~市川房枝との微妙な距離から見えてくる「市民派政治家」の実像~
日本の総理大臣には、ある程度決まった政治的な出発点がある。政治家の家に生まれて地盤を引き継ぐ者、中央官庁で経験を積んで政界へ転じる者、大政党に入り党内組織の階段を上っていく者である。しかし、菅直人はそのいずれにも典型的には当てはまらなかった。東京工業大学を卒業し、弁理士資格を取得した後、市民運動や選挙運動に参加し、自ら国政選挙に挑戦して三度敗れ、それでも政治活動を続けて1980年に衆議院議員となった。その後、厚生大臣、民主党代表、副総理、財務大臣などを経て、2010年には第94代内閣総理大臣に就任した。
この経歴だけを見れば、一人の市民運動家が既成政治に挑戦し、ついには国家権力の頂点へ到達した立身出世物語のように映る。しかし、実際の政治人生はそれほど単純ではない。菅は選挙での敗北だけでなく、政党再編、党内対立、代表辞任などを経験し、そのたびに政治的な立場を変えながら活動を続けてきた。1996年の薬害エイズ問題への対応で全国的な注目を集めた一方、2004年には年金問題をめぐって民主党代表を辞任し、政治的影響力を大きく損なった時期もあった。
菅が首相まで到達できた理由を考えるには、市民運動家としての理念や個人の努力だけでは不十分である。選挙実務を身につけたこと、少数政党から大政党へ活動の場を広げたこと、行政制度の問題を政治的争点にする能力を持っていたこと、そして所属する民主党が政権を獲得したことなど、複数の条件を考慮する必要がある。さらに、2010年の鳩山由紀夫首相の退陣という政治的な機会が、菅の首相就任にどのように結びついたのかも検討しなければならない。
その出発点をたどると、女性参政権運動の指導者として知られる市川房枝との関係に行き着く。しかし、そこには一般に語られる単純な師弟関係とは異なる、政治理念と政治手法をめぐる微妙な距離が存在していた。
市川房枝との出会いは政治的原点だった
菅直人の政治人生を語るうえで、市川房枝の存在を避けることはできない。1974年の参議院全国区選挙で、当時27歳だった菅は、引退を考えていた市川に再出馬を求める市民の運動に参加し、選挙事務長を務めた。単に街頭で応援した若者の一人ではなく、選挙活動を組織する中心的な役割を担っていたのである。菅自身も後年、この選挙を政治活動の原点として繰り返し振り返っている。
市川は戦前から女性参政権の実現に取り組み、戦後は参議院議員として政治腐敗の防止や選挙の浄化を訴えた人物だった。企業や業界団体からの多額の政治資金に依存せず、市民の寄付やボランティアを基礎とする「理想選挙」を主張し、自らも実践していた。1974年の選挙で市川は約193万票を獲得して当選し、金権政治への批判が強まっていた時代に、市民参加型の選挙が大きな注目を集めた。
若い菅にとって、この経験が重要だったことは理解しやすい。政治家の家系や大きな後援組織を持たなくても、市民を集め、活動を組織し、選挙によって国会議員を誕生させることができる。その過程を実際に経験したことは、政治への参加可能性を考えるうえで大きな意味を持ったと考えられる。後に菅が「政治に市民常識を!」と訴えて自ら選挙に挑戦した背景にも、この経験があった。
ただし、1974年の選挙事務長という重要な役割を担ったことと、市川から政治的後継者として全面的な信頼を得ていたことは同じではない。選挙運動の実務能力に対する評価と、本人が政治家になったときの判断や行動に対する評価は分けて考える必要がある。実際、市川が後に残した記録からは、菅の政治活動について必ずしも全面的に賛同していなかった姿が見えてくる。
市川房枝は菅直人の立候補を無条件には支持しなかった
1976年12月、菅は旧東京7区から無所属で衆議院選挙に立候補した。市川が1977年に公表した記録によれば、菅は立候補を決めた後、市川に選挙応援を求めた。しかし、市川は衆議院に無所属で立候補すること自体に賛成できず、正式な推薦や選挙応援を行わなかった。その一方で、50万円をカンパし、自分の秘書や関係職員が選挙を手伝えるよう配慮したうえで、「自力で闘いなさい」という趣旨の言葉を伝えたと記している。
この対応は、市川が菅を完全に突き放していたわけではないことを示している。金銭面と人的な協力を一定程度認めながらも、自らの政治的判断に基づいて正式な推薦は控えたのである。しかも、市川が推薦を拒んだ理由には、菅個人への評価だけでなく、衆議院における無所属立候補への考え方が含まれていた。そのため、推薦しなかった事実だけを根拠に、菅への不信感が強かったと断定することはできない。
しかし、選挙が始まってからの菅の活動について、市川はさらに批判的な記述を残している。1977年6月の『婦人展望』に掲載された市川の文章では、菅が選挙運動の中で市川の名前を使い、かつて市川を支援した人々に寄付や協力を求めたことについて、自分が主張してきた理想選挙とはかなり異なるという趣旨の批判が示されている。この文章の内容は、同年の『私の国会報告』にも収録されている。
もっとも、市川の記述には、菅が支援者の名簿を持っていた「らしい」という趣旨の表現など、伝聞や推測に基づく部分も含まれている。したがって、市川が菅の選挙手法に違和感を抱いていたことは確認できても、実際にどのような依頼が行われたのか、支援者がそれをどう受け止めたのかについては、別の資料も必要になる。市川の批判をそのまま菅の行為に関する確定的な事実認定とするのは適切ではない。
重要なのは、師弟関係という言葉だけでは説明できない政治観の違いが、この段階ですでに表れていたことである。市川は自らの理想選挙の原則を重視し、菅は国政選挙に挑戦するために、市民運動で築いた人脈や経験を活用しようとしていたと考えられる。ただし、その違いを直ちに一方の正しさや他方の不誠実さの証拠と見るべきではない。
1977年にも続いた市川の懸念
市川の異論は、1976年の衆議院選挙だけにとどまらなかった。1977年、菅は江田三郎らが結成した社会市民連合に参加し、同年の参議院選挙に東京都選挙区から立候補した。市川は当時の文章で、菅が社会市民連合に参加することや参議院選挙に立候補することについて、事前の相談を受けていなかったと記している。また、他の候補者と同様に推薦や応援はしないという立場を示し、市民団体を代表する立場と政党政治の関係についても懸念を述べていた。
この記録からは、市川が自らの選挙を支えた青年の政治活動を、無条件に支持していたわけではないことが分かる。市川が重視していたのは、組織を着実に育てながら社会に貢献する活動を積み重ねることであり、国政選挙への進出や政党への参加については慎重な姿勢を持っていたと読み取れる。一方、菅は自らの政治理念を実現するために、選挙と政党を通じて国会に進出する道を選んだ。
ここには、市民運動と政党政治の関係をめぐる重要な論点がある。市民運動は、政策や行政に対して外部から意見を示し、社会的な支持を広げることができる。しかし、法律の制定や予算の決定に直接関与するには、議会内に議席を確保することが必要になる。市民運動の理念を議会政治へつなげる過程では、候補者の擁立、政党との協力、選挙資金の確保、支持組織の拡大といった現実的な課題に直面する。
市川と菅の違いも、こうした政治活動の方法をめぐる違いとして理解できる。ただし、1976年から1977年にかけて市川が菅の政治手法を批判していたことから、1981年に市川が亡くなるまで両者の関係が一貫して悪化していたと結論づけることはできない。確認できるのは、少なくともこの時期、市川が菅を全面的な政治的後継者として扱っていたわけではなかったということである。
三度の落選から1980年の初当選へ
菅は1976年の衆議院選挙で落選し、1977年の参議院選挙でも議席を得られず、1979年の衆議院選挙でも敗れた。現在の知名度から振り返ると見過ごされやすいが、政治家の家系でも中央官庁の出身者でもない人物が、国政選挙で三度続けて落選したのである。政治活動を継続するには、本人の意欲だけでなく、支持者との関係や選挙に必要な資金、人員、組織を維持することが求められた。
得票数を見ると、1976年の衆議院選挙で菅は7万1368票を獲得し、旧東京7区で7人中5位となった。当時の同選挙区は定数4人の中選挙区であり、菅の得票率は11.7%だった。1979年の衆議院選挙では6万7480票、得票率11.9%で7人中6位にとどまったが、1980年6月の衆議院選挙では15万7921票、得票率22.8%を獲得し、6人の候補者の中で第1位当選を果たした。
1979年と1980年を比較すると、菅の得票数は約2.34倍となり、得票率も11.9%から22.8%へと10.9ポイント上昇している。この数字は、単に三度の落選を経て当選したという事実だけでなく、短期間に選挙結果が大きく変化したことを示している。ただし、その原因を菅個人の努力や選挙技術の向上だけに求めることはできない。候補者構成の変化、投票率、政党支持、当時の政治情勢なども結果に影響するため、得票率の上昇を一つの要因によって説明するのは適切ではない。
ここで注目したいのは、菅が選挙への挑戦を続ける一方で、政党政治にも参加していたことである。1977年には社会市民連合の結成に加わり、1978年には社会民主連合の結成に参加して副代表となった。市民運動を出発点としながらも、政党という組織の必要性を認識し、議会政治の内部で活動する道を選んだのである。
もっとも、粘り強く活動を続けたこと自体を、政治的成功の十分な説明とすることには注意が必要である。落選後も政治活動を続けながら、最終的に国政で議席を得られなかった人々も存在する。菅という成功者だけを取り上げれば、政治活動の継続が成功をもたらす重要な性格的特徴だったように見えやすい。しかし実際には、政治活動の継続、支持基盤の形成、選挙情勢の変化などが重なって初めて当選に至ったと考えるべきである。
菅直人には行政制度を調べて問題を掘り出す政治手法があった
菅を単なる運動型の政治家として理解すると、その活動のもう一つの特徴を見落とすことになる。1980年に衆議院議員となった後、菅は薬事行政や審議会の運営などについて、行政資料や制度の仕組みを調べ、国会質問で具体的な問題を追及していた。
1981年3月19日の衆議院社会労働委員会では、丸山ワクチンの問題に関連して、中央薬事審議会の審査過程に疑問を示している。その際、抗悪性腫瘍剤として承認されていたクレスチンやピシバニールを取り上げ、医薬品の承認手続、審議会の審査過程、委員の研究上の関係などについて具体的に質問した。製薬企業と審議会委員の関係を確認し、医薬品の承認判断がどのような手続によって行われたのかを明らかにしようとする内容だった。
このような国会質問から、菅が早い時期から行政制度の内部構造を調べ、不透明な部分を問題にする政治手法を取っていたことは確認できる。ただし、それによって菅が生来、官僚を信用しない人物だったとか、権力への反抗心が強かったなどと心理的な性格まで断定することはできない。人物の内面的な動機と、実際の政治行動は区別して評価する必要がある。
行政制度を具体的に調査し、問題点を公の場で明らかにすることは、議会による行政監視の基本的な機能の一つである。特に医薬品行政のように専門知識が必要な分野では、行政機関の説明をそのまま受け入れるのではなく、審査過程や利益関係、判断の根拠を確認することに意味がある。菅の国会活動には、そうした制度的な監視機能を重視する姿勢が見られた。
もっとも、国会で鋭い質問ができることと、行政機関を実際に統率して政策を実行できることは別の能力である。菅がその二つの立場を経験することになったのが、1996年の厚生大臣就任だった。
薬害エイズ問題は菅一人が解決したわけではない
1996年、菅は橋本龍太郎内閣の厚生大臣に就任し、薬害エイズ問題への対応によって全国的な注目を集めた。血友病患者らが非加熱血液凝固因子製剤を通じてヒト免疫不全ウイルスに感染したこの問題では、国や製薬企業の対応について長年にわたって責任が追及されていた。患者や家族、弁護団、支援者、報道機関、国会議員らによる活動が続いており、菅の大臣就任以前から司法手続を通じた解決も進められていた。
1989年には東京と大阪で国や製薬企業を相手とする訴訟が提起され、1995年10月6日には東京・大阪両地方裁判所が和解勧告を出していた。同月には、前任の森井忠良厚生大臣も和解交渉に応じる意向を示している。したがって、菅の就任によって初めて問題解決の動きが始まったと説明するのは正確ではない。司法手続や被害者の活動によって、既に政府側が対応を迫られる状況が形成されていたのである。
その一方で、菅の厚生大臣としての役割も重要だった。それまで存在が確認できないとされていた資料について省内調査が進められ、1996年2月には、いわゆる「郡司ファイル」を含む関係資料の発見が公表された。同月16日には菅が被害者に国の責任を認めて謝罪し、同年3月29日には和解が成立した。行政内部に存在する資料を調査させ、その結果を公表し、国の責任を明確にすることは、行政機関を所管する大臣としての権限と政治判断を伴う行為だった。
ここで重要なのは、問題を長年追及してきた人々の活動と、大臣が行政組織を動かしたことの双方を評価することである。被害者や弁護団の活動、裁判所の和解勧告がなければ、菅の対応が同じ形で実現したとは限らない。一方で、行政組織の内部資料を調査し、国の責任を認めるという対応が進んだことにも、当時の厚生大臣としての政治的判断が関係していた。
この経験によって、菅は単に市民運動の立場から行政を批判する政治家ではなく、行政機関を所管し、その対応を変える立場に立った人物として認識されるようになった。全国的な知名度や政治的評価を高める重要な契機になったと考えられるが、これだけで後の首相就任を説明することはできない。行政問題への対応能力、政党運営能力、首相としての政治指導力は、それぞれ異なる観点から評価しなければならないからである。
「市民派政治家」が権力を求めることは矛盾なのか
菅の政治人生には、市民運動の理念と政治権力の行使との間に、一見すると矛盾した関係がある。既成政治や行政の問題を外部から批判する立場で活動を始めながら、やがて連立政権に参加して閣僚となり、政党の代表を務め、最終的には国家権力の中枢に到達したからである。
しかし、市民運動と政治権力の獲得は必ずしも論理的に対立するものではない。市民の意見を政策へ反映するには、社会的な要求を広げるだけでなく、議会内で法律や予算の決定に関与する必要がある。そのためには選挙で議席を得て、政党を通じて政策をまとめ、他の政治勢力と協力し、行政機関を動かす立場に就くことが求められる。外部からの批判と内部からの政策実現は、政治活動の異なる段階として理解することもできる。
もっとも、権力を獲得する過程では、当初の理念と組織運営上の必要性が衝突する可能性がある。政党を大きくするには、自分と考え方の異なる政治家とも協力しなければならず、連立政権に参加すれば政策上の妥協も必要になる。政党代表になれば、個々の政策に関する信念だけでなく、選挙結果、党内の人間関係、資金、候補者の調整などにも責任を負うことになる。
菅が1994年に新党さきがけへ参加し、自民党、社会党、新党さきがけによる連立政権の中で活動したことや、1996年に鳩山由紀夫らと民主党を結成したことも、こうした現実政治への適応として位置づけられる。ただし、その行動を単純に理念からの変節と評価することも、逆に理念の実現に向けた一貫した行動だったと評価することも、十分な検証なしにはできない。政党再編の背景には、政策上の対立や選挙制度の変化、既存政党の存続可能性、政治家同士の関係など、複数の要因が存在していた。
確認できるのは、菅が市民運動出身者として少数政党にとどまり続けるのではなく、より大きな政治的影響力を持つ組織へ活動の場を広げていったことである。そして、その選択が後に首相候補となるための重要な条件の一つになった。
民主党という大きな政治組織を得たことが決定的だった
菅が総理大臣になるためには、本人の知名度や政策能力だけでは不十分だった。日本国憲法第67条では、内閣総理大臣は国会議員の中から国会の議決によって指名されると定められている。大政党の党首であることは法律上の必須条件ではなく、複数政党の連立などによって首相に指名されることも可能である。しかし、現実には国会、特に衆議院で多数の支持を確保できる政治勢力の中心に位置することが、首相就任の重要な条件となる。
菅が所属していた社会民主連合は、少数の国会議員によって構成される小政党だった。小政党の政治家として高い知名度を得ることは可能でも、その政党だけで政権を担当することは極めて難しい。菅にとって重要だったのは、1990年代の政界再編を通じて活動の場を広げ、1996年に民主党の結成に参加したことである。その後、民主党は他の政党や政治勢力との合流を重ね、自由民主党に対抗し得る規模の政党へと成長した。
菅自身も民主党の共同代表や代表を務め、政策面だけでなく、選挙、党内調整、他党との関係など、大政党の運営に関わる経験を積んだ。社会民主連合の政治家だった時代と比較すると、政治的に担う役割は大きく変化していた。政党の規模が拡大することで、菅個人の政治的可能性も広がったのである。
2009年8月の衆議院総選挙では、民主党が当時の480議席のうち308議席を獲得し、政権交代を実現した。議席占有率は約64.2%であり、民主党は衆議院で単独過半数を大きく上回る勢力となった。この結果は、菅個人の政治的成功を説明するうえで極めて重要である。所属政党が政権を獲得したことによって、菅にも副総理や閣僚として政権の中心に入る道が開かれたからである。
その意味で、菅が首相になった理由を個人の資質だけで説明することはできない。約30年にわたる議員経験や閣僚経験を積み重ねていても、所属する政治勢力が政権を獲得しなければ、首相就任の機会は大きく制約される。民主党という政権獲得可能な大政党の形成と、2009年の政権交代は、菅の首相就任を可能にした重要な構造的条件だった。
2004年の民主党代表辞任という挫折
菅の政治人生を「何度も政治の中心へ戻ってきた人物」と評価するなら、2004年の民主党代表辞任も欠かすことはできない。当時、政治家の国民年金保険料の未納問題が大きく報道され、菅自身も年金加入をめぐる問題で批判を受けた。菅は同年5月10日、民主党代表の辞任を表明した。
この問題については、後に加入記録や行政上の手続をめぐる問題も指摘されており、当初の未納報道だけで経緯を単純に説明することはできない。ただし、当時の政治状況において、年金制度の問題を追及していた野党第一党の代表が、自らの年金加入をめぐる問題によって辞任に追い込まれたことは、政治的に大きな打撃だった。
その後、菅は直ちに党内の中心的な地位へ復帰したわけではない。民主党では岡田克也や小沢一郎らが指導的な役割を担い、菅の政治的な立場も変化した。それでも国会議員として活動を続け、2009年の政権交代後には副総理兼国家戦略担当大臣として政権中枢に復帰した。2010年1月には財務大臣にも就任し、首相後継候補としての立場を強めていった。
この経過からは、一度政治的な影響力を失った後でも、党内の役割や政治状況の変化によって再び重要な地位を得ることがあるという、政党政治の特徴が見えてくる。ただし、菅が復帰できた理由を本人の精神的な強さだけで説明することはできない。民主党内の人事、他の有力政治家との関係、政権交代による役職の増加なども影響していたと考える必要がある。
それでも、菅が代表辞任によって政界を退くことなく、国会活動を継続したことは、その後の首相就任に至るための必要条件だった。1970年代の三度の落選と2004年の代表辞任は性質の異なる挫折だが、政治活動を継続することによって、その後の政治的機会を利用できる立場を維持したという点では共通している。
2010年、首相の椅子は突然転がり込んできたのか
2010年6月、鳩山由紀夫首相が退陣すると、民主党は新しい代表を選出することになった。菅は代表選挙に立候補し、樽床伸二を291票対129票で破って新代表となった。有効投票420票に占める菅の得票率は約69.3%だった。同年6月4日には衆議院本会議で477票のうち313票を獲得し、内閣総理大臣に指名された。その後、6月8日に正式に内閣総理大臣に任命され、菅内閣が発足した。
鳩山首相の退陣によって菅に機会が生じたという意味では、首相就任に偶然的な要素が存在していたことは否定できない。しかし、その機会を利用できる立場に誰もがいたわけではない。当時の菅は、厚生大臣経験者であり、民主党代表経験者であり、副総理と財務大臣を兼ねる政権中枢の政治家だった。岡田克也や前原誠司らの有力政治家が自ら立候補せず菅を支持したことも、代表選挙を優位に進める要因となった。
したがって、菅の首相就任を単なる偶然や「棚ぼた」と評価するのは適切ではない。一方で、本人の能力と実績が必然的に首相就任をもたらしたと説明することもできない。民主党が2009年に政権を獲得していなければ、鳩山首相が2010年6月に退陣していなければ、あるいは他の有力政治家が異なる行動を取っていれば、首相選出の結果も変わっていた可能性がある。
このように考えると、菅の首相就任は、個人の経歴、所属政党の政権獲得、党内の人間関係、そして特定の時点に生じた政治的機会が重なった結果だったと理解できる。長年の政治経験は首相就任の可能性を高める条件の一つだったが、それだけで結果を決定したわけではなかった。
政治家の成功を考える際には、個人が積み上げた能力と、その人物が置かれた政治的な環境を分けて評価する必要がある。政治的な機会は、本人の努力とは独立に生じる場合があるが、それを利用できるかどうかは、それ以前に獲得していた地位や人間関係にも左右される。菅の2010年の首相就任は、そうした複数の条件が同時に成立した事例だった。
菅直人の政治的成功を統計的にどう考えるか
菅の政治人生を振り返ると、三度の落選から初当選し、小政党から大政党へ移り、代表辞任を経験しながら、最終的に首相になったという特徴的な経路が見えてくる。しかし、こうした一人の成功例から、政治家が首相になるための一般的な法則を導き出すことはできない。
例えば、政治活動を長く継続した人ほど首相になりやすいという仮説を検証するなら、菅だけでなく、同じ時代に国政選挙へ挑戦した人々、少数政党に所属した国会議員、非世襲の政治家、大臣や党代表を経験した人物などを比較する必要がある。政治活動を続けても議席を得られなかった人、長年国会議員を務めても首相にならなかった人を含めて分析しなければ、成功した人物に共通する特徴を過大評価してしまう可能性がある。
また、菅の首相就任に影響した要因を、単純に数値化することも難しい。市川房枝の選挙で得た経験、薬害エイズ問題への対応、民主党の結成、2009年の政権交代、鳩山首相の退陣などは、それぞれ性質が異なるうえに、互いに関連しているからである。例えば、厚生大臣としての経験が菅の党内評価に影響した可能性はあるが、それが2010年の代表選挙で何票の増加に結びついたかを、既存の経歴だけから推定することはできない。
むしろ重要なのは、政治的成功の条件を、必要条件と十分条件に分けて考えることである。菅が1980年の衆議院選挙で当選し、その後も政治活動を続けたことは、実際にたどった経路で首相になるために必要だった。しかし、衆議院議員として活動を続ければ誰でも首相になれるわけではない。同様に、民主党が2009年に政権を獲得したことは菅に首相就任の現実的な機会を与えたが、民主党に所属する政治家全員に同じ機会が与えられたわけではなかった。
菅の政治人生を最も妥当に説明するのは、特定の個人的資質による必然的な成功ではなく、本人の政治行動と政治制度、政党の成長、偶然的な政治状況が長期間にわたって組み合わさった結果という見方だろう。この説明は華々しい英雄物語にはなりにくいが、政治家の成功をより現実的に理解するうえでは重要である。
「政治の中心へ戻ってきたこと」は何を意味するのか
菅直人を優れた思想家と評価するか、卓越した行政指導者と評価するかについては意見が分かれる。2010年から2011年の首相在任中には、党内対立や政権運営の困難に直面し、2011年3月の東日本大震災と福島第一原子力発電所事故への対応でも評価が分かれた。緊急時の意思決定、行政機関との関係、情報の共有、政治的指導力などについては、首相就任に至る経歴とは別に検証する必要がある。
しかし、首相へ到達するまでの過程に限定すれば、菅が何度も政治的な不利な状況に置かれながら、国政での活動を継続したことは確認できる。1976年から1979年にかけて三度の落選を経験し、1980年に初当選した後は小政党の議員として活動し、1990年代には政界再編の中で大政党の指導者となった。2004年には民主党代表を辞任したが、政界を退かず、2009年の政権交代後に再び政権の中心へ戻ってきた。
こうした行動を、非常に強い上昇志向や政治的な生存能力の表れと評価することは可能である。ただし、その評価を本人の心理的な動機と同一視する必要はない。権力を求める意欲、市民運動の理念、政策実現への関心、組織を維持する必要性などは、相互に排他的なものではなく、一人の政治家の中に同時に存在することもある。外部から確認できる政治行動と、本人の内面的な動機を区別することが、人物を評価する際には重要である。
また、政治活動を継続できた背景には、菅個人だけでなく、支持者や協力者の存在もあったと考えるべきである。選挙には資金、人員、情報、組織が必要であり、政治家一人の意思だけでは長期間の活動を維持できない。菅の政治的な持続性を評価するなら、本人の努力だけでなく、支持者との関係や政党組織の変化にも目を向ける必要がある。
市川房枝から受け継いだものと、受け継がなかったもの
ここまでの経歴を市川房枝との関係に重ねると、菅直人という政治家の特徴がより明確になる。市川は若い菅に選挙活動の重要な経験を与え、市民参加型の選挙が持つ可能性を実地で示した。その一方で、菅が自ら国政選挙に立候補し、政党政治へ参加するようになると、その政治手法について異論や懸念を記している。
菅は市川から、市民が政治に参加することの意義や、既存の政治組織に全面的に依存しない選挙の経験を得たと考えられる。しかし、その後の菅は、市川の政治活動をそのまま再現する道を選んだわけではなかった。少数政党に参加し、政界再編を通じて大政党へ移り、党代表として政治組織を率い、連立政権の閣僚として行政権を行使した。市川から影響を受けたことと、市川の政治手法を全面的に継承したことは、区別しなければならない。
ただし、両者の政治的な違いを、師への反逆や理念からの離反といった単純な関係として描くことも適切ではない。市川が1976年から1977年にかけて菅の活動を批判していたことは確認できるが、そのことだけから両者の人間関係全体や、菅の生涯にわたる政治理念の変化を断定することはできない。政治家同士の関係には、個人的な信頼、政治理念への共感、選挙手法への評価、組織との距離など、異なる側面が存在する。
むしろ市川と菅の関係から読み取れるのは、市民運動の理念を政党政治の中で実現しようとするときに生じる問題である。政治の浄化や市民参加を重視する理念と、選挙に勝ち、議席を増やし、政権を獲得するための活動は、必ずしも同じ方法によって実現できるわけではない。菅は市川の選挙を通じて政治参加の可能性を学びながら、後には市川が批判した面もある政党組織や選挙戦略を通じて、自らの政治的影響力を拡大していったと理解できる。
「市川房枝の弟子だから総理になった」のではない
菅直人が総理大臣まで上り詰めた理由を、市川房枝の信頼や後援だけによって説明することはできない。市川との関係が政治的出発点として重要だったことは確かだが、市川自身が菅を無条件に政治的後継者として支持していたわけではないことも、当時の記録からうかがえる。菅の政治人生は、市川の理念をそのまま受け継いだ人物の成功というより、市民運動を出発点としながら、選挙と政党政治の中で独自の経路を歩んだ人物の事例として理解する方が適切である。
菅が首相に到達できた要因を整理するなら、若い時期に市民参加型の選挙実務を経験したこと、三度の落選後も国政への挑戦を続けたこと、少数政党に参加して組織政治の経験を積んだこと、国会で行政制度の具体的な問題を追及したこと、厚生大臣として薬害エイズ問題への対応に関与したこと、政界再編を通じて民主党の指導者となったこと、そして2009年の政権交代後に副総理・財務大臣として首相後継候補になり得る地位を占めていたことが挙げられる。
これらの条件は、いずれも単独で首相就任を保証するものではなかった。菅と同様に長く国会議員を務めた人々や、閣僚経験、党代表経験を持つ人々の中にも、首相にならなかった政治家は数多く存在する。菅の場合は、長年の政治活動によって形成された地位と、民主党の政権獲得、さらに鳩山首相の退陣という特定の政治状況が結びついたことで、2010年の首相就任が実現したのである。
1974年、市川房枝を国会へ戻すための選挙活動に取り組んでいた27歳の青年が、36年後には自ら国会から内閣総理大臣に指名される立場になった。この事実だけを取り出せば、市民運動の可能性を象徴する成功物語にも見える。しかし、その36年間を丁寧にたどれば、そこには三度の落選、選挙基盤の形成、政党再編、行政問題への対応、党代表辞任、政権交代、党内政治という、複雑な過程が存在していた。
菅直人の政治人生から読み取れるのは、市民運動家であっても政治権力の中心へ進むことができるという事実だけではない。政治理念を実際の政策へ結びつけようとすれば、選挙で支持を得ること、政党を組織すること、行政機関を動かすこと、そして政治的な妥協や対立に対応することが避けられないという現実である。
市川房枝から受け継いだものと、市川房枝とは異なる道を選んだこと。その両方が菅の政治人生を形づくる一部となった。ただし、どの要因が首相就任にどの程度寄与したのかを厳密に確定することはできず、市川が若い菅に感じた違和感が、その後の政治的成功を予見していたと解釈することもできない。
菅直人が総理大臣になれたのは、清廉な市民運動家だったからでも、市川房枝の弟子だったからでも、単に野心と粘り強さを持っていたからでもない。市民運動、国政選挙、議会活動、行政、政党再編という異なる政治の仕組みの中で活動を続け、政権獲得可能な政治組織の中心に位置するまでに至ったこと、そして首相を選出する政治的な機会が生じたことが重なった結果だった。
その意味で、菅の政治人生は、一人の人物の立身出世物語にとどまらない。市民が政治へ参加することと、現実に政治権力を獲得して行使することの間に、どのような条件と困難が存在するのかを考えるための、一つの具体的な歴史事例なのである。






