地域政経

九条レオンの地域から社会と政治・経済のこれからを考える

テレビニュースの歴史から考える「解説」と「感想」の境界

現在のテレビでは、政治、経済、事件、災害、医療、外交から芸能まで、さまざまな話題についてスタジオ出演者が意見を述べる。

報道番組だけでなく、朝や昼の情報番組でも、司会者の隣に複数のコメンテーターが並ぶ光景が一般的になった。

出演者は、新聞記者、大学教員、弁護士、医師、元官僚、元政治家、経営者、作家、芸能人、スポーツ選手など多岐にわたる。

しかし、ここには性質の異なる複数の役割が混在している。

専門知識に基づいて事件や制度を説明する人と、一般視聴者に近い立場から感想を述べる人は、本来同じ役割ではない。番組独自の調査結果を整理する解説委員と、その日に初めて資料を読んだ出演者の発言も、同じ重さでは扱えない。

それにもかかわらず、画面上では全員が「コメンテーター」として横並びに置かれることがある。

この形式は、いつ成立したのだろうか。

また、現在の報道に、専門分野を問わず毎日のニュースへ短い意見を述べる常設コメンテーターは本当に必要なのだろうか。

本稿では、特定の出演者や番組を批判することを目的としない。

日本の放送史、現在の番組構成、放送倫理、メディア研究を基に、報道に必要な解説機能と、必須とはいえないスタジオトークを区別して考える。

1.最初に区別すべき五つの役割

「コメンテーターは必要か」という問いに答えるには、まずテレビで発言する人々を分類する必要がある。

ニュース読み

確認された事実を、原稿や映像に基づいて伝える役割である。

出来事の日時、場所、発生状況、政府や関係者の発表などを、できるだけ正確に提示する。

記者報告

実際に取材した記者が、現場で確認した事実、取材先の説明、背景事情を報告する。

本来は、スタジオに常駐する出演者よりも、その事件や政策を継続的に取材している記者の方が、個別の事実について多くの情報を持っている。

専門解説

法律、医療、経済、外交、気象、科学などについて、専門知識を用いて制度や因果関係を説明する。

これは報道の理解を助ける重要な機能である。

論評

確認された事実を踏まえて、政策の妥当性、社会的意味、将来の影響などを評価する。

論評には価値判断が含まれるため、誰の意見か、どの根拠に基づくかを明確にする必要がある。

感想・反応

驚き、怒り、共感、不安など、視聴者に近い反応を示す。

番組を親しみやすくする働きはあるが、報道そのものに不可欠な機能とは限らない。

現在の問題は、この五つが十分に区別されないことである。

専門解説のように見える発言が、実際には個人的感想にすぎない場合がある。反対に、取材経験や専門性に基づく重要な説明が、出演者同士の短い会話の一部として消費されることもある。

2.ニュースの「解説」はテレビ以前から存在した

報道に事実だけでなく背景説明が必要だという考え方は、テレビ時代になって突然生まれたものではない。

新聞には社説、解説記事、論説、識者寄稿があり、ラジオにも時事解説があった。

複雑な政策、国際情勢、経済変動を、見出しと事実の列挙だけで理解することは難しい。

したがって、報道に解説機能が付随すること自体は、現代テレビ特有の現象ではない。

ただし、新聞では通常、ニュース記事と社説・論評の掲載位置や形式が分けられている。執筆者名や媒体としての立場も、一定程度は確認できる。

テレビでは、事実報道からスタジオトークへ画面が連続するため、どこまでが確認された事実で、どこからが出演者の推測や評価なのかが分かりにくくなる。

この映像上の連続性が、テレビのコメンテーター問題を考える重要な出発点である。

3.1953年~テレビニュースの出発点

日本では1953年2月1日にNHK(Nippon Hoso Kyokai・日本放送協会)がテレビ本放送を開始した。

草創期のテレビニュースは、現在のような長時間のスタジオ討論を中心とするものではなかった。

放送時間、取材映像、通信設備、要員が限られ、ニュースを迅速に伝えること自体が主要な課題だった。

当初の中心は、アナウンサーが原稿を読み、必要に応じて映像や現場報告を加える形式である。

ここで重要なのは、テレビニュースの原型に、幅広い話題へ感想を述べる常設タレントが不可欠だったわけではないことである。

ニュース報道は、コメンテーターがいなくても成立していた。

ただし、ニュースが政治、外交、経済へ広がるにつれて、単なる事実の読み上げだけでは背景が伝わりにくいという問題が生じた。

そのため、記者、解説委員、専門家が説明する機能が徐々に発達していった。

4.1964年~ワイドショーが生んだ「司会者を囲む会話」

現在のコメンテーター形式に強い影響を与えたのは、純粋なニュース番組だけではなく、ワイドショーである。

日本初の本格的なワイドショーとされる『木島則夫モーニングショー』は、1964年4月にNET(Nippon Educational Television・日本教育テレビ、現在のテレビ朝日)で放送を開始した。ニュース、事件、芸能、生活情報、インタビューなどを一つの番組内で扱い、司会者を中心に進行する形式を確立した。

この形式は、ニュースの伝達だけでなく、「いま起きていることをスタジオで一緒に考える」という感覚を視聴者へ提供した。

ワイドショーでは、事件の当事者、専門家、芸能人、文化人などがスタジオに招かれ、司会者との会話を通じて話題を展開する。

テレビという媒体では、原稿を一方向に読むより、人と人が話している方が視聴者の注意を引きやすい。

また、専門的な話の合間に驚きや共感を示す出演者がいると、視聴者は番組へ参加しているような感覚を持ちやすい。

ここに、現在の常設コメンテーターにつながる二つの役割が生まれた。

一つは、難しい内容を一般の言葉へ置き換える役割である。

もう一つは、視聴者の代わりに疑問、怒り、共感を表現する役割である。

後者はテレビ番組としては有効だが、必ずしも報道の正確性を高めるものではない。

5.1974年~「ニュースを読む」から「ニュースを見せる」へ

1974年4月、NHKは『ニュースセンター9時』を開始した。

NHKの放送史年表では、夜9時台の新形式の総合ニュース番組として位置付けられ、初代キャスターは磯村尚徳氏だった。放送ライブラリーも、NHKが本格的なテレビニュース番組を目指して企画した番組と説明している。

『ニュースセンター9時』の重要性は、ニュースを個別に読み上げるだけでなく、一日の出来事を構成し、キャスターが視聴者へ語りかける形で伝えた点にある。

キャスターは単なる原稿の読み手ではなく、ニュース全体を案内する存在になった。

ここで、ニュースの伝達者と解説者の境界が接近する。

経験豊富な記者や国際取材経験者がキャスターを務めれば、原稿の読み方、質問の仕方、話題のつなぎ方自体に、その人物の判断が表れる。

ただし、この段階の中心は、現在の情報番組のように、多数の常設出演者が順番に感想を述べる形式ではない。

むしろ、取材と編集を担う報道機関の代表として、キャスターが番組全体の文脈を提示する形式だった。

6.1985年~『ニュースステーション』が変えた夜のニュース

1985年10月、テレビ朝日は『ニュースステーション』を開始した。テレビ朝日の社史にも、1985年10月の放送開始が記録されている。

当時、平日夜10時台はドラマや娯楽番組が中心であり、その時間帯に長時間の報道番組を置くこと自体が異例だった。

番組は久米宏氏を中心に、ニュース、特集、中継、スポーツ、対談などを組み合わせた。

その特徴は、ニュースを権威的に読み上げるのではなく、会話、映像、図表、音楽、現場中継を用いて、視聴者の日常感覚へ近づけたことにある。

この形式によって、ニュースキャスターは「中立的な読み手」だけではなく、質問し、驚き、疑い、ときに評価する人物として認識されるようになった。

番組開始時には、メインキャスターに加えて、新聞論説委員などのコメンテーターも配置されていたとされる。もっとも、番組の中心は出演者全員が自由に感想を述べることではなく、久米氏の進行と番組編集によって一つのニュース空間をつくることだった。

『ニュースステーション』は、ニュース番組を娯楽番組と同じ時間帯で競争できる商品へ変えた。

これはテレビ報道を広い視聴者へ届けたという点で大きな成果だった。

一方で、ニュースにも分かりやすさ、人物の魅力、会話のテンポ、感情的な引力が要求されるようになった。

現在のコメンテーター文化を考えるうえで、この変化は大きい。

7.1989年以降~キャスター個人の論評が定着する

1989年には、TBS(Tokyo Broadcasting System・東京放送)で『筑紫哲也NEWS23』が始まった。『NEWS23』は現在まで名称を引き継ぎ、TBSは筑紫哲也氏が18年間キャスターを務めたと説明している。

筑紫氏の番組では、ニュース報道だけでなく、対談、特集、個人名を冠した論評などが番組の重要な要素となった。

これにより、ニュース番組の価値が、「何が起きたか」だけでなく、「信頼するキャスターがそれをどう捉えるか」にも置かれるようになった。

この形式には利点がある。

番組の編集方針と価値観が明確になるからである。

完全に無色透明な報道は存在しない。何をトップニュースにするか、誰に取材するか、どの映像を使うかという選択には、編集判断が含まれる。

それならば、責任あるキャスターが自分の名前と経歴を示し、根拠を伴って論評する方が、匿名的な偏向より透明性が高い場合もある。

しかし、キャスターへの信頼が強すぎれば、視聴者が事実ではなく人物への好悪でニュースを判断する危険もある。

また、キャスター個人の見解と、放送局全体が取材によって確認した事実の境界が曖昧になる。

8.1990年代以降~報道番組と情報番組の境界が薄くなる

1990年代以降、朝、昼、夕方、夜の各時間帯で、ニュース、生活情報、芸能、事件、スポーツを一つの番組内で扱う形式が広がった。

長時間番組では、一つの話題を映像だけで埋めることは難しい。

現場中継、再現映像、専門家解説、出演者同士の会話を組み合わせることで、放送時間を構成する必要がある。

2022年のテレビニュース番組研究では、報道系番組は限られた時間内で、必要に応じて専門家の意見を組み込みながら情報をコンパクトに伝える傾向があるのに対し、情報系番組は一つの話題に長い時間を使い、専門家、関係者、常設コメンテーターを交えて展開する傾向が示されている。

この違いは重要である。

報道系番組では、コメンテーターは情報を補足するために配置されやすい。

情報系番組では、スタジオでの会話そのものが番組内容の一部になる。

その結果、コメンテーターは「必要な専門知識を持つ人」から、「会話を継続できる人」「短く分かりやすく話せる人」「視聴者が親近感を持つ人」へ変化する。

ここで、報道上の必要性と番組制作上の必要性が分かれる。

番組を円滑に進行させるためには必要でも、ニュースを正確に理解するために必要とは限らないのである。

9.なぜ専門外のコメンテーターが増えるのか

専門外の話題にも発言する常設コメンテーターが採用される理由は、複数考えられる。

毎回専門家を選ぶより運用しやすい

ニュースは日々変化する。

感染症、刑事事件、金融政策、国際紛争、教育問題について、それぞれ適切な専門家を毎日選び、出演を依頼するには時間と費用がかかる。

常設出演者であれば、番組進行を理解しており、生放送にも対応しやすい。

放送時間を安定して構成できる

専門家は必要な説明を終えれば発言が短くなることがある。

常設コメンテーターは、司会者の質問に応じて会話を展開し、予定された時間を埋めやすい。

視聴者との心理的距離を縮められる

専門用語だけで説明すると、視聴者が理解しにくいことがある。

専門家ではない出演者が素朴な疑問を示すことで、説明の入口をつくれる。

番組の個性をつくれる

同じニュース映像を複数局が扱う場合、出演者の個性や会話が番組の差別化要因になる。

これらは、テレビ番組としては合理的な理由である。

しかし、いずれも報道の正確性を直接保証するものではない。

「番組を成立させるために便利であること」と、「民主社会の報道に必要であること」は分けて考えるべきである。

10.現在の報道番組にも役割の混在が見られる

現在の主要報道番組を見ても、出演者の位置付けは一様ではない。

テレビ朝日の『報道ステーション』では、メインキャスターに長年の政治記者経験を持つ大越健介氏を置く一方、スポーツ分野では元競技者をスポーツコメンテーターとして配置している。これは、取材経験や専門経験と担当分野を対応させた構成といえる。

一方、TBSの『news23』では、報道経験のあるキャスターや現場取材を行うフィールドキャスターに加え、モデル・タレントとして活動してきた人物を曜日コメンテーターとして配置している。番組側は、その人物が取材現場にも同行し、自らの視点で伝えることを役割として示している。

これは、現在のコメンテーターが必ずしも専門知識を提供する者としてだけ選ばれていないことを示す。

視聴者に近い世代や立場、多様な経験を番組へ取り込むことも目的になっている。

こうした起用自体を直ちに不適切とすることはできない。

専門家だけで番組を構成すると、視聴者の日常感覚から離れる可能性がある。

ただし、出演者の役割が専門解説なのか、取材者なのか、市民的感覚の提示なのかを明確にする必要がある。

肩書や座席配置だけでは、その違いが視聴者へ伝わりにくい。

11.報道に解説機能は必要である

ここまでの歴史を踏まえると、報道に解説は必要である。

現代のニュースは、事実だけを数十秒伝えても理解できないものが多い。

金融政策を例にすれば、政策金利が変更されたという事実だけでは、住宅ローン、企業融資、為替、物価へどう影響するのか分からない。

国会で法律が成立したという事実だけでは、誰にどの義務が生じ、実生活に何が変わるのか分からない。

医療報道でも、患者数や研究結果を読み上げるだけでは、危険度、因果関係、研究の限界を判断できない。

この意味で、次の解説機能は不可欠である。

  • 事件や政策の背景を整理する
  • 専門用語を一般の言葉へ置き換える
  • 数値の大きさや比較対象を示す
  • 確認された事実と推測を区別する
  • 複数の利害関係者の立場を示す
  • 将来予測の前提と不確実性を説明する
  • 誤解されやすい点を訂正する

問題は、解説機能が必要であることと、常設コメンテーターが必要であることは同じではないという点である。

12.現在のような「何にでもコメントする人」は必須ではない

報道に必要なのは機能であって、特定の出演形式ではない。

背景説明が必要なら、その問題を継続取材している記者が説明できる。

法律問題なら法律家、感染症なら感染症専門家、金融政策なら金融・経済の専門家を呼べばよい。

一般市民の疑問を示す必要があるなら、司会者が視聴者の立場から質問できる。

異なる価値観を紹介する必要があるなら、利害関係者や立場の異なる専門家を複数配置できる。

したがって、あらゆる話題に短い感想を述べる常設コメンテーターは、報道の必須条件ではない。

テレビ番組の演出上は便利であっても、情報の正確性、深さ、公平性を高めるとは限らない。

むしろ、専門外の人物が即時に意見を求められることで、次の問題が生じる可能性がある。

13.専門外コメントが生む五つの問題

根拠より反応速度が優先される

生放送では沈黙が避けられるため、出演者は十分な情報がなくても発言を求められる。

しかし、重大事件の初期情報は不完全であり、その後訂正されることも多い。

早い段階の断定は、誤解を広げる危険がある。

事実と感情が連続して見える

ニュース映像の直後に出演者が怒りや驚きを示すと、その反応まで事実の一部のように受け取られることがある。

特に、容疑者、被害者、行政機関について、捜査や検証が終わる前に印象が形成される危険がある。

専門性の境界が見えない

ある分野で実績がある人物でも、すべての分野に専門性があるわけではない。

芸能人、弁護士、医師、大学教授という肩書だけで、外交、経済、刑事捜査、感染症などを幅広く評価できるとは限らない。

大学教員がテレビコメンテーターとして果たす役割を検討した研究でも、専門家型と非専門家型のコメンテーターが異なる役割を持つことが指摘されている。

発言の強さが証拠の強さを上回る

テレビでは、慎重で条件付きの説明より、短く断定的な発言の方が印象に残りやすい。

しかし、科学、経済、司法では、「現時点では判断できない」という回答が最も正確な場合もある。

番組全体の方向へ同調しやすい

限られた時間内で会話を成立させるには、出演者同士が共通の問題認識を持った方が進行しやすい。

その結果、複数の出演者が似た評価を順番に述べ、見かけ上の合意が形成されることがある。

人数が多いことは、意見が多様であることを意味しない。

14.「一般人の感覚」は誰の感覚なのか

タレントや非専門家のコメンテーターを起用する理由として、「一般の視聴者に近い感覚」が挙げられることがある。

しかし、一人の著名人が一般市民全体を代表できるわけではない。

年齢、所得、地域、職業、家族構成、政治的立場によって、人々の感じ方は異なる。

番組へ継続出演し、高い知名度と発言機会を持つ人物は、必ずしも平均的な生活条件にあるとも限らない。

したがって、「視聴者代表」という位置付けには慎重であるべきである。

一般市民の視点を取り入れるなら、街頭インタビューを数人並べるだけでも不十分である。

世論調査、当事者取材、地域別データ、生活実態調査などを用いて、多様な立場を示す方が客観性は高い。

コメンテーター個人の感想は、「一つの感想」ではあっても、「世論」ではない。

15.複数のコメンテーターがいても公平とは限らない

公平な報道とは、賛成と反対の出演者を一人ずつ置けば成立するものではない。

証拠の強さが異なる主張を、機械的に同じ重さで扱うと、かえって誤解を生む。

例えば、科学的な合意が確立している問題について、根拠の乏しい反対意見を同じ時間だけ紹介すれば、実際以上に大きな論争が存在するように見える。

一方、政策の価値判断では、複数の立場を示すことが必要である。

重要なのは、人数の均衡ではなく、

  • 何が確認された事実か
  • 何が専門家の多数見解か
  • 何が少数説か
  • 何が出演者個人の価値判断か
  • どの利害関係があるか

を明示することである。

16.放送倫理はコメンテーターにも適用される

日本民間放送連盟の放送基準では、報道は市民の知る権利に奉仕し、事実に基づき公正でなければならないとされている。

また、取材・編集では一方に偏って視聴者へ誤解を与えないよう注意し、ニュースの中で意見を扱うときは出所を明らかにすること、誤報は速やかに訂正することが求められている。

これは、ニュース原稿だけでなく、番組全体の構成にも関係する。

BPO(Broadcasting Ethics and Program Improvement Organization・放送倫理・番組向上機構)の判断事例では、判決内容の不正確な要約によって、スタジオトークと番組全体が公平性を欠いたとして、コメンテーターの発言を含む放送倫理上の問題が指摘された例がある。

この事例が示すのは、コメンテーターの発言を「個人の自由な感想」として切り離すことはできないという点である。

番組がその人物を選び、発言機会を与え、編集または生放送で全国へ伝えている以上、放送局にも責任がある。

「出演者個人の見解です」という表示だけで、事実確認や公平性に関する責任がなくなるわけではない。

17.コメンテーターの利点も正当に評価する必要がある

コメンテーター制度には問題だけでなく、明確な利点もある。

視聴者が持ちにくい疑問を代わりに示せる

専門家同士では前提として省略される内容を、非専門家が質問することで説明が分かりやすくなる。

ニュースを社会生活へ結びつけられる

制度変更が家庭、仕事、地域生活へどう影響するのかを、具体的に考えるきっかけをつくれる。

専門家の説明を検証できる

司会者や別の出演者が質問を重ねることで、専門家の説明の曖昧さや利益相反が明らかになることがある。

権力者への評価を明示できる

政府や企業の発表をそのまま読むだけでは、広報の代行になりかねない。

根拠を示した論評は、権力を監視するジャーナリズムの一部となる。

ニュースへの関心を高められる

親しみやすい出演者を入口として、それまで政治や経済に関心のなかった視聴者がニュースを見る可能性がある。

したがって、コメンテーターを全面的に廃止すればよいという結論も単純すぎる。

必要なのは、役割と選任基準を改善することである。

18.必要なのは「人物」ではなく「編集機能」である

報道番組に必要なものを機能として整理すると、次のようになる。

事実確認機能

発表内容、数字、映像、証言を照合する。

背景整理機能

過去の経緯、制度、国際比較を示す。

専門解説機能

専門知識を用いて因果関係と不確実性を説明する。

権力監視機能

政府、自治体、企業、団体の説明を検証する。

多角的検討機能

影響を受ける複数の立場を示す。

翻訳機能

専門的な内容を、正確性を失わず一般の言葉で伝える。

これらは必要である。

しかし、すべてを一人の常設コメンテーターに担わせる必要はない。

むしろ、取材記者、解説委員、専門家、当事者、データ担当者が役割を分担した方が正確性は高くなる。

19.より良い報道番組の構成

現在の報道番組を改善するなら、次の形式が現実的である。

常設コメンテーターを減らし、テーマ別出演へ移行する

外交、経済、医療、法律、科学など、話題に応じた専門家を招く。

毎日同じ人物がすべてのニュースへ発言する必要はない。

取材した記者を前面に出す

スタジオの著名人ではなく、実際に現場を取材した記者が、何を確認し、何が未確認なのかを説明する。

発言者の専門範囲を表示する

単に「大学教授」「弁護士」と表示するのではなく、研究分野、実務経験、今回の話題との関係を示す。

事実・分析・意見を画面上で分ける

「確認された事実」「専門家の分析」「出演者の意見」などを明示する。

利益相反を公開する

出演者が関係企業、政党、行政機関、業界団体から報酬や役職を得ている場合は、視聴者が判断できるよう示す。

分からないことを明示する

速報段階では、推測で空白を埋めず、「現時点では確認できない」と説明する。

訂正を同じ程度の明瞭さで行う

誤った発言が大きく報じられた場合、訂正も分かりやすく伝える。

ウェブサイトの片隅に掲載するだけでは不十分である。

20.コメンテーターを評価する基準

出演者の知名度や話し方ではなく、次の項目で評価すべきである。

  1. 発言する分野について専門性または取材経験があるか
  2. 事実と意見を区別しているか
  3. 不明なことを不明と言えるか
  4. 根拠や情報源を示しているか
  5. 自分と異なる立場を正確に説明できるか
  6. 感情的な断定で人物を攻撃していないか
  7. 後に誤りが判明した場合に訂正しているか
  8. 利益相反を公開しているか
  9. 番組の空気に合わせるだけでなく、必要な疑問を提示できるか
  10. 新しい情報や理解を視聴者へ提供しているか

発言後に視聴者が得たものが、単なる怒りや共感だけであれば、報道上の価値は限定的である。

制度、原因、選択肢、不確実性への理解が深まったかどうかが重要である。

21.視聴率と報道価値は一致しない

民間放送は広告収入によって運営されるため、視聴率や視聴者層を無視できない。

映像が地味で、専門用語が多く、説明が長い番組は、視聴者を引き付けにくい。

そのため、出演者の知名度、対立的な議論、強い言葉、感情的な反応が利用されやすい。

しかし、視聴されることと、正確であることは同じではない。

強い断定や対立は注目を集めても、社会の理解を深めるとは限らない。

反対に、条件や不確実性を丁寧に説明する発言は印象が弱くても、意思決定には有益である。

報道番組には娯楽番組とは異なる責任がある。

視聴率競争を否定することは現実的ではないが、注目を得るために事実と意見の境界を曖昧にすれば、長期的には番組への信頼を損なう。

22.インターネット時代にコメンテーターの役割は変わる

現在、ニュース速報だけなら、テレビ放送を待たずにスマートフォンで確認できる。

テレビ報道の価値は、速報の速さだけではなくなった。

むしろ、

  • 現場取材
  • 信頼できる映像
  • 複数資料の照合
  • 専門家による検証
  • 長期的な背景説明
  • 権力者への直接質問

に価値が移っている。

この環境では、インターネット上ですでに見られる感想や批判を、著名人がスタジオで繰り返すだけでは、テレビ報道の独自性にならない。

テレビ局には、個人では収集しにくい情報を取材し、検証して提示する組織能力がある。

その資源を常設出演者の感想へ多く配分するより、記者、調査報道、データ分析、専門解説へ配分した方が、報道機関としての価値は高まる可能性がある。

23.歴史から導かれる総合評価

日本のテレビにおけるコメンテーター文化は、一つの番組によって突然生まれたわけではない。

その成立過程は、おおむね次のように整理できる。

1950年代には、テレビニュースは事実の伝達を中心に始まった。

1964年以降、ワイドショーが司会者を中心とするスタジオ会話を定着させた。

1974年の『ニュースセンター9時』は、キャスターがニュース全体を構成し、視聴者へ語りかける総合ニュースの形を示した。

1985年の『ニュースステーション』は、報道を夜の主要時間帯へ持ち込み、会話、映像、個性的なキャスターを組み合わせた。

1989年以降の『NEWS23』などでは、キャスター個人の論評と番組の価値観が、報道の一部として明確になった。

その後、長時間の情報番組が増え、報道、生活情報、芸能、討論の境界が薄くなったことで、常設コメンテーターが番組進行上の標準的な存在となった。

したがって、現在の形式は、純粋な報道上の必要からだけ生まれたのではない。

テレビを分かりやすく、親しみやすく、長時間視聴できる番組にするという制作上、営業上の必要によって発達した面が大きい。

結論~報道に必要なのは解説であり、感想の人数ではない

報道にコメンテーターが絶対に必要かという問いへの答えは、コメンテーターの意味によって異なる。

取材経験を持つ記者、解説委員、話題に適合した専門家が、確認された事実を整理し、背景や不確実性を説明する機能は必要である。

権力者の説明を検証し、政策の利点と欠点を示す論評も、民主社会の報道に重要である。

一方で、専門分野にかかわらず、毎日のあらゆるニュースへ感想を述べる常設コメンテーターは必須ではない。

その存在は、番組を親しみやすくし、会話を成立させ、視聴者の関心を引くことには役立つ。

しかし、それは主としてテレビ番組の演出機能であり、報道の正確性を保証する機能ではない。

問題は、芸能人か専門家かという職業上の違いだけでもない。

専門家であっても専門外の分野を断定的に語れば、情報の質は下がる。著名人であっても現場を取材し、根拠を確認し、自らの立場を限定して話せば、有益な問いを提示できる。

評価すべきなのは肩書ではなく、発言の根拠、専門範囲、取材の有無、訂正への姿勢である。

現在の報道番組に必要なのは、コメンテーターの人数を増やすことではない。

何が事実で、何が分析で、何が意見なのかを視聴者が判別できる構造をつくることである。

ニュースの映像を見た直後に、出演者が順番に感想を述べるだけでは、視聴者の理解が深まるとは限らない。

一人の適切な専門家が、根拠と限界を明確にして説明する方が、複数の著名人による短い感想より価値が高い場合も多い。

報道に必要なのは、声の多さではなく、情報の確かさである。

感情の共有ではなく、事実を理解するための解説である。

そして、出演者の個性に依存するのではなく、取材、検証、訂正、説明責任を継続できる報道組織そのものの力量である。

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関税は産業を守るのか、それとも国民生活と世界経済を傷つけるのか

2026年、世界の通商政策は大きな転換点に立っている。

関税、輸出規制、国内生産への補助金、政府調達における国産品優遇、重要物資の囲い込みなど、各国が自国の産業と安全保障を優先する政策を強めている。

日本の経済産業省も、「通商戦略2026」の検討資料において、保護主義は単なる「台頭」の段階ではなく、「本格化・常態化」していると認識している。同資料は、国際経済秩序の重心がルールから力と威圧へ移り、関税、輸出規制、非市場的措置などが経済的な圧力手段として使われる状況を指摘している。

こうした変化には、一定の理由がある。

新型コロナウイルス感染症の世界的流行、ロシアによるウクライナ侵攻、半導体不足、重要鉱物の供給不安、過剰生産、強制労働、人権問題などを通じて、安価な輸入品だけに依存する危険性が明らかになった。

自由貿易は必ずしも公正な競争を意味しない。政府補助金、低賃金、環境規制の違い、知的財産権の侵害、安全保障上の依存などが存在する以上、何の条件も付けずに市場を開けばよいという考え方にも限界がある。

しかし、保護主義には別の危険がある。

一つの国が国内産業を守るために関税を引き上げれば、相手国も対抗措置を取る可能性がある。輸入品価格が上がれば、消費者だけでなく、輸入原材料や部品を使う国内企業の費用も増える。

さらに、保護される企業が競争力の改善を怠れば、関税は一時的な産業支援ではなく、非効率な産業を恒久的に維持する制度へ変わる。

過去200年の世界史は、保護主義が常に失敗したとも、自由貿易が常に成功したとも示していない。

歴史が示しているのは、対象、目的、期間、国際環境、退出条件のない保護政策が、当初の目的を超えて拡大し、報復と政治的対立を生みやすいという事実である。

1.保護主義とは何か

保護主義とは、外国との競争から国内産業や雇用を守るため、政府が輸入や外国企業の活動に制約を加える政策をいう。

代表的な手段は関税である。

関税は輸入品に課される税金であり、通常は輸入者が政府へ納付する。その費用の全部または一部は、販売価格の上昇という形で、国内の事業者や消費者へ転嫁される。

この点は重要である。

関税は、外国政府から自国政府へ自動的に支払われる罰金ではない。実際の負担は、輸入業者、流通業者、製造業者、消費者、外国の輸出企業の間で分かれる。

保護主義には、関税以外にも次のような手段がある。

輸入数量制限、輸入許可制、国内企業への補助金、政府調達での国産品優遇、技術移転の要求、輸出規制、経済制裁、原産地規則、国内生産比率の義務付けなどである。

日本にも保護的な制度は存在する。

例えば、関税割当制度では、一定数量までの輸入品に無税または低い関税率を適用し、それを超える輸入には比較的高い関税率を適用する。財務省税関によると、2026年度はナチュラルチーズ、革、革靴、豆類、こんにゃく芋など19品目に関税割当制度が適用されている。

したがって、保護主義は特定の国だけが採用している特殊な政策ではない。

問題は、保護するか否かという二者択一ではなく、どの産業を、どの理由で、どの程度、どの期間保護するかにある。

2.19世紀前半~穀物法が示した生産者保護と生活費の対立

過去200年の保護主義を考えるうえで、英国の穀物法は重要な出発点となる。

英国では、国内農業を保護するため、輸入穀物に高い障壁が設けられた。農業生産者や地主にとっては、外国産穀物との競争を抑え、国内価格を維持する効果があった。

一方で、穀物価格が高く維持されれば、パンなどの食料価格も高くなりやすい。保護政策の利益を受ける農業生産者と、食料費を負担する都市労働者や消費者との間に、利益の対立が生じた。

1846年、ロバート・ピール首相の政権は穀物法の廃止を進めた。

当時の英国議会では、保護を急に撤廃すれば農業に深刻な打撃を与えるという反対論と、食料品価格を下げ、製造業を発展させるためには撤廃が必要だという議論が対立した。

ピールは議会で、禁止的な措置と保護関税の緩和を原則として進めると説明する一方、農業への急激な影響を避けるため、一定の移行期間を設ける考えも示していた。

穀物法は最終的に1846年に廃止された。ただし、英国議会の解説によると、廃止後に小麦価格が直ちに暴落したわけでも、欧州産小麦が突然大量に流入したわけでもなかった。

この事例から分かるのは、関税の影響は政治的な主張ほど単純ではないということである。

関税を撤廃すれば、必ず輸入品が国内市場を席巻するとは限らない。一方で、関税を維持すれば、国内生産者だけでなく、食料を購入する多数の国民が負担を負う。

保護政策では、「守られる産業」だけでなく、「価格上昇を負担する側」を確認する必要がある。

3.19世紀後半~保護関税は工業化を成功させたのか

19世紀後半、米国やドイツなどは、英国との工業競争のなかで比較的高い関税を採用した。

この歴史から、「先進国も成長期には保護主義を採用していた」「自由貿易を受け入れる前に、幼い国内産業を保護する必要がある」という議論が生まれた。

これは幼稚産業保護論と呼ばれる。

新しい産業は、技術、設備、熟練労働者、販売網などが未成熟であり、すでに規模を拡大した外国企業と最初から同じ条件で競争することが難しい。そのため、一定期間だけ関税や補助金で保護し、競争力を持つまで育成するという考え方である。

この理論には合理性がある。

実際、重要技術、医薬品、半導体、エネルギー、食料などを完全に外国へ依存することには、経済上だけでなく、安全保障上の危険もある。

しかし、19世紀の関税が米国の工業化を生み出したと断定することはできない。

米国の成長には、人口増加、国土の拡大、豊富な天然資源、鉄道建設、資本蓄積、技術革新、教育など、複数の要因があった。

NBER(National Bureau of Economic Research・全米経済研究所)の研究では、19世紀後半の米国経済成長は人口増加と資本蓄積への依存が大きく、輸入資本財の価格を上げる関税が投資を抑えた可能性も指摘されている。

また、2024年に公表された研究では、19世紀末から20世紀初頭の米国製造業について、関税が全体として労働生産性を低下させたとの推計が示された。一部の先端産業には正の効果があった可能性もあるが、その効果には不確実性が残る。

つまり、「関税が高かった時期に工業化した」という時間的な一致だけでは、関税が工業化の原因だったとは証明できない。

成功した産業だけを見て、保護されたまま成長しなかった産業を無視することも適切ではない。

4.保護政策が既得権益へ変わる仕組み

幼稚産業保護論には、重大な制度上の問題がある。

保護を始める理由は説明しやすいが、保護を終える時期を決めることは難しい。

関税によって利益を得る企業や業界は、制度の維持を求める。政治家に働きかけ、雇用喪失や地域経済への打撃を訴える。

一方、関税によって少額ずつ負担を負う消費者は、個々の商品の価格上昇が小さければ、強い政治運動を起こしにくい。

この結果、少数の受益者が強く制度維持を求め、多数の負担者の意見が政策に反映されにくくなる。

保護政策が長期化すると、企業は技術開発、生産性向上、経営改革よりも、政府からの保護を維持する活動に力を使う可能性がある。

本来は競争力を育てるための制度が、競争を避けるための制度へ変わるのである。

したがって、産業保護を実施する場合には、開始条件だけでなく、終了条件が必要になる。

保護期間、達成すべき生産性、研究開発、国内生産能力、輸出実績、価格水準などを事前に定め、目標を達成できない場合は保護政策を縮小する仕組みが必要である。

5.19世紀末から第一次世界大戦前~世界経済の統合と反動

19世紀後半から20世紀初頭にかけて、蒸気船、鉄道、電信などの発達により、国際貿易と資本移動は拡大した。

一方で、外国産農産物との競争、労働者の不安、産業間の利害対立を背景に、各国で保護主義も強まった。

ここでも、関税と成長の関係は単純ではない。

19世紀末に高関税国の一部が高い成長を示したことは事実だが、その相関関係だけでは因果関係を証明できない。産業構造、資源、人口、制度、技術導入などの違いを考慮する必要がある。

保護主義は、国内産業の育成だけでなく、政治的な不満を外国との競争へ向ける手段にもなった。

国内の所得格差、失業、地域間格差、技術変化などの問題が、輸入品や外国企業の責任として説明されると、関税は経済政策であると同時に、国民をまとめる政治的象徴になる。

この構造は、現在にも共通している。

6.1930年代~スムート・ホーリー関税法の教訓

保護主義の危険を象徴する歴史として、1930年の米国スムート・ホーリー関税法が挙げられる。

この法律は、米国の農業や製造業を外国との競争から守る目的で、幅広い輸入品の関税を引き上げた。

しかし、法案成立前から貿易相手国は反発し、成立後には報復関税や輸入制限が広がった。米国上院の歴史資料も、相手国が米国製品への関税を引き上げ、国際貿易を停滞させたと説明している。

米国国務省の歴史資料によると、米国の欧州からの輸入額は1929年の13億3,400万ドルから1932年には3億9,000万ドルへ減少し、欧州向け輸出額も23億4,100万ドルから7億8,400万ドルへ減少した。世界貿易は1929年から1934年までに約66%減少したとされる。

ただし、この数字をもって、スムート・ホーリー関税法が世界恐慌の唯一の原因だったとするのは正確ではない。

世界恐慌には、株価暴落、銀行危機、信用収縮、金本位制、需要減少、企業倒産など、複数の原因があった。

貿易減少についても、関税と報復措置だけでなく、各国の所得と需要が急減した影響が大きい。

経済史研究でも、貿易崩壊のうち、関税、所得減少、外国の報復がそれぞれどの程度を説明するかについては検討が続いている。

したがって、正確な評価は次のようになる。

スムート・ホーリー関税法が世界恐慌を単独で発生させたとはいえない。しかし、各国の報復を招き、輸出市場を縮小させ、国際協調を損ない、すでに進行していた経済危機を悪化させた可能性は高い。

特に重要なのは、各国が同時に輸入を減らそうとしたことである。

一国だけなら、輸入を制限して国内需要を自国企業へ振り向けられる可能性がある。しかし、すべての国が同じ政策を採れば、各国の輸出市場も同時に縮小する。

自国だけが利益を得ようとする政策が、全体としてすべての国を悪化させる。

これが「近隣窮乏化政策」の危険である。

7.関税が外交関係を傷つける過程

貿易摩擦は、商品の価格だけに影響する問題ではない。

関税を課された国では、その措置が経済政策ではなく、自国への攻撃として受け止められることがある。

すると、相手国政府は国内世論に対応するため、報復措置を取らざるを得なくなる。

最初は鉄鋼や農産物だけだった対立が、自動車、食品、技術、投資、政府調達、渡航制限などへ広がる可能性もある。

1930年代の保護主義について、米国国務省の資料は、スムート・ホーリー関税を世界恐慌の唯一の原因とはしていない一方、国際協力を促進せず、近隣窮乏化政策の象徴となったと評価している。

経済的な相互依存が平和を自動的に保証するわけではない。

しかし、相互依存を急に切断し、国家間の経済関係を勝者と敗者だけで捉えるようになれば、相手国への不信が強まりやすい。

関税そのものが戦争を起こすと断定することはできないが、経済対立が政治的、外交的な対立を深める経路は存在する。

8.第二次世界大戦後~なぜGATTがつくられたのか

第二次世界大戦後、各国は1930年代の保護主義と経済対立への反省から、多国間の通商ルールを整備した。

1947年には、GATT(General Agreement on Tariffs and Trade・関税及び貿易に関する一般協定)が成立し、1948年に発効した。

GATTの目的は、すべての関税を直ちに廃止することではなかった。

関税を交渉によって段階的に引き下げ、特定国だけを不当に差別せず、突然の輸入制限を抑え、紛争をルールのなかで処理することであった。

1947年から1994年までに、ジュネーブ、アヌシー、トーキー、ディロン・ラウンド、ケネディ・ラウンド、東京ラウンド、ウルグアイ・ラウンドなど、8回の主要な関税交渉が行われた。

WTO(World Trade Organization・世界貿易機関)の説明によると、GATTは1948年から1994年まで世界貿易の主要な規則を提供し、国際貿易が大きく成長した時代を支えた。

ただし、戦後の経済成長をすべて自由貿易だけの成果とすることもできない。

各国は社会保障、産業政策、農業保護、公共投資、教育、研究開発支援などを併用していた。

戦後体制の重要な点は、国内政策をすべて放棄したことではなく、貿易政策を一国の一方的判断だけで運用せず、共通ルールと交渉の対象にしたことにある。

9.自由貿易の利益は均等に分配されなかった

戦後の貿易拡大は、消費者に安価で多様な商品を提供し、輸出企業に大きな市場を与えた。

国際分業によって生産費が下がり、技術や設備の導入も進んだ。

しかし、その利益が国内のすべての地域、産業、労働者へ均等に分配されたわけではない。

輸入品との競争に敗れた産業では、工場閉鎖や雇用減少が起きた。輸出産業や都市部が成長する一方で、特定の製造業に依存する地域が衰退することもあった。

自由貿易によって国全体の所得が増える可能性があっても、損失を受けた労働者が自動的に新しい仕事へ移れるとは限らない。

年齢、技能、居住地、家族、住宅などの事情によって、転職や移住が難しい人もいる。

この調整費用を軽視したことが、保護主義復活の一因になったと考えられる。

自由貿易への反発を、単なる無知や排外主義として片付けるべきではない。

実際に損失を受けた地域や労働者が存在する以上、政府には職業訓練、所得補償、地域投資、教育、産業転換を行う責任がある。

自由貿易を持続させるには、自由貿易の利益を再分配する国内政策が必要なのである。

10.1970年代以降~関税から非関税措置へ

戦後、関税率が段階的に低下すると、貿易摩擦は関税以外の手段へ移っていった。

輸入数量制限、輸出自主規制、国内基準、補助金、政府調達、為替政策などが争点となった。

自由貿易と保護主義は、明確に二分できるものではなくなった。

表面的には関税を低く維持しながら、国内規制や補助金によって外国企業の参入を難しくすることもできる。

反対に、安全、環境、労働、人権を守るために必要な規制が、外国企業からは貿易障壁に見える場合もある。

したがって、現在の保護主義を分析するときは、関税率だけを見ることはできない。

制度が正当な公共目的を持つのか、国内企業と外国企業に同じ基準を適用しているのか、必要以上に貿易を制限していないかを確認する必要がある。

11.2010年代以降~自由貿易から経済安全保障へ

2010年代後半から、世界の通商政策は再び保護的な方向へ動き始めた。

背景には、中国の急速な工業化、政府補助金、鉄鋼などの過剰生産、技術覇権、知的財産権、国家安全保障への懸念がある。

その後、新型コロナウイルス感染症の世界的流行によって、医療用品、半導体、物流などの供給網が混乱した。

さらに、ロシアによるウクライナ侵攻を受け、エネルギーや食料を特定国へ依存する危険が明確になった。

こうした経験から、各国は効率だけでなく、供給網の強靱性を重視するようになった。

重要物資の国内生産、友好国からの調達、輸出管理、投資審査などは、単純な産業保護とは異なる経済安全保障政策として説明されている。

日本も、重要鉱物などの特定国依存を減らし、恣意的な輸出規制や非市場的な政策へ対応する必要性を国際会議で主張している。

この方向性には合理性がある。

例えば、医薬品、食料、エネルギー、半導体など、供給停止が国民生活や国家機能へ重大な影響を与える物資について、最安値だけを基準に調達先を決めることは危険である。

しかし、「安全保障」という言葉が使われれば、すべての保護政策が正当化されるわけではない。

安全保障の対象を広げすぎれば、ほとんどすべての産業を保護できてしまう。

本当に供給途絶の危険があるのか、代替調達が可能か、備蓄で対応できるか、国内生産の費用はどの程度かを検証する必要がある。

12.令和の現在~保護主義は常態化した

2026年3月のWTOによる世界貿易見通しは、2025年に予想以上の伸びを示した世界貿易が、2026年には減速すると予測した。

2025年の貿易には、関税引上げ前の駆け込み輸入や、AI(Artificial Intelligence・人工知能)関連製品への需要が影響していた。WTOは、関税上昇の影響が2026年に現れることや、中東情勢によるエネルギー、食料、輸送への影響を警戒している。

米国では2026年にも、鉄鋼、アルミニウム、銅、医薬品などに対する関税措置が実施・調整されている。

2026年6月の米国大統領布告では、鉄鋼、アルミニウム、銅の一部製品に50%、一部派生製品に25%などの関税制度が示された。米国政府は、その理由を国家安全保障と国内産業基盤の再建としている。

また、米国通商代表部は、強制労働によって生産された商品の輸入禁止を十分に実施していないとされる複数の国・地域について、通商法301条に基づく調査と関税措置を進めている。

これらの措置には、それぞれ国内産業、国家安全保障、人権、公正競争などの理由がある。

したがって、1930年の政策と現在の政策を、根拠なく同一視することは適切ではない。

現在はWTO、経済連携協定、多国籍企業の供給網、変動相場制などが存在し、1930年代とは制度も経済構造も異なる。

一方で、次のような危険な兆候には共通性がある。

関税の対象が限定品目から広範な品目へ拡大すること、政策目的が頻繁に変わること、相手国が報復措置を取ること、企業が投資判断を先送りすること、貿易政策が国内政治の象徴として使われることである。

13.現在と1930年代は同じなのか

2026年の世界を「1930年代の再来」と断定することは正確ではない。

1930年代には、世界恐慌、銀行危機、金本位制、植民地経済圏、国際機関の弱さなど、現在とは異なる条件があった。

現在の世界経済には、WTO、IMF(International Monetary Fund・国際通貨基金)、地域貿易協定、中央銀行の協調、国際金融支援などの制度がある。

企業の生産活動も、完成品を一国で製造する形から、複数国で部品と工程を分担する形へ変わった。

そのため、現在の関税は外国製品だけを打撃するとは限らない。

輸入部品に関税がかかれば、国内で完成品を生産する企業の費用も上がる。国内企業を守る目的の関税が、別の国内企業の競争力を下げる可能性がある。

現在と1930年代の最大の共通点は、関税率そのものではない。

国内の経済問題を外国との競争だけで説明し、相手国も対抗措置を取らないと想定し、自国だけが利益を得られると考える危険性である。

14.関税の国内負担は見えにくい

関税政策では、保護される工場や雇用は目に見えやすい。

一方で、負担は広く分散する。

輸入品の価格上昇、原材料費の増加、商品の種類減少、設備投資の遅れなどは、一つ一つが小さく見えるため、政策の費用として認識されにくい。

例えば、鉄鋼への関税は国内製鉄業を支援する可能性がある。

しかし、鉄鋼を使用する自動車、機械、建設、家電などの企業にとっては、材料費の上昇になる。

保護対象産業で雇用が増えても、川下産業の生産や輸出が減れば、国全体の雇用効果は小さくなる可能性がある。

関税政策を評価する場合には、保護対象企業の雇用だけでなく、原材料を使用する産業、消費者物価、輸出、投資への影響まで含めなければならない。

15.報復関税は政治的に選ばれる

相手国が報復関税を課す場合、対象品目は無作為に選ばれるとは限らない。

関税を発動した国の政治的に重要な地域、農産物、象徴的な企業や商品が狙われることがある。

これにより、貿易紛争は経済合理性だけでなく、国内政治の争いになる。

1930年代のスムート・ホーリー関税を扱った研究でも、米国へ抗議した国や報復措置を取った国で、米国の輸出がより大きく減少したことが示されている。

報復の対象となる輸出企業は、自国政府が保護しようとした産業とは別の産業である可能性が高い。

一つの産業を守るための関税によって、競争力のある別の産業が輸出市場を失うことがある。

16.関税は交渉手段として有効か

関税には、交渉相手から譲歩を引き出す手段としての機能もある。

大きな市場を持つ国が輸入制限を示せば、相手国は市場へのアクセスを失わないため、関税、規制、投資条件などについて譲歩する可能性がある。

2026年の米国も、複数国との相互貿易協定や投資協定を進めている。

したがって、関税を常に経済的に無意味な政策と断定することはできない。

しかし、交渉手段として有効であるためには、目的が明確でなければならない。

何を改善すれば関税を撤廃するのか、相手国がどの条件を満たせば合意となるのかが示されなければ、関税は交渉手段ではなく、恒久的な障壁となる。

また、関税を頻繁に発動・変更すれば、企業は将来の税率を予測できず、設備投資や調達先の決定を遅らせる。

政策の不確実性そのものが、経済活動を抑える可能性がある。

17.自由貿易と無防備な依存は同じではない

保護主義への批判は、すべての物資を外国から最安値で輸入すべきだという意味ではない。

自由貿易と無防備な海外依存は別の問題である。

食料、エネルギー、医薬品、半導体、通信設備、重要鉱物などは、供給停止時の社会的損失が大きい。

これらについては、国内生産、複数国からの調達、備蓄、代替技術、再利用などを組み合わせる必要がある。

ただし、国内自給率を100%にすれば安全になるとも限らない。

国内災害、不作、設備事故、労働力不足が起きれば、国内生産だけに依存することも危険である。

重要なのは、自給か輸入かの二者択一ではなく、調達先と生産拠点を分散することである。

18.日本にとっての危険

日本は、資源、エネルギー、食料、原材料の多くを海外から調達し、自動車、機械、電子部品、化学製品などを輸出する経済構造を持つ。

そのため、世界的な保護主義の拡大は、輸出市場の縮小と輸入費用の上昇を同時に引き起こす可能性がある。

日本政府は、WTOを中心とする多角的貿易体制を通商政策の柱としながら、CPTPP(Comprehensive and Progressive Agreement for Trans-Pacific Partnership・環太平洋パートナーシップに関する包括的及び先進的な協定)やRCEP(Regional Comprehensive Economic Partnership・地域的な包括的経済連携)などの経済連携協定も進めてきた。

外務省の資料によると、日本の貿易総額に占めるEPA(Economic Partnership Agreement・経済連携協定)およびFTA(Free Trade Agreement・自由貿易協定)の相手国・地域の比率は、2023年の対日貿易政策検討時点で約8割とされていた。

これは、世界全体の自由貿易体制が弱まるなかで、一定の国々との安定した貿易ルールを確保する政策である。

ただし、日本も保護主義を批判するだけでは不十分である。

国内農業、エネルギー、重要産業をどの程度守るのか、消費者負担をどう評価するのか、非効率な保護をどのように縮小するのかを説明する必要がある。

19.地域経済への影響

関税や貿易摩擦は、国家間の問題に見えるが、影響は地域経済へ及ぶ。

輸出企業の工場がある地域では、相手国の関税によって生産と雇用が減る可能性がある。

輸入原材料を使う中小企業では、仕入れ価格が上昇する。

農産物への報復関税が行われれば、農村地域の所得に影響する。

港湾、物流、倉庫、運送業も、輸出入量の変化による影響を受ける。

一方、輸入品との競争が弱まることで、国内の一部地域では生産が回復する可能性もある。

重要なのは、国全体の貿易収支だけで判断しないことである。

どの地域、どの業種、どの所得階層が利益を得て、誰が費用を負担するのかを確認しなければならない。

20.危険な保護主義を見分ける基準

保護政策のすべてが危険なのではない。

危険性が高いのは、次の条件が重なる場合である。

対象が広すぎる

安全保障上重要な品目に限定せず、ほとんどすべての輸入品へ関税を課す場合、国内の物価と生産費への影響が大きくなる。

目的が変化する

雇用保護、貿易赤字、安全保障、税収、外交交渉など、政策目的が次々に変われば、終了条件が不明確になる。

期限がない

一定期間で競争力を向上させる制度ではなく、恒久的な保護になれば、企業の改革を妨げる。

効果測定がない

雇用、生産性、価格、輸出、川下産業への影響を検証せず、保護対象企業の生産増加だけを成果とする。

報復を想定しない

相手国が何もせず、自国だけが利益を得ることを前提にしている。

政治的な忠誠心を求める

政策の費用を指摘する者を、国益に反する存在として排除する。

国際ルールを軽視する

自国だけが例外的な措置を取り続ければ、他国も同じ行動を正当化し、共通ルールが崩れる。

21.現実的な産業保護の条件

国内産業を保護する場合には、少なくとも次の条件が必要である。

第一に、保護の目的を明確にする。

国家安全保障、供給網の分散、幼稚産業育成、雇用調整、不公正貿易への対抗など、目的を区別しなければならない。

第二に、対象を限定する。

すべての産業を保護するのではなく、供給途絶時の損失、技術的重要性、代替可能性を基準に選ぶ。

第三に、期限を設ける。

一定期間後に、保護の継続、縮小、廃止を検証する。

第四に、成果指標を定める。

生産量だけでなく、生産性、研究開発、価格、輸出能力、雇用、供給安定性を測る。

第五に、消費者と川下産業への費用を公開する。

保護対象だけを見ず、経済全体の負担を示す。

第六に、国際協調を優先する。

不公正な補助金や強制労働などは、一国の関税だけでなく、複数国の共同ルールで対応した方が正当性と効果を高めやすい。

22.歴史が示す最も危険な兆候

過去200年を振り返ると、最も危険なのは、関税の高さだけではない。

危険な兆候は、国内の複雑な問題を外国の責任だけで説明することである。

工場閉鎖には、輸入競争だけでなく、技術変化、経営判断、国内需要、為替、設備投資、教育、人材不足などが関係する。

賃金停滞や地域衰退も、貿易だけでは説明できない。

それにもかかわらず、外国製品や外国人を原因として示せば、政治的には理解されやすい。

関税は、政府が何かをしていることを示す象徴的な政策になる。

しかし、原因の分析が誤っていれば、関税を課しても問題は解決しない。

輸入品価格が上がり、相手国の報復を招き、国内企業の生産費が増えた後も、技術力、教育、設備、人材、地域格差の問題は残る。

結論~保護すべきものは産業だけではない

保護主義には、国内産業、雇用、安全保障を守るという理解しやすい目的がある。

不公正な補助金、強制労働、過剰生産、経済的威圧、重要物資の供給途絶に対して、何の対策も取らないことが正しいとはいえない。

一方、過去200年の歴史は、広範で恒久的な保護政策が、価格上昇、企業の非効率化、報復措置、輸出市場の縮小、国際関係の悪化をもたらし得ることを示している。

スムート・ホーリー関税法は、世界恐慌を単独で引き起こしたわけではない。しかし、自国産業を守るはずの政策が相手国の報復を招き、国際協力を弱め、危機をさらに深刻化させた歴史的事例である。

令和の現在と1930年代は同じではない。

しかし、自国だけが関税によって利益を得られると考えること、相手国の反応を軽視すること、国内問題を外国の責任に単純化すること、政策の期限と検証を設けないことには、共通する危険がある。

自由貿易を守ることは、国内産業を放置することではない。

必要なのは、供給網を分散し、重要産業を限定的に支援し、損失を受ける労働者と地域を支え、不公正な競争には国際ルールで対処することである。

保護すべきものは、特定企業の現在の利益だけではない。

国民の生活、産業の将来の競争力、地域雇用、外交関係、そして予測可能な国際秩序を同時に守る必要がある。

保護主義の影が濃くなる時代だからこそ、関税を支持するか反対するかという単純な二者択一ではなく、誰を、何から、どの費用で、いつまで守るのかを問い続けなければならない。

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はじめに~党首候補を選ぶことは、政治家の人気順位をつけることではない

本稿は、特定の政党や政治家への支持を呼びかけるものではない。

令和8年7月末時点で国会に議席を持つ政党について、現在の党首以外から次の指導者を選ぶとすれば、どのような人物が適切なのかを検討するものである。

ただし、すべての政党について、無理に「現職より優れた人物」を挙げることはしない。

現職党首を交代させる合理性が乏しい政党もある。

後継者候補が十分に育っていない政党もある。

代表選挙を終えたばかりで、新代表の運営を検証すべき段階にある政党もある。

党首候補の評価は、知名度、交流サイトでの人気、演説のうまさ、政治的な好き嫌いだけでは決められない。

本稿では、次の七項目を共通の評価軸とする。

  1. 党の理念と政策との整合性
  2. 政策を制度や法案へ落とし込む能力
  3. 国会で質問や批判に答える説明力
  4. 党内の異なる意見を調整する能力
  5. 他党、官僚、自治体との交渉能力
  6. 誤りや不祥事に対応し、組織を修正する能力
  7. 代表個人に依存しない政党をつくる能力

強い言葉で支持者を集めることと、政党を運営することは異なる。

党首は、支持者の感情を代弁するだけではなく、党内をまとめ、政策の費用を説明し、他党と協議し、必要な場合には妥協や修正を受け入れなければならない。

令和8年7月末の国会勢力

令和8年2月18日時点の衆議院では、自由民主党・無所属の会が316人、中道改革連合・無所属が48人、日本維新の会が36人、国民民主党・無所属クラブが28人、参政党が15人、チームみらいが11人、日本共産党が4人となっている。参議院には、これらに加えて、れいわ新選組、社会民主党、日本保守党などに所属する議員もいる。

以下では、国会に所属議員を持ち、政党として継続的な活動を行っている各党を検討する。


自由民主党~次期総裁候補として小林鷹之氏をどう評価するか

令和8年7月時点の自由民主党総裁は高市早苗氏である。

党役員は、麻生太郎副総裁、鈴木俊一幹事長、有村治子総務会長、小林鷹之政務調査会長、西村康稔選挙対策委員長らで構成されている。

現職総裁を除いて次の候補を考える場合、小林鷹之氏が有力候補の一人になる。

小林鷹之氏を候補とする理由

第一に、政務調査会長として、自民党の政策全体を取りまとめる立場にあることである。

自民党総裁には、外交、安全保障だけでなく、財政、社会保障、医療、農業、地方経済、教育、エネルギーなどを総合的に扱う能力が必要になる。

特定分野で目立つことより、党全体の政策を調整した経験の方が、総裁候補として重要である。

第二に、世代交代を示せることである。

自民党は、長年の政権運営によって行政、業界団体、地方組織との関係を蓄積している。

一方で、特定の長老政治家や過去の派閥構造への依存が続けば、組織の更新が遅れる。

小林氏が総裁候補になることには、従来の自民党の政策基盤を維持しながら、執行部を次世代へ移す意味がある。

第三に、経済安全保障や産業政策を重視する点で、高市路線の一部を引き継ぎながら、より政策実務型の運営へ移行できる可能性がある。

小林氏の課題

一方、小林氏が党全体をまとめられるかは、まだ十分に証明されていない。

自民党には、積極財政派、財政規律派、保守派、穏健派、地方組織、農業団体、経済界など、複数の利害が存在する。

政策に詳しいことと、相反する利害を調整できることは別の能力である。

総裁候補として評価するには、保守的な支持層だけでなく、地方、高齢者、若者、無党派層にも説明できる政治的な幅が必要になる。

自民党に必要な党首像

自民党に必要なのは、高市氏以上に強い言葉を使う人物ではない。

強い衆議院基盤を持っていても、参議院、野党、官僚、地方自治体との調整を軽視しない人物である。

現段階では、小林鷹之氏は有力な次世代候補であるが、総裁としての適性は、党内調整と国会運営の実績によって今後確認される必要がある。


中道改革連合~岡本三成氏は旧来の二つの政治文化を統合できるか

衆議院では、中道改革連合・無所属が48議席を持っている。

この政党にとって最大の課題は、単に党首を交代することではない。

異なる政治文化や支持基盤を持つ議員を、一つの政策政党として統合できるかどうかである。

仮に現職代表以外から選ぶなら、政策調整を担う岡本三成氏が候補となる。

岡本三成氏を候補とする理由

中道を掲げる政党では、右派と左派の中間にいるだけでは不十分である。

どの分野では政府の役割を強め、どの分野では民間活力を使うのか。

安全保障と平和主義をどう両立するのか。

社会保障をどこまで拡充し、その財源をどこに求めるのか。

これらを一つの政策体系として説明しなければならない。

岡本氏のような政策責任者には、旧来の出身母体や支持団体を超えて、党の基本政策を作り直す役割が期待される。

岡本氏の課題

中道政党は、主張が穏健であるだけでは支持を得にくい。

何を守り、何を変えるのかが曖昧であれば、与党と野党の間で態度を決められない政党に見える。

岡本氏が党首となる場合には、生活者重視、立憲主義、福祉、財政、外交について、明確な優先順位を示す必要がある。

また、出身母体の一方だけを代表する人物と受け取られれば、党内統合が難しくなる。

中道改革連合に必要な党首像

この党に必要なのは、テレビで目立つ人物より、複数の政治文化を政策として統合できる人物である。

現段階では岡本三成氏が候補になるが、党名どおりの「中道」を、単なる妥協ではなく政策原理として説明できるかが問われる。


日本維新の会~現職以外の明確な代替候補はまだ育っていない

日本維新の会では、吉村洋文氏が代表、藤田文武氏が共同代表として活動している。党の公式情報でも、藤田氏の共同代表としての会見や、吉村代表と藤田共同代表が並ぶ活動が確認できる。

現在の両氏を除いた場合、直ちに全国政党の代表を任せられる人物は明確ではない。

維新の課題は後継者不足より地域依存である

維新は大阪での知名度と行政実績を強い基盤としている。

しかし、全国政党としては、人口減少地域の医療、農業、鉄道、バス、学校、上下水道など、大都市型改革だけでは対応できない問題を扱わなければならない。

大阪で成立した政策が、財政規模や人口密度の異なる地方でそのまま再現できるとは限らない。

無理に代替候補を挙げるべきではない

党首候補の記事では、すべての政党に一人ずつ名前を挙げたくなる。

しかし、十分な実績が確認できない人物を、形式的に候補とすることは客観的ではない。

維新の場合、現在の代表・共同代表を除くと、全国的な党務、政策、国会運営を総合的に担当した候補者層が薄い。

したがって、現段階で必要なのは交代ではなく、大阪以外の議員を政策責任者や国会責任者として育てることである。


国民民主党~榛葉賀津也氏は玉木依存を解消できるか

国民民主党では、玉木雄一郎氏が代表、古川元久氏が代表代行、榛葉賀津也氏が幹事長、浜口誠氏が政務調査会長を務めている。

玉木代表以外から選ぶ場合、榛葉賀津也氏が最も現実的な候補である。

榛葉賀津也氏を候補とする理由

国民民主党は、政策ごとに与党とも野党とも協議する立場を取っている。

この姿勢には、政党間対立に縛られず、政策実現を優先できる利点がある。

一方で、判断基準が不明確であれば、与党と野党の間で都合よく立場を変えているように見える。

榛葉氏には、党の判断や他党との違いを、比較的明確な言葉で説明する力がある。

また、代表交代によって「玉木氏個人の党」という印象を弱め、組織政党へ移行する意味もある。

榛葉氏の課題

発信力だけでは党首は務まらない。

国民民主党が掲げる減税、手取り増加、エネルギー政策、賃金上昇などについて、社会保障、地方財政、国債、物価との整合性を説明する必要がある。

榛葉氏が代表となる場合、短い言葉で注目を集める能力に加えて、中長期的な制度設計を示せるかが問われる。

国民民主党に必要な党首像

国民民主党が今後さらに議席を増やすには、人気のある代表だけでなく、政策判断の基準を党全体で共有する必要がある。

榛葉氏は有力候補だが、代表個人が変わっても政策が継続する組織を作れるかが重要である。


参政党~吉川里奈氏は党の個人依存を弱められるか

参政党では、神谷宗幣氏が代表、吉川里奈氏が副代表、松田学氏が代表代理、安藤裕氏が幹事長、豊田真由子氏が政務調査会長を務めている。

神谷代表以外から選ぶ場合、吉川里奈氏が候補となる。

吉川里奈氏を候補とする理由

参政党は、神谷氏の発信力、党組織づくり、街頭活動によって拡大した政党である。

しかし、規模が大きくなるほど、創設期の指導者一人に依存する運営には限界が生じる。

吉川氏は副代表として、次の指導者候補に位置づけられる立場にある。

女性、子育て世代、生活者の問題をより前面に出すことで、国家観、歴史、外国人政策などに偏って見られやすい党の政策領域を広げる可能性もある。

吉川氏の課題

副代表であることだけで、党首としての能力が証明されるわけではない。

参政党が掲げる医療、食、教育、農業、主権、外国人政策などには、科学的・法的な検証を要する論点が多い。

党首には、支持者が好む情報だけでなく、反証や専門家の批判も取り上げる姿勢が必要である。

参政党に必要な党首像

参政党に必要なのは、神谷氏以上に刺激的な言葉を使う人物ではない。

党の主張を、統計、法令、財源、政策効果によって検証し、誤りがあれば訂正できる仕組みをつくる人物である。

吉川氏は候補となり得るが、その評価は政策検証と党内統治の実績によって決まる。


チームみらい~古川あおい氏は将来候補だが、現時点で党首交代は早い

チームみらいは、安野貴博氏が立ち上げた政党であり、公式にも安野氏が党首とされている。令和8年衆議院選挙後は11議席を持つ会派となった。

現時点で安野氏を交代させる合理性は低い。

ただし、将来的な候補としては、政務調査会長を務める古川あおい氏が考えられる。

古川あおい氏を候補とする理由

古川氏は厚生労働省、公共政策、データサイエンス、金融機関、技術企業での経験を持ち、令和8年の衆議院選挙で当選後、政務調査会長を務めている。

チームみらいが技術政党から総合政党へ発展するには、行政実務、医療、介護、社会保障などを理解する人材が必要である。

古川氏の経歴は、技術だけでなく社会政策を扱ううえで一定の強みとなる。

現時点では交代させるべきでない理由

チームみらいは誕生から日が浅く、安野氏の理念と組織が強く結びついている。

党の政策体系、組織文化、地方基盤が固まる前に党首を交代すれば、政党の方向性が不明確になる可能性がある。

古川氏は将来候補ではあるが、現在は安野氏の下で政策実績を蓄積すべき段階である。


日本共産党~山添拓氏は世代交代と組織改革を両立できるか

日本共産党では田村智子氏が委員長を務め、志位和夫氏が議長を務めている。

田村委員長以外の候補としては、山添拓氏が有力である。

山添拓氏を候補とする理由

山添氏は法律、憲法、労働、安全保障などについて、論点を整理して説明できる政治家の一人である。

共産党の政策を、従来の支持層だけでなく、若年層や無党派層へ説明する役割を担える可能性がある。

また、長期間にわたって同じ世代の指導部が中心となってきた党において、世代交代を示す意味もある。

山添氏の課題

日本共産党の課題は、委員長一人を若返らせれば解決するものではない。

党内の意思決定、異論の扱い、党員減少、他党との協力、安全保障政策、企業政策などについて、組織全体の見直しが必要になる。

若い指導者を就任させても、従来の意思決定構造が変わらなければ、党の外部からは実質的な変化と評価されにくい。

日本共産党に必要な党首像

共産党に必要なのは、理念を薄める人物ではない。

平和、人権、労働、格差是正という理念を維持しながら、異論を認め、政策変更の過程を公開し、他党と現実的な協議ができる人物である。

山添氏にはその可能性があるが、党首交代と組織改革を一体で行えるかが問われる。


れいわ新選組~山本譲司新代表を中心に、党そのものを再構築する段階に入った

れいわ新選組については、前稿の評価を全面的に改める必要がある。

2026年7月31日に行われた代表選挙では、山本譲司衆議院議員が新代表に選出された。

党の公式活動では「山本ジョージ」の表記も用いられているが、山本譲司氏と同一人物である。

代表選には山本氏、阪口直人前衆議院議員、石井れいこ三鷹市議会議員が立候補し、山本氏が過半数を得た。新代表は、地域の問題を吸い上げて政策を作る、ボトムアップ型の党運営を掲げている。

大石あきこ氏を次期代表候補とする評価が適切でない理由

大石あきこ氏は、山本太郎氏の下で共同代表や政策責任を担った人物である。

しかし、党首候補として評価するには、発信力や支持者への訴求力だけでは不十分である。

党内の異論をまとめる力、他党との政策協議、組織の混乱への対応、選挙結果に対する責任、党外の人々への説明力が必要になる。

れいわ新選組は、令和8年2月の衆議院選挙で山本譲司氏一人の当選にとどまった。党公式の選挙結果でも、比例南関東ブロックの山本氏一人の当選が示されている。

この結果を踏まえれば、従来の執行部の延長線上で党を立て直すより、党運営の原理そのものを再検討する必要がある。

新代表選挙で山本譲司氏が選ばれたことは、党員や構成員が従来とは異なる指導者像を選択した結果と見るべきである。

したがって、現時点で大石氏を代表候補として推す合理性は乏しい。

山本太郎氏の辞任と、れいわの転換点

山本太郎氏は、健康上の問題などを理由として代表辞任と政界引退を表明した。

辞任会見では、自身が代表でなくても党が動く仕組みづくりを進めてきたと説明している。

れいわ新選組は、山本太郎氏の演説力、知名度、個人的な求心力によって成長した政党である。

その功績は大きい。

一方で、代表個人への依存が強かったため、代表の健康問題や活動縮小が、そのまま党全体の危機につながった。

山本譲司新代表に求められるのは、山本太郎氏の話し方や政治手法を再現することではない。

山本太郎氏が一人で担っていた役割を、複数の責任者へ分けることである。

山本譲司氏を評価するうえで避けて通れない過去

山本譲司氏は、過去に秘書給与をめぐる事件で有罪判決を受け、服役した経歴を自ら公表している。

党の公式プロフィールでも、その過去を隠さず、服役中に高齢者や障害者の置かれた状況を知り、その後の福祉活動や更生支援へつながったと説明している。

この経歴をどのように評価するかは慎重でなければならない。

過去に有罪判決を受けたという事実は、政治家として軽視できない。

公金や政治活動に関する不正であれば、特に説明責任が問われる。

一方で、刑を終えた人物が、その経験を基に福祉、更生支援、再犯防止へ取り組むことまで否定すべきではない。

法治国家では、刑を終えた人物の社会復帰も重要な原則である。

したがって、山本氏を評価する際には、過去を隠していないか、責任を認めているか、その後の活動に一貫性があるか、新たな不正がないかを確認すべきである。

過去の一件だけで永久に排除することも、現在の福祉活動を理由に過去の責任を消すことも、どちらも適切ではない。

山本譲司新代表に期待できる点

第一に、福祉や社会的孤立を、理念ではなく現場経験から語れることである。

山本氏は、服役経験や更生支援活動を通じて、刑務所、高齢者、障害者、出所者などの問題に関わってきた。

れいわ新選組が従来掲げてきた「弱い立場の人を切り捨てない」という理念を、より具体的な福祉政策へ発展させられる可能性がある。

第二に、地域の問題を吸い上げるボトムアップ型の党運営を表明していることである。

山本太郎氏の街頭演説を中心とする党から、地方議員、党員、当事者団体、地域組織が政策形成に関わる党へ変わるなら、組織としての持続性は高まる。

第三に、個人中心型の政党から制度中心型の政党へ移行する機会になることである。

山本譲司新代表の重大な課題

第一に、党の信頼回復である。

山本氏自身の過去に加え、党勢の縮小、離党者、内部対立、山本太郎氏への依存など、複数の問題を抱えている。

新代表は、批判を敵意として退けるのではなく、党内外からの検証を受け入れなければならない。

第二に、消費税廃止や積極財政を、標語ではなく制度として説明することである。

山本氏は代表就任時、消費税廃止を引き続き訴える考えを示した。

しかし、消費税を廃止するなら、地方消費税を含む税収減をどう補うのか。

社会保障財源をどう確保するのか。

供給力が不足する局面で物価にどう影響するのか。

国債発行をどこまで許容するのか。

これらを具体的に説明する必要がある。

第三に、攻撃的な政治文化を改めることである。

れいわ新選組の一部の発信では、政府、他党、報道機関、批判者を強い言葉で非難する傾向が見られた。

支持者を熱狂させることはできても、他党との法案協議や幅広い有権者の信頼にはつながりにくい。

山本新代表が掲げるボトムアップ型運営が本物であるなら、党内の反対意見や批判者の声も政策へ反映しなければならない。

第四に、山本太郎氏の影響力との関係を整理することである。

創設者への敬意は必要である。

しかし、新代表の決定が常に前代表の意向によって左右されるなら、代表交代は形式的なものになる。

れいわ新選組に必要な再構築

れいわ新選組を倫理的・論理的に再構築するには、少なくとも次の改革が必要である。

1.責任と権限を明確にする

代表、幹事長、政策責任者、国会対策責任者、選挙責任者の権限を分ける。

誰が何を決めたのかを公開する。

2.代表選挙と役員選任を定例化する

代表交代が危機時だけに行われるのではなく、一定期間ごとに党員が選択できる仕組みにする。

3.政策の費用と副作用を示す

消費税廃止、給付、社会保障拡充などについて、利益だけでなく、財源、物価、地方財政、実施時期を明示する。

4.党内の異論を認める

政策に反対した議員や党員を敵視せず、少数意見を記録する。

5.個人攻撃を禁止する

政府や他党への批判は、政策、法案、予算、発言記録に限定する。

支持者による過度な攻撃にも明確な態度を示す。

6.地方議員と当事者の声を政策へ反映する

ボトムアップを掲げるなら、地域組織から提出された意見が、どのように政策へ反映されたかを公開する。

れいわ新選組の現段階の評価

れいわ新選組については、もはや「現職代表以外なら誰がよいか」を論じる段階ではない。

山本譲司氏が2026年7月31日に新代表へ選ばれた直後であり、まずその運営を検証すべき段階である。

したがって、本稿の結論は次のようになる。

れいわ新選組では、新たな代替候補を探すより、山本譲司新代表がボトムアップ型運営、政策の具体化、組織の透明化、攻撃的文化の修正を実行できるかを見極めるべきである。

山本氏がこれらを実現できなければ、代表交代は人物の入れ替えにとどまる。

実現できれば、山本太郎氏の個人的求心力に依存した政党から、制度によって存続できる政党へ移行する転機となる。


社会民主党~大椿ゆうこ氏は党の世代交代を担えるか

社会民主党では、令和8年4月の党首選挙で福島みずほ氏が再選された。

再選挙では、福島氏が2364票、大椿ゆうこ氏が1792票を獲得している。

現職以外の候補としては、大椿氏が最も自然である。

大椿ゆうこ氏を候補とする理由

大椿氏は党首選で相当数の支持を得ており、党内で実際に後継候補として認められた人物である。

非正規雇用や労働問題に取り組んだ経験があり、社民党の労働、人権、社会保障という理念との整合性もある。

大椿氏の課題

社民党の問題は、党首を交代すれば解決するものではない。

国会議員数、地方組織、資金、候補者育成、政策立案人材が不足している。

また、令和8年の党首選後の記者会見では、大椿氏らへの発言機会をめぐって会見運営が問題となり、福島党首が配慮不足を謝罪した。

少数意見や党内対立をどう扱うかは、社民党自身が掲げる民主主義や人権の理念にも関わる。

社民党に必要な党首像

社民党には、福島氏の知名度に依存する状態から脱し、地方議員、労働運動、若い党員を結びつける人物が必要である。

大椿氏は候補となるが、党内対立を激化させるのではなく、世代交代を組織再建へつなげられるかが問われる。


日本保守党~有本香氏は候補になり得るが、党首交代だけでは個人依存は解消しない

日本保守党では百田尚樹氏が代表・創設者、有本香氏が事務総長を務めている。

現職代表以外から選ぶ場合、組織運営を担う有本香氏が候補になる。

有本香氏を候補とする理由

有本氏は事務総長として、党務、候補者、組織運営に深く関与している。

百田氏の知名度だけでなく、実際の政党運営を理解している人物という点では、後継候補として自然である。

有本氏の課題

日本保守党は、百田氏と有本氏の二人への依存が強い。

代表を百田氏から有本氏へ交代しても、少数の創設者に権限が集中する構造が変わらなければ、組織政党への移行にはならない。

また、保守的な価値観を語るだけでなく、財政、社会保障、医療、地方経済、農業、外交を総合的に扱う政策体制が必要になる。

日本保守党に必要な党首像

日本保守党に必要なのは、百田氏と同じ言葉を使う人物ではない。

保守理念を法案、予算、行政制度へ変換し、党内に複数の政策責任者を育てられる人物である。

有本氏は候補となるが、個人中心型の組織を制度中心型へ変えられるかが評価の中心となる。


各党に共通する最大の課題~代表個人への依存

現在の日本の政党には、代表個人の知名度や発信力に依存する傾向がある。

国民民主党は玉木雄一郎氏。

参政党は神谷宗幣氏。

チームみらいは安野貴博氏。

れいわ新選組は長く山本太郎氏。

日本保守党は百田尚樹氏。

こうした人物の発信力が、政党の成長に貢献したことは否定できない。

しかし、その人物が離れたときに党が機能しなくなるなら、政党として成熟しているとはいえない。

成熟した政党には、少なくとも次の機能が必要である。

  • 党の理念を説明する代表
  • 政策を設計する責任者
  • 国会を運営する責任者
  • 選挙と候補者育成を担う責任者
  • 地方組織をまとめる責任者
  • 財政、法令、統計を検証する専門組織
  • 代表に反対意見を述べられる幹部

最も優れた党首とは、自分以外の有能な政治家を排除する人物ではない。

自分が退任しても機能する政党を残す人物である。

令和8年の日本に必要な党首の共通条件

第一に、利益だけでなく費用を説明できること

減税、給付、防衛、教育、医療、公共交通、社会保障には費用が伴う。

誰が利益を得るのかだけでなく、誰が負担するのかを説明できなければならない。

第二に、支持者以外へ説明できること

支持者だけを喜ばせる政治家は、党内の人気者にはなれても、国全体を率いることはできない。

反対する有権者の疑問に答えられる人物が必要である。

第三に、誤りを修正できること

一度示した政策を絶対に変えないことが、信念の強さとは限らない。

事実や環境が変われば、政策も修正する必要がある。

第四に、地方の生活基盤を理解していること

大都市では市場で維持できるサービスも、人口減少地域では維持できない。

病院、学校、鉄道、バス、上下水道、介護などを、採算性だけで判断しない人物が必要である。

第五に、党内の異論を排除しないこと

党首の意見に反対した議員を敵視する政党は、政策の誤りを修正できない。

少数意見を記録し、議論できる組織が必要である。

総合評価

現職党首以外を前提にした場合、現段階の候補は次のように整理できる。

自由民主党では小林鷹之氏。

中道改革連合では岡本三成氏。

国民民主党では榛葉賀津也氏。

参政党では吉川里奈氏。

日本共産党では山添拓氏。

社会民主党では大椿ゆうこ氏。

日本保守党では有本香氏。

日本維新の会は、現在の代表・共同代表を除く明確な全国党首候補がまだ育っていない。

チームみらいでは古川あおい氏が将来候補になり得るが、現時点で安野貴博氏を交代させる合理性は低い。

れいわ新選組では山本譲司氏が2026年7月31日に新代表へ選ばれたばかりであり、次の候補を探す段階ではない。

山本新代表が、党の透明化、ボトムアップ型運営、財源を含む政策説明、個人依存からの脱却を実現できるかを検証すべき段階である。

結論~望ましい党首は、支持者を最も熱狂させる人物ではない

党首は、政党で最も有名な人物である必要はない。

最も攻撃的な人物でも、最も交流サイトで拡散される人物でもない。

必要なのは、党の理念を政策へ変え、費用を説明し、異論を調整し、他党と交渉し、誤りを修正できる人物である。

また、現職党首以外の名前を挙げること自体が目的であってはならない。

代替候補が育っていないなら、その事実を指摘すべきである。

新代表が選ばれた直後なら、その人物の実績を確認するべきである。

現職が党の発展に必要なら、交代を急ぐべきではない。

れいわ新選組の代表交代は、この問題を象徴している。

山本太郎氏の強い個人的求心力によって成長した党が、山本譲司新代表の下で、制度と組織によって存続できる党へ変われるのか。

これは、れいわ新選組だけの問題ではない。

日本のすべての政党に共通する課題である。

党首交代が政党の危機になるのではなく、党首交代によって政策と組織が更新される。

そのような政党が増えることが、議会制民主主義を安定させるために必要なのである。

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はじめに~本稿は個人攻撃を目的とするものではない

本稿は、高市早苗首相の人格、性別、家族、容姿、支持者などを批判するものではない。

令和8年7月31日時点で確認できる国会会議録、政府・政党の公式発表、衆参両院の資料、複数の報道を基に、高市首相の国会運営能力を検証することを目的とする。

高市首相の政策に賛成か反対かという問題と、首相として国会を適切に運営できているかという問題は分けて考える。

また、高市首相が安倍晋三元首相の政治的後継を自認、またはその支持基盤を継承していると評価されることについても、思想や政策の類似だけではなく、議会運営、野党との調整、参議院への対応、官僚機構の使い方という観点から比較する。

本稿で用いる「稚拙」「軽視」「後継者として不十分」といった評価は、感情的な印象ではなく、可能な限り観察可能な行動から導く。

ただし、政治的力量は自然科学の実験のように完全には証明できない。

そこで本稿では、事実を次の五つの評価軸に分ける。

  1. 国会への説明責任
  2. 野党との合意形成能力
  3. 参議院と衆参二院制への理解
  4. 官僚機構に対する統制と専門性の活用
  5. 政策実現のための日程管理と結果

この五項目によって、高市首相の国会運営を検証する。

高市首相は強い衆議院基盤を得た

令和8年2月8日の衆議院議員総選挙で、自由民主党と日本維新の会を合わせた与党は352議席を獲得した。

高市首相は選挙後の記者会見で、この結果を重要政策の転換に対する国民の信任と位置づけた。一方で、参議院では与党が過半数を有していないことを認め、「様々な声に耳を傾け、謙虚に」政権運営を行うと述べていた。

令和8年2月18日の首相指名では、衆議院で354票を得た。参議院では最初の投票で過半数に届かず、決選投票によって首相に指名された。

この結果は、高市内閣の政治基盤について二つの異なる事実を示している。

一つは、衆議院では極めて強い多数を持っていることである。

もう一つは、参議院では単独で安定した多数を形成できていないことである。

したがって、高市内閣に求められる国会運営は、衆議院では多数を背景に政策を推進しつつ、参議院では野党を説得し、修正協議を行い、法案ごとに合意を形成するというものであった。

これは高市首相に不利な条件だけではない。

議院内閣制と衆参二院制を理解する首相であれば、参議院との調整能力を示す機会でもある。

衆議院の勝利は、国会全体への白紙委任ではない

高市首相は、衆議院選挙の大勝を自らの政策転換に対する信任として強く位置づけている。

選挙で掲げた政策を実行することは、民主政治の基本である。大勝した政権が、選挙後に公約を放棄する方が問題である。

しかし、衆議院選挙の勝利を、国会審議の結論まであらかじめ決まったものと解釈することはできない。

日本では、首相を国民が直接選ぶ制度は採られていない。

衆議院議員は選挙区や比例代表で選ばれ、有権者の投票理由も一様ではない。高市首相個人への支持、地元候補への支持、経済政策への期待、野党への不信、連立政権への評価など、複数の理由が含まれる。

さらに、参議院議員も国民による選挙で選ばれている。

衆議院選挙が新しいという理由だけで、参議院に表れている民意が無効になるわけではない。

衆参二院制は、異なる時期、異なる任期、異なる選挙制度によって選ばれた二つの議院が、政策を重ねて審議する制度である。

高市首相が衆議院の大勝を強調する一方で、参議院の反対を政策実現の妨害とみなすなら、それは二院制の理解として不十分である。

国会への出席時間は、首相の姿勢を測る一つの指標になる

令和8年の国会では、高市首相の予算委員会などへの出席が少ないことが争点となった。

毎日新聞は、衆参両院の予算委員会集中審議における高市首相の出席時間が合計30時間余りにとどまり、与野党から国会軽視との批判が出たと報じている。

首相の国会出席時間が長ければ、必ず優れた首相であるとは限らない。

外交、安全保障、災害対応、行政全般の統括など、首相には国会以外にも重要な職務がある。各省の専門的事項については、担当大臣が答弁する方が適切な場合も多い。

したがって、単純に「出席時間が短いから失格」と結論づけることはできない。

一方、予算の基本方針、内閣全体の政策、衆議院解散の判断、重要な制度改革、首相自身の政治姿勢については、担当大臣だけでは答えられない。

これらの論点についてまで首相出席を抑制すれば、議院内閣制における内閣の国会責任が弱まる。

令和8年7月17日の参議院予算委員会では、野党議員から国会出席の少なさを問われ、高市首相は国会出席自体を嫌っているわけではないという趣旨で答えている。

問題は、首相が国会を嫌っているかどうかではない。

首相にしか説明できない問題について、必要な時間を確保したかどうかである。

本人の主観ではなく、実際の出席、答弁、資料提出、再質問への対応によって評価する必要がある。

「国会運営は国会が決める」という説明の限界

令和8年度予算審議において、高市首相は「国会の運営については国会でお決めいただくこと」と答弁した。

同時に、国民生活に支障を生じさせないため、野党にも協力を求め、予算の年度内成立を目指す考えを示した。委員会への出席については、「お呼びがあれば私は参ります」と述べている。

国会の委員会日程を国会自身が決めるという説明は、制度上は正しい。

しかし、現実の国会では、政府提出法案の提出時期、優先順位、首相や閣僚の出席可能日、与党の採決方針などに内閣と与党が大きな影響を持つ。

したがって、国会運営が混乱したときに、「国会が決めること」と述べるだけでは、首相としての政治的責任を十分に説明したことにはならない。

首相が強い衆議院基盤を政策推進の根拠にするのであれば、その日程管理と合意形成についても責任を負うべきである。

政策を進める局面では首相主導を強調し、審議日程が問題になると国会の自主性を持ち出すなら、権限と責任の関係が不均衡になる。

野党軽視と評価できるのか

高市内閣が野党を完全に無視していると断定することはできない。

高市首相は公式には、野党に協力を求め、様々な声に耳を傾けると繰り返している。党首討論や予算委員会にも出席している。

したがって、「野党とは一切対話していない」という批判は事実に反する。

しかし、野党への配慮は、会談や答弁の回数だけで測るものではない。

重要なのは、野党の指摘によって政府案が修正されたか、審議時間が確保されたか、資料が提出されたか、採決前に合意形成が試みられたかである。

令和8年夏の国会では、衆議院比例代表の定数削減法案や副首都構想に関する法案を巡り、野党が欠席する中で与党側が審議を進めたとして、複数の報道機関や公明党関係者から強引な運営との批判が出た。特に、連立政権内の合意を国会に押しつけているとの指摘が紹介されている。

議員定数や選挙制度は、現在の多数派だけに影響する問題ではない。

将来の政党間競争、少数政党の議席、地域代表、民意の反映方法に関わる。

この種の制度変更を、与党内の連立合意を根拠に短期間で進めることは、通常の政策法案以上に慎重でなければならない。

高市内閣が野党の出席を待たずに審議を進めたこと自体は、国会規則上直ちに違法という意味ではない。

しかし、制度変更の性質を考えれば、政治的には合意形成が不十分だったと評価できる。

したがって、「野党軽視」という評価には一定の根拠がある。

ただし、野党側にも、審議拒否や日程闘争を政策内容の検討より優先していなかったかという検証が必要である。

野党が反対するだけで、具体的な修正案や代替案を示さなかった場合には、野党も責任を免れない。

参議院軽視と評価できるのか

参議院軽視を判断するには、三つの要素を見る必要がある。

第一は、参議院の審議時間を十分に確保したか。

第二は、参議院で与党が過半数を持たない状況を踏まえ、事前の協議を行ったか。

第三は、参議院の修正や警告を政策へ反映したかである。

高市首相自身は、衆議院選挙後の会見で、参議院では与党が過半数を持たないことを明確に認め、野党の協力を求めると述べていた。

ところが、実際の国会運営では、衆議院での大きな多数を背景に審議を先行させ、参議院側に限られた時間で処理を求める形になったとの批判が出ている。

衆議院の優越が認められている事項はある。

予算、条約、首相指名では、衆議院の意思が参議院より強く扱われる。

しかし、衆議院の優越は、参議院審議を形式化してよいという意味ではない。

むしろ、憲法が衆議院の優越を個別に定めていることは、それ以外の領域では参議院の意思が独立した意味を持つことを示している。

高市首相の国会運営が、参議院を「衆議院で決めた内容を最終的に通過させる場所」として扱っていたなら、二院制への理解は浅いと評価せざるを得ない。

参議院で与党が過半数を持たないことは、異常事態ではない。

首相に対し、説得、修正、協議を求める政治的条件である。

それを煩わしい制約とみなすか、合意形成の機会とみなすかによって、首相の議会政治家としての力量が表れる。

財務省軽視という評価は、慎重に扱う必要がある

高市首相は「責任ある積極財政」を掲げ、従来の財政再建路線に批判的な経済学者や元日本銀行関係者を政府の会議に起用した。

ロイターは、高市政権が積極財政論者を経済財政諮問会議などに登用し、財務省内に警戒感が生じていると報じている。一方、民間エコノミストからは景気下支えを期待する評価と、金利上昇や円安、財政拡大への歯止めが弱くなるとの懸念の双方が示されている。

ここから確認できるのは、高市首相と財務省の政策的な緊張である。

しかし、これだけで「財務省を軽視している」と断定することはできない。

財務省の見解は、選挙で選ばれた政府が必ず従わなければならない絶対的な答えではない。

財政政策の最終的な決定責任は、官僚ではなく内閣と国会にある。

財務省の財政規律重視に対し、首相が異なる経済理論を採用すること自体は、政治主導として正当である。

問題となるのは、財務省と異なる意見を採用したことではない。

反対意見を十分に検討したか。

金利、物価、為替、国債費、将来の利払い負担について数量的な試算を示したか。

積極財政論者だけでなく、財政規律を重視する専門家も意思決定に参加させたか。

政策が想定どおりに機能しなかった場合の修正基準を設けたか。

これらが重要である。

高市政権が財務省の権限を相対化し、異なる専門家を登用したことは、直ちに問題ではない。

しかし、自らに近い理論だけを選び、反対方向のリスク分析を排除した場合には、科学的な政策形成とはいえなくなる。

現時点の公開情報だけでは、「財務省を軽視した」と断定するより、「財務省の従来路線に対抗する人事と政策枠組みを作った」と表現する方が正確である。

数十年の議員経験は、首相としての力量を保証するか

高市早苗氏は長年にわたり国会議員を務め、複数の閣僚や党役職を経験してきた。

しかし、経験年数と政治的能力は同じではない。

経験年数が長ければ、制度、法案、官僚組織、党内調整に関する知識は一般に増えると考えられる。

一方で、経験が同じ行動様式を強化し、異なる意見への対応を硬直化させる場合もある。

したがって、「数十年議員を務めたのだから、必ず優れた首相になる」という推論は成り立たない。

評価すべきなのは経験年数ではなく、経験から行動が改善したかである。

具体的には、次の点を確認すべきである。

  • 過去の国会混乱から日程管理を学んだか
  • 野党時代に求めていた説明責任を、自らが政権を持った後も守っているか
  • 閣僚経験を通じて、官僚の専門性と政治主導を両立できるようになったか
  • 少数与党や参議院のねじれに対応する協議能力を身につけたか
  • 批判を政策修正へ結びつけているか

令和8年国会で、重要法案の審議が会期末に集中し、首相出席を巡って審議が停滞し、野党欠席下で審議を進める場面が生じたとすれば、長い議員経験が十分な合意形成能力へ転化していない可能性がある。

ただし、一つの国会だけで「何も学んでいない」と断定するのも過剰である。

高市首相が長年の経験から何を学んだかは、本人の内面なので直接確認できない。

客観的にいえるのは、その学びが国会運営の結果として十分に表れていない場面があるということである。

安倍晋三元首相との比較は慎重でなければならない

高市首相は、政策思想、安全保障観、憲法観、積極財政などの点で、安倍晋三元首相の政治的路線を継承する人物として支持されてきた。

しかし、政治的後継者であるかどうかは、思想が似ているだけでは決まらない。

首相としての後継者を名乗るのであれば、選挙戦略、党内統治、官僚統制、外交、野党対応、参議院との関係など、政権運営全体が比較対象になる。

安倍氏も、常に国会を尊重し、野党との合意を重視した首相だったとはいえない。

安倍政権では、安全保障関連法、特定秘密保護法、共謀罪などを巡って、審議の強行や説明不足への厳しい批判があった。

したがって、「安倍氏は常に熟議型で、高市氏だけが強権的である」という比較は正確ではない。

一方、第2次安倍内閣の発足直後には参議院で与党が過半数を持たない、いわゆるねじれ状態が存在した。安倍政権は、平成25年7月の参議院選挙で与党が多数を得るまで、参議院の構成を前提に政権を運営しなければならなかった。安倍氏が長期政権を維持できた背景には、選挙の勝利だけでなく、党内調整、連立相手である公明党との関係、官僚機構の統制、政策の優先順位づけがあった。安倍氏の通算在職期間は憲政史上最長となった。

高市首相と安倍氏の違いとして注目すべきなのは、思想の純度ではなく、政治的な幅である。

安倍氏は強い保守的理念を持ちながらも、政権維持のために公明党、党内各派、官僚、経済界などとの調整を行った。

政策のすべてを一度に実現しようとせず、優先順位をつけ、選挙日程や政権基盤を見ながら進めた。

高市首相が、安倍氏の政策的主張だけを継承し、調整、譲歩、優先順位づけという政権運営の技術を十分に継承していないのであれば、安倍政治の一部分だけを受け継いでいることになる。

「似非安倍後継者」という表現は妥当か

「似非安倍晋三の後継者」という表現は、政治評論として刺激的ではあるが、客観的な分析用語ではない。

「似非」には、本物を装った偽物という人格的な含意がある。

高市首相が意図的に安倍氏を偽装しているという事実は確認できない。

したがって、事実に基づく記事では、この表現を結論として使用することは適切ではない。

より正確な表現は、次のようになる。

「高市首相は安倍氏の政策的理念を継承しているが、安倍政権を支えた合意形成、党内統治、連立調整、参議院対応まで継承できているかには疑問が残る」

これは人格攻撃ではなく、政治的能力の比較である。

安倍氏の後継を評価するなら、安倍氏と同じ言葉を使っているかではなく、安倍氏が実際に行った政権運営を再現できているかを見るべきである。

後継者とは、標語を受け継ぐ人ではない。

理念を現実の制度の中で実行可能な政策に変換できる人である。

数理的な評価枠組み

政治的力量を完全に数値化することはできない。

しかし、評価基準を明示することで、感情的な判断を減らすことはできる。

本稿では、五つの項目を各20点、合計100点として考える。

1.説明責任

評価対象は、首相出席、答弁の直接性、資料公開、訂正、再質問への回答である。

高市首相は国会へ出席し、答弁も行っているため、ゼロ評価にはならない。

一方、出席時間の少なさや首相出席を巡る審議停滞が確認されており、高得点も与えにくい。

暫定評価は10点から12点程度となる。

2.野党との合意形成

野党との会談や党首討論は行われている。

しかし、重要法案を巡り、野党欠席下で審議が進められたことや、強引な運営との批判が与野党から出ている。

暫定評価は7点から10点程度となる。

3.参議院への対応

高市首相は、参議院で与党が過半数を持たないことを認識し、協力を求めている。

一方、衆議院で決めた日程や法案を参議院に処理させる構図が強まり、参議院の独自性を十分に生かしたとは評価しにくい。

暫定評価は7点から10点程度となる。

4.官僚機構と専門性の活用

財務省の従来路線に異論を持つ専門家を登用したことは、政治主導と政策選択の多様化として評価できる。

一方、積極財政の副作用に対する検証が十分かは継続的に確認する必要がある。

暫定評価は11点から14点程度となる。

5.政策実現と日程管理

衆議院で強い基盤を築き、政策実現を推進する能力はある。

しかし、国会日程の混乱、重要法案の会期末集中、野党との対立による審議停滞は減点要素になる。

暫定評価は9点から12点程度となる。

合計すると、44点から58点程度になる。

これは、高市内閣が機能していないという意味ではない。

政策推進力と人事主導は認められる一方、議会運営、合意形成、参議院対応に明確な弱点があるという評価である。

なお、この得点は科学的に証明された絶対値ではない。

評価基準と根拠を公開し、異なる評価者が修正できるようにした分析上の目安である。

高市首相を支持する側から考えられる反論

公平を期すため、高市首相を支持する側の反論も検討する必要がある。

第一に、野党が首相出席を過度に要求し、政策審議を政局化しているという反論がある。

確かに、担当大臣で回答できる内容まで首相出席を求めれば、行政全体の効率が低下する。野党が同じ質問を繰り返したり、審議拒否を交渉手段として常態化させたりする場合には、野党にも責任がある。

第二に、衆議院選挙で圧倒的な信任を得た以上、政策を迅速に実行することが民主的責任だという反論がある。

これも一定の合理性がある。

選挙で公約を掲げて勝利した政権が、野党の反対を理由に何も実施しなければ、選挙結果が政策へ反映されない。

第三に、財務省への対抗は、官僚主導を改めるために必要だという反論がある。

財務省の財政規律論が常に正しいわけではない。経済成長、物価、雇用、災害対応、安全保障などを考えれば、積極財政が合理的な時期もある。

これらの反論は無視できない。

しかし、政策の迅速な実行と国会審議の軽視は同じではない。

政治主導と専門家の排除も同じではない。

首相出席の効率化と説明責任の縮小も同じではない。

高市首相を擁護する場合にも、この区別が必要である。

客観的な総合評価

令和8年7月31日時点で、高市首相について確認できるのは、次のような姿である。

衆議院選挙で大きな勝利を得て、強い政策推進基盤を築いた。

自らの経済・安全保障・国家観を明確にし、従来の政策路線を転換しようとしている。

財務省を含む官僚機構に対し、政治主導を強めようとしている。

この点では、方向性の明確な首相である。

一方、国会運営では、首相出席、野党との協議、重要法案の日程管理、参議院との合意形成に問題が表れている。

特に、衆議院の大きな多数を、政策実現の根拠として強く使う一方、参議院で与党が過半数を持たないという別の民意への対応が十分とはいえない。

高市首相の弱点は、理念がないことではない。

むしろ、理念が強い一方で、それを異なる立場の議員や国民が受け入れられる制度へ変換する政治技術が追いついていないことにある。

数十年の国会議員経験が、政策知識や発信力としては蓄積されている。

しかし、それが首相として必要な譲歩、調整、優先順位づけ、参議院対応へ十分に結びついているかには疑問が残る。

安倍晋三元首相の後継という点でも、政策思想の継承は明確である。

一方、安倍氏が長期政権の中で示した党内統治、連立調整、官僚統制、選挙戦略、政策の優先順位づけまで継承できているとは、現時点では評価しにくい。

したがって、高市首相を「安倍氏の偽物」と人格的に揶揄することは適切ではない。

しかし、「安倍路線の理念は継承しているが、安倍政権の統治技術までは継承できていない」という批判は、一定の事実的根拠を持つ。

結論~強い理念だけでは、首相の力量は完成しない

高市早苗首相は、政治的な方向性が明確であり、選挙で強い衆議院基盤を獲得した。

その事実は正当に評価すべきである。

財務省の方針に無条件で従わず、異なる経済理論を政策へ取り入れようとする姿勢も、それ自体は民主政治における政治主導の一形態である。

しかし、首相の力量は、政策を強く主張する能力だけでは測れない。

反対する野党を説得できるか。

参議院の独自性を尊重できるか。

自分に不利な質問にも答えられるか。

専門家の反対意見を政策へ取り込めるか。

法案を会期内に成立させるため、余裕を持った日程を組めるか。

必要なら修正や撤回を受け入れられるか。

これらが首相としての統治能力を構成する。

高市首相の国会運営には、強い衆議院基盤に依存しすぎ、参議院や野党との合意形成を政策実現の中心に置いていないように見える場面がある。

これは、単なる野党側の不満ではない。

議院内閣制と衆参二院制の下で首相を務める以上、制度上の弱点になり得る。

現時点での客観的評価は、次のようにまとめられる。

高市首相は、理念、発信力、選挙動員、政策転換の意思では強い。

一方、国会調整、少数意見への対応、参議院との関係、重要法案の日程管理では、首相として未成熟な部分を示している。

安倍晋三元首相の後継を評価するなら、安倍氏の政策的言葉を繰り返すだけでは足りない。

安倍氏が長期政権を維持するために身につけた現実的な調整力、優先順位づけ、連立運営、異なる勢力を政権内に取り込む技術まで継承できるかが問われる。

高市首相が今後、参議院と野党を障害ではなく、政策を検証し改善する相手として扱えるか。

財務官僚を敵視するのではなく、異論を含む専門知を政策へ統合できるか。

衆議院の多数を、押し切る力ではなく、より丁寧に説明する責任として使えるか。

それができなければ、高市首相は安倍政治の理念的後継者ではあっても、統治能力を含む実質的な後継者とは評価されにくい。

逆に、この弱点を認識して国会運営を修正するならば、長年の議員経験が首相としての学びへ転化したと評価できる。

結論は、今後の行動によって変わり得る。

それこそが、人物への好き嫌いではなく、反証可能な事実に基づいて政治家を評価するということである。

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インターネットやSNS(Social Networking Service・交流サイト)の普及によって、誰でも情報を発信できるようになった。

新聞社や放送局に所属する記者だけでなく、フリーランスの記者、映像配信者、評論家、著述家、市民記者、専門分野の解説者など、多様な発信者が政治や社会問題を扱っている。

情報発信の主体が広がったことには、大きな意味がある。

大手報道機関が取り上げない問題が可視化され、地域の小さな事件や少数者の声が社会へ届く可能性が高まった。組織に所属しない記者が、既存の報道機関とは異なる視点から権力を監視することもできる。

一方で、「ジャーナリスト」という名称には、公的な資格制度も免許制度もない。

本人がジャーナリストを名乗れば、形式上はその肩書を使用できる。新聞社や放送局に所属しているからといって、優れたジャーナリストであることが保証されるわけでもない。

したがって、「本物か偽物か」を所属先や知名度だけで判断することはできない。

重要なのは、その人物が何を名乗っているかではなく、どのような方法で情報を集め、どの程度検証し、どのように質問し、どのような責任を負っているかである。

「真のジャーナリスト」という資格は存在しない

最初に確認すべきことは、「真のジャーナリスト」と「似非ジャーナリスト」を客観的に区切る公的資格が存在するわけではないということである。

大学でジャーナリズムを学んでいるか。

新聞社やテレビ局に所属しているか。

記者クラブに加入しているか。

著書があるか。

交流サイトのフォロワーが多いか。

記者会見で何度も質問しているか。

これらは、その人の経歴や活動形態を示す材料にはなる。しかし、それだけでは報道の正確性、独立性、公正性、検証能力を証明できない。

大手報道機関に所属していても、誤報や偏った報道をすることはある。

フリーランスであっても、長期間の調査と複数の証拠によって重要な事実を明らかにすることがある。

逆に、権力に対して強い口調で質問しているからといって、質問内容が正確とは限らない。

穏やかな口調だからといって、追及が弱いとも限らない。

したがって、本稿では「真のジャーナリスト」を、特別な称号を持つ人とは定義しない。

次のような行動を継続して実践する人を、職業倫理上の意味で優れたジャーナリストと考える。

  • 事実を確認してから報じる
  • 自分の仮説に不利な情報も調べる
  • 事実と意見を区別する
  • 情報源の信頼性を評価する
  • 権力から独立している
  • 取材対象者の権利や安全に配慮する
  • 誤りが判明した場合は訂正する
  • 読者に検証可能な根拠を示す
  • 質問を自己表現の場にしない
  • 自分自身の判断も疑う

これらは完全に達成できるものではない。

重要なのは、間違わないことではなく、間違いを減らす仕組みを持ち、間違ったときに修正する姿勢を備えていることである。

ジャーナリズムの本質は「権力への反対」だけではない

ジャーナリズムの役割として、権力の監視が挙げられる。

政府、自治体、警察、裁判所、大企業、政党、業界団体など、大きな権限や資金を持つ組織の活動を検証することは、民主主義社会に不可欠である。

日本新聞協会の新聞倫理綱領も、国民の「知る権利」を民主主義社会を支える原理と位置づけ、権力から独立したメディア、正確で公正な記事、責任ある論評を重視している。

しかし、「権力を批判すること」と「ジャーナリズム」は同義ではない。

政府の説明に合理性がある場合まで否定することは、権力監視ではなく、結論ありきの批判である。

反対に、政府発表をほとんど検証せずに伝えるだけなら、報道ではなく広報に近づく。

ジャーナリズムの本質は、権力に賛成することでも、反対することでもない。

確認可能な事実を集め、権力者の説明と実際の状況を比較し、相違があれば明らかにすることである。

政府が正しい場合には正しいと報じる。

政府に誤りがある場合には根拠を示して批判する。

野党、市民団体、企業、労働組合、活動家についても、同じ基準で検証する。

誰を支持しているかではなく、何が事実であるかを優先することが、ジャーナリズムの基本である。

ジャーナリストの力量は四つの段階で評価できる

ジャーナリストの能力は、文章のうまさや発言の強さだけでは測れない。

少なくとも、次の四段階に分けて評価する必要がある。

第一段階~情報を入手する力

最初に必要なのは、情報を見つける力である。

公開資料を調べる。

法令、予算書、決算書、議事録、統計、裁判記録、企業開示資料を確認する。

当事者、専門家、行政機関、反対する立場の人に取材する。

現場へ行き、自分の目で状況を見る。

情報提供者との関係を築く。

単に交流サイトで話題になっている投稿を見つけることは、取材の出発点にはなり得るが、それだけでは取材を終えたことにはならない。

優れた記者は、公開情報だけでなく、情報が欠けている場所を見つける。

何が説明されていないのか。

どの資料が公開されていないのか。

どの当事者の声が報道から抜け落ちているのか。

そこに取材の価値がある。

第二段階~情報を検証する力

入手した情報が正しいとは限らない。

情報提供者は、誤解しているかもしれない。

自分に有利な部分だけを話しているかもしれない。

文書は本物でも、内容が古い可能性がある。

映像は本物でも、撮影日時や場所が違う可能性がある。

統計は正確でも、比較方法に問題がある場合がある。

そのため、複数の情報源で確認する必要がある。

人物の発言なら、発言全文や録画を確認する。

政策なら、法案、予算、政府資料、議事録を確認する。

企業問題なら、決算資料、登記、契約、行政処分、裁判資料を確認する。

一つの匿名情報だけで重大な疑惑を断定しない。

確認できないことは「確認できない」と書く。

推測は推測として示す。

国際的な報道倫理でも、真実の追求、被害の最小化、独立性、説明責任と透明性が中心原則とされている。SPJ(Society of Professional Journalists・米国プロフェッショナル・ジャーナリスト協会)の倫理規範も、真実を求めて報じること、害を最小限にすること、独立して行動すること、説明責任と透明性を持つことを掲げている。

第三段階~情報を構造化する力

事実を多数集めても、並べるだけでは報道にならない。

どの事実が重要なのか。

何が原因で、何が結果なのか。

当事者の主張と確認された事実はどこが一致し、どこが異なるのか。

制度上の問題なのか、個人の問題なのか。

例外的な事件なのか、継続的な傾向なのか。

これらを整理する必要がある。

力量の低い発信者は、印象的な一つの出来事から大きな結論を導く。

一人の外国人が犯罪を起こしたことから、外国人全体の犯罪傾向を論じる。

一人の政治家が失言したことから、政党全体の本質を断定する。

一つの病院で問題が起きたことから、医療制度全体が崩壊していると主張する。

これは一般化の誤りである。

反対に、個別事件をすべて例外として扱い、構造的問題を見逃すこともある。

優れたジャーナリストには、個別事例と全体傾向を区別し、それらを適切に結びつける能力が必要である。

第四段階~社会に説明する力

検証結果を読者や視聴者に伝える能力も必要である。

専門用語を並べるだけでは伝わらない。

一方で、分かりやすさを優先して事実を単純化しすぎてもいけない。

事実と意見を分ける。

確定していることと、確定していないことを分ける。

反対意見を紹介する。

記事の結論に不利な事実も隠さない。

読者が自分で判断できる材料を示す。

ここまでできて、初めて取材が公共的な価値を持つ。

「自称ジャーナリスト」に見られやすい問題

誰かを一律に「似非ジャーナリスト」と決めつけることは慎重でなければならない。

その人物のすべての活動を検証せず、肩書や政治的立場だけで断定すれば、それ自体が公正さを欠く。

ただし、報道行為として問題のある特徴を、観察可能な行動から整理することはできる。

結論を決めてから事実を集める

最も大きな問題は、最初から結論を決め、それに合う事実だけを探すことである。

政府を批判したい人が、政府に不利な情報だけを集める。

野党を批判したい人が、野党の失言だけを集める。

特定の企業を告発したい人が、企業側の説明を確認しない。

特定の活動家を擁護したい人が、反対証拠を無視する。

これは調査ではなく、結論を補強する材料集めである。

取材とは、自分の仮説が間違っている可能性も含めて検証する作業である。

情報源を明らかにしない

匿名情報源が必要な場合はある。

内部告発者の身元を明らかにすれば、解雇、報復、訴追、身体的危険などが生じる可能性がある。

しかし、匿名であることと、根拠を示さないことは同じではない。

なぜ匿名が必要なのか。

その人物はどのような立場で情報を知ったのか。

記者はどのように内容を確認したのか。

他の資料と整合しているのか。

これらを可能な範囲で説明する必要がある。

単に「関係者によると」「専門家によれば」と書くだけでは、読者は信頼性を評価できない。

事実と感想を混ぜる

「会見で説明した」は事実である。

「逃げたように見えた」は解釈である。

「資料を提出しなかった」は確認可能な事実である。

「国民を軽視している」は評価である。

評価を書くこと自体は問題ではない。

問題は、評価を事実のように提示することである。

力量のある記者は、

「質問に直接答えなかった」

「同じ説明を繰り返した」

「資料の提出を拒否した」

という観察可能な事実を示したうえで、

「説明責任を十分に果たしたとは評価しにくい」

と分析する。

力量の低い発信者は、根拠となる行動を示さず、

「逃げた」

「嘘をついた」

「国民を裏切った」

と断定する。

間違いを訂正しない

誤りは、どの記者にも起こり得る。

速報では情報が不完全な場合がある。

取材対象者が虚偽の説明をすることもある。

公式資料自体が後に訂正されることもある。

したがって、誤りが一度あったという事実だけで、その記者全体を否定することはできない。

重要なのは、誤りが判明した後の対応である。

誤りを明示する。

訂正箇所を分かるようにする。

なぜ誤ったのかを説明する。

同じ誤りを繰り返さない仕組みを作る。

ロイターの報道基準も、誤りを透明な形で訂正すること、偏りを避けて均衡を目指すこと、利益相反を開示することなどを基本としている。

訂正記事を目立たない場所に置く。

元の記事を削除して何も説明しない。

表現だけを変更して、誤報だった事実を認めない。

批判者を攻撃して論点をそらす。

こうした対応は、誤りそのものより信頼を傷つける。

記者会見は記者の自己表現の場ではない

記者会見では、政治家や経営者だけでなく、質問する記者の力量も明確に表れる。

強い言葉で質問したから、有能であるとは限らない。

質問時間が長いから、問題を深く理解しているとも限らない。

何度も食い下がったから、権力を追及できているとも限らない。

記者会見の目的は、記者自身の政治的主張を演説することではない。

社会が知る必要のある情報を、取材対象者から引き出すことである。

未熟な質問に見られる特徴

質問より前置きが長い

記者が自分の認識、批判、感情、歴史観を長時間述べ、最後に短い質問を付ける場合がある。

この形式では、取材対象者がどの部分に答えればよいか分からなくなる。

また、記者自身が注目を集めることが目的ではないかという疑念も生じる。

前提の説明が必要な場合でも、質問に必要な範囲へ絞るべきである。

一度に複数の問題を質問する

一つの発言の中で、外交、経済、政治資金、政党人事などを同時に質問すると、回答者は都合のよい一項目だけに答えられる。

その結果、重要な論点への回答を得られない。

原則として、一つの質問では一つの主要論点に絞るべきである。

質問の前提が確認されていない

「あなたは国民を裏切ったが、どう責任を取るのか」

「この政策が完全に失敗したことを認めるか」

このような質問には、評価が事実として組み込まれている。

政策が失敗したというなら、どの指標が、いつから、どの程度悪化したのかを示す必要がある。

確認されていない前提を置いた質問は、取材ではなく糾弾になる。

回答を聞かずに次の主張へ進む

記者会見では、回答を遮って再質問する必要がある場合もある。

回答者が質問と無関係な説明を続けたり、時間を消費して逃げたりする場合である。

しかし、回答内容を最後まで確認せず、最初から用意した主張を重ねるだけでは、質疑応答にならない。

記者は、相手の回答を聞き、その場で矛盾や不足を判断して再質問する必要がある。

この即応力こそ、会見における重要な力量である。

相手を怒らせることを成果と考える

政治家や経営者が不快感を示した映像は注目を集めやすい。

しかし、相手を怒らせたことと、重要な情報を引き出したことは別である。

質問の成果は、回答者の感情ではなく、得られた情報によって評価すべきである。

同じ質問を言い換えずに繰り返す

回答が不十分な場合、再質問は必要である。

ただし、同じ言葉を繰り返すだけでは、新しい回答を得にくい。

優れた再質問では、

「先ほどの質問は、政策目的ではなく費用を尋ねています」

「賛否ではなく、判断に使った資料名を教えてください」

「法的責任ではなく、政治的責任についてお尋ねします」

というように、答えていない部分を特定する。

優れた記者会見質問の条件

優れた質問は、必ずしも長くない。

むしろ、論点が明確で、回答を検証できる質問ほど短くなる。

例えば、次のような形式である。

「この政策に必要な総費用はいくらですか」

「その数字の根拠となる資料を公開しますか」

「当初の目標と実績が異なった理由は何ですか」

「その事実を初めて知ったのは何月何日ですか」

「最終的な決定者は誰ですか」

「失敗した場合の中止基準はありますか」

「反対意見のうち、どの点を政府案に反映しましたか」

これらの質問には共通点がある。

回答が記録できる。

後から検証できる。

回答を拒否した場合も、その事実が明確になる。

個人的感情を挟まず、政策と責任の所在を確認できる。

日本記者クラブの過去の党首討論会でも、見せかけの激しさや辛辣さではなく、報道機関としての本質的な役割を発揮することが求められ、質問者が事前に綿密な準備を行ったことが記録されている。

ここから分かるのは、鋭い質問とは、その場の思いつきや大声から生まれるものではないということである。

資料を読み、論点を整理し、想定される回答を予測し、その先の再質問まで準備して初めて、短く鋭い質問が可能になる。

記者会見で大声を出すことは、権力監視なのか

回答者が質問を無視する。

会見を一方的に打ち切る。

質問者を不当に排除する。

重要な問題に答えない。

こうした場合、記者が強い態度を取る必要はある。

静かで礼儀正しいことだけが、優れた記者の条件ではない。

権力者が情報公開を拒む場合には、繰り返し質問し、拒否の事実を社会へ伝える必要がある。

しかし、大声そのものには報道上の価値はない。

質問内容が誤っていれば、大声で主張しても誤りである。

質問が長く不明確なら、大声にしても明確にはならない。

他の記者の質問時間を奪えば、結果として会見全体から得られる情報量を減らす。

したがって、記者会見での強い態度は、次の条件によって評価すべきである。

  • 公共性の高い問題か
  • 質問の事実関係は確認されているか
  • 回答者が実際に質問を避けたか
  • 再質問の必要性があるか
  • 他の参加者の取材機会を過度に奪っていないか
  • 強い態度によって新しい情報が得られたか

これらを満たさず、自分の存在感を示すことが中心なら、権力監視ではなく演出に近い。

政治的立場を持つことは、ジャーナリスト失格なのか

ジャーナリストも人間であり、価値観や政治的立場を持つ。

完全に無色透明な人間になることはできない。

社会保障を重視する人もいれば、財政規律を重視する人もいる。

安全保障を重視する人もいれば、人権や平和主義を重視する人もいる。

問題は、立場を持つことではない。

自分の立場に合う事実だけを選び、反対証拠を隠すことである。

意見記事や論評であれば、書き手が立場を明示することはむしろ望ましい。

「私はこの政策に反対する」

「私はこの制度を支持する」

と明示したうえで、根拠を示せばよい。

ただし、事実報道の部分では、立場にかかわらず正確性を守らなければならない。

意見と事実を混ぜないことが重要である。

中立とは、すべての問題で賛否を半分ずつ並べることではない。

根拠の弱い主張と、十分な証拠がある主張を同列に扱うことでもない。

同じ検証基準を、政府、野党、企業、市民団体、自分自身が支持する側にも適用することである。

フリーランスと大手メディアの優劣は単純に決められない

大手報道機関には、組織としての利点がある。

専門記者を配置できる。

法務部門や校閲部門がある。

長期間の調査に資金を投入できる。

全国や海外に取材網を持てる。

複数人による確認ができる。

一方で、組織上の制約もある。

広告主や取引先への配慮。

社内方針。

記者クラブを通じた情報源との近さ。

速報競争。

人事評価。

紙面や放送時間の制限。

こうした要因が取材に影響する可能性がある。

フリーランスには、組織の方針に縛られず、特定の問題を長期的に追える利点がある。

一方で、取材費、法的支援、校閲、複数人確認が不足しやすい。

一人の判断に依存するため、自分の思い込みを修正しにくい場合もある。

したがって、大手かフリーランスかという所属形態だけで力量を判断することはできない。

どちらにも優れた記者と問題のある記者が存在する。

ジャーナリストを評価するための十項目

読者がジャーナリストや報道記事を評価するときは、次の項目を確認するとよい。

1.一次資料が示されているか

発言全文、法令、統計、議事録、契約書、決算書など、元の資料を確認できるか。

2.複数の情報源を確認しているか

一人の証言や一つの記事だけに依存していないか。

3.事実と意見が区別されているか

書き手の評価が、確認された事実のように書かれていないか。

4.反対意見を扱っているか

批判対象者に取材し、説明の機会を与えているか。

5.不利な事実を隠していないか

記事の結論に合わない資料も紹介しているか。

6.断定の強さが証拠に対応しているか

可能性しか示せない段階で、事実と断定していないか。

7.訂正履歴が明確か

過去の誤りを訂正し、その内容を読者に示しているか。

8.利益相反がないか

政党、企業、団体から資金や便宜を受けていないか。ある場合は開示しているか。

9.取材対象者の権利に配慮しているか

公益性の乏しい私生活や家族情報を、不必要に暴いていないか。

10.記事によって何が新たに分かったか

単なる感想、非難、既知情報の再編集ではなく、独自の事実や分析を提供しているか。

この十項目のうち、すべてを完全に満たす記事は少ない。

しかし、継続的に確認すれば、発信者の力量と信頼性を比較できる。

ジャーナリズムと活動家の違い

活動家は、特定の政策や社会変革を実現することを目的とする。

ジャーナリストは、事実を調べ、社会へ伝えることを主な目的とする。

両者は社会的に重要な役割を持つが、目的は異なる。

活動家が、自らの立場を明示して情報発信することは問題ではない。

しかし、政治運動を目的としながら、中立的な報道であるかのように装えば、読者は判断を誤る。

逆に、ジャーナリストが人権侵害や不正を取材した結果、強い問題意識を持つこともある。

そのことだけで活動家になるわけではない。

区別する基準は、結論を実現することが優先されているか、事実の確認が優先されているかである。

取材の結果が自分の期待と異なった場合でも、その結果を報じられるか。

支持する運動に不利な事実も書けるか。

その点に、ジャーナリストとしての独立性が表れる。

ジャーナリズムの本質は、社会の判断材料を増やすことにある

優れた報道は、読者に結論を命令しない。

事実、背景、利害、反対意見、不確実性を示し、読者が自分で判断できるようにする。

もちろん、調査報道では強い結論を示す場合もある。

証拠によって公金の不正使用が確認されたなら、不正と報じるべきである。

人権侵害が立証されたなら、曖昧に表現する必要はない。

しかし、その結論は、記者の怒りの強さではなく、証拠の強さから導かれなければならない。

ジャーナリズムの価値は、誰かを攻撃した回数では測れない。

記者会見で声を荒らげた回数でもない。

交流サイトで拡散された回数でもない。

その報道によって、

隠されていた事実が明らかになったか。

政策判断の根拠が検証できるようになったか。

権力の責任が明確になったか。

弱い立場の人の声が記録されたか。

社会がより正確な判断をできるようになったか。

これによって評価されるべきである。

結論~肩書ではなく、方法と責任がジャーナリストをつくる

真のジャーナリストと自称ジャーナリストを、所属、知名度、政治的立場、話し方だけで区別することはできない。

大手メディアにも誤報はある。

フリーランスにも優れた調査報道がある。

政府に厳しい記者が正しいとは限らない。

政府に穏やかな記者が権力に迎合しているとも限らない。

判断すべきなのは、取材と報道の方法である。

一次資料を確認しているか。

複数の情報源を照合しているか。

自分に不利な事実も報じているか。

取材対象者に反論の機会を与えているか。

事実と意見を区別しているか。

間違いを訂正しているか。

質問によって新しい情報を引き出しているか。

記者会見を自分の演説の場にしていないか。

優れたジャーナリストは、必ずしも派手ではない。

質問は短く、記事は慎重で、断定は証拠の範囲に限られる。

分からないことを、分からないと書く。

自分の考えが間違っている可能性を残す。

批判する相手にも説明の機会を与える。

訂正を恥ではなく、信頼を守る責任と考える。

反対に、声の大きさ、攻撃性、知名度、政治的正しさを、取材能力の代わりにする発信者は注意して見る必要がある。

ジャーナリズムの本質は、記者が正義の主人公になることではない。

社会に代わって問い、証拠を集め、矛盾を確認し、判断材料を公共の場へ提出することである。

ジャーナリストは、国民に何を考えるべきかを命令する人ではない。

国民が自分で判断するために、何を知る必要があるかを考え、その情報を責任を持って届ける人である。

その地道な方法と責任の積み重ねこそが、肩書だけの「自称」と、信頼に値するジャーナリズムを分けるのである。

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国会議員の発言を見ていると、中立的・中道的な立場から離れ、リベラル、左派、保守、右派の色彩を強めるほど、表現が激しくなり、相手を非難する言葉が増え、時には社会通念から外れた発言をするように見えることがある。

右派の政治家が、外国人、少数者、報道機関、野党などを強い言葉で攻撃する場合がある。一方、左派の政治家にも、保守層、企業、防衛政策の支持者、伝統的価値観を持つ人々を一括して非難するような言説が見られる。

しかし、この現象を単純に、

「右派は危険である」

「左派は非常識である」

「中道だけが良識的である」

と説明することはできない。

政治思想が右か左かということと、その政治家が乱暴な言葉を使うかどうかは、本来、別の問題である。穏健な保守政治家もいれば、穏健な社会民主主義者もいる。反対に、左右のどちらにも、敵対心をあおり、事実関係を単純化し、支持者の感情に訴える政治家が存在する。

したがって、分析すべきなのは、思想の内容そのものではない。

なぜ政治的立場を先鋭化させた政治家ほど、過激な言葉を使う利益が大きくなり、穏健な言葉を使う利益が小さくなるのかという、政治を取り巻く構造である。

最初に確認すべきこと~「端にいる政治家ほど過激」という印象は必ずしも事実ではない

この問題を考える際には、最初から重要な注意点がある。

私たちが目にする政治家の発言は、政治家全体の発言を均等に抽出したものではない。

テレビ、新聞、インターネットニュース、動画配信、交流サイトでは、目立つ発言ほど取り上げられやすい。政策の細部を説明する10分間の発言よりも、相手を強い言葉で批判した10秒間の映像の方が、多く拡散される。

その結果、次のような選択の偏りが生じる。

穏健な政治家の発言は、ニュースになりにくい。

過激な政治家の発言は、ニュースになりやすい。

さらに、同じ政治家であっても、日常的な政策説明より、失言や攻撃的な発言だけが記憶されやすい。

したがって、「中道から離れた政治家ほど必ず言葉が汚い」とまでは断定できない。

より正確には、

「思想的に先鋭化した政治家のうち、強い言葉を使う人が可視化されやすい」

「政治的対立が強い環境では、左右を問わず攻撃的な政治家が注目を集めやすい」

と考えるべきである。

ここを区別しなければ、観察された印象と、実際の政治家全体の傾向を混同してしまう。

政治的分極化には二つの種類がある

政治学では、政治的な対立を考える際に、少なくとも二つの分極化を区別する必要がある。

一つは、政策や思想の違いが大きくなる「政策的分極化」である。

例えば、税率を高くして社会保障を拡充するのか、税負担を抑えて民間の選択を重視するのか。防衛力を強化するのか、外交や軍縮を優先するのか。こうした政策上の距離が広がることである。

もう一つは、「感情的分極化」である。

感情的分極化とは、自分と異なる政党や政治集団を、単に政策の違う相手としてではなく、嫌悪すべき相手、信用できない人々、社会にとって危険な存在として見る傾向を指す。

近年の比較研究でも、政党間や政治指導者間の感情的な対立は、複数の民主主義国で確認されている。ただし、その程度や現れ方は国によって異なる。感情的分極化が強まると、反対派への差別や排除を容認しやすくなる可能性も指摘されている。

政策的分極化それ自体は、必ずしも悪いものではない。

政党間の違いが明確でなければ、有権者は何を基準に投票すればよいか分からない。すべての政党が似た政策を掲げる政治も、民主主義にとって健全とは限らない。

問題は、政策の対立が人物や集団への敵意に変わることである。

「この政策は誤っている」

という主張が、

「この政策を支持する人間は無知である」

「この政党を支持する人間は国民ではない」

「反対派は社会から排除すべきである」

という言葉に変わったとき、政策論争は感情的な敵対関係へ移行する。

政治家の言葉が汚くなる背景には、思想上の距離そのものより、この感情的分極化の方が強く関係している可能性がある。

数理的に見ると、過激な発言には利益がある

政治家の行動を道徳心だけで説明すると、構造が見えにくくなる。

政治家も、限られた時間、資金、人員、知名度の中で、自分にとって有利な行動を選択する主体である。

単純化すると、政治家がある発言を行う際の期待利益は、次のように整理できる。

発言の期待利益 = 支持者の増加 + 注目度の上昇 + 資金や協力者の増加 + 党内での影響力上昇 - 失言による批判 - 無党派層の離反 - 政党や議会からの処分 - 社会的信用の低下

穏健な政治環境では、過激な発言による損失が大きい。

無党派層が離れ、党執行部から注意され、報道機関から批判され、選挙で不利になるからである。

ところが、政治的分極化が進むと、この計算が変わる。

強い言葉を使うことで、熱心な支持者から評価される。

交流サイトで拡散される。

動画の再生回数が増える。

政治資金を集めやすくなる。

党内の特定の支持層に対する影響力が高まる。

一方で、反対陣営からの批判は、もともと自分に投票しない人からの批判であるため、政治的損失が小さい。

この状態では、過激な発言の期待利益が穏健な発言を上回る可能性がある。

つまり、政治家の人間性が突然悪化したのではなく、政治環境の変化によって、乱暴な言葉を使うことが合理的な選択になってしまうのである。

中道から離れるほど支持者の構成が変わる

一般に、中道的な政党や政治家は、幅広い有権者から支持を得る必要がある。

会社員、自営業者、高齢者、若者、都市部、地方、保守層、リベラル層、無党派層など、異なる利害を持つ人々を取り込まなければならない。

そのため、極端な発言には大きな費用が伴う。

一つの集団を強く喜ばせても、別の集団を失う可能性があるからである。

これに対し、左右の端に近い政治家は、支持者の範囲を広く取るより、狭くても熱心な支持者を固める戦略を選びやすい。

支持者の人数を「広さ」、支持の強さを「深さ」と考えると、中道政治家は広く浅い支持を必要とする。一方、先鋭的な政治家は、狭くても深い支持によって政治活動を維持できる場合がある。

例えば、支持者が100万人いても、その多くが関心の薄い支持者であれば、選挙運動、寄付、交流サイトでの拡散にはつながりにくい。

反対に、支持者が10万人でも、全員が熱心に活動し、寄付を行い、周囲に働きかけるなら、政治的影響力は大きくなる。

そのため、先鋭的な政治家にとっては、支持者の数を最大化することより、支持者の感情的な熱量を最大化することが合理的になる場合がある。

このとき有効なのが、敵の設定である。

「私たちの生活が悪化したのは、あの集団の責任だ」

「既存の政治家はすべて腐敗している」

「専門家や報道機関は真実を隠している」

「自分だけが国民の声を代弁している」

という物語を提示すれば、支持者の帰属意識を強めることができる。

政治家と支持者の関係は、政策への賛成から、集団としての一体感へ変化する。

ポピュリズムとは、単なる人気取りではない

ポピュリズムは、日本語ではしばしば「大衆迎合」と説明される。

しかし、政治学上のポピュリズムは、単に人気のある政策を掲げることだけを意味しない。

一般的には、社会を「善良で純粋な国民」と「腐敗した既成勢力」に分け、政治は国民の単一の意思をそのまま実現すべきだと主張する政治的な考え方や言説を指す。

この構造では、社会内部の多様な利害や価値観が見えにくくなる。

実際の国民には、会社員、自営業者、農業者、高齢者、子育て世帯、障害のある人、外国にルーツを持つ人など、異なる立場がある。国民全体が一つの意思を持っているわけではない。

ところが、ポピュリズム的な政治家は、

「普通の国民は皆そう思っている」

「反対する者は既得権益側である」

「自分に反対する政治家は国民の敵である」

と主張しやすい。

こうした政治は、左派にも右派にも存在する。

右派型のポピュリズムでは、移民、外国、国際機関、都市部の知識人、報道機関などが敵として設定されやすい。

左派型のポピュリズムでは、大企業、富裕層、金融機関、官僚、既成政党などが敵として設定されやすい。

敵として挙げる対象は異なるが、「善良な国民対腐敗した支配層」という構図は共通している。

国際民主化選挙支援機構の分析でも、ポピュリズム政権の影響は、左右の政策内容だけでなく、議会、司法、報道、制度的な抑制との関係から評価する必要があるとされている。

ポピュリズムに迎合する政治と、理念を訴える政治は違う

政治家が有権者の意見を聞くことは重要である。

民主主義において、政治家が国民の声を無視してよいはずはない。

しかし、有権者の声を聞くことと、その時々の感情に迎合することは異なる。

迎合型の政治家は、世論調査や交流サイトの反応を見ながら、最も支持を得られそうな言葉を選ぶ。

その政策が長期的に正しいかどうかより、今日の反応を優先する。

社会保障を増やすと言いながら、財源には触れない。

税金を下げると言いながら、どの支出を減らすのか説明しない。

治安対策を強化すると言いながら、人権侵害の危険を検討しない。

外国人を批判しながら、労働力不足や産業構造には触れない。

防衛費削減を主張しながら、安全保障上の代替策を示さない。

このような政治は、支持者が聞きたい言葉を返しているだけであり、政治的指導とはいえない。

望ましい政治家とは、有権者の感情をそのまま増幅する人物ではない。

自らの理念、政策、価値判断を明らかにしたうえで、それがなぜ必要なのかを説明し、有権者を説得する人物である。

政治家は、国民の意見を受け取るだけの受信機ではない。

情報を整理し、利害を調整し、将来の危険を説明し、時には人気のない決定についても責任を負う存在である。

したがって、政治家に求められるのは「扇動」ではなく「説得」である。

扇動とは、恐怖、怒り、憎悪を利用して、人々を特定の方向へ動かすことである。

説得とは、事実、論理、価値判断、費用、利益を示し、相手が自分で判断できるようにすることである。

両者は、似ているようで正反対である。

交流サイトは強い感情を増幅しやすい

SNS(Social Networking Service・交流サイト)は、政治家が有権者と直接つながる手段を拡大した。

従来、政治家の発言は、記者会見、新聞、テレビ、議会中継などを通じて伝えられていた。現在では、政治家自身が短い文章や動画を直接発信できる。

これは政治参加の面では大きな利点がある。

小規模政党や新人候補でも情報発信ができ、報道機関が扱わない論点を提示できる。市民も政治家に意見を伝えやすくなった。

一方、交流サイトには、強い感情を伴う情報が拡散されやすいという問題がある。

怒り、恐怖、侮辱、驚きなどを含む投稿は、反応を集めやすい。穏健で条件の多い政策説明は、短い投稿や動画に向きにくい。

デジタルメディアと政治に関する研究では、インターネットや交流サイトが政治参加や情報アクセスを広げる一方、誤情報、分極化、政治的動員との関係について、国や制度によって異なる結果が確認されている。交流サイトが必ず分極化を生むと単純化することはできないが、政治的対立を増幅する条件になり得ることは無視できない。

また、自分と反対の意見を見せれば、必ず穏健になるとも限らない。

反対意見への接触によって、かえって自分の立場を強める場合があることも研究で示されている。

人は、自分と異なる情報を見たとき、常に冷静に再検討するわけではない。

相手から攻撃されたと感じれば、自分の所属集団を守ろうとする。

結果として、

反対派の強い発言を見る ↓ 自分の立場を守ろうとする ↓ さらに強い政治家を支持する ↓ 政治家がさらに強い言葉を使う ↓ 反対派も対抗して強い言葉を使う

という循環が生まれる。

過激化は左右対称に起きるとは限らない

中立的に分析することは、左右に必ず同じ量の問題があると結論づけることではない。

ある時期、ある国、ある争点では、右派側の過激化が強い場合がある。別の時期や争点では、左派側の排他的な言説が強くなる場合もある。

重要なのは、形式的に左右を同数ずつ批判することではない。

同じ評価基準を適用することである。

例えば、次の基準で比較する必要がある。

事実と異なる情報を意図的に使っていないか。

反対派を国民として認めない表現をしていないか。

暴力や威圧を容認していないか。

司法、議会、報道機関などの独立性を弱めようとしていないか。

少数者の権利を、多数者の感情だけで制限しようとしていないか。

政策の費用や副作用を隠していないか。

自分の支持者による問題行動だけを正当化していないか。

この基準を適用した結果、一方の陣営により多くの問題が確認されることはあり得る。

それを無理に均等化する必要はない。

公正中立とは、結論を中央に置くことではなく、評価方法を共通にすることである。

党内競争が政治家を先鋭化させる

政治家は、他党との選挙だけを戦っているのではない。

政党内でも、候補者選定、役職、発言力、資金、人事を巡る競争がある。

中道的な有権者を対象とする本選挙よりも、党員、活動家、熱心な支持者の影響が強い候補者選定では、より明確な思想を示す候補が有利になる場合がある。

党内の熱心な支持者は、一般有権者より政治への関心が高い。そのため、政策的にも感情的にも明確な立場を持つ傾向がある。

政治家が党内で存在感を示すためには、

「私は他の議員よりも本物の保守である」

「私は他の議員よりも一貫したリベラルである」

と示す必要が生じる。

この競争では、穏健な妥協は裏切りと見なされやすい。

相手政党と協議すれば、弱腰と批判される。

法案を修正すれば、信念を曲げたと批判される。

発言を訂正すれば、圧力に屈したと批判される。

その結果、政治家は自らの立場を修正しにくくなる。

政治家の思想が先鋭化するというより、先鋭化した態度を示さなければ、党内で生き残りにくくなるのである。

メディア環境は中間的な説明を不利にする

政治問題の多くは、本来、単純な二択ではない。

原子力発電を増やすか減らすかという問題には、電力価格、二酸化炭素排出量、廃棄物、事故リスク、立地地域の経済、再生可能エネルギー、送電網などが関係する。

外国人労働者を受け入れるかという問題にも、人手不足、賃金、社会保障、教育、地域統合、企業責任などが関係する。

ところが、報道や交流サイトでは、

賛成か反対か。

味方か敵か。

愛国か反国か。

改革派か抵抗勢力か。

という単純な対立に置き換えられやすい。

複雑な説明を行う政治家は、分かりにくいと評価される。

条件付きの賛成や部分的な反対は、態度が曖昧だと見なされる。

一方、単純で強い主張は、理解しやすく、映像や見出しにしやすい。

その結果、政治家は、政策の正確さより、情報としての分かりやすさを優先するようになる。

しかし、分かりやすいことと、正しいことは同じではない。

政策を単純化しすぎれば、費用、例外、副作用、実施上の困難が見えなくなる。

政治への不信が、強い言葉を求めさせる

政治家の過激化は、政治家側だけの問題ではない。

有権者が既存の政治や行政に強い不信を持っているとき、穏健な説明は「ごまかし」と受け取られやすい。

「慎重に検討する」

「関係者と調整する」

「段階的に実施する」

という言葉が、何もしない政治の象徴に見えるからである。

その反動として、

「すぐに廃止する」

「全員追放する」

「既得権益を壊す」

「一気に変える」

という政治家が支持を得る。

経済停滞、格差、地域間格差、公共サービスへの不満、行政への不信などは、ポピュリズムを支持する背景になり得る。緊縮政策や経済的不安とポピュリズムの関係についても、比較政治学で研究が蓄積されている。

経済協力開発機構の調査でも、政府への信頼が低い人の割合は高く、政治的な発言力を持てないという感覚や、政府が公平に行動していないという認識が、信頼の低下と関係している。

したがって、過激な政治家だけを批判しても、問題は解決しない。

なぜ有権者が強い言葉を必要としているのか。

既存政党がどの不満に答えられていないのか。

政策決定が特定の利益集団に偏っていないか。

行政が十分な説明をしているか。

地域や世代による不利益が放置されていないか。

こうした背景を検証する必要がある。

過激な言葉は、政治家の能力不足を隠すことがある

強い言葉を使う政治家が、強い政策能力を持っているとは限らない。

政策を実行するには、法律、予算、行政組織、人員、地方自治体、民間企業、国際関係などを調整しなければならない。

ところが、制度設計の能力が弱い政治家ほど、抽象的な敵を攻撃することで、自らの能力不足を隠せる場合がある。

政策が実現しなければ、

野党が邪魔をした。

官僚が抵抗した。

報道機関が偏っている。

外国勢力が妨害した。

国民の理解が不足している。

と説明できる。

この構造では、失敗の責任が常に外部へ移される。

政治家の支持者も、政策の成果ではなく、敵と戦っている姿勢を評価するようになる。

その結果、政治家は問題を解決するより、問題を解決できない理由となる敵を維持する方が得になる。

これは、政治の目的が政策成果から集団対立へ変わった状態である。

中道が常に正しいわけではない

ここで誤解してはならないのは、中道であること自体が正しさを保証するわけではないということである。

歴史上、当時は過激とされた主張が、後に社会の標準になった例は多い。

普通選挙、女性参政権、労働者の権利、人種差別撤廃、障害者の権利などは、既存秩序に対する強い異議申し立てから始まった。

逆に、中道を名乗る政治家が、必要な改革を先送りし、問題を放置する場合もある。

重要なのは、政治的位置が中央にあるかどうかではない。

主張に根拠があるか。

人権を侵害しないか。

政策として実行可能か。

費用と負担を説明しているか。

反対意見を排除せず、検討しているか。

誤りが判明した場合に修正できるか。

この基準で評価すべきである。

先鋭的な政策であっても、十分な根拠があり、少数者の権利を守り、実施可能性が高いなら、検討に値する。

中道的な政策であっても、問題を先送りするだけなら、評価できない。

望ましい政治家は「鏡」ではなく「案内役」である

有権者の感情をそのまま映すだけの政治家は、国民の代表ではあっても、政治的指導者とはいえない。

政治家は、国民がすでに考えていることを繰り返すだけではなく、知られていない事実を示し、複雑な利害を説明し、長期的な選択肢を提示する必要がある。

例えば、有権者が減税を望んでいるなら、

どの税を減らすのか。

減収はいくらか。

どの支出を削減するのか。

国債で補うのか。

将来の金利や物価にどのような影響があるのか。

自治体財政にどう影響するのか。

まで説明しなければならない。

防衛力を増強するなら、装備品の価格、維持費、人員、外交上の効果、軍拡競争の危険を説明する。

社会保障を拡充するなら、財源、労働力、給付対象、世代間負担を説明する。

政治家の役割は、有権者の希望を無条件に肯定することではない。

選択には必ず費用があることを示し、それでもなぜ自分の政策を選ぶべきかを説得することである。

政治家に必要なのは、主義の明示と反証可能性である

政治家が自らの主義を明確に主張することは望ましい。

何を大切にするのか。

国家と個人の関係をどう考えるのか。

市場と政府の役割をどう分けるのか。

どのような社会を目指すのか。

これらを曖昧にしたまま、世論に合わせて発言を変える政治家は信頼しにくい。

ただし、主義を持つことと、主義に固執することは違う。

望ましい政治家は、自分の理念を示すと同時に、どのような事実が確認された場合に政策を修正するのかを示すべきである。

例えば、

「この政策により雇用が増える」

と主張するなら、何年後に、何人増えるのかを示す。

成果が出なければ、政策を見直す。

「犯罪が減る」

と主張するなら、どの統計で検証するのかを示す。

「地域経済が活性化する」

と主張するなら、所得、雇用、税収、人口、事業継続率など、評価指標を明確にする。

主義だけを語り、結果による検証を拒む政治は、信念ではなく教条主義になる。

政治的過激化を抑えるために必要なこと

政治家の過激な言葉を禁止するだけでは、問題は解決しない。

表現の自由への過度な制限にもつながり得る。

必要なのは、過激な発言の利益を小さくし、実質的な政策説明の利益を大きくする制度と文化である。

第一に、報道機関は、失言の一部分だけでなく、政策の内容、法案、予算、実績を継続的に報道する必要がある。

第二に、交流サイトの反応数を、世論全体と同一視しないことである。投稿を頻繁に行う人は、有権者全体を代表しているとは限らない。

第三に、政党は、攻撃的な発信だけで知名度を得た政治家を安易に優遇しないことである。政策立案、議会活動、法案修正、合意形成も評価すべきである。

第四に、有権者は、政治家が誰を攻撃しているかではなく、何を実現したかを見る必要がある。

第五に、政府や議会は、政策決定の資料、議事録、費用、効果測定を公開し、事実に基づく検証を可能にする必要がある。

第六に、異なる政党の政治家が、協力できる分野では協力することである。政治指導者同士が協力の可能性を示すことが、支持者間の感情的な敵意を弱める可能性を示した研究もある。

結論~政治家は民意に迎合するのではなく、民意に責任を負うべきである

中立や中道から離れた政治家ほど過激で、言葉が汚く、常識を逸脱しているように見える現象は、左右どちらかの思想に固有の問題ではない。

その背景には、複数の要因がある。

先鋭的な政治家ほど、広い支持より熱心な支持を必要とすること。

敵を設定することで支持者の結束を高められること。

交流サイトでは強い感情を伴う情報が拡散されやすいこと。

党内競争では、穏健な妥協より思想的純粋さが評価されやすいこと。

政治不信や経済的不安が、強い言葉への需要を生むこと。

政策能力が不足した政治家が、敵への攻撃によって責任を回避できること。

こうした条件が重なると、政治家にとって過激な発言が合理的な戦略になる。

しかし、合理的であることと、望ましいことは同じではない。

政治家は、有権者が怒っているから一緒に怒るだけの存在であってはならない。

有権者が不安を感じているなら、その原因を調べ、複数の選択肢を示し、必要な負担も説明しなければならない。

政治家は、世論を追いかけるだけではなく、自らの理念を示し、それを事実と論理によって説得する責任がある。

ただし、理念を主張することは、支持者を扇動することではない。

反対派を敵として扱い、恐怖や憎悪を利用するのは政治的指導ではない。

望ましい政治家とは、自らの主義を明確にしながら、反対意見を聞き、事実によって政策を修正し、異なる立場の国民にも説明しようとする人物である。

民主主義に必要なのは、何も主張しない中立的な政治家でも、支持者の感情を増幅する過激な政治家でもない。

明確な理念を持ち、その理念を政策に変換し、その費用と結果について責任を負い、反対する人々をも説得しようとする政治家である。

政治家は、民意に迎合するのではなく、民意を理解し、民意に説明し、民意に対して責任を負うべきなのである。

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