地域政経

九条レオンの地域から社会と政治・経済のこれからを考える

 1998年7月24日、自民党総裁選の結果が出た。小渕恵三225票、梶山静六102票、小泉純一郎84票。最も多くの票を集めたのは、三人のなかで最も強烈な印象を与えない男だった。この総裁選を前に、田中眞紀子は三人を「凡人・軍人・変人」と評したとされる。軍人は旧陸軍航空士官学校出身で剛腕の印象を持つ梶山、変人は党内の常識に逆らって持論を唱える小泉、そして凡人が小渕だった。

 この言葉はあまりに分かりやすかったため、三人の政策以上に後世へ残った。しかし考えてみれば、「凡人」という呼び名には奇妙なところがある。本当に平凡なだけの政治家が、日本最大の政党の総裁となり、内閣総理大臣にまで到達できるものだろうか。

 小渕は総裁選に突然現れた無名の政治家ではなかった。1963年、26歳で衆議院議員に初当選して以来、すでに35年間も国会におり、竹下内閣では官房長官として新元号「平成」を発表し、自民党幹事長、党副総裁、有力派閥の会長、橋本内閣の外務大臣まで経験していた。国民から見れば柔和な「平成おじさん」であっても、永田町の内部から見れば、すでに自民党政治の中心部を長く歩いてきた人物だったのである。

 だから小渕を理解するには、「凡人なのに総理になった」という物語からいったん離れた方がよい。むしろ興味深いのは、これほど長く権力の中心にいた政治家が、なぜ最後まで「凡人」に見え続けたのかということである。

巨人二人のいる選挙区から始まった

 小渕恵三の政治家人生には、最初から有利な条件があった。父の小渕光平は衆議院議員であり、その政治地盤を引き継いでの出馬だったから、小渕は明らかな世襲政治家である。したがって、「何も持たない普通の青年が努力だけで総理へ上り詰めた」という成功物語にしてしまうのは正確ではない。

 しかし、受け継いだ地盤がそのまま安泰を意味したわけでもなかった。小渕が初当選した旧群馬3区には、すでに福田赳夫と中曽根康弘がいた。後に二人とも総理大臣となる。26歳の新人小渕は、やがて戦後政治を代表する二人の大物と同じ選挙区で議席を争い、その環境のなかで初当選し、その後も連続して議席を守り続けた。

 この出発点は、小渕という政治家の生き方を象徴しているように見える。福田のような政策家として圧倒するのでも、中曽根のように国家像を雄弁に語って存在感を示すのでもない。自分より目立つ人物が周囲にいる環境のなかで、それでも消えずに残り続ける方法を身につける必要があった。

 政治では、目立つことと生き残ることは同じではない。演説がうまい政治家が必ず選挙に強いわけではなく、政策に詳しい政治家が党内で多数を形成できるとも限らない。とりわけ当時の自民党では、選挙区で票を積み、派閥のなかで信用を積み、他派閥との関係を保ち、人事や選挙や資金をめぐる長い貸し借りのなかで自らの位置を高めていくことが、権力への重要な経路だった。

 小渕が得意としたのは、まさにそうしたテレビには映りにくい政治だった。

小渕は「突然出世した」のではない

 小渕の経歴を時系列で眺めると、劇的な跳躍は意外なほど少ない。若くして一気に党内を駆け上がった小沢一郎とも違い、後に世論を味方につけて党内秩序そのものを揺さぶった小泉純一郎とも違う。小渕の政治人生には長い時間が流れており、その時間そのものが政治的資産になっていった。

 田中角栄の流れをくむ派閥に入り、やがて竹下登に近い政治家として地歩を固め、1987年の竹下内閣で官房長官となった。国民にとって最も鮮烈だった場面は、1989年1月に「平成」と書かれた額を掲げた瞬間だったが、それは小渕にとって政治人生の頂点ではなく、むしろ党内中枢へ入ったことを示す一つの通過点だった。その後も党幹事長、副総裁、外相といった要職を重ねていく。

 そして1992年、小渕の政治人生を決定的に変える出来事が起こる。巨大な竹下派では、金丸信の失脚後、後継会長をめぐって激しい対立が起きていた。小沢一郎らは羽田孜を推し、それに対抗する側は小渕を推した。ここで重要なのは、小渕が派閥会長になった事実を「温厚な人柄が評価されたから」とだけ説明しないことである。

 小渕の背後には竹下登を中心とする党内勢力があり、参議院側を含む派閥内の力関係があり、さらに小沢への警戒を強める議員たちの結集があった。小渕自身の信用や調整能力はもちろん重要だったとしても、巨大派閥の後継争いという組織政治のなかで選ばれたのであって、一人の人間的魅力だけで頂点へ押し上げられたわけではない。

 結果として竹下派は分裂し、羽田・小沢系の議員たちは別の道へ進む一方、小渕は旧竹下派の主要部分を率いることになった。この出来事によって、小渕は単なるベテラン議員から、自民党内の巨大な票の集団を背負う政治家へ変わった。

「凡人」の背後に巨大派閥があった

 小渕が1998年の総裁選で勝った理由を考えるとき、最も重要なのはここである。総裁選当時、小渕派はおよそ90人規模を抱える自民党最大級の派閥であり、小渕はその会長だった。

 この事実を抜きにして、「人柄がよかったから225票を取った」と説明すれば、小渕政治の核心を見誤る。自民党総裁選は国民による直接選挙ではない。当時の制度では国会議員票の比重が極めて大きく、派閥の所属議員がどこへ投票するかは決定的な意味を持っていた。

 小渕にはまず、自らが率いる大きな派閥という組織的基盤があった。そのうえで宮澤派など他派閥からも支持を広げ、最終的に225票を獲得した。つまり、1998年の勝利を説明する第一の要因は、35年間にわたる人間関係を漠然と「信用」と呼ぶことではなく、長い政治生活の末に自民党最大級の派閥を率いる位置まで到達していたという、目に見える組織的条件である。

 しかし、それだけなら話はまだ終わらない。派閥の力が大きかったとしても、すべての派閥会長が総理になれるわけではないからである。小渕が持っていたもう一つの特徴が、ここで効いてくる。

「敵をつくらない」は弱さだったのか

 強い政治家という言葉を聞くと、私たちはしばしば決断力のある人物を想像する。反対を押し切り、大胆な改革を打ち出し、敵と味方を鮮明にし、自らの理念に政治を引き寄せていくタイプである。しかし、その強さには必ず代償がある。熱烈な支持者をつくる政治家は、同時に強烈な反対者もつくりやすい。

 小渕は、その対極にいた。

 相手を論破して自分を大きく見せるより、話を聞き、電話をかけ、関係を切らない。総理になった後には、本人が直接さまざまな人へ電話することから「ブッチホン」という言葉まで生まれたが、これは単なる庶民派の演出というより、小渕が長く続けてきた政治の作法を象徴していた。

 中曽根康弘から「真空総理」と評されたように、小渕は何をしたい政治家なのか輪郭が見えにくいとも批判された。しかし、政治において輪郭が薄いことは、常に弱点とは限らない。自分の主張を鋭く打ち出さない分だけ、異なる立場の人間が近づく余地が残り、「この人物が権力を握れば自分は排除される」という恐怖を相手に抱かせにくくなるからである。

 ただし、ここで因果関係を逆転させない方がよい。小渕が敵をつくらなかったから総理になれたと証明することはできないし、「凡人だったから敵が少なかった」と断定することもできない。むしろ逆に考えることもできる。

 小渕はもともと凡人だったから調整型になったのではなく、巨大な自民党という組織のなかで何十年も生き残るために、相手を不用意に刺激せず、対立を決定的にせず、関係をつなぎ続ける政治を身につけ、その結果として外からは「凡人」に見える政治家になったのかもしれない。

 そう考えると、「凡人」という言葉の意味はかなり変わってくる。

1998年という時代が小渕を押し上げた

 1998年、小渕に総理への機会が訪れた背景には、日本政治そのものの危機があった。

 日本経済はバブル崩壊後の長い停滞から抜け出せず、1997年には北海道拓殖銀行が経営破綻し、山一證券が自主廃業するなど金融不安が深刻化していた。橋本龍太郎政権の下では景気悪化への批判が強まり、1998年7月の参議院選挙で自民党は大きく議席を減らした。橋本は責任を取って退陣し、後継総裁を決める選挙が行われることになる。

 そこで立候補したのが小渕、梶山、小泉の三人だった。

 後の歴史を知る私たちから見ると、小泉の方がはるかに「総理らしい」人物に見えるかもしれない。実際、わずか3年後、小泉は国民的人気を背景に総理へ上り詰める。しかし1998年の自民党総裁選で問われていたものは、2001年とは違っていた。

 日本の首相は大統領のように国民が直接選ぶわけではなく、国会で指名される。当時は自民党が衆議院で最大勢力だったため、自民党総裁になることが事実上、総理になるための最大の関門だった。しかも総裁選では党内の国会議員票が決定的な重みを持っていたため、テレビで最も人気のある人物ではなく、党内で最も多くの支持をまとめられる人物が有利になる。

 この制度のなかで見ると、小渕の35年間は単なる長い経歴ではなくなる。選挙を繰り返し、派閥のなかで地位を高め、官房長官、幹事長、副総裁、外相を経験し、巨大派閥の会長となり、他派閥とも関係を維持してきた時間のすべてが、総裁選で票を集めるための資産へ変わったのである。

 小渕225票という数字は、数週間の選挙運動で突然生まれた人気ではない。それ以前の数十年間に形成されていた党内権力の構造が、最後に数字として現れたものだった。

「凡人」の政治は総理になってから試された

 総理になれば、派閥の力だけで政治を動かせるわけではない。むしろ小渕にとって本当の試験はそこから始まった。

 参議院では自民党が過半数を失っていたため、政府提出法案を自民党だけで成立させることは難しかった。とりわけ金融危機への対応では、与野党の激しい対立が続き、最終的に政府・与党側は野党側の考えを大幅に取り入れながら金融再生法を成立させた。

 ここでも小渕政治の特徴が現れている。自分の案を守ることそのものを目的とするのではなく、成立させるために修正し、異なる勢力との合意点を探す。その後、小渕政権は自由党との連立へ進み、さらに公明党を加えた自自公連立を形成する。

 だからといって、「1998年には小渕のような政治家でなければならなかった」とまで言うことはできない。梶山や小泉が総理になっていれば何が起こったかを検証することはできず、歴史に比較実験は存在しないからである。

 ただ、結果として見るならば、参議院で単独過半数を持たず、金融危機への迅速な対応が必要で、さらに連立相手を求めなければならなかった当時の政治状況と、小渕が長年培ってきた調整型の政治手法との相性がよかったことは確かだろう。

 その意味で、小渕は時代を自分の思想によって作り替えた政治家というより、時代が要求する複雑な条件のなかで、利用できる選択肢をつなぎ合わせながら前へ進んだ政治家だった。

調整型政治には、当然ながら代償もある

 ここまで書くと、小渕が実は優れた名宰相だったという話に聞こえるかもしれない。しかし、それもまた単純化である。

 小渕政権は景気悪化と金融危機に対応するため、大規模な公共事業や減税を含む積極的な財政政策を進めた。景気を下支えする必要があったことは確かだが、その結果として国債発行は大幅に増え、財政悪化を加速させたという批判も残った。

 また、調整型政治には別の弱点もある。多くの勢力との妥協を重ねれば政策の輪郭は薄くなり、何を実現する政権なのかが分かりにくくなる。対立を避ける政治は合意を生みやすい一方で、問題を根本から変える決断を遅らせることもある。

 だから小渕政治を評価するときには、「強いリーダーではなかった」という批判も、「合意形成に優れた政治家だった」という評価も、どちらか一方だけを採用する必要はない。両方が同時に成り立つからである。

総理になった理由は「凡人だったから」ではない

 では、小渕恵三はなぜ総理大臣まで上り詰めたのか。

 その答えを一つの性格に求めることはできない。父から受け継いだ選挙地盤があり、26歳という若さで国会へ入り、35年間にわたって議席を守り続け、田中・竹下系の巨大派閥のなかで地位を高め、竹下登ら党内実力者の支持を背景に派閥会長となり、最終的には自民党最大級の派閥を率いた。その組織力を基盤に他派閥からも支持を集め、そこへ敵を不用意につくらず関係を維持する調整型の政治手法が重なり、さらに橋本退陣という政治的機会が訪れた。

 世襲、選挙、派閥、組織、人脈、経験、性格、そして時代。小渕恵三を総理にしたのは、そのどれか一つではなく、それらが長い時間をかけて重なった結果だった。

 だから小渕の人生を、「普通の人でも努力すれば総理になれる」という美談として読むのは適切ではない。むしろこの人物が教えてくれるのは、政治における「能力」という言葉の意味が、私たちがテレビ越しに見る能力とはかなり違うということである。

 私たちは政治家を見れば、演説の鋭さ、政策の大胆さ、知名度、カリスマ性、討論の強さといった目につきやすい能力を評価する。しかし、組織のなかで権力を形成する能力は、それほど分かりやすくない。誰と話せるのか、誰から完全には嫌われないのか、誰なら別の勢力との間に置くことができるのか、誰が何十年も関係を切らずにいられるのかという、数字にもテレビにも映りにくい能力によって組織は動いている。

 小渕が長い政治生活のなかで蓄積したものを一言で表すなら、それはおそらく「見えない政治資本」だった。

 梶山には「軍人」という輪郭があり、小泉には「変人」という輪郭があった。それに比べて小渕には、一言で説明できるほど鮮烈な輪郭がなかった。だから「凡人」と呼ばれた。しかし、巨大な組織のなかでは、輪郭が鋭くないことが、かえって多くの人を自分の周囲に残すこともある。

 そして、もう一つ考えておくべきことがある。小渕は凡人だったから調整型政治家になったのではなく、何十年にもわたって調整型政治家として生きた結果、凡人に見えるようになったのではないかということである。

 もしそうなら、「凡人」という評価は小渕恵三という政治家の弱点を言い当てた言葉であると同時に、彼の最大の政治技術を見落とした言葉でもあったことになる。

 1998年、自民党が総裁に選んだのは、最も強烈な男ではなかった。

 しかし、最も目立たなかった男が偶然最後に残ったわけでもない。長い歳月をかけて巨大な組織の中心へ近づき、多くの人間との糸を切らず、その時が来たときには最大級の派閥と他派閥の支持を動かせる位置にいた男が、最後に225票を集めたのである。

 「凡人が総理になった」のではない。

 総理になれるほど複雑な政治技術を身につけた人物が、最後まで凡人に見えていたのである。

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昭和の政治家には、平成以降の政治家とはどこか異なる空気がある。それは政策の違いだけではなく、政治家自身が国家の歴史を背負っているかのように振る舞い、ときには自分の人生と日本という国の歩みを重ね合わせながら政治を語ったことに由来するのかもしれない。その意味で、中曽根康弘ほど「昭和の政治家」という言葉が似合う人物は少ない。大正に生まれ、戦争を経験し、敗戦直後に国政へ入り、高度経済成長と冷戦の時代を駆け抜け、昭和の終わりが近づいた1980年代に総理大臣として政権の頂点に立った彼の人生をたどると、そこには一人の政治家の成功物語というより、日本の戦後そのものが映っている。

中曽根はしばしば「大統領型首相」、より正確には「大統領的首相」と評される。もちろん、日本は大統領制ではなく議院内閣制であり、中曽根が総理大臣になったことで制度そのものが変わったわけではない。彼が変えようとしたのは制度の名称ではなく、総理大臣という職の使い方だった。それまでの自民党政治では、総理とは派閥や党内有力者、官僚組織、業界団体などの利害を調整し、その均衡の上に立つ存在であることが多かったのに対し、中曽根は総理自身が国家の進む方向を示し、国民に直接語りかけ、世論を味方につけながら党と官僚を動かしていく政治を求めたのである。後年の研究でも、その政治手法は「大統領的首相」と位置づけられている。

しかし、その発想は1982年に総理大臣になって突然生まれたものではなかった。むしろ中曽根の政治人生を振り返ると、若いころから一貫して抱いていた問題意識が、長い時間をかけて総理在任中に形になったものだと考えた方が分かりやすい。

敗戦を知る青年が、戦後政治の中へ入っていった

中曽根康弘は1918年、群馬県に生まれ、東京帝国大学法学部を卒業した後、官僚の道に入ったが、ほどなく海軍に入り、戦争を経験した。終戦時には海軍主計少佐となり、敗戦後は内務省系の官僚として勤務した後、1947年、新憲法下で行われた衆議院議員総選挙で初当選する。まだ28歳であり、その後2003年まで衆議院議員を務めることになるのだから、国会議員としての経歴だけで半世紀をはるかに超えることになる。

ここには、中曽根という政治家を理解するうえで重要な原点がある。彼は戦後に政治家になった人物ではあるが、精神形成そのものは戦前の日本で行われ、しかも国家の敗北を軍人として経験した世代だった。戦争に敗れ、それまで絶対的なものに見えていた国家の制度が一夜にして崩れ、占領政策の下で新しい憲法と新しい政治制度がつくられていく光景を、彼は青年期に目撃している。だから中曽根にとって「国家とは何か」「日本は誰が統治するのか」という問いは、政治学の教科書に書かれた抽象的な問題ではなく、自分の青春そのものに刻み込まれた問題だったのである。

戦後の中曽根が自主憲法制定や自主防衛を強く唱えたのも、この経験と切り離して考えることは難しい。ただし、彼を単純な戦前回帰の政治家として理解すると、その後の政治人生を読み誤る。中曽根は後に「戦後政治の総決算」を掲げることになるが、それは戦後40年間そのものを否定するという意味ではなく、本人も国会で、戦後日本が平和、民主主義、平等、経済的繁栄において大きな成果を上げてきたことを明確に認めている。そのうえで、40年という時間の中で制度に生じたひずみを修正し、日本が次の時代に進むための政治を行うというのが、彼のいう「総決算」だった。

若き中曽根が考えた「首相を国民が選ぶ政治」

中曽根の「大統領型首相」という発想の源流を探ると、1960年代初めまでさかのぼることができる。1962年に刊行された『首相公選論~その主張と批判』には、中曽根自身による「首相公選論の提唱」が収録されており、彼がかなり早い段階から、総理大臣と国民との関係そのものを変えようとしていたことが分かる。

なぜ国会議員でありながら、国会が選ぶ総理ではなく、国民から直接政治的正統性を得る総理を考えたのか。その背景には、中曽根が戦後の議院内閣制の運用に感じていた不満があった。研究では、中曽根の首相公選論には、派閥政治、政権の不安定、激しい政争によって政治責任の所在が曖昧になることへの問題意識があり、民意をより直接的に政治の中心へ取り戻そうという考えがあったと整理されている。

戦後自民党政治では、総理大臣になるために国民から直接選ばれる必要はなかった。それよりも重要なのは、自民党総裁選挙で派閥の支持を集めることであり、そのためには政策だけでなく、誰と組み、誰と妥協し、誰の支持を受けるかが決定的な意味を持った。中曽根が嫌ったのは、まさにこの構造が政治の最終的な責任者を曖昧にすることだったのだろう。総理が国民に向かって国家の方向を示すのではなく、党内の実力者たちの合意をまとめる議長のような存在になってしまえば、政治は誰の意思によって動いているのか分からなくなる。中曽根が求めたのは、国民から政治的な力を得た指導者が、自分の責任で決断する政治だった。

もっとも、ここに中曽根という政治家の面白さがある。理念としては強い指導者を求めながら、自分自身が総理になるまでの道のりでは、誰よりも自民党派閥政治の海を巧みに泳いだからである。

「風見鶏」と呼ばれた男は、本当に信念がなかったのか

中曽根には長い間、「風見鶏」というあまりありがたくない呼び名がついて回った。政治状況によって立場を変え、時の権力者と巧みに関係を築く姿が、風向きによって向きを変える風見鶏のように見えたからである。岸信介、佐藤栄作、田中角栄ら自民党の実力者が次々と主役を演じる時代、中曽根は政界の中心から完全に外れることなく、科学技術庁長官、運輸大臣、防衛庁長官、通商産業大臣、自民党幹事長、行政管理庁長官などを歴任しながら、総理の椅子に近づいていった。

だが、「風見鶏だったから信念がなかった」と結論づけると、中曽根の半分しか見たことにならない。むしろ彼には、自分が実現したい国家像を持ちながら、それを実現するためにはまず権力を握らなければならないという、極めて現実主義的な政治観があったように見える。政治家は思想家ではない以上、正しいことを語っているだけでは国家を動かせない。昨日の敵とも必要なら手を結び、党内で少数派なら多数派の力を借り、機会が来るまで待つというその姿勢は、美しくはないかもしれないが、権力というものの性質を熟知した政治家の姿でもあった。

そして皮肉なことに、その中曽根が1982年11月に総理大臣になったとき、彼を首相の座へ押し上げる大きな力となったのが田中角栄だった。当時の田中はロッキード事件の刑事被告人でありながら自民党最大級の勢力を保持しており、その支援を受けて成立した中曽根政権は「田中曽根内閣」「角影内閣」とまで揶揄された。長年、国家の指導者として強い首相を構想してきた中曽根が、いざ首相になってみると、背後には巨大な田中派の影が見えるという、何とも皮肉な出発だったのである。

だからこそ、中曽根にとって「大統領型首相」という政治手法は、単なる好み以上の意味を持ったのではないか。党内の後ろ盾によって総理になった人物が、その後ろ盾から自立するためには、別の政治的な力が必要になる。その力を中曽根は、官邸と政策、そして何より国民世論の中に求めたのである。

派閥の上に立つには、国民に直接語らなければならなかった

中曽根政権の特徴の一つは、首相自身が政治の物語をつくったことである。政策を各省庁に任せ、出来上がったものを総理が説明するのではなく、まず総理が「何を変えるのか」という大きなテーマを国民に提示し、そのテーマを中心に政治を動かしていく。テレビというメディアが政治に大きな影響を持ち始めていた時代、中曽根はその性質をよく理解していた。

1985年の国会で中曽根は、自らの政治手法について、政権発足以来「国民にわかりやすい政治」「国民に語りかける政治」を目指してきたと説明している。審議会や私的諮問機関に専門家や民間人を登用し、そこで議論を起こし、その問題を社会全体の議論にしていくという方法も多用した。これは党内や官僚組織の調整だけで政策を決める従来型の政治とは違い、先に世論を動かし、その世論を背景に既得権益を動かしていく手法だった。

ここに「大統領的」と呼ばれる理由がある。中曽根は議会を無視したわけではないし、実際には自民党内の派閥調整も続けていた。しかし政治の表舞台では、総理自身が国民に語り、国家の方向を示し、政策に自分の名前を刻もうとした。総理大臣を巨大な調整機構の最終承認者から、政治の中心的な演者へ変えようとしたのである。

後の小泉純一郎政権や安倍晋三政権で「官邸主導」という言葉が頻繁に使われるようになるが、その遠い原型を中曽根政治に見ることは十分可能だろう。ただし、中曽根の時代には現在ほど首相官邸の制度的権限が強化されていたわけではない。だから彼は制度の力ではなく、政治技術と世論と個人的な力量によって、総理の力を大きく見せなければならなかったのである。

行政改革こそ「大統領型首相」を必要とした

中曽根政治を象徴する最大の内政課題が行政改革だった。もっとも、行政改革そのものを中曽根一人が始めたわけではなく、第二次臨時行政調査会は鈴木善幸内閣時代の1981年に設置され、中曽根自身も行政管理庁長官として改革に関わっていた。彼は当時から、戦後の日本が欧米への追いつきをほぼ実現した以上、明治以来続いてきた中央集権的で規制中心の行政から、民間の創意や活力を生かす行政へ変える必要があると国会で論じていた。

しかし行政改革とは、誰もが賛成できる抽象的な言葉ほど簡単なものではない。実際に改革を始めれば、省庁の権限、国会議員の利害、業界団体、労働組合、地域経済など、既存の制度によって利益を得ているさまざまな勢力と衝突する。つまり行政改革を実現するためには、関係者全員の合意を待つ調整型政治では動かない場面が必ず出てくる。そこで必要になるのが、「国家全体の利益」という大きな物語を掲げ、個別の利害を乗り越えようとする強い首相だった。

中曽根政権下では、日本電信電話公社と日本専売公社の民営化が1985年に実現し、さらに最大の難題であった日本国有鉄道の分割・民営化も進められ、1987年4月に新しい鉄道会社へ移行した。日本国有鉄道は巨額の累積赤字と長期債務を抱えており、改革は以前から国家的課題となっていたが、巨大組織を実際に解体し、新しい経営形態へ移す作業には極めて大きな政治的エネルギーが必要だった。

行政改革は、中曽根がなぜ強い首相を求めたのかを最もよく説明している。大統領型首相とは、威張る総理のことではない。中曽根にとってそれは、巨大な制度を変更するとき、誰が最終的な政治責任を引き受けるのかという問題だったのである。

「ロン・ヤス」が映し出した、日本という国の変化

中曽根の大統領的な政治手法が最も映像的に表れたのは、国内政治より外交だったかもしれない。アメリカのロナルド・レーガン大統領との親密な関係は「ロン・ヤス」と呼ばれ、二人の個人的な信頼関係そのものが日米関係の象徴として報じられた。

しかし、これは単なる仲良し外交ではなかった。1980年代、日本はすでに世界有数の経済大国となりながら、安全保障ではアメリカへの依存が大きく、国際政治における発言力と経済力との間にはなお距離があった。中曽根は、その日本を単なる経済大国から国際政治の主体へ押し上げようと考え、日米同盟を外交の基軸として明確に位置づける一方、中国や韓国との関係構築にも力を入れた。外務省の当時の記録でも、中曽根はレーガンとの首脳外交を通じ日米の相互信頼を強化すると同時に、中国の指導者とも関係を深めている。

首脳外交という舞台は、中曽根の政治観と非常に相性がよかった。国と国との関係を官僚同士の交渉だけで処理するのではなく、国家の指導者同士が信頼関係をつくり、その姿を世界と国民に見せる。そこでは総理は国内の派閥代表ではなく、「日本」という国家そのものを演じる人物になる。中曽根が求めていた大統領的首相像は、サミットという舞台に立ったとき最も完成された姿を見せたともいえる。

「戦後政治の総決算」という危うい言葉

中曽根政治を語るとき避けて通れないのが、「戦後政治の総決算」という言葉である。この表現には、行政改革だけでなく、教育、憲法、安全保障、国家意識など、戦後日本が築いてきた制度全体を一度検証し直そうとする意志が込められていた。

防衛政策でも、中曽根政権は従来より積極的な姿勢を取った。1976年の三木内閣以来、防衛関係費について国民総生産の1%を上限の目安とする方針が続いていたが、中曽根政権末期の1987年度予算ではこの枠を適用しないことが決まり、結果として1%を超えることになった。ただし中曽根自身は、防衛費を無制限に増やす考えではなく、専守防衛や非核三原則などを維持しながら防衛力を整備するという説明をしていた。

このあたりが、中曽根という政治家を単純な「保守強硬派」という一語で説明できないところでもある。国家意識や自主防衛を強調する一方で、現実の外交ではアメリカとの同盟を重視し、中国や韓国との関係にも気を配る。理念だけを見れば一直線に進みそうに見えるが、現実政治では何度も速度を落とし、ときには方向を修正する。その姿を「風見鶏」と見るか、「現実主義者」と見るかによって、中曽根への評価は大きく変わる。

靖国参拝が示した「強い首相」の限界

その矛盾が最も鮮明に現れた出来事の一つが靖国神社参拝だった。戦後40年にあたる1985年8月15日、中曽根は首相として靖国神社を公式参拝した。政府は戦没者を追悼し、平和への決意を新たにすることが目的だと説明したが、中国から強い批判が寄せられ、外交問題となった。

興味深いのは、その後である。中国側からの反発を受け、1986年と1987年には中曽根首相の靖国参拝は行われなかった。外務省の後年公開資料にも、1985年の公式参拝を契機に中国側から強い批判があり、その後の首相参拝が見送られた経緯が記録されている。

ここには「大統領型首相」の限界と、中曽根の現実主義が同時に表れている。強い指導者だからといって、自分の信念だけで国家を動かせるわけではない。国内で支持される象徴的行動が外交では重大な摩擦を生むこともあり、そのとき政治家は理念と国益の間で判断しなければならない。中曽根は踏み込み、反発を受け、そして引いた。その姿は一見すると一貫性を欠いているようでありながら、政治とは自分の意思を貫くだけの仕事ではないことを誰より理解していたとも読めるのである。

1986年、「大統領型首相」は頂点に立った

1986年の衆参同日選挙で、自民党は衆議院304議席を獲得する大勝を収めた。 田中角栄の力を借りて総理になり、「田中曽根」と揶揄された男は、4年後には自分自身の人気と政権実績を背景に自民党を歴史的勝利へ導く首相となっていたのである。

ここで中曽根の「大統領型首相」は一つの完成を見る。党内派閥の合意によって選ばれた総理が、国民に直接語り、選挙で大勝し、その結果によって党内に対する自らの権威を強める。制度として首相公選を実現することはできなかったが、政治的には国民の支持を自らの権力基盤とする総理像をかなりの程度まで実現したともいえる。

中曽根内閣の通算在職日数は1,806日に達した。戦後の総理大臣としては異例の長期政権であり、短命内閣が珍しくなかった昭和の自民党政治の中では、それ自体が中曽根政治の力を示している。

だが、政治の絶頂は永遠には続かない。1987年に導入を目指した売上税は激しい反発を受けて挫折し、中曽根自身も後に、国民への説明時間や手続きが十分ではなく、理解を得られなかったことを認めている。 それは皮肉にも、「国民に語りかける政治」を掲げて成功してきた中曽根が、最後に国民への説明不足によって大型改革につまずいた出来事だった。

強い首相でも、世論を越えて政治を行うことはできない。むしろ中曽根政治の成功と失敗は、大統領的リーダーシップとは世論を無視する政治ではなく、世論との関係を絶えずつくり続けなければ成立しない政治であることを示している。

総理を辞めても、「国家を語る政治家」を辞めなかった

1987年11月、中曽根は竹下登を後継に選び、総理の座を退いた。だが、そこで政治家としての人生が終わったわけではなかった。1988年には世界平和研究所を設立し、安全保障や国際経済について研究・政策提言を行う拠点をつくり、政界の長老として発言を続けた。

もちろん、その晩年が完全に平穏だったわけでもない。リクルート問題をめぐって自民党を離党する時期もあり、中曽根政治の影の部分が消えたわけではなかった。それでも国会議員としての活動を続け、2003年まで衆議院議員の座にあった。

その政界最後の場面も、中曽根らしい。85歳となった2003年、小泉純一郎首相が自民党の比例代表候補に73歳定年制を厳格に適用しようとしたため、中曽根は引退を求められた。当初は強く反発したものの、最終的には立候補を断念し、1947年以来続いた56年余りの国会議員生活に幕を下ろした。

ここには奇妙な歴史の巡り合わせがある。中曽根が開拓した「総理が国民に直接訴え、党内の長老や派閥を越えて決断する政治」を、より鮮明な形で実践した政治家の一人が小泉だった。その小泉による党改革の対象となり、昭和政治を代表する中曽根自身が舞台から降ろされることになったのである。

自分がつくった新しい政治の型が、やがて自分の属していた古い政治の世界を壊していく。その場面は、中曽根康弘という政治家の終幕として、不思議なほど象徴的だった。

なぜ中曽根は「大統領型首相」を目指したのか

結局、中曽根康弘はなぜ大統領型首相を目指したのだろうか。

それは単純に権力欲が強かったからではない。もちろん、政治家として強烈な上昇志向を持った人物であったことは否定できない。しかしその奥には、戦争と敗戦を経験し、戦後日本の政治を最初から見続けてきた人物として、「誰が国家の方向を決め、その結果に責任を負うのか」という問いがあったのではないだろうか。

派閥が総理を選び、官僚が政策をつくり、業界団体が利益を守り、政治家がそれを調整する。その仕組みは高度経済成長期の日本を安定させるうえで大きな役割を果たしたが、経済大国となり、国際政治でも責任を求められるようになった1980年代には、従来の調整型政治だけでは国家の方向を決めにくくなっていた。中曽根はそこに、国民へ直接語りかける首相、政策の優先順位を自ら決める首相、外国の首脳と国家を代表して渡り合う首相を置こうとしたのである。

その試みには危うさもあった。指導者の個人的信念が強くなれば、議会や党内の慎重な議論が軽視される危険があり、世論への直接訴求が政治的演出へ傾けば、政策の複雑さが単純な物語に置き換えられる可能性もある。中曽根自身、靖国参拝や売上税をめぐって、強い政治指導と社会の合意との間にある難しさを経験した。

それでも、中曽根以前と以後で、日本の総理大臣像がまったく同じだったとは言いにくい。総理自身がテレビの前に立ち、国民へ政策を説明し、首脳外交を自ら演出し、選挙で得た支持を背景に党内を動かすという政治は、その後の日本政治で繰り返し現れるようになった。中曽根が完全な形で大統領型首相を完成させたというより、総理大臣という職にはこれほど大きな政治的可能性があることを、日本政治に見せたと考える方が適切なのかもしれない。

昭和政治最後の大物とは何だったのか

中曽根康弘は2019年11月29日、101歳で亡くなった。1918年に生まれた人物が、令和の日本まで生きたことになる。

その101年を振り返れば、戦前の日本、太平洋戦争、敗戦、占領、55年体制、高度経済成長、冷戦、バブル経済、平成の政治改革、そして21世紀の日本までが一人の人生の中に収まっている。1947年に28歳で国会へ入った青年が、1980年代にはレーガン大統領と並んで世界政治を語り、21世紀には小泉純一郎から世代交代を迫られる長老になったのである。

だから中曽根を「昭和政治最後の大物」と呼ぶとき、その「大物」とは単に権力が大きかったという意味ではないのだろう。国家とは何か、憲法とは何か、安全保障とは何か、日本は世界でどのような国になるべきなのかという巨大な問いを、政治家自身の言葉で語ることをためらわなかった最後の世代に属していた、という意味の方が近い。

その思想に賛成するか反対するかは別問題である。中曽根政治には功績もあれば、現在まで評価の分かれる政策や言動もある。しかし、半世紀を超えて政治の中心近くに居続けながら、最後まで「日本という国をどうするのか」という問いを手放さなかったことだけは確かだろう。

中曽根康弘が求めた「大統領型首相」とは、結局のところ権力の形式ではなく、政治家が国家の進路について自ら決断し、自ら国民に説明し、その結果について自ら歴史の評価を受けるという政治家像だったのではないか。

昭和という時代が遠くなった現在、中曽根の政治を振り返る意味もそこにある。強い総理がよいのか、調整する総理がよいのかという単純な二者択一ではなく、民主主義の中で政治的リーダーシップはどこまで強くあるべきなのか。そして、強い指導者を望むとき、その力を誰が監視し、誰が最後に裁くのか。

中曽根康弘という政治家の生涯は、その問いへの答えではない。

むしろ、昭和から令和へ残された、まだ終わっていない問いなのである。

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総理大臣という仕事には、不思議なところがある。

就任する瞬間には、日本中の視線が一人の政治家に集まり、官邸へ入る車のドアが開くだけでもニュースになり、外国の首脳と並んで歩けば、その一挙手一投足が「日本の意思」として世界に伝えられるのに、退任した瞬間から、その人は突然「元総理」と呼ばれるようになる。もちろん衆議院議員として残る人もいれば、党内で相変わらず大きな力を持つ人もいるのだが、それでも昨日まで自分の判断によって大臣を任命し、衆議院を解散し、国家の進路を決めていた人間が、翌日には別の総理大臣が座る官邸をテレビで眺める側へ回るのである。

考えてみれば、これほど大きな人生の落差も珍しい。

だからこそ政治家という人物を知るには、総理大臣だった時代だけを見るより、むしろ総理大臣でなくなってから何をしたのかを眺めた方が、その人の本質が見えてくる場合がある。権力を失ってもなお権力のそばに居続けようとする人もいるし、驚くほどあっさり政界から距離を置く人もいる。一つの政策に残りの人生を賭ける人もいれば、外交の舞台を歩き続ける人もいる。そして一度は「元総理」になりながら、再び総理大臣になってしまった人物さえいる。

2025年に刊行された日本の元首相を研究した書籍『Former Prime Ministers in Japan』も、日本では元首相が単なる「引退した指導者」になるとは限らず、党内政治、派閥、外交、政策運動などを通じて長期間にわたり影響を残すことを指摘している。つまり日本政治では、総理退任は必ずしも政治人生の終着駅ではないのである。

では、2000年以降に総理大臣を務めた人々は、その巨大な椅子から降りたあと、どのように生きてきたのだろうか。

そこには、思った以上に異なる人生がある。

森喜朗~表舞台を降りても「政治の奥座敷」からは去らなかった人

2001年に総理を退任した森喜朗は、退任後の人生という意味では非常に日本的な元首相だったと言えるかもしれない。

再び首相や大臣になろうとはしなかったが、だからといって政治から離れたわけでもなく、長く自民党の派閥に影響力を残し、2012年に国会議員を引退してからも、かつて自ら率いた政治集団の人事について相談を受ける存在であり続けた。安倍晋三の死後、旧安倍派の後継体制をめぐる局面でも森の影響力が取り沙汰されており、国会議員でなくなってから十年以上たっても政治の奥座敷に席が残っていたというのだから、「引退」という日本語から普通に想像する姿とはかなり違う。

一方で、森が退任後に情熱を注いだもう一つの世界がスポーツだった。ラグビー界との長い関係を持ち、日本でのラグビーワールドカップ開催にも関わり、さらに2014年から東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長を務めたことで、首相在任中よりも長い期間、スポーツ行政の中心人物として国民の前に現れ続けた。

しかし、その長い第二の政治人生の終盤で、女性についての発言が国内外から強い批判を受け、2021年に組織委員会会長を辞任することになった。東京大会そのものが新型コロナウイルス感染症による延期という難局にあった時期だけに、その辞任は森の退任後の歩みに大きな影を落とす出来事となった。

森の歩みを見ると、「晩節」とは単に静かに余生を送ることではないのだと思わされる。力を持ち続ければ、その力によって仕事をすることもできるが、その分だけ最後まで評価の舞台から降りることもできないのである。

小泉純一郎~権力から離れたことで、かえって自由になった人

森とは対照的なのが、その後を継いだ小泉純一郎だった。

2006年に五年余りの長期政権を終えると、小泉は後継者として安倍晋三を送り出し、その後しばらく衆議院議員を続けたものの、2009年の総選挙には出馬せず、国会そのものから去った。首相在任中には、郵政民営化をめぐって自民党を二分するほどの闘争を演じ、「自民党をぶっ壊す」という言葉で政治の主役を演じた人物であるだけに、退任後も党内最大級の実力者として振る舞うことは十分可能だったはずだが、その道を選ばなかったところに小泉らしさがある。研究書も、小泉の党内での影響力は退任後かなり早く低下したと分析している。

ところが、政治家として静かになった小泉が再び強い言葉を発するようになったのは、2011年の東京電力福島第一原子力発電所事故を経験してからだった。

首相時代には原子力発電を否定していなかった小泉が、退任後には原子力発電からの脱却を唱え、講演を続け、2014年の東京都知事選挙では同じ元首相の細川護熙を支援し、その後も菅直人らとともに原子力政策の転換を訴えるようになる。

ここには少し皮肉な構図がある。総理大臣だった時には、政党、官僚組織、財界、国際関係、電力供給という巨大な現実を背負わなければならなかった政治家が、その椅子から降りたことによって初めて、一人の政治家として自分が正しいと思うことだけを語れるようになったのである。

小泉の晩年が比較的すっきりして見える理由も、おそらくそこにある。彼は「元総理」という肩書を権力への通行証として使うより、発言を聞いてもらうための拡声器として使った。その主張に賛成するかどうかとは別に、総理退任後の生き方として一つの完成された形である。

安倍晋三と麻生太郎~「元総理」が終着点にならなかった二人

しかし、政治家にとって総理退任後の人生が静かな余生であるという常識を最も劇的に壊したのは、安倍晋三だった。

2007年、第一次安倍政権はわずか一年ほどで終わり、健康問題もあって退任した。その時点で、多くの人には安倍の政治人生が頂点を越えたように見えただろう。ところが安倍は一議員として雌伏し、その間に自らの政治手法や経済政策を再構築し、2012年に自民党総裁へ返り咲くと総選挙に勝利し、再び総理大臣になった。

元総理が再び総理になる例は日本政治史にもあるが、2000年以降では安倍だけであり、一度失敗した政権の記憶を抱えたまま政治的に復活し、その後は憲政史上最長の首相在任期間を築いたという経歴は、「晩節」という言葉そのものを一度無意味にしてしまったほどである。研究書でも、1989年以降の元首相の中で安倍を最も強い再登板意欲を示した人物として位置付けている。

そして2020年、二度目の退任を迎えたあとも、今度は本当の引退にはならなかった。安倍は2021年に自民党最大派閥の会長となり、外交・安全保障や経済政策をめぐって発言を続け、後継世代の政治家にも強い影響を及ぼしていたが、その時間は2022年7月の銃撃事件によって突然断ち切られた。

その安倍と長く政治行動をともにしながら、また別の意味で「元総理になっても終わらなかった」のが麻生太郎である。

麻生は2009年、総選挙で自民党が大敗して政権を失った時の首相だったから、本来なら政治家として大きな責任を負って第一線から遠ざかっても不思議ではなかった。しかし三年後、安倍政権が復活すると、副総理兼財務大臣として政権中枢へ戻り、その後約九年間にわたって巨大な存在感を示した。さらに首相退任から十七年近くたった2026年になっても衆議院議員であり、高市早苗総裁の下で自民党副総裁を務めている。

ここまで来ると、麻生に「首相退任後の晩節」という言葉を当てはめること自体が難しい。首相という地位は彼の長い政治人生の一時期にすぎず、退任によって人生が前半と後半に分かれたのではなく、一本の長い政治生活の途中に首相在任期間が挟まっていたようにさえ見えるからである。

福田康夫と鳩山由紀夫~同じ「元首相外交」でも、残る印象はまったく違う

首相を辞めた人物には、現職首相にはできない仕事もある。

政府の正式な代表ではないから外交交渉の責任を負うことはできない代わりに、政府同士の関係が冷え込んでいる時にも相手国へ赴き、長年築いた人脈によって対話の糸をつなぐことができる。福田康夫の退任後は、その典型に近い。

2008年に首相を辞任した福田は2012年に国会議員を退いた後も、ボアオ・アジア・フォーラムをはじめとする国際組織や日中関係に関わり続け、特に中国との関係では、政府間関係が難しい時期にも首脳級と接触できる元首相として役割を果たしてきた。研究書は、福田が元首相として「長老政治家」に近い国際的役割を担い、中国との緊張緩和に非公式に寄与した局面を指摘している。

福田の興味深いところは、首相時代より退任後の方が、その人物像が分かりやすくなったように見えることである。政権運営では「地味」「調整型」と評されることの多かった性質が、元首相外交になると、むしろ相手の話を聞き、派手な自己主張をせず、長い時間をかけて関係をつなぐという長所へ変わった。

ところが、同じように東アジアとの対話を退任後の仕事にした鳩山由紀夫の人生は、まったく異なる評価を呼ぶことになった。

鳩山は2012年に政界を引退し、翌2013年には東アジア共同体研究所を設立して、自らが首相時代から唱えていた東アジア共同体や「友愛」という理念を追求し続けた。首相在任中に十分実現できなかった理念を、政治権力を失った後も個人として追い続けたという点では、その行動には驚くほど一貫性がある。

しかし元首相は、本人が私人になったつもりでも、外国から見れば完全な私人にはならない。2015年に政府の方針に反してロシアが併合したクリミアを訪問した際には日本政府から強い批判を受け、さらに2025年には北京で中国政府が開催した抗日戦争勝利80年の記念行事にも私人として出席した。

鳩山自身から見れば、それは首相時代から続く東アジア和解という思想の延長なのだろう。しかし国家の元代表者という肩書は、その人が官邸を去った日には消えてくれないため、本人が「個人の外交」と考える行動も、国内外では日本政治の一部として読まれてしまう。

福田と鳩山を並べると、元首相外交の難しさがよく見える。政治的立場を越えて相手国と話せることは元首相の財産だが、その自由が大きくなるほど「日本を代表しているのか、していないのか」という境界も曖昧になるのである。

菅直人と野田佳彦~敗れた政権の記憶を、どう背負って生きたか

2009年に始まった民主党政権の三人の首相は、いずれも短期間で官邸を去ったが、その後の歩みはかなり違う。

菅直人の場合、退任後の人生から福島第一原子力発電所事故を切り離すことはできなかった。

事故当時の首相だった菅は、政権を離れてから原子力発電に依存しない社会を強く主張するようになり、小泉純一郎らとも行動をともにした。それと同時に、事故対応をめぐる自らの判断について著書や講演で説明を続けており、研究者から見れば、政策運動と同時に「自分があの時何をしたのかを歴史に説明し続ける元首相」という側面を持っている。

そして2024年の衆議院選挙には立候補せず、国政から退いた。

小泉が福島事故を外から見て原子力政策を変えた人物であるのに対し、菅は事故の渦中にいた当事者として原子力政策を変えた人物であり、同じ脱原発という結論に至っていても、その言葉の背後にある人生はまるで違う。

ところが野田佳彦は、首相退任から十年以上たってから再び政治の中心へ戻ってきた。

2012年の総選挙で民主党政権が大敗すると代表を辞任したが、国会議員を続け、駅頭での活動や国会論戦を積み重ね、2024年には立憲民主党代表へ返り咲いた。かつて首相として政権を失った人物が、十年以上後に野党第一党を率いて再び政権交代を目指す姿は、安倍とは方向こそ逆であっても、「政治家の人生は一度の敗北では終わらない」という点でどこか似ている。

さらに政治はそこで終わらず、2026年1月には公明党側と合流して中道改革連合を結成し、野田は共同代表となった。しかし2月の衆議院選挙で同党は49議席にとどまり、選挙後に野田と斉藤鉄夫は責任を取って共同代表を辞任し、その後、野田は党顧問となった。

首相退任から十四年後、再び大きな政治的勝負に出て、再び敗北の責任を負って代表を降りたことになる。

だから野田の晩節は、まだ「静かな晩節」と呼べるものではない。むしろ、総理経験者でありながら駅前に立ち、野党政治家としてもう一度勝負し、それでも選挙に敗れれば代表を辞めるという、政治家という職業からなかなか降りようとしない人生そのものが、野田という人物を表しているように思える。

菅義偉~元の「裏方」に戻り、最後は自分で幕を引いた

安倍政権で七年八か月にわたり官房長官を務めた菅義偉は、もともと派手な理念を語る政治家というより、物事を動かす政治家だった。

そのため2021年に首相を退任すると、彼は不思議なほど自然に、かつて得意としていた裏方の世界へ戻っていった。派閥には属さず、しかし党内の若手や中堅との人脈を持ち、2024年の自民党総裁選挙では小泉進次郎を支援した後、決選投票では石破茂を支持し、その石破体制で党副総裁に就くなど、表舞台の主役ではないまま「誰を主役にするか」に影響を与える政治家になった。

だが麻生とは違い、菅はその立場をいつまでも続ける道を選ばなかった。

2026年1月、77歳になった菅は次の衆議院選挙に立候補せず、後進に道を譲るとして政界引退を表明した。秋田の農家に生まれ、東京へ出て、政治家秘書、横浜市議、衆議院議員、官房長官を経て総理大臣まで上り詰めた人物が、最後には自ら「引き際」を決めたのである。

首相の退任そのものは、新型コロナウイルス感染症への対応などをめぐる支持率低下の中で迎えたものだった。しかし政治家としての最後まで同じ空気を引きずったわけではなく、数年間の元首相時代を経て、自分で後継者を示し、選挙に出ないと決めて去った。

晩節という言葉を「最後にどのように権力を手放したか」と考えるなら、菅の2026年の決断は、2000年以降の元首相の中でも比較的輪郭のはっきりした引き際だったと言えるだろう。

岸田文雄と石破茂~まだ「晩節」と呼ぶには早すぎる二人

岸田文雄と石破茂については、ここまでの元首相たちと同じ物差しで評価するのは早い。

岸田は2024年に首相を退任した後も衆議院議員を続け、2026年現在、自民党の日本成長戦略本部長として経済政策に関わっている。総理を辞めたからといって長老になったわけでも、政界を去ったわけでもなく、まだ68歳であり、元首相としての第二幕が始まったばかりである。

さらに新しい元首相が石破茂である。

石破は2025年10月に首相を退任した後も国会議員を続け、2026年の衆議院選挙でも鳥取1区で議席を維持した。退任から一年も経過していない2026年8月現在も、消費税、社会保障、皇室制度、自民党のあり方などについて積極的に発言しており、元首相というより、首相経験を持つ現役政治家と呼ぶ方が実態に近い。

岸田も石破も、これから麻生のように党内で長期間力を持つのか、福田のような長老型へ移るのか、小泉のように特定の政策課題へ向かうのか、それとも比較的早く政界から離れるのかは分からない。

晩節は、本人が書いている最中にはまだ晩節には見えないのである。

「立派な元総理」とは、静かな元総理のことなのだろうか

こうして2000年以降の首相たちを並べてみると、意外なことに気づく。

首相を辞めた後の人生に、模範解答など存在しない。

小泉純一郎のように政界そのものから離れ、一つの政策を訴える人生もある。福田康夫のように政府の外側から国際関係をつなぐ人生もあり、麻生太郎のように首相退任後の方がはるかに長く政権中枢に居続ける人生もある。安倍晋三は一度失った首相の座そのものを取り戻し、野田佳彦は政権を失って十年以上たってから再び野党の先頭に立った。菅直人は自らが首相として遭遇した巨大事故と向き合い続け、鳩山由紀夫は首相時代に実現できなかった外交理念を私人となってからも追い続けた。森喜朗はスポーツと党内政治に長く影響を残し、菅義偉は最後には自ら政治家としての終わりを決めた。

そこに共通しているものがあるとすれば、人間は一度この国の最高権力を経験すると、完全に「普通の人」に戻ることは難しいということなのかもしれない。

昨日まで外国首脳が自分を待ち、大臣が自分の判断を仰ぎ、全国の新聞が自分の言葉を一面に載せていた。その世界を知った人間が、翌日から庭を眺めて余生を過ごせと言われても、それほど簡単な話ではないだろう。

だから元首相の晩節を考えるとき、本当に問われるのは「政治を続けたか、辞めたか」ではない。

むしろ、自分がもう総理大臣ではないという事実と、どのように折り合いをつけたのかということなのだろう。

かつての肩書を使って後継者を動かすのか。その名声を一つの社会運動へ使うのか。国際社会との橋渡しに使うのか。それとも、自分が去るべき時を自分で決めるのか。

総理大臣として何を成し遂げたかは、教科書にも年表にも残る。

しかし、その人が本当はどんな政治家だったのかは、首相官邸の玄関から最後に出ていった、その後の人生にこそ表れるのかもしれない。

権力を握った時よりも、権力を失った時の方が、人間は隠しようがない。

2000年以降の元総理たちの人生を眺めていると、「晩節」という古い言葉が、少し違って聞こえてくる。

それは人生の最後をきれいに飾ることではない。

自分がかつて持っていた巨大な力と、最後にどのような距離を取ることができたのか。

おそらく政治家の晩節とは、その距離の取り方そのものなのである。

※本稿は2026年8月時点の公開情報をもとに、2000年以降に首相を務め、その後退任した人物を対象としている。小渕恵三は2000年4月まで首相を務めたが在任中に病に倒れ、退任後の政治活動を比較できないため本文の対象から外した。現職の高市早苗首相についても当然ながら対象としていない。歴代内閣の在任期間は首相官邸の公式記録による。

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