地域政経

九条レオンの地域から社会と政治・経済のこれからを考える

 選挙の日が来たのに、選挙がない。候補者のポスターが町を埋めることも、選挙カーの声が朝の静けさを破ることもなく、それでも告示の日が過ぎれば議員や首長が決まっている。無投票当選とは、候補者数が定数を超えなかったため投票を行わずに当選者が決まる制度上まったく合法的な仕組みであり、それ自体を直ちに民主主義の異常と呼ぶことはできない。しかし、その静けさが一度だけではなく、各地で繰り返されるようになったとき、その背後には人口減少時代の地方自治が抱える構造的な変化が見えてくる。

 本稿では、首長選挙や都道府県議会議員選挙でも発生する無投票のすべてを一括して論じるのではなく、なり手不足の問題がとりわけ鮮明に表れている町村議会議員選挙を中心に考えていく。選挙の種類が違えば無投票になる理由も完全には同じではなく、たとえば首長選挙では現職の強さや政党・地域勢力の関係などが大きく作用するため、「地方選挙の無投票には一つの原因がある」と考えること自体が適切ではないからである。

町村議会では、無投票はすでに珍しい出来事ではない

 全国町村議会議長会の集計を見ると、町村議会議員の一般選挙で無投票となった町村の割合は、2011年5月から2015年4月までの20.4%から、2015年5月から2019年4月には21.9%、2019年5月から2023年4月には27.4%へと上昇している。さらに2023年の統一地方選挙だけを見ると、町村議会議員選挙が行われた373町村のうち123町村、33.0%が無投票となった。

 さらに重要なのは、実際に無投票となった自治体だけを見ても候補者不足の全体像は分からないことである。2019年5月から2023年4月までの町村議会議員選挙では、無投票となった町村に、候補者数が定数をわずか1人だけ上回った町村まで加えると全体の59.7%に達しており、これは町村議会の約6割が「候補者があと一人少なければ無投票」という境界付近にあったことを意味する。無投票選挙は、もはやごく一部の山間部や離島だけで起きる例外的な現象ではなく、地方議会の候補者供給そのものが細くなっていることを示す現象として考える必要がある。

人口が少ない自治体ほど無投票になりやすいのは確かである

 最初に思い浮かぶ原因は人口減少だろう。住民が少なくなれば議員になろうとする人の母数も小さくなるため、小規模自治体ほど無投票になりやすいという説明には直感的な説得力があり、実際の統計もその傾向をかなり明瞭に示している。

 2017年5月から2021年4月までの市町村議会議員選挙を分析した研究では、無投票となった252選挙のうち241選挙、95.6%が「選挙人5万人以下、当選者20人以下」という比較的小規模な範囲に入っていた。また、無投票自治体の選挙人平均は約1万2900人だったのに対し、投票が行われた自治体では約5万4200人となっており、自治体規模と無投票との間には明瞭な関連が確認できる。

 ただし、ここで「人口が少なければ無投票になる」と単純化してしまうと、現象のかなり重要な部分を見落としてしまう。同じ研究では自治体の面積そのものには極端な差がみられなかった一方、1平方キロメートル当たりの選挙人数は、無投票自治体で約69人、投票が行われた自治体では約253人と大きく異なっていた。つまり、人口の総数だけでなく、人がどの程度まとまって暮らしているかという人口密度も無投票と関連しているのである。

 もっとも、この数字から「人口密度が低いことが無投票を引き起こす」と因果関係まで断定することはできない。人口密度の高い自治体では企業や商店、学校、地域組織、政党活動、職業構成なども同時に異なるため、人口密度だけの効果を切り離すことは難しいからである。統計が確実に示しているのは、小規模で人口密度の低い自治体ほど無投票が多いという相関であって、その背後にどのような社会構造が介在しているかは、さらに考える必要がある。

同じ5000人の町でも、候補者を生み出す力は同じではない

 人口5000人の町を二つ想像してみよう。一方には駅があり、その周囲に住宅、商店、学校、診療所、事業所が集まり、多様な職業や世代の住民が日常的に交わっている。もう一方では広い山間部に小さな集落が点在し、若い世代の多くが町外へ通勤し、地域組織の担い手も高齢化している。同じ人口5000人であっても、この二つの町から新しい議員候補が生まれる可能性まで同じだと考える理由はない。

 選挙とは、住民の頭数から一定割合で候補者が発生する仕組みではなく、政治に関心を持つ人が存在し、その人が立候補を現実的な選択肢だと考え、仕事や家族生活との調整ができ、周囲から一定の支援を受け、選挙に必要な時間と費用を負担できて初めて候補者が一人誕生する制度である。この過程のどこか一つでも大きな障壁が生じれば、人口が存在していても候補者は出てこない。

減っているのは「議員になれる年齢の人」だけではない

 町村議会の変化を見るうえでは、人口減少とともに年齢構成にも注意する必要がある。全国町村議会議長会の調査では、町村議会議員の平均年齢は2015年の62.7歳から2019年には63.9歳、2023年には64.4歳へ上昇している。また、在職20年以上の議員割合も12.3%から15.3%、16.2%へ増加している。

 一方、在職4年未満の議員割合は2015年の26.3%から2019年には24.9%へ低下し、2023年には25.9%までやや回復したものの、2015年をなお下回っている。このため「新人議員が一貫して減り続けている」と表現するのは正確ではないが、長期在職者の比率が高まり、議会構成の高齢化が進んでいることは確かであり、新しい世代への交代が十分に進んでいるとは言いにくい。

 問題は単なる年齢ではなく、現役世代が地方議員という仕事を選択できる生活条件を持っているかどうかである。若い人が町に残っていても、住宅ローンを抱え、子どもを育て、会社員としてフルタイムで勤務しているなら、地方議員への立候補は容易ではない。したがって候補者不足を考えるとき、本当に見るべきなのは「25歳以上の住民が何人いるか」ではなく、「現実に立候補できる生活条件を持つ人が何人いるか」なのである。

月額約22万円の議員報酬をどう見るか

 町村議会議員の報酬の低さも、なり手不足を考えるうえで無視できない。全国町村議会議長会の2025年調査では、町村議会議員の平均月額報酬は約22万3000円であり、人口5000人未満の町村では平均約19万2000円にとどまっている。

 もちろん、議員報酬が低いという事実だけで無投票が発生するわけではなく、報酬を上げれば候補者不足が自動的に解消するとも限らない。しかし、地方議員の仕事には本会議への出席だけでなく、委員会、行政資料の調査、住民相談、地域行事、政策研究などが伴うため、十分な生活収入を得られる専業職とは言いにくい一方、副業として簡単にこなせるほど軽い仕事でもないという矛盾が生じる。

 この条件は、とりわけ会社員に重くのしかかる。勤務先に兼業制度や休職制度がなければ立候補を機に退職せざるを得ない場合があり、しかも選挙に当選する保証はなく、当選しても4年後に再選できる保証はない。そのため、40代や50代の会社員が「地域のために働いてみたい」と考えても、その意欲だけでは越えられない経済的な壁が存在する。

 地方議会のなり手不足とは、政治に関心のある人がいない問題というより、政治に関心があっても職業生活を維持したまま参加することが難しい問題として捉えた方が実態に近い。

小さな町ほど、立候補は本人だけの問題ではなくなる

 小規模地域では住民同士の関係が密接であり、それは災害時の助け合いや高齢者の見守りでは大きな長所となるが、選挙では必ずしも政治参加を促進する方向だけに作用するとは限らない。

 全国町村議会議長会が行った現地調査では、小規模な町村では候補者本人だけでなく家族や親族まで地域から注目されるため、家族の反対によって立候補を断念した事例や、地域の推薦を受けていない移住者が立候補を考えた際に周囲から難色を示された事例などが報告されている。また、一部地域には、自ら立候補することを「出過ぎた行為」と捉える文化的な感覚が残っているとの指摘もある。

 ただし、これらは全国すべての小規模自治体に共通することを統計的に証明した結果ではなく、現地調査や聞き取りから得られた事例であることには注意が必要である。それでも、立候補が匿名性の高い都市部とは違って本人の政治的決断だけでは完結せず、家族や地域の人間関係を巻き込む場合があるという指摘は、候補者不足を人口統計だけでは説明できない理由の一つになる。

 ここには地方政治の難しい逆説がある。地域とのつながりが強い人ほど議員に向いているように見える一方、その人ほど立候補によって失う可能性のある人間関係も多い。商売をしていれば顧客との関係を考え、会社員なら勤務先を考え、家族は近所付き合いを考えるため、政治参加によって生じる社会的な費用が大きくなれば、「そこまでして議員にならなくてもよい」と判断することも個人にとっては合理的なのである。

候補者だけでなく、候補者を「担ぐ人」も減っている

 地方選挙では、候補者本人がある日突然政治家を志し、すべてを一人で準備して立候補するとは限らない。かつては自治会、商工団体、農業関係者、地域の世話役などが候補者を探し、「次はあの人に出てもらおう」と本人を説得し、選挙運動を支えることも珍しくなかった。候補者の背後には、候補者を発見し、支援し、政治へ送り込む地域社会の仕組みが存在していたのである。

 ところが人口減少と高齢化は、候補者になる世代だけでなく、その「担ぎ手」となってきた地域組織の側にも及んでいる。全国町村議会議長会の調査でも、従来の選挙を支えた組織や担ぎ手が弱まり、初めて立候補する人が選挙手続きや人員確保、資金準備などを自ら行わなければならない状況が指摘されている。

 もっとも、自治会や商工会などの縮小が候補者数をどの程度減らすのかを全国的な統計から数量的に示した研究は十分ではないため、「地域組織が弱くなったから無投票が増えた」と直接的な因果関係を断定することはできない。それでも、政治参加には候補者本人だけでなく候補者を発掘し支援する社会的な基盤が必要だという考え方には十分な合理性がある。

 人口減少から無投票へ至る経路は、「人口が1割減れば候補者も1割減る」という単純なものではないのかもしれない。人口が減ることで若年層が減り、事業所や商店が減り、地域組織が弱まり、候補者を探す人も支援する人も少なくなり、その長い連鎖の最後に候補者不足が数字となって表れると考える方が、地方社会の実態には近い。

定数を減らせば解決するという単純な話でもない

 候補者が少ないのであれば議員定数を減らせばよいという考え方も、一見すると合理的である。定数12人に候補者が12人しかいないため無投票になるのであれば、定数を10人に減らせば候補者12人で選挙が成立するからである。

 しかし、定数削減には別の作用もある。議席が少なくなれば一人の候補者が当選するために必要な支持は相対的に大きくなり、既存の支持基盤を持たない新人にとって参入障壁が高くなる可能性がある。町村議会を対象とした研究でも、低い議員報酬だけでなく少ない議員定数と無投票との関連が指摘されている。

 もちろん、定数を減らせば必ず候補者がさらに減るという意味ではなく、短期的には候補者数と定数との差が広がり、無投票を回避できる自治体もあるだろう。しかし、無投票を解消することだけを目的として定数を減らし続ければ、形式上は選挙が成立していても、新しい人が政治へ参入するための入口まで狭くしてしまう可能性がある。

無投票になりやすい自治体にあるのは、一つの原因ではなく「条件の重なり」ではないか

 ここまでを整理すると、無投票選挙が増える自治体の特徴を一つの数字だけで説明することは難しいことが分かる。統計的にかなり確実なのは、小規模で人口密度の低い自治体ほど無投票が発生しやすいということであり、その背景には高齢化、議員報酬の低さ、会社員が立候補する際の職業上のリスク、地域組織の担い手不足、新人が参入する際の障壁など、複数の条件が重なっている可能性がある。

 したがって、「人口5000人以下なら無投票になる」といった明確な境界線を設定することはできない。同じ5000人の町でも人口密度、産業構造、通勤形態、議員報酬、議員定数、地域組織、移住者の割合、地域社会の開放性などが違えば候補者供給の条件も異なるからである。

 科学的に重要なのは、ここで相関と因果を混同しないことである。小規模自治体ほど無投票になりやすいことはかなり強いデータで確認できるが、「人口が少ないから無投票になる」という単独の因果関係が証明されているわけではない。むしろ自治体が小規模になるにつれて、候補者を生み出す社会的・経済的条件が複数同時に厳しくなると考える方が、現在確認できる研究には整合的である。

本当に問題なのは「選べない状態」が続くことである

 無投票選挙については、選挙費用がかからず、地域内で候補者への合意が形成されているのであれば合理的ではないかという考え方もできる。実際、一度無投票になったという事実だけから、その自治体の民主主義が機能していないと断定することはできない。

 しかし、無投票が何度も繰り返される場合には別の問題が生じる。選挙がなければ候補者同士の政策比較は行われず、住民は複数の選択肢から地域の将来像を選ぶ機会を持たない。選挙期間中に本来行われるはずだった政策論争そのものが発生しないため、誰が当選するかという結果だけでなく、地域社会が政治を考える過程そのものが失われることになる。

 競争性の低い選挙と投票率との関連を示す研究は存在するものの、「無投票が続くことで住民の主権者意識が低下し、その結果としてさらに候補者が減る」という因果の連鎖までが全国的なデータによって十分に証明されているわけではない。逆に、もともと政治参加の低い地域だからこそ無投票が起こりやすいという逆方向の因果も考えられる。

 したがって、無投票が住民の政治意識を必ず低下させると断定するよりも、無投票が繰り返されれば、住民が候補者を比較し、政策を選択し、地域の将来について議論する機会が継続的に失われるという事実そのものを問題として捉える方が適切である。

無投票率は「地域の更新能力」を映す指標になり得るか

 ここから先は、現在の研究によって確立された結論ではなく、一つの仮説として考えてみたい。無投票率は、その地域社会が新しい担い手をどれだけ生み出せるかという「地域の更新能力」を見る補助的な指標として使えるのではないだろうか。

 人口減少率や高齢化率は地域の人口構造をよく表すが、それだけでは新しい住民が地域活動へ参加できるのか、若い世代が意思決定に入れるのか、既存組織の外から新しい人が出てこられるのかまでは分からない。もし人口規模や高齢化率がほぼ同じ二つの自治体で、一方では毎回複数の新人候補が現れ、もう一方では何期も無投票が続いているとすれば、その違いには人口統計だけでは捉えられない社会的な条件が存在する可能性がある。

 この仮説を検証するには、自治体ごとの無投票回数と人口減少率、高齢化率、人口密度、議員報酬、定数、産業構造、新人候補割合、移住者割合、地域組織への参加状況などを長期間にわたって比較する必要がある。その研究が十分に行われているわけではない以上、「無投票率が地域衰退を示す」と断定することはできないが、地域社会の政治的な新陳代謝を見る材料として注目する価値はある。

選挙がなくなる前に、何が地域から失われているのか

 無投票選挙の増加を人口減少だけの問題として処理すると、「人口が少ない地域では仕方がない」という結論になりやすい。しかし、実際には同じ規模の自治体であっても選挙になるところと無投票になるところが存在している以上、人口だけでは説明できない何かがある。

 そこには議員という仕事の経済条件、会社員が政治参加するための制度、候補者を支える地域組織、外部から来た住民や若い世代を受け入れる地域社会の開放性、そして議会そのものが住民から魅力ある政治参加の場として見えているかどうかまで、多くの要素が絡んでいる可能性がある。

 選挙とは、誰を選ぶかを決める制度である。しかし、その前にはもっと根本的な条件が存在する。選ばれようとする人が複数いなければ、住民が「選ぶ」という行為そのものが成立しないからである。

 地方自治にとって本当に注意すべき変化は、投票率が50%を切ることだけではないのかもしれない。そのさらに手前で、投票率を計算する選挙そのものが行われなくなっていくことにも目を向ける必要がある。

 人口が静かに減る町では、最初に学校が統合され、商店が閉じ、路線バスが消えるとは限らない。それらの変化と並行して、「次の選挙に出る人がいない」という政治の担い手不足が先に姿を現すこともある。ポスターのない選挙期間は静かであり、住民の日常生活が直ちに変わるわけでもない。しかし、その静けさが4年ごとに繰り返されるようになったとき、私たちは「選挙がなくて困らない」と考えるだけでなく、なぜこの地域から選ばれようとする人が生まれにくくなったのかを問い直す必要がある。

 無投票選挙が発しているのは、「人口が減った」という単純な警報ではない。それは、地域社会が新しい担い手を生み出し、世代を交代させ、異なる意見を政治へ送り込む力が今も残っているのかを問いかける、人口減少時代の地方自治から届く静かな警告なのかもしれない。

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人口が減れば、自治体の職員も減っていく。それ自体は、それほど不思議な話ではない。住民が5万人から3万人になれば、役場も同じ人数の職員を抱え続ける必要はないように見えるからだ。

ところが、行政という仕事は人口に比例して小さくできるものばかりではない。

住民が半分になっても道路が半分になるわけではなく、橋が半分になるわけでもない。水道管や下水道管も、住民票を発行する制度も、税を徴収する仕組みも、災害が起きたときの対応も残る。人口減少社会で自治体に起きる本当の問題は、仕事の量が減る速度より、その仕事を担う人が減る速度のほうが速くなることである。

では、自治体職員が減っていったとき、何から維持できなくなるのだろうか。

おそらく最初に姿を消すのは、住民票の発行でも、税金の徴収でもない。もっと目立たず、普段は役所の存在さえ意識しないところから、行政の余力が失われていく。

役所の窓口が最初になくなるとは限らない

自治体の仕事というと、役所の窓口を思い浮かべる人は多い。住民票を取り、転入届を出し、税金や国民健康保険について相談する。職員が減れば、まず窓口が維持できなくなるようにも思える。

しかし、実際にはこの分野は比較的人員削減に耐えやすい。

現在、国は地方自治体の基幹業務システムの統一・標準化を進めており、住民基本台帳、地方税、介護保険、国民健康保険、生活保護、障害者福祉など20業務が標準化の対象になっている。目的の一つは、情報システムに費やす人的・財政的負担を減らし、職員を住民への直接的なサービスや企画業務へ振り向けることである。オンライン申請の普及も、この方向にある。

つまり、単純な申請や証明書発行のように、手続きが定型化されている仕事ほど、デジタル化や共同処理によって人数の減少を吸収しやすい。

もちろん、高齢者への窓口支援など、人が必要な部分まで消えるわけではない。それでも「一件の住民票を発行するために、その自治体だけの高度な専門家が必要」という仕事ではない。

問題になるのは、その反対側にある仕事である。

最初に苦しくなるのは「専門家が一人いないと動かない仕事」

道路に異常が見つかったとする。

単に穴が開いているだけなら補修を発注すればよいように見えるが、現実の行政ではそう簡単ではない。現場を確認し、危険度を判断し、工事方法を検討し、予算を確保し、設計や積算を行い、施工業者と調整し、完成した工事を検査する必要がある。

そこには土木の知識を持った職員が必要になる。

ところが、この人材がすでに薄くなっている。

国土交通省の資料では、1996年度から2024年度までに市区町村全体の職員数が約16%減少したのに対し、土木部門の職員数は約26%減少している。さらに、全国のおよそ半数の市区町村では技術系職員が5人以下である。別の国土交通省資料では、2023年時点で土木技師・建築技師が一人もいない自治体が435団体とされている。

ここに、人口減少時代の行政サービスを考える重要なヒントがある。

行政は「職員が100人から90人になったからサービスも一律に10%低下する」という仕組みではない。100人の中から土木技師が3人から2人になり、2人から1人になり、最後の1人が退職した瞬間、それまで自治体内部で完結していた機能が突然成立しなくなることがある。

人数の問題であると同時に、専門性の問題なのである。

道路や橋は、壊れてから問題になるのではない

こうした専門職不足の影響は、ある朝突然、道路が閉鎖されるという形で始まるとは限らない。

最初に起きるのは、おそらく「優先順位をつける行政」である。

以前なら年に何度も巡回していた道路を見る回数を減らす。小さな補修は翌年度へ送る。利用者の少ない施設への投資を先送りする。橋の点検で問題が見つかっても、緊急性の高いものから対応する。

その一つ一つは合理的な判断である。

ところが、それが10年続くと地域の姿が変わる。

人口の多い中心部では道路も施設も維持されるが、利用者の少ない地区では修繕までの期間が延びる。同じ自治体の中でも、行政サービスの密度に少しずつ差が生まれる。

人口減少によって最初に起きるのは、行政サービスの「消滅」ではなく、行政サービスの「粗密化」なのかもしれない。

そして、この変化は住民から見えにくい。

役場は開いている。住民票も取れる。ごみも収集されている。それでも町のどこかでは、橋の補修が一年延び、道路の草刈り回数が減り、水路の点検間隔が長くなっている。

行政機能は、ある日突然なくなるのではなく、少しずつ薄くなっていく。

次に苦しくなるのは「現場へ行かなければできない仕事」

デジタル化には大きな効果があるが、自治体の仕事をすべてデジタル化できるわけではない。

住民票はオンラインで処理できても、崩れかけた道路をオンラインで直すことはできない。

倒木が道路をふさいだら誰かが現場へ行かなければならない。大雨で側溝があふれたら現場を確認しなければならない。空き家が倒壊しそうなら建物を見る必要がある。高齢者の生活状況を確認する必要があれば、電話や画面だけでは判断できないこともある。

ここには、行政サービスのもう一つの境界線がある。

「情報を処理する行政」は少人数化しやすいが、「現実の地域を管理する行政」は少人数化しにくいのである。

人口減少が進む地方ほど、この矛盾は大きくなる。住民は減るのに自治体の面積は縮まらないからだ。

10平方キロメートルの町で人口が半分になっても、管理する土地が5平方キロメートルになるわけではない。道路、水路、山林との境界、公共施設、海岸、河川など、行政が関係する空間はほぼそのまま残る。

人口密度が低下するとは、一人の職員が担当しなければならない「地域の広さ」が相対的に大きくなることでもある。

災害対応は、普段の職員不足を一気に表面化させる

平常時には何とか回っている自治体でも、台風や豪雨、大規模地震が発生すると状況は変わる。

行政職員には通常業務とは別に災害対応が発生する。避難所を開設し、道路の被害を調べ、住民からの問い合わせに応じ、断水や停電の状況を把握し、国や都道府県との連絡を行い、被害認定や罹災証明にも対応しなければならない。

普段100の仕事を100人で処理している組織なら、一時的に120の仕事が来ても何とか対応できるかもしれない。

しかし、100の仕事を70人でぎりぎり処理する組織に、突然120の仕事が来れば事情は違う。

人口減少地域で恐ろしいのは、平常時の行政サービスが維持されているように見えるため、組織の「余白」がどれほど失われているのか住民から分かりにくいことである。

自治体職員の減少問題は、単なる窓口待ち時間の問題ではない。

災害時に行政がどこまで同時に動けるかという、地域の安全性そのものにかかわっている。

福祉行政は「なくなる」のではなく、一人あたりの負担が重くなる

一方で、人口減少社会では、住民が減るからといって福祉行政の需要まで同じように減るとは限らない。

むしろ、高齢化によって介護、生活支援、認知症、孤立、成年後見、身寄りのない高齢者への対応など、一件あたりの判断が難しい案件が増える可能性がある。

この仕事は住民票発行のように完全には定型化できない。

同じ「高齢者一人暮らし」でも、家族関係、所得、健康状態、認知機能、住宅環境、近隣との関係によって必要な支援は違うからだ。

したがって福祉分野では、サービスそのものが突然なくなるというより、一人の職員が担当する案件が増え、相談から対応までの時間が長くなるという形で職員不足が現れやすい。

ここでも行政サービスは「あるか、ないか」では測れない。

同じ制度が残っていても、相談員が十分にいる自治体と、少人数で多数の案件を抱える自治体では、実際に住民が受ける行政サービスの質は同じとは限らない。

「最初に維持できなくなるサービス」を一つに決めることはできない

では結局、自治体職員が減ったとき、最初に維持できなくなる行政サービスは何なのか。

全国共通で「これ」と一つに決めることは難しい。

ただし、弱くなりやすい行政には共通した特徴がある。

処理件数が少なくても一定数の専門職を必要とし、現場へ出る必要があり、機械的な標準化が難しく、しかも事故や災害が起きたときには即時に判断しなければならない仕事である。

道路、橋、上下水道、建築、防災、福祉などがその典型になる。

反対に、全国で制度が共通していて、処理方法を標準化しやすく、デジタル化や外部との共同処理が可能な業務は、比較的長く維持しやすい。

この違いを考えると、将来の自治体行政は「すべての仕事を現在の形のまま少人数で続ける」方向には進みにくい。

むしろ、何をその自治体が自分で担い、何を周辺自治体や都道府県と共同化し、何を民間に委託し、何をデジタル化するのかという再設計が避けられなくなる。

合併しなくても「役所の中身」は共同化されていく

人口が減れば市町村合併をすればよい、という考え方もある。

しかし、自治体を合併しなくても行政機能を共同化することはできる。

例えば、専門職を複数自治体で共有したり、一部の事務を広域組織で処理したり、都道府県が技術的支援を行ったりする方法がある。情報システムについても、約1,800の地方公共団体がそれぞれ独自に開発・保有する方式から、標準化された仕組みを利用する方向へ政策は動いている。

ここで重要なのは、「自治体を残すこと」と「自治体がすべての行政能力を自前で持つこと」は別問題だということである。

町長も議会も役場も残っている。しかし道路行政の専門機能は周辺自治体と共有する。情報システムは共通化する。高度な建築審査は広域で担う。

そうした自治体が今後増えても不思議ではない。

行政区域は残りながら、行政機能だけが広域化するのである。

人口ではなく「職員構成」を見なければ自治体の将来は分からない

地方自治体について語るとき、私たちは人口を見る。

人口3万人、1万人、5000人という数字は分かりやすいからだ。

しかし、本当に行政を維持できるかを考えるなら、人口だけでは十分ではない。

職員が何人いるのか。その中に土木、建築、保健、福祉、情報といった専門職が何人いるのか。50歳代の職員が退職したあと、代わりになる若手が採用できているのか。一人しかいない専門職が休職したり退職したりしたとき、その仕事を誰が引き継ぐのか。

こちらのほうが、地域の将来を考えるうえでは重要な数字になっていく。

人口1万人でも専門職を確保し、周辺自治体と業務を共同化し、デジタル化によって定型業務を効率化できれば行政を維持できる可能性はある。

反対に、人口がそれより多くても、専門職を採用できず、業務を職員個人の経験に依存していれば、特定の行政機能が先に弱くなることはあり得る。

人口規模だけから「何人以下なら自治体は維持できない」と線を引くのが難しい理由も、ここにある。

最後まで役場は残っていても、行政は以前と同じではない

人口減少社会で起きる行政の縮小は、役場が閉鎖されるところから始まるのではないだろう。

役場は最後まで残る可能性が高い。

住民票も発行され、税金も徴収され、ホームページには行政サービスの一覧が掲載され続ける。

それでも、その裏側では道路を見回る回数が減り、専門職一人の担当範囲が広がり、福祉相談の案件が積み重なり、災害時に応援へ回せる職員が少なくなっていく。

行政サービスが失われるとは、「制度の名前がなくなること」だけではない。

同じ制度が存在していても、対応までの日数が長くなり、現場へ行ける回数が減り、予防的な仕事より緊急対応が優先されるようになれば、その行政サービスはすでに以前とは違うものになっている。

だから人口減少地域を見るとき、役所が存在するかどうかだけを見ても十分ではない。

見るべきなのは、その役所に「地域で何か起きたとき、実際に動ける人が何人残っているか」である。

人口減少後の地方自治を左右するのは、役場という建物を残せるかどうかではない。

その建物の中に、地域を動かす知識と経験を持つ人を残せるかどうかなのである。

そして日本の地方自治は今、「住民が何人まで減れば維持できないのか」という問題から、「少なくなる職員で、どの行政機能をどこまで自前で持ち続けるのか」という、もう一段難しい問題へ入り始めている。

参考資料

本稿では、国土交通省による市区町村の職員数・土木系技術職員に関する資料、およびデジタル庁による地方公共団体の基幹業務システム統一・標準化に関する公表資料を参照した。国土交通省は、自治体のインフラ管理体制について、技術系職員の減少と人的制約への対応を重要課題として示している。またデジタル庁は、主要20業務のシステム標準化によって人的・財政的負担を軽減し、職員を住民への直接的サービスなどへ振り向ける方向を示している。

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平成の時代、日本地図から多くの市町村名が消えた。

昨日まで町だった場所が、翌日から隣の市の一部になる。役場の看板が替わり、住所の表記が変わり、長く親しまれてきた町の名前が行政区画から姿を消していった。人口減少と財政難に備えるためには、小さな自治体が一つになり、役場も議会も行政組織もまとめた方が効率的だという考え方が、その背景にあった。

いわゆる「平成の大合併」である。

しかし、人口減少がさらに進んだ現在、私たちはもう一度、少し違う問いを立ててもよいのではないだろうか。

町そのものをなくさなくても、仕事だけを一緒にすることはできないのか。

結論からいえば、それはできる。

しかも地方自治の制度には、複数の市町村が行政事務を共同で処理するための仕組みが、すでにいくつも用意されている。消防、ごみ処理、介護認定、斎場、水道、救急、情報システムなど、住民から見れば一つの自治体が行っているように見える仕事であっても、実際には複数自治体が協力して運営している例は珍しくない。

ここに、人口減少時代の地方自治を考える重要な手掛かりがある。

「町を残すこと」と「仕事を全部自分でやること」は同じではない

人口五千人の町と人口五万人の市があるとする。

人口は十倍違う。しかし行政に必要な仕事が十分の一になるわけではない。

住民票を発行しなければならない。税金を計算しなければならない。生活保護や障害福祉、介護、子育て、道路、上下水道、防災、選挙、戸籍、建築、農業、環境問題にも対応しなければならない。

人口が少ないからといって、「今年から税務はやめます」「建築行政はありません」というわけにはいかないのである。

ここに小規模自治体の難しさがある。

人口が減るほど職員数を減らさなければ財政負担は重くなる。しかし職員を減らしすぎれば、一人の職員がいくつもの分野を担当することになる。しかも行政の仕事は以前より単純になっているわけではない。福祉制度は複雑になり、災害対応は高度化し、情報システムや個人情報保護への対応も求められる。

町役場の建物は残っていても、その中で専門的な行政を動かす人間が足りなくなる。

人口減少時代に起きる問題は、役場が突然消えることよりも、むしろこちらの方が現実的なのである。

ならば発想を逆にすればよい。

自治体という単位は残しながら、一つの町だけでは維持しにくい仕事を、周辺自治体と一緒に行えばよいのである。

実は消防も、ごみ処理も、すでに「町の外」で行われている

私たちは行政というものを、町役場の中だけで完結する仕事のように考えがちである。

けれども実際の地方行政を眺めてみると、自治体の境界を越えて処理されている仕事はかなり多い。

分かりやすいのが消防である。

小さな町がそれぞれ消防本部を持ち、それぞれ高価な消防車や救急車をそろえ、それぞれ指令センターを運営するより、複数自治体が共同で消防組織を持つ方が合理的な場合がある。

ごみ処理施設も同じだ。

焼却場は、人口千人だから人口十万人の自治体の百分の一の大きさで造ればよい、という施設ではない。ある程度の設備規模が必要であり、建設にも維持にも専門職員にも費用がかかる。そこで複数自治体が共同して処理施設を持つ。

火葬場、し尿処理、介護認定審査、救急医療などでも、似た構造が現れる。

つまり日本の地方行政は、すでに部分的には「自治体の形」と「行政サービスを提供する範囲」が一致していない。

町境という線は地図には描かれている。しかし、ごみ収集車も救急車も医療圏も、人々の日常生活も、その線をそれほど律儀には守っていないのである。

合併とは、会社そのものを一つにするようなものだ

市町村合併を企業にたとえるなら、二つの会社が一つの会社になることに近い。

経理部だけ共同にするのではない。会社名も経営者も組織もまとめ、新しい一社になる。

確かに効率化できる部分は大きい。

市長や町長は一人になる。議会も一つになる。総務、財政、人事などの部門も統合できる。規模が大きくなれば専門職員を置きやすくなる可能性もある。

しかし、それと引き換えに失うものもある。

役場が遠くなることがある。地域ごとの事情が行政に届きにくくなることもある。そして何より、それまで独立した自治体として持っていた意思決定の単位そのものがなくなる。

人口千人の町にも、百年近い歴史があるかもしれない。

海辺の町と山間の町では、同じ人口であっても産業も災害リスクも交通事情も違う。観光を重視したい町もあれば、農業や福祉を重視したい町もある。

行政効率だけを考えるなら、大きな自治体ほど有利に見える。しかし地方自治とは、単なる事務処理会社ではない。

「この地域をどうしたいか」を住民が決める仕組みでもある。

そこで、自治体そのものは残しながら、必要な行政機能だけを共同化するという考え方が重要になる。

「役場を共有する」のではなく、「専門能力を共有する」

これからの共同化で本当に重要なのは、建物を一緒に使うことではない。

人材を共有することである。

たとえば人口数千人規模の自治体が、それぞれ高度な情報システムの専門職員を何人も雇うことは難しい。建築、土木、福祉、法務といった専門分野でも同じ問題が起こる。

人口が減っていく社会で、すべての自治体がすべての専門家を一式そろえるという行政モデルには限界がある。

ところが五つの自治体が共同すれば事情は変わる。

一自治体では一人も雇えなかった専門職を、広域で数人配置できるかもしれない。職員同士で経験を共有でき、担当者が一人しかいないため休めないという状況も緩和できる。

これは単なる経費削減ではない。

むしろ小さな自治体が行政の質を維持するための仕組みである。

人口減少社会では、「何人の職員を減らせるか」だけを考えて共同化すると失敗する可能性がある。必要なのは、一つの自治体だけでは持てなくなった専門能力を、地域全体でどう維持するかという視点なのである。

では、何でも共同化すればよいのか

ここで話は少し複雑になる。

行政を共同化できるからといって、すべてを共同化すればよいわけではない。

ごみ処理施設のように、住民が毎日その施設を訪れる必要のないサービスなら広域化しやすい。

消防指令センターも、広域化による効果が比較的分かりやすい。

しかし福祉相談となると事情が違う。

生活に困った人、高齢者、障害のある人、子育てに悩む家庭が相談する窓口まで何十キロも離れた場所に集約されれば、行政効率は上がっても住民にとっては不便になる。

行政には、「大きくした方が効率的な仕事」と「住民の近くに残した方がよい仕事」があるのである。

この二つを区別しなければならない。

たとえば、裏側の計算や情報システムは共同化しながら、住民が相談する窓口は各町に残すことも考えられる。

いわば、舞台裏は一つにしても、玄関は町ごとに残す。

人口減少社会の行政共同化とは、本来そのような設計であるべきだろう。

問題は「誰が決めるのか」である

共同化には、効率とは別の難しさもある。

三つの市町村が一緒に仕事をするとしよう。

人口十万人の市と、人口一万人の町と、人口三千人の村が参加していた場合、三自治体の意見を完全に同じ重さで扱うべきだろうか。

人口に比例して決めれば、大きな市の意見が強くなる。

一自治体一票なら、小さな自治体の影響力が相対的に大きくなる。

施設をどこに造るのか。費用をどう負担するのか。職員をどこに置くのか。サービス水準をどこまで統一するのか。

共同化すると、このような問題が必ず現れる。

地方自治には奇妙な性質がある。

一人で仕事をすれば自由だが、費用が高くなる。

一緒に仕事をすれば安くできるかもしれないが、今度は相談しなければ何も決められなくなる。

これは行政だけの問題ではない。共同生活そのものが持つ宿命である。

だから広域行政を考えるときには、「共同化すれば効率化できる」という一行で終わらせてはいけない。

共同化とは、費用を分け合う仕組みであると同時に、決定権を分け合う仕組みでもある。

これから消えるのは市町村ではなく、「全部入りの役場」かもしれない

これまで日本では、小さな自治体であっても、できるだけ多くの行政機能を一つの役場の中に持つことが当然だと考えられてきた。

しかし人口が減り、職員の採用も難しくなる社会では、その前提そのものを変える必要がある。

町長も議会も役場も残る。

住民票も地域福祉の相談窓口も町内に残る。

一方で、消防、情報システム、専門職、施設管理、税務の一部などは周辺自治体と共同で運営する。

そうなれば、市町村という存在は今より少し違うものになる。

自治体は「行政サービスをすべて自分で生産する組織」ではなく、「地域として何を必要とするかを決め、必要に応じて周辺自治体と共同でサービスを提供する組織」へ変わっていく。

これは民間企業でいえば、すべての業務を社内に抱える経営から、重要な意思決定は自社で行いながら、共通業務を共同化する経営への変化に近い。

市町村の独立性を守ることと、行政をすべて自前で行うことは、本来別の問題なのである。

平成の次に来るのは「合併」ではなく「接続」なのかもしれない

平成の大合併は、自治体そのものを大きくすることで行政能力を維持しようとした。

人口がさらに減っていく令和の地方に、同じ方法だけで対応できるとは限らない。

隣町と一つにならなくてもよい。

町の名前も、議会も、地域の意思決定も残すことができる。

その代わり、消防は一緒にする。専門職は共有する。情報システムも共同で使う。大規模な公共施設は地域全体で配置する。

そう考えると、将来の地方自治の地図は、現在の市町村境界だけでは表現できなくなる。

行政区域の地図の上に、消防の区域、医療の区域、交通の区域、ごみ処理の区域、福祉の区域が幾重にも重なる。

町は残っている。

しかし行政は、町境を越えて動いている。

その姿は、一見すると複雑である。けれども人々の実際の生活を考えてみれば、それほど不自然ではない。

私たちは隣町の病院へ行き、隣の市のスーパーで買い物をし、自治体境を越えて働いている。救急車に乗ったとき、市町村境を越えたからといって急に生活圏が途切れるわけでもない。

むしろ行政の方が、ようやく人間の生活圏に近づいていくと考えることもできる。

人口が減ったから町を消す。

その二者択一だけが地方自治の未来ではない。

町を残しながら、できる仕事は一緒にする。そして地域ごとに残すべき仕事だけは、住民の近くに残す。

これから問われるのは、「この町を隣町と合併させるべきか」という問題だけではない。

もっと細かく、そして現実的な問いである。

この仕事は、本当にこの町だけで行わなければならないのか。

人口減少時代の地方自治は、その問いから組み直した方がよいのかもしれない。

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1990年代末から2000年代にかけて、日本では全国規模で市町村合併が進められました。

いわゆる「平成の大合併」です。

1999年3月末に3,232あった市町村は、2010年3月末には1,727まで減少しました。約11年間で、日本の市町村のほぼ半数が姿を消したことになります。合併に参加した旧市町村は2,093にのぼり、それが588の新しい市町村へ再編されました。

これほど大規模な自治体再編が行われた背景には、人口減少、高齢化、地方財政の悪化、行政サービスの高度化などへの危機感がありました。

小さな町や村がそれぞれ役場を持ち、議会を持ち、公共施設を維持するよりも、複数の自治体を一つにまとめた方が効率的ではないか。自治体の規模を大きくすれば職員や施設を集約でき、専門職員も配置しやすくなり、財政基盤も強くなるのではないか。

その考え方自体には、かなり合理的な部分があります。

では、約20年が過ぎた現在から振り返ったとき、市町村合併は本当に地方を救ったのでしょうか。

結論を先に言えば、市町村合併には行政組織を維持するという意味では一定の効果があったものの、地域そのものを再生する政策ではなかったと考えるのが妥当です。

むしろ、市町村という行政単位を大きくすることと、そこで暮らす地域社会を維持することは、まったく同じ問題ではありませんでした。

小さな自治体ほど行政コストは高くなりやすい

市町村合併を考えるうえで最初に理解しておく必要があるのは、自治体には一定の固定費が存在するということです。

人口3万人の町でも人口5,000人の町でも、役場には総務、税務、福祉、住民登録、道路管理、教育など多くの行政機能が必要です。人口が6分の1になったからといって、役場の仕事を単純に6分の1にすることはできません。

そのため一般に、小規模自治体ほど住民一人当たりの行政コストは高くなりやすくなります。

会社で考えれば分かりやすいでしょう。

売上高100億円の企業と10億円の企業であっても、経理、人事、情報システム、法務といった管理部門を完全になくすことはできません。企業規模が小さくなるほど、こうした固定費の負担率は大きくなります。

自治体でも同じことが起こります。

人口が減少する一方で、行政機能そのものは残さなければならない。この構造が、小規模自治体の財政を苦しくする大きな理由の一つです。

平成の大合併では、こうした問題への対応として自治体規模を拡大することが期待されました。

実際、合併した市町村では平均人口、平均面積ともに大幅に拡大しました。日本総合研究所が2026年に財務省財務総合政策研究所の研究会で示した資料では、合併市町村の平均人口は約2万6,000人から約9万2,000人へ、平均面積は約101平方キロメートルから約358平方キロメートルへと拡大しています。

行政区域という意味では、確かに自治体はかなり大型化したのです。

国も強力に合併を後押しした

平成の大合併は、単に自治体が自主的に統合していったわけではありません。

国も財政制度を使って強く合併を促しました。

代表的な制度が「合併特例債」です。

合併後の公共施設整備などについて事業費の95%まで地方債を発行でき、その元利償還金の70%が地方交付税で措置される仕組みでした。また、合併すると本来減少する可能性のある地方交付税についても、一定期間、旧市町村が別々に存在していたと仮定して計算する「合併算定替」が設けられました。

つまり、自治体にとって合併にはかなり大きな財政的メリットが用意されていました。

一方では、小規模自治体への地方交付税上の割増措置が縮小され、三位一体改革によって地方への財政移転も削減されました。日本総合研究所の整理では、2004年からの3年間で地方の税財源は数兆円規模で減少したとされています。

自治体側から見れば、

「合併すれば財政支援がある。しかし単独で残れば財政環境は厳しくなる」

という状況だったわけです。

したがって平成の大合併は、地方自治体が完全に自由な条件の中で選択したというより、国の制度設計によって合併を選びやすい環境が作られていた政策でもありました。

行政効率化という目的では一定の成果があった

では、実際に合併によって行政コストは下がったのでしょうか。

ここは感情論ではなく慎重に評価する必要があります。

近年の検証では、合併自治体について歳出を抑制する傾向が確認されています。

2026年に示された日本総合研究所の分析では、合併した自治体では合併特例債などによって一時的に歳出が増えるものの、その後は徐々に歳出効率化が進み、長期的にはその増加分を吸収できる可能性が示されています。公債費を除いた試算では累積約11年、公債費まで含めると累積約21年で合併に伴う歳出増を吸収するという結果です。

同資料では最終的に、

「行財政基盤の強化」と「行政の効率化」という平成の大合併の当初目的については、それなりの成果があった

と評価しています。

この点は重要です。

「平成の大合併は完全な失敗だった」と単純化するのは正確ではありません。

役場組織、議会、行政部門などを統合することで重複する機能を減らし、人口規模の大きな自治体として財政運営することには、一定の合理性がありました。

問題はその先です。

行政が効率化されたことと、地域が豊かになったことは同じではありません。

市役所が一つになっても地域は一つにならない

市町村合併で最も見落とされやすかったのが、この点かもしれません。

例えば、人口2万人のA町、1万5,000人のB町、1万人のC町が合併し、人口4万5,000人の市になったとします。

統計上は人口4万5,000人の自治体になります。

しかし、A町、B町、C町という三つの生活圏が突然一つになるわけではありません。

それぞれに商店街があり、学校があり、地域コミュニティがあり、病院があり、住民の移動範囲があります。

行政境界を消しても、地理的な距離は消えません。

特に中山間地域や半島部では、新しい市の端から中心市街地まで数十キロメートル離れているケースもあります。

自治体の面積が広がれば、本庁舎や主要公共施設への平均的な移動距離も長くなります。

行政の側から見れば一つの市でも、住民の生活圏から見れば複数の地域がそのまま残っているのです。

ここに、市町村合併の根本的な難しさがあります。

周辺地域では「中心部への集中」が起こりやすい

合併後によく指摘される問題が、旧市町村の中心部だった地域の衰退です。

合併前には、それぞれの町や村に役場がありました。

役場には職員が勤務し、住民が訪れ、周囲には金融機関、飲食店、商店、建設会社などが存在しました。

役場は単なる行政施設ではありません。

地方の小さな町では、一つの大きな事業所でもあります。

ところが合併によって本庁舎が新しい自治体の中心部に集約されると、旧役場は支所になります。職員数が減り、扱う業務も限定されます。

さらに学校、図書館、保健施設、文化施設なども統廃合されれば、人の移動は新しい自治体の中心部へ向かいやすくなります。

結果として、

行政機能の集中 → 人の流れの集中 → 商業機能の集中 → 周辺部の生活利便性低下 → さらなる人口流出

という循環が発生する可能性があります。

実際、合併後の人口変化に関する研究の中には、旧市町村の非本庁地区で人口減少率が大きくなったとする研究や、人口が中心部に集中し周辺部の人口減少が加速したとする分析があります。

ただし、ここも注意が必要です。

合併したから周辺部が衰退したのか、それとももともと人口減少が進んでいた地域だから合併し、その後も人口減少が続いたのかを完全に区別することは難しいからです。

同じ研究整理の中には、中心部と周辺部の人口格差は合併以前から存在し、社会的な人口移動に対する合併そのものの影響は限定的だった可能性を示す研究もあります。

したがって「市町村合併が周辺地域を衰退させた」と一方向の因果関係で断定するのも適切ではありません。

むしろ、

すでに弱くなっていた周辺地域に対して、行政機能の集約が追加的に作用した可能性がある

と考える方が現実に近いでしょう。

合併しても人口は増えない

さらに重要なのは、市町村合併そのものには人口を増やす仕組みがほとんどないということです。

A町とB町を合併しても人口は増えません。

人口2万人と人口3万人の町を合併すれば、人口5万人の市が誕生します。

しかしこれは人口が5万人に増えたのではなく、行政上の集計単位を変更しただけです。

出生数も増えません。

雇用も自動的には増えません。

若者が流出する原因もなくなりません。

医師や介護職員が増えるわけでもありません。

スーパーの売上高も、道路の総延長も、水道管の総延長も原則として変わりません。

ここが、市町村合併政策の限界を最も端的に表しているところでしょう。

行政組織の規模は大きくできます。

しかし地域経済そのものの市場規模を大きくすることはできません。

人口減少時代に地方を苦しめているのは、行政組織だけではありません。

地域の購買力、労働力、医療需要、公共交通利用者、住宅需要など、地域経済を支える母数そのものが減少していることが問題なのです。

市町村の境界線を引き直しても、この問題は解決しません。

「人口5万人の市」という数字にも注意が必要になる

市町村合併後の地方を見るときは、人口だけで自治体規模を判断することにも注意が必要です。

例えば、人口5万人の自治体が二つあったとします。

一方は面積100平方キロメートルに5万人が比較的集中して暮らしている。

もう一方は合併によって面積500平方キロメートルになり、その中に複数の旧町村が分散している。

同じ人口5万人でも、行政サービスを提供する条件はまったく違います。

道路、水道、消防、学校、公共交通、ごみ収集などは、人口だけではなく「面積」と「人口密度」に強く影響されます。

人口が同じでも、人が広い範囲に分散して住んでいれば、一人当たりのインフラ維持コストは高くなります。

平成の大合併によって自治体の平均人口は増えましたが、同時に平均面積も大きく増えました。

このため、

「合併して人口規模が大きくなったから自治体経営が安定した」

とは単純には言えません。

むしろ人口減少が進めば、広大な行政区域の中で少ない人口を支える問題が、これから顕在化する可能性があります。

合併しなかった自治体は失敗だったのか

平成の大合併では、合併しなかった市町村も数多く残りました。

1999年から2010年にかけて合併しなかった自治体は1,139ありました。

では、合併しなかった自治体は判断を誤ったのでしょうか。

これも一概には言えません。

自治体の条件は極めて異なります。

財政力の高い町、観光収入のある町、大企業の事業所が立地する町、人口密度の高い町などでは、小規模でも独立した自治体を維持できる可能性があります。

逆に人口数千人で、人口減少率が高く、独自の税収が少ない自治体では、今後単独で全ての行政機能を維持することが一段と難しくなります。

つまり問題は、

「合併するか、しないか」

という二者択一ではありません。

地域ごとの人口、面積、財政、産業、交通網を踏まえて、どの行政サービスを単独で維持し、どのサービスを広域化するかを考える必要があります。

これから重要になるのは「全部合併」より「部分的な共同化」

平成の大合併から約20年が過ぎた現在、再び人口減少への対応が自治体の大きな課題になっています。

しかし、次も同じように自治体を大型化すれば解決するとは限りません。

むしろ現実的なのは、市町村という組織そのものをなくすのではなく、行政機能ごとに広域化する方法でしょう。

例えば、ごみ処理施設、消防、上下水道、情報システム、公共交通、専門職員、病院などは、一つの自治体だけで維持する必要はありません。

複数の市町村で共同運営すれば、規模の経済を得られる可能性があります。

一方、住民窓口、地域福祉、防災、地域コミュニティなどは、住民との距離が近い方が機能しやすいでしょう。

つまり、

行政機能は広域化するが、地域社会まで一つにしない

という考え方です。

これは平成の大合併の経験から得られる重要な教訓ではないでしょうか。

市町村合併が救ったのは「地方」より「行政組織」だった

平成の大合併を約20年後から振り返ると、評価はかなり複雑です。

行政効率化という意味では一定の成果がありました。

小規模自治体を統合することで行政組織を大型化し、職員や施設の重複を減らし、財政基盤を強化するという考え方には合理性があります。

実際、現在の研究でも合併自治体に歳出抑制の傾向が確認され、行財政基盤の強化について一定の成果があったと評価されています。

しかし、それは地方の人口減少を止めたという意味ではありません。

地方の若者流出を止めたわけでもありません。

商店を復活させたわけでも、地域交通を維持したわけでもありません。

さらに行政機能が中心部へ集中することで、旧町村部では「自治体は大きくなったのに、自分たちの地域は小さくなった」と感じる状況が生まれたところもあります。

ここに平成の大合併の本質があります。

市町村合併とは、地域再生政策というより、人口減少社会を前にした行政システムの再編政策だったのです。

だからこそ、「市町村合併は地方を救ったのか」という問いに対する答えは、単純な成功でも失敗でもありません。

行政組織を維持するためには一定の成果があった。

しかし、地域社会を維持する問題はほとんど残されたままだった。

そしてこれから日本が直面するのは、平成の大合併よりさらに厳しい人口減少です。

次に問われるべきなのは、市町村の数をさらに減らすべきかどうかではありません。

人口が減り続けても、医療、交通、介護、水道、消防、買い物などの生活機能を、どの単位で維持していくのか。

そこまで考えて初めて、「地方を救う」という議論になるのではないでしょうか。

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~社会心理学と人口構造から考える

地方の政治を見ていると、国政とは少し違った形の対立が現れることがある。

町長選挙や市長選挙をきっかけに、地域が二つに割れる。公共施設の建設、学校統廃合、病院の再編、風力発電や太陽光発電、観光開発、ごみ処理施設など、一つの政策をめぐる意見の違いが、いつの間にか「誰が賛成したのか」「あの人はどちら側なのか」という人間関係の問題へ変わっていく。

選挙が終わっても対立が消えないこともある。

都市では、政治的に異なる候補へ投票した人同士が、その後ほとんど接触しないまま生活することもできる。しかし人口の少ない地域では、選挙で対立した相手と、翌日に同じスーパーで会い、自治会で顔を合わせ、同じ病院へ行き、子どもや孫が同じ学校へ通うことがある。

地方で起きる政治的分断には、この「政治と生活の距離の近さ」が関係している。

ただし、最初に一つ重要な点を確認しておかなければならない。

地方に住んでいるから政治的に分断しやすい、と単純に結論づけられる科学的根拠はない。

日本について、人口の少ない自治体ほど政治的分極化が必ず強いという一般法則が確立されているわけではない。むしろ地方には、住民同士の協力、相互扶助、自治活動が強く機能する地域も数多く存在する。

したがって問うべきなのは、「地方は分断するのか」ではない。

人口減少、高齢化、若年層の流出、狭い人間関係、限られた地域資源といった条件が重なったとき、なぜ政治的対立が人間関係の分断へ発展することがあるのか。

この問いなら、人口統計と社会心理学の研究を組み合わせて考えることができる。

人口が減るだけでは、地域は分断しない

日本全体の人口減少はすでに長期的な現象となっている。

総務省統計局によれば、日本の総人口は2008年の約1億2808万人をピークとして減少局面に入り、2026年7月1日の概算では約1億2293万人となっている。2026年2月1日の確定値では、65歳以上人口が約3619万8千人である一方、15歳未満人口は約1335万人となっている。

地域差はさらに大きい。

国立社会保障・人口問題研究所は2023年に公表した地域別将来人口推計で、2020年の国勢調査を基礎として、全国の市区町村について2050年までの人口と年齢構成を推計している。多くの地域で人口減少と高齢化が今後も進行することが想定されている。

しかし、人口減少そのものが政治的分断を直接発生させるわけではない。

問題になるのは、人口減少によって地域社会の「選択肢」が減っていくことである。

人口が十分に多い地域なら、学校が複数あり、病院が複数あり、商店も複数ある。どの施設を利用するかについて住民が異なる選択をしても、必ずしも誰かの選択を否定する必要はない。

ところが人口減少が進み、一つの学校、一つの病院、一つのスーパー、一つの公共交通機関を維持することさえ難しくなると、政策決定の性質が変わる。

「AもBも残す」という選択ができなくなり、

「Aを残すか、Bを残すか」

という判断が増える。

政治学や経済学でいう資源配分の問題が、地域では極めて具体的な生活問題になる。

学校を統合するか。

診療所を維持するか。

公共交通へ財政支援を行うか。

古い公共施設を建て替えるか。

観光へ投資するか。

子育て支援を優先するか。

高齢者福祉を優先するか。

人口が減るほど、自治体が利用できる人材や財源にも制約が生じやすくなるため、政策は「何をするか」だけではなく、「何をやめるか」という選択を含むようになる。

この状態では、政治的意思決定によって利益を受ける人と、不利益を受ける人が見えやすくなる。

ここから対立が生まれる可能性が高くなる。

若い人が出ていくことは、単なる人口減少とは意味が違う

地方の人口構造を考えるとき、人口の総数だけを見ていては十分ではない。

誰が移動しているのかが重要である。

総務省の人口移動統計では、東京都への移動は若年層に集中する傾向が確認されている。例えば年齢別の都道府県間移動を分析した統計では、東京都への転入は20歳代が多く、22歳の転入超過が特に大きかった。

また、2024年の住民基本台帳人口移動報告では、日本人について東京圏が11万9337人の転入超過となり、29年連続の転入超過だった。

ここで地域政治にとって重要なのは、人口流出が均等に起きるわけではないことである。

進学や就職を契機として若い世代が地域外へ移動すると、その地域の政治的意思決定に参加する年齢構成も変化する。

地域に残る人々が高齢化すれば、医療、介護、公共交通、年金、生活インフラなどの重要度は当然高くなる。

一方、子育て、教育、新規産業、若者向け住宅、起業支援などへの投資を重視する人もいる。

ここで重要なのは、高齢者と若者のどちらが正しいという問題ではない。

人口構造が変われば、合理的に重視する政策も変わる。

政治的対立の一部は、価値観の違いではなく、それぞれが置かれた生活条件の違いから生じるのである。

「限られたものを誰に配るか」が政治になる

地方政治で感情的な対立が発生しやすい理由の一つは、政策の結果が具体的に見えることである。

国の予算が数兆円変化しても、一人の国民がその違いを直接感じることは難しい。

しかし人口数千人の町で、

「この学校を閉校する」

「この診療所を維持するため年間数千万円を支出する」

「この地区の道路を整備する」

という決定が行われれば、その影響を受ける人物を住民が知っている可能性がある。

すると政策を、

「地域全体にとって合理的か」

という抽象的問題だけでは考えにくくなる。

「あの地区だけ得をしている」

「こちらの地区ばかり負担している」

「あの人と町長が親しいからではないか」

という認識が入り込む。

実際、地方政治の研究では、自治体の資源配分や中央政府との関係が選挙政治に影響してきたことが分析されている。首長候補が「中央とのパイプ」を強調することや、複数政党が自治体への資源獲得を期待して同じ候補を支援する「相乗り」も、日本の地方政治では研究対象となってきた。

地方政治では、理念だけでなく「地域へ何を持ってこられるか」が政治的評価になることがある。

だからこそ、政策論争が人間関係や地域間競争と結びつきやすい。

社会心理学から見ると「私たち」と「あの人たち」が作られる

ここから社会心理学の問題になる。

人間には、自分が所属する集団と、それ以外の集団を区別する傾向がある。

社会心理学ではこれを内集団と外集団という考え方で研究してきた。

自分と同じ集団に属する人を好意的に評価しやすい「内集団ひいき」や、自分と似た考えを持つ人の意見を実際以上に一般的だと認識する現象などが実験研究で確認されている。

政治でも同じことが起こり得る。

最初は、

「新しい公共施設を建設すべきか」

という政策論争だったものが、

「建設賛成派」

「建設反対派」

という集団へ変化する。

さらに時間がたつと、

「こちら側」

「あちら側」

という社会的カテゴリーになる。

この変化が重要である。

政策への賛否だけなら、条件が変われば意見を変更できる。

しかし自分の所属集団そのものと結びつくと、意見を変更することが心理的に難しくなる。

意見を変えることが、

「判断を修正した」

ではなく、

「仲間を裏切った」

と感じられる可能性が出てくるからである。

集団間紛争に関する社会心理学研究では、内集団への同一視、外集団の否定的認識、そして両集団の相互作用が、対立を激化させる過程として整理されている。

地方政治で問題なのは、この心理作用が日常生活の人間関係と重なりやすいことである。

小さな地域では政治的対立から逃げにくい

人口の多い都市には、良くも悪くも匿名性がある。

隣に住んでいる人が誰に投票したのか知らない。

職場の人が市長選で誰を支持したか知らない。

自分と政治的意見の異なる人と関係を切っても、別の人間関係を作ることが比較的容易である。

しかし人口の少ない地域では、一人の人間が複数の社会的役割を持つ。

自治会の役員であり、消防団員であり、商店の経営者であり、同級生の親であり、親戚でもある。

この関係の重なりには大きな利点がある。

災害時の助け合い、高齢者の見守り、地域行事、共同作業など、地方の生活を維持する重要な社会資本になる。

実際、地域の信頼、規範、人間関係などを「社会関係資本」として捉える研究では、住民間の信頼や社会参加が地域社会の重要な資源になると考えられている。地方都市を対象とした調査でも、近隣や知人との結びつきが強く現れる一方、地域外の人に対して慎重になる傾向が示された例がある。

つまり、地域の結びつきの強さには二つの側面がある。

平常時には協力を生む。

しかし政治的対立が起きたときには、その対立が複数の人間関係へ同時に広がる可能性がある。

選挙での対立が、自治会、商売、学校、地域活動へ波及してしまうのである。

「地域のため」という言葉ほど対立することがある

地方政治では、双方が「地域を良くしたい」と考えているにもかかわらず対立することが珍しくない。

これは矛盾ではない。

同じ目的でも、地域の将来像が違うからである。

例えば人口減少地域に大型観光施設を誘致する政策を考える。

賛成する住民は、

「雇用を増やさなければ地域そのものが衰退する」

と考えるかもしれない。

反対する住民は、

「自然環境や静かな生活環境こそ地域の資産であり、それを失えば地域の価値がなくなる」

と考えるかもしれない。

どちらも「地域を守る」という目的を持っている。

違うのは、「何を守ることが地域を守ることなのか」という定義である。

社会心理学では、政治的分極化が単純な政策上の違いだけではなく、道徳的価値観や集団帰属と結びつくことで強くなることが研究されている。近年の日本の研究でも、政治的立場が自己や他者の道徳的評価と結びつくことで、感情的分極化につながり得ることが論じられている。

この段階になると、

「その政策は間違っている」

が、

「あの人たちは地域のことを考えていない」

へ変わる。

さらに、

「あの人たちは信用できない」

になる。

ここで政策論争は感情的分断になる。

移住者と昔からの住民の対立も、単純な文化の違いではない

人口減少地域では、移住者の受け入れが政策課題になることが多い。

そこではしばしば「昔から住んでいる人」と「新しく来た人」という区別が生じる。

この対立を「田舎の人は閉鎖的だから」と説明するのは適切ではない。

移住者側にも、地域の歴史や意思決定の過程を知らずに、都市での価値観を当然のものとして持ち込んでしまう場合がある。

一方、既存住民側には、長期間維持してきた地域のルールや負担の仕組みがある。

例えば祭り、草刈り、道路清掃、防災活動などは、行政サービスだけではなく住民の共同作業によって維持されている地域もある。

新しい住民から見れば「古い慣習」に見えるものが、既存住民にとっては地域社会を維持する制度である場合がある。

逆に既存住民が当然だと考える仕組みが、人口減少や高齢化によってすでに持続不可能になっている場合もある。

農山村研究では、地域社会を維持するために信頼関係や共同作業が重要である一方、人口減少によってその維持自体が大きな負担になることも指摘されている。

したがって、新旧住民の対立は価値観だけの問題ではない。

誰が地域を維持する負担を負い、誰が意思決定に参加できるのかという制度上の問題でもある。

SNSは地方の対立を作るのか

もう一つ無視できないのがSNS(Social Networking Service・交流サイト)である。

地方自治体の選挙や政策問題でも、X、Facebook、YouTubeなどを使った情報発信が一般的になった。

SNSが政治的分極化を必ず引き起こすと断定することはできない。

研究結果はそれほど単純ではない。

一方で、自分と似た意見を持つ人同士がつながる同質的ネットワークや、似た情報が繰り返し共有されるエコーチェンバーが、政治的態度を強化する可能性は社会科学で繰り返し研究されている。日本の研究でも、SNS上の情報ネットワークと意見の分極化との関係が検討されている。

人口数千人の自治体では、ここに独特の問題が加わる。

SNS上の相手が匿名の「誰か」ではない。

投稿者が同じ地域の住民であることがある。

オンライン上の対立が、そのまま現実社会へ戻ってくる。

SNSで強い言葉を使った翌日に、スーパーや自治会で顔を合わせる。

そのため地方におけるSNSの政治問題は、

オンラインの分極化と現実の人間関係が接続している

という点で注意が必要になる。

本当に危険なのは「意見が違うこと」ではない

政治的分断という言葉を使うと、意見が違うこと自体が問題のように見える。

しかし民主主義では意見が異なることは正常である。

学校を残したい人と統合したい人がいる。

公共事業を進めたい人と慎重に考えたい人がいる。

観光開発を望む人と生活環境を優先する人がいる。

これは分断ではない。

近年の社会意識研究でも、「分断」という言葉は学術的に明確な一つの状態を指す言葉ではなく、単なる意見の違いと区別する必要があることが指摘されている。研究では、集団間の境界が明確になり、構成員が固定化され、交流が断たれ、互いに反目するような状態などが分断を捉える重要な要素として論じられている。

つまり危険なのは、

「私はこの政策に反対する」

という状態ではない。

「あの政策を支持する人とは話をしない」

という状態である。

さらに危険なのは、

「あの人たちは地域からいなくなればいい」

という状態である。

政策上の対立が、相手の存在そのものを否定する段階へ進んだとき、民主的な意思決定は難しくなる。

人口が少ない地域ほど必要なのは「全員一致」ではない

地方では「地域が一つにまとまること」が良いことだと考えられやすい。

確かに災害対応や地域活動では協力が不可欠である。

しかし政治についてまで全員が同じ意見になる必要はない。

むしろ健全な地域社会には、

意見が違っても一緒に暮らせる仕組み

が必要である。

選挙で敗れた側にも発言できる場所がある。

政策決定の資料が公開される。

議会で反対意見が記録される。

行政が結論だけでなく判断理由を説明する。

住民説明会で賛成派だけでなく反対派からも意見を聞く。

一度決めた政策でも、条件が変われば検証し直す。

こうした制度があれば、政策で負けても地域社会から排除されたとは感じにくい。

逆に意思決定の過程が不透明なら、実際に不正がなくても、

「最初から決まっていた」

「あの人たちだけで決めた」

という疑念が生まれる。

政治的分断を抑えるために必要なのは、全員を同じ意見にすることではない。

負けた側も、その決定がどのような資料と手続きによって行われたのか理解できる状態を作ることである。

「橋渡し型」の人間関係が地域を強くする

地域のつながりは強ければ強いほどよいわけでもない。

社会関係資本の研究では、似た人同士の結束だけでなく、異なる集団をつなぐ「橋渡し型」の関係が重要だと考えられている。

同じ地区、同じ年代、同じ政治的立場だけで固まれば、内部の協力は強くなる。

しかし別の集団との接点がなくなる。

地域研究でも、地域内の強い結びつきだけではなく、異なる人や組織を横断して結ぶネットワークが地域活動に重要であることが論じられている。

例えば高齢者と子育て世代。

昔からの住民と移住者。

商業者と農業者。

観光事業者と生活環境を重視する住民。

行政と住民。

これらをつなぐ人物や組織が存在すれば、一つの問題について対立しても、別の場面では協力できる。

この「別の関係」が残っていることが重要である。

人間関係が政治的一本線だけになってしまうと、

賛成派か反対派か、

町長派か反町長派か、

という分類が地域のすべてを支配する。

橋渡し型の関係があれば、

「あの人とは政策について意見は違うが、防災活動では一緒に働く」

という関係が成立する。

こうした関係は、政治的対立を消さなくても、社会的分断への発展を抑える可能性がある。

地方で政治的分断が目立つのは、地域社会が弱いからとは限らない

ここまで見てくると、少し逆説的な結論が見えてくる。

地方で政治的対立が深刻になる場合があるのは、地域社会の人間関係が弱いからだけではない。

人間関係が強いからこそ、政治的対立が生活の別の領域まで伝わることがある。

地域社会には助け合いがある。

顔の見える関係がある。

長期間共有してきた歴史がある。

だからこそ、一度関係が壊れたときの影響も大きい。

人口減少や高齢化は、この問題をさらに難しくする。

内閣府も、人口減少が進む地方では地域での触れ合いや助け合いの機会そのものが減少し、高齢化によって地域コミュニティの維持が難しくなる可能性を指摘している。

つまり地方社会では、

「人間関係が濃すぎる問題」

「人間関係そのものが失われていく問題」

が同時に存在する場合がある。

これが人口減少時代の地方政治を複雑にしている。

地方の政治的分断を防ぐには

分断を完全になくすことは、おそらくできない。

そもそも異なる利益を持つ人々が暮らしている以上、政治的対立は発生する。

重要なのは対立をなくすことではなく、

対立が人間そのものへの敵意へ変わらない仕組みを作ること

である。

そのためには、政治的意思決定をできるだけ検証可能にする必要がある。

公共施設を建設するなら、費用、利用者予測、維持費、代替案を示す。

学校を統合するなら、児童生徒数の将来推計、通学時間、教育条件、財政負担を示す。

病院を再編するなら、医師数、患者数、救急搬送時間、医療圏全体のデータを示す。

賛成派にも反対派にも同じ資料を渡す。

すると議論は少なくとも、

「誰を信用するか」

から、

「どの数字をどう評価するか」

へ移りやすくなる。

もちろん、データだけで政治問題が解決するわけではない。

同じ数字を見ても価値判断は異なる。

しかし、共通の事実を共有できれば、対立の範囲を狭めることはできる。

地方政治で守るべきものは「仲の良さ」ではない

人口減少時代の地方では、住民全員が仲良くすることを目標にするのは現実的ではない。

意見は違う。

世代も違う。

仕事も違う。

地域に住んできた期間も違う。

政治的立場も違う。

必要なのは、それらの違いを消すことではない。

違うままでも同じ地域に暮らし続けられる制度と文化を作ることである。

民主主義とは、全員が同じ結論になる仕組みではない。

意見が一致しない社会で、それでも意思決定を行い、その後も同じ社会の構成員として暮らしていくための仕組みである。

人口が減れば、一人ひとりの存在は地域にとってむしろ重要になる。

若者も、高齢者も、移住者も、昔からの住民も、事業者も、行政職員も、政治的に意見の違う人も、簡単には代わりがいない。

人口減少地域ほど、本来は「反対側の人」を失う余裕がないのである。

結論~地方の分断は人口ではなく「関係の構造」から生まれる

なぜ地方では政治的分断が起きるのか。

人口が少ないから、と答えるだけでは不十分である。

人口減少によって地域資源が限られる。

若年層の移動によって年齢構成が変化する。

政策決定の利益と負担が具体的に見える。

住民同士の複数の人間関係が重なっている。

政治的立場が「私たち」と「あの人たち」という集団認識へ変化する。

SNSによって同じ意見を持つ人同士が結びつく。

こうした条件が重なったとき、政策上の対立が社会的な分断へ発展する可能性が生まれる。

しかし、これは避けられない運命ではない。

地方には逆の力もある。

顔の見える関係。

地域への愛着。

共同作業。

災害時の助け合い。

世代を越えた人間関係。

これらは分断を強めることもあれば、対立を乗り越える力にもなる。

重要なのは、地域の結束を、

「同じ意見になること」

と考えないことである。

地域社会に必要なのは、

政治的に違う意見を持つ人とも、翌日から同じ町で普通に暮らせること

である。

人口減少が進む地方で本当に守るべきなのは、全員一致ではない。

反対意見を持つ人まで含めて地域社会を維持できることなのである。

それができる地域ほど、人口が減っても政治的には強い。

そして、おそらくそれこそが、これからの地方自治に必要な「地域のまとまり」の意味なのである。

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