまた、正当な選挙によって選ばれた国民の代表である。

参議院で与党が過半数に達していないという事実は、「政策を邪魔する野党が多い」という意味ではない。

政府に対し、より丁寧な説明、合意形成、修正、譲歩を求める制度上の条件なのである。

予算の年度内成立を逃した責任を、参議院だけに転嫁できない

令和8年度予算を巡る国会運営は、高市内閣の制度理解と調整能力を考えるうえで象徴的であった。

高市首相は令和8年1月23日に衆議院を解散し、2月8日に総選挙を行った。その後、第2次高市内閣が2月18日に発足し、施政方針演説は2月20日に行われた。

当然ながら、年度開始までに残された予算審議の日程は厳しくなった。

政府は予算案の年度内成立を目指したが、最終的には年度内成立を断念し、11年ぶりとなる暫定予算が編成された。参議院は令和8年3月30日に暫定予算を議決し、本予算は4月7日に成立した。

もちろん、予算審議が長引いた責任のすべてが内閣にあるわけではない。

野党側の審議戦術、質問の重複、政党間対立なども検証されるべきである。国会審議を引き延ばすことだけを目的とした対応があったなら、野党も批判を免れない。

しかし、高市内閣が自ら衆議院を解散し、選挙日程によって予算審議期間を圧縮したことも動かせない事実である。

高市首相は予算委員会で、国会の運営は国会が決めるものだと答弁し、野党に協力を求めた。

形式的には正しい。

だが、内閣が自ら作り出した厳しい日程の中で、野党や参議院に「国民生活のために協力してほしい」と迫るだけでは、責任ある調整とはいえない。

政府には、十分な審議時間を確保できる日程を組む責任がある。与党には、野党が納得できる資料を早期に提出し、修正協議に応じる責任がある。首相には、国会に出席し、政策の根拠と解散の判断について自ら説明する責任がある。

圧倒的な衆議院議席を獲得するために解散を行い、その結果として予算審議が窮屈になったのであれば、まず内閣自身がその政治的費用を引き受けなければならない。

参議院に審議短縮を求めることで帳尻を合わせようとするなら、それは二院制を尊重した運営ではない。

「国会運営は国会が決める」という答弁だけでは責任を果たせない

高市首相は国会で、予算の審議方針を含む国会運営は国会が決めるものだと繰り返し述べている。

この説明は、国会と内閣の形式的な関係としては間違いではない。

しかし、現実の国会運営において、政府・与党と首相官邸が大きな影響力を持っていることは否定できない。政府提出法案の優先順位、法案提出の時期、首相や閣僚の出席、与党の審議方針などは、内閣と与党の判断に大きく左右される。

都合のよいときには「選挙で信任を得た」と強い指導力を強調し、審議が停滞すると「国会の運営は国会が決める」と距離を置くのでは、一貫性を欠く。

権限を行使するときには首相主導を掲げ、説明責任を問われたときだけ国会の自主性を持ち出すなら、それは責任ある議院内閣制の運用ではない。

議院内閣制における首相の指導力とは、国会を避ける能力ではない。

国会に出て批判を受け、異なる立場の議員を説得し、必要な修正を受け入れながら、最終的な合意を形成する能力である。

首相の国会出席を抑えることは「効率化」ではない

令和8年の終盤国会では、高市首相の国会出席の少なさが争点となった。

報道によれば、野党は高市首相の予算委員会などへの出席を求め、これに政府・与党が応じない状態が続いたため、国会審議が一時停滞した。与党側は定数削減法案や副首都法案などの成立を目指していたが、野党側は首相出席を求めて反発した。

7月15日には高市首相と野党6党首による党首討論が行われ、7月17日には参議院予算委員会で集中審議が実施された。

首相がすべての委員会に常時出席する必要はない。

外交、危機管理、行政全般の統括など、首相の職務は広範である。各省の専門的問題には、担当大臣が答えることが合理的な場合も多い。首相出席を過度に要求し、同じ質問を何度も繰り返すことが、国会審議の質を高めるとは限らない。

この点は野党側も自制すべきである。

しかし、予算、国家の基本政策、内閣の統治姿勢、衆議院解散の判断、重要な制度改革などは、担当大臣だけでは完結しない。内閣全体の方針と首相自身の政治判断が問われる問題である。

そうした場面で首相が出席を避け、閣僚による答弁で済ませようとすれば、議院内閣制における内閣の国会責任が形骸化する。

高市首相の支持者は、「首相を国会に縛りつけるより、外交や政策実行に専念させるべきだ」と考えるかもしれない。

だが、国会で説明することは、政策実行とは別の雑務ではない。

国会答弁そのものが首相の本務である。

国会への説明を負担としか考えないのであれば、それは議院内閣制の首相ではなく、議会の統制を受けない執行権力を求める発想に近づいてしまう。

法案を多く成立させることだけが、国会運営の能力ではない

政府・与党は、法案を成立させることを国会の成果として強調しがちである。

確かに、内閣には政策を実行する責任がある。審議だけを続け、何も決められない国会が望ましいわけではない。

しかし、成立した法案の数や処理の速さだけで国会運営を評価することはできない。

重要なのは、なぜその制度が必要なのか、既存制度では対応できないのか、どのような副作用があるのか、誰が利益を得て誰が負担するのか、修正可能性はあるのかという検討である。

高市首相は6月22日の与党党首会談後、皇室典範改正、議員定数削減、副首都法案などを今国会で成立させたいとの考えを示した。副首都構想については「我が国初の統治機構改革」であり、極めて大きな意義を持つと評価している。

それほど重要な統治機構改革であるなら、なおさら短期間で成立を急ぐべきではない。

副首都の権限、財源、対象地域、国と地方の関係、災害時の指揮命令系統、既存自治体への影響など、検討すべき論点は多い。議員定数削減も、単なる「身を切る改革」という印象だけで決められる問題ではない。議員数を減らせば、少数地域や少数意見の代表が国会に届きにくくなる可能性がある。

自ら「大改革」と位置づける法案を、会期末までに成立させること自体を目的化するならば、政治日程が制度設計より優先される。

これは大胆な改革ではない。

拙速な改革である。

多数派は、少数派の発言権を消すために存在するのではない

民主主義では、最終的に多数決が必要となる。

すべての政党が完全に合意するまで何も決められないとすれば、統治は機能しない。選挙で多数を得た政党が政策を実行することには、明確な民主的正当性がある。

しかし、多数決は民主主義の出発点ではなく、議論を尽くした後の最終手段である。

少数意見に耳を傾けるとは、野党に発言時間を与えれば済むという意味ではない。反対意見の中に合理的な指摘があれば、法案を修正し、場合によっては撤回することである。

政府が最初に決めた結論を一切変えず、質問に答え、採決まで待つだけなら、それは「聞いた」という形式を整えただけである。

本当に耳を傾けたかどうかは、結論や制度設計が変わったかによって判断される。

高市首相は選挙後、「様々な声に耳を傾け、謙虚に」政権運営を行うと明言した。

この言葉を空文にしないためには、野党との協議内容、政府案を修正した理由、修正を拒否した理由を公開しなければならない。

反対意見を「抵抗勢力」「既得権益」「反日」「左翼」などの言葉で一括して排除する態度は、政策の中身を検討することを放棄している。

同様に、高市首相を支持する人々を一括して無知、極右、低水準などと決めつけることも適切ではない。支持者の中には、安全保障、経済政策、エネルギー政策、国家観などについて、具体的な理由から高市氏を評価する人もいる。

必要なのは、支持者を侮辱することではない。

高市首相を本当に支持するのであれば、耳に心地よい言葉だけを求めるのではなく、その国会運営が日本の制度を強くしているのか、それとも首相個人への権力集中を進めているのかを問い直すことである。

参議院の抵抗は「民意への反逆」ではない

高市内閣に批判的な参議院議員の行動を、衆議院選挙の結果に逆らうものと見る意見もある。

しかし、参議院は衆議院の補助機関ではない。

参議院は独自の選挙によって構成される国会の一院であり、予算、法案、条約、決算、行政監視などに関する固有の役割を持つ。

令和8年7月には、参議院が令和6年度決算について内閣への警告を議決した。参議院の説明によれば、この警告は政府による不当・不適正な事象や非効率な予算執行などに対し、国会の立場から遺憾の意を示す制度である。

決算審査は、すでに使われた税金が適正だったかを検証するものである。

予算を成立させて終わりではなく、実際の支出を検証し、問題があれば政府に警告する。これは、行政権を監視する国会の基本的な役割である。

参議院が政府に異論を述べることは、政治の停滞ではない。

権力の監視が機能している証拠である。

もちろん、参議院の判断が常に正しいわけではない。野党が多数を利用して党利党略に走る可能性もある。参議院側の主張も、財源、制度設計、実現可能性によって検証されなければならない。

それでも、衆議院の多数と異なるという理由だけで参議院の意見を否定することは、二院制そのものを否定することになる。

高市内閣の問題は「強すぎること」ではなく、強さの使い方にある

高市首相が強い政治的指導力を持つこと自体を否定する必要はない。

政権の目標を明確に示し、行政組織を動かし、政策を実行する能力は、首相に必要である。高市内閣の支持者が、従来の曖昧な政治よりも明確な意思決定を評価することにも理由がある。

問題は、その強さがどこに向けられているかである。

官僚機構の縦割りを打破するために使われるのか。

既得権益を検証するために使われるのか。

国民に説明しにくい政策についても正面から語るために使われるのか。

それとも、国会審議を短縮し、反対意見を退け、首相への質問を避けるために使われるのか。

本当に強い首相は、批判から逃げない。

自分に不利な資料も公開し、反対党の議員から厳しい質問を受け、誤りがあれば認め、必要なら政策を修正する。

一方、議席数を盾にして説明を避ける政治は、外見ほど強くない。反論に耐えられないから、審議を避けるのではないかという疑念を生む。

高市内閣の国会運営に見られる稚拙さとは、単に言葉遣いや政局対応が未熟だという意味ではない。

衆議院の多数を政策実現の道具としては重視する一方、参議院の異論、野党の質問、首相自身の説明責任を、政策実行を遅らせる負担として扱っているように見える点にある。

これは議院内閣制への理解として不十分である。

野党にも問われる責任

高市内閣を批判するだけでは、公正な議論にはならない。

野党にも責任がある。

首相出席を求めるのであれば、首相にしか答えられない論点を明確にしなければならない。担当大臣で回答可能な細部まで首相に答弁させることは、国会審議の効率を下げる。

政府案に反対するなら、単に成立を阻止するだけでなく、具体的な修正案、財源、実施方法を示す必要がある。審議拒否や採決引き延ばしを目的化すれば、野党もまた国会を政局の道具にしていることになる。

高市首相への人格攻撃や、支持者への侮辱も慎むべきである。

野党が高市氏を批判する際には、発言の切り取りではなく、政策、予算、答弁、法案提出時期、国会出席、修正協議への対応といった検証可能な事実に基づくべきである。

高市内閣の国会運営を改善するには、政府だけでなく、野党側にも議論の質を高める努力が求められる。

高市首相に求められる五つの改善

今後、高市首相が国会運営への懸念を払拭するためには、少なくとも次の対応が必要である。

第一に、首相出席の基準を明確にすることである。

予算の基本方針、外交・安全保障、統治機構改革、解散権の行使、内閣全体の不祥事など、首相自身が答えるべき論点をあらかじめ整理し、合理的な範囲で国会出席を確保する必要がある。

第二に、参議院を「法案を通すための最後の関門」と考えないことである。

法案提出前から参議院各会派と協議し、修正可能な部分を明示する。衆議院通過後に形式的な説明をするだけでは、二院制を尊重したことにはならない。

第三に、政府案を変更した経緯を公開することである。

野党や専門家の意見を受けて、どの条文を、なぜ修正したのかを国民に示す。これによって「耳を傾ける」という言葉が実質を持つ。

第四に、重要法案を会期末に集中させないことである。

統治機構、皇室制度、議員定数などに関する法案は、成立日程から逆算するのではなく、必要な審議時間から逆算して提出すべきである。

第五に、選挙の勝利を無限定な白紙委任と解釈しないことである。

与党に投票しなかった有権者、参議院選挙で異なる政党を選んだ有権者、選挙後に政策への疑問を持った有権者も、等しく主権者である。

高市首相を支持する人にこそ考えてほしい

高市首相を支持しているからこそ、国会での説明を求めるべきである。

支持する政治家に厳しい説明責任を求めることは、裏切りではない。

無条件に擁護し、批判をすべて敵意として排除することの方が、長期的にはその政治家を弱くする。間違いを指摘する人が周囲からいなくなれば、政策判断は修正されず、失敗したときの損害が大きくなる。

高市首相の政策が本当に優れているのであれば、参議院の審議にも、野党の追及にも、専門家の批判にも耐えられるはずである。

反対意見を聞くことは、政策を弱めることではない。

政策の欠陥を事前に発見し、実施後の失敗を減らすための作業である。

企業経営でも、医療でも、工学でも、重大な判断ほど複数の立場から検証する。異論を排除し、一人の指導者の直感だけで決める組織は、短期的には速く見えても、大きな誤りを起こしやすい。

国家運営だけが例外であるはずはない。

結論~強い国会なくして、強い国家はない

高市早苗首相は、令和8年2月の衆議院選挙で大きな政治的基盤を得た。

その勝利には正当な重みがある。高市内閣が公約に掲げた政策を実行しようとすることも、議会制民主主義の一部である。

しかし、衆議院の圧倒的多数は、参議院を軽視する権利でも、少数意見を無視する権利でも、首相が国会への説明を避ける権利でもない。

日本の国会は、政府の政策を効率よく通過させるための機関ではない。

国民を代表する議員が、政府の判断を検証し、修正し、必要なら拒否するための機関である。

高市内閣の国会運営に対する最大の懸念は、政策内容が保守的であることそのものではない。

選挙で得た多数を、熟議を省略する根拠として用い、参議院や少数意見を政策実行の障害として扱いかねない姿勢である。

それは本当の保守政治ではない。

制度より指導者を優先し、議会より官邸を優先する政治である。

高市首相が「様々な声に耳を傾け、謙虚に」政権を運営するという自身の言葉を本気で守るのであれば、まず国会に向き合わなければならない。

反対意見を聞き、質問に答え、法案を修正し、参議院との合意形成に時間を使うべきである。

それは政治の弱さではない。

異なる民意を一つの国家意思へまとめる、議会政治の最も困難で、最も重要な仕事である。

強い首相だけでは、強い国家はつくれない。

強い国会、独立した参議院、政府に遠慮なく質問できる野党、そして支持する政治家にも批判的な目を向けられる国民がそろって、初めて民主国家は強くなるのである。

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