地域政経

九条レオンの地域から社会と政治・経済のこれからを考える

田中角栄の話し方は、SNS時代でも人を動かせるのか

- Posted in 政治家論 by

 田中角栄の古い映像を見ると、不思議な感覚に襲われる。話し方は決して洗練されているとは言い難く、言葉を美しく並べるわけでもなければ、静かな低音と抑制された身ぶりで知性を演出するわけでもない。途中で言葉を継ぎ足し、同じ表現を繰り返し、ときには話が横道へそれる。それなのに、しばらく聞いていると、細かな文言は忘れても「この人は結局、何を言いたかったのか」が妙にはっきり残る。

 政治家の演説は、本来なら政策を説明するためのものである。しかし現実の政治では、政策の内容だけで人が動くわけではない。同じ政策を説明しても、ある人が話せば聞き流され、別の人が話すとなぜか耳を傾けてしまう。そこには政策の中身とは別に、言葉の具体性、話の組み立て方、話者への信頼、聞き手がもともと持っている政治的な好悪、さらには「この人は自分たちのことを分かっている」という感覚まで入り込んでくる。

 田中角栄という政治家を「話がうまかった人」の一言で片づけると、この複雑な構造を見失う。国会会議録をたどると、彼の答弁には「第一」「第二」と論点を区切り、金額、年数、回数、制度といった具体的な材料を会話の途中へ持ち込む例が繰り返し現れる。もちろん、すべての発言が同じ型だったと証明できるわけではない。それでも少なくとも、抽象的な政治課題を聞き手がつかめる大きさまで分解して示す話法が、彼の発言の中に何度も確認できることは確かである。

 では、その田中角栄の話し方を2026年のSNS(Social Networking Service・交流型ソーシャルメディア)へ持ってきたら、同じように人を動かせるのだろうか。これは実験で直接確かめることのできない問いである。半世紀前の政治家を現在の情報環境へ置くことはできない以上、答えはどうしても反実仮想になる。しかし、田中角栄の発話に見られる特徴と、現代の認知心理学や政治コミュニケーション研究で分かっていることを重ねれば、「何が現在でも通用しそうで、何が時代とともに変わったのか」を考えることはできる。

「分からせる」より先に、「分かる形」にしてしまう

 政治家が難しい政策を説明するとき、しばしば奇妙な逆転が起こる。正確に説明しようとするほど専門用語が増え、条件を丁寧に付けるほど文章が長くなり、話している本人は説明を尽くしているのに、聞いている側には何の話だったのかが残らなくなる。説明した情報量と、相手の頭に残った情報量が必ずしも比例しないのである。

 田中角栄の答弁には、その罠から逃れようとするような構造が見える。複雑な政策課題であっても、「第一の問題」「第二の問題」と区切り、そこへ金額や年数や制度の仕組みを置くことで、話全体にいくつもの目印を立てていく。聞き手は演説を一字一句記憶する必要はなく、「何が問題で、どれくらいの規模で、結局どうするのか」という骨格だけを持ち帰ることができる。

 これは心理学的にも無理のない考え方である。人間は、処理しやすい情報を理解しやすく感じる傾向を持つ。これをprocessing fluency(処理流暢性・情報をどれほど容易に認知、理解できるかという性質)という。政治的メッセージについても、抽象的で複雑な表現より、具体的で身近な表現の方が理解や説得力の評価に有利に働く場合があることが研究されている。

 ただし、ここで一つ重要な境界を引かなければならない。「分かりやすい」と「支持される」は同じではない。理解しやすい政策説明を聞いたからといって、その人が賛成するとは限らず、政治家への不信感が強ければ、むしろ内容を十分理解したうえで反対することもある。政党への帰属意識や、もともと抱いている政治家への好悪、自分の信念と一致しているかどうかといった要因が、情報の受け止め方に強く作用するからである。

 したがって田中角栄の話術を、「分かりやすかったから人を動かした」という一本の因果関係にしてしまうのは危険である。より現実に近いのは、具体性によって理解の負担を下げ、その上で信頼、人柄、政治的立場、利益への期待、地域との関係など複数の条件が重なったときに、態度や行動へ影響する可能性が高まるという見方だろう。

「強い言葉」と「強い説明」は同じではない

 現在の政治では、短く強い言葉が目立つ。「政治を変える」「既得権益を壊す」「国民を守る」といった言葉は、数秒で意味が伝わり、字幕にも入り、画面を流し見している人の目を止めやすい。SNS(Social Networking Service・交流型ソーシャルメディア)では、まず注意を獲得しなければ、その先の政策説明まで届かないのだから、政治家が短く強い表現へ向かうこと自体には合理性がある。

 しかし田中角栄の話し方をよく見ると、その強さは少し種類が違う。形容詞が強いから印象に残るのではなく、抽象的な政治課題を具体的な世界へ降ろしてくるから強いのである。道路の話なら道路がどこへ延びるのか、税金の話ならいくらなのか、制度の話なら誰が何をするのかというところまで言葉を運び、政治を霞の向こうにある巨大な仕組みから、自分の生活と地続きの問題へ変えていく。

 ここには、「強い言葉」と「強い説明」の違いがある。強い言葉は一瞬で感情を動かせるが、その人が政策を理解したとは限らない。一方、自分の暮らしがどう変わるのかまで想像できれば、賛成するにせよ反対するにせよ、政治はそれまでより自分に近い問題になる。田中角栄型の話術から現代の政治家が学べるとすれば、威勢の良い口調をまねることではなく、政策を聞き手の日常生活まで運んでくる技術の方だろう。

田中角栄は「切り抜き」に強かったのか

 現在の政治家は、一時間の演説全体によって評価されるとは限らない。その中の十五秒や三十秒だけが抜き出され、字幕を付けられ、元の演説を一度も見ていない何十万、何百万という人へ届くことがある。その映像を選ぶのも政治家本人とは限らず、支持者が好意的に編集することもあれば、批判する側が不利な部分を取り出すこともある。

 この環境へ田中角栄の話し方を置いたなら、比較的「切り抜きやすい」部分が多かった可能性はある。論点を明示し、数字を置き、結論へ向かう話し方は、発言の一部分だけを取り出しても意味が残りやすいからである。ただし、これはあくまで発話構造から導く仮説であり、「田中角栄なら現在の短尺動画で成功した」と実証できるものではない。

 本当に確かめようとするなら、田中角栄と複数の政治家の発言を同じ長さに編集し、人物名を伏せて被験者に提示したうえで、内容の理解度、記憶率、好感度、信頼度、共有したいと思う割合などを比較する必要がある。それを行わずに、「角栄は短尺動画に強い」と断言することは科学的にはできない。

 しかも、たとえ切り抜きに適した話し方であったとしても、それは長所であると同時に弱点にもなり得る。前後を含めて聞けば理由の分かる強い発言も、数秒だけを残せば「決断力のある政治家」にも「乱暴に断言する政治家」にも編集できる。話者本人が完成させた文脈より、編集した側が作った文脈の方が広く流通する可能性があるからだ。

 その意味で、田中角栄型の話術は、もし現在に存在すれば「切り抜きに強い」のではなく、「切り抜いた後でも形が残りやすい一方、別の物語にも組み替えられやすい」と表現した方が正確だろう。

百人の顔を見る政治から、見えない聴衆へ

 田中角栄の時代にも、もちろん新聞、ラジオ、テレビがあった。昭和の政治家が常に目の前の聴衆だけに向かって話していたわけではなく、田中角栄自身も放送を通して多数の国民へ語りかけている。したがって「昭和は対面、現代はネット」という単純な対比では、歴史を切り分けすぎることになる。

 それでも、現在のSNS(Social Networking Service・交流型ソーシャルメディア)が以前のマスメディアと決定的に違うところはある。テレビ放送なら、放送局が番組を編成し、おおよその放送時間と視聴者層を想定できる。ところがSNSでは、政治家が一台のスマートフォンへ話した映像が、その日の夜には数百人しか見られていなくても、翌朝には別の利用者による共有や推薦によって何十万人へ届く可能性がある。そのとき視聴者は、支持者だけではない。反対者、無関心層、偶然表示された人、政治的な対立を面白がって見ている人まで、まったく異なる文脈で同じ映像を受け取る。

 目の前の聴衆へ話す場合、政治家は相手の反応を見ることができる。笑えば分かり、退屈していれば分かり、ざわつけば話題を変えることもできる。SNSでは、その顔の代わりに再生回数、共有数、コメント数、視聴時間といった指標が返ってくる。人間の表情が、数字へ置き換えられるのである。

 ここで政治家にも新しい誘因が生まれる。怒りを示した動画の方が伸びる、対立相手を強く批判した投稿の方が共有される、慎重な説明より断言した発言の方が見られるという傾向が続けば、発信する側には、より反応の取れる表現を選びたくなる圧力がかかる。実際、政治的な対立や外集団への敵意、怒りなどを含む投稿が高い反応を得やすいことは、大規模なSNS分析でも報告されている。

 ただし、「だから政治家はアルゴリズムに操られている」とまで言うのは行き過ぎである。確認できるのは、刺激的な発信を選択する誘因が存在することであって、個々の政治家が実際にどの程度その数字へ適応しているかは別の問題だからだ。それでも、政治家が有権者へ働きかけるだけでなく、政治家自身も情報環境から影響を受けるという相互作用は、現代政治を考えるうえで無視できない。

「分かりやすい政治」が危険になる瞬間

 田中角栄の話し方を評価するとき、分かりやすさそのものを善と考えてしまうと、もう一つ重要な問題を見逃す。

 政策は、本来かなり複雑である。道路を一本造れば便利になるというだけではなく、建設費がかかり、その後には維持費が発生し、交通量が変わり、周辺の土地価格が動き、環境への負荷が生じ、隣接地域との競争条件まで変化するかもしれない。減税も家計にとっては利益になるが、その財源によって維持されていた公共サービスまで含めれば、単純に「税金が減るほど得」とはいえない。

 複雑な政策を生活の言葉へ翻訳することと、都合の悪い複雑さを取り除いてしまうことは、外から見るとよく似ている。前者は政治を理解可能にする行為だが、後者は政治を単純化しすぎる行為である。そして短い動画を中心とする情報環境では、この境界がますます曖昧になる。

 三十分の演説なら、「ただし、この政策にはこういう負担もあります」と補足することができる。しかし三十秒の動画では、条件や例外を付け始めた瞬間に時間がなくなる。その結果、「こうすれば解決する」という断定だけが残り、「その代わり何を失うのか」という部分が消えやすくなる。

 ここで田中角栄型の「分からせる政治」とSNSの短尺文化が結びつけば、非常に強い政治コミュニケーションになり得る。しかし同時に、政策の複雑性を一つの物語へ圧縮する力も強くなる。分かりやすさは民主政治に必要だが、分かりやすさが強すぎると、政治の現実そのものまで単純に見えてしまうのである。

人は論理だけでは動かない

 それでも、田中角栄を「説明がうまかった政治家」だけで理解するのは足りない。彼の話し方には、内容とは別に、聞き手との距離を縮める特徴があったと考えられる。

 政治家の言葉には、「何を言ったのか」と同時に「誰に向かって言っているように聞こえるのか」という情報が含まれている。全国民に向けて慎重に作られた完璧な文章より、少し不格好でも「自分たちに向かって話している」と感じる言葉の方が心に残る場合がある。人間は必ずしも、最も論理的で正確な説明をした人だけを信頼するわけではなく、「この人は自分たちの事情を分かっている」と感じることによって評価を変えることがあるからだ。

 ここでも因果関係を単純化してはいけない。親しみやすい話し方をすれば必ず支持が増えるわけではなく、同じ話し方でも、ある人には「庶民的」に映り、別の人には「粗野」に映ることがある。その違いを生むのは、話し手の言葉だけではなく、聞き手がすでに持っている政治的立場や社会経験、人物像への先入観である。

 田中角栄の話術の強さを考えるなら、「人を説得する魔法の話法」があったと考えるより、具体性、距離の近さ、行動の提示、人物への信頼といった複数の要因が相互作用し、その結果として強い政治的存在感が生まれたと考える方が現実に近い。

もし田中角栄が2026年にいたなら

 田中角栄が現在生きていたら、十五秒の動画を毎日大量に投稿しただろうか。それは分からないし、分からないことを断定する必要もない。ただ、彼の発話構造から推測するなら、短い動画だけで完結させるより、短い言葉を入口として長い説明へ人を連れていく形の方が似合ったのではないかと思える。

 田中角栄の話は、強い一言だけで終わるものではなく、論点を置き、数字や具体例を積み、その後で「だからこうする」という行動へ向かう。その構造を現在へ移すなら、三十秒の動画で注意を引き、その先に数分、さらに詳しい説明を置くという形になるだろう。

 ここに、現代の政治コミュニケーションを考えるうえで重要な問題がある。再生されることと理解されることは違い、理解されることと説得されることも違い、説得されることと支持されることも、さらに投票や政治参加という行動へ移ることも同じではない。

 一千万回再生された政治動画を見た人が、翌日には内容をほとんど覚えていないこともあり得る。一方、百人しか聞いていない演説が、その百人の投票行動や地域活動を変えることもあり得る。再生回数だけを見れば前者の圧勝だが、「人を動かしたか」という尺度では必ずしもそうならない。

 SNS時代の政治では、「何人に届いたか」という数字が目立つ。しかし本当に重要なのは、その言葉が誰に届き、その人の理解や判断をどれだけ変え、最終的にどのような行動へつながったのかである。そこまで追わなければ、情報の拡散量と政治的影響力を同じものとして扱うことになる。

角栄の声ではなく、構造を盗む

 では、田中角栄の話し方はSNS時代でも人を動かせるのか。

 科学的に答えるなら、「そのまま通用すると証明することはできない」が最も正確である。しかし同時に、彼の発話に確認できるいくつかの特徴は、現代の認知研究や政治コミュニケーション研究から見ても、人に理解されやすい条件とかなり重なっている。

 難しい政治を生活の言葉へ変え、抽象論の中へ数字を置き、話の途中に節目を作り、最後には「それで何をするのか」を示す。その方法は、半世紀を経たからといって古くなったわけではない。むしろ情報があふれ、数秒で次の情報へ移ってしまう現在だからこそ、複雑な話の骨格を失わずに分かりやすく伝える能力は、以前より重要になっている可能性がある。

 ただし現在の政治家には、田中角栄の時代とは異なる難しさが加わった。言葉はテレビや新聞だけでなく、無数の利用者が参加するネットワークへ放たれ、本人の手を離れた後で切り取られ、題名を付け替えられ、別の政治的物語へ組み込まれる。昭和の街頭政治では、政治家は目の前の聴衆の反応を見ながら話すことができた。テレビの向こうには顔の見えない大衆もいたが、現在ではさらに、誰がどこで、どの文脈で受け取るのかさえ予想しにくいネットワークが加わっている。

 その環境で、田中角栄の口調だけをまねても意味はない。豪快に話すことも、言葉を荒くすることも、断言を増やすことも本質ではない。学ぶ価値があるとすれば、その下にある構造である。

 政治を、自分とは遠い世界の出来事だと思っている人のところまで運び、そこで使われている言葉へ翻訳する。数字を数字のまま投げるのではなく、それが一人の暮らしに何を意味するのかを示す。そして、分かりやすく語りながらも、都合の悪い条件や副作用まで消してしまわない。

 田中角栄の話術がSNS時代にも生き残る可能性があるとすれば、それは昭和的な迫力が現在でも通用するからではない。

 人を動かす言葉とは、相手を圧倒する言葉ではなく、遠くにある政治をその人の足元まで運んでくる言葉だからである。メディアが新聞からテレビへ、テレビからネットワークへ変わっても、その一点だけは、案外変わっていないのかもしれない。

九条レオンリベラル文庫の記事をさらに読む

九条レオンの文学・文芸に関する記事をまとめています。

リベラル文庫のページを見る