一度目の安倍晋三は、あまりにも早く「自分の政治」を始めた
2006年9月、52歳で内閣総理大臣となった安倍晋三は、戦後最年少の首相として政権の座に就いた。小泉純一郎という強烈な個性を持つ首相の後継者であり、北朝鮮による拉致問題への対応などですでに全国的な知名度を持っていた安倍には、若い指導者が新しい時代を開くという期待も集まっていた。しかし後から振り返れば、第一次安倍政権の特徴は、その若さ以上に、首相になった直後から自分が本当に実現したかった政治をかなり正面から始めようとしたことにあった。
安倍が掲げた「美しい国、日本」の背後には、「戦後レジームからの脱却」という問題意識があった。教育、安全保障、憲法、国家のあり方を長期的に組み替えていこうとする政治であり、実際に第一次政権は教育基本法の改正や防衛庁の防衛省への移行などを実現している。したがって、第一次安倍政権を「何もできずに終わった政権」と片づけるのは正確ではなく、むしろ問題は、政策を成立させる能力と、政権を安定して持続させる能力が別物であったことを、政権自身が十分に処理できなかった点にあった。
政治家には自分が重要だと考える政策があるが、有権者にもまた、その時々で政治に解決してもらいたい問題がある。そして残念ながら、この二つはしばしば一致しない。憲法、安全保障、教育、国家観は安倍にとって重要だったが、多くの国民にとって切実だったのは、年金、雇用、所得、格差、社会保障といった生活に直結する問題であり、第一次政権では、この「政治家が語りたいこと」と「有権者が解決してほしいこと」のずれが徐々に広がっていった。
ここには第一次政権の弱点がよく表れている。安倍は首相になれば政策を動かせると考えていたのだろうが、民主政治では、首相になったことと、首相であり続けられることは同じではない。総理大臣という席は政策を実行するための到着点ではなく、むしろそこから始まる不安定な仕事であり、この当たり前の事実を安倍は最初の政権でかなり高い授業料を払って学ぶことになった。
年金、閣僚問題、参議院選挙――政権を削ったのは一つの失敗ではなかった
2007年に入ると、第一次安倍政権は急速に不安定になった。閣僚をめぐる政治資金問題や失言、辞任が相次ぎ、さらに約5000万件の年金記録が基礎年金番号に統合されていないことが明らかになった、いわゆる年金記録問題が大きな社会問題となった。もちろん、年金記録の混乱そのものを安倍政権が生み出したわけではない。しかし政治では、問題を作った政権と、その問題によって批判を受ける政権が同じとは限らず、長年蓄積された行政上の不備であっても、それが表面化した瞬間の政権が責任を引き受けることになる。
同年7月の参議院議員通常選挙では、年金記録問題、「政治とカネ」、格差などが大きな争点となり、自由民主党は改選前64議席から37議席へ大幅に減らした。一方、民主党は60議席を獲得して参議院第一党となり、衆議院では与党が多数、参議院では野党が多数という「ねじれ国会」が生まれた。それでも安倍は続投したが、その後、国会で所信表明演説を行った直後に辞意を表明するという異例の退陣となり、その唐突さは政権の評価をさらに悪化させた。
加えて、安倍自身には潰瘍性大腸炎という持病があり、第一次政権末期にはその症状が悪化していた。したがって第一次政権の崩壊を、選挙敗北だけ、年金問題だけ、安倍本人の力量だけで説明するのは適切ではなく、政策の優先順位、閣僚管理、国会運営、選挙結果、世論との距離、本人の健康状態といった複数の要因が重なった結果として理解する必要がある。
政治史はしばしば、一人の指導者の決断によって動いたかのように描かれる。しかし実際の政権は、首相の思想だけで動いているわけではない。政党、官僚、国会、選挙、報道機関、世論、経済、そして最後には首相本人の身体までが絡み合う巨大なシステムであり、第一次安倍政権は、そのシステムを制御することが政策を考えること以上に難しいことを露呈した政権でもあった。
五年後に戻ってきた安倍は、思想を変えたのではなく入口を変えた
2007年の退陣後、安倍が別の政治家になったわけではない。憲法改正、安全保障、教育、国家観、政治主導に対する基本的な問題意識は、その後も大きく変化していない。もし第一次政権の失敗から安倍が学んだことがあるとすれば、それは思想を捨てることではなく、その思想を実現するために何を先に行うべきかを変えることだった、と考える方が実態に近い。
2012年12月、安倍が再び首相に就任したとき、政権の正面に置かれたのは「美しい国」でも「戦後レジームからの脱却」でもなく、経済再生だった。大胆な金融政策、機動的な財政政策、民間投資を喚起する成長戦略という、いわゆる「三本の矢」を掲げ、デフレ脱却と景気回復を政権の最優先課題として示した。第二次政権で安倍が安全保障や憲法への関心を失ったわけではなく、むしろそれらを政権の入口に置かなくなったのである。
この変化は政治的には合理的だった。憲法や安全保障は有権者の意見を大きく二分するが、景気回復、雇用改善、賃金上昇を望む人は左右の政治的立場を越えて存在する。支持を広げる必要がある政権にとって、経済政策は安全保障政策よりはるかに広い有権者に届きやすい。第一次政権の安倍が、自分の政治的理念から政権を始めたとすれば、第二次政権の安倍は、多くの有権者が関心を持つ経済から政権を始め、その後に自分の政治課題へ進む道筋を選んだと見ることができる。
ただし、ここで「第一次政権で失敗したから、第二次政権でこの戦略を採用した」とまで断定することはできない。本人がどこまで体系的に第一次政権の経験を分析し、その結果として政策の順序を変更したのかは外部から完全には確認できないからである。観察できるのは、第一次政権と第二次政権の政策の見せ方と進め方が明らかに異なっていたという事実であり、その差を「学習」と解釈することには合理性があるが、それを唯一の原因と考えるべきではない。
第二次政権が覚えたのは、政策だけではなく「時間の使い方」だった
第二次安倍政権では、まず経済政策を前面に出し、選挙で政権基盤を安定させ、その後に国家安全保障会議の設置、特定秘密保護法、安全保障法制など、より政治的対立の大きな政策へ進んでいった。この順序には、第一次政権にはなかった慎重さが見られる。
民主政治では、政策には政治的な費用がある。広い支持を得やすい政策もあれば、支持者を分断する政策もあるため、政権が何を先に行い、何を後に行うかによって、その持続可能性は大きく変わる。これは企業経営で資金繰りを無視して理想的な事業計画だけを語っても会社が続かないのと似ており、政治でも、理念を実行するためには先に政治的な余力を確保しなければならない。
第二次安倍政権は、この政治的余力を選挙、支持率、経済政策、政権人事によって蓄積しながら、対立の大きい政策へ進んでいった。第一次政権が「政策を実行するために政権がある」と考えていたように見えたのに対し、第二次政権では「政策を実行するためには、まず政権を維持しなければならない」という発想がより明確になった。
政治家にとっては少々身も蓋もない話だが、政権から降りれば、どれほど立派な理念を持っていても法律にはならない。第二次政権の安倍は、この単純だが厳しい現実に第一次政権より適応していた。
「強い官邸」は安倍が突然発明したものではない
第二次安倍政権の特徴として「官邸主導」がしばしば挙げられるが、これを安倍が一から作り出した制度のように説明するのは正確ではない。首相官邸の権限強化は1990年代以降の政治改革、橋本龍太郎政権による行政改革、2001年の中央省庁再編、小泉純一郎政権などを通じて段階的に進められてきた。第二次安倍政権は、その延長線上に成立している。
しかも安倍自身も、第一次政権の段階ですでに官邸機能の強化や政治主導を明確に志向していた。したがって第一次政権を「弱い官邸」、第二次政権を「強い官邸」と単純に対比するよりも、第一次政権では官邸主導を目指しながら十分に安定運用できず、第二次政権では既存の制度改革を利用しながら、それをより強く、継続的に運用できるようになったと見るべきである。
2014年に設置された内閣人事局も、この流れの中にある。中央省庁の幹部人事を政府全体で一元的に管理する仕組みが整えられたことで、官邸は各省庁の幹部人事に以前より強い影響力を持つようになった。ただし、これも第二次安倍政権だけから突然生まれた制度ではなく、それ以前から検討されてきた国家公務員制度改革の延長に位置している。
安倍政権の特徴は、制度を一から発明したことよりも、すでに存在していた制度的な道具を政治的に有効活用したことにある、と考えた方がよい。政治では新しい制度を作ることより、既存の制度を徹底して使う方が権力を大きく変えることさえある。
人を固定したのではなく、政権の骨格を固定した
第一次政権では閣僚の問題が次々に政権全体の問題へ発展した。大臣を守るのか辞任させるのか、その判断が遅れれば、一人の大臣の問題が首相の任命責任へと変わり、さらに内閣全体の支持率低下へつながっていく。首相の仕事は政策を考えるだけではなく、人事と危機管理を同時に処理することであり、第一次政権はその難しさに翻弄された。
第二次政権では、この点がかなり変わった。菅義偉を内閣官房長官、麻生太郎を副総理兼財務大臣として政権の中枢に長期間置き、主要な意思決定を担う人物を安定させた。もちろん安倍政権も内閣改造を繰り返しており、「閣僚を固定した」と表現するのは正確ではないが、政権運営の骨格となる人物を固定したことには意味があった。
菅は政府内の調整、危機管理、報道対応などを担い、麻生は党内と政権の双方で政治的な重しとなった。首相がすべてを直接処理するのではなく、信頼する人物に権限と役割を分担させたことで、第二次政権では第一次政権よりも安定した政権中枢が形成された。
第一次政権の安倍が「自分が首相として政治を行う」色彩の強い政権だったとすれば、第二次政権では「安倍政権という組織が政治を行う」構造がより明確になった。長期政権を一人の政治家の能力だけで説明するのが危険なのは、まさにこの点である。
選挙は審判であると同時に、政権を再起動する装置になった
第二次安倍政権では、衆議院解散と総選挙が政権運営の重要な手段として使われた。2014年、2017年の解散を含め、安倍は政治情勢や野党の準備状況を見ながら選挙時期を選択し、選挙に勝つことで政権の正統性と国会議席を更新していった。
ただし、ここでも安倍個人の意図を過度に読み込むことは避けるべきである。外部から確認できるのは、第二次安倍政権が結果として、野党側の準備が整っていない時期や、与党に比較的有利な政治状況で解散を行い、選挙勝利を繰り返したということである。それを巧みな戦略と評価することはできるが、すべてが事前に設計された長期計画だったと考える必要はない。
それでも、第一次政権との違いは明確だった。2007年には参議院選挙の大敗によって政権が主導権を失ったのに対し、第二次政権では選挙を受動的な審判として待つだけではなく、自ら政権の節目を作る手段として利用した。選挙で勝利すれば、与党内で首相に異論を唱える政治家も減る。民主主義では選挙が権力を制限する仕組みである一方、勝ち続ける政権にとっては権力を強化する仕組みにもなるという、少し皮肉な現実がここに表れている。
しかし長期政権は、安倍が賢くなったからだけでは説明できない
第一次政権と第二次政権を比較するとき、最も注意しなければならないのは、第二次政権の長期化をすべて「安倍の成長」で説明してしまうことである。政治家の伝記としては美しいが、分析としては少々出来すぎた物語になる。
2012年に安倍が政権へ復帰した時点で、政治環境そのものが2006年とは大きく違っていた。2009年に政権交代を実現した民主党は、政権運営への失望や内部対立を経て支持を失い、2012年以降の野党勢力は分裂した。小選挙区制を中心とする衆議院選挙では、野党候補が複数に分かれれば、与党候補が過半数に達しない得票でも議席を獲得できる場合があるため、野党分裂は自民党に大きな選挙上の利益をもたらした。
さらに、自民党と公明党の安定した選挙協力、選挙制度の特性、自民党内で首相に代わる有力な指導者が現れにくかったこと、経済状況や株価、雇用環境の改善など、複数の条件が長期政権を支えた。これらの要因を除外し、「第一次政権で失敗した安倍が学習したから長期政権になった」と説明すれば、安倍本人の効果を実際以上に大きく評価することになる。
数理的な比喩を使えば、長期政権という結果を説明するモデルに、野党分裂、選挙制度、連立構造、経済状況などの重要な変数を入れず、安倍本人の学習だけを説明変数として置けば、その係数は過大に見える可能性が高い。政治分析でありがちな「偉大な指導者が歴史を動かした」という物語は読みやすいが、現実の政治はもう少し散らかっている。
健康状態の改善も、第二次政権を可能にした重要な条件だった
第一次政権末期に悪化した潰瘍性大腸炎について、安倍はその後、新しい薬によって症状をコントロールできるようになったと説明している。第二次政権で約七年八か月にわたって首相を務めることができた背景には、この健康状態の改善も無視できない。
ただし、これを「第一次政権の反省を踏まえた健康管理戦略」とまで解釈するのは証拠が足りない。確認できるのは、新しい治療によって病状を長期間コントロールできるようになったことと、それが首相として職務を継続する前提条件になったことである。
歴史は思想と制度によって動くように見えるが、ときに一錠の薬が政治史を変えることもある。第二次安倍政権を成立させた条件の一つが医療技術の進歩だったという事実は、政治というものが理念だけでできているわけではないことを、いささか身も蓋もなく教えている。
強い官邸は政治を動かしたが、強い権力には別の問題が生まれる
第二次安倍政権では、官邸への意思決定の集中によって省庁間の調整が進み、首相が重要政策を迅速に進めやすくなった。その意味では、政治主導を目指した一連の制度改革が一定の成果を上げたと言える。
しかし制度には必ず裏面がある。官邸が幹部人事に強い影響を持つようになれば、官僚にとって官邸の意向を無視することは難しくなる。長期政権になれば与党内でも首相への異論は出にくくなり、選挙に勝ち続ければ党内の政治家も首相の人気と公認権に依存する。権力を安定させるために作られた仕組みが、そのまま権力を監視しにくくする仕組みに変わる可能性がある。
森友学園、加計学園、桜を見る会などをめぐっては、行政の透明性や説明責任、長期政権下における官邸と行政機構の関係が厳しく問われた。ただし、これらの問題が官邸主導の強化によって直接引き起こされたと断定できるわけではない。むしろ重要なのは、これらの問題をきっかけとして、「強い官邸を誰が監視するのか」という問いが現実の政治課題として浮上したことである。
第一次政権では政権が弱すぎることが問題となり、第二次政権では政権が強くなりすぎていないかが問題となった。政治とはなかなか都合よくできておらず、弱い権力を強くすれば、それで問題が終わるわけではない。
アベノミクスも「成功か失敗か」の二択では評価できない
第二次安倍政権を支えた重要な要素の一つが、アベノミクスと呼ばれた経済政策だった。金融緩和や財政政策、成長戦略を通じてデフレからの脱却を目指し、株価、企業収益、雇用などには改善が見られた。一方で、実質賃金、潜在成長率、生産性、財政再建、デフレからの完全な脱却などについては評価が分かれる。
したがって、「アベノミクスによって日本経済は復活した」と言い切るのも、「何の効果もなかった」と切り捨てるのも、どちらも雑である。経済政策の成果は、どの指標を見るかによって評価が異なり、株価上昇を重視するのか、雇用者数を重視するのか、実質所得を重視するのかによって結論は変わる。
しかし政治的な効果という観点では、アベノミクスは重要だった。経済政策を政権の看板に置くことで、安倍政権は憲法や安全保障だけでは獲得しにくい幅広い有権者に支持を求めることができた。経済政策として何点だったかとは別に、政権維持の政治戦略としては相当な意味を持っていたのである。
安倍晋三が変えたものと、安倍晋三では変えられなかったもの
第一次政権と第二次政権を比較すると、安倍晋三という政治家の基本的な思想が劇的に変わったとは考えにくい。安全保障を重視し、政治主導を志向し、日本という国家のあり方を変えようとする姿勢は、二つの政権に共通していた。
変わったのは、その思想を実行するための方法だった。経済政策を入口に置き、政権の中枢を安定させ、官邸機能を活用し、選挙で議席を更新しながら、対立の大きな政策へ段階的に進む。第一次政権では政策そのものが前へ出すぎたのに対し、第二次政権では政策を実現するための政治的条件を先に整える傾向が強くなった。
ただし、それだけで七年八か月の長期政権が生まれたわけではない。民主党政権への失望、野党勢力の分裂、小選挙区制の特性、公明党との選挙協力、自民党内の対抗勢力の弱さ、経済環境、そして健康状態の改善といった複数の条件が重なった。安倍が変わったことは重要だったが、安倍を取り巻く政治環境もまた大きく変わっていたのである。
ここを無視すると、政治史は途端に英雄物語になる。第一次政権で敗れた政治家が反省し、学習し、復活して長期政権を築いたという筋書きは確かに美しい。しかし現実の政治は、そこまで脚本家に親切ではない。
それでも、第一次政権と第二次政権の違いを一つだけ取り出すなら、「順序」という言葉は捨てる必要がない。第一次政権の安倍は、自分が実現したい政治をかなり早い段階から前面に押し出した。第二次政権の安倍は、自分が実現したい政治の前に、それを実現できる時間と権力基盤を作ることを重視した。
第一次政権の安倍は、理念を急いだ。第二次政権の安倍は、順番を覚えた。ただし、その順番だけが長期政権を生んだわけではない。安倍自身の学習と、野党の弱体化、選挙制度、連立構造、官邸機能の強化、経済状況、健康状態といった条件が重なったところに、第二次安倍政権は成立していた。
政治家が成長したから歴史が変わった、と言えば物語としては美しい。しかし実際には、政治家が変わり、制度が変わり、敵が弱くなり、運にも恵まれ、その全部が揃ったときに初めて長期政権は生まれる。第二次安倍政権の本当の特徴は、安倍晋三が第一次政権の失敗を忘れなかったことだけではなく、その経験を生かせる政治環境が、二度目にはそこに存在していたことなのである。






