地域政経

九条レオンの地域から社会と政治・経済のこれからを考える

 2008年9月1日の夜、福田康夫は首相官邸で記者会見を開き、総理大臣を辞任すると表明した。前年9月に就任してから、まだ1年にも満たず、しかもわずか1か月前には内閣改造を行ったばかりだったため、その辞任は国民には唐突に映った。会見の最後に記者から「他人事のように聞こえる」と問われた福田が、「私は自分自身を客観的に見ることはできるんです。あなたとは違うんです」と応じた場面は、その後長く繰り返し紹介され、福田政権そのものを象徴する言葉のようになった。

 しかし、あの一言だけから福田康夫という政治家を見ようとすると、奇妙なことが残る。総理大臣としては、政局を突破できずに短期間で退陣した人物が、その後は中国をはじめアジア諸国の指導者と接触し、日本政府の正式な外交とは少し違う場所で対話の糸をつなぐ役割を長く果たしたからである。総理大臣という最大の権力を持っていた時には行き詰まり、権力を失った後には別のかたちで存在感を示した。この逆説を考えると、福田の辞任は単なる「政権の投げ出し」で終わる話ではなくなる。

最初から自由に動けない総理だった

 福田康夫が総理大臣になったのは2007年9月だったが、その時点ですでに政権運営の条件は厳しかった。同年7月の参議院選挙で自由民主党と公明党は過半数を失い、民主党が参議院第1党となっていたからである。衆議院では与党が多数を確保している一方で、参議院では野党側が多数を占める、いわゆる「ねじれ国会」が成立していた。

 もっとも、参議院で野党が多数だからといって、福田政権が法律をまったく成立させられなかったわけではない。当時の与党は衆議院で3分の2以上の議席を持っていたため、参議院で否決された法律案を衆議院で再可決することが制度上は可能だった。実際、ガソリン税の暫定税率をめぐって、その手法は使われている。しかし、法律を成立させることが可能であることと、安定した政治運営が可能であることは同じではない。参議院での審議が停滞し、最後には衆議院の3分の2で押し戻すという政治が続けば、時間もかかり、野党との対立も深まり、世論から「強引な国会運営」と批判される危険も高まる。

 しかも福田が引き継いだのは、政策を自由に構想できる白紙の政権ではなかった。年金記録問題、薬害C型肝炎問題、防衛省をめぐる不祥事、政治とカネの問題など、それ以前から積み残されてきた課題が次々と政権の前に現れていた。後期高齢者医療制度をめぐる批判も強まり、2008年6月には参議院で福田首相に対する問責決議まで可決される。世論調査でも内閣支持率は低迷し、政権が政策の内容を説明する以前に、「福田政権そのものを続けるべきなのか」が政治問題になりつつあった。

福田の政治は、ねじれ国会と相性が悪かった

 福田康夫は、群衆を熱狂させ、強い言葉によって反対勢力を押し切る政治家ではなかった。森喜朗、小泉純一郎両政権で長く内閣官房長官を務めた経歴にも表れているように、異なる立場の間で調整し、対立を必要以上に激しくしないことを重視する政治家として理解されることが多い。

 もちろん、それを福田の生まれつきの性格だけで説明することはできない。政治家の行動は本人の資質だけではなく、議会制度、党内事情、選挙、世論、相手となる野党の戦略などによって決まるからである。それでも、福田政権の行動を見ると、対立を一方的に押し切るより、相手との合意によって政治を前へ進めようとした形跡は確かに見える。

 その象徴が、2007年秋に浮上した自民党と民主党の大連立構想だった。福田と民主党代表の小沢一郎が党首会談を行い、衆議院と参議院で多数派が異なる政治状況を、与野党の協力によって乗り越えようとしたのである。構想は民主党内の反発によって実現しなかったが、ここには福田政治の特徴がよく表れている。相手を倒して前へ進むより、相手との間に妥協できる場所をつくり、そこから前へ進もうとする政治である。

 ところが、当時の民主党にとって次の衆議院選挙で政権交代を実現することは、すでに現実的な政治目標になっていた。だからといって民主党の反対をすべて政権奪取のためだったと説明することはできず、後期高齢者医療制度や年金、ガソリン税などをめぐる実質的な政策対立も存在したが、福田政権に協力して実績を積ませることが、野党の選挙戦略と必ずしも一致しなかったことも確かだろう。合意を前提にした政治家が、政権交代を争う二大勢力の正面衝突の中へ入れば、調整能力だけでは解けない問題が生まれる。

「何もしなかった首相」ではないが、「物語を作れなかった首相」だった

 福田政権は、後世から見ると印象が薄い。しかし実際には、道路特定財源の一般財源化、消費者行政を一元化する消費者庁構想、社会保障制度をめぐる議論など、後の政策につながる方向を示している。福田自身も辞任会見で、これらを自らの政権が進めてきた課題として挙げていた。

 ただし、それらをすべて福田個人の「大きな実績」と評価するのも慎重であるべきだろう。政策は一つの政権だけで完成するとは限らず、前政権から引き継いだ議論を整理する場合もあれば、ある政権が構想し、次の政権が法律を成立させ、その後の政権が制度として定着させる場合もある。福田は、目立つ成果を自分の名前と結びつける政治より、制度の方向を整える仕事を好んだように見えるが、それはテレビや世論調査を通じて指導者の「分かりやすさ」が求められる時代には不利だった。

 小泉純一郎には「郵政民営化」があり、安倍晋三には後に「アベノミクス」が生まれた。しかし福田政権には、国民が一言で記憶できる政治的な物語がほとんど残らなかった。政策がなかったのではなく、政策を自分の政治的物語として演出する力、あるいは演出しようとする意欲が弱かったのである。

では、なぜ辞めたのか

 2008年9月の辞任を一つの原因だけで説明することはできない。ねじれ国会があり、内閣支持率の低迷があり、参議院での問責決議があり、与野党対立があり、次の衆議院選挙を意識する自民党内の事情もあった。8月には内閣改造を行ったものの、政権を劇的に立て直すほどの効果は生まれなかった。

 そのなかで福田自身が示した判断は興味深い。秋の国会には補正予算や消費者行政など重要案件が控えている以上、自分がそのまま首相を続けて対立を抱えた状態で国会を始めるより、新しい首相に交代した方が政策を進めやすいというのである。本人の辞任会見は重要な一次資料だが、それだけを辞任の「真相」とみなすことはできない。それでも少なくとも、福田が自分自身を政権運営上の一つの変数として見ていたことは確かである。

 普通、政治家は自らを政策実現の主体として考える。しかし福田は、自分自身が政策実現を妨げる要因になったなら、主体そのものを交換すればよいと考えたように見える。これは責任ある判断だったとも、総理大臣として踏ん張る責任を放棄したとも評価できる。後世から一方だけに決める必要はない。ただ、少なくとも「嫌になったから突然辞めた」という説明だけでは、この判断の構造を十分には捉えられない。

 そして「あなたとは違うんです」という言葉も、この文脈に置くと別の色を帯びる。言い方としては感情的であり、首相の言葉として洗練されたものでもなかったが、福田が言おうとしたのは、自分自身を政権の外側から見ることができるということだった。権力の中心にいながら、自分自身まで政治状況を構成する一要素として眺める。その考え方は、総理大臣としては珍しく、同時に危ういものでもあった。

権力を失ってから、福田の政治は別の場所で生き始めた

 福田は首相を退任した後も国会議員を続け、2012年に政界を引退した。しかし、政治的活動そのものをやめたわけではなかった。むしろこの頃から、首相時代とは違う形で外交の世界に居場所をつくっていく。

 2010年から2018年まで、福田はボアオ・アジア・フォーラムの理事長を務めた。中国海南省で開催されるこの国際会議には、アジア各国の政治家、経済人、研究者が集まり、福田はそこで長期間にわたって人的関係を築いた。中国との関係だけでなく、日本インドネシア協会会長として東南アジアとの交流にも関わり続けている。

 ここで重要なのは、福田の退任後外交を本人の性格だけで説明しないことである。対話を重視する姿勢が外交に適していたことは確かだとしても、彼が一定の役割を果たすことができた背景には、「元総理大臣」という肩書、首相時代から築いてきたアジア各国の指導者との人的関係、ボアオ・アジア・フォーラムでの地位、そして現職政治家ではないという自由さがあった。

 現職の総理大臣や外務大臣が外国の指導者と会えば、その言葉は日本政府の公式見解として受け止められる。ところが元首相には、正式な交渉権限がない代わりに、政府が正面から動きにくい時でも相手と会える余地がある。何かを約束することはできないが、相手の考えを聞き、日本側の考えを伝え、完全に切れそうになった関係に細い糸を残すことはできる。

 福田自身は、こうした役割を野球の「球拾い」のようなものだと表現したことがある。自分が試合の主役になるのではなく、外へ飛んでいった球を拾い、もう一度試合ができる場所へ戻す。政治家として華やかな比喩ではない。しかし、福田康夫という人物には不思議によく似合っている。

2014年、日中関係が冷え込んだ時に現れた「非公式の通路」

 福田の長老外交が最も注目されたのは、2014年の日中関係だった。尖閣諸島をめぐる対立や安倍晋三首相の靖国神社参拝などを背景に、日本と中国の政治関係は深く冷え込み、首脳会談さえ開けない状態が続いていた。

 そのなかで福田は北京を訪れ、習近平国家主席と会談した。日中双方が関係悪化に危機感を持っていることが確認され、その後、11月には北京で安倍晋三首相と習近平国家主席による首脳会談が実現する。

 もっとも、この首脳会談を「福田が実現させた」と説明するのは正確ではない。水面下では谷内正太郎国家安全保障局長をはじめ、外務省、中国政府、政党関係者、経済界など複数の経路が動いており、日中双方にも関係悪化をこれ以上続けることへの経済的・外交的な懸念が存在していた。福田の接触は、そうした複数の対話ルートの一つであり、そのなかでも元首相という立場を利用した比較的重要な経路だったと考えるのが妥当だろう。

 ここに長老外交の本質がある。正式な外交交渉を代替することはできないが、正式な外交が始まる前の空間をつくることはできる。扉そのものを開ける権限はなくても、扉の向こう側にまだ話のできる相手がいることを確かめることはできるのである。

福田の日中重視は、退任後に突然始まったものではない

 福田が中国との関係を重視したのは、総理大臣を辞めてからではない。2007年12月、中国を訪問した福田は北京大学で講演し、「日中関係にとって、平和友好以外の選択肢はあり得ない」と語っている。翌2008年5月には胡錦濤国家主席を国賓として日本に迎え、日中両国は「戦略的互恵関係」を包括的に推進する共同声明を発表した。

 この考え方には、父・福田赳夫の外交を連想させる部分もある。福田赳夫は1978年の日中平和友好条約締結時の首相であり、東南アジア外交では、軍事大国にならず相互信頼を重視する「福田ドクトリン」で知られる。康夫自身も北京大学で父の日中外交について語っているため、父子の外交観に一定の連続性を見ることはできるだろう。

 ただし、父親がそう考えたから息子も同じ外交観を受け継いだ、と単純に結論づけることはできない。政治思想は家族関係だけで形成されるものではなく、本人自身の経験や時代状況によっても変わる。それでも、国家間の関係は一度の会談や一人の首相で完成するものではなく、何十年という時間をかけて維持するものだという感覚が、福田康夫の外交姿勢に強く表れていたことは確かだろう。

総理時代には弱点だったものが、外交では違う価値を持った

 ここまで見てくると、福田康夫の総理辞任と長老外交には一定の連続性が見えてくる。ただし、それを「福田は調整型の性格だったから、内政では失敗し、外交では成功した」という一つの物語だけに閉じ込めるべきではない。政治家の成功や失敗は、性格だけでなく、制度と環境によって大きく変わる。

 総理大臣には、最後には決断しなければならない場面がある。国会で多数派を形成し、反対を押し切ってでも予算や法律を成立させる必要がある。その役割では、福田の慎重さや対話志向は、ときに指導力不足として映った。しかし元首相の外交には、決定権がないからこそできる仕事がある。結論を急がず、相手を屈服させず、意見の違いが残っていても次の会談への道だけは閉ざさない。その役割では、総理時代に弱点と見られた政治姿勢が、別の価値を持つことになる。

 さらに福田の場合には、元首相という肩書、長年築いてきた中国や東南アジアとの人的関係、国際会議での活動、現職政府から一定の距離を持つ立場が重なった。つまり、福田が長老外交で存在感を示したのは、性格が外交向きだったからだけではなく、その性格と経歴と立場が、退任後の国際環境のなかでうまく組み合わさったからだった。

「あなたとは違うんです」の後に続いていた政治

 福田康夫の総理大臣在任期間は365日だった。それだけを見れば、日本政治に数多く存在する短命政権の一つにすぎない。しかし、総理大臣を辞めた後に外交へ関わった期間は、その何倍にもなる。2020年代に入っても中国側要人との会談を続け、日本インドネシア協会を通じた交流にも関与している。

 考えてみれば、福田康夫という政治家には、最初から主役らしくないところがあった。総理大臣になっても大きな言葉で時代を名付けず、退任した後も自分の外交を歴史的業績として語ろうとはしない。その代わり、関係が壊れそうになった時に相手と会い、話し合いの場所がなくなりそうになれば細い通路を残す。その仕事は、選挙で票になるわけでもなく、大きな政策名として教科書に残るわけでもない。

 2008年9月、福田は自分自身を客観的に見ることができると言って官邸を去った。当時、その言葉は総理大臣を途中で辞める人物の捨てぜりふとして受け取られた。しかし、その後の歩みまで含めて見ると、もう一つの読み方ができる。

 自分が権力の中心にいることと、自分が政治に役立つことは同じではない。総理大臣でいることが政治を動かすなら総理大臣でいればよいが、自分が退くことで政治が動くなら退く。そして権力を失った後には、権力を持たない者だからこそできる仕事を探す。福田の辞任を正しかったと評価する必要はないし、長老外交を過度に美化する必要もない。それでも、彼の政治人生には、「自分が主役であること」より「関係や仕組みを次へ渡すこと」を重視する一つの一貫性があったように見える。

 福田康夫は、総理大臣として大きな物語を残した政治家ではなかった。しかし政治には、物語を作る人だけでなく、物語が途切れないように次のページへつなぐ人もいる。総理大臣としては、その静かな政治手法が時代に合わなかった。そして総理大臣を辞めた後、その同じ静けさが、外交という別の場所で初めて居場所を見つけたのかもしれない。

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戦後81年~「戦後100年」「戦後120年」

~平和を願うだけでも、軍事力だけでもない。戦争を遠ざける条件を現実から考える

2026年8月15日、日本は1945年の終戦から81年を迎えた。

「戦後81年」という言葉には、少し不思議な響きがある。

戦争が終わってから81年間が経過したという意味である一方、「戦後」という言葉を使い続けている限り、日本はまだ1945年から続く時間の中にいることになる。

しかし、それは必ずしも否定的な意味ではない。

戦後100年となる2045年にも「戦後」と呼び、戦後120年となる2065年にも「戦後」と呼ぶことができるなら、それは少なくとも、その間に日本が新しい戦争によって時代を区切られなかったことを意味する。

理想を言えば、戦後150年、200年と、「戦後」が終わらない社会であってよい。

もちろん、未来に戦争が起きないことを保証する方法は存在しない。

国家間の戦争は、一国民の善意だけで決まるものではない。国際政治、軍事力、領土問題、資源、経済、安全保障上の認識、国内政治、同盟関係、偶発的衝突、指導者の意思決定など、多数の要因が絡み合って発生する。

したがって、「平和を願えば戦争は起こらない」という説明は現実的ではない。

反対に、「十分な軍事力さえ持てば戦争は起こらない」と断定することもできない。

令和の日本人にできることを考えるなら、この二つの単純化から離れる必要がある。

必要なのは、戦争が起きる確率をゼロだと考えることではなく、

戦争へ進む条件を一つずつ減らし、平和が継続する条件を一つずつ増やしていくことである。

それは派手な行動ではない。

民主主義、外交、防衛、教育、歴史認識、情報、経済、国際協力という社会の仕組みを、毎日の政治と生活の中で正常に機能させ続けることである。

81年間の平和を「自然に続いた時間」と考えない

1945年から2026年まで、日本が再び大規模な戦争の当事国にならずに81年間を積み重ねてきたことには、一つだけの原因があるわけではない。

日本国憲法第9条は、日本国民が国際平和を希求し、国際紛争を解決する手段として戦争と武力による威嚇または武力の行使を永久に放棄すると定めている。これは現在も日本の憲法上の基本原則である。

しかし、日本の戦後の安全が憲法だけによって成立してきたと証明することもできない。

日本には自衛隊が存在し、日米安全保障体制があり、日本政府は防衛力と同盟による抑止を安全保障政策の重要な構成要素としてきた。さらに外交、国際連合、経済関係、国際協力、東アジアにおける力関係など、複数の条件が同時に作用してきた。外務省も現在の安全保障政策を、日米同盟だけでなく、多層的な安全保障協力や平和で安定した国際社会への取組を含む構造として位置付けている。

つまり、戦後81年を、

「憲法があったから平和だった」

とも、

「軍事力があったから平和だった」

とも、一つの要因だけで説明することは科学的ではない。

現実に近いのは、

法制度、民主主義、外交、防衛、同盟、経済、国際秩序、そして戦争を避けようとする社会的規範が複合して現在までの状態を形成してきた

と考えることである。

だからこそ、そのどれか一つだけを守れば戦後100年が保証されるわけでもない。

2026年の世界は、平和が自動的に続く環境ではない

戦後81年を迎える日本から世界を見ると、平和を楽観できる状況ではない。

SIPRI(Stockholm International Peace Research Institute・ストックホルム国際平和研究所)は2026年版年鑑で、国家が核兵器を国力の手段として重視する傾向が強まり、誤算やエスカレーションの危険も高まっていると指摘している。

世界の軍事支出も増えている。SIPRIの集計では2025年の世界の軍事支出は実質2.9%増の2兆8,870億ドルとなり、11年連続で増加した。2016年から2025年までの10年間では41%増えている。

日本政府も、日本周辺の安全保障環境について厳しい認識を示し、防衛力の強化を進めている。

この状況を前にして、「日本だけが平和を願えば大丈夫だ」と考えることはできない。

しかし同時に、世界が危険だから軍事力を際限なく増やせば安全になるとも限らない。

防衛力には、攻撃を思いとどまらせる抑止という考え方がある。

一方で、相手国がその軍備増強を脅威と受け取り、自らも軍備を増やせば、安全保障上の競争が強まる可能性がある。核兵器をめぐってSIPRIが指摘しているのも、まさに抑止とエスカレーションの両方を考えなければならない現在の難しさである。

平和政策に必要なのは、

「防衛か平和か」

という二者択一ではない。

防衛が必要な部分では必要性と規模を検証しながら備え、同時に、その防衛力を実際に使用しなくて済む外交環境を作ること

である。

戦争を防ぐことが目的なら、軍事力を使用して勝つ能力だけでなく、そもそも使用する状況を作らない能力も同じように重要になる。

外交は「仲の良い国と付き合うこと」だけではない

平和を維持するための外交というと、友好国との関係を深めることが想像されやすい。

もちろんそれも重要である。

しかし、本当に戦争を防ぐために重要なのは、意見の合わない国、利害の対立する国、場合によっては安全保障上の脅威と認識している国とも意思疎通の経路を失わないことである。

国際連合憲章は加盟国に国際紛争を平和的手段によって解決することを求め、第33条では交渉、仲介、調停、司法的解決など複数の方法を示している。

外交は、相手を好きになることではない。

相手国の政策を支持することでもない。

対立が存在するとき、それを戦争以外の方法で処理する技術である。

戦後100年を迎えるためには、日本社会が「対話すること」と「譲歩すること」を混同しないことも重要だろう。

外交交渉を行うことは、相手国の主張を認めることではない。

むしろ対立しているからこそ交渉する。

電話がつながること、外交官が会えること、首脳同士が話せること、軍同士が偶発的な衝突を避ける連絡手段を持つこと。

こうした地味な仕組みが、重大な誤解を戦争へ発展させないための安全装置になる。

戦争を防ぐには「相手を理解すること」と「相手を信じること」を分ける

平和について考えると、ときに「相互理解」が強調される。

ただし、安全保障では相手を理解することと、相手を信頼することは同じではない。

相手国の歴史、政策決定の仕組み、安全保障上の不安、国内世論、軍事ドクトリンなどを知ることは、相手の政策に賛成することではない。

むしろ正確に理解しなければ、相手の行動を誤読する。

国家間の危機では、

「相手もこちらと同じように考えるはずだ」

という思い込みが危険になる。

令和の日本人に必要な国際理解とは、外国に好意を持つことだけではなく、

自分たちとは異なる歴史、利益、恐怖、合理性を持つ主体として他国を見る能力

である。

敵対国について学ぶことほど、安全保障では重要な場合がある。

戦争の記憶を残す意味は「罪を永久に背負わせること」ではない

戦後81年になると、戦争を直接経験した世代は急速に少なくなる。

ここで歴史教育について難しい問題が生じる。

戦争の歴史を伝えることは、現在の日本人に過去の日本人と同じ責任を負わせることではない。

2026年に生きる子どもが、1940年代の国家政策に責任を負うことはできない。

しかし、

過去の政策がどのような意思決定の積み重ねで戦争へ進み、何が人々に起きたのかを知ること

には、現在的意味がある。

歴史を学ぶ目的を「誰を悪者にするか」に置くと、世代が変わるほど反発が起こりやすい。

重要なのは、

なぜ外交が失敗したのか。

なぜ軍事行動が拡大したのか。

なぜ反対意見が政策を止められなかったのか。

情報はどのように国民へ伝えられたのか。

政治指導者はどのような判断をしたのか。

戦場だけでなく、民間人に何が起きたのか。

そこから意思決定の仕組みを学ぶことである。

歴史を記憶する目的は、過去を永遠に裁き続けることではなく、

未来の判断材料を失わないこと

にある。

広島市が現在も毎年8月6日に平和記念式典を行い、原爆死没者を追悼するとともに核兵器廃絶と恒久平和を訴えていることも、記憶を現在の問題につなぐ一つの社会的仕組みである。2026年にも式典と平和宣言が行われた。

民主主義を正常に動かすことも平和政策である

戦争というと外交官や自衛隊の仕事に見える。

しかし、国家として軍事力をどのように保有し、どのような条件で使用し、どの国と協力し、どの程度の予算を投入するかは政治によって決められる。

つまり安全保障政策の最終的な統制には民主主義が関係する。

ここで令和の日本人にできる最も現実的な行動の一つが、政治を政策として見ることである。

安全保障政策について、

「平和を訴えているから正しい」

とも、

「防衛力を強化しているから現実的だ」

とも即断しない。

どのような脅威を想定しているのか。

その可能性はどの程度なのか。

提案する政策によって本当にその危険が減るのか。

費用はいくらかかるのか。

別の政策は存在しないのか。

外交への影響はどうか。

緊張を下げる効果と上げる効果のどちらが大きいのか。

失敗した場合の出口はあるのか。

こうした問いを与党にも野党にも同じように向けることが必要である。

平和主義とは、何も考えずに「戦争反対」と言い続けることではない。

安全保障政策を考えることもまた、直ちに軍事主義を意味しない。

戦争を回避するという共通目的に対して、どの手段がより効果的で、副作用が少ないかを検証すること

が民主社会の仕事である。

SNS時代には「戦争の前の情報」を扱う能力が重要になる

令和には、昭和とは異なる問題がある。

SNS(Social Networking Service・交流サイト)によって、政府、政治家、軍事組織、報道機関、専門家、一般市民、外国政府までが同じ情報空間で発信するようになった。

これは、市民が一次情報へ近づけるという大きな利点を持つ。

同時に、誤情報、切り抜き、古い映像、偽画像、感情的な投稿も高速で拡散できる。

国際的な緊張が高まったとき、

「○○国が攻撃を開始した」

「政府が隠している」

「この映像が証拠だ」

という情報が流れても、それだけで事実とは限らない。

令和の市民にできる平和への貢献の一つは、意外なほど小さい。

確認できない情報を、確認できないまま拡散しないことである。

投稿者は誰なのか。

映像はいつ撮影されたのか。

政府や公的機関の発表と一致するか。

複数の独立した報道機関が確認しているか。

元資料は存在するか。

戦争や危機の際には、情報そのものが政策判断や世論に影響する。

情報を慎重に扱うことは、単なるインターネット上のマナーではない。

民主主義社会の危機管理の一部である。

平和とは「何もしない状態」ではない

「平和」という言葉には、静かな印象がある。

しかし、国家レベルの平和は必ずしも静的な状態ではない。

外交交渉が行われる。

自衛隊が訓練する。

海上保安機関が警戒する。

国際会議が開催される。

経済制裁が議論される。

条約が交渉される。

選挙が行われる。

国会で予算が審議される。

研究者が安全保障政策を分析する。

報道機関が政府の説明を検証する。

学校や博物館が歴史を伝える。

こうした活動が続いた結果として、戦争を回避できる可能性が高まる。

日本は国際平和協力の制度も持ち、国際連合平和維持活動、人道的救援、国際的な選挙監視などへ参加できる仕組みを整えてきた。

平和は「何もしなかった結果」ではなく、

多数の制度と人間が毎日動き続けた結果として維持される状態

と考えた方が現実に近い。

戦後100年を迎える2045年

2045年。

戦後100年である。

その年に現在61歳の人は80歳前後になり、2026年に生まれた子どもは19歳になる。

その世代にとって、1945年は100年前の歴史になる。

第一次世界大戦が現在の私たちにとって遠い歴史になっているように、太平洋戦争も次第に「直接知る人がいない歴史」へ移っていく。

そのとき重要になるのは、記憶の量ではなく質である。

「戦争は悲惨だった」という言葉だけでは、世代を越えて十分な知識を伝えることは難しい。

なぜ戦争が始まったのか。

なぜ途中で止められなかったのか。

外交、軍事、政治、経済、報道、世論がどのように関係していたのか。

日本だけでなく、アジア、米国、欧州では何が起きていたのか。

そこまで理解できて初めて、歴史は現在の政策判断へ接続する。

戦争体験者がいなくなった社会では、

記憶を証言から制度へ移すこと

が必要になる。

公文書、映像、証言録、博物館、研究、教育がその役割を担う。

そして戦後120年、2065年へ

2065年、日本が戦後120年を迎えたとする。

そのとき、「戦後」という表現に違和感を持つ人もいるだろう。

120年前の出来事をいつまで引きずるのか、と考える人もいるかもしれない。

しかし、「戦後」を続けるという言葉を別の意味で考えることもできる。

過去に縛られ続けるという意味ではなく、

新しい戦争によって歴史を区切らない

という意味である。

戦後120年まで続いたなら、その120年間に日本の政治思想も、安全保障制度も、国際環境も大きく変わっているだろう。

憲法の姿が現在と同じかどうかさえ分からない。

しかし一つだけ共有できる目標がある。

政策や制度が変わったとしても、

日本社会の目的が「次の戦争に勝つこと」ではなく、「次の戦争を可能な限り起こさないこと」であり続けること

である。

もちろん、他国から武力攻撃を受ける可能性まで日本だけで消すことはできない。

だから防衛という問題から逃れることもできない。

同時に、軍事力によってすべての安全を購入することもできない。

戦後100年、120年を目指す政策は、この現実の間に存在する。

令和の日本人にできること

結局、一人の日本人が世界の戦争を止めることはできない。

首相でも、日本一国だけでも、世界から戦争をなくすことはできない。

だからといって個人に何もできないわけではない。

政策を感情ではなく事実で判断する。

選挙で安全保障政策も確認する。

異なる立場の意見を読む。

戦争の歴史を敵味方だけで整理しない。

確認できない情報を拡散しない。

外国を国家全体、民族全体として敵視しない。

同時に安全保障上の現実的なリスクからも目をそらさない。

政治家が軍事力を強化すると言えば理由と費用を問い、削減すると言えばその安全保障上の根拠を問う。

外交を行えば何を守り何を譲ったのかを確認し、対立すれば対話の経路が残されているかを見る。

こうした市民社会は、戦争を絶対に防ぐ保証にはならない。

しかし、

戦争へ向かう誤った意思決定を発見し、修正できる可能性を高める。

ここに民主主義の大きな意味がある。

終戦の日を「過去を見る日」だけにしない

8月15日は、戦争で亡くなった人々を追悼する日である。

政府も1982年の閣議決定に基づいて8月15日を「戦没者を追悼し平和を祈念する日」とし、2026年にも政府主催の全国戦没者追悼式を開催する。

しかし、この日にはもう一つの見方ができる。

1945年から何年経過したかを数えるだけではなく、

次の1年を戦後のまま終わらせるために何が必要なのかを確認する日

とすることである。

2026年から2045年までは19年しかない。

戦後100年は、遠い未来ではない。

2065年の戦後120年も、現在生きている多くの子どもたちが普通に経験し得る時代である。

その人たちが8月15日に、

「今年で戦後120年になった」

と言える日本であるために必要なのは、壮大な理念だけではない。

外交を続けること。

必要な安全保障を冷静に考えること。

国際法を尊重すること。

民主主義を機能させること。

歴史を検証可能な形で残すこと。

異論を排除しないこと。

誤情報に流されないこと。

政治を敵と味方だけで考えないこと。

そして、戦争という極端な手段へ至る前に問題を解決できる制度を何度でも修理することである。

戦後81年という数字は、完成した平和の証明ではない。

81年間続いてきた状態を示しているにすぎない。

だからこそ価値がある。

平和とは、一度達成すれば保存されるものではない。

毎年更新される記録である。

2026年8月15日の日本に必要なのは、

「もう81年間戦争をしなかった」

と過去形で誇ることだけではない。

82年目も戦後にする。

そして83年目も戦後にする。

それを積み重ねて2045年を戦後100年にし、2065年を戦後120年にする。

さらにその先も、「戦後」という言葉を過去の戦争から数え続けられる社会であること。

戦争のない戦後を永遠に続けるという願いを現実の政策へ翻訳するなら、それはおそらく、

戦争をしないと誓うことと、戦争を避けられる制度を不断に作り続けることを、同時に行う

ということなのである。

九条レオンのリベラル文庫

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