地域政経

九条レオンの地域から社会と政治・経済のこれからを考える

 選挙の日が来たのに、選挙がない。候補者のポスターが町を埋めることも、選挙カーの声が朝の静けさを破ることもなく、それでも告示の日が過ぎれば議員や首長が決まっている。無投票当選とは、候補者数が定数を超えなかったため投票を行わずに当選者が決まる制度上まったく合法的な仕組みであり、それ自体を直ちに民主主義の異常と呼ぶことはできない。しかし、その静けさが一度だけではなく、各地で繰り返されるようになったとき、その背後には人口減少時代の地方自治が抱える構造的な変化が見えてくる。

 本稿では、首長選挙や都道府県議会議員選挙でも発生する無投票のすべてを一括して論じるのではなく、なり手不足の問題がとりわけ鮮明に表れている町村議会議員選挙を中心に考えていく。選挙の種類が違えば無投票になる理由も完全には同じではなく、たとえば首長選挙では現職の強さや政党・地域勢力の関係などが大きく作用するため、「地方選挙の無投票には一つの原因がある」と考えること自体が適切ではないからである。

町村議会では、無投票はすでに珍しい出来事ではない

 全国町村議会議長会の集計を見ると、町村議会議員の一般選挙で無投票となった町村の割合は、2011年5月から2015年4月までの20.4%から、2015年5月から2019年4月には21.9%、2019年5月から2023年4月には27.4%へと上昇している。さらに2023年の統一地方選挙だけを見ると、町村議会議員選挙が行われた373町村のうち123町村、33.0%が無投票となった。

 さらに重要なのは、実際に無投票となった自治体だけを見ても候補者不足の全体像は分からないことである。2019年5月から2023年4月までの町村議会議員選挙では、無投票となった町村に、候補者数が定数をわずか1人だけ上回った町村まで加えると全体の59.7%に達しており、これは町村議会の約6割が「候補者があと一人少なければ無投票」という境界付近にあったことを意味する。無投票選挙は、もはやごく一部の山間部や離島だけで起きる例外的な現象ではなく、地方議会の候補者供給そのものが細くなっていることを示す現象として考える必要がある。

人口が少ない自治体ほど無投票になりやすいのは確かである

 最初に思い浮かぶ原因は人口減少だろう。住民が少なくなれば議員になろうとする人の母数も小さくなるため、小規模自治体ほど無投票になりやすいという説明には直感的な説得力があり、実際の統計もその傾向をかなり明瞭に示している。

 2017年5月から2021年4月までの市町村議会議員選挙を分析した研究では、無投票となった252選挙のうち241選挙、95.6%が「選挙人5万人以下、当選者20人以下」という比較的小規模な範囲に入っていた。また、無投票自治体の選挙人平均は約1万2900人だったのに対し、投票が行われた自治体では約5万4200人となっており、自治体規模と無投票との間には明瞭な関連が確認できる。

 ただし、ここで「人口が少なければ無投票になる」と単純化してしまうと、現象のかなり重要な部分を見落としてしまう。同じ研究では自治体の面積そのものには極端な差がみられなかった一方、1平方キロメートル当たりの選挙人数は、無投票自治体で約69人、投票が行われた自治体では約253人と大きく異なっていた。つまり、人口の総数だけでなく、人がどの程度まとまって暮らしているかという人口密度も無投票と関連しているのである。

 もっとも、この数字から「人口密度が低いことが無投票を引き起こす」と因果関係まで断定することはできない。人口密度の高い自治体では企業や商店、学校、地域組織、政党活動、職業構成なども同時に異なるため、人口密度だけの効果を切り離すことは難しいからである。統計が確実に示しているのは、小規模で人口密度の低い自治体ほど無投票が多いという相関であって、その背後にどのような社会構造が介在しているかは、さらに考える必要がある。

同じ5000人の町でも、候補者を生み出す力は同じではない

 人口5000人の町を二つ想像してみよう。一方には駅があり、その周囲に住宅、商店、学校、診療所、事業所が集まり、多様な職業や世代の住民が日常的に交わっている。もう一方では広い山間部に小さな集落が点在し、若い世代の多くが町外へ通勤し、地域組織の担い手も高齢化している。同じ人口5000人であっても、この二つの町から新しい議員候補が生まれる可能性まで同じだと考える理由はない。

 選挙とは、住民の頭数から一定割合で候補者が発生する仕組みではなく、政治に関心を持つ人が存在し、その人が立候補を現実的な選択肢だと考え、仕事や家族生活との調整ができ、周囲から一定の支援を受け、選挙に必要な時間と費用を負担できて初めて候補者が一人誕生する制度である。この過程のどこか一つでも大きな障壁が生じれば、人口が存在していても候補者は出てこない。

減っているのは「議員になれる年齢の人」だけではない

 町村議会の変化を見るうえでは、人口減少とともに年齢構成にも注意する必要がある。全国町村議会議長会の調査では、町村議会議員の平均年齢は2015年の62.7歳から2019年には63.9歳、2023年には64.4歳へ上昇している。また、在職20年以上の議員割合も12.3%から15.3%、16.2%へ増加している。

 一方、在職4年未満の議員割合は2015年の26.3%から2019年には24.9%へ低下し、2023年には25.9%までやや回復したものの、2015年をなお下回っている。このため「新人議員が一貫して減り続けている」と表現するのは正確ではないが、長期在職者の比率が高まり、議会構成の高齢化が進んでいることは確かであり、新しい世代への交代が十分に進んでいるとは言いにくい。

 問題は単なる年齢ではなく、現役世代が地方議員という仕事を選択できる生活条件を持っているかどうかである。若い人が町に残っていても、住宅ローンを抱え、子どもを育て、会社員としてフルタイムで勤務しているなら、地方議員への立候補は容易ではない。したがって候補者不足を考えるとき、本当に見るべきなのは「25歳以上の住民が何人いるか」ではなく、「現実に立候補できる生活条件を持つ人が何人いるか」なのである。

月額約22万円の議員報酬をどう見るか

 町村議会議員の報酬の低さも、なり手不足を考えるうえで無視できない。全国町村議会議長会の2025年調査では、町村議会議員の平均月額報酬は約22万3000円であり、人口5000人未満の町村では平均約19万2000円にとどまっている。

 もちろん、議員報酬が低いという事実だけで無投票が発生するわけではなく、報酬を上げれば候補者不足が自動的に解消するとも限らない。しかし、地方議員の仕事には本会議への出席だけでなく、委員会、行政資料の調査、住民相談、地域行事、政策研究などが伴うため、十分な生活収入を得られる専業職とは言いにくい一方、副業として簡単にこなせるほど軽い仕事でもないという矛盾が生じる。

 この条件は、とりわけ会社員に重くのしかかる。勤務先に兼業制度や休職制度がなければ立候補を機に退職せざるを得ない場合があり、しかも選挙に当選する保証はなく、当選しても4年後に再選できる保証はない。そのため、40代や50代の会社員が「地域のために働いてみたい」と考えても、その意欲だけでは越えられない経済的な壁が存在する。

 地方議会のなり手不足とは、政治に関心のある人がいない問題というより、政治に関心があっても職業生活を維持したまま参加することが難しい問題として捉えた方が実態に近い。

小さな町ほど、立候補は本人だけの問題ではなくなる

 小規模地域では住民同士の関係が密接であり、それは災害時の助け合いや高齢者の見守りでは大きな長所となるが、選挙では必ずしも政治参加を促進する方向だけに作用するとは限らない。

 全国町村議会議長会が行った現地調査では、小規模な町村では候補者本人だけでなく家族や親族まで地域から注目されるため、家族の反対によって立候補を断念した事例や、地域の推薦を受けていない移住者が立候補を考えた際に周囲から難色を示された事例などが報告されている。また、一部地域には、自ら立候補することを「出過ぎた行為」と捉える文化的な感覚が残っているとの指摘もある。

 ただし、これらは全国すべての小規模自治体に共通することを統計的に証明した結果ではなく、現地調査や聞き取りから得られた事例であることには注意が必要である。それでも、立候補が匿名性の高い都市部とは違って本人の政治的決断だけでは完結せず、家族や地域の人間関係を巻き込む場合があるという指摘は、候補者不足を人口統計だけでは説明できない理由の一つになる。

 ここには地方政治の難しい逆説がある。地域とのつながりが強い人ほど議員に向いているように見える一方、その人ほど立候補によって失う可能性のある人間関係も多い。商売をしていれば顧客との関係を考え、会社員なら勤務先を考え、家族は近所付き合いを考えるため、政治参加によって生じる社会的な費用が大きくなれば、「そこまでして議員にならなくてもよい」と判断することも個人にとっては合理的なのである。

候補者だけでなく、候補者を「担ぐ人」も減っている

 地方選挙では、候補者本人がある日突然政治家を志し、すべてを一人で準備して立候補するとは限らない。かつては自治会、商工団体、農業関係者、地域の世話役などが候補者を探し、「次はあの人に出てもらおう」と本人を説得し、選挙運動を支えることも珍しくなかった。候補者の背後には、候補者を発見し、支援し、政治へ送り込む地域社会の仕組みが存在していたのである。

 ところが人口減少と高齢化は、候補者になる世代だけでなく、その「担ぎ手」となってきた地域組織の側にも及んでいる。全国町村議会議長会の調査でも、従来の選挙を支えた組織や担ぎ手が弱まり、初めて立候補する人が選挙手続きや人員確保、資金準備などを自ら行わなければならない状況が指摘されている。

 もっとも、自治会や商工会などの縮小が候補者数をどの程度減らすのかを全国的な統計から数量的に示した研究は十分ではないため、「地域組織が弱くなったから無投票が増えた」と直接的な因果関係を断定することはできない。それでも、政治参加には候補者本人だけでなく候補者を発掘し支援する社会的な基盤が必要だという考え方には十分な合理性がある。

 人口減少から無投票へ至る経路は、「人口が1割減れば候補者も1割減る」という単純なものではないのかもしれない。人口が減ることで若年層が減り、事業所や商店が減り、地域組織が弱まり、候補者を探す人も支援する人も少なくなり、その長い連鎖の最後に候補者不足が数字となって表れると考える方が、地方社会の実態には近い。

定数を減らせば解決するという単純な話でもない

 候補者が少ないのであれば議員定数を減らせばよいという考え方も、一見すると合理的である。定数12人に候補者が12人しかいないため無投票になるのであれば、定数を10人に減らせば候補者12人で選挙が成立するからである。

 しかし、定数削減には別の作用もある。議席が少なくなれば一人の候補者が当選するために必要な支持は相対的に大きくなり、既存の支持基盤を持たない新人にとって参入障壁が高くなる可能性がある。町村議会を対象とした研究でも、低い議員報酬だけでなく少ない議員定数と無投票との関連が指摘されている。

 もちろん、定数を減らせば必ず候補者がさらに減るという意味ではなく、短期的には候補者数と定数との差が広がり、無投票を回避できる自治体もあるだろう。しかし、無投票を解消することだけを目的として定数を減らし続ければ、形式上は選挙が成立していても、新しい人が政治へ参入するための入口まで狭くしてしまう可能性がある。

無投票になりやすい自治体にあるのは、一つの原因ではなく「条件の重なり」ではないか

 ここまでを整理すると、無投票選挙が増える自治体の特徴を一つの数字だけで説明することは難しいことが分かる。統計的にかなり確実なのは、小規模で人口密度の低い自治体ほど無投票が発生しやすいということであり、その背景には高齢化、議員報酬の低さ、会社員が立候補する際の職業上のリスク、地域組織の担い手不足、新人が参入する際の障壁など、複数の条件が重なっている可能性がある。

 したがって、「人口5000人以下なら無投票になる」といった明確な境界線を設定することはできない。同じ5000人の町でも人口密度、産業構造、通勤形態、議員報酬、議員定数、地域組織、移住者の割合、地域社会の開放性などが違えば候補者供給の条件も異なるからである。

 科学的に重要なのは、ここで相関と因果を混同しないことである。小規模自治体ほど無投票になりやすいことはかなり強いデータで確認できるが、「人口が少ないから無投票になる」という単独の因果関係が証明されているわけではない。むしろ自治体が小規模になるにつれて、候補者を生み出す社会的・経済的条件が複数同時に厳しくなると考える方が、現在確認できる研究には整合的である。

本当に問題なのは「選べない状態」が続くことである

 無投票選挙については、選挙費用がかからず、地域内で候補者への合意が形成されているのであれば合理的ではないかという考え方もできる。実際、一度無投票になったという事実だけから、その自治体の民主主義が機能していないと断定することはできない。

 しかし、無投票が何度も繰り返される場合には別の問題が生じる。選挙がなければ候補者同士の政策比較は行われず、住民は複数の選択肢から地域の将来像を選ぶ機会を持たない。選挙期間中に本来行われるはずだった政策論争そのものが発生しないため、誰が当選するかという結果だけでなく、地域社会が政治を考える過程そのものが失われることになる。

 競争性の低い選挙と投票率との関連を示す研究は存在するものの、「無投票が続くことで住民の主権者意識が低下し、その結果としてさらに候補者が減る」という因果の連鎖までが全国的なデータによって十分に証明されているわけではない。逆に、もともと政治参加の低い地域だからこそ無投票が起こりやすいという逆方向の因果も考えられる。

 したがって、無投票が住民の政治意識を必ず低下させると断定するよりも、無投票が繰り返されれば、住民が候補者を比較し、政策を選択し、地域の将来について議論する機会が継続的に失われるという事実そのものを問題として捉える方が適切である。

無投票率は「地域の更新能力」を映す指標になり得るか

 ここから先は、現在の研究によって確立された結論ではなく、一つの仮説として考えてみたい。無投票率は、その地域社会が新しい担い手をどれだけ生み出せるかという「地域の更新能力」を見る補助的な指標として使えるのではないだろうか。

 人口減少率や高齢化率は地域の人口構造をよく表すが、それだけでは新しい住民が地域活動へ参加できるのか、若い世代が意思決定に入れるのか、既存組織の外から新しい人が出てこられるのかまでは分からない。もし人口規模や高齢化率がほぼ同じ二つの自治体で、一方では毎回複数の新人候補が現れ、もう一方では何期も無投票が続いているとすれば、その違いには人口統計だけでは捉えられない社会的な条件が存在する可能性がある。

 この仮説を検証するには、自治体ごとの無投票回数と人口減少率、高齢化率、人口密度、議員報酬、定数、産業構造、新人候補割合、移住者割合、地域組織への参加状況などを長期間にわたって比較する必要がある。その研究が十分に行われているわけではない以上、「無投票率が地域衰退を示す」と断定することはできないが、地域社会の政治的な新陳代謝を見る材料として注目する価値はある。

選挙がなくなる前に、何が地域から失われているのか

 無投票選挙の増加を人口減少だけの問題として処理すると、「人口が少ない地域では仕方がない」という結論になりやすい。しかし、実際には同じ規模の自治体であっても選挙になるところと無投票になるところが存在している以上、人口だけでは説明できない何かがある。

 そこには議員という仕事の経済条件、会社員が政治参加するための制度、候補者を支える地域組織、外部から来た住民や若い世代を受け入れる地域社会の開放性、そして議会そのものが住民から魅力ある政治参加の場として見えているかどうかまで、多くの要素が絡んでいる可能性がある。

 選挙とは、誰を選ぶかを決める制度である。しかし、その前にはもっと根本的な条件が存在する。選ばれようとする人が複数いなければ、住民が「選ぶ」という行為そのものが成立しないからである。

 地方自治にとって本当に注意すべき変化は、投票率が50%を切ることだけではないのかもしれない。そのさらに手前で、投票率を計算する選挙そのものが行われなくなっていくことにも目を向ける必要がある。

 人口が静かに減る町では、最初に学校が統合され、商店が閉じ、路線バスが消えるとは限らない。それらの変化と並行して、「次の選挙に出る人がいない」という政治の担い手不足が先に姿を現すこともある。ポスターのない選挙期間は静かであり、住民の日常生活が直ちに変わるわけでもない。しかし、その静けさが4年ごとに繰り返されるようになったとき、私たちは「選挙がなくて困らない」と考えるだけでなく、なぜこの地域から選ばれようとする人が生まれにくくなったのかを問い直す必要がある。

 無投票選挙が発しているのは、「人口が減った」という単純な警報ではない。それは、地域社会が新しい担い手を生み出し、世代を交代させ、異なる意見を政治へ送り込む力が今も残っているのかを問いかける、人口減少時代の地方自治から届く静かな警告なのかもしれない。

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 町役場が道路を直す。学校の空調設備を更新する。庁舎の清掃を委託し、公用車を購入し、給食の食材を調達する。自治体が何かを買うたび、住民から集められた税金は企業の売上へと姿を変えるが、その契約書に地元企業の名前が記されていれば、私たちはどこか安心する。「どうせ税金を使うのなら、地元に落とした方がいい」という感覚は分かりやすく、地域振興という言葉ともよくなじむ。

 実際、町外の大企業が公共工事を受注し、資材も作業員も地域外から持ち込み、工事が終わると利益まで町の外へ出ていくように見えれば、「これでは地域経済のためにならない」と感じるのは自然である。それなら、多少価格が高くても地元企業へ仕事を回し、従業員の給与や企業利益を地域に残した方がよいのではないか。給与を受け取った住民が町内の商店で買い物をすれば、そのお金はさらに別の企業の売上となり、地域の中を循環していくようにも思える。

 ところが、公共調達を地域経済の側から真面目に考え始めると、この一見単純な話は急に複雑になる。なぜなら、自治体にとっての「得」、地元企業にとっての「得」、住民全体にとっての「得」は必ずしも一致せず、しかも地元企業への発注額そのものと、地域経済に実際に残る所得も同じではないからである。

「地元に一億円落ちた」という言葉の危うさ

 そもそも「地元企業」とは何を意味するのだろう。本社が町内にある企業なのか、営業所があれば地元企業なのか、従業員の多くが町民なら地元企業なのか、それとも町内企業から多くの商品や資材を購入している企業なのか。この定義を少し変えるだけでも、地域経済に残るお金の量はかなり変わる。

 たとえば町内に本社を置く建設会社が一億円の工事を受注したとしても、その一億円すべてが町内に残るわけではない。鋼材やコンクリートを町外から購入し、重機を町外企業から借り、専門工事を他地域の会社へ再発注すれば、その部分のお金は地域外へ出ていく。一方で町外企業が受注した場合でも、町民を雇用し、地元の事業者から資材を購入し、町内企業へ下請工事を発注するなら、かなりの金額が地域経済へ流れ込む可能性がある。

 経済学的に重要なのは、契約書に記された企業の住所よりも、その支出によって地域内にどれだけ所得、雇用、利益、取引が残ったかである。地域経済分析では、地域内で生まれた所得が再び地域内で消費されれば追加的な需要が生まれる一方、仕入れや所得の多くが地域外へ流れれば、その波及効果は小さくなると考える。

 したがって「地元企業への発注額が増えた」という数字だけでは、地域振興政策の成功を証明することはできない。簡単に測れるのは受注額だが、本当に知りたいのは、そのうちどれだけが地域の所得として残り、さらに何度地域内を循環したかなのである。

一億円の工事を一億一千万円で発注する意味

 地元企業優先について、もう一つ避けて通れない問題が価格である。ただし、ここでは誤解しない方がよい。地元企業だから必ず価格が高いわけではなく、地元企業の方が移動費や情報収集費を抑えられ、結果として安くなるケースもあり得る。問題になるのは、所在地などによって競争相手を過度に絞り込み、十分な競争が働かなくなった場合である。

 仮に同じ品質の工事について、広域的に競争すれば一億円で契約できるところを、地元企業を優先した結果、一億一千万円になったとしよう。この一千万円には、地域内雇用や企業利益を支える効果があるかもしれない。しかし、その一千万円もまた住民の税金であり、その金額を追加で支払えば、別の道路補修、学校設備、福祉、防災、子育て支援などに使える予算は減る。

 ここで比較すべきなのは、「地元企業へ一億一千万円を払った場合」と「より安い企業へ一億円を払い、残った一千万円を別の行政サービスへ使った場合」である。前者では地域企業に所得が残る可能性があるが、後者でも追加の行政支出を通じて別の雇用や住民サービスが生まれる可能性があり、一方だけを見て地域経済への効果を判断することはできない。

 これは経済学でいう機会費用の問題である。一つの政策へ使った税金は、同時に別の政策へ使うことができない。人口減少によって税収の大幅な伸びが期待しにくい自治体ほど、この考え方は重くなる。

 したがって、本来の問いは「地元企業を優先するべきか、するべきでないか」という二択ではない。地元企業への発注によって得られる地域所得、雇用、技術維持、災害対応力などの便益が、競争低下や価格上昇による追加負担をどこまで上回るのかという比較なのである。

地元企業が存在すること自体に価値がある仕事

 もっとも、公共調達を単に価格だけで判断するのも危険である。道路、水道、除雪、設備修繕、災害復旧などでは、自治体の近くに事業者が存在していること自体が公共サービスを支える能力になっている場合があるからだ。

 平常時なら数十万円安い町外企業に発注できても、台風で道路が寸断された翌朝に重機を動かし、倒木や土砂を撤去できるのは地域の建設会社かもしれない。深夜に水道管が破裂したとき、短時間で現場に駆けつけられる設備会社が近くに存在することにも価値がある。こうした緊急対応能力は通常の入札価格だけでは十分に表現できない。

 日本でも建設業は災害時の応急復旧やインフラ維持を担う「地域の守り手」として政策上位置づけられており、公共工事の評価でも、工事の性格によっては地域精通度、災害協定、地域貢献、維持管理能力などが考慮されることがある。したがって、地域企業の存在そのものに一定の公共的価値を認める考え方は、単なる感情論ではない。

 ただし、「一度企業がなくなれば二度と戻らない」とまで言い切る必要はない。より正確には、長い時間をかけて形成された技術者、設備、取引網、地域事情への知識、緊急時の連絡体制などを、一度失った後で短期間に再構築することは難しいということである。

 公共調達には、今日の工事を買うという役割だけでなく、将来もその地域で工事や修繕を行える供給能力を一定程度維持する側面がある。価格だけを見れば多少高く見える契約でも、長期的な維持管理や非常時の対応力まで含めれば合理的となる場合があり、逆に、その価値がほとんどない業務まで「地元だから」という理由だけで高く契約すれば、住民にとっては単なる追加負担になりかねない。

「守ること」がいつの間にか目的になる危険

 地域企業を残すことに価値があるとしても、その論理をどこまでも広げてよいわけではない。地元企業優先が長期間固定されれば、公共調達市場そのものが閉じた市場になる可能性があるからである。

 毎年ほぼ同じ企業が入札し、役所も発注者も互いの事情をよく知り、新規企業が入りにくい状態が続けば、競争参加者は減っていく。公共調達については、一般に競争可能な企業が多いほど価格競争が働きやすく、日本の公共工事を用いた研究でも、有効な入札者が増えるほど落札価格が低下する傾向が報告されている。

 もっとも、ここでも因果関係を単純化することはできない。競争が激しければ激しいほど常に企業の生産性や技術革新が高まるとは限らず、市場構造や産業によって効果は異なる。それでも、特定企業が恒常的に保護され、新規参入がほとんど起こらない市場では、価格低減、生産性向上、新技術導入への圧力が弱まる可能性があるという指摘には十分な理論的根拠がある。

 地元企業を育てるための制度が、結果として企業を公共需要への依存体質にしてしまえば、政策の目的と結果は逆転する。役所から仕事をもらうことには強くても、民間企業や他地域から仕事を獲得する競争力を持たない会社が増えたのであれば、それを地域産業の強化と呼べるかは疑問である。

「中小企業を参加させること」と「地元企業を勝たせること」は違う

 ここには重要な区別がある。公共調達で中小企業が参加しやすくする政策と、地元企業を無条件に優先する政策は、似ているようで本質的には違う。

 公共調達の契約があまりにも大きければ、資金力や人員の限られた中小企業は最初から入札できない。過剰な売上高要件、巨大な過去実績、複雑な書類、長い支払い期間なども、中小企業にとって事実上の参入障壁となる。そのため、必要に応じて契約を合理的な単位に分割したり、過剰な資格要件を見直したり、手続きを簡素化したりすることで、中小企業の参加機会を増やす方法がある。

 この場合、目的は競争者を減らすことではなく、むしろ競争へ参加できる企業を増やすことである。

 それに対して「町内に本社がある企業だけ」「一定距離以内の企業だけ」という条件を強く設定すれば、参加者を減らすことになり、競争性を低下させる可能性がある。つまり、地域企業支援という同じ看板を掲げていても、「競争に入れる企業を増やす政策」と「競争から外す企業を増やす政策」では経済的な意味が大きく異なる。

 国や自治体が中小企業の受注機会拡大を進めていることも、「所在地だけを理由に地元企業へ契約を与えることが常に望ましい」という意味ではない。公共調達では、中小企業の参加機会、公正な競争、適正な価格、品質を同時に考える必要がある。

公共調達に地域振興をどこまで背負わせるのか

 さらに根本的な疑問がある。公共調達は、そもそもどこまで地域振興政策を担うべきなのだろう。

 道路工事を発注する第一の目的は、地元建設会社の売上を増やすことではなく、安全で必要な道路を適切な費用で整備することである。学校給食を調達する目的は食品会社を支援することではなく、安全で安定した食事を子どもへ提供することであり、行政システムを導入する目的も、情報技術企業を育成することではなく、行政サービスを改善することである。

 公共調達に地域雇用、環境、福祉、企業育成、防災、脱炭素など多くの政策目標を加えることには意味がある一方、目的を増やしすぎれば、調達そのものの価格や品質を客観的に評価しにくくなる。

 だからといって最安値だけを選べばよいわけでもない。安い工事を選んだ結果、耐久性が低く数年後に再施工が必要になれば、最初の価格差は簡単に消える。設備についても、購入価格は安いが修理費や保守費が高い製品なら、長期的には割高になる。

 公共調達で本当に求められているのは単純な最安値ではなく、税金一円当たりから住民が受け取る長期的な価値を大きくすることである。

地元企業だから評価するのか、地域に価値を残すから評価するのか

 ここまで考えると、「地元企業だから加点する」という考え方より、「その企業が地域にもたらす実質的な価値を評価する」という発想の方が合理的に見えてくる。

 たとえば緊急時に短時間で出動できる体制、地域住民の雇用、地域内の下請企業との取引、継続的な維持管理能力などが契約の目的と実質的に関係するのであれば、それらを適切に評価する余地はある。

 しかし、公共調達では発注者が自由に地元企業を優遇できるわけではない。日本の公共調達には、公平性、透明性、競争性という原則があり、一定規模以上の調達では国際的な政府調達ルールとの整合性も求められる。したがって、地域貢献や所在地をどこまで評価できるかは、契約の種類、金額、発注主体、業務内容などによって異なり、「地域振興になるから」という理由だけで自由に差を設けられるものではない。

 実際の制度設計では、地域対応力が契約履行に本当に必要なのか、その評価方法が透明なのか、特定企業を恣意的に優遇していないかという点が問われる。

 ここは地域振興政策と公共調達制度の間にある緊張関係である。地域にお金を残したいという政治的要求がある一方、税金を使う以上、公平な競争を確保しなければならない。この二つを同時に満たす制度設計こそが難しい。

行政境界と地域経済の境界は同じではない

 もう一つ、「地元」という言葉そのものを考え直す必要がある。経済活動は市町村境界で止まっていないからである。

 住民は隣町のスーパーで買い物をし、隣市の病院へ通い、別の自治体にある会社へ勤務する。企業も同じで、仕入れ先、従業員、顧客、下請会社は複数の自治体にまたがっている。

 人口数千人程度の町では、とりわけこの傾向が強い。町内だけで建設、医療、物流、情報技術、設備保守など、あらゆる産業を完結させることは現実的ではなく、隣接自治体を含む生活圏や経済圏が実質的な地域を形成している。

 そのため「町内企業か町外企業か」という二分法だけで経済効果を判断すると、実際の地域経済を見誤る可能性がある。町外企業でも町民を多数雇っている場合があり、町内企業でも仕入れや従業員の大半が町外であれば、地域内に残る所得は意外に少ないかもしれない。

 公共調達を地域政策として利用するのであれば、「地元企業とは誰か」ではなく、「どの範囲を一つの地域経済圏として考えるのか」という問いまで進まなければならない。

本当に測るべきものは「地元企業受注率」ではない

 自治体が地域企業支援の成果を示すとき、「地元企業への発注率」は分かりやすい数字である。しかし、分かりやすい数字が必ずしも重要な数字とは限らない。

 仮に地元企業受注率が五十%から八十%へ上昇しても、入札参加企業が減り、落札率が上昇し、新規参入がなくなり、毎年ほぼ同じ企業が契約するようになったのであれば、その政策を成功と呼べるかは疑わしい。

 反対に地元企業受注率がそれほど高くなくても、地域企業が公共調達を通じて技術や実績を蓄積し、町外自治体や民間市場から仕事を獲得するようになり、雇用や所得を増やしているなら、産業政策としてはこちらの方が健全かもしれない。

 本当に評価するのであれば、地元企業受注率だけではなく、入札参加企業数、新規参入数、落札率、契約価格、地域雇用、地域内仕入れ、地域内下請、災害対応実績、受注企業の公共部門依存度、生産性、町外市場での売上などを長期的に見る必要がある。

 さらに科学的に厳密な評価を行うなら、「地元企業優先政策を実施した地域」と「実施しなかった類似地域」の変化を比較するなど、政策を実施しなかった場合に何が起きていたかという反実仮想を考えなければならない。単に地元企業の売上が増えたという事実だけでは、その増加が政策の効果なのか、景気や公共事業増加など別の要因によるものなのかは分からないからである。

地元優先か最安値かという二択から離れる

 公共調達の議論は、「税金なのだから一円でも安くするべきだ」という考えと、「地域経済のために地元企業を優先するべきだ」という考えに分かれやすい。しかし、どちらも単独では十分ではない。

 最安値だけを追えば、品質、維持管理、緊急対応力、将来の地域供給能力を失う可能性がある。一方で地元企業だけに閉じた市場をつくれば、競争参加者が減少し、価格やサービス改善の圧力が弱まる可能性がある。

 現実的なのは、その間に制度を設計することである。契約を必要以上に巨大化せず、中小企業も参加できる規模にし、過剰な参加条件を取り除き、新規企業が入りやすくする一方、価格だけでは測れない品質、維持管理、緊急対応能力なども合理的な範囲で評価する。

 その競争の結果として地元企業が選ばれるのであれば、それは地域経済にとって望ましい姿だろう。

 地元企業を「競争から守る」のではなく、「競争に参加できるようにする」という考え方である。わずかな言葉の違いに見えるが、政策としては全く異なる。

公共調達は十年後の地域に何を残すのか

 一件の公共工事だけを見れば、それは道路を直したり、建物を建てたりする契約にすぎない。しかし、毎年繰り返される公共調達を十年、二十年という時間で眺めれば、その選択によって地域の企業構造そのものが少しずつ形づくられていく。

 誰へ仕事を発注するかによって企業が残り、技術者が育ち、設備が維持され、雇用が生まれることがある。一方で、その企業を守るために自治体が高い費用を払い続ければ、他の公共サービスへ回せる財源は減る。

 そのため、「地元企業への公共調達は地域経済に得なのか」という問いに、全国共通の一つの答えはない。

 地域内に残る所得が大きく、地域雇用を生み、災害対応や維持管理能力を支え、価格差も小さいのであれば、地元企業への発注には十分な合理性がある。しかし、所在地だけを理由に競争を狭め、価格差が大きく、同じ企業だけが受注し続け、企業自身の競争力も育っていないのであれば、その制度は地域経済を支えているというより、公共支出への依存を固定している可能性がある。

 結局、見るべきなのは「地元企業への発注率」ではない。その政策によって地域内にどれだけ所得と雇用が残り、企業の技術と競争力がどれだけ育ち、災害時や人口減少時の供給能力がどれだけ維持され、そのために住民が追加的にどれだけの費用を負担したのかという全体の収支である。

 地域経済を守るという言葉は美しい。しかし、本当に強い地域経済とは、役所が守り続けなければ生き残れない企業が多い地域ではなく、地域の仕事を担いながら、外の市場とも競争できる企業が存在する地域なのではないだろうか。

 公共調達をそのための入口として利用することはできる。ただし、出口まで公共調達に依存させてはいけない。

 公共調達で本当に問われているのは、「税金を地元に落としたか」ではない。その一円によって、十年後の地域にどれだけの所得、技術、競争力、そして非常時にも機能する供給能力を残せたのかなのである。

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 政治家の失敗には、少なくとも二つの種類がある。判断そのものを誤った失敗と、問題の所在はかなり正確に見抜いていたのに、それを現実に変える方法を誤った失敗である。前者は比較的分かりやすく、結果が出れば、どこで情勢を読み違えたのかを検証できる。しかし後者は厄介である。時間がたつほど「あの人の言っていたことにも一理あった」という再評価が生まれる一方で、それならなぜ、その人物は政治的な勝者になれなかったのかという疑問が残るからだ。

 加藤紘一という政治家を振り返るとき、この疑問から逃れることは難しい。とりわけ2000年11月に起きた、いわゆる「加藤の乱」は、一人の政治家の失敗談としてだけ読むには惜しい事件である。そこには、世論と議員行動のずれ、正論と組織の力の違い、選挙制度と党公認権、集団行動が崩れる仕組み、そして政治において「正しいこと」と「正しいことを実現すること」がなぜ別の能力なのかという問題が、ほとんど標本のように詰まっている。

 2000年11月20日、野党が森喜朗内閣に対する不信任決議案を提出すると、自民党の有力政治家だった加藤紘一は、山崎拓とともにこれに同調する姿勢を示した。ところが、決定的な局面に近づくにつれて党執行部による猛烈な切り崩しが進み、加藤を支持するとみられていた議員たちは次々に造反から離れていった。加藤は最後には自ら国会へ向かおうとしたものの、側近たちに止められ、本会議を欠席する。不信任案の採決そのものは日付をまたいだ11月21日未明に行われ、賛成190票、反対237票で否決された。

 その直前、加藤を制止した谷垣禎一が「あんたは大将なんだから」と語った場面は、平成政治を象徴する映像として長く記憶されることになった。敗北したのは不信任案だけではなかった。加藤自身が党内で築いてきた政治的影響力も、この一件によって大きく傷ついたのである。

 この光景だけを切り取れば、政局を読み違えた政治家が無謀な倒閣運動を起こし、最後には自ら投票することさえできずに敗れた話に見える。しかし四半世紀ほどの距離を置いて眺めると、それほど単純でもない。加藤が見ていた森政権の脆弱さそのものは、少なくとも現実から大きく外れた認識ではなかったからである。

森政権を危ういと見た判断は間違っていたのか

 森喜朗内閣は、小渕恵三首相の急病という異例の状況のなかで発足した。その政権継承をめぐっては、党幹部らによる協議のあり方が「五人組」「密室政治」と厳しく批判された。森自身は、次の首相を密室で決めたわけではないと国会でも反論しており、したがって歴史的事実として「密室で森首相が決められた」と断定するのは適切ではない。それでも、そのような批判が強く存在し、政権発足時から正統性に疑問を持つ世論があったことは確かである。

 その後も失言や政権運営をめぐる問題が重なり、森内閣の支持率は低下した。加藤が動いた2000年秋には、森政権をこのまま続けてよいのかという疑問は、加藤一人の思いつきではなく、自民党内部にも社会にも存在していた。

 重要なのは、この後の歴史を見て「だから加藤は正しかった」と単純に結論づけないことである。森政権は加藤の乱から約5か月後の2001年4月に終わるが、そこに至るまでには森内閣の低支持率だけでなく、複数の政治問題や党内事情が重なっている。後から政権が崩れたという結果だけを見て、加藤が将来を完全に予見していたと考えるのは、典型的な後知恵になりかねない。

 それでも、加藤が感じ取っていた政権基盤の弱さそのものを、単なる妄想と片づけることもできない。森政権は実際に短期間で求心力を失い、翌春には新しい総裁を選ばざるを得なくなった。したがって加藤の問題認識については、「正解だった」と言うよりも、「少なくとも重大な問題の存在を捉えていた」と評価する方が正確だろう。

 ところが、政治では問題を正確に発見することと、その問題を解決できることは同じではない。

世論が動いても、国会議員が動くとは限らない

 加藤の乱が起きた2000年は、日本の政治にインターネットが影響を与え始めていた時期でもあった。加藤のホームページには大量のアクセスが集まり、激励の電子メールが多数送られた。加藤自身も、そこに社会からの期待を感じ取っていた。

 しかし、ここに大きな落とし穴があった。インターネット上で強く観察される支持と、国民全体の支持は同じではなく、さらに国民の支持と国会議員の投票行動も同じではないからである。

 有権者がテレビを見ながら「森政権を代えた方がいい」「加藤にやらせてみてもいい」と考えることには、大きな個人的代償はない。しかし、自民党所属の国会議員が野党提出の内閣不信任案に賛成するとなれば事情はまったく違う。そこでは自分の信念だけではなく、次回の選挙で党公認を受けられるのか、後援会や地方組織はどう動くのか、党内の役職や政治的将来を失わないか、自分だけが敗者側に取り残されないかという問題まで、一度に判断しなければならない。

 しかも1990年代の選挙制度改革によって衆議院に小選挙区制が導入されると、自民党公認の意味は以前より重くなった。中選挙区制では同じ自民党から複数候補が競うことも普通だったが、小選挙区では原則として一つの政党から一人の公認候補が出る。そのため、党執行部が持つ公認権は議員の政治生命により直接的な影響を与えるようになった。

 野中広務ら党執行部が強かったのは、森喜朗の政治的主張の方が加藤紘一より論理的に優れていることを証明したからではない。造反しようとしている議員一人一人が何を恐れ、何を失いたくないのかを理解し、その条件に働きかけることができたからである。

 ここに、正論と権力が一致しない最初の理由がある。正論は人間の考えを変えようとするが、権力は人間が行動を選ぶ条件そのものを変える。

「森首相を辞めさせたい」と「加藤についていく」は同じではなかった

 政治では、多くの人間が同じ不満を持っていても、それだけで集団行動が成立するとは限らない。

 当時の自民党議員の中に森政権への不満を持つ者がいたとしても、「森首相は交代した方がよい」と考えることと、「野党の内閣不信任案に賛成し、自分の政治生命まで賭けて加藤と行動を共にする」ことの間には大きな距離がある。

 しかも一人一人の判断は、他の議員がどう行動するかによって変わる。例えば五十人が確実に造反すると分かっていれば、自分も加わろうと考える議員がいるかもしれない。しかし、途中で三十五人しか集まらないと分かった瞬間、その議員にとって造反の期待値は変わる。そこで一人が離れれば三十四人になり、その情報を見た別の議員も離れる。このように、ある人数を下回った瞬間から集団行動が連鎖的に崩れていく現象は、政治だけでなく、企業組織や社会運動にも起こり得る。

 加藤の乱は、この協調問題が政治の現場で可視化された事件だったとも考えられる。

 加藤の大きな誤算の一つは、森政権に対する不満の大きさそのものよりも、その不満が自分への政治的支持として結晶化すると期待したことだったのではないか。森政権への不満が六十あっても、加藤への支持が六十あるとは限らない。加藤への好感が六十あったとしても、加藤のために党執行部と戦う覚悟を持つ者が六十いるとは限らないのである。

 政治における本当の支持とは、拍手の数ではない。最後の一票を投じるところまで同じ方向に歩いてくれる人数である。

なぜ「最後に投票しなかったこと」が重かったのか

 加藤の乱では、最後に加藤自身が不信任案へ賛成票を投じなかったことが、しばしば決定的な場面として語られる。

 もっとも、これを単純に「臆病だった」と説明するのは公平ではない。加藤一人が本会議へ向かえば、それまで行動を共にしてきた議員たちにも厳しい処分や政治的損失をもたらす可能性があった。派閥の長として仲間を守ろうとした判断だったと考える余地はあるし、もはや勝算のなくなった戦いを続けることに意味はないと判断した可能性もある。

 しかし権力という観点から見れば、撤退には別の代償が生じる。

 政治における発言の力は、その内容だけで決まるわけではない。「この人物は、最後には本当に実行する」と周囲が予測することによって、初めて交渉力になる。反対者が「強いことを言っていても、最後には撤退するだろう」と考えるようになれば、その人物が次に行う政治的な威嚇や交渉の効果は低下する。

 もちろん、もし加藤が一人でも本会議に出席して不信任案へ賛成していたなら、その後の評価が上がったと断定することはできない。逆に「勝算もないのに党を混乱させた政治家」として、さらに厳しく批判された可能性もある。しかし少なくとも、言葉どおり最後まで投票した政治家として、現在とは異なる記憶が残った可能性はある。

 加藤の乱が単なる敗北ではなく、「挫折」という印象を伴って記憶された理由もそこにある。負けたことだけでなく、勝負を宣言した人物が最後の決定的な場面で勝負そのものから降りたように見えたのである。

小泉純一郎は、なぜ加藤と同じ道を選ばなかったのか

 加藤紘一の敗北を考えるうえで、もっとも興味深い比較対象は小泉純一郎である。

 ここで一つ、重要な事実を確認しておかなければならない。後に「自民党をぶっ壊す」と訴え、旧来の自民党政治に挑戦する象徴となった小泉は、加藤の乱では加藤側に立っていない。それどころか森派の有力政治家として、野中広務らとともに加藤・山崎両派の造反を阻止する側に回っていた。

 この事実は、小泉を単純な改革者、加藤をその先駆者として並べる見方を難しくする。しかし同時に、二人の違いをより鮮明にもする。

 加藤は、自民党執行部に正面から反旗を翻し、野党提出の内閣不信任案という制度を利用して、一気に森政権を倒そうとした。成功すれば劇的だったが、失敗した場合の政治的損失も極めて大きかった。

 一方の小泉は、その時点では党を割る側には回らず、加藤の反乱を止める側に立った。それにもかかわらず、わずか約5か月後の2001年4月には、自民党総裁選という党内の正規手続きに立候補し、橋本龍太郎らを破って総裁になる。そこで小泉は、従来の自民党政治への国民的不満を自らの政治資源へ変え、「自民党を変える」という物語の中心人物になった。

 加藤と小泉の違いは、単純に改革派と保守派の違いではない。同じ党内に存在する不満や社会の閉塞感を、どの制度的な回路を通して権力に変換するかという違いだった。

 加藤は堤防を壊して川の流れを変えようとした。小泉は堤防を壊す戦いには加わらず、その後に開いた水門を使って自分が流れの中心に入った。

 この比喩で見るならば、加藤が完全に時代を読み違えていたとは言いにくい。むしろ、時代の変化を感じ取りながら、それを自分の権力へ変換する装置を最後まで作れなかった政治家だったと考えた方が、二人の違いを説明しやすい。

加藤紘一は、本当に「正しい政治家」だったのか

 しかし、ここまで読んで加藤を「正しかったのに権力政治に敗れた人物」と美化してしまえば、今度は別の誤りに陥る。

 政治家の主張は数学の答案ではない。二十年後に答え合わせをして、丸かバツかを付けられるものばかりではないからである。森政権をいつ倒すべきだったのか、景気対策と財政再建をどう両立するべきだったのか、中国とどの程度協調するべきだったのか、安全保障政策をどこまで拡張するべきだったのかには、それぞれ複数の合理的立場が存在する。

 加藤はその後、自民党内では比較的穏健な保守政治家として、日中関係を重視し、小泉首相の靖国神社参拝を批判した。イラク戦争にも反対・慎重な立場をとり、自衛隊派遣にも慎重だった。イラク戦争については、開戦前に想定されていた大量破壊兵器の大規模な備蓄が戦後の調査で確認されなかったため、開戦に慎重だった政治家たちの議論を後から再検討する材料は増えた。

 しかし、それによって加藤が常に正しく、反対した政治家が常に間違っていたことにはならない。

 むしろ加藤紘一という政治家を考えるうえで興味深いのは、後から振り返ったときに無視できない論点をたびたび提示しながら、それを持続的な政治的多数派へ変えることができなかったという事実である。

 正しさと権力の距離を考えるなら、その方が重要だ。

正論は、それだけでは政治にならない

 私たちは政治を語るとき、ときに「正しいことを言えば人は動く」という考えに引き寄せられる。その反動として政治の現実を知ると、「結局は数だ」「結局は権力だ」と冷笑したくもなる。

 しかし、どちらも政治の半分しか見ていない。

 正しさだけがあって権力がなければ、政策は実行されない。一方、権力だけがあって正しさを問わなくなれば、その権力を何のために使うのか分からなくなる。民主政治が難しいのは、この二つを同時に必要とするからである。

 正しいと考える政策を現実に変えるには賛同者が必要であり、その賛同者が決定的な瞬間まで離れない仕組みが必要になる。反対者が何を恐れ、何を守ろうとしているのかを理解し、ときには妥協し、ときには待ち、ときには退路を断つ必要もある。それは思想だけではできず、組織だけでもできない。政治とは、利害も恐怖も野心も異なる人間を、ある時点で同じ方向へ動かす仕事だからである。

 加藤紘一には言葉があった。政策を考える能力があり、外務官僚出身の国際感覚を持ち、自民党幹事長まで務めた経験もあった。それでも総理大臣にはなれなかった。

 その理由を「いい人だったから」「正論を言ったから」と説明してしまえば、政治という営みのもっとも重要な部分を取り逃がすことになる。問題を発見する能力と、その問題を解決できる多数派を作る能力は別だからである。

「正しかったのに負けた」という物語の危うさ

 敗れた政治家を後世から眺めると、私たちはしばしばそこに物語を付け加える。勝者は権力に汚れ、敗者は信念を守ったという物語である。

 しかし、加藤紘一の政治人生はそれほどきれいには整理できない。

 加藤自身も権力を望んでいた。自民党総裁となり、総理大臣になることを目指していた政治家である。森政権を倒した後に、自らが政治の中心に立つことも当然、視野に入れていた。つまり加藤は、権力から距離を置いた孤高の思想家ではなく、権力を獲得しようとして失敗した政治家だった。

 だからこそ、この人物は興味深い。

 加藤の乱から見えてくるのは、善と悪の対決でも、正論と悪辣な権力者の対立でもない。政治における「問題認識の正しさ」と「実行能力」のずれである。森政権が弱体化しているという認識に相当な根拠があったとしても、不信任案を利用して倒閣するという方法まで適切だったとは限らない。国民の不満を感じ取ることができても、それが自分への支持に変わるとは限らず、自分への支持があったとしても、それが造反票になるとは限らない。

 さらに、時代の方向をある程度見抜いていたとしても、いつ動くのか、どの制度を利用するのか、誰と組むのか、誰を敵に回すのか、どの時点で退路を断つのかという判断を誤れば、政治的には敗北する。

 したがって、「加藤紘一は正しかったのに負けたのか」という問いに対する答えは、単純な「はい」でも「いいえ」でもない。

 少なくとも加藤の乱についていえば、加藤は森政権の弱さという問題の存在をかなり正確に捉えていた。しかし、その問題認識を実際の権力へ変換する設計には失敗した。正しかったから負けたのではない。自分が正しいと考えた方向へ政治を動かすために必要な人数、制度、タイミング、組織、覚悟を、一つの力として束ねることができなかったから負けたのである。

 そして、その事実を最も鮮烈に示しているのが小泉純一郎なのかもしれない。加藤の乱では反乱を阻止する側にいた小泉が、そのわずか数か月後には党内の正規の総裁選を利用して権力を獲得し、今度は自らが自民党改革の象徴となった。この逆転には、政治というものの奇妙さが凝縮されている。

 政治とは、正しい人を選び出す試験ではない。自分が正しいと考える方向へ、異なる利益、恐怖、計算を持つ人間たちを動かし、制度を通して現実を変えていく技術である。

 加藤紘一の敗北が今なお考える材料になるとすれば、それは一人の政治家の悲劇だからではない。私たち自身もまた、「正しいこと」と「正しいことを実現できること」を、つい同じものだと思ってしまうからである。

 正論は、それだけでは権力を生まない。しかし、権力が正論をまったく必要としなくなった社会も危うい。その二つの間に橋を架けることこそ政治家の仕事なのだとすれば、加藤紘一は橋の向こう岸を比較的早く見つけながら、そこへ至る橋そのものを最後まで完成させることができなかった政治家だったのかもしれない。

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 「自民党をぶっ壊す」。小泉純一郎という政治家を語るとき、今もこの強烈な言葉が思い出される。ただし、正確に言えば、小泉が訴えた論理は「自民党を変える。変わらなければぶっ壊す」というものだった。自民党という政党そのものを消滅させると言ったわけではなく、変化を拒む古い自民党ならば壊してでも改革するという意味であり、この違いを押さえておかなければ、その後に起きた政治の逆説も見えにくくなる。

 2001年、小泉は自民党総裁となり、内閣総理大臣に就任した。それから4年後の2005年、郵政解散によって行われた衆議院総選挙で、自民党は296議席を獲得する歴史的な大勝を収めた。2003年の237議席から59議席も増え、公明党と合わせた与党は327議席に達したのである。「自民党を変える。変わらなければぶっ壊す」と訴えて登場した政治家が、結果として自民党に巨大な議席をもたらしたのだから、表面だけを見れば奇妙な話に見える。

 では、小泉純一郎は結局、自民党を壊したのではなく、むしろ強くした総理だったのだろうか。この問いは、2005年の296議席だけを見れば簡単に答えられそうだが、実際にはそれほど単純ではない。なぜなら、小泉が弱めようとした自民党の「強さ」と、小泉時代に新たに生まれた自民党の「強さ」は、同じものではなかったからである。

小泉が壊そうとしたのは自民党そのものではなかった

 戦後長く政権を担ってきた自民党は、単純な一枚岩の政党ではなかった。党内には複数の派閥が存在し、その周囲には農業団体、建設業界、医療関係団体、商工団体をはじめとするさまざまな組織が結びついていた。政治家は選挙区へ予算や政策を持ち帰り、支持者や業界団体は選挙で政治家を支え、派閥は所属議員を支援しながら総裁、大臣、党役員などのポストを競う。現在の感覚では古い政治に見えるが、こうした複雑な利害調整の仕組みそのものが、自民党の長期政権を支えていた。

 この仕組みには欠点もあった。政策決定が遅れ、改革が必要だと分かっていても、影響を受ける業界や議員への配慮によって抜本的な変更が難しくなる場合がある。しかし、その反面、自民党内部に異なる価値観や利害を抱え込み、対立を党内で調整できるという利点もあった。財政支出を増やしたい政治家も、財政規律を重視する政治家も、農村を重視する政治家も、都市部を重視する政治家も、一つの政党の中に存在することができたのである。

 小泉が強く批判したのは、まさにこの仕組みだった。政策を実行する前に派閥や業界団体へ配慮し、党内調整を重ねなければならない政治では、大きな改革は進まないと考えたからである。したがって、小泉の「自民党を変える」という主張は、自民党という政党の看板を消すことではなく、長年続いてきた党内調整型、利益配分型の政治を変えることに向けられていたと考える方が実態に近い。

小泉以前から始まっていた自民党の変化

 ただし、ここで注意しなければならないのは、自民党の構造変化をすべて小泉一人の功績、あるいは責任と考えてはいけないということである。日本政治では1990年代から大きな制度改革が進められており、その段階ですでに自民党の権力構造は変化し始めていた。

 特に重要だったのが、1994年の政治改革によって導入された小選挙区比例代表並立制である。それ以前の中選挙区制では、一つの選挙区から複数の議員が選ばれるため、自民党の候補者同士が同じ選挙区で競争することも珍しくなかった。そのため、候補者は党の看板だけではなく、派閥や後援会、業界団体など自前の支持組織を必要としていた。

 ところが小選挙区制では、基本的に一つの選挙区から一人しか当選できない。そのため、どの人物を党の候補者として公認するかという党執行部の権限が以前より重くなる。政治資金制度の改革や政党交付金の導入も、派閥や個々の政治家より政党本部の重要性を高める方向に作用した。

 つまり、小泉が登場する以前から、日本政治には「派閥や個人中心の政治」から「党執行部や党首中心の政治」へ移る制度的な流れが存在していたのである。小泉はこの流れを一人で作った人物ではない。しかし、その新しい制度を誰より大胆に利用し、政治の表舞台で目に見える形にした人物ではあった。

2001年、自民党内部から自民党改革を訴える

 小泉の政治手法は、総裁になる過程からすでに従来型とは異なっていた。2001年の自民党総裁選では、地方の党員票で小泉への強い支持が示され、それが国会議員の投票行動にも大きな影響を与えた。

 ここには、小泉政治を理解する重要な特徴がある。小泉は自民党内部の派閥だけを相手に総裁の座を争ったのではなく、自民党に不満を持つ党員や一般の有権者へ直接訴えかけ、その世論を党内政治へ持ち込んだのである。制度上、日本の総理大臣を国民が直接選ぶわけではないが、政治的には、党首が世論を背景に党内を統率する性格が以前より強く表れるようになった。

 従来型の自民党では、総理大臣であっても党内の派閥や有力者を無視することは難しかった。これに対して小泉は、「国民が改革を支持している」という世論を一つの政治資源として利用し、党内の反対勢力を押し切ろうとした。党内の力関係だけではなく、党の外にある世論を使って党内政治を動かす。この手法が、後の郵政解散で最も劇的な形を取ることになる。

郵政民営化は政策であると同時に政治の物語になった

 2005年、小泉政権最大の争点となったのが郵政民営化だった。郵政事業を民営化するという政策の是非については、当時もさまざまな議論があり、現在から振り返っても評価は一つに決められない。しかし、政治史として重要なのは、その制度設計以上に、小泉がこの問題をどのような政治的構図へ変えたかである。

 郵政民営化法案に自民党内部から反対者が出ると、小泉は彼らを単なる政策上の異論を持つ仲間として処理しなかった。参議院で法案が否決されると衆議院を解散し、郵政民営化に反対した自民党議員の一部を公認せず、その選挙区へ別の候補者を擁立した。後に「刺客候補」と呼ばれた人々である。

 この瞬間、本来ならば「与党対野党」となるはずの総選挙に、別の対立軸が生まれた。「小泉対抵抗勢力」である。

 この構図は極めて強力だった。政権与党である自民党は、本来なら長期政権に対する不満を受ける側にいる。しかし小泉は、自民党総裁でありながら自民党内部の古い勢力と戦う改革者として振る舞ったため、政治を変えたいという有権者が必ずしも野党へ向かわなくてもよくなった。政権交代をしなくても、小泉を支持すれば自民党内部から政治を変えられるという選択肢が提示されたのである。

 これは、自民党が政権与党でありながら、同時に改革勢力として振る舞えるという不思議な政治構図だった。長期政権の責任を負う側でありながら、既存政治と戦う側にも立つことができる。この二重性によって、小泉は政権への不満の一部まで自民党自身の票へ取り込むことに成功したと考えられる。

テレビ政治が作ったのか、それともテレビが映しやすかったのか

 2005年の選挙は「劇場型政治」と呼ばれることが多い。郵政民営化という政策を中心に、「改革する小泉」と「改革に抵抗する勢力」という分かりやすい物語が形成され、テレビでも連日のように報道された。

 ただし、ここで「テレビが小泉を勝たせた」と断定するのは慎重でなければならない。政治学的には、メディア接触と政治意識の間に一定の関連が確認される研究がある一方で、テレビ報道そのものが投票行動を直接変えたという因果関係を完全に証明することは難しい。

 それでも、小泉政治がテレビという媒体と非常に相性がよかったことは確かだろう。郵政制度の詳細な設計を長時間説明するより、「改革か抵抗か」という構図の方が映像として伝えやすく、新しい候補者が登場し、旧来の自民党議員と対決する構図はニュースにもなりやすかった。小泉自身も長い政策説明より、短く印象に残る言葉を使うことに長けていたため、政治が制度の議論であるだけでなく、一つの物語として国民へ届くようになったのである。

296議席は何を意味していたのか

 2005年総選挙で、自民党は296議席を獲得した。2003年の237議席から59議席増えたのであるから、選挙結果だけを見れば圧倒的な勝利だった。

 しかし、この数字をそのまま「自民党への支持が59議席分増えた」と考えることはできない。2005年の自民党の小選挙区得票率は半数を超えていなかったにもかかわらず、小選挙区では全議席の7割を超える議席を獲得した。小選挙区制では、わずかな得票率の差が大きな議席差へ拡大されることがあり、2005年選挙ではこの制度的な増幅効果も強く働いたからである。

 したがって、小泉が自民党を強くしたかどうかを議席数だけで測るのは危険である。より正確に言えば、小泉は自民党への支持を広げると同時に、小選挙区制の特徴を最大限に生かして、その支持を巨大な議席へ変換することに成功した。

 それでも296議席という結果が持つ政治的意味は大きかった。選挙に勝ったことで、小泉は党内で圧倒的な正統性を得たからである。郵政民営化に反対していた勢力は政治的に弱まり、総理と党執行部の政策決定力は強くなった。選挙で得た国民の支持が、そのまま党内統率の力へ変換されたのである。

小泉が強くしたのは「どの自民党」だったのか

 ここで初めて、「小泉は自民党を強くしたのか」という問いをより正確に考えることができる。

 自民党の「強さ」にはいくつもの種類がある。選挙で票を集める力、議席を獲得する力、総裁が党を統率する力、政策を実行する力、地方組織を維持する力、業界団体との関係を保つ力、さらに党内の異なる意見を調整する力まで含めれば、「強い政党」という言葉は一つの数字では測れない。

 小泉時代に明らかに強まったのは、総裁の指導力、選挙で争点を設定する力、公認権を使って候補者を統制する力、そして党首人気を全国的な議席へ変える力だった。それまでの自民党が地域組織、後援会、業界団体、派閥など無数の小さな力を積み重ねて強さを作っていたとすれば、小泉時代には総裁を中心として全国の支持を一気に集約する能力が大きくなった。

 一方で、従来型の自民党が持っていた別の強さまで同時に増したとは言えない。地方組織や業界団体との長期的な関係、党内に異論を抱え込みながら調整する能力、複数の派閥が相互に牽制することで権力を分散させる仕組みなどは、むしろ相対的に弱くなった面がある。

 つまり、小泉時代に起きたのは自民党の単純な強化ではなく、強さの種類そのものの変化だったのである。

「抵抗勢力」を切る政治には強さと弱さが同居する

 小泉政治の特徴の一つは、複雑な党内対立を「改革する側」と「抵抗する側」に分けたことだった。この方法は有権者にとって非常に分かりやすく、政治決定を加速させる効果もあったが、その一方で、現実の政策には単純な賛成と反対だけでは整理できない問題も多い。

 郵政民営化そのものには賛成でも制度設計には反対する人がいるかもしれないし、改革の必要性を認めながら地域経済への影響を心配する政治家もいる。そのような中間的な立場まで「抵抗勢力」という一つの言葉にまとめれば、政治は分かりやすくなる反面、異なる意見を調整する余地は狭くなる。

 古い自民党の派閥政治には多くの問題があったが、それでも異なる利益を党内に抱え込み、時間をかけて妥協点を探す機能を持っていた。小泉政治はその調整過程を短縮し、総裁の判断によって政策を前へ進める力を強めたが、それは同時に、党内で意見を調整する能力を弱くする可能性も持っていたのである。

 会社に例えれば、会議ばかりで決定が遅い企業に強力な社長が現れ、「改革に反対する者には構わず進める」と宣言すれば、意思決定は劇的に速くなるだろう。しかし、その会社が長期的にも強くなったかどうかは別問題である。社長がいる間は動いても、組織内部で異なる意見を調整する仕組みが失われていれば、その人物が去った後に不安定になる可能性があるからである。

2009年の敗北を小泉改革だけで説明することはできない

 小泉は2006年に総理を退任した。そのわずか3年後の2009年衆議院総選挙で、自民党は119議席まで減少し、民主党に政権を明け渡した。2005年に296議席を獲得した政党が、4年後には119議席まで落ち込んだのである。

 この落差だけを見れば、小泉時代に作られた自民党の強さは一時的なものだったと考えたくなる。しかし、2009年の敗北を小泉改革だけの結果として説明することはできない。小泉退任後には安倍晋三、福田康夫、麻生太郎と短期間で総理大臣が交代し、政権運営に対する不信が強まった。世界金融危機による経済環境の悪化もあり、民主党に対して「一度政権を担当させてみよう」という期待も広がっていた。

 さらに、自民党の伝統的な支持構造の揺らぎ自体は、小泉政権以前の1990年代から始まっていた。したがって、2009年の政権交代を「小泉が自民党を壊した結果」と一直線に結びつけるのは、因果関係を単純化しすぎている。

 それでも2005年と2009年を並べると、重要なことが見えてくる。小選挙区制の下では、比較的小さな得票率の変化が巨大な議席変動へ拡大される。さらに、固定的な支持組織より党首や政党イメージに左右される有権者が増えれば、支持が集まったときには大勝できる反面、支持を失ったときには大敗する危険も大きくなる。2005年の296議席と2009年の119議席は、その振幅の大きさを象徴していたとも考えられる。

小泉は「自民党の勝ち方」を作り替えた

 ここまで考えてくると、小泉純一郎を「自民党を強くした総理」と単純に呼ぶことも、「自民党を壊した総理」と呼ぶことも、どちらも十分ではないことが分かる。

 小泉が大きく変えたのは、自民党という組織そのもの以上に、自民党の勝ち方だった。

 かつての自民党は、地方の後援会、農業団体、業界団体、派閥、公共事業などを通じて支持を積み上げ、その総和として全国選挙に勝っていた。小泉時代には、そうした仕組みが完全に消えたわけではないが、その上に別の勝ち方が加わった。総裁が全国共通の争点を設定し、党の公認権を使って候補者を統制し、メディアを通じて有権者へ直接訴え、無党派層を含む大量の票を一気に動かす政治である。

 これは自民党の「組織の厚み」に依存する政治から、「党首を中心とした集中力」を利用する政治への重心移動だった。

 この変化は強さを生んだが、同時に新しい弱さも生んだ。地方組織や固定支持層に支えられた政党は急激には崩れにくいが、党首の人気や政党イメージに依存する政治では、世論の変化によって支持が大きく動く可能性がある。強い指導者の下では非常に強くても、その人物が去れば同じ力を維持できるとは限らない。

「自民党を壊す」という言葉が本当に意味したもの

 小泉純一郎の政治を振り返ると、「自民党を変える。変わらなければぶっ壊す」という言葉は、単なる選挙向けの刺激的な標語だったとは言い切れない。

 小泉は自民党を離れて別の政党を作ったわけではなかった。自民党の中に残り、自民党総裁として自民党内部の古い仕組みを攻撃し、その攻撃によって自民党への支持を集めた。普通なら政権への不満は野党への支持につながるはずだが、小泉は自民党内部に「改革する自民党」と「改革に抵抗する自民党」という対立を作り、政治を変えたいという有権者のエネルギーまで政権与党へ引き寄せたのである。

 それは、日本政治では極めて珍しい成功だった。

 しかし、その成功が残した問いは今も消えていない。政党の強さとは、選挙で多くの議席を取ることなのか、全国に安定した支持組織を持つことなのか、異なる意見を内部で調整する能力なのか、それとも強い指導者の下で迅速に政策を実行できることなのか。どの基準を採用するかによって、小泉政治への評価は変わる。

 少なくとも2005年の選挙を見る限り、小泉は自民党の選挙力と総裁の統率力を大きく高めた。しかし同時に、派閥や業界団体を介した従来型の調整政治を弱め、自民党が長い時間をかけて形成してきた強さの一部を変質させた。そのため、小泉を「自民党を強くした総理」とだけ評価するのも、「自民党を壊した総理」とだけ評価するのも、歴史を単純化しすぎている。

 より実態に近いのは、小泉純一郎が「古い自民党の強さを壊しながら、新しい自民党の強さを作った総理だった」と考えることである。

 「自民党をぶっ壊す」という言葉だけを聞けば、失敗した宣言のようにも見える。自民党は消滅するどころか、その後も日本政治の中心にあり続けたからである。しかし、自民党が何によって選挙に勝ち、誰が党を動かし、どのように有権者へ訴えるのかという仕組みまで含めて考えるなら、小泉の言葉は意外なほど現実になったとも言える。

 彼が壊したのは自民党という名前ではなかった。壊したのは、長年当然だと思われていた自民党政治の一部であり、その跡に現れたのは、より党首の力が強く、より全国的な世論に敏感で、より大きく勝つことも大きく負けることもあり得る自民党だった。

 その意味で、小泉純一郎は「自民党を壊して弱くした総理」でも、「自民党を守って強くした総理」でもない。自民党の強さそのものの形を作り替えた総理だったのである。

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 2008年9月1日の夜、福田康夫は首相官邸で記者会見を開き、総理大臣を辞任すると表明した。前年9月に就任してから、まだ1年にも満たず、しかもわずか1か月前には内閣改造を行ったばかりだったため、その辞任は国民には唐突に映った。会見の最後に記者から「他人事のように聞こえる」と問われた福田が、「私は自分自身を客観的に見ることはできるんです。あなたとは違うんです」と応じた場面は、その後長く繰り返し紹介され、福田政権そのものを象徴する言葉のようになった。

 しかし、あの一言だけから福田康夫という政治家を見ようとすると、奇妙なことが残る。総理大臣としては、政局を突破できずに短期間で退陣した人物が、その後は中国をはじめアジア諸国の指導者と接触し、日本政府の正式な外交とは少し違う場所で対話の糸をつなぐ役割を長く果たしたからである。総理大臣という最大の権力を持っていた時には行き詰まり、権力を失った後には別のかたちで存在感を示した。この逆説を考えると、福田の辞任は単なる「政権の投げ出し」で終わる話ではなくなる。

最初から自由に動けない総理だった

 福田康夫が総理大臣になったのは2007年9月だったが、その時点ですでに政権運営の条件は厳しかった。同年7月の参議院選挙で自由民主党と公明党は過半数を失い、民主党が参議院第1党となっていたからである。衆議院では与党が多数を確保している一方で、参議院では野党側が多数を占める、いわゆる「ねじれ国会」が成立していた。

 もっとも、参議院で野党が多数だからといって、福田政権が法律をまったく成立させられなかったわけではない。当時の与党は衆議院で3分の2以上の議席を持っていたため、参議院で否決された法律案を衆議院で再可決することが制度上は可能だった。実際、ガソリン税の暫定税率をめぐって、その手法は使われている。しかし、法律を成立させることが可能であることと、安定した政治運営が可能であることは同じではない。参議院での審議が停滞し、最後には衆議院の3分の2で押し戻すという政治が続けば、時間もかかり、野党との対立も深まり、世論から「強引な国会運営」と批判される危険も高まる。

 しかも福田が引き継いだのは、政策を自由に構想できる白紙の政権ではなかった。年金記録問題、薬害C型肝炎問題、防衛省をめぐる不祥事、政治とカネの問題など、それ以前から積み残されてきた課題が次々と政権の前に現れていた。後期高齢者医療制度をめぐる批判も強まり、2008年6月には参議院で福田首相に対する問責決議まで可決される。世論調査でも内閣支持率は低迷し、政権が政策の内容を説明する以前に、「福田政権そのものを続けるべきなのか」が政治問題になりつつあった。

福田の政治は、ねじれ国会と相性が悪かった

 福田康夫は、群衆を熱狂させ、強い言葉によって反対勢力を押し切る政治家ではなかった。森喜朗、小泉純一郎両政権で長く内閣官房長官を務めた経歴にも表れているように、異なる立場の間で調整し、対立を必要以上に激しくしないことを重視する政治家として理解されることが多い。

 もちろん、それを福田の生まれつきの性格だけで説明することはできない。政治家の行動は本人の資質だけではなく、議会制度、党内事情、選挙、世論、相手となる野党の戦略などによって決まるからである。それでも、福田政権の行動を見ると、対立を一方的に押し切るより、相手との合意によって政治を前へ進めようとした形跡は確かに見える。

 その象徴が、2007年秋に浮上した自民党と民主党の大連立構想だった。福田と民主党代表の小沢一郎が党首会談を行い、衆議院と参議院で多数派が異なる政治状況を、与野党の協力によって乗り越えようとしたのである。構想は民主党内の反発によって実現しなかったが、ここには福田政治の特徴がよく表れている。相手を倒して前へ進むより、相手との間に妥協できる場所をつくり、そこから前へ進もうとする政治である。

 ところが、当時の民主党にとって次の衆議院選挙で政権交代を実現することは、すでに現実的な政治目標になっていた。だからといって民主党の反対をすべて政権奪取のためだったと説明することはできず、後期高齢者医療制度や年金、ガソリン税などをめぐる実質的な政策対立も存在したが、福田政権に協力して実績を積ませることが、野党の選挙戦略と必ずしも一致しなかったことも確かだろう。合意を前提にした政治家が、政権交代を争う二大勢力の正面衝突の中へ入れば、調整能力だけでは解けない問題が生まれる。

「何もしなかった首相」ではないが、「物語を作れなかった首相」だった

 福田政権は、後世から見ると印象が薄い。しかし実際には、道路特定財源の一般財源化、消費者行政を一元化する消費者庁構想、社会保障制度をめぐる議論など、後の政策につながる方向を示している。福田自身も辞任会見で、これらを自らの政権が進めてきた課題として挙げていた。

 ただし、それらをすべて福田個人の「大きな実績」と評価するのも慎重であるべきだろう。政策は一つの政権だけで完成するとは限らず、前政権から引き継いだ議論を整理する場合もあれば、ある政権が構想し、次の政権が法律を成立させ、その後の政権が制度として定着させる場合もある。福田は、目立つ成果を自分の名前と結びつける政治より、制度の方向を整える仕事を好んだように見えるが、それはテレビや世論調査を通じて指導者の「分かりやすさ」が求められる時代には不利だった。

 小泉純一郎には「郵政民営化」があり、安倍晋三には後に「アベノミクス」が生まれた。しかし福田政権には、国民が一言で記憶できる政治的な物語がほとんど残らなかった。政策がなかったのではなく、政策を自分の政治的物語として演出する力、あるいは演出しようとする意欲が弱かったのである。

では、なぜ辞めたのか

 2008年9月の辞任を一つの原因だけで説明することはできない。ねじれ国会があり、内閣支持率の低迷があり、参議院での問責決議があり、与野党対立があり、次の衆議院選挙を意識する自民党内の事情もあった。8月には内閣改造を行ったものの、政権を劇的に立て直すほどの効果は生まれなかった。

 そのなかで福田自身が示した判断は興味深い。秋の国会には補正予算や消費者行政など重要案件が控えている以上、自分がそのまま首相を続けて対立を抱えた状態で国会を始めるより、新しい首相に交代した方が政策を進めやすいというのである。本人の辞任会見は重要な一次資料だが、それだけを辞任の「真相」とみなすことはできない。それでも少なくとも、福田が自分自身を政権運営上の一つの変数として見ていたことは確かである。

 普通、政治家は自らを政策実現の主体として考える。しかし福田は、自分自身が政策実現を妨げる要因になったなら、主体そのものを交換すればよいと考えたように見える。これは責任ある判断だったとも、総理大臣として踏ん張る責任を放棄したとも評価できる。後世から一方だけに決める必要はない。ただ、少なくとも「嫌になったから突然辞めた」という説明だけでは、この判断の構造を十分には捉えられない。

 そして「あなたとは違うんです」という言葉も、この文脈に置くと別の色を帯びる。言い方としては感情的であり、首相の言葉として洗練されたものでもなかったが、福田が言おうとしたのは、自分自身を政権の外側から見ることができるということだった。権力の中心にいながら、自分自身まで政治状況を構成する一要素として眺める。その考え方は、総理大臣としては珍しく、同時に危ういものでもあった。

権力を失ってから、福田の政治は別の場所で生き始めた

 福田は首相を退任した後も国会議員を続け、2012年に政界を引退した。しかし、政治的活動そのものをやめたわけではなかった。むしろこの頃から、首相時代とは違う形で外交の世界に居場所をつくっていく。

 2010年から2018年まで、福田はボアオ・アジア・フォーラムの理事長を務めた。中国海南省で開催されるこの国際会議には、アジア各国の政治家、経済人、研究者が集まり、福田はそこで長期間にわたって人的関係を築いた。中国との関係だけでなく、日本インドネシア協会会長として東南アジアとの交流にも関わり続けている。

 ここで重要なのは、福田の退任後外交を本人の性格だけで説明しないことである。対話を重視する姿勢が外交に適していたことは確かだとしても、彼が一定の役割を果たすことができた背景には、「元総理大臣」という肩書、首相時代から築いてきたアジア各国の指導者との人的関係、ボアオ・アジア・フォーラムでの地位、そして現職政治家ではないという自由さがあった。

 現職の総理大臣や外務大臣が外国の指導者と会えば、その言葉は日本政府の公式見解として受け止められる。ところが元首相には、正式な交渉権限がない代わりに、政府が正面から動きにくい時でも相手と会える余地がある。何かを約束することはできないが、相手の考えを聞き、日本側の考えを伝え、完全に切れそうになった関係に細い糸を残すことはできる。

 福田自身は、こうした役割を野球の「球拾い」のようなものだと表現したことがある。自分が試合の主役になるのではなく、外へ飛んでいった球を拾い、もう一度試合ができる場所へ戻す。政治家として華やかな比喩ではない。しかし、福田康夫という人物には不思議によく似合っている。

2014年、日中関係が冷え込んだ時に現れた「非公式の通路」

 福田の長老外交が最も注目されたのは、2014年の日中関係だった。尖閣諸島をめぐる対立や安倍晋三首相の靖国神社参拝などを背景に、日本と中国の政治関係は深く冷え込み、首脳会談さえ開けない状態が続いていた。

 そのなかで福田は北京を訪れ、習近平国家主席と会談した。日中双方が関係悪化に危機感を持っていることが確認され、その後、11月には北京で安倍晋三首相と習近平国家主席による首脳会談が実現する。

 もっとも、この首脳会談を「福田が実現させた」と説明するのは正確ではない。水面下では谷内正太郎国家安全保障局長をはじめ、外務省、中国政府、政党関係者、経済界など複数の経路が動いており、日中双方にも関係悪化をこれ以上続けることへの経済的・外交的な懸念が存在していた。福田の接触は、そうした複数の対話ルートの一つであり、そのなかでも元首相という立場を利用した比較的重要な経路だったと考えるのが妥当だろう。

 ここに長老外交の本質がある。正式な外交交渉を代替することはできないが、正式な外交が始まる前の空間をつくることはできる。扉そのものを開ける権限はなくても、扉の向こう側にまだ話のできる相手がいることを確かめることはできるのである。

福田の日中重視は、退任後に突然始まったものではない

 福田が中国との関係を重視したのは、総理大臣を辞めてからではない。2007年12月、中国を訪問した福田は北京大学で講演し、「日中関係にとって、平和友好以外の選択肢はあり得ない」と語っている。翌2008年5月には胡錦濤国家主席を国賓として日本に迎え、日中両国は「戦略的互恵関係」を包括的に推進する共同声明を発表した。

 この考え方には、父・福田赳夫の外交を連想させる部分もある。福田赳夫は1978年の日中平和友好条約締結時の首相であり、東南アジア外交では、軍事大国にならず相互信頼を重視する「福田ドクトリン」で知られる。康夫自身も北京大学で父の日中外交について語っているため、父子の外交観に一定の連続性を見ることはできるだろう。

 ただし、父親がそう考えたから息子も同じ外交観を受け継いだ、と単純に結論づけることはできない。政治思想は家族関係だけで形成されるものではなく、本人自身の経験や時代状況によっても変わる。それでも、国家間の関係は一度の会談や一人の首相で完成するものではなく、何十年という時間をかけて維持するものだという感覚が、福田康夫の外交姿勢に強く表れていたことは確かだろう。

総理時代には弱点だったものが、外交では違う価値を持った

 ここまで見てくると、福田康夫の総理辞任と長老外交には一定の連続性が見えてくる。ただし、それを「福田は調整型の性格だったから、内政では失敗し、外交では成功した」という一つの物語だけに閉じ込めるべきではない。政治家の成功や失敗は、性格だけでなく、制度と環境によって大きく変わる。

 総理大臣には、最後には決断しなければならない場面がある。国会で多数派を形成し、反対を押し切ってでも予算や法律を成立させる必要がある。その役割では、福田の慎重さや対話志向は、ときに指導力不足として映った。しかし元首相の外交には、決定権がないからこそできる仕事がある。結論を急がず、相手を屈服させず、意見の違いが残っていても次の会談への道だけは閉ざさない。その役割では、総理時代に弱点と見られた政治姿勢が、別の価値を持つことになる。

 さらに福田の場合には、元首相という肩書、長年築いてきた中国や東南アジアとの人的関係、国際会議での活動、現職政府から一定の距離を持つ立場が重なった。つまり、福田が長老外交で存在感を示したのは、性格が外交向きだったからだけではなく、その性格と経歴と立場が、退任後の国際環境のなかでうまく組み合わさったからだった。

「あなたとは違うんです」の後に続いていた政治

 福田康夫の総理大臣在任期間は365日だった。それだけを見れば、日本政治に数多く存在する短命政権の一つにすぎない。しかし、総理大臣を辞めた後に外交へ関わった期間は、その何倍にもなる。2020年代に入っても中国側要人との会談を続け、日本インドネシア協会を通じた交流にも関与している。

 考えてみれば、福田康夫という政治家には、最初から主役らしくないところがあった。総理大臣になっても大きな言葉で時代を名付けず、退任した後も自分の外交を歴史的業績として語ろうとはしない。その代わり、関係が壊れそうになった時に相手と会い、話し合いの場所がなくなりそうになれば細い通路を残す。その仕事は、選挙で票になるわけでもなく、大きな政策名として教科書に残るわけでもない。

 2008年9月、福田は自分自身を客観的に見ることができると言って官邸を去った。当時、その言葉は総理大臣を途中で辞める人物の捨てぜりふとして受け取られた。しかし、その後の歩みまで含めて見ると、もう一つの読み方ができる。

 自分が権力の中心にいることと、自分が政治に役立つことは同じではない。総理大臣でいることが政治を動かすなら総理大臣でいればよいが、自分が退くことで政治が動くなら退く。そして権力を失った後には、権力を持たない者だからこそできる仕事を探す。福田の辞任を正しかったと評価する必要はないし、長老外交を過度に美化する必要もない。それでも、彼の政治人生には、「自分が主役であること」より「関係や仕組みを次へ渡すこと」を重視する一つの一貫性があったように見える。

 福田康夫は、総理大臣として大きな物語を残した政治家ではなかった。しかし政治には、物語を作る人だけでなく、物語が途切れないように次のページへつなぐ人もいる。総理大臣としては、その静かな政治手法が時代に合わなかった。そして総理大臣を辞めた後、その同じ静けさが、外交という別の場所で初めて居場所を見つけたのかもしれない。

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 選挙の季節になると、どこかで聞き覚えのある名字を目にする。父が国会議員だった人、その父も政治家だった人、祖父が大臣を務めた人。政治家の家に生まれた子どもが政治家になり、やがてその子どもも選挙に出る。その光景を前にすれば、「これでは民主主義ではなく、現代の世襲制ではないか」と感じる人がいても不思議ではない。王や大名の時代は終わったはずなのに、政治の世界だけは名字と地盤が受け継がれているように見えるからである。

 しかし、この問題は「世襲政治家が多いから民主主義は壊れている」と簡単に結論づけられるほど単純ではない。少なくとも代表民主制の基本原則から考えれば、政治家の子どもが政治家になること自体が民主主義に反しているわけではなく、政治家の家に生まれた人にも、そうでない人と同じように政治に参加し、立候補する自由がある。有権者が自由な選挙を通じてその人物を選んだのであれば、その結果だけを見て「非民主的だ」と断定することはできない。

 むしろ、政治家の子どもであるという理由だけで立候補を禁止すれば、別の問題が生まれる。日本国憲法第44条は、国会議員や選挙人の資格について、門地、つまり家柄などによって差別することを認めていない。もちろん、世襲候補に一定の規制を設ける制度が直ちに憲法違反になると単純には言えないが、出生によって立候補の可能性を制限する制度は、立候補の自由や平等原則との関係で重大な憲法上の検討を必要とする。

 それでは、世襲政治家がどれほど増えても民主主義には何の問題もないのだろうか。ここで話は反転する。世襲政治の核心は、「政治家の子どもが政治家になること」にあるのではなく、「政治家の子どもでなければ政治家になりにくい仕組み」が形成されているかどうかにあるからである。

投票箱の前では平等でも、その手前は平等なのか

 選挙の日、有権者には同じ一票が与えられる。大企業の経営者も大学生も会社員も年金生活者も、投票箱に入れられる票は一票であり、この意味で民主主義は驚くほど平等な制度である。しかし、その一票を投じる候補者がどのような過程を経て投票用紙に名前を載せたのかまで遡ると、景色は少し違って見えてくる。

 政治の世界では昔から、選挙に強い候補には「地盤・看板・鞄」があると言われてきた。地盤とは後援会や支持組織などの人的基盤、看板とは知名度、鞄とは政治活動や選挙運動を支える資金力を意味する。一般の新人候補者は、これらをほとんど何もないところから築かなければならないが、現職政治家の親族であれば、長年形成された支援者との関係、知られた名字、政治活動の経験、政党や業界との人脈といった政治的資源を引き継げる場合がある。

 日本の世襲政治を対象とした実証研究でも、この差が単なる印象ではないことはかなり明確に示されている。1990年代後半から2000年代にかけての選挙を分析した研究では、世襲政治家は非世襲政治家より選挙資源に恵まれ、選挙に強い傾向が確認されている。また、自民党の新人候補を比較した研究でも、世襲候補には非世襲候補より有利な選挙条件が存在することが示されている。

 ここで重要なのは、有権者が世襲候補を強制的に選ばされているわけではないという事実である。最終的には有権者自身が投票している。しかし、選挙という競争を100メートル走にたとえるなら、全員が同じゴールを目指していても、スタート地点まで同じとは限らない。ある候補者は知名度も後援組織もないところから走り始め、別の候補者はすでに整備された支援組織と名字を背負って走り始める。最後に誰が勝ったかだけを見れば競争は成立しているが、その競争に参加するまでの条件まで公平だったかどうかは、別に考えなければならない。

世襲だから能力が低いとは言えない

 ただし、ここで世襲批判を一歩進めすぎると、別の誤りに陥る。選挙上のスタート地点が有利であることと、その人物の政治家としての能力が低いことは、まったく別の問題だからである。

 政治家の家庭で育てば、政治、行政、選挙、政策形成に触れる機会が一般家庭より多くなる可能性は十分考えられる。親の仕事を通じて政治家、官僚、企業、地方自治体、支援者などが政策について語る場面を見ることもあるだろうし、政治という職業を身近な進路として認識する機会も多いだろう。このような人的・情報的環境が、政治家として必要な知識や人脈の形成に有利に働く可能性はある。

 もっとも、これは世襲政治家の能力が高いことを証明するものでもない。重要なのは、少なくとも「世襲だから能力が低い」と判断できる十分な実証的根拠が存在するわけではないということである。世襲議員と非世襲議員の国会活動を比較した研究でも、世襲議員が一貫して活発であるとも、一貫して不活発であるとも言えない。政治家の能力には政策立案、行政監視、交渉、外交、地域調整など多くの側面があり、血縁関係だけからその優劣を判断することはできない。

 つまり、問題にすべきなのは血筋そのものではなく、その血筋を通して政治的資源まで継承され、それが競争条件にどの程度の差を生み出しているのかという点なのである。

有権者は本当に「名字」だけで選んでいるのか

 世襲政治を批判するとき、「有権者が有名な名字に弱いから世襲が残る」と説明されることがある。しかし、この説明も単純すぎる。

 日本の有権者を対象とした近年の研究では、世襲候補であることそのものに対して必ずしも好意的ではない人でも、政治的ネットワークを持っていること、大臣などの重要な役職に就く可能性が高いこと、中央政府との交渉力を持っていること、地元に公共事業や予算をもたらす能力があることなどは、候補者を評価する要素として重視する傾向が確認されている。

 ここから見えてくるのは、「世襲だから支持される」というより、「世襲によって蓄積された政治資源が評価されている」可能性である。有権者にとっては、長く地域を代表してきた政治家一族の後継者であれば、前任者との人的・政策的な連続性を予測しやすく、地域事情を知っていると期待する理由もある。政治家本人への白紙委任ではなく、「この候補者なら中央との交渉ができる」「困ったときにどこへ相談すればよいか分かる」といった現実的な判断が投票行動に影響しているのであれば、有権者の選択を単なる無知や旧習として片づけることも適切ではない。

 民主主義を真剣に考えるなら、有権者が世襲候補を選んだという結果だけではなく、なぜその候補者を合理的な選択肢だと感じたのかまで見なければならない。

地元に利益を持ってくる政治家は「良い政治家」なのか

 世襲政治家については、興味深い研究結果がもう一つある。日本の選挙区を調べた研究では、世襲政治家が非世襲政治家より多くの政府支出や補助金を選挙区へもたらす傾向が報告されている。

 これは世襲政治を単純に批判できない理由の一つでもある。地方の有権者からすれば、中央政府との人脈を持ち、道路、公共施設、補助事業などの予算を地域へ持ってこられる政治家を選ぶことには現実的な利益がある。政治家が地域の代表である以上、「地元のために何を持ってきたか」は評価基準になり得る。

 しかし、ここにはもう一つの難しい問題が隠れている。政府から多くの予算を獲得した地域が、その結果として長期的に豊かになるとは限らないからである。日本の世襲政治家を分析した研究では、選挙区への分配的利益が多い一方で、それが地域経済の良好な成果に直結しているとは言えないことも示されている。ただし、地域経済には人口構造、産業構成、都市化、高齢化など多くの要因が影響するため、「世襲政治家が地域経済を悪くする」とまで断定することはできない。

 それでも少なくとも、「予算を持ってくる能力」と「地域を長期的に豊かにする能力」は同じではない。ここには地方政治にも国政にも付きまとう古い矛盾がある。自分の選挙区にとって優秀な政治家が、国全体にとって最適な政治家であるとは限らないのである。

民主主義には二つの入口がある

 世襲政治について考えていると、民主主義には二つの入口があることが見えてくる。一つは有権者が誰を選ぶかという入口であり、もう一つは誰が候補者として「選ばれる側」に立てるかという入口である。

 私たちは前者には非常に敏感である。投票が強制されれば民主主義ではないし、票が改ざんされても民主主義ではない。しかし後者については、選挙そのものほど注意を向けてこなかった。政党の公認を誰が受けるのか、選挙資金を誰が集められるのか、支援組織を誰が持てるのか、政治家を志す普通の市民に候補者になる現実的な道が開かれているのかという問題である。

 仮に、選挙自体は完全に自由であっても、主要政党の候補者になれる人が事実上ごく限られ、長年蓄積された後援組織や政治資金、人脈を持つ者だけが有力候補になれる社会であれば、投票箱の中では自由な競争が行われていても、その前段階には大きな参入障壁が存在することになる。

 もっとも、どこまでの条件差を「民主主義の欠陥」と呼ぶべきかは、実証研究だけでは決められない。医師の家庭から医師が生まれやすく、経営者の家庭から経営者が生まれやすいように、家庭環境によって知識や人脈、職業への関心が次世代へ伝わること自体は、政治家だけに見られる特殊な現象ではない。

 だからこそ、世襲政治を考えるうえでは、家庭を通じて自然に形成された経験や知識と、政治制度や政党組織によって閉鎖的に継承される選挙資源を区別する必要がある。親が政治家だったため政治に詳しくなったことと、親の後援会や政治的地位がそのまま子どもの当選可能性を押し上げることは、同じ「世襲」であっても民主主義にとって持つ意味が違う。

権力は次の権力を生むのか

 この問題をさらに考えさせる研究がアメリカにある。1789年以来の連邦議会を長期的に分析した研究では、政治家として長く権力を持った議員ほど、その後に親族が連邦議会へ進出する可能性が高くなることが示されている。

 この研究が興味深いのは、単に「政治家一族はもともと政治家になりやすい」という相関だけを見ているわけではなく、長く政治権力を持つこと自体が次世代の政治進出を促す可能性を統計的に検討している点にある。政治家として在職する間に築かれた知名度、人脈、資金調達能力、政党との関係などが、本人の引退後にも家族の政治資源として残るのであれば、政治権力は一代限りで消えるものではなく、次の権力を生み出す装置になり得る。

 もちろん、これはアメリカ議会を対象とした研究であり、同じ因果関係がそのまま日本に当てはまると断定することはできない。しかし、世襲政治を文化的な「血筋好き」だけで説明するのではなく、政治権力そのものが継承可能な資産を作り出すという視点は、日本の政治を考えるうえでも重要である。

日本人は本当に血筋を好むのか

 日本では世襲政治家が目立つため、ときに「日本人は家柄を重視するから世襲政治が残る」と説明される。しかし、これも十分な説明ではない。

 日本の選挙制度は1994年に大きく改革され、それ以前の中選挙区制から、小選挙区比例代表並立制へ移行した。この改革によって候補者個人の後援会を中心とした選挙から、政党をより強く意識した選挙へと環境が変わり、その後、政党による候補者公募なども広がった。研究では、こうした制度や候補者選定方式の変化に伴って、新人世襲候補が以前より減少したことが確認されている。

 この事実は重要である。もし世襲政治が日本人固有の血統志向だけから生じているのであれば、選挙制度や政党の候補者選定方式を変えても、世襲候補の割合はそれほど動かないはずである。ところが実際には制度変更によって変化している。したがって、日本の世襲政治は文化的な血統志向だけでは説明できず、選挙制度や政党組織のあり方によって増減する政治現象だと考える方が妥当である。

 ここまで来ると、世襲政治の問題は「政治家一族の倫理」の問題から、「候補者を生み出す制度」の問題へと姿を変える。

世襲政治家を禁止すれば解決するのか

 それなら、世襲候補そのものを禁止してしまえば問題は解決するのだろうか。おそらく、それほど簡単ではない。

 政治家の子どもであるという本人には選べない事情だけで、一定期間、親と同じ地域から立候補できないようにする制度や、親族の立候補そのものを制限する制度を設ければ、立候補の自由や平等原則との緊張関係が生じる。世襲候補の規制が直ちに憲法違反になると断定することはできないものの、少なくとも強い憲法上の検討が必要になる。

 それ以上に重要なのは、世襲候補を一律に排除しても、政治への参入障壁そのものが残っていれば、本質的な問題は解決しないことである。政治資金を集められる富裕層、有名人、大企業や大組織の支援を受けられる人だけが候補者になるのであれば、政治家の親族を排除しても別の形の閉鎖性が生まれる可能性がある。

 したがって民主主義の改善策として重要なのは、特定の家系を排除することより、政治家の家に生まれていない人でも有力候補になれる仕組みを作ることだろう。政党が候補者をどのように選んでいるのかを透明にし、公募などを通じて政治参加への入口を広げ、政治資金や後援組織についても透明性を高める。そして有権者が名字や知名度だけではなく、政策、実績、専門性、政治活動を比較できる情報環境を整えることの方が、民主主義の原則には適している。

問うべきなのは「世襲議員が何人いるか」だけではない

 世襲政治家の割合を見ると、私たちはつい、その数字そのものを民主主義の成績表のように扱いたくなる。しかし、世襲政治家が一人もいない国が必ず民主的であるわけではなく、世襲政治家が存在する国が必ず非民主的であるわけでもない。

 政治家の息子と無名の会社員が同じ選挙に立候補し、同じように政党公認を得る機会があり、有権者が政策や実績を比較したうえで政治家の息子を選ぶのであれば、その結果は民主主義の敗北とは言えない。ところが、無名の会社員には政党公認を得る機会も政治資金を集める機会もほとんどなく、政治家の息子だけが既存の支援組織と知名度を引き継いで有力候補になれるのであれば、民主主義の問題は投票日よりずっと前に始まっている。

 投票箱だけを見ていると、その違いは見えない。

 民主主義とは、誰を選ぶのかを決める制度であると同時に、誰が「選ばれる側」に進むことができるのかを決める制度でもある。そう考えるなら、世襲政治家の多さは民主主義の欠陥そのものというより、政治への入口がどれほど開かれているかを測る一つの警告灯だと考えた方が正確だろう。

 だから本当に知りたい数字は、国会議員の何割が世襲なのかだけではない。政治家の家に生まれなかった普通の市民が政治を志したとき、政党の候補者になる機会がどれだけあり、十分な情報と資金を得て選挙を戦うことができ、現職や世襲候補と現実的に競争できるのかという数字である。

 世襲政治について考えているつもりが、最後に私たちがたどり着くのは、血筋の問題ではない。民主主義とは、投票する権利だけを平等にすれば完成する制度なのか、それとも政治家になろうとする人がスタートラインへたどり着く機会まで含めて考える制度なのかという、もっと根本的な問いなのである。

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