地域政経

九条レオンの地域から社会と政治・経済のこれからを考える

 先に結論を言えば、官房長官がときとして首相以上の存在感を持って見えるのは、官房長官のほうが首相より大きな権限を持っているからではない。首相が政府の最終的な政治判断を担う「頂点」だとすれば、官房長官は、省庁から集まる情報、政策調整、危機対応、首相への報告、そして社会への情報発信が交差する「結節点」にいるからである。つまり、首相が「決断する権力」を代表するのに対し、官房長官は政府という巨大組織を日常的に動かす「つなぐ力」を強く持つ。そのうえ平日には原則として午前と午後の二度、記者会見を行うため、国民から見た可視性も極めて高い。この制度上の位置と日常的な露出が重なることで、官房長官が首相以上に政府の中心人物であるかのように見える場面が生まれる。

 日本政治を眺めていると、この構造がときおり鮮明に姿を現す。国の行政を率いる中心人物は内閣総理大臣であるはずなのに、日々のニュースでは官房長官のほうが何度も画面に現れ、外交問題から経済政策、災害、閣僚の発言、政府内の不祥事に至るまで、ほとんどあらゆる出来事について記者から質問を受けているため、政治を継続的に見ている人ほど、「実際に政府の中心で動いているのはこちらなのではないか」と感じる瞬間がある。

 しかし、制度上の関係は明確である。日本国憲法第72条は、内閣総理大臣が内閣を代表し、行政各部を指揮監督すると定め、内閣法も首相が閣議を主宰し、閣議で決定された方針に基づいて行政各部を指揮監督する仕組みを置いている。さらに首相には国務大臣を任命し、罷免する権限があるため、官房長官が首相より制度的に上位に立つわけではない。

 それにもかかわらず、官房長官が首相に匹敵するほど大きな存在に見える場合があるのは、政治権力が単純な上下関係だけでは説明できないからである。巨大な組織を実際に動かすためには、最終決定をする人物だけではなく、情報を集め、部門間の利害を調整し、判断材料を整理し、決定された方針を組織の外へ伝える人物が必要になる。官房長官は、まさにそうした複数の流れが交差する場所に置かれている。

首相が「頂点」なら、官房長官は「交差点」である

 政府には財務省、外務省、厚生労働省、経済産業省、防衛省をはじめ、それぞれ異なる専門性と組織目的を持つ行政機関が存在するが、現代の政策課題の多くは一つの省庁だけでは処理できない。物価上昇への対策を考えるだけでも、財政、金融、エネルギー、産業、社会保障が関係し、大規模災害が起これば警察、消防、自衛隊、国土交通行政、自治体などが同時に動かなければならず、安全保障上の事態では外交、防衛、経済、情報が一つの問題の中に入り込んでくる。

 ところが、それぞれの省庁にはそれぞれの立場があるため、専門組織を並べただけで政府全体が自然に一つの方向へ進むとは限らない。そこで重要になるのが内閣官房であり、内閣法第12条は、内閣の重要政策についての企画・立案と総合調整に加え、行政各部の施策を統一するための企画・立案と総合調整を内閣官房の仕事として定めている。そして第13条は、官房長官がその内閣官房の事務を統轄すると規定している。

 この仕組みを考えると、官房長官の力が少し違った姿で見えてくる。首相が政府という組織の頂点に位置するのに対して、官房長官は複数の行政機関の線が交差する場所に近く、政治学や行政学でも、省庁を横断する政策課題では総合調整機能が重要になることが指摘されてきた。中央省庁再編も、縦割り行政の限界に対応し、官邸や内閣の総合調整力を高めることを重要な目的の一つとして進められた。

 会社にたとえるなら、首相は単純に最高経営責任者に相当すると考えられるが、官房長官を単なる広報担当者と考えると実態を見誤る。複数部門から情報を受け取り、部門同士の問題を整理し、経営トップの判断を支え、その判断を組織全体へ伝え、さらに外部からの質問にも答える役割が重なっていると考えたほうが近く、官房長官という職務の政治的な重さは、この複数の機能が一つの地点に集まるところから生じている。

官房長官は「政府が日常的に話す場所」に立っている

 官房長官の存在感をさらに大きくしているのが、記者会見である。首相官邸によれば、官房長官の定例記者会見は原則として月曜日から金曜日まで、午前と午後の二回行われるため、通常の一週間を単純化すれば最大で約10回、記者の前に立つ機会が制度的に用意されていることになる。ただし、休日、国会日程、出張、政治日程などによって実際の回数は変わるため、「年間に必ず何百回会見する」と固定的な数字に置き換えることは適切ではない。

 それでも、この頻度は政治的な「可視性」を考えるうえで大きな意味を持つ。首相は重要政策の発表、外交、国会、選挙、危機対応など、国家として重要な局面で強く前面に出るのに対し、官房長官は政府の日常的な出来事について継続的に質問を受ける立場にあるため、政治の大きな方向を示す首相に対して、官房長官は「今日、政府は何を考えているのか」を説明する人物として国民の前に現れ続ける。

 政府も過去の国会答弁で、官房長官の記者会見について、国民や国際社会に向けて政府として情報発信を行うことを主な目的としていると説明している。ただし、ここには重要な注意点があり、官房長官が記者会見で語ったすべての発言を、一律に政府の公式見解とみなすことができるわけではないことも政府自身が答弁しているため、官房長官会見は「すべての発言が政府公式見解になる場所」というより、「政府として継続的な情報発信が行われる重要な場所」と理解するほうが正確である。

「何度も見る人」は、本当に大きく見えるのか

 ここで一つ、政治制度だけでは説明できない問題が現れる。官房長官が毎日のようにテレビやインターネットのニュースに登場すること自体が、その人物を政府の中心人物として認識させる可能性はないのだろうか。

 心理学には、同じ対象に繰り返し接触することで、その対象への認知や評価が変化する「単純接触効果」と呼ばれる現象が知られている。政治を対象とした研究でも、架空の政治家の名前をニュース上で繰り返し目にした参加者が、その後の模擬的な選択で頻繁に目にした人物を選びやすくなったという実験結果が報告されており、少なくとも「反復的な露出が人物認知に影響を及ぼし得る」という考え方には実験的な根拠がある。

 ただし、この研究結果をそのまま日本の官房長官に当てはめて、「会見が多いから首相より重要に感じられる」と断定することはできない。報道内容が肯定的なのか否定的なのか、すでに人物がどれだけ知られているのか、視聴者が政治にどの程度関心を持っているのかによって効果は変わり得るため、官房長官の頻繁なメディア露出は存在感を高める一因になり得るものの、それだけで存在感を説明できるわけではない。

 それでも、首相が国家の重要な局面で強く現れるのに対し、官房長官が平日の午前と午後というリズムで繰り返し登場することは、両者の「見え方」を異なるものにする。首相は政治の頂点として見え、官房長官は政府の日常そのものとして見えるため、この違いが、ときとして官房長官のほうが政府運営の中心にいるような印象を生み出す可能性がある。

権力を「順位」ではなく「ネットワーク」で見る

 官房長官の立場を数理的に考えるなら、政治権力を一本の序列として考えるよりも、複数の組織を結ぶネットワークとして考えたほうが理解しやすい。政府の中には省庁、大臣、官僚組織、首相官邸、与党など多数の主体が存在し、その間を情報、指示、相談、政策案が絶えず行き来しているため、「一番上にいる人物」と「多くの経路が通過する人物」は必ずしも同じではない。

 ネットワーク分析では、単に多くの相手と接続しているかだけでなく、異なる集団同士をどれだけ仲介しているかという位置も重要になる。この考え方を政府に当てはめると、官房長官は財務、外交、安全保障、社会保障など異なる政策領域の間を結ぶ位置に置かれやすく、ある省庁と別の省庁、官僚組織と政治家、政府内部と報道機関の間で、情報の通り道になる可能性が高い。

 ただし、ネットワークの中心に位置することと、最終的な決定権を持つことは同じではない。内閣官房がどれだけ多くの情報を集め、省庁間の調整を行ったとしても、首相には閣議を主宰し、行政各部を指揮監督し、国務大臣を任免する制度的権限があり、政策の最終的な政治責任も首相と内閣が負うことになる。したがって、「首相より官房長官の権力が強い」という結論ではなく、「権力には階層上の権限とは別に、情報や調整の経路から生まれる影響力がある」と理解するほうが正確である。

危機になるほど「交差点」の価値は高くなる

 平時には見えにくい調整機能も、大規模災害、重大事故、感染症、安全保障上の緊張などが発生すると、その重要性が急速に高まる。危機時には、一つの省庁だけが正確に動いても政府全体として十分ではなく、異なる機関から入ってくる情報を整理し、重複や矛盾を調整しながら、首相や関係閣僚が判断できる状態をつくらなければならない。

 内閣法は、内閣官房に内閣危機管理監を置き、国民の生命、身体、財産に重大な被害が生じ、または生じるおそれがある緊急事態への対処を危機管理として位置付けている。また、内閣官房には関係行政機関から情報を集約し、省庁横断的な分析や調整を行う機能も置かれており、危機が一省庁の範囲を越えるほど、官邸を中心とした情報集約と調整の必要性は高くなる。

 ただし、「危機が深刻になるほど官房長官のテレビ出演が必ず増える」といった関係まで統計的に証明されているわけではない。これを科学的に確認するには、過去の大規模災害や安全保障上の事件について、発生前後の官房長官と首相の報道回数、テレビ出演時間、新聞記事での言及数などを長期間にわたって比較する必要があるため、ここで言えるのは、危機時に内閣官房の調整機能が重要になる制度的理由が存在し、その結果として官房長官が前面に出やすい条件が生まれる、というところまでである。

本当の力は、記者会見の後ろ側にある

 官房長官を理解するとき、テレビに映る記者会見だけを見ていては職務の半分しか見えない。むしろ政治的に重要なのは、カメラのない場所で、省庁の意見がぶつかり、政策案が修正され、関係者の意向が調整され、最終的に首相へ上げるべき問題が整理されていく過程である。

 巨大な政府組織では、首相自身がすべての政策について各省庁との細かな調整を行うことは現実的ではない。個々の省庁には担当大臣と官僚組織があり、その上で省庁を越える問題について内閣官房などが調整機能を果たすことによって、首相はより重要な政治判断に集中することができる。この意味で官房長官の役割は、首相に代わって国を支配することではなく、首相が判断できる政府をつくることに近い。

 「決める人」と「決められる状態をつくる人」は同じではない。ある政策についてどの情報が重要なのか、どの省庁の利害が衝突しているのか、どこまで調整すれば政治判断が可能になるのかという作業は、最終決定そのものほど目立たないが、巨大組織では欠かすことのできない仕事であり、その過程に深く関与できる立場は、法律上の命令権だけでは測ることのできない影響力を持ち得る。

 情報が集まる場所には相談も集まり、相談が集まる場所にはさらに情報が集まる。こうした循環が続けば、官房長官という役職の周囲には一種の「情報の重力」が生まれるが、それは官房長官が首相より強いことを意味するのではなく、巨大組織では情報を結び付ける位置そのものが一つの力になることを意味している。

同じ官房長官でも、存在感は同じではない

 もっとも、この構造が存在するからといって、歴代の官房長官がすべて同程度の影響力を持つわけではない。官房長官の実際の政治的な重さは、首相との信頼関係、与党内での人間関係、官僚組織との接点、政策調整をどこまで任されているか、危機時の情報処理能力などによって変化するため、役職だけを見て実質的な力を機械的に推定することはできない。

 首相が官房長官に多くの調整を委ねる政権では、官房長官が政策形成の早い段階から関与しやすくなる一方、首相自身が細部まで政策調整を行う場合や、別の有力閣僚、首相補佐官、党幹部などが大きな役割を担う場合には、同じ官房長官という肩書でも影響力の分布は変わる。このため「官房長官は常に政権のナンバー二である」と固定的に考えるより、誰と誰の間に情報が流れ、誰が何を調整し、首相が誰に何を任せているのかを見る必要がある。

「決断する権力」と「つなぐ権力」

 政治を見るとき、私たちは無意識のうちに「誰が一番偉いのか」という一本の順位表をつくりたくなるが、現実の権力はそれほど単純ではない。最終決定をする力、予算を動かす力、人事を決める力、情報を集める力、異なる組織を調整する力、そして政府の考えを社会へ伝える力は、それぞれ別の経路から生まれる。

 首相が象徴するのは、最終的な政治判断と責任を引き受ける「決断する権力」である。それに対して官房長官の特徴は、省庁、官僚、閣僚、首相、報道機関といった異なる主体の間に位置し、それらを結び付ける「つなぐ力」にある。この二つは競合するものではなく、むしろ首相が強い政治的リーダーシップを発揮するためにも、複雑な政府組織をつなぐ調整機能が必要になる。

 だから官房長官が、ときとして首相以上の存在感を示しているように見えるとしても、それを「本当は官房長官のほうが権力者だから」と説明するのは正確ではない。そこに見えているのは、現代国家が一人の指導者だけで動く組織ではなく、多数の専門組織を情報と調整によって結び合わせながら動く巨大なネットワークだという事実である。

 首相が船の進路を最終的に決める船長だとすれば、官房長官は、機関室、通信室、航海士、甲板から届く情報を整理し、船長の判断を船内へ伝え、外から飛んでくる問いにも応答しながら、船全体がばらばらにならないようにする人物に近い。船長より上にいるわけではないが、海が荒れ、情報が錯綜し、複数の部署を同時に動かさなければならない状況になるほど、その場所に立つ人物の姿は大きく見えてくる。

 次にニュースで官房長官の記者会見を見るとき、注目すべきなのは、その人物が首相より目立っているかどうかだけではない。その背後でどの省庁から情報が集まり、何が調整され、どの問題が政治判断を必要とし、どの内容が政府から社会への情報発信として示されているのかを考えてみると、記者会見の演台の向こう側に、日本政府という巨大組織の神経網が浮かび上がってくる。官房長官という役職が興味深いのは、一人の政治家の強さを映しているからではなく、政治において「権力とは何か」が、肩書や順位だけでは決まらないことを最もよく見せてくれる場所だからである。

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生まれる前の罪を、現在の人間が背負う必要はないのか

 人は、自分が生まれる前に起きた出来事について、個人的な罪を負うことはできない。戦争を始めたのが祖父母や曽祖父母の世代であったとしても、その行為について、生まれてさえいなかった孫や曾孫を加害者として扱うことはできないし、まして「同じ国の人間なのだから、あなたも罪を負わなければならない」と考えるのであれば、それは歴史認識の問題を越えて、血統による連帯責任に近づいてしまう。近代社会が守ってきた重要な原則の一つは、罪や法的責任は、原則として実際に行為をした個人や組織に帰属するという考え方であり、生まれた国や民族によって人間の道徳的価値まで決めることではない。

 しかし、ここで話を終えてしまうと、政治というものの性質を見誤ることになる。なぜなら国会議員、とりわけ政府や国家を代表する立場にある政治家は、私人として歴史を見るだけの存在ではなく、現在の国家制度を運営する公人でもあるからである。政治家自身が過去の戦争を始めたわけでも、植民地政策を決定したわけでも、過去の国家権力による人権侵害に直接手を貸したわけでもないとしても、その人物が今日運営している国家は、昨日突然生まれたものではない。

国家は、政治家よりも長く生き続ける

 国家には時間的な連続性がある。政治家が交代しても、政権が交代しても、選挙が終わっても、国家そのものが毎回ゼロから作り直されるわけではなく、法律、行政組織、外交関係、領土、公共財産、条約、債務、社会制度、そして国際的信用は、多くの場合、以前の国家活動から引き継がれていく。その意味で政治家は、自分が作ったものだけを管理しているのではなく、自分が生まれるより前から続いてきた巨大な制度の一時的な管理者でもある。

 ここで重要なのは、「国家の歴史を引き継ぐ」ということと、「過去の人間の罪を現在の個人が相続する」ということを混同しないことである。両者はまったく同じではない。現在を生きる国民が、過去の加害者と同じ罪を負う必要はない一方で、国家の制度や外交関係や過去の政策から現在まで続いている問題については、現在の政府や政治家が対応を求められることがある。引き継がれるのは罪そのものではなく、過去から残された制度的、外交的、社会的な課題なのである。

歴史の「成果」だけを選んで継承することはできるのか

 これは、過去の国家の歴史をどのように扱うかという問題にもつながる。私たちは、過去の優れた文化、経済発展、科学技術、制度改革については、現在の国家の歴史として自然に語っている。明治以降の近代化を語り、戦後の経済成長を語り、文化や技術や社会制度の蓄積を国家の歴史として評価するのであれば、その同じ歴史の中に存在した政策の失敗、戦争、差別、抑圧、重大な判断の誤りについても、少なくとも検討の対象から除外することはできない。

 ただし、ここから「過去の成果を受け継ぐ以上、過去の罪も現在の国民が負わなければならない」という結論を導くことはできない。そのような議論は論理的に飛躍している。正確には、国家という長期的な制度を維持する以上、過去の成果だけでなく、現在まで残っている未解決の問題についても現在の政治が向き合わなければならないことがある、ということである。

「歴史に向き合う」とは、謝り続けることではない

 歴史に向き合うという言葉も、しばしば誤解される。過去について永久に謝罪を続けること、自国を否定すること、あるいは現在の国民に罪悪感を持たせることが、歴史に向き合うことなのではない。本来求められるのは、何が起きたのかを証拠に基づいて検討し、その出来事がなぜ起き、どのような結果を生み、現在の政治制度や外交関係とどのようにつながっているのかを考えることである。

 したがって、歴史認識で重要なのは、謝罪という言葉を使ったかどうかだけではない。より重要なのは、自分の政治的立場にとって不都合な資料や証拠が現れたとき、それを無視せず検討できるかどうかである。自国に不都合な資料だから信用しない、あるいは逆に、自国を批判する内容だから無条件に信用するという態度は、いずれも歴史を理解する姿勢とは言いにくい。

歴史は、右からも左からも政治利用される

 歴史は、現在の政治闘争の道具にもなりやすい。過去の国家の加害行為を批判する側だけが歴史を政治利用するわけではなく、それを否定したり過度に小さく扱ったりする側もまた、自分の望む国家像を守るために歴史を利用する可能性がある。その逆に、自国の過去を批判すること自体が政治的目的となり、事実以上に単純化された物語が作られる可能性もある。だからこそ必要なのは、右か左か、保守かリベラルかという分類より先に、資料と主張を分け、確認できる事実と解釈を区別する姿勢なのである。

人間は、自分に都合のよい情報を信じやすい

 人間の認識は、完全に中立ではない。心理学では、自分がすでに信じている考えに合う情報を受け入れやすく、反対する情報については厳しく評価しやすい傾向が知られている。政治の世界では、この傾向に集団への帰属意識や選挙上の利害、支持者からの期待まで加わるため、歴史を冷静に評価することは決して容易ではない。

 だからといって、「過去の歴史を認めない政治家は、現在の政策の失敗も認めない」とまで断定することはできない。歴史認識と政策判断能力の間に、単純な一対一の因果関係が証明されているわけではないからである。しかし、自分の信念と衝突する証拠をどのように扱う人物なのかを見ることは、その政治家の判断姿勢を知る一つの材料にはなる。

問われるのは、「反証」を受け入れられる政治家かどうか

 ある政治家が、自分にとって都合のよい資料だけを引用し、反対する資料を検討しようとしないのであれば、それは歴史問題に限らず、「この人物は反証をどのように扱うのか」という問題として見ることができる。一方、新しい資料が現れたとき、自分の以前の発言を修正できる政治家であれば、その姿勢は少なくとも、証拠に応じて考えを変える能力を持っていることを示す一つの材料になる。

 政治家に必要なのは、絶対に間違えない能力ではない。そもそも人間も政府も、間違いを完全に避けることはできない。重要なのは、誤りが判明したときに修正できることである。民主主義という制度そのものも、この人間観の上に成り立っている。選挙、議会、司法、報道、行政監視といった仕組みが存在するのは、誰か一人の政治家が常に正しいと考えているからではなく、誰でも誤る可能性があるという前提があるからである。

「国家は間違えない」という考えは、民主主義と相性がよいのか

 この意味で、自国の歴史について「国家は誤ったことがない」という態度を取ることは、単なる愛国心とは異なる。国家もまた人間によって運営される制度である以上、成功することもあれば、判断を誤ることもある。その可能性を認めることは国家を否定することではなく、国家を人間が作った制度として現実的に理解することである。

 もちろん、その反対にも危険はある。過去の国家の行為を現在の国民一人一人の人格評価に結びつけ、何世代後の人間にまで道徳的な負債を負わせ続ける考え方も健全ではない。国家が過去の行為を検証することと、現在を生きる個人が先祖の罪を背負うことは別問題であり、この区別を失えば、歴史教育は理解のための営みではなく、人々を善と悪に分類するための儀式に変わってしまう。

自国を愛することと、自国の過ちを認めることは両立する

 自国を肯定することと、自国の誤りを認めることも、本来は矛盾しない。成熟した国家とは、自国の歴史を無条件に美化する国家でも、自国を際限なく断罪する国家でもなく、成功と失敗を同じ歴史の中で語ることのできる国家ではないだろうか。優れた文化や制度を評価しながら、誤った政策や加害についても事実として検討することは、自己否定ではない。

 一人の人間の人生について考えてみれば分かりやすい。自分の成功だけを語り、失敗について一切認めようとしない人間よりも、成功した経験と失敗した経験の両方を理解し、その失敗から何を学んだのかを説明できる人間のほうが、自分自身を現実的に理解していると考えることができる。国家についても、少なくとも同じような成熟のあり方を考えることは可能である。

政治家を見る基準は、「謝罪したか」だけではない

 政治家を見るときも、「謝罪したか」「謝罪しなかったか」という一つの言葉だけで人物を判定するのは適切ではない。見るべきなのは、資料や証拠に接したとき、自分の信念に反する情報であっても検討できるか、自国に不都合な事実と他国に不都合な事実を同じ基準で扱えるか、事実と解釈を区別できるか、そして新しい証拠が現れたときに以前の主張を修正できるかという知的態度である。

新しい社長は、前任者の問題から逃れられるのか

 ここで、国家を企業に置き換えて考えると、問題の一部は理解しやすくなる。新しく就任した社長が、前任者の時代に起きた重大な問題について「私は当時社員ではなかったので知りません」と答えたとしても、その社長個人が問題を起こしたわけではないことと、会社の代表者として対応する必要がないこととは別である。会社が以前の契約や資産や信用を引き継ぐ以上、未解決の問題についても対応を求められることがある。

 もちろん、国家と企業は同じではない。国家には国民、主権、外交、歴史、文化といった企業とは異なる要素があり、国家の責任を企業の債務と同じように考えることはできない。しかし、「組織には個人の寿命を越えて続く時間的連続性がある」という点については、この比喩は一つの理解の手掛かりになる。

政治家に歴史学者であることを求めているのではない

 そして、国家の過去に向き合う能力を政治家に求める理由も、最終的には過去そのものだけにあるのではない。政治家は歴史学者ではないし、すべての歴史問題について専門的知識を持つことを期待するのも現実的ではない。それでも政治家には、専門家の研究や資料に耳を傾け、自分の政治的立場とは異なる証拠も検討し、必要であれば判断を修正する姿勢が求められる。

 その意味で、「歴史に向き合えるか」という問いは、その政治家が善人か悪人か、人間として信用できるかどうかを判定するためのものではない。歴史認識だけから一人の人間全体の人格を判断することはできないし、そうするべきでもない。しかし、国家を運営する公人として、証拠に基づいて考え、不都合な事実からも目をそらさず、自らの判断を必要に応じて修正できる人物なのかを見る材料にはなる。

歴史を検証することも、国家への責任ではないか

 自国を愛することと、自国の過去の誤りを認めることは両立できる。むしろ、自国が再び同じ失敗を繰り返さないようにすることまで含めて考えれば、過去の誤りを検証する行為そのものが、国家に対する責任の一つとも考えられる。子どもの失敗を一切認めず、何が起きても「この子は絶対に悪くない」と言い続けることだけが愛情ではないように、国家についても、無条件に正当化することだけが愛国であるとは限らない。

問うべきなのは、先祖の罪ではない

 結局、私たちが政治家に問うべきなのは、「あなたは生まれる前の罪を背負うのか」という問いではない。その問いの立て方自体が間違っている。問うべきなのは、自分が直接経験していない過去であっても、証拠に基づいて理解し、自分にとって不都合な事実も検討し、その経験から現在の政治に生かすべき教訓を考えることができる人物なのか、ということである。

歴史は、未来へ進むための地図である

 政治とは未来をつくる仕事だと言われる。しかし未来だけを見て政治をすることはできない。国家がどのような判断を積み重ねて現在に至ったのかを知らなければ、いま立っている場所を正確に理解することは難しく、現在地を誤認すれば、未来へ向かう方向もまた誤る可能性が高くなる。

 歴史とは、現在を生きる人間に、過去の罪を背負わせるための鎖ではない。それは、国家がかつてどこで判断を誤り、どこで成功し、どの道を再び歩くべきではないのかを知るための地図である。

 その地図に、自分が見たくない場所が描かれているという理由だけで目をそらす政治家に、私たちは国家の進路を任せてよいのだろうか。問われているのは、過去の人間と同じ罪を現在の政治家に負わせることではない。権力を預ける人物が、不都合な事実を含めて現実を見ることのできる人なのかどうかなのである。

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一度目の安倍晋三は、あまりにも早く「自分の政治」を始めた

 2006年9月、52歳で内閣総理大臣となった安倍晋三は、戦後最年少の首相として政権の座に就いた。小泉純一郎という強烈な個性を持つ首相の後継者であり、北朝鮮による拉致問題への対応などですでに全国的な知名度を持っていた安倍には、若い指導者が新しい時代を開くという期待も集まっていた。しかし後から振り返れば、第一次安倍政権の特徴は、その若さ以上に、首相になった直後から自分が本当に実現したかった政治をかなり正面から始めようとしたことにあった。

 安倍が掲げた「美しい国、日本」の背後には、「戦後レジームからの脱却」という問題意識があった。教育、安全保障、憲法、国家のあり方を長期的に組み替えていこうとする政治であり、実際に第一次政権は教育基本法の改正や防衛庁の防衛省への移行などを実現している。したがって、第一次安倍政権を「何もできずに終わった政権」と片づけるのは正確ではなく、むしろ問題は、政策を成立させる能力と、政権を安定して持続させる能力が別物であったことを、政権自身が十分に処理できなかった点にあった。

 政治家には自分が重要だと考える政策があるが、有権者にもまた、その時々で政治に解決してもらいたい問題がある。そして残念ながら、この二つはしばしば一致しない。憲法、安全保障、教育、国家観は安倍にとって重要だったが、多くの国民にとって切実だったのは、年金、雇用、所得、格差、社会保障といった生活に直結する問題であり、第一次政権では、この「政治家が語りたいこと」と「有権者が解決してほしいこと」のずれが徐々に広がっていった。

 ここには第一次政権の弱点がよく表れている。安倍は首相になれば政策を動かせると考えていたのだろうが、民主政治では、首相になったことと、首相であり続けられることは同じではない。総理大臣という席は政策を実行するための到着点ではなく、むしろそこから始まる不安定な仕事であり、この当たり前の事実を安倍は最初の政権でかなり高い授業料を払って学ぶことになった。

年金、閣僚問題、参議院選挙――政権を削ったのは一つの失敗ではなかった

 2007年に入ると、第一次安倍政権は急速に不安定になった。閣僚をめぐる政治資金問題や失言、辞任が相次ぎ、さらに約5000万件の年金記録が基礎年金番号に統合されていないことが明らかになった、いわゆる年金記録問題が大きな社会問題となった。もちろん、年金記録の混乱そのものを安倍政権が生み出したわけではない。しかし政治では、問題を作った政権と、その問題によって批判を受ける政権が同じとは限らず、長年蓄積された行政上の不備であっても、それが表面化した瞬間の政権が責任を引き受けることになる。

 同年7月の参議院議員通常選挙では、年金記録問題、「政治とカネ」、格差などが大きな争点となり、自由民主党は改選前64議席から37議席へ大幅に減らした。一方、民主党は60議席を獲得して参議院第一党となり、衆議院では与党が多数、参議院では野党が多数という「ねじれ国会」が生まれた。それでも安倍は続投したが、その後、国会で所信表明演説を行った直後に辞意を表明するという異例の退陣となり、その唐突さは政権の評価をさらに悪化させた。

 加えて、安倍自身には潰瘍性大腸炎という持病があり、第一次政権末期にはその症状が悪化していた。したがって第一次政権の崩壊を、選挙敗北だけ、年金問題だけ、安倍本人の力量だけで説明するのは適切ではなく、政策の優先順位、閣僚管理、国会運営、選挙結果、世論との距離、本人の健康状態といった複数の要因が重なった結果として理解する必要がある。

 政治史はしばしば、一人の指導者の決断によって動いたかのように描かれる。しかし実際の政権は、首相の思想だけで動いているわけではない。政党、官僚、国会、選挙、報道機関、世論、経済、そして最後には首相本人の身体までが絡み合う巨大なシステムであり、第一次安倍政権は、そのシステムを制御することが政策を考えること以上に難しいことを露呈した政権でもあった。

五年後に戻ってきた安倍は、思想を変えたのではなく入口を変えた

 2007年の退陣後、安倍が別の政治家になったわけではない。憲法改正、安全保障、教育、国家観、政治主導に対する基本的な問題意識は、その後も大きく変化していない。もし第一次政権の失敗から安倍が学んだことがあるとすれば、それは思想を捨てることではなく、その思想を実現するために何を先に行うべきかを変えることだった、と考える方が実態に近い。

 2012年12月、安倍が再び首相に就任したとき、政権の正面に置かれたのは「美しい国」でも「戦後レジームからの脱却」でもなく、経済再生だった。大胆な金融政策、機動的な財政政策、民間投資を喚起する成長戦略という、いわゆる「三本の矢」を掲げ、デフレ脱却と景気回復を政権の最優先課題として示した。第二次政権で安倍が安全保障や憲法への関心を失ったわけではなく、むしろそれらを政権の入口に置かなくなったのである。

 この変化は政治的には合理的だった。憲法や安全保障は有権者の意見を大きく二分するが、景気回復、雇用改善、賃金上昇を望む人は左右の政治的立場を越えて存在する。支持を広げる必要がある政権にとって、経済政策は安全保障政策よりはるかに広い有権者に届きやすい。第一次政権の安倍が、自分の政治的理念から政権を始めたとすれば、第二次政権の安倍は、多くの有権者が関心を持つ経済から政権を始め、その後に自分の政治課題へ進む道筋を選んだと見ることができる。

 ただし、ここで「第一次政権で失敗したから、第二次政権でこの戦略を採用した」とまで断定することはできない。本人がどこまで体系的に第一次政権の経験を分析し、その結果として政策の順序を変更したのかは外部から完全には確認できないからである。観察できるのは、第一次政権と第二次政権の政策の見せ方と進め方が明らかに異なっていたという事実であり、その差を「学習」と解釈することには合理性があるが、それを唯一の原因と考えるべきではない。

第二次政権が覚えたのは、政策だけではなく「時間の使い方」だった

 第二次安倍政権では、まず経済政策を前面に出し、選挙で政権基盤を安定させ、その後に国家安全保障会議の設置、特定秘密保護法、安全保障法制など、より政治的対立の大きな政策へ進んでいった。この順序には、第一次政権にはなかった慎重さが見られる。

 民主政治では、政策には政治的な費用がある。広い支持を得やすい政策もあれば、支持者を分断する政策もあるため、政権が何を先に行い、何を後に行うかによって、その持続可能性は大きく変わる。これは企業経営で資金繰りを無視して理想的な事業計画だけを語っても会社が続かないのと似ており、政治でも、理念を実行するためには先に政治的な余力を確保しなければならない。

 第二次安倍政権は、この政治的余力を選挙、支持率、経済政策、政権人事によって蓄積しながら、対立の大きい政策へ進んでいった。第一次政権が「政策を実行するために政権がある」と考えていたように見えたのに対し、第二次政権では「政策を実行するためには、まず政権を維持しなければならない」という発想がより明確になった。

 政治家にとっては少々身も蓋もない話だが、政権から降りれば、どれほど立派な理念を持っていても法律にはならない。第二次政権の安倍は、この単純だが厳しい現実に第一次政権より適応していた。

「強い官邸」は安倍が突然発明したものではない

 第二次安倍政権の特徴として「官邸主導」がしばしば挙げられるが、これを安倍が一から作り出した制度のように説明するのは正確ではない。首相官邸の権限強化は1990年代以降の政治改革、橋本龍太郎政権による行政改革、2001年の中央省庁再編、小泉純一郎政権などを通じて段階的に進められてきた。第二次安倍政権は、その延長線上に成立している。

 しかも安倍自身も、第一次政権の段階ですでに官邸機能の強化や政治主導を明確に志向していた。したがって第一次政権を「弱い官邸」、第二次政権を「強い官邸」と単純に対比するよりも、第一次政権では官邸主導を目指しながら十分に安定運用できず、第二次政権では既存の制度改革を利用しながら、それをより強く、継続的に運用できるようになったと見るべきである。

 2014年に設置された内閣人事局も、この流れの中にある。中央省庁の幹部人事を政府全体で一元的に管理する仕組みが整えられたことで、官邸は各省庁の幹部人事に以前より強い影響力を持つようになった。ただし、これも第二次安倍政権だけから突然生まれた制度ではなく、それ以前から検討されてきた国家公務員制度改革の延長に位置している。

 安倍政権の特徴は、制度を一から発明したことよりも、すでに存在していた制度的な道具を政治的に有効活用したことにある、と考えた方がよい。政治では新しい制度を作ることより、既存の制度を徹底して使う方が権力を大きく変えることさえある。

人を固定したのではなく、政権の骨格を固定した

 第一次政権では閣僚の問題が次々に政権全体の問題へ発展した。大臣を守るのか辞任させるのか、その判断が遅れれば、一人の大臣の問題が首相の任命責任へと変わり、さらに内閣全体の支持率低下へつながっていく。首相の仕事は政策を考えるだけではなく、人事と危機管理を同時に処理することであり、第一次政権はその難しさに翻弄された。

 第二次政権では、この点がかなり変わった。菅義偉を内閣官房長官、麻生太郎を副総理兼財務大臣として政権の中枢に長期間置き、主要な意思決定を担う人物を安定させた。もちろん安倍政権も内閣改造を繰り返しており、「閣僚を固定した」と表現するのは正確ではないが、政権運営の骨格となる人物を固定したことには意味があった。

 菅は政府内の調整、危機管理、報道対応などを担い、麻生は党内と政権の双方で政治的な重しとなった。首相がすべてを直接処理するのではなく、信頼する人物に権限と役割を分担させたことで、第二次政権では第一次政権よりも安定した政権中枢が形成された。

 第一次政権の安倍が「自分が首相として政治を行う」色彩の強い政権だったとすれば、第二次政権では「安倍政権という組織が政治を行う」構造がより明確になった。長期政権を一人の政治家の能力だけで説明するのが危険なのは、まさにこの点である。

選挙は審判であると同時に、政権を再起動する装置になった

 第二次安倍政権では、衆議院解散と総選挙が政権運営の重要な手段として使われた。2014年、2017年の解散を含め、安倍は政治情勢や野党の準備状況を見ながら選挙時期を選択し、選挙に勝つことで政権の正統性と国会議席を更新していった。

 ただし、ここでも安倍個人の意図を過度に読み込むことは避けるべきである。外部から確認できるのは、第二次安倍政権が結果として、野党側の準備が整っていない時期や、与党に比較的有利な政治状況で解散を行い、選挙勝利を繰り返したということである。それを巧みな戦略と評価することはできるが、すべてが事前に設計された長期計画だったと考える必要はない。

 それでも、第一次政権との違いは明確だった。2007年には参議院選挙の大敗によって政権が主導権を失ったのに対し、第二次政権では選挙を受動的な審判として待つだけではなく、自ら政権の節目を作る手段として利用した。選挙で勝利すれば、与党内で首相に異論を唱える政治家も減る。民主主義では選挙が権力を制限する仕組みである一方、勝ち続ける政権にとっては権力を強化する仕組みにもなるという、少し皮肉な現実がここに表れている。

しかし長期政権は、安倍が賢くなったからだけでは説明できない

 第一次政権と第二次政権を比較するとき、最も注意しなければならないのは、第二次政権の長期化をすべて「安倍の成長」で説明してしまうことである。政治家の伝記としては美しいが、分析としては少々出来すぎた物語になる。

 2012年に安倍が政権へ復帰した時点で、政治環境そのものが2006年とは大きく違っていた。2009年に政権交代を実現した民主党は、政権運営への失望や内部対立を経て支持を失い、2012年以降の野党勢力は分裂した。小選挙区制を中心とする衆議院選挙では、野党候補が複数に分かれれば、与党候補が過半数に達しない得票でも議席を獲得できる場合があるため、野党分裂は自民党に大きな選挙上の利益をもたらした。

 さらに、自民党と公明党の安定した選挙協力、選挙制度の特性、自民党内で首相に代わる有力な指導者が現れにくかったこと、経済状況や株価、雇用環境の改善など、複数の条件が長期政権を支えた。これらの要因を除外し、「第一次政権で失敗した安倍が学習したから長期政権になった」と説明すれば、安倍本人の効果を実際以上に大きく評価することになる。

 数理的な比喩を使えば、長期政権という結果を説明するモデルに、野党分裂、選挙制度、連立構造、経済状況などの重要な変数を入れず、安倍本人の学習だけを説明変数として置けば、その係数は過大に見える可能性が高い。政治分析でありがちな「偉大な指導者が歴史を動かした」という物語は読みやすいが、現実の政治はもう少し散らかっている。

健康状態の改善も、第二次政権を可能にした重要な条件だった

 第一次政権末期に悪化した潰瘍性大腸炎について、安倍はその後、新しい薬によって症状をコントロールできるようになったと説明している。第二次政権で約七年八か月にわたって首相を務めることができた背景には、この健康状態の改善も無視できない。

 ただし、これを「第一次政権の反省を踏まえた健康管理戦略」とまで解釈するのは証拠が足りない。確認できるのは、新しい治療によって病状を長期間コントロールできるようになったことと、それが首相として職務を継続する前提条件になったことである。

 歴史は思想と制度によって動くように見えるが、ときに一錠の薬が政治史を変えることもある。第二次安倍政権を成立させた条件の一つが医療技術の進歩だったという事実は、政治というものが理念だけでできているわけではないことを、いささか身も蓋もなく教えている。

強い官邸は政治を動かしたが、強い権力には別の問題が生まれる

 第二次安倍政権では、官邸への意思決定の集中によって省庁間の調整が進み、首相が重要政策を迅速に進めやすくなった。その意味では、政治主導を目指した一連の制度改革が一定の成果を上げたと言える。

 しかし制度には必ず裏面がある。官邸が幹部人事に強い影響を持つようになれば、官僚にとって官邸の意向を無視することは難しくなる。長期政権になれば与党内でも首相への異論は出にくくなり、選挙に勝ち続ければ党内の政治家も首相の人気と公認権に依存する。権力を安定させるために作られた仕組みが、そのまま権力を監視しにくくする仕組みに変わる可能性がある。

 森友学園、加計学園、桜を見る会などをめぐっては、行政の透明性や説明責任、長期政権下における官邸と行政機構の関係が厳しく問われた。ただし、これらの問題が官邸主導の強化によって直接引き起こされたと断定できるわけではない。むしろ重要なのは、これらの問題をきっかけとして、「強い官邸を誰が監視するのか」という問いが現実の政治課題として浮上したことである。

 第一次政権では政権が弱すぎることが問題となり、第二次政権では政権が強くなりすぎていないかが問題となった。政治とはなかなか都合よくできておらず、弱い権力を強くすれば、それで問題が終わるわけではない。

アベノミクスも「成功か失敗か」の二択では評価できない

 第二次安倍政権を支えた重要な要素の一つが、アベノミクスと呼ばれた経済政策だった。金融緩和や財政政策、成長戦略を通じてデフレからの脱却を目指し、株価、企業収益、雇用などには改善が見られた。一方で、実質賃金、潜在成長率、生産性、財政再建、デフレからの完全な脱却などについては評価が分かれる。

 したがって、「アベノミクスによって日本経済は復活した」と言い切るのも、「何の効果もなかった」と切り捨てるのも、どちらも雑である。経済政策の成果は、どの指標を見るかによって評価が異なり、株価上昇を重視するのか、雇用者数を重視するのか、実質所得を重視するのかによって結論は変わる。

 しかし政治的な効果という観点では、アベノミクスは重要だった。経済政策を政権の看板に置くことで、安倍政権は憲法や安全保障だけでは獲得しにくい幅広い有権者に支持を求めることができた。経済政策として何点だったかとは別に、政権維持の政治戦略としては相当な意味を持っていたのである。

安倍晋三が変えたものと、安倍晋三では変えられなかったもの

 第一次政権と第二次政権を比較すると、安倍晋三という政治家の基本的な思想が劇的に変わったとは考えにくい。安全保障を重視し、政治主導を志向し、日本という国家のあり方を変えようとする姿勢は、二つの政権に共通していた。

 変わったのは、その思想を実行するための方法だった。経済政策を入口に置き、政権の中枢を安定させ、官邸機能を活用し、選挙で議席を更新しながら、対立の大きな政策へ段階的に進む。第一次政権では政策そのものが前へ出すぎたのに対し、第二次政権では政策を実現するための政治的条件を先に整える傾向が強くなった。

 ただし、それだけで七年八か月の長期政権が生まれたわけではない。民主党政権への失望、野党勢力の分裂、小選挙区制の特性、公明党との選挙協力、自民党内の対抗勢力の弱さ、経済環境、そして健康状態の改善といった複数の条件が重なった。安倍が変わったことは重要だったが、安倍を取り巻く政治環境もまた大きく変わっていたのである。

 ここを無視すると、政治史は途端に英雄物語になる。第一次政権で敗れた政治家が反省し、学習し、復活して長期政権を築いたという筋書きは確かに美しい。しかし現実の政治は、そこまで脚本家に親切ではない。

 それでも、第一次政権と第二次政権の違いを一つだけ取り出すなら、「順序」という言葉は捨てる必要がない。第一次政権の安倍は、自分が実現したい政治をかなり早い段階から前面に押し出した。第二次政権の安倍は、自分が実現したい政治の前に、それを実現できる時間と権力基盤を作ることを重視した。

 第一次政権の安倍は、理念を急いだ。第二次政権の安倍は、順番を覚えた。ただし、その順番だけが長期政権を生んだわけではない。安倍自身の学習と、野党の弱体化、選挙制度、連立構造、官邸機能の強化、経済状況、健康状態といった条件が重なったところに、第二次安倍政権は成立していた。

 政治家が成長したから歴史が変わった、と言えば物語としては美しい。しかし実際には、政治家が変わり、制度が変わり、敵が弱くなり、運にも恵まれ、その全部が揃ったときに初めて長期政権は生まれる。第二次安倍政権の本当の特徴は、安倍晋三が第一次政権の失敗を忘れなかったことだけではなく、その経験を生かせる政治環境が、二度目にはそこに存在していたことなのである。

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 政治の世界には、若いころには同じ方向を見ていたはずなのに、権力が近づくにつれて、まるで別の政治家になったように見える人々がいる。山崎拓、加藤紘一、小泉純一郎の三人も、まさにそうだった。三人の姓の頭文字を取ったYKK(山崎拓・加藤紘一・小泉純一郎の頭文字を組み合わせた通称)は、一時期の自由民主党で、単なる仲良し三人組以上の意味を持っていた。同じ派閥に属していたわけでもなく、政策思想が完全に一致していたわけでもない。それでも一つの名前で呼ばれたのは、古い自民党政治の内部にいながら、そのままでは自民党も日本政治も立ち行かなくなるという問題意識を共有していたからである。

 山崎、加藤、小泉はいずれも1972年の衆議院議員総選挙で初当選した。三人は同じ政治世代に属し、高度経済成長が終わり、自民党の長期政権がなお強固である一方、派閥政治や政治資金、利益誘導型政治への批判が次第に強まっていく時代を歩いた。若手議員だったころには、派閥の中で経験を積み、党内調整を重ね、その延長線上で大臣や首相を目指すという戦後自民党の出世構造がまだ機能していたが、三人が中堅から実力者へ成長した1990年代には、その仕組みそのものが揺らぎ始めていた。

 その意味でYKKは、同じ目的地へ向かって同じ道を歩く三人というより、同じ古い建物の中にいて、「このままでは建物が時代に耐えられない」と感じていた三人だったと考えた方が分かりやすい。ただし、どう直すかについては最初から違いがあった。加藤は内部の設計を合理的に改めようとし、山崎は建物全体の力学を見ながら現実的に補強し、小泉は古い構造そのものを政治的争点にする方向へ進んだ。この違いは若いころには大きく見えなかったが、首相という権力が現実のものとして近づくにつれ、三人を別々の政治家へ分けていった。

加藤紘一という「自民党改革派の優等生」

 YKKの三人の中で、従来の自民党政治が持っていた合意形成の論理を最も強く体現していたのが加藤紘一だったと見ることができる。宏池会という自民党有数の名門派閥で育ち、政策や行政機構に詳しく、党内の議論と調整を重視した加藤は、自民党政治の内部からその質を高めることで改革を実現しようとする政治家だった。

 加藤にとって改革とは、敵を作り、その敵を打ち破ることではなかった。複雑な利害を整理し、政策を磨き、党内の合意を積み重ねながら、時代に合わなくなった制度や慣行を修正していくことだった。政治とは単純な勝敗ではなく、多数の異なる利害を一つの方向へ収束させていく知的な作業であるという発想が、加藤の政治手法の根底にあった。

 しかし、その政治手法は、政治環境が変わるにつれて弱点を露呈していった。1990年代、日本政治はバブル崩壊後の長期停滞、政治改革、政界再編、55年体制の終焉を経験し、「誰と誰が合意したか」以上に、「誰が何を変えるのか」が問われるようになった。加藤自身も変化を理解していたと考えられるが、問題は、改革を実行するための政治技術まで従来の党内調整型から完全に切り替えることができなかったことである。

 その矛盾が最も劇的に現れたのが、2000年のいわゆる「加藤の乱」だった。森喜朗政権への不満が高まる中、加藤は山崎とともに倒閣へ動き、野党提出の内閣不信任決議案に同調する構えを見せた。しかし党執行部による激しい切り崩しによって派閥内部が割れ、最終的に加藤の構想は頓挫した。ここで重要なのは、単に倒閣に失敗したことではなく、自民党の内部を知り尽くしていた政治家が、その自民党内部の統制力によって動きを封じられたことである。

 加藤は党内政治を熟知していたからこそ、その論理の中で首相を目指した。しかし最後の勝負では、その論理そのものが彼を拘束した。政策能力、知性、人脈、派閥という従来型自民党政治で重要とされた資源を豊富に持ちながら、それを首相への権力へ転換することができなかったところに、加藤紘一という政治家の悲劇性がある。

「加藤の乱」で、YKKはすでに二対一に分かれていた

 この加藤の乱は、YKKの歴史を考えるうえでも決定的な場面だった。山崎は加藤と行動をともにしたが、小泉は二人に同調しなかった。YKKという呼び名からは三人が政治行動まで常に一致していたような印象を受けるが、実際には最も重要な政局の一つで、加藤と山崎、小泉は二対一に分かれたのである。

 しかも小泉が加藤らの倒閣に加わらなかったことは、その後の政治人生を考えると極めて象徴的である。加藤と山崎は党内の議員を動かすことによって首相を交代させようとしたが、小泉はその方法を選ばなかった。これは小泉が当時から完成された「反派閥政治家」だったという意味ではない。小泉自身も派閥政治の中で育ち、自民党組織の力学を利用してきた政治家だったが、少なくとも加藤の乱の時点で、YKK三人の権力への接近方法はすでに同じではなくなっていた。

 この出来事を境に、YKKは友情や人的関係として残りながらも、政治戦略としては別々の道へ向かい始めたと見ることができる。三人の違いは、後から生まれたものではなく、権力の取り方が具体的な選択として突きつけられた瞬間に、初めてはっきりと姿を現したのである。

山崎拓はなぜ加藤と同じ運命をたどらなかったのか

 山崎拓は、加藤とはまた違った種類の政治家だった。政策に詳しい一方で、その政治感覚はより実戦的であり、自民党という巨大組織の内部で誰が力を持ち、どの局面で対立し、どの局面で妥協するべきかを読むことに長けていた。理念から組織を作り替えることよりも、現実の力関係を読み、その中で自らの影響力を維持することに強みを持つ政治家だったと捉えると理解しやすい。

 その意味では、山崎はYKKの中で最も自民党の伝統的な政治技術を体現していたとも言える。これは「古い政治家」という意味ではない。対立しても関係を完全には切らず、昨日の敵とも次の局面では交渉し、政策、人間関係、派閥、選挙を同時に計算するという自民党政治特有の柔軟性を持っていたということである。

 加藤の乱で山崎は加藤と運命を共にしたように見えたが、その後の二人の軌跡は大きく分かれた。加藤にとって失敗は首相候補としての上昇軌道を決定的に損なう出来事となったのに対し、山崎は党内で再び足場を築き、2001年に小泉が自民党総裁となると幹事長に起用された。ここには、政治的失敗をどのように処理するかという二人の違いが現れている。

 加藤は政治理念と組織論理が衝突したとき、理念の側から組織を動かそうとした。山崎は同じ衝突を経験しても、なお組織の内部へ戻り、次の力関係の中で自らの役割を探すことができた。加藤にとって加藤の乱は自らの政治構想そのものを揺さぶる敗北だったが、山崎にとっては重大な失敗でありながら、それで政治が終わるわけではなかった。この違いが、二人のその後を分けた。

小泉純一郎は、党組織を捨てたのではなく使い方を変えた

 そしてYKKの中で、最終的に首相へ到達したのが小泉純一郎だった。ただし、小泉の成功を「派閥政治を捨てて国民だけを頼ったから」と説明すると、実際の政治構造を単純化しすぎる。小泉もまた自民党という組織の内部で活動し、党の総裁選挙制度、地方組織、党員票、党内人脈を利用した政治家だった。

 小泉が従来の自民党政治と異なっていたのは、党組織を迂回したことではなく、派閥領袖や国会議員の支持だけに依存せず、地方党員票と世論を党内権力へ転換したことである。2001年の自民党総裁選で小泉は地方票を背景に圧倒的な支持を集め、最終的に298票を獲得して橋本龍太郎を大きく引き離した。形式的には自民党内部の総裁選挙でありながら、その背後では世論の動きが国会議員や地方組織の判断に強く作用していた。

 ここに加藤との重要な違いがある。加藤は自民党の中の政治家を動かすことで自民党を変えようとしたのに対し、小泉は地方党員と一般有権者の支持を党内部へ流し込み、その圧力によって国会議員の行動を変えようとした。つまり、小泉は組織を捨てたのではなく、組織に作用する力の入口を変えたのである。

 2001年に小泉が掲げた「自民党をぶっ壊す」という言葉が強い意味を持ったのも、そのためだった。自民党総裁になろうとする政治家が自民党を壊すと語るのは論理的には矛盾している。しかし小泉は、自民党に対する国民の不満を自民党そのものを改革する力へ変換し、その改革者として自分を位置付けた。党への批判を党外へ逃がすのではなく、党内の権力獲得に利用したところに、小泉政治の特徴があった。

三人を分けたのは思想だけではなく「権力への接近方法」だった

 YKKが同じ道を歩まなかった理由を、政策思想の違いだけで説明することはできない。もちろん外交、安全保障、経済政策などについて三人の考え方には違いがあったが、それ以上に重要なのは、政治的権力をどこから獲得し、どのように動かそうとしたかという違いである。

 加藤は党内で信頼と合意を積み重ね、その延長線上で首相になるという戦後自民党型の政治を基礎にしていた。山崎は党内の勢力均衡を読みながら影響力を保ち、その中で機会を作る政治を得意とした。小泉は従来の派閥力学だけでは自分が圧倒的に有利ではないことを理解し、地方党員票と世論を利用して党内の勢力均衡そのものを変えようとした。

 したがって三人の違いを単純化して表現するなら、加藤は組織内の合意形成を重視し、山崎は組織内の力学を利用し、小泉は組織の内外を結びつけることで権力構造を組み替えた、と考えるのが最も実態に近い。

 この違いは政治家としての性格とも関係していたと考えられる。加藤は複雑な問題を複雑なまま理解しようとする傾向が強かったのに対し、小泉は複雑な問題を有権者が理解しやすい一つの争点へ集約することに長けていた。郵政民営化はその典型であり、実際には郵便、郵便貯金、簡易保険、財政投融資、地域金融など多数の論点が絡む政策だったが、小泉はそれを「改革を進めるのか、それとも止めるのか」という政治的対立軸へ変換した。

小泉を可能にしたのは、人物だけではなく制度だった

 ただし、小泉が成功し、加藤が失敗した理由を、二人の性格や政治能力だけに求めることも適切ではない。二人が活動した時代には、日本政治の制度そのものが変化していた。

 1990年代の政治改革によって衆議院選挙には小選挙区比例代表並立制が導入され、候補者個人だけでなく政党の看板や党首の人気が選挙結果を左右する度合いが高まった。さらに政党による候補者公認の重要性が増し、中央省庁再編などを通じて首相官邸の政策調整能力も強化されていった。こうした制度変化は、派閥間調整を中心とした従来型の首相とは異なる、党首の人気と選挙を直接結びつける政治を可能にする条件となった。

 政治的な成功を単一の原因で説明することはできない。小泉の成功は、本人の政治的個性だけでなく、世論の支持、地方党員票、選挙制度、党執行部の公認権、首相としての制度的権限、そしてそれらを使いこなす戦略が組み合わさった結果と見る方が妥当である。

 逆に考えれば、加藤の乱の失敗も、加藤個人の弱さだけで説明することはできない。党内議員の造反によって政権を倒そうとした加藤の戦略は、当時の自民党執行部が持つ統制力と正面から衝突した。政治家の能力だけでなく、その能力がどのような制度環境で使われたのかを見る必要がある。

「加藤の乱」と「郵政解散」は、二つの改革手法の対照だった

 2000年の加藤の乱と2005年の郵政解散を並べると、YKK三人の違いと自民党政治の変化が鮮明になる。どちらも自民党内部の現状を変えようとした政治行動だったが、その方法は正反対だった。

 加藤は国会議員を動かすことによって政権を変えようとした。それに対し、小泉は郵政民営化関連法案が参議院で否決されると、衆議院を解散し、有権者に判断を求めた。さらに衆議院で郵政民営化法案に反対した自民党議員を原則として公認せず、その選挙区の多くに別の候補者を擁立した。党内対立を閉じた党内交渉で処理するのではなく、選挙という公開された場へ持ち出したのである。

 この2005年の衆議院選挙で自民党は296議席を獲得し、単独で衆議院全体の六割を超える議席を占める大勝となった。加藤の乱では党内執行部による議員の切り崩しが倒閣運動を止めたのに対し、郵政解散では首相自身が公認権と選挙を使って党内反対派へ圧力を加えた。わずか五年間の違いだが、そこには自民党政治における権力の使い方の大きな変化が表れていた。

小泉政治と「テレビ政治」をどう見るか

 小泉政治を語るとき、テレビの存在を無視することはできない。小泉は短く分かりやすい言葉を使い、複雑な政策を明確な対立構図へ変え、ニュース番組が扱いやすい政治的場面を作ることに長けていた。2005年の郵政選挙でも、郵政民営化への賛否や、いわゆる「刺客候補」などが大量に報道され、選挙に対する有権者の関心を高めた。

 しかし、「テレビが小泉を勝たせた」とまで言うのは正確ではない。小泉への支持と自民党への支持が相互に結びついた「小泉効果」は統計的研究でも確認されているが、メディア報道だけが支持を直接生み出したと単純に証明されているわけではない。より慎重に言えば、小泉の政治手法と、テレビを中心とした当時の政治報道環境との親和性が非常に高かったのである。

 加藤の政治は、長い説明と交渉によって合理的な結論へ到達する政治だった。それに対して小泉の政治は、対立軸をはっきりさせ、その選択を有権者に示す政治だった。どちらが政治として優れているかは一概には言えないが、テレビを通じて政治が大量の有権者へ直接伝わる時代には、小泉型の政治の方が大きな動員力を持ちやすかった。

YKKという名前が隠していたもの

 YKKという呼び名は、三人を一つの政治グループのように見せる。しかし振り返ってみると、この名前の最も興味深いところは三人の共通点ではなく、その内部に最初から存在していた違いである。

 加藤には、政策と理性、そして党内合意によって自民党を改善できるという信頼があった。山崎には、政治とは理念だけでは動かず、力関係を読み続けなければならないという現実主義があった。そして小泉には、自分を阻む既存の仕組みがあるなら、その仕組みそのものを国民の前で争点化し、世論を党内権力へ変えてしまうという政治技術があった。

 若いころには、これらの違いは互いを補う個性に見えた。しかし三人が首相候補として権力の近くへ進むほど、その違いは拡大した。権力が遠くにあるうちは、三人とも「改革」という言葉で結ばれることができる。ところが首相という椅子が現実のものになると、誰を説得し、誰と戦い、誰を味方にし、どこまで組織と対立するのかという具体的な選択を迫られる。

 権力とは、人間の性格を突然変えるものというより、その人がもともと持っていた政治観を拡大して見せる装置なのかもしれない。加藤の乱で、山崎は加藤と行動をともにし、小泉はそこから離れた。そのわずか一年後、小泉が首相となり、敗れた山崎を幹事長として自らの政権を支える側へ迎え入れたという事実は、政治における人間関係と権力関係の複雑さを象徴している。

同じ道を歩まなかったからこそ、YKKは面白い

 もし山崎、加藤、小泉の三人が最後まで同じ政治行動を取り続けていたなら、YKKはこれほど興味深い存在として残らなかったかもしれない。三人が別々の道を歩いたからこそ、1990年代から2000年代にかけて、自民党政治がどのように変質したのかが、その政治人生を通して見えてくる。

 加藤の政治には、戦後自民党が長く培ってきた合意形成型政治の成熟と、その限界が現れていた。山崎の政治には、状況が変わっても組織の中に戻り、次の局面で影響力を取り戻す自民党政治の柔軟さが現れていた。そして小泉の政治には、地方党員票、世論、選挙、党執行部の権限を組み合わせ、党内権力の構造そのものを動かす新しい政治手法が現れていた。

 三人は同じ1972年に国会へ入り、同じ自民党という巨大な船に乗り、長いあいだ同じ海を航海した。しかし船が古くなり、外から大きな波が押し寄せたとき、加藤は船内の秩序を組み替えようとし、山崎は船の中の力学を読みながら生き残る場所を探し、小泉は乗客の声まで利用して船の進路そのものを変えようとした。

 YKKがなぜ三人とも同じ道を歩まなかったのかという問いに、一つだけの答えはない。性格の違いもあれば、政策思想の違いもあり、政治制度や時代環境の違いもあった。しかし最も重要なのは、三人が共有していたのが「このままではいけない」という問題意識までであり、「では、どこから力を得て、どう変えるのか」という問いへの答えは最初から同じではなかったということである。

 首相になれなかった加藤、首相を支える側へ戻った山崎、そして首相となり自民党内部の対立そのものを国民に問いかけた小泉。同じ時代、同じ年に政治家として出発した三人の軌跡を重ねると、政治家の運命を決めるのは政策の正しさや能力だけではなく、制度と世論が変化する瞬間に、自分の政治手法をその変化へ適応させられるかどうかであることが見えてくる。

 YKKとは、三人が同じだったことを示す名前ではない。むしろ、同じ場所から出発し、同じ時代の自民党に違和感を抱いた三人が、権力という分岐点を前にしたとき、まったく異なる方法を選んだことを後世に残した名前なのである。

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 政治家の能力を試験の点数のように測ることができるなら、宮澤喜一は戦後日本の首相の中でもかなり上位に位置しただろう。大蔵省で行政を経験し、経済、財政、金融、外交に通じ、外国要人と英語で直接対話できるほど語学にも堪能だった。戦後日本の制度がどのように形成され、官僚機構がどのように動き、アメリカを中心とする国際秩序の中で日本がどこまで行動できるのかについても、長い政治生活を通して深く理解していた人物だった。

 それにもかかわらず、1991年に首相となった宮澤が、後世から「日本政治を大きく動かした首相」として語られることはそれほど多くない。むしろ1993年、自民党が衆議院で過半数を失い、非自民勢力による細川護熙政権が成立する直前の首相として記憶されている。この落差は、宮澤個人の評価を超えて、政治という仕事の本質を考えるうえで興味深い。

 政治では、問題を理解する能力と、問題を解決する能力は同じではない。さらに言えば、政策として合理的な答えを見つけることと、その答えを議会、政党、官僚、業界、世論の中で実際の決定へ変えることの間には、大きな隔たりがある。宮澤喜一という政治家を考えるときに重要なのは、「知識があったのになぜ失敗したのか」という単純な問いではなく、「政策を理解する知性を、なぜ政治的な多数と実行力へ十分に変換できなかったのか」という問いである。

 宮澤の政策を見る目が決して鈍かったわけではないことは、バブル経済崩壊後の金融問題を見るとよく分かる。1990年代初頭、日本の金融機関には不動産価格や株価の下落によって不良債権が急速に積み上がり始めていたが、損失の全体像はまだ十分に表面化していなかった。その段階で宮澤は、金融システムの安定のためには公的な関与や公的資金の投入まで視野に入れる必要があるとの考えを示していた。

 後に日本は金融危機の深刻化を受け、実際に巨額の公的資金を投入することになる。その後の展開を知る現在から見れば、宮澤の問題認識には先見性があったと評価できる。しかし当時、公的資金による金融機関救済は簡単に国民の理解を得られる政策ではなかった。バブル期に融資を膨張させた金融機関を、なぜ国民の税金で助けなければならないのかという反発が当然予想され、金融機関の側にも不良債権を一気に表面化させたくない事情があり、官僚組織にも従来の行政責任を問われることへの警戒があった。

 つまり、宮澤には問題が見えていたとしても、その認識だけで政策が実現するわけではなかった。政策を現実にするためには、損失を誰が負担するのかを明らかにし、国民に必要性を説明し、金融機関や官僚機構を動かし、与党内の反発を抑えながら議会で多数を形成しなければならない。政治における「実行力」とは、首相が強い言葉で決断することではなく、異なる利害を持つ人間を一つの決定へ集約していく力なのである。

 宮澤政権が直面していた問題は金融だけではなかった。1980年代末から1990年代初頭にかけて、リクルート事件をはじめとする政治と金の問題によって、自民党政治そのものへの不信が急速に強まっていた。国民が求めていたのは個別政策の修正だけではなく、政治の仕組みそのものを変えることだったため、選挙制度改革を中心とした政治改革が大きな争点となっていった。

 ところが選挙制度改革は、普通の政策とは性質が違う。税率を変えたり公共事業の予算を増減したりするのとは異なり、国会議員自身が次の選挙で当選できるかどうかを左右するからである。議員にとっては理念の問題であると同時に、自分の政治生命そのものにかかわる問題だったため、「政治改革には賛成だが、自分が不利になる改革には反対する」という行動が起こるのは、ある意味では合理的だった。

 宮澤はその利害の衝突を乗り越えるだけの政治的主導権を確立できなかった。ここを「優柔不断だった」と一言で片づけてしまうと、当時の政治構造を見失ってしまう。政治改革を進めれば自民党内部の反発が強まり、進めなければ世論の批判が高まるという状況の中で、宮澤が扱っていたのは単なる政策論争ではなく、自民党そのものの権力構造だったからである。

 さらに自民党内部には、政治改革だけでは説明できない派閥間の対立が存在していた。竹下派内部では小沢一郎らをめぐる権力争いが進み、党内の次の主導権をめぐる対立が政治改革問題と結びついていった。1993年6月、宮澤内閣に対する不信任決議案が衆議院で可決されたとき、野党だけでなく自民党内部からも造反者が出たことは象徴的だった。

 不信任案可決を受けて宮澤は衆議院を解散し、同年7月の総選挙に臨んだが、自民党は第一党には残ったものの過半数を確保できなかった。その後、非自民勢力による細川護熙政権が成立し、1955年以来続いてきた自民党中心の政権構造は大きな転換点を迎えることになった。

 ここで注意したいのは、「1955年から1993年まで自民党の単独政権が一度も途切れなかった」というわけではないことである。1983年には中曽根政権が新自由クラブとの連立政権を成立させているため、1993年を単純に「自民党単独政権が初めて終わった年」と表現するのは正確ではない。それでも1993年が、日本政治のいわゆる55年体制に大きな亀裂が入った年であることに変わりはない。

 宮澤にとって不幸だったのは、この大きな転換が、首相個人の力量だけでは制御しにくい複数の変化と同時に起きたことである。バブル経済が崩壊し、金融システムには不良債権が蓄積し、冷戦が終わって日本の国際的役割が問い直され、政治と金への批判が高まり、自民党内部では派閥秩序が揺らいでいた。宮澤は一つの問題を処理すれば済む首相ではなく、戦後日本の政治経済システムそのものが転換期に入った時期の首相だった。

 そう考えると、宮澤の失敗を「頭はよかったが政治力がなかった」と説明するだけでは不十分である。確かに宮澤には、党内を強引にまとめるタイプの政治家とは異なる面があったが、それ以上に重要なのは、当時の首相が置かれていた制度的条件である。首相が政策を実現するには、自民党総裁として党内多数を維持しながら、派閥間の利害を調整し、官僚機構を動かし、衆参両院で法案を成立させ、同時に世論の支持を失わないようにしなければならない。

 この構造を数式のように単純化するなら、政治的成果は「首相個人の能力」だけで決まるのではなく、政策能力、党内基盤、議会多数、官僚との関係、世論、経済状況、利害集団、政治的タイミングなど、多数の変数の組み合わせによって決まると考える方が現実に近い。宮澤の政策知識が高かったことと、政権が十分な成果を残せなかったことが同時に観察されたとしても、「知識が豊富だったから動けなかった」と因果関係を逆向きに結びつけることはできない。

 むしろ宮澤政権が示しているのは、政策知識の豊富さが政治的成果の十分条件ではないということである。問題を理解していても、それを実行するための支持、制度、時間、政治的連合が整わなければ政策は動かない。逆に、強い政治基盤があっても政策理解が乏しければ、決断力は単なる暴走になり得るため、知識と政治力はどちらか一方を選べばよいという関係ではない。

 宮澤の経歴についても、単純に「官僚出身だったから政党政治に弱かった」と考えるのは適切ではない。宮澤が大蔵省出身だったことは事実だが、1953年に国会議員となってから首相に就任する1991年まで約四十年にわたり国政の中心にいたため、首相となった時点ではすでに十分すぎるほど長い政治経験を持っていた。外務大臣、大蔵大臣、官房長官などを歴任し、自民党内部の権力構造についても知らない人物ではなかった。

 それでも、宮澤が長年磨いてきた政策形成能力と、1990年代初頭に求められた政治能力との間にはずれがあったと考えることはできる。戦後日本の制度を熟知し、その内部で調整を積み重ねる能力は非常に高かったが、制度そのものが揺らぎ、政党再編まで視野に入る状況では、既存の仕組みを使って合意を形成する能力だけでは十分ではなかった。

 これは、古い建物の構造を誰よりも詳しく知る建築家が、その建物の管理責任者になったようなものだった。柱の位置も配管の経路も理解しており、どこに亀裂が生じているかも見えている。しかし建物そのものを建て替える段階に入れば、設計図を読む能力だけでは足りず、住人を説得して退去させ、資金を集め、反対する所有者と交渉し、新しい建物の姿を示さなければならない。

 ただし、宮澤政権を「何もできなかった政権」と見るのも正確ではない。外交・安全保障の分野では、1992年に国際連合平和維持活動などへの協力を可能にする国際平和協力法が成立し、日本はカンボジアのPKO(Peacekeeping Operations・国際連合平和維持活動)に参加することになった。湾岸戦争では巨額の資金協力を行いながら、日本の国際的貢献が十分に評価されなかったという経験があり、その後、日本が人員を伴う国際協力へ踏み出したことは戦後外交の重要な転換の一つだった。

 この事実は、宮澤を単純に「決断できなかった首相」と評価することの危険性を示している。すべての政策分野で主導力を欠いたわけではなく、政治的条件が整った分野では制度を動かしている。したがって宮澤政権を評価する場合、個人の性格や決断力だけで説明するのではなく、「どの政策では実行でき、どの政策では実行できなかったのか」を比較し、その違いを生み出した政治的条件を見る必要がある。

 こうして考えると、宮澤喜一という政治家の興味深さは、「知識がありすぎたため決断できなかった」という心理的な物語にあるのではない。むしろ問題は、政策を理解する能力があっても、それを政治的多数へ変換する制度的・党内的条件が整わなければ、首相でさえ政策を自由には動かせないという事実にある。

 政治では正しい答えを持つことが重要だが、その答えを実行できる状態を作ることも同じくらい重要である。必要性を説明し、反対者と交渉し、支持者を増やし、時には自分の政治的資源を消耗しながら多数を形成しなければ、正しい政策も紙の上に残るだけで終わる。

 宮澤には地図がなかったのではない。むしろ地図はかなり正確だった。しかし1990年代初頭の日本で必要だったのは、地図を読む能力だけではなく、すでに崩れ始めた道を通る人々をまとめ、新しい道を作ることだった。その作業には、知識とも経験とも異なる種類の政治的力が必要だったのである。

 だから宮澤喜一の挫折を、「頭のよい政治家は政治に向かない」という教訓に変えてしまうべきではない。それは事実から導くには飛躍が大きすぎる。宮澤の経験から読み取れるのは、政策知識の豊富さが政治的成功の十分条件ではなく、知識、権力基盤、世論形成、利害調整、制度設計、そして政治的タイミングが結びついたときに初めて大きな政策変更が可能になるという、より現実的な政治の姿である。

 宮澤喜一は、おそらく戦後日本で最も政策をよく理解していた首相の一人だった。それでも、その知識をすべて政治的成果へ変えることはできなかった。しかし、それは必ずしも宮澤個人だけの失敗ではない。古い政治秩序が崩れ、新しい秩序がまだ見えていなかった時代に、戦後日本の制度を最もよく知る政治家の一人が、その制度そのものの限界に直面したのである。

 その意味で宮澤喜一の首相時代は、一人の政治家の成功と失敗を超えた意味を持っている。政治を動かすには、知識だけでも、経験だけでも、強い決断だけでも足りない。それらを人間と制度の中で結びつけ、実際の多数と行動へ変換する能力が必要であり、宮澤喜一という政治家の歩みは、その難しさを戦後日本政治の転換点において極めて鮮明に示したのである。

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 政治家は、世論に従うべきなのだろうか。それとも、ときには世論が追いつく前に進むべきなのだろうか。民主主義では、政治家は選挙によって国民から権力を預けられる以上、世論を無視することはできない。しかし外交や安全保障のように、国際情勢が短期間で大きく動く分野では、国民の意見が十分に固まるまで待っている間に、国家として選択できる道そのものが狭くなることもある。1972年、田中角栄内閣が実現した日中国交正常化は、この難問を考えるうえで、半世紀以上を経た現在でも極めて興味深い事例である。

 もっとも、この出来事を「田中角栄という強力な政治家が、国民や官僚がためらうなかで一人だけ未来を見抜き、中国との国交正常化を実現した」と描いてしまえば、物語としては分かりやすいものの、歴史の実像からは離れてしまう。1972年9月29日、日本政府と中華人民共和国政府が北京で共同声明に調印し、両国の外交関係が樹立されたことは疑いない。しかし、その道筋は田中一人によって突然生み出されたものではなく、それ以前から政治家、経済界、民間団体などによる交流が長く積み重ねられ、日本国内でも中国との関係を改める必要性が徐々に意識されるようになっていた。

 さらに、日本だけを見ていては、この出来事の意味を十分に理解できない。1971年には、中華人民共和国が国際連合における中国の代表権を得て、国際社会における中国の位置づけそのものが大きく変わった。翌1972年2月には、それまで中国と厳しく対立してきた米国のリチャード・ニクソン大統領が北京を訪れ、毛沢東主席や周恩来首相との会談を行っている。米国と中国の正式な国交正常化は1979年まで待たなければならないが、1972年の時点で東アジアの外交構造が動き始めていたことは明らかであり、日本が従来の中国政策を維持し続けることにも、次第に大きな政治的コストが生じるようになっていた。

 ところが、外交政策は国際環境が変化したからといって、自動的に同じ速度で変わるわけではない。昨日まで正当とされていた政策には、それを支えてきた外交関係、政党内の勢力、官僚組織の判断、経済的利害、さらには過去の説明との整合性が結びついているため、進路を変えるには相応の抵抗が生じる。政治の世界では、社会の現実が先に動き、制度や政策が少し遅れてそれを追いかけることが珍しくない。田中角栄の特徴は、日中国交正常化という考えを誰よりも早く発見したことではなく、すでに生じていた国際環境と国内政治の変化を短期間で外交上の決定へ変えたところにあったと考える方が実態に近い。

 田中は1972年7月に自由民主党総裁となり、その直後に首相へ就任すると、日中国交正常化に積極的な姿勢を明確にした。その時点から、わずか二か月余り後の9月25日には北京を訪れている。そして周恩来首相らとの交渉を経て、9月29日に日中共同声明が調印された。この速度は、日本外交の歴史を考えても極めて速い。しかも、ここで決めなければならなかったのは、単に新しい国との外交関係を一つ増やすという話ではなかった。日本政府は中華人民共和国政府を中国の唯一の合法政府として承認し、その結果として、それまで外交関係を維持してきた台湾の中華民国政府との正式な外交関係を終了させることになった。

 そのため、田中の決断を「世論の支持を受けて進めた政策」とだけ評価することも正確ではない。1972年夏、田中内閣の発足直後に行われた世論調査では、新内閣にまず取り組んでもらいたい外交課題として「日中国交回復」を挙げた人が36%に達し、次に多かった米国との経済関係調整の14%を大きく上回っていた。この数字は、日中国交正常化が当時の国民にとって非常に重要な外交課題となっていたことを示している。

 ただし、この36%という数字を「国民の36%が国交正常化に賛成していた」と読み替えてはいけない。質問は、日中国交正常化の賛否そのものを聞いたものではなく、新内閣が優先して取り組むべき外交課題を尋ねたものであり、統計的には両者は異なる。ここを混同すると、世論を実際以上に単純化してしまう。正確に言えば、1972年夏の日本社会では、数ある外交課題の中で日中国交正常化を優先すべきだと考える人が相対的に多く、その問題への関心が極めて高まっていたのである。

 しかも、もう一つ重要な数字がある。国交正常化直前に行われた世論調査では、「中国との国交回復のためには台湾との関係が切れてもやむを得ない」と考えた人は11%程度にとどまっていたとされる。つまり、多くの国民は中国との関係改善を望む一方で、そのために台湾との正式な外交関係を断つことについては、必ずしも十分に納得していなかった可能性が高い。ここに、1972年の世論を理解するうえで極めて重要な二重性がある。

 国民は、中国との関係を正常化したいと考えていた。しかし、台湾との関係まで失いたいとは考えていなかった。ところが現実の外交では、この二つを完全に両立させることは困難だった。中国側が自国を中国唯一の合法政府とする立場を譲らない以上、日本政府はどこかで選択を迫られる。その意味では、田中角栄は世論に逆らって国交正常化を行ったわけではないが、世論が完全に受け入れていた政策をそのまま実行しただけでもない。

 ここに、田中政治のもっとも興味深い部分がある。国交正常化そのものについては社会全体の重心がすでに動いていた一方で、その実現に伴う代償まで国民が十分に受け入れていたわけではなかった。田中内閣は、その矛盾を抱えたまま決断したのである。言い換えれば、田中は世論から百歩先を走った政治家ではなかったが、国民が望んでいる方向を読みながら、その実現に必要な最後の一歩については政治家自身の判断で踏み出したと考えることができる。

 この違いは小さくない。政治家が世論の向かう方向を読むことと、国民が望んでいない方向へ独断で進むことは同じではないからである。世論とは、いつも一つの結論に整然とまとまっているものではない。「中国との関係は改善したい。しかし台湾との関係も維持したい」「米国との同盟は重視したい。しかし米国自身が中国へ接近している」というように、現実の国民意識には複数の希望が同時に存在し、ときには互いに矛盾する。政治家が向き合うのは、その矛盾をすべて満足させる政策ではなく、どの利益を優先し、どの損失を受け入れるかという選択である。

 その意味で、田中角栄の日中国交正常化を「決断力」という一言だけで説明するのも十分ではない。大胆な行動なら誰にでもできるが、政治に求められる決断は、単なる勇気とは違う。国際情勢、国内世論、与党内の力学、野党の動向、官僚組織の判断、中国側の交渉姿勢、米国との関係という複数の条件を読み、どの時点ならば政策変更が可能になるのかを判断しなければならない。1972年には、これらの条件の多くが同時に動いていた。

 実際、中国側も田中内閣成立後の日本政府の姿勢を歓迎し、早い段階から国交正常化への意欲を示していた。日本国内でも、社会党、公明党、民社党を含む野党側に正常化を求める動きがあり、経済界や民間交流の蓄積も存在していた。一方では、政府や自由民主党内部に台湾との関係維持を重視する勢力も存在しており、日本の政治が一枚岩だったわけではない。こうして見ると、田中角栄を日中国交正常化の唯一の「原因」と考えるよりも、長期的に蓄積していた変化を短期間で現実の外交政策へ転換した強力な加速要因と考える方が、因果関係としても妥当である。

 科学的な因果推論の考え方を歴史に当てはめるなら、「田中内閣が成立した後に国交正常化が実現した」という時間的順序だけから、「田中角栄がすべてを実現した」と結論づけることはできない。そこには国際連合における中国の位置づけの変化、米中接近、中国政府の外交姿勢、日本国内の世論変化、与野党の動向、経済界や民間交流といった複数の要因が存在している。むしろ、これらの構造的条件が長期間にわたって正常化の可能性を高め、その最後の段階で田中内閣の政治判断が実現時期を大幅に早めたと考える方が自然だろう。

 だからこそ、「政治家は世論より先に動くべきなのか」という問いには、単純な肯定も否定もできない。世論を無視し、自分だけが未来を理解していると政治家が考え始めれば、それは指導力ではなく独善へ転じる危険がある。しかし反対に、世論調査で十分な多数が形成されるまであらゆる判断を先送りするならば、外交のように機会を逃せば条件そのものが変わってしまう分野では、国家として最適な選択ができなくなる可能性もある。

 世論調査は、社会の現在位置を測るには有効である。しかし政治が決めなければならないのは、現在位置だけではない。政策には将来の結果が伴い、とりわけ外交政策では数年後、場合によっては数十年後まで影響が続く。その意味では、政治家に必要なのは単なる世論への追随ではなく、国民の意識がどちらへ動いているのか、その方向と速度を読むことである。

 1972年の田中角栄を見ると、この「方向」と「速度」という考え方がよく分かる。日中国交正常化を望む流れはすでに存在していた。しかし、正常化に伴う台湾との断交という現実までは、国民の多くが十分に受け入れていなかった。田中は世論から完全に独立して動いたのではなく、世論が作り出した大きな方向性の中で、まだ決着していなかった選択を政治判断として引き受けたのである。

 もちろん、1972年の国交正常化によって、その後の日中関係が安定したわけではない。歴史認識、領土、安全保障、台湾問題など、両国関係を揺さぶる問題はその後も繰り返し現れている。しかし、後に問題が発生したという理由だけで、1972年の外交判断そのものを失敗だったと結論づけることもできない。外交関係とは、問題を消滅させるためだけに存在するものではなく、問題が存在するときに交渉できる制度的な回路を作ることにも意味があるからである。

 田中角栄の日中国交正常化を振り返ると、政治家が世論より先に進むという表現そのものを、少し修正する必要があるのかもしれない。優れた政治家とは、国民の百メートル前を独りで走っていく人物ではない。国民と同じ社会に立ち、その不安や期待を共有しながら、社会全体がどちらへ動きつつあるのかを読み、すべての希望を同時には実現できない分岐点に立ったとき、その選択の意味を説明し、自ら決断を引き受ける人物なのである。

 1972年の田中角栄は、誰にも見えていない道を一人で発見したわけではなかった。多くの国民が中国との関係を改める必要性を感じ、国際社会もすでに動き始めていた。その流れの中で田中が行ったことは、「いつか変えなければならない」と考えられていた外交方針を、「いま変える」という具体的な政治判断へ変換することだった。

 そこにこそ、日中国交正常化から半世紀以上を経ても考える価値が残っている。政治家は世論より先に動くべきなのかという問いに対する答えは、おそらく「常に先に動くべきだ」でも「常に世論に従うべきだ」でもない。世論の方向を見極めながら、国民がまだ十分には受け入れていない現実についても、その必要性を説明し、判断の結果に責任を負う覚悟があるときに限って、政治家は最後の一歩を先に踏み出すことが許される。

 政治家に必要なのは、世論を追い越す速さではない。社会がどちらへ進もうとしているのかを見抜き、その先にある選択肢と代償を国民に示す能力である。1972年の日中国交正常化は、その難しさを今なお鮮やかに映し出している。

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