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青木幹雄はなぜ参議院議員でありながら自民党政治を動かせたのか

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政治の権力者という言葉から、多くの人が思い浮かべるのは首相か、自民党幹事長だろう。衆議院で当選を重ね、総裁選挙を戦い、テレビカメラの前で政策を語り、最後には首相官邸へ入る。それが日本政治における「大物政治家」の分かりやすい姿である。

青木幹雄は、その典型から奇妙なほど外れていた。国政では一貫して参議院議員であり、首相になったことも自民党総裁になったこともない。全国的な人気を競った政治家でもなければ、強烈な演説によって世論を動かした政治家でもない。それにもかかわらず、1990年代末から2000年代の自民党政治をたどると、重要な局面のかなり深いところに青木の名前が現れる。

やがて彼には「参院のドン」という呼び名が付いた。

この言葉だけを聞けば、古い自民党にいた一人のボス政治家の物語に見える。しかし、それでは青木幹雄という人物の面白さを半分も説明できない。青木の力は、単純に派閥の人数を持っていたからでも、参議院議員を命令で従わせていたからでもなかった。参議院という制度、自民党参院組織の独自性、竹下派以来の人的関係、選挙と人事に関する情報、そして衆議院と参議院、官邸と党をつなぐ調整能力が、一人の政治家のところで重なった。その結果、首相でも幹事長でもない人物が、首相でさえ無視できない存在になったのである。

青木幹雄を読むことは、政治の権力が必ずしも一番高い椅子に座っている者だけのものではないことを知ることでもある。そしてそれは、参議院の政治的意味があらためて問われている2026年の日本政治を考えるうえでも、決して過去の話ではない。

竹下登のそばで見た「人を動かす政治」

青木幹雄は1934年、島根県に生まれた。竹下登の秘書を務め、島根県議会議員を経て、1986年の参議院選挙で初当選した。青木の政治人生を考えるうえで、竹下との関係は避けて通れない。

竹下は、強烈な理念を掲げて党内を二分する政治家ではなかった。相手が何を求めているのかを読み、対立する政治家の間に入って妥協点を探し、人間関係の機微まで含めて巨大な自民党を動かしていく。後の時代から見れば古い派閥政治に映るかもしれないが、当時の自民党を運営するうえでは、そうした調整能力そのものが重要な政治技術だった。

青木は、その政治のすぐ近くにいた。もちろん、竹下のそばにいたことだけを理由に、青木が後の調整能力を獲得したと断定することはできない。それでも、青木がその後、政策理念を大声で主張する政治家ではなく、人間関係の間をつなぐ政治家として頭角を現したことを考えれば、竹下政治の環境が彼の政治観に影響を与えたと見るのは不自然ではない。

政治家の力を役職表だけで測ると、こうした人物は見えなくなる。組織にはしばしば、正式な最高責任者とは別に、「この人に話を通しておかなければ物事が進まない」という人物が生まれる。人事の事情を知り、組織内の感情や利害を知り、誰と誰を結び付ければ案件が動くのかを理解している人物である。情報と相談がその人物のところを通過するようになれば、組織図に書かれた肩書以上の権力が生まれる。

青木が後に築いたのは、まさにこの種類の政治力だった。自分自身が首相になる必要はない。人事や選挙、法案、派閥間の調整が行われる場所に入り、その複雑な関係を結び直す役割を担えば、首相になる政治家とは別の種類の権力を持つことができる。青木は舞台の中央に立ち続ける政治家というより、舞台と舞台をつなぐ通路を押さえる政治家だった。

そもそも参議院はそれほど弱いのか

ここで素朴な疑問が生まれる。それほど政治力があるなら、なぜ青木は衆議院へ行かなかったのだろうか。

日本では首相指名や予算、条約などについて衆議院の優越が認められており、首相を目指す政治家のほとんども衆議院議員である。そのため、参議院はどうしても「二番目の議院」のように見えやすい。しかし、この見方では日本の二院制を正確には理解できない。

日本国憲法第59条では、通常の法律案は原則として衆議院と参議院の双方の可決を必要とする。参議院が否決した法律案を衆議院だけで成立させるには、出席議員の3分の2以上による再可決が必要である。政権与党が衆議院で過半数を持つことと、3分の2を持つこととの間には大きな隔たりがあるため、参議院で多数を確保できなければ、政府は法案ごとに何らかの調整を迫られる。

つまり参議院は、首相をつくる力では衆議院より弱いが、首相が進めようとする政策を止めたり、修正を迫ったりする力については決して軽い存在ではない。権力とは、自分が命令できることだけを意味するわけではない。「自分の同意がなければ相手が困る」という位置に立つこともまた、権力なのである。

しかも参議院には衆議院のような解散がない。首相が参議院の多数派を気に入らないからといって、議員全員を選挙へ送り返すことはできず、半数ずつ改選される議員は6年間の任期を持つ。この制度のため、自民党政権にとって参院自民党は、衆議院側の単なる下部組織にはならなかった。独自の選挙事情と人事慣行を持ち、独自の院内秩序を形成する政治集団として発達したのである。

そこをまとめる人物には、本人の資質とは別に、制度そのものが政治的価値を与える。青木の権力を「とにかく顔が利く人物だった」という人物論だけで説明できない理由は、ここにある。

小渕政権で舞台裏から官邸へ

青木が全国政治の表舞台へ現れたのは、小渕恵三政権だった。1999年10月、小渕首相は青木を内閣官房長官に起用する。参議院議員である青木が、首相官邸の中枢である官房長官になったのである。

二人を結び付けていたのは、竹下登だった。竹下派という巨大な政治集団の中で、小渕と青木は長い時間を共有しており、政策だけではなく、人間として誰を信用できるのかという感覚まで含めた関係が形成されていたと考えられる。

そして2000年4月、小渕首相が病に倒れる。小渕内閣は総辞職し、官房長官だった青木は内閣総理大臣臨時代理となった。その後、森喜朗が首相に指名されるが、この政権移行の過程で大きな批判を浴びたのが、後に「5人組」と呼ばれた自民党有力者による協議だった。

青木、森喜朗、野中広務、亀井静香、村上正邦らが協議し、森後継の流れが形成されたとされる。ただし、会合が最初から後継首相を決める目的だったのか、どの時点で森後継が具体化したのかについては、当事者の説明にも違いがある。「5人が密室で森を首相に決めた」と単純化するのは、歴史的経緯をやや粗くしてしまう。

それでも、この場に青木がいたこと自体には大きな意味がある。首相交代という自民党政治最大級の局面で、参議院議員である青木が最高幹部の協議に加わっていたからである。竹下派を知り、官邸を知り、参議院を知り、衆議院側の実力者とも直接話ができる。青木はこの時点ですでに、複数の政治空間をまたぐ人物になっていた。

「参院のドン」は参議院を支配していたのか

青木はその後、参院自民党の中心へ戻り、参院幹事長などを経て、2004年から自民党参議院議員会長を務めた。このころから「参院のドン」という呼び名が定着していった。

しかし、この言葉は青木の実像を少し誤解させる。「ドン」と聞けば、参議院議員を命令一つで動かしていた人物のように感じられるが、実際の政治はそれほど単純ではなかった。

青木の強さは、議員を恐怖で服従させることではなく、多くの議員が青木との関係を必要とする仕組みを持っていたことにあった。参議院議員にとって6年ごとの選挙は政治生命そのものであり、その過程では公認、組織票、業界団体との関係、党や政府の人事などが複雑に絡み合う。こうした事情を把握し、その調整に深く関与できる人物は、それだけで大きな政治資源を持つことになる。

しかも青木は、参議院内部だけに人脈を持っていたわけではなかった。衆議院側の派閥幹部や首相官邸とも話のできる回路があり、参議院側の事情を官邸へ伝える一方、官邸側の事情を参議院へ持ち帰ることができた。参議院、衆議院、派閥、官邸という別々の世界の間に立つことで、青木自身の政治的価値が高まっていったのである。

社会ネットワーク論の概念を借りるなら、青木の位置は、異なる集団同士を結び付ける「媒介者」として理解することができる。ただし、これはあくまで説明モデルであって、当時の議員間関係をすべてデータ化して社会ネットワーク分析を行った結果ではない。それでも、青木を単なる参議院のボスと見るより、複数の政治集団をつなぐ結節点と考えた方が、彼の影響力ははるかに理解しやすい。

青木は参議院という島の王だったのではない。複数の島を結ぶ橋を管理する人物だったのである。

小泉純一郎でさえ、その橋を壊せなかった

青木の政治力を最も鮮明にしたのは、皮肉にも旧来の自民党政治を壊すと宣言した小泉純一郎だった。

2001年、小泉は「自民党をぶっ壊す」と訴えて総裁となり、派閥均衡型の人事を崩し、首相官邸の主導力を高めていった。その政治手法は、竹下や青木に代表される調整型政治とは対極にあるように見えた。

それでも小泉は、参院自民党の存在を消すことはできなかった。衆議院側で派閥人事を大胆に崩しても、参議院側には独自の秩序があり、その秩序との調整が必要だった。これは小泉が青木個人に服従していたという意味ではない。どれほど強い首相であっても、参議院という制度を消すことはできず、参院自民党が独自の政治集団である以上、そこをまとめる人物との交渉を避けることはできなかったということである。

その構造が劇的に表れたのが、2005年の郵政民営化だった。

小泉が政治生命を懸けた郵政民営化法案は衆議院を通過したが、8月8日の参議院本会議では賛成108、反対125で否決された。自民党からも22人が反対し、青木自身は賛成票を投じている。

この事件は、青木の力と限界を同時に示した。「参院のドン」である青木が賛成しても、自民党参議院議員の大量造反を止めることはできなかった。つまり青木は参議院を完全に支配していたわけではなく、通常の人事や選挙、国会運営において非常に大きな調整力を持っていた人物と理解するのが正確である。

ところが、青木個人の限界が明らかになった一方で、参議院そのものの力は逆に証明された。国民的人気を持ち、自民党総裁であり首相でもあった小泉でさえ、参議院によって最重要法案を一度止められたからである。小泉はその直後、衆議院を解散し、後に本人も国会で、このような解散は「異例中の異例」だったと認めている。

首相でさえ参議院を消すことはできない。だからこそ、参議院をまとめられる人物には大きな政治力が生まれるのである。

首相を目指さなかったことも、青木には有利だったのか

青木にはもう一つ特徴があった。自ら首相の座を争う政治家ではなかったことである。

自民党の衆議院側では、実力者たちは最終的に総裁・首相という一つしかない椅子を争う。普段は同じ派閥にいても、総裁選挙になれば競争相手になり得る。それに対して、首相候補ではない参議院の有力者は、その競争から少し外れた位置にいる。

そのため青木は、衆議院側の実力者にとって、自分の地位を直接奪う相手ではなく、相談や仲介を依頼できる人物になりやすかった可能性がある。ただし、これを青木の権力の決定的原因と断定することはできない。重要なのは、首相候補ではなかったという位置が、仲介者としての役割と矛盾せず、むしろその役割を果たしやすい条件の一つになっていたと考えられることである。

青木が強かった理由は、結局のところ単一ではない。参議院の制度的権限と参院自民党の組織的自律性が土台にあり、そこへ人事や選挙への関与、竹下派以来の人脈、官邸との連絡、本人の調整能力が重なった。どれか一つだけで「参院のドン」が生まれたのではなく、複数の条件が同じ人物のところで重なったことが、青木幹雄という政治現象を生み出したのである。

そして2026年、高市早苗は青木の政治から何を学ぶのか

青木幹雄を昔話の中へ戻してしまえば、この人物をいま読む意味は半減する。

2026年の高市早苗政権は、衆議院で圧倒的な議席を持つ一方、参議院ではそれとは全く異なる政治環境に置かれている。衆議院で巨大な多数を持っているからといって、参議院で同じように政策が通るわけではない。参議院には参議院の選挙によって形成された多数派があり、その政治的正統性は衆議院の議席数によって消えるものではないからである。

ここで高市政権に対して憂慮すべきなのは、本人が明確に「参議院を軽視する」と宣言したかどうかではない。そうした内心まで事実として断定することはできないし、政治的批判ほど事実との区別を慎重にしなければならない。

しかし、もし衆議院で得た巨大な多数を背景に、参議院を政策実現の途中にある面倒な障害物程度に扱う政治姿勢が強まるなら、それは制度論として極めて危うい。高市首相の国会出席をめぐって参議院側から批判が出ていることも、単なる出席回数の問題として片付けるのではなく、政権と第二院との関係という観点から考える必要がある。

衆議院で多数を持たないから参議院と話し合うのではない。参議院が、衆議院とは別の選挙によって選ばれた独立した議院だから話し合わなければならないのである。

2005年、小泉純一郎は非常に強い首相だった。それでも郵政民営化法案は参議院で止まった。2026年の政権が衆議院でどれだけ多くの議席を持っていても、参議院の一票を消すことはできない。

高市政権がこの重みを理解せず、衆議院での圧倒的多数を万能の政治資本と錯覚するようなことがあれば、それは青木幹雄の時代から政治が進歩したことを意味しない。むしろ、二院制を運営する政治技術の一部を失ったというべきだろう。

もちろん、青木型政治そのものを理想化する必要もない。彼が得意とした非公式な調整や派閥的人間関係には、意思決定が国民から見えにくくなるという重大な問題があった。しかし少なくとも青木は、参議院には参議院独自の論理があり、それを無視して衆議院側の都合だけで政治を動かそうとすれば、いずれどこかで行き詰まることを知っていた。

その意味で、青木から学ぶべきなのは古い派閥政治そのものではない。異なる民意を持つ二つの議院を、どうすれば一つの政治として動かせるのかという感覚なのである。

青木が握っていたのは「接続」だった

2007年の参議院選挙で自民党が大敗すると、青木は参議院議員会長を辞任し、2010年には参議院選挙への出馬を見送って政界を引退した。しかし、その後もしばらく自民党内で影響力が残ったことは、青木の力が役職だけに由来していたのではないことを示している。

長い政治生活の中で青木が蓄積していたのは、人と人との関係についての膨大な記憶だった。政治家同士の信頼や対立、選挙事情、支持団体とのつながり、人事の経緯などは、議員を辞職した瞬間に消えるものではない。誰に話を持っていけば物事が動くのかを知っている人物は、役職がなくなっても一定の価値を持ち続ける。

ここまで見てくると、「参院のドン」という呼び名も少し違って見えてくる。

青木が支配していたのは、参議院そのものではなかった。

彼が握っていたのは、政治の「接続」だった。

「参議院議員でありながら」ではなく「参議院議員だったから」

最初の問いへ戻ろう。

なぜ青木幹雄は、参議院議員でありながら自民党政治を動かすことができたのか。

ここまで考えると、この問いには最初から少し偏見が含まれていたことに気付く。「参議院議員でありながら」という言葉には、政治の本流は衆議院にあり、参議院議員が大きな力を持つのは例外だという前提があるからだ。

青木の場合、それを逆に考えた方が実態に近い。

青木幹雄は、参議院議員でありながら強かったのではない。ある意味では、参議院議員だったからこそ強くなった。

首相を生み出す衆議院とは別の場所に、首相が無視できない政治集団が存在する。そこには解散がなく、独自の人事と選挙があり、通常の法律案を止めることのできる制度的な力がある。そして、その政治集団をまとめながら、衆議院の派閥とも首相官邸とも地方政治とも話のできる人物が現れた。それが青木幹雄だった。

もちろん、青木型政治には民主政治から見て重大な問題もあった。「5人組」に象徴されるように、有力者同士の非公式な話し合いによって国家の重大な意思決定が進むなら、その過程は国民から見えにくくなる。青木を評価することと、そうした政治手法を肯定することは別の問題である。

それでも、青木の政治力がどこから生まれたのかを考える意味は残る。彼は制度を知り、人間関係を知り、それぞれが直接にはつながらない場所で自分が媒介者になることで力を得た。

政治では、目立つ人物が必ずしも最も重要な人物とは限らない。首相が政策を掲げ、幹事長が党を動かし、国会議員が採決する。その背後では、それぞれの利害を結び付け、対立する者同士を同じテーブルに着かせる役割が必要になる。青木幹雄は長い間、その役割を担っていた。

首相官邸の正面玄関に立っていたわけではない。テレビカメラの中央にいたわけでもない。それでも政治家たちが目的地へ向かう途中には、青木のいる細い廊下を通らなければならない場面があった。

その廊下の一つが、参議院だった。

「参院のドン」という呼び名が教えてくれるのは、一人の老人が参議院を支配していたという単純な物語ではない。民主政治の権力は、必ずしも一番高い椅子だけに存在するわけではないということである。

そして2026年、衆議院で巨大な多数を持つ政権ほど、そのことを忘れてはならない。

小泉純一郎ですら、参議院で止まった。

青木幹雄は、その重みをよく知っていた。

参議院を軽く見る政治がもしあるとすれば、それが軽く見ているのは単なる一つの議院ではない。異なる選挙で形成された二つの民意をあえて並立させ、政治を少し不便にすることで権力を抑制しようとする、日本の二院制そのものなのである。

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