地域政経

九条レオンの地域から社会と政治・経済のこれからを考える

 政治家とは、本来なら政策や実績によって記憶される職業のはずである。どの法律に関わり、どんな政策を進め、危機に際してどのような判断をしたのか。その積み重ねが政治家の評価になる、と私たちは考えている。ところが小泉進次郎という政治家には、少し違った現象が起きている。個別の政策について詳しく知らない人であっても、「進次郎構文」と呼ばれる独特の言い回しや、「セクシー」「プラスチックは石油」といった断片的な言葉なら知っていることがあるからだ。

 もちろん、「発言の一部分が本人より有名」という題名は、文字どおり発言の認知率が小泉進次郎本人の認知率を上回っているという意味ではない。そのような比較を直接行った調査が存在するわけでもない。ここで問題にしたいのは、政治家として何を行った人物なのかよりも、どのような言葉を話す人物なのかというイメージが先に想起されることがあるという、もっと奇妙な現象である。

 しかも、記憶されるのは長い演説や記者会見の全体ではない。一語、一文、あるいは十数秒ほどの短い部分である。政治家本人が何十分も話した言葉の森から一本の枝だけが折り取られ、その枝が繰り返し運ばれていくうちに、いつの間にか森そのものを代表するようになる。

 なぜこんなことが起きるのだろうか。単純に「小泉進次郎の発言がおかしいから」と片づけてしまえば話は簡単だが、それだけでは説明できない。そこには本人の話し方だけでなく、ニュースが言葉を短くする仕組み、SNS(Social Networking Service・交流型ソーシャルメディア)が特徴的な情報を増幅する仕組み、模倣したくなる言語の構造、そして一度抱いた人物像に合った情報を選んでしまう私たち自身の認知まで関係している可能性がある。

 小泉進次郎という政治家を見ているようで、実は私たちは、現代社会がどのようにして政治家のイメージを作るのかを見ているのかもしれない。

政治家の言葉が「発言」から「作品」に変わるとき

 政治家の発言の多くは、驚くほど記憶に残らない。「適切に対応する」「関係機関と連携する」「丁寧に説明する」といった表現は政治の世界では日常的に使われるが、その言葉だけが数年後まで語り継がれることはほとんどない。それは内容が正しいか間違っているかとは別の問題で、言葉の形そのものが私たちの予想の範囲内に収まっているからだろう。

 それに対して、小泉進次郎の一部の発言には、聞き手の耳がわずかに止まる特徴がある。意味が完全に分からないわけではないのに、普通ならそのようには言わない。説明しているようで同じ意味を繰り返していたり、抽象的な話の中に突然印象的な単語や数字が現れたりするため、「今の言い方は何だったのだろう」という小さな違和感が残るのである。

 この現象を考える上で興味深いのが、記憶に残る言葉についての計算言語学研究である。映画の台詞を分析した研究では、記憶されやすい台詞は、完全に奇妙で理解不能なのではなく、文章構造は比較的分かりやすい一方、使われている言葉には通常より少し特徴がある傾向が報告されている。もっとも、これは映画の台詞を対象とした研究であり、その結果をそのまま日本の政治家の発言へ適用することはできない。それでも、「意味は分かる。しかし少し変だ」という言葉が記憶されやすい可能性を考える上では、小泉氏の現象と興味深く重なる。

 完全に意味不明な文章なら、人はそのまま忘れてしまうかもしれない。しかし、意味は理解できるのに何か引っ掛かる文章は、他人に伝えたくなり、他人へ伝えるときには長い会見をすべて再現する必要はなく、最も特徴的だった一部分だけを切り出せばよい。

 この瞬間、政治家の発言は政策説明であるだけでなく、引用し、笑い、批評し、再利用できる小さな「作品」に変わる。

「セクシー」という一語が独り歩きした理由

 象徴的なのが、2019年の気候変動対策をめぐる「セクシー」という発言である。小泉氏は国際的な場で、気候変動問題への取り組みについて、楽しく、クールで、セクシーでなければならないという趣旨を英語で述べた。

 日本語で「セクシー」と聞けば、多くの人は性的な意味をまず思い浮かべる。しかし英語の「sexy」には、人を引きつける、魅力的であるといった比喩的な用法も存在するため、この発言を単純に「環境政策を性的だと言った」と理解するのは正確ではない。

 ところが、日本国内で広く流通したのは、発言全体の趣旨よりも「環境問題をセクシーに」という強烈な組み合わせだった。一語だけ取り出しても意味が成立し、その一語だけで違和感と面白さが生まれるためである。

 ここで重要なのは、小泉氏が何を意図したかと、社会が何を記憶したかが一致していないことである。政治家は一つの文脈の中で話すが、受け手は必ずしもその文脈ごと記憶するわけではなく、そこに強い単語が一つあれば、その言葉だけが外へ運び出され、やがて元の文章より長く生き続けることがある。

「プラスチックは石油」も文脈を外れると別の文章になる

 「プラスチックは石油」という趣旨の発言も同じ構造を持っている。ネット上では、あまりに当然のことを重大な発見のように語った発言として紹介されることが多い。

 しかし、環境省の公式な記者会見記録を見ると、小泉氏はプラスチック削減、代替素材、循環型経済、脱炭素、化石燃料輸入によって国外へ流れる資金などを説明する中で、「プラスチックはもともと石油ですから」という趣旨の話をしている。少なくとも、この会見について「プラスチックが石油から作られていることを小泉氏が初めて知った」と解釈するのは文脈上無理がある。

 一方で、ラジオ番組など別の場でも、プラスチックと石油の関係を強調した発言が知られている。そのため、ネット上に流通するさまざまな文章を一つの発言として扱うことにも注意が必要である。

 ここには、現代の情報環境の特徴がよく表れている。長い政策説明は文脈を必要とするが、SNS上で広がる短い言葉には文脈がなくてもよく、むしろ笑いや批判の材料として使うなら、長い前後関係は邪魔になることさえある。何分もの会見映像を見るには時間がかかるが、一文なら数秒で読め、一文になれば画像にも字幕にも引用にもできるため、情報量は減っているはずなのに、拡散する力は逆に強くなるのである。

「今のままではいけない」は、慎重に扱う必要がある

 進次郎構文の代表例として頻繁に紹介されるのが、「今のままではいけないと思います。だからこそ、日本は今のままではいけないと思っている」といった形の発言である。

 しかし、この言葉については注意が必要だ。ネット上に広がった短い映像の後にも発言が続いていたとする指摘があり、現在広く知られている部分だけを、小泉氏がその場で話した内容のすべてであるかのように扱うことには慎重でなければならない。

 これは「メディアが意図的に意味のない発言に加工した」と断定できるという意味でもない。完全な一次映像と編集過程を確認せずに、切り抜きの意図まで推測することはできないからである。

 むしろ、この不確実性自体が重要なのかもしれない。何年も流通を繰り返した短い言葉は、やがて元の発言がどのような文脈だったかという問題から離れ、「小泉進次郎なら言いそうな文章」として記憶されていき、本物の発言と、それを説明する文章と、後から作られた模倣文が同じ場所で混ざり始めるからである。

本人が言っていない「小泉進次郎」まで生まれる

 進次郎構文という現象が本当に面白くなるのは、ここからである。ある政治家の特徴的な話し方が広く知られると、人々は本人の発言を引用するだけでなく、その人物なら言いそうな文章まで作り始める。「今日は暑いですね。暑いということは、気温が高いということです」といった形で、同じ意味を言い換えて繰り返せば、それらしい文章が誰にでも作れる。

 ネット上には、この種の創作された進次郎構文が大量に存在する。その結果、本人が実際に話した文章と、誰かが後から作った文章の境界が分かりにくくなっている。

 これは政治家にとって不思議な状態である。普通、政治家の新しい言葉を生み出せるのは本人だけだが、「構文」になった瞬間、本人が沈黙していても新しい発言らしきものが作られ、本人の言葉だったものが、みんなで遊べる言語形式へ変わったのである。

 落語家には話芸があり、小説家には文体があり、漫画の登場人物には決まり文句がある。それとまったく同じではないにしても、小泉進次郎という現役政治家の名前が、一種の文章形式を表す言葉としてまで使われるようになったことは、現代日本政治の中でも目立つ現象である。

「発言したから構文になった」から「構文だから発言が探される」へ

 最初は、小泉氏の特徴的な発言が存在したから「進次郎構文」という言葉が生まれたのだろう。

 しかし、一度「進次郎構文」という型が社会に共有されると、因果関係が少し変わる可能性がある。今度は大量の発言の中から、「これは進次郎構文らしい」と感じられる部分が探され、切り出され、拡散されやすくなるからである。

 ここには、Confirmation Bias(確証バイアス・自分がすでに持っている考えと一致する情報を重視しやすい心理傾向)に近い作用を考えることができる。ただし、小泉氏についてこの心理効果が直接実験で証明されたわけではないので、「必ずこの心理現象が起きている」と断定することはできない。それでも、人間が既存の人物像に合う情報へ注意を向けやすいという一般的な認知特性は、「進次郎らしい発言」だけが集まりやすくなる現象を説明する一つの有力な仮説になる。

 逆に、小泉氏が普通に政策を説明している長い部分は話題になりにくい。「今日の小泉進次郎は普通に説明していました」という情報には驚きがなく、わざわざ共有する動機も小さいため、この結果、ネット上に残っていく小泉進次郎の言葉は、本人の全発言から無作為に選ばれた標本ではなく、「小泉進次郎らしいと思われた部分」が過剰に集まった標本になりやすい。

もし全発言の5%しか「進次郎構文らしく」なくても

 この問題は数理的に考えると分かりやすい。仮に、ある政治家が100個の発言をし、そのうち「進次郎構文らしい」と感じられる特徴的な発言が5個しかなかったとしよう。残る95個は普通の政策説明である。

 もし普通の発言が平均して1回分の拡散力しか持たない一方、特徴的な5個だけが平均10倍拡散されたとすると、社会に流通する情報量は、普通の発言が95に対して、特徴的な発言が50となる。

 本来は全体の5%にすぎなかった特徴的な発言が、人々が目にする発言の中では約34%を占めることになる。さらに特徴的な発言だけが20倍拡散されれば、普通の発言95に対して特徴的発言は100となり、観測される情報の約半分が、実際には全発言の5%にすぎなかった種類の発言になる。

 もちろん、これは小泉氏の実際の発言を測定した数字ではなく、仕組みを説明するための仮想例である。しかし重要なのは、情報の種類によって拡散率が違えば、「本人が実際にどのくらいそのような話し方をしているか」と「社会がどのくらいそのような発言を見るか」は大きく異なり得るということだ。

 統計学では、このように特定の特徴を持つ情報だけが選ばれて観測されることをSelection Bias(選択バイアス・特定の情報だけが選ばれることで全体像が歪む現象)の一種として考えることができる。この視点から見ると、私たちがネット上で見ている「小泉進次郎」は、本人の発言全体そのものではなく、拡散されやすさというフィルターを何度も通過した後の小泉進次郎なのである。

SNSはすべての言葉を公平に運ばない

 SNSは、政治家の発言を均等に運んでいるわけではない。実際の研究でも、SNS上では否定的な感情を含む情報が共有されやすい傾向や、著名人についてその傾向が強くなる場合があることが報告されており、大量のニュース記事とSNS投稿を分析した研究でも、否定的な内容の記事の方が共有されやすいという結果が示されている。

 もっとも、進次郎構文を単純に「否定的な情報」と分類することはできない。そこには批判だけでなく、笑い、驚き、皮肉、言葉遊びも含まれているからである。

 それでも、こうした研究から少なくとも言えるのは、SNSには「社会で発生した情報を公平な割合で保存する仕組み」がないということだ。面白いもの、驚くもの、怒りを呼ぶもの、誰かに見せたくなるものが選ばれて増幅されるため、政治家が100の言葉を発しても、その100が同じ確率で私たちのところへ届くわけではないのである。

繰り返し見れば「本当」に感じるのか

 では、進次郎構文を何度も見れば、「小泉進次郎はこういう政治家だ」という認識まで自動的に強くなるのだろうか。ここは慎重に考える必要がある。

 心理学にはIllusory Truth Effect(錯誤真実効果・同じ情報を繰り返し見ることで、その情報をより真実らしく感じる傾向)として知られる現象があり、多くの研究を統合した分析でも一定の効果が確認されている。

 しかし、政治や社会に関する意見については事情が単純ではない。近年の研究では、社会的・政治的な主張を繰り返し提示しても、その主張を真実だと感じる程度が明確には高まらなかったという結果も報告されている。

 したがって、「進次郎構文を何度も見ると、人は小泉進次郎を能力の低い政治家だと信じるようになる」といった因果関係まで断定することはできず、むしろ確実に言いやすいのは、繰り返し見かけることで「小泉進次郎といえば進次郎構文」という連想そのものが維持されやすくなるという程度だろう。政治家への評価と、政治家について何を思い出すかは、同じ問題ではない。

笑われる政治家は、忘れられにくい政治家でもある

 ここに、小泉進次郎という政治家の奇妙な位置がある。政治家は日々批判されるが、多くの批判は数日で忘れられる一方、言葉遊びとして再利用できる発言は、新しい出来事がなくても生き残ることができる。

 進次郎構文には、政治的立場を越えて共有される可能性もある。小泉氏を支持しているかどうかとは別に、「これは進次郎構文っぽい」と楽しむことはできるからであり、その意味で、小泉氏は知名度という点では特殊な強さを手に入れたとも言える。

 しかし、それは政治家にとって必ずしも望ましいことではない。名前は忘れられないのに政策が思い出されるとは限らず、政治家として何を実現した人物なのかより、「何か変わったことを言う人」というイメージの方が強く残れば、知名度と政治的評価はまったく別の方向へ進むことになるため、有名になることと正確に理解されることは同じではないのである。

本人にも言葉を選ぶ責任がある

 もっとも、この現象をすべてテレビやSNSの責任にするのも公平ではない。政治家、とりわけ大臣には、自分の政策を具体的で誤解されにくい言葉で説明する責任があり、抽象的な表現、印象的な比喩、独特な言い回しを多用すれば、その一部分だけが独立して歩き出す危険は高くなる。

 小泉氏自身の話し方が、進次郎構文という現象の出発点になったことまで否定する必要はないだろう。しかし同時に、その一部分がどの程度本人の話し方全体を代表しているのかは別問題であり、実際に発した言葉であっても前後を取り除けば意味が変わることがあり、さらにネット上では本人が言っていない創作まで混ざる。

 だから政治家を評価するなら、「その言葉は本当に本人が言ったのか」「前後には何を話していたのか」「一部分だけを見て全体を判断していないか」という確認が必要になる。

小泉進次郎は「短い言葉の時代」を可視化した

 小泉進次郎という現象は、一人の政治家の話し方を笑うだけで終わらせるには惜しい。かつて政治家の言葉は新聞記事の文章として伝わり、その後、テレビニュースの数十秒の映像になり、現在ではSNSの短い動画、一枚の画像、一文だけの投稿へと圧縮され、最後には本人の発言すら必要としない「構文」にまでなる。

 情報は短くなるたびに文脈を失うが、同時にコピーしやすくなり、共有しやすくなり、別の場面へ転用しやすくなる。ここには、情報量が少なくなるほど、社会の中での存在感が大きくなることがあるという一つの逆説がある。

 政治家が一時間説明した政策より、その途中の十秒の言葉が何百万回も見られるなら、私たちの頭の中に形成される政治家像を決めるのは、一時間の全体ではなく十秒の方になり得る。小泉進次郎は、その構造がとりわけ分かりやすい形で現れた政治家なのかもしれない。

「もう一人の小泉進次郎」を作っているのは誰なのか

 小泉進次郎の一部の言葉が本人から離れて有名になった理由を、一つの原因だけで説明することは難しい。本人の独特な言葉遣いがまずあり、それをテレビやネットが短く切り出し、SNSが特徴的なものほど繰り返し運び、人々が面白がって模倣し、やがて「進次郎構文」という型が生まれ、その型が広く知られるようになると、今度は大量の発言の中から、その型に合う発言がさらに見つけ出されやすくなる。

 そこには政治家本人の言葉、メディアによる選択、SNSの拡散構造、言葉遊びを好む人間の文化、そして既存の人物像に合った情報を選びやすい認知の性質が重なっている。ただし、これらの一般研究が小泉進次郎という一人の政治家について因果関係を直接証明したわけではなく、ここで述べてきたのは、確認できる事実と、言語学・心理学・情報科学・統計学から考えられる有力な説明を組み合わせた分析である。

 それでも、この現象から一つだけ確かなことが見えてくる。政治家のイメージを作っているのは政治家本人だけではなく、本人が言葉を発し、メディアがその一部を選び、SNSがそれを運び、私たちが面白いものだけを覚えるという過程を何度も通った末に、現実の政治家とは少し違う「もう一人の政治家」が社会の中に出来上がる。

 小泉進次郎の場合、そのもう一人の政治家には、「進次郎構文」という名前まで付いた。

 だから本当に興味深い問いは、「小泉進次郎はなぜこんな話し方をするのか」だけではない。何十分、何時間にも及ぶ彼の発言の中から、なぜ私たちはその一文だけを覚え、別の一文を忘れたのか。その問いを突き詰めると、見えてくるのは小泉進次郎という一人の政治家よりも、短い言葉を選び、繰り返し、そこから人物全体を理解した気になりやすい、私たち自身と現代の情報社会なのである。

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~「オールドメディア」批判を超えて考える新聞の社会的役割

スマートフォンを開けば、世界中で起きている出来事がほとんど瞬時に流れてくる。X(旧Twitter)やFacebook(フェイスブック)、Instagram(インスタグラム)、YouTube(ユーチューブ)などのSNS(Social Networking Service・ソーシャル・ネットワーキング・サービス)では、事件や災害が発生すれば、新聞社やテレビ局が報じるより早く現場の映像が投稿されることも珍しくない。

そのような時代に、「新聞はもう必要ないのではないか」という疑問が生まれるのは当然である。

さらに近年では、新聞やテレビなどの既存報道機関をまとめて「オールドメディア」と呼び、その報道姿勢や情報発信のあり方を批判する言説も広く見られるようになった。

報道が偏っているのではないか。都合の悪い情報を報じていないのではないか。インターネット上ではすでに知られている事実を新聞は後から報じているだけではないか。記者や新聞社の価値観によってニュースが選別されているのではないか。

こうした批判には、検討すべき内容が含まれている。

しかし、新聞に問題があることと、新聞という制度が不要であることは同じではない。

むしろ情報社会の構造を冷静に考えるならば、結論は逆になる。

誰もが自由に情報を発信できる時代になったからこそ、職業として情報を調査し、確認し、編集し、記録し、その内容について責任を負う組織が必要なのである。

新聞がSNSより優れている理由を「情報を早く伝えること」に求めるなら、新聞はすでに敗れている。

しかし、新聞の本来の社会的価値は速報性ではない。

確認すること、調査すること、権力に質問すること、情報を体系的に整理すること、そして社会が共有できる事実を形成すること。

そこにSNS時代の新聞の存在理由がある。

「オールドメディア」という批判は何を意味しているのか

「オールドメディア」という言葉には、単に新聞やテレビが古い媒体であるという意味だけでなく、既存の報道機関に対する不信が込められている場合が多い。

新聞社やテレビ局がニュースの入口を独占していた時代には、市民が大勢に情報を届ける方法は極めて限られていた。

新聞に掲載されない情報、テレビで放送されない情報は、社会全体には広がりにくかった。その意味では、既存メディアは長い間、社会における情報流通の「門番」のような役割を持っていた。

インターネットとSNSは、この構造を大きく変えた。

市民自身が映像を公開できる。専門家が直接説明できる。政治家が記者会見を経由せず自ら発信できる。新聞やテレビが取り上げなかった問題がSNSから社会問題になることもある。

この変化によって、従来の報道機関が持っていた情報流通上の特権性は確実に弱くなった。

これは社会にとって基本的には望ましい変化である。

新聞社もまた、以前のように「新聞に掲載されたものだけが社会的事実になる」という姿勢を取ることはできない。

したがって、「オールドメディア批判」を単なる新聞嫌いとして片づけるべきではない。

報道機関が自らの誤報を十分に検証しているのか。政治的あるいは組織的な思い込みによってニュースの選択が偏っていないか。訂正記事は元の記事と同じ程度に読者へ届いているのか。取材対象と報道機関の距離が近過ぎないか。

これらは新聞が真正面から受け止めるべき問題である。

しかし、ここから「だから新聞は不要だ」という結論を導くことはできない。

なぜなら、既存メディアに対する批判の多くは、新聞の持つ取材・検証・編集という機能そのものが不要だと証明するものではないからである。

むしろ新聞への批判が意味を持つのは、新聞が社会的に重要な機能を担っているからでもある。

「情報が多い社会」と「正しい情報が多い社会」は同じではない

インターネット以前、ニュースを全国へ届けるためには、新聞社や放送局のような大規模な設備と組織が必要だった。

現在では、この条件はほぼ消滅した。

スマートフォンを一台持っていれば、個人でも世界へ情報を発信できる。

これは情報社会における大きな進歩である。

災害現場では住民自身が状況を発信できる。事件現場では目撃者が映像を公開できる。行政や報道機関が把握していない問題を当事者自身が社会へ訴えることもできる。

しかし、情報量が増えることと、社会が正確な情報を得られることは同義ではない。

人間には、意外性の高い情報、感情を刺激する情報、自分の信念と一致する情報、誰かに知らせたくなる情報へ強く反応する性質がある。

SNSでは、この人間の心理と情報拡散の仕組みが結びつく。

怒りを誘う情報、驚きを伴う情報、敵味方を明確に分ける情報は拡散されやすい。

一方で、「まだ確認できていない」「複数の可能性がある」「現時点では結論を出せない」といった慎重な情報は、大きな反応を集めにくい。

SNS上で虚偽情報が真実の情報より速く広く拡散する傾向については、過去の大規模研究でも指摘されている。

重要なのは、「SNSには嘘を書く人がいる」という単純な問題ではない。

人間が共有したくなる情報と、社会にとって正確で重要な情報が必ずしも一致しないという構造的問題が存在する。

ここに専門的な情報検証機関が必要になる理由がある。

新聞は「情報発信装置」ではなく「情報検証装置」である

新聞も誤報する。

新聞記者にも思想や価値観がある。新聞社ごとに政治的・社会的な論調の違いも存在する。

したがって、「新聞に書いてあるから正しい」という考え方は適切ではない。

新聞を必要と考えることと、新聞を無条件に信用することは全く別の問題である。

それでも、個人によるSNS投稿と新聞報道との間には重要な制度上の違いがある。

一般的な新聞社には取材を担当する記者が存在し、その記事を確認するデスクや編集部門が存在する。

取材源を確認し、複数の関係者から話を聞き、資料と証言を照合し、記事として掲載できるのかを判断する。

掲載後に重大な誤りが判明すれば、新聞社という法人が社会的責任を問われる。

この仕組みが常に完全に機能するわけではない。

しかし重要なのは、

誰が取材したのか。 誰が確認したのか。 誰が掲載を決めたのか。 誤りがあった場合に誰が責任を負うのか。

という責任の連鎖が制度として存在していることである。

SNSでは、一人の投稿者が取材者、編集者、発行者のすべてを兼ねることができる。

これは自由という点では大きな長所である。

一方で、投稿前に第三者が確認する制度は基本的には存在しない。

したがって新聞とSNSの本質的な違いは、紙かインターネットかという媒体の違いではない。

情報を社会に公開する前後に、検証と責任の仕組みが存在するかどうかである。

新聞社が将来、紙の新聞を発行しなくなり、すべて電子版になったとしても、取材、検証、編集、責任という機能が残っていれば、新聞ジャーナリズムの本質は残る。

逆に紙に印刷されていても、取材も検証も行われていなければ、新聞としての公共的機能は弱い。

新聞の最大の役割は「まだニュースになっていないこと」を見つけることである

SNSは、すでに誰かが知っている出来事を急速に広げることに非常に優れている。

火災が発生した。地震が起きた。著名人が発言した。政治家が問題発言をした。

このような「起きたことが分かりやすいニュース」はSNSとの相性が良い。

しかし、社会にとって本当に重要な問題の多くは、最初から分かりやすい事件として表面化するわけではない。

自治体の予算に不自然な支出がある。

公共事業の契約が特定の業者へ偏っている。

病院で同じ種類の事故が繰り返されている。

企業が発表している説明と内部の状況が一致していない。

行政が公表している統計数字に矛盾がある。

こうした問題は、誰かが資料を読み、過去の数字と比較し、関係者へ取材し、行政に質問し、必要なら情報公開制度を利用して資料を入手しなければ、そもそもニュースとして存在しない。

ここに新聞記者の重要な役割がある。

SNSは、発見された情報を広めることには強い。

新聞を中心とする職業ジャーナリズムは、まだ発見されていない社会問題を見つけることができる。

両者は同じ仕事をしているわけではない。

「新聞は後追いばかり」という批判をどう考えるか

オールドメディア批判では、「ネットでは昨日から話題になっていたことを、新聞は今日になって報じている」という指摘も多い。

速報性だけで比較すれば、この批判は正しい場合がある。

新聞がSNSより早く情報を伝えることは構造上困難である。

しかし、ここで考える必要があるのは、情報報道の評価基準を「誰が最初に投稿したか」だけにしてよいのかという問題である。

例えば、大規模な事故が起きた直後には、SNS上にさまざまな情報が流れる。

死傷者数、事故原因、関係者の名前、映像、原因企業についての情報。

事故直後には、それらの情報のどれが正しいのか分からない。

報道機関が確認に時間をかければ、SNSより遅くなる。

しかし、その遅さがすべて欠点とは限らない。

確認してから報じるために遅くなるのであれば、その時間差そのものが情報品質のための費用なのである。

もちろん、単に対応が遅いだけの場合もある。

したがって「遅いから新聞は駄目」でも、「遅いから新聞は慎重で正しい」でもない。

重要なのは、なぜ遅れたのか、その間にどのような確認を行ったのかである。

新聞の本質は権力監視にある

新聞の存在理由として最も重要なのが、行政、政治、企業などに対する監視機能である。

ジャーナリズムでは、これをウォッチドッグ(Watchdog・権力監視)機能と呼ぶ。

民主主義では、政府や自治体は選挙によって選ばれる。

しかし選挙だけでは権力を十分に監視できない。

自治体では毎日のように契約が行われ、予算が執行され、条例が作られ、許認可が行われる。

住民一人一人がこれをすべて監視することは不可能である。

そこで記者が議会へ行く。

予算書を読む。

行政へ質問する。

企業へ取材する。

現場へ行く。

内部告発者から情報を得る。

必要なら何か月、何年も調査する。

この仕事はSNSへの投稿だけでは容易に代替できない。

なぜなら継続的な取材には人件費が必要だからである。

一人の記者が数週間かけて調べても、結果として大きな不正が見つからないこともある。

それでも調査を続けられるのは、報道を職業として支える組織が存在するからである。

新聞がなくなると社会に実際の費用が発生する可能性がある

新聞の必要性は、「民主主義には新聞が必要だ」という理念だけで論じられているわけではない。

米国では、地方新聞が廃刊した地域と自治体の資金調達との関係を調べた実証研究がある。

地方新聞がなくなった地域では、地方自治体の借入コストが上昇する傾向が確認された。

これは重要な結果である。

なぜ新聞がなくなると自治体の資金調達にまで影響する可能性があるのか。

考えられる仕組みの一つが「情報の非対称性」である。

行政内部の人間は自治体の財政状況や行政運営について多くの情報を持っている。

一般住民や外部の投資家は、それほど多くの情報を持っていない。

新聞記者が自治体を継続的に取材していれば、その情報格差の一部を埋めることができる。

新聞がなくなれば、行政を外部から監視する主体の一つが失われる。

結果として行政について判断するための情報が減り、不確実性が高まる可能性がある。

つまり新聞は、単なるニュース商品ではなく、

社会に存在する情報格差を小さくする制度

として考えることができるのである。

地方ほど新聞が必要になる

新聞の必要性が最も明確になる場所の一つが地方社会である。

国会や中央省庁には多数の報道機関が取材に入る。

しかし人口数万人の町の議会を、全国紙やテレビ局が毎回取材することは現実的ではない。

町長がどのような政策を提案したのか。

学校が統廃合されるのか。

地域病院の診療科が縮小されるのか。

公共施設が廃止されるのか。

上下水道料金が上がるのか。

道路整備にいくら使われるのか。

観光施設へどれほど公費を投入するのか。

こうした問題は全国ニュースにはなりにくい。

しかし住民の日常生活には極めて重要である。

これを継続して追う役割を担うのが地方紙や地域報道機関である。

地方紙がなくなるということは、単に紙の商品が一つなくなるという意味ではない。

その自治体を毎日取材する職業人が一人減る可能性があるということである。

町議会を毎回見る人がいなくなる。

決算資料を毎年読む人がいなくなる。

町長へ継続的に質問する人がいなくなる。

警察、消防、病院、学校を日常的に取材する人がいなくなる。

ここで行政自身がSNSで発信すればよいという反論が考えられる。

しかし行政広報と新聞報道は根本的に役割が違う。

行政は、自らの政策や活動を説明する当事者である。

新聞は、本来、その説明が妥当なのかを外部から検証する側である。

発表する人と、それを検証する人を同一にしてしまえば、監視機能は成立しない。

新聞は社会に「共通の議題」を作る

新聞には、もう一つ重要な役割がある。

社会が何を問題として考えるのかという「共通の議題」を形成する機能である。

マスメディア研究では、これをアジェンダ・セッティング(Agenda Setting・議題設定)という概念で説明する。

もちろん新聞が人々の考え方を自由に決定できるわけではない。

しかし社会には、毎日無数の出来事が起きている。

その中から、人口減少、医療、教育、外交、福祉、経済、災害などを継続的に取り上げることで、「この問題は社会全体で考える必要がある」という共通認識の形成に影響する。

SNSでは、この共通空間が細分化されやすい。

投資に興味がある人には投資情報が流れる。

政治に興味がある人には政治情報が流れる。

スポーツに興味がある人にはスポーツ情報が流れる。

これは個人にとって非常に便利である。

しかし、自分が関心を持っていない重要問題を知る機会は減る可能性がある。

新聞を紙面全体から読むと、自分が検索しなかった情報も目に入る。

国際情勢、政治、地方行政、経済、医療、教育、科学、文化、訃報まで、関心の異なる情報が同じ紙面上に存在する。

これは情報取得の効率だけを考えれば無駄に見える。

しかし民主主義社会では重要である。

社会は、自分が興味を持っている問題だけで構成されているわけではないからである。

「偏向報道」という批判から新聞は逃げてはいけない

一方で、新聞の必要性を強く主張するなら、既存メディアに向けられている「偏向報道」という批判についても正面から考えなければならない。

すべての新聞記事が完全に価値中立になることは難しい。

どのニュースを一面に掲載するか。

誰に取材するか。

どの数字を示すか。

見出しをどう付けるか。

どの事件を継続的に報じるか。

これらの判断には編集上の選択が存在する。

問題は、選択が存在すること自体ではない。

その選択が読者から検証可能であるかどうかである。

新聞が信頼を維持するためには、事実報道と論評を可能な限り区別しなければならない。

誤りがあれば明確に訂正する必要がある。

自社に不利な事実であっても報道する姿勢が必要である。

異なる立場の意見を意図的に排除してはならない。

そして、自分たち自身も権力を持つ組織になり得るという自覚が必要である。

新聞が「われわれは正しい。SNSは間違っている」という姿勢を取れば、オールドメディア批判はさらに強まるだろう。

新聞に必要なのは権威ではなく、検証可能性と説明責任である。

記者クラブ、横並び報道、誤報という問題

日本の新聞報道には以前からさまざまな批判が存在する。

記者クラブを通じて情報源との距離が近くなり過ぎるのではないか。

複数社が同じ発表を同じ角度から報じる横並び報道になっていないか。

政治家や行政機関の説明を十分に検証せず報じることはないか。

一度大きく報じた誤報について、訂正が小さく掲載されるだけになっていないか。

これらは軽視できない問題である。

むしろ新聞の社会的重要性を認めるからこそ、厳しく検証すべきである。

しかし、ここでも論理を分けなければならない。

制度に問題があるなら制度を改善すべきなのであって、取材そのものをなくすことが解決策になるわけではない。

病院で医療事故が起きたから医療制度そのものを不要とは考えない。

裁判に問題があるから司法制度をなくそうとも考えない。

同じように、新聞に誤報や偏りが存在することは、新聞ジャーナリズムを改善すべき理由にはなっても、取材・検証・権力監視という機能を社会からなくしてよい理由にはならない。

SNSもまた完全に中立ではない

オールドメディアへの批判では、新聞やテレビには編集者が存在する一方、SNSでは市民が自由に情報を選べるという対比が行われることがある。

しかし現実はそれほど単純ではない。

SNS上で利用者が目にする情報も、すべてを無作為に見ているわけではない。

利用者の過去の行動や関心などを基に、各サービスのアルゴリズム(Algorithm・一定の処理を行う手順や規則)が表示する情報を選択している。

したがって新聞には編集者による情報選択が存在し、SNSには別の形の情報選択が存在する。

問題は「新聞は選別するがSNSは選別しない」ということではない。

誰が、どのような基準で、自分が見る情報を選んでいるのかが分かることが重要なのである。

新聞であれば少なくとも紙面を見れば、編集部が何を重要と判断したのかが分かる。

SNSの情報選択では、その仕組みの全体を一般利用者が把握することは容易ではない。

したがって、オールドメディアを批判的に見るのであれば、同時にデジタルメディアの情報選択の仕組みも批判的に見る必要がある。

SNSは新聞の代替ではなく、補完関係にある

SNSには新聞にはない重要な機能がある。

当事者が直接発信できる。

災害情報を迅速に共有できる。

専門家が直接解説できる。

少数者が自分たちの立場から社会に訴えることができる。

新聞社が見落とした問題を市民自身が発見することもある。

したがってSNSを否定して、新聞中心の社会へ戻ればよいという議論にはならない。

新聞とSNSは本来、得意分野が違う。

SNSは情報の流通に極めて強い。

新聞などの職業ジャーナリズムは、情報の調査・検証・編集に強い。

この二つを組み合わせる方が合理的である。

市民がSNSで問題を発見する。

新聞記者が取材する。

新聞報道を専門家や市民がSNS上で検証する。

新しい情報が出れば報道機関が再取材する。

この循環が機能すれば、かつての一方向型マスメディアよりも健全な情報環境を形成できる可能性がある。

問題は「新聞かSNSか」という二者択一ではない。

どのように相互監視させるかという制度設計の問題なのである。

新聞がなくなった社会で、誰が市役所に質問し続けるのか

新聞が必要なのかを考えるとき、最も分かりやすい問いがある。

市役所の説明がおかしいとき、誰が質問するのか。

公開された決算書の数字に不自然な点があるとき、誰が過去10年分を比較するのか。

議会で住民生活に大きな影響を与える条例が審議されているとき、誰が継続して傍聴するのか。

企業の説明と住民の証言が食い違ったとき、誰が双方を取材するのか。

一度質問して回答を拒否された後も、翌週、翌月と質問し続けるのは誰なのか。

市民がSNSで行うこともできる。

実際に優れた市民ジャーナリズムは存在する。

しかし、それを全国すべての自治体で恒常的に無償の市民活動へ依存することは現実的ではない。

取材には時間がかかる。

資料を読む必要がある。

法制度を理解する必要がある。

現場へ行く交通費も必要になる。

場合によっては取材拒否や法的圧力を受けることもある。

それでも仕事として継続するためには、報酬を受け取る専門職としての記者と、それを支える組織が必要になる。

新聞購読料や電子版の利用料を単なる「ニュースを読む料金」と考えると、新聞の価値は分かりにくい。

社会全体から見れば、それは部分的には、

行政や企業などを継続的に監視する専門職を維持する費用

でもある。

「紙の新聞」を守ることと「新聞」を守ることは違う

ここまでの議論から、もう一つ重要な点が見えてくる。

必要なのは必ずしも紙ではない。

人口構造や生活様式が変化すれば、紙の新聞の発行部数は今後も減少する可能性が高い。

若い世代がスマートフォンで記事を読むのであれば、新聞社も電子版を中心に事業構造を変える必要がある。

新聞販売店の仕組みも変わるだろう。

朝刊と夕刊という形態も永続するとは限らない。

しかし、それと新聞ジャーナリズムの必要性は別問題である。

守るべきなのは紙ではない。

取材する人間がいること。 情報を検証する仕組みがあること。 編集責任者が存在すること。 権力者に質問できること。 誤りがあれば訂正する制度があること。 長期間にわたり社会を記録すること。

これらを経済的に維持できる仕組みである。

「新聞は必要だ」という主張を「毎朝紙の新聞を配達し続けなければならない」という議論にしてしまえば、本質を見失う。

新聞という制度は、媒体を変えてでも維持する価値がある。

「オールドメディアだから不要」では議論が止まってしまう

社会制度は、新しいか古いかだけで価値を判断することはできない。

議会制度も古い。

裁判制度も古い。

大学も図書館も古い。

しかし古いという理由だけで不要になるわけではない。

重要なのは、その制度が現在の社会においてどのような機能を果たしているかである。

同じことが新聞にも当てはまる。

新聞が古い媒体であることは事実である。

しかし、

古い媒体であることと、古い機能しか持っていないことは同じではない。

むしろSNS時代になったことで、新聞が担うべき役割は以前より明確になったともいえる。

速報競争ではSNSに勝つ必要はない。

新聞が競争すべきなのは、速さではなく、

正確性、調査能力、説明能力、検証可能性、権力監視、地域社会への継続的な取材

である。

ここに経営資源を集中する方が、新聞の存在理由として合理的である。

新聞は「真実を決める機関」ではない

最後に、新聞を必要と考えるうえで最も注意しなければならないことがある。

新聞は社会にとって重要だからといって、「新聞が真実を決定する」という考え方になってはいけない。

新聞も検証される側である。

新聞記事を他紙の記事と比較する。

行政の一次資料を見る。

統計資料を確認する。

専門家の論文を読む。

SNS上の当事者証言と照合する。

これが現在の情報社会にふさわしい読み方である。

理想的なのは新聞を信じる社会でも、SNSを信じる社会でもない。

複数の情報源が相互に監視し、市民自身も検証できる社会である。

その中に職業ジャーナリズムが存在することが重要なのである。

SNS時代だからこそ新聞は必要である

20世紀の新聞は、社会へニュースを届けるために不可欠な媒体だった。

21世紀には、その独占的な役割は終わった。

速報だけならSNSの方が速い。

映像なら動画サービスの方が分かりやすい。

当事者発信ならSNSの方が直接的である。

この変化を新聞は受け入れなければならない。

そして「オールドメディア」と批判される理由が存在するなら、既存報道機関は自らを改革しなければならない。

誤報を減らす。

訂正を明確にする。

事実と論評を可能な限り分離する。

情報源への過度な依存を避ける。

異なる意見を検討する。

報道の判断過程について説明責任を果たす。

新聞がこれを怠れば、読者の信頼を失うのは当然である。

しかし、それでも新聞ジャーナリズムそのものをなくしてよいという結論にはならない。

社会には、

何が起きたのかを調べる人が必要である。

本当に起きたのかを確認する人が必要である。

政府に質問する人が必要である。

自治体の決算書を読む人が必要である。

企業の説明を検証する人が必要である。

議会を継続的に見る人が必要である。

社会にとって重要だが注目されにくい問題を取材する人が必要である。

そして、それらを後世に残す人が必要である。

これらの仕事は、「いいね」の数だけでは十分に供給されない。

新聞は古いから必要なのではない。

新聞社が偉いから必要なのでもない。

権力を持つ側とは独立した人間が、費用と時間をかけて継続的に事実を調査する制度が、民主主義社会には必要だから新聞が必要なのである。

SNSによって、私たちは「誰でも情報を発信できる社会」を手に入れた。

それは大きな進歩だった。

しかし次に問われるのは、

誰でも発信できる社会で、誰が事実を確認するのか。

という問題である。

SNSと新聞は、敵対する存在である必要はない。

市民がSNSで発信し、新聞が調査する。

新聞が報じ、市民がSNSで批判する。

その批判を新聞が検証し、必要なら訂正する。

この相互監視こそが、現代の情報社会に必要な構造ではないだろうか。

したがって、「オールドメディア」という批判に対する答えは、新聞を無条件に擁護することではない。

新聞自身が変わることである。

しかし同時に、社会も理解しておかなければならない。

新聞社が消えれば、紙が一つ消えるだけではない。

地域を取材する記者が消える。

議会を傍聴する人が消える。

行政へ質問する人が消える。

長期間にわたって社会を記録する人が消える。

その空白をSNSが自動的に埋めてくれる保証はない。

情報が少なかった時代には、新聞は情報を届けるために必要だった。

情報があふれる時代には、新聞は情報を調べ、確かめ、問い直すために必要になる。

そして「オールドメディア」という批判が広がる現在だからこそ、新聞には、かつての権威に依存するのではなく、取材と検証によって自らの存在価値を証明することが求められている。

SNS時代に必要なのは、新聞の消滅ではない。新聞の再定義である。

紙を守るのではなく、ジャーナリズムを守る。

権威を守るのではなく、検証する仕組みを守る。

新聞社を無批判に信頼するのではなく、新聞社を批判できる社会の中で、それでも専門的な取材機能を維持する。

それこそが、情報が無限に流通する時代に新聞を必要とする最も合理的な理由である。

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「民意の直接反映」という利点と、分断・単純化・誤情報がもたらす危険を検証する

SNS(Social Networking Service・交流サイト)は、政治のあり方を大きく変えた。

かつて政治家が多数の有権者へ直接語りかけるには、新聞、テレビ、ラジオ、街頭演説、政党機関紙などを利用する必要があった。

現在は違う。

政治家がスマートフォンから投稿すれば、数分後には何万人、何十万人へ情報が届くことがある。有権者も、その発言へ直接反応し、共有し、批判し、別の意見を発信できる。

この変化には明確な民主的価値がある。

既存メディアで取り上げられなかった問題を社会へ知らせることができる。大きな政党や組織を持たない政治家でも有権者へ直接訴えることができる。政治への参加障壁も低くなる。

その意味で、SNSそのものを民主主義の敵と考えるのは適切ではない。

しかし、SNSと非常に親和性が高い政治手法がある。

ポピュリズムである。

「既得権益を持つエリート対普通の国民」

「われわれ対あいつら」

「複雑な制度より国民の常識」

「専門家より民意」

「既存メディアは真実を隠している」

こうした単純で感情的な政治メッセージは、短く、共有しやすく、対立を明確にできる。

SNSの構造は、こうしたポピュリズム的コミュニケーションと非常に相性がよい。

問題はここにある。

SNSは政治参加を民主化する一方で、政治的な複雑さを削り、敵味方の対立へ置き換え、怒りや不信を政治資源へ変換する仕組みにもなり得る。

本稿では、ポピュリズムに否定的な立場から、その問題を検討する。

ただし、結論を先に決めて都合のよい事例だけを集めるのではない。

ポピュリズムが既存政治へ与える是正作用を認めたうえで、それでもなぜ長期的には議会制民主主義、専門知、少数者の権利、制度的な権力抑制と衝突しやすいのかを、政治学とメディア研究の知見から考える。

1.そもそもポピュリズムとは何か

「ポピュリズム」という言葉は日常会話では、「人気取り政策」「大衆迎合」「ばらまき政策」といった意味で使われることが多い。

しかし、政治学上の定義はもう少し厳密である。

政治学者カス・ムッデによる定義は、現在のポピュリズム研究で広く使用されている。

そこではポピュリズムを、社会を基本的に「純粋な人民」と「腐敗したエリート」という二つの同質的で対立する集団へ分け、政治は人民の一般意思を表現すべきだと考える「薄い中心を持つイデオロギー」と整理する。

重要なのは、ポピュリズム自体が右翼や左翼を意味しないことである。

右派ポピュリズムにも左派ポピュリズムにもなり得る。

保守主義、ナショナリズム、社会主義、反緊縮政策など、別の政治思想と結びつく。

その核心は政策内容ではなく、

「正しい人民」

「腐敗したエリート」

という政治の捉え方にある。

ここが通常の民主政治と決定的に違う。

議会制民主主義は、社会には複数の正当な利益と価値観が存在することを前提にする。

農業者と消費者。

労働者と経営者。

若年者と高齢者。

都市住民と地方住民。

納税者と給付を必要とする人。

安全保障を重視する人と自由を重視する人。

誰か一方だけが「真の国民」なのではない。

民主政治とは、この異なる利益を制度の中で調整する仕組みである。

ポピュリズムはこれに対し、「国民には一つの本当の意思が存在する」という方向へ傾きやすい。

この差が、後に大きな問題になる。

2.SNSはなぜポピュリズムと相性がよいのか

SNS以前、政治家が国民へ情報を伝える場合、新聞記者やテレビ局などの編集過程を通ることが多かった。

記者が質問する。

発言の背景を確認する。

反対側にも取材する。

数字を検証する。

編集者が内容を確認する。

もちろん、既存メディアが常に公正で正確だったという意味ではない。

誤報も偏向も存在する。

しかし、少なくとも情報が大量の人へ届くまでには、一定の中間過程が存在した。

SNSではそれを迂回できる。

政治家から支持者へ直接届く。

これは「中抜き」であり、民主主義上の長所でもある。

しかし同時に、検証機能も中抜きされる。

政治家が、

「マスコミは報じない真実です」

と投稿すれば、その文章そのものが一次情報として支持者へ届く。

そこに報道機関の確認は必要ない。

しかも、支持者自身が拡散装置になる。

これがSNS時代のポピュリズムの大きな特徴である。

3.従来の政治では支持者だった人が、SNSでは情報流通者になる

テレビの政治演説を見た有権者は、基本的には情報の受信者だった。

SNSでは違う。

「いいね」

共有

引用

コメント

動画の切り抜き

再編集

短い解説

を通して、一人ひとりが情報流通へ参加する。

これは民主的には大きな進歩である。

しかし、政治運動の構造として見ると重要な意味を持つ。

例えば、政治家Aに10万人の熱心な支持者がいるとする。

政治家Aが一つ投稿する。

そのうち1万人が共有する。

共有先でさらに数十人ずつが見る。

こうなると、政党が新聞広告やテレビ広告を買わなくても、支持者自身が政治宣伝のネットワークになる。

つまりSNSは、

政治家 → 有権者

という一方向の情報伝達を、

政治家 → 支持者 → 支持者の知人 → さらに別の利用者

というネットワーク型へ変えた。

ポピュリズムは、この仕組みを非常に利用しやすい。

なぜなら、複雑な政策説明より、

「許せないと思ったら拡散してください」

という感情的メッセージの方が共有行動へ結びつきやすいからである。

4.ポピュリズムの最大の長所~既存政治が無視した不満を可視化する

ポピュリズムを完全に否定する前に、その長所を確認する必要がある。

政治学でも、ポピュリズムには民主主義の「是正機能」があり得ると議論されてきた。既成政党が十分に代表していなかった人々を政治へ取り込み、既存の代表制の失敗を可視化する可能性がある。

例えば、

地方衰退

実質賃金の停滞

雇用不安

社会保障への不満

既存政党への不信

行政の不透明性

大企業と政治の関係

都市と地方の格差

などについて、既成政党や大手メディアの問題認識が弱ければ、その不満を拾う政治運動には意味がある。

ポピュリスト政治家の支持者を、

「情報弱者」

「政治を理解していない人」

と片付けることも適切ではない。

有権者が不満を持つ背景には、実際の経済的・社会的問題が存在する場合がある。

したがって、ポピュリズムの支持拡大は、民主主義の故障を知らせる警報器として機能することがある。

問題は、その警報が示した問題をどう解決するかである。

5.SNSの第一のメリット~政治参加の参入障壁を下げる

SNS以前に大規模な政治運動を行うには、相当な資源が必要だった。

政党組織。

新聞広告。

テレビ出演。

大量のビラ。

街宣車。

事務所。

支持団体。

資金。

現在は、スマートフォン一台でも政治的主張を全国へ届けられる可能性がある。

これは新規政党、小規模政党、市民運動にとって大きなメリットである。

政治的ネットワークが政治参加を促進すること自体は、政治参加研究でも長く確認されてきた。社会的ネットワークを考慮することで、人々が民主的過程へ参加する理由をより深く理解できることが指摘されている。

SNSはそのネットワーク形成の費用を劇的に下げた。

これは否定すべきではない。

6.第二のメリット~政治家と有権者の距離を縮める

従来、国会議員の日常的な考えを直接読む機会は限られていた。

現在は、国会議員、地方議員、首長、政党などが自ら情報を公開できる。

法案提出。

国会質問。

地域活動。

災害対応。

政策資料。

こうした情報が直接公開されれば、政治の透明性は高まる。

既存メディアの記事だけに依存せず、政治家本人の説明を確認できることも重要である。

SNSを利用した政治コミュニケーションそのものには民主的価値がある。

したがって、本稿が否定的に評価する対象はSNSではない。

SNSによって増幅される、反多元主義的なポピュリズムである。

7.第三のメリット~既存メディアのゲートキーパー独占を崩した

新聞やテレビが政治情報の流通をほぼ独占していた時代には、「何を報道するか」を少数の報道機関が決めることができた。

SNSはこの構造を崩した。

政治家本人の発言全文。

国会動画。

官公庁資料。

研究論文。

地方議会。

市民が撮影した映像。

これらへ直接アクセスできる。

この点も民主主義にはプラスである。

既存メディアを批判すること自体はポピュリズムではない。

メディアが誤報すれば批判されるべきである。

問題は、

「既存メディアは誤ることがある」

という合理的批判から、

「既存メディアは国民を欺く敵である」

へ論理が飛躍することである。

ここからポピュリズム特有の問題が始まる。

8.最大の問題~社会を「国民」と「敵」に二分する

民主政治では、多数決が重要である。

しかし、多数決だけが民主主義ではない。

51%の国民が支持すれば、49%の国民の権利を自由に奪ってよいわけではない。

日本国憲法も、多数決による議会政治と基本的人権、司法、地方自治などを組み合わせている。

ポピュリズムは、

「われわれこそ国民」

という発想へ傾きやすい。

すると、自分たちに反対する人が、

単なる政治的反対者

ではなく、

国民の敵

既得権益者

売国的な人

エリート側の人

と表現されるようになる。

ここで民主主義の質が変化する。

政策論争が、

「どちらの政策がよいか」

ではなく、

「どちらが正しい国民か」

という道徳的対立へ変わるからである。

9.SNSは「われわれ対あいつら」を可視化しやすい

SNSでは人間関係が数字として表示される。

フォロワー数。

いいね数。

共有数。

動画再生数。

コメント数。

このため、

「これほど多くの人が支持している」

という感覚が容易に生まれる。

しかし、SNS上の多数は、有権者全体の多数を意味しない。

例えば100万回再生された動画があっても、

同じ人が複数回見ている可能性がある。

有権者でない人も含まれる。

反対するために見ている人もいる。

海外利用者もいる。

アルゴリズムによって繰り返し表示されることもある。

それでも数字として100万と表示されれば、

「国民は怒っている」

と感じやすい。

SNS上の可視的多数と、民主主義における実際の多数を混同することは危険である。

10.SNS利用者の集合は国民全体ではない

2025年のReuters Institute for the Study of Journalism(ロイター・ジャーナリズム研究所)の調査では、日本でSNSを週単位のニュース取得手段として利用する割合は24%とされている。

日本ではニュース取得におけるSNS依存度は国際的には比較的低い一方、XやYouTubeが政治・ニュース情報の流通経路として重要な役割を持っている。また、同研究所は、日本のSNS上で言及されるニュース関連人物にはポピュリスト系・右派政治家などが目立つと報告している。

ここから重要なことが分かる。

SNSで政治的発言が大量に流れているとしても、それをそのまま日本国民全体の意見と考えることはできない。

SNSを積極利用する人と利用しない人では、年齢、政治関心、情報行動などが異なる可能性がある。

SNS上の「世論」は、世論調査とは違う。

投稿数は票数ではない。

トレンド入りは国民投票ではない。

11.怒りはSNS上で非常に使いやすい政治資源である

ポピュリズムとSNSが結びつく最大の理由の一つが感情である。

政策説明を考えてみる。

「社会保障制度について、給付水準、保険料、税負担、世代間公平、財政持続可能性の五つを同時に調整する必要があります」

という文章は比較的正確である。

しかし、SNSでは弱い。

一方、

「政府は高齢者を見捨てた」

「若者だけが損をしている」

「財務官僚が国民から金を奪っている」

とすれば、短い。

敵も明確である。

感情も動く。

共有もしやすい。

しかし、政策としての情報量は少ない。

これがSNS政治の根本的な問題である。

情報として正確な文章と、拡散に適した文章の性質が一致しない。

12.プラットフォームの経済合理性と民主主義の合理性は一致しない

民間SNS企業には、利用者に長くサービスを使ってもらう経済的動機がある。

利用者が投稿を見て、反応し、共有し、再びアクセスすれば、広告表示などの機会が増える。

OECD(Organisation for Economic Co-operation and Development・経済協力開発機構)は、デジタル技術によって誤った、あるいは誤解を招く情報が低コストかつ高速に拡散できるようになったと指摘している。またオンラインプラットフォームのエンゲージメント最大化の経済的インセンティブが、感情的・政治的に強く反応されるメッセージを増幅する可能性を問題視している。

これは陰謀論ではない。

企業として合理的な行動と、民主主義にとって望ましい情報環境が一致しない可能性があるという問題である。

民主主義に必要なのは、

正確な情報

異論

慎重な分析

不確実性

長期的視点

である。

一方、SNSの利用時間を伸ばしやすいのは、

驚き

怒り

恐怖

対立

スキャンダル

である可能性がある。

ここに構造的な緊張関係がある。

13.ただし「アルゴリズムが分断を作る」と単純化してはいけない

ここでは特に慎重な分析が必要である。

SNS批判では、

「アルゴリズムがエコーチェンバーをつくり、政治的分断を生んでいる」

と説明されることが多い。

一定の根拠はある。

しかし、科学的には完全に確定した単純な因果関係ではない。

2020年米国大統領選挙期のFacebookを対象にした大規模研究では、利用者が接触するコンテンツの多くが政治的に同質的な情報源から来ていることが確認された。

しかし、2万3,377人を対象に、自分と同じ政治的立場の情報への接触を約3分の1減少させる実験を行っても、感情的分極化、思想的極端化、候補者評価、誤情報への信念などに測定可能な変化は確認されなかった。

つまり、

エコーチェンバーが存在する

ことと、

エコーチェンバーを減らせば短期間で政治的分断が解消する

ことは別である。

政治的分断には、社会階層、地域、宗教、所得、教育、政党政治、既存メディアなど多くの要因がある。

SNSだけを原因にすることもポピュリズムと同じ「単純化」である。

14.一方で、エンゲージメント重視が問題を増幅する研究もある

2026年にJournal of Public Economicsに掲載された研究では、推薦システムが「いいね」や共有など社会的反応を強く重視すると、エンゲージメントを増やす一方、誤情報や政治的分極化も増加し得るという理論モデルが示された。

さらに、Facebookが2018年に実施した「Meaningful Social Interactions」と呼ばれる更新について、イタリアと米国のデータを用いた分析では、社会的反応を重視する変更が思想的極端化や感情的分極化を強めた可能性が示されている。

したがって、現在の研究から妥当な結論は、

「SNSアルゴリズムが政治分断の唯一の原因である」

ではない。

より正確には、

「既存の社会的対立や政治的不満が存在する状況で、エンゲージメントを優先する情報流通構造が、感情的・対立的情報を増幅する可能性がある」

という程度である。

この区別は重要である。

15.誤情報とポピュリズムの関係も単純ではない

ポピュリズムを批判する場合にも、事実に忠実でなければならない。

「ポピュリストは嘘をつく」

と一括して断定することはできない。

2025年にオンライン先行公開され、2026年にThe International Journal of Press/Politicsに掲載された研究は、26か国の国会議員による約3,200万件のTwitter(現在のX)投稿を分析している。

その結果、低信頼性情報を共有する傾向との最も強い関連が確認されたのは「急進右派ポピュリズム」だった。

重要なのは、研究では、

ポピュリズム一般

左派ポピュリズム

単なる右派的政治立場

それぞれ単独では、同じ関連が確認されなかったことである。

これは非常に重要な結果である。

政治的立場に基づいて、

「右は嘘をつく」

「左は嘘をつく」

「ポピュリストは全員嘘をつく」

と結論づけてはいけない。

研究が示しているのは、特定の政治的組み合わせ、すなわち急進右派ポピュリズムと低信頼性情報拡散との強い統計的関連である。

否定的な記事であるほど、この区別を守る必要がある。

16.なぜ誤情報がポピュリズムと親和的になり得るのか

理論的には説明できる。

ポピュリズムは、

「われわれの常識」

「腐敗したエリート」

を対立させる。

この構造では、専門機関が反論したとき、それ自体を陰謀の証拠として処理できてしまう。

例えば、

統計機関が否定する →「政府機関だから信用できない」

大学研究者が否定する →「御用学者だ」

新聞社が否定する →「既存メディアは隠蔽している」

裁判所が否定する →「司法も既得権側だ」

という構造が成立すると、反証が困難になる。

通常の科学的方法では、反証可能性が重要である。

証拠が示されれば自分の仮説を修正する。

ところが、あらゆる反証を「敵側の工作」と説明できれば、理論は永久に反証されない。

政治的には強力だが、事実検証には極めて弱い構造である。

17.短文政治は複雑な政策を不当に単純化する

財政政策を例に考える。

税金を下げれば、家計の可処分所得が増える。

これは利点である。

しかし同時に、

税収が減る。

国債を増やすのか。

歳出を削るのか。

将来の増税で補うのか。

金利への影響はどうか。

物価への影響はどうか。

所得階層別の恩恵はどうか。

という問題がある。

政策とは本来、

便益-費用-副作用-分配-時間

を同時に考えるものである。

ところがSNSでは、

「減税か増税か」

「国民か財務省か」

という二項対立へ圧縮できる。

この方が政治的には強い。

しかし、政策分析としては弱い。

ポピュリズムの最大の問題の一つは、複雑な政策問題を、善悪の問題へ変換してしまうことである。

18.「専門家は間違う」と「専門知は不要」は全く違う

専門家は間違う。

経済学者も間違う。

医師も間違う。

官僚も間違う。

新聞記者も間違う。

だから検証と反論が必要である。

しかし、

「専門家が間違うことがある」

から、

「普通の人の直感と専門家の分析は同じ価値を持つ」

とはならない。

例えば橋の耐震設計を多数決で決めることはできない。

感染症治療を人気投票で決めることもできない。

金融政策も専門的な制約が存在する。

民主政治で国民が決めるべきなのは、

何を目標にするか

である。

具体的な技術的方法については専門知が必要である。

民主主義と専門知は対立概念ではない。

国民が目的を決め、専門家が選択肢と費用を示し、政治家が最終責任を負う。

これが合理的な役割分担である。

19.ポピュリズムは「中間制度」を邪魔と考えやすい

議会。

裁判所。

官僚組織。

独立行政機関。

中央銀行。

報道機関。

大学。

専門家会議。

地方自治体。

これらは時に遅い。

非効率でもある。

国民から遠く見えることもある。

だからポピュリストにとって批判しやすい。

「国民が望んでいるのに、なぜ裁判所が止めるのか」

「選挙で選ばれていない官僚がなぜ口を出すのか」

という主張は直感的には分かりやすい。

しかし、これらの制度の多くは、多数派の政治権力を制限するために存在している。

多数派であっても法律を守る。

政府であっても裁判所の審査を受ける。

政治家が都合のよい統計に書き換えない。

政権が批判的報道を直接統制しない。

これが立憲民主主義である。

20.実証研究では、ポピュリスト政権の民主主義への影響は概して否定的

ここはポピュリズムを評価するうえで重要である。

2025年に公表された政治学研究のレビューでは、ポピュリストが政権を握った場合について、過去10年前後の国際比較研究はかなり一貫して、自由権、メディアの自由、政府への水平的な権力抑制、選挙の公正性などへ悪影響があることを示している。

一方、ポピュリズムが政治参加や代表性を改善する「是正効果」については、肯定的証拠はより少なく、一貫していない。

さらに、欧州とラテンアメリカのデータを用いた2026年の研究でも、ポピュリスト政権の下では平均的に、

選挙民主主義

自由民主主義

熟議民主主義

の水準が低下する一方、平等や政治参加について期待された改善効果は確認できなかった。

ここから本稿の否定的評価には、かなり強い根拠がある。

21.なぜ民主的に選ばれたポピュリストが民主主義を傷つけることがあるのか

これは矛盾しているように見える。

選挙で選ばれたのだから民主的ではないか。

その通りである。

問題は、

民主的な選出

民主的な統治

が同じではないことである。

民主主義には少なくとも二つの側面がある。

第一は、

国民多数が政府を選ぶこと。

第二は、

政府が権力を制限されること。

である。

ポピュリズムは第一を非常に重視する。

「われわれは国民から選ばれた」

という正統性である。

しかし、その正統性を絶対化すると、

裁判所

野党

報道機関

少数派

独立機関

などを、

「民意を妨害する勢力」

として扱いやすくなる。

これが立憲主義との緊張を生む。

22.SNSは指導者個人への政治的依存を強める

従来の政党政治では、

党首

幹事長

政策責任者

国会議員

地方組織

党員

など複数の階層があった。

SNS時代では、一人の政治家のアカウントが政党そのものより大きな影響力を持つことがある。

すると、

政党を支持する

から、

人物を支持する

へ変化する。

政治家本人が毎日直接語るため、支持者は疑似的な親密さを感じることもある。

こうして個人中心型政治が強くなる。

政治家本人の判断が、党内議論より優先される。

党内で反対すれば、

「リーダーを裏切った」

と支持者から攻撃される。

すると政党内部の異論も弱くなる。

しかし、健全な政党には異論が必要である。

政策の誤りを修正する最初の機会だからである。

23.支持者による自発的攻撃は、政治家本人が命令しなくても発生する

SNS政治の新しい問題である。

政治家が直接、

「この記者を攻撃しろ」

「この議員へ嫌がらせをしろ」

と言わなくてもよい。

「あの記者は偏っている」

「この専門家は国民を分かっていない」

と投稿するだけで、一部の支持者が大量の批判を送る可能性がある。

政治家自身は、

「私は攻撃を指示していない」

と言える。

しかし、影響力の大きい人物には、自分の発言が支持者へどう作用するかについて一定の責任がある。

特に、

敵を名指しする

裏切り者と呼ぶ

国民ではないかのように扱う

行為は慎重でなければならない。

これは右派・左派を問わない。

24.政治家への批判と人格攻撃が混ざりやすい

SNSでは政策批判より人物批判の方が拡散しやすい。

「この財政政策では歳出が年間○兆円増える」

より、

「この政治家は無能だ」

の方が短く理解しやすい。

しかし、民主主義に必要なのは政策評価である。

政治家の能力は、

政策立案能力

説明力

交渉力

実績

修正能力

法制度への理解

などから評価すべきである。

容姿、性別、家族、出身、話し方などを政治的攻撃の材料にしても、政策の良否は分からない。

ポピュリズムが感情政治へ接近すると、この境界が壊れやすくなる。

25.敵を作る政治は支持者を結束させやすい

集団を結束させる簡単な方法の一つが、共通の敵を設定することである。

「われわれ」の定義だけでは集団は曖昧である。

しかし、

「われわれは、あいつらに搾取されている」

とすると、集団の境界が明確になる。

敵は、

官僚

大企業

外国人

富裕層

既存メディア

政治家

専門家

労働組合

金融機関

など、左右のポピュリズムによって変わる。

ここで重要なのは、対象そのものではない。

個別の問題を検証するのではなく、集団全体を道徳的な敵として扱うことが問題である。

官僚制度に問題があれば制度を改革すればよい。

メディアが誤報すれば記事を検証すればよい。

企業が違法行為をすれば処罰すればよい。

集団全体を「敵」と呼ぶ必要はない。

26.ポピュリズムが政策失敗を修正しにくくする理由

民主政治で重要なのは、

正しい政策を最初から選ぶこと

だけではない。

失敗した政策を修正する能力である。

しかしポピュリズムでは、政策と政治家への支持が道徳化しやすい。

政策への批判が、

リーダーへの攻撃

支持者への攻撃

国民への攻撃

と受け取られる。

すると修正が難しくなる。

本来、

「この政策の効果は予想より小さかったので変更する」

ことは合理的である。

しかし、

「われわれは常に正しい」

という政治では、変更が敗北になる。

科学では仮説を修正することが進歩である。

ポピュリズムでは修正が裏切りに見える場合がある。

これは政策運営上、大きな弱点になる。

27.SNSの政治的成功指標が政策成功指標と一致しない

SNSでは成功が数値化される。

再生回数。

共有数。

フォロワー。

トレンド順位。

しかし政策成果は別である。

例えば経済政策なら、

実質賃金

生産性

雇用

物価

税収

企業投資

財政収支

所得分布

などを見る必要がある。

100万回再生された経済政策が、良い経済政策とは限らない。

逆に、非常に重要だが説明が難しい制度改革はほとんど拡散されないかもしれない。

つまりSNSでは、

情報市場で勝つ能力

政策を成功させる能力

が乖離する可能性がある。

人気は政策能力の代理変数ではない。

28.「国民の声を聞く」ことと「声の大きい支持者に従う」ことは違う

SNS政治では、政治家は国民の反応を即座に見ることができる。

一見すると素晴らしい。

しかし、投稿へ積極的に返信する人は国民の無作為標本ではない。

政治関心が高い。

強い意見を持つ。

支持または反対が明確。

こうした人ほど発言する可能性が高い。

つまり政治家がSNSの反応を「民意」と考えると、最も声の大きい層へ政策が引っ張られる危険がある。

民主主義では、

選挙

世論調査

公聴会

議会

パブリックコメント

統計

当事者調査

など複数の方法で民意を把握する必要がある。

SNSはその一つにすぎない。

29.ポピュリズム批判がエリート主義になってはいけない

ここも重要である。

ポピュリズムを批判する側が、

「一般市民は複雑な政治を理解できない」

「専門家へ任せればよい」

という態度を取れば、ポピュリズムをさらに強める。

専門家は政策を決定する主権者ではない。

最終的な政治的選択は国民と、その代表者が行う。

例えば、

税負担を増やして社会保障を厚くするか。

税負担を抑えて給付を限定するか。

これは科学だけでは答えられない。

価値判断だからである。

専門家ができるのは、

それぞれの費用と結果を示すこと

である。

民主主義で必要なのは、

「専門家が国民を支配する」

ことでも、

「専門家を無視して国民の直感だけで決める」

ことでもない。

国民が目的を選び、専門知が実現可能性を検証する仕組みである。

30.左右どちらのポピュリズムも同じ基準で評価すべきである

ポピュリズムは右派だけの問題ではない。

左派にも存在する。

右派では、

外国人

国際機関

リベラルなエリート

などが敵として設定される場合がある。

左派では、

富裕層

大企業

金融機関

経済エリート

などが敵として設定される場合がある。

もちろん、それぞれについて正当な政策批判はあり得る。

問題は、

具体的行為を批判する

ことから、

集団そのものを悪とする

方向へ移行することである。

本稿が否定するのは特定の左右思想ではない。

「人民対敵」という構図で複雑な社会を説明する政治手法である。

31.SNS時代のポピュリズムのメリットとデメリットを整理する

項目 メリット デメリット
政治参加 参加障壁を下げる 熱心な少数を民意と誤認しやすい
政治家との距離 直接情報を得られる 中間的な事実確認を迂回する
小規模政党 発信機会を得られる 強い感情ほど有利になりやすい
既存政治批判 見落とされた問題を可視化する 政治不信そのものを資源化できる
メディア批判 誤報や偏向を監視できる メディア全体を敵視しやすい
専門家批判 権威を検証できる 専門知そのものを否定しやすい
情報拡散 高速・低コスト 誤情報も同じ速度で広がる
政治的動員 無関心層を参加させ得る 怒りと敵意による動員になりやすい
政策説明 簡潔に伝えられる 複雑なトレードオフを削りやすい
リーダーシップ 責任者が明確になる 個人崇拝・組織弱体化につながり得る

この表を見ると、興味深いことが分かる。

ほぼすべての長所の裏側に短所が存在する。

問題はSNS技術そのものではなく、その能力をどの政治文化が利用するかである。

32.ポピュリズムの危険性は、政権獲得後により大きくなる

野党時代のポピュリズムには、既存権力を監視する効果がある。

しかし政権を取ると状況が変わる。

自分自身が権力者になるからである。

それでも、

「われわれは人民」

「批判者はエリート」

という物語を維持すると、

政府を批判するメディア

政府を止める裁判所

政府を監査する機関

政府に反対する野党

が、

単なる制度的なチェックではなく「人民の敵」に見える。

2025年の比較政治研究は、ポピュリスト政権が民主的競争や自由民主主義へ一貫して悪影響を与えることを、近年の複数の大規模比較研究が確認していると整理している。

したがって、ポピュリズムの本質的問題は、単に言葉遣いが激しいことではない。

権力を抑制する制度の正統性そのものを弱める可能性にある。

33.SNS規制を強化すれば解決するのか

ここにも単純な答えはない。

誤情報対策として政府がSNSを強く規制すれば、今度は政府が「真実」を決める危険が生じる。

政権に不都合な批判まで削除されれば、民主主義にとってさらに深刻である。

したがって、

「政府が正しい情報を決める」

制度は慎重でなければならない。

OECDも、偽情報対策では表現・意見の自由を守りながら、プラットフォームの透明性と説明責任を強め、多様で質の高い情報環境をつくる方向を重視している。

必要なのは内容の全面統制より、

推薦システムの透明性

政治広告の公開

自動アカウントの識別

広告主情報の公開

研究者へのデータ提供

訂正情報へのアクセス

などである。

34.政治家側にもSNS利用の原則が必要である

民主社会の政治家がSNSを利用する場合、少なくとも次の原則が望ましい。

第一に、一次資料へリンクする。

第二に、統計の年度と出典を示す。

第三に、速報情報を断定しない。

第四に、誤りが判明した投稿を明確に訂正する。

第五に、支持者へ特定個人への攻撃を促さない。

第六に、批判者を「国民の敵」と扱わない。

第七に、政策の費用と副作用も説明する。

第八に、自分に不利な事実も削除しない。

これらは右派、左派を問わず同じである。

35.有権者が確認すべき「ポピュリズムの兆候」

SNS上の政治発信を見る場合、次のような特徴が重なるほど注意が必要である。

「われわれだけが国民を代表する」

選挙で何票得ても、支持しなかった有権者も国民である。

敵が常に存在する

問題の原因が毎回、官僚、外国人、企業、富裕層、メディアなど特定集団に帰される。

複雑な問題に極端に簡単な解決策を出す

社会保障、人口問題、外交、財政などに副作用ゼロの政策はほとんど存在しない。

専門家の反論を内容ではなく属性で否定する

「御用学者だから」「官僚だから」だけでは反論にならない。

メディア批判が全面的不信へ変化する

個々の記事を批判することと、すべての報道を敵とすることは違う。

数字より感情を優先する

「みんな怒っている」では政策効果を測定できない。

政策への批判を人格的な裏切りと扱う

異論を許さない政治組織は修正能力が低下する。

36.日本の議会制民主主義に必要なのは「直接性」より「熟議」である

SNSは非常に直接的である。

国民の反応がすぐ政治家へ届く。

しかし、民主主義は速ければよいわけではない。

例えば法律を作るには、

問題を把握する。

法案を作る。

利害関係者から意見を聞く。

委員会で審議する。

野党が問題点を指摘する。

修正する。

衆議院と参議院で審議する。

という過程がある。

遅い。

面倒である。

しかし、この遅さには意味がある。

間違いを発見する時間だからである。

SNS上の多数意見をそのまま即時政策へ反映することが、必ずしも民主的とは限らない。

熟議とは、国民の意思を無視する仕組みではない。

異なる国民の意思を調整する仕組みである。

37.SNS時代に必要なのはポピュリズムではなく「参加型の熟議民主主義」

ポピュリズムが指摘する問題の一部は正しい。

政治家が国民から遠い。

行政が分かりにくい。

政策決定が閉鎖的。

専門家の説明が難しい。

既存メディアにも問題がある。

これらは改善すべきである。

しかし解決方法は、

議会や専門家を排除して指導者と国民を直接結ぶこと

ではない。

むしろ、

政策資料を公開する。

議会審議を分かりやすくする。

政府統計を利用しやすくする。

住民参加を増やす。

パブリックコメントを実質化する。

政策評価を公開する。

政治家が長文でも政策を説明する。

専門家が国民に理解できる言葉で説明する。

という方向である。

これは時間がかかる。

SNS映えもしない。

しかし民主主義を持続させるには、この地味な制度改善の方が重要である。

38.総合評価~ポピュリズムは民主主義の警報器にはなるが、統治原理には向かない

ここまでを総合すると、ポピュリズムについて二つを区別する必要がある。

第一に、

「既存政治が見落としている問題を発見する機能」

である。

これは価値がある。

第二に、

「社会を人民対敵へ二分して統治する原理」

である。

こちらには大きな問題がある。

ポピュリズムが支持されるとき、既成政党は支持者を批判する前に、

なぜ不満が生まれたのか

を調べるべきである。

しかし、不満の存在がポピュリズムの政策を正しいものにするわけではない。

診断が正しくても治療法が間違っていることはある。

政治でも同じである。

結論~SNSが民主主義を壊すのではない。単純な政治がSNSによって増幅されることが問題である

SNSは民主主義に重要な利益をもたらした。

政治家と国民の距離を縮めた。

小さな政治勢力にも発言機会を与えた。

既存メディアを経由しない一次情報へのアクセスを可能にした。

市民の政治参加を容易にした。

したがって、SNSを民主主義の敵とする結論は適切ではない。

問題は、その情報環境がポピュリズムと極めて相性がよいことである。

ポピュリズムは、複雑な社会を「人民対エリート」という単純な物語へ変換する。

SNSは、短く、感情的で、対立の明確な情報を高速で流通させられる。

この二つが結びつくと、

怒りが支持へ変わり、

支持が共有へ変わり、

共有数が「民意」のように見え、

その可視的多数がさらに政治的正統性へ変換される。

しかし、SNS上の多数は国民全体ではない。

共有回数は投票ではない。

再生回数は政策効果ではない。

フォロワー数は統治能力ではない。

ここを混同してはいけない。

さらに重要なのは、実証研究である。

近年の国際比較研究では、ポピュリスト政権は平均的に、自由権、メディアの自由、政府への権力抑制、選挙制度、熟議などへ否定的な影響を与える傾向が確認されている。一方、政治参加や代表性を改善する効果については、それほど一貫した証拠がない。

したがって、本稿ではポピュリズムを民主主義にとって長期的には好ましくない政治原理と評価する。

ただし、ポピュリズムを禁止すればよいという意味ではない。

むしろ逆である。

ポピュリズムが支持される原因となった、

政治不信

地域格差

生活不安

行政の不透明性

既成政党の代表機能の低下

メディアへの不信

を、民主主義の制度の中で解決しなければならない。

そしてSNSについても、発言内容を政府が統制する方向ではなく、推薦システム、政治広告、自動アカウント、資金源などの透明性を高めるべきである。

民主主義に必要なのは、国民の怒りを否定することではない。

その怒りを政策へ翻訳する過程で、事実、専門知、少数意見、費用、副作用を確認することである。

政治家の役割は、有権者がすでに感じている怒りをさらに増幅することではない。

複雑な現実を説明し、自らの理念を示し、異なる利害を調整し、実現可能な政策によって国民を説得することである。

「敵をつくって結束させる政治」と「事実を示して説得する政治」。

SNS時代だからこそ、この二つを明確に区別する必要がある。

ポピュリズムは、民主主義の異常を知らせる警報器としては役立つかもしれない。

しかし、警報器に国家を運転させるべきではない。

民主政治を動かすべきなのは、熱狂でも敵意でもなく、事実、議論、制度、妥協、そして検証可能な政策である。

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