地域政経

九条レオンの地域から社会と政治・経済のこれからを考える

 選挙の季節になると、どこかで聞き覚えのある名字を目にする。父が国会議員だった人、その父も政治家だった人、祖父が大臣を務めた人。政治家の家に生まれた子どもが政治家になり、やがてその子どもも選挙に出る。その光景を前にすれば、「これでは民主主義ではなく、現代の世襲制ではないか」と感じる人がいても不思議ではない。王や大名の時代は終わったはずなのに、政治の世界だけは名字と地盤が受け継がれているように見えるからである。

 しかし、この問題は「世襲政治家が多いから民主主義は壊れている」と簡単に結論づけられるほど単純ではない。少なくとも代表民主制の基本原則から考えれば、政治家の子どもが政治家になること自体が民主主義に反しているわけではなく、政治家の家に生まれた人にも、そうでない人と同じように政治に参加し、立候補する自由がある。有権者が自由な選挙を通じてその人物を選んだのであれば、その結果だけを見て「非民主的だ」と断定することはできない。

 むしろ、政治家の子どもであるという理由だけで立候補を禁止すれば、別の問題が生まれる。日本国憲法第44条は、国会議員や選挙人の資格について、門地、つまり家柄などによって差別することを認めていない。もちろん、世襲候補に一定の規制を設ける制度が直ちに憲法違反になると単純には言えないが、出生によって立候補の可能性を制限する制度は、立候補の自由や平等原則との関係で重大な憲法上の検討を必要とする。

 それでは、世襲政治家がどれほど増えても民主主義には何の問題もないのだろうか。ここで話は反転する。世襲政治の核心は、「政治家の子どもが政治家になること」にあるのではなく、「政治家の子どもでなければ政治家になりにくい仕組み」が形成されているかどうかにあるからである。

投票箱の前では平等でも、その手前は平等なのか

 選挙の日、有権者には同じ一票が与えられる。大企業の経営者も大学生も会社員も年金生活者も、投票箱に入れられる票は一票であり、この意味で民主主義は驚くほど平等な制度である。しかし、その一票を投じる候補者がどのような過程を経て投票用紙に名前を載せたのかまで遡ると、景色は少し違って見えてくる。

 政治の世界では昔から、選挙に強い候補には「地盤・看板・鞄」があると言われてきた。地盤とは後援会や支持組織などの人的基盤、看板とは知名度、鞄とは政治活動や選挙運動を支える資金力を意味する。一般の新人候補者は、これらをほとんど何もないところから築かなければならないが、現職政治家の親族であれば、長年形成された支援者との関係、知られた名字、政治活動の経験、政党や業界との人脈といった政治的資源を引き継げる場合がある。

 日本の世襲政治を対象とした実証研究でも、この差が単なる印象ではないことはかなり明確に示されている。1990年代後半から2000年代にかけての選挙を分析した研究では、世襲政治家は非世襲政治家より選挙資源に恵まれ、選挙に強い傾向が確認されている。また、自民党の新人候補を比較した研究でも、世襲候補には非世襲候補より有利な選挙条件が存在することが示されている。

 ここで重要なのは、有権者が世襲候補を強制的に選ばされているわけではないという事実である。最終的には有権者自身が投票している。しかし、選挙という競争を100メートル走にたとえるなら、全員が同じゴールを目指していても、スタート地点まで同じとは限らない。ある候補者は知名度も後援組織もないところから走り始め、別の候補者はすでに整備された支援組織と名字を背負って走り始める。最後に誰が勝ったかだけを見れば競争は成立しているが、その競争に参加するまでの条件まで公平だったかどうかは、別に考えなければならない。

世襲だから能力が低いとは言えない

 ただし、ここで世襲批判を一歩進めすぎると、別の誤りに陥る。選挙上のスタート地点が有利であることと、その人物の政治家としての能力が低いことは、まったく別の問題だからである。

 政治家の家庭で育てば、政治、行政、選挙、政策形成に触れる機会が一般家庭より多くなる可能性は十分考えられる。親の仕事を通じて政治家、官僚、企業、地方自治体、支援者などが政策について語る場面を見ることもあるだろうし、政治という職業を身近な進路として認識する機会も多いだろう。このような人的・情報的環境が、政治家として必要な知識や人脈の形成に有利に働く可能性はある。

 もっとも、これは世襲政治家の能力が高いことを証明するものでもない。重要なのは、少なくとも「世襲だから能力が低い」と判断できる十分な実証的根拠が存在するわけではないということである。世襲議員と非世襲議員の国会活動を比較した研究でも、世襲議員が一貫して活発であるとも、一貫して不活発であるとも言えない。政治家の能力には政策立案、行政監視、交渉、外交、地域調整など多くの側面があり、血縁関係だけからその優劣を判断することはできない。

 つまり、問題にすべきなのは血筋そのものではなく、その血筋を通して政治的資源まで継承され、それが競争条件にどの程度の差を生み出しているのかという点なのである。

有権者は本当に「名字」だけで選んでいるのか

 世襲政治を批判するとき、「有権者が有名な名字に弱いから世襲が残る」と説明されることがある。しかし、この説明も単純すぎる。

 日本の有権者を対象とした近年の研究では、世襲候補であることそのものに対して必ずしも好意的ではない人でも、政治的ネットワークを持っていること、大臣などの重要な役職に就く可能性が高いこと、中央政府との交渉力を持っていること、地元に公共事業や予算をもたらす能力があることなどは、候補者を評価する要素として重視する傾向が確認されている。

 ここから見えてくるのは、「世襲だから支持される」というより、「世襲によって蓄積された政治資源が評価されている」可能性である。有権者にとっては、長く地域を代表してきた政治家一族の後継者であれば、前任者との人的・政策的な連続性を予測しやすく、地域事情を知っていると期待する理由もある。政治家本人への白紙委任ではなく、「この候補者なら中央との交渉ができる」「困ったときにどこへ相談すればよいか分かる」といった現実的な判断が投票行動に影響しているのであれば、有権者の選択を単なる無知や旧習として片づけることも適切ではない。

 民主主義を真剣に考えるなら、有権者が世襲候補を選んだという結果だけではなく、なぜその候補者を合理的な選択肢だと感じたのかまで見なければならない。

地元に利益を持ってくる政治家は「良い政治家」なのか

 世襲政治家については、興味深い研究結果がもう一つある。日本の選挙区を調べた研究では、世襲政治家が非世襲政治家より多くの政府支出や補助金を選挙区へもたらす傾向が報告されている。

 これは世襲政治を単純に批判できない理由の一つでもある。地方の有権者からすれば、中央政府との人脈を持ち、道路、公共施設、補助事業などの予算を地域へ持ってこられる政治家を選ぶことには現実的な利益がある。政治家が地域の代表である以上、「地元のために何を持ってきたか」は評価基準になり得る。

 しかし、ここにはもう一つの難しい問題が隠れている。政府から多くの予算を獲得した地域が、その結果として長期的に豊かになるとは限らないからである。日本の世襲政治家を分析した研究では、選挙区への分配的利益が多い一方で、それが地域経済の良好な成果に直結しているとは言えないことも示されている。ただし、地域経済には人口構造、産業構成、都市化、高齢化など多くの要因が影響するため、「世襲政治家が地域経済を悪くする」とまで断定することはできない。

 それでも少なくとも、「予算を持ってくる能力」と「地域を長期的に豊かにする能力」は同じではない。ここには地方政治にも国政にも付きまとう古い矛盾がある。自分の選挙区にとって優秀な政治家が、国全体にとって最適な政治家であるとは限らないのである。

民主主義には二つの入口がある

 世襲政治について考えていると、民主主義には二つの入口があることが見えてくる。一つは有権者が誰を選ぶかという入口であり、もう一つは誰が候補者として「選ばれる側」に立てるかという入口である。

 私たちは前者には非常に敏感である。投票が強制されれば民主主義ではないし、票が改ざんされても民主主義ではない。しかし後者については、選挙そのものほど注意を向けてこなかった。政党の公認を誰が受けるのか、選挙資金を誰が集められるのか、支援組織を誰が持てるのか、政治家を志す普通の市民に候補者になる現実的な道が開かれているのかという問題である。

 仮に、選挙自体は完全に自由であっても、主要政党の候補者になれる人が事実上ごく限られ、長年蓄積された後援組織や政治資金、人脈を持つ者だけが有力候補になれる社会であれば、投票箱の中では自由な競争が行われていても、その前段階には大きな参入障壁が存在することになる。

 もっとも、どこまでの条件差を「民主主義の欠陥」と呼ぶべきかは、実証研究だけでは決められない。医師の家庭から医師が生まれやすく、経営者の家庭から経営者が生まれやすいように、家庭環境によって知識や人脈、職業への関心が次世代へ伝わること自体は、政治家だけに見られる特殊な現象ではない。

 だからこそ、世襲政治を考えるうえでは、家庭を通じて自然に形成された経験や知識と、政治制度や政党組織によって閉鎖的に継承される選挙資源を区別する必要がある。親が政治家だったため政治に詳しくなったことと、親の後援会や政治的地位がそのまま子どもの当選可能性を押し上げることは、同じ「世襲」であっても民主主義にとって持つ意味が違う。

権力は次の権力を生むのか

 この問題をさらに考えさせる研究がアメリカにある。1789年以来の連邦議会を長期的に分析した研究では、政治家として長く権力を持った議員ほど、その後に親族が連邦議会へ進出する可能性が高くなることが示されている。

 この研究が興味深いのは、単に「政治家一族はもともと政治家になりやすい」という相関だけを見ているわけではなく、長く政治権力を持つこと自体が次世代の政治進出を促す可能性を統計的に検討している点にある。政治家として在職する間に築かれた知名度、人脈、資金調達能力、政党との関係などが、本人の引退後にも家族の政治資源として残るのであれば、政治権力は一代限りで消えるものではなく、次の権力を生み出す装置になり得る。

 もちろん、これはアメリカ議会を対象とした研究であり、同じ因果関係がそのまま日本に当てはまると断定することはできない。しかし、世襲政治を文化的な「血筋好き」だけで説明するのではなく、政治権力そのものが継承可能な資産を作り出すという視点は、日本の政治を考えるうえでも重要である。

日本人は本当に血筋を好むのか

 日本では世襲政治家が目立つため、ときに「日本人は家柄を重視するから世襲政治が残る」と説明される。しかし、これも十分な説明ではない。

 日本の選挙制度は1994年に大きく改革され、それ以前の中選挙区制から、小選挙区比例代表並立制へ移行した。この改革によって候補者個人の後援会を中心とした選挙から、政党をより強く意識した選挙へと環境が変わり、その後、政党による候補者公募なども広がった。研究では、こうした制度や候補者選定方式の変化に伴って、新人世襲候補が以前より減少したことが確認されている。

 この事実は重要である。もし世襲政治が日本人固有の血統志向だけから生じているのであれば、選挙制度や政党の候補者選定方式を変えても、世襲候補の割合はそれほど動かないはずである。ところが実際には制度変更によって変化している。したがって、日本の世襲政治は文化的な血統志向だけでは説明できず、選挙制度や政党組織のあり方によって増減する政治現象だと考える方が妥当である。

 ここまで来ると、世襲政治の問題は「政治家一族の倫理」の問題から、「候補者を生み出す制度」の問題へと姿を変える。

世襲政治家を禁止すれば解決するのか

 それなら、世襲候補そのものを禁止してしまえば問題は解決するのだろうか。おそらく、それほど簡単ではない。

 政治家の子どもであるという本人には選べない事情だけで、一定期間、親と同じ地域から立候補できないようにする制度や、親族の立候補そのものを制限する制度を設ければ、立候補の自由や平等原則との緊張関係が生じる。世襲候補の規制が直ちに憲法違反になると断定することはできないものの、少なくとも強い憲法上の検討が必要になる。

 それ以上に重要なのは、世襲候補を一律に排除しても、政治への参入障壁そのものが残っていれば、本質的な問題は解決しないことである。政治資金を集められる富裕層、有名人、大企業や大組織の支援を受けられる人だけが候補者になるのであれば、政治家の親族を排除しても別の形の閉鎖性が生まれる可能性がある。

 したがって民主主義の改善策として重要なのは、特定の家系を排除することより、政治家の家に生まれていない人でも有力候補になれる仕組みを作ることだろう。政党が候補者をどのように選んでいるのかを透明にし、公募などを通じて政治参加への入口を広げ、政治資金や後援組織についても透明性を高める。そして有権者が名字や知名度だけではなく、政策、実績、専門性、政治活動を比較できる情報環境を整えることの方が、民主主義の原則には適している。

問うべきなのは「世襲議員が何人いるか」だけではない

 世襲政治家の割合を見ると、私たちはつい、その数字そのものを民主主義の成績表のように扱いたくなる。しかし、世襲政治家が一人もいない国が必ず民主的であるわけではなく、世襲政治家が存在する国が必ず非民主的であるわけでもない。

 政治家の息子と無名の会社員が同じ選挙に立候補し、同じように政党公認を得る機会があり、有権者が政策や実績を比較したうえで政治家の息子を選ぶのであれば、その結果は民主主義の敗北とは言えない。ところが、無名の会社員には政党公認を得る機会も政治資金を集める機会もほとんどなく、政治家の息子だけが既存の支援組織と知名度を引き継いで有力候補になれるのであれば、民主主義の問題は投票日よりずっと前に始まっている。

 投票箱だけを見ていると、その違いは見えない。

 民主主義とは、誰を選ぶのかを決める制度であると同時に、誰が「選ばれる側」に進むことができるのかを決める制度でもある。そう考えるなら、世襲政治家の多さは民主主義の欠陥そのものというより、政治への入口がどれほど開かれているかを測る一つの警告灯だと考えた方が正確だろう。

 だから本当に知りたい数字は、国会議員の何割が世襲なのかだけではない。政治家の家に生まれなかった普通の市民が政治を志したとき、政党の候補者になる機会がどれだけあり、十分な情報と資金を得て選挙を戦うことができ、現職や世襲候補と現実的に競争できるのかという数字である。

 世襲政治について考えているつもりが、最後に私たちがたどり着くのは、血筋の問題ではない。民主主義とは、投票する権利だけを平等にすれば完成する制度なのか、それとも政治家になろうとする人がスタートラインへたどり着く機会まで含めて考える制度なのかという、もっと根本的な問いなのである。

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 町の将来を左右する大きな公共事業が持ち上がったとする。議会では賛成派と反対派が議論を続けているが、なかなか結論が出ない。住民説明会では厳しい意見が飛び交い、新聞や地域の情報サイトには「最後は住民に決めさせるべきだ」という声が並び始める。そこで登場するのが住民投票であり、賛成か反対かを一人一票で決めるという方法は、複雑な政治の世界を一瞬で透明にしてくれるように見える。

 政治家でも役所でもなく、住民自身が決める。これほど民主主義らしい制度はないようにも思える。それなら町長や議会が決めている政策をもっと住民投票に移し、重要事項のたびに住民の意思を尋ねれば、地方政治は今より民主的になるのだろうか。

 ところが、住民投票についての研究をたどっていくと、この直感は半分正しく、半分危ういことが分かってくる。住民投票には代表民主制にはない強みがある一方、投票する回数を増やすだけでは民主主義の質は高まらず、場合によっては、有権者が処理しなければならない情報を増やし、少数者を不利にし、政治責任の所在を曖昧にすることさえあるからである。

民主主義は、多数決と同じ言葉ではない

 住民投票を考える前に確かめておかなければならないのは、民主主義と多数決は同じものではないということである。多数決は、多くの人が異なる意見を持つ社会で結論を出すための極めて重要な方法だが、「過半数が賛成した」という事実だけで、その決定が民主主義的に正当化されるわけではない。

 人口一万人の町で、九千人にはほとんど負担がなく、残る千人だけの生活環境を大きく悪化させる政策があったとする。単純な多数決なら九千対千で圧倒的に可決される。しかし、この結果だけを見て「九割の民意なのだから民主的だ」と言い切るなら、民主主義は多数者が少数者を自由に支配する仕組みに変わってしまう。

 近代民主主義が多数決だけでできていないのは、そのためである。表現の自由、基本的人権、少数者の保護、司法による統制、権力分立などは、多数者であっても簡単には越えてはならない線を設ける仕組みである。住民投票を考えるときにも、「何人が賛成したのか」だけでなく、「そもそも多数決に委ねてよい問題なのか」という問いを避けることはできない。

スイスを見ても、「何でも住民が決める」わけではない

 直接民主制の代表例としてしばしば挙げられるのがスイスである。スイスでは2026年にも年四回の投票日が設定され、憲法改正には国民投票が必要であるほか、一定数の署名によって国民側から憲法改正を提案する国民発議や、議会が成立させた法律などを国民投票に持ち込む任意的レファレンダムも存在している。国民発議には18か月以内に10万筆、任意的レファレンダムには100日以内に5万筆の署名が必要であり、直接民主制はスイスの統治制度の中に深く組み込まれている。

 しかし、ここで重要なのは、「住民投票」という一つの言葉の中に性質の違う制度が入っていることである。政府が自ら設定した問題について住民の判断を求める場合と、住民自身が署名を集めて政治課題を持ち込む場合、さらに議会の決定に対して住民が拒否権を行使する場合とでは、同じ投票でも政治的な意味はかなり違う。

 この違いを無視して「直接民主制は良いか悪いか」と問うと、議論は粗くなる。住民が答える権利を持っていても、質問を作る権利を行政だけが持っている制度と、住民自身が質問を政治の場に持ち込める制度とでは、民主主義の構造そのものが違うからである。

本当に大きな権力は、「答える人」より「問いを作る人」が持っている

 例えば老朽化した町役場を50億円かけて建て替える計画があったとしよう。「新庁舎建設に賛成ですか」と尋ねることもできれば、「老朽化し耐震性に問題のある庁舎を建て替えることに賛成ですか」と尋ねることもできる。反対に、「50億円を投じる新庁舎建設に賛成ですか」と問えば、財政負担の印象が前面に出る。

 扱っている政策は同じでも、住民が最初に見る風景は同じではない。投票用紙に書かれた言葉そのものが投票行動へ影響し得ることは実験研究でも示されており、基本的な選挙運動情報が与えられるとその効果が弱まるとの結果もある。つまり質問文の影響は絶対的ではないが、無視してよいほど小さな問題でもない。

 欧州評議会のヴェネツィア委員会が住民投票・国民投票について、質問は明確で理解可能であり、誤解を招かず、特定の答えへ誘導しない中立的なものでなければならないと繰り返し求めているのも、この問題が民主主義の周辺的な技術論ではないからだ。2026年の意見書でも、質問の明確性や中立性を事前に審査する重要性が改めて示されている。

 私たちは住民投票というと、投票箱の前に立つ住民の姿を思い浮かべる。しかし、その人が「賛成」と「反対」のどちらかを選ぶはるか前に、誰かが問題を切り取り、質問を作り、選択肢を並べている。民主主義の公平さは投票箱を置いた日に始まるのではなく、その問いを作り始めた日からすでに試されているのである。

現実の政策は、本当は二つの箱には入らない

 住民投票にはもう一つ避けにくい問題がある。現実の政策の多くは、賛成と反対という二つの箱に収まらない。

 町立病院が毎年3億円の赤字を出しているとして、「病院を存続させることに賛成ですか」と住民へ尋ねれば、投票用紙には賛成と反対しか並ばない。しかし行政が本当に考えなければならないのは、全面存続か廃止かだけではない。病床を減らす、診療科を再編する、近隣自治体と共同運営する、入院機能を縮小して外来中心にする、民間医療機関への支援に切り替えるといった複数の選択肢があり、それぞれ費用と医療アクセスと将来リスクが違う。

 ところが住民投票を成立させるには、その複雑な政策空間を一定の選択肢へ圧縮しなければならない。住民に決定権を渡すという民主的な行為は、同時に、誰かが現実から選択肢を切り出す行為でもある。この意味では、住民投票が直接民主制だからといって、すべての政治権力が住民へ移るわけではない。

「普通の住民には難しい政策を判断できない」のか

 直接民主制への古典的な批判として、「専門知識を持たない住民に複雑な政策を判断できるのか」というものがある。水道事業、病院経営、都市計画、廃棄物処理、公共交通、自治体財政などを考えれば、この疑問は簡単には退けられない。議員や行政職員でさえ専門家の説明を聞き、膨大な資料を読んで判断する問題を、普段は別の仕事をしている住民が数週間で理解できるのかという問いには現実味がある。

 しかし、「一般の住民には分からないから専門家へ任せればよい」と結論づけるのも、研究結果とは合わない。2026年に公表されたデンマークの欧州連合関連国民投票の研究では、4回の国民投票を通じて、争点についての有権者の知識が投票運動期間中に平均約10~19パーセントポイント上昇していた。しかも知識の増加には、学歴や政治への関心以上に、ニュースでその問題がどれだけ扱われたかという情報環境が関連していた。研究者自身は因果関係を過度に断定せず記述的知見としているが、「普通の有権者は政策について学習しない」という単純な見方には明確な反証を与えている。

 だからといって、どんな政策でも住民が十分理解できると考えるのも危険である。2021年に、住宅ローンや航空機部品など非常に専門的な投票案件を使って行われた実験では、有権者が問題の意味を十分理解できず、文章を分かりやすくしたり追加説明を与えたりしても理解が大きく改善せず、初期設定的な回答に依存する傾向が確認された。

 この二つの研究は矛盾しているように見えるが、むしろ住民投票の本質をよく表している。住民には学習する能力があるが、無限の情報処理能力があるわけではないのである。したがって問題は「住民を信用するか、専門家を信用するか」ではなく、住民が意味のある判断をできる程度まで問題を理解できるのか、そのための情報環境を社会が用意できるのかという制度設計へ移る。

住民投票は、多ければ多いほど良いのか

 この記事の題名に最も直接答える研究の一つが、スイスで3,500件を超える投票案件を分析した2019年の研究である。そこで確認されたのは、同時に処理しなければならない投票案件が増えると、有権者が個々の案件について持っている知識が低くなる傾向だった。

 ただし、この研究は「住民投票を増やすと民主主義が崩壊する」と結論づけてはいない。投票行動や民主主義への態度など他の指標については、観察された範囲では案件数の増加による一貫した悪化は確認されなかったからである。

 ここには重要な示唆がある。住民投票を増やした途端に有権者が政治に嫌気を差し、民主主義が機能しなくなると考える根拠は乏しい一方、住民にも時間という希少資源があり、一度に考えさせる案件を増やせば、一件当たりに割ける注意力が薄くなる可能性がある。民主主義もまた、人間の認知能力という制約から自由ではないのである。

 自治体が十の案件について住民の意思を知りたいからといって、10件を一度に投票へかけることが最善とは限らない。民主主義への参加機会を増やすことと、有権者の判断負担を増やすことは、しばしば同じ政策によって同時に起こる。

一人一票でも、一票ができるまでの条件は平等ではない

 投票所に入れば、大企業の経営者も年金生活者も一票である。しかし、その一票が作られるまでの情報環境まで平等になるわけではない。

 政策広告を出すには資金が必要であり、専門家を雇って資料を作るにも、新聞広告を出すにも、インターネットで大量の情報を発信するにも費用がかかる。アメリカ・カリフォルニア州の住民発議を分析した研究では、賛成側と反対側双方の選挙運動支出が投票結果へ統計的に有意な影響を持つことが報告され、スイスの三百二十三件の連邦レベルの投票を分析した研究でも、政党連合の構成とともに選挙運動支出が結果へ影響することが確認されている。

 もちろん、資金や組織力が政治へ影響するのは住民投票だけではない。議員選挙でもロビー活動でも同じ問題は存在する。それでも、「政治家を通さず住民が直接決めれば、権力関係から解放された純粋な民意が現れる」と考えるのは無理がある。

 投票権について一人一票を保障することと、一票を形成するための情報へ同じように接近できることは別問題だからである。民主主義を投票日の平等だけで測れば、その前に存在する情報格差を見落としてしまう。

多数者に決めさせない方がよい問題もある

 住民投票と少数者の関係についても、結論は単純ではない。直接民主制だから必ず少数者が迫害されるわけではなく、多数の有権者自身が少数者の権利保護を支持していれば、直接投票によってその方向へ政策が動くこともあり得る。

 しかし、少数者自身の権利を多数者が直接判断する場合には、無視できない実証研究も存在する。スイス約1,400自治体の1991年から2009年までを分析した研究では、移民の帰化申請を住民による直接的な判断から選挙で選ばれた地方議員による判断へ移した自治体で、帰化率が約60%上昇した。制度変更がスイス連邦裁判所の判断によって生じたことを利用した研究であるため、単なる地域差の比較よりも因果関係を推定しやすい設計になっている。

 もちろん、この結果だけから「代表民主制は常に少数者を守り、直接民主制は常に少数者を傷つける」と一般化することはできない。帰化審査という特殊な制度についてのスイスの研究だからである。それでも、当事者が人口上の少数者である以上、自分たちの権利を多数票によって守ることが構造的に難しい問題が存在することは分かる。

 多数決は意見を集計する優れた方法だが、多数決によって決める対象の選択まで多数決に任せてよいとは限らないのである。

住民投票を増やすと、政治家は責任から逃げられるのか

 代表民主制には、しばしば忘れられる一つの機能がある。選ばれた政治家に決定させることで、誰がその判断をしたのかを明確にし、次の選挙で評価できることである。

 この観点からは、難しい政策を次々と住民投票へ委ねると、政治家が「住民が決めたことです」と説明して、自らの政治的責任を薄めるのではないかという批判が生まれる。政治学者マイヤ・セタラは、特に政府側が住民投票の実施をコントロールする制度では、政府が難しい争点について自ら立場を取ることを避けるために投票を利用する場合があり、代表者のアカウンタビリティ(accountability・説明責任と責任追及可能性)を弱める可能性を論じている。

 ただし、この問題についても結論は決着していない。政治学者アリス・エル=ワキルは、有権者自身には政治家と同じ意味で責任を取らせることができないという理由だけで、拘束力のある住民投票や住民発議を非民主的とみなすことはできないと反論している。

 したがって正確に言えば、住民投票を増やせば必ず政治責任が消えるのではない。問題は、誰が住民投票を発議したのか、結果に拘束力があるのか、議会でどこまで審議したのか、そして実施後の政策について誰が説明責任を負うのかである。政府自身が都合の悪い問題だけを住民へ投げ返す制度と、住民側が署名によって政治家へ問いを突きつける制度を、同じ「住民投票」として扱うべきではない理由もここにある。

日本の住民投票には「重いのに拘束しない」というねじれがある

 日本について考える場合には、さらに注意が必要である。2026年4月16日の衆議院総務委員会で、林総務大臣は、日本の地方自治では住民の直接選挙によって選ばれた首長と議会が中心的な役割を果たすことが基本であり、自治体が条例によって設ける拘束力を持たない住民投票は、議会制民主主義を補完して住民意思を把握する一つの手法として活用されているとの認識を示している。

 ただし、日本に存在するすべての住民投票が法的拘束力を持たないわけではない。法律に根拠を持つ法定型の投票と、自治体が条例によって実施する諮問型の住民投票は区別しなければならない。一般に地方政治で議論になることが多いのは後者であり、条例型では投票結果が首長や議会を法的に直接拘束しない場合が多い。

 ここに日本独特のねじれが生まれる。法的には拘束しないと言っても、例えば70%の住民が反対した大型事業を首長がそのまま進めれば、「住民投票を無視した」という強烈な政治的批判を受けるだろう。法律上は諮問でも、政治的には無視しにくい。

 それなら住民投票は決定なのか、それとも意見聴取なのか。結果に従わない可能性があるなら、住民は何のために投票するのか。必ず従うのであれば、なぜ最初からその法的効果を制度として整理しないのか。住民投票を増やそうとする議論では、投票の実施回数ばかりに目を向けるのではなく、「投票した後に何が起きるのか」まで決めておかなければならない。

それでも住民投票には、選挙ではできないことがある

 ここまで読めば、住民投票とは随分危険な制度のように感じるかもしれない。しかし、代表民主制にも同じくらい明確な限界がある。

 選挙では、一人の候補者が持つ無数の政策を一括して選ばなければならない。福祉政策には賛成だが公共事業には反対、教育政策には賛成だが増税には反対という有権者でも、投票用紙では候補者を一人選ぶしかない。しかも地方では候補者不足によって無投票選挙になることもあり、選挙結果をそのまま個々の政策への賛成と解釈することには限界がある。

 住民投票には、この束になった民意を一度ほどく働きがある。「この町長を支持しますか」ではなく、「この病院建設を支持しますか」と、一つの政策だけについて住民の意思を確認できるからである。

 直接民主制が財政政策そのものを変える可能性も研究されている。例えばスイスの州を分析した研究では、一定の財政支出について住民投票を義務づける制度が政府支出を抑制する方向に関連していた。ただし、その後の研究では、住民のもともとの政策選好を十分考慮すると制度そのものの効果は従来推計より小さくなることも示されており、「住民投票さえ導入すれば行政が効率化する」と単純化することもできない。

 それでも、住民投票という制度が政治家へ圧力を与え、政策を変える可能性があること自体は無視できない。住民投票は代表民主制と競争する別の民主主義というより、代表者だけに判断を独占させないための補助装置として考えた方が現実に近い。

投票する前の「考える時間」を制度にできないか

 ここまでの問題の多くは、住民へ判断させることそのものより、住民へいきなり賛成と反対の二択を突きつけることから生まれている。

 そこで考えられるのが、投票と熟議を組み合わせる方法である。無作為抽出などで選ばれた市民が、行政だけでなく賛成派、反対派、専門家などから説明を受け、一定期間議論し、争点を整理する。その成果を全住民へ提供した上で最終的な投票を行うのであれば、「詳しい人だけが情報を持ったまま投票日を迎える」という問題をいくらか緩和できる。

 重要なのは、民主主義を「すでに出来上がった民意を数える制度」と考えないことである。人の意見は、投票日の朝に突然完成するものではない。新しい事実を知り、自分とは違う事情を抱える人の話を聞き、予算額や代替案を知れば考えが変わることもある。

 デンマークの研究で、投票運動中に政策知識が増え、その増加が情報環境と関連していたことは、この意味で示唆的である。良い民主主義に必要なのは、住民にたくさん投票させることだけではなく、判断するための材料と時間を渡すことなのかもしれない。

民主主義の質は、投票箱の数では測れない

 結局のところ、「住民投票を増やせば民主主義は良くなるのか」という問いに、単純なイエスもノーもない。

 住民投票には、議会と住民の意思のずれを修正し、一つの政策について明確な意思を示し、政治家だけに決定権を独占させない力がある。投票運動を通じて住民が政策について学習する場合もあり、直接民主制そのものが議会や政府の行動を変える可能性もある。

 しかし投票案件を増やせば、有権者が一件ごとに持てる知識が薄くなる可能性がある。複雑すぎる問題では十分理解できない場合もあり、質問文の作り方によって結果が動くこともある。多額の選挙運動資金を投入できる組織と個人住民では情報発信力が違い、少数者自身の権利を多数決に委ねることにも危険がある。さらに、政府が都合の悪い問題を住民投票へ送る制度であれば、代表者が負うべき責任まで曖昧になる可能性がある。

 だから民主主義の程度を、「年間何回住民投票を行ったか」で測ることにはほとんど意味がない。見るべきなのは、その問題を住民投票で決めることが適切なのか、誰が議題を設定したのか、質問は中立なのか、代替案は示されているのか、住民が判断できる情報は届いているのか、少数者の基本的権利を多数決に委ねていないか、そして決定後に誰が政策を実行し、その結果について誰が説明するのかという一連の仕組みである。

 議会で決める方がよい政策もあれば、住民が直接決める方がよい政策もある。その中間には、住民参加型の審議会、市民会議、住民発議、諮問型投票など様々な仕組みを置くこともできる。民主主義とは、代表民主制か直接民主制かという二者択一ではなく、問題の性質に応じて「誰に、どの段階で、どこまで決めさせるか」を設計する仕事だと考えた方がよい。

 投票箱は民主主義の象徴であり、その価値は今後も変わらないだろう。しかし投票箱を増やすだけで民主主義が豊かになるわけではない。誰が問いを作り、どのような情報を受け取り、どれだけ考える時間を持ち、誰が決定し、その後に誰が責任を引き受けるのか。その長い過程全体を公正にすることこそ、民主主義を良くする仕事なのである。

 私たちが投票用紙に丸をつけるとき、民主主義が始まるのではない。その頃には、民主主義の質を決める仕事のかなりの部分が、すでに終わっている。

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 政治家を批判するとき、「裏切った」という言葉ほど強いものはない。選挙で掲げた公約を実行しなかった。昨日まで反対していた政策に賛成した。所属していた政党を離れた。長く支えてきた支持者とは違う方向へ舵を切った。こうした場面に出会うと、私たちはその政治家の一貫性を疑い、さらにその奥にある人格や信用まで疑いたくなる。

 それは決して不合理な反応ではない。民主主義において選挙が意味を持つためには、有権者が「この候補者なら、おおむねこの方向へ進むだろう」と予測できなければならないからである。選挙の翌日に公約をすべて捨てても構わないのであれば、選挙は未来の政策を選ぶ仕組みではなく、単に人物の名前を書く儀式に近づいてしまう。

 実際、政治学の研究でも、公約は私たちが想像するほど無意味ではない。複数の民主主義国を比較した研究では、政権を担った政党が相当部分の公約を実際に実現していることが確認されており、公約をより多く履行した政権ほど次の選挙で評価されやすいという研究もある。つまり、有権者が公約を気にすることにも、政治家が公約を守ろうとすることにも、民主主義の仕組みとして十分な理由がある。

 それでも政治という仕事を少し長い時間の中で眺めると、一つの厄介な問題が浮かび上がる。

 政治家は、本当に「裏切らないこと」だけを目指せばよいのだろうか。

 選挙のときには合理的だった政策が、その後の経済危機や災害、人口変化、新しいデータによって不合理になったとしても、約束した以上は実行すべきなのか。所属政党の方針が住民の利益に反すると判断しても、党を裏切らないために賛成すべきなのか。支持者の要求と社会全体の利益が衝突したとき、政治家はどちらに忠実であるべきなのだろう。

 こうして考えていくと、政治における「裏切り」は、単純な道徳問題ではなくなってくる。

政治家は誰の代理人なのか

 政治家の場合、忠誠を向ける相手が一つではない。有権者から選ばれ、政党に所属し、公約を掲げ、議会の一員となり、同時に自治体や国家全体の利益について判断する立場に置かれる。選挙区の住民、支持者、政党、議会、行政、そしてまだ投票することのできない将来世代まで含めれば、政治家が向き合う利害は最初から重なり合っている。

 しかも、それらがいつも同じ方向を向いているわけではない。

 たとえば、ある地方議員が「この学校は絶対に残す」と訴えて当選したとする。当選した時点では、地域の人口も財政も、その約束を支えられる状態だった。しかし数年後、出生数が予想以上に減り、一学年に数人しかいなくなった。教員配置や教育環境、建物の更新費用、通学時間まで調べてみると、学校を統合し、スクールバスなどの移動手段を充実させた方が子どもたちにとって望ましいという結論に近づいていく。

 ここで議員が統合に賛成すれば、選挙時の約束を裏切ったと言われるだろう。

 しかし、学校を残すという過去の言葉だけを守った結果、現在の子どもたちの教育環境が悪化したなら、その議員は別のものを裏切ったとも言える。つまり、過去の約束に忠実であるために、現在の住民の利益を犠牲にしたことになる。

 政治の難しさは、ここにある。

 何かを裏切らないという行為が、別の何かに対する裏切りになることがある。

バークが考えた「代表する」という仕事

 この問題は、現代だけのものではない。

 18世紀のイギリスの政治家・思想家エドマンド・バークは、議員を選挙区の要求をそのまま運ぶ使者とは考えなかった。議員は有権者の意見を重く受け止めなければならないが、それと同時に、自分自身の知識と判断を使って公共の利益を考える存在であるべきだ、と考えたのである。

 この発想に立てば、政治家は有権者の命令を機械的に実行する装置ではない。

 ただし、だからといって「政治家は自分の好きなように決めてよい」ということにもならない。バーク型の代表観が政治家に与えるのは自由というより、むしろ重い責任である。自分の判断で有権者の期待と異なる決定をする以上、「なぜそう判断したのか」を説明し、その判断について政治的責任を負わなければならないからだ。

 これは民主主義に存在する二つの考え方の緊張でもある。

 一方には、有権者から与えられた意思をできるだけ忠実に実行する代表者像がある。他方には、選ばれた者が情報を集め、熟慮し、場合によっては有権者の目前の要求とは違う判断をする代表者像がある。

 現実の政治は、そのどちらか一方だけでは成り立たない。

 有権者の意思を無視すれば民主主義ではなくなり、反対にその瞬間の多数意見だけを機械的に実行すれば、代表者が判断する意味がなくなってしまう。

公約は未来を知らない時点で作られる

 公約には、避けることのできない性質がある。

 それは、未来を知らない時点で作られるということである。

 選挙が行われたときには存在しなかった感染症が広がるかもしれない。景気が急激に悪化するかもしれない。税収が予想を大きく下回ることもある。巨大災害が発生すれば、財政支出の優先順位は一夜で変わる。人口予測が外れることも、新しい技術によって以前は不可能だった政策が可能になることもある。

 それでも、「公約は一度掲げた以上、何が起きても変更してはいけない」と考えるなら、政治家に期待しているのは判断ではない。選挙の時点で書かれたプログラムを、その後の現実に関係なく実行することになる。

 しかし、政治とは本来、未来が完全には分からない社会で判断を繰り返す仕事である。

 だから、政策変更そのものを直ちに裏切りと呼ぶのは少し粗い。

 問題にすべきなのは、何を変更したかだけではなく、なぜ変更したのかである。

 新しい事実が判明したから変えたのか。前提条件が崩れたから変えたのか。自分の判断が間違っていたと認めて変えたのか。それとも、権力を得た後で自分に都合のよい方向へ動いただけなのか。

 同じ「昨日と言っていることが違う」という現象でも、その中身はまったく異なる。

「不人気な決断」は、それだけでは正しくない

 ここで一つ注意しなければならない。

 政治を論じるとき、しばしば「本当に必要な改革ほど国民には嫌われる」という物語が語られる。病院を統合する。公共施設を減らす。赤字路線を廃止する。負担を増やす。こうした政策は短期的に反発を生みやすく、選挙上の不利益になる場合がある。

 しかし、不人気だから正しいわけではない。

 病院統合が合理的な場合もあれば、医療アクセスを著しく悪化させるだけの場合もある。増税が財政の持続可能性に必要な場合もあれば、単に政策設計が悪い場合もある。公共施設を減らすことが合理化になる場合もあれば、必要な生活基盤を破壊する場合もある。

 政治家が「批判されても改革を断行する」と言ったからといって、その改革が正しいと証明されたことにはならない。

 政治学の研究から比較的確かに言えるのは、政治家の行動が選挙上の誘因から完全に自由ではないという程度である。再選の可能性や選挙制度が議員の行動に影響することは確認されているが、そこから「選挙に不利な政策ほど社会にとって正しい」という結論を導くことはできない。

 だから必要なのは、勇気の演出ではなく根拠である。

 どの政策を変えるのか。その変更によって誰が利益を得て、誰が負担するのか。別の方法はなかったのか。将来の費用まで含めると、本当にその選択が合理的なのか。

 政治家が有権者の期待を裏切ることを正当化できるとすれば、その判断を検証可能な形で説明できる場合に限られるだろう。

「党を裏切る」とは何を意味するのか

 裏切りという言葉がとりわけ強く使われるのが、政党を離れたり、党の方針に反対したりする場面である。

 しかし、ここでも事情は単純ではない。

 ある議員が政策上の重大な対立から離党する場合と、役職や選挙上の利益を得るために有利な政党へ移る場合とでは、同じ「離党」でも意味が違う。実際、海外の議会を調べた研究では、党を移ったという事実だけでなく、なぜ移ったのかによって有権者の評価が異なる可能性が示されている。

 これは直感的にも理解できる。

 「この政策だけは自分の信念と両立しない」と説明して議席や役職を失う覚悟で党と対立する政治家と、選挙に有利だから強い政党へ移る政治家を、まったく同じ裏切りとして扱うのは難しい。

 だから、政治における一貫性を測るときには、所属先だけを見るのでは足りない。

 何を守ろうとして立場を変えたのかを見る必要がある。

未来の住民は投票所に来ない

 政治には、もう一つ厄介な問題がある。

 時間である。

 現在の政策決定によって影響を受けるのは、現在の有権者だけではない。道路や上下水道、公共施設、国債、年金制度、環境政策、都市計画などは、数十年後の住民にも影響を与える。

 ところが、20年後にその地域で暮らす人々は、今日の選挙には参加できない。

 そのため民主政治には、短い選挙周期の中では将来世代の利益が現在の有権者の要求より弱くなりやすい、という問題が生じることがある。これは政治学で「政治的短期主義」として研究されてきた問題の一つである。

 もちろん、民主主義だから必ず未来が犠牲になるわけではない。現在の有権者も、自分の子どもや孫の生活を考える。財政規律や環境保護を支持する人もいるし、制度によって長期的な政策を守ることもできる。

 それでも、現在の有権者には一票があり、まだ生まれていない人には一票がないという非対称性そのものは消えない。

 この事実を考えると、「支持者を裏切らない政治」という言葉の意味も変わって見えてくる。

 すべての道路を残す。すべての公共施設を維持する。負担は増やさない。サービスも減らさない。それは現在の住民にとって魅力的であり、政治家にとっても説明しやすい。

 しかし、その費用は消えてなくならない。

 借金になり、更新費になり、人手不足になり、将来の住民が選べる政策の幅を狭めていく。

 現在の支持者を裏切らないために未来の選択肢を削っているのだとすれば、それもまた政治的な忠誠のあり方として検討されなければならない。

「状況が変わった」は便利な言葉でもある

 ここまでなら、「では政治家は状況に応じて自由に公約を変えればよい」という話に聞こえるかもしれない。

 しかし、そこには危険な落とし穴がある。

 権力を持つ側にとって、「状況が変わった」「国民のためだ」「苦渋の決断だった」という説明ほど便利な言葉はないからである。

 選挙前には反対していた政策を、権力を得た途端に支持する。既得権益を改革すると訴えていたのに、政権を取ると既存の利害関係に取り込まれる。政策上の理由ではなく役職や党内での立場を守るために態度を変える。それらまで「現実的な政治」と呼んでしまえば、公約も政治的責任も意味を失う。

 そこで、正当化可能な政策変更と、単なる政治的裏切りの境界が必要になる。

 その境界を完全な数式のように引くことはできないが、判断材料はある。

 何が変わったのかを具体的に説明できるか。変更前の判断のどこが誤っていたのかを認めているか。変更によって誰が利益を得るのかを公開できるか。自分自身や特定の支持団体だけが利益を得る構造になっていないか。以前の公約を維持する場合と変更する場合を比較した根拠が示されているか。

 そして何より、その変更について有権者の審判を受ける意思があるか。

 民主主義において正当化される方針転換とは、責任から逃れるための変節ではない。

 むしろ、「以前の自分の判断は誤っていた」「状況が変わったのでこの政策は維持できない」と説明し、その結果として支持を失う可能性まで引き受ける行為でなければならない。

一貫性とは、同じことを言い続けることなのか

 私たちは政治家に一貫性を求める。

 それ自体は正しい。昨日と今日で都合よく言うことを変える政治家ばかりになれば、選挙による選択も責任追及も成り立たなくなる。

 しかし、一貫性という言葉には二つの意味が混ざっている。

 一つは、判断基準の一貫性である。

 誰の利益を重視するのか。公平性と効率性をどう考えるのか。現在世代と将来世代をどう扱うのか。そうした価値判断の軸を保ちながら、新しい情報に応じて政策手段を変える。

 もう一つは、発言内容の一貫性である。

 状況が変わっても、「以前そう言ったから」という理由だけで同じ政策を続ける。

 政治に本当に必要なのは、後者より前者ではないだろうか。

 人口が増え続けることを前提につくられた公共施設を、人口が半分になっても維持することが信念なのか。成長期につくられた制度を、その前提条件が失われたあとも変えないことが一貫性なのか。

 それはもしかすると、現在の社会に忠実なのではなく、過去の自分に忠実なだけなのかもしれない。

「裏切り」が必要なのではない

 ここまで考えてくると、最初の問いにも少し違った答えが見えてくる。

 政治に「裏切り」が必要なのかと問われれば、厳密には少し違う。

 必要になることがあるのは、裏切りそのものではない。

 新しい事実によって以前の判断が維持できなくなったとき、過去の公約や所属政党、支持者の目前の要求と異なる方向へ進むことである。

 公約違反、政策変更、離党、党の方針への反対、支持者の要求への拒否は、日常語ではすべて「裏切り」と呼ばれることがある。しかし政治学的に見れば、それらは同じ行為ではない。動機も違えば、民主主義に与える影響も違う。

 だから評価すべきなのは、「裏切ったか、裏切らなかったか」という一語ではない。

 何を守るために、何を変更したのか。

 そこを見る必要がある。

 政治家が決して裏切ってはならないものがあるとすれば、それは過去に口にした一つ一つの言葉ではないだろう。政党そのものでも、特定の支持団体でもない。

 それは、政治によって影響を受ける人々の利益について考え続け、その判断を説明し、結果について責任を負うという、代表者としての役割ではないだろうか。

 その責任を守ろうとすれば、ときには公約を修正し、党と対立し、支持者を説得し、そして昨日までの自分自身を否定しなければならないこともある。

 だから政治に必要なのは、「絶対に裏切らない政治家」ではないのかもしれない。

 必要なのは、何を変え、なぜ変えたのかを説明できる政治家である。そして、より大きな責任を守るために過去の約束を変えたのだと言うのであれば、その判断が間違っていたと有権者から裁かれる可能性まで引き受ける政治家である。

 政治において問われるべきなのは、裏切ったという事実だけではない。

 その政治家が、最後まで何を裏切らなかったのかなのである。

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「正しい政治」ができる日本を夢見て

 後藤田正晴という政治家を振り返るとき、しばしば「権力に慎重だった保守政治家」という言葉が使われる。しかし、その説明だけでは、彼の本質には届かない。後藤田は権力から遠い場所にいて、それを理念的に批判した人ではなかった。旧内務省に入り、戦後は警察行政の中枢を歩み、警察庁長官となり、さらに内閣官房副長官、自治大臣、国家公安委員長、内閣官房長官、副総理、法務大臣まで務めた。国家が情報を集め、人を動かし、命令を下し、ときには強制力を行使する、その仕組みの中心を長く歩いてきた人物である。

 だからこそ、彼が晩年になるほど権力の扱いに慎重になったことには重みがある。権力を知らなかったから恐れたのではない。権力が実際にはどのように動き、どのように人を変え、どのように組織を自己正当化させるのかを知ったからこそ、その危険を警戒するようになったのではないか。後藤田正晴という人物のおもしろさは、まさにその逆説の中にある。

権力は「正しさ」の中から膨張する

 国家権力は、悪意だけによって暴走するわけではない。むしろ現実には、「正しいことをしよう」という意志の中から膨張していく場合の方が多い。治安を守るため、国民を守るため、国家の安全を確保するため、災害に迅速に対応するため、行政を効率化するため。どれも必要な目的であり、それ自体を否定することはできない。国家が何もできなければ社会は成り立たないし、警察も防衛も外交も危機管理も必要である。後藤田は、その必要性を誰よりも現場に近い場所で知っていた。

 それでも彼は、国家が強くなればなるほど、その力をどう制御するかを考え続けた。彼が求めたのは、弱い国家ではなかった。必要なときには動ける国家でありながら、その強さが自分自身を正当化し、際限なく広がっていかない国家だった。民主主義の難しさはここにある。権力を弱めることだけなら、それほど難しくない。しかし、国民を守るために十分な権限を持たせながら、その権限を法と手続きと政治的責任の中に閉じ込めることは、はるかに難しい。

戦争が教えた「国家も間違える」という現実

 その感覚を考えるうえで、後藤田の戦争体験は外せない。1914年に徳島県で生まれ、東京帝国大学を卒業して1939年に内務省へ入った後藤田は、翌年には徴兵され、台湾歩兵第二連隊に入営した。その後、陸軍経理学校を経て台湾軍司令部に勤務し、終戦を迎えている。官僚として国家を支えるはずだった青年は、国家そのものが戦争へ総動員されていく過程を、自分の人生として経験した。

 戦争中の日本は、自らを破滅させようとしていたわけではない。むしろ、多くの政策は「国を守るため」「国益を守るため」という名のもとに進められた。一つ一つの判断には、その時点なりの理由があり、合理性があり、責任感があった。それでも、その判断が積み重なった先に破局があった。ここに、権力を考えるうえで見落としてはならない現実がある。国家は悪意がなくても間違える。使命感でも間違えるし、愛国心でも間違える。そして、自分たちは正しいという確信を強く持つほど、途中で軌道修正することが難しくなる。

 後藤田の戦後の言動を戦争体験だけで説明することはできない。しかし、彼が軍事に対する政治統制を繰り返し重視し、軍事組織の論理が政治判断を越えてはならないと考えていた背景には、この経験が一つの重要な土台として存在していたと見るのが自然である。

軍事を統制するのは政治である

 後藤田が重視したシビリアン・コントロール(Civilian Control・軍事を文民による政治的統制の下に置く原則)も、その文脈で見ると理解しやすい。これは単に背広を着た官僚が制服組より偉い、という意味ではない。彼が繰り返し強調したのは、軍事は政治に従属しなければならないという原則だった。つまり、軍事組織が自らの論理だけで国家の進路を決めることを許してはならないということである。

 ここで重要なのは、後藤田が軍人を特別に危険視していたわけではないという点だろう。彼が警戒したのは、組織というものが、自分に与えられた使命を中心に世界を見るようになることだった。警察は社会問題を治安問題として見る。軍事組織は外交問題を安全保障の問題として見る。財政当局は政策を財源の問題として見る。どの見方も必要であり、どの見方も一定の正しさを持つ。しかし、その一つだけが国家全体の判断になったとき、政治は危うくなる。政治の役割とは、それぞれの専門的な正しさを比較し、全体の中で統合し、どれか一つの論理が国家そのものを乗っ取らないようにすることにある。

「悪い本当の事実を報告せよ」という権力論

 その意味で、後藤田の有名な「五訓」は、単なる役人の心得ではなく、一つの権力論として読むことができる。なかでも「悪い本当の事実を報告せよ」という言葉は象徴的である。

 組織の上に行けば行くほど、権限は大きくなる。だが同時に、現場の事実からは遠ざかっていく。課長より部長、部長より局長、大臣、そして総理大臣へと権限が集中していく一方で、トップ自身が直接見られる現実はむしろ少なくなっていく。だから、権力者は情報を部下から受け取るしかない。

 そこで、権力特有の歪みが生まれる。部下は上司の表情を読み、上司が何を望んでいるのかを察する。政策がうまくいっているなら、それを補強する資料が集められ、失敗が起きれば、その失敗をどう説明するかが考えられる。最初から誰かが嘘をつこうとしているわけではない。数字の悪い部分より良い部分を先に説明し、危険な兆候には慎重な表現を添え、政策に不都合な事実には別の解釈を与える。その小さな加工が積み重なるうちに、権力者だけが現実から遠ざかっていく。

 だから後藤田は、単に「本当の事実を報告せよ」とは言わなかった。「悪い本当の事実を報告せよ」と言ったのである。権力者が最も必要としている情報とは、自分を安心させる情報ではない。自分の政策が間違っているかもしれないと教えてくれる情報だからである。

 「勇気を以て意見具申せよ」という言葉も、同じ思想につながる。日本の組織では、ときに上司に逆らわないことが忠誠とみなされる。しかし、後藤田の考え方は逆だった。決定されるまでは意見を言い、決定された後は組織として実行する。強い組織とは、反対意見が存在しない組織ではない。反対意見を言っても排除されず、そのうえで最終的な決定には従える組織である。

 逆に、指導者の意向を察する能力ばかりが評価される組織は、一見するとよく統率されているように見えるが、実際には脆い。指導者が正しい間は強いが、指導者が間違った瞬間に、全員で同じ方向へ間違ってしまうからである。後藤田が警戒していたものを一つの言葉で表すなら、権力者の周囲から異論が消えていくことだった、と読むこともできる。

反権力ではなく、権力を統制する思想

 もっとも、後藤田を「反権力の人」として美化するのは正しくない。彼は警察庁長官として、よど号ハイジャック事件、あさま山荘事件、成田空港をめぐる激しい対立など、国家が実力行使を迫られる局面を経験している。警察力そのものを否定していたわけではないし、自衛隊の存在を否定していたわけでもなく、日米安全保障体制そのものを拒絶していたわけでもない。

 だからこそ、彼の権力への警戒は重い。権力が必要であることを知ったうえで、その権力をどう縛るかを考えたからである。後藤田の思想を「反権力」と呼ぶより、「権力統制の思想」と呼んだ方が近いのだろう。

中曽根政権を支えながら、中曽根を止める

 その姿勢がもっとも鮮明に表れたのが、中曽根康弘政権である。中曽根は「戦後政治の総決算」を掲げ、日本の国家としての輪郭をより明確にしようとした政治家だった。構想を描き、決断し、前へ進もうとする政治家であり、政治的にはアクセルを踏むタイプだった。

 その中曽根の官房長官を長く務めた後藤田は、単なる抵抗勢力ではなかった。政権を支え、官邸機能を強化し、危機管理体制を整えながら、それでも越えてはならないと考えた線では止めた。象徴的なのが、1987年のペルシャ湾への海上自衛隊掃海艇派遣構想である。

 掃海という行為だけを見れば、防御的で人道的な作業にも見える。しかし、交戦海域に自衛隊の艦艇を送れば、日本側がどう説明しようとも、相手国からは戦争への参加と見なされる可能性がある。国家が何を意図したかだけでなく、相手からどう見えるかまで考えなければならない。後藤田はそこに強い懸念を示し、結果として派遣は実現しなかった。

 この出来事は、政治における「側近」の意味を考えさせる。総理大臣に何でも賛成する人間が有能な側近なのではない。総理が越えてはならない線に近づいたとき、「そこから先は危険です」と言える人間こそ、最も価値のある側近なのかもしれない。政権を倒すために反対するのではなく、政権を間違わせないために反対する。その役割を後藤田は担っていた。

安全保障の論理が国家すべてを覆うとき

 彼の慎重さは軍事行動に限らなかった。「国家安全保障会議」という名称についても、後藤田はかつて慎重な姿勢を示していた。国の安全という問題が、軍事や外交だけに狭く理解されることを警戒していたからである。国家の安全とは、軍事力だけで決まるものではない。経済が崩れ、災害への備えがなく、政治そのものへの信頼が失われれば、どれほど防衛力を持っていても国家は安定しない。

 安全保障が必要であることと、「安全保障」という言葉がすべての政策を正当化することは別の問題である。政治には、国家安全保障を考える能力と同時に、その言葉の強さに飲み込まれない慎重さも必要になる。

憲法とは政治家の善意を信じないためにある

 晩年の後藤田は憲法改正にも慎重な発言をしているが、彼を単純な護憲論者として理解するのも正確ではない。日本国憲法を一字一句変えてはならないと考えていたわけではなく、国民主権、民主主義、基本的人権、平和主義といった基本原理を重視しながら、もし現行憲法と整合しない政策を本当に行う必要があるなら、政治の都合で解釈を広げ続けるのではなく、国民に説明し、正式な改正手続きを踏むべきだという立場に近かった。

 ここにも、後藤田の権力観が現れている。憲法とは、善良な政治家を前提にする制度ではない。将来、どのような政治家が権力を握るか分からないからこそ存在する。現在の政権が「自分たちは正しく使う」と言って権限を拡大すれば、その権限は次の政権にも残る。制度は、その時々の政治家の善意ではなく、未来の政治家の危険性まで想定して作らなければならない。

権力は人を変えるより、世界の見え方を変える

 権力について語るとき、「権力を持つと人は悪くなる」という言い方がある。しかし現実は、それほど単純ではない。権力者が悪人になる必要はない。権力は、世界の見え方を変えるだけで十分に危険なのである。

 人が自分の話をよく聞くようになる。会議で反論されなくなる。自分の判断で予算が動き、人事が動き、行政が動く。その状態が続けば、自分の判断が正しいから人が従っているのか、権力を持っているから従っているのか、その区別は次第につきにくくなる。

 だから民主主義に必要なのは、立派な政治家を探すことだけではない。立派でない政治家が権力を握っても、国家が壊れない仕組みを作ることである。

問うべきは「強い首相か」ではなく「誰が止められるか」

 現在の政治でも、私たちはしばしば「強いリーダー」を求める。決断が早く、反対を押し切り、官僚を動かし、党内をまとめる政治家は、確かに強く見える。しかし、強いリーダーと、権力が集中したリーダーは同じではない。反対意見を排除すれば意思決定は速くなり、官邸に権限を集中すれば行政は動かしやすくなる。しかし政治の目的は、速く決めることではなく、できる限り正しい判断に到達することである。

 そして人間は間違える。

 ここを忘れた瞬間、「強い政治」は「訂正できない政治」に変わる。

 後藤田の思想から現在への問いを一つだけ引き出すなら、「この首相は強いか」ではなく、「この首相が間違ったとき、誰が止められるのか」と問うべきなのだろう。

 権力を外から見ると、どうしても美しく見える。総理大臣が決断すれば国が動き、大臣が指示すれば役所が動く。だから、もっと強い政治家がいれば改革が進むのではないかと考えたくなる。しかし実際に権力を使う側に立てば、一つの命令がどれほど多くの人を動かし、一つの判断がどれほど多くの人生に影響するかが見えてくる。

 治安政策なら人を拘束することがある。外交政策なら国家間の関係を変える。安全保障政策なら人命にかかわる。だから民主主義における権力は、政治家が所有するものではない。国民から一時的に預けられているものにすぎない。

 この感覚を失ったとき、政治家は代表者から支配者へ近づいていく。

正しい政治家より、間違いを止められる政治を

 私たちは政治に失望すると、「もっと正しい政治家はいないのか」と考える。しかし、正しい政治家だけを探しても政治は良くならない。必要なのは、間違った政治家が現れても、間違いが国家全体を支配しない制度である。

 権力者に不都合な数字が消えないこと。官僚が政治家に耳の痛い事実を言えること。専門家が政権に反対しても排除されないこと。報道機関が権力を批判できること。野党が政府を問いただせること。司法が政治から独立していること。そして選挙によって権力を入れ替えることができること。

 これらは政治を邪魔する仕組みではない。

 政治を間違わせないための仕組みである。

 民主主義とは、政府を全面的に信頼する制度ではない。人間は間違えるという前提に立ちながら、それでも政府に必要な権力を預ける制度である。その慎重さこそが、民主主義の強さなのだろう。

「カミソリ後藤田」と権力を納める鞘

 後藤田正晴は「カミソリ後藤田」と呼ばれた。頭の回転が速く、行政実務に通じ、危機管理にも強かった。しかし、この「カミソリ」という呼び名は、彼の権力観そのものにも重ねることができる。

 切れない刃物は役に立たない。しかし、よく切れる刃物ほど危険である。だから鞘が必要になる。

 国家権力も同じである。弱すぎれば国民を守れない。しかし、強ければ強いほど、それを納める鞘が必要になる。警察、自衛隊、情報機関、行政権、そして政治権力。後藤田は、それらを鈍らせようとしたのではない。必要なときには切れるようにしながら、それでも勝手に振り回されない仕組みを求めた。

 その鞘が、法であり、制度であり、政治統制であり、異論であり、「悪い本当の事実」を報告できる組織文化だったのではないか。

「正しい政治」ができる日本を夢見て

 後藤田正晴の人生から見えてくるのは、少し寂しく、それでも希望のある政治観である。

 政治家は間違える。

 官僚も間違える。

 専門家も間違える。

 そして国民も間違える。

 だから民主主義は面倒である。議論し、反対し、説明し、国会で問いただし、選挙を行い、報道が批判し、司法が判断する。その過程は遅く、騒がしく、効率が悪いように見える。

 しかし、その面倒さこそが、国家を取り返しのつかない間違いから救う最後の余地なのだろう。

 正しい政治とは、決して間違えない政治ではない。

 間違ったときに事実を隠さず、批判する者を敵とみなさず、自分たちの誤りを認め、政策を修正できる政治である。

 もし後藤田正晴が現在の日本政治を見たなら、特定の政党を支持せよとも、特定の思想に従えとも言わないかもしれない。

 むしろ、もっと地味で厳しい問いを投げかけるのではないか。

 総理大臣のもとに、悪い本当の事実は届いているのか。大臣に反対意見を言える官僚は残っているのか。専門家は、政治家が聞きたい答えではなく、自分が正しいと思う答えを言えているのか。選挙で勝った多数派は、自分たちが多数派だから正しいのだと思い込んでいないか。そして、権力を持つ者自身が、その権力の大きさを少しでも怖いと思っているか。

 後藤田が権力を知るほど権力を警戒した理由を、歴史資料だけから完全に証明することはできない。人間の内面を断定することはできないからである。それでも、戦争を経験し、警察を率い、官邸を動かし、総理大臣の傍らで国家意思の形成を見続けた人物が、最後まで権力の抑制を語り続けたという事実には意味がある。

 権力を知った者が、権力を礼賛しなかった。

 国家は必要である。強い政府も、ときには必要である。しかし、必要であることと、無条件に信じてよいことは同じではない。むしろ社会にとって重要な権力ほど、注意深く監視されなければならない。

 国を愛することと、政府を無条件に信じることも同じではない。政府を批判することと、国を否定することも同じではない。正しい政治を願うからこそ、政治家に事実を求める。国家を大切に思うからこそ、国家権力に限界を設ける。民主主義を信じるからこそ、異論を認める。

 いつか日本が、誰か一人の「強い政治家」に期待しなくても政治が機能する国になればよい。

 政治家が間違いを認めても弱いと笑われず、反対意見を聞いても優柔不断と呼ばれず、官僚が大臣に耳の痛い報告をしても不利益を受けず、選挙で勝った側も自らの権力には期限があることを忘れない。

 そんな政治は、派手ではない。

 英雄も生まれにくい。

 けれど、それこそが成熟した国家なのかもしれない。

 後藤田正晴という政治家を振り返る意味は、過去の「名政治家」を懐かしむことではない。権力とは何かを、私たち自身がもう一度考えることにある。

 権力を持つ者が、自分の強さよりも、その強さの危険を知っている政治。異論を排除するのではなく、異論によって自分を修正できる政治。都合のよい説明ではなく、「悪い本当の事実」から判断を始める政治。

 そのような政治が当たり前にできる日本を、まだ夢見ることはできる。

 おそらく民主主義とは、その夢を諦めないために存在しているのである。

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戦後81年~「戦後100年」「戦後120年」

~平和を願うだけでも、軍事力だけでもない。戦争を遠ざける条件を現実から考える

2026年8月15日、日本は1945年の終戦から81年を迎えた。

「戦後81年」という言葉には、少し不思議な響きがある。

戦争が終わってから81年間が経過したという意味である一方、「戦後」という言葉を使い続けている限り、日本はまだ1945年から続く時間の中にいることになる。

しかし、それは必ずしも否定的な意味ではない。

戦後100年となる2045年にも「戦後」と呼び、戦後120年となる2065年にも「戦後」と呼ぶことができるなら、それは少なくとも、その間に日本が新しい戦争によって時代を区切られなかったことを意味する。

理想を言えば、戦後150年、200年と、「戦後」が終わらない社会であってよい。

もちろん、未来に戦争が起きないことを保証する方法は存在しない。

国家間の戦争は、一国民の善意だけで決まるものではない。国際政治、軍事力、領土問題、資源、経済、安全保障上の認識、国内政治、同盟関係、偶発的衝突、指導者の意思決定など、多数の要因が絡み合って発生する。

したがって、「平和を願えば戦争は起こらない」という説明は現実的ではない。

反対に、「十分な軍事力さえ持てば戦争は起こらない」と断定することもできない。

令和の日本人にできることを考えるなら、この二つの単純化から離れる必要がある。

必要なのは、戦争が起きる確率をゼロだと考えることではなく、

戦争へ進む条件を一つずつ減らし、平和が継続する条件を一つずつ増やしていくことである。

それは派手な行動ではない。

民主主義、外交、防衛、教育、歴史認識、情報、経済、国際協力という社会の仕組みを、毎日の政治と生活の中で正常に機能させ続けることである。

81年間の平和を「自然に続いた時間」と考えない

1945年から2026年まで、日本が再び大規模な戦争の当事国にならずに81年間を積み重ねてきたことには、一つだけの原因があるわけではない。

日本国憲法第9条は、日本国民が国際平和を希求し、国際紛争を解決する手段として戦争と武力による威嚇または武力の行使を永久に放棄すると定めている。これは現在も日本の憲法上の基本原則である。

しかし、日本の戦後の安全が憲法だけによって成立してきたと証明することもできない。

日本には自衛隊が存在し、日米安全保障体制があり、日本政府は防衛力と同盟による抑止を安全保障政策の重要な構成要素としてきた。さらに外交、国際連合、経済関係、国際協力、東アジアにおける力関係など、複数の条件が同時に作用してきた。外務省も現在の安全保障政策を、日米同盟だけでなく、多層的な安全保障協力や平和で安定した国際社会への取組を含む構造として位置付けている。

つまり、戦後81年を、

「憲法があったから平和だった」

とも、

「軍事力があったから平和だった」

とも、一つの要因だけで説明することは科学的ではない。

現実に近いのは、

法制度、民主主義、外交、防衛、同盟、経済、国際秩序、そして戦争を避けようとする社会的規範が複合して現在までの状態を形成してきた

と考えることである。

だからこそ、そのどれか一つだけを守れば戦後100年が保証されるわけでもない。

2026年の世界は、平和が自動的に続く環境ではない

戦後81年を迎える日本から世界を見ると、平和を楽観できる状況ではない。

SIPRI(Stockholm International Peace Research Institute・ストックホルム国際平和研究所)は2026年版年鑑で、国家が核兵器を国力の手段として重視する傾向が強まり、誤算やエスカレーションの危険も高まっていると指摘している。

世界の軍事支出も増えている。SIPRIの集計では2025年の世界の軍事支出は実質2.9%増の2兆8,870億ドルとなり、11年連続で増加した。2016年から2025年までの10年間では41%増えている。

日本政府も、日本周辺の安全保障環境について厳しい認識を示し、防衛力の強化を進めている。

この状況を前にして、「日本だけが平和を願えば大丈夫だ」と考えることはできない。

しかし同時に、世界が危険だから軍事力を際限なく増やせば安全になるとも限らない。

防衛力には、攻撃を思いとどまらせる抑止という考え方がある。

一方で、相手国がその軍備増強を脅威と受け取り、自らも軍備を増やせば、安全保障上の競争が強まる可能性がある。核兵器をめぐってSIPRIが指摘しているのも、まさに抑止とエスカレーションの両方を考えなければならない現在の難しさである。

平和政策に必要なのは、

「防衛か平和か」

という二者択一ではない。

防衛が必要な部分では必要性と規模を検証しながら備え、同時に、その防衛力を実際に使用しなくて済む外交環境を作ること

である。

戦争を防ぐことが目的なら、軍事力を使用して勝つ能力だけでなく、そもそも使用する状況を作らない能力も同じように重要になる。

外交は「仲の良い国と付き合うこと」だけではない

平和を維持するための外交というと、友好国との関係を深めることが想像されやすい。

もちろんそれも重要である。

しかし、本当に戦争を防ぐために重要なのは、意見の合わない国、利害の対立する国、場合によっては安全保障上の脅威と認識している国とも意思疎通の経路を失わないことである。

国際連合憲章は加盟国に国際紛争を平和的手段によって解決することを求め、第33条では交渉、仲介、調停、司法的解決など複数の方法を示している。

外交は、相手を好きになることではない。

相手国の政策を支持することでもない。

対立が存在するとき、それを戦争以外の方法で処理する技術である。

戦後100年を迎えるためには、日本社会が「対話すること」と「譲歩すること」を混同しないことも重要だろう。

外交交渉を行うことは、相手国の主張を認めることではない。

むしろ対立しているからこそ交渉する。

電話がつながること、外交官が会えること、首脳同士が話せること、軍同士が偶発的な衝突を避ける連絡手段を持つこと。

こうした地味な仕組みが、重大な誤解を戦争へ発展させないための安全装置になる。

戦争を防ぐには「相手を理解すること」と「相手を信じること」を分ける

平和について考えると、ときに「相互理解」が強調される。

ただし、安全保障では相手を理解することと、相手を信頼することは同じではない。

相手国の歴史、政策決定の仕組み、安全保障上の不安、国内世論、軍事ドクトリンなどを知ることは、相手の政策に賛成することではない。

むしろ正確に理解しなければ、相手の行動を誤読する。

国家間の危機では、

「相手もこちらと同じように考えるはずだ」

という思い込みが危険になる。

令和の日本人に必要な国際理解とは、外国に好意を持つことだけではなく、

自分たちとは異なる歴史、利益、恐怖、合理性を持つ主体として他国を見る能力

である。

敵対国について学ぶことほど、安全保障では重要な場合がある。

戦争の記憶を残す意味は「罪を永久に背負わせること」ではない

戦後81年になると、戦争を直接経験した世代は急速に少なくなる。

ここで歴史教育について難しい問題が生じる。

戦争の歴史を伝えることは、現在の日本人に過去の日本人と同じ責任を負わせることではない。

2026年に生きる子どもが、1940年代の国家政策に責任を負うことはできない。

しかし、

過去の政策がどのような意思決定の積み重ねで戦争へ進み、何が人々に起きたのかを知ること

には、現在的意味がある。

歴史を学ぶ目的を「誰を悪者にするか」に置くと、世代が変わるほど反発が起こりやすい。

重要なのは、

なぜ外交が失敗したのか。

なぜ軍事行動が拡大したのか。

なぜ反対意見が政策を止められなかったのか。

情報はどのように国民へ伝えられたのか。

政治指導者はどのような判断をしたのか。

戦場だけでなく、民間人に何が起きたのか。

そこから意思決定の仕組みを学ぶことである。

歴史を記憶する目的は、過去を永遠に裁き続けることではなく、

未来の判断材料を失わないこと

にある。

広島市が現在も毎年8月6日に平和記念式典を行い、原爆死没者を追悼するとともに核兵器廃絶と恒久平和を訴えていることも、記憶を現在の問題につなぐ一つの社会的仕組みである。2026年にも式典と平和宣言が行われた。

民主主義を正常に動かすことも平和政策である

戦争というと外交官や自衛隊の仕事に見える。

しかし、国家として軍事力をどのように保有し、どのような条件で使用し、どの国と協力し、どの程度の予算を投入するかは政治によって決められる。

つまり安全保障政策の最終的な統制には民主主義が関係する。

ここで令和の日本人にできる最も現実的な行動の一つが、政治を政策として見ることである。

安全保障政策について、

「平和を訴えているから正しい」

とも、

「防衛力を強化しているから現実的だ」

とも即断しない。

どのような脅威を想定しているのか。

その可能性はどの程度なのか。

提案する政策によって本当にその危険が減るのか。

費用はいくらかかるのか。

別の政策は存在しないのか。

外交への影響はどうか。

緊張を下げる効果と上げる効果のどちらが大きいのか。

失敗した場合の出口はあるのか。

こうした問いを与党にも野党にも同じように向けることが必要である。

平和主義とは、何も考えずに「戦争反対」と言い続けることではない。

安全保障政策を考えることもまた、直ちに軍事主義を意味しない。

戦争を回避するという共通目的に対して、どの手段がより効果的で、副作用が少ないかを検証すること

が民主社会の仕事である。

SNS時代には「戦争の前の情報」を扱う能力が重要になる

令和には、昭和とは異なる問題がある。

SNS(Social Networking Service・交流サイト)によって、政府、政治家、軍事組織、報道機関、専門家、一般市民、外国政府までが同じ情報空間で発信するようになった。

これは、市民が一次情報へ近づけるという大きな利点を持つ。

同時に、誤情報、切り抜き、古い映像、偽画像、感情的な投稿も高速で拡散できる。

国際的な緊張が高まったとき、

「○○国が攻撃を開始した」

「政府が隠している」

「この映像が証拠だ」

という情報が流れても、それだけで事実とは限らない。

令和の市民にできる平和への貢献の一つは、意外なほど小さい。

確認できない情報を、確認できないまま拡散しないことである。

投稿者は誰なのか。

映像はいつ撮影されたのか。

政府や公的機関の発表と一致するか。

複数の独立した報道機関が確認しているか。

元資料は存在するか。

戦争や危機の際には、情報そのものが政策判断や世論に影響する。

情報を慎重に扱うことは、単なるインターネット上のマナーではない。

民主主義社会の危機管理の一部である。

平和とは「何もしない状態」ではない

「平和」という言葉には、静かな印象がある。

しかし、国家レベルの平和は必ずしも静的な状態ではない。

外交交渉が行われる。

自衛隊が訓練する。

海上保安機関が警戒する。

国際会議が開催される。

経済制裁が議論される。

条約が交渉される。

選挙が行われる。

国会で予算が審議される。

研究者が安全保障政策を分析する。

報道機関が政府の説明を検証する。

学校や博物館が歴史を伝える。

こうした活動が続いた結果として、戦争を回避できる可能性が高まる。

日本は国際平和協力の制度も持ち、国際連合平和維持活動、人道的救援、国際的な選挙監視などへ参加できる仕組みを整えてきた。

平和は「何もしなかった結果」ではなく、

多数の制度と人間が毎日動き続けた結果として維持される状態

と考えた方が現実に近い。

戦後100年を迎える2045年

2045年。

戦後100年である。

その年に現在61歳の人は80歳前後になり、2026年に生まれた子どもは19歳になる。

その世代にとって、1945年は100年前の歴史になる。

第一次世界大戦が現在の私たちにとって遠い歴史になっているように、太平洋戦争も次第に「直接知る人がいない歴史」へ移っていく。

そのとき重要になるのは、記憶の量ではなく質である。

「戦争は悲惨だった」という言葉だけでは、世代を越えて十分な知識を伝えることは難しい。

なぜ戦争が始まったのか。

なぜ途中で止められなかったのか。

外交、軍事、政治、経済、報道、世論がどのように関係していたのか。

日本だけでなく、アジア、米国、欧州では何が起きていたのか。

そこまで理解できて初めて、歴史は現在の政策判断へ接続する。

戦争体験者がいなくなった社会では、

記憶を証言から制度へ移すこと

が必要になる。

公文書、映像、証言録、博物館、研究、教育がその役割を担う。

そして戦後120年、2065年へ

2065年、日本が戦後120年を迎えたとする。

そのとき、「戦後」という表現に違和感を持つ人もいるだろう。

120年前の出来事をいつまで引きずるのか、と考える人もいるかもしれない。

しかし、「戦後」を続けるという言葉を別の意味で考えることもできる。

過去に縛られ続けるという意味ではなく、

新しい戦争によって歴史を区切らない

という意味である。

戦後120年まで続いたなら、その120年間に日本の政治思想も、安全保障制度も、国際環境も大きく変わっているだろう。

憲法の姿が現在と同じかどうかさえ分からない。

しかし一つだけ共有できる目標がある。

政策や制度が変わったとしても、

日本社会の目的が「次の戦争に勝つこと」ではなく、「次の戦争を可能な限り起こさないこと」であり続けること

である。

もちろん、他国から武力攻撃を受ける可能性まで日本だけで消すことはできない。

だから防衛という問題から逃れることもできない。

同時に、軍事力によってすべての安全を購入することもできない。

戦後100年、120年を目指す政策は、この現実の間に存在する。

令和の日本人にできること

結局、一人の日本人が世界の戦争を止めることはできない。

首相でも、日本一国だけでも、世界から戦争をなくすことはできない。

だからといって個人に何もできないわけではない。

政策を感情ではなく事実で判断する。

選挙で安全保障政策も確認する。

異なる立場の意見を読む。

戦争の歴史を敵味方だけで整理しない。

確認できない情報を拡散しない。

外国を国家全体、民族全体として敵視しない。

同時に安全保障上の現実的なリスクからも目をそらさない。

政治家が軍事力を強化すると言えば理由と費用を問い、削減すると言えばその安全保障上の根拠を問う。

外交を行えば何を守り何を譲ったのかを確認し、対立すれば対話の経路が残されているかを見る。

こうした市民社会は、戦争を絶対に防ぐ保証にはならない。

しかし、

戦争へ向かう誤った意思決定を発見し、修正できる可能性を高める。

ここに民主主義の大きな意味がある。

終戦の日を「過去を見る日」だけにしない

8月15日は、戦争で亡くなった人々を追悼する日である。

政府も1982年の閣議決定に基づいて8月15日を「戦没者を追悼し平和を祈念する日」とし、2026年にも政府主催の全国戦没者追悼式を開催する。

しかし、この日にはもう一つの見方ができる。

1945年から何年経過したかを数えるだけではなく、

次の1年を戦後のまま終わらせるために何が必要なのかを確認する日

とすることである。

2026年から2045年までは19年しかない。

戦後100年は、遠い未来ではない。

2065年の戦後120年も、現在生きている多くの子どもたちが普通に経験し得る時代である。

その人たちが8月15日に、

「今年で戦後120年になった」

と言える日本であるために必要なのは、壮大な理念だけではない。

外交を続けること。

必要な安全保障を冷静に考えること。

国際法を尊重すること。

民主主義を機能させること。

歴史を検証可能な形で残すこと。

異論を排除しないこと。

誤情報に流されないこと。

政治を敵と味方だけで考えないこと。

そして、戦争という極端な手段へ至る前に問題を解決できる制度を何度でも修理することである。

戦後81年という数字は、完成した平和の証明ではない。

81年間続いてきた状態を示しているにすぎない。

だからこそ価値がある。

平和とは、一度達成すれば保存されるものではない。

毎年更新される記録である。

2026年8月15日の日本に必要なのは、

「もう81年間戦争をしなかった」

と過去形で誇ることだけではない。

82年目も戦後にする。

そして83年目も戦後にする。

それを積み重ねて2045年を戦後100年にし、2065年を戦後120年にする。

さらにその先も、「戦後」という言葉を過去の戦争から数え続けられる社会であること。

戦争のない戦後を永遠に続けるという願いを現実の政策へ翻訳するなら、それはおそらく、

戦争をしないと誓うことと、戦争を避けられる制度を不断に作り続けることを、同時に行う

ということなのである。

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「民意の直接反映」という利点と、分断・単純化・誤情報がもたらす危険を検証する

SNS(Social Networking Service・交流サイト)は、政治のあり方を大きく変えた。

かつて政治家が多数の有権者へ直接語りかけるには、新聞、テレビ、ラジオ、街頭演説、政党機関紙などを利用する必要があった。

現在は違う。

政治家がスマートフォンから投稿すれば、数分後には何万人、何十万人へ情報が届くことがある。有権者も、その発言へ直接反応し、共有し、批判し、別の意見を発信できる。

この変化には明確な民主的価値がある。

既存メディアで取り上げられなかった問題を社会へ知らせることができる。大きな政党や組織を持たない政治家でも有権者へ直接訴えることができる。政治への参加障壁も低くなる。

その意味で、SNSそのものを民主主義の敵と考えるのは適切ではない。

しかし、SNSと非常に親和性が高い政治手法がある。

ポピュリズムである。

「既得権益を持つエリート対普通の国民」

「われわれ対あいつら」

「複雑な制度より国民の常識」

「専門家より民意」

「既存メディアは真実を隠している」

こうした単純で感情的な政治メッセージは、短く、共有しやすく、対立を明確にできる。

SNSの構造は、こうしたポピュリズム的コミュニケーションと非常に相性がよい。

問題はここにある。

SNSは政治参加を民主化する一方で、政治的な複雑さを削り、敵味方の対立へ置き換え、怒りや不信を政治資源へ変換する仕組みにもなり得る。

本稿では、ポピュリズムに否定的な立場から、その問題を検討する。

ただし、結論を先に決めて都合のよい事例だけを集めるのではない。

ポピュリズムが既存政治へ与える是正作用を認めたうえで、それでもなぜ長期的には議会制民主主義、専門知、少数者の権利、制度的な権力抑制と衝突しやすいのかを、政治学とメディア研究の知見から考える。

1.そもそもポピュリズムとは何か

「ポピュリズム」という言葉は日常会話では、「人気取り政策」「大衆迎合」「ばらまき政策」といった意味で使われることが多い。

しかし、政治学上の定義はもう少し厳密である。

政治学者カス・ムッデによる定義は、現在のポピュリズム研究で広く使用されている。

そこではポピュリズムを、社会を基本的に「純粋な人民」と「腐敗したエリート」という二つの同質的で対立する集団へ分け、政治は人民の一般意思を表現すべきだと考える「薄い中心を持つイデオロギー」と整理する。

重要なのは、ポピュリズム自体が右翼や左翼を意味しないことである。

右派ポピュリズムにも左派ポピュリズムにもなり得る。

保守主義、ナショナリズム、社会主義、反緊縮政策など、別の政治思想と結びつく。

その核心は政策内容ではなく、

「正しい人民」

「腐敗したエリート」

という政治の捉え方にある。

ここが通常の民主政治と決定的に違う。

議会制民主主義は、社会には複数の正当な利益と価値観が存在することを前提にする。

農業者と消費者。

労働者と経営者。

若年者と高齢者。

都市住民と地方住民。

納税者と給付を必要とする人。

安全保障を重視する人と自由を重視する人。

誰か一方だけが「真の国民」なのではない。

民主政治とは、この異なる利益を制度の中で調整する仕組みである。

ポピュリズムはこれに対し、「国民には一つの本当の意思が存在する」という方向へ傾きやすい。

この差が、後に大きな問題になる。

2.SNSはなぜポピュリズムと相性がよいのか

SNS以前、政治家が国民へ情報を伝える場合、新聞記者やテレビ局などの編集過程を通ることが多かった。

記者が質問する。

発言の背景を確認する。

反対側にも取材する。

数字を検証する。

編集者が内容を確認する。

もちろん、既存メディアが常に公正で正確だったという意味ではない。

誤報も偏向も存在する。

しかし、少なくとも情報が大量の人へ届くまでには、一定の中間過程が存在した。

SNSではそれを迂回できる。

政治家から支持者へ直接届く。

これは「中抜き」であり、民主主義上の長所でもある。

しかし同時に、検証機能も中抜きされる。

政治家が、

「マスコミは報じない真実です」

と投稿すれば、その文章そのものが一次情報として支持者へ届く。

そこに報道機関の確認は必要ない。

しかも、支持者自身が拡散装置になる。

これがSNS時代のポピュリズムの大きな特徴である。

3.従来の政治では支持者だった人が、SNSでは情報流通者になる

テレビの政治演説を見た有権者は、基本的には情報の受信者だった。

SNSでは違う。

「いいね」

共有

引用

コメント

動画の切り抜き

再編集

短い解説

を通して、一人ひとりが情報流通へ参加する。

これは民主的には大きな進歩である。

しかし、政治運動の構造として見ると重要な意味を持つ。

例えば、政治家Aに10万人の熱心な支持者がいるとする。

政治家Aが一つ投稿する。

そのうち1万人が共有する。

共有先でさらに数十人ずつが見る。

こうなると、政党が新聞広告やテレビ広告を買わなくても、支持者自身が政治宣伝のネットワークになる。

つまりSNSは、

政治家 → 有権者

という一方向の情報伝達を、

政治家 → 支持者 → 支持者の知人 → さらに別の利用者

というネットワーク型へ変えた。

ポピュリズムは、この仕組みを非常に利用しやすい。

なぜなら、複雑な政策説明より、

「許せないと思ったら拡散してください」

という感情的メッセージの方が共有行動へ結びつきやすいからである。

4.ポピュリズムの最大の長所~既存政治が無視した不満を可視化する

ポピュリズムを完全に否定する前に、その長所を確認する必要がある。

政治学でも、ポピュリズムには民主主義の「是正機能」があり得ると議論されてきた。既成政党が十分に代表していなかった人々を政治へ取り込み、既存の代表制の失敗を可視化する可能性がある。

例えば、

地方衰退

実質賃金の停滞

雇用不安

社会保障への不満

既存政党への不信

行政の不透明性

大企業と政治の関係

都市と地方の格差

などについて、既成政党や大手メディアの問題認識が弱ければ、その不満を拾う政治運動には意味がある。

ポピュリスト政治家の支持者を、

「情報弱者」

「政治を理解していない人」

と片付けることも適切ではない。

有権者が不満を持つ背景には、実際の経済的・社会的問題が存在する場合がある。

したがって、ポピュリズムの支持拡大は、民主主義の故障を知らせる警報器として機能することがある。

問題は、その警報が示した問題をどう解決するかである。

5.SNSの第一のメリット~政治参加の参入障壁を下げる

SNS以前に大規模な政治運動を行うには、相当な資源が必要だった。

政党組織。

新聞広告。

テレビ出演。

大量のビラ。

街宣車。

事務所。

支持団体。

資金。

現在は、スマートフォン一台でも政治的主張を全国へ届けられる可能性がある。

これは新規政党、小規模政党、市民運動にとって大きなメリットである。

政治的ネットワークが政治参加を促進すること自体は、政治参加研究でも長く確認されてきた。社会的ネットワークを考慮することで、人々が民主的過程へ参加する理由をより深く理解できることが指摘されている。

SNSはそのネットワーク形成の費用を劇的に下げた。

これは否定すべきではない。

6.第二のメリット~政治家と有権者の距離を縮める

従来、国会議員の日常的な考えを直接読む機会は限られていた。

現在は、国会議員、地方議員、首長、政党などが自ら情報を公開できる。

法案提出。

国会質問。

地域活動。

災害対応。

政策資料。

こうした情報が直接公開されれば、政治の透明性は高まる。

既存メディアの記事だけに依存せず、政治家本人の説明を確認できることも重要である。

SNSを利用した政治コミュニケーションそのものには民主的価値がある。

したがって、本稿が否定的に評価する対象はSNSではない。

SNSによって増幅される、反多元主義的なポピュリズムである。

7.第三のメリット~既存メディアのゲートキーパー独占を崩した

新聞やテレビが政治情報の流通をほぼ独占していた時代には、「何を報道するか」を少数の報道機関が決めることができた。

SNSはこの構造を崩した。

政治家本人の発言全文。

国会動画。

官公庁資料。

研究論文。

地方議会。

市民が撮影した映像。

これらへ直接アクセスできる。

この点も民主主義にはプラスである。

既存メディアを批判すること自体はポピュリズムではない。

メディアが誤報すれば批判されるべきである。

問題は、

「既存メディアは誤ることがある」

という合理的批判から、

「既存メディアは国民を欺く敵である」

へ論理が飛躍することである。

ここからポピュリズム特有の問題が始まる。

8.最大の問題~社会を「国民」と「敵」に二分する

民主政治では、多数決が重要である。

しかし、多数決だけが民主主義ではない。

51%の国民が支持すれば、49%の国民の権利を自由に奪ってよいわけではない。

日本国憲法も、多数決による議会政治と基本的人権、司法、地方自治などを組み合わせている。

ポピュリズムは、

「われわれこそ国民」

という発想へ傾きやすい。

すると、自分たちに反対する人が、

単なる政治的反対者

ではなく、

国民の敵

既得権益者

売国的な人

エリート側の人

と表現されるようになる。

ここで民主主義の質が変化する。

政策論争が、

「どちらの政策がよいか」

ではなく、

「どちらが正しい国民か」

という道徳的対立へ変わるからである。

9.SNSは「われわれ対あいつら」を可視化しやすい

SNSでは人間関係が数字として表示される。

フォロワー数。

いいね数。

共有数。

動画再生数。

コメント数。

このため、

「これほど多くの人が支持している」

という感覚が容易に生まれる。

しかし、SNS上の多数は、有権者全体の多数を意味しない。

例えば100万回再生された動画があっても、

同じ人が複数回見ている可能性がある。

有権者でない人も含まれる。

反対するために見ている人もいる。

海外利用者もいる。

アルゴリズムによって繰り返し表示されることもある。

それでも数字として100万と表示されれば、

「国民は怒っている」

と感じやすい。

SNS上の可視的多数と、民主主義における実際の多数を混同することは危険である。

10.SNS利用者の集合は国民全体ではない

2025年のReuters Institute for the Study of Journalism(ロイター・ジャーナリズム研究所)の調査では、日本でSNSを週単位のニュース取得手段として利用する割合は24%とされている。

日本ではニュース取得におけるSNS依存度は国際的には比較的低い一方、XやYouTubeが政治・ニュース情報の流通経路として重要な役割を持っている。また、同研究所は、日本のSNS上で言及されるニュース関連人物にはポピュリスト系・右派政治家などが目立つと報告している。

ここから重要なことが分かる。

SNSで政治的発言が大量に流れているとしても、それをそのまま日本国民全体の意見と考えることはできない。

SNSを積極利用する人と利用しない人では、年齢、政治関心、情報行動などが異なる可能性がある。

SNS上の「世論」は、世論調査とは違う。

投稿数は票数ではない。

トレンド入りは国民投票ではない。

11.怒りはSNS上で非常に使いやすい政治資源である

ポピュリズムとSNSが結びつく最大の理由の一つが感情である。

政策説明を考えてみる。

「社会保障制度について、給付水準、保険料、税負担、世代間公平、財政持続可能性の五つを同時に調整する必要があります」

という文章は比較的正確である。

しかし、SNSでは弱い。

一方、

「政府は高齢者を見捨てた」

「若者だけが損をしている」

「財務官僚が国民から金を奪っている」

とすれば、短い。

敵も明確である。

感情も動く。

共有もしやすい。

しかし、政策としての情報量は少ない。

これがSNS政治の根本的な問題である。

情報として正確な文章と、拡散に適した文章の性質が一致しない。

12.プラットフォームの経済合理性と民主主義の合理性は一致しない

民間SNS企業には、利用者に長くサービスを使ってもらう経済的動機がある。

利用者が投稿を見て、反応し、共有し、再びアクセスすれば、広告表示などの機会が増える。

OECD(Organisation for Economic Co-operation and Development・経済協力開発機構)は、デジタル技術によって誤った、あるいは誤解を招く情報が低コストかつ高速に拡散できるようになったと指摘している。またオンラインプラットフォームのエンゲージメント最大化の経済的インセンティブが、感情的・政治的に強く反応されるメッセージを増幅する可能性を問題視している。

これは陰謀論ではない。

企業として合理的な行動と、民主主義にとって望ましい情報環境が一致しない可能性があるという問題である。

民主主義に必要なのは、

正確な情報

異論

慎重な分析

不確実性

長期的視点

である。

一方、SNSの利用時間を伸ばしやすいのは、

驚き

怒り

恐怖

対立

スキャンダル

である可能性がある。

ここに構造的な緊張関係がある。

13.ただし「アルゴリズムが分断を作る」と単純化してはいけない

ここでは特に慎重な分析が必要である。

SNS批判では、

「アルゴリズムがエコーチェンバーをつくり、政治的分断を生んでいる」

と説明されることが多い。

一定の根拠はある。

しかし、科学的には完全に確定した単純な因果関係ではない。

2020年米国大統領選挙期のFacebookを対象にした大規模研究では、利用者が接触するコンテンツの多くが政治的に同質的な情報源から来ていることが確認された。

しかし、2万3,377人を対象に、自分と同じ政治的立場の情報への接触を約3分の1減少させる実験を行っても、感情的分極化、思想的極端化、候補者評価、誤情報への信念などに測定可能な変化は確認されなかった。

つまり、

エコーチェンバーが存在する

ことと、

エコーチェンバーを減らせば短期間で政治的分断が解消する

ことは別である。

政治的分断には、社会階層、地域、宗教、所得、教育、政党政治、既存メディアなど多くの要因がある。

SNSだけを原因にすることもポピュリズムと同じ「単純化」である。

14.一方で、エンゲージメント重視が問題を増幅する研究もある

2026年にJournal of Public Economicsに掲載された研究では、推薦システムが「いいね」や共有など社会的反応を強く重視すると、エンゲージメントを増やす一方、誤情報や政治的分極化も増加し得るという理論モデルが示された。

さらに、Facebookが2018年に実施した「Meaningful Social Interactions」と呼ばれる更新について、イタリアと米国のデータを用いた分析では、社会的反応を重視する変更が思想的極端化や感情的分極化を強めた可能性が示されている。

したがって、現在の研究から妥当な結論は、

「SNSアルゴリズムが政治分断の唯一の原因である」

ではない。

より正確には、

「既存の社会的対立や政治的不満が存在する状況で、エンゲージメントを優先する情報流通構造が、感情的・対立的情報を増幅する可能性がある」

という程度である。

この区別は重要である。

15.誤情報とポピュリズムの関係も単純ではない

ポピュリズムを批判する場合にも、事実に忠実でなければならない。

「ポピュリストは嘘をつく」

と一括して断定することはできない。

2025年にオンライン先行公開され、2026年にThe International Journal of Press/Politicsに掲載された研究は、26か国の国会議員による約3,200万件のTwitter(現在のX)投稿を分析している。

その結果、低信頼性情報を共有する傾向との最も強い関連が確認されたのは「急進右派ポピュリズム」だった。

重要なのは、研究では、

ポピュリズム一般

左派ポピュリズム

単なる右派的政治立場

それぞれ単独では、同じ関連が確認されなかったことである。

これは非常に重要な結果である。

政治的立場に基づいて、

「右は嘘をつく」

「左は嘘をつく」

「ポピュリストは全員嘘をつく」

と結論づけてはいけない。

研究が示しているのは、特定の政治的組み合わせ、すなわち急進右派ポピュリズムと低信頼性情報拡散との強い統計的関連である。

否定的な記事であるほど、この区別を守る必要がある。

16.なぜ誤情報がポピュリズムと親和的になり得るのか

理論的には説明できる。

ポピュリズムは、

「われわれの常識」

「腐敗したエリート」

を対立させる。

この構造では、専門機関が反論したとき、それ自体を陰謀の証拠として処理できてしまう。

例えば、

統計機関が否定する →「政府機関だから信用できない」

大学研究者が否定する →「御用学者だ」

新聞社が否定する →「既存メディアは隠蔽している」

裁判所が否定する →「司法も既得権側だ」

という構造が成立すると、反証が困難になる。

通常の科学的方法では、反証可能性が重要である。

証拠が示されれば自分の仮説を修正する。

ところが、あらゆる反証を「敵側の工作」と説明できれば、理論は永久に反証されない。

政治的には強力だが、事実検証には極めて弱い構造である。

17.短文政治は複雑な政策を不当に単純化する

財政政策を例に考える。

税金を下げれば、家計の可処分所得が増える。

これは利点である。

しかし同時に、

税収が減る。

国債を増やすのか。

歳出を削るのか。

将来の増税で補うのか。

金利への影響はどうか。

物価への影響はどうか。

所得階層別の恩恵はどうか。

という問題がある。

政策とは本来、

便益-費用-副作用-分配-時間

を同時に考えるものである。

ところがSNSでは、

「減税か増税か」

「国民か財務省か」

という二項対立へ圧縮できる。

この方が政治的には強い。

しかし、政策分析としては弱い。

ポピュリズムの最大の問題の一つは、複雑な政策問題を、善悪の問題へ変換してしまうことである。

18.「専門家は間違う」と「専門知は不要」は全く違う

専門家は間違う。

経済学者も間違う。

医師も間違う。

官僚も間違う。

新聞記者も間違う。

だから検証と反論が必要である。

しかし、

「専門家が間違うことがある」

から、

「普通の人の直感と専門家の分析は同じ価値を持つ」

とはならない。

例えば橋の耐震設計を多数決で決めることはできない。

感染症治療を人気投票で決めることもできない。

金融政策も専門的な制約が存在する。

民主政治で国民が決めるべきなのは、

何を目標にするか

である。

具体的な技術的方法については専門知が必要である。

民主主義と専門知は対立概念ではない。

国民が目的を決め、専門家が選択肢と費用を示し、政治家が最終責任を負う。

これが合理的な役割分担である。

19.ポピュリズムは「中間制度」を邪魔と考えやすい

議会。

裁判所。

官僚組織。

独立行政機関。

中央銀行。

報道機関。

大学。

専門家会議。

地方自治体。

これらは時に遅い。

非効率でもある。

国民から遠く見えることもある。

だからポピュリストにとって批判しやすい。

「国民が望んでいるのに、なぜ裁判所が止めるのか」

「選挙で選ばれていない官僚がなぜ口を出すのか」

という主張は直感的には分かりやすい。

しかし、これらの制度の多くは、多数派の政治権力を制限するために存在している。

多数派であっても法律を守る。

政府であっても裁判所の審査を受ける。

政治家が都合のよい統計に書き換えない。

政権が批判的報道を直接統制しない。

これが立憲民主主義である。

20.実証研究では、ポピュリスト政権の民主主義への影響は概して否定的

ここはポピュリズムを評価するうえで重要である。

2025年に公表された政治学研究のレビューでは、ポピュリストが政権を握った場合について、過去10年前後の国際比較研究はかなり一貫して、自由権、メディアの自由、政府への水平的な権力抑制、選挙の公正性などへ悪影響があることを示している。

一方、ポピュリズムが政治参加や代表性を改善する「是正効果」については、肯定的証拠はより少なく、一貫していない。

さらに、欧州とラテンアメリカのデータを用いた2026年の研究でも、ポピュリスト政権の下では平均的に、

選挙民主主義

自由民主主義

熟議民主主義

の水準が低下する一方、平等や政治参加について期待された改善効果は確認できなかった。

ここから本稿の否定的評価には、かなり強い根拠がある。

21.なぜ民主的に選ばれたポピュリストが民主主義を傷つけることがあるのか

これは矛盾しているように見える。

選挙で選ばれたのだから民主的ではないか。

その通りである。

問題は、

民主的な選出

民主的な統治

が同じではないことである。

民主主義には少なくとも二つの側面がある。

第一は、

国民多数が政府を選ぶこと。

第二は、

政府が権力を制限されること。

である。

ポピュリズムは第一を非常に重視する。

「われわれは国民から選ばれた」

という正統性である。

しかし、その正統性を絶対化すると、

裁判所

野党

報道機関

少数派

独立機関

などを、

「民意を妨害する勢力」

として扱いやすくなる。

これが立憲主義との緊張を生む。

22.SNSは指導者個人への政治的依存を強める

従来の政党政治では、

党首

幹事長

政策責任者

国会議員

地方組織

党員

など複数の階層があった。

SNS時代では、一人の政治家のアカウントが政党そのものより大きな影響力を持つことがある。

すると、

政党を支持する

から、

人物を支持する

へ変化する。

政治家本人が毎日直接語るため、支持者は疑似的な親密さを感じることもある。

こうして個人中心型政治が強くなる。

政治家本人の判断が、党内議論より優先される。

党内で反対すれば、

「リーダーを裏切った」

と支持者から攻撃される。

すると政党内部の異論も弱くなる。

しかし、健全な政党には異論が必要である。

政策の誤りを修正する最初の機会だからである。

23.支持者による自発的攻撃は、政治家本人が命令しなくても発生する

SNS政治の新しい問題である。

政治家が直接、

「この記者を攻撃しろ」

「この議員へ嫌がらせをしろ」

と言わなくてもよい。

「あの記者は偏っている」

「この専門家は国民を分かっていない」

と投稿するだけで、一部の支持者が大量の批判を送る可能性がある。

政治家自身は、

「私は攻撃を指示していない」

と言える。

しかし、影響力の大きい人物には、自分の発言が支持者へどう作用するかについて一定の責任がある。

特に、

敵を名指しする

裏切り者と呼ぶ

国民ではないかのように扱う

行為は慎重でなければならない。

これは右派・左派を問わない。

24.政治家への批判と人格攻撃が混ざりやすい

SNSでは政策批判より人物批判の方が拡散しやすい。

「この財政政策では歳出が年間○兆円増える」

より、

「この政治家は無能だ」

の方が短く理解しやすい。

しかし、民主主義に必要なのは政策評価である。

政治家の能力は、

政策立案能力

説明力

交渉力

実績

修正能力

法制度への理解

などから評価すべきである。

容姿、性別、家族、出身、話し方などを政治的攻撃の材料にしても、政策の良否は分からない。

ポピュリズムが感情政治へ接近すると、この境界が壊れやすくなる。

25.敵を作る政治は支持者を結束させやすい

集団を結束させる簡単な方法の一つが、共通の敵を設定することである。

「われわれ」の定義だけでは集団は曖昧である。

しかし、

「われわれは、あいつらに搾取されている」

とすると、集団の境界が明確になる。

敵は、

官僚

大企業

外国人

富裕層

既存メディア

政治家

専門家

労働組合

金融機関

など、左右のポピュリズムによって変わる。

ここで重要なのは、対象そのものではない。

個別の問題を検証するのではなく、集団全体を道徳的な敵として扱うことが問題である。

官僚制度に問題があれば制度を改革すればよい。

メディアが誤報すれば記事を検証すればよい。

企業が違法行為をすれば処罰すればよい。

集団全体を「敵」と呼ぶ必要はない。

26.ポピュリズムが政策失敗を修正しにくくする理由

民主政治で重要なのは、

正しい政策を最初から選ぶこと

だけではない。

失敗した政策を修正する能力である。

しかしポピュリズムでは、政策と政治家への支持が道徳化しやすい。

政策への批判が、

リーダーへの攻撃

支持者への攻撃

国民への攻撃

と受け取られる。

すると修正が難しくなる。

本来、

「この政策の効果は予想より小さかったので変更する」

ことは合理的である。

しかし、

「われわれは常に正しい」

という政治では、変更が敗北になる。

科学では仮説を修正することが進歩である。

ポピュリズムでは修正が裏切りに見える場合がある。

これは政策運営上、大きな弱点になる。

27.SNSの政治的成功指標が政策成功指標と一致しない

SNSでは成功が数値化される。

再生回数。

共有数。

フォロワー。

トレンド順位。

しかし政策成果は別である。

例えば経済政策なら、

実質賃金

生産性

雇用

物価

税収

企業投資

財政収支

所得分布

などを見る必要がある。

100万回再生された経済政策が、良い経済政策とは限らない。

逆に、非常に重要だが説明が難しい制度改革はほとんど拡散されないかもしれない。

つまりSNSでは、

情報市場で勝つ能力

政策を成功させる能力

が乖離する可能性がある。

人気は政策能力の代理変数ではない。

28.「国民の声を聞く」ことと「声の大きい支持者に従う」ことは違う

SNS政治では、政治家は国民の反応を即座に見ることができる。

一見すると素晴らしい。

しかし、投稿へ積極的に返信する人は国民の無作為標本ではない。

政治関心が高い。

強い意見を持つ。

支持または反対が明確。

こうした人ほど発言する可能性が高い。

つまり政治家がSNSの反応を「民意」と考えると、最も声の大きい層へ政策が引っ張られる危険がある。

民主主義では、

選挙

世論調査

公聴会

議会

パブリックコメント

統計

当事者調査

など複数の方法で民意を把握する必要がある。

SNSはその一つにすぎない。

29.ポピュリズム批判がエリート主義になってはいけない

ここも重要である。

ポピュリズムを批判する側が、

「一般市民は複雑な政治を理解できない」

「専門家へ任せればよい」

という態度を取れば、ポピュリズムをさらに強める。

専門家は政策を決定する主権者ではない。

最終的な政治的選択は国民と、その代表者が行う。

例えば、

税負担を増やして社会保障を厚くするか。

税負担を抑えて給付を限定するか。

これは科学だけでは答えられない。

価値判断だからである。

専門家ができるのは、

それぞれの費用と結果を示すこと

である。

民主主義で必要なのは、

「専門家が国民を支配する」

ことでも、

「専門家を無視して国民の直感だけで決める」

ことでもない。

国民が目的を選び、専門知が実現可能性を検証する仕組みである。

30.左右どちらのポピュリズムも同じ基準で評価すべきである

ポピュリズムは右派だけの問題ではない。

左派にも存在する。

右派では、

外国人

国際機関

リベラルなエリート

などが敵として設定される場合がある。

左派では、

富裕層

大企業

金融機関

経済エリート

などが敵として設定される場合がある。

もちろん、それぞれについて正当な政策批判はあり得る。

問題は、

具体的行為を批判する

ことから、

集団そのものを悪とする

方向へ移行することである。

本稿が否定するのは特定の左右思想ではない。

「人民対敵」という構図で複雑な社会を説明する政治手法である。

31.SNS時代のポピュリズムのメリットとデメリットを整理する

項目 メリット デメリット
政治参加 参加障壁を下げる 熱心な少数を民意と誤認しやすい
政治家との距離 直接情報を得られる 中間的な事実確認を迂回する
小規模政党 発信機会を得られる 強い感情ほど有利になりやすい
既存政治批判 見落とされた問題を可視化する 政治不信そのものを資源化できる
メディア批判 誤報や偏向を監視できる メディア全体を敵視しやすい
専門家批判 権威を検証できる 専門知そのものを否定しやすい
情報拡散 高速・低コスト 誤情報も同じ速度で広がる
政治的動員 無関心層を参加させ得る 怒りと敵意による動員になりやすい
政策説明 簡潔に伝えられる 複雑なトレードオフを削りやすい
リーダーシップ 責任者が明確になる 個人崇拝・組織弱体化につながり得る

この表を見ると、興味深いことが分かる。

ほぼすべての長所の裏側に短所が存在する。

問題はSNS技術そのものではなく、その能力をどの政治文化が利用するかである。

32.ポピュリズムの危険性は、政権獲得後により大きくなる

野党時代のポピュリズムには、既存権力を監視する効果がある。

しかし政権を取ると状況が変わる。

自分自身が権力者になるからである。

それでも、

「われわれは人民」

「批判者はエリート」

という物語を維持すると、

政府を批判するメディア

政府を止める裁判所

政府を監査する機関

政府に反対する野党

が、

単なる制度的なチェックではなく「人民の敵」に見える。

2025年の比較政治研究は、ポピュリスト政権が民主的競争や自由民主主義へ一貫して悪影響を与えることを、近年の複数の大規模比較研究が確認していると整理している。

したがって、ポピュリズムの本質的問題は、単に言葉遣いが激しいことではない。

権力を抑制する制度の正統性そのものを弱める可能性にある。

33.SNS規制を強化すれば解決するのか

ここにも単純な答えはない。

誤情報対策として政府がSNSを強く規制すれば、今度は政府が「真実」を決める危険が生じる。

政権に不都合な批判まで削除されれば、民主主義にとってさらに深刻である。

したがって、

「政府が正しい情報を決める」

制度は慎重でなければならない。

OECDも、偽情報対策では表現・意見の自由を守りながら、プラットフォームの透明性と説明責任を強め、多様で質の高い情報環境をつくる方向を重視している。

必要なのは内容の全面統制より、

推薦システムの透明性

政治広告の公開

自動アカウントの識別

広告主情報の公開

研究者へのデータ提供

訂正情報へのアクセス

などである。

34.政治家側にもSNS利用の原則が必要である

民主社会の政治家がSNSを利用する場合、少なくとも次の原則が望ましい。

第一に、一次資料へリンクする。

第二に、統計の年度と出典を示す。

第三に、速報情報を断定しない。

第四に、誤りが判明した投稿を明確に訂正する。

第五に、支持者へ特定個人への攻撃を促さない。

第六に、批判者を「国民の敵」と扱わない。

第七に、政策の費用と副作用も説明する。

第八に、自分に不利な事実も削除しない。

これらは右派、左派を問わず同じである。

35.有権者が確認すべき「ポピュリズムの兆候」

SNS上の政治発信を見る場合、次のような特徴が重なるほど注意が必要である。

「われわれだけが国民を代表する」

選挙で何票得ても、支持しなかった有権者も国民である。

敵が常に存在する

問題の原因が毎回、官僚、外国人、企業、富裕層、メディアなど特定集団に帰される。

複雑な問題に極端に簡単な解決策を出す

社会保障、人口問題、外交、財政などに副作用ゼロの政策はほとんど存在しない。

専門家の反論を内容ではなく属性で否定する

「御用学者だから」「官僚だから」だけでは反論にならない。

メディア批判が全面的不信へ変化する

個々の記事を批判することと、すべての報道を敵とすることは違う。

数字より感情を優先する

「みんな怒っている」では政策効果を測定できない。

政策への批判を人格的な裏切りと扱う

異論を許さない政治組織は修正能力が低下する。

36.日本の議会制民主主義に必要なのは「直接性」より「熟議」である

SNSは非常に直接的である。

国民の反応がすぐ政治家へ届く。

しかし、民主主義は速ければよいわけではない。

例えば法律を作るには、

問題を把握する。

法案を作る。

利害関係者から意見を聞く。

委員会で審議する。

野党が問題点を指摘する。

修正する。

衆議院と参議院で審議する。

という過程がある。

遅い。

面倒である。

しかし、この遅さには意味がある。

間違いを発見する時間だからである。

SNS上の多数意見をそのまま即時政策へ反映することが、必ずしも民主的とは限らない。

熟議とは、国民の意思を無視する仕組みではない。

異なる国民の意思を調整する仕組みである。

37.SNS時代に必要なのはポピュリズムではなく「参加型の熟議民主主義」

ポピュリズムが指摘する問題の一部は正しい。

政治家が国民から遠い。

行政が分かりにくい。

政策決定が閉鎖的。

専門家の説明が難しい。

既存メディアにも問題がある。

これらは改善すべきである。

しかし解決方法は、

議会や専門家を排除して指導者と国民を直接結ぶこと

ではない。

むしろ、

政策資料を公開する。

議会審議を分かりやすくする。

政府統計を利用しやすくする。

住民参加を増やす。

パブリックコメントを実質化する。

政策評価を公開する。

政治家が長文でも政策を説明する。

専門家が国民に理解できる言葉で説明する。

という方向である。

これは時間がかかる。

SNS映えもしない。

しかし民主主義を持続させるには、この地味な制度改善の方が重要である。

38.総合評価~ポピュリズムは民主主義の警報器にはなるが、統治原理には向かない

ここまでを総合すると、ポピュリズムについて二つを区別する必要がある。

第一に、

「既存政治が見落としている問題を発見する機能」

である。

これは価値がある。

第二に、

「社会を人民対敵へ二分して統治する原理」

である。

こちらには大きな問題がある。

ポピュリズムが支持されるとき、既成政党は支持者を批判する前に、

なぜ不満が生まれたのか

を調べるべきである。

しかし、不満の存在がポピュリズムの政策を正しいものにするわけではない。

診断が正しくても治療法が間違っていることはある。

政治でも同じである。

結論~SNSが民主主義を壊すのではない。単純な政治がSNSによって増幅されることが問題である

SNSは民主主義に重要な利益をもたらした。

政治家と国民の距離を縮めた。

小さな政治勢力にも発言機会を与えた。

既存メディアを経由しない一次情報へのアクセスを可能にした。

市民の政治参加を容易にした。

したがって、SNSを民主主義の敵とする結論は適切ではない。

問題は、その情報環境がポピュリズムと極めて相性がよいことである。

ポピュリズムは、複雑な社会を「人民対エリート」という単純な物語へ変換する。

SNSは、短く、感情的で、対立の明確な情報を高速で流通させられる。

この二つが結びつくと、

怒りが支持へ変わり、

支持が共有へ変わり、

共有数が「民意」のように見え、

その可視的多数がさらに政治的正統性へ変換される。

しかし、SNS上の多数は国民全体ではない。

共有回数は投票ではない。

再生回数は政策効果ではない。

フォロワー数は統治能力ではない。

ここを混同してはいけない。

さらに重要なのは、実証研究である。

近年の国際比較研究では、ポピュリスト政権は平均的に、自由権、メディアの自由、政府への権力抑制、選挙制度、熟議などへ否定的な影響を与える傾向が確認されている。一方、政治参加や代表性を改善する効果については、それほど一貫した証拠がない。

したがって、本稿ではポピュリズムを民主主義にとって長期的には好ましくない政治原理と評価する。

ただし、ポピュリズムを禁止すればよいという意味ではない。

むしろ逆である。

ポピュリズムが支持される原因となった、

政治不信

地域格差

生活不安

行政の不透明性

既成政党の代表機能の低下

メディアへの不信

を、民主主義の制度の中で解決しなければならない。

そしてSNSについても、発言内容を政府が統制する方向ではなく、推薦システム、政治広告、自動アカウント、資金源などの透明性を高めるべきである。

民主主義に必要なのは、国民の怒りを否定することではない。

その怒りを政策へ翻訳する過程で、事実、専門知、少数意見、費用、副作用を確認することである。

政治家の役割は、有権者がすでに感じている怒りをさらに増幅することではない。

複雑な現実を説明し、自らの理念を示し、異なる利害を調整し、実現可能な政策によって国民を説得することである。

「敵をつくって結束させる政治」と「事実を示して説得する政治」。

SNS時代だからこそ、この二つを明確に区別する必要がある。

ポピュリズムは、民主主義の異常を知らせる警報器としては役立つかもしれない。

しかし、警報器に国家を運転させるべきではない。

民主政治を動かすべきなのは、熱狂でも敵意でもなく、事実、議論、制度、妥協、そして検証可能な政策である。

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