地域政経

九条レオンの地域から社会と政治・経済のこれからを考える

一度目の安倍晋三は、あまりにも早く「自分の政治」を始めた

 2006年9月、52歳で内閣総理大臣となった安倍晋三は、戦後最年少の首相として政権の座に就いた。小泉純一郎という強烈な個性を持つ首相の後継者であり、北朝鮮による拉致問題への対応などですでに全国的な知名度を持っていた安倍には、若い指導者が新しい時代を開くという期待も集まっていた。しかし後から振り返れば、第一次安倍政権の特徴は、その若さ以上に、首相になった直後から自分が本当に実現したかった政治をかなり正面から始めようとしたことにあった。

 安倍が掲げた「美しい国、日本」の背後には、「戦後レジームからの脱却」という問題意識があった。教育、安全保障、憲法、国家のあり方を長期的に組み替えていこうとする政治であり、実際に第一次政権は教育基本法の改正や防衛庁の防衛省への移行などを実現している。したがって、第一次安倍政権を「何もできずに終わった政権」と片づけるのは正確ではなく、むしろ問題は、政策を成立させる能力と、政権を安定して持続させる能力が別物であったことを、政権自身が十分に処理できなかった点にあった。

 政治家には自分が重要だと考える政策があるが、有権者にもまた、その時々で政治に解決してもらいたい問題がある。そして残念ながら、この二つはしばしば一致しない。憲法、安全保障、教育、国家観は安倍にとって重要だったが、多くの国民にとって切実だったのは、年金、雇用、所得、格差、社会保障といった生活に直結する問題であり、第一次政権では、この「政治家が語りたいこと」と「有権者が解決してほしいこと」のずれが徐々に広がっていった。

 ここには第一次政権の弱点がよく表れている。安倍は首相になれば政策を動かせると考えていたのだろうが、民主政治では、首相になったことと、首相であり続けられることは同じではない。総理大臣という席は政策を実行するための到着点ではなく、むしろそこから始まる不安定な仕事であり、この当たり前の事実を安倍は最初の政権でかなり高い授業料を払って学ぶことになった。

年金、閣僚問題、参議院選挙――政権を削ったのは一つの失敗ではなかった

 2007年に入ると、第一次安倍政権は急速に不安定になった。閣僚をめぐる政治資金問題や失言、辞任が相次ぎ、さらに約5000万件の年金記録が基礎年金番号に統合されていないことが明らかになった、いわゆる年金記録問題が大きな社会問題となった。もちろん、年金記録の混乱そのものを安倍政権が生み出したわけではない。しかし政治では、問題を作った政権と、その問題によって批判を受ける政権が同じとは限らず、長年蓄積された行政上の不備であっても、それが表面化した瞬間の政権が責任を引き受けることになる。

 同年7月の参議院議員通常選挙では、年金記録問題、「政治とカネ」、格差などが大きな争点となり、自由民主党は改選前64議席から37議席へ大幅に減らした。一方、民主党は60議席を獲得して参議院第一党となり、衆議院では与党が多数、参議院では野党が多数という「ねじれ国会」が生まれた。それでも安倍は続投したが、その後、国会で所信表明演説を行った直後に辞意を表明するという異例の退陣となり、その唐突さは政権の評価をさらに悪化させた。

 加えて、安倍自身には潰瘍性大腸炎という持病があり、第一次政権末期にはその症状が悪化していた。したがって第一次政権の崩壊を、選挙敗北だけ、年金問題だけ、安倍本人の力量だけで説明するのは適切ではなく、政策の優先順位、閣僚管理、国会運営、選挙結果、世論との距離、本人の健康状態といった複数の要因が重なった結果として理解する必要がある。

 政治史はしばしば、一人の指導者の決断によって動いたかのように描かれる。しかし実際の政権は、首相の思想だけで動いているわけではない。政党、官僚、国会、選挙、報道機関、世論、経済、そして最後には首相本人の身体までが絡み合う巨大なシステムであり、第一次安倍政権は、そのシステムを制御することが政策を考えること以上に難しいことを露呈した政権でもあった。

五年後に戻ってきた安倍は、思想を変えたのではなく入口を変えた

 2007年の退陣後、安倍が別の政治家になったわけではない。憲法改正、安全保障、教育、国家観、政治主導に対する基本的な問題意識は、その後も大きく変化していない。もし第一次政権の失敗から安倍が学んだことがあるとすれば、それは思想を捨てることではなく、その思想を実現するために何を先に行うべきかを変えることだった、と考える方が実態に近い。

 2012年12月、安倍が再び首相に就任したとき、政権の正面に置かれたのは「美しい国」でも「戦後レジームからの脱却」でもなく、経済再生だった。大胆な金融政策、機動的な財政政策、民間投資を喚起する成長戦略という、いわゆる「三本の矢」を掲げ、デフレ脱却と景気回復を政権の最優先課題として示した。第二次政権で安倍が安全保障や憲法への関心を失ったわけではなく、むしろそれらを政権の入口に置かなくなったのである。

 この変化は政治的には合理的だった。憲法や安全保障は有権者の意見を大きく二分するが、景気回復、雇用改善、賃金上昇を望む人は左右の政治的立場を越えて存在する。支持を広げる必要がある政権にとって、経済政策は安全保障政策よりはるかに広い有権者に届きやすい。第一次政権の安倍が、自分の政治的理念から政権を始めたとすれば、第二次政権の安倍は、多くの有権者が関心を持つ経済から政権を始め、その後に自分の政治課題へ進む道筋を選んだと見ることができる。

 ただし、ここで「第一次政権で失敗したから、第二次政権でこの戦略を採用した」とまで断定することはできない。本人がどこまで体系的に第一次政権の経験を分析し、その結果として政策の順序を変更したのかは外部から完全には確認できないからである。観察できるのは、第一次政権と第二次政権の政策の見せ方と進め方が明らかに異なっていたという事実であり、その差を「学習」と解釈することには合理性があるが、それを唯一の原因と考えるべきではない。

第二次政権が覚えたのは、政策だけではなく「時間の使い方」だった

 第二次安倍政権では、まず経済政策を前面に出し、選挙で政権基盤を安定させ、その後に国家安全保障会議の設置、特定秘密保護法、安全保障法制など、より政治的対立の大きな政策へ進んでいった。この順序には、第一次政権にはなかった慎重さが見られる。

 民主政治では、政策には政治的な費用がある。広い支持を得やすい政策もあれば、支持者を分断する政策もあるため、政権が何を先に行い、何を後に行うかによって、その持続可能性は大きく変わる。これは企業経営で資金繰りを無視して理想的な事業計画だけを語っても会社が続かないのと似ており、政治でも、理念を実行するためには先に政治的な余力を確保しなければならない。

 第二次安倍政権は、この政治的余力を選挙、支持率、経済政策、政権人事によって蓄積しながら、対立の大きい政策へ進んでいった。第一次政権が「政策を実行するために政権がある」と考えていたように見えたのに対し、第二次政権では「政策を実行するためには、まず政権を維持しなければならない」という発想がより明確になった。

 政治家にとっては少々身も蓋もない話だが、政権から降りれば、どれほど立派な理念を持っていても法律にはならない。第二次政権の安倍は、この単純だが厳しい現実に第一次政権より適応していた。

「強い官邸」は安倍が突然発明したものではない

 第二次安倍政権の特徴として「官邸主導」がしばしば挙げられるが、これを安倍が一から作り出した制度のように説明するのは正確ではない。首相官邸の権限強化は1990年代以降の政治改革、橋本龍太郎政権による行政改革、2001年の中央省庁再編、小泉純一郎政権などを通じて段階的に進められてきた。第二次安倍政権は、その延長線上に成立している。

 しかも安倍自身も、第一次政権の段階ですでに官邸機能の強化や政治主導を明確に志向していた。したがって第一次政権を「弱い官邸」、第二次政権を「強い官邸」と単純に対比するよりも、第一次政権では官邸主導を目指しながら十分に安定運用できず、第二次政権では既存の制度改革を利用しながら、それをより強く、継続的に運用できるようになったと見るべきである。

 2014年に設置された内閣人事局も、この流れの中にある。中央省庁の幹部人事を政府全体で一元的に管理する仕組みが整えられたことで、官邸は各省庁の幹部人事に以前より強い影響力を持つようになった。ただし、これも第二次安倍政権だけから突然生まれた制度ではなく、それ以前から検討されてきた国家公務員制度改革の延長に位置している。

 安倍政権の特徴は、制度を一から発明したことよりも、すでに存在していた制度的な道具を政治的に有効活用したことにある、と考えた方がよい。政治では新しい制度を作ることより、既存の制度を徹底して使う方が権力を大きく変えることさえある。

人を固定したのではなく、政権の骨格を固定した

 第一次政権では閣僚の問題が次々に政権全体の問題へ発展した。大臣を守るのか辞任させるのか、その判断が遅れれば、一人の大臣の問題が首相の任命責任へと変わり、さらに内閣全体の支持率低下へつながっていく。首相の仕事は政策を考えるだけではなく、人事と危機管理を同時に処理することであり、第一次政権はその難しさに翻弄された。

 第二次政権では、この点がかなり変わった。菅義偉を内閣官房長官、麻生太郎を副総理兼財務大臣として政権の中枢に長期間置き、主要な意思決定を担う人物を安定させた。もちろん安倍政権も内閣改造を繰り返しており、「閣僚を固定した」と表現するのは正確ではないが、政権運営の骨格となる人物を固定したことには意味があった。

 菅は政府内の調整、危機管理、報道対応などを担い、麻生は党内と政権の双方で政治的な重しとなった。首相がすべてを直接処理するのではなく、信頼する人物に権限と役割を分担させたことで、第二次政権では第一次政権よりも安定した政権中枢が形成された。

 第一次政権の安倍が「自分が首相として政治を行う」色彩の強い政権だったとすれば、第二次政権では「安倍政権という組織が政治を行う」構造がより明確になった。長期政権を一人の政治家の能力だけで説明するのが危険なのは、まさにこの点である。

選挙は審判であると同時に、政権を再起動する装置になった

 第二次安倍政権では、衆議院解散と総選挙が政権運営の重要な手段として使われた。2014年、2017年の解散を含め、安倍は政治情勢や野党の準備状況を見ながら選挙時期を選択し、選挙に勝つことで政権の正統性と国会議席を更新していった。

 ただし、ここでも安倍個人の意図を過度に読み込むことは避けるべきである。外部から確認できるのは、第二次安倍政権が結果として、野党側の準備が整っていない時期や、与党に比較的有利な政治状況で解散を行い、選挙勝利を繰り返したということである。それを巧みな戦略と評価することはできるが、すべてが事前に設計された長期計画だったと考える必要はない。

 それでも、第一次政権との違いは明確だった。2007年には参議院選挙の大敗によって政権が主導権を失ったのに対し、第二次政権では選挙を受動的な審判として待つだけではなく、自ら政権の節目を作る手段として利用した。選挙で勝利すれば、与党内で首相に異論を唱える政治家も減る。民主主義では選挙が権力を制限する仕組みである一方、勝ち続ける政権にとっては権力を強化する仕組みにもなるという、少し皮肉な現実がここに表れている。

しかし長期政権は、安倍が賢くなったからだけでは説明できない

 第一次政権と第二次政権を比較するとき、最も注意しなければならないのは、第二次政権の長期化をすべて「安倍の成長」で説明してしまうことである。政治家の伝記としては美しいが、分析としては少々出来すぎた物語になる。

 2012年に安倍が政権へ復帰した時点で、政治環境そのものが2006年とは大きく違っていた。2009年に政権交代を実現した民主党は、政権運営への失望や内部対立を経て支持を失い、2012年以降の野党勢力は分裂した。小選挙区制を中心とする衆議院選挙では、野党候補が複数に分かれれば、与党候補が過半数に達しない得票でも議席を獲得できる場合があるため、野党分裂は自民党に大きな選挙上の利益をもたらした。

 さらに、自民党と公明党の安定した選挙協力、選挙制度の特性、自民党内で首相に代わる有力な指導者が現れにくかったこと、経済状況や株価、雇用環境の改善など、複数の条件が長期政権を支えた。これらの要因を除外し、「第一次政権で失敗した安倍が学習したから長期政権になった」と説明すれば、安倍本人の効果を実際以上に大きく評価することになる。

 数理的な比喩を使えば、長期政権という結果を説明するモデルに、野党分裂、選挙制度、連立構造、経済状況などの重要な変数を入れず、安倍本人の学習だけを説明変数として置けば、その係数は過大に見える可能性が高い。政治分析でありがちな「偉大な指導者が歴史を動かした」という物語は読みやすいが、現実の政治はもう少し散らかっている。

健康状態の改善も、第二次政権を可能にした重要な条件だった

 第一次政権末期に悪化した潰瘍性大腸炎について、安倍はその後、新しい薬によって症状をコントロールできるようになったと説明している。第二次政権で約七年八か月にわたって首相を務めることができた背景には、この健康状態の改善も無視できない。

 ただし、これを「第一次政権の反省を踏まえた健康管理戦略」とまで解釈するのは証拠が足りない。確認できるのは、新しい治療によって病状を長期間コントロールできるようになったことと、それが首相として職務を継続する前提条件になったことである。

 歴史は思想と制度によって動くように見えるが、ときに一錠の薬が政治史を変えることもある。第二次安倍政権を成立させた条件の一つが医療技術の進歩だったという事実は、政治というものが理念だけでできているわけではないことを、いささか身も蓋もなく教えている。

強い官邸は政治を動かしたが、強い権力には別の問題が生まれる

 第二次安倍政権では、官邸への意思決定の集中によって省庁間の調整が進み、首相が重要政策を迅速に進めやすくなった。その意味では、政治主導を目指した一連の制度改革が一定の成果を上げたと言える。

 しかし制度には必ず裏面がある。官邸が幹部人事に強い影響を持つようになれば、官僚にとって官邸の意向を無視することは難しくなる。長期政権になれば与党内でも首相への異論は出にくくなり、選挙に勝ち続ければ党内の政治家も首相の人気と公認権に依存する。権力を安定させるために作られた仕組みが、そのまま権力を監視しにくくする仕組みに変わる可能性がある。

 森友学園、加計学園、桜を見る会などをめぐっては、行政の透明性や説明責任、長期政権下における官邸と行政機構の関係が厳しく問われた。ただし、これらの問題が官邸主導の強化によって直接引き起こされたと断定できるわけではない。むしろ重要なのは、これらの問題をきっかけとして、「強い官邸を誰が監視するのか」という問いが現実の政治課題として浮上したことである。

 第一次政権では政権が弱すぎることが問題となり、第二次政権では政権が強くなりすぎていないかが問題となった。政治とはなかなか都合よくできておらず、弱い権力を強くすれば、それで問題が終わるわけではない。

アベノミクスも「成功か失敗か」の二択では評価できない

 第二次安倍政権を支えた重要な要素の一つが、アベノミクスと呼ばれた経済政策だった。金融緩和や財政政策、成長戦略を通じてデフレからの脱却を目指し、株価、企業収益、雇用などには改善が見られた。一方で、実質賃金、潜在成長率、生産性、財政再建、デフレからの完全な脱却などについては評価が分かれる。

 したがって、「アベノミクスによって日本経済は復活した」と言い切るのも、「何の効果もなかった」と切り捨てるのも、どちらも雑である。経済政策の成果は、どの指標を見るかによって評価が異なり、株価上昇を重視するのか、雇用者数を重視するのか、実質所得を重視するのかによって結論は変わる。

 しかし政治的な効果という観点では、アベノミクスは重要だった。経済政策を政権の看板に置くことで、安倍政権は憲法や安全保障だけでは獲得しにくい幅広い有権者に支持を求めることができた。経済政策として何点だったかとは別に、政権維持の政治戦略としては相当な意味を持っていたのである。

安倍晋三が変えたものと、安倍晋三では変えられなかったもの

 第一次政権と第二次政権を比較すると、安倍晋三という政治家の基本的な思想が劇的に変わったとは考えにくい。安全保障を重視し、政治主導を志向し、日本という国家のあり方を変えようとする姿勢は、二つの政権に共通していた。

 変わったのは、その思想を実行するための方法だった。経済政策を入口に置き、政権の中枢を安定させ、官邸機能を活用し、選挙で議席を更新しながら、対立の大きな政策へ段階的に進む。第一次政権では政策そのものが前へ出すぎたのに対し、第二次政権では政策を実現するための政治的条件を先に整える傾向が強くなった。

 ただし、それだけで七年八か月の長期政権が生まれたわけではない。民主党政権への失望、野党勢力の分裂、小選挙区制の特性、公明党との選挙協力、自民党内の対抗勢力の弱さ、経済環境、そして健康状態の改善といった複数の条件が重なった。安倍が変わったことは重要だったが、安倍を取り巻く政治環境もまた大きく変わっていたのである。

 ここを無視すると、政治史は途端に英雄物語になる。第一次政権で敗れた政治家が反省し、学習し、復活して長期政権を築いたという筋書きは確かに美しい。しかし現実の政治は、そこまで脚本家に親切ではない。

 それでも、第一次政権と第二次政権の違いを一つだけ取り出すなら、「順序」という言葉は捨てる必要がない。第一次政権の安倍は、自分が実現したい政治をかなり早い段階から前面に押し出した。第二次政権の安倍は、自分が実現したい政治の前に、それを実現できる時間と権力基盤を作ることを重視した。

 第一次政権の安倍は、理念を急いだ。第二次政権の安倍は、順番を覚えた。ただし、その順番だけが長期政権を生んだわけではない。安倍自身の学習と、野党の弱体化、選挙制度、連立構造、官邸機能の強化、経済状況、健康状態といった条件が重なったところに、第二次安倍政権は成立していた。

 政治家が成長したから歴史が変わった、と言えば物語としては美しい。しかし実際には、政治家が変わり、制度が変わり、敵が弱くなり、運にも恵まれ、その全部が揃ったときに初めて長期政権は生まれる。第二次安倍政権の本当の特徴は、安倍晋三が第一次政権の失敗を忘れなかったことだけではなく、その経験を生かせる政治環境が、二度目にはそこに存在していたことなのである。

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 政治の世界には、若いころには同じ方向を見ていたはずなのに、権力が近づくにつれて、まるで別の政治家になったように見える人々がいる。山崎拓、加藤紘一、小泉純一郎の三人も、まさにそうだった。三人の姓の頭文字を取ったYKK(山崎拓・加藤紘一・小泉純一郎の頭文字を組み合わせた通称)は、一時期の自由民主党で、単なる仲良し三人組以上の意味を持っていた。同じ派閥に属していたわけでもなく、政策思想が完全に一致していたわけでもない。それでも一つの名前で呼ばれたのは、古い自民党政治の内部にいながら、そのままでは自民党も日本政治も立ち行かなくなるという問題意識を共有していたからである。

 山崎、加藤、小泉はいずれも1972年の衆議院議員総選挙で初当選した。三人は同じ政治世代に属し、高度経済成長が終わり、自民党の長期政権がなお強固である一方、派閥政治や政治資金、利益誘導型政治への批判が次第に強まっていく時代を歩いた。若手議員だったころには、派閥の中で経験を積み、党内調整を重ね、その延長線上で大臣や首相を目指すという戦後自民党の出世構造がまだ機能していたが、三人が中堅から実力者へ成長した1990年代には、その仕組みそのものが揺らぎ始めていた。

 その意味でYKKは、同じ目的地へ向かって同じ道を歩く三人というより、同じ古い建物の中にいて、「このままでは建物が時代に耐えられない」と感じていた三人だったと考えた方が分かりやすい。ただし、どう直すかについては最初から違いがあった。加藤は内部の設計を合理的に改めようとし、山崎は建物全体の力学を見ながら現実的に補強し、小泉は古い構造そのものを政治的争点にする方向へ進んだ。この違いは若いころには大きく見えなかったが、首相という権力が現実のものとして近づくにつれ、三人を別々の政治家へ分けていった。

加藤紘一という「自民党改革派の優等生」

 YKKの三人の中で、従来の自民党政治が持っていた合意形成の論理を最も強く体現していたのが加藤紘一だったと見ることができる。宏池会という自民党有数の名門派閥で育ち、政策や行政機構に詳しく、党内の議論と調整を重視した加藤は、自民党政治の内部からその質を高めることで改革を実現しようとする政治家だった。

 加藤にとって改革とは、敵を作り、その敵を打ち破ることではなかった。複雑な利害を整理し、政策を磨き、党内の合意を積み重ねながら、時代に合わなくなった制度や慣行を修正していくことだった。政治とは単純な勝敗ではなく、多数の異なる利害を一つの方向へ収束させていく知的な作業であるという発想が、加藤の政治手法の根底にあった。

 しかし、その政治手法は、政治環境が変わるにつれて弱点を露呈していった。1990年代、日本政治はバブル崩壊後の長期停滞、政治改革、政界再編、55年体制の終焉を経験し、「誰と誰が合意したか」以上に、「誰が何を変えるのか」が問われるようになった。加藤自身も変化を理解していたと考えられるが、問題は、改革を実行するための政治技術まで従来の党内調整型から完全に切り替えることができなかったことである。

 その矛盾が最も劇的に現れたのが、2000年のいわゆる「加藤の乱」だった。森喜朗政権への不満が高まる中、加藤は山崎とともに倒閣へ動き、野党提出の内閣不信任決議案に同調する構えを見せた。しかし党執行部による激しい切り崩しによって派閥内部が割れ、最終的に加藤の構想は頓挫した。ここで重要なのは、単に倒閣に失敗したことではなく、自民党の内部を知り尽くしていた政治家が、その自民党内部の統制力によって動きを封じられたことである。

 加藤は党内政治を熟知していたからこそ、その論理の中で首相を目指した。しかし最後の勝負では、その論理そのものが彼を拘束した。政策能力、知性、人脈、派閥という従来型自民党政治で重要とされた資源を豊富に持ちながら、それを首相への権力へ転換することができなかったところに、加藤紘一という政治家の悲劇性がある。

「加藤の乱」で、YKKはすでに二対一に分かれていた

 この加藤の乱は、YKKの歴史を考えるうえでも決定的な場面だった。山崎は加藤と行動をともにしたが、小泉は二人に同調しなかった。YKKという呼び名からは三人が政治行動まで常に一致していたような印象を受けるが、実際には最も重要な政局の一つで、加藤と山崎、小泉は二対一に分かれたのである。

 しかも小泉が加藤らの倒閣に加わらなかったことは、その後の政治人生を考えると極めて象徴的である。加藤と山崎は党内の議員を動かすことによって首相を交代させようとしたが、小泉はその方法を選ばなかった。これは小泉が当時から完成された「反派閥政治家」だったという意味ではない。小泉自身も派閥政治の中で育ち、自民党組織の力学を利用してきた政治家だったが、少なくとも加藤の乱の時点で、YKK三人の権力への接近方法はすでに同じではなくなっていた。

 この出来事を境に、YKKは友情や人的関係として残りながらも、政治戦略としては別々の道へ向かい始めたと見ることができる。三人の違いは、後から生まれたものではなく、権力の取り方が具体的な選択として突きつけられた瞬間に、初めてはっきりと姿を現したのである。

山崎拓はなぜ加藤と同じ運命をたどらなかったのか

 山崎拓は、加藤とはまた違った種類の政治家だった。政策に詳しい一方で、その政治感覚はより実戦的であり、自民党という巨大組織の内部で誰が力を持ち、どの局面で対立し、どの局面で妥協するべきかを読むことに長けていた。理念から組織を作り替えることよりも、現実の力関係を読み、その中で自らの影響力を維持することに強みを持つ政治家だったと捉えると理解しやすい。

 その意味では、山崎はYKKの中で最も自民党の伝統的な政治技術を体現していたとも言える。これは「古い政治家」という意味ではない。対立しても関係を完全には切らず、昨日の敵とも次の局面では交渉し、政策、人間関係、派閥、選挙を同時に計算するという自民党政治特有の柔軟性を持っていたということである。

 加藤の乱で山崎は加藤と運命を共にしたように見えたが、その後の二人の軌跡は大きく分かれた。加藤にとって失敗は首相候補としての上昇軌道を決定的に損なう出来事となったのに対し、山崎は党内で再び足場を築き、2001年に小泉が自民党総裁となると幹事長に起用された。ここには、政治的失敗をどのように処理するかという二人の違いが現れている。

 加藤は政治理念と組織論理が衝突したとき、理念の側から組織を動かそうとした。山崎は同じ衝突を経験しても、なお組織の内部へ戻り、次の力関係の中で自らの役割を探すことができた。加藤にとって加藤の乱は自らの政治構想そのものを揺さぶる敗北だったが、山崎にとっては重大な失敗でありながら、それで政治が終わるわけではなかった。この違いが、二人のその後を分けた。

小泉純一郎は、党組織を捨てたのではなく使い方を変えた

 そしてYKKの中で、最終的に首相へ到達したのが小泉純一郎だった。ただし、小泉の成功を「派閥政治を捨てて国民だけを頼ったから」と説明すると、実際の政治構造を単純化しすぎる。小泉もまた自民党という組織の内部で活動し、党の総裁選挙制度、地方組織、党員票、党内人脈を利用した政治家だった。

 小泉が従来の自民党政治と異なっていたのは、党組織を迂回したことではなく、派閥領袖や国会議員の支持だけに依存せず、地方党員票と世論を党内権力へ転換したことである。2001年の自民党総裁選で小泉は地方票を背景に圧倒的な支持を集め、最終的に298票を獲得して橋本龍太郎を大きく引き離した。形式的には自民党内部の総裁選挙でありながら、その背後では世論の動きが国会議員や地方組織の判断に強く作用していた。

 ここに加藤との重要な違いがある。加藤は自民党の中の政治家を動かすことで自民党を変えようとしたのに対し、小泉は地方党員と一般有権者の支持を党内部へ流し込み、その圧力によって国会議員の行動を変えようとした。つまり、小泉は組織を捨てたのではなく、組織に作用する力の入口を変えたのである。

 2001年に小泉が掲げた「自民党をぶっ壊す」という言葉が強い意味を持ったのも、そのためだった。自民党総裁になろうとする政治家が自民党を壊すと語るのは論理的には矛盾している。しかし小泉は、自民党に対する国民の不満を自民党そのものを改革する力へ変換し、その改革者として自分を位置付けた。党への批判を党外へ逃がすのではなく、党内の権力獲得に利用したところに、小泉政治の特徴があった。

三人を分けたのは思想だけではなく「権力への接近方法」だった

 YKKが同じ道を歩まなかった理由を、政策思想の違いだけで説明することはできない。もちろん外交、安全保障、経済政策などについて三人の考え方には違いがあったが、それ以上に重要なのは、政治的権力をどこから獲得し、どのように動かそうとしたかという違いである。

 加藤は党内で信頼と合意を積み重ね、その延長線上で首相になるという戦後自民党型の政治を基礎にしていた。山崎は党内の勢力均衡を読みながら影響力を保ち、その中で機会を作る政治を得意とした。小泉は従来の派閥力学だけでは自分が圧倒的に有利ではないことを理解し、地方党員票と世論を利用して党内の勢力均衡そのものを変えようとした。

 したがって三人の違いを単純化して表現するなら、加藤は組織内の合意形成を重視し、山崎は組織内の力学を利用し、小泉は組織の内外を結びつけることで権力構造を組み替えた、と考えるのが最も実態に近い。

 この違いは政治家としての性格とも関係していたと考えられる。加藤は複雑な問題を複雑なまま理解しようとする傾向が強かったのに対し、小泉は複雑な問題を有権者が理解しやすい一つの争点へ集約することに長けていた。郵政民営化はその典型であり、実際には郵便、郵便貯金、簡易保険、財政投融資、地域金融など多数の論点が絡む政策だったが、小泉はそれを「改革を進めるのか、それとも止めるのか」という政治的対立軸へ変換した。

小泉を可能にしたのは、人物だけではなく制度だった

 ただし、小泉が成功し、加藤が失敗した理由を、二人の性格や政治能力だけに求めることも適切ではない。二人が活動した時代には、日本政治の制度そのものが変化していた。

 1990年代の政治改革によって衆議院選挙には小選挙区比例代表並立制が導入され、候補者個人だけでなく政党の看板や党首の人気が選挙結果を左右する度合いが高まった。さらに政党による候補者公認の重要性が増し、中央省庁再編などを通じて首相官邸の政策調整能力も強化されていった。こうした制度変化は、派閥間調整を中心とした従来型の首相とは異なる、党首の人気と選挙を直接結びつける政治を可能にする条件となった。

 政治的な成功を単一の原因で説明することはできない。小泉の成功は、本人の政治的個性だけでなく、世論の支持、地方党員票、選挙制度、党執行部の公認権、首相としての制度的権限、そしてそれらを使いこなす戦略が組み合わさった結果と見る方が妥当である。

 逆に考えれば、加藤の乱の失敗も、加藤個人の弱さだけで説明することはできない。党内議員の造反によって政権を倒そうとした加藤の戦略は、当時の自民党執行部が持つ統制力と正面から衝突した。政治家の能力だけでなく、その能力がどのような制度環境で使われたのかを見る必要がある。

「加藤の乱」と「郵政解散」は、二つの改革手法の対照だった

 2000年の加藤の乱と2005年の郵政解散を並べると、YKK三人の違いと自民党政治の変化が鮮明になる。どちらも自民党内部の現状を変えようとした政治行動だったが、その方法は正反対だった。

 加藤は国会議員を動かすことによって政権を変えようとした。それに対し、小泉は郵政民営化関連法案が参議院で否決されると、衆議院を解散し、有権者に判断を求めた。さらに衆議院で郵政民営化法案に反対した自民党議員を原則として公認せず、その選挙区の多くに別の候補者を擁立した。党内対立を閉じた党内交渉で処理するのではなく、選挙という公開された場へ持ち出したのである。

 この2005年の衆議院選挙で自民党は296議席を獲得し、単独で衆議院全体の六割を超える議席を占める大勝となった。加藤の乱では党内執行部による議員の切り崩しが倒閣運動を止めたのに対し、郵政解散では首相自身が公認権と選挙を使って党内反対派へ圧力を加えた。わずか五年間の違いだが、そこには自民党政治における権力の使い方の大きな変化が表れていた。

小泉政治と「テレビ政治」をどう見るか

 小泉政治を語るとき、テレビの存在を無視することはできない。小泉は短く分かりやすい言葉を使い、複雑な政策を明確な対立構図へ変え、ニュース番組が扱いやすい政治的場面を作ることに長けていた。2005年の郵政選挙でも、郵政民営化への賛否や、いわゆる「刺客候補」などが大量に報道され、選挙に対する有権者の関心を高めた。

 しかし、「テレビが小泉を勝たせた」とまで言うのは正確ではない。小泉への支持と自民党への支持が相互に結びついた「小泉効果」は統計的研究でも確認されているが、メディア報道だけが支持を直接生み出したと単純に証明されているわけではない。より慎重に言えば、小泉の政治手法と、テレビを中心とした当時の政治報道環境との親和性が非常に高かったのである。

 加藤の政治は、長い説明と交渉によって合理的な結論へ到達する政治だった。それに対して小泉の政治は、対立軸をはっきりさせ、その選択を有権者に示す政治だった。どちらが政治として優れているかは一概には言えないが、テレビを通じて政治が大量の有権者へ直接伝わる時代には、小泉型の政治の方が大きな動員力を持ちやすかった。

YKKという名前が隠していたもの

 YKKという呼び名は、三人を一つの政治グループのように見せる。しかし振り返ってみると、この名前の最も興味深いところは三人の共通点ではなく、その内部に最初から存在していた違いである。

 加藤には、政策と理性、そして党内合意によって自民党を改善できるという信頼があった。山崎には、政治とは理念だけでは動かず、力関係を読み続けなければならないという現実主義があった。そして小泉には、自分を阻む既存の仕組みがあるなら、その仕組みそのものを国民の前で争点化し、世論を党内権力へ変えてしまうという政治技術があった。

 若いころには、これらの違いは互いを補う個性に見えた。しかし三人が首相候補として権力の近くへ進むほど、その違いは拡大した。権力が遠くにあるうちは、三人とも「改革」という言葉で結ばれることができる。ところが首相という椅子が現実のものになると、誰を説得し、誰と戦い、誰を味方にし、どこまで組織と対立するのかという具体的な選択を迫られる。

 権力とは、人間の性格を突然変えるものというより、その人がもともと持っていた政治観を拡大して見せる装置なのかもしれない。加藤の乱で、山崎は加藤と行動をともにし、小泉はそこから離れた。そのわずか一年後、小泉が首相となり、敗れた山崎を幹事長として自らの政権を支える側へ迎え入れたという事実は、政治における人間関係と権力関係の複雑さを象徴している。

同じ道を歩まなかったからこそ、YKKは面白い

 もし山崎、加藤、小泉の三人が最後まで同じ政治行動を取り続けていたなら、YKKはこれほど興味深い存在として残らなかったかもしれない。三人が別々の道を歩いたからこそ、1990年代から2000年代にかけて、自民党政治がどのように変質したのかが、その政治人生を通して見えてくる。

 加藤の政治には、戦後自民党が長く培ってきた合意形成型政治の成熟と、その限界が現れていた。山崎の政治には、状況が変わっても組織の中に戻り、次の局面で影響力を取り戻す自民党政治の柔軟さが現れていた。そして小泉の政治には、地方党員票、世論、選挙、党執行部の権限を組み合わせ、党内権力の構造そのものを動かす新しい政治手法が現れていた。

 三人は同じ1972年に国会へ入り、同じ自民党という巨大な船に乗り、長いあいだ同じ海を航海した。しかし船が古くなり、外から大きな波が押し寄せたとき、加藤は船内の秩序を組み替えようとし、山崎は船の中の力学を読みながら生き残る場所を探し、小泉は乗客の声まで利用して船の進路そのものを変えようとした。

 YKKがなぜ三人とも同じ道を歩まなかったのかという問いに、一つだけの答えはない。性格の違いもあれば、政策思想の違いもあり、政治制度や時代環境の違いもあった。しかし最も重要なのは、三人が共有していたのが「このままではいけない」という問題意識までであり、「では、どこから力を得て、どう変えるのか」という問いへの答えは最初から同じではなかったということである。

 首相になれなかった加藤、首相を支える側へ戻った山崎、そして首相となり自民党内部の対立そのものを国民に問いかけた小泉。同じ時代、同じ年に政治家として出発した三人の軌跡を重ねると、政治家の運命を決めるのは政策の正しさや能力だけではなく、制度と世論が変化する瞬間に、自分の政治手法をその変化へ適応させられるかどうかであることが見えてくる。

 YKKとは、三人が同じだったことを示す名前ではない。むしろ、同じ場所から出発し、同じ時代の自民党に違和感を抱いた三人が、権力という分岐点を前にしたとき、まったく異なる方法を選んだことを後世に残した名前なのである。

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 政治家の能力を試験の点数のように測ることができるなら、宮澤喜一は戦後日本の首相の中でもかなり上位に位置しただろう。大蔵省で行政を経験し、経済、財政、金融、外交に通じ、外国要人と英語で直接対話できるほど語学にも堪能だった。戦後日本の制度がどのように形成され、官僚機構がどのように動き、アメリカを中心とする国際秩序の中で日本がどこまで行動できるのかについても、長い政治生活を通して深く理解していた人物だった。

 それにもかかわらず、1991年に首相となった宮澤が、後世から「日本政治を大きく動かした首相」として語られることはそれほど多くない。むしろ1993年、自民党が衆議院で過半数を失い、非自民勢力による細川護熙政権が成立する直前の首相として記憶されている。この落差は、宮澤個人の評価を超えて、政治という仕事の本質を考えるうえで興味深い。

 政治では、問題を理解する能力と、問題を解決する能力は同じではない。さらに言えば、政策として合理的な答えを見つけることと、その答えを議会、政党、官僚、業界、世論の中で実際の決定へ変えることの間には、大きな隔たりがある。宮澤喜一という政治家を考えるときに重要なのは、「知識があったのになぜ失敗したのか」という単純な問いではなく、「政策を理解する知性を、なぜ政治的な多数と実行力へ十分に変換できなかったのか」という問いである。

 宮澤の政策を見る目が決して鈍かったわけではないことは、バブル経済崩壊後の金融問題を見るとよく分かる。1990年代初頭、日本の金融機関には不動産価格や株価の下落によって不良債権が急速に積み上がり始めていたが、損失の全体像はまだ十分に表面化していなかった。その段階で宮澤は、金融システムの安定のためには公的な関与や公的資金の投入まで視野に入れる必要があるとの考えを示していた。

 後に日本は金融危機の深刻化を受け、実際に巨額の公的資金を投入することになる。その後の展開を知る現在から見れば、宮澤の問題認識には先見性があったと評価できる。しかし当時、公的資金による金融機関救済は簡単に国民の理解を得られる政策ではなかった。バブル期に融資を膨張させた金融機関を、なぜ国民の税金で助けなければならないのかという反発が当然予想され、金融機関の側にも不良債権を一気に表面化させたくない事情があり、官僚組織にも従来の行政責任を問われることへの警戒があった。

 つまり、宮澤には問題が見えていたとしても、その認識だけで政策が実現するわけではなかった。政策を現実にするためには、損失を誰が負担するのかを明らかにし、国民に必要性を説明し、金融機関や官僚機構を動かし、与党内の反発を抑えながら議会で多数を形成しなければならない。政治における「実行力」とは、首相が強い言葉で決断することではなく、異なる利害を持つ人間を一つの決定へ集約していく力なのである。

 宮澤政権が直面していた問題は金融だけではなかった。1980年代末から1990年代初頭にかけて、リクルート事件をはじめとする政治と金の問題によって、自民党政治そのものへの不信が急速に強まっていた。国民が求めていたのは個別政策の修正だけではなく、政治の仕組みそのものを変えることだったため、選挙制度改革を中心とした政治改革が大きな争点となっていった。

 ところが選挙制度改革は、普通の政策とは性質が違う。税率を変えたり公共事業の予算を増減したりするのとは異なり、国会議員自身が次の選挙で当選できるかどうかを左右するからである。議員にとっては理念の問題であると同時に、自分の政治生命そのものにかかわる問題だったため、「政治改革には賛成だが、自分が不利になる改革には反対する」という行動が起こるのは、ある意味では合理的だった。

 宮澤はその利害の衝突を乗り越えるだけの政治的主導権を確立できなかった。ここを「優柔不断だった」と一言で片づけてしまうと、当時の政治構造を見失ってしまう。政治改革を進めれば自民党内部の反発が強まり、進めなければ世論の批判が高まるという状況の中で、宮澤が扱っていたのは単なる政策論争ではなく、自民党そのものの権力構造だったからである。

 さらに自民党内部には、政治改革だけでは説明できない派閥間の対立が存在していた。竹下派内部では小沢一郎らをめぐる権力争いが進み、党内の次の主導権をめぐる対立が政治改革問題と結びついていった。1993年6月、宮澤内閣に対する不信任決議案が衆議院で可決されたとき、野党だけでなく自民党内部からも造反者が出たことは象徴的だった。

 不信任案可決を受けて宮澤は衆議院を解散し、同年7月の総選挙に臨んだが、自民党は第一党には残ったものの過半数を確保できなかった。その後、非自民勢力による細川護熙政権が成立し、1955年以来続いてきた自民党中心の政権構造は大きな転換点を迎えることになった。

 ここで注意したいのは、「1955年から1993年まで自民党の単独政権が一度も途切れなかった」というわけではないことである。1983年には中曽根政権が新自由クラブとの連立政権を成立させているため、1993年を単純に「自民党単独政権が初めて終わった年」と表現するのは正確ではない。それでも1993年が、日本政治のいわゆる55年体制に大きな亀裂が入った年であることに変わりはない。

 宮澤にとって不幸だったのは、この大きな転換が、首相個人の力量だけでは制御しにくい複数の変化と同時に起きたことである。バブル経済が崩壊し、金融システムには不良債権が蓄積し、冷戦が終わって日本の国際的役割が問い直され、政治と金への批判が高まり、自民党内部では派閥秩序が揺らいでいた。宮澤は一つの問題を処理すれば済む首相ではなく、戦後日本の政治経済システムそのものが転換期に入った時期の首相だった。

 そう考えると、宮澤の失敗を「頭はよかったが政治力がなかった」と説明するだけでは不十分である。確かに宮澤には、党内を強引にまとめるタイプの政治家とは異なる面があったが、それ以上に重要なのは、当時の首相が置かれていた制度的条件である。首相が政策を実現するには、自民党総裁として党内多数を維持しながら、派閥間の利害を調整し、官僚機構を動かし、衆参両院で法案を成立させ、同時に世論の支持を失わないようにしなければならない。

 この構造を数式のように単純化するなら、政治的成果は「首相個人の能力」だけで決まるのではなく、政策能力、党内基盤、議会多数、官僚との関係、世論、経済状況、利害集団、政治的タイミングなど、多数の変数の組み合わせによって決まると考える方が現実に近い。宮澤の政策知識が高かったことと、政権が十分な成果を残せなかったことが同時に観察されたとしても、「知識が豊富だったから動けなかった」と因果関係を逆向きに結びつけることはできない。

 むしろ宮澤政権が示しているのは、政策知識の豊富さが政治的成果の十分条件ではないということである。問題を理解していても、それを実行するための支持、制度、時間、政治的連合が整わなければ政策は動かない。逆に、強い政治基盤があっても政策理解が乏しければ、決断力は単なる暴走になり得るため、知識と政治力はどちらか一方を選べばよいという関係ではない。

 宮澤の経歴についても、単純に「官僚出身だったから政党政治に弱かった」と考えるのは適切ではない。宮澤が大蔵省出身だったことは事実だが、1953年に国会議員となってから首相に就任する1991年まで約四十年にわたり国政の中心にいたため、首相となった時点ではすでに十分すぎるほど長い政治経験を持っていた。外務大臣、大蔵大臣、官房長官などを歴任し、自民党内部の権力構造についても知らない人物ではなかった。

 それでも、宮澤が長年磨いてきた政策形成能力と、1990年代初頭に求められた政治能力との間にはずれがあったと考えることはできる。戦後日本の制度を熟知し、その内部で調整を積み重ねる能力は非常に高かったが、制度そのものが揺らぎ、政党再編まで視野に入る状況では、既存の仕組みを使って合意を形成する能力だけでは十分ではなかった。

 これは、古い建物の構造を誰よりも詳しく知る建築家が、その建物の管理責任者になったようなものだった。柱の位置も配管の経路も理解しており、どこに亀裂が生じているかも見えている。しかし建物そのものを建て替える段階に入れば、設計図を読む能力だけでは足りず、住人を説得して退去させ、資金を集め、反対する所有者と交渉し、新しい建物の姿を示さなければならない。

 ただし、宮澤政権を「何もできなかった政権」と見るのも正確ではない。外交・安全保障の分野では、1992年に国際連合平和維持活動などへの協力を可能にする国際平和協力法が成立し、日本はカンボジアのPKO(Peacekeeping Operations・国際連合平和維持活動)に参加することになった。湾岸戦争では巨額の資金協力を行いながら、日本の国際的貢献が十分に評価されなかったという経験があり、その後、日本が人員を伴う国際協力へ踏み出したことは戦後外交の重要な転換の一つだった。

 この事実は、宮澤を単純に「決断できなかった首相」と評価することの危険性を示している。すべての政策分野で主導力を欠いたわけではなく、政治的条件が整った分野では制度を動かしている。したがって宮澤政権を評価する場合、個人の性格や決断力だけで説明するのではなく、「どの政策では実行でき、どの政策では実行できなかったのか」を比較し、その違いを生み出した政治的条件を見る必要がある。

 こうして考えると、宮澤喜一という政治家の興味深さは、「知識がありすぎたため決断できなかった」という心理的な物語にあるのではない。むしろ問題は、政策を理解する能力があっても、それを政治的多数へ変換する制度的・党内的条件が整わなければ、首相でさえ政策を自由には動かせないという事実にある。

 政治では正しい答えを持つことが重要だが、その答えを実行できる状態を作ることも同じくらい重要である。必要性を説明し、反対者と交渉し、支持者を増やし、時には自分の政治的資源を消耗しながら多数を形成しなければ、正しい政策も紙の上に残るだけで終わる。

 宮澤には地図がなかったのではない。むしろ地図はかなり正確だった。しかし1990年代初頭の日本で必要だったのは、地図を読む能力だけではなく、すでに崩れ始めた道を通る人々をまとめ、新しい道を作ることだった。その作業には、知識とも経験とも異なる種類の政治的力が必要だったのである。

 だから宮澤喜一の挫折を、「頭のよい政治家は政治に向かない」という教訓に変えてしまうべきではない。それは事実から導くには飛躍が大きすぎる。宮澤の経験から読み取れるのは、政策知識の豊富さが政治的成功の十分条件ではなく、知識、権力基盤、世論形成、利害調整、制度設計、そして政治的タイミングが結びついたときに初めて大きな政策変更が可能になるという、より現実的な政治の姿である。

 宮澤喜一は、おそらく戦後日本で最も政策をよく理解していた首相の一人だった。それでも、その知識をすべて政治的成果へ変えることはできなかった。しかし、それは必ずしも宮澤個人だけの失敗ではない。古い政治秩序が崩れ、新しい秩序がまだ見えていなかった時代に、戦後日本の制度を最もよく知る政治家の一人が、その制度そのものの限界に直面したのである。

 その意味で宮澤喜一の首相時代は、一人の政治家の成功と失敗を超えた意味を持っている。政治を動かすには、知識だけでも、経験だけでも、強い決断だけでも足りない。それらを人間と制度の中で結びつけ、実際の多数と行動へ変換する能力が必要であり、宮澤喜一という政治家の歩みは、その難しさを戦後日本政治の転換点において極めて鮮明に示したのである。

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 政治家は、世論に従うべきなのだろうか。それとも、ときには世論が追いつく前に進むべきなのだろうか。民主主義では、政治家は選挙によって国民から権力を預けられる以上、世論を無視することはできない。しかし外交や安全保障のように、国際情勢が短期間で大きく動く分野では、国民の意見が十分に固まるまで待っている間に、国家として選択できる道そのものが狭くなることもある。1972年、田中角栄内閣が実現した日中国交正常化は、この難問を考えるうえで、半世紀以上を経た現在でも極めて興味深い事例である。

 もっとも、この出来事を「田中角栄という強力な政治家が、国民や官僚がためらうなかで一人だけ未来を見抜き、中国との国交正常化を実現した」と描いてしまえば、物語としては分かりやすいものの、歴史の実像からは離れてしまう。1972年9月29日、日本政府と中華人民共和国政府が北京で共同声明に調印し、両国の外交関係が樹立されたことは疑いない。しかし、その道筋は田中一人によって突然生み出されたものではなく、それ以前から政治家、経済界、民間団体などによる交流が長く積み重ねられ、日本国内でも中国との関係を改める必要性が徐々に意識されるようになっていた。

 さらに、日本だけを見ていては、この出来事の意味を十分に理解できない。1971年には、中華人民共和国が国際連合における中国の代表権を得て、国際社会における中国の位置づけそのものが大きく変わった。翌1972年2月には、それまで中国と厳しく対立してきた米国のリチャード・ニクソン大統領が北京を訪れ、毛沢東主席や周恩来首相との会談を行っている。米国と中国の正式な国交正常化は1979年まで待たなければならないが、1972年の時点で東アジアの外交構造が動き始めていたことは明らかであり、日本が従来の中国政策を維持し続けることにも、次第に大きな政治的コストが生じるようになっていた。

 ところが、外交政策は国際環境が変化したからといって、自動的に同じ速度で変わるわけではない。昨日まで正当とされていた政策には、それを支えてきた外交関係、政党内の勢力、官僚組織の判断、経済的利害、さらには過去の説明との整合性が結びついているため、進路を変えるには相応の抵抗が生じる。政治の世界では、社会の現実が先に動き、制度や政策が少し遅れてそれを追いかけることが珍しくない。田中角栄の特徴は、日中国交正常化という考えを誰よりも早く発見したことではなく、すでに生じていた国際環境と国内政治の変化を短期間で外交上の決定へ変えたところにあったと考える方が実態に近い。

 田中は1972年7月に自由民主党総裁となり、その直後に首相へ就任すると、日中国交正常化に積極的な姿勢を明確にした。その時点から、わずか二か月余り後の9月25日には北京を訪れている。そして周恩来首相らとの交渉を経て、9月29日に日中共同声明が調印された。この速度は、日本外交の歴史を考えても極めて速い。しかも、ここで決めなければならなかったのは、単に新しい国との外交関係を一つ増やすという話ではなかった。日本政府は中華人民共和国政府を中国の唯一の合法政府として承認し、その結果として、それまで外交関係を維持してきた台湾の中華民国政府との正式な外交関係を終了させることになった。

 そのため、田中の決断を「世論の支持を受けて進めた政策」とだけ評価することも正確ではない。1972年夏、田中内閣の発足直後に行われた世論調査では、新内閣にまず取り組んでもらいたい外交課題として「日中国交回復」を挙げた人が36%に達し、次に多かった米国との経済関係調整の14%を大きく上回っていた。この数字は、日中国交正常化が当時の国民にとって非常に重要な外交課題となっていたことを示している。

 ただし、この36%という数字を「国民の36%が国交正常化に賛成していた」と読み替えてはいけない。質問は、日中国交正常化の賛否そのものを聞いたものではなく、新内閣が優先して取り組むべき外交課題を尋ねたものであり、統計的には両者は異なる。ここを混同すると、世論を実際以上に単純化してしまう。正確に言えば、1972年夏の日本社会では、数ある外交課題の中で日中国交正常化を優先すべきだと考える人が相対的に多く、その問題への関心が極めて高まっていたのである。

 しかも、もう一つ重要な数字がある。国交正常化直前に行われた世論調査では、「中国との国交回復のためには台湾との関係が切れてもやむを得ない」と考えた人は11%程度にとどまっていたとされる。つまり、多くの国民は中国との関係改善を望む一方で、そのために台湾との正式な外交関係を断つことについては、必ずしも十分に納得していなかった可能性が高い。ここに、1972年の世論を理解するうえで極めて重要な二重性がある。

 国民は、中国との関係を正常化したいと考えていた。しかし、台湾との関係まで失いたいとは考えていなかった。ところが現実の外交では、この二つを完全に両立させることは困難だった。中国側が自国を中国唯一の合法政府とする立場を譲らない以上、日本政府はどこかで選択を迫られる。その意味では、田中角栄は世論に逆らって国交正常化を行ったわけではないが、世論が完全に受け入れていた政策をそのまま実行しただけでもない。

 ここに、田中政治のもっとも興味深い部分がある。国交正常化そのものについては社会全体の重心がすでに動いていた一方で、その実現に伴う代償まで国民が十分に受け入れていたわけではなかった。田中内閣は、その矛盾を抱えたまま決断したのである。言い換えれば、田中は世論から百歩先を走った政治家ではなかったが、国民が望んでいる方向を読みながら、その実現に必要な最後の一歩については政治家自身の判断で踏み出したと考えることができる。

 この違いは小さくない。政治家が世論の向かう方向を読むことと、国民が望んでいない方向へ独断で進むことは同じではないからである。世論とは、いつも一つの結論に整然とまとまっているものではない。「中国との関係は改善したい。しかし台湾との関係も維持したい」「米国との同盟は重視したい。しかし米国自身が中国へ接近している」というように、現実の国民意識には複数の希望が同時に存在し、ときには互いに矛盾する。政治家が向き合うのは、その矛盾をすべて満足させる政策ではなく、どの利益を優先し、どの損失を受け入れるかという選択である。

 その意味で、田中角栄の日中国交正常化を「決断力」という一言だけで説明するのも十分ではない。大胆な行動なら誰にでもできるが、政治に求められる決断は、単なる勇気とは違う。国際情勢、国内世論、与党内の力学、野党の動向、官僚組織の判断、中国側の交渉姿勢、米国との関係という複数の条件を読み、どの時点ならば政策変更が可能になるのかを判断しなければならない。1972年には、これらの条件の多くが同時に動いていた。

 実際、中国側も田中内閣成立後の日本政府の姿勢を歓迎し、早い段階から国交正常化への意欲を示していた。日本国内でも、社会党、公明党、民社党を含む野党側に正常化を求める動きがあり、経済界や民間交流の蓄積も存在していた。一方では、政府や自由民主党内部に台湾との関係維持を重視する勢力も存在しており、日本の政治が一枚岩だったわけではない。こうして見ると、田中角栄を日中国交正常化の唯一の「原因」と考えるよりも、長期的に蓄積していた変化を短期間で現実の外交政策へ転換した強力な加速要因と考える方が、因果関係としても妥当である。

 科学的な因果推論の考え方を歴史に当てはめるなら、「田中内閣が成立した後に国交正常化が実現した」という時間的順序だけから、「田中角栄がすべてを実現した」と結論づけることはできない。そこには国際連合における中国の位置づけの変化、米中接近、中国政府の外交姿勢、日本国内の世論変化、与野党の動向、経済界や民間交流といった複数の要因が存在している。むしろ、これらの構造的条件が長期間にわたって正常化の可能性を高め、その最後の段階で田中内閣の政治判断が実現時期を大幅に早めたと考える方が自然だろう。

 だからこそ、「政治家は世論より先に動くべきなのか」という問いには、単純な肯定も否定もできない。世論を無視し、自分だけが未来を理解していると政治家が考え始めれば、それは指導力ではなく独善へ転じる危険がある。しかし反対に、世論調査で十分な多数が形成されるまであらゆる判断を先送りするならば、外交のように機会を逃せば条件そのものが変わってしまう分野では、国家として最適な選択ができなくなる可能性もある。

 世論調査は、社会の現在位置を測るには有効である。しかし政治が決めなければならないのは、現在位置だけではない。政策には将来の結果が伴い、とりわけ外交政策では数年後、場合によっては数十年後まで影響が続く。その意味では、政治家に必要なのは単なる世論への追随ではなく、国民の意識がどちらへ動いているのか、その方向と速度を読むことである。

 1972年の田中角栄を見ると、この「方向」と「速度」という考え方がよく分かる。日中国交正常化を望む流れはすでに存在していた。しかし、正常化に伴う台湾との断交という現実までは、国民の多くが十分に受け入れていなかった。田中は世論から完全に独立して動いたのではなく、世論が作り出した大きな方向性の中で、まだ決着していなかった選択を政治判断として引き受けたのである。

 もちろん、1972年の国交正常化によって、その後の日中関係が安定したわけではない。歴史認識、領土、安全保障、台湾問題など、両国関係を揺さぶる問題はその後も繰り返し現れている。しかし、後に問題が発生したという理由だけで、1972年の外交判断そのものを失敗だったと結論づけることもできない。外交関係とは、問題を消滅させるためだけに存在するものではなく、問題が存在するときに交渉できる制度的な回路を作ることにも意味があるからである。

 田中角栄の日中国交正常化を振り返ると、政治家が世論より先に進むという表現そのものを、少し修正する必要があるのかもしれない。優れた政治家とは、国民の百メートル前を独りで走っていく人物ではない。国民と同じ社会に立ち、その不安や期待を共有しながら、社会全体がどちらへ動きつつあるのかを読み、すべての希望を同時には実現できない分岐点に立ったとき、その選択の意味を説明し、自ら決断を引き受ける人物なのである。

 1972年の田中角栄は、誰にも見えていない道を一人で発見したわけではなかった。多くの国民が中国との関係を改める必要性を感じ、国際社会もすでに動き始めていた。その流れの中で田中が行ったことは、「いつか変えなければならない」と考えられていた外交方針を、「いま変える」という具体的な政治判断へ変換することだった。

 そこにこそ、日中国交正常化から半世紀以上を経ても考える価値が残っている。政治家は世論より先に動くべきなのかという問いに対する答えは、おそらく「常に先に動くべきだ」でも「常に世論に従うべきだ」でもない。世論の方向を見極めながら、国民がまだ十分には受け入れていない現実についても、その必要性を説明し、判断の結果に責任を負う覚悟があるときに限って、政治家は最後の一歩を先に踏み出すことが許される。

 政治家に必要なのは、世論を追い越す速さではない。社会がどちらへ進もうとしているのかを見抜き、その先にある選択肢と代償を国民に示す能力である。1972年の日中国交正常化は、その難しさを今なお鮮やかに映し出している。

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「守る政治家」と「選ばれる政治家」のあいだ

 政治家の力量というものは、一枚の通知表では測れない。平時には地味に見えていた人物が非常時になると急に大きく見え、反対に、危機のただ中で強い存在感を示した人物が選挙になると同じようには評価されないことがある。枝野幸男という政治家を長い時間軸で眺めると、この政治家評価の不思議な変化がかなり鮮明に見えてくる。

 2011年3月、東日本大震災と福島第一原子力発電所事故が重なったとき、枝野は官房長官として連日のように記者会見に立った。政府の対応や情報発信そのものについては当時から多くの批判があり、後から見れば検証すべき問題も少なくない。しかし、それとは別に、混乱の中で繰り返し表に立ち、政府が把握している情報を説明し続けた枝野個人への評価が上昇したことも確認できる。2011年春の世論調査では、次期首相にふさわしい人物として枝野の名前が上位に現れ、政府全体への不信が強い状況の中でも、政府報道官としての枝野本人には一定の評価が集まるという興味深い現象が起きていた。

 これは単なる「震災のときによくテレビに出ていた」という記憶だけではない。危機という特殊な環境が、普段とは異なる政治家の能力を可視化した可能性がある。

 ただし、ここで注意しなければならない。危機のときに評価された政治家なら、当然、選挙でも強いはずだという推論は成り立たない。危機と選挙では、有権者が政治家を見るときの採点基準そのものが違うからである。

 危機では、すでに問題が目の前に存在している。地震が起き、原子力発電所で事故が起こり、感染症が拡大し、金融市場が混乱しているなら、政治家が最初に求められるのは「何を目指すか」を考えることではなく、すでに発生した問題をどのように処理するかである。情報を集め、状況を整理し、優先順位をつけ、不確かな情報を不確かなまま扱いながら、限られた時間の中で判断しなければならない。

 このような場面では、政治家に求められる資質も平時とは変わる。大胆な夢を語る能力より、混乱を整理する能力が重要になり、強い断定より慎重な説明が有効になることがある。何が起こるか分からない状況で「絶対に大丈夫だ」と断言する政治家より、「現時点で確認できているのはここまでであり、この先には不確実性が残る」と説明する政治家のほうが信頼される場合がある。

 枝野の政治的な話し方には、もともとこうした状況と相性のよい部分があるように見える。法律家出身であることだけを理由に性格まで決めつけることはできないが、公の場での発言を見る限り、条件を区切りながら説明し、制度や手続きを重視し、容易に大きな断定をしない傾向がある。平時の政治では、その話し方が理屈っぽさや慎重すぎる印象につながることがある一方、不確実性の高い危機では、同じ特徴が「暴走しにくい」「状況を整理して説明する」という安心感につながる可能性がある。

 つまり、危機になると枝野自身が別の政治家になるわけではない。同じ資質に対する評価の重みが変わるのである。統計的な言葉を借りれば、政治家の能力そのものだけでなく、その能力に対して有権者が付ける重みが環境によって変化していると考えたほうがよい。

 選挙になると、その重みづけは再び変わる。投票所へ向かう有権者は、災害対策本部の責任者だけを選んでいるのではない。賃金はどうなるのか、物価はどうなるのか、社会保障は維持できるのか、子どもの世代にどのような社会を残すのか、日本は十年後にどの方向へ進むのかという、互いに性質の違う問題を一つの選択にまとめなければならない。

 そこで政治家には、目の前に存在する問題を整理する能力だけでなく、無数の問題の中から「何を最重要課題とするのか」を選び、それを一つの未来像へまとめる能力が必要になる。危機では問題の側が政治家に課題を与えてくれるが、選挙では政治家自身が「これこそが問題である」と社会に提示しなければならない。この違いは思った以上に大きい。

 危機の場面では「この人に任せて大丈夫か」という評価が強く働くのに対し、選挙ではそれだけでなく、「この人に任せたら今とは違う未来が見えるか」という評価が加わる。前者は安心を測る問いであり、後者は期待を測る問いでもある。

 もちろん、これは厳密な法則ではない。選挙でも有権者が変化より安定を求めることはあるし、危機の最中でも大胆な方向転換が支持されることはある。それでも一般論として、危機では統治能力や安心感の比重が高まり、選挙ではそれに加えて未来への期待や方向性が問われると考えると、枝野への評価の変化をかなり説明しやすくなる。

2017年は「危機に近い選挙」だった

 この仮説を考えるとき、2017年の衆議院選挙は非常に興味深い。枝野は同年、立憲民主党を立ち上げ、短期間のうちに大きな政治的存在感を得た。これだけを見れば、「選挙になると枝野の評価が下がる」という説明には明らかな反例があるように見える。

 しかし、2017年を通常の政権選択選挙としてだけ捉えると、その特殊性を見落とす。当時、民進党は希望の党への合流をめぐって大きく揺れ、従来の民進党支持層の一部には、自分たちの考え方を代表する投票先がなくなるのではないかという感覚が広がっていた。そこで枝野が新党を立ち上げたことは、単にもう一つ政党を増やしたという以上の意味を持った。

 枝野自身も後に、選択肢がなくなると感じた人々から受け皿を求める声があったことを語っている。つまり、この局面では「どのような日本を十年かけてつくるのか」という壮大な国家構想を示す前に、「この政治的選択肢を消してはならない」という課題が突然目の前に現れたのである。

 そう考えると、2017年は通常の意味での選挙であると同時に、枝野にとっては一種の政治的危機への対応でもあったと言える。何を守るべきかが比較的明確になり、短期間で組織をつくり、選択肢を残すこと自体が政治的メッセージになったからである。

 ここで重要なのは、2017年の成功が「枝野は危機に強い」という仮説を証明したとまで言わないことである。選挙結果には、新党効果、希望の党をめぐる動き、報道量、候補者構成、既存野党支持層の移動、戦略的投票など、多数の要因が同時に作用している。その中から枝野個人の危機対応型リーダーシップだけを取り出して効果を測ることはできない。

 それでも2017年の出来事が、枝野の強みがどのような条件で表れやすいのかという仮説とよく整合していることは確かだろう。政治的な空白が生まれ、それを埋める必要が突然生じたとき、枝野の慎重さと制度志向は、普段とは違って決断力として見えたのである。

2021年になると、試験問題そのものが変わった

 それから四年後の2021年、枝野が置かれていた位置はまったく違っていた。立憲民主党は、消えかけた政治的選択肢を救うために急造された政党ではなく、野党第一党として政権交代を目指す立場になっていた。枝野自身も「立憲民主党を残せるか」を問われる人物ではなく、「枝野政権を選ぶ理由を示せるか」を問われる人物へ変わっていた。

 2017年には、守るべき対象が明確だった。2021年には、その先の社会を描かなければならなかった。この二つの仕事は似ているようで、政治的にはかなり違う。

 2021年の衆議院選挙で立憲民主党は96議席となり、公示前勢力を下回った。小選挙区では議席を増やすなど結果を単純に失敗とだけ評価できない面もあったが、政権交代を掲げた野党第一党として全体の議席を減らした以上、枝野が代表辞任に至ったことには政治的な必然性があった。

 ただし、この結果を「枝野には未来を語る能力がなかったから負けた」と説明してしまえば、分析としては粗すぎる。共産党との候補者調整、比例代表での政党支持、岸田政権発足直後という選挙時期、日本維新の会の伸長、各選挙区の候補者事情など、多数の要因が結果に影響しているためである。

 それでも、枝野の政治的言語が選挙で支持を大きく広げるには不利に働いた可能性は検討に値する。慎重に条件を示しながら制度を説明する言葉は、政策を誤解なく伝えるには適していても、有権者に「この政権になれば社会がこう変わる」という像を瞬間的に想像させるには弱い場合がある。これは枝野個人だけの問題ではなく、政策説明に強い政治家がしばしば直面するジレンマでもある。

政治家には「説明する能力」と「意味を与える能力」がある

 政治家の言葉には少なくとも二つの役割がある。一つは現実を正確に説明することであり、もう一つは、その現実に意味を与えることである。

 危機において重要なのは前者になりやすい。何が起きているのか、政府は何をしているのか、何が分かっていて何がまだ分からないのかを整理する必要があるからだ。そこでは言葉は現実に追いつかなければならない。

 ところが選挙では、言葉が現実より少し先を歩かなければならない。「今の社会はこうなっている」という説明だけでなく、「だから、次はここへ向かう」という方向を示す必要がある。まだ存在していない未来を語る以上、そこには当然、不確実性が入り込む。

 この不確実性をどこまで引き受けられるかが、枝野という政治家を考えるうえで重要なのかもしれない。危機管理では、分からないことを分からないと言える慎重さが価値になる。しかし選挙では、完全には分からない未来についても、ある程度の確信をもって方向を示さなければならない。

 政治家としての誠実さと選挙での強さは、常に同じ方向を向いているとは限らないのである。

「枝野は政治を演劇にしない」は事実ではなく、一つの読み方である

 枝野を語るとき、「政治を演劇にしない政治家」という表現は魅力的である。しかし、これは測定された事実というより、彼の政治的スタイルを理解するための一つの解釈である。

 枝野は、大げさな身ぶりや個人的英雄像を前面に押し出すタイプの政治家ではないように見える。政策や制度を説明するときにも、人物のカリスマ性そのものより、論理や手続きに重点を置くことが多い。この姿勢は、国家的危機の場面では合理的である。混乱時の政治に必要なのは、政治家本人の物語より、行政機構を動かし、専門知を集め、誤った判断の可能性を抑えることだからだ。

 しかし民主主義の選挙から演劇的要素を完全に取り除くことはできない。有権者は未来を見ることができないため、候補者の言葉、表情、物語、象徴を材料にして、まだ存在しない政権を想像するしかない。「この人物を首相にした日本はどのような国になるのか」という問いに答えるためには、政策の正確さだけでなく、未来を可視化する政治的表現も必要になる。

 枝野の慎重な政治姿勢が、この部分で支持拡大の障害になっている可能性はある。しかし、それは科学的に証明された事実ではなく、彼の言動と選挙結果から導かれる一つの有力な仮説として扱うべきだろう。

2024年は、別の比較材料を与えた

 2024年の立憲民主党代表選挙では、枝野は決選投票まで進んだものの、野田佳彦に敗れた。決選投票では野田232ポイント、枝野180ポイントだった。その後、野田代表の下で行われた衆議院選挙では、立憲民主党は選挙前の98議席から148議席へ大きく議席を伸ばした。

 この結果だけを見ると、「枝野より野田のほうが選挙向きだった」と結論づけたくなる。しかし、ここでも慎重さが必要である。2024年の選挙では自民党の政治資金問題が大きな争点となり、政権与党に対する逆風が存在していた。野田の党首としての力量、自民党側の問題、候補者配置、政党間競争などを完全に切り分けることはできない。

 それでも、2017年、2021年、2024年を並べて考えることには意味がある。枝野個人の資質だけですべてを説明するのではなく、政治家の評価は「その人物がどのような能力を持つか」と「その時代がどの能力を要求しているか」の組み合わせで決まるという見方が浮かび上がるからである。

危機では「安心」の比重が高まり、選挙では「期待」も必要になる

 枝野という政治家の評価の変化を最も簡潔に表現するなら、危機では「安心」の価値が上がり、選挙ではそれに加えて「期待」をつくる能力が問われるということになる。

 危機の最中、人々が第一に願うのは、明日が今日よりさらに悪くならないことである。そこで必要になるのは、予測可能性、慎重さ、情報整理、制度を逸脱しない統治である。政治家が不用意な断定や冒険をしないこと自体に価値が生まれる。

 ところが通常の選挙では、現状維持だけでは政権を替える理由になりにくい。有権者が野党に票を投じるためには、「現在の政権より安全である」というだけでなく、「こちらを選んだほうが生活や社会が良くなる」と感じられる何かが必要になる。

 そこで枝野の長所と弱点が同じ根から生まれる。慎重だから危機では信頼される一方、慎重だから未来を大胆に描く場面では物足りなく見えることがある。制度を重視するから暴走しにくい一方、制度を説明することに多くの言葉を使うほど、選挙で必要な単純で強いメッセージが薄くなる場合がある。

 これは枝野の能力が高いか低いかという単純な問題ではない。能力の組み合わせと、政治環境との適合の問題である。

政治家の評価は人物だけでは決まらない

 私たちは政治家を評価するとき、その人自身に固定された点数があるように考えがちである。しかし実際の政治家評価は、もっと相対的である。

 同じ慎重さでも、国家的危機では責任感になり、選挙戦では決断力不足に見える。同じ詳細な説明でも、混乱時には安心感になり、平時には話が長いと感じられる。同じ制度重視の姿勢でも、民主主義そのものが危機にあるときには強い政治的メッセージとなり、政策選択を競う通常選挙では特徴が弱く見えることがある。

 この視点から見ると、枝野幸男という政治家への評価が時期によって変わるのは、枝野本人が頻繁に変質しているからとは限らない。むしろ社会の側が政治家に求めるものを変えている可能性がある。

 2011年には、国民は混乱を整理する政治家を必要としていた。2017年には、消えかけた政治的選択肢を残す人物が求められる局面が生まれた。2021年には、その選択肢を守るだけでなく、政権を担った後の未来まで提示することが求められた。こうして並べると、枝野の評価の変化には一定の構造が見えてくる。

 ただし、それを「危機なら必ず枝野が評価され、選挙なら必ず評価が下がる」という法則にしてしまってはいけない。政治は実験室ではなく、同じ条件を二度再現することができないからである。選挙結果には経済状況、政権への評価、対立候補、政党組織、候補者調整、報道、スキャンダル、国際情勢など無数の変数が入り込む。一人の政治家の性格だけで結果を説明することはできない。

 だからこそ、枝野をめぐるこの考察は「証明」ではなく「仮説」として読むのが最も正確である。そしてその仮説は、2011年から2024年までの出来事を見る限り、少なくとも事実と大きく矛盾してはいない。

枝野幸男が映している民主主義の矛盾

 ここまで考えてくると、問題は枝野幸男という一人の政治家から、民主主義そのものへ移っていく。

 私たちは危機になると、冷静で慎重で、制度を理解し、簡単に断定せず、余計な冒険をしない政治家を求める。その一方で選挙になると、同じ政治家に大胆な構想、分かりやすい言葉、強い決断、未来への高揚感まで要求する。

 これはかなり難しい注文である。

 危機管理に適した性格と選挙運動に適した性格が完全に一致するとは限らない。あらゆるリスクを検討してから発言する人物に、三十秒で国の未来を語れと要求すること自体に矛盾がある。逆に、大胆な未来像を強く語る人物が、そのまま危機管理にも優れている保証はない。

 枝野幸男という政治家が興味深いのは、この矛盾が彼を通して見えやすくなるからである。危機が訪れると、普段は地味に見える慎重さが意味を持ち始める。危機が去り、政治が未来を競う舞台へ戻ると、その同じ慎重さが重く見えることがある。

 政治家の評価とは、政治家本人だけで決まるものではない。人物と時代の掛け算によって決まる。

 火事の最中、人は炎の向こうから現れて状況を整理し、消火の手順を説明する人物を頼もしく思う。しかし火が消えた翌朝、その人に「では、この土地にどのような町を造りますか」と尋ねた瞬間、必要になる才能は変わる。

 枝野幸男は、燃えている建物の前では能力が見えやすい政治家なのかもしれない。しかし選挙とは、火を消すだけでなく、まだ存在していない町の設計図を人々に見せ、その町で暮らしてみたいと思わせる仕事でもある。

 だから枝野幸男をめぐる本当の問いは、「危機に強いか、選挙に弱いか」という単純な二択ではない。

 危機が存在しない日に、どのような未来を示せるのか。

 2011年から続く枝野幸男への評価の揺れは、結局のところ、この問いに集約される。そして同時にそれは、政治家を選ぶ私たち自身が、危機のときと平時とでまったく異なる人物像を求めているという、民主主義の少し厄介な性質を映し出しているのである。

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 政治家は、敵をつくると分かりやすくなる。政権が間違っている、自分たちは正しい、だから政権を倒さなければならない――この構図には単純さがあり、演説にも選挙にも向いている。怒りには熱があり、対立には物語が生まれるからだ。ところが国民民主党の玉木雄一郎は、野党の党首でありながら、この分かりやすい物語から少し距離を置いてきた。政府を批判しないわけではないが、批判そのものを政治の成果とはせず、「対決より解決」「政策本位」を掲げ、最終的に何を動かしたのかを政治家の成績表にしようとしてきたのである。

 なぜ玉木は、政権批判より政策実現を前面に出すのか。この問いを「穏健な政治家だから」「自民党に近いから」と説明するだけでは、その政治戦略の重要な部分を見落としてしまう。本人の発言と国民民主党の行動をたどると、そこに見えてくるのは単なる性格ではなく、小さな野党がどのように存在価値をつくり、議席を増やし、その先で政権を目指すのかという一つの政治モデルである。ただし、そのモデルは2024年には大きな成功を収めたものの、2026年には早くも難しい局面を迎えている。

野党であることと、反対することは同じなのか

 玉木の政治姿勢を理解するうえで最初に確認しておく必要があるのは、彼が政権批判そのものを否定しているわけではないということである。税金の使い方がおかしい、政治とカネの問題がある、政府の制度設計が不十分であるなら批判する。しかしそこで仕事を終えず、「それなら、どう変えるのか」まで示さなければならないというのが、玉木が繰り返してきた「対決より解決」の基本的な考え方である。

 これは一見すれば当たり前のようだが、日本の野党政治を考えるとかなり重要な違いになる。野党には政権を監視し、行政の失敗や不正を追及し、権力の暴走を防ぐ役割があるため、政府との対立そのものが不要になるわけではない。一方で、有権者の側から見れば、国会でどれほど鋭い追及が行われても、自分が払う税金も社会保険料も変わらず、生活費も下がらなければ、「結局、自分たちの暮らしは何が変わったのか」という疑問が残る。

 玉木が狙ってきたのは、まさにその隙間だったと考えると分かりやすい。自民党には投票したくないが、政権への抗議だけを目的とする野党にも十分な魅力を感じない有権者に対し、「政府を倒すためだけではなく、政府を動かすために野党へ票を入れる」という選択肢を示すのである。この考え方が成功すれば、国民民主党は単なる反自民票の受け皿ではなく、「議席を与えると具体的な政策が動く政党」という独自の位置を占めることができる。

2024年、政策を前面に出す戦略は大きな成功を収めた

 この路線に強い手応えを与えたのが2024年10月の衆議院選挙だった。国民民主党は選挙前の7議席から28議席へと一気に4倍に伸び、比例代表の得票も大きく増加した。選挙で前面に出したのは「手取りを増やす」という極めて生活に近い言葉であり、その具体策として所得税の「103万円の壁」の引き上げや、減税、社会保険料負担の軽減などを訴えた。

 この結果を受けて玉木自身も、「対決より解決」「政策本位」や「手取りを増やす」政策が評価されたという趣旨の発言をしている。ただし、ここには科学的に区別して考えるべき問題がある。国民民主党が7議席から28議席へ躍進したことは事実だが、その原因が政策実現路線だけだったと証明されたわけではない。選挙結果は政権への評価、政治資金問題、物価高、候補者の力量、他党の状況、選挙運動、情報発信など数多くの要因が同時に作用して生まれるものであり、一つの原因だけを取り出して説明することはできない。

 したがって、より慎重に言うならば、2024年の躍進が「政策実現路線の正しさを証明した」のではなく、玉木と国民民主党に「この路線でさらに進める」という強い成功体験を与えたのである。この違いは小さいようで大きい。政治家は選挙という巨大な実験から学習するが、その結果には常に複数の原因が混ざっている。それでも、ある戦略を掲げたときに議席が4倍になれば、その戦略を捨てる合理的な理由は少なくなる。

「何を言ったか」ではなく「何を動かしたか」

 2024年選挙後、国民民主党が力を入れたのは、得た議席を政策の実現へ変えることだった。「103万円の壁」の引き上げやガソリン・軽油の暫定税率をめぐる議論は、その象徴になった。玉木は選挙で得た議席を、単なる国会内の人数としてではなく、政府との交渉力として使おうとしたのである。

 この発想を単純化すると、「政権を取ってから政策を実現する」という従来型の順序とは少し異なる。まず野党のままで政策を実現し、その成果によって有権者の信用を得て、さらに議席を増やし、その結果として政権に近づいていく。「政権獲得から政策実現へ」ではなく、「政策実現から政権獲得へ」という逆向きの階段である。

 中規模政党にとって、この発想には数理的な合理性がある。国会における政治的な力は、必ずしも議席数そのものだけでは決まらない。与党が法案成立に必要な議席をわずかに下回っているとき、二十議席や三十議席しか持たない政党でも、その賛否によって結果が変わるなら極めて大きな力を持つ。逆に、与党が圧倒的多数を持っていれば、同じ二十議席や三十議席でも法案の成否を左右する可能性は低くなり、その交渉価値は小さくなる。

 つまり中規模政党の政治的価値は、単純な議席数ではなく、「その議席が結果を変える確率」に大きく左右される。2024年衆院選後の少数与党という環境は、国民民主党にとってこの確率が高い状態であり、玉木の政策実現路線には極めて都合のよい政治環境だった。

小さな政党だからこそ「批判」だけでは商品になりにくい

 国民民主党の規模を考えれば、玉木が政策実現を強調する理由はさらに明確になる。大政党であれば「われわれに政権を任せてほしい」と訴えるだけでも選挙の構図をつくれるが、数十議席規模の政党が同じ言葉を繰り返しても、有権者から「本当に政権を取れるのか」と問われれば説得力を持たせるのは難しい。

 そこで必要になるのが、現在持っている議席の価値を目に見える形にすることだった。十議席ならその十議席で何を動かしたのか、二十議席なら二十議席によって何を政府から引き出したのかを示し、「国民民主党に一票を入れると具体的な政策が動く」という経験を有権者に提供する。この意味で玉木の政治は、思想への共感だけではなく、投票によって得られる成果そのものを政治の商品にしようとしている。

 これは政治学でいう政策追求型の行動としても理解できる。政党は必ずしも大臣のポストや連立参加だけを目的に行動するわけではなく、自らが重要だと考える政策をどこまで実現できるかを重視することがある。国民民主党が連立政権へ直ちに入るのではなく、政策ごとに政府との協力や対立を判断する戦略は、その典型的な形の一つとして読むことができる。

政治を「善悪」より「制度設計」として見る

 玉木の政治言語には、「誰が悪いのか」を追及するだけでなく、「制度をどう直すのか」を重視する特徴がある。大蔵省で行政実務に携わった経歴だけから現在の政治姿勢を説明するのは乱暴だが、税制、社会保障、エネルギー、賃金といった制度設計を政治の中心に置くスタイルが、その経歴と無関係だとも言い切れない。

 税制の世界では、政敵を論破しても控除額は上がらない。政府を批判する演説がどれほど喝采を浴びても、条文が変わらなければ制度は変わらない。実際に政策を動かすためには法案をつくり、財源を考え、他党を交渉の席につかせ、最終的には国会で賛成票を集める必要があり、その過程では「相手が間違っていることを証明する能力」だけでなく、「立場の異なる相手を動かす能力」が重要になる。

 玉木が政権批判だけに政治的エネルギーを集中させない理由の一つは、ここにあると考えられる。相手を徹底的に敵として扱えば支持者には分かりやすいが、その翌日に同じ相手と政策協議をすることは難しくなる。しかし妥協を重ねれば、今度は野党としての存在理由を失う。その狭い通路を歩きながら、反対すべきものには反対し、合意できる政策では政府とも協力するというのが、玉木のいう政策本位なのである。

しかし2026年、成功の方程式は崩れ始めた

 ここまでを見ると、玉木の戦略は一貫して成功してきたようにも見える。しかし2026年2月の衆議院選挙は、その単純な物語に重要な修正を迫った。国民民主党は選挙前の27議席から28議席へと1議席増にとどまり、2024年の7議席から28議席という劇的な拡大は再現されなかった。比例代表得票も約557万票、得票率9.7%となり、党自身も後の活動報告で、一定の支持を維持した一方、首都圏や近畿を中心に票を減らし、新鮮味を十分に打ち出せなかったという趣旨の分析をしている。

 この結果は、「政策実現を続ければ、そのまま党勢が拡大し続ける」という単純な仮説には疑問を投げかける。政策の成果を示すことは支持獲得に有利に働く可能性があるが、有権者は常に成果だけで投票するわけではなく、政権選択、党首への評価、候補者、政治状況、その時々の重要争点などを総合して判断する。政治に永久に機能する一つの公式は存在しないのである。

 さらに玉木の戦略を難しくしたのが、自民党の圧勝だった。2026年2月の衆院選で自民党は316議席を獲得し、連立する日本維新の会の36議席と合わせて与党は352議席となった。衆議院の過半数233をはるかに上回るため、少数与党時代とは違い、通常の法案を成立させるために国民民主党の28議席を必要としなくなった。

 数理的に考えれば、ここで国民民主党の交渉力は大きく変化する。議席そのものが28から減ったわけではないが、その28議席が法案の成立と不成立を分ける確率が低下したためである。玉木自身も2026年の代表選で、自民党が衆院選で圧勝したことによって、もっと実現したい政策があっても以前のようには進められなくなったという認識を示している。

 これは「政策実現」を党の看板にする政党にとって、かなり深刻な問題である。政府が自党の協力を必要としなければ、「国民民主党に議席を与えると政策が動く」という有権者への説明そのものが弱くなるからだ。

それでも玉木は、なぜ路線を変えないのか

 ところが興味深いのは、こうした環境変化を経験しても玉木が政策実現路線を放棄していないことである。2026年9月の国民民主党代表選では、橋本幹彦が自民党の補完勢力と見られてはならず、自民党に代わって政権を担いうる選択肢になるべきだと訴えたのに対し、玉木はこれまでの政策実現の成果を踏まえつつ、さらに党を大きくして政策を主導し、その先で政権を担う構想を示した。

 代表選の結果は橋本32ポイント、玉木127ポイントであり、玉木は全体のおよそ8割に当たるポイントを獲得して再選された。ただし、この数字も慎重に読む必要がある。これは国民民主党の党員、サポーター、地方議員、国会議員による代表選の結果であり、日本の有権者の約8割が玉木路線を支持しているという意味ではない。それでも少なくとも現在の国民民主党内部では、政策実現を軸とする玉木路線を大きく転換すべきだという判断は多数派にならなかったことを示している。

 むしろここで、玉木の政治戦略は一段変化したと見ることができる。少数与党時代には「今ある議席を使って政府を動かす」ことが政策実現の中心だったが、巨大与党が成立した現在、その方法だけでは十分ではない。そこで玉木が示しているのは、次の参議院選挙で党勢をさらに拡大し、与党が国民民主党の意見を無視できない状況を再びつくり、その勢いを衆議院選挙へつないで政権を担うという構想である。

 言い換えれば、「政策実現」は以前のように政府との交渉技術だけを意味する言葉ではなくなりつつある。政策を実現するために必要なら党そのものを大きくし、議会の力関係を変え、最終的には政権を担うところまで進むという政治戦略へ変化しているのである。

「政策実現」は、もはや中間政党の方便ではない

 ここから見ると、「玉木は政策実現を重視するから政権交代には消極的だ」という説明は、現在では正確ではない。むしろ政策を実現するためには政権を担う必要があるという方向へ、論理が伸び始めている。

 かつて国民民主党にとって政策実現は、小さな野党でも存在価値を示すための方法だった。議席を与えれば税制が動く、ガソリン政策が動く、生活に関わる制度が変わるという成功体験を有権者に示し、その信用を次の選挙へつなげる。しかし与党が352議席を持つ現在、その仕組みは以前ほど容易には機能しない。そこで玉木は、政策実現を諦めるのではなく、政策実現が可能になるほど党を大きくするという方向へ進もうとしている。

 これは銀行が小さな取引を積み重ねながら信用を築く過程に少し似ている。突然「国家運営を任せてほしい」と訴えても、有権者は簡単には預けてくれない。しかし税制を変えた、生活費を下げる制度を動かした、他党との交渉をまとめたという小さな実績が積み重なれば、「もっと大きな仕事を任せてもよいのではないか」という判断につながる可能性がある。

 ただし、その仮説が本当に成立するかはまだ証明されていない。2024年の大幅な議席増は仮説を支持したが、2026年の1議席増は、その成長が自動的には続かないことを示した。ここから先は、政策成果が政権担当能力への信用へ変換されるのか、それとも中規模野党として一定の支持にとどまるのかという、政治的な実験が続くことになる。

最大の弱点は「与党を動かす」と「与党を支える」の境界にある

 政策実現路線には、もう一つ避けられない危険がある。政府を動かしているつもりが、外から見れば政府を支えているだけに見える可能性である。

 野党の仕事は政策提案だけではなく、権力の監視、行政の失敗の検証、不正の追及、政権に代わる選択肢の提示にもある。与党との協議を重視し過ぎれば、政府にとって都合のよい野党になり、自民党の補完勢力と見られる危険が生まれる。一方で、与党との対決を優先して政策協議を拒めば、「政策実現を重視する政党」という自らの看板を傷つけることになる。

 この問題に簡単な答えはない。百を要求して二十を実現した場合、それを二十の前進と評価するのか、八十を実現できなかった妥協と評価するのかは立場によって変わる。政治とは、完全な勝利より不完全な選択を迫られることの方が多いからである。

 だからこそ、国民民主党の政策実現力を評価するときには、単に「何本の政策を通したか」だけを見るのでは不十分である。何を実現し、何を譲り、その結果として国民生活がどれだけ改善したのか、さらに権力を監視する野党としての機能を失っていないかまで見なければならない。

玉木政治の本当の賭け

 こうして考えると、玉木雄一郎が政権批判より政策実現を前面に出す理由は、単に批判を好まないからでも、与党に近づきたいからでもない。確認できる本人の発言とこれまでの行動から最も合理的に読み取れるのは、野党の価値を「政府にどれほど激しく反対したか」ではなく、「実際に政治をどれほど動かしたか」で測ってもらおうとしているということである。

 そして、この路線にはもう一つ重要な意味がある。もし国民民主党が政権批判の激しさだけを競う政党になれば、その競技場にはすでに他の野党が存在している。そこで同じ競争を始めても、国民民主党固有の存在理由を示すことは難しい。「対決より解決」「政策本位」は政治哲学であると同時に、他党との差をつくるための差別化戦略でもある。

 だから玉木にとって、この路線を捨てることは単なる政策変更ではない。国民民主党が何者なのかという説明そのものを失う危険を伴う。2026年の衆院選で2024年のような躍進を再現できず、自民党の圧勝によって政策交渉の余地まで縮小したにもかかわらず、玉木が同じ旗を掲げ続けている理由の一つは、そこにあると考えられる。

 もっとも、それは成功を保証するものではない。2024年には政策実現型の中規模政党という立場が少数与党の国会で強い力を発揮したが、2026年には政治環境そのものが変わった。同じ戦略でも、議会の力関係が変われば効果は変化する。政策実現という看板を維持するだけでは足りず、今度はその政策を実現できるだけの政治的な力をどのように獲得するのかが問われている。

 そこまで考えると、玉木政治の本当の賭けが見えてくる。政権を倒した実績によって支持を得るのではなく、政権を動かした実績によって支持を増やし、その支持によって議席を増やし、やがて自らが政権を担う。この循環が成立するなら、日本の野党政治に一つの異なる道が生まれる。しかし政策実現の成果が票へつながらず、巨大与党の前で交渉力も失われるなら、このモデルには限界があることになる。

 2024年は、その仮説が鮮やかに成功した年だった。2026年は、同じ仮説が初めて本格的な試練にさらされた年になった。そして玉木雄一郎は、その試練を受けてもなお路線を変えるのではなく、むしろ国民民主党そのものを大きくすることで政策実現力を取り戻そうとしている。

 だから、「玉木雄一郎はなぜ政権批判より政策実現を前面に出すのか」という問いへの答えは、単純ではない。批判より実務を好むからというだけではなく、小さな野党が他党と違う価値を示し、議席を政治的な成果へ変換し、その成果をさらに議席へ戻していくという成長戦略だからである。そして現在、その戦略は成功談の段階を終え、本当に政権へ続く道なのかどうかを試される段階へ入っている。

 政権を批判する政治には、権力を監視し、間違った政策を止める力がある。それは民主政治に不可欠である。一方、玉木が試みているのは、それとは別の評価軸を政治に持ち込むことである。「誰が一番激しく批判したか」ではなく、「誰が実際に制度を動かしたか」を問うのである。

 その採点表が日本政治に定着するのか、それとも巨大与党という現実の前で機能しなくなるのかは、まだ分からない。ただ一つ確かなのは、玉木雄一郎にとって「政策実現」は、政権批判を避けるための便利な言葉ではなく、国民民主党の存在理由そのものであり、いまや政権を目指すための戦略そのものになっているということである。

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