地域政経

九条レオンの地域から社会と政治・経済のこれからを考える

~市川房枝との微妙な距離から見えてくる「市民派政治家」の実像~

 日本の総理大臣には、ある程度決まった政治的な出発点がある。政治家の家に生まれて地盤を引き継ぐ者、中央官庁で経験を積んで政界へ転じる者、大政党に入り党内組織の階段を上っていく者である。しかし、菅直人はそのいずれにも典型的には当てはまらなかった。東京工業大学を卒業し、弁理士資格を取得した後、市民運動や選挙運動に参加し、自ら国政選挙に挑戦して三度敗れ、それでも政治活動を続けて1980年に衆議院議員となった。その後、厚生大臣、民主党代表、副総理、財務大臣などを経て、2010年には第94代内閣総理大臣に就任した。

 この経歴だけを見れば、一人の市民運動家が既成政治に挑戦し、ついには国家権力の頂点へ到達した立身出世物語のように映る。しかし、実際の政治人生はそれほど単純ではない。菅は選挙での敗北だけでなく、政党再編、党内対立、代表辞任などを経験し、そのたびに政治的な立場を変えながら活動を続けてきた。1996年の薬害エイズ問題への対応で全国的な注目を集めた一方、2004年には年金問題をめぐって民主党代表を辞任し、政治的影響力を大きく損なった時期もあった。

 菅が首相まで到達できた理由を考えるには、市民運動家としての理念や個人の努力だけでは不十分である。選挙実務を身につけたこと、少数政党から大政党へ活動の場を広げたこと、行政制度の問題を政治的争点にする能力を持っていたこと、そして所属する民主党が政権を獲得したことなど、複数の条件を考慮する必要がある。さらに、2010年の鳩山由紀夫首相の退陣という政治的な機会が、菅の首相就任にどのように結びついたのかも検討しなければならない。

 その出発点をたどると、女性参政権運動の指導者として知られる市川房枝との関係に行き着く。しかし、そこには一般に語られる単純な師弟関係とは異なる、政治理念と政治手法をめぐる微妙な距離が存在していた。

市川房枝との出会いは政治的原点だった

 菅直人の政治人生を語るうえで、市川房枝の存在を避けることはできない。1974年の参議院全国区選挙で、当時27歳だった菅は、引退を考えていた市川に再出馬を求める市民の運動に参加し、選挙事務長を務めた。単に街頭で応援した若者の一人ではなく、選挙活動を組織する中心的な役割を担っていたのである。菅自身も後年、この選挙を政治活動の原点として繰り返し振り返っている。

 市川は戦前から女性参政権の実現に取り組み、戦後は参議院議員として政治腐敗の防止や選挙の浄化を訴えた人物だった。企業や業界団体からの多額の政治資金に依存せず、市民の寄付やボランティアを基礎とする「理想選挙」を主張し、自らも実践していた。1974年の選挙で市川は約193万票を獲得して当選し、金権政治への批判が強まっていた時代に、市民参加型の選挙が大きな注目を集めた。

 若い菅にとって、この経験が重要だったことは理解しやすい。政治家の家系や大きな後援組織を持たなくても、市民を集め、活動を組織し、選挙によって国会議員を誕生させることができる。その過程を実際に経験したことは、政治への参加可能性を考えるうえで大きな意味を持ったと考えられる。後に菅が「政治に市民常識を!」と訴えて自ら選挙に挑戦した背景にも、この経験があった。

 ただし、1974年の選挙事務長という重要な役割を担ったことと、市川から政治的後継者として全面的な信頼を得ていたことは同じではない。選挙運動の実務能力に対する評価と、本人が政治家になったときの判断や行動に対する評価は分けて考える必要がある。実際、市川が後に残した記録からは、菅の政治活動について必ずしも全面的に賛同していなかった姿が見えてくる。

市川房枝は菅直人の立候補を無条件には支持しなかった

 1976年12月、菅は旧東京7区から無所属で衆議院選挙に立候補した。市川が1977年に公表した記録によれば、菅は立候補を決めた後、市川に選挙応援を求めた。しかし、市川は衆議院に無所属で立候補すること自体に賛成できず、正式な推薦や選挙応援を行わなかった。その一方で、50万円をカンパし、自分の秘書や関係職員が選挙を手伝えるよう配慮したうえで、「自力で闘いなさい」という趣旨の言葉を伝えたと記している。

 この対応は、市川が菅を完全に突き放していたわけではないことを示している。金銭面と人的な協力を一定程度認めながらも、自らの政治的判断に基づいて正式な推薦は控えたのである。しかも、市川が推薦を拒んだ理由には、菅個人への評価だけでなく、衆議院における無所属立候補への考え方が含まれていた。そのため、推薦しなかった事実だけを根拠に、菅への不信感が強かったと断定することはできない。

 しかし、選挙が始まってからの菅の活動について、市川はさらに批判的な記述を残している。1977年6月の『婦人展望』に掲載された市川の文章では、菅が選挙運動の中で市川の名前を使い、かつて市川を支援した人々に寄付や協力を求めたことについて、自分が主張してきた理想選挙とはかなり異なるという趣旨の批判が示されている。この文章の内容は、同年の『私の国会報告』にも収録されている。

 もっとも、市川の記述には、菅が支援者の名簿を持っていた「らしい」という趣旨の表現など、伝聞や推測に基づく部分も含まれている。したがって、市川が菅の選挙手法に違和感を抱いていたことは確認できても、実際にどのような依頼が行われたのか、支援者がそれをどう受け止めたのかについては、別の資料も必要になる。市川の批判をそのまま菅の行為に関する確定的な事実認定とするのは適切ではない。

 重要なのは、師弟関係という言葉だけでは説明できない政治観の違いが、この段階ですでに表れていたことである。市川は自らの理想選挙の原則を重視し、菅は国政選挙に挑戦するために、市民運動で築いた人脈や経験を活用しようとしていたと考えられる。ただし、その違いを直ちに一方の正しさや他方の不誠実さの証拠と見るべきではない。

1977年にも続いた市川の懸念

 市川の異論は、1976年の衆議院選挙だけにとどまらなかった。1977年、菅は江田三郎らが結成した社会市民連合に参加し、同年の参議院選挙に東京都選挙区から立候補した。市川は当時の文章で、菅が社会市民連合に参加することや参議院選挙に立候補することについて、事前の相談を受けていなかったと記している。また、他の候補者と同様に推薦や応援はしないという立場を示し、市民団体を代表する立場と政党政治の関係についても懸念を述べていた。

 この記録からは、市川が自らの選挙を支えた青年の政治活動を、無条件に支持していたわけではないことが分かる。市川が重視していたのは、組織を着実に育てながら社会に貢献する活動を積み重ねることであり、国政選挙への進出や政党への参加については慎重な姿勢を持っていたと読み取れる。一方、菅は自らの政治理念を実現するために、選挙と政党を通じて国会に進出する道を選んだ。

 ここには、市民運動と政党政治の関係をめぐる重要な論点がある。市民運動は、政策や行政に対して外部から意見を示し、社会的な支持を広げることができる。しかし、法律の制定や予算の決定に直接関与するには、議会内に議席を確保することが必要になる。市民運動の理念を議会政治へつなげる過程では、候補者の擁立、政党との協力、選挙資金の確保、支持組織の拡大といった現実的な課題に直面する。

 市川と菅の違いも、こうした政治活動の方法をめぐる違いとして理解できる。ただし、1976年から1977年にかけて市川が菅の政治手法を批判していたことから、1981年に市川が亡くなるまで両者の関係が一貫して悪化していたと結論づけることはできない。確認できるのは、少なくともこの時期、市川が菅を全面的な政治的後継者として扱っていたわけではなかったということである。

三度の落選から1980年の初当選へ

 菅は1976年の衆議院選挙で落選し、1977年の参議院選挙でも議席を得られず、1979年の衆議院選挙でも敗れた。現在の知名度から振り返ると見過ごされやすいが、政治家の家系でも中央官庁の出身者でもない人物が、国政選挙で三度続けて落選したのである。政治活動を継続するには、本人の意欲だけでなく、支持者との関係や選挙に必要な資金、人員、組織を維持することが求められた。

 得票数を見ると、1976年の衆議院選挙で菅は7万1368票を獲得し、旧東京7区で7人中5位となった。当時の同選挙区は定数4人の中選挙区であり、菅の得票率は11.7%だった。1979年の衆議院選挙では6万7480票、得票率11.9%で7人中6位にとどまったが、1980年6月の衆議院選挙では15万7921票、得票率22.8%を獲得し、6人の候補者の中で第1位当選を果たした。

 1979年と1980年を比較すると、菅の得票数は約2.34倍となり、得票率も11.9%から22.8%へと10.9ポイント上昇している。この数字は、単に三度の落選を経て当選したという事実だけでなく、短期間に選挙結果が大きく変化したことを示している。ただし、その原因を菅個人の努力や選挙技術の向上だけに求めることはできない。候補者構成の変化、投票率、政党支持、当時の政治情勢なども結果に影響するため、得票率の上昇を一つの要因によって説明するのは適切ではない。

 ここで注目したいのは、菅が選挙への挑戦を続ける一方で、政党政治にも参加していたことである。1977年には社会市民連合の結成に加わり、1978年には社会民主連合の結成に参加して副代表となった。市民運動を出発点としながらも、政党という組織の必要性を認識し、議会政治の内部で活動する道を選んだのである。

 もっとも、粘り強く活動を続けたこと自体を、政治的成功の十分な説明とすることには注意が必要である。落選後も政治活動を続けながら、最終的に国政で議席を得られなかった人々も存在する。菅という成功者だけを取り上げれば、政治活動の継続が成功をもたらす重要な性格的特徴だったように見えやすい。しかし実際には、政治活動の継続、支持基盤の形成、選挙情勢の変化などが重なって初めて当選に至ったと考えるべきである。

菅直人には行政制度を調べて問題を掘り出す政治手法があった

 菅を単なる運動型の政治家として理解すると、その活動のもう一つの特徴を見落とすことになる。1980年に衆議院議員となった後、菅は薬事行政や審議会の運営などについて、行政資料や制度の仕組みを調べ、国会質問で具体的な問題を追及していた。

 1981年3月19日の衆議院社会労働委員会では、丸山ワクチンの問題に関連して、中央薬事審議会の審査過程に疑問を示している。その際、抗悪性腫瘍剤として承認されていたクレスチンやピシバニールを取り上げ、医薬品の承認手続、審議会の審査過程、委員の研究上の関係などについて具体的に質問した。製薬企業と審議会委員の関係を確認し、医薬品の承認判断がどのような手続によって行われたのかを明らかにしようとする内容だった。

 このような国会質問から、菅が早い時期から行政制度の内部構造を調べ、不透明な部分を問題にする政治手法を取っていたことは確認できる。ただし、それによって菅が生来、官僚を信用しない人物だったとか、権力への反抗心が強かったなどと心理的な性格まで断定することはできない。人物の内面的な動機と、実際の政治行動は区別して評価する必要がある。

 行政制度を具体的に調査し、問題点を公の場で明らかにすることは、議会による行政監視の基本的な機能の一つである。特に医薬品行政のように専門知識が必要な分野では、行政機関の説明をそのまま受け入れるのではなく、審査過程や利益関係、判断の根拠を確認することに意味がある。菅の国会活動には、そうした制度的な監視機能を重視する姿勢が見られた。

 もっとも、国会で鋭い質問ができることと、行政機関を実際に統率して政策を実行できることは別の能力である。菅がその二つの立場を経験することになったのが、1996年の厚生大臣就任だった。

薬害エイズ問題は菅一人が解決したわけではない

 1996年、菅は橋本龍太郎内閣の厚生大臣に就任し、薬害エイズ問題への対応によって全国的な注目を集めた。血友病患者らが非加熱血液凝固因子製剤を通じてヒト免疫不全ウイルスに感染したこの問題では、国や製薬企業の対応について長年にわたって責任が追及されていた。患者や家族、弁護団、支援者、報道機関、国会議員らによる活動が続いており、菅の大臣就任以前から司法手続を通じた解決も進められていた。

 1989年には東京と大阪で国や製薬企業を相手とする訴訟が提起され、1995年10月6日には東京・大阪両地方裁判所が和解勧告を出していた。同月には、前任の森井忠良厚生大臣も和解交渉に応じる意向を示している。したがって、菅の就任によって初めて問題解決の動きが始まったと説明するのは正確ではない。司法手続や被害者の活動によって、既に政府側が対応を迫られる状況が形成されていたのである。

 その一方で、菅の厚生大臣としての役割も重要だった。それまで存在が確認できないとされていた資料について省内調査が進められ、1996年2月には、いわゆる「郡司ファイル」を含む関係資料の発見が公表された。同月16日には菅が被害者に国の責任を認めて謝罪し、同年3月29日には和解が成立した。行政内部に存在する資料を調査させ、その結果を公表し、国の責任を明確にすることは、行政機関を所管する大臣としての権限と政治判断を伴う行為だった。

 ここで重要なのは、問題を長年追及してきた人々の活動と、大臣が行政組織を動かしたことの双方を評価することである。被害者や弁護団の活動、裁判所の和解勧告がなければ、菅の対応が同じ形で実現したとは限らない。一方で、行政組織の内部資料を調査し、国の責任を認めるという対応が進んだことにも、当時の厚生大臣としての政治的判断が関係していた。

 この経験によって、菅は単に市民運動の立場から行政を批判する政治家ではなく、行政機関を所管し、その対応を変える立場に立った人物として認識されるようになった。全国的な知名度や政治的評価を高める重要な契機になったと考えられるが、これだけで後の首相就任を説明することはできない。行政問題への対応能力、政党運営能力、首相としての政治指導力は、それぞれ異なる観点から評価しなければならないからである。

「市民派政治家」が権力を求めることは矛盾なのか

 菅の政治人生には、市民運動の理念と政治権力の行使との間に、一見すると矛盾した関係がある。既成政治や行政の問題を外部から批判する立場で活動を始めながら、やがて連立政権に参加して閣僚となり、政党の代表を務め、最終的には国家権力の中枢に到達したからである。

 しかし、市民運動と政治権力の獲得は必ずしも論理的に対立するものではない。市民の意見を政策へ反映するには、社会的な要求を広げるだけでなく、議会内で法律や予算の決定に関与する必要がある。そのためには選挙で議席を得て、政党を通じて政策をまとめ、他の政治勢力と協力し、行政機関を動かす立場に就くことが求められる。外部からの批判と内部からの政策実現は、政治活動の異なる段階として理解することもできる。

 もっとも、権力を獲得する過程では、当初の理念と組織運営上の必要性が衝突する可能性がある。政党を大きくするには、自分と考え方の異なる政治家とも協力しなければならず、連立政権に参加すれば政策上の妥協も必要になる。政党代表になれば、個々の政策に関する信念だけでなく、選挙結果、党内の人間関係、資金、候補者の調整などにも責任を負うことになる。

 菅が1994年に新党さきがけへ参加し、自民党、社会党、新党さきがけによる連立政権の中で活動したことや、1996年に鳩山由紀夫らと民主党を結成したことも、こうした現実政治への適応として位置づけられる。ただし、その行動を単純に理念からの変節と評価することも、逆に理念の実現に向けた一貫した行動だったと評価することも、十分な検証なしにはできない。政党再編の背景には、政策上の対立や選挙制度の変化、既存政党の存続可能性、政治家同士の関係など、複数の要因が存在していた。

 確認できるのは、菅が市民運動出身者として少数政党にとどまり続けるのではなく、より大きな政治的影響力を持つ組織へ活動の場を広げていったことである。そして、その選択が後に首相候補となるための重要な条件の一つになった。

民主党という大きな政治組織を得たことが決定的だった

 菅が総理大臣になるためには、本人の知名度や政策能力だけでは不十分だった。日本国憲法第67条では、内閣総理大臣は国会議員の中から国会の議決によって指名されると定められている。大政党の党首であることは法律上の必須条件ではなく、複数政党の連立などによって首相に指名されることも可能である。しかし、現実には国会、特に衆議院で多数の支持を確保できる政治勢力の中心に位置することが、首相就任の重要な条件となる。

 菅が所属していた社会民主連合は、少数の国会議員によって構成される小政党だった。小政党の政治家として高い知名度を得ることは可能でも、その政党だけで政権を担当することは極めて難しい。菅にとって重要だったのは、1990年代の政界再編を通じて活動の場を広げ、1996年に民主党の結成に参加したことである。その後、民主党は他の政党や政治勢力との合流を重ね、自由民主党に対抗し得る規模の政党へと成長した。

 菅自身も民主党の共同代表や代表を務め、政策面だけでなく、選挙、党内調整、他党との関係など、大政党の運営に関わる経験を積んだ。社会民主連合の政治家だった時代と比較すると、政治的に担う役割は大きく変化していた。政党の規模が拡大することで、菅個人の政治的可能性も広がったのである。

 2009年8月の衆議院総選挙では、民主党が当時の480議席のうち308議席を獲得し、政権交代を実現した。議席占有率は約64.2%であり、民主党は衆議院で単独過半数を大きく上回る勢力となった。この結果は、菅個人の政治的成功を説明するうえで極めて重要である。所属政党が政権を獲得したことによって、菅にも副総理や閣僚として政権の中心に入る道が開かれたからである。

 その意味で、菅が首相になった理由を個人の資質だけで説明することはできない。約30年にわたる議員経験や閣僚経験を積み重ねていても、所属する政治勢力が政権を獲得しなければ、首相就任の機会は大きく制約される。民主党という政権獲得可能な大政党の形成と、2009年の政権交代は、菅の首相就任を可能にした重要な構造的条件だった。

2004年の民主党代表辞任という挫折

 菅の政治人生を「何度も政治の中心へ戻ってきた人物」と評価するなら、2004年の民主党代表辞任も欠かすことはできない。当時、政治家の国民年金保険料の未納問題が大きく報道され、菅自身も年金加入をめぐる問題で批判を受けた。菅は同年5月10日、民主党代表の辞任を表明した。

 この問題については、後に加入記録や行政上の手続をめぐる問題も指摘されており、当初の未納報道だけで経緯を単純に説明することはできない。ただし、当時の政治状況において、年金制度の問題を追及していた野党第一党の代表が、自らの年金加入をめぐる問題によって辞任に追い込まれたことは、政治的に大きな打撃だった。

 その後、菅は直ちに党内の中心的な地位へ復帰したわけではない。民主党では岡田克也や小沢一郎らが指導的な役割を担い、菅の政治的な立場も変化した。それでも国会議員として活動を続け、2009年の政権交代後には副総理兼国家戦略担当大臣として政権中枢に復帰した。2010年1月には財務大臣にも就任し、首相後継候補としての立場を強めていった。

 この経過からは、一度政治的な影響力を失った後でも、党内の役割や政治状況の変化によって再び重要な地位を得ることがあるという、政党政治の特徴が見えてくる。ただし、菅が復帰できた理由を本人の精神的な強さだけで説明することはできない。民主党内の人事、他の有力政治家との関係、政権交代による役職の増加なども影響していたと考える必要がある。

 それでも、菅が代表辞任によって政界を退くことなく、国会活動を継続したことは、その後の首相就任に至るための必要条件だった。1970年代の三度の落選と2004年の代表辞任は性質の異なる挫折だが、政治活動を継続することによって、その後の政治的機会を利用できる立場を維持したという点では共通している。

2010年、首相の椅子は突然転がり込んできたのか

 2010年6月、鳩山由紀夫首相が退陣すると、民主党は新しい代表を選出することになった。菅は代表選挙に立候補し、樽床伸二を291票対129票で破って新代表となった。有効投票420票に占める菅の得票率は約69.3%だった。同年6月4日には衆議院本会議で477票のうち313票を獲得し、内閣総理大臣に指名された。その後、6月8日に正式に内閣総理大臣に任命され、菅内閣が発足した。

 鳩山首相の退陣によって菅に機会が生じたという意味では、首相就任に偶然的な要素が存在していたことは否定できない。しかし、その機会を利用できる立場に誰もがいたわけではない。当時の菅は、厚生大臣経験者であり、民主党代表経験者であり、副総理と財務大臣を兼ねる政権中枢の政治家だった。岡田克也や前原誠司らの有力政治家が自ら立候補せず菅を支持したことも、代表選挙を優位に進める要因となった。

 したがって、菅の首相就任を単なる偶然や「棚ぼた」と評価するのは適切ではない。一方で、本人の能力と実績が必然的に首相就任をもたらしたと説明することもできない。民主党が2009年に政権を獲得していなければ、鳩山首相が2010年6月に退陣していなければ、あるいは他の有力政治家が異なる行動を取っていれば、首相選出の結果も変わっていた可能性がある。

 このように考えると、菅の首相就任は、個人の経歴、所属政党の政権獲得、党内の人間関係、そして特定の時点に生じた政治的機会が重なった結果だったと理解できる。長年の政治経験は首相就任の可能性を高める条件の一つだったが、それだけで結果を決定したわけではなかった。

 政治家の成功を考える際には、個人が積み上げた能力と、その人物が置かれた政治的な環境を分けて評価する必要がある。政治的な機会は、本人の努力とは独立に生じる場合があるが、それを利用できるかどうかは、それ以前に獲得していた地位や人間関係にも左右される。菅の2010年の首相就任は、そうした複数の条件が同時に成立した事例だった。

菅直人の政治的成功を統計的にどう考えるか

 菅の政治人生を振り返ると、三度の落選から初当選し、小政党から大政党へ移り、代表辞任を経験しながら、最終的に首相になったという特徴的な経路が見えてくる。しかし、こうした一人の成功例から、政治家が首相になるための一般的な法則を導き出すことはできない。

 例えば、政治活動を長く継続した人ほど首相になりやすいという仮説を検証するなら、菅だけでなく、同じ時代に国政選挙へ挑戦した人々、少数政党に所属した国会議員、非世襲の政治家、大臣や党代表を経験した人物などを比較する必要がある。政治活動を続けても議席を得られなかった人、長年国会議員を務めても首相にならなかった人を含めて分析しなければ、成功した人物に共通する特徴を過大評価してしまう可能性がある。

 また、菅の首相就任に影響した要因を、単純に数値化することも難しい。市川房枝の選挙で得た経験、薬害エイズ問題への対応、民主党の結成、2009年の政権交代、鳩山首相の退陣などは、それぞれ性質が異なるうえに、互いに関連しているからである。例えば、厚生大臣としての経験が菅の党内評価に影響した可能性はあるが、それが2010年の代表選挙で何票の増加に結びついたかを、既存の経歴だけから推定することはできない。

 むしろ重要なのは、政治的成功の条件を、必要条件と十分条件に分けて考えることである。菅が1980年の衆議院選挙で当選し、その後も政治活動を続けたことは、実際にたどった経路で首相になるために必要だった。しかし、衆議院議員として活動を続ければ誰でも首相になれるわけではない。同様に、民主党が2009年に政権を獲得したことは菅に首相就任の現実的な機会を与えたが、民主党に所属する政治家全員に同じ機会が与えられたわけではなかった。

 菅の政治人生を最も妥当に説明するのは、特定の個人的資質による必然的な成功ではなく、本人の政治行動と政治制度、政党の成長、偶然的な政治状況が長期間にわたって組み合わさった結果という見方だろう。この説明は華々しい英雄物語にはなりにくいが、政治家の成功をより現実的に理解するうえでは重要である。

「政治の中心へ戻ってきたこと」は何を意味するのか

 菅直人を優れた思想家と評価するか、卓越した行政指導者と評価するかについては意見が分かれる。2010年から2011年の首相在任中には、党内対立や政権運営の困難に直面し、2011年3月の東日本大震災と福島第一原子力発電所事故への対応でも評価が分かれた。緊急時の意思決定、行政機関との関係、情報の共有、政治的指導力などについては、首相就任に至る経歴とは別に検証する必要がある。

 しかし、首相へ到達するまでの過程に限定すれば、菅が何度も政治的な不利な状況に置かれながら、国政での活動を継続したことは確認できる。1976年から1979年にかけて三度の落選を経験し、1980年に初当選した後は小政党の議員として活動し、1990年代には政界再編の中で大政党の指導者となった。2004年には民主党代表を辞任したが、政界を退かず、2009年の政権交代後に再び政権の中心へ戻ってきた。

 こうした行動を、非常に強い上昇志向や政治的な生存能力の表れと評価することは可能である。ただし、その評価を本人の心理的な動機と同一視する必要はない。権力を求める意欲、市民運動の理念、政策実現への関心、組織を維持する必要性などは、相互に排他的なものではなく、一人の政治家の中に同時に存在することもある。外部から確認できる政治行動と、本人の内面的な動機を区別することが、人物を評価する際には重要である。

 また、政治活動を継続できた背景には、菅個人だけでなく、支持者や協力者の存在もあったと考えるべきである。選挙には資金、人員、情報、組織が必要であり、政治家一人の意思だけでは長期間の活動を維持できない。菅の政治的な持続性を評価するなら、本人の努力だけでなく、支持者との関係や政党組織の変化にも目を向ける必要がある。

市川房枝から受け継いだものと、受け継がなかったもの

 ここまでの経歴を市川房枝との関係に重ねると、菅直人という政治家の特徴がより明確になる。市川は若い菅に選挙活動の重要な経験を与え、市民参加型の選挙が持つ可能性を実地で示した。その一方で、菅が自ら国政選挙に立候補し、政党政治へ参加するようになると、その政治手法について異論や懸念を記している。

 菅は市川から、市民が政治に参加することの意義や、既存の政治組織に全面的に依存しない選挙の経験を得たと考えられる。しかし、その後の菅は、市川の政治活動をそのまま再現する道を選んだわけではなかった。少数政党に参加し、政界再編を通じて大政党へ移り、党代表として政治組織を率い、連立政権の閣僚として行政権を行使した。市川から影響を受けたことと、市川の政治手法を全面的に継承したことは、区別しなければならない。

 ただし、両者の政治的な違いを、師への反逆や理念からの離反といった単純な関係として描くことも適切ではない。市川が1976年から1977年にかけて菅の活動を批判していたことは確認できるが、そのことだけから両者の人間関係全体や、菅の生涯にわたる政治理念の変化を断定することはできない。政治家同士の関係には、個人的な信頼、政治理念への共感、選挙手法への評価、組織との距離など、異なる側面が存在する。

 むしろ市川と菅の関係から読み取れるのは、市民運動の理念を政党政治の中で実現しようとするときに生じる問題である。政治の浄化や市民参加を重視する理念と、選挙に勝ち、議席を増やし、政権を獲得するための活動は、必ずしも同じ方法によって実現できるわけではない。菅は市川の選挙を通じて政治参加の可能性を学びながら、後には市川が批判した面もある政党組織や選挙戦略を通じて、自らの政治的影響力を拡大していったと理解できる。

「市川房枝の弟子だから総理になった」のではない

 菅直人が総理大臣まで上り詰めた理由を、市川房枝の信頼や後援だけによって説明することはできない。市川との関係が政治的出発点として重要だったことは確かだが、市川自身が菅を無条件に政治的後継者として支持していたわけではないことも、当時の記録からうかがえる。菅の政治人生は、市川の理念をそのまま受け継いだ人物の成功というより、市民運動を出発点としながら、選挙と政党政治の中で独自の経路を歩んだ人物の事例として理解する方が適切である。

 菅が首相に到達できた要因を整理するなら、若い時期に市民参加型の選挙実務を経験したこと、三度の落選後も国政への挑戦を続けたこと、少数政党に参加して組織政治の経験を積んだこと、国会で行政制度の具体的な問題を追及したこと、厚生大臣として薬害エイズ問題への対応に関与したこと、政界再編を通じて民主党の指導者となったこと、そして2009年の政権交代後に副総理・財務大臣として首相後継候補になり得る地位を占めていたことが挙げられる。

 これらの条件は、いずれも単独で首相就任を保証するものではなかった。菅と同様に長く国会議員を務めた人々や、閣僚経験、党代表経験を持つ人々の中にも、首相にならなかった政治家は数多く存在する。菅の場合は、長年の政治活動によって形成された地位と、民主党の政権獲得、さらに鳩山首相の退陣という特定の政治状況が結びついたことで、2010年の首相就任が実現したのである。

 1974年、市川房枝を国会へ戻すための選挙活動に取り組んでいた27歳の青年が、36年後には自ら国会から内閣総理大臣に指名される立場になった。この事実だけを取り出せば、市民運動の可能性を象徴する成功物語にも見える。しかし、その36年間を丁寧にたどれば、そこには三度の落選、選挙基盤の形成、政党再編、行政問題への対応、党代表辞任、政権交代、党内政治という、複雑な過程が存在していた。

 菅直人の政治人生から読み取れるのは、市民運動家であっても政治権力の中心へ進むことができるという事実だけではない。政治理念を実際の政策へ結びつけようとすれば、選挙で支持を得ること、政党を組織すること、行政機関を動かすこと、そして政治的な妥協や対立に対応することが避けられないという現実である。

 市川房枝から受け継いだものと、市川房枝とは異なる道を選んだこと。その両方が菅の政治人生を形づくる一部となった。ただし、どの要因が首相就任にどの程度寄与したのかを厳密に確定することはできず、市川が若い菅に感じた違和感が、その後の政治的成功を予見していたと解釈することもできない。

 菅直人が総理大臣になれたのは、清廉な市民運動家だったからでも、市川房枝の弟子だったからでも、単に野心と粘り強さを持っていたからでもない。市民運動、国政選挙、議会活動、行政、政党再編という異なる政治の仕組みの中で活動を続け、政権獲得可能な政治組織の中心に位置するまでに至ったこと、そして首相を選出する政治的な機会が生じたことが重なった結果だった。

 その意味で、菅の政治人生は、一人の人物の立身出世物語にとどまらない。市民が政治へ参加することと、現実に政治権力を獲得して行使することの間に、どのような条件と困難が存在するのかを考えるための、一つの具体的な歴史事例なのである。

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 1998年7月24日、自民党総裁選挙の結果が出た。小渕恵三225票、梶山静六102票、小泉純一郎84票。投票総数411票のうち小渕が54.7%を獲得し、他の二人を引き離して第18代自民党総裁に選ばれた。三人のなかで最も強烈な印象を与える人物が勝ったわけではなかった。この総裁選をめぐって、田中眞紀子は三人を「凡人・軍人・変人」と評した。軍人は旧陸軍航空士官学校出身で政策への強いこだわりを持つ梶山、変人は党内の慣例にとらわれず持論を唱える小泉、そして凡人が小渕だった。

 この言葉はあまりに分かりやすかったため、三人の政策や党内での立場以上に後世へ残った。しかし、考えてみれば「凡人」という呼び名には奇妙なところがある。本当に平凡なだけの政治家が、日本最大の政党の総裁となり、内閣総理大臣にまで到達できるものだろうか。しかも小渕が勝利したのは、単なる人気投票ではなく、長い歴史を持つ自民党の権力構造のなかで行われた選挙だった。

 小渕は総裁選に突然現れた無名の政治家ではない。1963年に26歳で衆議院議員に初当選して以来、35年間にわたって国会に議席を持ち続け、竹下内閣では官房長官として新元号「平成」を発表した。その後も自民党幹事長、党副総裁、有力派閥の会長、橋本内閣の外務大臣などを経験していた。国民から見れば柔和な「平成おじさん」であっても、永田町の内部から見れば、自民党政治の中心部を長く歩いてきた人物だったのである。

 だから小渕を理解するには、「凡人なのに総理になった」という物語から離れた方がよい。むしろ興味深いのは、これほど長く権力の中心にいた政治家が、なぜ最後まで「凡人」に見え続けたのかということである。その問いを考えるには、個人の性格だけでなく、選挙制度、世襲地盤、派閥の力関係、党内での人間関係、そして1998年という時代の条件を重ね合わせる必要がある。

巨人二人のいる選挙区から始まった

 小渕恵三の政治家人生には、最初から有利な条件があった。父の小渕光平は衆議院議員であり、その政治地盤を引き継ぐ形で1963年の衆議院議員総選挙に出馬したからである。したがって、小渕は明らかな世襲政治家であり、「何も持たない普通の青年が努力だけで総理へ上り詰めた」という成功物語にしてしまうのは正確ではない。

 しかし、受け継いだ地盤がそのまま安泰を意味したわけでもなかった。小渕が初当選した旧群馬3区には、すでに福田赳夫と中曽根康弘がいた。後に二人とも総理大臣となる政治家である。1963年の選挙で福田は9万5378票、中曽根は8万4504票を獲得したのに対し、新人の小渕は4万7350票だった。それでも小渕は定数4の選挙区で3位に入り、26歳で初当選を果たしている。

 ここで重要なのは、当時の選挙制度である。旧群馬3区は、一つの選挙区から複数の議員を選ぶ中選挙区だった。現在の衆議院小選挙区のように、福田、中曽根、小渕のうち一人だけが当選する仕組みではない。同じ自民党の候補者同士が競争しながら、それぞれ異なる後援会や支持組織によって議席を確保することが可能だった。小渕の初当選は、福田や中曽根を打ち負かしたことを意味するものではなく、有力な先輩議員が存在する選挙区のなかで、自分の当選に必要な支持基盤を維持できたことを示している。

 これは、その後の小渕の政治人生を考えるうえで示唆的である。自分より目立つ人物が周囲にいても、必ずしもその人物を倒す必要はない。自分の支持者を確保し、選挙区で議席を守り、党内での立場を少しずつ高めていく方法もある。ただし、1963年の当選という事実だけから、当時の小渕がすでに優れた調整能力を持っていたと断定することはできない。父から継承した後援会や地域の政治的関係も、当選を支えた重要な条件だったと考えるべきだろう。

 政治では、目立つことと生き残ることは同じではない。演説がうまい政治家が必ず選挙に強いわけではなく、政策に詳しい政治家が必ず党内で多数派を形成できるわけでもない。とりわけ当時の自民党では、選挙区で支持を積み、派閥のなかで信用を得て、他派閥との関係を維持し、人事や選挙をめぐる長い交渉のなかで自らの位置を高めていくことが、権力への重要な経路だった。小渕が政治人生を通じて蓄積したものは、まさにそうしたテレビには映りにくい政治的な資源だった。

小渕は「突然出世した」のではない

 小渕の経歴を時系列で眺めると、総理就任までの道筋が長い時間をかけて形成されていたことが分かる。若くして一気に党内中枢へ駆け上がった小沢一郎とも違い、後に世論の支持を背景に党内秩序を揺さぶった小泉純一郎とも違う。小渕の政治人生には、選挙で当選回数を重ね、党内の役職を経験し、その時間そのものを政治的な資産へ変えていく過程があった。

 田中角栄の流れをくむ派閥で経験を積み、1979年には第2次大平内閣で総理府総務長官兼沖縄開発庁長官として初入閣した。1987年には竹下派の結成に参加して事務総長となり、同年11月の竹下内閣発足に伴って官房長官に就任する。国民にとって最も鮮烈だったのは、1989年1月7日に「平成」と書かれた額を掲げた場面だったが、それは小渕にとって政治人生の頂点ではなく、すでに党内中枢に入っていたことを示す一つの出来事だった。

 その後も1991年に自民党幹事長、1994年に党副総裁、1997年には橋本内閣の外務大臣となった。党の選挙や組織運営に関わる幹事長、党内の重鎮として位置づけられる副総裁、政府の外交政策を担当する外務大臣では、それぞれ求められる役割が異なる。小渕はそうした役職を経験することによって、単に当選回数の多いベテラン議員というだけではない立場を築いていた。

 そして1992年、小渕の政治人生を大きく変える出来事が起きる。巨大な竹下派では、金丸信の失脚後、派閥の主導権をめぐって激しい対立が生じていた。小沢一郎らは羽田孜を推し、それに対抗する勢力は小渕を推した。この後継争いの背景には、竹下登を中心とする勢力、参議院側を含む派閥内の力関係、小沢の政治手法への警戒など、複数の要因があった。

 ここで重要なのは、小渕が派閥会長になったことを「温厚な人柄が評価されたから」とだけ説明しないことである。小渕自身の信用や交渉能力が意味を持ったとしても、その地位は派閥内の組織的な支持と権力関係のなかで形成された。派閥の指導者は、人柄がよいという理由だけで選ばれるものではない。誰を会長にすれば組織を維持できるか、どの政治勢力が主導権を握るかという判断が、そこには存在していた。

 結果として竹下派は分裂し、羽田・小沢系の議員たちは別の政治集団を形成した。一方、小渕は竹下派の主要部分を引き継ぎ、自民党内の有力派閥を率いる政治家となった。これは小渕にとって大きな政治的資産となったが、同時に「敵をつくらない政治家」という評価を考え直す材料でもある。小渕は対立のない世界で出世したのではなく、激しい権力闘争の当事者として、組織の分裂と再編を経験していたのである。

「凡人」の背後には巨大派閥があった

 小渕が1998年の総裁選で勝利した理由を考えるとき、最も重要な条件の一つが派閥の組織力である。当時の小渕派は90人前後の国会議員を抱える自民党最大級の派閥であり、小渕はその会長だった。この事実を抜きにして「人柄がよかったから225票を取った」と説明すれば、小渕政治の核心を見誤ることになる。

 自民党総裁選挙は国民による直接選挙ではない。しかも1998年の選挙は、現在の党員参加型の総裁選挙とも仕組みが異なり、党大会に代わる両院議員総会で実施された。投票したのは自民党所属の衆参両院議員と都道府県代表であり、国会議員票が圧倒的な比重を持っていた。そのため、国民的な知名度やテレビでの人気よりも、党内でどれだけの支持を組織できるかが選挙結果に強く影響する制度だった。

 実際の得票数を計算すると、小渕は411票中225票で54.7%、梶山は102票で24.8%、小泉は84票で20.4%だった。小渕は過半数を確保して明確に勝利したものの、残る二人の合計も186票に達していた。つまり、党内の支持が小渕に圧倒的に集中していたわけではなく、かなりの議員が別の候補者を支持していたことになる。

 また、小渕派が大きかったからといって、その所属議員全員が小渕に投票したと考えることもできない。対立候補の梶山静六自身が小渕派に属していた有力政治家であり、総裁選への出馬に際して派閥を離れていたからである。そこには政策判断や党内での立場をめぐる対立があり、派閥が一枚岩だったわけではない。派閥の所属人数と、実際に候補者が獲得できる票数は区別して考えなければならない。

 仮に小渕派の勢力を94人と置き、全員が小渕に投票したと想定しても、225票を獲得するには派閥外から少なくとも131票が必要になる。これは実際の投票内訳を示す数字ではなく、派閥の規模から考えた単純な計算にすぎない。それでも、小渕の勝利が自派閥の人数だけでは説明できず、宮澤派など他の政治勢力からも支持を獲得する必要があったことは理解できる。

 したがって、小渕の勝利を説明するには二つの条件を区別する必要がある。一つは、長い政治生活の末に自民党最大級の派閥を率いる位置まで到達したという組織的な条件である。もう一つは、その基盤の上で他派閥の支持を取り込み、総裁選の過半数を形成したという党内政治の条件だった。大派閥を持つことは有利だが、それだけで総裁選に勝てるわけではない。小渕は自らの組織基盤を持ちながら、党内の支持を過半数へ広げる位置にいたのである。

「敵をつくらない」は弱さだったのか

 強い政治家という言葉を聞くと、私たちはしばしば決断力のある人物を想像する。反対を押し切り、大胆な改革を打ち出し、敵と味方を鮮明にし、自らの理念に政治を引き寄せていくタイプである。しかし、その強さには代償もある。熱烈な支持者をつくる政治家は、同時に強い反対者を生みやすいからである。

 小渕は一般に、こうした対決型の政治家とは異なる人物として評価されてきた。相手を論破して自分を大きく見せるよりも、話を聞き、電話をかけ、関係を切らない。総理になった後には、本人がさまざまな人へ直接電話することから「ブッチホン」という言葉まで生まれた。これは庶民派の印象を与える政治的な演出でもあったが、小渕が対話や人間関係を重視する政治家として知られていたことも表していた。

 中曽根康弘が小渕を「真空総理」と評したことも、こうした人物像と関係している。この表現には、何を目指す政治家なのか輪郭が見えにくいという批判的な意味がある一方、真空であるからこそ多くのものを吸収できるという肯定的な意味も含まれていた。政治において自己主張の輪郭が薄いことは、常に弱点とは限らない。異なる立場の政治家が近づく余地を残し、自分が排除されるのではないかという警戒心を相手に抱かせにくくする場合があるからである。

 ただし、ここで「小渕は敵をつくらなかったから総理になれた」と断定することはできない。1992年の竹下派分裂は深刻な権力闘争だったし、1998年の総裁選でも梶山との対立が表面化している。小渕の政治人生が対立と無縁だったわけではない。より正確には、対立を経験しながらも、他の勢力との交渉や協力の可能性を維持しようとする政治手法を重視した人物と捉えるべきだろう。

 そして、因果関係を逆転させないことも重要である。小渕はもともと凡人だったから調整型になったのではなく、自民党という巨大な組織のなかで何十年も生き残る過程で、相手を不用意に刺激せず、対立を必要以上に広げず、関係をつなぎ続ける政治手法を発達させた可能性がある。その結果として、外からは「凡人」に見える政治家になったのかもしれない。

 もちろん、これは小渕の行動や経歴から考えられる解釈であって、性格が形成された過程を直接証明するものではない。しかし、政治家の能力を演説の巧みさや政策の独創性だけで測ることができないという点では、重要な見方を示している。大きな組織では、他人を従わせる力だけでなく、立場の違う人間を同じ方向へ動かす力も政治的な能力となるからである。

1998年という時代が小渕を押し上げた

 1998年、小渕に総理への機会が訪れた背景には、日本政治そのものの危機があった。日本経済はバブル崩壊後の長い停滞から抜け出せず、1997年には北海道拓殖銀行が経営破綻し、山一證券が自主廃業するなど、金融システムへの不安が深刻化していた。景気後退によって企業活動や雇用環境にも厳しさが増し、橋本龍太郎政権の経済運営への批判が高まっていた。

 1998年7月12日の参議院議員通常選挙で、自民党は改選議席を大きく減らして敗北した。橋本はその責任を取って退陣を表明し、後継総裁を決める選挙が行われることになった。そこで立候補したのが小渕、梶山、小泉の三人である。小渕の総裁選勝利は、本人の長い政治経験だけでなく、橋本退陣によって総裁の地位が空いたという政治的な機会があって初めて実現した。

 後の歴史を知る私たちから見ると、小泉純一郎の方がはるかに強い政治的な個性を持つ人物に見えるかもしれない。実際、わずか3年後の2001年、小泉は国民的な人気と地方からの支持を背景に総理大臣となる。しかし、1998年と2001年では総裁選の制度や党内の政治状況が異なっていた。2001年には都道府県連の票の比重が拡大され、地方の支持を集めることの意味が大きくなっていたのに対し、1998年には国会議員を中心とする党内支持の形成が、より直接的に勝敗を左右する仕組みだった。

 この制度のなかで見ると、小渕の35年間は単なる長い経歴ではなくなる。選挙を繰り返して議席を守り、派閥内で地位を高め、官房長官、幹事長、副総裁、外務大臣を経験し、巨大派閥の会長となり、他派閥との関係も築いてきた。それらの経験や組織的な立場が、総裁選で支持を集めるための政治的資産となったのである。

 ただし、ここでも結果から原因を単純に決めつけることはできない。小渕が最も優れた政策を掲げていたから勝ったと証明することも、調整型の性格だけで勝ったと証明することもできない。確認できるのは、小渕が大きな派閥基盤を持ち、他派閥の支持も獲得し、当時の選挙制度の下で過半数の票を集めたという事実である。その事実と、人物の性格や能力についての解釈は区別する必要がある。

自民党総裁になっても、参議院は小渕を選ばなかった

 小渕の首相就任を考えるうえで、もう一つ見落としてはならないのが日本の憲法制度である。日本の総理大臣は、国民が直接選ぶ大統領とは異なり、国会の議決によって指名される。自民党総裁になれば自動的に総理大臣になるわけではない。

 1998年7月30日の首相指名選挙では、この制度の特徴が明瞭に表れた。衆議院では小渕が497票中268票を獲得し、首相に指名された。しかし、参議院では最初の投票で過半数を得た候補者がなく、小渕と民主党の菅直人による決選投票となった。その結果、菅が142票、小渕が103票となり、参議院は菅を首相に指名したのである。

 衆議院は小渕、参議院は菅という異なる人物を指名したため、両院協議会が開かれたが、意見は一致しなかった。最終的には、日本国憲法第67条第2項に定められた衆議院の優越によって、衆議院が指名した小渕が第84代内閣総理大臣となった。

 この事実は、小渕の首相就任を個人の人柄や党内の支持関係だけで説明できないことを示している。小渕が自民党総裁選に勝ったことは首相就任の重要な条件だったが、最終的に首相となることを可能にしたのは、衆議院の議席構成と憲法上の制度でもあった。政治家の権力は個人の能力だけによって生まれるものではなく、所属する政党、議会の多数派、憲法や選挙制度といった条件によって形づくられるのである。

 また、参議院が小渕とは別の人物を首相に指名したという事実は、政権発足後の困難を予告していた。小渕は総理の座を手に入れたものの、国会の両院を自民党単独で安定的に支配していたわけではなかった。総理就任後には、総裁選で勝つための党内政治とは異なる、国会全体で合意を形成する能力が問われることになった。

「凡人」の政治は総理になってから試された

 総理大臣になれば、派閥の力だけで政治を動かせるわけではない。むしろ小渕にとって本当の試験はそこから始まった。自民党は参議院で単独過半数を持っていなかったため、政府提出法案を成立させるには、野党の協力や連立による議席の確保が必要だった。

 とりわけ金融危機への対応では、与野党の激しい対立が続いた。金融機関の破綻処理や不良債権問題への対応を急がなければならなかった一方、政府・与党の当初案だけでは国会で十分な支持を得られなかった。1998年の金融再生法をめぐる協議では、政府・与党側が民主党など野党側の案を大幅に受け入れる形で合意が形成された。

 これは、危機対応のために政治的な妥協が必要だったことを示す出来事である。ただし、その合意をすべて小渕個人の調整能力による成果とみなすことはできない。野中広務官房長官をはじめ、与野党の交渉担当者や金融政策に関わる議員たちが重要な役割を果たしていた。政治的な成果は総理個人の意思だけで生み出されるのではなく、政党組織や政府内部の交渉によって形成される場合も多い。

 その後、小渕政権は政権基盤を安定させるため、連立へ向かっていく。1999年1月には小沢一郎率いる自由党との連立を成立させ、同年10月には公明党を加えた自民党・自由党・公明党の三党連立政権を発足させた。これは単に小渕の人柄が評価されたから実現したものではなく、参議院の議席構成、政策上の妥協、各党の政治的な利益が重なった結果だった。

 興味深いのは、1992年の竹下派分裂で小渕と対立する側にいた小沢一郎が、後に小渕政権の連立相手となったことである。政治の世界では、一度対立した相手と将来も協力できないとは限らない。異なる時期に異なる政策課題や議席上の条件が生じれば、かつての対立相手との協力にも合理性が生まれる。小渕の政治を考える際には、こうした関係の変化を理解する必要がある。

 もっとも、「1998年には小渕のような政治家でなければならなかった」とまで言うことはできない。仮に梶山や小泉が総理となっていた場合、どのような政策や連立が実現したかを確定することは不可能である。歴史上の出来事は、比較政治史や反実仮想によって別の可能性を分析することはできても、同じ条件で再実験することはできない。ただ、参議院で単独過半数を持たず、金融危機への対応を迫られていた当時の状況は、小渕が長年培ってきたとされる調整型の政治手法が機能しやすい条件を備えていたと考えることはできるだろう。

調整型政治には、当然ながら代償もある

 ここまで書くと、小渕が実は優れた名宰相だったという話に聞こえるかもしれない。しかし、それもまた単純化である。政権を獲得する能力、与野党の合意を形成する能力、そして国民生活にとって望ましい政策成果を実現する能力は、同じものではないからである。

 小渕政権は景気悪化と金融危機に対応するため、大規模な公共事業や減税を含む積極的な財政政策を進めた。金融システムの安定化と景気の下支えが重要な課題だったことは確かだが、財政支出の拡大と減税には国債発行の増加という負担も伴った。国の一般会計における公債発行額は、1997年度の約18.5兆円から1998年度には約34.0兆円、1999年度には約37.5兆円に増加している。1997年度と1999年度を比較すると約2倍の水準であり、公債残高も同じ期間に約258兆円から約332兆円へ増えた。

 ただし、こうした財政悪化のすべてを小渕政権固有の政策判断に帰属させることは正確ではない。1998年度の途中までは橋本政権であり、景気後退による税収減少や、それ以前から継続していた財政政策も影響している。また、国債発行額が増加したという事実だけで、当時の財政出動が不必要だったと結論することもできない。深刻な不況のなかで政府支出を増やすことには、経済活動の急激な落ち込みを抑えるという目的があったからである。

 実際、1998年度に大きく落ち込んだ日本経済は、その後、緩やかな回復局面へ移っていった。もっとも、その変化には財政政策だけでなく、金融危機への対応、海外経済の回復に伴う輸出の増加、民間企業の活動など、複数の要因が関係していた。景気が回復したという事実だけから、小渕政権の財政政策の効果を単独で測定することはできない。さらに、経済成長率の改善が直ちに雇用情勢の改善につながったわけでもなく、1998年の完全失業率4.1%は1999年には4.7%へ上昇していた。

 したがって、小渕政権の経済政策は、金融危機への対応、景気の下支え、雇用への影響、財政負担という複数の観点から評価する必要がある。財政赤字が増えたから失敗だったという評価も、景気が持ち直したから成功だったという評価も、それだけでは十分ではない。政策がなかった場合と比較してどの程度の効果があったのか、短期的な経済安定と長期的な財政負担をどう評価するのかという問題が残るからである。

 調整型政治には、経済政策とは別の弱点もある。多くの勢力との妥協を重ねれば政策の輪郭は薄くなり、何を実現する政権なのかが分かりにくくなる場合がある。対立を避ける政治は合意を生みやすい一方、問題の根本的な解決を先送りする危険もある。特に、利害関係の強い集団が多数存在する場合には、それらの要求を調整すること自体が政策の目的になり、本来必要な制度改革が遅れる可能性も否定できない。

 だから小渕政治を評価するときには、「強い指導力が見えにくかった」という批判も、「合意形成に適した政治家だった」という評価も、どちらか一方だけを採用する必要はない。両方が同時に成り立つ可能性がある。ただし、そのどちらが実際にどの程度の政策成果につながったかを判断するには、具体的な政策ごとの検証が必要となる。

「凡人」と呼ばれた政治家の能力は何だったのか

 小渕恵三の政治人生を振り返ると、私たちが一般に思い浮かべる政治家の能力と、実際に組織のなかで権力を形成する能力との違いが見えてくる。

 私たちは政治家を評価するとき、演説の鋭さ、政策の大胆さ、知名度、カリスマ性、討論の強さといった目につきやすい能力に注目する。しかし、大きな政党の内部では、それだけで指導者が決まるわけではない。選挙区で議席を守れるか、党内で信頼を得られるか、他派閥との交渉ができるか、対立する集団の間で妥協点を見つけられるか、長い時間をかけて自分を支える組織を形成できるかという能力も、政治的な地位を左右する。

 小渕が持っていた重要な資産は、長年の選挙経験、党内要職の経験、派閥の組織基盤、他の政治家との関係、交渉の経験などが重なったものだったと考えられる。これらは一つの数字で測定できるものではないが、総裁選の得票や党内での地位という形で、その一部が観察できる。小渕の政治人生で蓄積されたものを一言で表すなら、「見えない政治資本」と呼ぶことができるだろう。

 ただし、この政治資本を小渕個人の能力だけで説明することも適切ではない。父から受け継いだ選挙地盤があり、田中角栄や竹下登の流れをくむ派閥の組織があり、党内実力者の支持もあった。小渕自身の努力や政治手法が意味を持ったとしても、それらが機能したのは、当時の自民党が持っていた組織構造や制度のなかだった。小渕の成功は、個人の能力と、本人が利用できた政治的資源との相互作用によって生まれたものと考える方が合理的である。

 ここでも注意すべきなのは、首相になったという結果から、逆向きに能力を証明してしまうことである。総理大臣になった人物だから優れていたと考えるのも、総理大臣になれなかった人物だから能力が劣っていたと考えるのも、論理としては成り立たない。政治家の出世には本人の能力だけでなく、選挙制度、政党内の競争、経済情勢、政治的な機会、偶然の出来事などが影響する。小渕が225票を獲得したという事実は確認できても、そのうち何票が本人の人柄や調整能力によるものだったのかを正確に算出することはできない。

 したがって、「凡人に見えたことが最大の政治的武器だった」という見方は、興味深い解釈ではあっても、直接証明された事実ではない。それでも、小渕の経歴と1998年の総裁選の構造を見れば、派手な政治的個性を持たないことが、必ずしも権力形成に不利とは限らないことは理解できる。政治組織のなかでは、他人より目立つ能力と、他人から支持を得る能力が必ずしも一致しないからである。

総理になった理由は「凡人だったから」ではない

 では、小渕恵三はなぜ総理大臣まで上り詰めたのか。その答えを一つの性格に求めることはできない。父から受け継いだ選挙地盤があり、26歳という若さで国会へ入り、35年間にわたって議席を守り続け、田中・竹下系の巨大派閥のなかで地位を高め、竹下登ら党内実力者の支持を背景に派閥会長となり、最終的には自民党最大級の派閥を率いた。その組織力を基盤に他派閥からも支持を集め、そこへ人間関係を重視する調整型の政治手法が重なり、さらに橋本退陣という政治的機会が訪れた。

 そして、1998年の自民党総裁選が国会議員を中心とした選挙制度で行われたことも、小渕の持つ組織的資源を生かす条件となった。小渕は411票中225票を獲得して自民党総裁となり、衆議院の多数派による首相指名と憲法上の制度を通じて、内閣総理大臣に就任したのである。そこには個人の政治的能力だけでなく、選挙制度、政党組織、議会の議席構成という制度的な条件も関係していた。

 世襲、選挙、派閥、組織、人脈、経験、性格、制度、そして時代。小渕恵三を総理にしたのは、そのどれか一つではなく、それらが長い時間をかけて重なった結果だった。

 だから小渕の人生を、「普通の人でも努力すれば総理になれる」という美談として読むのは適切ではない。むしろこの人物が示しているのは、政治における能力という言葉の意味が、私たちがテレビ越しに見る能力とはかなり違うということである。

 梶山には「軍人」という輪郭があり、小泉には「変人」という輪郭があった。それに比べて小渕には、一言で説明できるほど鮮烈な政治的個性が見えにくかった。だから「凡人」と呼ばれた。しかし、巨大な組織のなかでは、輪郭が鋭くないことが、かえって異なる立場の人々を自分の周囲に残す条件となる場合もある。自分の主張を強く打ち出す能力と、多くの人間の協力を引き出す能力は、必ずしも同じではない。

 そして、もう一つ考えておくべきことがある。小渕は凡人だったから調整型政治家になったのではなく、何十年にもわたって組織のなかで経験を積み、調整型の政治手法を身につけた結果、凡人に見えるようになったのではないかということである。もしそうなら、「凡人」という評価は小渕恵三という政治家の弱点を言い当てた言葉であると同時に、彼が長年培ってきた政治的な技術を見落とした言葉でもあったことになる。

 1998年、自民党が総裁に選んだのは、最も強烈な政治的個性を持つ人物ではなかった。しかし、目立たなかった人物が偶然最後に残ったわけでもない。長い歳月をかけて巨大な組織の中心へ近づき、選挙地盤と派閥の支持基盤を維持し、他の政治勢力との関係を築き、その時が来たときには党内の過半数を形成できる位置にいた人物が、最後に225票を集めたのである。

 「凡人が総理になった」という言葉だけでは、この歴史の本質を十分に説明できない。

 小渕恵三は、首相になるための政治的資源を長年にわたって蓄積し、組織と制度の条件が重なったとき、その資源を権力へ結びつけることができた政治家だった。

 そして、その複雑な政治過程を歩んできた人物が、最後まで「凡人」に見えていたのである。

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 昭和の政治家には、平成以降の政治家とはどこか異なる空気がある。それは政策や政治手法の違いだけではなく、政治家自身が国家の歴史を背負っているかのように振る舞い、ときには自分の人生と日本という国の歩みを重ね合わせながら政治を語ったことに由来するのかもしれない。その意味で、中曽根康弘ほど「昭和の政治家」という言葉が似合う人物は少ない。大正に生まれ、戦争と敗戦を経験し、戦後間もなく国政へ入り、高度経済成長と冷戦の時代を駆け抜け、昭和の終わりが近づいた1980年代に総理大臣として政権の頂点に立った彼の人生をたどると、そこには一人の政治家の成功物語というより、日本の戦後政治そのものが映し出されている。

 中曽根はしばしば「大統領型首相」、政治学的には「大統領的首相」と評される。もちろん、日本は大統領制ではなく議院内閣制の国であり、中曽根が総理大臣になったことで憲法上の制度が変わったわけではない。彼が変えようとしたのは、総理大臣という職の制度上の位置づけだけではなく、その職が持つ政治的な可能性だった。それまでの自民党政治では、総理大臣は派閥や党内有力者、官僚組織、業界団体などの利害を調整し、その均衡の上に立つ存在であることが多かった。これに対して中曽根は、総理自身が国家の進む方向を示し、国民に直接語りかけ、世論の支持を政策推進の力に変えながら、党と行政組織を動かしていく政治を重視したのである。

 ただし、大統領的首相という言葉には注意が必要である。首相の政治的指導力を強めることと、国民が首相を直接選ぶ制度を導入することは同じではない。中曽根は若いころから首相公選論を提唱していたが、実際に首相となってからは、議院内閣制の枠組みを維持しながら、政策構想力、世論への働きかけ、首脳外交などを通じて政治的指導力を発揮しようとした。この二つの側面を区別して考えることが、中曽根政治を理解するうえで重要になる。

 また、中曽根が強い首相を求めた理由を、戦争体験や個人的な権力欲だけで説明することも適切ではない。そこには、戦後の政治制度に対する問題意識、派閥政治の現実、行政改革の必要性、経済大国となった日本の国際的な立場など、複数の要因が重なっていた。中曽根の人生を振り返ることは、なぜ彼が大統領的首相を目指したのかという問いと同時に、戦後日本の議院内閣制がどのような限界と可能性を持っていたのかを考えることでもある。

敗戦を知る青年が、戦後政治の中へ入っていった

 中曽根康弘は1918年5月27日、群馬県高崎市に生まれた。東京帝国大学法学部を卒業して内務省に入省した後、海軍に入り、太平洋戦争を経験している。終戦時には海軍主計少佐となり、戦後は内務省で勤務した後、1947年4月25日の第23回衆議院議員総選挙で初当選した。日本国憲法が施行されたのは、その8日後の5月3日である。中曽根は新憲法の施行を目前に国会議員となり、28歳から2003年まで、56年余りにわたって衆議院議員を務めることになった。

 この経歴には、中曽根という政治家を理解するうえで重要な特徴がある。彼は戦後に国政へ入った人物でありながら、人格形成の時期を戦前の日本で過ごし、国家の敗北を軍人として経験した世代だった。それまで正統性を持つと考えられていた国家の制度が敗戦によって大きく変わり、連合国軍の占領政策の下で新しい憲法と政治制度が形成されていく過程を、青年期に目撃している。その経験が、国家の独立、憲法、安全保障、政治的指導力に対する彼の関心を深めた可能性は十分にある。ただし、戦争体験と特定の政治思想を単純な因果関係で結びつけることはできず、その後の発言や政治行動と合わせて検証する必要がある。

 中曽根は戦後、自主憲法制定や自主防衛を唱える政治家として知られるようになった。しかし、彼を戦前の国家体制への回帰を求めた政治家とだけ理解すると、その政治思想の重要な部分を見落とすことになる。後に掲げた「戦後政治の総決算」についても、中曽根自身は、戦後日本が平和、民主主義、基本的人権の尊重、経済的繁栄などの面で達成した成果を認めていた。そのうえで、戦後40年近くを経て生じた制度のひずみを見直し、次の時代にふさわしい国家運営を目指すという説明をしている。

 もちろん、本人が掲げた理念と実際の政策の評価は別問題である。憲法改正や防衛力整備を重視する姿勢が、戦後日本の平和主義や立憲主義にどのような影響を与えるのかについては、当時から賛否が分かれていた。それでも、中曽根が戦後体制の全面的な否定ではなく、戦後の成果を前提とした制度の再編を政治目標として説明していたことは、彼の思想を理解するうえで欠かせない。

若き中曽根が考えた「首相を国民が選ぶ政治」

 中曽根の大統領的首相という構想の源流を探ると、少なくとも1960年代初めまでさかのぼることができる。1962年に刊行された『首相公選論~その主張と批判』には、中曽根自身による「首相公選論の提唱」が収録されており、彼が首相になる20年も前から、総理大臣と国民との関係を見直す構想を持っていたことが分かる。この提案は単なる思いつきではなく、戦後の議院内閣制や政党政治のあり方を問い直そうとする議論の一部だった。

 日本国憲法第67条は、内閣総理大臣を国会議員の中から国会の議決によって指名すると定めている。また、第66条は内閣の国会に対する連帯責任を規定し、第69条は衆議院の不信任決議と内閣の存立を結びつけている。したがって、国民が直接投票で選んだ人物を、国会の指名に代えて首相に就任させる制度を導入するのであれば、憲法改正が必要になる。一方、国民投票などで示された民意を踏まえ、最終的な首相指名は国会が行うという方式であれば、制度設計の余地はあるものの、国会の判断と国民投票の結果が食い違った場合にどうするのかという問題が残る。

 首相公選論が持つ根本的な難しさは、民主的な正統性と議院内閣制の責任構造との関係にある。国民から直接選ばれた首相が、国会多数派とは異なる政治的立場を取った場合、首相は国民の支持を根拠として政策を進めようとする一方、国会は内閣に対する信任や法案審議を通じて政策を統制しようとする可能性がある。指導者を国民が直接選ぶという制度には魅力があるが、それだけで政治責任が明確になり、政策決定が円滑になるとは限らないのである。

 当時の自民党政治に目を向ければ、中曽根がこうした構想に関心を持った背景も理解しやすい。1955年の保守合同以降、自民党は長期間にわたって政権を担ったが、その内部には複数の派閥が存在し、総裁選挙では派閥の支持や有力政治家同士の協力関係が決定的な意味を持った。総理大臣になるためには、国民から直接選ばれるのではなく、まず党内で権力基盤を確保する必要があった。そのため、首相の政策的な意思と党内の利害調整が必ずしも一致せず、重要な政策の決定に時間がかかることもあった。

 中曽根の首相公選論には、こうした政治のあり方に対する問題意識が反映されていたと考えられる。ただし、彼が派閥政治のすべてを否定していたとみなすことはできないし、首相公選論が単に強力な指導者への憧れから生まれたと断定することも適切ではない。むしろ、国民の意思を政治の中心にどのように反映させるのか、政策の最終的な責任を誰が負うのかという問題が、彼の構想の根底にあったと考える方が妥当だろう。

「風見鶏」と呼ばれた男は、本当に信念がなかったのか

 中曽根には長い間、「風見鶏」という呼び名がついて回った。政治状況によって立場を変え、時の権力者と巧みに関係を築く姿が、風向きによって向きを変える風見鶏のように見えたからである。岸信介、佐藤栄作、田中角栄らが自民党政治の中心にいた時代、中曽根は科学技術庁長官、運輸大臣、防衛庁長官、通商産業大臣、自民党幹事長、行政管理庁長官などを歴任しながら、政界の中心近くに居続けた。自らの派閥を率いながらも、党内最大勢力を形成するには至らず、他の有力政治家との協力や妥協を重ねて総理の座に近づいていったのである。

 しかし、「風見鶏だったから信念がなかった」と結論づけることは、中曽根の政治行動を十分に説明しない。自主憲法制定や行政改革、首相の政治的指導力などについて、彼は長期にわたって一定の方向性を示していた。その一方で、具体的な政局では自らの主張を前面に出すことよりも、政権への参加や政策実現の機会を確保することを優先した場合があった。この二つの性質は必ずしも矛盾しない。政治家が長期的な目標を実現するためには、理念を主張するだけでなく、実際の政治制度の中で権力を獲得し、支持を広げる必要があるからである。

 もっとも、その姿勢を常に現実主義として肯定できるわけではない。政治的妥協が政策実現のための合理的な手段になる場合もあれば、権力維持そのものを優先した行動に見える場合もある。中曽根の個々の判断を評価するには、その時点でどのような選択肢があり、何を優先し、結果としてどのような政治的効果が生じたのかを検討しなければならない。信念を持つ政治家だったという評価と、権力獲得に巧みな政治家だったという評価は、同時に成り立つのである。

 1982年11月、中曽根が総理大臣に就任したとき、その権力基盤には田中角栄の存在が大きく影響していた。当時の田中はロッキード事件の刑事被告人でありながら、自民党内に強大な勢力を保持しており、その支援を受けて成立した中曽根政権は「田中曽根内閣」「角影内閣」と揶揄された。首相の政治的指導力を重視してきた人物が、実際には党内有力者の支援によって総理の座に就いたという点には、中曽根政治の複雑さが表れている。

 ここで重要なのは、田中派の支援から自立するために中曽根が大統領的首相という構想を考え始めたわけではないことである。首相公選論は1960年代から存在しており、思想の形成は首相就任よりはるかに早かった。しかし、田中派の支援を受けて政権を成立させたという現実が、首相として独自の政治的基盤を築く必要性を一層強く意識させた可能性はある。中曽根にとって、国民世論や政策構想力を自らの力に変えることは、長年の政治思想を実践する手段であると同時に、派閥への依存を相対的に弱める方法にもなり得たのである。

派閥の上に立つには、国民に直接語らなければならなかった

 中曽根政権の特徴の一つは、首相自身が国家の政策課題を分かりやすい言葉で示し、国民に直接説明しようとしたことである。各省庁が政策を立案し、党内で調整されたものを総理大臣が最終的に承認するという従来型の政治運営に対し、中曽根は首相自身が改革の方向を示し、その実現に必要な議論を社会に広げようとした。テレビが政治家の言葉や表情を広く国民に伝える時代になっていたことも、こうした手法を支える条件となった。

 中曽根は首相就任直後から、国民に分かりやすい政治、国民に語りかける政治を重視する姿勢を示していた。さらに、審議会や私的諮問機関に専門家や民間人を登用し、既存の行政組織だけでは生まれにくい議論を政策形成に取り入れようとした。こうした機関は、行政改革や教育改革など、既存制度の見直しを伴う政策で重要な役割を果たした。首相が改革の目標を示し、専門家による議論を経て社会的な関心を高め、政府と与党を動かしていくという方法は、中曽根が大統領的首相と評される理由の一つである。

 ただし、この政治手法には当時から批判が存在した。首相が自らの政策方針に近い人物を審議会などに起用すれば、あらかじめ期待する方向へ議論を誘導する危険がある。また、専門家による政策提言が国会や与党内の慎重な議論よりも優先されれば、民主的な意思決定の過程が不透明になる可能性もある。審議会を活用すること自体は合理的な政策形成手段だが、その人選や議論の公開性、国会による検証のあり方によって、政治的な意味は大きく変わってくる。

 そもそも、日本国憲法の下では、総理大臣が独力ですべての政策を決定できるわけではない。予算や法律の成立には国会の議決が必要であり、内閣は国会に対して責任を負う。さらに、中曽根の時代には、その後の行政改革によって整備される首相官邸の政策調整機能や、現在のような内閣官房を中心とする人事・政策管理の仕組みは十分に発達していなかった。したがって、中曽根が発揮した指導力の相当部分は、制度によって保障された権限というより、政治的な働きかけ、党内調整、世論形成、個人的な交渉能力によって支えられていたと考えられる。

 後年の小泉純一郎政権や安倍晋三政権に見られる官邸主導の政治と、中曽根政治との間には、首相自身が政策の方向を示し、国民に訴えながら政治を進めるという共通点がある。ただし、その後の政権では行政制度や選挙制度も変化しており、首相の持つ制度的な権限や政党との関係は同一ではない。中曽根を後の官邸主導政治の先駆的存在として位置づけることは可能だが、後年の政治手法を中曽根一人が生み出したと考えるのは適切ではないだろう。

行政改革こそ「大統領型首相」を必要とした

 中曽根政治を象徴する最大の内政課題が行政改革だった。ただし、行政改革そのものを中曽根一人が始めたわけではない。第二次臨時行政調査会は1981年3月、鈴木善幸内閣の下で設置され、土光敏夫を会長として行政や財政の見直しを進めていた。中曽根自身も行政管理庁長官として改革に関わっており、首相就任後はそれまでの議論を引き継ぎながら、政治的な実行段階へ進めたのである。

 行政改革の背景には、日本経済と財政の構造変化があった。高度経済成長期には、社会資本の整備や産業育成を通じて政府が経済成長を支える役割を果たしてきたが、1970年代の石油危機以降、経済成長率の低下や財政赤字の拡大によって、従来の政策運営を続けることが難しくなっていた。経済が成熟する中で、官業の効率化、規制の見直し、民間企業の活力の活用、財政負担の抑制などが重要な政策課題として浮上していたのである。

 しかし、行政改革は、一般論として賛成を得やすい一方、具体的な制度変更では多くの利害対立を生み出す。省庁の権限、国会議員の支持基盤、業界団体の利益、労働組合の雇用保障、地域経済への影響などが絡み合うため、関係者全員が一致して賛成する改革は少ない。そのため、首相が改革の優先順位を示し、国会や与党内の議論をまとめ、最終的な政治責任を引き受ける役割には大きな意味があった。

 中曽根政権下では、1985年4月に日本電信電話公社が日本電信電話株式会社へ、日本専売公社が日本たばこ産業株式会社へ移行し、1987年4月には日本国有鉄道の分割・民営化が実施された。とりわけ国鉄改革は、全国に巨大な組織と施設を抱え、多数の職員を雇用し、国家財政や地域交通にも深く関わっていたことから、行政改革の中でも極めて大きな政治的課題だった。

 国鉄の分割・民営化に際して整理対象となった長期債務等は総額約37兆1,000億円に達し、そのうち約11兆6,000億円を新しい事業体が負担し、残る約25兆5,000億円は日本国有鉄道清算事業団に引き継がれた。この数値からも、改革が単なる組織変更ではなく、巨大な債務と公共事業の運営方式を再編する政策だったことが分かる。また、職員の再就職や退職をめぐっても大規模な調整が必要となり、雇用保障や労使関係について深刻な対立が生じた。

 国鉄改革を評価する際には、政治的な実行力と経済的・社会的な成果を分けて考える必要がある。民営化によって経営の効率化やサービス改善が進んだ分野がある一方、長期債務の相当部分は公的な負担として残り、職員の雇用や地方交通の将来にも課題が生じた。鉄道事業の採算性は路線の人口密度や輸送需要に大きく左右されるため、民間経営への移行がすべての地域に同じ効果をもたらすとは限らない。人口の少ない地域では、経営効率と公共交通の維持が衝突する場合もある。

 したがって、国鉄改革が実現したという事実だけから、大統領的な首相の存在が改革の必要条件だったと結論づけることはできない。財政問題の深刻化、国鉄経営の悪化、臨時行政調査会による提言、国会での議論など、複数の要因が改革を後押ししていたからである。ただし、これほど多くの利害関係者を抱える制度変更を実行するうえで、首相自身が明確な方針を示し、政治的な調整を進めたことが重要な役割を果たしたと考えるのは合理的だろう。

 中曽根にとって大統領的首相とは、単に権限の強い指導者を意味したのではなく、複雑な利害対立の中で政策の方向を定め、その実行について国民に責任を負う政治家像だったと考えられる。しかし同時に、強い指導力によって改革を実行することと、その改革が長期的に社会全体の利益を高めたかどうかは別の問題であり、歴史的評価には両方の視点が必要なのである。

「ロン・ヤス」が映し出した、日本という国の変化

 中曽根の大統領的な政治手法が、国内政治以上に分かりやすく表れたのが外交だった。アメリカのロナルド・レーガン大統領との親密な関係は「ロン・ヤス」と呼ばれ、二人の個人的な信頼関係そのものが日米関係の象徴として報じられた。首脳同士が名前で呼び合い、個人的な交流を重ねる姿は、それまでの日本の総理大臣像とは異なる印象を国民に与えた。

 1980年代の日本は、すでに世界有数の経済大国となっていた。しかし、安全保障ではアメリカへの依存が大きく、国際政治における発言力と経済力との間には一定の隔たりがあった。冷戦下で米ソ対立が続く中、日本には経済面だけでなく安全保障や国際協力においても役割の拡大が求められていた。中曽根は日米同盟を外交の基軸に据え、レーガンとの首脳外交を通じて相互の信頼関係を深めながら、日本の国際的な立場を高めようとしたのである。

 もっとも、中曽根外交はアメリカとの関係だけで成り立っていたわけではない。1983年には韓国を訪問して全斗煥大統領と会談し、1984年には中国を訪問して中国指導部との関係強化を図っている。日中関係では経済協力や人的交流が進められ、日韓関係でも歴史的な対立を抱えながら協力関係の拡大が模索された。中曽根が重視したのは、アメリカとの同盟関係を基本としつつ、アジアにおける日本の外交的な役割を広げることだった。

 首脳外交という舞台は、中曽根の政治観と相性がよかった。国家間の関係を外務官僚による交渉だけで処理するのではなく、国の指導者同士が信頼関係を築き、その姿を国民や国際社会に示すことは、首相自身が国家の方向を示すという政治手法に通じていた。主要国首脳会議などの国際会議において、日本の総理大臣が経済問題だけでなく国際政治や安全保障について積極的に発言することにも、中曽根は大きな意味を見いだしていたと考えられる。

 ただし、首脳同士の親密な関係と外交政策の成果を同一視してはならない。当時の日米関係には、自動車や半導体などをめぐる貿易摩擦、巨額の対日貿易赤字、為替相場や日本市場の開放をめぐる対立が存在した。1985年のプラザ合意以降、急速な円高が進んだことも、日本経済に大きな影響を及ぼした。レーガンとの個人的な信頼関係は外交交渉を進めるうえで有利に働くことがあったとしても、日米間の構造的な経済問題を解消したわけではないのである。

 それでも、中曽根が首脳外交を積極的に活用し、日本の総理大臣が国際政治の舞台で自らの言葉を使って国家の立場を示す姿を強く印象づけたことには、歴史的な意味がある。彼の大統領的首相像は、国内では行政改革を推進する政治的な指導力として、外交では国家を代表して意思を示す指導者の姿として表れていた。

「戦後政治の総決算」という危うい言葉

 中曽根政治を語るとき、避けて通れないのが「戦後政治の総決算」という言葉である。この表現には、行政改革だけでなく、教育、税制、憲法、安全保障、国家意識など、戦後日本が築いてきた制度や価値観を改めて検証しようとする意志が込められていた。中曽根自身は、戦後日本の平和や民主主義、経済発展などの成果を認めたうえで、制度の見直しを進めるという立場を説明していたが、その政治的な意味については当時から評価が分かれていた。

 支持する立場から見れば、経済大国となった日本が従来の制度を見直し、国際社会における責任を果たすための改革構想だった。一方、批判する立場からは、戦後の平和主義や民主的な制度を弱め、国家の権威や軍事的な役割を重視する方向へ政治を変える危険性があると受け止められた。実際、中曽根政権は行政改革と並行して教育制度の見直しや防衛政策の転換を進めており、「総決算」という言葉の意味は、それぞれの政策の具体的な内容によって評価する必要がある。

 防衛政策では、1976年の三木武夫内閣以来、防衛関係費を国民総生産の1%以内に抑えるという方針が続いていた。しかし、中曽根政権は1986年末、この比率による枠を適用しない新たな方針を決定し、1987年度当初予算の防衛関係費は国民総生産比1.004%となった。数値上は従来の1%を0.004パーセントポイント上回ったにすぎず、予算規模が一挙に大きく変化したわけではない。しかし、長年にわたって防衛政策の象徴となっていた比率上の枠を撤廃したことには、政治的にも制度的にも大きな意味があった。

 中曽根は防衛力の整備を積極的に進める一方、政府の基本方針として専守防衛や非核三原則を維持する立場を示していた。したがって、1%枠の撤廃を直ちに無制限の軍備拡張と同一視することは正確ではないが、従来の政策的な歯止めを変更した事実は軽視できない。安全保障環境の変化に対応するために必要な措置だったのか、それとも防衛政策の抑制的な性格を弱めたのかという評価には、当時の国際情勢、防衛予算の規模、装備体系、財政状況などを合わせて検証する必要がある。

 こうした政策を見ると、中曽根を単純な保守強硬派という一語で説明することの難しさが分かる。国家意識や自主防衛を重視しながら、現実の安全保障では日米同盟を基軸とし、アジア諸国との関係改善にも取り組んだ。理念だけを見れば一方向に進むように見える政治家であっても、現実の外交や国内政治では、相手国の反応、国会の議論、世論の変化などを踏まえて判断を修正する必要がある。その行動を柔軟な現実主義と評価するか、政治的な一貫性の不足と評価するかは、具体的な政策判断とその結果によって変わってくるのである。

靖国参拝が示した「強い首相」の限界

 中曽根政治が抱えていた理念と現実の緊張関係を象徴する出来事の一つが、靖国神社への公式参拝だった。戦後40年に当たる1985年8月15日、中曽根は総理大臣として靖国神社を公式参拝した。政府は、その目的を戦没者の追悼と平和への決意を新たにすることだと説明したが、中国などから批判が寄せられ、外交問題となった。

 この問題には、少なくとも三つの異なる論点があった。第一は、戦没者を国家としてどのように追悼するのかという問題であり、第二は、総理大臣の公式参拝が日本国憲法第20条の政教分離原則とどのような関係にあるのかという憲法上の問題である。第三は、靖国神社への合祀や過去の戦争に対する歴史認識をめぐり、日本の行動が中国や韓国などとの外交関係にどのような影響を及ぼすのかという問題だった。これらは相互に関連しているものの、同じ問題として一括りにすることはできない。

 中曽根政権は、公式参拝の方式について一定の配慮を行い、政府としての憲法解釈を示したが、政教分離をめぐる論争がそれによって完全に解消されたわけではなかった。また、中国側の反発も強く、日中関係を重視する中曽根にとって、参拝の継続は外交上の大きな判断を要する問題となった。その結果、1986年と1987年には中曽根首相による靖国神社参拝は行われなかった。

 ここには、大統領的な首相であっても、個人的な信念だけで国家を動かせるわけではないという現実が表れている。国内の一部では支持される象徴的な行動が、他国との関係では深刻な摩擦を生み、国内においても憲法上の議論を引き起こすことがある。その場合、首相は自らの政治信念、国内の法制度、国民の評価、外交上の利益などを比較しながら判断しなければならない。

 中曽根の対応を、外交上の反発を受けて信念を曲げたものと見ることもできれば、長期的な国益を重視して行動を修正したものと評価することもできる。ただし、いずれの評価を採るにしても、彼が自らの意思を貫くことと、民主国家の指導者として複数の制約を受け入れることの間で判断を迫られた事実は変わらない。大統領的首相の強さとは、必ずしも最初の決定を最後まで押し通すことではなく、複雑な条件の中で政治的な責任を引き受ける能力でもあるのだろう。

1986年、「大統領型首相」は頂点に立った

 1986年7月6日、中曽根政権の下で衆参同日選挙が行われ、自民党は衆議院で公認候補だけで300議席を獲得し、追加公認を含めると304議席に達する大勝を収めた。当時の衆議院定数は512議席であり、公認当選者300人の議席占有率は約58.6%となる。一方、自民党の得票率は約49.4%であり、得票率と議席率の間には約9.2パーセントポイントの差があった。この差には、当時の中選挙区制の仕組みや選挙区ごとの得票分布などが影響しているため、議席数をそのまま国民全体の支持割合とみなすことはできない。

 それでも、衆議院で300議席を獲得したことは、自民党にとって大きな政治的成果であり、中曽根の党内における立場を強める結果となった。1982年に田中派の支援を受けて総理となり、「田中曽根」と揶揄された政治家が、4年後には選挙で歴史的な勝利を収め、自らの政権を長期化させる政治的な基盤を築いたのである。国民に直接語りかけ、改革を実行し、選挙で支持を獲得するという政治手法は、この時期に一つの頂点に達したといえるだろう。

 ただし、1986年の自民党大勝を中曽根個人の人気だけで説明することはできない。選挙結果には、当時の経済情勢、政党支持率、野党の候補者擁立状況、各選挙区の競争構造、選挙制度など、多くの要因が影響する。中曽根の政治手法がどの程度勝利に貢献したのかを厳密に検証するには、内閣支持率の推移や選挙区別の得票変化などを分析する必要がある。したがって、選挙での大勝を中曽根の指導力の成果として評価することは可能だが、それだけを唯一の原因とみなすのは適切ではない。

 それでも、この選挙の政治的な意味は大きかった。自民党内の派閥間調整によって成立した首相が、総選挙での勝利を自らの政治的な正統性の根拠として活用し、党内での指導力を高めることができたからである。中曽根は制度としての首相公選制を実現することはできなかったが、国民の支持を政治的な力に変えようとする首相像を、議院内閣制の枠内で一定程度実践したと考えられる。

 中曽根内閣の通算在職日数は1,806日に達した。1982年11月27日から1987年11月6日まで続いた政権は、戦後日本の歴代内閣の中でも長期政権に属し、総理大臣としての政策構想と政治的な調整能力を示す結果となった。しかし、政権が長く続いたこと自体が、すべての政策の成功を意味するわけではない。長期政権であったからこそ、実行できた改革と、最後まで実現できなかった政策の双方を検証する必要がある。

売上税の挫折が示した、国民への説明と政治的信頼の問題

 中曽根政権の終盤における大きな失敗が、1987年の売上税導入構想の挫折だった。政府は所得課税の軽減などと組み合わせて税制全体を見直そうとしたが、売上税に対しては野党だけでなく、流通業界や中小企業団体、労働組合などからも強い反発が生じ、自民党内でも慎重論が広がった。結果として、売上税を含む関連法案は成立せず、中曽根政権が目指した大型の税制改革は実現しなかった。

 この失敗を単に国民への説明不足だけで理解することはできない。1986年の衆参同日選挙では、中曽根の大型間接税に関する発言が注目されており、翌年の売上税導入方針との整合性が重大な政治問題となった。中曽根側は売上税が選挙時に否定した税制とは異なると説明したが、野党などは公約違反だと批判した。この問題は、税制の具体的な内容への賛否に加えて、選挙で示した方針と政権の政策決定との関係、さらに政治家の発言に対する信頼を問うものだった。

 税制改革は行政組織の再編とは異なり、国民や事業者の負担に直接影響する。政府が制度の合理性を主張しても、負担の公平性や家計への影響、事業者の事務負担、既存の税制との関係について幅広い理解が得られなければ、政治的な反対は強まりやすい。特に、導入の是非だけでなく選挙公約との整合性が争われる場合、制度の技術的な説明を積み重ねるだけでは十分な合意形成につながらない可能性がある。

 中曽根は行政改革では強い政治指導力を発揮したが、売上税では国民や事業者の反発、与野党の対立を乗り越えることができなかった。これは、大統領的な政治手法が常に成功するわけではないことを示している。首相が自らの考えを分かりやすく国民に訴えたとしても、その内容が国民に受け入れられるとは限らず、過去の発言や選挙公約との整合性が失われれば、説明そのものへの信頼も低下するからである。

 強い首相といえども、世論や議会を無視して政策を実行できるわけではない。むしろ、中曽根政治の成功と失敗は、政治的リーダーシップの強さが単に決断の速さによって決まるのではなく、政策の必要性を説明する能力、反対意見を踏まえて調整する能力、そして国民との信頼関係を維持する能力に支えられていることを示している。

総理を辞めても、「国家を語る政治家」を辞めなかった

 1987年11月、中曽根は竹下登を後継者として選び、総理大臣の座を退いた。だが、それによって政治家としての活動が終わったわけではなかった。1988年には世界平和研究所を設立し、安全保障や国際経済、国際政治などについて研究や政策提言を行う拠点をつくった。首相退任後も、長年にわたる政治経験を背景として国内外の政治情勢について発言し続け、自民党内でも影響力を持つ長老として活動した。

 もっとも、退任後の政治生活が平穏だったわけではない。リクルート事件をめぐる問題では政治的な責任を問われ、1989年には自民党を離党した。中曽根政治を評価するうえでは、行政改革や外交上の成果だけでなく、派閥政治や政治資金をめぐる問題も無視することはできない。政治家の能力や政策実績と、政治倫理や説明責任についての評価は、別の観点から検討される必要がある。

 その後も中曽根は国会議員として活動を続けたが、2003年、85歳のときに政界引退を迎えることになった。当時の小泉純一郎首相が、自民党の比例代表候補に対する73歳定年制の厳格な適用を進め、中曽根にも引退を求めたのである。中曽根は当初、長年の政治活動やそれまでの経緯を踏まえて強く反発したが、最終的には総選挙への立候補を断念し、1947年以来続いた56年余りの国会議員生活に幕を下ろした。

 この出来事には、政治史として興味深い巡り合わせがある。中曽根が先駆的に実践した、首相が国民に直接語りかけ、世論の支持を背景に党内の既存秩序を動かそうとする政治手法を、後年、より鮮明な形で展開した政治家の一人が小泉だった。その小泉が党改革の一環として長老議員の引退を求め、昭和政治の中心的存在だった中曽根自身が政治の舞台を去ることになったのである。

 ただし、小泉政権の政治手法を中曽根政治の単純な延長として説明することはできない。両者の間には、1990年代の選挙制度改革や行政制度改革など、首相と政党、官僚組織との関係を変化させた重要な制度改正が存在する。中曽根の時代に個人的な力量や派閥調整によって支えられていた政治指導力の一部は、その後の制度改革によって異なる形を取るようになった。したがって、この引退劇を中曽根が生み出した政治手法によって自らが退場させられた出来事と読むことは、象徴的な解釈としては成り立つものの、歴史的な因果関係として断定すべきではないだろう。

 それでも、1947年に28歳で初当選した政治家が、2003年には85歳の長老として世代交代を迫られたという事実には、日本政治の大きな変化が凝縮されている。中曽根が国会議員として過ごした半世紀以上の間に、戦後復興、高度経済成長、冷戦、バブル経済、政治改革、行政改革が進み、総理大臣の役割や国民との関係も変わっていったのである。

なぜ中曽根は「大統領型首相」を目指したのか

 結局、中曽根康弘はなぜ大統領型首相を目指したのだろうか。その理由を、彼個人の強い権力欲だけに求めることはできない。もちろん、長年にわたって総理大臣の座を目指し、自らの政策を実現しようとしたことから、強い政治的な上昇志向を持つ人物だったと考えられる。しかし、その政治構想の背景には、戦争と敗戦を経て形成された国家観、戦後の議院内閣制や派閥政治への問題意識、そして経済大国となった日本の政治をどのように運営するのかという課題が重なっていた。

 まず、戦争と敗戦の経験は、中曽根が国家の独立や統治のあり方について考える重要な背景になった可能性がある。次に、1955年体制の下で長く続いた自民党政治では、首相が党内派閥の支持によって選ばれる一方、政治責任の所在が国民に分かりにくくなるという問題があった。1960年代からの首相公選論は、中曽根がこうした政治制度の問題に早い段階から関心を持っていたことを示している。

 さらに、1980年代になると、行政改革や財政再建、経済の国際化、安全保障など、従来の調整型政治だけでは対応が難しいと考えられる政策課題が増えていた。官僚組織や業界団体、派閥の利害を調整するだけでなく、政府としての優先順位を明確にし、政策の方向を示す政治指導力への需要が高まっていたのである。中曽根が目指した大統領的首相は、こうした政治環境の変化に対応するための構想でもあったと考えられる。

 そして、中曽根自身の政権が田中派の支援を受けて成立したことも無関係ではなかっただろう。党内有力者への依存を完全になくすことはできないとしても、首相自身が政策構想を示し、国民の支持を確保することができれば、党内で独自の発言力を持つことにつながる。この意味で、大統領的な政治手法は、中曽根の長年の政治思想であると同時に、首相としての現実的な権力基盤を強める手段でもあった可能性がある。

 もっとも、これらの要因がそれぞれどの程度、中曽根の政治行動を決定したのかを数値で示すことは難しい。戦争体験から首相公選論が生まれたことや、田中派への依存から行政改革の政治手法が生まれたことを、直接的な因果関係として証明できるわけではない。政治家の思想や行動は、個人的な経験、制度上の制約、社会情勢、政治的な競争などが相互に影響する中で形成されるものであり、一つの理由ですべてを説明することはできないのである。

 また、中曽根の行政改革が成功したことを理由に、強い首相がいなければ改革は不可能だったと考えるのも早計である。国鉄改革などには、深刻な経営問題、財政負担、長年の政策議論が存在しており、改革を後押しした要因は複数あった。首相の政治的指導力は政策実現に寄与したと考えられるが、それが唯一の原因だったのか、あるいは不可欠な条件だったのかは、別途検証する必要がある。

 中曽根が追求した政治の本質は、首相が国民に直接語りかけ、国家の政策課題について優先順位を示し、その実現に責任を負うというところにあったのではないだろうか。ただし、その政治手法には大きな危険性も含まれている。指導者の個人的な信念が強くなれば、議会や政党内の慎重な議論が軽視される可能性があり、世論への直接的な訴えが政治的な演出へ傾けば、政策の複雑さが単純な物語に置き換えられることもある。中曽根自身、靖国神社参拝や売上税をめぐって、強い政治指導と社会的な合意形成の間に存在する難しさを経験した。

 民主主義において必要なのは、強い首相か調整型の首相かという単純な二者択一ではない。重要なのは、政治的な決断を行う能力と、その決断を国会や国民が検証し、必要に応じて修正できる制度が両立していることである。首相の指導力が強まるほど、その判断の根拠や政策の効果を公開し、国会審議や選挙を通じて政治責任を問う仕組みの重要性も高まる。強い指導者を求めることと、権力への監視を強めることは、本来対立するものではないのである。

 中曽根以前と以後で、日本の総理大臣像がまったく同じだったとは言いにくい。総理自身が国民に政策を説明し、首脳外交で国家の意思を示し、選挙で得た支持を背景に党内を動かすという政治は、その後の日本政治でも繰り返し現れるようになった。ただし、その変化は中曽根個人の功績だけによるものではなく、メディア環境、選挙制度、行政制度、政党政治の構造変化などによっても支えられていた。中曽根が大統領的首相を完成させたというより、議院内閣制の下でも総理大臣にはこれほど大きな政治的可能性があることを示したと考える方が、歴史的な位置づけとして適切なのかもしれない。

昭和政治最後の大物とは何だったのか

 中曽根康弘は2019年11月29日、101歳で亡くなった。1918年に生まれた人物が、平成を越え、令和の日本まで生きたことになる。その101年を振り返れば、戦前の日本、太平洋戦争、敗戦、占領、55年体制、高度経済成長、冷戦、バブル経済、平成の政治改革、そして21世紀の日本までが、一人の人生の中に収まっている。1947年に28歳で国会へ入った青年が、1980年代にはレーガン大統領と並んで国際政治を語り、2003年には小泉純一郎から世代交代を迫られる長老になったのである。

 中曽根を「昭和政治最後の大物」と呼ぶとき、その「大物」とは単に権力が大きかったという意味ではないだろう。長期間にわたって政治の中心近くに居続け、国家の独立、憲法、安全保障、行政制度、国際社会における日本の役割などについて、自らの政治思想を持ち続けた人物だったという意味が大きい。ただし、国家の将来を大きな言葉で語る政治家が中曽根以後に存在しなかったわけではないため、「最後の大物」という表現は、客観的に確定できる歴史上の分類ではなく、彼の政治的な存在感を示す評論的な表現として理解すべきである。

 その政治思想に賛成するか反対するかは別問題である。中曽根政権には、行政改革や外交政策における成果がある一方、防衛政策、靖国神社参拝、教育改革、税制改革、政治資金問題など、現在まで評価の分かれる政策や言動も存在する。強い政治指導力によって実現された政策であっても、その成果がすべての国民や地域に公平に及ぶとは限らず、短期的な政治的成功と長期的な社会的評価が一致するとも限らない。その功績と問題点を同時に検討することが、中曽根政治を客観的に理解するためには必要なのである。

 中曽根が求めた大統領的首相とは、結局のところ、首相が制度上の権限を拡大することだけを意味していたのではなく、国家の進路について自ら方針を示し、国民に説明し、政策を実行するための政治的な責任を引き受ける指導者像だったと考えられる。しかし、政治家がどれほど強い信念を持っていても、その判断が常に正しいとは限らない。むしろ、強い指導力を持つ政治家ほど、自らの判断を客観的に検証されること、反対意見に向き合うこと、そして選挙や国会を通じて責任を問われることが重要になる。

 昭和という時代が遠くなった現在、中曽根の政治を振り返る意味もそこにある。国民が強い首相を望むとき、その指導力はどこまで認められるべきなのか。複雑な政策課題に迅速に対応するための政治的な決断と、国民の多様な意見を反映する民主的な手続きは、どのように両立させるべきなのか。そして、強い政治的指導者が誤った判断をした場合、その決定を誰が監視し、誰が修正し、誰が最終的な責任を問うのか。

 中曽根康弘の政治人生は、これらの問いに対する単純な答えを示しているわけではない。行政改革を実現した政治的な指導力も、靖国神社参拝や売上税をめぐって直面した限界も、いずれも議院内閣制の下における首相の可能性と制約を示している。その両方を見つめることによって初めて、中曽根がなぜ大統領的首相を目指したのかという問いの意味が明らかになるのだろう。

 中曽根康弘という政治家の生涯は、昭和から令和へ残された政治的リーダーシップと民主的統制の関係を考えるための、重要な歴史的事例なのである。

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総理大臣という仕事には、不思議なところがある。

就任する瞬間には、日本中の視線が一人の政治家に集まり、官邸へ入る車のドアが開くだけでもニュースになり、外国の首脳と並んで歩けば、その一挙手一投足が「日本の意思」として世界に伝えられるのに、退任した瞬間から、その人は突然「元総理」と呼ばれるようになる。もちろん衆議院議員として残る人もいれば、党内で相変わらず大きな力を持つ人もいるのだが、それでも昨日まで自分の判断によって大臣を任命し、衆議院を解散し、国家の進路を決めていた人間が、翌日には別の総理大臣が座る官邸をテレビで眺める側へ回るのである。

考えてみれば、これほど大きな人生の落差も珍しい。

だからこそ政治家という人物を知るには、総理大臣だった時代だけを見るより、むしろ総理大臣でなくなってから何をしたのかを眺めた方が、その人の本質が見えてくる場合がある。権力を失ってもなお権力のそばに居続けようとする人もいるし、驚くほどあっさり政界から距離を置く人もいる。一つの政策に残りの人生を賭ける人もいれば、外交の舞台を歩き続ける人もいる。そして一度は「元総理」になりながら、再び総理大臣になってしまった人物さえいる。

2025年に刊行された日本の元首相を研究した書籍『Former Prime Ministers in Japan』も、日本では元首相が単なる「引退した指導者」になるとは限らず、党内政治、派閥、外交、政策運動などを通じて長期間にわたり影響を残すことを指摘している。つまり日本政治では、総理退任は必ずしも政治人生の終着駅ではないのである。

では、2000年以降に総理大臣を務めた人々は、その巨大な椅子から降りたあと、どのように生きてきたのだろうか。

そこには、思った以上に異なる人生がある。

森喜朗~表舞台を降りても「政治の奥座敷」からは去らなかった人

2001年に総理を退任した森喜朗は、退任後の人生という意味では非常に日本的な元首相だったと言えるかもしれない。

再び首相や大臣になろうとはしなかったが、だからといって政治から離れたわけでもなく、長く自民党の派閥に影響力を残し、2012年に国会議員を引退してからも、かつて自ら率いた政治集団の人事について相談を受ける存在であり続けた。安倍晋三の死後、旧安倍派の後継体制をめぐる局面でも森の影響力が取り沙汰されており、国会議員でなくなってから十年以上たっても政治の奥座敷に席が残っていたというのだから、「引退」という日本語から普通に想像する姿とはかなり違う。

一方で、森が退任後に情熱を注いだもう一つの世界がスポーツだった。ラグビー界との長い関係を持ち、日本でのラグビーワールドカップ開催にも関わり、さらに2014年から東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長を務めたことで、首相在任中よりも長い期間、スポーツ行政の中心人物として国民の前に現れ続けた。

しかし、その長い第二の政治人生の終盤で、女性についての発言が国内外から強い批判を受け、2021年に組織委員会会長を辞任することになった。東京大会そのものが新型コロナウイルス感染症による延期という難局にあった時期だけに、その辞任は森の退任後の歩みに大きな影を落とす出来事となった。

森の歩みを見ると、「晩節」とは単に静かに余生を送ることではないのだと思わされる。力を持ち続ければ、その力によって仕事をすることもできるが、その分だけ最後まで評価の舞台から降りることもできないのである。

小泉純一郎~権力から離れたことで、かえって自由になった人

森とは対照的なのが、その後を継いだ小泉純一郎だった。

2006年に五年余りの長期政権を終えると、小泉は後継者として安倍晋三を送り出し、その後しばらく衆議院議員を続けたものの、2009年の総選挙には出馬せず、国会そのものから去った。首相在任中には、郵政民営化をめぐって自民党を二分するほどの闘争を演じ、「自民党をぶっ壊す」という言葉で政治の主役を演じた人物であるだけに、退任後も党内最大級の実力者として振る舞うことは十分可能だったはずだが、その道を選ばなかったところに小泉らしさがある。研究書も、小泉の党内での影響力は退任後かなり早く低下したと分析している。

ところが、政治家として静かになった小泉が再び強い言葉を発するようになったのは、2011年の東京電力福島第一原子力発電所事故を経験してからだった。

首相時代には原子力発電を否定していなかった小泉が、退任後には原子力発電からの脱却を唱え、講演を続け、2014年の東京都知事選挙では同じ元首相の細川護熙を支援し、その後も菅直人らとともに原子力政策の転換を訴えるようになる。

ここには少し皮肉な構図がある。総理大臣だった時には、政党、官僚組織、財界、国際関係、電力供給という巨大な現実を背負わなければならなかった政治家が、その椅子から降りたことによって初めて、一人の政治家として自分が正しいと思うことだけを語れるようになったのである。

小泉の晩年が比較的すっきりして見える理由も、おそらくそこにある。彼は「元総理」という肩書を権力への通行証として使うより、発言を聞いてもらうための拡声器として使った。その主張に賛成するかどうかとは別に、総理退任後の生き方として一つの完成された形である。

安倍晋三と麻生太郎~「元総理」が終着点にならなかった二人

しかし、政治家にとって総理退任後の人生が静かな余生であるという常識を最も劇的に壊したのは、安倍晋三だった。

2007年、第一次安倍政権はわずか一年ほどで終わり、健康問題もあって退任した。その時点で、多くの人には安倍の政治人生が頂点を越えたように見えただろう。ところが安倍は一議員として雌伏し、その間に自らの政治手法や経済政策を再構築し、2012年に自民党総裁へ返り咲くと総選挙に勝利し、再び総理大臣になった。

元総理が再び総理になる例は日本政治史にもあるが、2000年以降では安倍だけであり、一度失敗した政権の記憶を抱えたまま政治的に復活し、その後は憲政史上最長の首相在任期間を築いたという経歴は、「晩節」という言葉そのものを一度無意味にしてしまったほどである。研究書でも、1989年以降の元首相の中で安倍を最も強い再登板意欲を示した人物として位置付けている。

そして2020年、二度目の退任を迎えたあとも、今度は本当の引退にはならなかった。安倍は2021年に自民党最大派閥の会長となり、外交・安全保障や経済政策をめぐって発言を続け、後継世代の政治家にも強い影響を及ぼしていたが、その時間は2022年7月の銃撃事件によって突然断ち切られた。

その安倍と長く政治行動をともにしながら、また別の意味で「元総理になっても終わらなかった」のが麻生太郎である。

麻生は2009年、総選挙で自民党が大敗して政権を失った時の首相だったから、本来なら政治家として大きな責任を負って第一線から遠ざかっても不思議ではなかった。しかし三年後、安倍政権が復活すると、副総理兼財務大臣として政権中枢へ戻り、その後約九年間にわたって巨大な存在感を示した。さらに首相退任から十七年近くたった2026年になっても衆議院議員であり、高市早苗総裁の下で自民党副総裁を務めている。

ここまで来ると、麻生に「首相退任後の晩節」という言葉を当てはめること自体が難しい。首相という地位は彼の長い政治人生の一時期にすぎず、退任によって人生が前半と後半に分かれたのではなく、一本の長い政治生活の途中に首相在任期間が挟まっていたようにさえ見えるからである。

福田康夫と鳩山由紀夫~同じ「元首相外交」でも、残る印象はまったく違う

首相を辞めた人物には、現職首相にはできない仕事もある。

政府の正式な代表ではないから外交交渉の責任を負うことはできない代わりに、政府同士の関係が冷え込んでいる時にも相手国へ赴き、長年築いた人脈によって対話の糸をつなぐことができる。福田康夫の退任後は、その典型に近い。

2008年に首相を辞任した福田は2012年に国会議員を退いた後も、ボアオ・アジア・フォーラムをはじめとする国際組織や日中関係に関わり続け、特に中国との関係では、政府間関係が難しい時期にも首脳級と接触できる元首相として役割を果たしてきた。研究書は、福田が元首相として「長老政治家」に近い国際的役割を担い、中国との緊張緩和に非公式に寄与した局面を指摘している。

福田の興味深いところは、首相時代より退任後の方が、その人物像が分かりやすくなったように見えることである。政権運営では「地味」「調整型」と評されることの多かった性質が、元首相外交になると、むしろ相手の話を聞き、派手な自己主張をせず、長い時間をかけて関係をつなぐという長所へ変わった。

ところが、同じように東アジアとの対話を退任後の仕事にした鳩山由紀夫の人生は、まったく異なる評価を呼ぶことになった。

鳩山は2012年に政界を引退し、翌2013年には東アジア共同体研究所を設立して、自らが首相時代から唱えていた東アジア共同体や「友愛」という理念を追求し続けた。首相在任中に十分実現できなかった理念を、政治権力を失った後も個人として追い続けたという点では、その行動には驚くほど一貫性がある。

しかし元首相は、本人が私人になったつもりでも、外国から見れば完全な私人にはならない。2015年に政府の方針に反してロシアが併合したクリミアを訪問した際には日本政府から強い批判を受け、さらに2025年には北京で中国政府が開催した抗日戦争勝利80年の記念行事にも私人として出席した。

鳩山自身から見れば、それは首相時代から続く東アジア和解という思想の延長なのだろう。しかし国家の元代表者という肩書は、その人が官邸を去った日には消えてくれないため、本人が「個人の外交」と考える行動も、国内外では日本政治の一部として読まれてしまう。

福田と鳩山を並べると、元首相外交の難しさがよく見える。政治的立場を越えて相手国と話せることは元首相の財産だが、その自由が大きくなるほど「日本を代表しているのか、していないのか」という境界も曖昧になるのである。

菅直人と野田佳彦~敗れた政権の記憶を、どう背負って生きたか

2009年に始まった民主党政権の三人の首相は、いずれも短期間で官邸を去ったが、その後の歩みはかなり違う。

菅直人の場合、退任後の人生から福島第一原子力発電所事故を切り離すことはできなかった。

事故当時の首相だった菅は、政権を離れてから原子力発電に依存しない社会を強く主張するようになり、小泉純一郎らとも行動をともにした。それと同時に、事故対応をめぐる自らの判断について著書や講演で説明を続けており、研究者から見れば、政策運動と同時に「自分があの時何をしたのかを歴史に説明し続ける元首相」という側面を持っている。

そして2024年の衆議院選挙には立候補せず、国政から退いた。

小泉が福島事故を外から見て原子力政策を変えた人物であるのに対し、菅は事故の渦中にいた当事者として原子力政策を変えた人物であり、同じ脱原発という結論に至っていても、その言葉の背後にある人生はまるで違う。

ところが野田佳彦は、首相退任から十年以上たってから再び政治の中心へ戻ってきた。

2012年の総選挙で民主党政権が大敗すると代表を辞任したが、国会議員を続け、駅頭での活動や国会論戦を積み重ね、2024年には立憲民主党代表へ返り咲いた。かつて首相として政権を失った人物が、十年以上後に野党第一党を率いて再び政権交代を目指す姿は、安倍とは方向こそ逆であっても、「政治家の人生は一度の敗北では終わらない」という点でどこか似ている。

さらに政治はそこで終わらず、2026年1月には公明党側と合流して中道改革連合を結成し、野田は共同代表となった。しかし2月の衆議院選挙で同党は49議席にとどまり、選挙後に野田と斉藤鉄夫は責任を取って共同代表を辞任し、その後、野田は党顧問となった。

首相退任から十四年後、再び大きな政治的勝負に出て、再び敗北の責任を負って代表を降りたことになる。

だから野田の晩節は、まだ「静かな晩節」と呼べるものではない。むしろ、総理経験者でありながら駅前に立ち、野党政治家としてもう一度勝負し、それでも選挙に敗れれば代表を辞めるという、政治家という職業からなかなか降りようとしない人生そのものが、野田という人物を表しているように思える。

菅義偉~元の「裏方」に戻り、最後は自分で幕を引いた

安倍政権で七年八か月にわたり官房長官を務めた菅義偉は、もともと派手な理念を語る政治家というより、物事を動かす政治家だった。

そのため2021年に首相を退任すると、彼は不思議なほど自然に、かつて得意としていた裏方の世界へ戻っていった。派閥には属さず、しかし党内の若手や中堅との人脈を持ち、2024年の自民党総裁選挙では小泉進次郎を支援した後、決選投票では石破茂を支持し、その石破体制で党副総裁に就くなど、表舞台の主役ではないまま「誰を主役にするか」に影響を与える政治家になった。

だが麻生とは違い、菅はその立場をいつまでも続ける道を選ばなかった。

2026年1月、77歳になった菅は次の衆議院選挙に立候補せず、後進に道を譲るとして政界引退を表明した。秋田の農家に生まれ、東京へ出て、政治家秘書、横浜市議、衆議院議員、官房長官を経て総理大臣まで上り詰めた人物が、最後には自ら「引き際」を決めたのである。

首相の退任そのものは、新型コロナウイルス感染症への対応などをめぐる支持率低下の中で迎えたものだった。しかし政治家としての最後まで同じ空気を引きずったわけではなく、数年間の元首相時代を経て、自分で後継者を示し、選挙に出ないと決めて去った。

晩節という言葉を「最後にどのように権力を手放したか」と考えるなら、菅の2026年の決断は、2000年以降の元首相の中でも比較的輪郭のはっきりした引き際だったと言えるだろう。

岸田文雄と石破茂~まだ「晩節」と呼ぶには早すぎる二人

岸田文雄と石破茂については、ここまでの元首相たちと同じ物差しで評価するのは早い。

岸田は2024年に首相を退任した後も衆議院議員を続け、2026年現在、自民党の日本成長戦略本部長として経済政策に関わっている。総理を辞めたからといって長老になったわけでも、政界を去ったわけでもなく、まだ68歳であり、元首相としての第二幕が始まったばかりである。

さらに新しい元首相が石破茂である。

石破は2025年10月に首相を退任した後も国会議員を続け、2026年の衆議院選挙でも鳥取1区で議席を維持した。退任から一年も経過していない2026年8月現在も、消費税、社会保障、皇室制度、自民党のあり方などについて積極的に発言しており、元首相というより、首相経験を持つ現役政治家と呼ぶ方が実態に近い。

岸田も石破も、これから麻生のように党内で長期間力を持つのか、福田のような長老型へ移るのか、小泉のように特定の政策課題へ向かうのか、それとも比較的早く政界から離れるのかは分からない。

晩節は、本人が書いている最中にはまだ晩節には見えないのである。

「立派な元総理」とは、静かな元総理のことなのだろうか

こうして2000年以降の首相たちを並べてみると、意外なことに気づく。

首相を辞めた後の人生に、模範解答など存在しない。

小泉純一郎のように政界そのものから離れ、一つの政策を訴える人生もある。福田康夫のように政府の外側から国際関係をつなぐ人生もあり、麻生太郎のように首相退任後の方がはるかに長く政権中枢に居続ける人生もある。安倍晋三は一度失った首相の座そのものを取り戻し、野田佳彦は政権を失って十年以上たってから再び野党の先頭に立った。菅直人は自らが首相として遭遇した巨大事故と向き合い続け、鳩山由紀夫は首相時代に実現できなかった外交理念を私人となってからも追い続けた。森喜朗はスポーツと党内政治に長く影響を残し、菅義偉は最後には自ら政治家としての終わりを決めた。

そこに共通しているものがあるとすれば、人間は一度この国の最高権力を経験すると、完全に「普通の人」に戻ることは難しいということなのかもしれない。

昨日まで外国首脳が自分を待ち、大臣が自分の判断を仰ぎ、全国の新聞が自分の言葉を一面に載せていた。その世界を知った人間が、翌日から庭を眺めて余生を過ごせと言われても、それほど簡単な話ではないだろう。

だから元首相の晩節を考えるとき、本当に問われるのは「政治を続けたか、辞めたか」ではない。

むしろ、自分がもう総理大臣ではないという事実と、どのように折り合いをつけたのかということなのだろう。

かつての肩書を使って後継者を動かすのか。その名声を一つの社会運動へ使うのか。国際社会との橋渡しに使うのか。それとも、自分が去るべき時を自分で決めるのか。

総理大臣として何を成し遂げたかは、教科書にも年表にも残る。

しかし、その人が本当はどんな政治家だったのかは、首相官邸の玄関から最後に出ていった、その後の人生にこそ表れるのかもしれない。

権力を握った時よりも、権力を失った時の方が、人間は隠しようがない。

2000年以降の元総理たちの人生を眺めていると、「晩節」という古い言葉が、少し違って聞こえてくる。

それは人生の最後をきれいに飾ることではない。

自分がかつて持っていた巨大な力と、最後にどのような距離を取ることができたのか。

おそらく政治家の晩節とは、その距離の取り方そのものなのである。

※本稿は2026年8月時点の公開情報をもとに、2000年以降に首相を務め、その後退任した人物を対象としている。小渕恵三は2000年4月まで首相を務めたが在任中に病に倒れ、退任後の政治活動を比較できないため本文の対象から外した。現職の高市早苗首相についても当然ながら対象としていない。歴代内閣の在任期間は首相官邸の公式記録による。

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